昌平校における歴史教育の研究
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(2) 42. 田. teachingt small. The. (1). such Chapter. IV. bad students Concretely speaking・ To. a). To. points. the. points. he got・. passed. the. (Dept・. of. iⅢ what. examination had tw・o. give. their. got. student as. viewpoints. The. ways. in. average・. wac examination Social Studies.). in. marked. answering. each. answer. to. honoured. a. question・. each. with. a. Ⅲ. 歴史教授法と学級制 1・歴史教授法 2.学殻制. no. lts Fvalution bad. learned. and. from. sentence. and. it with. understand. paper,made of history, and And each of. text_. their. were:. which Chinese. a. lastly the. total. ease.. 。f. showed students. the. the who. pri2:e.. 3.学習時間 Ⅳ. 1・徳川家康と林羅山との関係 2.林家の私塾時代 (1)忍岡時代(2) 湯島時代 3・昌平坂学問所時代 昌平校における歴史科と教科書 1・五科の制 2.三科の制 3・四科の制 4.四科の潮. it is. ago.. 次. 昌平校の変遷. Ⅱ. And. studies. years. student's. 研究の目的 Ⅰ. 序. read facts.. question. 目. 序. they. 250. of examination, for the marks. of historical. examiner. than. And. Examin叫on. they. in their. less. no. applied. History. : an. improved. much. punctuation marks and return kana to it, that we Japanese might. Evaluation:. (2). had. method. 郎. put. declentional. b). they. the. was. The. books・. add. that. was. result that. wonder. 太. 歴史試験の内容と評価の方法 1・歴史試験の内容 (1)素読吟味 (2)学問吟味 2・試験の状況 (1)試験問題作成の手順. (2)試験立会人 3.評価の方法 (1)素読の評価. (3)試験の日程 (2)学問の評価. (3)褒美の規定 践. 以上. 研究の目的. 江戸時代で比較的組織だった学校は,江戸に幕府立の昌平校(寛政9年,. 1797に昌平. 坂学問所と改称)があり,地方に藩主立の藩校があって,主として支配階級である武士の 子弟に若干の庶民の子弟を加えて教育を施した。 この小論では,昌平校で行なわれた歴史教育の内容を研究したものである。昌平校では 文道中心の教育を教科別に行ない,歴史科は僅かにその-科にすぎない。日本の歴史教育 史から見れば,極めて僅かな部分にすぎないにしても今までにまとまった研究といえば, 大久保利謙の「近世における歴史教育」. (昭和14年史学会編本邦史学史論叢下琴22-25貢). に簡明に書かれている位であると思う。 この研究の原拠賃料は,主として文部省縮「日本教育史賃料第七分冊」である。この分 冊は明治5年に昌平校の教育関係文書を収録した貴重なものであるが,欠如も多く年次も 雑然として読み難いものであるoこの外に犬家退翁の「昌平志」. (5巻. 国会図書館蔵,文政. 元年写本)からも引用した。. 筆者は「藩校における歴史教育の研究」. (横浜国立大学研究紀要No.. 2,. 1962年)を発表し.
(3) 昌平枚にお狩る歴史教育の研究. 43. たその鯨練篇であるo. この7j、論文と今河のものとを併読して下されれば筆者の見解が一層 朗らかをこなると患うo賃料の出鼻を詳しく窮記しないところ捻上述め日本教育史漂料から であることを予めお断りしておく。この研究をするに当っては石川謙博士の御者書から多 くの学恩を得たことを記し深謝する次第である。 昌平境野変遷(寛永7年・. 163O一明治3年・. 187O-y240年間). 昌平校(聖堂)林家祭功一覧表. 代数基氏名(号)f在職顛関 林. 信勝(羅山). 寛永7-明暦3. (1630-1657). 昌平校関係 忍岡に私塾設立 創建期. :モこ・.I.:I:-・. 明解3十延宝8 (1657--1680). 林. 長篇(鳳岡). 鮭宝8-享殊9 (1680- 1724). 林. 房充(樹弼). 享保9-一宝暦7 (1724-1757). 林. 倍謬(鳳谷). 宝暦7-安永2 (1757-1773). 林. 伝教(厳寒). 安永3-天明7 (1774-1787). 林. 唇敬(鐘蜂). 天明7--寛政4 (1787-1792). 林. 衡(述斎). 林. 靴(怪事). 天錬9一弘化3 (1826-1846). 林. 健(壮軒). 弘化3-嘉永6 (1846-1853). ミミこ. -i_:・:・/',、・.:). 溝学不鼓. 昇(学斎). 同. ''l'.:. 、. 林. 漸嘆期. 寛政5-支線9 (1793-1826). 挽河靭 佐藤-・斎の登用 二:. ・‥:i.:_ミr:三. 上. 琵1.この一覧表は,日本教育史資料第7分冊■(531-563貰)によって作成したo 2.祭酒とをま,学級を司る長官の名称で,大学涙の磨名であり歴代襲用さる。 3.傑出した祭漸ま,初代羅山・ 2代驚峰・ 3代鳳弼・ 8代述斎と云われているo. 1.徳川家康と林羅山との関係 1.徳川家康ほ豊臣薄青の下をこ雌伏していたとき,「武士は千曳弓馬の審の外は,猿楽・ 茶の象・放逸の審のみこそぼや汐つれo詮Åか文学館道に心を番すべきo」. (山革園南・為学. 閥答)とあるどとく,学問を好み林産山を招いて蔽間とし,とくをこ申鰐蕃を収集して江戸の.
(4) 44. 田. 文庫に収めるのみならず,中国書物の覆亥rJ. 太. 郎. (伏見版といわれ慶長勅掛羊匹敵する)を命じてい. る。家康は綱吉のごとく自ら学を講ずるほどの好学者ではなかったが,わが政権維持の精 神的支柱として朱子学を封建教学として採用したことは,図に当ったといわざるを得ない。 山県周南のいうごとく「げに天下を保ち給ふべき王者の御器量にて在ます。其の御験にや,. 天下の大法悉く図に当り,今宵年を除ゆれども,国体のつり合いよく磐石の固めあり。学 問日に開けて君臣父子五倫の正しきこと,前古に越えたり。中華,朝鮮も及ばず」. (為学問. 答)とあるのは,林羅山の信奉する朱子学の精神に共鳴したことによる。. 封建社会体制にあっては,武士を頂点とする身分秩序の厳守と家では五倫五常の維持が なければ永続することはありえない。この精神が朱子学の本館であり,これを教える林産 山を優遇したのは幕府安泰のため当然のことであり,この学を選んだことは家康の先見の 朗によるものである。羅山は家康の政治を王道と称し,王道は朱子学の徳治主義であると した。. 2.林豪の私塾時代. 一寛永7年(1630)一寛政9年(1797)・-・167年間. (1)忍同時代-寛永7年(1630)一寛政9年(1797)-. -67年間. 徳川家康の知遇に厚かった林羅山が,私宅を江戸上野の忍岡に持ち,宅地内に孔子廟を. 営んでいた。羅山は家康から私塾を建てる許可を得ていたが,家康の在位中には実現しな かった。. 3代将軍家光は,祖父家康を東照大権現と尊崇していたので,羅山の宿頃に応ずべく寛 これが昌平校の前身で. 永7年に,忍岡の土地5350坪と学寮建設の資金2盲両を与えたo. ある。寛永3年にこの家塾を弘文院と改称した。羅山は幕命により「本朝編年録」の編集 をしたが中途で死去したので中絶した。この続修を4代家綱より命ぜられた2代林鷲峰 は,寛文十年に全310巻として完成し,本朝通鑑と改めた。霜年録を通鑑と改めたことは 束子著の通鑑綱目にあやかったものといえる。 この編修事業に幕命によるので建物はもとより修史に従事する人人の俸禄まで官給であ った。家塾には官費生が在学するし塾舎ほ用材の官給によって増築された。名は忍岡の林 家の私塾であるが,実は官学であった。この私塾ほ昌平坂にあったので昌平校(昌平糞とも 書き昌平学校ともいう)と世人は呼んでいた.. (昌平の地名は孔子誕生地の郷名に囲んでいるo). 林家の子孫が歴代大学頭(祭酒)の地位にあったことは一覧表の通りである。 (2)湯島時代一元緑4年(1691)一寛政9年(1792). -. -106年間. 好学の5代綱吉が3代鳳岡に,江戸神田の湯島に6千坪の土地を与え大成殿(孔子を祭 る)と弘文院(私塾)を移して面目を一新した.これも2回JE緑11年・12年)の大火で焼 尽したが,綱吉の助力で宝永2年にほぼ旧制に近く再建できた。綱吉は毎年の孔子の釈尊 には列席し,自らも経典の講釈に励み,林家の私塾も盛況で門弟は三百余人を数え学舎に 収容しきれない程であった。林鳳岡は大学頭の栄位を与えられ歴代その子孫が継ぐことに なった。. 3.昌平坂学問所時代一寛政9年(1797)一明治3年(1870). -. -73年間. 江戸名勝の一つに数えられた湯島の壮麗な建物が幾度の大火で烏有しに帰しても,代々.
(5) 45. 昌平校をこおける歴史教育の研究. の将軍である家宣・家巌・書宗・家治は格男uに復興をこ留麗したのでほなかったo唯8代吉 宗が教化政策のた桝こ昌平校を庶民の子弟にも関数し,武士の子弟と共学にして一時ぼ繁 昌したが長くは綻かなかったo 天粥7年老*松平定信の異常な熱意によって着々と改善策を打ち出し立派な昌平按に仕 上をデた.先ず第一をこ着手したのほ日講の寮興であるo (注,日数も毎月1と6の日の6珂あ り,この日の午前十韓から正午窓での2時間が藩義時詣で,教藩捻古参の塾生が当る.入門届を出し て聴講資格を得てカゝら指定の書物の講義をう狩るo教室は,鍬那弓寅舎で行なわれ盛衰をまあっても蹄. 150年間続いたo)せめて舌宗時代の盛時にもどすべく7代蘇峰をこ厳食を下して日講を督慶 したo. 天網8年にほ林家の諸により,学舎を新築しいわゆる寛政三博士の柴野栗山・古賀耗星 日欝の外に昌平校として最高 ・尾健二桝は岡田寒泉を登用して教授陣営の刷新を図った0 の権威であるお産数講釈の綻を作り(寛政4年9月),大学頭錦蜂と儒嘗に出講を命じた。 注,.お安教諭釈は毎年正月15日に始まり12月14日に終る.寮釈日をま毎月4,. 9の日で月6囲. とし,講義時間は毎回午後2時より4時濠での2時間で教科杏は四番が中心であったo. 寛政2年にほかの有名な寛政異学の禁令を出し,昌平校から朱子学以外の学者と学問を 追放したo家康ほ羅山を登用し朱子学を国教としたが,定信のごとく朱子学を厳守したの でぼなかった.この禁令の意義ほ,政治的権力によって学問・思想を昌平校内で統濁した のであって天下に向って禁止したのではないo 偶々儒学の諸派が乗手学と競う時代であったから異学派から反論が起り幕府に上申され たが,定信は「東学の儀ほ慶長以来代々ど信周の僻事」. (寛政2年5月)として間讃にしな. かった.これをうけた大学頭錦蜂も「この後ほ門人-統正学(朱子学)をいたし,正晴人 柄供しみ贋よう,きつと相心得申すべき儀と存じ侯」と誓っている。 林家は朱子学を道統としていたが,昌平校内にほ新興の儒学諸派がもちこまれこれを学 ぶものが生じたので昌平校の建て直しのた捌こ蘭学を行なったのであるo 定信白身は必ずしも′儒学ほ束子学に限るとする頑固な考えの持主でほなかったが,家康 と羅山の結びつきから官立校に筋金を入れたものと思う。地方にある藩校ほ昌平絞出身の一 束子学者の教官が多かったが,他学派を採用している藩校も若〒ほあった。. この禁令で林家の伝統的権威は確立したが,長い目でみれば昌平校ほ,学問的孤児とな り時勢から遊離した旧説祖述の束子学で終ることになった。藩校の方は儒学諸学派の外をこ 和学・国学などまで取り入れて時勢の進展に順応したo 定信ほ諸事節約の緊緒方針を打ち出しているにも拘らず官学の権威のた捌こ大規模な昌 平校の造営を行なった.寛政11年に湯島の敷地を拡張して1万1千余坪とし,壮麗な大 成殿(孔子とその四弟子の像を祭り綱膏が名付親であるo幕府の公廟であり歴代の林家が祭主となっ たo)と学舎および教師の住宅まで建設した.なお林大学頭以下儒官の給与も増して3千石 の禄高としたo. 叉忍岡以来の林家の私塾生を廃し,専ら旗本ど家人の子弟藩教育する官立の「学問所」.
(6) 46. 田. 太. 郎. (寛政9年・1797)としたo今まで半官半民的ですっきりしなかった林家私塾から脱皮して面 目を一新し・幕府立の最高の大学となり藩儒養成校でもあった。学問所が昌平坂にあった ので昌平坂学問所と称し,世人は昌平校(昌平費)と呼んだ。 定信が天明7年に日講の励行に着手して以来12年後の寛政11年には,空前絶後の名実 ともに充実した昌平校となったo正に定借は昌平校にとっては最高の慮人こいわねばなら ぬ。. 長い間孔子の像を祭る聖堂の付設機関としての学舎大成殿(弘文院と改称)があったの で,学問所と改まっても世人は上述の形のままと思い学問所の蔭が薄かった。この世評は 容易に改められないものとみえ,寛政9年から46年後に当る天保14年に次のごとき達し を出しているo. 「昌平坂学問所の儀・古来聖堂と脚昌へ候筈の処,其節別段達供趣も無之. 供間・今に其段不二相期し向も有之供o向後は都て学問所と相唱へ供梶,向向へ可被達侯。」 (徳川禁令考第3幌,巻24,学問所273貢)と学問所の存在を明示している。尤も天保年間にな れば世情は騒然となり,幕威も衰え学問所のことも忘れられ勝ちになっていたのである。 8代大学頭の述斎は・松平定信の絶大な援助に応えて学問所を盛んにし初代羅山にも匹 敵する名声を博したのである。. 天保9年(1838). 9代樫宇が佐藤一斎を登用して学問所付儒者にしたが,既に-斎は70 才の老年であるにも拘らず89才の穀年まで教学に全精力を傾け官学中興に尽した。され ば「儒職にあること19年,この間学界の泰斗と仰がれ,昌平校をして天下に重きをなさ しめたるもの,実にその盛名によらずんばあらず」(三宅米吉聖堂略志)と賞讃されている。 昌平校の名を高めた人に,前に政治家として松平定信あり後に儒者として佐藤-斎あり といわねばならぬ。. -斎は昌平校では朱子学を講じたが,陽明学にも通じていた。いわゆる「陽朱陰王」の. 尊者であるのみならず西洋科学や海防の必要も解した先覚者でもあった. 一斎なき後の学問所は,衰微してゆくぼかりであ,た。最後の大学頭12代学斎ほ,文 久2年に塩谷宕陰,安井息軒,芳野金陵の新鋭の学者を任用し樟尾の挽回策を図ったが, 「学問所へまかりいで,修業つかまつり供よう,このたび改めて諸向きへお触れ達しにて もこれなく供ては,とてもせん方これなく供。」と匙を投げた形である。新しい対策とし て明治2年に学問所統轄の下に江戸市内に数十の小学校を設け,旗本・ご家人の子弟を集 めて教育すること′とし,翌3年に学斎は学問所奉行に任ぜられ学問所付儒官は小学校の御 用係を命ぜられたが,実績を上げることもなく昌平校は閉鎖した。. 幕末になればなる程幕威は他に墜ち,世情騒然となり,武士の行末の生暗が案ぜられる ときに,時代離れの抽象的な朱子理論を学ぶ子弟のある筈がない。開校すれども生徒が集 らない悲惨な昌平校も,明治新政府に明治3年(1870)に接収されやがて東京大学の一部 となった。. 昌平校は約240年間幕府立の唯一最高学府として盛衰を重ねつつち,幕府直属の旗本ご 家人の幼少時に教育した幕府直参の官吏養成学校でもあり,地方に散在する藩校の藩儒の 供給源であった教育的業績は高く評価すべきである。.
(7) 47. 昌平校における歴史教育の研究. ⅠⅠ.昌平校における歴史科と教科書 昌平校数科 教. 科. 目. 名. 目一覧敦. 教科雷名(歴史関係). 経義,史学,詩文, 樽読,塵発典故,. 左伝,国語,史記,河漢賓,. 経義,歴史,作文. 同. 経部,史潔,. :. 一三●∴‥. -;;'、.. 設置率代書 大学頭. 松平定借 の搾助. 上. 寛政4年!最代錦蜂 沃保年間. 卜」lL. I- 'I∴一、:)Jlj.i:.. ::/!l;;.::.. 註. 考. 寛文6年?孟代驚蜂. 通鑑網目. 野上の外をこ十八史略. 備. 安改2年. 晋雷など六国史,大鏡,増鏡. -:一ニー_‥-二・. -I:、∴.. 8代. 林. 違斎. 佐藤一斉 の協力. 11代. 林. 夜衆. ミ1)この蒙絃日本教育史資料寮7分館より集録したものであるo (2)教科宥和ま,必ずしも明記されていないが,釈放問題から収慶した屯のであるo. 1.五科の制(寛文6年). 初代展山が寛永7年(1630)をこ家塾を上野の忍問をこ設をナたときの歴史教科書ほ一冊も書 かれていないo. 2代霊峰が私塾の弘光館規約を寛文6年(1666). 5月をこ作り,立教科を設をナ たo立科と絃,経義・変学・詩文暮樽議・畠発展故をゝ-ラ(昌平志巻二審来意,寛文6年)o このときに始めて歴史科が独立した.このころは経主史従であるo党ず経学で朱子学浅の 四賓五経を学び読書力が相当身についた後をこ史学を学ぶ。 当時の変挙措家郡の史書を招いたので,経学で身をこついた読解力がな狩れば,漠文で書 かれた史書ほ読めるものではないo歴史専政の億老経いないので歴史を好む倭官が適宜教 科亭を選んだものである。 このときの歴史教科寮名ほ善かれても、ないが, *国の数寄であることは疑いがない。 -近畿初期の壕者ほ支部崇拝絵巻が多く,山鹿素行は「本車交番に乏しく叉鰐皮をこ見るべ きものなし」というごとく,日本の教書を全く無視していたo経主教程の患憩での鼎塑約 な中国紀の教科書捻,いゎゆる姦(姦伝ラ・国(国語). ・変(兜記)蔑(前後雷)であったろう。 林産山姥「敷漠ヲ義マバ,笈シタ君臣ノ得衆,治乱興亡ヲ監ルべシ-一議鑑ノ襲モマタ然 り」(文集巻七十随筆六)とあるごとく,兜(紀記)漠(前後漠蕃)と適鑑(深冷遼鑑・通鑑 網目ラ をあぼているo 一 変漠の餐済絃,肯く太宝令下く701)をこ大学がお湧3れ故立の教科として度数専攻の嚢己伝道をこ. 瀦るo この科で僚摺する教科書をこ三史があったo三叡とほ史記・漢書・後漢書をいうo平 安時代の知識人の間に「史深にわたる」歴敷の教養が藍んぜられたo羅山のいうr. 「変漠」ほ. いわゆる三数のことである。羅山経東予学者であったので,余子漆芸愛読した「資添遼鑑」 と朱子の歴叡耽溺の書丁通鑑綱目」をあげているのは当然であるo彼をままた自ら「本朝前 年録」を束子の通露綱目の史観によって南修した歴史学者でもあったo羅山ほ和漢の喜一 方余巻の密書家でもあったが,この家書の申をこ莫大な中国変書(正史・雑魚・史餅ほある.
(8) 48. 田. 太. 郎. が,日本史苦は(六国史・旧事記・故事記)極めて少い。 (昌平志 巻四経箱詰) 朱子は,孔子の「春秋」の精神である名分論を挺東し,司馬光の「資治通鑑」によって 「通鑑綱目」を著したo. その著作の意図は,この害を読む人に人物の善悪,事業の成敗,. 治乱興亡の跡を知らしめ朱子学の原理である名分による君臣関係,身分差による五倫五常. を史実によって批判したのである。歴史書学習の効虎を人生の教訓すなわち鑑戎に求めた のである。. この朱子の綱目史観は羅山も信奉し昌平校歴代の大学頭が継承しているので,昌平校の 教科としての歴史科に一貫した歴史思想といえる.歴史科の外に歴史を広く教えた教科に. 皇邦典故科がある。前述の歴史科は専ら中国の史書によって中国の歴史を知ることにあっ たが,この教科では和学科ともいったごとく日本の史書によって日本の有職故実を教える のが主で日本の歴史を教えるのが目的ではない。次に博読科では広く史書と諸子百家の書 物を読ませて,主として漢籍の読書力を養って博識を求めた教科であった. 五科を制定しながら塾生には五科の中の-科を専修させたのか,五科を順次学習させた のか明らかではない。しかし例え五科はおかれても経義科中心であることほ不動である。 経義科を履修せずして他の教科を学ぶことは認められていないと思う。史料は独立しても 経義科の直属の下僕であることは疑いない。 経義科は朱子学流の儒教倫理を教え,その原理の裏付けのために史記漢書後漢書と通鑑 綱目を史料の教科書として教えた。 2.三科の制(寛政4年). 7代鏑蜂が寛政4年に三科を制定した。三科とは経義・歴史・作文である。松平定信が 昌平校の興隆のため内外とも整備に努2b,教育刷新のた糾こ朱子学を正学として採用した ことは既に述べた通りであるo五科の制の史学科で使ったと思われる教科書と同一のもの といえるのは次の事実で明らかである。別に歴史教科書名は明記していないが,寛政6年 の学問吟味の歴史試験の出題書目に左伝・両漢書・通鑑網目をあげているので明瞭であ る。朱子学を厳守した昌平校の歴史科教科書としては必読の史書である。 注目すべきは作文科の吟味(試験)に史論を課していることである。中国の史書には皇 帝や人物の記事の終りに,事績や人物について論評をのせるのが通例であり,これを「翰 琴」といった。この論賛が著者の才能の見せ場であり,事実よりもこの論評で読者の心を 引きよせたものである。この論評の尺度は朱子学の原理で史実を批評する綱目史観である ことはいうまでもない。六国史には論賛はない。元来中国の正史は,君主の政治事例とし て学ぶのみならず教訓書として読むことを期待して史官が苦くのが通例であるo従って新 王朝が前王朝の記録を収集整理して,旧王朝の正史を編むのが例になっている。故に作文 科で文章力を養うのに史実を主題にして,自己の思想を自由に且つ明快に文章化し,文章 のカによって読者を説得しようとすることを教育したのである。 奈良時代学に文章道があり,これから紀伝道が生れた先例でも分るように,文章と歴史. .. とは密接な関係があり文章の熟達のた桝こ名文といわれた中国の史書を教科書とした.ち とより歴史の側面的効用をねらったもので,正面からの歴史教育とはいえない。この作文.
(9) 昌平校における歴史教育の研究. 49. 科のねらいもこの先例に暗示をうけたものではなかろうかo 3.四料の制(天保年間). 8代述斎のとき教科臼を経部・史郎・子部・集部の四科に改めたo. この四科の制鐙は佐藤-寡(安奔7je2二蓋霊6)の企画であろうが,蛸. は択記していないo歴史に関する-寮の意見は著書の「初学課業次第」伐採3年.日本文犀. 貨2腐15茶所収)に詳しく書かれているo先ず歴史書を読む心得は「治乱興亡ノ渉ヲ弁フル ニアリ,且歴代ノ制度文物ヲ考-,地理沿革ヲ如レべシo章句ノ末-拘ルベキニ非ズ」と いうoこの歴史教育の観点は昌平綾の儒者をこ限らず殆んど蛋老に共通する歴史を読む態度 であるo. -蒸は中国の兜割こついて広く遠軽していることは驚くべきものがある.飼えぼ 「二十二史」 (*国史の正史22壕を含む大部なものであるoされば江村北勤ミ自著歴史之学をこ,歴史 を専門とする学徒でも賢治透鑑と二十二史とは必読の苦でありながら容易をこ蔑了しうるものでをまない. と述べているo)は入手し磨いので「十七史弘簡銀」ですませてもよいし,. 「粥史」は「粥史 藁」でよいといっているo浅石当代一渡の儒者である-寮は,中国の史書に粥るいが,日 本の史書については一言も触れてほいないo. -斎ほ歴史の濠淀ぼ春紋であり霧年休の冷め であるのに,今捻正史を先にし霧年を後にしているというo 経書を素意によって読書力が身についてから変怒に入門するのが巌序であるとするo依 然として経学第一主義であり朱子涙の歴史}観想で講義したことをこ変りはないo 4.内科の割く安致2年) 11代復寡のとき経科・漠土史料・本朝史料・飛教科の四科を設をナた。今まで歴史科ほ科であったのを二分して漠土と本朝の二科をおいたo 漠土史料ま,濃か編年・紀寄木末の三変体の中国史書を会読して,治乱の寮因と儲庶 の沿革を究めるようにといい,漸こ特定の史書ほ粥らかにしていない. 本朝史料を分設した時期払藩綾をこ比べると遅きにすぎるo藩校でほ文化から天孫の間 に和学科・皇学科・国学科の新設が急に増している。この科の教科書ぼ六国史と三鏡をあ げているo六国鄭も天皇中心の漢文調の編年体の正史であるが歴史事実の羅列で読者に とって面白くない本であるo湯浅削L僻「日本ノ肯ノ日本紀ナ>,嘱年ノ体ニモアラス史 (日東文庫・丈余兼記387貰)というどとく, ノ鉢ニアラス,実録ノ体ユ-面白キコけシ」 当時の塾生によって不評であったことを代弁していると思うo面白くぼないをナれども権威. ある日本の正史であることに変りほない。 三鏡は大鏡・増鏡・永鏡を含み,物語風の国文の紀伝体の歴史書であるo鍍といったの ほ中国古来の歴史観に,歴史は復位への鑑戎であるべしとの窓をうをナて鏡としたのである0 日本の過去の姿を知るのに,この時代に六国史や三鏡でほ余りにも貧弱すぎるし緊迫し た時勢知らずの感が深いo藩校でほ上述の六国史や三鏡も教科書として僚周しているが, 寧ろ志士の血を沸かせる史論変調の日本外史や大日本史などを教科書とし上位に採用して いる。既に日本の史書を読む感度は平静な教養のためとか鑑戒のためとかでなくて,尊王 思想の程として維新の志士の行動の,bの基準として読まれているoしかし昌平校でほ幕府 にとって危険な史論史書を忽然と教科書として使用することほ許さるべくもないのであるo.
(10) 50. 田. 太. 郎. この教科卦こよ-て治乱の次第と故実の考証を調べよと悠長なことをいっている。この 外に本土史料において徳川家の歴史を研究せよと指示しているのは,幕府立の学校だ桝こ 当然の要求であるoしかし今更徳川家の治政を調べても天下の大勢を昔に戻すことは夢物. 掛こすぎず,唯将軍への手前このような指示を拒むことはできない。 刑政科では,支那の律(唐・明・清)と日本の律令格式と鎌倉以後の故実を調べさせる これは法制史の額域であるが・この種の教科は藩校ではすでに30年前から和学科を設け て教えている。この科の中で外国の政態で知るた糾こ療環志略と海国図誌を教科書にあげ ている。. 要約. 昌平校の学科目の中で歴史を専攻にした学科と,他の教科で歴史書を用いている. ものまで漁り,使用した教科書も推測も加えて記したが,全体を通観するとつぎのことが いえると思う。. (イ)教科の主座は終始経学科であって,歴史科は脇役であった。この原因は,近低儒 者は経学専攻で経学の原理の実証的反省の賃料として歴史をみておった。. (ロ)儒者出身でもよいが歴史を専攻する学者が昌平校には在任しなかった。 (ハ)儒者ほ中国崇拝者が多いので,勢い中国の歴史書の左伝・国語・史記・漢書・通 鑑綱目を基本として終始変えなかったが,日本の史書は誠に微々たるものであった。 (ニ)歴史の解釈は朱子の綱目史観を墨守した。とくに松平定信が朱子学を正学として 昌平校に持ちこんでから一層この史観一辺倒にならざるを得なかった0. (ホ)昌平校が幕府立であるために学問統制も甘受しなければならず,時流に応じた改 正も行ないえなかった。安政期に申訳け的に時代遅れの本朝史科をおいたので明らかであ る。. 注,歴史科その他の教科で使用された中国と日本の史書について,書物の傾向を紹介すべきであ ったがこの小稿では割愛をした。. ⅠⅤ.歴史教授法と学級制 1・歴史教授法一歴史教授法といっても独特の方法があるわけでなく,経書の教授法 を模倣したにすぎないo経書の教授方式は大体素読・講釈・会読・独看のJr#序で行なわれ るのが定塾である。. 歴史書を入門早々のものに読ませることは先ずあるまし、.昌平校付の教官が幼少時に先 師から先ず手ほどきうけたのは四書五経の一本であり,素読から始まったものであった。 それをそのままの方式で連年踏襲してきたのである。 経書はもともと漢文であるた桝こ,漢字の羅列で取りつき難いo先ず教師の発音通り文 字を逐って同時に真似て行く(付け読み).これを幾度も操返す。教師が一人の塾生相手に 一対一の教授をするので怠慢は許さるべくもない.意味も分らず音声の間合から抑歩まで 真似ることになるoこの素読方式を狙探学派の服部南郭は育育あって一利なしというが, 束子学者の江村北海は幼少時は記憶力が強いから陪詞カの養成によく,老年になっても容 易に忘れぬものであると素読賛成論看である。先ず文字を読むカをつけさせてから一応の.
(11) 昌平枚をこおける歴史教育の研究. 51. 波意を聞かせるo学力の乏しい少年に異国の文字の羅列をみただレナでも驚くのに,意味も 倉らず読むことほ退屈どころか苦痛である.儒者白身もその被害瀦であるので隆々形を変 えて数えている.時に-斎をこ養護をさせたり(斉義),時をこ一人畠ミ誤読をしたらその次を飴 tI. の生徒が読み始める(奪り読)方法も行なわれた。 素読する初めての本は経書であるが稀をこぼ教書を鐙用することもあったo中国の史書を 教科審とする歴史科では,経書で相当の密議カを身につをナたものが受講する波路をもつo 敷書の読み方は章句の文字にこだわず読んで大意を把むことをこ重点をおくo 中国の史書で昌平校の歴史の教科書である兜記・漢書などは中国でも名文であるo元来 歴史家ぼ文章家でな抄ればならぬとされたo故をこ申韓の史書を読むことだをナでもよい曳爵 を書くのによい訓練になるo. このことを林羅山が指擁して,兜・漠を読桝ま君臣の得失と 治乱興亡の跡も反省できるが, 「叉宜シク文法ヲ学プべシ」,(文集巻七十随筆六)といってい るoその意味ぼ,歴史書を読むことの勉の効招を述べたのであるo羅ii3のt,、う文法と措定 資を作る方法であるから,多くの歴史書を読むことによって塾生は知らず宛らずの問をこよ い文章を作るカを会得することを求めているのであるo. しかし歴史の教授は文章力を練る. ことが員約でなくて講釈によって史架の大意を学ぶことにある。. 佐藤-姦が豊富な教育経験と万巻の書を読破した体験から教科白魚も適応した教授方式 を「初学課業次第」伐採3年)に哀しているo兜部捻経部の次に学ぶ段階であるから講釈方 式によれというo 「講釈」は-霧教授であり,数熟まき. 教科書の本文と註解の双方について文字と文章の 南方の意味を教え,生徒はこれを学びとるのであるo勿論学問的見波を番えたり,研究方 法も数えるo講釈の具体的な方法は昌平校に捻転っていなも、が,山崎尚斎の講釈摂りは誇 張もあろうが教鑑しているので有名である。発ず肖塞が鮮魚のÅであるから講釈の仕草をこ ききがき. よって感銘を与えようとするo門弟捻騒の一言一句をも聞き洩らすことなく「聞害」に書 き止めておくoをれも身振りまで書かせたという餐厳しか.-,キという伝説があるo講釈ほ 晋から行なわれ,今の講義をこ当るo荻生鋭鋒絃,この講釈が餅説を爵受するだをテで鯵匠よ り以上に生徒の学力を伸ばせないと非難している。 -斎ぼ講釈のみをこ固守しているのでほなく「会読」でも「独看」でもよいとしている。 「会読」とほ予め「独看」にて各白が自習をしてから会議に列席するo会する集団をま大体 あえよみ. 5-6名位で,をの鼠のゃから畿引で読み当番(当歳)を澄め,当番が一通り緩んで解釈 をすると飽の者が質凝応答をする.その間にお互書こ誤りを正し学力の向上を図る方式で, 今のセミナ-による討義方式であるoこの討議には上教生窓たは教藩漆芸「会頭」として絡 み適宜指導もし,時に成瞭をも判定したo この「会読」ほ「余業」とも称し,荻生祝祷の創始したもので,本当の白分の学力をつシナ るのをこよも、方法であるo観裸捻u)暗流豪の厳格な講義憲度を群発して発案したといわれて いるo史料には会読方式が適しているとしたのは安敦2年の規則にみられる。. (家政2年2. 月渚余業学科概略). 「観賓」とは主として白宅での独り読みすなわち自習をいうo佐藤-斎ほ中国の変容∈通.
(12) 52. 田. 太. 郎. 鑑綱目・貞観政敵・三国志・旧唐書・五代新史など)をあげて独看学習を奨めている。書 物は稀少で貴重でもあるので容易に買えないから多くは学校備付の書物を借覧して自習を し,不明の個所に不審紙を貼りつけて登校し,教官とか友人に質問して疑義を解くのであ, るo時には不審の点を会読の場に持ちこんで衆知によって解決することもあった. 独看の日課は大体午前中は経書,午後は史書・諸子百家,夜分は詩文を作るというようL にするがよいと教えている。. -斎は中国の史書の中で第一に通鑑綱目の精読を奨励しているが,これは卓見であるo 昌平校が朱子学一色である上に,朱子の歴史観は通鑑綱目に凝集していることを見抜いての見識である。加うるに中国の史書は多佐多様である上に分量が尤大であるので,日課を・ 定めて長年月をかけて格段の努力を持続しないと自学白習である独看では読了しきれない・ から,朋友若干と組を作って会読の会合を作るように勧めている.日本の史書は晴・唐の・ ころから輸入していたから先ず中国の史書を読解すれば,日本の漢文体の史書の読解は容 易に読改しうると教えている。. -斎の歴史書学習の諸方式は極めて具体的で適確である。. それは自己の長年の学問的修養と教育経験から割り出した所産であり,昌平校付の碍者で これほど教授方式を詳しく述べた人はまだ見当らない。. 幕末の昌平校では,書生案で「通鑑会」とか「論史会」を毎月定例に催している。前者 は貿治通鑑とか通鑑網目を対象に解読し,後者では史実を対象にして歴史的批判を行ない 史限の養成に努め,時勢の急激な変転に対処する態度の糧としたのである。 要約. 昌平校の歴史教授法はつぎの諸点が特色である。. (イ)歴史科の教授方式は,主として講釈がよいが,外に会読・独看の方法も有効であ」 ること。. (ロ)歴史教授は,訓話的でなく大意を読みとり,朱子流の鑑戎の書として理解するこ と。. (-)束子の歴史観の眼目は通鑑網目にあるので,これを精読することが大切であるこ と。. (ニ)基本的な歴史書を読む外に,多くの史書を博く読むことによって,文章力の訓練二 に役立つこと。 (ホ)史論会に■よって史目艮を養成すること。 2.学級制. これは今日の学年制のごとく受講生を学級別に区分する制度をいう。初め、. は無等級制であっても段々教育をして行く問に,年令差よりも学力差によって学級編成が一 必要になってくるo同一水準にある学力で学級編成をしてそれを等級別にしなければ,教 育効果は上昇してこない。. 昌平校ではこの学級制に相当するものに,. 2代鷲峰が寛文6年に五科十等制を設けたの、・ が初見である。その内容は,特生(甲・乙・丙),新生(丁・成・巳),下等生(庚・辛・ 壬・祭)であり,等外に末生(初等・等外)を設けているo等内だけが三級十等制になり, 若し等外をも加えると四級十二等制になる。 常識的にいえば三等十級制であり,この十等制を真似たのに芯業館(播磨三カ月藩森氏がか.
(13) 昌平校における歴史教育の研究 贋政8年に創建)があるo. (石川謙. 53. 日本学校史の研究173京). 7代錦蜂が「毎年階級を十等に教育仕察」と松平定借に上申していることから,十等御 ‥を蘇承していることが明らかである。恐らくは昌平校が廃校になるまで十等制は踏襲され たことと思うo学級間があれば恐らくほ学級抑こ履修すべき教科書と学習様式(素読・講 ・釈・会読・独若)が伴うものであり,何年在学してどれ程の成績をとれば昇級するかの盟 瀞が見当らないので不明であるoむしろ藩校の方が上述の区切りの明快なものが幕末にな る程多くなってきているo. 3・学習時間. 歴史科専攻の学習時間の粥記してあるのほ安政2年の学問所規則覚書. ・があるだけであるoこれによれば漠土史料の史記と本朝史料の逸史は会読の学習方式によ り, -カ月27回の講義があ-て毎回午後1時より4時までの3時間が充てられるo出席 堵が多いので二席を設け教授担当者は輪番制にして会頭が全責任をもっているo刑政科の. 銅棒の輪講は毎月3の日すなわち月3回の午後1時から4時までの3時間として一席だをナ .設けているo Tlr・歴史試験の内容とその評価 1.歴史試験の内容. 試験のことを,吟味・就業・学試ともいうo試験の内容が明確なのは管見では寛政4年 に素読と学問の両吟味の制であるo. (昌平志巻二事実誌,寛政6年2月条). (1)素読吟味. 学問吟味を受験するにほ素読試験に合格しておかなければならぬo故に 素読試験を初壕といい学問吟味に対しての予備試験に当るo四書五経の「文字読み」すな わち読解力を試すのである。 (2)学問吟味初場の素読吟味に合格したものが本試の学問吟味を受験する盟格があるo わ. げ. もんもく. 歴史教科書から出題しそれに対して「和解」と「開削の2僅があるo イ,和解は,教科書の既習済の中から白文のまま出題し,これに句読息返り息送り仮 名をつけさせたり,日本文に書き改めさせて解釈を施すのである.生徒には予め出題する 歴史教科書を知らせるo時には教科書の章句まで指示し問題数鷺でも予告することがあ る。かくて読解力を試す。 和解の問題軌(天保4年正月23日施行) 左伝-塞公三十年,二月葵末晋悼夫人食興人之城杷者,至以為.終県封雷廃其輿凱 史記-廉頗蘭相加免泰王位使者常雄壬,至位在廉頗之右o 後漠書-苛或伝授保官渡至操乃止。 適鑑綱目-常永明二年,子良斉王之子也至巳至令僕粂o 晋書-王戎伝戒以晋室方乱至先見如此. (注,日本教育史賃料巻7. 121-122頁より引用). Ⅴ,閣員絃,問題について綱目史観の立場から私見を述べることであるo問題とすべき点 紘,政治の奉拷得失,治乱興亡, Å額の正邪,審業の成数などである.この答案は,和文 でもよいが漢文で藩めることもあるo.
(14) 54. 田. 間目の問題例(天保4年正月23. 太. 郎. 日施行). 国語→伯陽父か周の山川の震ひしを諭せしは当否如何供や。 漢書一陳平正陵か諸呂を王とする時の議論-は正法を執り,. -は権道を行ふoいつれを宜しと. 申すへきや。. 三国志一諸葛孔明魂延か長安を襲ふの計を用ひしは,関中の地得られ申すへきや。 五代史一五代創業の君さして優劣なし○然るに天下ひとり梁を悪むの甚しきは何故に侯や。 通鑑綱目一徐敬業か武氏を討せし時,貌思温の計に従こ入,直に洛陽を襲はば,大勲成就すべき や。. (注,日本教育史資料巻7. 121-122頁より引用). 間目の答案の雛形を示し何れの様式でもよいことを示した例をあげよう。. (日本教育史資. 料第7巻124-125頁). 何役 頭支配姓名 何乏誰護対 漢書,. (問題)漠葡何一生之事業は何々に侯や,. (答案例1)一文草体様式 葡何は高祖と同郷の人にて候。文無害とてよく法令条目を心得罷在,人のそこね不申候様に砺扱 供。高祖微賎に被成御座候時より奉二付添一色々厚き御忠勤有之供。中にも高祖威陽に御打入の時 先秦の丞相府に入て律令図書を取侯と,韓信か大将の器量有之事を見出慌て高祖へ中上供と,高 祖所々御出陣の御留守居仕,関中を取りかため宗廟宮室の造営並兵粧運送いたし供と,法令九ケ 条を作り供と,臨終に常々不和の曹参を跡役と申立候等の事は,何れも天下の大老たる器量と申 儀に御座供。 (答案例2)一箇条書き様式。. 1・高祖威陽に入給ふ時,諸将は皆金島を分取贋処,苛何は丞相府に入供て国籍を収取供事。 1・韓信か器量ある事を見出し高祖-すすめ供事。 1.高祖御出陣の時,常に関中を守り,宗廟宮室を造営いたし並兵娘の運送いたし供事。 1・法令九ケ条を定候事。 11末期に平生不和の嘗参をすすめ跡役丞相といたし供事o. 賃料に試験問題例が乏しいので質的な研究が行なえないのが残念であるが,朱子流の歴 史解釈の一端が伺いうると思う. 2.試験の状況. (1)試験問題作成の手順. 試験問題の作成は次の手JrRによる.. 大武(大学頭主宰)が正月に行われるので,前年の十二月に試験問題作成者が定まり,誓詞を差出し,夫々の分担科目について若干数の問題を作成しておく。後日儒者衆一同が出仕して会議を 開き,夫々が作成した問題を討議して決定をするo決定の問題は二通作成し, は下図のごとく岩城紙に認めて厳封し保管しておく。. -通は控とし一泡.
(15) 昌平枚における歴史教育の研究 外. 55. 包. 額を第1と申へきや. 同日題. 何がしか一生の功業は. 某月某日. ニ寸(曲尺). ‥‥‥六寸(曲尺). 汁.;:..-:. 注1・大武は3年日をこ1固行なわれる最高の試験であ るo. 2・この飼ほ寛政4年1月23日施行のものo 3一. 日本数青史資料第7巻126-127茶所収o. ・・I. (2)試験立会人試験立会人ほ前以って武人(受験者)から受験科目を届け出でてあ るので(下表)これをよく確かめるとともに,所持品の検査-て不用な晶は見張人に一時 TWナをするo立会人ほ常に机間巡視を行ない,不正行為を防ぎ疑わしい老は記超しておき, 後日の成績判定の会議へ報告をするo受験中に教官ほ数回試験場を巡視するを常とするo この情景は今も昔も変りがないことが解る。 注1・短冊寸法堅9寸,暗5寸o・ 7']・・=i::. 3暮. 徳川禁令考第3枚28ト282支所敬o. ;i... I.=・]:. 何役何御者小菅讃. '... ・I]. (3)試験日軽. 次男、三男. 之護. 炭何歳. I:.::・;). 什. 何2誰場数. ∵../1. 一、歴史科何々. 右之御試受可申尿. ===・. 2・天保3年10月の資料o. 素読も学問も5日間で行ない日程表は下記のごとくで塾生をこ公表す. 注,寛政4年9月の密約こよって作成o 3.評価の方法. (1)素読の辞儀,平常の学習態度をこよって大体の評繍を行ない,試験によって草はを 行なうo吟味の奨郷ま昌平校の資料では見当らないが,藩校の舞鶴によると試験日を指定 し出超の範囲を章とか努に区切って予哀しておくo試験当日誤読の字数の多少によって上 中下をこ辞儀するo.
(16) 56. 田. 太. 郎. 無失とほ,朗読の抑揚,句読の音訓,文意を解して読み一字の誤読のないものをいう. また白文のときは返り点のある問題よりも失点を少くし,年令の若いものは多いものより 大目にみるなど教育的考慮を払っている。. 試験官が失点数を記録し評価表にあてはめて機械的に採点する藩校もあった。 (2)学問の評価o. 歴史科の和解・問目の答案の評価では,前者の和解にほ比校的に採 点者の主観が加わらないが,後者の問目では採点者の主観が加わることが多い。採点者は. 評点を上-3 ‡書中+-吉T+I喜の9段階に評 (但し下の下は落第であるo,. 一下. この評語を各自が用意して会議に出席し下図の座席に位置し,全員が評語を確認して決す 大武評価決定座席表. 1・手順一読試巻出役が評点を読み上げ,御儒者 衆人が評語を確認し,品評掛出役が集計し,. その結果を発表する。. 2・大試は最高の試験で3年目に1同行なわれる。 3・日本教育史資料. 7巻128頁。. ることになる。合格者は受験者総数の約-割といわれ相当に厳しいものである。かくて評 語が決定すると,下図のごとき品評帳に合格者全員を記入する。 注1・甲とあるのは全体の点数と教官の評議によって受験者の評価 を定める。必ずしも点数によらない。 7. 評. 6. 2・下下は不合格であるから数に入れぬ。 3・易,外--というのは書物の試験課目名である。 4.三十二等とは,合計点である。. 5. 帳 4. (一名分). 3. 5・易強,内弱とあるときは2分5厘の増減を行なう。 6.平均は32÷7-4.5714--になるのに,記録では4.5808と. ある.この違いは分らない. 7・日本教育史資料巻7. 2. 132頁による。.
(17) 昌平校における歴史教育の研究. 57. 塾生への公表は,個人品評蝦の欄外に書かれている甲・乙・丙の評語のみ記入して下図 のごとき吉武で公表する。. r 品. i.i.∵:=:::. 書. 肩 ===1.. }・].・.1=i. 書. 何之誰. 儒者栄達名. (3)褒実の規定,. 何之誰. 上. 肩. 書. 甲之部. 肩. 乙之部. 以. 丙之部. 月. 評 表. 成凝慶秀老にほ公衆の面前で賞詞を与える;三二.乾式になると農品が. 下付されるoその賞品も身分差をこよって異ることはいかにも身分階級の時代にふさわしい ことであるo. お目見え以上の者--丹後縞 u. 注. 3端 2端 3枚 2枚. 以下の卦-銀子j≡. 寛政9年の事例による. 大体甲乙の老にほ賞品を,丙の者にほ褒詞を下付しているので,合格者全員が何かの褒 実を授与されることになる.これは3年目に1度の大武観であるために,受験者の努力を ねぎらう教育的寵慮が教われてのことと思われるo 紋. 億年「藩校の歴史教育の研究」では漂料が多くて取捨選択に苦しんだが,昌平校の. この研究でほ資料不足に悩み見るべき研究成果をあをヂえなかったことを残念に思う。 以. 上.
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