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「パル判事」を上梓するまで (講演)

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Academic year: 2021

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(1)

権利

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization

(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名

アジ研ワールド・トレンド

193

ページ

48-57

発行年

2011-10

出版者

日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL

http://hdl.handle.net/2344/00004139

(2)

●東京裁判への関わり

  これからの話は私の個人的な体験 に基づくものです。私は一世代ぐら い皆さんと離れていますが、そうい う人間の話でも役に立つことがある の で し ょ う か。 心 配 で す が、 ま ず、 私の生い立ちと学んだ時代背景、お よび『パル判事』のための調査の経 験をお話しし、最後に、研究者・知 識人の社会的責任というものについ て、非力ながらできる範囲で触れた いと思います。   私は一九四六年一二月の生まれで すから、かろうじて戦後世代に属し ます。我々の父母は戦争のただなか で青春期を送った世代です。父は四 人 兄 弟 で す が、 三 男 の 叔 父 は 私 は 会ったことがありません。戦死した ためです。 私が小学生ぐらいまでは、 父は酒に酔うとよくその戦死した弟 のことを語っていました。語りのパ タ ー ン は 決 ま っ て い て 、 暗 記 で き る ほ ど で し た 。 父 の 弟 は 兵 隊 に 取 ら れ て佐世保にいたときに、航空兵の訓 練に志願したそうです。戦争末期に 戦闘機乗りになるということは、死 ぬというのとほとんど同じ選択だっ たでしょうが、彼はそれを選択して 訓練を受けた。父は彼が出陣する直 前に二人だけで会ったそうです。小 学校しか出ていないのにパイロット の訓練を受けるというのは、大変な 努力がいっただろうが、会ったとき 目は澄んでいた、死を覚悟していた のだろう。そのような内容の話を何 回も聞かされました。特攻隊とは違 うのですが、普通の兵士の死に方で はなかったのです。肉親にとっては トローマティックな体験であり、記 憶に深く刻まれたのでしょう。   父の語りにはもうひとつの話が続 くのが普通でした。それは今日の話 に関係する東京裁判のことです。父 は弟の話の後、東京裁判の話に移り ます。まず東条英機の話が出る。東 条 は 戦 陣 訓 を 作 り、 生 き て 捕 虜 に なって辱めを受けるなと言っておき ながら、自分は自決することすらで きず、捕虜になって裁判を受けてい る。あれはなんだ、 ということです。 それから、東条のはげ頭をピシャッ と叩いた大川周明の話もします。大 川 の 狂 言 に ち が い な い と 言 う の で す。そのように東京裁判の話に飛躍 するのは、日本の指導者が若者を死 に追いやっておきながら、戦争責任 を果たしていないことに対する憤り があったからだろうと思います。こ んなことなら弟は死ぬことはなかっ た、という思いも重なっていたかも しれません。父は自民党でも右寄り の派閥の支持者のはずですが、当時 は 右 翼 と か 左 翼 と か と は 関 係 な し に、まったく違う次元で戦争体験が 語られることがあったと思います。   私は中学校一年生のときに、父に 連 れ ら れ て 靖 国 神 社 に 行 き ま し た。 ところが、本殿まで行っても父はお 参りをしません。中を覗いて「靖国 神社はこうなっているんだな」と言 い、それでお仕舞いなのです。その 後私は、右寄りの父でも、弟が神に なったなどとは認めたくないのだろ うと理解するようになりました。   そのような戦争の受け止め方、あ るいは戦死者への追悼の仕方という のが我が家にはあり、子供の頃から 触れていました。 ですから、 私にとっ て東京裁判というのは、小学生の頃 から身近なものとして記憶に刷り込 ま れ た、 歴 史 的 な 出 来 事 な の で す。 若い方とは違う戦争の記憶の仕方で あ り、 東 京 裁 判 へ の 関 わ り 方 で す。 記憶にはないのですが、パル判事の ことも話のなかに出てきたのだろう と思います。もちろん、パル判事研 究に関しては、歴史研究者としての 節度をもってやったつもりです。

  私 は 一 九 六 五 年 に 東 京 大 学 に 入 り、六七年に文学部東洋史学科に進

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に、

のような﹁難問﹂についてもお話しいただいた。

講演

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学してアジアの歴史の勉強を始めま した。今の若い方々には想像もつか ないだろうと思いますが、日中戦争 等のアジア侵略のことがありますの で、戦後の東洋史学にとっては戦争 責任、戦争体験の問題は非常に重要 で、それを総括したうえで東洋史学 と い う も の を や ら な け れ ば い け な い、という意識がありました。しか し、いわゆるノンポリで、そういう 政治的な意識なくして東洋史学科に 入った私は、先輩からいろいろ勉強 しなければなりませんでした。その と き に 読 む よ う に 薦 め ら れ た 本 は、 当時の雰囲気をよく表していると思 います。その一冊は 仁 に 井 い 田 だ 陞 のぼる という 中国法制史の大家の本でした。この 人は若くして学士院賞恩賜賞をとっ た、表面だけ見れば官学アカデミズ ム の 代 表 選 手 の よ う な 研 究 者 で す。 薦められたのは『東洋とは何か』と い う 一 般 向 け の 読 み 物 で す。 「 編 者 あとがき」の一部を読み上げさせて いただくのがよいと思います。   「 日 本 の 代 表 的 な 中 国 法 学 者、 仁 井 田 陞 氏( 一 九 〇 四 〜 一 九 六 六 年 ) の生涯は、終始アカデミックな態度 で貫かれていたので、とくに劇的な も の は な い。 そ れ に も か か わ ら ず、 彼は、時代とともに、研究者の社会 的責任(ここに社会的責任という言 葉がでてきます) をしだいに自覚し、 こ と に 第 二 次 世 界 大 戦 終 結 の 前 後、 日本の権威主義の崩壊を体験し、そ れは自己の学問の問題意識の根底に 大きな衝撃を与えた。彼自身、自己 の学問を前期と後期に分かつ理由は ここにある。 」   中国法制史という地味な分野の研 究に没頭してきた研究者でも、戦争 からそれだけの衝撃を受けた。ここ から先が重要なのですが、この先生 は一九五三年に天皇家の御講書始に 招かれ、魯迅の『藤野先生』と『阿 Q正伝』を講じている。昭和天皇の 前で魯迅について講義するのは、か なり勇気のいることだっただろうと 思います。仁井田陞は、私たちが東 洋史を勉強し始めた頃にはよく言及 される人でした。   それではインド史についてはどう だったか。一九七〇年代のことにな りますが、私が習った何人かの先生 のなかに 荒 あら 松 まつ 雄 お というインド中世史 の専門家がいました。彼は学徒出陣 を体験した。東大の総合図書館の前 の広場で整列して出陣式をやり、そ して出征したという。にわか仕立て の少尉にさせられて、海岸で塹壕掘 りをさせられた。部下たちは皆古兵 で、家族がいるような兵士を指揮し て一緒にやったという。それは米軍 上 陸 を 想 定 し て の 陣 地 作 り で し た。 もし米軍上陸となれば、彼は生きて い た か ど う か 分 か ら な い の で す が、 幸いにして生還できた。荒先生はそ の後大学に戻り、戦後の日本のイン ド研究の草分けになった。インド史 研究会という研究会を立ち上げ、イ ンド研究の道を切り開きました。彼 はどのようにしてインド研究を立ち 上げたのか?   戦前からインド研究 はありました。しかし、それと絶縁 するところから戦後のインド研究を 始めたのです。彼の戦争体験を考え ると、それまでのインド研究と絶縁 したことは理解できる。戦後のイン ド研究の立ち上げにも、戦争体験と 戦前のアジア研究のあり方への反省 が結びついていたわけです。   このように社会的責任論というの は、我々が東洋史を学び始めた頃に は、周りに空気のように存在してい た。それを考えない東洋史研究とい うのはありえない、という考え方が 支配的だったのです。私が大学四年 生だった一九六八年に、全共闘運動 が起こります。東大の本郷では大学 院生が主体でしたから、私などは子 ども扱いですが、たくさんの人が真 剣に運動に加わった。その背景につ いてはさまざまな解釈があるでしょ うが、さしあたり、第一に、時代の 影響があると思います。日韓条約締 結、ベトナム戦争、文化大革命など があったなか、我々はそれらと無縁 ではあり得なかった。少し離れます が、アフリカの動きを追っている人 もいて、ファノンなどのことが語ら れはじめていた。第二に、私たちは 戦 争 体 験 を 背 負 っ て い る 先 生 に 教 わった。目の前で彼らは話している わけですが、我々は彼らにはなれな か っ た。 彼 ら の 気 持 ち は 分 か る が、 それは我々自身の問題ではない。そ ればかりでなく、彼らが戦後社会で どのように生きて来たかという問題 がある。それならば、彼らの研究を 乗り越える仕事をするための立脚点 は、どこに求めるべきだろうか。つ まり、戦後歴史学の行き詰まりが六 〇年代には明らかになり、我々はど う す る べ き か と い う 問 題 が あ っ た。 それは一種の空白感として意識され て い た と 思 い ま す。 そ れ は 同 時 に、 今 日 の 主 題 と 関 連 さ せ て ま と め れ ば、戦中派流の社会的責任の取り方 に限界が見えたということでもあり ました。それではどういう立場があ りうるのか。さまざまな模索があっ たと思います。私自身はだんだんと フランクフルト学派の批判理論にひ かれてゆきました。   その後、私は大学院でインド近現 代史研究を始め、カルカッタ大学に

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留学します。

日印関係史への関心

  私は日印関係史に興味がありまし た。 『 パ ル 判 事 』 を 読 む と、 私 が 日 印関係史という分野など大嫌いな人 間だと思うかもしれませんが、実は そうではないのです。理由は二、三 ありますが、ひとつには、先ほど述 べた空白感を埋め、戦後の研究の行 き詰まりを打ち破りたいということ がありました。いろいろと模索した 結果、見つけたなかのひとつが戦前 のアジア連帯論だった。   ちょうど先輩がインドから帰国し て、大川周明研究会をやるから入ら ないかと誘われました。一九七五年 ごろのことです。大川周明の著作を 読み報告もしたのですが、つまらな いと思いました。確かに情報がたく さん盛りこまれていて整っているの ですが、心を動かすものをこの人は 持っていないと感じました。その研 究 会 で は「 イ ン ド 国 民 軍 裁 判 を め ぐって」という論文を書いたのです が、それを読んだ別の先輩から「君 は 腰 が 引 け て い る。 遠 慮 し て い る 」 というコメントをもらいました。そ の言葉が私の心にずっと残り、それ に対する回答のひとつという意味あ いが『パル判事』にはあります。腰 をためてもっと踏み込むとはどうい うことかということですね。   この研究会にはアジ研の南アジア 研究者が加わっていて、彼から国際 学友会問題や、アジアからの留学生 の問題に関わらないかと誘われまし た。国際学友会というのは、戦時中 からアジアからの留学生を受け入れ てきた国の外郭団体です。建物は新 大久保駅の近くにありました。しか し運営にゆきづまって閉鎖され、留 学生が放り出されてしまう。支援運 動が始まり、その末席を汚す形で加 わるなかで、田中宏さんや荻田セキ 子さんなど、留学生問題に熱心に関 わっている方々が何を語り、何をす るか、 この眼でみる機会をえました。 アジアとの関係をこれほどまじめに 考えている人がいることは驚きでし た。 田 中 さ ん の 師 は 穂 ほ 積 づみ 五 ご 一 いち 氏 で、 駒込にあるアジア学生文化協会の創 設者です。 思想的には右翼に位置し、 アジア主義というものを実践した人 と聞いています。日本のアジア主義 を誠実に実践するとどういうことに なるか、初めて知り、大川周明より はおもしろいと正直思いました。留 学ということがあったので、この問 題はそれで終わりましたが、私のア ジアに対する関心、方向性のどこか に、このときの体験が生きているの で は な い か と 思 う こ と が あ り ま す。 政治イデオロギーとして振り回され るアジア主義に対する違和感や不信 感もそのひとつかもしれません。

足跡を辿る

  一九八五年に留学から帰ってから 数年経って、大川周明研究会の延長 線上で、 光機関関係者聞き取り調査、 そして東南アジア・インド現地調査 旅行に参加しました。光機関という のはインド国民軍を組織するための 特 務 機 関 で す。 私 は 四 人 の イ ン タ ビューを担当しました。私が先のア ジ研の先輩研究者に感謝しているの は、文献調査とかインタビューより も、とにかく現場に行ってみなけれ ばならないと、彼が強く主張したこ とです。それで調査旅行を三人で行 うことになりました。   バンコクから始めてカンチャナプ リ、そしてバンコクへ戻り国際列車 でペナンとクアラルンプルへ、そし て、 シ ン ガ ポ ー ル、 カ ル カ ッ タ へ、 そ れ か ら イ ン パ ー ル に 行 き ま し た。 一週間くらいの旅行でしたが、それ はチャンドラ・ボースのインド国民 軍 の 足 跡 を そ の ま ま 辿 る も の で し た。そのとき私が感じたことは、日 本で言われていることには大きな誇 張があるということです。 要するに、 イデオロギーが先行した形でフレー ムワークができあがっており、実態 は 大 き く 違 っ て い た と い う こ と を、 自 分 で 歩 い て み て 納 得 さ せ ら れ た。 インド国民軍とはどういうものか― 私は、パル判事はインド国民軍のシ ンパサイザーだと考えていますが― そのとき実態を知りました。私を連 れて行ってくれたお二人も、同じ気 持 ち で あ っ た と 思 い ま す。 『 パ ル 判 事』ではインド国民軍についていろ い ろ 書 い て い ま す が、 試 行 錯 誤 が あ っ て 否 定 的 な 結 論 に 達 し た の で あって、先験的に日本ファシズムの 協力者はいけないと言っているわけ ではありません。

●留学から得たもの

  先ほどのアジア連帯論に戻ります と、私は一九七九年から八五年まで 五年余りカルカッタ大学に留学して いたのですが、そのなかで、インド 人が日本をどう見ているかが分かり ま す。 チ ャ ン ド ラ・ ボ ー ス は、 日 本 では騒がれているが、インドでは比 較的小さな歴史的記憶として残って い る に す ぎ な い こ と も 分 か り ま す。 そして、日本ではよくアジア主義と いうことが言われ、インドでもアジ ア 連 帯 と い う こ と が 言 わ れ ま す が、 同床異夢というのでしょうか、両者 はずいぶん違うことを感じざるをえ ませんでした。日本のアジア連帯論 は、 自 由 民 権 運 動 期 に 生 れ ま す が、 まもなく思想的には空洞化して、日 本 軍 国 主 義 の 国 策 に 吸 収 さ れ、 「 大 東亜共栄圏」のイデオロギーに堕し てしまいます。竹内好の名言をかり れ ば、 「 大 道 す た れ て 仁 義 あ り で、 アジア主義ほろびてアジア主義を称

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する議論が横行した」わけです。こ れに対し、インドで言うアジア連帯 というのはあくまで「夢」にすぎま せん。彼らにとって、アジア連帯は 理念としてはあり得ても、実践的課 題としては立たない。なぜかという と、最強の帝国主義国イギリスの支 配があって、その力で海外から遮断 されていますから、自分たちの力で 独立を勝ち取るほかに道がない。も ちろん連帯というのは好ましいこと だから、試みはありましたが。国境 の向こう側から日本のアジア主義と いうものを遠望して、自分なりの見 通しを持つことができたような気が します。   カルカッタ大学では、植民地期の ベンガル農村史について博士論文を 書き、その間いろいろなことを勉強 しました。重要なのは二つです。ひ とつはインドの実証史学を学んだこ とです。当時のカルカッタ大学はま だインド実証史学の中心であり、そ の最高レベルを知ることができたの は、収穫であると同時に、衝撃でも ありました。私は、日本で勉強した ことは御破算にして、彼らのやり方 を一から学ぶことに決めました。   第二に、その頃のカルカッタでは 「 サ バ ル タ ン・ ス タ デ ィ ズ 」 が ち ょ う ど 立 ち 上 が っ て い る と こ ろ で し た。パルタ ・ チャタジーもギャーン ・ パ ン デ ー も ま だ 若 く、 親 し く 付 き 合ってくれました。日本では社会史 的な(あるいは民衆史的な)研究が 盛んになってきたころのことで、初 めは、インドでも似たようなことが 始まったのかという程度の認識でし た。しかし間もなく、パルタ・チャ タジーが院生向けに行った授業に参 加させてもらう機会があり、そうい う認識は改めなければならないと気 づかされました。 彼らがいわゆる 「言 語論的転回」を行うずっと前のこと です。西欧の現代思想の動向を幅広 く捉えた上で始められた意外にラジ カ ル な 運 動 だ と い う こ と を 理 解 し、 それ以来、彼らが言及する現代思想 物 を 細 々 と 読 む よ う に な り ま し た。 そ れ か ら ず っ と 年 月 を 経 て、 「 サ バ ルタン・スタディーズ」に学びつつ も、 彼 ら と は や や 違 う 視 角 か ら、 Harish Chandra Mukherjee と い う ジャーナリストを素材にして、イン ド・ナショナリズムの起源について 論文を書いたことがあります。パル タ・チャタジーはめずらしく誉めて くれましたが、それを聞くうちに若 い 頃 の こ と が 思 い 出 さ れ て、 く す ぐったいような、肩の荷を下ろした ような複雑な気持ちでした。   『 パ ル 判 事 』 で は ポ ス ト コ ロ ニ ア ル批評について割合批判的に言及す ることになってしまいましたが、そ う い う 次 第 で す の で、 私 は ポ ス ト・ モダン的な研究一般に否定的なわけ ではありません。ただし研究輸入業 のようなものに抵抗感を持っている ことは確かです。 「サバルタン ・ スタ ディズ」はインドの新左翼系の研究 者が始めたものです。それが日本に 輸入されると、政治性が綺麗に消去 さ れ て し ま っ て、 何 か 別 の も の に 変 え ら れ て し ま っ た と 思 っ て い ま す 。   留学から帰国後二年間、仕事がな く路頭に迷い、それから東洋文庫で 一年間、神戸大学で六年半勤め、東 京大学東洋文化研究所に十四年半お りました。その間ずっと異邦人のよ うな気持ちでいたと思います。イン ドに長く留学した者が日本社会に復 帰する―これを我々はリハビリと呼 んでいます―には、時間がかかるわ けです。一年、二年とかかる。しか し私の場合はついにリハビリができ なかった。異邦人の感覚をずっと抱 いて、定年まで勤めました。   最近、 東洋文化研究所のなかに 「日 本 の 研 究 は ガ ラ パ ゴ ス 化 し て い る 」 という人がいました。それを聞いた と き、 「 そ れ だ 」 と 思 い ま し た。 日 本の研究者は皆一所懸命やっている わけですが、その中にはどこかガラ パ ゴ ス 的 な 仕 事 を す る 人 た ち が い て、 な じ め な い 印 象 が あ っ た 。イ ン ド 史 研 究 で は 、指 導 的 立 場 に あ る 研 究 者 の 一 部 に そ れ が 顕 著 で、 イ ン ド 人研究者なら「それはデリーでは通 用しない」と言うだろうなと思うこ とがよくありました。   以上が『パル判事』執筆にいたる までの私の歩みです。何をもって自 分の研究を支えて行くのか、なかな か分からない。立迷いの気分という のが抜けない。私が五年間もインド に い た と い う の も、 そ れ が 背 景 に あったと思います。今日のお話の文 脈で言えば、日本ではポピュラーな ア ジ ア 主 義、 ア ジ ア 連 帯 論〈 頼 み 〉 の状況から脱却しなければならない としたら、どういう形でアジアの人 たちと友好的な関係を結びながら研 究することができるのか?   その根 拠 と い う の は ど こ に あ る ん だ ろ う か?   なかなかつかみきれずに今に いたった、 という感じがいたします。

●パル判事にゆきついた次第

  さて『パル判事』ですが、最初は 書こうと思っていませんでした。流 れに流されたり、偶然が多分に作用 しました。偶然を生かすのは、文系 の研究でも案外大事なのかもしれま せんね。その経緯をお話したいと思 います。   あるとき若手研究者が苦情を言い 始めました。若い研究者が書いたヒ ンドゥー・ナショナリズムに関する 本を読んだのだが、自分は納得がい かない、ああいう研究でいいんです か?   と言うのです。私はまだその 本を読んでなかったので、読んでみ

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ました。果たして、その人の言って いることが当たっているなと思いま した。日本でいえば武闘派の右翼に あたるヒンドゥー過激派の言動に最 大限の理解を示す一方で、彼らに迫 害され殺されるムスリムの立場は一 顧だにされていないのです。世界的 に見ても類のない本です。そういう ものが自分の国に出現したことに私 はいささか驚かされました。 その後、 インド・ナショナリズムと宗教に関 する大部な本が出版されると、ある 院生が、先生問題じゃないですかと 言う。それもあとになって読んでみ ると、 なるほどそうでした。そして、 そういう本を書く人が賞を取るよう になってゆく。私は、どうしてだろ う、と素朴な驚きを感じました。た だ、私は現代インドの専門ではない ので、現代インド政治の研究者が批 判 す れ ば よ い こ と だ と 思 い ま し た。 院生たちには、同年代の若い研究者 がたくさん書いているのだから、あ なた方もちゃんと論文を書きなさい と言って、院生支配の恰好の手段と して使わせてもらっていました。気 持ちとしては、またガラパゴスが現 れたなという感じですね。自分には あまり関係がないと思っていたので す。ところが自分自身が巻き込まれ る事態になりました。二〇〇六年の 五月に朝日新聞の取材があったので す。   「 歴 史 と 向 き 合 う ― 戦 争 責 任 」 と いう企画を立てて、パル判事を取り 上げたいので、ぜひ意見を聞きたい と い う こ と で し た。 二 人 の 記 者 に 会ったのですが、彼らは、インド近 現代史におけるパル判事の位置づけ は ど う い う も の な の か?   そ れ か ら、インドのナショナリズムの思想 のなかでパルの思想はどういう位置 を与えられるべきなのか?   という 質問をしてきました。私は心のなか では、過大評価もいい加減にしてほ しいと思いましたが、口では、パル というのはそもそもインドの歴史の 教科書に出てくるようなレベルの人 ではなく、もっとずっと普通の人で す、と答えました。ところが彼らは 全く納得してくれませんでした。私 は説得に努め、ややあって彼らは方 向 を 変 え て、 「 現 在 の イ ン ド 研 究 と いうのはどういうふうに成り立って きたんでしょうか」と訊く。私は先 ほどの荒先生を引き合いに出し、戦 前の研究から断絶した所から始まっ ていると答えました。戦後のインド 研究を立ちあげた人の言葉をそのま ま伝えたのですが、 驚くべきことに、 新聞社の人たちは信じてくれず、そ ん な こ と は あ り 得 な い と い う 感 じ で、質問を続けてきます。戦前のア ジア主義や大東亜共栄圏の思想の延 長線上に、現在のインド研究が成り 立っていると信じているとしか思え ない。私は、これは容易ならざるこ とだなと思いました。二時間は話を したのですが、パル判事についても インド研究についても、彼らの考え を 正 す こ と が で き た と は 思 い ま せ ん。 そ れ は、 「 歴 史 と 向 き 合 う 」 と いう特集が掲載されたときに、確認 せざるを得ませんでした。 そうして、 特集を読んで初めて、院生などに批 判されている若い研究者が、その企 画 の 中 心 に いた こ と が 分 か っ た の で す 。   取材の一年後、その研究者が書い た『パール判事』という本が出まし た。そのなかで著者は、パルは熱烈 なガンディー主義者、絶対平和主義 者で、日本の非武装中立を主張した としています。ヒンドゥー・ナショ ナリズムについてどんなに極端な議 論をしても、日本語でやっている限 り実害は少ないでしょう。しかし戦 争責任や歴史認識の問題に直接から む 東 京 裁 判 の こ と と な る と、 話 が 違ってきます。私は手持ちの材料を 使 っ て 批 判 的 な 書 評 を 書 き、 『 ア ジ ア経済』に載せてもらいました。   ご存知かと思いますが、この本は 漫画家の小林よしのりという人が取 り上げ、著者との間に派手なやりあ いがありました。私は、これは共存 共 栄 だ な と 思 っ て い ま し た。 た だ、 小林さんの本を読んでみて、これは ば か に で き な い な と も 思 い ま し た。 ど う 考 え て も、 『 パ ー ル 判 事 』 を 書 い た 大 学 の 准 教 授 よ り も、 「 私 は 漫 画家です」と言っている小林さんの ほ う が 冴 え た 議 論 を し て い る の で す。それはなぜかということになり ますが、強力なブレーンがついてい るという話を伝え聞いたことがあり ます。いずれにせよ、いわゆる保守 論壇というのはなかなか手強いもの だと、そのとき理解するようになり ました。そういうわけで、だんだん と『パル判事』を書く方向へ流され てゆくのです。   その後、二〇〇七年の一〇月一四 日になりますけれども、その本の書 評が朝日新聞に出ました。それを読 んで私は納得できなかった。書評は その本を、日本の護憲派にとっての 必 読 書 か も し れ な い と 言 っ て い る。 パル判事は日本軍国主義を免罪した 人だと私は思いますが、そのパル判 事をガンディー主義者に祭りあげて 非常に肯定的に扱った本を、護憲派 は読まなければならないと言ってい るわけです。私は「不思議の国のア リス」のような気持ちになってきま した。私は朝日新聞の書評欄に手紙 を 書 き、 「 東 京 裁 判 後 日 本 の 戦 争 指 導者と親交を結んだパル判事が、一 貫して熱烈なガンディー主義者だっ たということになれば、大東亜共栄 圏をスローガンに掲げて戦争指導者 が行ったことは、ガンディー主義の

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許容範囲にあったということになら ざるをえません」と述べました。   私は数年来、インド・パキスタン 分離独立がなぜ起ったのかを、社会 経済的な背景から解き明かすことを メ イ ン テ ー マ と し て 研 究 し て い ま す。ガンディーと日本のファシズム とに通じるものがあるということに なると、私は一九四〇年代をとらえ る枠組みを、根本的に考え直さなけ ればならなくなります。実は、実際 そ う い う 説 を 打 ち 出 し た 人 が い ま す。インド近代史を専門とする教授 がガンディー親日説を打ち出してい る。日本軍がビルマに攻め込んだと き に、 イ ン ド は 大 混 乱 に 陥 り ま す。 インドの民族主義者にとって、日本 軍にどのように対処するか、切実な 問題になった。そのとき、その教授 に よ れ ば、 ガ ン デ ィ ー は 親 日 的 に なったという。私は「日本軍の南方 作戦とインド」 という論文を書いて、 批判的な見解を表明しました。ガン ディーはせいぜい英米と日本の間で 中立的な立場を取ったにすぎないと いうのが私の結論です。詳しくは拙 論 を チ ェ ッ ク し て い た だ く と し て、 ここまでくると、 パル判事の問題は、 私自身いちばん大事に思っている研 究と骨絡みになってくる。しかしそ れ で も な お、 『 パ ル 判 事 』 を 書 く 気 にはなれませんでした。私は分離独 立の研究をどんどん進めたいと思っ ていました。   私は一年に二カ月位インドに出張 して文献調査をすることにしていま す。二〇〇八年九月に文献調査をし たときのことです。予定していたよ り早く調査が終わり、時間が空いて し ま い ま し た。 そ こ で フ ェ デ レ ー ション・ホール協会に行こうと思い 立ちました。同協会はパル判事が会 長 を 務 め た こ と の あ る 民 間 団 体 で す。アポも取らず飛び込みで行った 私の相手をしてくれたのは、事務局 長 の ビ モ ル・ ラ ェ と い う 人 で し た。 彼は英語を話さなかったので、ベン ガル語でインタビューしました。彼 の父オナト・ラェは、パル判事とは プレジデンシー・カレッジから親友 の間柄で、その縁でパル判事が彼を 協会の事務局長にしてくれたとのこ とでした。 そこまではいいのですが、 それに続けて彼が言うには、自分の 父 は テ ロ リ ス ト だ っ た と い う の で す。私は耳をそばだてました。ラェ さんのお父さんは、ベンガル分割反 対運動に加わってオロビンド・ゴー シ ュ の 心 酔 者 に な り、 テ ロ リ ス ト・ グループに加わった。官憲に追われ てヨーロッパに逃れたが、ヨーロッ パから帰ってきて服役して出獄。そ の後チャンドラ・ボースの支持者に なった。第二次大戦中、 チャンドラ ・ ボースはインド向けの宣伝放送をす るのですが、それをカルカッタ市内 で 聞 き 取 っ て ビ ラ に し て、 極 秘 に 配ったという。 それを聞いて初めて、 こ れ は パ ル 判 事 を や る し か な い と 思ったのでした。

●偶然がかさなった調査

  このようになったのはまったくの 偶然によるものです。幸いにしてそ ういう風になって、それまで漠然と 心のなかにあったものに、形を与え てゆく緒をつかめたわけです。日本 で信じられているのとは全然ちがっ たパル判事像を描いて、東京裁判論 争や歴史認識問題に一石を投ずるこ とができるという、確信のようなも のができました。   こ の イ ン タ ビ ュ ー が き っ か け に なって『パル判事』の執筆へと流れ てゆくのですが、まずは、そのとき までに集めた材料をもとにして「訳 注・ラダビノド・パル博士略伝」と いう論文を書きました。それを贈呈 すると、前述の朝日新聞の記者がお もしろいと言って取材にきてくれた のです。そうなると、これは引っ込 みがつかないという感じになる。そ れから、私の弟が出版の仕事をして いて、おもしろい、岩波新書で出す のはどうかと言ってくれました。簡 単に本にしてくれる出版社ではない そうですが、紹介してくれる方がい て幸い出版する運びになりました。   この本は文献調査とインタビュー の二つを土台にしています。私は歴 史畑の人間ですから、文献調査が主 なのですが、インタビューも大切だ ということを、光機関の聞き取り調 査で学びました。結局、何が幸いす るか分からない。あまり気が進まな くてやったことでも、後になって生 きてくるわけです。   先ほどのフェデレーション・ホー ル協会の話に戻りますと、自分の父 はチャンドラ・ボースの支持者でテ ロリストだと言われた時、私はラェ さんに、パル判事についてもっと調 べたいと言ったのです。そうしたら 「 パ ル 判 事 の 長 男 が い る が、 会 い ま すか?」と答えが返ってきて、是非 ともということになった。二日後に カルカッタの盛り場のゴリハトとい うところの交差点まで来なさい、と 言われました。 私は半信半疑でした。 パ ル 判 事 の 息 子 さ ん は プ ロ シ ャ ン ト・ パ ル と い う の で す が、 イ ン タ ビ ュ ー 嫌 い と 言 わ れ て い ま し た。 ラェさんはというと、気さくな方で すが、相当に忙しい感じで、そもそ もプロシャント・パルさんとそんな に親しい関係にあるようには見えな い。 そ れ で も 指 定 の 場 所 に 行 く と、 ラェさんは既に来て待っていてくれ ました。それも片手にはお菓子のお 土産をさげて。私は手ぶらで行った ので恥ずかしい思いをしました。   プロシャント・パルさんは、会っ

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てみると、最初はけんもほろろ、と り つ く し ま も な い と い う 感 じ で し た。 日 本 人 の 調 査 は 信 用 で き な い、 これまで何度も苦い思いをしている と言うのです。おまえはまた父を貶 めるためにきたんだろう、とまで言 われました。日本ではガンディー主 義者だったという人がいますがなど と訊くと、言下に否定されてしまっ て、そこから先に話が進まない。そ れでも自分の意図を長い時間を使っ て説明しました。すると、彼は何を 思ったか、パル判事の葬儀のときに 配ったという、略伝を記したパンフ レットをくれました。それからもい ろいろ問答があり、結局、もう一度 来なさいということになった。その 略伝はベンガル語で書いてありまし た。本来の調査の合い間に読みあげ て、 三 日 後、 彼 の 家 に 行 き ま し た。 彼は家の外に出て待っていてくれた んです。その辺はなかなかおもしろ くて、あれだけけちょんけちょんに 言った人が、待っていてくれたので す。やはり、父親のことをちゃんと 調べてくれるというのはうれしいこ となのだろうと思います。   その日の質問は、その略伝に沿っ て質問を用意しておき、それに答え てもらうことにしました。この点に ついてどうかと訊くと、それについ ては略伝のここを読みなさいと言っ て、書いてあることを敷衍してくる というような具合です。私がよく覚 えていないなどと答えますと、その 箇所を読んでみろと言われ、ベンガ ル語の朗読をさせられました。これ で は ま る で ベ ン ガ ル 語 の 試 験 で す。 ベンガル語をどれくらい理解してい るか、あるいはどれくらい調査して いるか、テストされているようなも のです。でも、質問に対して正面か ら 答 え て く れ る よ う に な り ま し た。 彼はもう八〇を超えています。五時 に始まったので、七時を過ぎたころ に、もうこれくらいで帰ろうと思っ たのですが、彼はやめない。結局八 時四五分まで三時間四五分、お茶を はさんでぶっとおしで私の質問に答 えてくれました。そのインタビュー で 道 が 開 け た と い う こ と が あ り ま す。なぜそうなったのか、というこ とについてはなかなか難しいところ がある。でもやはり、カルカッタ大 学 に 留 学 し て い た こ と は 大 事 で し た。あそこの通りって言われたとき に、 「 あ っ、 あ そ こ で す ね 」 と 分 か らなければならない。話を合わせて 発 展 さ せ て い か な け れ ば な ら な い。 そこが重要だったと思います。それ か ら、 こ の 人 は 基 本 的 に は い い 人 だったのです。ずけずけ言うけれど も、基本的にはいい人でした。

法曹界の重鎮が語るパル判事

  も う 一 人 重 要 な の は、 チ ッ ト ト シュ・ムカジーという、ボンベイ高 裁の長官をやった元裁判官とのイン タビューです。 このインタビューは、 カルカッタの法曹界でパル判事がど のように見られているかを知るうえ で、 非 常 に 重 要 だ っ た と 思 い ま す。 私が留学したときの指導教官は、ボ ルン・デーという人で、この人はブ ラフマ・サマージの人です。ラムモ ホン・ラェのあれですね。人口は数 千人しかいないのですけれども、カ ルカッタでは依然として隠然たる影 響力を持っている。私がパル判事を 調べていることは、デー先生には前 から話していたのですけれども、ム カジー氏を紹介してやるとは言って もらえませんでした。   その後、本の原稿がかなりできた 時点で、 序のところを英訳して、 デー 先生にお見せしました。それを読ん で、彼は「中里、わかった。言いた いことがあるようだな」と言うので す。 「 そ う で す 」 と 言 っ て あ ら た め て説明したら、ムカジー氏を紹介し てくれたのです。ムカジー氏はカル カッタきっての名家の伝統を背負っ て立っているような人で、簡単に会 えるものではありません。その人に やっと紹介してもらえた。   おそるおそる伺うと、メモはとる な録音もするなと言うのです。でも 二時から四時半まで話してくれまし た。 よ く と お る 声 で 朗 々 と 率 直 に 語 っ て い た だ き ま し た。 要 す る に、 パル判事というのは小物ですよ、な んでそういう人の伝記を書くんです か、ということなんですね。話が終 わった後で、この人に会うか?とい うのです。インドではよくあること です。インタビューが首尾よく終わ ると、 次の人を紹介してくれる。 ビッ ショナト・バジペイという人の名前 が挙がりました。是非に、 と言うと、 すぐ電話をとってくれて「ビッショ ナト、今日本人がきているけれども 会うか?」と目の前で電話してくれ ま し た。 た ち ま ち、 「 す ぐ 行 く 」 と い う こ と に な り、 「 車 で 行 く か、 歩 いて行くか?」と畳み掛けて尋ねて きたので、住所を訊くとせいぜい徒 歩二〇〜三〇分のところです。歩い て行きますと答える。それで歩いて 行って、ビッショナト・バジペイと いう人に、電話の三〇分後にはイン タビューしていました。   こ の 人 は イ ン ド 弁 護 士 会 の 会 長 だった人で、そのとき病気だったの ですが、無理してインタビューに応 じてくれました。でも最初は、我が バジペイ家はカナウジの出で、古典 にはこういう風に出ている、という よ う な 話 し か し て く れ な い ん で す。 困ってしまい、別の日にもう一度会 いました。彼は冗談めかして「私は ガンディーとちがって暴力的な人間 なんですよ」と語っていました。彼

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は何を仄めかしたのか。それを明ら かにできるかが焦点でした。独立の 前年、インド国民軍将兵の釈放運動 があり、デモ隊に警官隊が発砲し学 生が死ぬということがあったのです が、 思い切って質問をぶつけてみた。 す る と、 自 分 は そ の デ モ 隊 の リ ー ダーだった、という答えがポロッと 出てきたのです。パル判事はそのと きにいましたかと訊いたら、 「いた、 彼 は 勇 気 の あ る 人 だ 」 と の 答 え で す。このエピソードについては『パ ル判事』をぜひ参照していただきた いのですが、これで私の、パル判事 はチャンドラ・ボースとインド国民 軍の支持者だったという説は完成し ました。九〇歳を超す老人が、この ときとばかり眼を輝かせて語ってく れました。実に印象的でした。   こんな具合で、インタビュー調査 はいろいろな偶然が重なって可能に なったということがあります。文献 調査についてはいろいろ言うべきこ と が あ り ま す が 、時 間 が 押 し て き ま し たので、 ひとつだけにしておきます。   『 パ ー ル 判 事 』 と い う 本 を 書 い た 人は別の本で、インドの国立公文書 館には、東京裁判にインドから誰を 判事として派遣するかをめぐるやり と り を 示 す 文 書 が 保 管 さ れ て い る が、これらは「今でも原則的には非 公開で、 引用することができません」 と書いています。これは何かの誤り に違いありません。国立公文書館で は、文書の裏表紙に利用した研究者 の 名 前 と 利 用 日 を 書 き 込 む こ と に なっています。それを見れば誰がい つ 利 用 し た か 一 目 瞭 然 な の で す が、 当該ファイルは、一九九〇年に最初 の一連の閲覧があり、そのつぎが二 〇〇一年となっています。私は〇八 〜一〇年に三回見ています。   なお、私は非公開の文書を無理し て見るようなことはしたことがあり ません。いわんや、文書館が非公開 に指定している文書の内容を、論文 に書いてしまうというような不正行 為はしたことがありません。私はこ れまで、公開された文書だけに基づ いて論文を書いてきましたし、それ は、 『 パ ル 判 事 』 に つ い て も 同 じ こ とです。私の場合は、それで十分と 考えてきました。非公開のものもあ るかもしれません。しかし、たいて いのことは公開された文書から推測 できるものです。

社会的責任―二分化する知識人   社会的責任という問題に移りたい と思います。知識人の社会的責任を めぐる議論は、一九六〇年代までは 非常に活発に日本で行われていまし た。先ほどお話しした仁井田陞の話 は、 ほんの一例にすぎないわけです。 戦 争 と い う 巨 大 な 出 来 事 に 対 し て、 知識人がどのように向き合うかをめ ぐ っ て、 様 々 な 議 論 が あ り ま し た。 革 命 運 動、 労 働 運 動、 反 戦 運 動、 反 核 運動、反公害運動等があり、これら の運動と知識人の関係についてもた くさんの議論がありました。ところ が、七〇年代からは議論が低迷して いる感じがします。この変化は、今 現在あらためて社会的責任の問題を 取り上げるのならば、新しい角度か らアプローチする必要のあることを 示唆していないでしょうか。七〇年 前後以降に起こった社会変動はやは り非常に重要で、知識人の社会的責 任の問題を考えるときにも考慮しな ければいけない。状況は変わってい るわけですから、新しい状況に沿っ て社会的責任論を組み立て、社会的 責任を果たす新しいスタイルを編み 出すべきでしょう。六〇を過ぎた人 間を連れてきて話をさせても仕方が ないわけです。歴史は繰り返しませ んから、昔話は役に立たない。   しかし、ご要望ですので考えてみ ますと、私は、知識人は二つに分け る必要があるような気がします。レ イモンド・ウィリアムズという人が 書いていることなのですが、イギリ スの大学では研究者は二つに分けて 考えられているそうです。まず、ス ペ シ ャ リ ス ト あ る い は プ ロ フ ェ ッ シ ョ ナ ル と 呼 ば れ る グ ル ー プ が あ る。 皆さんや私みたいな人間ですね。 大学の一般教員で地道に個別研究を やっている人間、あるいは研究所で 毎日資料を見てレポートを書いてい る人たちです。それに対してインテ レクチュアルと呼ばれる人たちがい る。専門を越えて一般的なことにつ いても発言する人々です。同じよう なことをフーコーも言っていて、彼 は、 スペシフィック ・ インテレクチュ アルとユニヴァーサル・インテレク チュアルの二つに分かれるとしてい ます。   言い換えれば、知識人一般の議論 というのはもはや成立しない。フー コーは、スペシフィック・インテレ クチュアルの人々が様々な矛盾を抱 え て 苦 し ん で い る と 指 摘 し て い ま す。現代社会は情報化が進み、第三 次 産 業 が ど ん ど ん 肥 大 化 し て ゆ く。 スペシフィックなことをやる知識人 の人口もどんどん増えてゆく。そう いう社会変化が、新しい問題を生ん で い る と い う 認 識 が あ る わ け で す。 社会的責任論に引きつけてこれを言 い換えれば、 戦後しばらくの間まで、 インテレクチュアル、あるいはユニ ヴァーサル・インテレクチュアルに 当たる人たちが、 知識人を代表して、 社会的責任の重要なところを引き受 けていたわけですが、世の中は変わ り、 知識人は分解してしまいました。 それにつれて、情報化に翻弄され悩 ん で い る、 ス ペ シ ャ リ ス ト、 プ ロ フ ェ ッ シ ョ ナ ル、 あ る い は ス ペ シ

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フィック・インテレクチュアルと呼 ばれる人たちの、社会的責任の問題 が浮上してきているようです。

●しぼむリベラルな公共圏、

進む研究のシステム化

  二番目に、現在の日本社会をどう 見るかという問題があるかと思いま す。偉い人の言説にばかり頼って気 がひけますが、ハーバマスは、リベ ラルな公共圏が存在するということ が、知識人の活動の基盤としてある としています。つまり知識人という のはリベラルな公共圏に住み着いた 人たちだというのです。しかしそう いう場が現代の日本社会ではだんだ ん縮小してきている。その顕著な例 が、 論 壇 が 衰 退 し た こ と で し ょ う。 ある共通の問題について、違う立場 の人たちが議論を戦わすことが、少 なくなってきている。   それから七〇年代以降、とくに八 〇年代以降、日本的なポスト・モダ ニズムが盛んになり、それとセット で 自 己 愛 的 な 傾 向 が 出 て き て い る。 それに対して違和感を持つ人は多い と思います。ポスト・モダニズムそ のものは別にして、それにくっつい てくる自己愛、ナルシシズムはかな わないという人は多いでしょう。新 し い タ イ プ の ナ シ ョ ナ リ ズ ム で す。 「 近 代 の 超 克 」 論 を 現 代 に 持 っ て き て主張する人たちがいます。あるい は、日本はポスト・モダンの最先端 にあるという、能天気なことを言う 人たちも、 少し前まで実在しました。   日本ではポスト・モダニズムはナ ルシシズムとセットになる傾向が強 い。しかも、 さきほど「サバルタン ・ スタディズ」 について言ったように、 海外ではポスト・モダニズムは体制 批判でもあるのですが、そこのとこ ろがきれいに切除されて無力化され てしまっているわけです。そういう 形でポスト・モダニズムがもてはや されている社会が目の前にある。斬 新な切口で自由闊達に議論をしてい るように見えるが、肝腎の公共の場 というのは縮小している。論争の衰 えたところで、ナルシシズムがじわ じわと広がっている。社会的責任論 が出てくる背景には、こうした日本 社会の変化への違和感があるのかも しれません。   第三番目に、スペシフィックな研 究や業務をする研究者=知識人を囲 む環境が、いかに変わってきたかと いうことも、考えなければいけない でしょう。研究制度というものを考 えたときに、一九八〇年代から著し い変貌を遂げているわけです。国立 大学は国立大学法人化した。アジア 経済研究所も全然違った研究所に変 えられてしまった。そのなかで業績 だけは求められるようなった。業績 主義というのはなかなか反駁しにく いのですが、私は、今や行き過ぎて しまっていると感じています。文科 系の学問では真正の革新というのは 難しい。正しい業績評価というのも 残 念 な が ら 難 し い わ け で す。 で も、 独創的な業績をあげることが称揚さ れる体制が無理矢理作られて、その 結果何が生まれているか。一方に似 而非独創性を主張する一群の人たち が出現し、他方に大勢順応主義に流 れる人たちがどんどん増えているよ うに思います。それにブレーキがか からなくなってきているという感じ がします。全般的に言って、どこか 研究がおかしくなってきている。ガ ラパゴスのようなものがそこかしこ に現れて、まだ大勢になっているの ではないが、 将来が心配な感じです。   もう少し述べますと、文科系の研 究でもシステム化が進行しているか と思います。 研究の制度として大学 ・ 研究所があり、学会があります。地 域研究に関しては大型プロジェクト というのがあって、なかば恒常的な 制度として定着しています。それか ら、勲章や××賞のような報奨制度 があります。かなり個別分散的に行 われてきた研究が、それらを軸にし てゆっくりとシステム化されつつあ る。それが研究者個人にとっての息 苦しさの背景になっているのではな いかと思います。   そして、そこでは社会的責任では なくて、社会的貢献ということが言 われている。社会的責任と社会的貢 献とは似たような言葉ですが、使わ れるコンテクストが違う。社会的責 任という言葉は、知識人が世の中の 動きに対して批判的な立場をとって いることを前提にしている。ところ が、その言葉がいつの間にかどこか へ行ってしまいました。私がここで の 発 表 を 引 き 受 け よ う と 思 っ た の は、 「 社 会 的 責 任 に つ い て 語 っ て く れ」 という発想が、 今時珍しいと思っ たからでした。それくらい世の中が 変わってしまった。   大型プロジェクトについて補足し ておきますと、私にも大型プロジェ クトに関わって 齷 あく 齪 せく していた時期が あ り ま し た。 そ の 頃 の こ と で す が、 誰か海外から招聘しようというとき に、アマルティア・センの協力者で あ る ド レ ー ズ を 呼 ぼ う と 思 い、 デ リ ー で 会 っ た こ と が あ り ま す。 ド レ ー ズ は と て も 質 素 な 身 な り で 現 れ、デリー大学のキャンティーンへ 連れていってくれました。そこでお 茶を飲みながら、日本への招聘の話 を し ま し た。 説 明 を 一 通 り 聞 く と、 この人は実に物静かな口調で「あな たのプロジェクトというのはとても 日本的ですね」と言うのです。私は 意 味 が 分 か ら な く て、 「 日 本 的 と は どういうことですか」 と訊きました。 すると「だって軍隊的じゃないです

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か。軍隊的な組織で研究なんてでき るのかなあ」と言う。おだやかな人 がきわめて紳士的にぼそぼそと言っ たのですけれども、その一言は私の 胸にひびきました。 ちょうどその頃、 大型研究プロジェクトは必要なこと もあるのかもしれないが、弊害も大 きいと感じていたからかもしれませ ん。

●社会的責任を果たすには

  研究職は自由で自己実現が可能な ように見えるので人気があるようで すが、本当はなかなか難しいでしょ う。自由な研究の可能性を信じて研 究 職 に 就 く の だ ろ う と 思 い ま す が、 そういう研究を行うことがだんだん 難しくなってきている。ディシプリ ンや研究分野に内在する問題がもち ろんあります。しかし制度的問題も 無視できなくなっていて、システム に絡めとられることがだんだん多く なってきていると言ってよいのでは ないかと思います。   こういう環境のなかに置かれたス ペシフィック・インテレクチュアル の社会的責任ということを考える場 合、批判の困難性ということがある と思います。自分はシステムにある 程度は絡めとられており、社会的責 任を果たすために批判的な立場をと れば、それが自分に跳ね返ってくる ことがある。まじめな人ほどそれを 大きく感じるでしょう。あのとき何 をしたかと問われると、何も言えな くなってしまう。また、今は研究の システム化が進み、研究者が半ば公 的なネットワークでつながれていま すから、ある箇所をつつくと、それ が全体に波及してゆく。ある人のあ る学説や、ある分野が引き起してい るある社会問題を批判すると、ふと 気がつくと村八分にされているとい うようなことが起こりかねない。そ れよりもなによりも、異論を唱える ことが知識人の重要な社会的役割だ という考え方そのものが、地を掃っ てしまっている。我々が若い頃に比 べて、批判的立場をとり、社会的責 任を果たすのはずっと難しくなって いるわけです。今の研究者は大人し い と 我 々 年 寄 り は よ く 言 う の で す が、 私は無理もないと思っています。   それでもなお社会的責任を果たさ なければならないとしたら、どのよ うなやり方があるのか?   残念なが ら私にはこれまで言いつくされてき た 平 凡 な 回 答 し か 用 意 が あ り ま せ ん。それは、偶然的、断片的、アマ チュア的にやるほかないということ です。私はアドルノという人がわり と好きなのですが、堂々たる布陣を しいて、補給も万全を期し、わーっ と 大 攻 勢 を か け よ う な ど と す る と、 自分自身が敵と同じになって、抑圧 的なシステムをもうひとつ作る結果 に 陥 っ て し ま う。 そ う で は な く て、 むしろ断片的、偶然的、アマチュア 的に、その場限りでベストと考えら れることをやるのがよいという考え 方です。それは、偶然性や断片性や アマチュア性に結びついている、あ る種の自由と責任の感覚を大事に思 う 立 場 と 言 っ て よ い か も し れ ま せ ん。これを別の角度から言ってみま すと、学問研究の世界では「大きな 物語」は死んだと言われますが、そ れは社会的責任論についても当ては まる。一人一人が特定の状況に応じ て即興的に一品製作するしかない時 代が、かなり前から来ているのだと 思います。   『 パ ル 判 事 』 刊 行 の 話 に 戻 れ ば、 それは多分に偶然に左右されたもの で し た。 パ ル 判 事 と い う テ ー マ は、 私がプロとしてこれまで手がけてき た研究の系列から見れば傍系に属す るもので、そればかりでなく、率直 に言って 「下手物」 という意識があっ た。でも、いくつかの条件が偶然重 なって、発言を可能にする状況がで きあがったとき、プロの見栄は捨て 初心に戻ってその機会を掴んでみた ということです。そういう状況が眼 前に立ち現れたとき、真面目になっ てそれに向き合い、考えてみる気持 ちは失いたくないものだと思っては います。しかし、歴史研究者の社会 的責任というものについて筋道立っ た考えを持っていて、準備万端整え て や っ た と い う こ と で は な い の で す。   あんまり元気の出そうにない話に なってしまいましたが、最後はやや 楽観的な調子で締めくくることにし ましょう。デカルトの「我思う故に 我あり」をもじって、ヴァレリーは 「 私 は と き ど き 考 え る、 ゆ え に 私 は 時 々 存 在 す る 」 と 言 っ た そ う で す。 二〇世紀を代表する知性と言われた 人がこう言っているのですから、皆 さんも、一日中考え続けて社会的責 任を果たし、完璧に存在証明をしよ うなどとは思わず、ときどき考えて ときどき存在を確かめるぐらいの気 持ちで、いろいろなことに批判的に 取 り 組 ん で み て は ど う で し ょ う か。 自由な試みの中から、時代にふさわ しい新しい社会的責任の果たし方の スタイルが生み出されることに期待 しています。 講 演 日   二 〇 一 一 年 六 月 八 日、 於   ア ジア経済研究所 ( な か ざ と   な り あ き / 東 京 大 学 名 誉 教授。専攻は南アジア近現代史)

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1 Library, Institute of Developing Economies, Japan External Trade Organization (3-2-2 Wakaba Mihama-ku Chiba-shi, Chiba 261-8545). 情報管理 56(1), 043-048,

Basic Input-Output Table of Thailand, 1975, (IDE Statistical Data Series, No. 30), Tokyo: Institute of Developing Economies. OSCAS-NEC (Office of Statistical Coordination

発表者,題名,発表・発行掲載誌名,発表・発行年月 ○Shinji Tokunaga, Toshiyuki Araki: “Wallerian degeneration slow mouse neurons are protected against cell death

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