宇野弘蔵の資金論-2-著者
今東 博文
著者別名
Imahigashi Hirohumi
雑誌名
経済論集
巻
19
号
1
ページ
p15-25
発行年
1993-10
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00005440/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja宇野弘蔵の資金論
(
2
)
今 東 博 文
は じ め に 1. 商品流通世界と資金 1 . 貨幣諸機能と商品流通世界(以上,本E怠 第17巻2号) 2 '貨幣」としての貨幣と資金(以上,本号) 3. 資本と資金 II. 資金の本質規定 III. 貨幣市場と資金 1.商品流通世界と資金(承前)2
.
r貨幣」としての貨幣と資金 『資本論』第1巻第3章「貨幣または商品流通」は,第l節「価値の尺度」、第2節「流通手段」 に続き,第3節「貨幣」で,a
I貨幣退蔵j,b I支払手段j,C I世界貨幣」を説いている。 宇野弘蔵は, Ii[日原論』では,第1篇「流通論j,第2章「貨幣」の3
1
貨幣」を,『資本論』に倣 って, A I蓄蔵貨幣j,B I支払手段としての貨幣j,C I世界貨幣」の3項に構成していたのである が,『新原論』では,第2
章「貨幣」の内部の節区分,項区分が廃され,内容的にも,「蓄蔵貨幣」 と「世界貨幣」については,その歴史的性格と,国境問を繋ぐとし寸現実的な運動が抽象きれ,論 理的展開に整序されることになったといってよいであろう。宇野は I世界貨幣という言葉はIi資 本論』にも岩波旧『原論』にも用いられているが,一社会の商品経済の一般的原理としての経済原 論で,なぜ?世界貨幣を説くのか。また岩波新Ii]京論」では,流通手段量の窮極的調節を行なうもの が,世界貨幣とはよばれていないが,これはなにを意味するするのか」という質問に対し,「純粋の 資本主義社会を対象として説かれる経済原論では,歴史的な『蓄蔵貨幣』は資金の貯蓄に一般化さ れ,場所的な『世界貨幣』は商品としての金とともに地金保有量および貨幣量を根本的に増減する ~15~ものとして説かれるべきものと考えて,新『原論』てやは改めたのであるJ(Ií演習原論~'l, 62-63ペ ージ)と答えている。 また宇野は i資金とは貨幣のどのような状態をいうのか」という質問に i資金という言葉は…・ なかなか便利な言葉で,『資本論』にならってこの節でつかっている『貨幣としての貨幣』がこれに あたると思う。貯蓄・支払・新規の購入にあてられうる貨幣をすべて資金といってよい。これはつ ぎに述べる資本に直接に転化しうるものであるJ(同.62ページ)と答えている。 本節の課題は,宇野の資金の概念が、マルクスおよび宇野の「貨幣としての貨幣」論にどのよう に位置づけられているかを検討することにある。そこで,マルクスの「貨幣としての貨幣J2lの規定 を確認することから始めよう。 [ 1 ] マルクスiネ 第3節の冒頭で1 貨幣の価値尺度機能および流通手段機能に「貨幣としての 貨幣」を対比して次のように述べている。 「価値尺度として機能ししたがってまた身みずから,あるいは代理を通じて,流通手段と して機能する商品は,貨幣である。したがって,金(場合によっては銀)は貨幣である。金が 貨幣として機能するには,一方では,その金製の(場合によっては銀製の)肉体をもって現わ れなければならず. したがって貨幣商品として現われなければならぬから,単に価値尺度にお けるように観念として存すればよいというわけでもなく,流通手段におけるように,代理可能 であるというわけにもいかない。他方では,金自身が司いまや自分の身をもって行なうか,代 理を通じて行なうか。いずれにしても,その機能が,金を唯一の価値態容として,または交換 価値の唯一の妥当なる存在として,単なる使用価値としての他の一切の商品に対して固定する のであるJ(K., ,!S.143-144,岩(1), 227ページ)。 ここでは i貨幣」は i一方で
1
土J.単に,観念的な存在において価値尺度として機能するのでL
代理または表象において流通手段として機能するのでもなし現身の金としての存在と機能と して規定きれ i他方で、はJ. 他のあらゆる商品に対して独立し「固定する」存在と機能として規定 きれている。 『経済学批判』においても i貨幣」は次のように規定されていた。 まず,現身の金としての存在と機能について, 「金,つまり価値の尺度として,また流通手段として役立つ特殊な商品は,社会のそれ以上 の助けがなくても貨幣となる。……ある商品は,まず,価値尺度と流通手段との統ーとして貨 幣になるのであり,いいかえれば,価値尺度と流通手段との統ーが貨幣なのである。だが金は, このような統ーとしては,さらに,これら 2つの機能におけるその定在とは違った,独立の実 1 )宇野弘蔵編 r新訂経済原論』青林書院新札 1967年。以下, fj寅沼原、論』と鹿島記。 2 )以下では r資本論』第1巻第1篇第3節「貨幣」の展開内容のことを r貨幣としての貨幣」噌「貨幣」としての貨幣.あ るいは単に f貨幣」と表記する。 16在をもっている。金は価値の尺度としては,ただ観念的な貨幣であり,観念的な金であるにす ぎない。また,単なる流通手段としては.象徴的な貨幣であり,象徴的な金であるc けれども その単純な金属としての現身においては,金は貨幣であり,また貨幣は現実の金なのである」 (Kr., S.102,岩, 159ベ ジ )3)
。
続いて,「貨幣」の他商品との関係について, 「すべての商品はその価格でもって一定額の金を表象しているから,それらの商品は,単に 表象された金ないし表象された貨幣.すなわち金の代表物にすぎなL、
c ……このようにすべて の商品はただ表象きれた貨幣にはかならないのだから,貨幣が唯一の現実的な商品である。交 換価値の.一般的社会的労働の,抽象的富の,独立の定在をただ表象しているにすぎない商品 に対して,金は抽象的富の物質的な定在である。……貨幣は, どんな欲望の対象にも直接に転 化することができ,その限りではどんな欲望でも充たすものであるc 貨幣自身の使用価値は. その等価物を形成する諸使用価値の無限の系列において実現されている。貨幣は,その無垢の 金属性のなかに,商品世界で繰り広げ、られている一切の素材的な富を封じ込んでいるJ(Kr., S.102-103,当, 160ページ)。 『経済学批判』においては,貨幣としての貨幣が「価値尺度と流通手段との統一」として i現実 の金」の姿態で「独立の実在」を有すること,またその金としての実在が「抽象的富の物質的な定 在」として,他の商品として存在する「一切の素材的な富を封じ込んでいる」といって,貨幣とし ての貨幣の商品流通世界における独立性,固定性がより明確に述べられているへ 総じて,マルクスにおける「貨幣」は,金という特殊の使用価値に集約された。全ての商品に対 する金の代表性として規定されているといってよいように思われる。貨幣としての貨幣の一般的規 定は素材としての金に凝固した,他商品に対する代表性として与えられているわけである。 それでは,マルクスにあって.貨幣としての貨幣の運動は商品流通世界とどのような関連にある ものとして位置づけられているのであろうかc 「貨幣蓄蔵J,i支払手段J,i世界貨幣」の各項につい てこの点を確認しようへ [2J 貨幣蓄蔵c マルクスの叙述から取り出すことのできる論点を整理してみようご 第1
に,流通手段の休止部分と蓄蔵貨幣の区別と共通性について。マルクスは「鋳貨の絶えるこ とのない流通の条件」を,「鋳貨が,流通の中のいたるところで発生しながら流通を制約する鋳貨準 3) Karl Marx. Zur Kritik der PolitisclzeJ/ OkoJ/oll1ie.in : M m子EngelsII訟rke.Bd. 13. Dietz Verlag. 1961.武田隆夫・遠藤浦王寺・大!人rJJ・加藤俊彦れ「経済学批判j』Ft波文月i 1956年c 以ド [Kr.,S.102.岩.159べージ]のように略記。 4) ,商品が,その価格でもって--般的等1而物ない
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由象的寓である金を代表しているとすれば.金は.その使用価値でもっ て,あらゆる商品の使用価値を代表しているのである。したがって,金(立.素朴的富の物質的代表物なのであるJ(Kr"S.103, 岩.160ベジ)。 前稿では,流通世界から相対的に独立した貨幣の機能」としで,貨幣としての貨幣を規定しておいた(拙稿「宇野弘蔵の 資金論J(1).rU涜論集~ [東洋大'1とl.第17巻2号.21ページ)。 5)ここでの検討は.主として『経済学批判』を対象とする。17-備金という形をとって,大な1)小なりの割合で絶えず停滞すること」であるとし r流通W-G-W では,第2環G-Wは,一時に行なわれないで時間的に相次いで行なわれる一連の購買に分裂するか ら,
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の一部分は鋳貨として流通するのに,他の部分は貨幣として休止する。この場合,貨幣は,事 実上,停止された鋳貨にはかならない」として、流通を停止されている点で,鋳貨準備金と蓄蔵貨 幣の共通性を指摘している (Kr.,S.104,岩, 162-163ページ)c しかし,他方でマルクスl土、両者の 相違を次のように述べている。「蓄蔵貨幣を鋳貨準備金と混同しではならないのであって,鋳貨準備 金は,それ自身,常に流通内にある貨幣総量の一部分をなす……J(Kr., S.114,岩, 178ページ)。こ こでは,鋳貨準備金は「鋳貨の単なる技術上の滞留J(Kr., S.123,岩, 193ペ ジ)にすぎず,流通を 休止されている点では蓄蔵貨幣と共通で'あっても,前者は流通の内部にあるのに対して,後者は流 通の外に引き上げられたものとして捉えられているわけである。 第2に,先に述べた金の他商品に対する代表性を,剰余の商品への蓄蔵欲望から説明する観点で ある。すなわち r富が自然に発生する最初の形態は,過剰または剰余という形態であり,生産物の うち使用価値として直接必要とされない部分であり,あるいはまたその使用価値が単なる必需の範 囲を超えるような生産物の所有でありJ(Kr., S.105,岩, 163ベ ジ), rこの過剰の適当な実在形態が 金銀であり,金銀は,富が抽象的社会的な富として確保される最初の形態である」として rこのよ うに貨幣として不動化された金または銀が蓄蔵貨幣なのであるJ(Kr., S.105,岩, 164ページ)。また, これを流通当事者の行動に即して次のようにも述べている。「商品所有者が商品を交換価値としての 姿で確保できるという,つまり交換価値そのものを商品として確保できるという,単純な事実によ って,商品を金という転化された姿で回収,保蔵するためにこれを交換することが,流通の独自の 動機となる。……素材転換にかわって形態転換が自己目的となるのであるJ(Kr., S.105-106,主主165 ページ)0商品所有者は r使用価値としての商品ではなく商品としての交換価値J(Kr., S.106,岩, 166ベ ジ)の取得を目的とする行動を展開することになるのである。このような商品所有者の行動に 裏付けられて貨幣は.流通から相対的に独立した性格を付与されることになる。 マルクス'
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貨幣を蓄蔵する流通当事者の行動は,他の特定の富の貯蔵とは異なり,何ら「特殊 な経済的作業」ではなく,流通行為そのものであることを次のように表現している。「金銀'
i
.
これ を貯め込む個人の何らかの活動のために貨幣であるのではなく,彼の助けを借りずに進行する流通 過程の結晶として貨幣なのであるJ(Kr., S.111,岩, 173ページ)c 第3に,蓄蔵貨幣は「抽象的富の物質的定在」として流通から引き上げられた貨幣であるが,流 通へ復帰しようとする方向性を保っている,とされる。「蓄蔵貨幣は司もしそれが絶えず流通に戻ろ うと待ち構えているのでなければ,いまや単なる無用の金属にすき、ず.その貨幣魂はそれからぬけ 去っており,それは流通のもえがら,流通のcaputmortuum [残りかす]に帰したままであろう」 (Kr., S.109,岩, 170ページ)0 rわが貨幣蓄蔵者は,交換価値の殉教者として,金属柱の上に座った 1 8-神聖な苦行者として現われる。彼にとっては,ただ社会的形態にある富だけが問題であり,そのた めに彼は,それを埋蔵して社会からかくすのである。彼は,いつでも流通できるような形態にある 商品を欲し,そのために彼は,その商品を流通から引き上げるのである。彼は,交換価値に夢中に なり,そのために彼は,交換を行なわないのであるJ (Kr., S.l11,岩, 174ページ)。 第4に,蓄蔵貨幣によって流通貨幣量が調節されるとする観点である。「蓄蔵貨幣は,流通してい る貨幣の流入,排出の水路として現われ,その結果,流通そのものに直接必要とされる分量の貨幣 だけが,常に鋳貨として流通することになるJ(Kr., S.1l4,岩, 178ページ)。 以上,マルクスの蓄蔵貨幣は,要するに,販売と購買の分裂にもとづく「停止された鋳貨」であ り,剰余の蓄蔵が商品経済社会において具体化された「不動化された金または銀」であり,それが 流通への復帰の方向性を有するからこそ「独立化した交換価値J (Kr., S.109,岩, 170ページ)たりう るのであって,その蓄蔵貨幣の流出入によって流通貨幣量の調節が行なわれるものとされているわ けである。 [ 3 ] 支払手段。いうまでもなく,支払手段は,商品の引き渡しから一定期間ののちに行なわれ る貨幣による決済の機能のことであるが,マルクスはこの貨幣の新たな形態規定を次のように論じ ている。 まず,この貨幣を蓄蔵貨幣と区別して,「蓄蔵貨幣は,単に, W - Gという行為がG - Wに進まな いで孤立するということにもとづく J(Kr., S.1l5,岩, 179ページ)ものであり,この形態規定性は, 「商品の変態が中断される場合のように,単なる可能性として現われたJ(Kr., S.1l6,岩, 181ペー ジ)にすぎないのに対し,支払手段としての貨幣は,「貨幣としてのこの[蓄蔵貨幣としての]規定 性におし、て,流通過程の内部で特有の機能をもつようになるJ(Kr.,S.1l5,岩, 180ページ)とし,「支 払手段としてのこの機能においては,貨幣は絶対的商品として現われる。しかし蓄蔵貨幣のように 流通の外に現われるのではなくて,流通そのものの中に現われるJ(Kr.,S.1l8,岩, 184ページ)。そ して,「貨幣,つまり交換価値の独立の発展は, [支払手段としては]もはや商品流通の媒介形態で は な し そ れ を 完 結 す る 結 果 な の で あ るJ(Kr., S.1l9,岩,186ページ)とし,支払いが実際に行なわ れる場合には,貨幣は「一時的な流通手段としてではなし一般的等価物の休止的な定在として, 絶対的商品として,一言でいえば貨幣として流通に入っていく J(Kr., S.122,岩, 191ページ)とされ ているc 以上を約言すれば,支払手段としての貨幣において,貨幣の一般的富としての規定性が「流通そ のものの中に」より明確化きれるという展開になっているように思われるのであるがベそれははた 6 )宇野 ~1、蔵も, 1〈;七、 T 段としての貨幣が,より進んだ「絶対的商品 j として規定きれるべきことを次のように解説している。 貨幣はW - Gにおいて.i'i:1Wt'I身をtlrJりとしてrfij品の!I反'だがおこなわれる.1~幣が価値の独立の存在て4あるというこ E が, 流通の内部にれいて要求せんJ.lるο これは│司じLlI票をもっておこなわれるとしても.蓄蔵貨幣と非常に異なった機能といわ なければならな¥.)~, fをf?l主流通から引き上げるニとによって貨幣にかかる性質があたえられるにすぎなし、。支払を受ける者 にとっては I町村蓄l歳{',,:比へで一段と進化した?誌の蓄積の子段となるわけであるJ(宇野r入F9J. 51ベーン)。ここには2 19
して,マルクスのいうように「商品流通の媒介形態ではなしりといってよいのであろうかご ここでの問題を次のように提起できょう。すなわち,マルクスのいうように,支払手段としての 機能において,貨幣が「流通そのものの中にJ,,-絶対的商品」、「一般的等価物の休止的 (r吐lend) な定在」として現われるというのは,いったいどういうことで,それを蓄蔵貨幣に付加される「新 しい形態規定性J(Kr.,S.1l9,岩,186ページ)ということができるのであろうか, と。貨幣が一般的 等価物として,他商品への直接的交換可能性を独占した商品であることは,価値形態論において確 認されていることである。したがって,-流通そのものの中」で¥商品の売手が貨幣を受け取るの は,貨幣が他商品に対する絶対的な交換力として存在しているからにほかならないc 掛売りにおい て,商品の売手から買手への移転から時間的に恭離した貨幣の移転が行なわれるとしても,貨幣が 受け取られるのはやはり貨幣が「一般的等価物の……定在」であるからである。支払手段としての 貨幣は,流通手段としての貨幣、ないしは交換機能を果す貨幣として7) もともと「流通そのものの 中に」存在する「絶対的商品」なのである。 また,貨幣が支払手段として出動する場合に,それが一般的等価物の「休止的な定在」として現 われるというのはどういうことであろうか。支払いに充てられる貨幣が掛売りの買手のもとに休止 していたものかどうかは何ともいえないのではないか。もちろん,遊休貨幣を社会的に集中する信用 の機構を介して,例えば,銀行預金から引き出された貨幣によって支払われるような場合を考えれば, そのような「休止的な定在」としての貨幣の性格が現われるということができるのかもしれないが, それは貨幣自体の機能というよりむしろ信用の機構の社会的機能というべきではないだろうか。 マルクスは,商品の移転からの貨幣の支払いの時間的な恭離の進展によって,発達した信用制度 のもとでの貨幣恐慌において極点に達する,流通当事者にとっての貨幣機能の神秘化を,この支払 手段としての貨幣において説こうとしているのであるが (Kr.,S.122-123,岩, 191-192ページ),こ こでは,流通当事者の行動の層次化によってもたらされるものとして貨幣機能が展開されるべきで はないであろうか。すなわち,貨幣としての貨幣の機能は,流通当事者によって流通からヲ
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き上げ られた貨幣の機能としてー したがって,マルクスとは異なり、むしろ「流通の外」への方向'生を有 する貨幣の機能として規定されるべきではないかと思われるのである(したがって雫支払手段とし ての貨幣は,貨幣としての貨幣には含まれないことになる)8)。 つの論点が存在する。支払手段としての貨幣において,貨幣がliIIji査の独立の存在てーあるということが.流通の内部において 要求せられる」ときれている点と r貨幣蓄蔵者と比べて一段と進化した富の蓄積の手段Jとして.支払手段としての貨幣が 捉えられている点である。 前者について。本文でも検討するように,貨幣が商品に対して「価値の独立の存在」であることは,価11奇形態論において 措定された貨幣のー絞的な性格といってよいのではないか。後おについて.貨幣の支払いが.商品の移動から時間的に恭離 するとしても.それは直接には.貨幣の購買機能を前提とする流通手段としての貨幣の機能てあって「一段と進化した高の 蓄積の手段Jとはし、えないように思われる。個別の商昂販売暑にとっては,販売された商品の等価の貨幣の受け取りである にすぎないからである。 7 )前掲,山口『経済!息論議義』における第l篇第 2章 F貨幣」の梼成を参!!世されたい。 8)?ルクスの「支払手段としての貨幣の蓄積J,f支払手段の準備金J(Kr.. S.123,岩, 192-193ベ ジ)は,一時的に流 通の外で休止するのであるから.その限リで半面の資金性を有するということができる。-20-[4J
世界貨幣むマルクスは,貨幣としての貨幣を,流通からの自立性が確保される段階の展開 として次のように述べている。「金が鋳貨と区別された貨幣になるのは,第 1には蓄蔵貨幣として流 通から引き上げられることにより,次には非流通手段として流通に入ることによる[支払手段]の であるが,最後には,商品の世界で一般的等価物として機能するために国内流通の制限を突き破る ことによるのである。こうして金は世界貨幣となるJ(Kr., S.125,岩, 195ページ)。マルクスのいう ように,「貨幣は,世界貨幣として,その自然発生的な最初の形態をとりもどし」、「地金形態に逆も どりするJ(Kr., S. 125,岩, 195,196ページ)のであるが i国内流通の制限を突き破ること」は,は たして「鋳貨と区別きれた貨幣」の指標とし、いうるのであろうか。 圏内流通と他の国内流通とのあいだに,政治的、あるいは一般に非商品経済的な性格の国境が存 在するのであれば,理論的にはそれを越えて往還する貨幣について論ずることはできないが,そう でないとすれば,各「国民的鋳貨」は,各含有金量にもとづく金平価を中心とする技術的な交換比 率を基礎に国境を越えるだけのことであるから,これは理論的に有意な国境は存在しないのと同じ ことである。だとすれば,これは「鋳貨と区別きれた貨幣」とはいえないことになろうc理論的には, 国内流通にとどまる貨幣に質的に新たな規定を加えるものとはいえないように思われるのである。[5J
われわれは,これまでの主として『経済学批判』の検討を通して,貨幣としての貨幣が一 価値尺度機能が流通への方向性.流通手段が流通の内部における方向性において規定されていた のに対して一一一流通からの方向性において規定されるべきことを,はぽ明らかにできたのではない かと思うつ 次の課題は,この流通からの方向性を限定することである。マルクスの貨幣としての貨幣一一貨 幣蓄蔵,支払手段,世界貨幣一一ーを,資金としての貨幣として再構成した宇野弘蔵の所説を検討す ることを通して課題に迫ろう。 本節の冒頭にも引用したように,宇野は「貯蓄・支払・新規の購入にあてられうる貨幣をすべて 資金といってよLりとしており,この「貯蓄・支払・新規の購入にあてられうる貨幣」は,それぞ れ,蓄蔵貨幣,支払手段,世界貨幣に対応するものと考えてよいように思われる。字野の基本的な 再編の方針は,これら貨幣としての貨幣を.一般的な資金の貯蓄(蓄蔵貨幣)、「支払手段としての 貨幣の蓄積J(~旧原論~, 68ページ), i地金保有量および貨幣量を恨本的に増減するものJ(世界貨幣) として,流通からヲ│き上げられる方向において論理化をはかろうとするものであったといってよい であろう。 宇野は,流通世界における貨幣の諸機能の配置のあり方について次のように述べていた。 「流通手段としての貨幣のまわりには貨幣としての貨幣である資金があり,その周囲に地金 と金製品があって,これも時によっては貨幣となり,流通手段となるJ (~演習原論~, 63べー ジ)。 -21これは,貨幣の諸機能を,流通からの距離を測ることによって整序したものであって,貨幣とし ての貨幣は,そこでは流通からの相対的な外部性を示すものとして措定されているといってよい。 ところで:商品については売手から買手への,貨幣については買手から売手への位置転換が流通 であるが,貨幣についてこのような位置転換が可能で、あるためには,現に買手から売手へ移転しつ つある貨幣のほかに,種々の「流通を休止した [suspendiertJJ (Kr., S.1l5,岩, 179ページ)貨幣が 必要で、あることはL、うまでもないことであるc 商品の販売代金の売手への一時的滞留,マルクスの 鋳貨準備金一一これは流通当事者にとっては宇野の「購買の準備金J(W著』⑤,209ページ)に帰着す る 一 一 r支払手段の準備金」の存在i丸貨幣による商品流通の実現のための条件である。これらは 「絶えず流通に向かつてとぴ出そうとする気持J(Kr., S.11O,岩, 172ページ)を有する貨幣として. 現に位置転換を実現しつつある貨幣の一部をなしているσ むしろ,われわれは,これらの流通に向 かつて出動を待機しつつありながら休止している貨幣の存在によって,流通の領域を画定すること ができるのであって,そのような休止貨幣の存在領域を流通というのである。 このように考えられるとすれば〉マルクスや宇野の貨幣としての貨幣の中には,このような流通 を形成する休止貨幣が含まれているのであって,このような貨幣は,それらが「やがて流通に投ぜ られるべきものJ(q 日原論~, 68ページ), ,.絶えず流通に戻ろうと待ち構えている」ものとしては,流 通からの外部性を確保しえていないものといわざるをえないのである。したがって,支払手段の準 備金が,既に販売され移転された商品の価格の実現のために蓄積されるものである以上,貨幣とし ての貨幣ないし資金としての貨幣の規定は与えられないのである。 このような,貨幣の購買手段.流通手段としての機能の発動に直接に付随する遊休貨幣一一付随 的遊休貨幣,あるいは不随的休止貨幣一一ーは,資金としての貨幣の機能を果たすものとはし、えない のである。それらはー流通の内部において,貨幣機能の一部を担いつつ休止している貨幣にほかな らないのであって,.抽象的富の物質的な定在」として積極的に流通の外部にヲ
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き上げられ蓄積の対 象とされているわけではないからである。 先の宇野の流通世界の構図に貨幣諸機能を配置して整理すれば,次めようにいうことができょう。 「流通手段としての貨幣J [現に機能しつつある貨幣]一一付随的遊休貨幣 「貨幣としての 貨幣である資金J [積極的遊休貨幣]一一商品金にこで¥前2
項が流通の内部に存在する貨幣。地 金は。後2項の双方に含まれうる)。 ここに積極的遊休貨幣は,商品世界の抽象的一般的富として流通の外部にヲl
き上げられた貨幣で あって,流通における諸機能から解放された「フリーな貨幣J(W五十年』下, 800ページ)が資金であ る。商品世界における貨幣の本来の遊休はこのような資金の形態において以外にはありえない。マ ルクスのいうように,「銀または金の貨幣結品は,単に流通過程の生産物であるというだけでなし 事実上この流通過程の唯一の休止している生産物であるJ (Kr., S.131,岩, 204ページ)。2
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かくして,貨幣は一般的富として流通の外に号│き上げられるのであって,資金としての貨幣は「流 通の外にあっても貨幣の一存在形態であり,致富手段とでもいうべき貨幣の一機能形態であるJ9)。 以上から,われわれは,資金を,一般的富それ自体の蓄積を目的として流通から引き上げられる 貨幣と規定することができる。流通の外部に休止する貨幣のようにみえるものであっても,支払手 段の準備金等の付瞳的遊休貨幣は,休止する期聞が流通によって制約されていることによって,そ れ自体の蓄積が目的とされえないのであるから,資金としての性格を完成されたものとはいえないc [6J 宇野は,この資金を i資本に転化する資金J (W五十年』下, 799ページ), i資本に転化しうる 貨幣J(同, 801ページ), i資本に直接転化しうるものJ(W演習原論~, 62ページ)と規定し i貨幣として の貨幣」論全体が,後続の資本形式論への移行規定として位置づけられているように思われる。す なわち. 「流通手段としての貨幣は,購買手段としてあらわれるにしても,それはW - Gの過程で商品 が貨幣に転換されたものとしての購買手段であった。世界貨幣は,これに反して同じく購買手 段としても単にW - Gの結果としての貨幣とはいえない新たなる出発点をなすものとなるこい わば流通の外部から来た貨幣をもって商品を購買するのである。それは蓄蔵貨幣,支払手段と しての貨幣の機能の展開を基礎にして,買うために売るW-G-W'から,売るために買うG W - Gの新たなる流通形式を展開するJ(WI 日原論~, 70ページ)。 「金は,価値尺度としての貨幣の機能を通して,流通市場と地金乃至貨幣の貯蓄との聞を流 出入しつつこの調節を行うのであるが, しかしそれは単に貨幣として行われるものではない。 価格の変動常なき商品流通市場に対して,資金としての貨幣の新なる機能を通して行われる。 支払手段としての貨幣に対し,いわばその積極的展開をなすものといってよい。商品経済的富 として貯蓄きれる貨幣は,必ずまた商品を売って利益をうるために、商品を買うということに、 いいかえれば富の増殖のために使用されることになる。 W-G-W'に対し, G-W-G'の新な る流通形式が展開される。貨幣はかくして資本となるのであるJ(W新原論~, 37-38ページ)。 「支払手段のほうは商品の購入にあたってはじめに出きないであとから出す。世界貨幣は, 資金の資本としての発動にあたるものとしたわけだ。そういうふうに使えるものとしての貨幣, つまりフリーな貨幣だね。旧『原論」の蓄蔵貨幣というところを資金の形成としておけばよか ったかとも思っている。支払手段としての貨幣はその裏側をなしているとも考えられる。しか も支払手段としての貨幣というのは,すでにある程度資本の性格をもってくる。つまり貨幣な しにものを買うという関係は売る方に資金の余裕のあることを前提とする。これが資金でポジ ティブに買うということに転換すれば資本になる。貨幣でポジティブに買うというのも,商品 と貨幣との関係にもう一つ新しい関係を展開きせるわけだけど,貨幣なしに買ういうのも消極 9 )前掲.llJ口 r経 済1Ji':、論議義j.47ベ ンC
23-的に新しい関係を展開させているわけで,貨幣はあとから支払手段として出てくるJ(W五十年』 下, 800ページ)。 要するに,宇野にあっては,蓄蔵貨幣は,資金の貯蓄ないし「資金の形成」に,支払手段は,-貨 幣でポジティブに買う」ということを,掛売買の売り手の資金に余裕があることから展開するもの として,また,世界貨幣は「資金の資本としての発動」として,再構成されているのであって,貨 幣としての貨幣の全体の展開が,貨幣の存在の商品流通からの独立化の進展の論理,-通貨の資金化」 (W著』⑤, 239ページ)の論理,貨幣の資本への転化の論理となっていると考えられるのである。 たしかに宇野のいうように資金としての貨幣は資本に転化する。たしかに,-流通の外部から来た 貨幣をもって商品を購買する」ということは,貨幣の資本としての「新たなる出発点」である。貨 幣が,資本の「新たなる出発点」として「流通の外部から」流通の中に入るとき雫それが貨幣の資 本としての運動の「出発点」をなすことはいうまでもないが,その運動にあっても,貨幣は購買手 段,支払手段等として機能するのであって,この貨幣がその運動から離れて資本となるわけではな い。宇野のいう「流通の外部から来た貨幣」というのが,購買準備金.支払手段の準備金等(われ われはこれを,流通の内部において諸機能を果しつつある貨幣の存在態容として規定した)であれ は、,それは,流通の内部における貨幣の運動を示すものであって,資本としての貨幣の運動の「新 たなる出発点」とはいえない。資本の運動の規定としては,流通への方向性をもたない貨幣の,回 収を目的とする投下をその「出発点」とするのである。 それは,流通の内部における貨幣機能そのものの発動としての流通への復帰で、はなし先に規定 した積極的遊休貨幣の価値増殖を目的とする流通への復帰で、なければならないのである。 われわれは次のように考えたい。貨幣が資金として流通から引き上げられるのは,それが商品流 通世界の一般的富として,流通主体の致富欲の対象となり,蓄蔵の対象とされるからである。流通 主体の致富欲にLi,この貨幣が抽象的で一般的な富として全ての具体的富を代表するものである以 上,限度がない。「いわゆる限界効用は存在しなしり (r[日原論jJ, 65ページ)のであるご流通主体は,こ の資金としての貨幣の増殖行動を展開する。すなわち,貨幣を流通に投じてそれを再ぴ号│き上げる (回収する)。この資金としての貨幣の投下回収の変態運動が資本である。いうまでもないことであ ろうが,資本は流通から貨幣を引き上げるための運動であり,投下するための運動ではなし九先の 引用で,宇野が「支払手段としての貨幣というのは,すでにある程度資本の性格をもってくる」と いうのは,支払手段としての貨幣にあらわれる,流通からの見かけ上の独立性に偏した規定である といわざるをえない。 資本とは,流通の内部における購買機能,交換機能(マルクス,宇野の価値尺度,流通手段とし ての貨幣機能,および支払手段としての機能)を免がれた資金としての貨幣,いわば流通の剰余と しての貨幣の増殖運動体である。資本の諸形式とは,投下された貨幣が経るいわば迂回路を,資本
-24-の増殖様式として種別化して示したものにはかならない10)。 総じて,宇野にあっては,流通から引き上げられる方向で捉えられた資金と,流通へ復帰する方 向で捉えられた資金という