Title
沖縄県精神保健福祉士協会あゆみの検証−活動の軌跡か
ら見えるもの−
Author(s)
名城, 健二
Citation
地域研究 = Regional Studies(4): 3-23
Issue Date
2008-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/5566
沖縄県精神保健福祉士協会あゆみの検証
活動 の軌跡 か ら見 え る もの-名城
健二*
SocietyofcertifiedpsychiatricsocialworkerofOkinawaPrefectureactivitiesverification
∼ Theoneseenfrom tracksofactlVlty
-Kenji Nashiro 沖縄県における精神医学 ソーシャルワーカーの活動の始 ま りは、1962年、現在の県立精和病院での採用か らと言われ ている。初期の精神医学 ソーシャルワーカーは、職場内の理解や役割が不十分な中、他業務 との兼任が多かった。1983 年に沖縄精神科医療 ケース ワーカーの会が発足 し、組織的な活動が始 まる。1988年 にEl本精神医学 ソーシャルワーカー 全国大会が沖縄県で開催 され、その後、沖縄精神保健福祉実践セ ミナー (通称、や どか りセ ミナー)が10年間 (1989年 か ら1998年)連続で開催 される。それ らの活動 を組織的に行 うことで、組級 としての機能が強化 され、pSWとしての会 員の質的向上につながる。そ して、関係機関への影響や家族会、当事者会の発足 に貢献することになる。 現在は、会の設立当初 よ り会員数が大幅 に増 え、幾つかの課題 を抱 えなが らも、益 々組織 としての活動 に期待がかか るところである。 キーワ- ド :psw、psw協会、組織化、全国大会、や どか りセ ミナー
ThestartoftheactivltyOfthepsychiatrysocil woa rkerinOkinawaPrefectureissaidfrom theadoptionofa presentprefecturalSeiwahospltalin1962・Itwasinsufficientbutalotofunderstandingandrolesintheofficewere hadasforatlinitialpsychiatrysocialworkerandtherealotofadditionalpostswithanotherbusiness・Theassociation oftheOkirLaWapsychiatrymedicalcaseworkerstartsin1983,andasystematicactiVltyStartS・Japanpsychiatrysocial workernationwiderallyisheldinOkinawaPrefecturein1988,andtheOkinawamentalhealthwelfarepractice seminar(aliasYadokariseminar) isheldlenyears(from 1989to1998)morecontinuouslyafterwards.Thefunction astheorganizationisstrengthenedbysystematicallydoingthoseactivities,anditleadsto仙emember■squalitative improvementasPSW.And,itwillcontributetotheinfluenceonarelatedorganizationandtheinaugurationofthe familyassocLationandthepersonconcernedassocia(ion.
Theactivl(yastheorganizationisexpectedmoreandmorethoughthenumberofmembersIncreasesgreatlythan atfirst,aJldithassomeproblemsnow.
Keywords:PSW,PSW ass∝iation,OTganizILlg,NationalathletlCmeetlng,Yadokariseminar
1. はじめに 沖縄県における精神医療の開始は、 1945年の戟時中 米軍が管理 していた収容所内の病院 (G-6-5病院)が起 源 とされている (伊波
,
200 1:69-87)0 1946年に沖縄民政 府立宜野座病院に精神科20床が開設 され、1949年 に金 武村 (現、金武町)浜田海岸近 くに米海軍刑務所 を改 造新築 し、沖縄精神病院 (1954年 よ り琉球精神病院) が開設 される。 1951年、民間医療施設で初めての精神 科病院、島医院が島常雄 により豊見城村 (現、豊見城 市)開設 される。 1960年 には、精神障害者の家族の強 い要望 によ り南風原村宮平 (現、南風原町宮平)に財 団法人立精和病院が開設 され、徐々に沖縄の精神医療 の整備が進んでい く。 沖縄県の精神医療体制 は、 日本本土 と異 なる環境、 経緯で整備 されて きた。その中、 1962年 に平良千代子 (硯、安里千代子)が、沖縄県で最初の精神医学 ソーシ *沖縄大学人文学部福祉文化学科,902-8521沖縄県那覇市字国場555,[email protected] 3「地 域研 究」4号 200時 3月
(
麺
=享 〕
ヤルワーカー (以下PSW) として精和病 院 に採用 され る。当時のPSW は、組織 内での暖味 な位置付 けや社 会 か らの認識不足 の中で、幾多の難題 を抱 え働 いていた もの と推測 される。 1983年 に沖縄精神科医療 ケース ワーカーの会が発足 し、1988年 に 日本精神 医学 ソーシャル ワーカー全 国大 会が沖縄 で開催 され る。1989年 か ら1998年 の10年 間、 沖縄精神保健福祉実践 セ ミナー (通称 や どか りセ ミナ ー) を開催 し沖縄 の当事者、家族 、関係者 に大 きな影 響 を与 えた と考 え られ る。組織設立 当初31人だった会 員は、2007年8月現在、251人 にまで増加 し、今後の組 織的な活動が益 々期待 される ところである。 や どか りセ ミナー に象徴 される ように、沖縄県精神 医学 ソー シャルワーカー協 会 (以後psw協 会)は、これ まで組織 的 に幾多の活動 を展 開 して きた。 しか し、初 期 のPSW個 々の活動記録やPSW協会 の発足 、発展 の経 緯、活動内容等が記録 として現在 まで整理 されてない。 psw協 会の これ までの実践活動 を振 り返 り、それ を記 録 、資料 と して後世 に残す こ とは極 めて重要 なこ とで あ る。今後 のPSW協会 の発展 のため に も、 これ までの あゆみ を早急 にまとめ検証す る必要がある と考 えた。 Ⅰ 研究 目的 psw協会の組織化 の経緯 や、過去 の活動等 を整理 し 記録 、資料 として残 し、可能 な限 りpsw協 会の活動 が 県 内の当事者、関係者 、組織 、団体等 にお よぼ した影 響 を検証す る。 また、psw協会発展 の年代 区分 とpsw 会員の世代 区分 も行 う。研 究の成果が、今後 のPSW協 会活動 の指針 になれば と考 える。 Ⅰ 研 究方法 (ヨ インタビュー調査 (インタビュー者 は表-1参照)。 沖縄県psw協会 に尽力 した方や関係者 に半構造化 イ ンタビュー を行 い、PSW協 会発展 の経過 を確認 、整理 す る。 インタビューは、2006年2月-2007年8月の間、 15名 に対 して延べ15回行 った (一度 に2名の イ ンタビ ューや、2回インタビュー した者 もいる)。尚、 インタ ビュー時 に確認不十分 だった内容 については、後 日電 話 による確認 を行 った。 ② 既存 の記録、資料 を整理 し文献 より先行研究 を行 う。 表-1 インタビュー者一覧表 (名前 ・日時 ・時間 ・場所) 1)松尾美童子 2(氾6年2月1日 (水) 9:50-12:00 晴海荘 2)安 田 照子 2006年2月14日 (火) 9:55-ll:15 オ リブ山病院 3)山内 春枝 2006年3月1日 (水) 9:55-ll:45 ソーシャルハ ウスあごら 4)玉木 昭道 2006年4月10日 (月) 17:00-18:10 玉木病院 5)比嘉 寛 2006年5月16日 (火) 16:00-17:15 那覇保護観察所 6)中下 綾子 2006年5月22日 (月) 10:15-ll:15 天久台病院 7)上里 隆子 2006年5月24日 (水) 11:15-12:15 いずみ病院 8)松尾美童子 2006年6月14日 (水) 12:50-13:30 晴海荘 9)高良 正生 2006年8月2日 (水) 16:30-17:30 サマ リヤ人病院デイケア 10)高良 正江 2006年8月2日 (水) 16:30-17:30 サマ リヤ人病院デイケア ll)谷 中 輝雄 2006年8月31日 (木) 14:30-15:40 沖縄大学名城研究室 12)名嘉 弘幸 2007年2月19日 (月) 17:20-18:30 博愛 クリニ ックデイケア 13)永山 盛秀 2007年3月30日 (金) 21:30-22:40 生活支援 セ ンターなん くる 14)真栄平 勉 2007年8月8日 (水) 17:00∼18:10 田崎病院 15)西銘 隆 2007年8月20日 (火) 17:10-18:20 田崎病院 16)松尾美童子 2007年8月24日 (金) 13:20-14:20 晴海荘17)比嘉 寛 2007年8月24日 (金) 16:10-17:
C
K
) 那覇保護観察所 18)真栄城兼秀 2(刀7年 8月24日 (金) 16:10-1
7
:
0
0
那覇保護観察所 Ⅱ沖縄県精神保健福祉士協会のあゆみ 1) 初期のPSW とその業務 先ず、初期 に活動 していた数名のPSW個 々の業務 を 概観 し、当時のPSW業務の内容 を垣 間見 る。 (D精和病院勤務のPSW 1961年、沖縄精神衛生協 会の神 山茂- (故 人、1958 年 に設立 された琉球精神障害者援護協会 に1959年入職、 後 に財 団法人精神衛生協 会専務理事 ) を中心 に南風原 村宮平 に、財 団法人立精和病院 (規 、沖縄県立精和病 院、1973年 に県立移管)が県 内 6番 目の精神科病 院 と して開設 される。 当時の精和病 院は、ス タッフ不足の 中、看護婦が薬剤の調合や入院者の対応 、家族へ の連 絡、庶務課 と協力 して生活保護 の 申請 を行 い、現在 の ソーシャルワーカー的な業務 も行 っていた。 精和病院設立 当初 よ り、看護婦 と して働 いていた人 物 に山内春枝がい る。 山内は、1960年 に中部病院 に就 職 し、1961年か ら精和病院 にて働 くようになる。 山内 は当時の広範囲な看護婦業務 の中で、薬剤 の調合業務 を振 り返 り、「自分 には、 この業務 は出来 ない と (精和 病 院 を) や め る か ど うか思 い悩 ん で い た。 そ の 頃 (1962年) に平 良千代子が赴任 して きた。 山内は、「彼 女の影響 を強 く受 けてケース ワー カーの仕事 を本格 的 に始めることになった」 と語 っている。山内 と安里 は、 高校時の同級生であった。 沖縄県において最初のPSWは、安里千代子 とされて いる。安里 はⅠ960年 の琉球大学卒業後 、 しば ら くハ ワ イ大学の文化人類学者の調査 (沖縄 の精神 障害者 や 自 殺者の調査) を、 アルバ イ トで手伝 い をす る。その時 に初めて、精神科病 院 に足 を運ぶ。安里 は、その調査 を通 して精神衛生協 会 に も出入 りす る ようにな り、そ こで仕事 のオこ と言 われた、神 山茂- と出会 う。神 山 の紹介 によ り、沖縄県社会福祉協議会 を介 して、 日本 社会事業大学 の研 究科 で1年 間学 び、引 き続 き国立精 神衛生研 究所 で研修 を受 ける。安里 はそ こで、相 木昭 (現、 日本精神保健福祉士協 会名誉会長、聖学院大学総 合研 究所客員教授)、坪上宏 (故人、日本福祉大学教授、 や どか り研 究所所 長 を務 め る) よ り講義 を受 ける機 会 を得 る。 帰 沖後の1962年、「精和病院 を作 っているか らそ この ケース ワーカーにな らないか」 (安里,1998:41) と勧 め られ、精和病院で働 くようになる。安里 は、「草分 けの 時代 で したが、精和 病 院 には独 立 した相 談室が あ り、 ある意味 ではラ ッキーなス ター トを切 った と思い ます」 (安里,1989:25) と語 っている。安里 は当時の状況 を振 り返 り、「経済的な問題が大半で した。医療 を受 け させ たいけ どお金が ない。患者 のため にで きるだけ力 にな るんだ とい う大 きな夢 が一週 間 もす る とつぶ され ま し たね。例 えば母子家庭 の貧 しい家 の息子が私宅監置 さ れてい る。母親が石油 をかぶ って 自殺 したあ と、初 め て措置入 院 させ られ る。大事件 が起 こって初 めて入院 につ なが る とい う八 方 ふ さが りの状 態 で した」 (安 里,1998:43) 「泣 き くずれ る家族 とその場 を共有す るだ けが精一杯 の ワーカー業務 で した」 (安里,1992:48) と 語 っている。 安里 と共 に働 いていた山内は安里 に触発 され、本格 的 に 「ケース ワー クの仕事 を したい」 と考 え、1964年 淑徳短期大学 にて社会福祉 を学 ぶため に一旦精和病院 を退職 す る。卒業後 の 1966年 に帰 沖 し、精 和 病 院 に psw として再就職す る。 山内は、安里 と共 に活発 に働 きグループワー クを行 うようになる。当時のPSW業務 を山内は、「雑用 的 な業務 が多 く、便利屋 とい う位置付 けに不満 を感 じていた。最初は、専門職 とい うプライ ド があ り看護婦 とpswの業務 を区別 したか ったのか も知 れ ない。 しか し、徐 々に便利屋 で良い と思 える ように なった」 そ して後 に、 「自分 は看護婦 であ ったけれ ど pswの仕事 に矛盾 を感 じなか った。業務 を分 けるので な く看護婦業務 の延長 として考 えていた。後 、 自分 の 性格 にPSWが合 っていた と思 う」と語 っている。しか し、 5「地域研究」4号 2008年3月
(
選
一_
畢⊃
当時のPSWの働 きを良 く見ない看護婦 もいた。「ケース ワーカーは、一人の患者 さんにつ きっきりの仕事 をす ることなのか」医者の中には 「ケースワーカーは治療 とい う言葉 をつか うん じゃない」 などと言われ、psw の業務や存在意義 を受け入れ られないス タッフもいた ようである。安里は、「いろんな意味での医者 との葛藤、 看護科 との葛藤 もた くさんあ りました」(安里,1989:31)、 山内は 「看護者の中にはpsw を本当に理解 していない ために、(省略)各病棟でPSWとはということについて 話 したが (省略)非難 された」 (山内,1989:32)と語 っ ている。 1969年 に安里は精神衛生所 に移 り、その後精和病院 のPSWは山内一人になる。山内は、psw に対する批判 的な意見があ り、組織内での理解が十分得 られない中、 業務 をスムーズに果たせず精神的に疲弊 し、1976年 に 那覇市立病院に移ることになる。山内は、「組織の トッ プは、あまりpsw を良いように見ていなかったのでは」 と語 っている。精和病院か らpswがいな くなることを 危倶 し、pswに理解 を示 していた医者が 「ケースワー カー問題 を考 える委員会」 を数回開 く。 しか し委員会 は継続せず、山内が退職 した後、 2年間pSWが不在 と なる。その後、1978年 に仲村信子が採用 になる。後 に 仲村は、「ワーカーの職分は、精神障害の結果残 された 『生活障害』 に対応することだろうと考 え方 を整理 した ところ、 リハ ビリテーシ ョン活動 に関心 を持つ ように な りました」 (仲村,1992:62)と語っている。 ②精和病院の社会復帰運動 当時の精和病院では、入院者の社会復帰運動が盛 り 上が っていた。作業療法 とい う名 目で、近 くの工場、 養鶏場、養豚場、食堂の食器洗い、キビ出 し、洗濯屋 などで働 く入院者が20人程いた。安里は、「体当た り作 戦でいろんな作業 をさが して院内作業、院外作業 をや りは じめた時期であった」 (安里,1989:31)とし、その 職場開拓 をpswである安里、山内が行 っていた。「安い 賃金で雇 えるか ら」 と前向 きに、病院を訪ねる雇用主 もいた。pswは、過1回職場 を訪問 し、相互の連携 を 取 っていた。山内は、「その頃は、地域の理解があった。 それは、病気 を理解 しているというよりもpswがいつ で も、何で も相談にのることが理解 につながっていた のでは」 と語 っている。入院者が働 いて得た賃金は、 病院で管理 していた。その内、9割は本人へ、1割は 入院者全員に院内のパーテ ィー等で還元するという方 法 をとっていた。山内によると、同時期、東京都立松 沢病院は1割本人、 9割は入院者全員に還元する方法 をとっていたらしい。 精和病院の院外作業 として働 く者の中か ら、次第に 病院か ら退院 し、地域の工場内やその近 くの古い家に、 単身で住み働 く当事者 も10人程 出て きた。その中で、 い くつかの事件が地域内で起 こる。 1976年、当事者の 住 んでいた家が火事 にな り、メデ ィアで取 り上げられ 地域で大問題 となる。その時の地域住民は、精神障害 者が起 こした火事 を過大 に批判 したと考 えられる。火 事後 より、地域の理解 を得 るのが困難にな り、病院か らの社会復帰活動が閉ざされ、地域への退院が事実上 極めて困難 となる。火事の原因は、タバ コであったと されている。病院か ら退院 したのは良いが、当時の精 神障害者 に対する社会サービスは皆無であった。仕事 後や休 日に彼 らが過 ごす場がな く、必然的に仲間であ る当事者同士が集 まるようになっていた。それを、地 域住民が奇異な眼差 しで見ていた。その状況でのタバ コによる火事事件で、他 に殺人事件 も起 きた。入院者 の開放的な対応 を していた精和病院の方針は、これ ら の事件 を理由に断念せ ざるを得 ない状況 となる。この 一連の事柄 について山内は、「地域住民のひん しゅくを かって しまいました。 (省略)ケースワーカーとして仕 事 をひろげす ぎた。ケースワーカー一人でやる問題で はない と思 った」 (山内,1989:27)と当時 を振 り返って いる。 ③田頭病院、田崎病院、天久台病院勤務のPSW 安田照子は、1968年に田頭病院 (硯、オリブ山病院) の総務部へ事務職員 として就職する。その半年後 に、 psw として働 くよう病院 より指示 され、pswの仕事 を始める。沖縄県 において安里、山内に次いで3人 日の pswとされている。 安田は当時を振 り返 り、「psw-の認識が低 く医者、 県、福祉事務所 もpsw に対す る理解が足 りなかった」 と語っている。以下安田によると、机 は事務所 にあ り 事務業務 とpsw業務 を同時並行的に行い、 レセプ ト業 務 も行っていた。具体的な業務内容 は、外来受付、入 院費の請求、 レセプ ト、家族 との連絡調整がほ とんど であった。当時は、琉球精神衛生法下で精神科医療の 公費負担が定め られていたがベ ッ ドは常 に満床で、刑 事事件で も起 こさない限 り中々入院で きなかった。琉 球政府の予算は厳 しく、精神科医療の予算 を計上で き ない状況であった。 さらに一般県民の所得は低 く、貧 しい人がほとんどで公的保険に加入で きない者が多 く いた。医療費は自費の人が大半で、家族の一人が入院 となると田畑等の財産 を売 り払い、入院費 を捻出せ ざ るを得な く、中には入院費 を払 えず 自殺する家族 もい た。経済的な相談でPSWのニーズは高 く、 どうにもな らない人には生活保護 申請 を行 うか、措置入院で対応 していた。生活保護の申請は、精神分裂病であれば容 易に受給がで き、措置入院を意図的に利用することも あった。それで も入院ので きない人は自宅監置 される か、浮浪者になっていた。 琉球政府 に勤めていた仲本政幸 (1968年 に琉球政府 公衆衛生部結核予防課 に採用 され、1975年公衆衛生部 予防課感染治療法係、1977年か ら保健所精神衛生相談 員 として26年努める。硯、協会監事) によると、大卒 の給料が58ドル、精神障害者の1ケ月の入院費が約150 ドル、国民健康保険制度はな く一部大手の会社、教員、 公務員等は社会保険が適用 されていた (仲本,2006:16)。 1960年代後半 には、いわゆる 「患者狩 り」が盛んに 行われる。名前 を言えない人を
「
○
○太郎」 と命名 し、 精神病院に入院 させていた。中には、精神障害者では ない浮浪者や知的障害者 もいた。山里八重子 (故人、 勝連病院pswを経て沖縄県精神障害者家族会会長。山 里が勝連病院に就職 した1978年、精和病院に働いてい た山内が管理職 として勝連病院で働いていた)は、当 時 を振 り返 り 「当時は連 日の ように精神障害者による 犯罪が報 じられ、その度 に精神衛生対策の遅れが声高 に語 られ (省略)一見 して精神障害者 と判 る浮浪者が お り、これ らが公安秩序 を乱 し、良俗 に反するとい う 点で (省略)隔離収容する必要があると叫ばれていた」 (山里a,1999:22)と語 っている。那覇市の三越の前 にテ ーブルを置 き、県職員 と県の嘱託医が、身な りの不十 分 な浮浪者 を捕 らえ簡単 に診察 し、措置入院 と診断す ることもあった (山内、安田 もその迎 えに行 ったこと がある)。そのため、措置入院の鑑定の問い合わせが頻 繁で、その調整 に忙 しかった。中には家族か ら措置入 院に して下 さい と相談 され入院調整 を行 うこともあっ た。山内は、「当時は収容の時代で した。巡回診療が始 まり収容が進みました」 (山内,1989:26)と述べている。 小禄裕一 (1968年 田崎病院に事務職員 として就職。 硯、老人保健施設嬉野の園事務職員)は、当初医事課 の業務 を行いなが ら福祉事務所 との連絡対応 を行 って いた。/ト禄 は、病院の方針 によりpsw業務 も行 うよう になるが、病院の経営的な面 も視野 に入れた、psw業 務 を行 っていたことが推測 される。後に人事異動にて、 法人内の幾つかの事務系の業務 に専念することになる。 小禄 は、安里 と時期 は異 なるが、国立精神衛生研究所 で3ケ月の研修 を受けた経験 をもち、当時の協会運営 に尽力 した人物の一人である。 松尾美童子 (旧姓、奥演美童子。硯、生活訓練施設 晴海荘施設長)は、1966年 に東洋大学社会 社学科 を 卒業後、埼玉県で1年間psw として働 く。帰沖後、 しば らく福祉事務所で非常勤職員 として働 き、1969年田崎 病院の心理課 に配属 され沖縄 でのPSW業務 を始める。 田崎病院には、先輩psw 2人が既 に勤務 していた。先 輩pswは、事務的な業務 を中心 に経済的な相談業務 を 行い、入院費未納者の請求業務 も行 っていた。その状 況 を松尾は、「pswの業務は、経済的な問題が大半であ った」 (松尾,1989:27)と語 っている。松尾 は、県外で のPSWとしての経験 を生か し、事務業務 (主 に入院費 の請求業務) と本来のPSW業務 とのこだわ り持 ち続け る。 自宅訪問は、医事課の職員 と同行 し、入院費の件 ワ「地域研 究」4号 2008年3月
(
二
重二二
亘)
は医事課職員が話 し、松尾 は経済的な困窮状態 をどう 支援 したら良いか考 え、他 に困ったことはないか と家 族 に問いかけていた。松尾 はその後、糸満晴明病院設 立 (1974年) と同時に同法人でPSWとして勤務するよ うになる。 大浜信子 (故人、1970年頃に天久台病院に就職)は、 事務職員 (詳細 は現時点で不明だが) として採用 され た後 に、PSWの業務 を行 うよ うにな る。 中下綾子 (1981年天久台病院に就職)によると大浜は、ケース記 録等 をまめに残 し、 とて も勉強家であったそうである。 日本社会事業大学 にて、社会福祉の勉強 をした経験 を 持つ。大浜は、相談全般の業務 を行い、家族面談、調 整、自宅訪問などを行っていた。 その他 に、松尾 によると、久田病院には事務所内に 福祉係 を置 き、その担当者が入院者の生活保護費の管 理や必要な衣類等の購入の業務 を行 っていた人物がい たそ うである。ただ、psw としてではな く、事務職 と しての立場で業務 を行 っていた。協会の研修会などに 顔 を出す ことはなかった。 2)ケースワーカー勉強会 と組織化の機運 個々のPSWがそれぞれの組織で、暗中模索 を繰 り返 し活動する中、1970年 に安里 を中心 に豊見城村真玉橋 (現、豊見城市真玉橋)の精神衛生セ ンターにて、月1 回の 「ケースワーカー勉強会」が開始 される。当時は、 沖縄が 日本 に復帰する前で (沖縄の 日本復帰 は1972年5
月15日)、本土の精神衛生法の適用 など、復帰 に向け ての勉強会 と相互の情報交換が 目的であった。主 なメ ンバーは、安里千代子 (精神衛生センター)、仲村信子 (精和病院)、小禄裕一 (田崎病院)、大浜信子 (天久台 病院)、安田照子 (田頭病院)などであった。それぞれ の組織 で孤 軍奮 闘 していた中で、相互 の情報交換 と psw としてのアイデ ンテ ィティー とは何かをそれぞれ が求めていた。 玉木昭道 (1972年玉木病院に就職、psw として働 き 硯、玉木病院事務長)は当時の状況 を、「孤立 して相談 相手 もな く仕事 をしている人達が、何 か集 まろうとい う気運が起 こって きた」 (玉木,1989:28)と振 り返って いる。安里は、「最初は、お互い交流 し合って情報交換 とい う形 と、みんな1人で頑張 っているので、悩みや 思いをはきだそうということで始めた」(安里,1989:28)、 松尾は、「お互い集 まって話 し合 うことがなかったので そうい う親睦 をはかる意味 と、つなが りを持つ という 意味で始めた会だった」 (松尾,1989:28)と語っている。 しか し、参加者の個人的な理由や組織化作 りを急 ぐ動 きの中、勉強会は長 く続かず 自然消滅 して しまう。会 が消滅 した後は、有志が集 ま り、不定期であったが勉 強会 を開いていた。それを通称「
p
s
w
友の会」のよう な名称で呼んでいたらしい。その中で、組織化 を再検 討する声が挙がる。 そ して、1982年再び組織化の機運が高まる。松尾は、 「最初の集 まりが自然消滅 したものの、どこかでやっぱ りつ なが りた い とい う思 いが ず っ とあ った」 (袷 局,1989:29)と語っている。当時、安里は精和病院、仲 村は精神衛生センターで働いていた。仲村は、「驚いた ことに、障害者の地域福祉活動の担い手であるソーシ ャルワーカーの組織がなかった」 (仲村,2002:198)と話 しソーシャルワーカーの仲間に組織づ くりを呼びかけ る。1982年11月29日、精神衛生セ ンターにて第 1回ケ ースワーカーの会 (出席11名)が開かれ、設立総会に ついて と会員向けのアンケー ト調査 を実地することが 話 し合われる。アンケー トには 「ケースワーカーの組 織づ くりについて」 として、組織化必要性の説明が さ れている。その一文は、「本県の精神科医療にも経験豊 かな優秀なワーカーが配置 されているにもかかわらず、 未だ組織化がなされず、互いの連携 も緊密化 されない ままにあ ります。 この ままでは、その力量の十分発揮 されず、多様化するニーズへの対応 も困難 になるでは と危倶するものであ ります」 としている。 アンケー トの結果 を踏 まえ、1983年1月14日、那覇 の料理屋 う りず んで、新年会 を兼ねて31名が参加 し 「沖縄精神科医療 ケースワーカーの会」が結成 される。 会長は安里千代子、副会長 を松尾美童子、事務局 を仲 村信子 、会計 を山田綾子 (現、中下綾子)が担当 し、事務局を精神衛生センター内に置 く。当初は
、2
ケ月 に1回精神衛生セ ンターや各病院を回 りなが ら会 を開 いていた (1981年度の勉強会内容の一部は表-2参照)。 pswの勉強会は、psw相互の交流 と組織 としての結束 につながってい く。 組織化の機運が高 まった背景 に当時、沖縄県内の精 神科病院が増 え始め、病院に勤務するpSWの数が徐 々 に増えて きたとうい う事実がある。玉木はそのことを 「病院開設 と同時に相談部門を置いた所 に沖縄の院長オ ーナーの先見の明があった といえるのではないで しょ うか」(玉木,1989:28)と述べている。 表-2 -回目 :1983年5月19日 「外来ケースの指導について」 発表者 :田崎病院、′ト録裕一 二回目 :1983年7月22日 「玉木病院におけるPSWの位 置及びその業務について」 発表者 :玉木病院、平田尚之 三回目 :1983年9月22日 「通院患者並 びにその家族 に 対するケースワーク援助の在 り方 について-特に地域医療の観点から-」
講師 :東京都立精神衛生センタ一所佐々木雄司 四回目 :1983年11月30日 「オリブ山病院の紹介、ホス ピス活動について」 発表者 :オリブ山病院、安田照子、宮城豊子 五回目 :1984年2月3日 「ホスピスについて」 講師 :オリブ山病院院長 3) 日本精神医学 ソーシャルワーカー全国大会沖縄大 会 安里は、1985年6月の第20回 日本精神医学 ソーシャ ルワーカー全国大会横浜大会に参加 していた折 に、懇 親会の場で全国大会を沖縄で開催 して もらえないか と 幾人かの本協会役員に打診 される。その時は、「一応み んなで少 し話 し合いをしてみます」 と答 えるO帰沖後 に、柏木から電話があ り 「沖縄大会 をしてみませんか」 とさらに依頼 される。その時の心境 を安里は、「勉強会 がは じまったばか りだ し、大会などとて もで きるはず かない と思 った」 (安里,1989:29)と語 っている。 1985 年6月18日、急 きょ精神衛生セ ンターにて運営委員会 を開 き、全国大会 について話 し合いが もたれる。話 し 合いのなかで、「沖縄の取 り組みは本土 に比べて20年は 遅れているか ら、引 き受けるのは時期尚草 じゃないか、 3- 5年後 ならなん とかなるん じゃない」 とい う意見 が主で、全国大会引 き受 けを辞退することになる。そ の翌 日に、勝連病院に勤務 していた山里は、事務局長 の仲村 を訪れ、前 日の会議 に出席で きなかったことを 詫び 「沖縄 は確 かに遅れているよ、そ うだか らこそ私 たちワーカーはこの現実 を見据 えて、何 をすべ きか全 国の会貝 と一緒 に学習すべ きではないの、後何年経 っ たら大丈夫 と誰が保障 して くれるの」
「望 まれている時 にや る方が、 あ るい は一番 よいので は ないか」 (山 里,2002:30)と大会開催の再考 を求め、1985年8月15日 に緊急動機 を提案する。 仲村 は、緊急の提案があるか らと同年9月20日に会 員 を勝連病院に招集 し、大会開催時期 について再検討 してほ しい とい う山里の要望 に応 え、会員間で議論す る。議論 の後、大会開催 について会員の票決 を行 う。 結果、開催意見が多数 を占め 「いつ までたって も、 こ れで力 は十分 とい う事 はないのだか ら何 とかやってみ ま しょう」 と思い切 り開催 を引 き受 けることになる。 当時沖縄 は、1987年 に海邦国体が開催 されることが決 まっていた。国体 の翌年 な ら公務員の協力が得 られ、 施設 も整備 されているとい うことで、翌年 (1988年) に全国大会 を引 き受けることになる。協会は力量がな いが、組織化 を強化するために引 き受けるとの意見 も あった。当時の会員は42名であった。 沖縄大会 を引 き受 けるにあた り、3年前 よ り準備 に 取 り掛かる。 2年前か ら全国大会 (1986年福 島県郡山 大会、1987年兵庫県神戸大会) を視察するために、会 員が全国大会 に参加す る。郡山大会 には10名、神戸大 会 には14名の会員が参加 し、神戸大会では沖縄 コーナ ーを設置 し、沖縄大会に対する案内 とア ンケー トを行 9「地域研究」4号 2008
年
3月 (面 一「 吏 ) っている。大会の事務 的な業務 は仲村 を中心 に行い、 大会の取 りまとめ役 として玉木が挙げ られ、大会事務 局長 を務めることになる。大会 に向けた連 日の打 ち合 わせが毎晩の ように行われ、その中でPSWのアイデ ン テ ィティーなどについて も語 り合 う。 沖縄大会のテーマを決めるにあた り、会員 にアンケ ー ト調査 を行 っている.そのい くつかを紹介すると、 ・精神障害者の社会的復権 (中央病院) ・精神障害者の社会的復権 とpswの課題 (南山病院) ・精神障害者への理解 と支援 一地域ケアへのアプロー チ- (糸満晴明病院) ・更に強 く精神障害者の人権の復権 を考えよう (勝連 病院) ・精神保健法 とpswの実践課題一精神障害者の社会的 復権 を担 うpswの役割- (琉球大学) ・精神保健法の制定一激動する流れの中でPSWは今、 南国の空の下で考える- (田崎第2病院) などが挙げられている。 精神保健法が制定 された翌年の1988年6月16日∼17 日の間、安里千代子 を大会委員長、山里八重子 を運営 委員長、玉木昭道 を事務局長 とし、第24回 日本精神医 学 ソーシャルワーカー全国大会沖縄大会が、那覇市の 沖縄 グラン ドキャッスルで開催 される。大会 には、全 国か ら710人の関係者が集 まった。大会開催 にあたって 安里は、「この大 きなイベ ン トに取 り組む中で、相互の 資 質の向上 ・連携 ・pR活動等 の強化 に励 んだ」 (安 里,1988:5)と大会 を開催するにあた り、 3年 をかけ準 備 に取 り組んだことを挨拶 している。大会のテーマは「
r
精神保健法Jいまス ター トの時 に一精神障害者の社 会的復権 とpswの役割一改めて我々の実践 を振 り返る」 とし、大城立裕 (′ト説家)の特別講演、柏木昭の基調 講演 (柏木は大会前 日の夕食後、玉木が運転す る車で ホテルに向か う途中大雨 に見舞われ、泊ふ頭入 り口の 交差点で タクシー と衝突する交通事故 に遭い、骨折 し ているくく骨折の部位 は不確か>>。運転手の玉木は大丈 夫であった。相木 は大事 をとって、翌 日東京 に戻 り、 しば らく入院 している。講演 は、大野和雄 ≪現、日本 精神保健福祉士協会理事、 日本社会事業大学大学院教 揺)が柏木の原稿 を代読 した)、5
つの分科会 (アルコ ール問題、老人問題、ネ ッ トワーク作 り、社会復帰施 設、精神医療 と文化) に分かれての実践報告会 と全体 会等が開かれた。 比嘉寛 (1987年新垣病院に就職、現、那覇保護観察所 にて社会復帰調整官、協会会長)は、全国大会 を開催す ることを通 して、連 日仕事後 に集 まりを開 き、意見交 換することにより会員の結束力は強まり(比嘉,2002:46) 沖縄県psw協会の組織が強化 されたと語っている。全 国大会開催 は、会員の大 きな自信 につなが ってい く。 比嘉 によると、大会前 日に開会式場の座席の確認 をす ると、ホテル側の ミスで、予定の500席が300席 しか準 備 されてな く、急 きょ会員が総出で夜の12頃 まで座席 の作 り直 しをしている。 全国大会が開催 (1988年6月) された同年2月、障 害者の地域福祉活動の拠点づ くりを目的に協会会員の 宮城豊子 (現、和事慶豊子)が県内で初めて、小規模 作業所 ア トリエ種子 を那覇市首里に開設する。仲村 に よるとそのア トリエ種子 に、全国精神障害者家族連合 会 (以下全家達)の事務局か ら 「ワーカーの全国大会 の際には、家族会の組織づ くりについて も取 り組んで ほ しい、バ ックアップします よ」 (仲村,2002:200) と連 絡が入る。全国大会に、全家連事務局長補佐の春島伸 -、理事の佐 々木むめのが参加する.全国大会の分科 会の中では、作業所 を運営するア トリエ種子の関係者 を中心 に、県家 連結 成 を切望 す る声 が上 が る (蘇 臥 2007:25)。全国大会終了後、家族-呼びかけを行い、 急 きょ那覇市首里のメルパルクにて、30名ほどの関係 者が集 まり組織づ くりについての話 し合いが もたれた。 高津 によると、作業所 を運営する家族か ら、沖縄県 精神障害者家族連合会 (以下、県家連)について 「県 家連がほ しい。 もし作れないのなら、鹿児島県の家族 会 と一緒 に活動 して もいい。その ぐらい、今、県家連 を必要 としている」との強い要望がでる(高津,2006:ll)。 当時、国か ら作業所 に対する国庫補助が開始 された時期であった。補助金の窓口が、県家連 となっていたの で県家連の組織づ くりが必要であった。前 の県家連が
4
年で解散 したことで、組織化 を蒔躍す る意見 もあ っ た (県家連は、1982年浦添福祉会館 にて一度結成 され たが、1986年7月30日に当時の会長の個人的な理由で一 旦解散 した経緯がある)。家族の一人であった春島は、 「この機会に是非 (家族会を)結成 したい と会議 は盛 り 上が りました (高津,2006:24)と語 っている。山里 は、 「既に地域 に家族会が結成 されている実績 もあ り、盛 り 上が ってい る今結 成 しなけれ ば時機 を失 す る」 (山 里,2002:72)と発言 している。 4) 機関誌「
p
s
w
の眼」の発刊 1989年、沖縄県精神医学 ソーシャル ワーカー協会誌「
p
s
w
の眼」創刊号が発行 される。「
p
S
Wの眼」発行 は、 全国大会後 にP
S
W協会 として社会 に何 か発信するため の機関紙 をつ くるべ きではないか とい う意見が きっか けとなる。p
S
W協会が結束することで地域社会 に対す る啓蒙 ・啓発活動がで き、協会員の 自己研鉾 につ なげ る目的 もあった。機関誌発刊 についての企画案 に、「私 達の活動 (activity,thinking)を私達 自身の力で リー ド してい くために、有形無形の記録 を盛 る F器』 として の協会機関誌の発刊 を計画いた しました」 としている。 理念は、 1.精神医学 ソーシャルワーカーの発展 に寄与する 2.精神医療 を福祉の見地か ら考 える 3.精神医療 を受益者の立場か ら考 える4.
精神医療の社会化 を促進する5.
精神医療 と文化の接点 を探 る である。創刊号の編集員長であ り、機関紙名 を考案 し た玉木は、p
s
w
はい くつの も 「眼」 を持つ必要がある としている。それは、自分 自身を知 る 「眼」、患者 さん の眼の中をのぞ く 「眼」、患者 さん と共感 しなが ら患者 さんを見 る 「眼」、雇 っている経営者 の厳 しい 「眼」、 それら全体 を見ている社会の 「眼」、このようなp
s
w
の 眼をお互いに曇 らせ ない ようにバ ランス よ く使 い分 け なが ら生 き抜 いてい こう (玉木,2006:3)としている。 1997年 に第 2号 を発行 し、その後 12年発行が途絶 えて いたが、2006年 4月に第 3号、2007年 5月に第 4号 を 発行 している。その内容 は、会員の研究論文、実践報 告、各研修報告書、関係者か らのエ ッセイ等 となって いる。 5)沖縄県精神保健福祉実践セ ミナー (や どか りセ ミ ナー1 全 国大会終了後、運営委員会 にて今後のP
S
W協会の 運営活動 についての話 し合いが もたれる。そのなかで、 大会 を成功 させ た勢 い も重 な り、「や どか りセ ミナー (以下セ ミナー) をやろう」 とい う意見が出る。や どか りの里の谷 中輝雄 (や どか りの里の創設者、現、仙台 白百合大学教授) と安里 とのこれまでの個人的な交流、 や どか りの里のネ ッ トワークを全国につ くりたい とい う谷 中の思いが重 な り、沖縄県精神保健福祉実践 セ ミ ナー (通称や どか りセ ミナー) を開催す ることになる。 当初協会 は、セ ミナー開催 に蒔蹄す る面 もあ ったが、 谷 中の励 ま しや、谷 中の 「会費 を徴収 し、当事者 を招 くのであれば」 とい う意見 にセ ミナー開催 を決断する。 当初は、や どか りの里の当事者 を連 れて くる計画 はな く、沖縄 の当事者、家族、住民が一体化 した話 し合い の場 を提供することを目的 とした。 洲鎌稔 (1978年、田崎病院 に就職、本部記念病院等 を経 て、硯 、老人保健施設和光園の事務長、協会の監 辛) による と 「安里 さんの10回はや るぞ とい う固い決 意 の も とに会 員 が 一 致 協 力 して 実 施 され た」 (洲 鎌,2006:128)、10年やれば、沖縄 にも何かが作れるだろ うとい う思 いでス ター トす ることになる。松尾 は 「当 時は、民 間病院のP
S
Wが少 ない ことや組織 の理解 の不 十分 さがあ り中々外 に出 られなかった。や どか りセ ミ ナーにかける思いが協会 にあった」 と語 っている。 第1回 日は1989年 6月 1日、沖縄県総合精神保健 セ ンター (現、沖縄県総合精神保健福祉 セ ンター、以下 セ ンター) にて 「地域 に根 ざした社会復帰活動 をめぜ して」 をテーマ として開催 される。午前 中は谷 中によ る講演、午後 は実践 レポー トとし4名の実践者の報告 ll「地域研 究」4号 2008年3月
(
盲 「衰
つ
が されている。第1回 と第2回のセ ミナーは、や どか り研修セ ンター と協会が主催 とな り、内容 を主 に企画 している。第3回か らは、や どか り研修 セ ンターは共 催 とな り、協 会が主催 し内容 を企画す る ようになる (セ ミナーの詳細 は資料 1を参照)。以下、当時の運営 委員会の残 された議事録 よ り、セ ミナーについての話 し合いの様子 を垣 間見 る。 (∋1991年 5月10日の運営委員会 にて、第 3回のセ ミ ナーについて話 し合いが されている。当時の記録 を見 ると、 ・今回は、や どか り側か ら開催の催促 はない。当協会 の態度 に任せ られているので、開催するのであれば、 ある程度内容 についての案 を出 さない といけないの では ・県内で精神科 にたず さわる人が、一堂 に集 まれる良 い機会である ・セ ミナーを開催 して、何が変わったのか検討 した方 が い い ・セ ミナーを、少人数のデ ィスカ ッシ ョン形式等 に検 討する ・昨年の反省 には、「もっと多 くの人に呼びかけて欲 し い」 とい う意見があった ・セ ミナーを開催 して 「何が変わったか」 と問われる こともあるが、 1- 2回の講演 を聞いてす ぐに変化 が現れる ものではない。芽が出るまでセ ミナーを続 けて も良いのでは。 ・セ ミナーの場 を利用 して、他 の分野の人 と交流す る ことがで きる ・市町村、社協 、民生委員 に も呼 びかけて去年 よ りも 規模 を大 きくする な どが話 し合われ、第3回セ ミナーの開催 を決定 して いる。 ②1992年 7月29日と8月14日の運営委員会 にて、第 4回のセ ミナーについて話 し合 いが持 たれている。当 時の記録 を見ると、 ・誰 を対象のセ ミナーなのか、 これ まではっ きりして いなかったのでは ・pswの独 自性があるべ きではないか ・pswの仕事が、単 に病院の中だけではない とい うこ とを知 って もらうことも必要では ・地域 では、保健婦 の仕事が クローズア ップされる. 資格 も仕事の内容 もはっきりしていて、地域 に出る ことを期待 されている立場 にある。pSW は、入院 さ せ るだけの仕事 と思われやすい ・psw は、身分 も確 かでな く地域 に出て行 く自信が欠 けている。今 は、我慢時である ・活発 でない地域が、セ ミナーで聞 く諸活動 を通 して 刺激 を受 けて、 自分達の活動 に反映 させて行 くこと が大切である ・pswが地域 に出て行 き、行政がやれない部分 をやっ てい くことが理想 だが、今はまだ上手 くいかない ・pswの仕事 を理解 して もらってない ・pswはコ-デ イネイタ-であるべ き。地域 にバ トン タッチ してい く ・過去 3回のテーマ を振 り返 り、第 4回のテーマ をど うするのか ・精神保健法改正後、pswの眼か ら見て どう変わった のか。地域か ら病院へ、病院か ら地域へ と流れはか わ りつつある ・読谷 の村長が、非常 にやる気のある福祉 の心 を持 っ た人で、地方の時代 の先端 を切 っている。そ うい う 地域か らまず、モデルを作 って もらうとい う意味で は読谷でやることに意義があるのではないか ・シンポジェス トは、永山 さん (南部福祉保健所精神 保健相談員)が良いのでは。永山 さんの活動発表に よって、地域の人たちの活動の ヒン ト、刺激 になる のではないか な どが話 し合 われ、第4回のセ ミナーを読谷村で開催 することを決定 している。 (彰1993年 6月16日の運営委員会 にて、第 5回セ ミナ ーについての話 し合いが持 たれている。同 じように記 録 を見 ると、・当事者の参加 をどうい う形 にするか ・これ までは、一方的 に聞いて もらっていた今度 は、 た くさんの人が話せ るように分科会方式 に しては ど うか ・視点をどこにするかと言 うのをはっきりさせる ・当事者たちが、何 を考 え、何 を望んでいるのか ・スタッフが多い中で、当事者 たちが言いたい ことを 話せるのか ・当事者が緊張せずに、発言する雰囲気がつ くれるのか などが話 し合われ、第5回セ ミナーのね らいを i)これ までは、各機関のス タッフによる発言が多か ったが、今回は当事者の意見を充分聞 く。 ii)当事者が気軽 に参加 し、 しゃべ りやすい雰囲気 を 作る iii)そのために分科会方式 とす る.テーマ について も 彼 らが興味 を持 ち、語れるような分科会 とする iv)谷中先生の講演は、従来午前の部で行 っていたが、 今剛 ま先生の 「みんなの意見 を聞 きなが ら発言 し たい」 とい う要望 もあ り最後 にもって くる とし、分科会を三つのテーマ (恋愛 と結婚、病気 とどう つ きあうか、日々の暮 らしに思 うこと)に分けている。 (む1993年9月28日と10月15日に第5回セ ミナーの反 省会が持 たれている.セ ミナー参加者のア ンケー トを 見ると、 ・毎年あるといい。希望 とやる気がでてきた ・グループワークとって も良かった ・や どか りのメンバーの体験 は参考 になった ・懇親会 をプログラムの中に入れ、当事者参加の ミニ コンサー トを開いては ・セ ミナーが良い刺激になっている ・メンバーが 自分の事 を、他 人に語 ることによ り自信 になった。「またこうい う場」をという意見があった ・当時者、家族、 さまざまな職種の人達 との交流 にな っている ・や どか りセ ミナーの方向、ゴールは ? ・自助 グループをつ くることが最終的な目標である ⑤1994年9月30日の運営委員会 にて、第6回セ ミナ ーの反省会が持 たれている。当時の記録 を見 ると、 ・関係者 を呼ぶには、土曜 日がいい ・当事者が多かった。関係者、家族が少 なかった ・各市町村の年間行事予定 も情報 として持 ち、次回の 日程 を決める時 に検討する ・流れ としては、当事者参加型 になって きている ・地域 の中において関係機 関の横 のつ なが りが大事 、 セ ミナーはその ような場 になると思 う ・当事者のグループ (分科会)は、思 っていた よ り活 発 に話が出た などが出 されている。 (む1995年9月に開催 されたO第7回セ ミナーの参加 者のアンケー トを見 ると、 ・当事者 と共 によ り住みやすい活動で きる場作 りを し たい ・当事者の本音がこれか らも聞けたら良い と思います ・活発 なデ ィスカ ッシ ョンになる とは思 って もい ませ んで した ・当事者が家族 を励 ま している姿 に感動 した ・多 くの当事者、関係者 に感激 してい ます などが挙げ られている。 セ ミナーを取材 した沖縄 タイムスの山城紀子の当時 の記事 を紹介する。 や どか りセ ミナ ー 「精神障害者も幸せになりたいと考えるのは当たり前。 でも、急激に変化する社会に惰れるのはとても難 しいか ら、精神障害者と社会をつなぐ中間施設をつくってほし い
」
「当事者本人のたちの手で新 しい社会 をつくろう。 私もデイケア活動で知り合った女性と一昨年結婚 し、も うすぐパパになります」
- 次々とマイクを持つシンポジス トの発言に、会 場から 「そうだ」
「がんばれ」と声が上がり、大きな拍 手が送られるO 13「地域研究」4号 2008年3月
申
8月 16日、沖縄市民会館で、沖縄精神保健福祉実践 セミナー、通称 「やとかりセミナー
」が今年 (1996年) もまた開かれた。 共に暮 らせる地域づくりをめざして-当事者からの提 言- と銘打った今回のセミナーは、沖縄の精神障害者本 人とその家族、関係者にとって革命的と言えるほどの特 色を持ったものになった。 舞台に並んだ9人のシンポジス トは全員が当事者。 1 人ひとりがマイクを持ち、自分のこれまでの苦 しい体験 を、地域での作業所通いを通 しての社会参加への喜びや 社会復帰へのア ドバイスを、幻聴や落ち込んだときの乗 り切り方を自分の言葉で語った。 文字どおりの 「当事者からの提言」に、会場を埋めた 過半数の当事者 ・家族が力づけられたのは言 うまでもな い。フロアからの発言でも、医療や福祉関係者はでる幕 もないほどひっきりなしに当事者が手を挙げ発言 した。 「幻聴で苦 しい」との声が出ると、「そういう時はテ レビの書を大きくしたり、友達に電話をしたりして流れ を変えるようにしているよ」と、やはり当事者が答える。 会場全体から 「当事者主体」の活動 ・社会復帰という 時代の風が感じられた。 埼玉県大宮市で、精神障害者の社会復帰施設 ・やとか りの里を営むと同時に、全国をまわって精神障害者の社 会復帰に向けた活動を続ける谷中輝雄さんの呼び掛けに こたえる形で、8年前ソーシャルワーカーの研修の場と してスター トした同セミナーがここまできた。 「今精神科がオモシロイ、よ」 裏方にまわったソーシャルワーカーたちのうれしそう な表情も印象深かった。(96・8・17沖縄タイムス) セ ミナーの 1回か ら3回 までは、専 門家 中心 の対話 集会 とな り、3回 目か ら社会福祉協議 会 な どの参加 に よ り、参加者 に広 が りを もつ ようになる。 4回 目以降 は、当事者の参加 が増 える ようにな り、セ ミナー後 に パ ーテ ィーが 開かれる ようになる。 5回 目のセ ミナー で 、や どか りの里 の当事者 の′ト山氏 、笠原氏が沖縄 タ イムス記者 の山城紀子氏 の イ ンタビュー を受 け、新 聞 に記事が掲載 される。 第1回か ら4回 までのセ ミナーの参加費 は、関係者 や家族 か らのみ徴収 していた (基本的に関係者3,
㈱ 円、 家族2,0
0
0円)。第5
回か らは、
「小額であ って、当事者 か らも費用 を徴収 して も良いのでは」 と運営委員会の 中で意見がでた。松尾 は、「当事者が主体的にセ ミナー に参加す る意味 で、徴収 して もいいのでは」 とい う意 見 を出 してい る。 第5回の セ ミナーか ら、300円か ら 500 円の参加費 を当事者か らも徴収 している。 第7回は、石川市保健相談 セ ンターで開催 され、そ の時の ことを比嘉 は、「当時、保健相談セ ンターは新築 で、全館禁煙 だった。 タバ コを多 く吸 う当事者が、禁 煙 を守 れるか とて も不安 であ った。 しか し、当 日は特 に問題 な く、指定 した場所以外 で タバ コを吸 う当事者 は誰 もいなか った。 この こ とは、 自分 たちが当事者 の 力 を信 じる きっかけになった」 と語 っている。 第10回は、セ ミナーの締め くくりとい うこともあ り、 アメ リカロサ ンゼルス郡精神保健協 会会長 の リチ ャー ド ・バ ンホー ンとザ ・どリッジの メンバ ー4
名 を招 い た。海外 か ら講師 を招 くとい うことで、費用の捻 出に 苦慮 しテ レホ ンカー ドを販売 し、その運営費用 に充て ている。 6)精神保健福祉 ボランテ ィア市民講座 精神保健福祉 ボ ランテ ィア市民講座 (以下、市民講 座 ) をは じめた理 由は、セ ミナーの次のステ ップ とし ての位置付 けで、地域住民への啓蒙 ・啓発活動 としで あ った。 セ ミナーの第8回頃か ら、セ ミナーに継 ぐ何 か を、年 に1回は開催 したい と真栄平勉 (1982年 田崎 病院 に就職、現 、協 会副会長) を中心 に、当時先駆的 に北海道 の札 幌市 が取 り組 んでいた、市民講座 の開催 を検討 していた。当初 は、当事者団体 中心の開催 を検 討 したが 、当事者 か らの合意 を得 ることがで きず実現 に至 らなか った。西銘隆 (1988年田崎病院に就職)は、 「精神保健福祉 のボランテ ィア養成 も講座 の目的であっ た」 と語 っている。 第1回 目は、2000年9月 2日、 9日の両 日で 「身近 な精神保健福祉 を考 える」 をテーマ に開催 されている。 市民講座 は、現在 も継続 して開催 され、2006年 に第5回目を浦添市 にて開催 している。毎回、多 くの市民が 参加 し、精神障害者に対する啓蒙 ・啓発活動 につなが っていると考えられる。 第1回目の参加者の感想は、 ・当事者の講話が開けたのが最 も良かった ・全体的にもっと時間がほ しい ・講話や資料から必要な資料が得 られた ・知識 として とどめてお くのではな く、ボランティア として実行で きたらと思いました ・話が分か りやすかった ・理解度は増 したが、深みのあることなのでまだまだ わからない部分が多い。今後の課題 にしたい ・少 しだが、理解 しようと努力する気持 ちが持てた ・pswの活動内容が具体的に分かった ・自分が偏見の塊だということに気付かされました などがある。 Ⅳ考察 1)初期のPSW業務 と組織内での位置付 け ①psw業務 日本本土におけるPSWの活動は、1948年国立国府台 病院において、アメリカ留学で力動精神医学 を学んだ 松村常雄院長が看護婦 を起用 し、「社会事業婦」 という 名称で配置 したのが始 ま りとされている。沖縄県 にお けるPSWの活動のスター トは、1961年 に開設 した精和 病院であると言 えよう。だた、精和病院設立当初 は、 専属のPSWは存在 しなかった。当時、一般的に看護婦 業務は多岐に渡 り、本来の看護業務 に加 え、現在の作 業療法、ソーシャルワーク的な業務 も看護婦が行 って いた。 精和病院開設 と共に、看護婦 として採用 された山内 は、看護業務に加 えて庶務課 と協力 して生活保護の申 請業務なども行 っていた。 1968年 に田頭病院に採用 さ れた安田は、当初事務員 としての採用で半年後psw と して働 くように病院 より指示 される。机 は事務所 にあ り、事務業務 (外来受付、 レセプ ト業務等) とpsw業 務 を兼任 していた。 1968年、田崎病院に採用 された小 禄 は、当初事務職員 として働 き、後 にPSW業務 も行 う ようにな り、机は事務所 にあった。 1970年頃、天久台病院に採用 された大浜 も、当初は 事務職員 としての業務 を行 っていたようである。 沖縄の初期のPSWは、他業務、特 に事務職 との兼務 という形でス ター トしているものが大半である。ただ し、そのような中で1962年に楕和病院へ専属のPSWと して採用 された安里の存在 は大 きい と考える。安里は 以後、沖縄のPSWとしての草分け的存在の一人 として、 協会にも多大に貢献する存在 となる。 pswの業務 は、安里、安田、仲本、松尾が語るよう に経済的問題への対応が大半であった。当時 (日本本 土復帰前)の沖縄 は一応医療保険制度が存在 していた が、公務員や一部の民間人 しか加入で きず、大半の県 民は貧 しい状態であった。そのため、発病 して も十分 な治療 を受け られない人が多 く、治療費 を工面で きな い場合 は、生活保護 申請や措置入院 とい う形での入院 調整が必要であった。安田は、「措置入院の鑑定調整で 忙 しかった」 と語 っている。経済的な相談でPSWに対 するニーズは高 く、当事者が安心 して療養生活が送れ るよう保障す る必要があ り、病院がpswに求めていた のは組織の経営的な安定 を含 んでいた (現在 も同側面 があると考えられる)。当時のPSW業務は未確立で、加 えて組織内での位置付 け も暖味なため、職員のPSWに 対する理解 も不十分であったと考 えられる。 医師や看護婦の中には、pswに対 して批判的な事 を 言 う者 もいた。そ して、PSW自身がpsw業務や 自らの アイデ ンティティーを確立するのに模索 していた。山 内は、安里が精神衛生セ ンターに移 った後、一人で精 和病院にてPSW業務 を行 っていた。 しか し、組織内で 十分 な理解が得 られず、精神的に疲弊 し組織か ら去 り その後、psw としてではな く別の病院で看護婦 として 働 くことになる。山内の主観が入ると思われるが、そ の こ とを、 「最 終 的 に (省 略 ) い じめ られ た」 (山 内,1989:32)とい う言葉で表現 している。 このことは、 当時のPSWが職場内で十分受け入れ られていなかった もの と考えられる。 15
「地域研 究」4号 2008年3月
(
麺
=享)
(夢精和病院の社会復帰運動 1960年代後半、精和病院は入院者 を作業療法の一環 として、地域の工場や養鶏場 に積極的に送 り出 してい た。当時は、入院者 を安い賃金で雇 えるか らと、前向 きな雇用主が存在 し、pswの 「いつで も関わ ります」 という姿勢、組織の体制が雇用主 に安心感 を与えてい たことが考 えられる。 しか し、地域住民の当事者 に対 する偏見感情 は根強 く、精神障害者 に対する社会サー ビスが皆無の時代 であった。病院を退院 して、地域で 生活 を送る当事者 も出て きたが、彼 らに対する支援体 制があま りにも未確立であった。その中、火事や殺人 事件が起 きた。 これ らの事 をきっかけに、地域の理解 を得 るのが難 しくなった。その結果、開放的な処遇 を 行 っていた精和病院の方針 は、断念せ ざるを得 な くな る。当時の社会復帰運動の結果が示唆 した事柄 は、極 めて重要だと考 える。すなわち、精和病院の社会復帰 運動 は、地域の精神障害者 に対する理解不足、精神障 害者 を地域で支 えるサービス不足 を明 らかに露呈する 結果 となった。当事者 を地域で支援 し続けるには、一 組織の方針や個 々のPSWの熱意だけでは限界であると いうことが示 された もの と理解する。 この社会復帰運 動の もた らした結果が、その後の沖縄県の精神保健福 祉の活動 にどう影響 を与 えたかは本研究では格別考察 せず、今後の研究課題 に したい。 2)家族会、当事者、関係機関への影響 (∋全国大会開催 を通 して psw協会全国大会の沖縄開催 は、それ まで個 々の組 織内で主 に活動 していた会員が、大会開催の準備や話 し合いを重ねて行 く内に相互の理解が深 ま り、会員の 結束 につながることになる。それが、協会の組織の強 化につなが り会員個々の質の向上にもつながる。 そ して、全国大会開催 は家族会の結成 に結びつ く大 きな要因 となった。山里は、「沖福連の発足 とちょうど 同 じ年 にPSWの全国大会 とい う場があったか ら、家族 会 もそ こか ら始 まった」 (山里b,1998:128)。仲村 は、 「ワー カーの全 国大会 の契機 に沖家連が結成 された」 (仲村,1999:22)。森田は、全国大会の開催が家族会の 「結成に深 く関わっている」(森田,
2
006:81)としている。 その後、山里 は、協会員 に推 される形で県家連の会長 に就任する。セ ンターが事務 などを全面的に支援する ことを約束 し、事務局 をセ ンター内に置 き、会員の名 義弘幸 (1982年 田崎病院就職、1994年家族会事務局、 現、博愛クリニ ックデイケア勤務)が専従職貝 となる。 山里は、県下の家族会 を精力的に組織化 してい く。比 嘉は当時を振 り返 り、「お互いの事務局が県立総合精神 保健福祉セ ンター内に設置 していたこともあ り、常 に 情報交換 した り、事業のお手伝いをさせていただいた りして協力 し合い、沖縄県 における精神障害者福祉の 向上に努めてまい りました」 (比嘉,2006:104)と述べて いる。 家族会結成後 は、家族会の運営 をpsw協会の会員 個々が精力的に展開 し、それをpsw協会が全面的に支 援 して きた経過がある。家族会設立の際には、psw協 会か らの寄付金や他団体か らの寄付金集めに会員が奔 走 した。家族会主催の大会は、会員がスタッフとして 大会運営 を協力 していた。psw協会の全面的なバ ック ア ップが、設立当初の家族会 を支え、現在 につながっ たもの と考える。 そ して、全国大会開催 を機 に協会は、「
p
s
w
の眼」 を 発行することに至 った。協会の活動報告や広 く精神保 健福祉 に対する啓蒙 ・啓発活動 につながっているもの と考える。 ②や どか りセ ミナーを通 して 沖縄県精神障害者連合会 (以下、沖精連)初代会長 の高良正生は、1998年の沖精連発足式 (パ レッ ト市民 劇場で開催)の挨拶の中でセ ミナーのことに触れ、セ ミナーに参加 し 「ピープル会」のメンバーが分科会の 司会 をやっているのを見て、「司会の二人が当事者だと い うことに親近感 と勇気 を覚えました」 と語 り、その ことをきっかけに 「芽ばえの会」 を発足 させている。 さらに高良は 「や どか りセ ミナーでは、県内の当事者 がシンポジウムのパ ネリス トにな り、 どんどん舞台に出た。そのパワーが どんどん大 きくなった」 とセ ミナ ーが当事者に与えた影響 を語 っている。沖精連副会長 の石川勝則は、「患者会の出発点 ともいえるのは、PSW の主催する 『やどか りセ ミナー』であ ります」 と語 っ ている。 山里はセ ミナーを振 り返 り、「特に当事者の皆様 に影 響 を与 え沖縄の流れが変わって きた と思い ます」 (高 津,2(X旭:16)と語っている。協会が主催 したセ ミナーが、 当事者に及ぼ した影響は多大 なものであ り、その後の 活発 な当事者活動 につながる。永山盛秀 (1976年沖縄 県職員 として採用 され、保健所で相談員 として働 く。 1996年に沖福連 に就職 し、2006年退職。現NPO法人ふ れあいセンターサー ビス管理責任者)は、1995年2月 1日に作業所 「ふれあいセ ンター」 を開設 し、同時 に 当事者のグループ ミーテ ィング 「つ どい」 を始めてい る。つ どいでは、当事者が 自らのことを相互 に熱 く語 り合っていたが、人前 に出て話す ことはなかった。永 山によると、「セ ミナーに参加 したや どか りの里の当事 者の発表 を見て