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[Turning of the P.B.I.’s Lines and the Land Tax Problem in the the 1930s : A Study of the Loemboeng Padjak ]

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(1)

東南 ア ジア研究 34巻 1号 1996年6月

1

930

年代 イ ン ドネ シア民族党 の路線変更 と地税問題

- loem boeng padjak設立 をめ ぐって

-植 村 泰 夫 *

Turning ofthe P.

B.

Ⅰ.'SLinesand the Land Tax Problem in the 1930S:

A

Study ofthe

Loe

mboe

ngPad

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ak

YasuoUEMURA*

DuringtheGreatDepression,landtaxbecamemoreandmoreburdensomeforthepeasants in Java becauseoftheimpoverished ruraleconomy. P.B.Ⅰ.,oneofthemostactive nationalistorganizationsatthattime,regardedthisasoneofthemostseriousproblems. Initially,itadvocatedreductionofthetaxandagitatedfornonpaymentatmanyvillages inEastJava.Butwiththedeclineofitsinfluencebecauseofsupressionbythecolonial governmentinaboutthemiddleof1933,P.B.I.wasforcedtochangecourse,andaccordi ng-lyitmadeplanstoestablishitsownwarehousesin which tostorericeuntilthelean months(i.e.,theendoftheyear)andpaythelandtaxfrom theprofitwhichcouldbemade onitssalelateratahigherprice.P.B.Ⅰ.begantoexcutethisplanin1935,mainlyinthe LoemadjangreglOn,butsmoothprogresswashamperedbyinterferencefrom thecolonial government,whichwouldnotallow P.B.i.'sparticlpationinthetaxaffairandwantedto maintaintheruleoftheinstallmentsystem,Thisconfrontationbetweenthetwosideswas finally resolved when early paymentbecame possible through reorganization ofthe warehouseasacorporatebodywhichcouldgetfundsforlandtaxfrom theP.B.Ⅰ.'sbank. Thepeasantswhodepositedtheirriceinthesewarehousesthusbecameabletopaythe landtaxwithlesstroublethanbefore.

じ め

1930年代世界恐慌 は,オ ラ ンダ植民地支配 の下 で糖業 を中軸 と した熱帯特産物生産地 - と社 会経済 を再編 されて きた ジャワ農村社会 に大 きな影響 を及 ぼ し,糖業 の栽培縮小 と農産物価格 暴落 による現金収入激減 によ って,農民 の中 には現金不足 が蔓延 し高利貸支配 が深刻化 した。1) この結果,農民 に とって とりわ け地税 は重圧 とな り,植民地政庁 の 「恐慌減額」 な どの軽減策 実施 に もかかわ らず,表 1に示 され るよ うに納入率 は大 き く低下せ ざ るを得 なか った。

* 広 島大学 文学 部; Faculty of Letters, Hiroshima University, I-2-3 Kagamiyama, HigashihiroshimaCity739,Japan

1) その貝体 的 な様子 につ いて は, ブスキにお ける事例 [植村 1993:101-110] な どを参照。

(2)

表 1 ジ ャワ ・マ ドゥラ地 税納入状況 単 位 :ギ ル ダー 凶 作 に 休 閑 に その他の 34,34,052,583,288110 874,899 186,499 3,196 33,460,621 502,248 34,919,004 1,480,780 202,319 270,007 32,951,342 2,812,394 35,138,293 937,082 140,670 5,656,365 28,373,498 3,756,999 34,345,518 1,179,688 131,502 8,659,915 25,018,534 4,507,473 33,345,311 1,287,377 127,121 10,441,860 21,466,077 3,307,672 32,119,182 758,323 128,840 9,631,034 21,557,493 2,662,326 30,452,061 543,286 105,393 8,269,336 21,531,470 1,409,413 28,126,029 464,849 59,554 6,466,449 21,097,924 466,542 26,558,159 355,703 43,472 5,204,733 20,954,251 262,468 年 出所 :I.V.1931Ⅰ:68; 1932I :38; 1933I:27; 1934I:28-29; 1935 Ⅰ:25;1936Ⅰ :25;1937Ⅰ:28;1938Ⅰ:36;1939Ⅰ:41 荏 :査定額,実際の徴収予定額は,翌年の報告にある修正された数字である。他 方,減免額は各年の数字を用いた。 したがって

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a-

b)はCと一致 しない。 ただ し,それほど大きな誤差はないのでeの算出にはCの数字を用いた。 こう した中,東 ジャワを中心 に して活発 な活動 を展 開 したのが, ス トモ (Soetomo)の イ ン ドネ シア研究 会 を母体 に 「イ ン ドネ シア ・ナ シ ョナ リズムに もとづ いて,人民 と祖国 の状況 を 可能 な限 り改善 す ること」 を 目的 と して1930年 10月 に結成 されたイ ン ドネ シア民族党 (Per -satoeanBangsalndonesia,以下,P.B.Ⅰ.と省略)で あ った。同党 は, 1932年 5月 に農民組織 ル ク ン ・タニ (RoekoenTaniP.B.I.,以下 R.T.と省略)設立 を決 め, これ以 降, この組織 を 通 じて 農 村 で の活 動 を展 開 し, 33年 頃 の最 盛 期 に は38支 部,党 員 数2,500名 を 数 え た が [Poeze1988:263],その後 は活 動 が後退 し,35年 12月 に プデ ィ ・ウ トモな どと合 同 してバ リ ン ドラへ と発展 的 に解消 した。 従来,P.B.Ⅰ.につ いて は,政治活動 は活発 とはいえないが社会経済面 で は一連 の 目を見張 ら せ るよ うな活動 を展 開 した と評価 されて きたが [Pluvier1953: 97;Ingleson1979: 125;

Poeze1988:ⅩⅩiii-ⅩXiv],その中身 につ いて は必 ず しも十分 に検討 されて は こなか った。小 論

の課題 は, この団体 が 当時,農民経済 の中で最 も深刻 な問題 の 1つであ った地 税 問題 に どのよ うに取 り組 んだか を検討 し, その意味 を考 え る ところにあ る。 筆者 は先 に糖業 の栽培縮小 をめ ぐる問題 を検 討 した中でP.B.Ⅰ.,R.T.の活動 に も触 れ,この団体 が地税 問題 を も重要 な課 題 と して取 り上 げ,33年 頃 まで は地税 引下 げ要求 を掲 げて不払 いを組織 す る ことも含 めた激 しい運 動 を展 開 した ことを述 べ た [植村 1994]。そ こで小論 で は, それ以 降 の勢 力後退期 にお いて, P.B.Ⅰ.が地 税 問題 へ の対応 と して進 めよ うと したloemboeng padjak (ル ンブ ン・パ ジャ ッ ク :納税 のための米穀倉庫)設立運動 を中心 に論 じる ことに したい。

(3)

植村 :1930年代インドネシア民族覚の路線変更と地税問題 Ⅰ

運動 の経緯 :不払 い闘争か ら

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oemboeng

padjak

設立へ

先 ず

P.

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Ⅰ.,R

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T.

の地税問題 - の取組 みを概観 し

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設立へ と方針 を変更 して い った経緯 を検討 してお きたい。

P.

B.

.

が地 税問題 を闘争課題 と して設定 したのが いっか は正確 に はわか らないが,31年 1 月 の 『政治 ・警察報告』によ ると既 にそれ は活動計画 に含 まれてお り

[

Poe

z

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1988:7],設 立 当初 か ら構想 されていた と思 われ る。 しか し,組織全体 の課題 と して正式 に取 り上 げたの は, 同年4月 29日に開催 された中央執行委員会 が最初 で あ った。 この会議 で は クル トソノ支部 か ら 「現在,米価が暴落 して いるので,地税 引下 げを要請 す る決議 を上 げるべ きであ る」 とい う 提起 がな され,それを受 けて 「集会 に提 出 された説明 とその後 の討論 において,10年期限で設 定 され,それ以前 の10年間 にお ける最低価格 に もとづ いて算定 された地税 は,物価 を考慮 す る と現在 なお高 す ぎ,農民 は固定 した税 に比 べてず っと垂 す ぎると見 な して いるとの言 明が な さ れた ことに鑑 みて,以下 の ことを決議 す る。現行 の規定 か ら独立 した地税引下 げのための特別 規定 を考 えつかせ るよ うに,地税 に係 わ ってい る全 ての者 は困難 な状況 を明 らか に し,政庁 に い くつか の提案 を行 う」 とい う決議 が採択 され た

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6-5-1931,〟)0

1931-1:438-440]。 ここで は,物価 に照 らして地税 が垂 す ぎ,農民 は固定 した税 を負担 して いる者 よ り不利 な状 況 におかれて いるとい う認識 に もとづ いて,地税 引下 げを求 め るとい う方針 が打 ち出 されたの であ るが,2) こうした要求 は32- 33年 に開催 され た各種 の集会 で繰 り返 し提起 され ることに な る。 例 えば,33年 4月 14- 17日にス ラカル タで開かれた

P.

B.

.

第2回大会 で は地税 引下 げに向 けて努力す ることが提起 された

[

Poe

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1988:274]。 また 7月 8- 9日の R.T.大会で は,ス ンジ ョ ト

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が基調演説 でデサ首長 による地税運用 の混乱 を激 しく批判 し,大 会 に参加 した支部 か らも 「地税 は収入 に見合 った形 で課税 されていない」(パ レ支部)

,

「政庁 が 実施 した恐慌減額 が不十分 であ る」(プ ロポ リンゴ支部)

,

「減税獲得 のために R.T.はあ らゆ る 努力 をす るべ きであ る」(バ ニ ュワ ンギ支部)な どの意見 が表 明 された

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R.T

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1933]。そ して,同大会 で は 「地税 を農民 の収入 に見合 った ものに引 き下 げ ること,可能 な らば 廃止 して収入税 に代 え るべ きであ る

。P.

B.

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.

指導部 は軽減実現 のために努力す る」 とい う決議 が上 げ られ [ibid.;

Poe

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1988:296],

P.

B.

I

.

中央委員会 は何人 かのイ ン ドネ シア人 フォル ク ス ラー ト議員 と協 同 して要請活動 をす る ことにな り,実際, フォル クス ラー トで は地税 の50% 2) なお,32年5月14- 16日に開催されたP.B.I.第1回大会では, これに加えて地税の現物納入を 認めよという要求 も提出されたが

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17,18-5-1932,〟)021-5-32

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.

20:304], この要求がどの程度まで実現 したかは不詳である。 241

(4)

減額提案 がな され, 賛成27, 反対 16で可決 された [Kromo Doeto1-9-1933,〟)0 2-9-33, no.35:548-549

]

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また, これ らに もとづ く活発 な宣伝活動 が,公開集会 とい う形 で各地 の農民 の中で展 開 され る。前稿 で述 べたよ うに,そ こには

P.

B.

.

中央幹部 が出席 して農民 の負担 の相対的重 さを指摘 し,同時 にR.T.設立 を呼 びか けた。加 えて地税納入拒否が ア ドバ イスされた り,あ るいは支払 い猶予 を求 め る請願状 が作成 され,それ にはデサ首長 の署名 さえ行 われていた。そ して,実際, 当時 の運動 の最大 の中心地 で あ った シ ドアル ジ ョ県 で は,32年,地税滞納額 が 「デサ ぐるみの 不払 い (R.T.の扇動 によ る)」 な どによ り一層拡大 した と報告 され るよ うな事態 も発生 した [植村 1994:143-145,148-149]。 このよ うに初期 の運動 は地税 引下 げ と納税拒否 とい う激 しい形 を とったので あ るが,33年 中 頃 の厳 しい弾圧 と勢力後退 によ って, それ以降, このよ うな取組 み は もはや不可能 とな った。 P.B.I.,R.T.は方針 の変更 を迫 られ ることにな る。 以下,それが どのよ うに展開 されたかを見 ることに しよ う。 1934年 3月29日∼ 4月2日,P.B.Ⅰ.はマ ラ ンでR.T.と合同 して第3回大会 を開 いた。そ こ で行 われた地税 をめ ぐる運動 の総括報告 は,「33年 7月 R.T.大会 で地税 引下 げのための闘争 を決定 したが,既 にその軽減 は達成 された。ただ し,それがR.T.の活動 の成果 であ るか否 か は 神 のみぞ知 ることで あ る」 とい う状況認識 を示 した。 そ して, 中央執行部 が大会 に提起 した活 動方針 に地税 問題 は含 まれて いなか った [VerslagLandbouw Afdeeling1933]。 しか し,現実 には地税納入 の困難 は決 して解消 されたわけで はなか った。実際,表1によれ ば34年 の滞納率 は 33年 よ りは若干改善 された ものの, なお高 い数値 を記録 してい る。 この結 果, 翌35年 4月18- 22日にス ラバ ヤで開かれたP.B.Ⅰ.第4回大会 で は, 多数 の支部 か ら地 税 に関す る不満 が噴出す ることにな るO すなわ ち 「人 々の大変 な貧困 に もかかわ らず, 当局 は 税 の滞納 に対 して督促状 を発行 し,収穫前 に徴収 しよ うとす る。現物納入 の際 の価格 の算定 は 実勢価 格 を しば しば下 回 ってお り,地 税 を払 わせ るため,官 吏 は籾 を貯 蔵 させ よ うとす る」 (ンゴロ支部)

,

「税納入 のためには高 い利子 で多額 の借入 を しな ければな らない。 当局 は,人 々 が このための現金 を どのよ うに して手 に入 れ るか にはおか まいな しに,税が毎週完納 され るこ とを望 んでい るか らで あ る」(バ ロ ンブ ン ド支部)

,

「税 の管理 はデサ行政 が行 うが,それ は名 目 だ けで あ り,領収書 には 日付 も納入金額 の記載 もな く, コイ ンで印がつ け られ るだ けだ。34年 分 の税金 は33年分 と して登録 され,35年分 と して集 め られた もの は全部横領 された」(バ ンギ ル支部), 「地税 の現物納入 の際, 当局 は籾価格 を実勢 よ りも低 く評価 し,実勢価格 はf2.50な のに評価 はfl.50で あ る」(ブスキ支部)

,

「地税 が収穫前 に要求 され, この結果,華人 や 日本人 による青 田買 いが多 い。地税 の重圧 のために, テ ンゲルの

3

デサか ら人 々は逃亡 した。十分 な 食糧 が な く,税 の滞納 は非常 に大 き く,泥棒 が 日常化 してい る。 これ らの ことは既 にデサ当局

(5)

植村 :1930年代 イ ン ドネ シア民族覚 の路線変更 と地税問題

に申 し出て いるが, 彼 らは詳 しい調査 をす るほど重大 な事態 だ とは見て いない

(クデ ィ リ支

部), 「ケ ンチ ョンで は移民 の結果,貧困が激 しく,地税 の30% 減額 で は不十分 であ る」 (ジュ

ンブル県 の支部) な どの困難 が表明 された [Gobee1935a;Resume1935] 。

これ らの ことは,客観 的 には前年 の大会で の中央執行部 の地税問題総括 と方針か らの欠落 に 対 す る厳 しい批判 を意味 してお り,P.B.I.指導部 は再 び この間題 に対 す る何 らかの方針 を打 ち 出す ことを迫 られたのであ った。この結 果,同大会 で は

,

「地税徴収 に際 して籾価格 の上昇 を待 つ ことを政庁 に要請 す る」とい う決定 が行 われた [Gobee1935a]。そ して,その具体化 のため の最良 の方法 と して,「R.T.組織 は先ず,高 い価格 で販売 で きたその収入 を一部 は税支払,一 部 は生活費 に充 て るため市場価格 の上昇 を待 つ ことを 目的 と して,籾 その他 の農産物 をそ こに 貯蔵す ることを会員 に義務づ けたいわゆ るloemboeng padjakを設立 す る

[Soeara P.B.I.

5-611935,IPO15-づ-35,no.24.・375-376] とい うことが提起 されたO

ここに示 され るよ うに,P.B.Ⅰ.,R.T.は税支払 のための米穀倉庫 を 自 らの手 で設 立す ること を方針化 したのであ るが, それ は大会終了後 に開かれ た執行委員会 で決定 された覚 の行動綱領 に も盛 り込 まれ た [SoearaP.B.I.15-5-1935,IPO2515-35,no.21:321] 。 そ して これ以降, こ

の方式 がP.B.I.の地税問題 に対 す る取組 みの中心 を占め ることにな る。それで は,それ は如何

な る経緯 によ り方針化 され, どのよ うに実践 されたのであ ろ うか。以下, その点 を検討 す るこ とに しよ う。

H

loemboeng

padj

ak設立 の経緯

P.B.Ⅰ.が 自 らの米穀倉庫設立 の計画 を持 ったのは, 既 に1931年初 めにおいてであ った。 同 年 の 『政治 ・警察報告』 は,1月 には P.B.I.の活動計画 の中 に loemboengdesa (村落米穀倉 庫)設立が含 まれ ると指摘 して いる [Poeze 1988:7]。 この時期,それを進 めたの はバ ニ ュワ ンギ支部 であ った。 同支部 は4月 まで にはス ンブルサ リ, ス ンブルマニス, ゲ ンテ ン, ト ゥ ム グルな どのデサ にloemboengra'jat(人民米穀倉庫)な る ものを設立 し,4月 29日に開催 され たP.B.Ⅰ.中央執 行部会議 で は これ を全体 の方針 とす ることを提起 して いる。 その内容 の詳細 は不 明で あ るが,会員 の籾 を協 同組 合原則 で保管す ること,政庁 のloemboengdesaの精神 に 沿 って,50% の利子 を付 けて種籾 の貸付 を行 うことによ り,高利貸支配 か らの脱却 を図 ること

を主 な 目的 とす る ものであ った [ibid.:24-25;AdviesvoorInlandscheZaken 1931]。3)

3) 『政 治 ・警 察 報 告』 や4月 29日会議 でのバ ニ ュワ ンギ支部 の発言 によれば, その設立 の事情 は大 要次 の通 りであ った。 この地域 で は農 家 1戸 当た りの平均耕地面積 は1.25バ ウと狭 いため に収入 が少 な く, 常 に外国人経営 の精米所 か ら種籾 を借 り入 れな ければな らないが, この場合, 1ピコノ

(6)

しか し, これ は方針化 され なか った よ うで,その後,33年 にな って これ とは大 き く性格 の異 な る米穀 倉庫設立 の動 きが始 ま った。この年,P.B.I.ルマ ジ ャン支部 はR.T.設立 直後 に,収穫 直後 に預 け入 れ られ た籾 を価格 が上昇 す るまで貯蔵 し, その販売利 益 か ら地税 を支払 うことを 目的 とす るloemboengpadjakの設立 を計画 して いた とい う [RegentLoemadjang1935] 。

そ して,恐 ら くは こう した動 きを受 けて,SoearaOemoem 17-6-1933は,loemboengdesaと は原理 を異 にす るloemboengR.T.設立 が提起 されて い ると報 じ lIPO24-6-33,no.25:3941 395],それ は 7月 のR.T.大会 の スパ ル ト(Soeparto)演説 で具体 的 に提案 され る ことにな る。 そ こで は, 「loemboeng desaが現在 ほ とん ど利 用 されて いないの は人 々が現金 を望 むか ら で あ り, そのため に農民 は借金 に苦 しんで い るのだ」 との現状認識 が示 され た後, その改善策 と して 「現金 へ の欲求 と闘 わね ばな らない。仕事 に対 す る愛着 を取 り戻 さな けれ ばな らない。 それ ゆえ R.T.は米穀倉庫 を設立 す るので あ って, そ こには 『苗』 と 『端境 期』 を見据 えた ス トックが貯蔵 され る。 税 もこの蓄 えか ら払 われ るべ きで あ る。 しか し, 人 々 は先 ず,籾 価格 が 上昇 す るのを待っ 。 それ は12月であ る。 だか ら, この米穀倉庫 は一時 的 な保証 と して役立っ 。 こう した方 法 によ って,loemboengR.T.は政庁 の仕事 を軽減 す る」 と提起 され, プ ロポ リン ゴ支部 な どの賛成討論 を経 て,「loemboengdesaは,農民 の必要 に応 え る もので はない。 この 必要 を満 たす ことがで きるよ うに,R.T.の全支部 が,農民 の力 に基礎 をお く自分 自身 の米穀 倉 庫 を設立 しな けれ ばな らな い。 この米穀 倉庫規定 の細部 は,P.B,I.中央指導部 に一任 す る」 と い う決議 が上 げ られた [VerslagR.T.Congres1933] 。 この よ うに,loemboengR.T.は3つ の機能 を果 たす ことを期待 されて方針化 され た。 そ し て それ らはその機能 に応 じてloemboengpadibibit(種籾用),loemboengpatjeklik(端境期 の食糧 用), そ してloemboengpadjak(地税支払 用) と称 され る ことにな る。

この方針 は, 翌 34年 3月 29日∼ 4月 1日のマ ラン大会 で も R.T.の活動 方針 と して再 び提 起 され たが [VerslagLandbouw Afdeeling1933], 実際 の設立 は 35年 4月 のP.ち.Ⅰ.大会 の 直前 にな ってか らで あ り,先 ず ルマ ジ ャン支部 の手 で ス コ ドノ及 び シ ドレジ ョにお いて行 われ

た [SoearaP.B.I.5-6-1935,〟)0 15-6-35no.24:376;RegentLoemadjang1935]。4)

\ルの借入に対 して2- 3ピコルを返済 しなければならない。加えて,農民 は常に前借 りをしている

ので, 米を適切な価格で販売することができない。 こうした状況を改善するため, 同支部は先ず

2月にスンプルサ リ村 (ゲンテン郡) に,次いでスンブルマニス, ゲンテン, トゥムグルにこれ

を設立 した。 これ らがどのように機能 したかは不詳であるが,ゲ ンテンでは当初資本flOOを1年

以内にf200にまで増やすことができたとされる。 また, これらは籾の貯蔵 ・貸付以外に可能なら

ば緑肥の使用の宣伝を行 うことも計画されていたという。 詳 しくは [SoeloehRa'jatIndonesia

6-511931,IPO1931Ⅱ:438-439;AdviesvoorInlandscheZaken1931]を参照。

4) 35年大会ではクディリ支部 も既にloemboengR.T.を備えていると発言 しており,35年前半期に

(7)

植村 :1930年代 インドネシア民族覚の路線変更 と地税問題 と ころで, これ に関 して のル マ ジ ャ ン県 知事 とP.B.I.側 の評 価 は全 く相反 して い る。県 知事 はマ ラ ン州 理事 宛 の書簡 (35年 6月19日付 け)の中で

,

「この試 み は満足 な成 果 を上 げ るこ と が で き な か っ た。上 述 の 場 所 に お け る R.T.会 員 は, 現 在 , そ れ ぞ れ 5人,58人 で あ る」 [RegentLoemadjang1935] と, 否定 的 な評 価 を与 えて い る。 他方 35年大 会 にお け るス ン ジ ョ トの演 説 で は 「ル マ ジ ャ ン地 方 の納 税準 備 の ため の米 穀 倉庫 の存 在 は, 既 にR.T.会員 に よ って その利点 を認 識 されて い る。この米穀 倉庫 は R.T.会員 の発展 と力 を も示 す もので あ る。 -- この よ うな ものが設 立 されれ ば,人 々が滞納 して い る税 を納 め るため に作 物 や土地 の権利 を質 入 れ しな ければ な らず, 時 に はデサの土 地 を売却 す る こと さえ あ る とい った, 税支払 いの 際 に しば しば起 こ るよ うな, 国 家 に対 す る義 務 遂 行 時 の意 志 的 な行 為 と闘 う こ とが で き る」

[Verslagpertanian1934]と,先 に上 げたloemboengR.T.の3機 能 の うち,地税 対策 と して の側 面 が高 く評 価 され る。 この こ とが,P.B.Ⅰ.中央執 行 部 が マ ラ ン大 会 で これ を地 税対 策 の切

り札 と して改 めて方 針化 した理 由で あ った と思 わ れ る。

そ して実 際,39年 に政庁経 済部官 吏 の ジ ョヨ- デ ィクスモ は 「と りわ け,農民 に よ る地税支 払 の困難 が, この制度設 立 を導 いた」 [Djojohadikoesoemo1939:176] と,loemboengR.T.

設立 が主 と して地 税対策 だ った ことを示 唆 してお り, また逆 に, 南 ジュ ンブル の ケ ンチ ョン副 郡 に 関 す る農 業 指 導 官 ス ビア ル ト (Soebiarto)の37年 の報 告 で は, 3種 類 の うち,l oem-boeng bibitは実 現 されず, loemboeng patjeklikもなお あ ま り設 立 が進 ん で いな い とされ

る。 5) この よ うに,loemboengR.T.の性格 は次 第 に地 税 支払 の困難 を解 消 す るた めの もの-と特 化 して い ったので あ った。 さて,以 上 の よ うに して方 針化 され たloemboengR.T.は, ジ ョヨ- デ ィクスモに よ る と30 年 代 末 まで に ル マ ジ ャ ンで は14カ所 に設 立 され たが, その他 の地 域 で は ス ラバ ヤ と シ ドアル ジ ョ併 せ て6カ所設 立 され ただ けで あ った とい う

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.

]。この よ うに,ル マ ジ ャ ンを除 けば \総括報告 は,「loemboengR.T.設立は実行に移されたが, この際,やはり妨害を経験 した。 この 組織の大半はベス トを尽 くし,1933年か ら34年にかけて多数の会員が利益を受 けたが,その計画 の全てを完全に達成 したわけではない」 [VerslagLandbouw Ardeeling1933] と述べるが, 貝 体的な設立事例の報告 はなく,34年大会以前に実際に設立 されたかは疑わ しい。 5)前二者の仕組みとその設立が進 まなか った事情 は, 次の通 り。 loemboeng padibibitは預けられ た籾を播種期に返済 して種籾を確保することを目的とするものであるが, 例えばケンチ ョンでは, 人 々は自分の種籾を家 に蓄え ることに慣れ親 しんでおり, また,種籾の質を改善する必要 も当面 はなか ったので, これに対する要求は少な く実現に至 らなかった。 またloemboeng patjeklik は, ここでは, 参加者が富裕度に応 じて籾を提供 し, 貧困な農民 は提供義務がない。 集められた 籾 は, 他の会員に対 して収穫期に25% の利子を付けて返済する条件で端境期に貸 し付 けられる。 利 子 の25% の うち の 10% は諸 経 費 を差 し引 い た後 に提 供 者 に配 分 され,15% は貯 蓄 籾 (spaarpadi) として蓄え られる。 そ して, 貧困者に対 して籾の貸付が可能になるように, 例えば 粗 7ピコルを供出 した農民 は自らは5ピコル しか借入れができないという形での借入額の上限が 設けられた。 こちらの方は多少設立が進んだようであるが, 「なお, どこで も設立 されたわけでは ない」 という状況であった [RapportR.T.1937] 。

(8)

そ の設 立 は決 して順 調 で はなか った。6)

こ う した状 況 は, 当時 のP.B.Ⅰ.,R.T.勢 力 の消 長 と関連 が あ った。前 稿 で も述 べ た よ うに,

33年 中 頃 か らの厳 しい弾 圧 の結 果 , これ らは勢 力 を大 き く後 退 させ たが,7) それ は特 に それ ま

で の運 動 の最 大 の拠 点 で あ った シ ドアル ジ ョや, モ ジ ョケル ト, クデ ィ リな どに影 響 を及 ぼ し た。 しか し, こ う した 中で もP.B.Ⅰ.ル マ ジ ャ ン支 部 の み は,34年 大会 報 告 で は 「妨 害 に もか か わ らず活 動 を継 続 し, そ の地 位 を安 定 させ た」 支部 とされ [Verslag Landbouw Afdeeling 1933], 35年 大 会 時 に も支 部 活 動 が活 発 で あ り R.T.を新 た に設 立 で きた唯 一 の支 部 で あ る と 報 告 され る [Verslagpertanian 1934]。 こ う して,R.T.活 動 の中心 は30年 代 前半 期 の シ ドア ル ジ ョか ら後 半 期 に はル マ ジ ャ ンへ と移 行 した。 そ して, ル マ ジ ャ ンで は35年 12月 にバ リン ドラが成 立 した以 降 も,loemboengpadjak設 立 が支 部 活 動 の中心 に据 え られ, そ れ まで に設 立 済 み の ス コ ドノ, シ ドレジ ョ,ケ ンチ ョンな どの デサ に加 え て,遅 くと も36年 2月 頃 まで に はカ ラ ンサ リ, ジ ョ ンバ ン, ク ラ トン, ロ ウ ォカ ンク ンとい った デ サで も設 立 が進 め られ た。8) こ う した こ とが, ル マ ジ ャ ンに それ が集 中 して設 立 され た背 景 に あ った。 さて それ で は,loemboengpadjak は如 何 な る仕 組 み を持 ち, 実 際 に は どの よ うに機 能 した ので あ ろ うか。 次 に, この こ とを具 体 的 に見 る こ とに しよ う。 6) 当時の記録 には, 設立の困難 さを示す記事が散見 される。 例えば 35年大会でのスンジョト報告 に よれば, ブスキでは宙確保 などのためloemboeng taniの開設 目指 して農民組織を設立 しようと しているとされるが [Verslag pertanian 1934], 37年の報告ではバ リン ドラ ・ブスキ支部が loemboeng設立を計画 したにもかかわ らず成功 していないと報告 される [RapportR.T.1937]。 また, 35年大会のバロンプンド支部発言 は 「宣伝 にもかかわ らず, なお米穀倉庫 は実現できてい ない。住民 はこれを信用 していない」 [Gobee1935a] と, その困難 さを訴えている。 ただ し, こ の 支 部 は37年 に な る と支 部 集 会 で loemboeng cooperatie設 立 を 決 議 して お り [Soeara Oemoem 6-2-1937,JPO 20-2-37,no.8: 118-119], それ以降に設立がなされたと思われる。 もっとも, ジョヨ-デ ィクスモの掲 げる数字 は何年 のデータであるかが示 されてお らず,必ず し も正確な ものではないように思われ る。JPOの記事を追 ってい くとバ リン ドラ.は中∼西 ジャワに もR.T.設立を進 めていることがわか るが,例えば39年 3月にチアンジュールで開催 されたバ リ ン ドラ集 会 で の発 言 に よ る とチ チ ュル ンに は既 に2年 前 か らR.T.が あ り,loemboeng cooperatieを持 っているといった記事が見 られ [Pemandangan 31-511939,1PO8-4139:255], 東 ジャワ以外 で も若干設立 されたよ うである。39年6月27日付 けの歳入局長 -イデ ン

(

A.

∫.

van derHeyden)の覚 書 に は,西 ジ ャ ワ省 知 事 か らの報 告 と して 同 省 に は全 部 で 59の loemboengcooperatieがあると記載 されている [Creutzberg 1974:487]。

7) R.T.の勢力で見 ると, 33年の正式支部 125と支部候補 50, 会員約2万人 (正会員12,500, 会員 候 補7,500) [Darmokondo ll-7-1933,JPO15-7-33,no.28:443;Poeze1988:296]か ら,35年

4月大会時には 97支部,正会員 6,883名 [Verslagpertanian 1934]に減少 している。

8) 36年 4月にバ リン ドラ ・ルマジャン支部長サス トロディコロ (Sastrodikoro) 宅で持たれた, 政 庁経済部 フ リース (E.deVries), ジョヨ-ディクスモとバ リン ドラ中央指導部R.T.責任者 ス ン

ジ ョト, この地域のR.T.カランサ リ,ケ ンチ ョン, ジョンバ ン, スコレノ各支部代表者 との会談 において, 同支部長は 「就任以来,R.T.のある全デサに米穀倉庫を設立するため努力 してきた」 と述べている [SoearaOemoem 29-4-1936,JPO2-5-36,no.18:282-283]。

(9)

植村 :1930年代 イ ン ドネシア民族党の路線変更 と地税問題

I

loemboeng

padjakの特色

従 来 , オ ラ ンダ植 民 地 政 庁 は各 デ サ にloemboeng desaを組 織 して きた。 この制 度 は特 に 1904年 以 降 , 整 備 が進 め られ, 表 2に示 され る よ うに最 盛 期 の 1910年 代 前 半 に は12,000を越 え たが,そ の後 減 少 し,20年 代 後 半 に は6,000ほ どに な った。9)そ の仕 組 み は,収 穫 期 に農 民 の 収 穫 の一 部 を預 け入 れ させ, 端 境 期 の食 糧 用 , 種 杖 用 , 水 田耕 作 費 用 の た め に そ こか ら貸 付 を 行 い, 利 子 を付 けて返 済 させ る もの で あ り, 管 理 運 営 は デ サ首 長 を含 む委 員 会 が担 当 した。 し か し,当初 か ら管 理 者 ,特 に デ サ首 長 に よ る様 々 な不 正 が 問題 に され,そ れ は30年 代 に入 って も後 を絶 た な か った上 に,10)有 利 子 制 とそれ が販 売 した籾 の収 入 が 農 民 に還 元 され な い こ とに

対 す る農 民 の不 満 が大 きか った [Cramer1929:46,148,149,151;EncyclopaedieIV:605 -608]。11)ま た,借 入 手 続 き も煩 雑 で あ り,結 局 ,農 民 は高利 黛 に頼 る こ とに な る とい う [Vers -1agR

.T.

Congres1933]。 表 2 ジャワ ・マ ドゥラにおけるデサ ・ル ンブ ンの推移 ル ンブン数 ル ンブン数 1905年 5,301 1916年 ll,413 1906年 7,424 1917年 10,858 1907年 9,787 1918年 10,385 1908年 n.a. 1919年 9,974 1909年 ll,171 1920年 9,500 1910年 12,542 1921年 9,033 1911年 12,550 1922年 8,310 1912年 12,424 1923年 7,403 1913年 12,424 1924年 6,864 1914年 12,206 1925年 6,453 1915年 ll,683 1926年 6,183 出所 :Cramer[1929:46,148,149,151] 9) loemboeng desaの減少 は, 農民の中に次第 に現金需要が高 まって きた ことの結果であ り, この 結果,政庁の農村対策 の重点 も次第 に現金貸付 を 目的 と した庶民金融銀行,村落銀行 の設二如 こ移 行 していった。 これ らの点 について詳 しくはCramer[1929]を参照。 10) 例えば, ジュ ンブル県 ケ ンチ ョン郡 のスコレノ村のloemboengdesa官吏 は, 貯蔵 されている籾 をデサ住民 に知 らせないまま,その権限 のない数名のデサ住民 の名 である華人 に売却,返済が ま だ残 っている住民 はこれ に対 す る政府 の措置が なされ るまで負債の返済 を拒否 して いたが,その 1人 の家具が差 し押 さえ られ競売 にふ され るとい う事態が発生 した とい う [SoearaOemoem lO -ト1933,〟)0 21-1-33,no.3:42]。 ll) 例 えば33年 の R.T.大会 でバ レン支部 は 「人 々 はloemboengか ら借 りると利子 を付 けて返済 し なければな らない。利子 は椀 1ピコルであ り, その価格 はf4と見積 もられ る。現時点で1ピコル の価 格 は は ば flで あ る。そ れ で も,f4を 利 子 と して 払 わ な け れ ば な らな い。 さ らに, loemboeng全体がf500で売却 された。 この金 はデサ金庫 に貯蓄 され るとい う。 なぜ ? なぜ, こ の金を権利保有者 に分 けることが許 されないのか ?」 [VerslagR.T.Congres1933]と発言 して いる。 247

(10)

それで は,R.T.が設立 を進 めた ものはこれ とどう違 うのであろ うか。我 々は先 に,31年 にバ ニ ュワ ンギ支部 の提起 したloemboengra'jatは方針化 されず,33年 にな って これ とは性質 の 異 な るloemboengR.T.が提起 された と述 べた。前者 の場合 には,協同組合原則 を採用 したた め参加す る農民 は R.T.会員 に限定 された点で はloemboengdesaと異 なるが,有利子制 を採 用 した点 で は変 わ らなか った。 この ことが, それが方針化 されなか った原因であ った と思 われ る。 これに対 して,後者 は原理的にloemboengdesaと異 な るもので ある。33年 の R

.

T.

大会 で の スパル ト演説 は,この点を「loemboengdesaは貸付制度 に もとづいて機能 す る。人 々は借 り 入れ,利子 を付 けて返済 す る。loemboengR.T.の制度 は,貯蓄 である」 [ibid.] と述べ,貯蓄 が主眼であることを強調 している。 その仕組 みをケ ンチ ョンに設立 されたloemboengpadjak を例 に見 ることに しよ う。 ここで は 「R.T.会員 は,収穫後,一定量 の籾 を供 出す る。 価格 は1ピコル当た りflで計算 され る。 例 えばflOの地税 を納 める者 は, 乾燥 による目減 りを計算 に入れて 10ピコル以上 を 供 出せねばな らない。既 に籾価格 が十分 に上昇す る9月 に,この籾 は販売 され る。R.T.執行部 は,預入 れ者 の地税 の全額 をその査定書 (pipil)を添 えて, デサ首長 の もと-払 い込 む。販売 に先立 ってデサ首長 に預入れ者 の名簿 が手渡 され るが, そ こには地税徴収 に当た って これ らの 会員 には再 々負担 をか けないよ うにとい う要望が付 け られてい る。それがなされ るのは,以前, 非会員がloemboeng padjakに粗 を預 け入 れた とデサ首長 に申 し出 ることが時 々あ ったか ら であ る。杖 の販売で出た剰 りは,経費 を差 し

いた後,預入れ者 に分配 され る」[RapportR,T. 1937]とあ り,地税負担額 に応 じて預入 れを行 うこと,籾.価格 が上昇す るまで貯蔵 して,販売 利益 か ら地税 を払 い残 りは返済す ること, この制度 の対象者 は R.T.会員 に限定 されているこ とがわか る。 その管理 はR.T.支部指導部が行 うが,鍵 は3つ用意 され, 1つ は R.T.指導部, 1つ はバ リン ドラ指導部が管理, 最後 の1つ は行政 当局用である [Soeara Oemoem 29-4

-1

9

3

5

,

I

PO

2-5-36,no.18:282-283

]

このよ うに,loemboengpadjakの最大 の メ リッ トは,価格 の安 い収穫期 に預 け入れた籾.を, それが高 くな った時期 に販売 して利益 を上 げ,地税納入 に充て るとともに会員 に還元す るとこ ろにあ った。さて,その実際を35年 に設立 されたカ ランサ リ,シ ドレジ ョの例か ら見 ることに しよ う。 表3aは35年 の営業状況 を示 している。 この段階で は,表示 のよ うに貯蔵 ス トソクが 全て販売 されたので はな く, かな りの部分 がそのまま返済 されて いることがわか る。 そ して, この限 りで は先 の相反す る評価 の うち, 知事 の方 が正 しいように思 え る。 しか し, 表3bに示 され る36年 の状況 を見 ると, 先ず前年 と比べて地税査定額, 貯蔵 ス トックが大 き く増 えてお り, この ことは この1年間に利用者 が急増 した こと,つ ま りこれが農民 に受 け入れ られた こと を意味 している。 また, ス トックは全て販売 で き, その成果 もかな り大 きか った。先ず収穫直

(11)

植村 :1930年代 イ ン ドネシア民族党の路線変更 と地税問題 後 の預 入 れ 期 と販 売 期 を比 べ る と, 籾 価 格 は カ ラ ンサ リで は稲 穂 で 36% , 籾 で 39%, シ ドレ ジ ョで はそ れ ぞ れ 23% ,25% 上 昇 し, この結 果 ,乾 燥 に よ る ス トックの若 干 の 目減 りはあ った ちの の, 前 者 で は f59.82, 後 者 で は f52.14の差 益 が生 まれ, 地 税 納 入 後 , そ れ ぞ れ f94.92, fllO.01が残 る こ とに な った。そ して, この両 者 の差 額 f35.10,f57.87は預 入 れ 者 に返 済 され, ま た, 価 格 差 か ら得 られ た利 益 の5% は loemboengの金 庫 に繰 り込 み, 5% は指 導 者 の収 入 に 充 て, 15% は地 方 R.T.の金 庫 - 入 れ,25% は予 備 費 と し,50% は預 入 れ者 に返 済 され た。 し た が って,最 終 的 に預 入 れ 者 は カ ラ ンサ リで f65.00,シ ドレジ ョで は f83.94を受 け取 った こ と に な る。 こ う して これ に参 加 した農 民 は, 地 税 を支 払 う こ とが で きた だ けで は な く, 若 干 の利 益 を手 にす る こ と もで きた の で あ った。 表3a ルマジャンにおける loemboengpadjakの営業状況 :1935年 R.T.所在地 カランサ リ シ ドレジ ョ 地税査定額 f60.60 f43.40 籾貯蔵 ス トック (ピコル) 59.25 32.84 地税納入前の籾販売量 (ピコル) 31.25 22.84 会員への籾返済量 (ピコル) 28.00 10.00 出所 :BedrijfsresultatenloemboengR.T.

表3b ルマ ジャンにおける loemboengpadjakの営業状況 :1936年 R.T.所 在 地 カ ランサ リ シ ドレジヨ a 地税査定額 f150.67 f299.17 貯蔵 ス トック(ピコル) 収穫直後 籾稲 穂 128.03 161.65 21.50 122.42 乾燥 による減少量 籾稲 穂 3.0.6755 l9.l.6167 販売時 の存在量 籾稲 穂 120.24.2858 11150ー2.0754 1ピコル当た り 価 格 収 穫 時 籾稲 穂 f1.25 f1.30 flー15 f1.20 販 売 時 籾稲 穂 f1f1..7600 f1f1..6050 ス トック価値 b 収 穫 時 f185.77 f357.04 C 販 売 時 f245.59 f409.18 d 価格差か ら得 られた利益 (C-b) f59.82 f52.14 e 地税納入後 の余剰 (C-a) f94.92 f110.01 d d1 ル ンブ ン金庫,指導者収入 (10%) f5.98 f5.21 の d2 地方R.T.金庫 (15%) f8.97 f7.82 倭 d3 ル ンブン予備資金 (25%) f14.95 f13.04 逮 d4 預入れ者-の返済 (50%) f29.90 f26.07 f 預入れ者への支払 い総額 (e-d

+

d4) f65.00 f83.94

(12)

ところで,地税 の徴収 はい うまで もな く政庁 の業務であ り, その円滑な遂行 は植民地 の秩序 の安定的維持 にとって も不可欠 の ものである。 したが って,民族主義団体, ま してや以前 に納 税拒否 を掲 げて活動 した P.B.Ⅰ.が この分野 にかかわ ることがで きるか否か は,政庁 の対応如 何 にかか っている。 そ こで,以下では政庁が このような形での粗 の貯蔵 にどのよ うに対応 した かを,具体的 に検討 してみ ることに したい。

Ⅴ 政庁と

loemboeng

padj

ak

loemboengpadjak成功 の鍵 は,先述 のように価格上昇 まで粉 を保管す ることにあった。 と ころで当時,地税 は分割納入制が一般的に行 われていたか ら, このためには政庁 の協力 によっ て早 い時期 の徴収を猶予 させ ることが不可欠 になる。 先 に見 たP.B.Ⅰ.35年大会の 「地税徴収 に際 して籾価格 の上昇 を待っ ことを,政府 に要請す る」とい う決議 はこのためであ り,P.B.I., R

.T.

支部 はこれに もとづいて交渉 に乗 り出す ことにな る。 さて,35年 の大会後,ルマジャンでは loemboengpadiak設立が さ らに進 め られるが,この

ために P.B.Ⅰ.支部代表 は5月 3日にルマジャンの町の郡長 (wedana-kota)を訪れて協力要請 を行 い,必要な支援 の約束 を取 り付 けた。こうしてカランサ リ村で設立 され ることにな ったが,

その管理 はR.T.に委 ね られた。 そのかわ りR.T.支部委員会側 は, 郡長が随時監察で きるこ

と,その場合 には鍵 を渡す こと,貯蔵 ス トックの一覧表 を作成 し,35年地税 はこの蓄えか ら遅

くとも11月 には納入す ることを約束 した。次 いで 5月 4日,R.T.代表 はヨソウィラングン郡

長 を訪問 し,同様 の条件で ここで も協力の約束 を取 り付 けることに成功 した。

ところが, 5月 20日にな って R.T.支部長 とloemboeng padjakに籾 を預 け入れている 5

人 の会員,及 び P.B.Ⅰ.ルマジャン支部長 はスコ ドノ副郡長か ら呼出を受 け,籾 をそこに蓄えな いこと,地税 を規定通 りの時期 に納入す るように求 め られた。同様 の要求 はカ リボ ト副部長か らもなされた [Gobee1935b] 。 副郡長が何故 この段階で郡長 と全 く逆 の対応 を したのか は不詳であるが,恐 らくは以下 に述 べ るルマ ジャン県知事 の意向を反映 した ものと思 われ る。P.B.Ⅰ.支部 はこの問題 が発生 す る前 の5月 15日に, 県知事 に宛てて, 管轄範囲内の官吏 に対 して loemboengpadjak設立 に必要 な支援 を行 うよ うに命令す ることを要請す る書簡 を送 ったのであるが,県知事 は 17日付 けで 次 のように回答 している。 P.B.Ⅰ.ルマ ジャン支部執行部 の本月 15日付 け書簡 no.105-の回答 として,私 は,米穀倉 庫 に粗 を預 け入れ るのは誰 に も自由であるが,国家 に対す る地税 その他 の税 の納入管理 の 点で は,関係徴税官 は,税 の滞納者 自身を除 く第三者 あるいは団体 とかかわ ることはで き

(13)

植村 :1930年代 イ ン ドネ シア民族党 の路線変更 と地税問題

ず, また,税 の納入 は常 に守 られて きた慣行 の通 りに分割 で, す なわ ち年半 ばには少 な く と も半分 を納 め, 第3四半期 に は少 な くと も3/4, 最終 的 には12月20日に完納 され る とい う形 で行 われなければな らない, とい うことを述 べ る もので あ る。私 には,官吏 に対 して 既 に あ る上 述 の慣 行 以 外 の ガ イ ドライ ンに従 え と命 令 す る余 地 は あ りえ な い。

[SoearaOemoem 21-6-1935no.213,Gobee1935C]

この よ うに, 同知事 は明確 に分割納入 が守 られ るべ きであ ると してお り,先 の副郡長 の対応 は これ に依 拠 した もの で あ った と見 られ る。 さて同知 事 は,19日付 け マ ラ ン州 理 事 宛 書 簡 [RegentLoemadjang 1935]にお いて, こう した回答 を行 った理 由 と して,「P.B.Ⅰ.とかかわ り合 うことによ って,R.T.の規則 が政庁 の方策 であ るとい う誤解 が住民 に生 じやす い。 また, 徴税官 た るデサ首長 は直接 に納税者 との合意 に達 す るべ きであ り,徴税 は行政命令 の問題 であ るか ら厳格 に適用 され るべ きであ る」とい った点 を挙 げて いる。そ して報告 を受 けた州理事 も, この立場 に支持 を表 明 した [ResidentMalang 1935]。

しか し,原住民 問題顧 問官 (AdviseurvoorlnlandscheZaken)12)ホベ-が 「現在 の よ うに

極 めて困難 な時期 にお いて は, このよ うな (loemboengpadjakの- 引用者)計画 は真剣 に 検討 す るべ きであ る。 私 は,知事 が,地税 は決 め られた時期 に決 め られた分割方式 で納 め られ るとい うのが慣例 であ り, それか ら逸脱 す ることはで きない と言 うことによ って片付 けて しま うことは, 間違 った行為 で あ るよ うに恩 う。 ここに含 まれ る重要性 は, そ うす るにはあ ま りに も大 きす ぎる」 [Gobee 1935C]と,県知事 の対応 を批判 す る内容 の書簡 を総督宛 に送付 した こ とで, 問題 は更 に展開す ることにな った。 す なわ ち政庁 中央 は7月 1日,東 ジャワ省知事 に書 簡 を送 り

,

「総督 には,P.B.Ⅰ.がloemboengpadjak設立 に関 して抱 いて い る計画 を,現在 の慣 行通 りで はな い とい う理 由で許 可 しな いの は望 ま しくな い と思 え る。地 税徴収 の現 在 の困難 は, この よ うな米穀倉庫設立 の長所 と短所 に関す る詳細 な調査 を必要 と して い る。 したが って 12) 原住 民 問題 顧 問官 は, もと もとは最 初 に この ポ ス トにつ いた ス ヌ ック ・フル フ ロニ ェ (Snouck Hurgronje)の要求 によ り1889年 に東 イ ン ド政庁 内 に設 け られ た イ ン ドネ シア ・イ ス ラム研 究 の ための臨時 の ポス トであ ったが,91年 か ら正式 な官職 とな った。 当初 は 「東洋諸語 とイス ラム法 のための顧 問官」 (AdviseurvoorOosterschetalenen Mohammedaanscherecht) と称 した が, 99年 か ら 「原住民及 びア ラ ビア人問題顧 問官」 (AdviseurvoorlnlandscheenArabische Zaken)と変 更 され, さ らに後,原 住 民 問題 顧 問官 と改 め られ た。 この官 職 を務 め た の は, ス

ヌ ック ・フル フロニェ (∼ 1906年), - ズー (G.A.∫.Hazeu,1906- 12年), リンケ ス (D.A. Rinkes,1913- 16年), ケル ン (R.A.Kern,1920- 22年, 1923- 26年), ホベ - (E.Gobee, 1926- 28年, 1929- 31年, 1931- 37年) 及 びペイベル (G.F.Pijper, 1937- 42年) の6人 で あ ったが,一般 に彼 らの立場 は 自由主義 的傾 向が強 く, また現 地人 との友好 関係 を大切 に した た め,政 庁 内務 官 僚 とは しば しば意 見 の対 立 す る こ とが あ った といわ れ る。詳 し くは [Gobee andAdriaanse1957:ⅩトXii,1-19;Ingleson 1979:38,40,112,226;Sutherland 1979:38]な ど を参照。

(14)

私 は総督 の命令 によ り,貴下 に対 して

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設立 が

P.

B.

1

.

の宣伝す るよ うに奨 励 され るべ きか否 か, これによ り発生す る行政上 その他 の困難が十分 な形 で除去 で きない もの か とい う点 を,政府 に対 して速 やか に報告す ることを求 め る ものである

」[

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]

と, 調査 を命 じた。 これ に対 して東 ジャワ省知事 は

7

1

5

日に,以下 のよ うに解答 した。 6, それを売却 した収入 か ら地税 を払 うことを 目的 とす る粗 の預入 れ は,支払 い原則 が 様 々な事情 か ら全 く, あ るい は十分 に は維持 で きない地域 で のみ認 め られ るべ き ことだ と,私 は考 え る。 ただ し, こうした場合で も, この方法 に対 して完全 に異議 がないわ けで はな

い。

7,介入 は, それが指定 された地税徴収役 で はない個人 によるものであれ,P.B.Ⅰ.のよ うな組織 による ものであれ,危険であ り,認 め ることがで きない と考 え る。 もし,住民 す なわち税負担者 と政府 の間 に第三者 が介在 し, それがいずれの側 に対 して も責任 がな く, したが ってその 「仕事」 は,完全 に不要で あるのみな らず,税負担者 が この責任 のない仲 介者 の地位 と権限 につ いて誤解 し, その ことか ら速 やかに不正 が生 じるがそれを除去す る ことが困難で あるか ら極 めて望 ま しくない場合 には,政府 は もはや事態 の健全 な推移 に責 任 を持 てない と患 う。 政府機関だ けが,住民 と国庫 の利害 のバ ランスを取 ることがで き, 税負担者 の利益 を擁護 し政府 の利益 に資す ることがで きるのである。 政府が後景 に退 き第 三者 の介入 を招 くな らば, これ によ って両者 の利害 は極 めて大 き く損 なわれ るで あ ろ う と,私 は確信す る。 8, したが って,私 は, マ ラ ン州理事 の ア ドバ イス と,勤務 が長 く極 めて有能 なルマ ジャン県知事 に全 く同意見 であ る

。[

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]

以上 のや りとりにおける論点 は,要す るに次 のよ うであ る。県知事 は(A)徴税 に第三者 が介 入 す ることは望 ま しくな い,(B)分割払 いの慣行 を遵守 すべ きで あ る, とい う

2

つ の点 か ら

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に反対 した。これに対 してホベ-や政庁 中央 は

(

B)

に対 して疑義 を表明 し た。また,(A)につ いて はほとん ど問題 に してお らず,む しろ地税徴収 の実質面 を重視 してい る印象 が強 い。東 ジャワ省知事 の立場 は両者 の中間 にあ り, (B)につ いて は条件付 きで譲 って もよい と したが,(A) の点 で は県知事 の立場 を支持す ると したのであ る。 こうした立場 の相違 が何 に起因す るかを ここで詳論 す ることはで きないが, 1つの手 がか り にな るのは

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日付 け東 ジャワ省知事 の総督宛書簡

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であ る。 この中で省知事 は

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への対応 は政庁 内務部 と経済部で異 な り,前 者,特 にデサ行政が地税 の早期納入 を求 め るのに対 して,後者 は対照的 に収穫期 に粗 を貯蔵す

2

5

2

(15)

植村 :1930年代インドネシア民族覚の路線変更と地税問題 ることを常 に奨励 した と指摘 してい る。 県知事 の立場 は, まさ しく内務部 のそれで あ り, その 背景 には地域 の秩序 を維持 す ることを最優先す る考 え方があ った と考 え られ る。 他方,経済部 が以上 の対応 を取 った背景 には,住民経済 の安定 を通 じて地税 の増収 を計 ることを優先 す る立 場 が あ った と推測で きる。 ホベ -や この段階での政庁 中央 の立場 はそれ に近 か った と考 え られ よ う。 また,東 ジ ャワ省知事 の中間的立場 の背 景 に は,同省 内 の ス ラバ ヤ理事州 ジ ョンバ ン, モ ジ ョケル ト両県 で,loemboengpadjakと同様 の原理 による地税納入促進策が政庁 自 らの手 で 組織 されて いた とい う事情 があ った と考え られ る。 この制度 は,1934年,先ず ジ ョンバ ン県 の 特 に経済状況が深刻 であ った トゥンブラ ン副郡 で試行 され,同年 の地税純査定額 (恐慌減額 を 差 し引 いた後 の査定額)f42,232.04の うち,凶作 によ り f5,870.62を免除 しなければな らなか っ たに もかかわ らず,純査定額 の127% に当た る額 の地税 を徴収 で きた。 これ は全県 の平均地税 徴収率 が101% であ った ことと比べ ると,際立 った成果であ った。 この結果,35年 には この制 度 は県全域 に拡大 され, また, モ ジ ョケル ト県 で も34年 に同様 の制度 が始 め られた。 ジ ョンバ ン県 での仕組 み は大要次 のよ うであ る。収穫 の1/5- 1/4の籾 を預 けさせ, これ によ り籾価格 を刺激 し,価格 が上昇 す る端境期 に これを売却 し, その収入 か ら当年 の地税 を完 済 し,可能 な限 り前年 までの滞納分 を も納入す る。必要 な場合 には,食糧 の乏 しい時期 に一部 を現物 で住民 に提供 し,また,翌年 の種籾用 に も充て る。 この場合,籾 の預入 れ は 「自由意志」 によ ることが強調 され反対 す る者 に対 して強制 は行 われ なか ったが,彼 らには納税督促状が発 行 された。貯蔵 はデサ首長 やデサ役人 の倉庫 になされ るが,個 々の農民 が 自分 の分 を持 ち込 み, それ らは所有者 の名前 を書 いた プ レー トな どを付 けて別 々に保管 された。売却 の際 には,預入 れ者 との協議が行 われ るのが普通 であ った [Ass.ResidentDjombang 1935;Gouverneur OostJava 1935]。

このよ うに, この システムの根幹 も籾 を貯蔵 して価格上昇 を待 ち, その売却収入 か ら地税 を

納入す るとい うことであ り, この点 で はloemboengpadjakと変 わ るところはない。つ ま り,

先 に述べ た (B)の点 は問題 にはされていないのであ った。実際, ジ ョンバ ン県 で はP.B.I.と の地税問題 での話合 いの席上 において も,副理事,知事 は 「現在,籾価格 が低 いので,良 い時 期 に貯蔵 した粗 を売 り, その収入 を地税納入 に充 て る目的で,籾 を貯蔵 す る ことが望 ま しい」 と,その意 図を説明 してい る [RegentDjombang 1935]。違 いは,誰がそれを組織 す るか とい う点 にあ った。東 ジャワ省知事 に とって は, それを政庁 自 ら行 うことが重要 で あ り,P.B.I.の 介入 は認 め ることがで きなか ったのであ る。13) 13) なお,東 ジャワ省知事は35年 7月 15日の総督宛書簡の中で

,

「地税を満たすという原則が危機に 晒されていたモジョケル ト, ジョンバン両県では,P.B.i.とその創造物であるR.T.が現在,新た に考え出 したものとして提起 している対策が,既に1934年に政庁の手で行われたのである。然るノ 253

(16)

さて,以上 のよ うな政庁各部分 の立場 の差 は,36年以 降 にな ると次 の よ うな形 で統一 され る

ことにな る。 この年 の4月, loemboeng padjakの状況調査 にル マ ジ ャ ンを訪 れた ジ

ョヨ-デ ィクスモ は,R.T.支部代表 に対 して 「政府 は税支払 いが何 回 かの分割払 いで行 われ る ことが

望 ま しい と考 えて い る」と説 明 し,「運動 に対 す る妨害 を避 けるため に,庶民銀行 のよ うな籾 を

担保 に前貸供与 を行 うことがで きる機 関 と関係 を結 び, それ によ って粗価格上昇 を待 たず と も 納 税 が で き るよ うに した らど うか」 とア ドバ イ ス して い る。 この結 果, この会 議 で はl

oem-boengpadjakを協 同組合化 す る ことが提案 され, また, 庶民 銀行 との関係取結 びにつ いて は

さ らに協議 を続 ける ことな どが決 め られ た [SoearaOemoem 29-4-1936,JPO 2-5-36,no.18: 282-283]。 この よ うに,ここで は (B)の解決策 が示 された。それ は内務 部 が強 く求 めた分割納 入 を可能 と しつ つ, 同時 に住 民 経 済 を損 な うことな く地 税 収 入 を安 定 的 に確 保 で き る もので あ った。 ただ し,(A) は全 く問題 に され なか った。 それゆえ, この方式 は R.T.に と って も十 分受入 れ可能 な もので あ った。

こ う して,36年5月 のルマ ジ ャン地 区 R.T.会議 にお いてloemboengR.T.を法人格 を持 っ loemboeng cooperatie (協 同組 合米穀倉庫) に変更 す るとい う提案 がな され [Panjebar Semangat2315-1936,IPO 30-5-36,no.22:350],申請 が提 出 され,同年 12月 に認可 され,翌 年初 めに登録 され た。 そ して懸案 だ った これ らに対 す る監督 と融資 は,

P.

B

.

Ⅰ.自 らが設立 した

マ ラ ンの トゥマベ ル銀行 (BankToemapel)14)に委 ね ることにな り,そ こか らの籾 を担保 に し

た融 資 に よ って早 期 の納税 が可能 にな った。 こう して,(B)をめ ぐる政庁側 との対立 は基本 的

に解 消 し, これ以 降, この方式 が定着 す ることにな ったので あ った [Bedrijfsresultatenl oem-boengR.T.;Djojohadikoesoemo1939:176;RapportR.T,1937;SedioTomo5-3-1937, IPO 13-3-37,no.ll:171] 。

り に

最 後 に, この運動 が当時 の状況 の中で如何 な る意 味 を持 ったか を考 えてお きた い。 第 1に, それ は前半 期 の不払 い闘争 を中心 と した運動 か ら,如何 に スムー ズに地 税 を納 入す るか とい う路線 へ の転換 を意 味 して い る。そ して現実 に,R

.

T.

会員 は同 じデサの非会員 に比 べ \に,語 るも不思議なことに, この政府の対策が, まさにP.B.I.側から偽 りの説明をされようとし

ているのである」 [GoverneurOost-Java1935] と述べ, この制度が loemboengpadjakのもと

になったという認識を示 しているが,先述のようにP.B.I.側では既に33年にルマジャン支部が

同様のものを計画 しており,必ず しもこのようにはいえないようである。

14) 正式にはマランの協同組合方式による銀行のセ ンターであり,P.B.I.によって1932年 2月に 12 の 銀 行 を 結 集 して 組 織 さ れ,後 に はバ リ ン ド ラ の 監 督 下 に お か れ た。詳 し く は

(17)

植村 :1930年 代 イ ン ドネ シア民族 党 の路線 変 更 と地 税問題

て地 税 の納 入 が ず っとス ム ー ズで あ り,例 え ば カ ラ ンサ リ, シ ドレジ ョで は 「会 員 は地 税 を

8- 9月 に は完納 す るが,非 会員 は 11,12月 にな ってか らで あ る」 と報告 され る。そ してバ リ

ン ドラが R.T.と共催 して行 う集会 で は, 会員 の義務 と して政府 とデサ に対 す る義務 の遂行 ,

特 に地 税納 入 が強調 され る とい う [GouverneurOosり ava1937]。この点 は,バ リン ドラ側 も 「R.T.の設立 と協 同組 合 を通 して,貧 困 と食糧 不足 に対 して闘 い, 住民 の国家 に対 す る義務, 即 ち地 税納入 を満 たす ことに貢献 した

(1938年 1月バ リン ドラ ・パ スル ア ン地 区第 6回集会 で の ス ンジ ョ ト報 告) と, 農村活動 にお け る重要 な課 題 ・成果 と して総括 して い る [Soeara Oemoem 17-ト1938,〟〕0 22-ト38,no.4:54]。 この ことは協調路 線 - の明確 な転換 で あ り, 恐 ら くはそれが (A) の問題 が未解決 で あ ったに もか か わ らず, この活動 が継続 で きた ことの 理 由で あ ろ う。15) 第2に,この運 動 は会員 のみ を対象 に してお り,その こ とはP.B.Ⅰ.,R.T.の協 同組 合運 動 と して の性格 を よ り明確 に させ た もので あ る とい って よい。それ ゆえ に運動 は,R.T.組織 が比較 的 しっか り して い る地域 で しか展 開 され なか った。 そ して また, この ことは,P.B.Ⅰ.,R.T.が 前 半 期 の対糖 業 闘争 にお いて示 した よ うな農村社会全体 に対 す る働 きか けを放棄 した ことを意 味 して い る。 そ こで は もはや,地域 の秩 序 に対 す る異 議 申 し立 て な どは全 く問題 にな らなか っ た。16)この意 味 で も, この運 動 は政庁 に と って危 険 な もので はな く, 許容範 囲 内 にあ った と考 え られ る。 しか し,この路線 は勢 力後退 を余 儀 な くされ たP.B.Ⅰ.,R.T.に とって はやむ を得 ない選択 で あ った。 そ して, と もか く協 同組 合方式 を通 じて, 自 らの力 で経済 的困難 を切 り抜 けよ うと し た ことは評価 され るべ きで あ ろ う。 実 際, こう した活動 な どを通 じて, 会員 は高利 貸 によ る青

田買 いを防 ぐことが で きた といわれ る [GouverneurOosり ava1937]。そ して また,これ らの

活 動 は,独立後 の イ ン ドネ シアが 目指 した国民経済形成 の基礎 と しての 「家族主 義 の原則 に も とづ く協 同事 業」 (45年憲法 33条 1項 ) につ なが る もので あ った といえ よ う。 付 記 本稿は,平成6年度三菱財団人文科学研究助成金による研究の一部である。 15) ただ し, 内務部 はそれ以降 もloemboeng cooperatieに対 してあまり好意的ではなかったようで あ る. 例 え ばTempo20-7⊥1937は, バ リン ドラ ・ブスキ支部長 は この問題 で副理 事 か ら呼 出 を受 けたが, 副理事はそれにあまり満足 していないふ うであって, 設立を禁止はしなか ったが,失敗 す る こ とに対 す る懸 念 を表 明 し警 告 を発 した, 同席 して いた副 知事 や郡 長 も同様 の警 告 を付 け加 えたと報 じている

[

I

PO

7-8-37,no.32:526]。 16) 地域 の秩 序 につ いて は植 村 [1994] を参 照。 255

(18)

参照文献 ・史料 未刊文書

AdviesvoorlnlandscheZaken 1931:AdviesvoorlnlandscheZaken,no.742/K-Ⅱ,geheim,30Mei 1931,mr569g/31.

Ass.ResidentDjombang1935:Assisitent・ResidentvanDjombangaandenResidentvanSoerabaja,

dd.17Mei1935no.2767/80,mr799g/35.

BedrijfsresultatenloemboengR.T.:BedrijfsresultatenderloemboengsvandeR.T.inLoemadjang in1935en1936,mr268g/37.

Gobee1935a:adviseurvoorlnlandscheZaken(E.Gobee)aandenGouverneur-Generaal,dd.4Juni 1935,no.K 36/KⅡ,geheim,mr670g/35.

Gobee1935b:adviseurvoorlnlandscheZaken(E.Gobee)aandenGouverneur-Generaal,dd.3Juni 1935,no.K 838/KⅢ,geheim,mr671g/35.

Gobee1935C:adviseurvoorlnlandscheZaken(E.Gobee)a且ndenGouverneur-Generaal,dd.26Juni 1935,No.986/K-Ⅲ geheim,mr719g/35.

GouverneurOostJava1935:GouverneurvanOost-JavaaandenGouverneur-Generaal,dd.15Juli 1935,No.361/Gouv.Geheim,mr799g/35.

GouverneurOost-Java1937:GouverneurvanOost-JavaaandenGouverneur-Generaal,dd.22Maart 1937,No.547/Gouv.geheim-eigenhandig,mr268g/37.

Kiveron1935:1eGouverneur-Secretaris(∫.M.Kiveron)aandenGouverneurvanOost-Java,dd. 1 Juli1935No.157/A,geheim,mr719g/35.

RapportR.T.1937:Rapport(doordelandbouwconsulentSoebiarto)overde"R.T."inderesidentie Besoeki(18Febr.1937),mr268g/37.

RegentDjombang:RegentvanDjombangaandenResidentvanSoerabaja,dd.20Mei1935no.104/ geheim,mr799g/35.

RegentLoemadjang1935:RegentvanLoemadjangaandenResidentvanMalang,dd.19Juli1935 no.300/geheim,mr997g/35.

ResidentMalang1935:ResidentvanMalangaandenGouverneurvanOostJava,dd. 3 Juli1935 no.304/P.Ⅰ.D./Cgeheim,mr799g/35.

ResidentSoerabaja1933:ResidentvanSoerabajaaandenGouverneurvanOosトJava,dd.26Juni 1933no.2045/geheim,mr1047g/34.

Resume1935:ResumevandeontvangenantwoordennaaraanleidingvanbetdoordenGouverneur vanOostJavaaandenResidentenopgedragenonderzoekinzakedeopdeopJaarvergadering 1935vandeP.ち.Ⅰ.voorgebrachteklachten,mrlO33g/35.

VerslagLandbouw Afdeeling1933:Verslagvande…Landbouw Afdeeling"vandeP.B.Ⅰ.t.a.V.de R.T.overbetjaar1933,mrlO47g/34.

Verslagpertanian1934:VerslagbagianpertaniandariperhimpoenanP.B.Ⅰ.dalam RoekoenTani Verslag1934,mr799g/35.

VerslagR.T.Congres1933:VerslagvanbeteersteRoekoen-Tani-Congres,gehoudenop 8en 9Juli 1933teSoerabaja,mr957g/33.

刊行史料 ・論文 ・著書 など

植村 泰夫.1993.「世 界恐 慌 とブスキ農 村社 会」『広島大学文学部紀要』53巻特輯号

Ⅱ.

.

1994.「世 界恐慌下 シ ドアル ジ ョ県 にお け る糖業 の栽 培縮小 と農民」『ア ジアの地域 と社 会』今永 清二 (編)勤草書房.

Cramer,J.C.W.1929.HetVolkscredietwezeninNederlandsch-Indie.

Creutzberg,Mr.P.1974.HetEkonomischBeleidinNederlandsIIndie,2estuk.

Djojohadikoesoemo,MargonoR.M.1939.DeParindraenhaareconomischeorganisaties.Koloniale Studien23.

EncyclopaedieIV:EncyclopaedicvanNederlandsch-Indie,deelrV,1921.

GobeeE.;andAdriaanseC.,eds.1957.AmbtelijkeAdviezenvanC.SnouckHurgronje188911936,1ste

(19)

植村 :1930年代 イ ン ドネ シア民族党 の路線変更 と地税問題

deel.

Ingleson,I.1979.RoadtoExile,TheIndonesianNasionalMovement,192711934. I.V.:IndischVerslag,193111941.

IPO:OverZichtvandeInlandsche-enMaleisch-ChinesePers,1918-1940.

Pluvier,L.M.1953.OverzichtvandeontwikkelingdernationalistischebeweginginIndonesieindejaren 1930tot1942.

Poeze,H.A.,ed.1988.Politiek-PolitioneeleOverzichtenvanNederlandsch-Indie,deelIll,1931-1934. Sutherland,I1 1979.TheMakingofaBureaucraticElite.

表 1 ジ ャワ ・マ ドゥラ地 税納入状況 単 位 :ギ ル ダー 凶 作 に 休 閑 に その他の 34, 34, 052,583, 28811 0 874, 899 1 86, 499 3, 1 96 33, 460, 621 502, 2 48 34, 91 9, 00 4 1 , 480, 780 202, 31 9 27 0, 007 32, 951 , 342 2, 81 2, 394 35, 1 38, 293 937, 082 1 40, 670 5, 656, 365 2 8, 373,
表 3b ルマ ジャンにおける l oemboengpadj akの営業状況 :1 936 年 R.T. 所 在 地 カ ランサ リ シ ドレジヨ a 地税査定額 f1 50

参照

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