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第一章

 

開拓使時代の恵庭

第一節

 

開拓使の設置と

高知藩による分領統治

開拓使設置と「北海道」命名 慶応三(一八六七)年十月十四日、江戸幕府一五代将軍徳川慶 喜が大政奉還によって政権を朝廷に返上し、幕藩体制は終わりを 告げた。同年十二月九日、王政復古の大号令により徳川幕府が廃 止され、鳥羽・伏見の戦いに始まる戊辰戦争を経て、天皇を中心 とする明治政府の権力が確立することとなった。 慶応四年四月十二日、維新政府はロシアへの外交政策として蝦 夷地の開拓が急務であると考え、箱館裁判所(後の箱館府)を設 置した。その後、明治二(一八六九)年七月八日に官制改革を実 施すると同時に、太政官に属する臨時機関として開拓使を設置し た。同年七月十三日には鍋島直正を開拓長官に任命し、八月には 東 ひがし 久 く 世 ぜ 通 みち 禧 とみ に交代した。 明治二年八月十五日、開拓判官松浦武四郎の提案により、蝦夷 地を「北海道」と改称し、北海道を「渡島国」 、「後志国」 、「石狩

 

国」 、「天塩国」 、「北見国」 、「胆振国」 、「日高国」 、「十勝国」 、「釧 路国」 、「根室国」 、「千島国」の一一カ国八六郡に画定した。現在 の恵庭市を構成している漁、茂漁、島松の各場所は、胆振国千歳 郡に編入された。 開拓使の本庁は当初民部省に置かれ、明治二年八月には太政官 に移り、九月に箱館に出張所が置かれた。明治三年十月には箱館 が本庁、東京が出張所となり、翌四年五月には札幌に本庁が移転 し、 以後、 北海道の開拓は札幌を拠点に推進されることとなるが、 長官は東京出張所に常駐した。 諸藩の分領支配と高知藩の調査 開 拓 使 は 北 海 道 の 開 拓 に 着 手 し た が、 財 力 に 乏 し か っ た た め、 明 治 二( 一 八 六 九 ) 年 七 月、 諸 藩 や 士 族 ら に 土 地 を 割 り 当 て て、 開拓に従事させようとした。しかし、 いずれの藩も財政は厳しく、 開拓を出願したのは、 蝦夷地開拓に関心があった水戸藩や佐賀藩、 戊辰戦争敗北後に領地を削減され、新領地を求めていた仙台藩な どの六藩・一士族にすぎなかった。そこで政府は、半強制的に土 地を諸藩に割り当てて分領支配を命じ、胆振国千歳郡は高知藩に よって分領支配されることとなった。 明治二年八月、高知藩は北海道開拓のために土地を分譲してほ しいという内容の願書を開拓使に提出、この願書に応じて開拓使 は、同年八月二十日、石狩国夕張郡、胆振国勇払郡、千歳郡の土 地を引き渡して分領支配を許可する通達を出した。 分領支配地が決定すると、高知藩は明治二年九月、藩士の岸本 円蔵、北代忠吉、従者の杉本安吾等を北海道へ出張させた。岸本 は九月に箱館の地蔵町(現・函館市末広町・豊川町)に地所を借 受け、紅屋清兵衛を名代として人員、食料、出産物の運送のため に箱館商社を設置している。また、同年十月、高知藩は、領地内 の勇払に船舶を停泊させる場所がないことから、石川源太支配の 室蘭の港の支配を出願したが、許可されず、翌年十一月に勇払郡 東サルベツの支配を申請したが、却下された。 岸 本 等 は 勇 払・ 千 歳 二 郡 を 視 察 し て 明 治 二 年 十 一 月 に 帰 京 し、 勇払・千歳二郡附近では四分が放牧に適していること、六分は穀 物の発育に適していること、山間部には良質な木材の原料となる 森林があり、 硫黄や銅、 鉄も埋蔵されていると報告した。加えて、 五、六軒のアイヌ民家が河川、海沿いにあり、山や海で漁猟に従 事していることなども報告、その待遇については、使役状況が残 酷で、開拓を行っていくには、アイヌと一体になって行わなけれ ばならないとしている。 高知藩の開拓 高知藩は現地調査と並行して、明治二(一八六九)年十月九日 に開拓志望者を募集し、役員十数人と大工、人夫、農夫など五〇 人を決定して現地に送り込んだ。開拓者一行は翌三年五月に高知 浦戸港を出港し、六月に箱館に上陸、地蔵町の高知藩借用の屋敷 を拠点として勇払、千歳に向かった。 高知藩の分領支配はどのようなものであったか。明治三年十月 に現地を視察した米沢藩士宮島幹が記した『北行日記』の記録に 高知藩の分領支配の様子が記録されている。 漸 く 島 松 に 至 る。 川 あ り、 拾 四、 五 間 馬 に て 渡 る、 渡 れ ば 是 よ り 東、 胆 振 国 千 歳 郡 高 知 藩 支 配 所 な り。 空 家 弐 軒 あ り、 一 両 年 前 迄 は 住 居 せ し 由 な れ 共、 今 は 石 狩 へ 転 住 せ し 由、 土 人 壱 人 留 守 居 す。此処にて昼餉す、 汁もなし、 湯を貰い相用い、 札幌より七里。 是 よ り は 平 坦 に し て 路 至 て 宜 し く、 茅 原 或 い は 深 林 所 々 に あ り、 二 里 斗 に し て ム イ サ リ、 土 人 小 屋 三 軒 あ り、 熊 の 子、 鷲 を 養 う、 又 行 二 丁 斗 に し て 平 坦 な る 壱 里 斗 芦 原 あ り、 此 処 に 牛 五、 六 十 疋 を 牧 す。 川 を 渡 る 事 数 度、 此 辺 川 々 尽 く 砂 川 故 三、 四 尺 の 小 川 迄 鮭 登 り 込、 猟 す る 由 な り。 是 よ り 北 方 に イ サ リ フ ト、 ヲ サ ツ フ ト と 云、 所 々 に 土 人 小 屋 多 分 こ れ あ る 由。 三 里 斗 に し て 漸 く 千 歳 に 至 る。 入 口 川 あ り、 巾 五、 六 十 間 橋 あ り、 渡 れ ば 会 所 一 軒・ 倉 々 等 多 分 あ り、 此 辺 土 人 小 屋 二、 三 十 軒 人 数 惣 数 七、 八 十 人 こ れ 有 よ し。 当 所 は 高 知 藩 支 配 地 に て、 諸 役 員 八 人 其 外 大 工、 人 足、 農 民共凡五十人斗出張の由(中略) 諸 役 員 は 望 の 者 斗 召 連 れ 来 り 候 由、 両 三 年 位 の 積 り に て 八 人 斗 罷 越 居 候 由、 後 来 は 家 族 引 連 れ 来 る 心 得 な り。 大 工、 人 足、 農 夫 凡 五 十 人 斗、 是 又 国 元 よ り 望 の 者 召 連 れ 来 り 候 由、 両 三 年 見 込 後 は 永 住 の 見 込 な る 由。 五 月 五 日 国 元 出 帆 六 月 六 日 箱 館 へ 着、 夫 よ り 当 地 へ 出 張 し、 時 節 後 れ に 相 成 候 へ 共、 千 歳 の 東 の 方 に 凡 八 千

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5 4 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 坪程開拓し、 そば等を植付しなれ共、 今朝の霜にて害なきや云々。 千 歳 よ り 五 里 斗 北 の 方 イ サ リ フ ト へ 三 千 坪 程 開 拓 し に、 七 月 十 五日の水にあい、開拓小屋迄も尽く流れしと云う。 (宮島幹『北行日記』 ) 『北行日記』では、高知藩が支配していた胆振国千歳郡の現地の ア イ ヌ 民 族、 入 植 し た 和 人 な ど の 様 子 が わ か る。 「 イ サ リ フ ト、 ヲサツフト」にはアイヌ民族が七〇〜八〇人おり、高知藩から入 植した「諸役人」 、「大工」 、「人足」 、「農民」などの人々がおよそ 五 〇 人 い る と 記 さ れ、 「 大 工 」、 「 人 足 」、 「 農 民 」 は 現 地 の 開 墾 に 従事した後は永住する予定であると報告されている。 高知藩から入植した人々の状態はどうであったか。 『北行日記』 では、岩井源九郎という人物からの聞き取りを次のように記録し ている。 中 勘 一 ヵ 年 の 入 費 二 万 両。 役 員 給 米 は 定 禄 外 月 俸 六 石 月 給 六 十 両 よ り 三 十 両 迄。 農 民 の 手 当 日 々 米 一 升 壱 月 の 野 菜 料 三 貫 文 月 給 壱人役を勤むる者三両つつ、右に準ず。 箱館より当地迄諸官員惣計二十人。 ( 中 略 ) 六 月 中 大 野 村 よ り 稲 苗 申 受 三 カ 所 植 付 候 処 一 カ 所 は 水 難 に て 不 用 立、 弐 カ 所 は 砂 地 に て 水 持 宜 し か ら ず、 壱 丈 程 の 車 を 補 理仕付しに最早穂先こごみ余程実りし由なり。 実 地 は 奥 物 不 用 立 に 付、 国 元 に て 二 作 物 の 早 稲 を 以 て 植 付 候 て 必 実 る べ く と の 事 な り。 此 度 引 連 れ 来 り し 農 夫 は、 国 元 に て 最 上 力田の民を引連れしと云う。 土州領民は非常力田の者にて、諸藩へ対し恥入るとの事なり。 明 年 よ り 家 族 引 連 方 左 候 節 は 月 俸 も 別 段 こ れ な く て は 相 成 ら ず、 五 年 位 定 詰 の 方。 明 年 は 移 民 家 族 を 率 い 来 り、 日 々 食 料 を 給 し作物は尽く与え家一軒を与うると云う。 高 知 藩 支 配 地 の 内、 土 人 小 屋 多 分 水 難 に 逢 い、 取 救 方 願 出 に 付 救米を与えんとの咄なり。 (宮島幹『北行日記』 ) この記録では、現地の「役員」は「定禄外月俸六石月給六十両 より三十両迄」とされており、農民は「米一升壱月の野菜料三貫 文」を受給していると述べられている。また、大野村(現・北斗 市)から稲苗を入れて稲作を行っているが、一カ所は水害で失敗 し、 二 カ 所 は 砂 地 で 水 持 ち が 優 れ て い な か っ た。 そ の た め、 「 壱 丈程」の水車を導入して「穂先こごみ余程」実るまでに至ったと も 報 告 さ れ て い る。 こ の よ う に、 「 イ サ リ フ ト、 ヲ サ ツ フ ト 」 で はこの頃から既に水稲を行い、収穫が可能であったことから、こ の水稲栽培が現在の恵庭市周辺において初めて行われた稲作であ ると考えられる。 ま た、 水 害 に 遭 っ た ア イ ヌ に 対 し て は「 救 米 」 を 与 え て お り、 前述の現地のアイヌへの待遇についての動向が、分領政策に反映 されていることがうかがえる。 高知藩の漁場経営 高知藩による開拓が進む一方で、 千歳川、 漁川が流れていた「イ サリフト、ヲサツフト」には近世後期以来、山田文右衛門が請負 人として場所を展開し、アイヌ民族を使役してサケ漁を行わせて いた。明治二(一八六九)年、開拓使は場所請負制を廃止しよう としたが、反対運動が起こったため、請負人に漁場持として引き 続き各自の漁場を請け負わせることとした。 高知藩では、請負人の山田文右衛門を罷免し、漁場を直接経営 する方針を採ろうとしたが、近世以来の漁場の特殊性を考慮して 山田文右衛門の代人・植田甚蔵を世話方とし、通詞、帖役、土人 廻 り 役 な ど 四 二 人 に 多 額 の 給 料 を 支 払 っ て 雇 用 し た。 そ の た め、 直営といってもその実態は、近世期とほぼ変わりがなかったと思 われる(恵庭市『恵庭市史』 )。 分領統治の廃止 明治四(一八七一)年、明治政府は廃藩置県を行い、全国の藩 を廃止して新たに県を置くこととし、北海道における分領統治政 策についても廃止する方針を示した。その背景には、高知藩は千 歳郡、勇払郡の開拓で成果を挙げていたものの、他藩はそうとは 言い難い状況であったことが挙げられる。 明 治 四 年 八 月 二 十 日、 太 政 官 は 開 拓 使 に「 今 般 諸 県 並 華 士 族、 寺院等北海道支配地罷免、其使管轄被仰付候事」という通達を出 した( 『開拓使日誌   第一号』明治四年、 『新北海道史』第七巻) 。 また、太政官は高知藩に対しても、同年八月に「北海道支配地被 免候条地所開拓使ニ可引渡事」という通達を出し、支配している 土 地 を 開 拓 使 に 引 き 渡 し、 そ の 際、 現 地 の 移 民、 穀 物、 農 産 物、 漁獲物、アイヌについても開拓使に引き渡すこと、開拓事業に費 やした費用についても詳細に調査し、開拓使に報告するよう命じ ている。開拓使への引き継ぎ書類では、入植後、千歳が五町六反 二 畝 一 二 歩( 約 五 万 五 七 七 五 平 方 ㍍) 、 イ ザ リ ブ ト が 七 反( 約 六 九八二平方㍍) 、シュママップが七反六畝三歩 (約七五四七平方㍍) がそれぞれ開墾され、千歳郡全体で七町八畝一五歩(約七万七四 〇五平方㍍)が開墾されていたとの報告に加え、イザリブトには 建物規模約三〇〇平方㍍で七二畳敷の大きな止宿所が設置されて いると報告されている(恵庭市『恵庭市史』 )。 高知県は明治五年五月一日、千歳郡などの領地を開拓使に引き 渡した。高知藩が分領統治に費やした資金は四六一七二両一分ほ か、一五〇〇両、米二二八石一斗四升三合五勺とほかに米一二〇 石であった。なお、 同年三月、 岸本円蔵は、 開拓使に引き渡す米、 塩などの仕込み品代金一二九一両を高知県の分領統治の関係者の 旅費などに充てるために拝借を開拓使に願い出ており、 また、 「所 轄引払」 のために帰県人員五〇人の旅費として一人当たり六〇両、 合計三〇〇〇両の借用も開拓使に申請している。 分領支配中、高知藩は場所請負人山田文右衛門の分家に当たる 榊富右衛門から、塩鮭の仕入れ代金、千歳場所を直営としたとき に榊から譲渡された魚具類の代金等の二六五三両三分余を借金し

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7 6 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 て い た。 榊 は 高 知 藩 の 借 金 未 払 い の た め 経 済 的 に 困 窮 し て お り、 高知藩が負債を返済せず北海道から引き揚げようとしたため、開 拓中半官杉浦誠に掛け合い、訴訟を起こした。その結果、杉浦判 官は高知藩に対し支払いを命じている (千歳市 『増補千歳市史』 )。

第二節

 

開拓使の開拓政策と

明治初期の行政制度

開拓使十年計画 明治三(一八七〇)年二月、明治政府は外交政策として、樺太 開 拓 使 を 久 ク 春 シ ュン 古 コ 丹 タン に 設 置 し、 黒 田 清 隆 を 開 拓 次 官 に 任 命 し た。 黒田は樺太と北海道を視察し、同年十月、北方地域の問題を解決 するには、 内政の充実、 樺太の情勢の維持、 石狩国への鎮府設置、 道南、奥羽地方からの移民の移住、外国人指導者の招へいなどが 重要であると意見した。黒田の意見はほぼ受け入れられ、同年十 一月には黒田次官の渡米出張、大臣・納言の北海道視察、お雇い 外国人の受け入れなどが決定した。 明治四年一月、黒田次官は留学生を同伴して渡米し、グラント 大統領に面会し、農務局長ホーレス・ケプロンを開拓使顧問とし て招へいすることが決定、七月にはケプロン、地質・化学・鉱山 長トーマス・アンチセルなどが来日した。同年八月には、黒田の 意見を尊重して、翌明治五年からの一〇年間の開拓費総額を一〇 〇〇万両(円)と決定した。この財政支出予定額の設定による開 拓使の事業は「開拓使十年計画」と呼ばれており、以後、開拓使 の産業開発、運営、移民移住事業、社会基盤整備などの各方面の 事業はこの予定額を根拠として、お雇い外国人の指導を受けつつ 展開されることとなった。 開拓使による開拓政策 明治初期の北海道では、ロシアの南下に備えて、国防上、開拓 が急務であるとされていため、本州から大量の開拓移民を必要と していた。しかし、幕末期までの日本社会では、封建制度の前提 である土地の売買、 農民の移動の禁止が貫徹していた。明治六 (一 八七三)年の地租改正により、土地の売買、農民の移動が可能に なったとはいえ、土地を手放し、移住をしようとする農民はまだ まだ少なかったため、本州から移民を確保することは容易ではな かった。 このような状況下で開拓使は、 「移民扶助規則」 (明治二年) 、「移 民農民給付規則 【確認中】 」(七年) 、「北海道送籍移住者渡航手続」 ( 十 二 年 ) な ど の 移 住 規 則 を 制 定 し て さ ま ざ ま な 特 典 を 移 住 者 に 与え、移住を促進して開拓を進めようとした。しかし、北海道の 生活に耐え得る生活様式、生業や社会基盤の未発達が原因で、永 住者を増やすことはできなかった。 開拓を進めるうえで必要な土地制度については、明治五年九月 に「北海道土地売貸規則」と「地所規則」が制定されている。こ れらの規則は、 売下、 貸下といった方法で土地を開拓移民に与え、 地券を渡して数年間除租とするもので、開拓促進が可能な措置が 項目に含まれていた制度であった。 しかし、結果として移住者の私有地となった土地の中には、ア イヌの生業に活用されてきた土地も含まれており、法的にアイヌ の生活の場を取り上げていくことにつながっていった。 千歳郡出張所の設置と集落統治 明治四(一八七一)年の廃藩置県により、北海道は開拓使の管 轄下に置かれた。開拓使は札幌に本庁を置き、函館、根室にそれ ぞれ支庁を置いた。漁村、島松村が属する千歳郡は札幌本庁に所 属し、明治五年には開拓使出張所が置かれ、開拓使十五等使掌藤 田武三が千歳郡開拓使出張所に任命された。 明治以前、道南の和人地を除く地域では、場所請負人が村役人 などの形で現地の住民を支配していたが、開拓使は、末端行政事 務の遂行と人民の統治を行うため戸長を置くこととし、明治五年 五月二十九日、 「戸長人選指令」を各郡詰へ出した。 しかし、千歳郡は人口が少なかったため戸長を置かず、同年九 月二十一日、漁場持山田文右衛門の代人・植田甚蔵を副戸長兼御 収税改に申し付け、現地の行政事務を担当させた。しかし、植田 の管轄は勇払、千歳、白老の三郡の広範囲にわたっていたことに 加え、現地にはアイヌが多く住み、独自の風俗風習で生活を営ん でいたため、副戸長一人で和人の行政制度を浸透させ、集落を統 治するには限界があった。そこで、現地のアイヌ集落にいる 惣 そう 乙 おと 名 な 、 脇 わき 乙 おと 名 な 、 惣 そう 小 こ 使 づかい などの中から土人伍長を選出し、副戸長の支 持の周知、集落からの願届などの副戸長の行政事務の補助業務を 担わせることとした。 現在の恵庭市周辺に存在した「ヲサツ村   イサリフト村   イサ リ村」の当時のアイヌの内訳は、 「戸数   十六戸、 人口   六十八人、 旧脇小使一人ヲサツ村、並乙名一人、イサリフト村、並小使一人 イサリ村、伍長   一人」であった。伍長の氏名は不明である。 明治六年六月、藤田使掌が勇払出張所に転じ、開拓使十五等使 掌西村利行が千歳出張所の在勤となった。千歳郡開拓使出張所で は明治六年八月二日、 土人取締が設置されて石山専蔵が採用され、 アイヌの救済事業や疾病者の治療の補助を行った。また、同年七 月には、中山久蔵が山林取締に任命され、山林の警備、狩猟、漁 労禁止などの見回りを行っている。 明治六年八月、勇払詰の黒沢大主典が、開拓使の松本十郎大判 官、田中幹事に伺書を提出している。伺書では、勇払ほか二郡の 地勢が詳しく把握されておらず、村名・地名はアイヌ語で表記さ れ、現地の産物についても明らかにされていない。そのため、現 地 の 地 勢・ 戸 籍・ 村 落・ 産 物 を 詳 細 に 調 査 し、 開 拓 使 に 報 告 し、 アイヌ民族に現地の運営を担われるために教化すべきだと要請し ている。 こ の よ う な 要 請 を 鑑 み て、 開 拓 使 は 千 歳 郡 を 整 理 し、 「 イ サ リ フト村   イサリ村」は「漁村」に合併され、新たに「島松村」が 設置された。

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9 8 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 大区小区制による統治 開拓使札幌本庁管下では、明治七(一八七四)年二月十五日に 大小区画制が施行され、国ごとの各郡を大区とし、その郡下に小 区が置かれた。千歳郡は胆振国の第一小区となり、さらに、同年 五月二十三日には「区戸長月俸規則」が施行され、区戸長の月俸 が全道統一された。この制度は区戸長を官吏身分に準じさせたも のであったが、人口と行政事務の規模によっては、区長を置かず 戸長によって業務を執り行うことがあるとも定められていた。そ のため、人口の少なかった千歳郡は区長を置かず、引き続き植田 勘蔵が区長の業務を代行していたと考えられる。 大区小区制の施行によって千歳郡出張所が廃止され、明治七年 四月には勇払郡出張所に合併されたのち、八年二月に開拓使民事 局勇払派出所、九年四月には勇払分署となった。 明治九年九月には札幌本庁、函館本庁、根室本庁ごとに施行し ていた大小区画制を統一して「北海道大小区画」とし、全道を三 〇大区に分け、その下に一六五小区が配置された。千歳郡は第二 一大区六小区とされ、漁村、島松村はその中に含まれた。勇払分 署は廃止されて、苫小牧に第二一大区区役所が設置され、千歳に は区務取扱所が置かれた。 郡区町村による統治 明治十一 (一八七八) 年七月二十二日、 太政官布告をもって、 「郡 区町村編制法」 、「府県会規則」 、「地方税規則」の三新法が制定さ れ た。 「 郡 区 町 村 編 制 法 」 は 大 区 小 区 制 を 廃 止 し て、 郡、 町 村 制 を導入し全国の行政制度を再編成するもので、北海道では「郡区 町村編制法」の施行のみ許可された。明治十二年七月二十三日に は同法に則り、道内を新たに九〇郡区八二六町村に設定した。ま た、札幌、函館には区役所が設置され、全道に一九の郡役所、一 三六の戸長役場が設けられた。 この再編成により、 苫小牧に勇払外五郡 (白老、 千歳、 沙流、 新冠、 静内)が設置され、その下にそれぞれ、千歳郡に千歳村五カ村戸 長役場が設置され、勇払外五郡の役所は明治十三年三月一日に開 庁された。 漁村、島松村は千歳郡千歳村外五カ村に編入され、千歳村に戸 長役場が置かれることとなり、初代戸長には旧千歳郡副総代の石 山専蔵が任命された。しかし、石山は千歳村駅逓所の駅逓取扱人 を拝命したため、戸長を辞任し、代わって明治十三年十月二十八 日に秦一明が二代目戸長に任命された。 明治十七年八月一日、秦一明が病死し、同年十一月に三代目戸 長に太尾長祥が任命されている。 こ の 間、 明 治 十 三 年 七 月 に は 開 拓 使 に よ っ て「 戸 長 職 務 概 目 」 が定められ、戸長の職務である事務処理が全道で明確化、統一さ れた。職務は納税、戸籍、徴兵、天災に対する処置、児童の就学 支援、 人民の生活援助、 道路、 橋などの修復状況の記録などであっ た。

第三節

 

島松駅逓所の経営

札幌本道の開削 明治初期の北海道の道路開削状況は、漁業のために開削された 道 路 が ほ と ん ど で あ っ た が、 移 民 の 移 住、 開 拓 に 対 応 す る た め、 開拓使設置から一〇年は官営による道路開削が行われた。札幌本 道はそうしてつくられた札幌と函館を結ぶ道路であり、日本初の 洋式馬車道でもある (関秀志他 『北海道の歴史   下』 近代 ・ 現代編) 。 札幌本道の工事はお雇い外国人のA・G・ワーフィールドが指 揮を執り、労働者は東京、伊豆、木曾、鹿児島などから雇い入れ られた。工事は明治五(一八七二)年三月十八日に亀田(現・函 館市) から行われ、 明治五年中には島松まで進んだ。難工事であっ たのは、峠下村山道、室蘭石山切取、島松附近などで、いずれも 火薬を使用しなければならないほどであった(桑原真人・田中彰 編『平野弥十郎幕末・維新日記』 )。のちに島松駅逓所が開設され る現在の島松沢附近の開削が難しかったことがわかる。 このような工事により、函館札幌間全長約二二三・八㌖の札幌 本道は明治六年六月に全行程を完了した。 島松駅逓所の開設 北海道における駅逓は、松前藩による開設が始まりとされ、寛 政 十 一( 一 七 九 九 ) 年 に 幕 府 が 蝦 夷 地 を 直 轄 地 と し て 交 通 駅 舎・ 人馬などを置き、宿泊・人馬継立・逓送を担わせたが、明治期以 後は開拓使が駅逓業務の管理を引き継いだ。 札幌本道の開通により人馬の往来が活発になったため、開拓使 は旅行者に対する施設として駅逓所の設置を進めた。その後、明 治五(一八七二)年の郵便制度の確立により、駅逓業務から郵便 関係の業務が分離された。 三県時代には県ごとに制度が異なり、民営の県もあったが、北 海道庁時代になると、 「人馬車継立営業規則」 (明治二十四年) 、「官 設駅逓取扱規定」 (二十八年) 、「駅逓所規程」 (三十一年) 、「人馬 車 継 立 営 業 取 締 規 則 」( 三 十 一 年 ) な ど が 制 定 さ れ、 自 由 営 業 が 主体となった。 初 代 と な る 島 松 駅 逓 所 は、 島 松 川 を 挟 ん で 現 在 の 恵 庭 市 側 に あった。使用された家屋は、もともと、後の四代目島松駅逓取扱 人となる中山久蔵が、明治四年に島松に入植するにあたって、当 時勇払郡会所支配人植田甚蔵から五円で購入したものであった。 この家屋は『西蝦夷日誌』の「シママップ」の絵図にも描かれ ていることから、安政四(一八五七)年に箱館奉行が開削した札 幌越新道の休憩所として建てられ、ユウフツ場所の請負人であっ た山田文右衛門が管理していた建物であると考えられる。 つまり、 現在の恵庭市側にあった初代島松駅逓所は、安政四年に開削され た札幌越新道の休憩所として建てられた家屋であったと推測でき る。

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11 10 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 そ の 後、 明 治 六 年 七 月、 島 松 に も 駅 逓 所 が 必 要 で あ る と し て、 千歳郡漁場持山田文右衛門代人の山口安五郎は、開拓使に左記の とおり申請を提出した。 乍恐以書附奉願上候 先 般 御 取 開 ニ 相 成 候、 於 新 道 筋 ニ 御 当 郡 川 向 へ 橋 傍 へ 追 々 手 続 次 第 旅 人 止 宿 処 取 建 申 渡 奉 存 候 間 何 卒 同 処 東 側 ニ お 為 天 表 口 行 弐 拾 五 間 裏 行 三 拾 間 此 坪 数 七 百 五 拾 坪 御 借 地 被 仰 附 被 成 下 置 度 此 段 以書付奉願上候以上   明治六年七月   千年郡漁場持          山田門右衛門代          山口安五郎   印 千年郡御出張所 前書之通願出ニ御座候間依之奥書印形奉差上候   以上          副戸長   植田勘蔵   印 願之通 追而地処見分之上割渡遍具事    明治六年八月三日    写 (山口安五郎『萬覚留』 ) この文書では山口安五郎が、札幌本道が通る千歳郡の島松川の 傍 に「 旅 人 止 宿 処 」 を 建 て た い た め、 「 七 百 五 拾 坪 」 を 借 り た い という趣旨のことが書かれている。その後、明治六年十二月には 島松駅逓所の建物を完成させ、同月七日から駅逓所の業務である 「 通 行 並 ニ 縦 立 」 を 行 う こ と と な り、 千 歳 郡 出 張 所 に 提 出 さ れ て いる。この島松駅逓所の設置について、開拓使は正院に「人馬継 立所取設之儀   十二ノ六十五号」を提出し、正院からは「可然御 了承有之」との回答をもらい、明治七年二月に正式に認可される こととなった。 しかし、前述のとおり、実際は明治六年十二月七日から営業が 行われており、これが事実上の島松駅逓所の開設といえるであろ う。 駅逓取扱人の変遷 明治六(一八七三)年十二月から営業を開始した島松駅逓所の 初代駅逓取扱人は勇払郡と千歳郡の漁場持であった山田文右衛門 が務めたが、山田は樺太の漁場にも進出していたため、実際に業 務を担当していたのは代人の植田礼助であった。しかし、樺太の 漁場持と島松駅逓所の運営がうまくいかなかったのか、山田は明 治八年四月七日に漁場持と駅逓取扱人を辞退している。 同年八月には山田の駅逓所運営によって発生した負債を返納す る 条 件 で、 山 口 安 五 郎 が 正 式 に 二 代 目 駅 逓 取 扱 人 に 任 命 さ れ た。 しかし、長続きせず、明治十年三月九日付で 靏 つる 谷 たに 新次郎が三代目 駅逓取扱人に任命されている。 その前段で、山口は開拓使中判官堀基に次のような願書を出し ている。 千年郡島松駅逓所遜渡奉願上候書付 千 年 郡 島 松 駅 逓 所 付 建 家 蔵 々 並 ニ 附 属 品 共、 明 治 八 年 四 月 中 山 田 文 右 衛 門 拝 借 金 之 廉 エ 奉 返 上 以 来、 山 口 安 五 郎 仮 取 扱 人 被 仰 付 罷 在 候 処、 同 年 八 月 中 金 千 百 九 拾 円 之 代 金 ニ 取 悉 皆 山 口 安 五 郎 引 請、 向十三ケ年賦ニ仕前金員年々十二月二十日限奉上納儀ニ候処、 同 人 内 事 不 如 意 ニ 付 双 方 熟 談 之 上、 今 般 後 志 国 小 樽 郡 小 樽 村 永 井 町 第 百 四 十 六 番 地 永 住 人 靏 谷 新 次 郎 方 ニ テ 前 駅 逓 所 更 ニ 引 請 取 扱 仕 度 奉 存 候、 尤 前 年 年 賦 金 之 儀 ハ 聊 無 遅 滞 御 定 則 之 通 靏 谷 新 次 郎 ヨ リ 奉 上 納 候 間 御 差 支 之 儀 モ 不 被 為 在 候 ハ バ、 右 願 之 通 御 許 可 被 成 下 置 度 若 亦 年 賦 上 納 金 遅 滞 奉 候 節 ハ、 請 人 中 山 久 蔵 ヨ リ 速 ニ 可 奉上納間、此段以連印ヲ奉願上候 以上           島松駅逓取扱人        山口安五郎   印    明治九年   小樽町永井町    第十二月   百四十六番地願人        靏谷新次郎   印       右請負人         島松村永住人第一番地        中山久蔵   印 開拓中判官   堀基殿 (山口安五郎『萬覚留』 ) この願書では、山口が経済的に困窮したため、靏谷新次郎に駅 逓取扱人を変更することを申請している。また、年賦金の納入が 遅れたときは、靏谷新次郎の請負人である中山久蔵から速やかに 納入させることも記している。 明治十年三月十九日に山田文右衛門が樺太の漁場持を担ってい た際に発生した「拝借御米代金」のうち、年賦上納金で納める明 治九年分と明治十年分の未納金についても、靏谷新次郎が山口安 五郎から引き継ぎ、毎年十二月に納めることが可能であることを 証明する書類を開拓使に提出している。これにより、初代山田文 右衛門が樺太の漁場経営によってつくった借金を二代目山口安五 郎、三代目靏谷新次郎がそれぞれ引き継いでいたことがわかる。 島松駅逓所の運営上、直面していた問題はほかにもあった。た シママップ(島松沢附近)の図。 左下に小休所が描かれている(松 浦武四郎『西蝦夷日誌』より)

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13 12 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 とえば、明治十年二月に飼料小屋が大雪で潰れたために貯蔵して いた馬の餌が全滅し、漁村の官営牧場から餌を払い下げてもらう ように、開拓使駅逓課に駅逓取扱人靏谷新次郎名義で願書を提出 し て い る。 ま た、 翌 明 治 十 一 年 に は 島 松 駅 逓 所 の 官 馬 六 頭 が 熊、 狼に食べられるという事件が発生している(林嘉男『ふたつの駅 逓―クラーク博士は恵庭で叫んだ―』 )。このように、現地の自然 環境も駅逓所運営の脅威となっていたことがうかがえる。 クラーク博士と弟子の別れの地 現在、 北広島市の国指定史跡 「旧島松駅逓所」 のそばに建つ 「ク ラークの碑」には、有名な「青年よ大志を抱け」という文章が刻 まれている。 明治十(一八七七)年四月十六日、ウイリアム ・ スミス ・ クラー ク博士と札幌農学校の生徒一同は島松駅逓所で別れることとなっ た。クラーク博士はお雇い外国人として明治九年五月二十日から 約一年間、札幌農学校の初代教頭として教鞭を執り、翌年五月に 北海道を去る途中で、島松駅逓所に立ち寄った。 札幌農学校関係の史料に次のような一文がある。 明 十 六 日、 教 師 ク ラ ー ク 氏 出 発 候 ニ 付、 シ マ マ ツ 駅 マ デ 生 徒 一 同 見 送 リ ト シ テ 羅 越 シ 申 度 キ 旨 願 出 候 ニ 付、 差 遣 シ 申 度 ク 此 段 相 伺ヒ候也 (北海道大学編『北大百年史』 『札幌農学校史料』第一巻) この一文からも、クラーク博士と見送りの札幌農学校の生徒一 同 が「 シ マ マ ツ 駅 」、 す な わ ち 島 松 駅 逓 所 付 近 で 別 れ た こ と が 確 認できる。 クラークの碑は現在の北広島市側に建っているが、島松駅逓所 は 明 治 十 年 当 時 に は 現 在 の 恵 庭 市 側 に あ っ た た め、 帰 国 す る ク ラーク博士とその弟子が別れた場所は現在の恵庭市側であると考 えられる。 駅逓取扱人靏谷新次郎の辞任 靏谷新次郎は駅逓運営状況が悪化したため、明治十七年八月に 駅 逓 取 扱 人 を 辞 任 し、 中 山 久 蔵 が 駅 逓 取 扱 人 を 引 き 継 ぐ こ と と なった。以下、その過程を見ていくこととする。 明治十七年七月、 札幌県は「要旨   島松駅逓所変更ノ儀伺書類」 を告示し、 駅逓取扱人靏谷新次郎が駅逓の業務である「人馬継立」 を怠っているため、本人から事情を聞いたところ、馬が不足して 業務に対応することができていなかったとの理由が述べられた。 そこで県は、 同年一月に石狩駅逓所から返還された「官馬七頭」 を 島 松 駅 逓 所 に 貸 与 し た が、 半 年 た っ て も 改 善 に は 至 ら な か っ た。そのため、 取扱人を中山久蔵に変更し、 「金百三拾円ノ補助金」 を支給し、 新たに駅逓所の業務に必要な馬を幌別村より買い入れ、 貸与することとした。靏谷新次郎は駅馬、家屋などの備品代とし て八百余円を滞納しており、札幌県から、年賦の年限を延長する ように勧められたり、負債を返納することができない場合は、抵 当品を売り払い、それでも返納できない場合は、保証人に負担し てもらうことになり、それもできないのであれば、民事裁判に掛 ける、と通告されていた。 このような事情から、札幌県駅逓係は「島松駅逓取扱人変更ノ 儀伺」に基づいて、同年七月十八日に島松駅逓所取扱人を靏谷新 次郎から中山久蔵に変更するという判決と辞令案を作成、明治十 七年八月十六日から中山久蔵を駅逓取扱人に申し付けるという証 書が、札幌県駅逓係より札幌郡役所に提出された。 また、同年八月十八日、中山久蔵は札幌県宛てに次のような島 松駅逓取扱証書を提出している。 御請書(半紙) 島松駅逓取扱所取扱申付候事    但補助トシテ当分之内壱ケ年    金百三拾円給與候事     明治十七年八月十六日 右御辞令   謹テ奉拝受候也 (駅逓庶務課『札幌縣治類典   明治十七年自六月至八月』 ) 中山久蔵は一年分の補助金として一三〇円を支給してもらう条 件で駅逓取扱人の任命を承諾した。中山久蔵から島松駅逓取扱証 書が提出されたため、同年八月十八日、札幌郡役所は駅逓取扱を 申し付ける辞令書を交付した。 以 後、 島 松 駅 逓 所 の 運 営 は 中 山 久 蔵 に よ っ て 行 わ れ る こ と と なった。中山久蔵は、島松川を挟んだ向かい側にある自宅で運営 を行うことにした。 なお、三代目の靏谷新次郎は札幌県に「島松駅逓所取扱差免候 事」という証書を提出し、駅逓取扱人を辞任している(北広島市 『北広島市史』 )。   四代目駅逓取扱人中山久蔵 中山久蔵は文政十一(一八二八)年、 河内国石川郡春日村(現 ・ 大阪府太子町)に生まれ、安政二(一八五五)年、仙台藩の片倉 英馬に従い、胆振国白老郡白老に渡り、以後、白老と仙台を往復 し蝦夷地在勤を担った。 明治二 (一八六九) 年十二月、 北海道移住を希望して白老に渡り、 三年四月には勇払郡苫小牧に本籍を移しているが、農業に適する 北広島市に建つ「クラークの碑」(林 嘉男『ふたつの駅逓―クラーク博 士は恵庭で叫んだ―』より)

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15 14 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 土地柄ではなかったため、農業に適した肥沃な土地を求め、道内 各地を探し歩いた。その結果、シママップに肥沃な土地があるこ とを見つけ、同地に移住することにした。明治四年三月、移住の 途に就き、途中、勇払郡トママノスケグスンヘツで山百合数株を 採り島松に移植し、これが中山久蔵の島松における最初の作付け となった。 島松にあった小屋一棟を勇払郡会所の植田勘蔵から金五円で買 い取って定住し、農業に従事することとなった中山は、食糧不足 に苦しみ、かろうじて飢えをしのぎながらも、明治四年中に四町 歩(約三万九六六九平方㍍)を開墾した。 明治六年に札幌郡月寒村島松(現 ・ 島松川の北岸)に移り住み、 水 田 五 〇 坪( 約 一 六 五 平 方 ㍍) ほ ど を 開 き、 亀 田 郡 大 野 村( 現・ 北斗市)から赤毛種の 種 たね 籾 もみ を購入して栽培した結果、反当りに換 算 し て 二 石 三 斗( 約 四 三 五 ㍑) と い う 好 成 績 を 得 る こ と が で き、 水稲耕作に成功した。 また、開拓移民の稼業の世話や 蝗 こう 害 がい (バッタの害)の改善、当 時東京上野で開催された 内国勧業博覧会での農産 物の受賞、種籾の北海道 中への頒布によって農業 振興なども行い、北海道 開拓を支援した。 さらに、後述する明治 十四年の明治天皇の巡幸の際には、中山久蔵が開墾した田を見た 明治天皇から「御下問」があり、中山久蔵は入植してからの開墾 状況などについて答えた。明治二十六年には皇室の祭祀である新 嘗祭に中山久蔵が収穫したお米を献納している。このように、明 治天皇と関りをもつことで、明治時代に「北海道稲作を推進して い く 象 徴 的 存 在 」( 郡 司 美 枝『 興 農 富 村: 近 代 日 本 の 稲 作 を め ぐ る農民の営み』 )となったのである。 その後も農業を続け、漁村の学校建設などに資金を寄附するな ど、恵庭の発展にも貢献し、大正八(一九一九)年二月十三日に 逝去、享年九十二であった。 初代島松駅逓所のその後 島松駅逓所は明治十七(一八八四)年に中山久蔵が四代目駅逓 取扱人となり、業務は中山の住宅で行われた。 それでは、初代駅逓所はその後、誰の所有物となり、どのよう な用途で使われていたのか。このことについては、林嘉男『ふた つの駅逓──クラーク博士は恵庭で叫んだ──』で詳しく述べら れており、要約すると次のようになる。 詳しい経緯は不明だが、初代島松駅逓所は明治三十九年の時点 で 二 代 目 の 駅 逓 取 扱 人 で あ っ た 山 口 安 五 郎 の 名 義 の 物 件 で あ り、 「 万 」 と い う 屋 号 の 旅 館 業 を 営 ん で い た。 明 治 四 十 年 に は 中 島 国 助の所有となったが、引き続き旅館として使用されていた。 前掲『ふたつの駅逓──クラーク博士は恵庭で叫んだ──』に は、 中 島 国 助 に 所 有 権 が あ っ た 頃 の 初 代 島 松 駅 逓 所 の 見 取 り 図 が 聞 き 取 り を 元 に 作 成、 掲 載 さ れ て い る が、 こ の 見 取 り 図 か ら も、 こ の 建 物 が 当 時 の 民 家 と は 一 線 を 画 し て い た こ と がわかる。 同 書 に 掲 載 さ れ て い る 内 容 や 近 所 に 住 ん で い た 人 か ら の 証 言 か ら も、 当 時 と し て は 豪 華 な 造 り で あ っ た こ と が うかがえる。 な お、 こ の 初 代 島 松 駅逓所は、昭和二十八(一九五三)年五月五日に焼失した。

第四節

 

明治初期の恵庭の産業と

集落の発展

農業と畜産 恵 庭 地 域 で は、 明 治 四( 一 八 七 一 ) 年 に、 中 山 久 蔵 が 入 植 し、 農作物の作付けを行った。明治六年には村上芳三郎が千歳郡出張 所に約一㌶の土地の貸付を申請している。また、明治十年の「地 処払下其他処分明細帳」には次のように書かれている。   漁村本道筋北側   耕地三千六百坪   十月二十九日払下     願主罪跡漁村寄留   小原亀吉   漁村内ノ耕地   九百坪   十月二十九日拝借     願主在籍千歳村寄留   谷山栄五郎   (恵庭市『恵庭市史』 ) なお、営農状況については不明である。 明 治 六 年 二 月 か ら 十 四 年 六 月 ま で の、 恵 庭 地 域 の 開 墾 状 況 は、 次のとおりである。 漁村   懇成段別総計十四町二反    内懇成段別高六町外二町八反宅地 中山久蔵(林嘉男『ふた つの駅逓―クラーク博士 は恵庭で叫んだ―』より) 初代島松駅逓所の見取り図(林嘉男『ふたつの駅逓―クラーク博士 は恵庭で叫んだ―』より)

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17 16 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20    廃棄段別高五町四反(未耕) 島松村   懇成段別総計四町二反八畝    内懇成段別高一町外二反宅地    廃棄段別高三町(未耕)   (恵庭市『恵庭市史』 ) 明治十三年八月十一日付の『札幌新聞』では「此程其筋にて調 られたる新墾見込地の内地味肥沃よして一ヶ處に百万坪以上連続 しある所 と マ マ ろ の新墾費との 概 算 左 の 如 く な り と 云 ふ 」 と し て、 「 同 國 千 歳 郡 島 松 より漁村まての間九百三拾 三万千貳百坪」というよう に、千歳郡漁村、島松村に 肥沃で開墾に適した土地が あると報道されており、漁 村、 島 松 村 の 土 地 が 当 時、 北海道の中で注目されてい たことがうかがえる。 また、 畜産業については、 明治九年に官設漁村放牧場 が設置され、手稲村の牧場 から余剰になった牛七五頭、馬一一一頭を移した。 しかし、牧畜には適していなかったため、牧馬をすべて新冠牧 場に移し、明治十三年からは、夏秋限定の真駒内牧場付属の牧場 となった。 官設漁村放牧場の設置により、漁、島松両村で馬を飼育する者 が増加し、明治十四年六月の時点で漁、島松両村で一七四頭飼育 していることとなっている。     高知藩統治廃止後は、開拓使が勇払・千歳両郡の漁場持に山田 文右衛門を任命し、漁場の労務管理全般を任せていたが、実際は 旧来の場所請負時代と何ら異なるところがなかったため、勇払詰 の黒沢大主典は明治六(一八七三)年七月、雇アイヌに対して賃 金を定め、 和人に劣らない所得を保障した(恵庭市『恵庭市史』 )。 場所請負制度の廃止以来、漁場持は漁業の独占を禁じられ、前 述のアイヌの賃金の制定、出稼ぎ人による新開漁場の増加などに より、経営状態が不安定になる漁場持が増加した。山田文右衛門 は千歳・勇払両郡の経営を漁場代人に任せ、樺太に進出していた が、明治八年四月には千歳・勇払両郡の漁場持及び駅逓取扱いを 返上した。 その後、千歳郡には漁場持が置かれていないところから、雇稼 アイヌ総代、千歳伍長アイヌ、千歳・島松両駅逓取扱人等が合同 で経営することを願い出ている。 当時の税則は函館の相場で決められており、雇稼アイヌ総代な どでの協議による漁場経営では、函館近辺に比べて税金がかかる という不公平な税則上の問題があった。そのため、明治六年から 函館相場より三割引き下げた金額にして、それに税率を一割か一 割 三 分 に し て ほ し い と 実 状 を 訴 え て 嘆 願 し た。 勇 払 出 張 所 で は、 千歳詰藤田使掌、白老詰   熱海史生、勇払詰細川中主典らも、合 議のうえ、 本庁松本大判官まで前述のような願いを提出している。 この結果、開拓使から函館相場より二割下げを行うという決裁書 が出された。 漁 場 持 制 度 は 漁 場 持 が 漁 場 を 独 占 す る な ど の 弊 害 が あ っ た た め、明治九年九月二十一日に廃止された。千歳川の漁場も雇稼ア イヌ総代などで行われていたが、千歳・島松両駅逓取扱人等がか つての山田文右衛門の代人であったため、この漁場持も廃止され ることとなった。 明治十年に高野正造という人物が経営するようになったが、こ の河川における鮭漁も年々減少し、明治十一年、鮭鱒捕獲禁止令 により、漁、島松の両川の漁場は廃止された。 人口の増加 農 業 の 進 展 を み た 漁 村、 島 松 村 で は 徐 々 に 人 口 が 増 え 始 め た。 明治十三(一八八〇)年から十六年までの漁村、島松村の人口は それぞれ 図表 3- 1- 1のとおりである。

第五節

 

明治天皇の巡幸

明治天皇の巡幸 明 治 十 四( 一 八 八 一 ) 年 七 月 三 十 日 か ら 十 月 十 一 日 に か け て、 明治天皇の巡幸が北海道と秋田県、 山形県を対象として行われた。 北海道が巡幸先として選ばれたのは、開拓使の十年計画の成果を 見聞するためであった。 巡幸に先立ち、同年六月三十日、開拓使から「心得書」が通達 図表3–1–1 漁村、島松村の人口(明治13 ~ 14年) 村名 漁村 島松村 年 明治13 明治14 明治13 明治14 本籍戸数 10 2 人  員 44 10 男 22 4 女 22 6 寄留戸数 10 3 人  員 39 5 男 21 3 女 18 2 合   計 戸数 20 28 5 5 人口 83 80 15 28 男 43 49 7 21 女 40 31 8 7 注:「寄留」とは、旧法令で、90日以上本籍外において一 定の場所に住所または居所を有すること。昭和26年の 住民登録法制定により廃止 資料:恵庭市『恵庭市史』 官設漁村放牧場(林嘉男『ふたつの駅逓―クラーク博士は 恵庭で叫んだ―』より)

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19 18 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 された。この心得には、 ・明治天皇には物品を一切、献上してはならない ・明治天皇の通過する街道での、国旗や提灯の掲示の自由 ・平民は特別な心構えをする必要はない ・明治天皇の行幸を見物するかしないかは自由 ・服装は普段身につけているもので構わない という趣旨のことが書かれている。 この心得から、明治天皇の行幸では民衆に気を遣わせないよう に実施しようとしていたことがうかがわれる(北海道庁編『明治 天皇御巡幸記』 )。 島松村と漁村への巡幸 明治天皇が島松村と漁村を巡幸したのは明治十四年 (一八八一) 九月二日であった。当日、明治天皇の御一行は島松村の中山久蔵 の自宅で昼食をとり、漁村の塩谷栄作と島松村の鈴木多満の住居 で休憩をとっている。本来は、靏谷新次郎が駅逓取扱人をしてい る島松駅逓所で昼食をとる予定であったが、何らかの理由により 近隣の中山久蔵の自宅に変更されている。 また、 明治天皇に当時の島松村、 漁村の様子を報告するために、 現地の戸長役場から次のような報告書が提出されている。 御昼所   島松村地形景色 島 松 村 之 儀 ハ 渓 間 ノ 地 形 ニ シ テ 南 北 ニ 山 有 テ 又 街 道 モ 南 北 ニ 通 シ 西 ヨ リ 出 テ 東 ニ 流 ル ル ノ 小 川 ア リ 近 傍 楢 柏 ノ 茂 林 ニ シ テ 景 色 ハ 青々タル若葉ヲ眺ムルノミ由緒アル名所古跡ナシ 同村戸数人口   一   戸数   五戸   内壱明家   一   人口   二拾八人   内   男二十一人         女   七人 同村耕地反別   一   耕地   弐丁余 同村牛馬頭数   一   牛   無之   一   馬   七拾五頭   内   牝三十六頭        牡三十九頭 同村陸川出産物   一   川産物   無之   一   陸産物      椎茸    三拾斤      蕎麦    壱石      大豆    三石      馬齢所   壱石二斗      蘿匐    二千本 同村道路橋梁大小破修繕調   一   右破損所   無之 御小休所   漁村地形景色 漁 村 ノ 儀 ハ 山 上 原 野 平 地 ノ 地 形 ナ リ 南 北 ニ 街 道 ヲ 通 シ 西 ハ 草 原 ニ シ テ 字 ヱ ニ ワ 嶽 ヲ 眺 望 ス 東 ハ 林 木 森 々 タ リ 西 ヨ リ 出 テ 東 北 ニ 流 ルルノ川(モイザリ川)ノ二川有リ鮭鱒ノ物産ナレ        イザリ川    共禁止中南ハ草原ニシテ官有ノ牧牛場アリ 同村戸数人口   一   戸数   廿八軒   内二戸明家   一   人口   八拾人   内   男四十九人        女三十一人 同村耕地段別   一   耕地   三丁余 同村牛馬頭数   一   牛   五頭   一   馬   百二十四頭 同村陸川出産物   一   川産物   無之   一   陸産物      蕎麦    二石      粟     一石      大豆    五石      小豆    一石      馬鈴薯   八石      蘿匐    四千本      厚子    二十疋      狐     十頭      狼     一頭      熊     三頭 同村道路橋梁大小修繕調   一   右破損所   無之 (恵庭市『恵庭市史』 ) 次の文書は、明治十四年九月二日の巡幸の様子を記録したもの である。 九月二日(晴) 午前六時五十分本日御発夜からニ付、 開拓大書記官ニ謁ヲ賜ヒ、 同 七 時 札 幌 行 在 所 豊 平 館 御 発 輩。 杉 内 宮 大 輔 御 倍 乗 御 行 列 ノ 警 部 二 名 騎 馬 ニ テ 御 先 導、 次 ニ 騎 兵 御 旗 騎 兵 ハ 御 車 騎 兵 皇 族 大 臣 参 議 尋 テ 供 奉 ノ 各 員 ナ リ、 鈴 木 開 拓 権 大 書 記 官 之 ニ 供 奉 ス ル。 儀 仗 屯 田 兵 半 大 隊 行 在 所 前 ニ 於 テ 捧 銃 奉 送 ノ 礼 ヲ 為 シ、 半 大 隊 ハ 南 三 条 東 一 丁 目 ニ 堵 列 奉 送 ス。 長 谷 部 開 拓 大 書 記 官 佐 藤 開 拓 少 書 記 官 御 用 係 辰 野 宗 城 御 巡 幸 御 用 取 扱 諸 員 ヲ 率 ヒ テ 陪 従 ス。 永 山 准 陸 軍 大 佐、 荒 城 准 陸 軍 大 尉 奉 送 シ テ 島 松 駅 ニ 至 ル。 其 他 ノ 奉 任 官 御 用 係

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21 20 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 郡区官吏等豊平橋側ヘ堵列奉送ス。 (中略) 十一時二十八分同郡島松駅御昼行在所中山久蔵宅御着輩、 同 人 ヘ 行 在 所 ヲ 新 築 セ シ ニ ヨ リ 金 三 百 円 並 ニ 御 紋 付 三 ツ 銀 盃 ヲ 賜 ヒ、 且 御 昼 行 在 所 御 用 勤 メ シ ニ ヨ リ 金 二 十 五 円 下 賜 ア リ 午 後 一 時 三 十 分 御 発 輩。 二 時 二 十 七 分 千 歳 郡 漁 村 官 設 ノ 御 小 憩 所 御 着 輩。 御膳水井主佐藤倉吉ヘ金五十銭御下賜アリ三時十分御発輩。 (恵庭市『恵庭市史』 ) この文書からは、明治十四年九月二日に明治天皇一行が札幌の 行在所であった豊平館から出発し、同日「十一時二十八分同郡島 松駅御昼行在所中山久蔵宅」に到着したことがわかる。前節で見 てきたように、中山久蔵の自宅が島松駅逓所として使われ始めた のは明治十七年であったが、明治天皇の行幸の際には自宅を改築 して行在所として提供した。その功績のため、中山久蔵は「金三 百円並ニ御紋付三ツ銀盃」を拝領し、加えて行在所を担当してい たため、 「金二十五円」を頂いている。 また、十四時二十七分に漁村の井戸のある佐藤倉吉の住居で休 憩をとったが、 この様子を見ていた村上きん(万延元〔一八六〇〕 年生まれ)は、当時のことをのちに次のように語っている。 ご 巡 幸 の 日 は 好 天 気 で 家 々 で は 自 宅 前 に 出 て 陛 下 を 拝 み ま し た。 ご 行 列 は、 四 輪 の 非 常 に 立 派 な お 馬 車 が 何 台 と な く 続 き ま し た。 陛 下 の お 休 み に な っ た の は 現 在 の 帷 宮 碑 の 場 所 で、 そ こ に は 建 物などなく、幕を張り巡らしてあるだけでした。 そ こ で 陛 下 は 馬 車 よ り お 降 り に な り、 し ば ら く お 休 み に な り ま した。 そ の 時 官 営 牧 場 の 牛 馬 を 陛 下 の 前 に 集 め て ご 覧 に 供 し た の で す。 (恵庭昭和史研究会 『百年一○○話   恵庭 の風になった人々』 ) 明治三十三年には、野 原 久 造 が 発 起 人 と な り、 御休憩所に使われた場所 ( 現・ 泉 町 四 丁 目 ) に、 巡幸を記念して「漁村帷 宮碑」が建立された。ま た、 漁村民は明治期に 「御 膳水跡」の碑を建立して いる。

第六節

 

札幌県時代の恵庭

三県と農商務省北海道事業管理局の設置 明治十四(一八八一)年、開拓使の総合的事業計画である開拓 使十年計画が満期となった。当初の予定支出額は一〇〇〇万円で あったが、国税、地方税、屯田兵、産業開発の特別交付金などの 収入があったため、結果的には約二〇〇〇万円と当初の予定支出 額の約二倍の金額となった。これは、現在と違って各年度の支出 計画を伴わない、大枠のみを決めた計画であったためである。 明治十五年二月、開拓使は廃止され、新たに函館、札幌、根室 の三県が置かれ、開拓使の管轄下にあった土地と人民を引き継ぐ こととなった。三県の管轄範囲は、開拓使時代の本庁と函館、根 室の各支庁の区域をそのまま引き継いでいる。三県は行政事務の みを執行し、移民事業、各種産業開発、屯田兵事務などの官営事 業は農商務省、工部省、陸軍省などの各省に分割して引き継がれ た。 しかし、各省間の連携がうまくとれず、官営事業運営の妨げと なったため、明治十六年一月、農商務省北海道事業管理局を設置 し、官営事業を一括管理することとなった。それでも、三県と管 理局は対立し、一般行政や官営事業の停滞状況は続いた。 三県と管理局が対立した原因は、明治十八年に北海道を巡視し た太政官大書記官金子堅太郎「北海道三県巡視復命書」 (『新撰北 海道史』第六巻)の表現を借りるならば、三県の県令が人民の生 活を重視する「牧民主義」を取って政務を行い、管理局の局長は 官営事業において利潤追求を最優先する「営業主義」を採用して 経 営 を 行 っ た と い え る。 こ の た め、 「 政 令 二 途 ニ 出 テ 人 民 ハ 殆 ン ト二ツノ長官ノ下」にあって、どちらの指示を仰げば良いのかそ の去就に困っていると指摘されている。 札幌県時代の恵庭の行政 三県一局体制下、札幌県が統治する千歳郡の郡役所に、明治十 五(一八八二)年二月九日、札幌県から「今般廃使置県之儀公達 相成候処、判任官以下ハ総テ其儘事務可取扱事」という通達が出 された。そのため、開拓使時代から郡長職を担っていた服部尚春 が同年三月八日付で、そのまま「札幌県勇払白老千歳沙流新冠静 内郡長」に任命された。 戸長制度の官吏についても開拓使時代と何ら変化はなく、秦一 明が千歳郡各村戸長を継続している。また、 明治十七年八月には、 島松村から初めて靏谷新次郎が「金穀公借、公有物取扱、土木起 工等ノ事、時宜ニヨリ人民ノ利害得失ニ関スル事」を官吏と談判 するために、町村総代人に選出されている。 札幌県下の恵庭村の村勢と産業 明治十六(一八八三)年に北海道三県を巡視した参事員副議長 漁村帷宮碑(恵庭市HPより) 御膳水跡(恵庭市HPより)

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23 22 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 の田中不二麿の復命書によると、札幌県の管轄範囲・人口は、石 狩国、日高国、十勝国、天塩国、後志国九郡、胆振国七郡、北見 国四郡の全四九郡四二〇町村で、人口は六万一一四〇人であった と報告されている。 ま た、 耕 地 の 開 墾 状 況 は「 反 別 十 二 年 ハ 四 千 二 百 町 余 十 三 年 ハ 四 千 七 百 五 十 四 町 余 十 四 年 ハ 五 千 百 三 十 町 余 」 と さ れ て お り、 年々、耕作面積が増加していることがわかる。移住者は「客年七 月ヨリ本年五月迄百九十二戸五百六十九人」であったとされてい る(我部政男編『明治十五年明治十六年   地方巡察使復命書』上 巻) 。 こ の 札 幌 県 下 の 千 歳 郡 の 村 勢 と 産 業 に つ い て 見 て み る と、 『 札 幌県統計書』には千歳郡の人口が、明治十六年一月一日現在四一 〇人で、このうち、本籍が千歳郡内にある者が三四四人であると 記録されている。 また、耕作地の作付け総面積は明治十五年十二月現在、一七町 三二〇〇歩(一七万九一七三平方㍍)で、このうち、田が自作農 民 に よ る 開 墾 で 四 五 〇 〇 歩( 一 万 四 八 七 六 平 方 ㍍) 、 畑 が 一 六 町 八七〇〇歩(一八万七四三八平方㍍)で、自作農民が九町八七〇 〇歩(一一万八〇一六平方㍍)を開墾し、小作農民が七町を開墾 していると記録されている(札幌県『札幌県統計書』 )。 ま た、 『 札 幌 県 勧 業 課 第 二 年 報 』 に よ る と、 胆 振 国 の 中 で 農 民 一人当たりの開墾面積が六六一八歩と有珠郡の七八一七歩に次い で二番目に多いと記録されており、農業が盛んに行われていたこ とがうかがえる(札幌県勧業課『札幌県勧業課第二年報』 )。 札 幌 県 時 代 の 漁 村 と 島 松 村 の 様 子 に つ い て は、 『 札 幌 県 勧 業 課 第二年報』に次のように記されている。 本 郡 中 戸 口 ノ 最 モ 多 キ ハ 千 歳 村 ニ シ テ 戸 数 ハ 寄 留 ヲ 合 シ テ 五 十 一、 人 口 百 八 十 三( 男 九 十 一・ 女 八 十 二 ) 現 在 反 別 畑 七 町 六 反 歩 余、 亦 札 幌 ヨ リ 室 蘭・ 函 館 ニ 通 ス ル 駅 路 タ リ。 ( 中 略 ) 漁 村 ハ 墾 成 地 田 四 反 五 畝 歩、 皆 本 年 ノ 新 墾 ニ 係 リ、 畑 十 四 町 三 反 歩 余、 居 民 大 約 農 業 ヲ 以 テ 専 業 ト ナ ス。 大 小 麦、 粟、 稗、 其 他 ノ 穀 菽 ヲ 播 種 シ、 漸 次 田 圃 ノ 数 ヲ 増 加 ス ル ノ 勢 ア リ。 本 村 ノ 農 業 ヲ 興 起 セ シ ハ 札 幌 郡 月 寒 村 中 山 久 蔵 與 ツ テ 最 モ 力 ア ル モ ノ ト 云 フ。 其 ノ 戸 数 三 十 三 寄 留 二 十 二 戸、 人 口 百 十 六( 男 六 十 六・ 女 五 十 一 ) 之 ニ 含 畜 ス。 嶋 松、 長 都、 蘭 越、 烏 柵 舞 ノ 各 村 ハ 戸 口 皆 寡 少、 其 最 モ 寡 ナ キ モ ノ ヲ 嶋 松 ト シ、 寄 留 ヲ 合 セ テ 三 戸 ニ 過 ギ ズ、 其 開 墾 地 ハ 嶋 松ニ畑一町三反余。 (札幌県勧業課『札幌県勧業課第二年報』 ) この引用史料では、明治十六年の漁村の戸数は五五戸(寄留二 二 戸 を 含 む ) で 人 口 は 一 〇 六 人( 男 六 六 人、 女 五 一 人 )、 開 墾 し た土地は「田四反五畝歩」と「畑十四町三反歩余」であり、島松 村は戸数が三戸で開墾地は「畑一町三反余」とされている。漁村 と島松村の戸数、 人口は千歳村の戸数五一、 人口百八三人 (男九一、 女八三)より少ないが、田と畑の開墾面積は千歳村を上回ってお り、千歳郡各村の中で農耕が盛んに行われているのは、島松駅逓 の四代目取扱人である中山久蔵の影響が大きいとされている。 また、 『北海道志』巻之四には、 「村民中山久蔵本驛(島松駅逓 所 の こ と ─ 引 用 者 ) 開 置 前 既 ニ 此 地 ニ 居 住 シ 精 ヲ 農 業 ニ 励 シ 」、 周辺地域を開墾して「水田ト為シ始テ播稲ヲ試」した結果、豊作 と な り、 「 一 段 歩 ノ 収 穫 毎 ニ 二 石 ニ 下 ラ ス 」 と い う 状 況 で あ る と いう記録がある(開拓使『北海道志』巻四) 。 この史料からも、札幌県時代の漁村と島松村では盛んに農業が 行われていたと考えられる。また、漁村、島松村の農業の発展が 中山久蔵の尽力によるところが大きいとされているのは、前述の とおりである。 しかし、農業が発展していく一方で、十勝、日高、胆振、石狩 を中心に、特に明治十五年、十六年には、蝗害によって農作物が 被害を受ける事態も発生していた。恵庭地域も例外ではなく、明 治十六年には「田畑共ニ収穫ヲ減ジ、田地壱町歩玄米二石六斗ヲ 得 ル ノ ミ、 漁 村 移 民 亦 害 ヲ 得 ル モ ノ 甚 ダ 多 シ 」( 松 本 十 郎『 農 業 篤 志: 中 山 久 蔵 翁 事 績 』) と い う よ う に、 漁 村、 島 松 村 な ど で 蝗 害によって収穫量が激減していた。 このような事態に、開拓使は漁村の塩谷栄作を「漁村方面飛蝗 駆除世話係申付」を申し付け、おびただしい数のバッタの駆除に あてている。 また、中山久蔵は当時、島松付近で困窮していた阿波から来た 移住民四二人を農務局が雇用する蝗虫駆除人夫に周旋して、蝗害 の改善に努めている(郡司美枝『興農富村:近代日本の稲作をめ ぐる農民の営み』 )。 ……… ◉引用・参考文献 ・恵庭市『恵庭市史』1979年 ・千歳市『千歳市史』1969年 ・千歳市『新千歳市史』2010年 ・苫小牧市『苫小牧市史(上) 』1975年 ・苫小牧市『苫小牧市史   資料編   第一巻』1975年 ・宮島幹『北行日記』 (北海道立図書館北方資料室所蔵)1870年 ・ 開 拓 使『 開 拓 使 日 誌   第 一 号 』 1 8 7 1 年、 北 海 道『 新 北 海 道 史 』 第七巻 ・桑原真人・田中   彰『北海道開拓と移民』吉川弘文館、1996年 ・ 関 秀 志 他『 北 海 道 の 歴 史   下 』 近 代・ 現 代 編、 北 海 道 新 聞 社、 2 0 06年 ・ 桑 原 真 人・ 田 中   彰 編『 平 野 弥 十 郎 幕 末・ 維 新 日 記 』 北 海 道 大 学 図 書刊行会、2000年 ・北広島市『北広島市史(上) 』2007年 ・北広島市『北広島市史   資料編』2007年 ・ 北 海 道 建 設 新 聞 社『 風 雪 の 百 年   北 海 道 建 設 業 界 史 』 北 海 道 建 設 新 聞社、1970年 ・山口安五郎 『萬覚留』 (恵庭市郷土資料館所蔵) ・ 北海道大学編著 『北

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25 24 5 5 5 5 10 10 10 10 15 15 15 15 20 20 20 20 大百年史』 『札幌農学校史料』1980年 ・ 駅 逓 庶 務 課『 札 幌 縣 治 類 典   明 治 十 七 年 自 六 月 至 八 月   駅 逓   庶 務 課』 (北海道立文書館所蔵8713) ・ 林 嘉 男『 ふ た つ の 駅 逓 ─ ─ ク ラ ー ク 博 士 は 恵 庭 で 叫 ん だ ─ ─ 』 2 0 06年 ・郡司美枝 『興農富村 : 近代日本の稲作をめぐる農民の営み』 刀水書房、 2011年 ・『札幌新聞』一八八〇(明治一三)年八月十一日付 ・長谷川栄子『明治六大巡幸:地方の布達と人々の対応』2012年 ・ 恵 庭 昭 和 史 研 究 会『 百 年 一 ○ ○ 話   恵 庭 の 風 に な っ た 人 々』 1 9 9 7年 ・北海道庁編『明治天皇御巡幸記』1930年 ・『北海道旧郡役所取調書類』1883年/1930年 ・ 我 部 政 男 編『 明 治 十 五 年 明 治 十 六 年   地 方 巡 察 使 復 命 書 』 上 巻、 三 一書房、1980年 ・ 札 幌 県 勧 業 課『 札 幌 県 勧 業 課 第 二 年 報 』 1 8 8 3 年( 北 海 道 立 文 書 館所蔵) ・札幌県『札幌県統計書』1885年(北海道立文書館所蔵) ・開拓使『北海道志』巻四   大蔵省、1884年 ・松本十郎『農業篤志:中山久蔵翁事績』1907年

第二章

 

北海道庁時代の恵庭

第一節

 

北海道庁の設置と

拓殖政策の転換

北海道庁の設置 明治十八(一八八五)年十二月二十二日、明治政府はそれまで 政治を担ってきた太政官制を廃止して、内閣制度を創設した。 北海道では明治十五年二月八日に開拓使を廃止して札幌、 根室、 函館の三県を、翌十六年一月二十九日には農商務省北海道事業管 理局を設置し、三県一局体制を採っていたが、三県と農商務省北 海道事業管理局が互いに異なる方針をもっていたために両者が対 立し、開拓事業の停滞を招いていた。 このような状況は、北海道を視察した政府要人から相次いで批 判された。 明治十八年七月から十月にかけて参議伊藤博文の命で北海道を 視察した太政官大書記官金子堅太郎は、帰京後に「北海道三権巡 視復命書」を提出し、その中で「北海道三県ノ政務、及ビ管理局 ノ事業ヲ巡視スルニ、到底県庁及ビ管理局ハ之ヲ廃止シテ、更ニ 殖民局ヲ設置スルニアラザレバ、該道拓地殖民ノ大業、決シテ望 ム可カラザルノ状況ニアリ」と述べ、三県一局体制の廃止と北海 道「殖民局」の新設を提言している。 結局、明治十九年一月二十六日に三県と農商務省北海道事業管 理局が廃止されて、新たに北海道庁が設置、初代長官には岩村通 俊 が 就 任 し た。 金 子 が 提 案 し た「 殖 民 局 」 で は な く「 北 海 道 庁 」 と命名されたのは、井上毅の意見によるものという。 三月一日に開庁した北海道庁は、本庁に長官附、庶務課、租税 課、勧業課、土木課、会計課、警察本署、集治監、炭礦鉄道事務 所、紋瞥製糖所、農学校の各課が置かれ、函館、根室の両支庁に は庶務課、 租税課、 勧業課、 会計課と警察本署が置かれた。その後、 組織は何度か再編成され、明治三十年十一月二日の官制改革によ り、長官官房、内務部、殖民部、財政部、警察部、鉄道部、土木 部、監獄署という一房六部一署の体制となり、これが北海道庁組 織の原型となった。 漁村、島松村が属する千歳郡は、明治十三年の「郡区町村編制 法」施行以降、勇払外五郡役所の所轄となっていたが、明治二十 二年に札幌外四郡役所の管轄となった。 明治三十年十一月には全道の郡役所がすべて廃止となり、支庁 と警察署が設置され、千歳郡は札幌支庁の管轄となった。 北海道庁の拓殖政策 北海道庁が実施した開拓政策とは、 どのようなものであったか。 初代長官の岩村通俊は明治二十(一八八七)年五月、全道の郡 区長に施政方針を述べている。その要点は「北海道ハ創開ノ地ナ レバ、 内地同一ノ制度ニ依ラズ、 簡易便捷ナル方法ヲ以テ統治シ、 務メテ拓地興産ノ実業ヲ挙グルヲ必要トス」 (「岩村長官施政方針 演説書」 、『新撰北海道史』第六巻)というものであり、北海道は 内地と異なり 「創開ノ地」 であるため、 適当な政治を執り行い、 「簡 易便捷ナル方法ヲ以テ統治」し、拓殖事業を推進させるべきだと している。 岩村長官の政策は、開拓使時代の移民政策に見られる「直接保 護政策」に対して「間接保護政策」と呼ばれ、北海道庁が殖民地 を 選 定 し、 「 新 起 業 計 画 」( 明 治 十 九 年 )、 「 北 海 道 事 業 計 画 」( 二 十二年) 、「北海道殖民政策」 (二十四年) 、「北海道開拓意見」 (二 十 七 年 )、 「 北 海 道 十 年 計 画 」( 三 十 四 年 ) な ど の 拓 殖 計 画 を 相 次 いで企画し、道路、鉄道などの社会基盤を整備することで、本州 からの資本の進出を促し、開拓事業を進めようとするものであっ た。それは、岩村長官の「自今以往ハ貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植 エン。極言スレバ人民ノ移住ヲ求メズシテ資本ノ移住ヲ之求メン ト欲ス」 (『新撰北海道史』 第六巻) という演説からも確認できる。 北海道庁の土地政策 明治十九 (一八八六) 年に 「北海道土地払下規則」 が制定され、 こ れ ま で の「 地 所 規 則 」 に 代 わ っ て、 一 人 一 〇 万 坪( 約 三 三 ㌶) を限度に一〇年以内の期限で土地が無償貸与され、成功検査を受

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