Eizōgaku, No.105, pp.112-116, 2021 ©2021 The Japan Society of Image Arts and Sciences
築地正明著
『わたしたちがこの世界を信じる理由 『シネマ』から
のドゥルーズ入門』
河出書房新社、2019 年11 月田 辺 秋 守 *
1 副題である「『シネマ』からのドゥルーズ入門」は、まず、本書が『シネマ』入門でない ことを気づかせてくれる。一方で、『シネマ』からドゥルーズ入門が可能なのだろうかと、 評者は半信半疑のまま読んだ。読み始めると、すぐさま一筋縄ではいかない本だと感じ た。そもそも本書が言及しているのは、ほとんど『シネマ2』に限られる。それによる偏 頗が避けられているとは思えなかった。『シネマ1・2』を通読していない読者は、本書を すぐには理解できないだろう。だが、『シネマ』の通読者にとっては、『シネマ』の複雑な 地形の中に一本の途切れない道筋をたどり直す、これまでとは別の地図が与えられたよう な感じを味わう。それは、ベルクソンの「仮構作用」から始めて、ニーチェ、オーソン・ ウェルズの「偽の力」、ライプニッツの「共立不可能性」に対する反駁、パゾリーニの命名 による「自由間接話法」と「発話行為」の問題を経て、カフカとともに「民の欠如」を論じ、 ストローブ=ユイレを範にして「イマージュと言葉の離反」からの諸帰結を確認しつつ、 ついに「この世界を信じること」というドゥルーズの信念にたどり着くという道筋である。 それでは、型通り、章を追って内容を振り返ってみよう。第一章「仮構作用と生」では、 もともとベルクソンの『道徳と宗教の二源泉』によって提起された仮構作用(fabulation) という概念がまず取り上げられる。この語はベルクソンでは当初、神話と文学の創造的な 語り(作り話)に限定されて用いられていたが、ドゥルーズでは、造形芸術全般にまでに 拡大される。しかし、ベルクソンとともにドゥルーズは、「仮構作用」が人間の一種の「潜 在的本能」によってもたらされ、その本能はつねに一つの社会の形成を求めるものだと理 解していた。だから、仮構作用を映画を通じて徹底的に政治利用したのが、映画作家とし てのヒトラーであったことは、仮構作用の両義的で、危険な側面を語るものだが、これは まさに映画そのものについてもいえることである。仮構作用は、本書で、あとになって、 もっと積極的な役割が与えられることが予告される。 第二章「映画と二十世紀の戦争」について。ドゥルーズの『シネマ』二巻は、二つのイ マージュの体制、すなわち「イマージュ—運動」と「イマージュ—時間」を扱っており、そ れらは、概ね古典的映画と現代的映画のわかりやすい区分とみなされてきた。しかし、こ れにはランシエールによる強力な批判がある。ランシエールは、まずイマージュの体制が 時代区分として用いられるのは、まったくの虚構としかいえない、そもそもイマージュは構 築されたものであると同時に即自的なものであり、イマージュ—運動とイマージュ—時間 は絶えざる反転に巻き込まれている、と主張する。著者はここでランシエールに対して一 種の反批判を加える。ドゥルーズは、イマージュ—運動の中に当初からイマージュ—時間 の「亡霊」がつきまとっていることを見抜いており、亡霊は相互につきまとうようなものだ *1 日本映画大学/哲学・映画論と考えている。そもそもイマージュの二つの体制は、ベルクソン哲学の現実性と潜在性と いう二重性に基づいているのであり、『シネマ』では有機的な体制と結晶的な体制、感覚– 運動的状況と純粋に視覚的・音声的状況などと変奏されていた。そこにあるのはランシ エールがいうような単なる虚構的な断絶ではない。むしろ、二つの体制は「無限の螺旋」を なしているのだと著者は主張する。 第三章「記憶と忘却、そして偽の力」は、映画記号学に対するドゥルーズの反駁を論じ る。著者は次のようにまとめている。「つまりドゥルーズは、従来の言語学的なモデルに 替わる、新たな思考のモデルとして「イマージュ—時間とその非シニフィアン的な力」を 提起しようとしていることが読み取れる。それが[『シネマ2』]第六章で提起され、集中 的に論じられる「偽の力」と呼ばれるものなのだ」(69-70 頁)。また、著者によれば、『シ ネマ2』の第六章は、ベルクソンの時間の哲学からニーチェの「偽の力」へと主導概念が変 転するターニングポイントになっている。「イマージュ—時間」、つまり時間の直接的な現 れは、脱現実化された現在の複数の先端であり、それは取りも直さず「潜在的な過去の諸 層」(幼年時代、青年時代、壮年時代、老年時代)においてあるということだ。この脱現実 化された潜在的なものは、映画によってはじめて可視化され、それとして認識された。こ こで著者は、「イマージュ—時間」を規定する最も重要なポイントとして、「偽の力」を取 り出してくる。つまり、その力とは、ライプニッツが思考していた「共立不可能性」と多 元的な宇宙の可能性を考える方向ではなく、「諸々の共立不可能なもの」を唯一の「同じ世 界」に、分裂したまま、「共立不可能なまま」に包摂しようとすることである。現代的な映 画、すなわち「イマージュ—時間」の映画が実践しているのはこの方向だということが確 かめられる。 ニーチェ的な「偽の力」が攻撃の対象にするのは、古典的な映画の「真正な語り」であ る。第四章「真理批判——裁きと決別するために」では、こう述べられる。「すなわち「偽 の力」によって、「真正な語り」(社会的言説、良識)が依拠する、「真理」、「善」、「理性」 といったものからなる「裁き」の、「判断の体系」の転覆を企てようとしているのである」 (96 頁)。これを映画史のエポックにおいて体現するのは、オーソン・ウェルズであり、 ウェルズにはニーチェ主義が存在する。オセロのように真実を希求する人間は、それを 「嫉妬」や「復讐心」ないしは「ルサンチマン」から求めるのであって、真正な語りは裁き に飢えている。それらは、生のうちに罪過しか見ないのであり、その処罰欲求にこそ、真 理という観念の道徳的起源があるというニーチェ節である。特にオーソン・ウェルズが 「映画の時間」の歴史において重要なのは、彼が「過去」あるいは「記憶」の現実性を描い ているからではなく、「過去の喚起不可能性」を強力に語っているからである。確固とし た質料性をもった過去の諸層の同時的併存から、さらに無限定な時間の基底としての過去 を人為的な法や裁きの体制の彼岸に見出すということが、ドゥルーズにとって最も重要な のだと著者は指摘する。著者は正確にドゥルーズの哲学を、スピノザ以来の内在性の唯物 論的哲学の延長上に捉えている。 ところで、標準的な構造主義的分析が、主客の分離を前提にした言表行為に依拠する のに対して、ドゥルーズは言語活動における根源的な行為を「自由間接話法」として捉え る(第五章「自由間接話法と物語行為」)。パゾリーニによるネーミングをもつこの自由間 接話法とは、著者によれば、映画作家と登場人物との間に構築される「自由間接的なヴィ ジョン」のことである。つまり、カメラが主観的存在を得て、内面的なヴィジョンを獲得
することによって、映画作家と登場人物の視覚が「偽装」の関係に入っていくことである。 著者はこれを、究極的には、この世界を生きるために物語を「偽装」することだと解する。 映画は、映画の歴史が示すように、「映画的なフィクションそのものに依存した真理とい う理想」を描こうとしてきた。つまり、フィクションを完全には拒否することなく真実を 描こうとしてきた。これはすでにニーチェが暴露していたことに、映画がはるかに遅れて いたことを示している。真理の言説を僭称するのは、つねに支配者であり、真理とは支配 者の力の言説にすぎない。だが、ドゥルーズが考えているのは、フィクションと現実とい う単純な二項対立ではなく、フィクションに対立するのは、現実でも真理でもなく、例の 「仮構作用」なのだという。資本主義体制、社会主義体制、ファシズム体制のいずれであ れ、支配的な体制の中で使われるフィクションは、かならずその民衆の上に「崇拝の念」 を引き起こす。しかし、マイナーなものたちの従属的な体制の中で用いられる仮構作用 (作り話)には、専制の意味はない。それには「未だない」「来たるべき」「ひとつの民」の 創出が深くかかわっている。 第六章「民が欠けている」では、著者は、現代的な映画の課題とマイノリティの出現を 結びつける。民衆の創出にかかわる言説は、けっしてメジャーになることのないマイナー なものである。このマイナー性は、ガタリとの共著『カフカ マイナー文学のために』に 由来するもので、まさにカフカによって体現されていた。ドゥルーズは、古典的映画と現 代的な映画との重要な相違は、対象としての民が存在しているか欠如しているかの違いで あると主張していた。ドゥルーズからすれば、「現代の政治的映画」の必要条件は、民が 欠けているという自覚の上に作られる映画だということになり、その使命とは「来たるべ き民」への大いなる呼びかけとなることである。果たしてそれはどんな映画として成就す るのか。著者は本質的なマイナー性とは、現実化されざる潜勢性の表現だと解釈する。そ して、結局のところ、それは反抗的で生成を繰り返すものと別のものではない。ドゥルー ズは、メキシコの荒野で映画を撮ったグラウベル・ローシャにその反抗の典型を見てい た。 第七章「言葉とイマージュの考古学」では、著者はあらためて、現代的な映画の条件を 指摘する。すなわち、発話行為における視覚的イマージュと音声的なイマージュとの関係 である。現代的な映画とは、視覚的イマージュと音声的イマージュが対等な関係になり、 言葉(パロール)や発話行為が映画的な自律性をもつに至る映画である。構造主義的な映 画分析が想定していた、イマージュに対するシニフィアンの優位は、古典的映画だけに当 てはまるにすぎず、現代的映画においては、語りによって視覚的イマージュを確定し、物 語を構造化するものは失われている。ストローブ=ユイレの映画では、発話行為(音声的 イマージュ)と視覚的イマージュが分離されたあと、それらの自律性を保持したままいか に再結合されるかの試みが繰り返される。ここに、やはりドゥルーズが思い描く現代的思 潮には、構造化し、全体化するモデルに対して、過去の地層へアプローチする潜在性や生 成のモデルが前景化してくるのである。この点で、ドゥルーズがフーコー的な考古学に接 近しているのは不思議ではない。ただし、著者によれば、ドゥルーズのまったくの独自性 は、フーコーの意味での言説の地層(言葉と物の考古学)を文字通り物理的な地層と解し、 さらにそこにベルクソンの「潜在的な過去の諸層」を同時に読み込んでいるということで ある。「出来事」は、地球的・地質学的時間の中に生ずる特異点として、大地と時間と一 体化しているのであり、まさに、それを教えてくれたのが映画の出現だったと、著者は喝
破してみせる。 最終章「精神の自動人形のゆくえ」で、著者は「精神の自動人形」の両義的な有り様を論 じる。初期映画は、映画によって達成された「自動運動」を素朴に信じ、そこから「精神 の自動人形」が人間のうちに生成されるものとみなした。ところが、「精神の自動人形」が 逆に映画に投影されたのは、皮肉にもヒトラーの引き起こした大衆扇動と総動員という 極限的な「自動運動」の無残な姿としてであった。しかし、精神の自動人形のもう一つの 有り様は、「権力への意志」への抵抗と映画装置を通じての生成変化である。そして、今 日われわれが直面しているのは、「永続的な日常の平凡さ」と「紋切り型」の氾濫である。 ドゥルーズは、そこからのかすかな出口は別の世界への夢想にあるのではなく、この世界 との絆を信じることだという。映画は世界への信頼を取り戻すためにある、というドゥ ルーズの信念を著者は強力に支持する。ドゥルーズの思想にはこの世界の肯定が一貫して あるというのが、著者の結論である。 冒頭にも書いたが、本書は通常の意味では入門書とはいえない。ただし、『論語』に入 門するのに、そもそも『論語』を読まないのはおかしなことだという向きはあるだろう。 そういう意味では、本書は論語読みの論語知らずに向けた入門なのかもしれない。『シネ マ』を読んではみたが、特に『シネマ2』をどう理解したらよいか考えあぐねる者にとって は、格好の入門書になるだろう。ともあれ、本書はドゥルーズ哲学入門として意図されて おり、それを『シネマ』を通して行うというのは、やはり尋常ではないように思う。『シネ マ』を読解するためにも、布石のように置かれるべき著書は何冊もあったはずだ(言うま でもなく、『シネマ1』がそうだ)。そうならなかったのは、やはり、類書にあるような衒 学的なドゥルーズ解説にはしないという意図によるものなのだろう。 本書で、とりわけ評者の関心を引いたのは、第四章で解説されている、行動イメージか らの離脱が、作用と反作用の中心としての身体から、感情作用(情動と感情)の交換とし て理解される身体へと力点が移っていくという点である。古くはスピノザに始まり、ニー チェを経由し、今日の認知主義心理学、脳科学へまで射程を広げている感情作用の重要さ を、ドゥルーズはいち早く現代的映画の課題として理解していた。これはいくら強調して もたりない点ではないかと評者は感じる。 『シネマ1』第七章で語られていた、行動の二者択一、パスカルに発し、キルケゴールを 経由し、サルトルにまで至る思考(実存哲学)、すなわちそれはあらゆる行動の映画に「決 断」という重要な契機を作り出してきたものだが、それらと、『シネマ2』で重要度を増す ニーチェ的な「偽の力」と決定不可能性の問題とはどのように関連づけられるだろうか。 これは、『シネマ』二巻の内的な連続性と飛躍の問題として重要だと思われるが、本書に それらしい言及はない。それと関連するが、本書第四章では、ドゥルーズにおける「決定 不可能な部分」は出来事の構成要素であり、「永遠の未完了」なる出来事として解釈すると しているが、それはどういうことかをもう少し詳しく示してほしいと感じた(1)。 『シネマ』二巻が書かれ、ドゥルーズその人の生が途絶した1990 年代以降、21 世紀の映 画は、ドゥルーズの思考からいうと、どのような変化を被っているだろうか。これは単に ドゥルーズの思想に関心をもつ者だけでなく、現代の映画の行方に関心をもつ者にとって も重要な問いであろう。このあたりの展望について著者の見解を知りたいと思った。もと より、ドゥルーズの哲学の実践的な本質を考えるならば、それぞれの読者の思考にゆだね られていることなのかもしれないが。
注
(1) 築地正明氏がここで参照している江川隆男氏の最近の著作『すべてはつねに別のも のである』(河出書房新社、2019 年)には、突っ込んだ議論と大胆な様相論的な解釈 があるが、必ずしも映画論の文脈ではないので、『シネマ』を敷衍する説明がぜひ欲 しいものだと感じた。