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マラヤ調査旅行覚え書

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Academic year: 2021

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マ ラ ヤ 調 査 旅 行 覚 え 書

-資 料 探 訪 , 金 石 調 査 ,都 市 の歴史 ,

会 館 と宗 洞 ,言 語 と教育

日 比

昨年 8月か ら10月 にかけて約 2カ月間,マ ラヤにお ける華僑研究 の予備調査を行 うべ き任務をおびて現地 に派遣 され た。香港 に到着す るとま もな く, あたか も 東南 アジア各地を まわ って こ られ た平沢前総長 と岩村 教授 とが立 ちよ られ,各地 の事情を くわ し くお聞 きす ることがで きたのは幸いであ った。香港滞在 中,わた くLは思 いがけな くもジ ャパ ン ・ソサ エテ ィで一夕の 講演をたのまれ, その準備や打合せ のために意外の時 間を費 したが, この機会 にいろいろな人 々にあ って有 益な助言を受 けた ことは忘れ られない。マ ラヤでは ク ア ラ ・ル ンプール とシンガポールを根拠地 として, ジ ョホール, マ ラッカ, セ レンバ ン, イポー, タイ ピ ン,ペナ ン等の各都市 とその周辺を約40日にわた って みてまわ った。帰途 にはバ ンコックで数 日をす ご し, い ったん香港 に もどったの ち 台北を 経 由 して 帰 国 し た。その間いたるところで,多 くの便宜をあたえ られ 歓待を こうむ った ことに対 しては,実 に筆舌 につ くし がたい ものがある。 思えば, 8月, 9月のマ ラヤは, 日本 にいては とう てい想像 もつかないほど多事 な ときであ った。かねて か ら懸案であ ったマ レー シア連邦 の成立 が, イン ドネ シアや フ ィリピンの反対 で行 きなやんでい る最 中, シ ンガポールでは戦時 中における日本 の残虐行為に対 し て血債を追求す るとい う動 きがにわかに強 くな って き た。わた くLが シンガポールについたのは, そのため の華僑大会がいよいよ開 らかれ ることにな った8月25 日の前 日であ った。町中す きま もな く貼 られ た排 日ポ ス ターや,戦時 中, 日本軍 によって行 なわれ た とい う 目をおおわせ るよ うな拷問の写真を満載 した新聞をみ ると,事 の重大 さに驚 くとともに,身の危険 さえ感 じ て胆を冷 した ものである。幸 いに して25日の大会 は政 府 当局 の適切な 措 置 によって, い ちお うことな く終 り,やがてマ レーシア連邦の成立 は9月16日に決定 し た ことが発表 され ると, マ ラヤ全土 はたちまちお祭 り 気分 に包 まれて しまったO ことに8月31日はマ ラヤ連 邦創立 の第 6周年記念 日にあたるところか ら, これ と は直接関係 のない シンガポールで さえ,官庁 も学校 も 休んで 前景気を 添え るとい うふ うであ った。 そ うし て, マ レーシア連邦が成立す る9月16日を,わた くL は首都 クア ラ ・ル ンプールで迎えたのであ る。 その前 夜か らの同地 の賑 わいな ど改めてのべ るまで もあるま い。 しか し, このよ うな表面 の変化に もかかわ らず, 日 本に対す る反感 は依然 と して くすぶ りつづけていた。 シンガポールの漢字新聞には, 日本軍 の暴虐行為につ いての追憶座談会の記事が連載 されていた し,それば か りでな く排 日的な空気 は しだいにマ ラヤ各地 にひろ が ってい ったのである。従 って, は じめか ら予定 して いた ことを全然 中止 した り,い ま少 し聞 きたい と思 う ことがあ って も,中途 で引 きあげたよ うな ことも少 な くない。つ ま り, じっ くりと腰を落 ちつ けて調べ るの には多 くの支 障があ ったのであ るが,それ に もかかわ らず, この時期 に得 た体験 は将来 の調査 にきわめて有 意義であ った と思 う。わた くしの親 しくつ きあ った華 僑 の人 々は,学 問の ことはまた別 なのだか らあま り気 に しないよ うに とか, もう20年 も前 の ことだか らお互 いに忘れ るよ うに しよ うではないか,な どとい って, やや もす ると沈みが ちな心を引 きたてて くれ た。 とも か くもい ちお うの 目的をはたす ことがで きたのは, ま った くこれ らの人 々のおかげであ る。

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資料探訪 かねてか ら興 味を もっていたのは,東南 アジアあ るいはその地 の華僑 に関す る中国文 献 は どれ くらいあ って, どこにい ちばんよ く集 って い るか とい うことであ ったo香港 に比較的長 く滞在 したのほ, こ れ につ いての見 当をつ け るとと もに,で きるだ け集 め るのか 目的で あ ったが, これ は失敗 に終 った とい って よいっ とい うのは,香港 では もはや一般 の古書 は払底 をつ げ, 中華民 国時代 の もので さえ きわめて少 くな っ て いた。 当地 は今 E],束 アジアにおける出版 の一大 中 心 であ って, ことに漢字 の榔 坂物 はマ ラヤ方 面で発行 され る もの も, ほ とん どここで 印刷 され る。、古書 の複 製 もさかんで,そのよ うな新 しい出版物 が中共 か らき た もの とともに町 に氾濫 してい る。本屋 の数 は相 当に 多 いのであ るが,古 い資料を採集す る ことな どほ, と うて い10日や半月 の短期間で は不可能 な ことがわか っ た。 マカオは もう少 しこまめに歩 いて,本屋 あ さ りを すれ ば, あ るいは収穫 が あ ったか も知れない。 シンガ ポールや クア ラ ・ル ンプール, ペナ ンも香港 と同様で あ るが,そ こで は中共 の新 しい出版物 がみ られ ないの が違 ってい る。 図書館 はまず香港で香港大学 と新亜書 院 のを見学 し たO前 者 の 漢文書籍 は 嘱平 山図書 館 に 一括 されて い て,相 当の善本 もあ る らしいが,あ る事情 のため内部 を 自由にみ ることがで きなか ったのは残 念で あ る。新 亜書 院 は13年 とい う新 しい歴史 に もかかわ らず, い ち お うの ものが そろ って お り, アメ リカ国会 図書舘 にあ る北平 図書館善本 のマイ クロフ ィル ムが全部そなえ ら れて い るのに感心 したO しか し,わた くしの求 め る華 僑 関係 の文献や,東南 アジアの現地 出版物 が, 日本 の 図書館 に比べて それ ほ ど多 い とは思 われなか った。 こ の方面 の個人 的な蒐蔵家 と して ほ, おそ ら く香港大学 の羅 杏林 教授が第-人 であろ う。氏 を私宅 におたずね したが,数 日後に F]本を経 由 して アメ リカに向われ る とい うことで,ゆ っ くりお話を うかが うひま もな く, 再 会を期 した しだいであ る。 シンガポールにはシ ンガポール大学 の小文 図 書館 が あ る。 これ は1953年 ,同大学 の文学院 に中文系 が新設 され た とき, 華僑有志 の寄 附金 によ ってな った もの で,その蒐禁 には賀光 中教授 があた った。 よ うや く10 年 にな った 図書館 と して は す こぶ ると との って い る が,他 に類 をみないのが現地 発行の漢字 新聞であ る。 その数 は28種 にのぼ り, シ ンガポール最 古の新聞であ 南 洋 大 学 図 書 館 る吻報 (LatPau)の ごとき も1887年 か ら1932年 まで ほ とん どそ ろ って いて,マ ラヤの近代華僑 史を研究す る もの には大切 な宝庫 とい って もよい。南洋大学 の図 書 館 は一般 の漢文書籍 はい ちお うそろ ってい るが, ま だ これ とい う特徴 はないよ うであ る。大学 その ものの 創設 が1956年 で あ るか ら, それ もやむをえ まい。 しか し, この大学 は華僑 教育 の最高学府 であ り,東南亜研 究室 も早 くか らつ くられてい ることで もあ るか ら, ら っと華僑 に閲す る書籍 を蒐 集 して もらいたい もので あ るO と くに現地 出版 の書籍 は もれ な く盗 め, どんな零 細 な文献で もす ぐ利用 しうるよ うな設備 がで きるとあ りが たい。 この点 は シンガポール大学 に対 して も, 同 様 にのぞむ ところで あ る。 国立 ラ ッフル ズ図書館 の英 文文献 の蒐集, と くに尤大 な古文書 が華僑研究 の根本 資料であ る ことはい うまで もないが,今回 はそれを閲 覧 す るだけの余裕 がなか った。 燕僑質料 の蔵 こ.rの富 といえば, 内外 の学者 が こぞ っ て まず シンガポールの陳育損氏 に指 を

す る。氏 の多 年 にわた る蒐 集 は実 にす ぼ らし く,誰 もまだその全

をみた ものがない とい うほ どであ る。氏 は多忙 の車を わ ざわ ざ宿 舎までわた くLを たずねて くだ さったので あ るが,現 在その資料 はすべて ラ ッフルズ図書館 に移 近 し,南洋研究室 と もい うべ き ものをつ くる目的で生 理 中だ とい うことであ った。 目録作成 にはなお半年 を 要 す る との ことで,残 念なが らその完成の一 口も早か らん ことを祈 るほかはなか った

損氏 と双隻 と も

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い うべ き, シンガポールにおける東南 アジア研究の大 家が許雲礁氏である。す こぶ る研究範 囲の広 い人で, 著述 も多方面 にわたっている。 氏 の 書斎 にお もむい て,いろいろ資料についての説 明を きいたのはきわめ て有益であ った。 クア ラ ・ル ンプールのマ ラヤ大学の中文図書館は, 近年 シンガポール大学か ら重複 した漢文書籍 をゆず ら れ, これを基礎 に して拡張 した ものである。従 って, まだ基本図書 を ととのえ るのが精一杯 とい う現状であ ろ う。史学系主任 の王贋武教授は東南 アジア史ない し 華僑史研究家 と して も令名がある。ペナンでは,1952 年清貧の中に一生を終えた華僑問題の老大家,故劉土 木氏の蔵書が,穣城文庫の名で保存 されてい るとい う ことであ ったが,つ いにみ る機会を失 して しまった。 帰途,台北 にたちよったのは,台湾省立図書館 に所 蔵 されている旧 日本時代の南方研究所 の図書をみ るた めであ った。館長の王省吾氏 に うかが うと,書籍 は欧 文18,000, 日文13,000, 中文2,000冊, その他の資 料6,000部, ほとん ど全部が新店 の分館 に 別 置 してあ るとい うことで,時間の関係 か らやむをえず明年 の再 来を期 した。 金石訴査 マ ラヤ華僑 の歴史が明代以前 にさかのぼ るのは誤 りないが, これを現地の漢文資料 によ って う らづ けることは,現在 のところ不可能 に近 い。明代の 金石資料 と してほ,全マ ラヤを通 じてわずかにマ ラッ カの墓碑が2点知 られているにす ぎないか らである。 甲 必 丹 李 公 碑 しか も, みな明末の もの らしく, ともに三宝山の中 国墓地 にあ り, 1は黄絶弘 と妻の 謝氏 の 墓碑で 壬成 (1621,天啓2)冬, 子の貴子および 黄辰が立てたと みえ る。 山の酉麓の路辺 にあって, そばに民国22年 (1933)に修理を加えたさいの記念碑が立 つ。 これ は 人 目 につ きやす いところに あるのでよ く知 られてお り, 郁達夫の 「馬六 甲遊記」(1940)に も出て くるO その2はただ 「皇明」の2字が認め られ るのみで,諺 の墓 とも知れないとい う。 別 にや は り 三宝 山の 南麓 に, ポル トガル領時代に甲必丹 の職 に任ぜ られた鄭芳 揚夫妻 の墓碑 といわれ るものがある。 この人 はつ ぎに のべ る青雲事の創建者で,1617(寓暦45)年 に死んだ と伝え られ るが, この墓碑がはた してその人の ものか どうかは決定的でないと思 う。 つ ぎにマ ラヤで古い漢文碑が もっともよ く保存 され ているのは,やは りマ ラッカの青雲事である。 この寺 は俗称を観音堂 ともいい, 廟堂街

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に あ るマ ラヤ最古の中国仏教寺院 として知 られている。 その創立 は明の隆慶年間 (1567-72)とい う説 もある が, もう少 しのちの ことであろ う。 ここにあ る最古の 碑 は 「甲必丹李公済博愁勲頒徳碑」 とあるもの,文 に よれば李公 いみなは為経,福建の泉州岡安県 の鷺江の 生 まれで,明末 に国難を避 けて当地 に移住 し, オ ラン ダか ら甲必丹 に 任ぜ られ た人である。 立碑の 年記 は 「龍飛 乙丑」 とあ り, 清朝の康興 24 (1685)年 に相 当 す るが, これは明末の遺士が清朝の正朔を奉ず ること をい さざよ しとせず, あえて このよ うな特殊 な年号を 用いていたと考え られてい るoつ ぎが 「大功徳主哲公 領徳碑」で,曽公 いみなは其禄,李為経 の女桁 にあた り,そのあ とをつ いで 甲必丹 とな った人,年記 は 「龍 飛丙成」 とあって, 康輿 45(1706)年 にあたる。 第

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が 「重興青雲亭碑記」で 「龍飛辛酉」の年記がある。 これ は嘉慶5 (1800)年 に相 当 し, 甲必丹 の察士章 ら が この寺を重修 した由来を記 している。 このほかに も なお 道光25(1845)午, 成豊2 (1852)年 以下 の重 修碑があるが省略す る。 三宝 山の西南 に宝 山事 とい う寺院があるが,門前に 鄭和が当地 に駐屯 した さいに開 いたとい う三宝井があ るので名高い。 ここには乾隆60(1795)年 の年記 のあ る 「建造杷壇功徳碑記」が立 ってい る。文 によると, 三宝 山はすでに60年来華僑の墓地であるが、 それ まで 嗣堂がなか ったので, このとき上にのべた察士葦 らが

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新 し くつ くった とい う。 ここにはなお嘉慶6 (1801) 年 の重修 碑 もあ る。 マ ラ ッカのほかで は, ペナ ンに嘉慶時代 の碑が2山 あ るのが

意 され た。 1は広福富 の京慶 5 (1800)

「轍建広福富fFr']金 碑Jo広福富 はペナ ン市 のEli,L、,才耶脚 る廟 で,市外 の

珠峡 の大仰公臓 の神を迎J配 した もの で あ る。嘉

慶 5

年 とい うと, ペ ナ ンが イギ リスの手 に 帰 した1786年 か ら15年 目にあた り,すでに当地 の華僑 が相 当な勢力を もって いた ことを ものが た って い る。 海珠峡 の大伯公廟 には石製 の香炉 が あ って, それ に乾 隆の年 号が刻 されてい るとい うことで あ るが,残念 な が ら確認で きなか った。 2は市外 の広東汀州墓地 にあ る嘉慶6 (1801)年 の 「義塚墓遺碑」。 これ は当時 こ の附近 に しだいにふ えて きた広 東 出身 の華僑墓地 の参 道 をつ くった ときの記念碑で あ る。 は じめは主 と して 広東人 だ けの墓地 であ ったが, の ちに福建 の汀州 出身 者 の墓 も加 わ った らし く, その共 同墓地を管理す る組 織 が生 まれ, これが基礎 とな って今 日のペナ ンにおけ る広 東塵汀州会館 がで きたので あ る。 シ ンガポールにな ると,町の成立 も新 しいだけに古 碑類 も少 ない。嘉慶 は もとよ り遺光時代 の もの もない らし く,市 内で もっと も有名 なのは庭 門街 の率英

完 の碑であ る。立 碑 の年 は成豊11(1861)年 で あ るが, 文 によ るとこの学校 は成豊4 (1854)年 の創立 で,華 僑 の学校 と して シンガポール最古 の歴史 を有す ること がわか るので あ る。 都市 の歴史 マ ラヤの都市 は.人 口のほ とん ど

6-7割 までが華僑 によ って 占め られて い る。 その歴史 は マ ラ ッカが16世紀 に さかのぼ るほか は,み な18

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世紀末 以 後の成立 で きわめて新 しい。1786年 か ら開かれ たペ ナ ン,1819年 に誕生 した シンガポールな どはまだ古 い 方で, クア ラ ・ル ンプ ール, イポ-, タイ ピン等 が都 市 と して発展す るのは さ らにの ちの ことで あ るO い ったい, ポル トガル

時代 にマ ラ ッカにいた ・

冊喬

は3-400人 に過 ぎなか ったろ うといわれ, オ ランダ 領 にな って もたかだか2,000人前後で あ った と考 え ら れ る。 マ ラヤ全体 を通 じて も

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万人 には達 しなか った はずで あ るか ら, ペ ナ ンや シンガポールで初期 に活躍 した華僑 はみなマ ラ ッカか ら出て い った ものであ る。 ペナ ンの建設 当時, イギ リスはマ ラ ッカの了回喬を誘致 す るのにず いぶ ん苦心 した といわれ る。今 ロマ ラ ッカ マ ラ ッ カ の 荷 蘭 街 には河 の東,海岸 の北 に荷 蘭街

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t.)とい う のがあ って, 中国式 の古風 な家並 がつづいて い る。 ま った く広 東や福建 の古 い町に きたよ うな錯覚 に と らわ れ るが, ここが何代 に もわた って住 みつ いた華僑 の町 なので あ る。 シ ンガポール草創 期 の華僑事業家 と して 著名 な腕金声 も,数代前 に福建 の永春 か らここに移 っ た家 に生 まれ たO シンガポールで は さきにのべ た琴英 書 院を立て たのを は じめ,最初 の上水道 を個人 の寄 附 によ って建設 した人 と して知 られて い る。 いま当地 の

僑 はすでに中国語 を忘れ, もっぱ ら英吉吾とマ ラヤ語 を話 して い る ものがあ るが,冠婚葬 祭 な どには本国に もみ られない古 い風 俗を守 って い るものが多 い。 それ は ともか く,今 日のマ ラヤ華僑 は大 部分 が18世 紀 末 イギ リス勢力が進 持 して以後,驚 くべ き速 さで増 大 した ものであ る。例 えば, ペナ ンに して も1820年 の 華僑人 口8,270(総人 口28,849)が1860年 には28,018

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総 人口59,956)とな り,今 口で は総人 口23万余, そ の中の

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% が 華僑 といわれ るo シンガポ-ル にいた っ て は1821年 には下値 人 口1,159(総人 口4,724)であ っ たのが1860年 には50,043(総人 口81,734)に増加 し, 今 日で は実 に総人 口170余万 中,華僑 は75%を 占め る もの と考 え られて い る。 このよ うな 都会地 をのぞ け ば

,

華僑労働者 は, ほ とん ど金鉱 と錫鉱 とを求 めて半 島の奥地深 くわけ入 り,19世紀 の前半 か ら各地 に中心 をつ くりは じめ た。 セ ランゴール とベ ラクの両 州 は,今 日も錫 の産額が もっと も多 い。 セ ランゴール州 の州政府 の所在地 であ り, マ レー シア連邦 の首府 であ るクア ラ ・ル ンプール は錫鉱 業のために発達 した ところであ る。現 在その中 心 は 同市南方 の

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(新街場)で あ るが,

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この附近 で最初に錫鉱が発見 されたのは,西方

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キ ロ ばか りの

Ampang

(暗邦)村であ った。 クア ラ・ル ンプールはそ こに近 く地 の利を 占め るところか ら,労 働者や商人の 集合地 と して 市街を 形成 しは じめ るo ち ょうど今 か ら

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年 ぼ ど前 の ことで,

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河 と

Gomak

河 との合流点 に位 置す るこの町 は, ジ ャング ルに囲まれた湿気の多 い不衛生な土地であ ったに相違 ない。町の実権者 は広東の恵陽出身の錫鉱業者で菓亜 来 とい う豪傑であ った.やがて,かれ と反対派の問に は鉱 区の利権をめ ぐって大規模 な械間を生 じ, クア ラ ・ル ンプールの激 しい攻防戦がは じまる

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年 か ら

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年 にいた るまで奪取 され ること

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回, そのたびに 徹底的な破壊を こうむ ったが, かれ は屈 しなか った。 この町が秩序立 った発展をす るのは,実 に

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年,辛 和 が回復 して以後の ことであ って,菓亜乗 は クア ラ ・ ル ンプールの父 といわれてい る。 なお

Ampang

村 も今 日では比較的 ととの った華僑 町をつ くっていて,立派な華僑の学校 もあ る。 と くに 注意をひ くのはこの地 の九皇廟で,平時 は広 い境 内は ガ ランと して参詣人 もないが,

9月2

7

日前後の廟会 に は非常な賑 わいを呈す る。 クア ラ ・ル ンプールは もち ろん 遠 くシ ンガポールや ペナ ンか らも多 くの参詣客 が集 って くるといわれ るが, それ は この地が古 く華僑 に とって きわめて重要 な中心であ った ことと無関係で はない と思 う。 ベ ラク州北部の

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(太平) ら, クア ラ ・ル ンプール と同 じころに開かれた。 ここは古 く

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n (吉利包) といわれ, や は り錫鉱業の中心であ っ た。 この地 の鉱脈が発見 されたのは

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年 の ころで, これを 目あてに殺到 した華僑労働者 は,広東 出身者を 主 とす る義興党 と客家を主 とす る海 山党 とい う両秘密 結社 に属 していた。

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年 鉱 区の縄張 り争 いが もと ア ン パ ン の 九 皇 廟 で,両党 の間には激 しい械閑が起 り,戦線 はベ ラクか らペナ ン一帯 にわた って

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年 間 もつづいたのである。 これが結末をつげたのはよ うや く

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年 の ことで, こ の鉱 区は首領邸景貴 の もとに海 山党の手に帰 したが, 太平 とい うのは この とき平和の到来を祝福 してつ け ら れ た名である。太平が都市 と して発展す るのはこれか らであ って,今 日広 い公 園の中につ らな っているい く つかの湖 は,往時の錫鉱採掘 のあ とを整理 した ものな のであ る。 ベ ラク州の州政府 の 所在地

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(憎保)の発達 は さ らに遅れ る, 今 日この州の 錫の 産額 はマ ラヤ第-で,総額の半分以上 にのぼ り,

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はその広大 な鉱 区の中心を 占めている。 しか し, この方面 の錫鉱 は交 通条件 の悪 いために きわめて開発がおそ く

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年代 の中ごろにな って よ うや く華僑労働者の進 出がは じま ったのであ る。

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が都市 と して発展す るのはま っ た くその結果であ って, それ までは地図に もあ らわれ かな った寒村が,にわかに都市の形態をな した ことが しば しば旅行者を驚 か して いる。

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年 には 華僑の 人 口 だけで も

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にな った といわれ,

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年 には l

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に増加 し年 々急速 な 発展を とげた。 今 日では

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で, シンガポールをのぞ けば, クア ラ ・ル ン プール,ペナンにつ ぐ大都市 とな ったのであ る。 会虎 と宗詞 初め多 くの 華僑 たちは 外 国- 渡 って も,本国か ら何 の保護 も保証 も受 け られなか ったので あるか ら, 自分で防禦手段を講 じなければな らなか っ た。そのためには同郷人の互助親睦団体であ る会館の 組織や,同族 間の団結 中心であ る宗肩司な どがつ くられ たのであ る。強固な秘密結社が発達 したの も,同様な 理 由か らであ った。 い ったい中国人 は本国にい るとき か ら政府や役所 と関係を もつ ことを き らい,町の中に 住 めば一生のあいだ役所 の門を くぐらず,町の外 に住 めば役所 のあ る町-行 かないです ます とい うのが一種 の理想的な生活であ った。 とい うのは,役所 と関係を 生ずれば必ず 責欲 な役人や背史 に しぼ りと られ るか ら であ って,普通の人 は極力役所を忌避 したのであ る。 その代 り,かれ らには 自分 たちの ことは土地 の有力者 や同族間で解決す るだけの 自治能力を もっていた。 こ のよ うな習慣 か ら華僑 の多 いところには, どこに も会 館や宗 両がみ られ るのであ って,かれ らは多 くの問題 を この組織 によ って解 決 し,対外的な問題が起 ったば あいに も,在外公館以上にその能力 に信頼 してい るの

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で あ る。 ことに都市 では同業商人の組合が盛 んで, この連絡 事務所 を公 会 とか公所 とか称す る。 その 種類 は 多 い が,かれ らは ゴムな ら福建人 ,錫な ら広 東 人,旅館 な どの接客業 は海南 島人 とい ったふ うに,職業 には地方 差 が濃厚 であ るか ら,同時 に同郷人団体 的な性格 を も つ ことが多 い。 これ らを ひ っ くるめた大 きな組織が商 会であ るO シンガポ-ルの ものは中華総商 会 といい, 1906年 に清朝政府 の指導 によ ってで きた もので初め は 中華総務商会 とい ったが, の ち現在 の 名 に 改め られ た。 この よ うな組織 はその他 の都市 に もあ って相互 に 横 の連絡を と り,外貨排斥運動や戦時 における本国救 済資金募集な ど も行 ったので あ るo今回 シ ンガポール で行なわれ た 日本 に対 す る血債追求大会 は, もっぱ ら 当地 の中華総商会 が 中心 とな ったのであ った。 従 っ て, この関係 の人 々にあ って多 くの ことが聞 きたい と い うのは, 当初か らの 目的 の一つで あ ったが,別 の機 会 にゆず らねばないはめ にお ちい ったので あ る。 同 じ職業 に同郷 の人 々が集 中 しやすい よ うに,町 に よ って も地方差 は きわめて濃厚 であ る。例えば, シ ン ガポールやペ ナ ンは福建人 が

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%, クア ラ ・ル ンプ-ルは広東人 が50%を 占め, イポーにな ると広東人が70 % に も上 るとい うOそれで, 同郷 団体 であ る会館 も無 数 にあ って よいわ けであ るが,や は り福建 と広東 とが もっとも多 く,小 は 1県 か ら数県連合,一府 あ るい は 数府連 合の もの,大 は1省 を包描す るものがあ る。 い ったい会館 の成 立 は

国にあ る同郷者 の相互援助 を 目 的 と した もので,新波来者 には住 宅を提供 し職業を斡 旋 し,貧 困者が あれば救済 し,学校を経営 して子弟 を 収 容 し,死者 には墓地 を用意す るな ど, その事業 は無 限 とい って よい

中国人 の習慣 と して墓地 の維持 と管 理 は非常 に重要視す るので,共同墓地 の経営 が会鉱成 立の もとにな った例 は少な くな く,前 にあげたペナ ン の広東壁汀州会館な どがそれであ る。会館 の建物 は同 郷 の富裕な ものの寄 附 によ るのが普通で, たいてい不 動産を もってお り, これを運営 して維持費 にあててい る。建物 を入 ると正面 には関帝や天妃 な ど,同郷人 が もっと も共通 に信仰 してい る神 を まつ り,事務所や

堂 があ り,周 囲の壁 には寄 附金 の額 によ り大 きさの違 った 肖像写真 がず らりとか けて あ る。 2階な どには宿 泊設備のあ るところ も多いっ春秋 の祭 りをは じめ諸種 の式典 や

睦会 が行なわれ るときは別 であ るが,平時 はい た って 静 反であ る,今 日では会箱 によ っ て は その よ うな公共 の会合 はほ とん ど行なわれず, 内部 を しき って貸 しビルのよ うに してい るところ もみ られ る。 この よ うな同郷組織 は対象 とな る地域が狭 く,規模 が小 さければ小 さいほ どまとま りやすいわ けであ るか ら, ともす ると個 々独立 した もの とな って しま う。 し か し,それで は勢力が弱 いので,地方的 に大 き くまと まろうとす る傾 向 もあ るわけであ る。 シ ンガポールで もっと も古い会館 は福建会館 であ る。 源順街 (Telok AyerSt.)の天福官 にあ るが, この廟 は道光20(1840) 年 ごろ福建人 によ って創建 された もので,かれ らの信 仰す る鳩祖 をま ってい る。今 E]シ ンガポール におけ る もっと も盛大な廟 の一 つであ って,会館 は この神の信 仰 を媒 介 と して1860年 に成 立 した ものであ る。 当時 は 華俺 の数 も少 なか ったので福建省 とい う大 きな地域 が 対象 とな ったのであ るが, の ち渡来者が多 くな るにつ れて小地域 を対象 とす る会館がつ ぎつ ぎに生 まれ,分 裂の傾 向を とった ことと考 え られ る。 これ に対 して第 2次大戦 後に成 立 した全 マ ラヤの広東会館の連合体で ある馬広聯会な どは,関係 の会館を連絡 して強力な組 織 をつ くりあげた ものであ る。 マ ラヤ各地 とシ ンガポ ールの広兼会館15を もって組織 され, クア ラ・ル ンプ ールのセ ランゴール広東会館 に本部をおいてい る。 そ の建築 は1960年 にな った コンク リー ト7階建 ての堂 々 たる ビルデ ィングで

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にそびえ立つ。 わ た くしの滞直 中マ レー シア連邦成立の前 日であ る 9月 15円, この楼上講堂 で広東会館連 合第17回の記念式 が 開かれてい た。 そ こで行 なわれ た十数項 目にのぼ る決 議 の第1条が

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「華僑 はよろ し く中華教育を受 くべ し」 とあ ったのは今 も記憶 に新 しい。 それ はと もか く,会 館 に行 って聞いてみ ると, たいてい古 い資料 は第2次 庖技手 を下 して破壊 した もののほか に,かれ らが 日本 軍 の笛 酷 な追求 の材料 とな るのを恐れて,みずか ら澄 滅 させ て しま った もの もあ るのであ ろう。 同族 の団体 には某氏公会,基地某氏互相会な どいろ い ろな名称がつ け られてい るが,ほ とん どみな本 Egに おけ る守護神 や祖先神を中心 にまつ り,歴代の位碑を 並べて桐堂 をつ くり,同族団結 の支柱 と してい る。 ペ ナ ンでは基氏基堂 と称す る ものが多い。 マ ラヤにおけ る もっとも豪華な宗両 と して名高いのは,邸氏 の龍 山 堂 で道北15 (1835)年の建築 であ る。新 しい碑 による

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ペ ナ ン の 龍 山 堂 と,太平洋戦争 中に相当の被害を受 けたので1959年 に 修理を加 えたとみえ る。本両の前 には広場を-だてて 戯台があ り,周 囲に もいろいろの建物があ るが, その 一つに宗議所 とい う額がかか っていて,同族会議 の場 所 であ ることがわか る。外廓 にはすべて邸姓 の家がず らりと軒をな らべてい るのがみわたされ た。邸氏 は福 建の樟州海澄県 出身で,龍 山の名 は祖先の原任地であ る泉州の山名 に もとづ くとい う。守護神 と しては東晋 の謝安を まつ る。 はかに邸氏の別派がつ くった文 山堂 とい うのがあ り,起原 は嘉慶15年 にさかのぼ るが,質 神 はやは り謝安である。 これ ら邸氏 の宗岡の建築や修 理 には,義興党の大立物 と して有名な邸天徳が活躍 し てい るのが注意 された。 その他,泉州恵安県 の林氏の 九龍堂,虞門の楊氏の植徳望,淳州海澄県 の謝氏 の宗 徳望 な どがあ るが,九龍堂 では祖先神 と して鳩祖をま つ ってい る。伝説 によ ると,始祖は末代の人 で姓 を林 とい ったか らであ るOペナ ンでみた宗席司の うちには, 李氏宗両だ とか3姓共 同の宰相察宗繭な どい う,近代 的な コンク リー ト建築 もあ った。 やは りペナ ンの陳氏綾川堂 は樺州 出身の陳氏の宗両 で,祖先 仲と しては唐代 の樟州刺史で開樟聖王の名で 知 られ る陳元光を まつ る。規模 はあま り大 き くはない が,周囲には陳姓の ものが軒を並べて住んでい る。韻 川堂が有名なのは ここに禎川学校 とい う私立学校を附 設 し,一族 の子弟を 自力で教育 して きた ことであ る。 その卒業生を もって組織せ られた陳氏校友会の勢力 も 大 きい。近年学生が多 くここでは狭齢をつげ るにいた ったので,1960年別 の地 に コンク リー ト3階建ての堂 堂 たる校舎を新設 したが, その費用 はすべて陳氏一族 の寄附によ ったのであ る。 言語 と教育 言語 といえば, ほとん ど広東語 しか通 じなか った香港か らマ ラヤに きてみ ると,料理屋のボ ーイや人力車夫 にいた るまで北京語が よ く通 じるので す っか り安心 した。安心す るとともに, 中華民国以来 の国語奨励 の効果 と教育 の力の偉大 さとに驚嘆 したの であ った。 マ ラヤにおいて華僑 の 学校が 生 まれたの は,すでに100年以前 の ことであ るが, 初 めはみな小 規模 な私塾程度の もので, しか も各地方の方言 しか用 いなか ったか ら,連絡 も統一 もとれなか ったよ うであ る。 もともと華僑 はほとん どが無学な労働者や高等 の 学問を必要 と しない商人 た ちであ った。その うえ,本 国の出身 によ って広東,福建,潮 (州)仙 (頑),客家 の 4種, あ るいは これ に海南を加 え ると 5種の言語 に 大別 され,相互の意志 の疏通を欠 くばか りか,風習 も 異 な るので,それが もとにな って対立反 目が たえなか った。 また古い華僑の中には英語教育を受 けて しか る べ き職業 につ き, しだいに母国語を忘れ るもの もで き つつあ ったのであ る。 このような状態をまのあた りみて, マ ラヤの華僑 に 母国の文化を 自覚すべ きことを説 き,学校教育 の必要 を強調 したのは,戊戊 の政変後ペナ ンに亡命 した康有 為であ った。同地 の極楽寺 に行 くと,かれが達筆をふ るった 「勿忘故国」の 4大字が,大 きな 自然石 に深 く 刻 されてい るのが印象的であ る。康有為の影響 によ っ てマ ラヤ各地 に 設立 され た 学校 は 相 当な 数 にのぼ っ た。民国革命 にあた って多数の華僑が孫文一派 に援助 を 惜 しまなか ったの も,そのために母国に対 す る関心 が強化 され た結果 とみてよいであろう。 中華民国が成 立す ると,かれ らはます ますその存在 に対 して 自信 を 高 めるとともに,本国政府 もこれを高 く評価す るよう にな った。近代的学校の設立は第一次世界大戦後の不 ペ ナ ン の 穎 川 堂

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況 によ って一時衰え たが,国民政府 の成立後 は

僑教 育の指導 に非常な熱 意を示 し,北京語を標準語 とす る 国語続一一と中華民族主義の昂場を基本方針 と したので あ る。 この ような植民地政府 の立場 とは相 いれない教 育 も, イギ リスの寛 容な態度 によ ってい ちお うの成果 をお さめた。 しか し,教科書 はすべて本国で編集印刷 され た ものであ り, その中には公然 と反英記事がの っ てい るとい うことで はイギ リス側 も黙過す ることが で きず,華僑学校 に対す る政府助成金 の交附 に条件をつ け, あ るいは監督制度を厳 重にす るな ど対策 を講 じな けれ ばな らなか ったのであ る。 第2次他界大戦が終 って, マ ラヤ連邦が成 立 し, シ ンガポールが 自治州 とな ると, マ ラヤ化 の立場か ら新 たに華僑教育が問題 とな って きた。 マ ラヤ語 が政府 の 公 用語 とさだめ られ,英語 は当分の間併用す ることを 認め られたが, 中国語 は除外 されて しま った。やがて はEij巨謂吾教育 をで きるだけ制限す る傾 向に進 むのは明 らかであ って, マ レー シア連邦がその方針を強化す る ことは疑 いない。 しか し,知識 水準 は全般的 に高 く, 自己の文化 に強 い 自信 を もつ華僑 は, いろい ろな立場 か らこれ に抵抗 を示 してい る。例えば, シンガポール には華僑学校の教師 によ ってつ くられ た 「教師雑誌」 とい う月刊 の漢文誌があ るが, それ には政府側 の委員 と教師の代表者 た ちとの間 に行 なわれ た中国語 教育 に 関す るきわ どい一問-答 を見 ることが あ るO今 rj政府 の首脳部 は相 当数の華僑 によ って 占め られてい るが, ほとん どが中国語 よ りもむ しろ英語 の達者な人 た ちで あ るとい うこと も忘れて はな らないっ しか し,かれ ら がその地位 を維持 して行 くには,一般華僑 の支持が必 要 なのであ って, そのためには 中国語 がで きな くて は こま るO シンガポールの 首相 であ る 李光耀

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氏 は, イギ リス教育 を受 けた人で, 労 働運動の指導者 と して 今 日の 地位 を 獲得 した人であ るっ もともと中国語 は不得手だ ったのであ るが, ここ 数年学習を重ねて演説 も中国語 です るようにな ったの は周知の ことであ る。 このようなマ ラヤ化政策 と中国 文化 との複雑な闇係 は, まだ ここ当分の聞つづ くこと であろ う。 これを象徴 して い るかのごと く思われ るのが, シン ガポールの南洋大学 の問題 であ る。 この大学 は永年 に わた る華僑 の念願が実をむすんで,1956年 中華教育 の 最高学府 と して設 立され た ものであ った。その設 立に は,多 くの富豪 は もちろん人力車夫 にいた るまで,血 の に じみ 出 るよ うな献金 を して応援 した といわれてい る。 しか し,政府経営 の シンガポール大学 に くらべて 教授陣芥が貧弱で あ るとか,設備が悪 い とか, あ るい は基金が不安定 であ るな どい う理 由で, しば しばその 改革が論議せ られ た。政府側 には故意 と思われ るまで にその内容 について非難 す る人 もあれば,第1回の卒 業生が出 るころにな って, シンガポール大学 の卒業生 と同様の資格を与 え ることはで きない とい う意見 も出 たほどであ るo このように して南大問題 は一般華僑 の 大 きな関心 の的 とな ったが,たいていのばあい良識的 な解決が行 なわれ,大学側 に も自発的に改革す る動 き が あ らわれて,協調 しよ うす る気運 に向 ってい るのは 喜 ば しい。政府側 も華僑側 ももっと柔軟な態度を もっ て,将来 におけ る教育 の発展を考 え るべ きであろ う。 それ に して も,今 日もっとも困 った ことは, 当地 の華 僑が表面 は本国大陸 と遮断 されてい ることであ る。40 才以下 の人 は大陸 に渡 ることを絶対 に禁止 されてい る とい う。 ま して新 し く教師を本国か ら迎え ることな ど はで きないO中国語 その ものに して も時代 とと もに変 化 して行 くのは事実 であ る。華僑が独 白の文 化を創造 す るだけの力がない とすれば,い ったい中華教育 の基 礎を どこにおけばよいのか, これ こそ,かれ らに とっ て第一 の重要 問題 であ ると思 うのであ る。

参照

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