メコンデルタにおける農業景観とその変貌に関する序論
─地理−歴史学的な視点から
大塚 直樹
はじめに
メコンデルタの社会空間を俯瞰したとき、一つの特徴として大陸河川に基 礎づけられた農業景観が浮揚してくる1)。確かに、近年、急速な発展を続け る当該社会では、たとえばホーチミン市から国道 1 号線を西に向かい通過し ていると、道路の両側に住居や店舗などが連なり、農業景観を直接的に目視 できないことも散見される。しかしながら、その後背地には農業空間が布置 されていることがしばしばである。地理的にみて、こうした、道路や水路に 沿って家屋が建ち並び、その背後の領域に耕作地が布置されているような風 景がメコンデルタの空間的な特徴でもある(cf. 大塚 2004;2012)。 1960 年代後半にはじまった「緑の革命」は、視点を変えると、こうした 農業景観の均質化をもたらしたともいえよう。国際稲研究所が育成した IR-8 をはじめとする非感光性品種の普及・拡大により、播種時期が有していた季 節性が希薄となり、さらに二期作や三期作など年間を通じた作付けが可能に なった。言い換えれば、「緑の革命」以後、メコンデルタでは、年間を通じ て「緑滴る」水田景観が観察可能になった。感光性品種は、日照時間の変 化に応じて開花するため、通常、年 1 回しか収穫できない。したがって、こ うした農業スケジュールでは、年間のうち少なくとも数か月間は農閑期とな り、デルタの景観も異なった様相を示す。IR 系品種の普及は、浮き稲を含めた品種の多様性を喪失させる要因とも なった。品種の多様性喪失に反比例するように育種の重要性が高まった。従 来、ローカルな場で再生産されていた種子がグローバルな社会関係に巻き込 まれることで種子そのものが商品化した。メコンデルタの事例では、特定の アクターが個人的なネットワークを援用しつつ、省レベルの行政の主導で進 められた種子生産に参画した。このような種子生産のネットワークは、その アクセスビリティが制限される傾向を有する。具体的には、一人の生産者に よって設立された種子生産組合は、技術指導・種子分配を通じて大学および 省レベルの行政機関と関係を保ちつつ、その構成員が親族関係や農業協同組 合員同士のネットワークで結ばれていた(大塚 2014)。言い換えれば、育種 技術の導入がその技術にアクセス可能かどうかという社会的差異を創出した ともいえよう。 また、景観に写る「緑色」には異なる側面も存在する。写真 1 の水田景観 をみると、その中央に看板がたっている。立て看板にはベトナム語で SANG DAT と書かれている。SANG は「変更または譲渡する」を、 DAT は「土地」 を意味することから、「売り地」ととらえられる。こうした看板は、メコン デルタの農業景観のなかを歩いていると散見される。聞き取りの範囲では、 看板がたてられている耕地を売りに出している場合が多いという。「緑の革 命」による農業の商業化の進展は、市場経済の要素を浸透させ、相対的に利 潤が大きいがリスクもまた大きい経営を生み出している可能性をもはらむ。 社会主義を掲げる国においては、理念として、すべての土地が国有であ る。ベトナム土地法では、この所有形態を、全人民的所有(so huu toan dan) と表現している。そして個人には土地使用権が交付される。特筆すべき点と して、この土地使用権には、交換、譲渡、賃貸、相続、贈与などのいわゆる 処分権が含まれていることがあげられる。したがって、土地使用権それ自体 が合法的な商品として流通している(Otsuka 2003;大塚 2007)。 しかしながら、メコンデルタにおける土地保有関係の流動化は、必ずしも 現在的な現象としてのみでとらえることができない。メコンデルタにおける
可耕地拡大のプロセスは、その起源をフランス植民地時代の土地政策に遡る ことができる。メコンデルタは、フランス植民地時代の水路掘削事業によ り、急速に可耕地を外延的に拡大してきた。同時に無主地の概念が設定さ れ、属地的な土地登記がおこなわれた。とくにメコンデルタ西部は、これま でほとんど人びとが居住していないフロンティアであり、大団地的な土地所 有が進展した(大塚 2000)。フランス植民地主義に端を発する地主制は、第 1 次インドシナ戦争やベトナム戦争時代にさまざまな改革を通じて解体の対 象となり、土地所有ないし保有関係がめまぐるしく変化した。とくに南ベト ナム解放民族戦線とベトナム共和国の政府軍が競合するエリアでは、土地を めぐる関係に複層的な状況が生じていた(大塚 2020)。 写真 1 メコンデルタの水田景観。中央の立て看板に赤字で SANG DAT( 上段)と連絡先と思しき 電話番号 ( 下段)がみえる (2004 年撮影)。
以上に鑑みて、本稿では、フランス植民地時代にルーツをもつ地主制に依 拠したこうした土地所有制度が解体されていくプロセスに着目しつつ、メコ ンデルタの農業景観のどのように変遷しつつあるのか、先行研究から整理す ることを主たる目的とする。ここでは、便宜的に 1954 年以降を 3 つの時期、 すなわち南ベトナム時代、社会主義国家建設期、改革開放政策期に大別し、 それぞれの時期別に発表された研究をレビューしつつ考察をすすめる。
Ⅰ 南ベトナム時代:1954 年∼
本章では、欧米の研究者、とくにアメリカ人による村落調査の成果を中心 にして検討してみよう。 1. アメリカ人のみたメコンデルタ村落2) 第二次世界大戦後、メコンデルタでは、1945 年の 8 月革命から 1954 年の 停戦協定(ジュネーブ協定)の締結まで戦乱の渦中にあったため、農村研究 を積極的に進めることができなかった。翌 55 年、アメリカ政府は、南ベト ナム共和国の建国を支援し、ベトナム南部の調査・研究に対して積極的に資 金援助を行うようになる。この時期の成果として、まず、ヒッキー(Hickey 1964)の村落調査があげられる。 ヒッキーは、人類学を専攻し、ミシガン州立大学ベトナム顧問団の研究助 成を受け、1958 年 3 月から 1959 年 12 月までのおよそ 1 年 9 か月間にわた り、ロンアン Long An 省カィンハウ Khanh Hau 村で調査を実施した。また、 経済学者のヘンドリー(Hendry 1964)と行政学のスペシャリストであるウッ ドラッフ(Woodruff 1960)も、同時期に同顧問団の研究助成を受け、カィ ンハウ村で調査を行った。3 者は、それぞれ独立した形で成果を発表してい る。しかし調査期間中には、それぞれが意見交換や議論をしていた(Hickey 1964)。したがって、3 人の調査は、一つの村落社会に関する学際的研究と 考えられる。ヒッキーは、村落内の社会関係を詳細に観察し、カィンハウ村の人々が 4 つの均質的性格を有していることを指摘した。第 1 に、宗教(仏教、道教、 儒教的なイデオロギー)に裏付けられたコスモロジーを共有していること、 第 2 に、家族単位で経済的な地位の上昇を望んでいること、第 3 に、社会階 層間の生活様式が均質的であること、第 4 に、栽培作物および農業技術に共 通性があり、さらに豊作祈願の儀式も共有していること、である。 しかし、ヒッキーによれば、カィンハウ村の 4 つの特徴は、ベトナム南部 の村落社会に共通して認められるものであり、村独自の特質ではないとして いる。さらに、カィンハウでは、村レベルのコミュナルな関係が希薄であ り、自己完結的・閉鎖的な村落共同体といわれていたベトナム北部の村落社 会とは性格が異なることを明らかにした。その理由として、居住パターンが 分散的であること、村の中心となり機能する組織、宗教的施設が存在しない こと、農民の非協力的態度により村レベルの農業信用組合が失敗に終わった こと、をあげている(Hickey 1964)。 ヒッキーと同時期に調査を実施したヘンドリーは、カィンハウ村の経済活 動、特に農業生産活動に注目し、以下の 2 点を明らかにした。第 1 に、カィ ンハウは、自給的かつ閉鎖的な「村落経済 village economy」ではなく、都市 経済(とくにサイゴン)と密接に結びついていた近郊農村であること、第 2 に、村単位で協力する経済活動がみられないこと、である。前者の理由とし て、村落外から流入する消費財価値の割合が総消費額の 50% 以上であるこ と、米を中心とした農産物が他の村落との取り引きに利用されていること、 をあげている。 後者の理由として、農民が拡大家族ないし近隣世帯との労働交換 labor exchange を好み、村に対して積極的な帰属意識を有していないこと、これに 関連して、北部や中部の村落には頻繁にみられる村落共有田(公田)がほと んど存在しないこと、を指摘している。さらに、ヘンドリーは、カィンハウ 村について、一つの行政村となってから 150 年しか経過していない変遷期に 位置づけられる村落であること、行政単位と政治的、社会的、経済的な単位
が必ずしも一致しないことを明らかにした(Hendry 1964)。 ヒッキーらの調査がサイゴン近郊の村落で行われたのに対して、デルタ 全般の調査を実施したものとして、サンソム(Sansom 1970)があげられる。 サンソムは、1966 年 6 月から 9 月まで、1967 年 1 月から 4 月まで、および 6 月から 9 月までの計 3 回、のべ 9 か月間の調査を実施した。サンソムは、 開発経済学の理論に依拠しつつ、土地制度、労働力市場、農業技術など幅広 い農業・農村問題を取り上げ、さらに経済変化を背後で規定する社会的、政 治的動向に注目した研究をおこなった。調査は、ディントゥオン Dinh Tuong 省のタンクーギア Tan Cuu Nghia 村(以下、TCN 村とする)、ロンビンディ エン Long Binh Dien 村(以下、LBD 村とする)の 2 村を中心におこなわれ た(LBD 村は、ミトー付近、現在のティエンザン省に位置)。さらに比較研 究のため、補足調査がバクリュウ Bac Lieu 省で行われた。ディントゥオン 省は、カィンハウ村のあるロンアン省に隣接している。 サンソムは、まず 1862 年から調査時点までの農業技術史、農家所得と労 働賃金の推移および地主の土地集積過程を概観し、1930 年以降に農民経済 が圧迫され、とくに農業労働者の所得が低下したこと明らかにした。その理 由として、可耕地の減少および農村人口の増加により、地主の地位が相対的 に上昇したことをあげている。つまり、小作農からみると地主 - 小作間の関 係が悪化したという指摘である。 さらに調査では、農業技術改良と信用組合に注目し、農民が積極的に新技 術の導入を導入したこと、フイ(huy)と呼ばれる講組織があること、を指 摘した。サンソムがいう技術改良とは、灌漑用水路建設、灌漑用ポンプの 導入および新品種の導入である。LBD 村では、1961 年 3 月に農民から村の 役人に対して、灌漑水路建設の要望が提出された。農民は、旱魃対策として この灌漑水路建設を提案した。その後、県および省政府の許可を得て、幅 2 メートル、深さ 1.5 メートルの水路が掘削されたという。TCN 村では、1954 年に地主が個人的に水路を建設した経緯があった。その後、1961 年に小作 農や自作農から農民組織に対して水路建設の要望が提出された。政府から許
可を得た後、1962 年の初めには、全長 30∼50 メートルの水路が掘削された という。 LBD 村では、1962 年の旱魃を契機として灌漑用ポンプが導入された。し かし、ポンプは非常に高価なため、ほとんどの小作農、自作農は購入するこ とができなかった。LBD 村でポンプが普及した要因は、LBD 村の近隣に位 置するソンビン Song Binh 村の小作人兼バイク修理工であった人物が、1962 年に灌漑ポンプを開発したことによる。その後、工場での量産体制に入る と、灌漑用ポンプは急速にデルタ各地に広まった。1966 年には、LBD 村の 38%、TCN 村の 43% の耕作者が灌漑ポンプを所有していた。 新品種は、1950 年代後半に化学肥料が普及し、60 年代前半に灌漑施設の 整備が進んでから導入された。LBD 村では、1964 年に、周辺村落で栽培さ れていた、生育期間の短い品種がある小作農により導入され、その後、村内 の各生産者に広まっていった。新品種の導入に対するインセンティブは、雨 季が例年より遅れたという自然条件、稲の忌地性、農業労働力分散に関連し て生じた。これらの分析からサンソムは、技術革新へのモチベーションが旱 魃などの自然災害により生活水準が低下したときに生じること、所得向上に 繋がる新技術が政府などにより奨励されることなく農民間に拡散すること、 を指摘した(Sansom 1970)。 以上のレビューから、まず、行政村という枠組みが、必ずしも一つの単位 として機能していないことがわかる。ヒッキーやヘンドリーの指摘にあるよ うに、カィンハウ村では、村レベルでまとまった活動がみられなかった。こ の指摘は、ベトナム北部や中部の村落との比較を強調したため、導き出され たものであろう。メコンデルタの行政村は、いくつもの村落が統合され、現 在でも 1,000 戸以上の世帯数を有している場合がほとんどであり、一つの単 位として機能することが困難である。したがって、実際には、行政村の下位 分類である集落 ap における社会関係を検討する必要がある。さらに、北部 や中部の村落と比較するのであれば、植民地期に行政区画がどのように再編 され、どの行政レベルが北部や中部の村落に準ずるかを検討しなければなら
ない。また、カィンハウ村は、サイゴン政府のモデル村落として外国人訪問 者に紹介されていたという特殊な事情も考慮する必要がある3)。 次に、農民自身が積極的に新技術を導入していたことがわかる。このよう な指摘は、植民地期の研究者が提供した農民像と異なるものであり、注目に 値する。ただし、植民地期の農村社会を特徴付けていた地主 - 小作関係が、 新技術導入に対するインセンティブの問題とどう関係するかが検討されてい ない。これは、今後の課題となろう。 2. 土地改革、農地改革の実施とその実態4) ベトナム独立同盟(ベトミン)は、1953 年からベトナム北部を中心とし て土地改革を実施し、農民への土地再分配を試みた。他方で、ベトミン勢力 にとって、メコンデルタ地域は、対仏戦争の主戦場ではなかったため、土地 改革の成果に関する記録がほとんど存在せず、その実態を把握することが困 難である。 これに対して、ベトナム共和国政府は、小作料引き下げや小作権の保護、 安定を目的とした法令第 2 号を制定し、農村部に支持基盤を得ようとした。 さらに、1956 年には、地主的土地所有の上限を 100 ヘクタール(これに加 えて祖先祭祀ための耕地 15 ヘクタール)に制限した法令第 57 号を制定、実 施した。この時期の土地改革と農地改革の分析や実態把握に努めたものとし て、前述のサンソム(1970)、ピアース(Peace 1969)、滝川(1970)、木村 (1971)および深沢(1963)らがあげられる。 サンソムによれば、1946 年以降ベトミン勢力が支配領域に置いていたデ ルタ西端部地域、とくにバクリュウ省とアンスェン An Xuyen 省では、地主 が省都ないしサイゴンへ避難し、農民に対する土地の再分配が実施されたと いう。さらに、1954 年にジュネーブ条約が締結された後もほとんどの地主 が帰村できなかったこと、小作料の徴収が滞ったこと、を指摘した。これに 対して、ベトミンが掌握できなかった地域では、1946 年以前からの小作制 度が維持された。また、サンソムは、54 年の農地改革法について、地主の
名義分散を把握できなかったこと、改革から利益を得られた小作人が全体の 10% に満たなかったこと、などを理由にあげ、ほとんど成果が得られなかっ たと評価した(Sansom 1970)。
サンソムと類似した見解を示したものとして滝川と木村があげられる。滝 川と木村は、文献・統計資料を分析し、ゴ・ディン・ジェム Ngo Dinh Diem による農地改革を地主が賛成し、農民が反対した改革であったと評した。こ の理由として、地主の所有規模の上限(計 115 ヘクタール)が高すぎるこ と、農地改革により戦乱で失いかけていた地主の土地所有権を保証し、さら に小作料の徴収を合法化したこと、ベトミンにより認められた農民(小作 農)の所有権を無効にしたこと、をあげている(滝川 1970;木村 1971)。さ らに滝川は、農地改革失敗の理由として、地主層が政治権力と密着し、農地 改革を妨げたこと、改革実施の前提条件である行政機構が充分発達していな かったこと、をあげている(滝川 1970)。 また、滝川と木村は、ベトミンおよび南ベトナム解放民族戦線(1960 年 結成、以下、NFL とする)の土地改革にも触れ、2 つの勢力の支配領域で大 規模な土地再分配が実施されたことを指摘した。彼らと類似した見解を示し たものとして、ピアース(Pearce 1968)があげられる。 ピアースは、2 つの村落を中心としたフィールド調査の結果を援用しつつ、 土地制度と政治権力の関係について分析し、以下の 4 点を明らかにした。第 1 に、ベトミンの支配領域下(デルタ西端部、西部高地地帯および北部湿地 帯 plain of reeds)では、フランス人とベトナム人地主の所有地が小作農ない し土地なし農民に分配されたこと、第 2 に、同支配下では、フランス植民 地期に存在した郷職会議 council of notables が解体され、新たな行政組織が 設立されたこと、第 3 に、ゴ・ディン・ジェムの農地改革が行政機構の不備 および戦時期の社会的混乱により、成功しなかったこと、第 4 に、NFL が 村落における潜入行動や監視体制を強化したため、農民間の労働慣行などの 結び付きが薄れたこと、である。以上の分析から、ピアースは、戦乱期の全 般的な社会不安を指摘しつつ、農民の土地(保有地)に対する執着心 ties to
the land が薄れたと結論付けた(Pearce 1968)。
さらに、木村は、ジェム政権以降の南ベトナム政府の政策に言及し、1970 年に制定された LTTT 計画 land to the tiller program が、農民から耕作地を取 り上げる可能性が高いこと、中小規模の在村地主が抵抗する可能性があるこ とから、必ずしも成功しないであろうと示唆している(木村 1971)。 LTTT 計画とは、グエン・ヴァン・ティエウ Nguyen Van Thieu により制定 された農地改革法である。この計画は、NFL の土地改革に対する対抗手段 として策定された。主要な内容として、地主の所有規模を最大 15 ヘクター ル(これに加えて、祖先祭祀ための耕地 5 ヘクタール)に制限すること、収 用した土地を農民に対して無償で分配すること、土地タイトルを発行するこ と、などがあげられる。さらに、所有する耕地のすべてを自作することが前 提とされたことから、地主制の否定という意味合いをもつ法律である。 この LTTT 計画の成果について調査を実施したものとして、キャリソン (Callison 1983)があげられる。キャリソンは、グエン・ヴァン・ティエウ の農地改革による経済的、社会・政治的な変化を村落レベルから把握しよう と試みた。調査は、農地改革が実施されていた 1971 年 11 月から 1972 年 8 月にかけて、約 7 か月間にわたり四つの村落で行われた。キャリソンによれ ば、在来農法の特徴(一回移植、二回移植、浮き稲)、村落の「安全性」な どを考慮して、調査地をロンアン省カィンハウ村、ディントゥオン省ロンビ ンディエン村、フォンディン Phong Dinh 省フトゥ Phu Thu 村(現在のカン トー市に位置)、アンザン An Giang 省ホアビンタィン Hoa Binh Thanh 村に 選定したという。前 2 者は、それぞれヒッキー、ヘンドリーとウッドラッフ (カィンハウ村)、サンソム(LBD 村)が調査した村落である。 キャリソンは、調査結果から LTTT 計画により大多数の農民(小作農)が 自作農となったことを指摘した。これにより、農民レベルでの増産に対する インセンティブが生じたこと、地主 - 小作間の所得格差がなくなりつつある こと、投資機会が増大したことにより、農村部の雇用が創出されたこと、地 主 - 小作関係の弛緩による社会、政治的な安定がもたらされたこと、土地所
有者となることで、村落における社会的、政治的地位が上昇したこと、を明 らかにした。さらに、キャリソンは、よりエクステンシブに実施された調査 報告(たとえば、Bush, et al., 1972)を引用し、自らの調査結果が特殊な例で はなく、メコンデルタ村落社会の実態を反映したものであると結論付けてい る(Callison 1983)。 以上のレビューから、メコンデルタの農村社会を特徴付けていた大地主制 は、土地改革ないし農地改革により、ほぼ解体されたといえよう。確かに、 地主にとっても、短期的にみれば、所有地を売却した方が利益なる場合が多 かったであろう。しかし、地主制の具体的な解体過程は、ほとんど明らかに されていない。また、土地再分配の過程は、村落がどちらの勢力下に置かれ たかにより、大きく異なったはずである。さらに、地主の名寄せをどの程度 実施したか、小作地の又貸しをどの程度把握していたか、など疑問が残る。 したがって、中小地主が残存したことは、充分予想されよう5)。
Ⅱ 社会主義国家建設期:1976 年∼
社会主義的な改革が実施されつつあった「戦後」のメコンデルタでは、研 究者、とくに外国人研究者による現地調査が不可能であった。ここでは、歴 史資料を用いた研究を中心に検討してみよう。 1. 農村開発史、社会史からのアプローチ まず、植民地期を中心とした農村開発に注目した研究として、高田 (1984a、b)、バスフォード(Bassford 1984)があげられる。高田は、植民地 期メコンデルタの水田開発と土地政策、特に国有地(ママ)払い下げ制度 を関連付けて検討し、以下の 2 点を明らかにした。第 1 に、1880 年代に公 布された一連の土地法が私的土地所有権を明確化させる機能を果たしていた こと、第 2 に、1880 年代以降における国有地の無償払い下げがバサック河 以東(メコンデルタ東部)の水田拡大に大きく貢献したこと、である。さらに、高田によれば、この時期の土地政策の変化は、20 世紀初頭の水田開発、 特にメコンデルタ西部の開発に対して、大きな役割を果たし、水田発展にお ける重大な分岐点になったという(1984a)。 高田は、この 20 世紀初頭の水田開発に関して別稿で論じ、以下の 4 点を 指摘した。第 1 に、20 世紀初頭の水田の拡大が植民地政府により実施され た水路掘削事業と関連してデルタ西部で顕著であったこと、第 2 に、同時期 の水田払い下げがフランス人に対して大規模に実施されたこと、第 3 に、水 田開発過程に関して、同時期の払い下げ総面積の 65% が 1910 年までに開墾 されていたこと、第 4 に、ベトナム人とクメール人が実際の開墾に携わり、 開放的な形態の村落(ママ)を形成したこと、である。さらに、高田によれ ば、フランス人に対する払い下げ地は、その 3 割が開墾されたに過ぎなかっ たことから土地投機的な性格が強く、その土地権が有力なベトナム人に移転 された可能性が高いという(1984b)。 これに対してバスフォードは、土地開発政策、特に水路掘削事業とコン セッション制度に注目し、以下の 3 点を指摘した6)。第 1 に、水路掘削事業 およびコンセッション制度がコーチシナ西部の土地開発に決定的な役割を果 たしたことである。とくに、2 つの政策により、汽水 brackish water の排出 や真水の供給が可能になっただけではなく、人や物資の輸送を容易にし、入 植・開墾および米の輸出に対するインセンティブが生じた。 第 2 に、植民地政府の政策は、法律上、耕作者の権利を保護しようとした 側面もあったが、その意図がコンセッション制度により全く逆の結果をもた らしたことである。バスフォードによれば、土地登記制度やコンセッション 制度は、その知識を有するフランス人(政府ないし教会関係者)や一部のベ トナム人にとって効力があったに過ぎず、村落社会の混乱を招くか、もし くは耕作する農民の保有権を不安定にしてしまうものであったという。第 3 に、コンセッション制度以外の方法でも土地の集積が進展したことである。 具体的には、高利貸し的土地兼併、土地台帳ないし租税台帳 dia-bo の改ざ ん、土地の境界を示す杭の移動ないし撤去などである。以上の分析からバ
スフォードは、水路掘削とコンセッション制度がコーチシナ、特にバサック 河以西のメコンデルタにおける大地主制の展開を促したと結論付けている (Bassford 1984)。 マレー(Murray 1980)は、このメコンデルタ西部の大地主制の展開を階 級構造の点から研究した。マレーの研究は、インドシナ全土(特に、現在の ベトナム)の農村社会構造を資本主義が発達していく過程でとらえようとし た点が特徴である。マレーは、資本主義が農村社会に均質的に浸透しないこ と、植民地支配下の紅河デルタとメコンデルタにそれぞれ異なった階級関係 が出現したこと、を指摘しつつ、階級構造の分析を試みた。 まず、南部のメコンデルタでは、主として植民地期に展開した地主制、と くに西部において大地主制が形成された結果、地主 - 小作関係が支配的な農 村階級構造であったことを指摘した。メコンデルタに大地主制が出現した一 つの要因として、農業生産が米の輸出を目的に行われたことをあげている。 さらに、マレーによれば、メコンデルタにおける籾米の流通部門が商人資本 (主として、華僑)に支配され、生産部門と切り離されたため、技術革新へ のインセンティブが生じなかったという。これに対して、紅河デルタと海岸 低地では、非常に緩慢な農民階級分化の過程にあったため、小規模な土地所 有者が支配的な階級構造であり、また、メコンデルタのような流通部門の発 達もみられなかったとしている(Murray 1980)7)。 マレーのように、農村における資本主義の浸透という側面から研究したも のとして、グラン(Gran 1975)があげられる。グランは、植民地政府の政 策、とくに 1904 年と 1927 年の法令との関連でコーチシナ村落の制度変化を 3 期にわけて検討する。それぞれ、植民地政府が郷職 notables を出先機関と して認め、徴税を請け負わせた時期(第 1 期、1880 年∼1904 年)、郷職が西 洋的な官僚に変化する時期(第 2 期、1904 年∼1927 年)、植民地政策により 崩壊した村落政治を是正しよう試みる時期(第 3 期、1927 年∼1940 年)で ある。 さらに、グランは資本主義の浸透により生じた村落社会および農民生活の
変化として、以下の 4 点を指摘した。第 1 に、農民生活が内向的な社会化を 基盤としたものから物質的な富の蓄積を望む外向的、拡大的なものへと変化 したこと、第 2 に、植民地政策により、村落が有していた宗教的、道徳的な 価値観が破壊され、村落としての結び付きが断たれたこと、第 3 に、村落に おける社会的地位が、財産や西洋(フランス)式教育の有無により測られる ようになったこと、第 4 に、郷職が植民地政府の徴税請負人に変化したこと で、郷職と農民間の関係が悪化し、村落の自律性が薄れたこと、である。グ ランは、資本主義浸透の過程における以上のような変化が農民の貧困化を招 く一つの要因となったと結論付ける(Gran 1975)8)。 以上のレビューから、次の点が確認できる。第 1 に、植民地期のメコンデ ルタ農村開発は、土地登記制度、公有地払い下げ制度9)、水路掘削事業が有 機的に結び付いて進展したことである。第 2 に、その開発の過程には、非常 に大きな地域的な多様性がみられたことである。また、マレーとグランは、 社会主義革命への発展を強調したため、やや教条的な傾向がみられるが、植 民地におけるメコンデルタ農村社会の一つの見方を提供している。しかし、 前述したサンソムらのフィールド調査の成果に充分言及していない点で課題 が残る。 2. 農地改革の再評価とその帰結 前述したように、南ベトナム時代には、農地改革ないし土地改革の実態や その成果に関心が集中した。しかし、統一後、これらの改革についての研究 が進められることがなかった。1980 年代半ばになると、この傾向が一転す る。一つの理由として、ベトナム南部では、社会主義的改革が党・政府の計 画通りに進展していないといわれ、その原因究明が必須となったことがあげ られる。 木村(1986)は、統一以前の農地改革(特に、LTTT 計画)と社会主義的 改革の関係について研究し、以下の 3 点を明らかにした。第 1 に、統一直後 の農村では、すでに地主制が解体し、耕作地を所有する中農が多数を占めて
いたこと、第 2 に、この中農層が、農業生産合作社(以下、農業合作社とす る)の設立に反対していること、第 3 に、共産党や NFL による土地改革が、 当時の現状を承認したにすぎないものであったこと、である。 木村によれば、地主制解体の根拠は、グエン・ヴァン・ティエウによる LTTT 計画の成功に求められるという。つまり、メコンデルタでは、大多数 の農民(小作農)が、1970 年に制定、施行された農地改革により自作農と なっており、土地を所有する農民が社会主義的改革、特に農業合作社の組織 化に抵抗したという指摘である。さらに、木村は、1977 年前後に実施され たメコンデルタの農村調査(8 省)を紹介し、統一直後の階層構造と LTTT 計画がもたらした階層構造が非常に類似していることから、ティエウ政権の 農地改革の成功を主張した(木村 1986)。
ゴ・ヴィン・ロン(Ngo Vinh Long 1984)は、木村と同じように、1977 年 前後に実施されたメコンデルタの農村調査(8 省)資料を利用しつつ、統一 以前の土地改革および農地改革と農民階層分化の関係を検討している。 ゴ・ヴィン・ロンによれば、NFL 側の支配領域とサイゴン政権側の支配 領域では、それぞれ土地改革と LTTT 計画による農地改革が実施され、大地 主制の解体および農民への土地分配が進展したという。したがって、土地そ れ自身は、1960 年代後半から 70 年代前半にかけて生じたとされる階層分化 の要因とならなかった。ゴ・ヴィン・ロンは、農民階層分化の要因を農業経 済の商業化および農業部門における資本集約的技術の導入(トラクター、灌 漑ポンプ、化学肥料など)に求めている。2 つの現象が拡大、進展した理由 として、第 1 に、メコンデルタがベトナム戦争という特殊な環境下にあった こと、これと関連して、第 2 に、農村から都市への爆発的な人口流入が発 生したこと、第 3 に、経済構造に占める非農業部門の就業人口が拡大したこ と、をあげている。 この結果、農産物市場の拡大、農産物加工業の就業人口の増加、農業労働 力の不足および役畜(水牛など)の激減による農業の機械化がみられた10)。 さらに、高収量品種や化学肥料を導入した稲の集約栽培化は、戦争による耕
地の荒廃、減少を補うためにおこなわれた。以上の分析から、ゴ・ヴィン・ ロンは、農業機械類のリースなどによる富農や農村資本家への富の集積、生 産コストの増大、農業関連産業の拡大が進展し、農民経済が圧迫されたと結 論付けた(Ngo Vinh Long 1984)。
また、論文発表の時期は異なるが、農地改革の影響とその帰結を論じたも のとして大野(1998a)が挙げられる。大野は、カィンハウ村を事例として 一次資料とフィールド調査から農地改革の実態を検証し、以下の 3 点を指摘 している。第 1 に、在住フランス人や親仏勢力は、1940 年代から 50 年代に かけて、宗主国のフランスがインドシナから撤退したことにより、海外に脱 出し、農地を売却していたことである。つまり、ゴ・ディン・ジェムの農地 改革以前に一部の土地が売却されていたのである。 第 2 に、ゴ・ディン・ジェムとグエン・ヴァン・ティエウの農地改革によ り、カィンハウ村のほとんどの小作農が自作農化したことである。ただし、 LTTT 計画は、政治的宣伝効果を狙ったばらまき的傾向が強く、また前述の ように、中・小地主の抵抗にあった。第 3 に、一戸あたりの所有地面積が、 農地改革およびその後の均分相続により細分化したことである。特に、カィ ンハウ村では、小作地がほとんど消滅していたため、農業生産だけで生計を 維持できなくなり、補助的な日雇い労働への要求を高めた可能性があるとい う。また、大野は、植民地期のメコンデルタに顕著であった大地主制が一連 の改革により解体したこと、その農地改革の影響が地域的な多様性を有する ことを指摘している(大野 1998a)。 以上レビューから、次の点が確認できる。まず、前章でみたように、大 地主制は、解体したことがわかる。しかし、やや大まかな議論ではあるが、 ゴ・ヴィン・ロンが示唆するように、統一直後のメコンデルタでは、資本集 約的な技術の導入などにより、農民層の再分化が進行していた。南部の社会 主義的改革の成否について考察するためには、前述した中小地主の残存の問 題およびゴ・ヴィン・ロンのいう農村資本家という階層の出自などを明らか にする必要がある。これは、今後の検討課題となろう。
Ⅲ 改革開放政策以降:1986 年∼
ここでは、1990 年代半ば以降可能になったフィールド調査の成果を概観 しつつ、社会主義体制下の農村社会の変化に注目した研究を中心に検討して みよう。 1. 農業合作社の評価とその変化 農業合作社の評価とその機能変化に関する研究をおこなったものとし て、カークブリート(Kerkvliet 1995)、コルコ(Kolko 1997)、リッグ(Rigg 1997)、カークブリートとセルデン(Kerkvliet & Selden 1999)、岩井(1996)、 竹内(1999)があげられる。 改革開放政策以前の状況について、コルコは、1959 年以来の農業合作社 の組織が社会的な安全保障を作り出し農民にとって有益であったことから、 その機能を充分に果たしていたとしている(Kolko 1997)。他方で、リッグ は、イデオロギー的な違いこそあれ、土地改革の前後で農業生産構造がほと んど変化しなかったとする(Rigg 1997)。 しかし、この 2 つの研究は、概念が先行した傾向が強く、必ずしも実態を 反映していない可能性をはらむ。これに対して、カークブリートは、フィー ルド調査の成果を取り入れつつ、農業合作社が組織されていた時期に、同社 員が国家の決めたモデルをさまざまな方法で修正し、農業経営が多様化して いたと指摘する(Kerkvliet 1995)。 さらに、カークブリートとセルデンは、中国との比較研究を行い、以下 の 2 点を指摘した。第 1 に、ベトナムと中国ともに 2 度の農業社会変化 agrarian transformation を経験したことである。それぞれ、1 度目が、土地改 革および社会主義的農業集団化により、農業生産と市場を国家の統制下に置 いた時期、2 度目が、国家および農業合作社組織の統制を緩め、家族経営を 奨励し、市場原理を導入した時期である。2 度目の変化の背後には、農民の 農業合作社に対する抵抗があったという。第 2 に、両国とも同じような制度変化を経験したが、その結果には大きな 差異があったことである。特に、カークブリートとセルデンによれば、ベト ナムでは、農業合作社の組織が経済的、社会的に浸透しなかったのに対し て、中国では、2 度目の変化以降、現在でも計画経済時代に起源をもつ農村 工業が発展しているという(Kerkvliet & Selden 1999)。
竹内は、ドイモイ政策による農業協同組合11)の機能変化に注目し、大き く 3 つのタイプの農業協同組合が出現したことを明らかにした。第 1 に、購 入・販売協同組合、信用協同組合を代替するような形で生産財の補給、農産 物の販売などを試みる「総合的」(ママ)な協同組合、第 2 に、水利・灌漑 (または森林保護)しか担当しない農業協同組合、第 3 に、協同組合の管理 委員会が維持されている一方、社会的機能がなくなりかけている協同組合、 である。3 タイプの協同組合の比率(1992 年)は、それぞれ 12%、30%、 55% であるという。 また、メコンデルタ地域では、農業協同組合が形式的にしか存在せず、ド イモイ以降、諸農民の自由意思による農業協同経営が現れたと指摘する。こ のタイプの協同経営は、メコンデルタ地域を中心に全国で 2.7 万(1992 年現 在)程度存在する。竹内によれば、農業協同経営の具体的な機能は、10 戸 程度農家が協同で田植え、稲刈りを行う互助・労働交換的なものであり、現 在、水利・灌漑、信用部門にも拡大しつつあるという(竹内 1999)。 フィールド調査の成果としては、岩井があげられる。岩井は、1994 年 3 月∼11 月、1995 年 8 月にかけて紅河デルタのハノイ近郊に位置するハバッ ク Ha Bac 省チャンリェット Tran Liet 村合作社の実態調査を実施した。岩井 は、チャンリェット村合作社と農業生産の関係および同合作社の社会的機能 に注目し、以下の 3 点を明らかにした。第 1 に、農業合作社の農業生産にお ける役割が、技術指導と水利灌漑事業に限定されていること、第 2 に、農業 合作社が徴税組織、社会保障的組織として社会的機能を果たしていること、 第 3 に、ハノイに近接した村落の特徴(ハノイの北東 15km に位置)を生か して、農民が廃品回収により非農業所得を拡大させていることである(岩井
1996)。 これに対して、実態調査に基づくメコンデルタの農業合作社に関する研 究は皆無といってよい。しかし、文献、統計資料から分析したものとして、 ゴ・ヴィン・ロン(1988)、出井(1989)があげられる。その他、論文発表 の時期は異なるが、前述の木村(1986)およびラム・タィン・リェム(Lam Thanh Liem 1984)もまた、1970 年代後半以降の農業合作社の動向について 言及している。 ゴ・ヴィン・ロンは、南部の農業合作社設立が失敗した理由として、以下 の 2 点をあげている。第 1 に、統一後の土地再分配(ママ)が十分な成果を あげられなかったことである。土地なし農民や零細農民は、政府から土地を 譲渡されることを拒否するか、もしくは、土地を受け取るとすぐに売却して しまったという。 第 2 に、メコンデルタでは、農民階層の再分化が進行していたことであ る。党・政府は、この問題を充分解決しないまま、農業合作社設立を試みた ため、成果・実績を挙げることができなかった。さらに、ゴ・ヴィン・ロン によれば、農民が農業合作社設立に抵抗した理由は、社会主義的改革によ り、党の政治的な統制が強化されたこと、農業合作社が農業所得の減少につ ながったこと、であるという(Ngo Vinh Long 1988)。
ラム・タィン・リェムは、第 2 次 5 年計画の実施期間(1976 年∼1980 年) における南部の農村社会主義化政策を概観しつつ、以下の 2 点を指摘した。 第 1 に、南部の農村における急激な社会主義化政策が多くの農民から反対を 受けたこと、第 2 に、この急激な改革が経済危機、特に農業生産停滞の大き な要因となったこと、である。農民が集団農業に抵抗した理由として、集団 的農業という生産システムに対して不信感を抱いて(デメリットを感じて) いたこと、平等主義に基づく労働点数制を拒絶したこと、をあげている。と くに、メコンデルタでは、1978 年秋から 79 年にかけて、個人経営への復帰 を求める農民の運動が拡大したという。ラム・タィン・リェムは、一連の農 民による抵抗運動とそれに起因する農業生産の停滞が、ベトナム指導部に改
革路線の修正案を採択させたと指摘している(Lam Thanh Liem 1984)。 出井は、ゴ・ヴィン・ロンやラム・タィン・リェムと同じように、メコン デルタの生産集団や農業合作社が設立後間もなくそのほとんどが解体してし まったこと、その後も、改革の試みが充分な成果をあげられなかったこと、 を指摘した。しかし、出井によれば、南部の農業合作社設立の功罪は、農民 の状況、生産力の水準など具体的な場で評価する必要があるとしている(出 井 1989)。これは、社会主義的改革の成否を実態レベルから把握する必要性 を示唆していると思われる。 以上から、次の点を確認できる。まず、農業合作社は、その機能が大きく 変容し、多様化したことがわかる。その意味で、竹内による農業合作社機能 の整理、類型化は、非常に貴重である。さらに、実態を報告した岩井の成果 もまた評価されよう。 しかし、メコンデルタ地域に関しては、農業合作社の実態に関する言及が 非常に少ない。当該地域では、農業合作社の設立率が相対的に低いという 事実も指摘できるが、農村調査自体がほとんど報告されていない。後述す る農業システムに関する調査を除くと、アンザン An Giang 省の農家経済を 分析した出井(1999)、カィンハウ村からの集団移住について研究した大野 (1998b)などがあげられるにすぎない。メコンデルタでは、フィールド調査 の積み重ねが今後の課題となろう。 この点については、拙稿(大塚 2005)において、メコンデルタの農業協 同組合に注目し、その動向を明らかにしようと試みた。そのなかで当該地域 の協同組合の灌漑サービスなどが非組合員にも提供されていることなどか ら、協同組合の事業範囲と個別の組合員の経済的な行為空間に差異が生じて いること、この協同組合と組合員間の活動範囲のズレが組合組織と地方行 政の政治権力・リーダーシップとの交渉や協働に関連していることを指摘し た。
2. 持続可能な農業システム farming systems の模索
まず、農業システムという概念について検討してみよう。
農業システムの研究は、カントー大学の付属機関であるメコンデルタ農業 システム R&D 研究所 Mekong Delta Farming Systems Research and Development Institute, Can Tho University が中心となり進められている。同研究所は、日本 政府の資金援助を受け、国際農林水産業研究センター JIRCAS およびメコン デルタ稲研究所CLRRIと共同で研究成果を発表している(Vo-Tong Xuan & S. Matsui eds. 1998)。
同書によれば、農業システムとは、「栽培作物、家畜飼育、漁業(養魚) を組み合わせた複合的なシステムである」とされている。さらに、現代の 農業システムを特徴付けている諸要素を以下の 5 点にまとめている。第 1 に、自然環境(e.g. 土壌条件、地形、気候、塩水の侵入 salinity intrusion およ び天然資源)、第 2 に、水路掘削、第 3 に、農地開発(入植、土地の開墾)、 第 4 に、政府の政策、第 5 に、技術革新(e.g. 高収量品種の導入)である (Nguyen Van Sanh, et al. 1998)。
農業システムという概念に基づきフィールド調査を実施したものとして、 山崎とズオン・ゴック・タィン(Yamazaki & Duong Ngoc Thanh 1998)とグ エン・スアン・ライ(Nguyen Xuan Lai 1998)があげられる。2 つの論文は、 前掲書(Vo-Tong Xuan & S. Matsui eds. 1998)に所収されている。
山崎とズオンは、カントー省のトットノト Thot Not 県チュンアン Chung An 村とカオド Cao Do 国営農場 state farm を事例として、1996 年にサンプル 調査を実施した。2 者は、農民階層分化に注目しつつ、以下の 5 点を明らか にした。第 1 に、農民階層分化が 1988 年の改革開放政策以降に進展したこ と、第 2 に、大規模農家(2ha 以上)の経済システムが稲作モノカルチャー および非農業活動であること、第 3 に、中・小規模(2ha 以下)の農家が農 業システムの多様化を図っていること、第 4 に、労働生産性は大規模農家 の方が高いこと、第 5 に、土地生産性と農家の土地保有規模間に直接的な 関連性がないこと、である。農民階層分化が 88 年以降進展したとする根拠
は、88 年以降にチュンアン村の土地なし農家(10 世帯)の土地喪失が顕著 であったことに求められている。また、大規模農家の非農業活動は、米の仲 買が中心であると指摘している(Yamazaki & Duong Ngoc Thanh 1998)。 グエン・スアン・ライは、農民経済の実態を把握しようと試み、カントー 省のオモン O Mon 県で調査を実施した。1996 年半ばの調査では、イタリア の NGO の研究協力を得て、オモン県の約 1% にあたる 494 世帯から情報を 収集し、以下の 3 点を明らかにした。第 1 に、調査世帯の 53% が稲作のモ ノカルチャーに依存していること、第 2 に、土地保有規模別農家間の所得格 差が約 12 倍であること、第 3 に、相対的に土地資源に依存しない家畜、家 禽生産の拡大が必要なことである(Nguyen Xuan Lai 1998)。
以上のレビューから、農業システムとは、非常に大きな概念であり、特定 の地域の地理的歴史的背景および政治状況を基盤として、農業、畜産業、水 産業の技術およびその経営について調査・研究し、その革新を図ろうとする ものといえる。したがって、農業システム研究とは、普遍的ないし画一的な 農業システムを開発するのではなく、より現地の環境に適した多様なシステ ムを模索している研究分野である。これは、農業システムが systems と複数 形になっていることからもうかがえる。また、前述の政府の政策とは、植民 地期の土地政策、戦後の土地改革と農地改革、統一後の社会主義的な農業集 団化政策、改革開放政策、とくに 1988 年の決議第 10 号による農民への土地 使用権の譲渡、ならびに 93 年の改正土地法による土地使用期限の延長など であろう。 しかし、この概念とフィールド調査の成果とのすり合わせは、まだ充分で はないと思われる。調査結果と概念を結び付けることが今後の課題であろ う12)。
むすびと展望
本稿は、フランス植民地時代にルーツをもつ地主制に依拠した土地所有制度が解体されていくプロセスに着目し、メコンデルタの農業景観がどのよう に変遷しつつあるのか、先行研究から整理することを主たる目的とした。 まず、注目すべきは、1976 年の統一を分水嶺として、メコンデルタの農 業景観に関する研究動向が分断された様相をみせている点である。第二次世 界大戦後に実施されたヒッキーらのフィールドワークの成果は、その後の研 究で言及されることが非常に少なかった。確かに、社会主義国家建国期に は、現地調査が困難であり、植民地期を中心とした農村開発史や社会史に対 する研究の比重が大きくなった。しかし、植民地期に関する研究成果とヒッ キーらの成果とを関連づけて考察し、歴史的な連続性をもたせようとする試 みがほとんどみられなかった。さらに、現代史の分野でも、この時期の調査 報告を引用し、検討することが非常に少ない。 この間隙を埋める試みとしては、高田の研究成果があげられよう(高田 1998;2014)。高田は、歴史学の立場から、フィールドワークに依拠したモ ノグラフを参照し、さらにフィールド調査を援用しつつ、植民地期以降の メコンデルタ農村開発史の再構築を試みている(たとえば、高田 2014)。ま た、前述した大野(1998a)の研究も、その成果の一環に位置づけられる。 高田・大野らの研究を参照しつつ、メコンデルタ研究の歴史的な接合を試 み、今後、さらなる農業景観の変貌をとらえるため、次の点に着眼してゆき たい。まず、(農業)技術の複製可能性という視点があげられる。メコンデ ルタでは、1960 年代以降、主としてアメリカの援助の下、一部地域におい て農業生産の機械化が展開していた。現在、メコンデルタの米作において、 耕起・脱穀は、多くの場合に耕運機・脱穀機に依拠している13)。また、前 述のように種子そのものが商品化しており、こうした技術革新に対するア クセスビリティが農業の生産性およびそこから得られる利潤を方向づける。 「時間−空間の圧縮」した現代社会では、情報の取捨選択能力が問われると いっても過言ではなく、同時的にローカルな実践の脆弱性が指摘されること も多い14)。しかしながら、グローバル化した情報過多の時代においてこそ、 1960 年代にみられた地場レベルでの灌漑ポンプの開発・改良や品種の選抜
といった、いわばローカルな場での技術の複製可能性に着目してみたい。こ の点、アンザン省の事例にみられた育種組織が今後どのように展開していく かは注目に値する。 次に、上述したフィールド調査に依拠した先行研究との摺り合せが求めら れよう。とくに、高田(2014)がその詳細なオーラルヒストリーの収集から 詳らかにしたようにメコンデルタの地域的多様性を俯瞰することが肝要であ る。1960 年代から 70 年代にかけて主としてアメリカ人によって実施された フィールド調査は、自然環境や開発史が異なるメコンデルタ社会を対象とし ていた。したがって、これらの研究との摺り合せは、歴史 - 地理的なコンテ クストに位置づけて展開しなければならない。 三つ目として、土地保有関係の視点、とくにライフストーリーに基づいた 詳査を試みたい。先行研究において土地保有関係は、地主 - 小作関係、農地 改革、土地改革や農民階層分解という視座から分析されてきた。こうした研 究を前提としつつ、ミクロなレベルでの実践に着目したい。 この点に関して、具体的には、法制面とそのローカルな解釈という視点か らのアプローチがあげられる。ベトナム土地法は、中央から省、県、行政村 という行政レベル順に段階的に施行されていく。また、同法によれば、いく つかの条項に対して、地方の状況を考慮した柔軟性が与えられている(大塚 2007)。このような地方ごとの柔軟性という点では筆者のフィールドの一つ でもあるアンザン省政府の事例がある。 アンザン省政府は、改革開放政策への転換期の 1988 年に 303 号決定(so 303/1988/QD-UB)を出して、さまざまな土地紛争の解決を図った15)。中央 政府の指示に基づき、それを具体化したこの決定には、アンザン省政府の独 自の解釈も含まれている。303 号決定に関する検討は別稿にゆずるとして、 この政策は、当時の土地紛争に対して、一定の成果をもたらした。現地調査 において、一部のインフォーマントのなかには、現在の自らの生活状況を説 明する転換点として、ドイモイ(政策)というある意味で一般的な用語では なく、この 303 号決定という具体的な制度を引き合いに出す人びともいた。
この事例が示唆するように、制度の施行プロセスをみると、行政村レベル では、あくまで県レベルの指示を受け、制度を運用することになる。逆に言 えば、県レベルにみる制度と国家レベルの制度との間にズレが生じていたと しても、大きな問題とはならない。しかし、県レベルの行政機関は、制度施 行に関して省政府から規制を受ける。したがって、土地法と省 - 県および行 政村というそれぞれのレベルにみる制度のズレに着目することで、それが運 用されるプロセスをより具体的に把握できるようになる。 また、村落レベルの制度運用にみる政治的リーダーシップと地域史的なコ ンテクストへの着目があげられる。まず、政治的リーダーシップという点で は、村落行政によるローカルな規則の承認がある。たとえば、アンザン省の 調査地では、抵当権が実行される(債務不履行)以前に、債権者が抵当に設 定された農地を耕作できる「慣習」がみられた。このような、土地法では容 認されていない耕作者の変更は、村落行政で承認され、契約文書を作成する 場合もある。したがって、政治的リーダーシップ、とくに共産党一党統治と いう政治体制下でのそれは、現地社会のローカリティを形成していくうえで より強い影響力を及ぼす。 こうしたいわば地域史的な視点では、杉島(1999)の議論が参考になる。 やや抽象的な議論になるが、制度それ自体は、ひとたび改正ないし変更され れば、それ以前の規定の法的な効力が失われ、空文化するかもしれない。し かし、さまざまなズレをともないつつも、それが実践された場には、ズレつ つ形成された制度が「歴史」として刻まれることになる。したがって、特定 の地域の「時間軸」からその社会を把握していくことが必要となる。また、 この文脈における地域史には、制度としての社会主義の実践をも含まれう る。土地保有関係に関する個別のライフストーリーを以上のようなコンテク ストに位置づけつつ分析することでより動態的な分析が展望されうる。 最後に、上記の絡み合いのなかにおける社会空間的な実践に着目したい。 具体的には、さまざまなタイプの協同組合の活動と前述したファーミングシ ステム論の組み合わせ、さらにより広範な社会組織のネットワークに基礎づ
けられた農業景観を把握があげられよう。 註 1)ここでいうメコンデルタ地域とは、自然地理的な区分ではなく、ロンアン省 以西の 1 市・12 省を指す。具体的には、ロンアン省、ティエンザン省、ベン チェー省、チャーヴィン省、ヴィンロン省、ドンタップ省、アンザン省、カ ントー(中央直轄)市、ハウザン省、ソクチャン省、キィエンザン省、バク リュウ省およびカーマウ省である。本稿では、とくに断りのない限り、ほぼ この意味で用いる。 2)1950 年代末∼70 年代初めまでのアメリカ人研究者によるメコンデルタの農村 調査をレビューしたものとして、村野(1999)があげられる。 3)詳しくは、キャリソン(Callison 1983)を参照のこと。 4)ここでは、滝川(1966)の定義に従い、土地改革という用語を、最終的に社 会主義的改革(私的土地所有権の廃止)を目指したものの意味で用い、農地 改革という用語を、自作農創出を目的としたものの意味で用いる。混同を避 けるため、本文中では、引用文献の用語もこの定義に基づき変更している。 5)この点に関連して、1975 年 3 月 13 日の朝日新聞にメコンデルタにおいて日本 人男性が殺害された記事が掲載された。当時、現地でこの男性と懇意にして おり、サイゴンから男性の遺体確認に赴いた A 氏によれば、この男性は、新 聞記事にもあるとおり、地主との借地をめぐる地代支払いのトラブルに巻き 込まれて殺害された可能性が高いとのことである。こうした事例からも当該 社会における地主の存在/残存が窺い知れる。 6)コンセッション制度とは、高田の指摘する国有地払い下げ制度と同様のもの である。 7)メコンデルタの大地主制の展開についての議論は、ブロシュー(Brocheux 1979)、ペイジ(Paige 1979)も参照のこと。 8)植民地期における農民の生活水準を検証したものとして、ゴ・ヴィン・ロン (Ngo Vinh Long 1991)およびファム・カオ・ズゥオン(Pham Cao Duong 1985)
などがあげられる。
9)公有地という用語については、大塚(2000)を参照のこと。
10)高収量品種、農業機械、化学肥料などの供給は、主として、輸入に依存 し、その資金は、アメリカの援助や低利のローンで賄われた(Ngo Vinh Long 1984)。なお、高収量品種は、1968 年にフィリピンから導入された(Vo-Tong Xuan 1975)。
11)合作社を意味するベトナム語 hop tap xa には協同組合という意味もある。ここ では、暫定的に両者をほぼ同義として扱う。
12)農業システム研究は、その後もカントー大学、JIRCAS およびメコンデルタ稲 研究所が共同で進められ、成果をあげた(JIRCAS-CTU-CLRRI 2000)。 13)ただし調査の範囲内では、耕運機と比較して深耕が可能であるという理由か ら、役畜(水牛)を使用した耕起をおこなう事例が散見された。 14)この点について、かつてベンヤミンは、「歴史の概念について」のなかで、 1830 年の 7 月革命の際に人びとが同時的に塔時計めがけて発砲したという逸 話を紹介した。2020 年上半期現在、一部の地域で 5G の電波塔や関連施設な どが人びとの襲撃対象になっていることは、極限的な時間 - 空間の圧縮という 世界における抵抗の動きととらえることもできるかもしれない。 15)303 号決定については、出井(2004)が詳述している。 <引用文献> *筆者未見分については、文献末に(未見)と記した。 出井富美(1989)「ベトナム南部における農業の集団化と農業生産」トラン・ヴァ ン・トゥ編『ベトナムの経済改革と対外経済関係』日本経済研究センター(研 究報告 68 号)、41-58 ページ。 出井富美(1999)「ドイモイ政策以降のベトナムの農家経済の現状と課題─アン ザン省の事例」出井富美・竹内郁雄編『ベトナムの農業・農村の改革と変容』 アジア経済研究所(調査研究報告書)、39-60 ページ。 出井富美(2004)「ベトナム農業の国際的な発展戦略と土地政策」石田暁恵・五島 文雄編『国際経済参入期のベトナム』アジア経済研究所、121-166 ページ。 岩井美佐紀(1996)「ドイモイ後の北部ベトナム農村社会の変容─チャンリェッ ト村合作社の事例を中心に」『東南アジア─歴史と文化─』Vol.25、83-114 ペー ジ。 大塚直樹(2000)「植民地期ベトナムの地域分化─フランス土地政策との関連を 中心として」『史苑』(立教大学史学会)Vol. 60-2、93-120 ページ。 大 塚 直 樹(2004)「 道 と 景 観 ─ メ コ ン デ ル タ の 地 方 都 市 の 近 郊 村 か ら 」 『RUGAS』(立教大学地理人類学研究)No. 22、97-100 ページ。 大塚直樹(2005)「メコンデルタ地域にみる農業協同組合の動向─改革開放期に おけるアンザン省の組合組織の設立とその活動」『RUGAS』(立教大学地理人類 学研究)No. 23、30-41 ページ。 大塚直樹(2007)「ベトナム土地法にみる農地使用権とその特徴─ 2003 年土地 法の改正点をめぐって」『史苑』(立教大学史学会)Vol. 67-2、77-90 ページ。 大塚直樹(2012)「メコンデルタに刻まれた歴史的記憶と風景」『なじまぁ』Vol. 2、 24-26 ページ。
大塚直樹(2014)「メコンデルタ、アンザン省における種子生産組合の設立とその 展開」『国際関係紀要』(亜細亜大学国際関係研究所)Vol. 23-1/2、53-75 ページ。 大塚直樹(2020)「ベトナム戦争期における同時代的な記憶とその再生─在ベト ナム日本人のライフストーリー」『立教大学観光学部紀要』Vol. 22、21-31 ページ。 大野美紀子(1998a)「ベトナム南部村落における土地所有状況の推移─カィン ハウ村における農地改革の影響について」『東南アジア─歴史と文化─』Vol.27、 3-27 ページ。 大野美紀子(1998b)「メコンデルタにおけるドイモイ後の集団入植について─ ロンアン省カィンハウ行政村の事例より」『南方文化』Vol. 25、17-39 ページ。 木村哲三郎(1971)「南ベトナムの土地改革」滝川勉編『東南アジアの農業・農民 問題』亜紀書房、139-173 ページ。 木村哲三郎(1986)「南ベトナム土地改革始末記」アジア・低開発地域農業問題研 究会編『第三世界農業の変貌』勁草書房、198-230 ページ。 杉島敬志(1999)「土地・身体・文化の所有」杉島敬志編『土地所有の政治史─ 人類学的視点』風響社、11-52 ページ。 高田洋子(1984a)「植民地コーチシナの国有地払い下げと水田開発─ 19 世紀末 までの土地政策を中心に」『国際関係学研究』Vol.20、1984 年、79-94 ページ。 高田洋子(1984b)「20 世紀初頭のメコン・デルタにおける国有地払い下げと水田 開発」『東南アジア研究』Vol. 22(3)、241-259 ページ。 高田洋子(1998)「フランス植民地期メコン・デルタ西部の開発─ Can Tho 省 Thoi Lai 村の事例研究」『敬愛大学国際研究』Vol. 1、59-90 ページ。
高田洋子(2014)『メコンデルタの大土地所有─無主の土地から多民族社会へ フ ランス植民地主義の 80 年』京都大学東南アジア研究所地域研究叢書。 滝川勉(1966)「現代アジアにおける土地改革の基本性格に関する一考察」斉藤一 夫・滝川勉編『アジアの土地制度と農村社会構造』アジア経済研究所、43-82 ページ。 滝川勉(1970)「南ベトナムにおける農地改革の展開」丸尾忍・山本秀夫編『現代 世界の農業問題』亜紀書房、195-222 ページ。 竹内郁雄(1999)「ドイモイ下のベトナムの農業共同経営・協同組合運動試論」白 石昌也・竹内郁雄編『ベトナムのドイモイの新展開』アジア経済研究所、249-296 ページ。 深沢八郎(1963)「ヴェトナムの農地改革」大和田啓気編『アジアの土地改革Ⅱ』 アジア経済研究所、117-256 ページ。 ベンヤミン、W.(1995)「歴史の概念について〔歴史哲学テーゼ〕」『ベンヤミンコ レクション 1 近代の意味』(浅井健二郎編訳・久保哲司訳)ちくま学芸文庫、 643-665 ページ。 村野勉(1999)「アメリカ人研究者が観察したメコン・デルタ─ 1950 年代末∼70
年代初めの農村調査─」出井富美・竹内郁雄編『ベトナムの農業・農村の改革 と変容』アジア経済研究所(調査研究報告書)、23-37 ページ。
Bassford, John Louis (1984) Land Development Policy in Cochinchina under French (1865-1925), Thesis (doctoral), University of Hawaii.
Brocheux, Pierre (1971) Grands Proprietaires et Fermiers dans l’Ouest de la Cochinechine pendant la Periode Coloniale, Revue Historique, vol.246 (499), pp.59-76.
Bush, Henry C., Gordon H. Messegee and Roger V. Russell (1972) The Impact of
Land-to-the-Tiller Program in Mekong Delta, Control Date Corp., ADLR, USAID, Vietnam.
Callison, Charles Stuart (1983) Land-to-the-Tiller in the Mekong Delta: Economic, Social
and Political Effects of Land Reform in Four Villages of South Vietnam, Lanham, New
York and London, University Press of America.
Gran, Guy (1975) Vietnam and Capitalist Root to Modernity: Village Cochinchina, Ph.D. Dissertation, Department of History, University of Wisconsin at Madison.
Hendry, James B. (1964) The Small World of Khanh Hau, Chicago, Aidine.
Hickey, Gerald Cannon (1964) Village in Vietnam, New Haven and London, Yale University Press.
Kerkvliet, Benedict J. Tria (1995) Rural Society and State Relation, in Benedict J. Tria Kerkvliet and Doug J. Porter, eds., Vietnam’s Rural Transformation, Colorado, Westview
Press, pp.65-96.
Kerkvliet, Benedict J. Tria and Mark Selden (1999) Agrarian Transformations in China and Vietnam, in Anita Chan, et al., Transforming Asian Socialism: China and Vietnam
Compared, Lanham; Boulder and New York, Rowman & Littlefield Publishers, pp.
98-119.
Kolko, Gabriel (1997) Vietnam: Anatomy of a Peace, London and New York, Routledge. Lam Thanh Liem (1984) Collectivisation des Terres et Crise de l’Economie Rurale dans le
Delta du Mekong (1976-1980), Annales de Geographie, vol.9-10, pp.547-575.
Murray, Martin J. (1980) The Development of Capitalism in Colonial Indochina
(1870-1940), Berkeley, University of California Press.
Ngo Vinh Long (1984) Agrarian Differentiation in the Southern Region of Vietnam,
Journal of Contemporary Asia, Vol.14-3, pp.283-304.
Ngo Vinh Long (1988) Some Aspects of Cooperativization in the Mekong Delta, in David G. Marr & Christine P. White, eds., Postwar Vietnam: Dilemmas in Socialist Development, Ithaca, Cornell Southeast Asia Program, pp.163-173.
Ngo Vinh Long (1991) Before the Revolution: the Vietnamese Peasants under French, Cambridge, Columbia University Press [rep., MIT Press, 1973].