イスラーム圏で女性が調査する困難
バングラデシュにおけるフィールドワークより
杉江あい(名古屋大学)
本発表では、女性である発表者がバングラデシュで
調査を行う中で、実際に直面した困難や問題をもと
に、フィールドワークにおいて個人で行う安全対策と
その限界について論じる。バングラデシュはちょうど
四国と九州を合わせたくらいの国土に1億 6365 万人
が暮らしており、ムスリムが 90%以上、ヒンドゥー教
徒が 8%、仏教徒とキリスト教徒があわせて 1%ほど
である。
私は学部 2 年生であった 2007 年から断続的に、バ
ングラデシュの首都ダカやタンガイル県南部の農村
で、インタビューや参与観察を中心とする民族誌学的
な調査を行ってきた。2011 年には、カウンターパート
として当初から調査のガイド役を務めていた男性(以
下、夫とする)と結婚し、ムスリムになった。しかし、
私はその 1 年ほど前から調査や普段の外出時にブルカ
と呼ばれる衣服を着ていた。フィールドに溶け込み、
そこの住民のようにふるまうことは身を守ることに
もつながるからである。ムスリムの女性といえば、ゆ
ったりした長衣(ブルカ)を着てヴェールをしている
姿が一般的に想像されるが、バングラデシュのとくに
都市部では、ヴェールやブルカを身に着けていない女
性は珍しくない。しかし、バングラデシュでは外国人
が少なく、とりわけ地方では非常に珍しがられる。私
は顔立ちや肌の色からすぐに外国人と気づかれるた
め、行く先々で人だかりができ、見世物小屋状態にな
った。ダカで 1 人で行動しているときには後をつけら
れるなど、何度か怖い目に遭った。ヴェールやブルカ
を身に着けるようになってからは、簡単に外国人だと
は気づかれなくなり、人だかりに取り囲まれることも
なくなった。私にとってヴェールやブルカは、身の安
全と快適な外出を可能にしてくれる必須アイテムと
なっている。
ところが、ダカの路上や村のいちばといったいわゆ
る「男性の空間」では、ヴェールやブルカをしていて
も、女性が場違いな存在であり、注目を浴びることに
は変わりない。そういった場所での調査では、途中で
夫に「もう帰った方がいい」と言われて中断すること
がしばしばあった。私は調査に夢中になって周りが見
えていないことが多く、思い通りに調査を進められな
いことに苛立ちさえ感じていた。しかし、不穏な雰囲
気や危険性というのは、外部から来た調査者にはなか
なか察知しにくいものである。夫は調査から一歩引い
た立場におり、周りの状況をよく見ていて危険を感じ
たときには、調査を中断させていたのである。
それでは、フィールドの景観に溶け込み、現地の人の
言うことに従っていれば安全なのだろうか。バングラデ
シュはしばしば「穏健な」、または「世俗的なムスリム
の国」と言われてきたが、1990 年代からイスラーム主
義勢力が台頭し始め、2013 年頃から無神論者や外国人
などを標的とするテロ事件が頻発するようになった。
2016 年 7 月にダカで起きたテロでは、日本人 7 人を含
む 20 人が犠牲となった。この事件はムスリムではない
外国人を狙ったものであり、国際的にも大きな衝撃を与
えた。実はこの事件の約 1 年前にも、北西部の農村でリ
キシャに乗っていた日本人男性が襲撃されて亡くなっ
ている。この男性は村の人と同じようにベンガル語を話
し、農業を営み、さらにムスリムになって村のモスクで
礼拝していた。そのため、この事件は現地に溶け込むこ
とで身を守れると考えてきた私や日本国際協力機構
(JICA)の考えを根底から覆すものだった。これ以降、
JICA のバングラデシュ事務所は職員やボランティアを
地域に住み込ませる従来の体制をやめざるを得なかっ
た。しかし、民族誌学的な手法をとるフィールドワーカ
ーは現地に住まないわけにはいかない。今でも私はフィ
ールドの規範や秩序に従うことは大切だと考えている
が、それだけでは十分な安全対策にならない。フィール
ドにどれだけ馴染もうが、グローバルな政治的動向は嫌
でも影響を及ぼす。日本とイスラエルの首相が親しそう
に並んで会談し、日本が米国の言う「テロとの戦い」に
資金協力をするという報道は、日本が中立的な立場にな
いことを裏づけるものであった。
私はダカのテロ事件が起こった後に生後 5 カ月の娘
をバングラデシュに連れていったが、そのときはこれま
での安全対策を見直した。それまで滞在・調査の連絡を
していた地方行政議会や郡の警察署だけでなく、県の警
察署の特別警察にも届け出をしたり、移動手段はバイク
や三輪タクシーをやめて車にしたりした。しかし、フィ
ールドワークにおける安全対策や問題発生時の対応は、
個人的なものでは限界がある。これまで日本人を含むジ
ャーナリストがテロに巻き込まれる事件は何度か起き
ているが、フィールドワーカーが巻き込まれる可能性も
十分にある。さらに、日本の教育現場では現在、フィー
ルドワークがますます重視されるようになり、各教育機
関で授業や課外活動として導入されている。フィールド
ワークの際にテロに巻き込まれないようにするための
対策や、万が一巻き込まれた場合の対応や責任などにつ
いても、各大学や学会などの学術コミュニティの間で議
論していく必要がある。
キーワード
:イスラーム、フィールドワーク、ヴェール、テロ、バングラデシュ