日本における政党内閣の端初--隈板内閣の成立
著者
松岡 八郎
雑誌名
東洋法学
巻
9
号
4
ページ
1-33
発行年
1966-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00007845/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja日本における政党内閣の端初
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目 次 一 ま え が き 二政府と民党との抗争 三政府と民党との妥協│限板内閣の成立 四 む す び 日本における政党内閣の端初 松 岡j
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き
わが国の政党は、明治二三年(一八九 O 年﹀の第一回衆議院議員総選挙、立志自由党の結成および第一回帝国談会 の閉会から、二四年の落閥内閣と民党との激突、議会の終了と立芯自由党の自由党への改組の過程を辺じて、議会政 ( 1 ) 党として成立したのである。 ( 2 ﹀ だが、明治志法的制約││殊に超然内閣主義ーーのもとでは、このような議会政党が、政治の世界における其の主 体として活躍することはきわめて困難であり、したがって、第一議会以来、談会における在野諸政党リ民党と諸問内 閣との激突が重ねられたのであった。しかしやがて、日清戦争を契機として、藩閥勢力の妥協と後退により、民党を 主体とする内閣が初めて形成されるにいたった。それがいうまでもなく、コ二年の窓政党を基盤とする限板内閣であ る。この大限重信、板垣退助を中核とする内閣は、当初の芯気込みにもかかわらず、内外からする攻撃によって、き ( 3 ) わめて短命に終わったのであるが、わが国における政党内閲の端初としての芯設は大きいといわねばならない。しか しながら、この隈板内閣に関して、従来、その性格はかならずしも明確というわけにはいかないようである。あるい ( 4 ) ( 5 ﹀ ( 6 ﹀ は﹁怒法違反の内閣﹂であるといい、あるいは﹁不自然なる政党内閣﹂であるといい、あるいは﹁半身不随の内閣﹂ ( 7 ) ( 8 ﹀ であるといい、あるいは﹁政党内閲らしきもの﹂であるといい、あるいはまた﹁純然たる政党内閣﹂であるという。し (9) かも、この限板内閣の成立が、これ以後のわが国の政治に丞大な影響をもたらしたことからみても、この内問の性格を明確に把握することは、大きな意味があるのではなかろうか。 そこで本杭は、この限板内閣の成立と崩壊の過程を追求することによって、この内閣の性格を検討し直してみたい と思うのである。年代的には、明治二四年の松方内閣の成立から、=二年の限板内問の山政にいたるまでの間を取り 扱う。勿論、限板内閣が成立した直接の起点は、=二年六月の自由、進歩両党の合同による芯政党の結成と伊藤博文 の政権投出しにあるのであるが、このような状況をもたらすにいたったのは、それ以前の民党と誌閥勢力との激突か ら妥協にいたる結果であることを忘れることはできない。したがって、本杭においては、明治二四年の第一談会の終 了、談会政党としての自由党の登場以後、松方内閣の成立から稿を起したいと思うのである。 ( 1 ) 誌会政党として自由党が成立するにいたるまでの具体的な過程については、拙杭﹁大同団結起動と誌会政党の成立﹂ 日完﹁京洋法学﹂八巻二号を参照されたい。なおここに議会政党
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己とは、訟会主義政党を芯味 し、したがって、この政党の活動の主点は、主として院内の議事連首と選挙対策にある。 ( 2 ) ﹁明治怒法は内閣を誌会の基礎に置くことなく、いわゆる大根内閣もしくは超然内閣として規定し、談会は両院制度 であって、立族院には政党とその存立の基礎を具にする賞族、官僚、大地主等の分子をもって杭成せられ、絶えず衆訟院 を託制していたのであります。従って、この芯法的制約の下における政党の活動は、主として予試案および法作来の誌定 ならびに政府に対するところの行政監督を理由とする批判郎劾の程限しかなかったのであります﹂焔山政道﹁政党の研究﹂ 一 一 一 七 又 ハ 3﹀政党内問(司R
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﹀とは、読会、それも主として下院において多数を占めた政党もしくは諸政党を恭礎とし て成立し、存続する内閣をいう。すなわち、談会の信任を基礎として存立する内閣を誌院内閣(同J
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﹀というが、今日の誌会政治は政党を中心におこなわれ、談会における信任は、その議会において多数を占める政党 の支持にほかならないから、議院内閣は実質的には政党内閣である。﹁政治学事典﹂﹁政党内閣﹂の羽七六九│七七 O 日本における政党内閣の端初東 洋 法 学 四 頁 参 照 ま た 鈴 木 安 蔵 ﹁ 誌 院 内 閣 制 ﹂ ( 4 ) 同 義 武 ﹁ 山 県 有 朋 ﹂ 六 九 頁 参 照 ( 5 ) 弘田広術﹁五十年間内閣更迭史論﹂四八一ーーー四頁 ( 6 ) 徳 官 犯 一 郎 ﹁ 公 爵 松 太 郎 伝 ﹂ 乾 巻 七 九 六 頁 参 照 ( 7 ) 田中惚五郎﹁日本の政党﹂一 O 九 頁 参 照 ( 8 ) 林 田 屯 太 郎 ﹁ 日 本 政 党 史 ﹂ 下 巻 一 四 頁 参 照 ( 9 ) ﹁限板内閣の成立は、やはり重要な意味をもつことを否定しえないし、これ以後、伊藤は超然主義放梨を決芯し、山 県でさえ、その第二次の内閣においては憲政党との聞に﹃肝胆相照﹄仲を続け、さらに伊藤は自ら﹃恥闘の政党化﹄とし て政友会を組織し、桁も政友会との﹃情意投合﹄を策し、後に自ら立怒同志会を組織するに至るという一辺の動きは、い うまでもなく、政党が政治的統合の上に、次第に比重を大きくしていったことを意味するものに外ならない。にも拘ら ず、明治初期の段階において、地方政党から国民的規模での政党に成熟しようとしたとき下からのエネルギーと切脱さ れ、あるいは下からの政治化の途を阻止し、そのエネルギーの転換装置として天皇制絶対主義体制の統合の一手段とされ たということ、すなわち、外見的立憲制において深くおしつけられた体制政党としての刻印は、この過程でもぬぐい去る ことが出来なかった﹂。石田雄﹁近代日本政治構造の研究﹂一三四頁参照だが従来、限板内閣についての研究は低調 の よ う で あ る 。 ﹁ 公 法 研 究 ﹂ 七 号 参 B召 参照 政府と民党との抗争 第一議会の経過は、予算案をめぐって、超然主義を把持する山県内閣と経此節減、民力休援を椋扮する在野諸政党 佐派の切りくずしに成功して、 H 民党との聞に激突を生じたのであるが、この法問内閣は、予竹町衆に竹山しい削減をこうむりながらも、立志自由党土 ︿ 1 ) ようやく窮地を脱することができ、明治二四年三月七日議会は終了したのである。
この波測に満ちた第一議会が終了してまもなく、山県首相は対議会策に疲れ、また司法大臣山田顕義が商法施行延 ( 3 ﹀ 期に反対して閣内不統一 JU なるなどのために、四月九日辞職を願いいで、後任に伊藤博文を推小別した。伊藤はまだみ ︿ 4 ﹀ ( 5 ﹀ ずから首相になる時期ではないと考えて大命を固辞し、西郷従道、松方正訟を推した。だが西郷も辞退し、ついに松 ハ 6 ) 方が引き受けざるをえなくなり、元老に後援の約束をとりつけて、五月六日、内閣総短大臣に任ぜられた。ところが ハ 7 ﹀ その直後、五月一一日、当時来朝中の露国皇太子ニコラユが大津にて巡査津田三蔵のために傷つけられるという事件 ( 8 ) が発生して、朝野の大問題となったため、松方内閲は六月一日にいたってようやく陣容を整えることができた。 操 縦 し た た め 、 この内閣は、二流の人物をあつめたものといわれ、松方の統制力が弱く、その背後に元老があって、哀面において ﹁黒幕内閣﹂と称されたが、山県有朋が腹心の品川弥二郎を内務大臣として送りこんでおり、戦闘的 なことでは前内閲をしのいでいた。だがこのため、閣内の統一を欠くにいたったので、民林大臣陸央宗光の発案によ ︿ 日 ) り、﹁政府ノ根基ヲ堅ク久ル﹂ために、閣内の意見統一、談会および世論の操縦の目的をもって、八月二一日、﹁内 閣議決苔﹂と﹁内閣規約﹂を定め、その実施機関として内閣に政務部を設置し、八月一七日、陸央政相をその部長と して発足した。ところが、部長の権限が、内閣政略の計画を調査したり、各政党の情況を査察したり、各省大臣が外 部に芯見を発表せんとするときはあらかじめ政務部長と協議しなければならなかったり、政府の一一一口論機関を統粘した りするなど、その権限がきわめて大きく、その上、陸奥がその程限を強引に実行したので、閲兵の問に不満がひろが ( 日 ﹀ り、各省は部長の統制に服さなかったため、陸奥は九月一四日辞表を提出してしまった。後任には松方首相自身が就 いたが、首相みずからが部長となるのであるならば、別に政務部を設ける必要もないのであり、したがって、松方が 日本における政党内閣の端初 王
東 洋 法 悼' -寸ー -'- -ノ、 部長に就任したとき、政務部は事実上消滅したといってよく、そのあとには、悶内の不統一だけが残された。また内 松方はそれを統制する力をもたず、 悶は対談会策についても芯見の一致を欠き、殊に絞和策をとる陸奥と強硬策をとる口問川との間に確執が生じ、しかも ( 日 ) 一時、内問が分裂せんとする勢いすら示したが、結局、強硬 一
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月末ごろには、 派にひきずられて、第二議会を迎えたのである。 他方、これにたいする在野諸勢力 H 民党の状況はどうであったろうか。第一議会終了後、立窓自由党は三月二O
日 大会を聞いて、第一議会を通じて乱れた内部の結束を確保し、板垣を総理に推して、党名も自由党と改めたが、さら に 一O
月一五日には通常大会を閃いて、第二談会に臨む基本的政策ーーー第一談会のときと同じく民力休養、経質節減 を基木とするーーを決定するとともに、党則を改正して、院内党只佼位、代議士中心の談会政党を打ち出したのであ ( 日 ) った。このような自由党の変貌は、今度こそはと院内党只の団結を要請し、ひいては改進党との捉拐を促すにいた ︿ 山 内 ) る。一一月八日、中江兆民の斡旋によって、当時、枢密顧問官であった大阪を板垣が訪ねて会談し、ここに改進党と ( げ ﹀ ︿ 日 目 ﹀ ︿ω
﹀ 自由党との提携が成立した。これをみて政府は大限を免官したが、かえって民党の団結を刺戟したのである。かくて 政府と民党とは再び激突せんとする状況のもとで、第二議会は閃かれた。 明治二四年一一月二一日、第二帝国議会は召集された。松方首相は施政方針演説において、和極主義を摂務し、国 ( 初 ) 力の許すかぎり、国防と国家経済のための事業を推進しなければならぬと説いた。これにたいして民党は、前述のよ 面衝突となり、諒問芯識を露骨にあらわした海早大臣作山資紀が、 うな消極主義日民力休養、経質節減の立場に立って政府を追求し、予釘奈の削減に立ちむかつた。かくては政府と疋 ( 幻 ) いわゆる﹁訟男玖説﹂を行なって、院長政府の功績を誇示したことなどもあり、民党の攻勢に泊をそそぐこととなって、 ついに衆議院は政府党の抵抗にもかかわら ず 、 一二月二五日、明治二五年度予算原案の歳出額を、合計八百九十二万五千四百三十五円削減して可決してしまっ ( 幻 ) た。そして同じ日、この可決にもとずき、衆議院が怒法六七条の規定にかかる歳出の廃除削減について政府の同窓を ついに衆議院の解散がわが国において初めて断行されたのである。 求めんとしたとき、 第二回総選挙は、明治二五年二月一五日と定められ、松方内閣のもとで行なわれた。当初、この選挙にたいする政 府の態度についても、間内の窓見が一致せず、品川内相は、反対党の選出をできうるかぎり阻止するため、あらゆ る手段を尽して干渉を加えるべきだとして強硬論を主張し、これに仲山海相、高島陸相が賛成したが、陸央良相と後 藤活相は、このような干渉は立憲政治の本義にもとるとして極力反対した。だが松方首相はこの不一致についても ︿ 日 ) 裁断することができず、結局、品川らの強硬論に大勢がひきずられていった。これにたいして、伊藤枢密院議長は、 強硬策をもってしても到底民党を押えることは不可能であるとして、 一 月 一 一 一 一 日 に は ﹁ 博 文 自 ラ 職 ヲ 辞 シ テ 民 間 ニ 下 リ、大成会(釘一読会以来の政府党)ヲ基礎トシテ、天皇主権ノ大義ヲ標務スル一政党ヲ組織シ、自由民権主義ノ党派 ヲ圧倒シテ内閣ヲ援クルノ外ナシ﹂と奏上し、みずから政党を組織するの決意を示したが、天皇ならびに山県、黒 田、井上らの元老の反対をうけ、断念せざるをえなかった。この問、品川内相および内務次官白根専一を中心として 未目有の選挙大干渉が行なわれた。もっとも干渉の甚しかったのは、高知、佐賀、熊本、石川、宮山、福島の諸県で あり、このため政府党の壮士と民党の壮士との間にしばしば流血事件さえ惹起するにいたったが、これほどの大干渉 をもってしでも、二月一五日の選挙の結呆、 政府党は過半数を制することができず、民党(自由党九四名、改進党三八 日 本 に お け る 政 党 内 問 の 端 初 七
東 洋 法 学 八 ( 幻 ﹀ 名)は解散時にくらべ減少し、また多くの有力者が落選したものの、依然として優勢であった。 このような干渉は、選挙後、当然政府にたいする内外からの激しい反援をもたらした。内からは、伊藤が干渉の責 ( 勾 ) 任を追求し、また、後藤、陸央も強硬に関係した官吏の処分を主張したため、三月一一日、品川内相は干渉の買を 負って辞職し、副島穏臣がその後任となった。また一四日にはこの内閣に不満をもっ陸奥も内閣を去り、河野敏鎌 ( m U ﹀ が後を継いだ。かくては﹁牙を抜かれた虎よりも憐れな姿で﹂松方内閣は第三議会に臨むことになったのである。だ が﹁忠誠篤厚の士﹂である副島内相は、就任とともに板垣や大限と面談し、政府と民党との融和につとめたが、 ( 叩 ) 底、民党の反対をおさえることはできなかった。五月二日、第三談会が閃かれると、民衆両院を通じて選挙干渉が大 ( 幻 ﹀ 問題となり、選挙に関係のなかった貴族院ですら、一一日には﹁選挙干渉処分の建議案﹂を可決して政府に迫った。 ( 幻 ﹀ ( m ω 一 ) 衆議院においては、星享が議長に選ばれ、一二日には﹁選挙干渉に関する上奏案﹂が河野広中(自由党の院内における ilj 総裁代理)らによって上程され、 上奏という方法のためにこの上奏案に反対するものがあり、 一四日には緊急動議として﹁選挙干渉に関する決議案﹂を提出してこれを可決し、 結局わずか三票の差を もって否決されたが、 ﹁ 内 閣 大 臣 は宜しく反省してその責に任じ、自ら処決する所無かる可からず。﹂として政府に肉迫したのである。松方首相はこれ にたいし、﹁国務大臣は議院の決議に由りて逃返すべきものにあらず﹂といい、決訟を無視し、 (お) 日間の停会を命ぜられた。また追加予算案についても民党は政府案を大いに削減して民族院に回附したが、貴族院が 一六日には談会は七 これを復活したため、衆議院と貴族院の街突を招き、結局、両院協議会が聞かれて、平艦製造立を削除するに決定 ( お ) し'第三議会は六月一五日終了したのである。かくて松方内閣は民党の激しい攻撃にもかかわらず、ようやく議会を
( 幻 ﹀ 乗り切ることができたのであるが、この問、六月五日副島内相が閣内において議あわずして辞職し、内閲は一回安定 を欠くにいたった。 談会終了後、松方首相は談会の結果に照らして、 一たん辞訟を表明したが、これからひるがえし、七月一四日内務大 臣の後任として河野良商務相をあてた。河野は就任早々、選挙干渉の武任を問うて白根次官を免職し、 ついで選挙干 渉の地方長官数名を転免職したため、高島陸相、梓山海相はこれを不満として二七日辞職し、これがため陸軍大臣、 ( お ) ( 鈎 ) 海軍大臣を得ることができず、ここにいたってついに七月三
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目、松方は辞表を提出し、自滅せざるをえなかった。 以上みてきたように、松方内閣は直接的にはそれ自身の不統一によって崩壊したかのようであるが、その不統一をも たらしたのは、松方のリーダーシップの欠如もさることながら、主として民党の選挙干渉にたいする攻撃であったの である。したがって、﹁松方内閣の瓦解は、藩閥の権威も終に輿論の勢力に敵する能はざる実物的教訓を吾人国民に ハ 羽 ) 与えたるものにあらずして何ぞや﹂と評される所以である。 松方内閣崩壊後、元老会議の結果、八月五日大命が伊藤に降下し、伊藤は﹁元勲総出﹂を条件として引き受け、八 日伊藤内閣が成立した。この内閣は山県有朋(司法大臣)、黒田清隆(逓信大臣)、井上馨(内務大臣)、 大臣)の諸元老を網羅していたので元勲内閣と称され、また陸央宗光が外務大臣となり、後藤象二郎(良商務大臣)と ( 幻 ﹀ ﹁当時の落問政府としては、並べうるほとんど最善の顔触れ﹂であり、 大山巌(陸軍 河野敏鍬(文部大臣)とが前内閣から残留し、 ( 門 別 ) 依然として超然主義を堅持していた。 これにたいして民党側の動きはどうであったか。自由党は、第三議会の終了後、七月二五日、長文の﹁自由党政務 日本における政党内閣の端初 九東 洋 ( H H ) 調査の方針﹂なるものを発表し、 (MM ﹀ を以て自ら任ずる者なり。﹂として第一議会以来の民党が、諮問打倒のため、ややもすると国家の進展に必要な事業まで ハ 必 ) も否認してきたことを反省して、建設的方針 U 積極主義を打ち出したのである。このような自由党の政策の変化は、 (幻) 政府の歓迎するところであったが、同じ民党たる改進党はこれを批判し、ために両党聞に確執が生じた。また大井窓 (MM) 太郎一派は自由党にあきたらず、脱党して一一月六日東洋自由党を結成した。このように民党の足並みはかならずし 法 学
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﹁我党は消極の改革を以て自ら足れりと為す者に非ず。米て和極の事業を経営する J 山 u ι 川 フ ﹁ 品 、 っ こ : 、 , 耳 、 恥 針 、 立 4J , 刀 中 i , 刀 ﹁元勲総出の法問内閣﹂を前にして、これと雌雄を決せんとする態度をとるにいたった。 第四議会が明治二五年一一月二五日召集されるや、伊藤負傷のため井上首相代理となり、従来の政策と変らない施 政方針演説を述べたが、この議会においても明治二六年度予算案の審議をめぐって激しい対立がおこった。自由党は さきに積極的方針に転じたけれども、勿論法問政権打倒方針を拾てたわけではなく、院内総理河野広中のもとに団結 し治)したがって民党は、民力休養、経費節減の方針のもとに、政府の予算案より八百七十万八千二百七十二円の削 減を可決し、政府の同意を求めたが、政府は同意せず、かくて三皮同意を求めたが、政府の承諾するところとなら ( 印 ) ず、衆議院は五日間休会した。この間政府はなんのなすところもなく休会期が終わり、明治二六年一月二三日、民党 ( 日 ) は最後の手段として内閣弾劾上奏案を提出し、河野広中提案者としてまさにその理由を説明せんとしたとき、衆議院 は、二月六日まで十五日間の停会を命ぜられた。二月七日前記郎幼上安来が可決され、その後衆議院は休会に入っ ( 臼 ) いわゆる﹁和衷協同の訂勅﹂であり、政府と議会とが﹁和協ノ道﹂ 一O
日、最後の答が詔勅となってあらわれた。 た 。 に進むことを要望するものであり、天皇がみずから製舵引の初足として六年間毎年三十万円出し、かつ官支に六年間俸給の十分の一の供出を命じ、それと交換に衆議院の向調を望んだのである。かくて局面は一変し、政府と民党との 妥協のうちに、三月一日をもって第四議会は終了した。政府は、天皇の立志をもち出すことによって、民党を日伏せ ハ 臼 ) し め た の で あ る 。 以上、第四議会終了までの政府と民党との街突の状況についてみてきたのであるが、前にも述べたように、自由党 はその政策をようやく転投して、政府の政策に接近せんとしてきたのであるが、これにたいして改進党は批判を加え、 すでに二五年一一月一二日改進党の島田三郎は、自由党の秘極的方針に批判を加え、二六年一月七日には星写が改進 ( 日 ) 党を攻撃の演説を行ない、これにたいして二月五日発行の改進党の﹁党報﹂第三号は星攻撃を行ない、両党問の捉抗は 共同の敵
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閥落政府を前にして冷却していった。かかる確執を一回決定的なものとしたのが、条約改正問題であっ た 。 すでに第四談会中、自由党と改進党とは条約改正に関する上奏案を提出し、付治外法松を撤去すること、同税松を 回復すること、国沿岸貿易を禁止すること、同内地雑居の自由を認むるも一定の条件の存すること、同土地及鉱山鉄 窓 太 郎 ら は 、 道等の所有を禁ずること、などの項目を示した。これにたいして、内地雑居に反対する神鞭知常、安部井磐根、大井 ﹁内地雑居研究会﹂を設け、さらに二六年一O
月には規模を拡大して﹁大日本協鈴を組織し、条約改 正は必要であるが、その代償として外国人に内地雑居を許すがごときは国辱であると主張し、さらに現行条約中には、 これを条文どおり励行すると、外国人に不利なこともあり、したがって励行すれば、外国の方から改正を求めてくる ( 町 ) であろうとして条約励行論を唱え、千島艦訴訟事件をめぐっても世論を扇動した。このような国枢主義的主張にたい 日本における政党内閣の端初東 洋 法 悼 f. 寸一 (日) して、従来政府党と目されていた﹁国民協会﹂もこれに賛同し、また改進党さえも第四談会における条約改正上奏の ハ 臼 ) 際の意見を変え、大日本協会と提抵するにいたり、ここに対外問題をめぐって強硬策をとる大日本協会を中心とする 連合派がうまれ、これを対外硬派と呼んだ。このように改進党はついに自由党と扶をわかっにいたったり、かくて落 閥政府を前にして民党は分裂し、自由党は孤立した。 明治二六年一一月二五日、第五議会が召集されると、その回目頭から波測が起った。すなわち二九日、談会の主導権 をにぎった対外硬派によって星議長不信任が提案され、これが可決された。星は辞職せず、頑強に抵抗したが、つい に一一一月一三日議員を除名されるにいたり、星自身も脱党い問。またこの星の態度に反対する自由党の代議士一七名 (日﹀ も脱党し、自由党はまずまず孤立した。ついで対外硬派は、その矛先を後藤良商務相にむけ、二一月四日、官紀振粛 上奏案を可決したため、後藤はみずから責をおって職を辞した。さらに対外硬派はそのもっとも主張する条約励行廷 議案を一九日提出し、安部井磐根が提案理由を説明し始めたとき、衆議院は一
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日間の停会となった。二九日、ふた ︿ 臼 ) たび建議案が議事日程に上り、陸奥外相は条約励行来反対の演説を行ない、その直後、ふたたび衆議院に一五日間の 停会が命ぜられ、 つ い で 三O
日には解散となった。政府がこの辺訟の成立を阻止するための解散であったが、政府は ( 叫 ﹀ 解散理由を明確にしようとしなかった。 第三回総選挙は、明治二七年三月一日、比較的平穏のうちに挙行された。選挙の結果、自由党は八一名から一一九 名に増加し、対外硬派たる国民協会は入O
数名から二六名に減じたが、依然として対外硬派は合計一二五名の比較的 多数を占めたのである。したがってその勢いは強く、五月八日には江京中村松に対外硬派の大懇親会が閃かれ、集まるもの一五
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名、﹁本集会は強硬的対外政略を執り、且つ責任内閣の完成を期するものとす﹂と決議し、大いに反 (“) 政府の気勢を挙げた。これにたいして自由党はあくまで、﹁条約励行案に反対する﹂との方針を固守した。第六該会 ( 訂 ) 一六日伊藤首相は施政方針演説を行ない、衆議院にたいして条約改正問題について政治休戦 は 五 月 一 一 一 日 召 集 さ れ 、 を申し入れると同時に、他方においては解散をほのめかし、衆議院を脅迫したのである。これにたいして衆議院は居 せ ず 、 一七日第五談会解散否認の決議を行ない、三O
日には内閣科劾の上奏案が提出され、大井窓太郎采も自由党案 もともに否決されたが、妥協案たる条約改正上奏宗は可決された。だが天皇の採用するところとならず、六月二日、 衆議院はまたもや解散された。このように政府と対外硬派とが激しい街突を重ねていたとき、またそれに加え朝鮮の 問題をめぐって治国にたいする世論が硬化していたとき、日清戦争が勃発したのである。 以上みてきたように、第四議会までは、自由、改進両党が足並みをそろえて超然主義を椋拐する政府に集中攻撃を あびせ、政府をして窮地におちいらしめたのである。それ以後、条約改正問題をめぐって国権主義的主張をする対外 硬派が接頭し、改進党さえ自由党と提携を断絶してこれに加担し、対外硬派は大いに政府に肉迫した。自由党は衆議 院において孤立し、比較的、政府寄りの立場をとったが、まだ公然と政府と手を結ぶにはいたらなかったのである。 いうまでもなく、これまでの政府の対議会策は、選挙干渉と解散と停会をもって特徴づけられ、第六議会までは、い わば政府と民党との抗争の時代であったといえよう。 ( 1 ﹀ ﹂ の 議 会 の 経 過 に つ い て は 、 拙 稿 前 掲 を 参 照 さ れ た い 。 日 本 に お け る 政 党 内 閣 の 端 初東 洋 学 法 四 ( 2 ﹀この詳細については、中村菊男﹁近代日本の法的形成 l 条約改正と法典絹築(新版)﹂一三二五参照 ( 3 ﹀山県内閣の対話会策について、伊藤が批判し、しかも伊藤自身は傍観をつづけたため、山県は仙沼にたえず、伊藤を 後任に推隠したといわれている。藤村道生﹁山県有朋﹂一四三頁参照 ( 4 ) 容 畝 公 追 矧 会 ﹁ 伊 藤 博 文 伝 ﹂ 中 巻 七 五 二 頁 参 照 ( 5 ) ﹁当時は薩長の勢力均衡という考が、まだ甚だ盛んなころであアた。今から思ふと滑穏なゃうであるが、最初の内問 が長州の伊藤、次が一陪摩の黒田、それから長州の山県が内閣をつくって、それが倒れたのであるから、次はどうしても院 摩でなくてはならぬ﹂(尾崎行雄﹁日本憲政史を語る﹂上二二七頁﹀というようなことから、西郷か桧方かということ になり、西郷は﹁不肖の今日あるは兄隆盛の庇誌に頼るのみ、自ら内閣総理大臣たるが如きは思いも寄らざる所なり﹂(﹁伊 藤博文伝﹂中巻七五三頁)として辞退したのであった。 ( 6 ) ﹁伊藤博文伝﹂中巻七五三
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四頁参照この結果、伊藤は枢密院議長となった。 ( 7 ) 大津事件または湖南事件という。露国皇太子は、ウラジオ九トックにおけるシベリア鉄道起工式に臨むため、軍艦で 極東にきて日本に立ちょった。新りつけた津田は、皇太子が日本を征服するために、地理、形態をさぐりにきたものと考 えていた。当時、国桂主義者の問では、そのような宣伝がなされていた。政府は、この事件がロシアの怒りを只うのを恐 れ、津田を死刑にするよう大審院にひそかに命じた。しかし法律では、津田の罪は死刑に相当しないので、大容院長児島 惟誌は、政府の干渉をしりぞけて、司法桂の独立を守りとおし、津田を無期徒刑にした。 ( 8 ) その閣員は、内閣総理大臣兼大蔵大臣松方正義、陸平大臣高島判之助、外務大臣校本武拐、文部大臣大木存任、司法 大臣田中不二底、内務大臣品川弥二郎、逓信大臣後藤象二郎(留任)、 m以内務大臣陸奥宗光(印任)、出叩大臣制作山資紀(留 任 ) 、 で あ っ た 。 ( 9 ) 元老というのは、なんら官制に定めがあるのではなく、﹁共の首相の成虫足らずと云うの故を以って、閣外の元老、伊 一除、井上、黒田、山県等の諸公相協力して之を庇設するの約束を結びたれば也﹂弘田町術的判=二四瓦参照そし て﹁俗に之を黒幕内閣と称す﹂ (叩)前日省三﹁日本政党政治の史的分析﹂二五 l 六 頁 ( 日 ) ﹁ 伊 原 博 文 伝 ﹂ 中 治 七 七 六 l 八 日 参 照 参照(ロ﹀﹁内閣誌決書﹂および﹁内閣規約﹂の全文については、﹁伊藤博文伝﹂中巻 (日)当時、陸央の秘書官であった原敬の﹁原敬日記﹂新版一巻一八二一品参照 ( M ) ﹁ 原 敬 日 記 ﹂ 一 巻 一 八 三 頁 参 照 (日﹀日脳会政党への脱皮については、拙稿前拘参照 (凶)中江兆民は、第一議会における立窓自由党の土佐派のお切りによる間態をみて、話日を辞限し誌会を﹁無血虫の陳列 場﹂(﹁兆民選集﹂︿岩波文庫版﹀二 O 五頁参照)と評して見限ったが、自由、改進両党の捉仰の必要を認め(幸徳秋水 ﹁兆民先生・兆民先生行状記﹂︿岩波文庫版﹀一二瓦参照)、﹁俗論党と臨も、一年三百六十日時々刻々俗論を吐くも のに非ず、折々は活椴に応ずることも有るものなり、其瞬間は吾人の友聞なり、﹂(﹁兆民退位以﹂二 O 六瓦参照﹀として、 板垣と大限の問を斡旋したのであった。 (口)﹁大限侯八十五年史﹂二巻一八四│五瓦参照だが具体的な問題についてなんの話し合いも行なわれず、ただ旧 交 が 温 め ら れ た 。 (日)政府は、﹁大阪が枢密顧問官として最高諮問の主賊に居るに拘らず、公然政府反対党の首領板垣退助と会見するが如 きは、官紀奈乱の太甚しきものなり﹂(大津淳一郎﹁大日本定政史﹂三巻六二二頁)として免官したのであるが、この 際にも陸奥と品川との問に処分をめぐって議論が対立したが、強硬派たる品川の説に押しきられたのである。﹁大限俣八 十 五 年 史 ﹂ 一 八 五
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六 頁 参 照 (叩)たとえば一一月一七日、﹁第二話会の閉会に先だち、民党代議士聯合怒親会を閃くや、来り会するもの、百五十余名。 自由党と分離したる自由倶楽部の一団も亦た之に参加せり。﹂大津淳一郎前掲三巻六二三頁 ( 却 ) 施 政 方 針 演 説 の 詳 細 に つ い て は 、 大 津 淳 一 郎 前 掲 三 巻 六 二 五l
七 頁 参 照 (幻﹀倖山は﹁維新以来、内外の多難に一回ち得て、帝国の今日あるを致したるものは是れ誰の力ぞ。世に所詞る院長政府の 力に非ずや。﹂と放言した。大津淳一郎前拘三巻六三七 l 八 頁 参 照 (幻﹀﹁大日本帝国憲法第六十七条憲法上ノ大桂ニ基ツケル既定ノ歳出及法律ノ結果ニ由リ又ハ法律上政府ノ義務ニ属ス ル歳出ハ政府ノ同意ナクシテ帝国議会之ヲ廃除シ又ハ削減スルコトヲ得ス﹂ ( お ) 政 府 の 解 散 理 由 に つ い て は 、 大 津 淳 一 郎 前 掲 三 巻 六 五 回 ! 六 頁 参 照 一 O 四 八 │ 一 O 五 九 一μ
IKt 政府は解散の買を、衆議院の予算削減 日本における政党内閣の端初 一 五東 洋 法 学 一 六 に 帰 し て い る 。 ( M ) ﹁ 伊 藤 博 文 伝 ﹂ 中 巻 八 一 六 頁 参 照 ( お ) ﹁ 伊 藤 博 文 伝 ﹂ 中 巻 八 二 二
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三 頁 参 照 (お)この大干沙の模様については林田亀太郎﹁日本政党史﹂上巻三三五 l 七 頁 参 照 (幻)第二読会開会時においては、民党は一六一名、(自由党九二名、改進党四四名、自由倶楽部︿釘一議会において自由 党より脱党したものの団体、これも一一一月には河野広中らの斡院によって自由党へ復帰した﹀二十五名)であって過半数 を 制 し て い た 。 林 田 亀 太 郎 前 掲 三 三 O 頁参照それが選挙の結果、民党は二三一名に減じ、過半数をとることがで きず、このため中立(準民党)たる独立倶楽部がキャステング・ポ l トを握ることになった。例えば、話長選挙において 星享が選ばれたのは、この結果であ?に。前団連山﹁自由民権時代﹂四四九 l 四 五 O 頁 参 照 こ の 選 挙 に お い て 、 自 由 党の片岡健吉、林有造、竹内網、大井憲太郎らの有力者が落選した。 ( お ) ﹁ 伊 藤 博 文 伝 ﹂ 中 巻 八 三 二 頁 参 照 ( 却 ﹀ 尾 崎 行 雄 前 拐 上 二 五 二 一 良 ( 叩 ﹀ 林 田 亀 太 郎 前 掲 上 巻 三 五 一 一 良 参 照 ( 幻 ) 全 文 は 大 津 淳 一 郎 前 掲 三 巻 六 八 九 頁 参 照 (ロ)星享が議長に選ばれた経過については、中村菊男﹁明治的人間像│星享と近代日本政治﹂二ニ九 l 一 四 三 頁 参 照 星は友人岡崎邦柿(独立倶楽部八三月辞職した陸央が、和歌山県選出の新議員全部を自己の配下に結束し、これを主力と してつくった団体、陸央は表面にでず、親戚にあたる岡崎をしてこれをリードせしめていた﹀)の策動により、自由党の 議長候補河野をしりぞけて議長に当選した。 ( お ﹀ 大 洋 一 汗 一 郎 前 掲 三 巻 六 九 四 │ 五 頁 参 照 。 ( 出 ) 大 津 浮 一 郎 前 掲 三 巻 七 二 一 一 良 参 照 ハお﹀﹁作会ハ会期中一時議会ノ誌一平能力ヲ停止スル行為ナリ。作会ハ十五日以内一定ノ則川ヲ定メ訓告ヲ以テ之ヲ命ズ。﹂ ﹁停会ヲ命ズルノ目的に付テハ法律上ノ制限ナシト雌モ、認会ト政府トノ芯凡ノ術突アル坊合ニ於テ一時議事ヲ中止セシ メテ議会ノ反省ヲ促シ又ハ共ノ問ニ立川心ノ疎通ヲ以ラント﹃ハルヲ通常ノ羽合トス。﹂災以部述古﹁位法悦要﹂三六 O 瓦参 照 (お﹀窓法六十五条﹁予算ハ前ニ衆議院ニ提出スヘシ﹂をめぐる疑義についての対立となった。この経過については、大津 淳 一 郎 前 掲 三 巻 七 二 六 │ 七 三 三 頁 参 照 (幻)副島内相と白根次官との対立であった。 (お)﹁海陸軍の武官、扶を連ねて、松方を訪い、若し土濯の士に党して、阪市の代表者たる柿山、高島の二人を蹴首する に於ては、我等は断じて陸海平の大臣を出さしめずと有成するに至れり、日松方も遂に共の内問の維持しがたきを思い、七 月 三 O 日怠を決して、辞表を呈出するに至れり。此の陸海軍武人の器開的思想を以て、大官の任免を強迎し、成圧を政権 授 受 の 上 に 加 ふ る に 至 り し は 、 元 よ り 旧 き 引 に 印 刷 す と 雌 も 、 白 円 什 一 公 然 、 岱 一 向 悶 歩 し て 、
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色 決 一 一 一 一 口 、 共 の 平 間 的 私 陛 を 、 政 務の上に胞にするに至りしは、益し比の時を以て附矢となす也。﹂弘田直街﹁五十年間内閣更迭史論﹂三三三l
四 瓦 (鈎﹀この秘方辞任の経過については、﹁伊藤博文伝﹂中巻八四七│八六 O 頁参照﹁松方内閣は満身に創践を負いな がら、辛くも臨時議会を切り抜けて、陥り付主義の醜態を演じながら﹂﹁まるで行倒れのやうに倒れてしまったよ尼崎行 雄 前 掲 上 二 五 五 頁 参 照 ( 却 ﹀ 大 津 淳 一 郎 前 掲 三 巻 七 四 八 頁 ( 叫 ) ﹁ 伊 藤 博 文 伝 ﹂ 中 巻 八 六 四 頁 参 照 ( 位 ﹀ 尾 崎 行 雄 前 掲 上 二 五 七 頁 ハ必)九月一三日、地方長官を召集し、施政方針および選挙干渉の善後策を訓示した際、伊藤は政党政治を否認し、党派の 外に超然として、いずれの党派にも偏せざる旨を述べている。大津淳一郎前掲三巻七五二│三頁参照 (叫)この政務調査方針の形成過程については、﹁河野持州伝﹂下巻二 O 八│一一一一頁参照この方針を作成するに あたって、河野は、﹁政務調査局﹂を組織し、主幹に桧田正久、理事に栗原一見一、桜井駿、委員に蒲生仙、武官時敏、官 了法、堀内賢郎、宇都宮平一、牧野照て高津仲次郎、杉村克正、中島又五郎を任じた。この方針は、総論、第一条内 治は地方自治に基くべき事、第二条外交は信義友愛を旨とする事、第三条軍備は自衛防禦を主とする事、第四条財 政は節倹を旨とし民力に適すべき一手、第五条保護は公衆の利益を主とすべき事、第六条教育は自由制度に由るべき事、 第七条司法の独立を詰聞にする苧、第八条交通の使利を関連する事、第九条立法の枢限を拡張する事、以上の網目 日本における政党内閣の端初 七東 洋 法 学 八 よりなっている。全文は、﹁河野控州伝﹂ (必)﹁河野磐州伝﹂一二三│四頁 (必﹀一一月一五日の自由党党大会における板垣退助の演説にも、﹁我党は始め先づ消極的に改革を送げ、然る後新設の亭 に及ばふと云ふ﹂方針を述べている。またこの演説で板垣は、国民生活、国民教育、外交、回防問題を政党の争いの外に 置きたいと述べている。大久保利詩編﹁近代史史科﹂二七五│六瓦参照 ( 門 別 ) 林 田 屯 太 郎 前 拘 上 巻 三 八 O i 一 一 良 参 照 (羽﹀東洋自由党の結成過程については、平野義太郎﹁民程運動の発展﹂一四五l一七五頁参照大井は脱党届のなか で、﹁不肖をして自由牢の別倒隊たらしめよ﹂と述べ、﹁京洋自由党組ねの趣旨﹂は﹁余註が草新的運動の方針は主とし て対外の大政策を廷で以て国際的競争場担に立つにあり﹂としている。だがこの党に参加した代議士は五名にすぎず、大 井自身この時は議席を有しなかった。
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﹀ ﹁ 河 野 鰐 州 伝 ﹂ 下 巻 二 三 七 │ 二 四 四 頁 参 照 (印﹀﹁休会ハ各議院ニ於テ自ラ其ノ会議ヲ休止スルヲ詔フ。会期中休会ヲ為スコトハ各院ノ凶怠ナリ﹂美浪部達古前拘 三六一一良参照 ( 日 ) 大 津 淳 一 郎 前 掲 三 巻 八 二 O │ 二 一 良 参 照 ( 臼 ) 全 文 は 、 大 津 淳 一 郎 前 掲 三 巻 八 三 一 ー ー 三 頁 参 照 (臼)林茂﹁初期談会と国民﹂岩波詩座﹁日本歴史﹂一七巻八六頁参照 (日﹀中村菊男前掲二ハOl三頁参照星の背後には、陸奥がありといわれ、これが星議長排斥問題に発展したとい わ れ て い る 。 ( 日 ﹀ 大 津 淳 一 郎 前 拘 四 巻 九 三 l 六 瓦 参 照 (回)大日本協会の設立趣意書によれば、その主張の基本的立場は国極論であり、伊限内問の欧化主誌を接調とする軟弱外 交に反対するものである。この主張が当時の保守的勢力と巧みに結びついたのである。趣芯舎の全文は、大津淳一郎前 掲 四 巻 一o
ー一一良参照 ( 貯 ﹀ 林 田 屯 太 郎 前 掲 上 巷 下 巻 一 一 一 一 ! 二 二 八 頁 参 照 三九七│八瓦 参照(臼﹀囚民協会は、釘二議会解散後の選挙で品川内相の大選挙干渉に助けられて当選した代議士約七 O 名よりなり、山県有 朋を
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諒とし、品川が指導し、西郷従道を会頭として、明治二五年六月につくられ、国松主義を椋拐し、国松の拡張を目 的とするものであった。第四談会までは政府のもっとも頼る与党であったが、山県が伊限内閣にあきたらず、第四議会凶 会後、司法大臣を辞して枢密院議長になってから、反政府にまわった。井上前﹁条約改正﹂二 O 九 一μ
参照 ( 印 ) こ の 間 の 亭 情 に つ い て は 、 尾 崎 行 雄 前 掲 上 二 七 三l
四瓦参照改進党は、政党内閣を武任内閣、条約励行を 自主的外交と改めることを条件として、捉拐に参加した。 ( ω ) 中 村 菊 男 前 掲 一 七 四l
一 八 八 頁 参 照 ( 日 ) 大 津 淳 一 郎 前 掲 四 巻 二 六l
七頁参照後藤が商人の招主に出府し、指路次官がかれらの贈り物を受領したの は、官紀奈乱であると責めたのである。これにたいし天皇は﹁国務大臣ノ進退ニ至リテハ、一ニ朕カ心哀ニ存ス﹂との勅 語 を 下 し た 。 ( 位 ) 大 津 淳 一 郎 前 掲 四 巻 三 五 頁 参 照 ( 臼 ﹀ 大 津 淳 一 郎 前 拘 四 巻 三 六 頁 参 照 陸 奥 宗 光 ﹁ 楚 々 録 ﹂ ( 岩 波 文 庫 版 ) 九 七 l 八 瓦 参 照 (川凶﹀解散について政府はなんらその理由を明らかにしなかったので、かかることは非立志的行為なりとして、武族院に忠 告 述 勤 が 起 っ た 。 大 津 淳 一 郎 前 掲 四 巻 四 五 l 六 六 頁 参 照 (閃)ただ大混乱をおこしたのは、星辛の出馬した栃木県第一区であった。星は衆議院を追われ、自由党を脱党したにもか かわらず、ふたたび立候補し、大日本協会の横堀三郎と争い、接戦のすえ当選した。林田屯太郎前掲上巡回二 O 頁 参照 (侃)林田也太郎 ︿訂﹀大津淳一郎 前 前 掲 拐 日本における政党内閣の端初 上巻 四 巻 四 一 ー 二 一 具 参 照 七 二l
五 頁 参 照 九東 洋 法 学 二 O 政府と民党との妥協││隈板内閣の成立 明治二七年八月一日、清国にたいする宣戦の詔勅が下った。当時、衆議院は解散中であったが、対外硬派も自由党 も政府攻撃の矛をおさめた。九月一日、平穏のうちに第四回総選挙が行なわれ、 一
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月一五日、第七議会が広島で閃 か れ 、 つ い で 二 一 月 一 一 一 一 日 、 第 八 議 会 が 東 京 で 閃 か れ 、 いずれも衆議院の各派は政治的休戦をなし、 一致して政府の 戦争遂行を支援した。戦争はわが国の勝利となり、明治二八年四月一七日、有利な条件で説和条約を結んだ。ところ が三国干渉がおこるにおよび、講和条約で獲得した遼東半島を還付することとなったため、国論は沸騰し、ふたたび 対外硬派は政府攻撃を展開した。 ところが自由党は、当初は対外硬派と歩調をそろえていたかにみえたが、七月党大会を閃いて、遼来半島還付問題 については政府の責任を問わざることに決し、 ﹁今後我党と其の方針を同うし、相共に謀るべきものは、相共に内外 ︿ 1 ) の事に力を致し、哲て愛国の至誠を推し、私を去り公に狗ひ、以て将来の誌を為す可し﹂として伊藤内閣との捉抗t
妥協を暗示した。これは主として河野広中の考えにもとづくものであり、これ以後、河野ら自由党幹部と伊藤との問 に提携交渉が進められた。交渉数回ののち、 定を結ん令)その協定には、予算案、法律案、新たな政策について政府は自由党の岡本を求むること、板垣の入閣に 一一月二二日には自由党は政府との交渉の経過を発表し、また伊藤と協 ついては了解事項とすることなどがあった。かくて政府は、自由党と捉抗妥協のうえ、第九談会に臨んだ。 一 二 月 二五日、第九談会が召集され、対外硬派は、明治二九年一月九日、遼東半島還附と一
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月入日の朝鮮京誠事変の失態を 糾弾するとして、内閣弾劾上安来を提出したが、自由党および国民協会の反対により否決された。予鉱泉について ( 3 ﹀ も、わずか三十一万八千八百六十八円を削減したのみで衆議院を通過した。かくて政府は自由党との捉抵のもとに第 九談会を来り切り、四月一四日には自由党総理板垣退助を前年の協定により内務大臣に任命して、公然と超然内閣主 義をみずから修正することとなった。だがこのとき伊藤内閣不統一の兆候があらわれていた。山県は伊藤の自由党と の提訴について不満であったが、井上惑は単に板垣と手を結ぶのみならず、この際、大限を外務大臣に、松方を大蔵 大臣として挙国一致の内閣のもとに戦後経営をすべきだとして、これを伊藤にすすめ、伊蕗もこれに同窓して閣議に はかったところ、他の閣員は賛成したが、板垣は松方の入閣には賛成したが、反対党の首領ともいうべき大限の入悶 には断然反対した。そこで松方のみに入閣を交渉したところ、松方は単独入閑を担絶した。ここにいたって、伊藤 ハ 4 ) は、板垣を拾てて大限と松方を取るか、板垣を取って大限と松方を捨てるかの二者択一にせまられたのである。かく て伊藤は閣議不統一の理由で、八月二入日ついに辞表を提出し、ここに第二次伊藤内閣は崩壊した。 ついで元老会訟の結果、松方正義に大命がくだり、九月一八日、大限とともに組閣を完了した。いわゆる松阪内閣 である。この内閣は、松方を中心とする薩閥官僚と進歩党を背景とする大限とが連立したものであったので、松限内 閣と呼ばれたのである。すでに、第九談会において、弾劾上一提案が否決されたのは、対外硬派があまりにも小党分立 であるとなし、この対外硬派の大合同を必要とする論が生じ、三月一日、立窓改進党、立窓革新党、中国進歩党、帝 国財政草進会、大手倶楽部などをうって一丸とする政党を組織して進歩党と名づけ、大隈が隠然これを指導したので 日 本 に お け る 政 党 内 閣 の 端 初束 洋 法 学 ( 5 ) ある。松限内悶は、その成立直後、 一
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月二一日、地方官会議を開いて、その政策を発表したが、 一一月一日には進 歩党は大会を閃き、 ﹁松方首相が地方官に宣明したる数カ条の方針は、 H Z ハに皆方今の急務にして我党の方針と大差な し。則ち我党は帝国の大政党たる本分として一侃にその実行を完美ならしめんことを期し、是れが為めには現内閣と相 ( 6 ﹀ 依り相扶くることを民路せざらんとす。﹂と述べて公然と政府との捉拐を宣言したのである。また進歩党は多く党只を ( 7 ﹀ 政府のなかに送りこんだ。このように、松限内問は進歩党の支持のもとに第一O
議会を迎えることになった。 一 一 一 名 の 脱 党 者 を だ し 、 明治二九年二一月二二日、第一O
議会が召集された。日頭の議長選挙において、自由党は党内の結束をみだして、 ハ 8 ) しかも議長に進歩党の鳩山和夫を当選せしむるという不手際があった。したがって、政府と 進歩党は、あまり波測もなく、第一O
談会を来り切ることができた。ところが、政府と進歩党との問に札燃を生ずる ような事件があいついで起った。日く二六世紀事件、日く会計検査官の退官処分問題、日く高野孟矩事件、などであ る。このような問題を契機として政府と進歩党との提携に法が生じたばかりでなく、 ハワイ問題、ドイツの腹州湾占 債などをめぐって政府攻撃の戸も高まった。しかも、政府と進歩党との間にあって両者を潤滑ならしめ、融和をはか っていた神紋知常法制局長官と高桁健三内閣書記官長とは、松方のリーダーシップの欠如に見切りをつけて一O
月上 句辞職するにいたった。ここにいたって、内閣強化の方策として大阪は内閣改造を考え、首相に伊藤、松方は蔵相専 門 9 ) 任、大限は外相の三頭内閣案を立てて松方の賛同をえ、伊藤に交渉したが、伊藤はこれに応じなかった。進歩党は、 村鞭、高析の辞任以後、この内閲にたいする望みをたっていたが、なお一O
月二二日には市議只会を閃いて、内閲の 統一をはかること、非立窓的行動を戒めることなど五項目を決議し、翌二三目安只がこれらの突行を松方首相に要求(印) した。松方は当初好意的態度を示したが、この会見については双方秘密を守るべしとして、回答を保留した。翌二四 日この会見が新聞に公表されるや、松方は﹁余不肖なりと雑も、至尊の親任を辱うして大政柿弼の主任に間る以上、 ( 日 ) 悶臣の進退、行政の作用は決して他の客昧に待つべきにあらず﹂と党書を進歩党常設貝に送った。かくて進歩党は大 いに憤激し、三一日代議士総会を聞いて、 ( ロ ﹀ のと認む。因て白人午捉翠を絶つ。﹂と決議し、かくては大限も閣内に留まることなく、 ﹁吾党は既往の事蹟に徴し、現内閣は、其の宣言を実行するの誠窓なきも 一一月六日ついに辞表を提出し た。このように進歩党との提携を絶たれた松方内閣は、自由党の支持をえんものと触手をのばしたが、 一二月一五日 自由党は大会を聞き、第一一議会の努頭において内閣不信任案を提出することに決した。また国民協会も二
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日には 政府反対を表明した。 ここにいたって、政府はまさに孤立無援のうちに、第一一議会を迎えねばならなかった。 一二月二一日議会は召集 され、二五日には各派連合のもとに内閣不信任決議案が提出され、その提案理由が説明されんとするや、衆議院は解 ( 日 ) 散されたのである。さらに二七日には、内閣が総選挙をまたずに総辞職してしまった。 一一一月二九日、伊藤は組閣の意を決し、挙国一致の内閣を成立せしめんとして、進歩、自由両党の首領たる大限、 板垣の入閣をはかった。まず、大限を招き、外務大臣として入閣するよう求めたが、大限は即答を避け、幹部と協議 ののち、大限自身は内務大臣となり、他に重要な三大臣のポ九トを進歩党のために要求した。だが伊藤はこれを担否 して、進歩党との提抗を断念した。ついで板垣と会見し、入閣を求めたが、板垣も内務大臣を要求した。これにたい して伊藤は、近く行なわれる総選挙をひかえて、政党の首領が内務大臣となるのは、選挙の公正を期す所以ではない 日本における政党内閣の端初東 洋 法 学 二 四 ( 日 ﹀ として、これを担絶し、交渉は打ち切られたが、伊藤と板垣との問には暗黙のうちに捉抗の了解がついた。かくて第 三次伊藤内閣は、直接政党と結ぶことなく、明治三一年一月一一一日、長関官僚を中心として組閣を完了した。だがや ( 印 ﹀ がて二月六日、政府と自由党との提携が公然たるものとなった。 三月一五日、第五回総選挙が行なわれたが、その結果自由党は八二名より九八名となり、第一党となった。その直 後自由党は、政府にたいして板垣の入閣を要求した。伊東巳代治良商相はこれを積極的に支持したが、井上撚蔵相は 絶対これに反対した。ここにおいても、伊藤は、井上を失って自由党と提携するか、自由党と断絶して井上をひきと めるかの二者択一のまえに立たされ、伊藤は後者をえらんだ。伊東己代治は内閣を去り、伊藤首相は、四月一六日、 公然自由党にたいして板垣の入閣を担絶しか山﹀五月五日には自由党も大会を聞いて、伊藤内閣に反対する態度を明確 にした。進歩党も、反政府の態度を明確には打ち出していなかったが、政府の態度によっては、自由党と同調する勢 いを示していた。 第一二議会は、五月一四日召集された。この議会における一大問題は、増税法案であった。衆議院においては、外 交問題に関する内閣弾劾の上奏案は否決され、衆議院議員選挙法の修正案が可決されて、これまでは政府は比較的順 調に来り切ってきたのであるが、増税諸法案が上程されると、政府反対の戸が猛然として起った。まず地租増徴案か ら審議が開始されたが、ほとんど満場一致をもってこれに反対し、伊藤の﹁別段の手段﹂ H 解散をほのめかす脅迫に もかかわらず、また三日間の停会が行なわれたにもかかわらず、六月一
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日ついに二七対二四七の圧倒的多数をもっ て否、決された。と同時に衆議院はまたもや解散された。このように政府がその常套手段によって、自由党と進歩党とを圧迫していたころ、両党の間に合同のきざしが見え ( 幻 ) はじめ、殊に平岡浩太郎らの斡旋によって合同は急速に進展していったが、前述のように六月一
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日衆議院が解散さ れ る と 、 一一日には青票懇親会が聞かれ、民党各派前代議士二四三名が集まり、合同を決定した。 ついで一六日、民 党合同同志の大懇親会が聞かれ、集まるもの五百余名、大限、板垣も出席して、それぞれ合同について激励した。か くて一一一日には自由、進歩両党は、ともに大会を聞いてそれぞれ解党を断行し、二二日ついに約二千名参集のうちに ( 幻 ﹀ 結成式を行なって、党名を憲政党と称し、官一言書、綱領などを決定した。また大限も板垣も一党貝としてこれに入党 したのである。このようにまさに一気町成に、不自然に、民党の大合同が成り、憲政党が成立したのであるが、した がって窓政党は寄合い所帯であり、自由、進歩両派の聞の意思の疎通は十分に行なわれることができなかった。ここ に、やがて憲政党内閣が成立すると、いろいろな内紛を惹起する根源がある。 このような民党の大団結にたいして、伊藤もすでに政党結成の動きを始めていた。四月一六日、すなわち政府と自 由党との提携断絶の日、 ﹁伊藤は傭兵侍むに足らず、親兵に非ざれは不可也﹂と考え、政党について調査研究を行な って﹁藤侯直系の政治家を中堅とし、大学出身の学識を右翼とし、実業家の富力を左翼とし、而して大学出身者は波 辺、洪基氏をして之を怨めしめ、実業家に対しては井上伯をして折衝せしむれば容易に多数を羅致することを得ベき見 ( 叫 ) 込﹂をたてた。かつて伊藤の政党結成に反対していた井上馨を説得して、その賛成をえ、さらに井上をして実業家日 渋沢栄一、益田孝、大倉喜八郎らを説かしめ、また馬越恭平が資金の提供を申しいで、ようやく政党結成の準備が軌 道にのりだしたが、山県のみはこの政党結成に反対を唱えた。衆議院が解散され、民党の大合同の動きが活発化して 日本における政党内問の端初 二 五東 洋 法 学 一 一 六 きた六月一四日には発起人会を催おすまでになったが、伊藤のこの計画にたいして支持を与えてくれることになって ( お ) いた実業家たちが参加を院路しはじめたことによって、この政党結成計画はくずれはじめた。それにもかかわらず一 九日の閣議において伊藤は、新党組織について報告し、意見を求めたが、山県派の桂太郎陸相が反対した。なおも伊 藤はみずから桂冠してまでも、民党に抗しうる政党の組級に尽力しようと決意したのであるが、二四日、元老会誌に ( お ) ついに新党結成を断念し、また内閣総理大臣の職を辞し、後任として大限、板垣の両名を おいて山県と激論のすえ、 推薦した。二五日、ふたたび元老会議が関かれたが、どの元老も後継内閣を引き受けるものがなく、大限、板垣の両 名を推すことに決した。かくて二七日組閣の命がこの両名にくだり、殊に板垣は迭巡しながらも大限に励まされてこ れを引き索、ここに憲政党を基盤とする内閣│わが国における最初の政党内閣の出現をみることになったのであ る。だが忽忽の問に結党した窓政党を背景とする新内閣の前途は、きわめて多事多難であった。 六 月 三
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日に新内閣が成立し、この内閣は隈板内閣と呼ばれた。この内閣は、不自然なる結合の産物である窓政党 を基盤としている結果、あいついで内紛が発生する。まず閣員選考の過程で紛糾した。進歩党系も自由党系も閣員の 獲得競争を行ない、結局、進歩党系が、総理兼外相大限主信、文相尼崎行雄、法相大東義徹、円以商相大石正巳とな り、自由党系が内相板垣退助、蔵相松田正久、逓相林有造となり、悶只の地位からいけば五対三の比率となり、自由 党系は大いに不満であったので、板垣は外相に伊東己代治(非党員)を推したが入れられず、さらに星享(当時アメ リカ駐在公使)を推したが、これも入れられず、内相、蔵相は丞大な地位であるとの理由によって慰撫された。これ ( お ) らの閣員のほか、芯政党から多数が中央官庁に任官し、また地方官に任用された。つぎに平部大臣をいかにしてうるかという問題があったが、山県の策動があって、西郷海相と桂陸相が勅命によって留任し、いわば山県が陸海両相を 自分の文配下において大阪を産制し、そのうえ山県派の松が大限と板幻に会見してその主張を通し、新内問の軍事方針 (却) に枠をはめたのであった。したがって平部大臣は当初から泉分子として入閣していたのであり、限板内閣はその芯味 ( ω ) において半身不随の内閣であった。組問後間もなく、地方官会議を召集して、内閣の基本姿勢 H 超然内閣と異なる政 ︿ 引 ﹀ 党内閣を附明して、内閣の性格を明確に打ち出したが、自由、進歩両派の暗闘がはなはだしく、あいついで内紛が発 生し、内閣を動揺せしめた。たとえば鉄道固有問題、警祝庁廃止問題、猟官問題などである。だが、八月一
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日、比 較的公正に、また比較的平穏のうちに第六回総選挙が行なわれ、窓政党は二六O
名(うち自由党系九五名、進歩党系二 O 名)当選し、まさに圧倒的多数を獲得した。かくて窓政党の勢い当るべからざるものとなったが、さらに内証を深 めるような事件があいついで起った。八月一五日たまたま帰朝した星享の入閣問題がその一つである。前述のように 板垣の推郎にもかかわらず、星は外相として入閣することができなかったのであるが、星が政府の命令をまたず帰朝 したので、自民党系はふたたび、外相の地位を要求したが入れられず、そのため星は自由、進歩両派の対立をあおっ ︿ 幻 ﹀ た。さらにつぎにおこったのが、尾崎文相の共和演説事件である。八月二二日、尾崎は帝国教育会で拝金主義を攻撃 した演説のなかで、 ﹁日本にては共和政治を行ふ気遣は無い。仮令千万年を経るとも共和政治を行ふといふことは無 いが、説明の便利の為に、日本に仮りに共和政治ありといふ夢を見たと仮定せられよ。恐くは三井三菱は大統領の候 ( 幻 ﹀ 補者と成るであらう。﹂と述べたが、文相の地位にあるものが、共和政治を口にするのは﹁不祥不敬﹂であるとされ、 東京日日新聞がこれをとりあげて追求し、やがて尾崎は天皇に謝罪したが、 一O
月二四日責任を負って辞職した。だ 日 本 に お け る 政 党 内 閣 の 端 初 二 七京 洋 法 学 二 八 ハ 日 ﹀ がさらに後任をめぐって紛糾がはなはだしくなり、河野広中、平岡浩太郎らの調停も効を表せず、ついに二八日、進 歩党系の犬養毅が文相に就任した日、自由党系は進歩党系に解党を申し入れたが、進歩党系がこれを担否したため、 自由党系の総務委員をして窓政党本部名で、二九日自由党系の党員を集めて臨時協議会を開き、それを変じて大会と し、窓政党解散を議題として直ちにこれを可決し、新たに窓政党組織を議題としてこれを可決し、新党結成の手続を 完了して告祭に届けいで、窓政党本部を占拠し、進歩党系を追いだしたのである。まさにクーデターである。これに ︿ お ) たいして進歩党系は窓政本党を一一月三日結成し、ここに窓政党はまさに四カ月余りにてふたたび分裂するにいたっ た。板垣は一
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月二九日、松田、林とともに辞表を提出したが、大限は進歩党系だけの内閣をつくらんとなおふみと どまっていたが、桂らの倒閣の策謀によって、三一日自派の閣員とともに辞職するにいたり、ここに窓政党を基盤と した限板内閣は、わずか四カ月にして一度も議会を開くことなく、脆くも全く崩壊してしまったのである。後継には 元老会議(伊藤博文不在)の結果、山県が当ることになる。 以上、みてきたように、日清戦争後、第九議会を前にして、伊藤内閣と自由党との妥協捉おが行なわれ、政府は超 然内閣主義を修正し、民党であった自由党も政府ヘ接近した。さらに政府は進歩党をも抱きこんで、その基礎を強固 ならしめようとしたが、成功せず、第二次伊藤内閣は崩壊した。 ついで登場した松限内閣は、進歩党との提拐に当初 成功したが、極々なる問題の発生により、松方の指導性が問われはじめ、進歩党からは捉批を断たれ、自由党とも手 を結ぶことができず、まさに孤立無援のうちに崩壊していったのであった。またつぎに登場してきた第三次伊藤内閣 は、当初自由党との提携に成功したが、板垣の入閣を担否するにいたって、自由党との犯抗が別れ、さらに政府が自由党と進歩党と対決するにいたって、急速、意思疎通が不十分のまま、民党は大合同を計画し、怒政党の出現をみる こととなった。伊藤内閣の側も、従来の超然内悶主義を全く放棄して、 ﹁ 親 兵 ﹂ H 政党を結成する椛想をたてたが、 山県の反対、実業家の不参加のためについに政党の結成を断念せざるをえなくなり、ついに伊藤は明治政府を窓政党 に明け渡い凶。かくてわが国における最初の政党内閣は、民党多年の宿望を果し、自由党系と準少党系との対立、ま た両派の政策協定、意思疎通の不十分、をはらみながら、また山県配下の軍部大臣という具分子を含みながら成立し た。果せるかな、限板内閣は、内に抗争を繰り返し、外に山県派の策動のために、わずか四カ月にしてなんらなすと ( 幻 ) ( お ﹀ ころなく崩壊し、憲政党も分裂して、新しい憲政党と窓政本党となったのである。 ( 1 ) 大津淳一郎前掲四巻六一一一良 ( 2 ) ﹁河野磐州伝﹂下巻三八五
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三 九 頁 参 照 ( 3 ) この議会において、川上参謀本部次長と河野との妥協により、将来に備えて U 日露戦争を不可避として、六個師団の 増設が決定した。﹁河野磐州伝﹂四一六 l 四 二 九 頁 参 照 (4﹀大限と松方の提携はこのときすでに行なわれていたのである。この二人を結びつけたのは、岩崎弥之助であった。大 津 淳 一 郎 前 掲 四 巻 六 七 六l
七頁参照﹁大限俣八十五年史﹂二巻二一六頁参照 ( 5 ) 尾 崎 行 雄 前 掲 上 三 O 六lt
頁参照その政綱は﹁一政弊を改革し、責任内閣の完成を期す、一外政を刷 新し、国権の拡張を期す、一財政を整理し、民業の発達を期す﹂の三ケ条である。大津淳一郎前拘六九一ーー二一九 参 照 ( 6 ) 林 田 屯 太 郎 前 掲 上 巻 四 四 五 頁 ( 7 ) 前 団 連 山 前 掲 五 O 四│五頁参照 たとえば、大石正巳は良商務次官、高田早苗は外務省通商局長、尼崎行雄は 日本における政党内閣の端初 二 九東 洋 法 学