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琉球の土地制度と社寺地: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

田里, 修

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(7): 45-55

Issue Date

1990-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5738

(2)

沖縄大学紀要第7号(1990年)

琉球の土地制度と社寺地

田里 修 1.近世琉球の土地制度 近年沖縄歴史研究においては、1609年のいわゆる島津家の侵略以前を「古琉 球」とよび、以後を「近世琉球」とよんでいろ。近代および現代の土地制度を 理解するには、この「近世琉球」の時代の土地制度が前提となる。 1609年(慶長14)に琉球を侵略した島津は、1610年から翌年にかけて、慶長 検地を行なった。検地とは、いわば土地調査のことで、土地の耕作者、種類 (1) (地目)、反別(面積)などを封建領主(ここでは島津)が調査するもので、 我が国では、秀吉の太閣検地と呼ばれるものに始まるとされろ。領主は、検地 を行なって、領地を本人も含めて家臣らに分配し、それぞれの家臣は、その分 配された土地と人民を領有(支配)するものとなる。これは、我国やヨーロッ パの封建諸国も同様であった。従って、1つの土地の上に、領主一家臣一農民 (耕作者)といった重畳的権利関係が成立し、そこにおける土地所有とは近代 社会(法)における私的(独占的排地的)権利とは全く異なるものである。 我が国の江戸時代(近世)においては、江戸幕府(徳川家)が成立して以後、 徳川は全国を二百数十の大名(家臣)に配分し各大名は、藩内をそれぞれの家 臣達に分配していたのである。従って大名にみられる家臣団は、政治的支配者 として各地を領有していたのである。 島津の侵略後、琉球国(の領地と人民)は、徳川から島津へその支配を任さ れ、島津は琉球国の内で奄美五島(当時は「道の島一と呼ばれていた)を除いた 地域を尚家の支配に任せたのであった。尚家はこれによって琉球の農民に対し、 貢租を課すると共に、その家臣団(琉球士族)に領地を分配することができた のであり、また、家臣として島津に上納(仕上世とよばれ、18世紀頃には一万 石近くを上納していた)の義務を負っていた。封建社会では、このように、領 地を家臣に分け与えることによって、身分関係(上下関係)が生じ、家臣はま -45-

(3)

た領主に対し種々の義務(例えば上納や軍役)を負うことになった。こうして

封建社会の士族(支配者)の間の主従関係は最後に農民に行きつくのであるが、

農民の下には「家臣」はいないのであり、農民はいわば最下級の土地に対する

支配者となり、しかも、直接の支配者である。この農民の士地の支配を一般に

「農民的土地保有」とよび、我国では「所持権」とよんでいたのである。こう

した関係は、基本的には近世琉球においても同様であり、従って尚家は島津家

より、琉球国の土地と人民の支配を任された-家臣にすぎず、その事は決して

尚家が琉球の土地の「所有権」を有するということを意味しない。

我国では、「土地と人民」については、徳川時代において、先の検地を行な

うことによって、その価値(大きさ)を石高とよばれる米の生産力に直した基

準で表示することになっていた。すなわち、先の慶長検地によって琉球国

は八万九千八拾六石余とされた。-坪当たりの生産高は、全国並みの基準

(例えば、上村の上田だと反当たり一石六斗で査定されているが、実際に沖

縄県で反当たり一石を超えるのは昭和に入ってからである。)で調査している ので、耕地面積は、本島で田2,663町余、畑が6,128町余にすぎなかっ た。封建領主は、こうした石高に基づいて、農民に貢租をある率で課する (2) わけで、農民はそれぞれの自分の持高に応じて、貢租を負担することになるの である。ところで農民は村を離れると、こうした土地の耕作権を保証してもら えず、勿論、売買は禁止されていたが、貢租を納める限り、その耕作権を保証 されていた。

支配者たる領主は、こうした農民から租税取り立てを容易にするため、租税

貢納を村(その中の5人組や沖縄の与など)の連帯責任とした。

琉球においては、こうした貢納の第一責任者は間切(現在の市町村に相当す

る機関)とされ、その次に村(現部落に相当)、与(いくつかの家の組合)、

そして、最後に本人の親類となっていた。 (3)

そして、村が貢納の責任を果たす限りにおいて、その村に関することはその村

の農民たちの自治に任せたのである。いわば村は自治組織であり、村内法(規

約)を作って自らでもって村を管理していたのである。

近代琉球における「地割制度」とは、こうして村の自治(保護・管理)を任

-46-

(4)

沖縄大学紀要第7号(1990年) された農民達が(村内法あるいは古来の慣習等に基づいて)自主的に土地の割 り替えを行ない、貢納の責任を果たしていた制度なのである。この地割制度が 各村(部落)によって、内容(地割期限・配分方法・地割配当者等々)が異な っていたのもそのためであった。農民達は慶長検地に基づいて作成された「名(4) 寄帳」にある村高(村の石高、農民の持高総計)に基づいて賦課される貢租を 村内の土地を地割配分することによって負担していたのである。従って、王府 (5) からみると、島津の慶長検地による琉球の石高は、その後、2度程、検地(土 地調査)をせず盛増(もりまし)と称する改定が行なわれた(総計10%程度) のであるが、この総石高に基づく租税を、農民は村高に応じて貢納してもらえ ば、農民がそれぞれに村独自で地割を行なったとしても構わなかったのであり、 農民達の占有する耕地についても大まかな数直でこと足りたのである。王府は 1737年から元文検地と呼ばれる、王府の内検を行なったが、その結果、琉球の 田畑は慶長検地の時の2.4倍(田6055町・畑15355町)に上がったにもかかわ らず、本来、増えるべきである石高は、結局明治になるまで、先の盛増u722 年が2度目)以後も変わらなかったのである。この事は、王府、あるいは島津 にとって租税の確保さえなされていれば、それで良いのであり、現実の土地の 支配は基本的には農民(とその自治組織である村・間切)に任されていたので あって、それは帰する所、近世琉球の土地の実質的な支配・占有は農民的土地保 有であったということを意味する。なお、このことは、明治の沖縄県土地整理 法(明治32年法律第59号)第16条が永久に交換したろ土地、第14条が村よ り譲渡した土地に付き、それぞれ交換後の名義人及び譲受人の所有としたこと を見てもわかることであり、近世期の農民の実質的支配・占有を近代国家法が 認めたものといってもよい。 右の一般的な農民の支配する士地を「お授け地」あるいは「百姓地」とよん でいたのであるが、慶長検地の際の地頭(王府の家臣)の耕作地を「地頭地」、 オエカ人(間切や村の役人)の耕作していた土地を「オエカ地」、村々の神女

の耕地を「ノロクモイ地」とよんでMifそれらの起源については諸説がある

(7) が、一般に占い時代には、それぞれの地頭やオエカ人、ノロクモイ人が直接占 有、耕作していたと考えられ、18世紀頃からは、役職が世襲のノロクモイを除 -47-

(5)

き、次第に村の農民達がその作得(収入)を負担していくようになって、全く 地割(対象)地となってしまったりしたものもあったようである。なお、土 地整理法における地頭地についてみるならば、自作地、小作地、村持地など何 種類かにつき同法は規定していろ(第2条~6条、7条、8条)。

近世の琉球の土地は、このように基本的には地割制度に基づく農民の実質的

占有・耕作が一般的であり、尚(王)家の「所有」として観念されてはいなか った。このことは明治17年における「尚家私有財産処分」(沖縄県史第13巻

42頁)をみても明らかであろう。なお、社寺地との関連でいえば、右の、尚家

私有財産中には、崇元寺は含まれているが、波の上宮・護国寺は(当然)含ま

れておらず、「公寺」であっても、両社寺がいわゆる単なる尚家の「私的菩提 所」でなかったことも明らかであり、尚家が直接管理していなかったことも明 らかである。 次に近世琉球における社寺地につき検討するならば、沖縄における仏教が民 間信仰にまで近世(あるいは現代)に至るも広まらず、そのため王府が保護し たといわれるが、王府は「社寺禄」の形でいわば僧侶の生活を保護したにすぎ ない。琉球王国においては本土における中世の「社寺領形成」にまで発展せず、 それ故、明治の社寺領上地が大きな問題にはならなかった。 しかし、それでも、沖縄の社寺に全く「領地」がなかったわけではないこと

は、先に述べた元文検地(1737年)の際の「田地奉行規辮」の1節より明ら

かである。

一、従跡々脇寺々ニ相付有之侯門前地之儀、此度請地二召成各住僧江可成相

渡事 (以前から脇寺の区域に編入しておいた門前地は、今回、請地(払下地) にして、各住僧へ引き渡すこと)

一、諸御寺境内二相係候余地ノ儀此度遂見合分各御寺江相付侯而不叶所ハ差

分、針竿仕付、寺社奉行所江引相渡各住持格護申可渡事 (諸寺の境内に接続する附属地は、今回調査して、各寺に編入しなくては ならない所は、分割して測量し、寺社課へ引(証明書)を提出して、各寺

に編入しなくてはならない所は、分割して測量し、寺社課へ引(証明書)

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沖縄大学紀要第7号(1990年) を提出して、各住寺に保護管理させなさい) -,右諸寺之内、従跡々竿入地方被召付置候茂有之、又不被召付置所茂有 之、親疎二相見得侯、其上知行高等段々被召付置事候ヘパ永々迄右地方被 召置二不及間、此度所中江引渡可申事 (右の諸寺の内、以前から、測量し地方(土地)とした所も、しない所も あって親疎(不平等)であり(寺への)知行も段々行なわれるようになっ ていて、右地方をおく必要はないので所中(村)へ引渡しなさい) 右の三点目は、寺によっては、地方(土地=寺社領)をもっていた寺があっ たという事を逆に物語るものであろう。以上、寺社領も必ずしも「尚王家及び その一族」のものでなかったといえるし、ここでも、むしろ現実にはそれぞれ の寺社が土地建物を格護(保護・管理=占有)していたのであり、その事はま た右文書中などの「引渡」の語より見ても明らかである。 2土地整理事業前後の寺社及び波上 沖縄県は明治12年4月設置されたのであったが、その後租税制度は王国時代 のままの慣習が続き、明治27,8年頃から諸制度への改革の取組みがなさ (9) れろようになった。以下では、土地整理前後の資料から、社寺地および本 件D地区に関連する事項に付き検討してみたい。 大蔵省は明治28年8月頃、沖縄県地租改正案を検討したが、その第3回議案 (10) 「沖縄県土地処分地租改正法案」によれば、 第1条左ノ種類二属スル土地ハ官有地トナスヘシ 1宮署ノ敷地用地官舎敷地官費ヲ以テ支弁スル事業二併用スル土地其他直 接ノ官用二属スル土地 2府県社以上ノ社地及宮寺ノ境内 3杣山 とある。同法案は、その後、閣議で採用されなかったのであるが、波上宮が 明治23年、官弊小社となっていたこと、明治25年の沖縄県当局による「地租改 正案」においても右同様の条文が見える事を指摘しておきたい。 (11) 右の法案も内閣で廃案に終わったが、明治30(1897)年12月、沖縄県士 -49-

(7)

地調査委員会は「沖縄県土地種類調」を審議作成した。その中で社寺とD地区に (12) 関係すると思われる個所を抜き出すと以下の三項があげられる。 △社寺・拝ミ所・堂社・無税地 社寺地ハ社寺ノ用二供スル地、拝ミ所・堂社ハ神場礼拝奉仕ノ用二供スル土地 ニシテ概ネ社寺地二類スルモ、数年ノ俗称アルモノニ付之ヲ分ツ、社寺地中、 宮社寺ノ敷地二係ル者ハ官有ニシテ、民寺ノ分ハ間切有、私寺ノ分ハ私有二属 セリ (中略) △波上兼久、無税地 那覇市字若狭町波ノ上宮近辺ニアル寄洲(士語之ヲカネクトイフ)ニシテ、官 有ノモノ在り、字有ノモ、若クハ民有ノモアリ △灰焼地、灰焼所、無税地 灰焼地ハ那覇市字若狭町二在ル浮得地ニシテ其由来明ナラス、灰焼所ハ波ノ上 兼久近辺ニ在り素卜首里城修築ノ時、藩用トシテ石灰ヲ焼キシ地トシテ官有二 属スル地ナリ 右三項は、沖縄本島のいわゆる百姓地(地割地)や地頭地、オエカ地を始め とした、土地調査委員会の調査に係る明治期の沖縄の士地の1日慣名称の報告の一 節である。右資料を見る場合注意すべきは、「官有」「民有」の用語であるが、 これは単に、由来が王府に関係する場合や、あるいは保護管理ないし管轄が王 府に関係するもの(その支配及至管理・占有が王府にあったというものではな い)を「官有」、そうでもないものは「民有」といった程度に解すべきであり、 当時の調査においては、租税を支払っていたかどうかを基準に官有、民有と呼 んでいたにすぎない。何故なら、同資料中にあるいわゆる沖縄の宮(藩)山で あった杣山は租税を支払わなかった事と、王府の御用木を産出するために、同 資料でも、後の士地整理法第18条でも官有とされたのであるが、その実質は農 民の入会利用に基づいて保護管理されていた。そのため、同法第18条但書にお (13) いて、その保護管理は、1日慣によるものとして定められ、最終的な官民有区分 は土地整理後の明治39年に至って行なわれ3分の2が地元の町村、部落に払い 下げられた(仲間勇栄『沖縄林野制度利用史研究」|)のである。 -50-

(8)

沖縄大学紀要第7号(1990年) 本件の地区に関するものとして、右資料中の「波ノ上兼久」および「灰焼所」 に注意する必要がある。明治以前や明治以後の古地図、明治初期の波上宮 の写真を見ろと、波上宮周辺の寄洲、すなわち砂浜は、現状を見るまでも なく、本件D地区が唯一であり、現在わずかに残る砂浜こそが、同資料に いう「波ノ上兼久」であろう。してみろと、波上兼久近辺にある灰焼所と は本件D地区一帯以外にはあり得ない。なお首里城修築とは、明治よりは ろか以前のことであり、従って、波上兼久に、かつて石碑があり(島尻鑑

定)、また戦前の写真(証拠資料参照)を見ると、兼久に接続する地はなだら

かな傾斜地で、石で土留めがなされているところを見ると(さらに又その北東

は石灰岩地形であるのを見ろと)本件D地区が波上兼久及び灰焼所であった

可能性が高いのであり、しかし同資料において「官有」とされているが、先に

述べた様に単に首里城修築に際し、石灰を焼いた由来の地にすぎなかったと考 えられ、「官有」といっても、その保護管理は地元(波の上及び若狭町)に任 されていたと考えるべきであろう。

我が民法典は、明治31年6月21日法律第九号により第四・五編(いわゆる

戦後改正前の民法)が公布され、同月法律第11号「民法施行法」により而月16

日より施行されることになったが、沖縄県においては、民法施行法第10条によ

り、「不動産二閣スル権利」については民法を適用しないものとされていた。

この翌月、明治31(1898)年7月14日勅令第144号「臨時沖縄県土地整

理事務局官制」が公布され、30日に県庁内検徳館に事務局が設置された。同

年10月、識名園において、土地整理事務局の7名のメンバーによる協議「沖縄県

士地処分決定」がなされた。同決定を見ろと、(14) 一、浮得地(灰焼地)保管地(首里) 有期貸付ノモノ、貸付サルモノ、右所属区又ハ部ノ所有トス

ー、波上兼久、白仁石所、孔子、附属地、壺屋地、瓦屋敷地何人モ占有セサ

ルモノ、右ハ区ノ選択二任ス使用シ居ルモノ右ハ占有ヲ得ダル者ノ所 有トス 右の決定が先の「土地種類調」を基にしていることは、両者を比較すれば分 かる。問題のD地区と考えられろ「波上兼久」及び「灰焼地(灰焼所も同じと -51-

(9)

考えられろ)」について見ろと、土地整理事務局はこれを基本的には区の選択 に任すとしながらも、波上兼久などは使用者が居れば、その占有者の所有とす る方針を決定している。(仮に波の上官が使用していたと仮定すると、23年に 官弊小社となっていた事に留意すべきであろう。もし、波の上が使用していた とすれば、すなわち、官有地となったこととなるからである。) その決定の4ケ月後の明治32(1899)年3月10日法律第59号「沖縄県土地 整理法」が公布、4月1日に施行された。しかし、同法においては、勿論、波 の上兼久、灰焼地の名称は見当らないが、第13条において「浮得地」について 次のように定めている。 間切山野、村山野、浮得地、保管地、馬場、牧場及間切役場ノ敷地等ハ其ノ 区、区ノ字、間切、村又ハ其ノ権利ヲ承継シタル者ノ所有トス すなわち浮得地は区や字、間切、村などの団体有とされた。 同法第23条は「地租条例及国税徴収法ハ勅令ヲ以テ期日ヲ定メ漸次沖縄県二施 行ス但シ社寺地、拝所ハ地租ヲ免除ス」とあり、社寺地については無税地とし ていろ。土地整理事務局が明治32年4月1日に発行したパンフレットによると、 同条は「此法律ニヨリ地所ノ処分其他ノ始末アリタルモノニハ他府県同様地租 条例ニ依り地租ヲ賦課サレ国税徴収法二依り之ヲ徴収セラル尤地租条例、国税 徴収法ノ施行ハ勅令ヲ以テ定メラルルナリ唯沖縄県ノ地所ノ中他府県卜異ナリ 地租ヲ免セラルルモノハ社寺地。拝所ナリ其他ノ免租地ノ事ハ地租条例ノ中二 規定シアルナリ」 と説明していろ。つまり、沖縄県の社寺地・拝所のみは本士と異なり免租地と されたという。 3.結論 以上見た如く法制史の立場から管見を加えるとすれば一審の判決文において みられる次の2点は疑問としなければならない。 1、判決は「沖縄県土地整理法に基づく土地整理事業が完了した明治31年よ り前の沖縄における土地所有制度は、極めて例外的事例を除き、尚王家が全て

の土地所有権を有し、個人の所有権は認められず、いわゆる地割制度のもとに

-52-

(10)

沖縄大学紀要第7号(1990年) _定の資格又は条件でその使用収益のみが認められていた一種の割当地であっ た」とか「琉球王府時代の沖縄における土地所有は極く例外を除いて尚王家に 属するものとされ、個人の所有権は認められず、単に一種の割当地として『百 姓地』『地頭地』『オエカ地」『ノメクモイ地』などの名称で民衆は士地利用 権能を有していたにすぎない」とする、近世琉球の土地制度に関する点。 1、同じく「社寺は尚王家及びその一族の私的菩提所としての性格を有し神 職、僧侶は役俸を得て王府に仕える者としての地位を有するにすぎず、社寺は 土地所有権は勿論のこと割当地についての使用収益又は占有の主体ではなかっ た」とする社寺地の性格及び「土地所有権」「割当地」「使用収益」「占有」 等の用語など。 私は、既に述べたところからみて、本件係争地であるD地区は、壬府におい て、「波ノ上兼久」「灰焼所」とよばれた一帯であったと考えろ。仮にそうで あったとすれば、D地区は地元である「若狭区」及びその権利の継承者に土地 整理事業時において、その所有権を認められた可能性が大きい。現在の地籍図 を見ると、地区の海岸寄りの部分に直線で線引きされていろ、他所有の小面積 の墓地がある。これは、土地整理前の調査において「民有ノモノアリ」とされ た土地、すなわち墓地ではなかったかと考えられろ。

明治36年に土地整理事務局が発行した「沖縄県土地整理瀞」に、那覇区

の民有免租地の項目に一筆の社地があり、その面積は0.4412町(すなわち 1323.6坪)とあり、これが波上宮であることは間違いない。千三百坪程の面 積とは、現在の境内とほぼ一致する所であり、戦前の写真(証拠資料)に見え る石垣囲いの境内地であったと考えられる。 明治30年内務省令「官弊小社昇格内規」では境内地は三千坪内と制限されて いたのであるが、大正2年内務省令第6号によって境内地の限度は5千坪に拡 大した。それに伜うかの様に大正2年の「波上宮明細帳」以後は境内地面積を 「国有地4450坪」前後と統計紀録にはしるされている。 明治42年の沖縄県知事の「兵第44号」によれば、「土地整理当時ノ書類二 (17) 就キ調査スルニ、地押調査ノトキニハ社寺地ハ総テ官有トシテ整理スルノ方針 ヲ採リテ調査ヲ為シタルモ、処分調査ノ場合二至リテ局議一変シ総テ民有地卜 -53-

(11)

シテ処分スルコトニ決定シタル証拠アリ」としている。 波の上官は明治23年に官弊小社となっているにもかかわらず、しかしながら 「土地整理紀要」にみる如く、「民有免租地」として土地整理事務局は報告し ている。問題となってくるのは、仮にD地区は「土地整理紀要」編集時点にお いて官有地(国有地)となったとした場合、大正2年の「波の上明細帳」には、 その境内は「国有地」とされていることから、大正2年の内務省令に供なって、 5,000坪近くに境内を拡大する事になり、その結果、民有免租地であった1,300 坪余りの土地に、国有(官有)地3,100坪(地区)を払い下げて合併し、4,400 坪の国有地となったとしなければならなくなる。 しかし、D地区が土地整理時において、若狭区(現、町)の所有とされた場 合、いわゆる部落有地となったことになり、結果として登記は出来なかったこ とになる。しかし、D地区が「波の上兼久」及び「灰焼所」であったとするな ら、若狭区は「灰焼地」を持っており、灰焼所は要らなかったと考えられろ。 又、灰焼所が王府の城修築の際の石灰を焼いた場所(石灰は瓦のしっくいに用 いろ)であるのは、琉球8社の1つである由緒のある波上宮の「竜頭」(沖 縄の風土思想から大事な場所といわれる)としての聖域に外ならない場所であ るからであり、その加護(霊力・セヂ)にあやかろ場所であったからだと考え るし、その聖地の保護・管理は波上宮にあったであろうと考えられろ。それ故、 こうした灰焼所管理は波上宮(及び地元の若狭)がかつて行なっていて、大正2 年の際に区有地その他となっていたD地区の波上境内に合併して4,000坪の 国有地となったと考える方が無難である。 前者、(D地区が土地整理時点で官有となった)であったとする場合、大正 時点で官有地を波上宮に譲渡したと考えなければならず、とすれば、国側に は当時の資料が残るべきであるし、残っているはずである。 「御当国御高並諸上納里積記」 「沖縄県旧慣租税制度」 「南島村内法」、「沖縄県旧慣税租税徴収二関スル調査」 仲吉朝助「琉球の地割制度」(『史学雑i誌ul) 注(1) (2) (3) (4) -54-

(12)

沖縄大学紀要第7号(1990年) jjjJjJ 56789, くくくくくく 「沖縄・久米島』所収、山本弘文「近世久米島の土地所有」弘文堂 注(1)老見よ 安良城盛昭「新・沖縄史論』1980沖縄タイムス 田村浩「琉球共産村落の研究」 注(7)を見よ 三康図書館「地租改正法律案」、野崎昭雄「沖縄県地租改正に関する-史料 について」 『宜野湾市史」第二巻収録、 仲吉朝助「沖縄土地整理法案土地整理施行法・書類」、田村浩 (11) (12) 補註(1)本稿は、島尻先生に頼まれて、裁判所に提出した鑑定書を少し訂正したもの である。島尻先生は別に、宗教的な観点から鑑定所を出しておられろ。 (2)本事件は、琉球八社の一つ、波上宮に近接した現在は公園となった土地をめ ぐる裁判である。同地は、戦前、同宮の境内とされていたが、戦後、復帰ま で琉球政府が「管理」し、復帰後、国の「管理」する所となり、それを那覇 市が公園として整備し現在に至っていろ。 (3)問題は、当初民有免租地として、約1,300坪(M、36.県統計書)程であっ た波上宮が、以後、官有地第一種(2,300坪全)とされ、大正2年後は4,460 坪となっていろ。一方、大正2年以前の境内地が3,000坪以下とされた制限 が、以後、5,000坪に拡大されたことである。 (4)本稿提出後、反論の鑑定書が提出されたが、要するに、国策として、戦前、 波上宮は保護されたため、官有地として社域が拡大したもので、本来の境内 ではなかったとするものである。しかし、何故大正2年前は3,000坪に制限さ れていたのか明確ではない。また官有地第一種地としての境内地と、他の官 有地が、何故、簡単に「併合」できるのか、明らかではない。 -55-

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