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地域における戦後初期の国語教育改革運動-群馬区國語文化研究所編『國語』誌を中心に-: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

梶村, 光郎

Citation

琉球大学言語文化論叢 = GENGO BUNKA RONSO

TREATISES on LANGUAGE and CULTURE(1): 59-73

Issue Date

2004-03-31

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/10006

(2)

r言詩文化論叢j59/73 2004.3 59

地域 における戦後初期の国語教育改革運動

一 群 馬 国語 文 化 研 究 所 編 『国語』 誌 を中心 に 一 梶村 光郎 は じめに これまで戦後初期の教育改革 を志向 した教育 ・国語教育関係雑誌の調査収集 を行い、 F国語創造』 (1946年11月創刊) などの雑誌 を復刻 して きたl)。戦後初期の雑誌 は、手 に とると分かるが、粗末 な紙 に印刷 されている ものが多い。 その上酸化 も進み, ほろほろになって読 むこともで きない状 況が生 まれて きている。 そ うした状況 を打開す るため には、戦後初期の教育 ・国語教育関係雑誌 を早急 に収集 し、マ イクロフィルムな どで保存 した り、復刻 した りす る必要がある。今回小論で 使用する群馬図譜文化研究所が発行 した機関誌 F国語』(1947年6月 1日創刊) もそれ らに該当す る雑誌の一つであるが、 これ までほ とん ど研究 されて こなかった。 しか し、後述す るように, こ の r国語J は、群馬県 とい う地域 において、戦後 の新 しい教育民主化の一環 としての国語教育の 創造 を追究 して きた。 そこで小論 は、地域 における戦後初期の国語教育改革運動 を担 った群馬園 諸文化研究所 を取 りあげ、 『国語J を手がか りに しなが ら,群馬国語文化研究所が展開 した国語教 育改革運動 とはどういうものであったかを明 らかにする。 なお、小論では、 引用文 中の漢字 は、原則 と して個人名や団体名 を除 き、全 て常用漢字 に書 き 換 え,かなづかいは原則 として原文 に従 って記述することに した。そのことをお断 りしてお く。 1. 群 馬 国語 文化研 究 所 の創 設 と 『国 語』 の創 刊 事 情 群馬国論文化研究所 は、1947(昭和22)年4月頃 に群馬県伊勢崎市上泉町235に創設 された。群 馬国語文化研究所の創設の時期 を、「1947年4月頃」 としたのは、 『国語』 の中に次の ような記述 があったか らである。 「出版界の情勢 は、 日に日に悪化 して、全 く前途予測 を許 さぬ、苦 しい さ中に、私 たちの機関 誌 『園諦』 を、創刊す ることになった。思 えば、 当研究所の発足 したのは、 かの二 ・一ゼネス ト や、それに続 く六 ・三 ・三制教育制度の改革 など、教育界は、全 く混乱 している時であった。」2) 「当研究所 もこの四月でい よい よ第三年 目に入った。過去二年間 にわたって県下 に展開 した国 語教育復興運動は、十分 とは言えない まで も一応所期の 目的 を達 した と自負 している。」3) 後者の記述 に したがえば、群馬国語文化研究所 の創設 日は、1947年4月頃である。六 ・三 ・三 制の教育制度の発足 も1947年4月である。 だか ら、両者の記述 には整合性がある。 それで、 同研 究所の創設の時期 を 「1947年4月頃」 とす ることがで きる。 それでは、 この時期 にどう して群馬 国語文化研究所が創設 されたのか。 この点 については、1948年4月に発行 された 『国語j第4号 の巻頭言 「一年 をかえ りみて」の次の記述が参考 になる。 「敗戦直後の虚脱の状態、 ようや くわれにかえった頃の著 しい混乱、二 ・一ゼネス トを中心 と したはげ しいたたかい - 国語教育界 だけが、それ らか ら例外ではあ りえなかったO国語国字問 題 をは じめ、 日々の国籍教育の上 に示 された無気力 と、保守急進両様 の うず まきは、つい にわれ

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われ同志 を立 ち上が らせ た。 は じめわれわれの力が、外へ外へ と向け られたのは、 これがためで ある。 『新 しい国語教育の建設J を目ざし、講習会 を開 くこと四回 (受講者のべ六百五十人)臨地 研究座談会二回、機関誌 (季刊国語)四冊 を発行、活 ばつ な活動 を始めてち ょうど一年、国語教 育復興の気運 を、お もむろに育てて来 たo」 つ ま り、敗戦後 の国語教育 をめ ぐる 「無気力」 と 「保守急進両様の うず まき」 とい う状況 に直 面 し、国論国字問題 などに問題意識 を持 っていた群馬県内の教員達が 「新 しい国語教育の建設」 に意欲 を燃 や して群馬国語文化研究所 を創設 した とい うのが同研究所 の創設の理 由なのである。 このことを、創刊号の 「編集 を終 えて」 は、 もう少 し詳 しく次の ように説明 している。 「国語国字問題 については、昨夏か ら今春 にかけて、新聞 も、雑誌 も、 ともか く一度 は、 これ にふれているほ ど、 にぎやかに論議 された。新学制の実施 と共 に, 『当用漢字』 『現代かなづかい』 も、 い よい よ新教科書 に採用 され、 ローマ字教育 も始 まった。/ こうして、 この間題 も、正 しい 方向 を得 て批判論議の嵐 の中 を、 とにか く第二段階 にはいった。 しか し、 これか らである。 ほん とうに、 これか らである。一応 ここで、批判 のあ としまつ を し、 それか ら一歩 も二歩 も前進 させ ることこそ、 われわれに残 された、大 きなつ とめである。/ この 『国語l もささやかな ものでは あるが、 そ うした仕事 に、幾分 で も役立てたい と念願 している。」 ここには、群馬国語文化研究所 に結集 した教員達が、漢字制限や現代かな遣いの採用やローマ 字教育 を取 り入れた国語教育の改革 をさらに前進 させ ることが 自分 たちの仕事であると考 えてい ることが表明 されている。 この ことを踏 まえて言 えば、 さらなる国語教育の改革のために、群馬 国語文化研究所 は創設 された と言 えるであろ う。 そ して、機関誌 『国語』 の創刊の 目的 もそこに あった と言 えるであろう。 それでは、 さらなる国語教育の改革 とは何か。 『国語』 の創刊号の 「巻 頭言」 である 「国語教育 の基盤」 には、 目指すべ き国語教育の改革の目標が示 されているので、 それ を手がか りに して見てみ よう。 「国語教育の基盤」 は、 「自分たちの言葉 を、 自分 たちの力で、 自分たちの世界 において、 さら に良い ものに し, さらに高い ものに し、 さらに美 しい ものに して行 く。 そこにのみ、国語生活 は、 自分の もの として、力強 く真剣 にい とな まれる。」 ことを主張する。 そ して、 それを実現するため に、 目標 として以下の四点 を示 している。

O

「自分 たちの言葉」 は、生 きている言葉であ り、 もっとも分 りやすい言葉である。民族的 な, 思考 も感情 も、 ここにのみ生々 として表現 され、やすやす と感得 される。 (生活言語の科学的 研究)

O

「自分 たちの力」 は、おのずか ら生 まれる力であ って、強い られる力ではない。 そ こには、 工夫があ り、創意があ り、 ほ とば しりがあ り、 自主性がある。 (民主的国語指導のあ り方の研 究)

O

「自分 たちの世界」 は、 自分 たちの言葉 によって営 まれ、 自分 たちの言葉 は、社会的関連 な しには存在 しない。社会 は言葉 を正 し、言葉は社会 を美 しくする。 (協同社会的言語観の確立) ○良い、高い、美 しい言葉、 それは到達点ではあ るが、 あ くまで具体的でなければな らぬ。生 活 を持 ち、社会 を持たなければならぬ。 (国語の純化、国語愛の創造) この 目標 を示 した後 に 「か くして営 まれる、彼等の国語生活の上 に、 われわれは、国語教育 を 確立 しよう。 国語教育の民主化 も、 ここに基盤 を置かぬか ぎり、 その目的 を達す ることは, むず

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地域における戦後初期の国語教fJ.'改革運動 61 か しい。」 とい う言葉が続 け られている。 この文章 を読むと、群馬園諦文化研究所 に結集 した教員達が、 「国語の純化,国語愛の創造」 の ためには、 「社会は言葉 を正 し、言葉 は社会 を美 しくす る。」 とい う社会 と言語の相互関連性 を踏 まえた 「協同社会的言語観」 に立つ ことが必要であると主張 していることが分かる。 ここには、 戦前の国家や社会のあ り方、及 び言葉 を相対化す る発展の視点が示 されてお り,社会、教育、国 語教育の民主化 を進めてい く上で注 目される。 これは、彼等の活動の特徴 の一つ と言 って よいだ ろう。 また彼等 は、 自主的組織的 に生活言語 の実態 を解明 しつつ、 その実態 を踏 まえた 「民主的 国語指導のあ り方の研究」 に力 を注 ぐ必要があることも主張 している。彼等が この ことを主張す るのは、 「国語教育の民主化、 ここ (子 どもらの国語生活 一梅村) に基盤 を置かぬか ぎり、その 目 的 を達することは, むずか しい。」 と考 えているか らである。 と同時 に、 「従来の国語教育 は、 こ の明白な、 しか も、 じみな事実 を、忘れていた。」 と考 えているか らである。彼等が この ように考 えるのはなぜか。 「国語教育の基盤」 はこれ以上の説明 を していない。 しか し、 日常の言語生活 と 密接 な関係性 を持 たない国語 の指導 は、 日常 の言語生活 を根拠 とし得 ないために注入主義的な も のか強制的 な ものにな らざるを得 な くなる。 同時 に、 その強制力などが及 ばな くなれば無力であ る。そ うい う観点か ら言 えば、 「国語の民主化 も, ここに基盤 を置かぬか ぎり、その 目的 を達す る ことは、 むずか しい。」 と考 え られる。 また、 「従来の国語教育は、 この明 白な、 しか も、 じみ な 事実 を、忘れていた。」 とい うことも、 主 に学校で方言 を排除す るために用 い られた方言札の導 入Jl)や、戦前の山形県の綴方教師である村山俊太郎の次の言葉か らも裏付け られるであろ う。 「わが山形県では今年の校長会の決議 に基づいて全県下の′ト中学 を通 じて言語改良が問題 とさ れているが、 その方法 は形式的 なる方言否定 で、 ます、 ま した、であ ります、 くだ さいな どのい わゆるよい ことばを強制的 に使用 させ ようとの意図である。標準語 を使用 し得 る訓練 は もちろん 日本の国語政策的立場か ら絶対必要であるが、 それがいたず らに形式的 な方言否定 となっている ことは言語改良が生活化 されないのみか、 かえって弊害 となって現 れる。 たとえばこの決議以来 某校長は綴方か らも方言 を断然駆逐すべ

『今後、方言な ど使った綴方 はつ くらせ るなA と部下 教員 に指令 した もの もあ り、 こうした言語改良-の認識では正 しくあるべ き県 当局の意 図 も、 か えって邪道 に陥 らせ る結果 になることを信ずる ものである。」n 以上の叙述か らもうかがえるように、 F国語』の創刊号の巻頭言で述べ られた 「生活言語の科学 的研究」、 「民主的国語指導のあ り方の研究」、 「協同社会的言語観の確立」、 「国語の純化、国語愛 の創造」 は、 当用漢字 の制定、現代かな遣いの導入、 ローマ字教育の採用 とい った国語教育の改 革 をさらに進めてい く際の目標 として設定 された ものである。 これ らの 目標 は、国語生活 と国語 指導の関係性や、言葉 と社会が相互 に規定 し合 うとい う関係性 を踏 まえた、戦前の国語教育への 批判の上に立つ、現実的 な国語教育の改革の 目標であ った。群馬国語文化研究所 は、上記の四つ の目標 を掲げて、 さらなる国語教育の改革 を群馬 とい う地域 に根 ざして追究す ることを目的 と し て1947年4月頃 に創設 された研究組織である。 F国語』 は、その目的 を実現するために創刊 された のである。それでは、 F国語』 には どの ような記事や論稿が掲載 されたか。 また、何号発行 された か。 その点 について見てみ よう。

2.

『国語』 の 内容 と発 行 状 況 『国語』の内容 と発行状況 を明 らかにするために、最初 に 『国語』 の 目次構成 を示す。 目次 は、

(5)

次の ような原 則 に したが って表示す る。 その こ とを断 ってお きたい。 ・目次構 成 は、 原 則 と して 『国語』 に掲載 され てい る 目次 の構成 に したが って表示 す るが、 内 容 を見 るため に、 目次 に掲 げ られてい ない記事 な どもで きるだけ表示す る。 ・漢字 は、 人名 や団体 名 な どを除 き、 原則 と して常用漢字 を用 い、 か な表記 は原文 の ままとす る。 ・目次 と本文 の タイ トルが異 なる場 合 は、本文 の もの を とる。 r国語3 の 目次構 成 ○昭和

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2

年夏 季号

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年6月

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日創刊 号) 表紙 (目次) ◇国語教育 の基盤 (巻頭言) 無 署 名 ロ現代 か なづ かい解 説 と批判 - その全般 と文法 - 石黒 修 □東京語 におけ る 「花」 と 「鼻」 の別 - 東京 ア クセ ン ト新二段 観強調論 -◇ はな しこ とばの指導 と紙芝居 ロベ い言葉 の歴史 と語法 ∇新緑 の明 る さ 口五十音 図批判 口実験 国語表記法(1)分 ち書 き △書評 京言葉 (楳垣貴著) ▽編集 を終 えて ○昭和

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2

年秋 季号

(

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4

7

1

0

月 1日号,通巻第

2

号) 表紙 (目次) ◇言語 教育 の反省 ◇表現 的立場 ◇ ローマ字教 育の諸 問題 ∇言葉 をたず ねて ロ ミュのつ くコ トバ ロ東京 ア クセ ン トと異 なる群馬 ア クセ ン トにつ いて - 新国語 教科 書 にあ らわれてい る -∇研 究所 だ よ り ◇語句 の解釈 について ロ ア クセ ン ト観 ・型 ・表記法 △書評 言葉 とその文化 (西尾貴著) □利根郡 の 「ベ」 について ∇編集 を終 えて 金 田一 春 彦 石黒量太郎 中滞 政雄 上野 勇 小島 英男 編 集 部 都竹通年雄 中 揮 上野 勇 輿水 貴 石黒 修 中滞 政雄 北滞 一郎 中滞 政雄 無 署 名 柳 晃 一 和 田 貨 白石 大二 中 浮 中 浮

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『国語』 昭和

2

2

年冬季号 表紙 (目次) ∇群馬方言関係地図 ◇国語教育 と方言 地域における敢後初期の国語教育改革運動

(

1

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年 1月

3

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日号,通巻第

3

号) 特集 群馬方言の研究 口群馬方言概説 群馬県 の詩法 口 ・多野北甘地方 の語法 □ ・群馬郡の語法 □ ・勢多 (東部) 山田 (北部) の静法 □ ・群馬方言の語法 □群馬方言 の音韻 とその分布 口群馬県下のア クセ ン ト ロ群馬方言 終助詞 ロひさがえるに寄せて ロ ところ言葉 について △書評 戦後の国語国字問題関係書 - 昭和二十一年九月か ら 二十二年九月 まで一年間の主 な刊行 図書 の簡単 な紹介 と批評 -∇贈 っていただいた図書雑誌 ∇編集 を終 えて ∇昭和

2

2

年 国語 総 目次

『国語』 昭和

2

3

年春季号

(

1

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4

8

4

月30日発行,通巻第

4

号) 表紙 (目次) ◇一年 をかえ りみて (巻頭言) ◇寓話の理会 ◇児童劇演 出のために ロ見 うず るにて候 (北洋君 に) 特集 学習指導要領国語科編 の解説 ◇学習指導要領国語科編 の解説 ◇指導要領 (国語科編) を生かす こころ ◇ ことばの研究室 ◇学習指導要領国語科Liと新国語教科書 との関係 ◇ いろいろな実際問題 一国語科 r学習指導要領」 について一 口邑楽弁の研究 - アクセ ン トについて -∇贈 られた図書 無 署 名 東僚 操 中滞 政雄 小島 英男 神保 庸至 反町 勝 美 都竹通年雄 中滞 政雄 金田一春彦 編 集 部 東榛 操 木 公 生 修 名 浮 名 署 署 黒 石 無 中 無 無 署 名 山田 泰三 乗原 長治 垂見 春爾 飛 田 隆 久米井 束 西原 慶 一 輿水 貴 石森 延男 中滞 政雄 無 署 名

6

3

(7)

ロ桐 生市 お よびその周辺 の方言 ∇編集 を終 えて ○昭和

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年度

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日号,通巻第

5

号) 表紙 (目次) ◇国語 教育の方 向 (巻頭言) ◇ 国語 生活 の一 つの矛盾 特集 国語学習指導 の研究 (共 同研 究) ◇小学二年 国語学習指導 の実践 記録

「ひび き」 の実践 記録 を読 んで ◇ ひび くこ とば実践記録批 判 -◇ 田村氏 の 「指導案 とその実践」 を拝読 して

「ひび き」 の学習指導 とその実践報告 につ いて ◇無題 ◇擬音 のお も しろ さ - 田村勝治氏 の こ くご三 「ひび き」 の あっかい につ いて -D 日常語 の調査 一新 聞 に現 れた文語 について-◇ 中等文法 (口語) の指導 をか え りみ て ◇群馬県 におけ る音 声教育上の諸問題 ◇某月某 日 ∇研究所 だ よ り ∇贈 られ た図書雑誌 匡廃 物 の方言(1) ∇編集 を終 えて ○昭和

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年度

(

1

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3

0

日発行 、通巻第

6

号) 表紙 (目次) ◇ 率直 に現実 を見 つめ よう ◇ これか らの国語教育 ◇国語教育 と国語改 良の問題 ◇ 生活言語 の問題 - 流行語調査 を中心 と して -◇基本文 型 につ いて ロ去年今夜 □ 日本語 の方言 区分 け と新潟方言 E海 馬県利根郡片品村言 語調査報告 ∇贈 られ た図書雑誌 ▽研究所 だ よ り 匹廃 物 の方言(2) 片貝 政一 中 津 高野 寛順 釘本 久春 田村 勝治 高野 寛順 山田 泰三 池滞 園彦 小島 忠治 お くだ ・あいぞお 石森 延男 宇津野洋一 ・小野 章夫 櫛測 大策 小島 英男 中滞 政雄 南野 琴太 無 署 名 無 署 名 編 集 部 中 滞 小島 英男 輿水 音 釘本 久春 山田 泰三 神保 康至 吉町 良雄 都竹通年雄 中滞 政雄 無 署 名 無 署 名 編 集 部

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地域における戦後初期の国語教 育改 革運動 ∇編集 を終 えて 無 署 名 65 以上の 目次構成 を参考 に しなが ら、 『国語』 について書誌学的 なことをまず述べ ることにす る。 r国語』 は、 「研 究所 だ よ り」 (

r

国語』1947年秋 季号) の 「図書、機 関誌」 の項 目の ところに 「(21七月一 日、機関誌 『固持J創刊号発行」 とい う記述がある ところか らも分 か る ように、群馬国 語文化研究所 の機関誌 として創刊 された。創刊 の 日付が、創刊号の奥付 によれば、1947(昭和22) 年6月 1日付であるか ら、 「(2)七月一 日、機関誌 『国語』創刊号発行」 とい う日付 は誤植であ ろう. 創刊号 に掲載 されている記事 や論稿で末尾 に執筆 の 日付の入 っている ものは、奥付 を除 け

ば、

「巻 頭言」 が 「二二 ・五 ・一〇」 であ り、 金 田一春彦 の 「東京語 にお け る F花j と 『鼻』 の別」 が 「昭和二十二年五 月十六 日記」 であ る。 発行 日が7月 1日付であれば、 6月に執筆 された記事や論 稿があ って も不思議 で ない。 しか し、 そ うい うもの はない。 そ うい う意味 で、創刊号 の奥付の 日 付の 「6月 1日」が 「7月 1日」 の誤 りであることを主張す る材料 は上述の 「研究所 だ よ り」 以 外 にはないのであ る。 そ うい う状況 も踏 まえて言 えば、 創刊号の奥付 どお り、 6月 1日付で 『国 語』が創刊 された と考 えるのが妥当であろ う。 サ イズは各号 ともA5判。 頁 は、各号 とも異 なってお り、創刊号が53貢、 2号が49貢、 3号が 53頁、 4号が裏表紙 に印刷 された 「編集 を終 えて」 を含 め て52頁、 5号が裏表紙 に印刷 され た 「編集 を終 えて」 を含めて40頁、6号が裏表紙 に印刷 された 「編集 を終 えて」 を含めて44貢である。 この ように各号の真数が異 なるのは、 印刷経 費の高騰 や、 印刷用祇 の入手 の困難 さな どによ り、 確保 で きる印刷用紙 の数量が一定 していなか ったか らであろ う。 創刊号 の 「編集 を終 えて」 の中 の 「今 『国語』 を創刊す るにあたって も、前途数々の苦難 が予想 される。用紙 を手 に入 れ ること、 それだけで も想像 にあ まる困難 -それは決 して形容詞 ではない-があ る。」 とい う中浮 の言葉や、

5

号の 「編集 を終 えて」の中の 「倉岬 )号の この棚 で、機 関誌 を発行す ることの難 しさを述べ たが、 本号 (通巻

5

号) を出す にあたって、 身 に しみてそれ を感 じてい る。 前号 は、 印刷 費、原稿料、 雑費で一冊 当た り二十八 円五十銭 かかっ た。 そ こで当然 出 る赤字 と、 印刷 費その他 の値 上が りに よるお ぎない とを加 える と、 毎号数千 円 を新 たに支 出 しなければな らない。私 は一過二晩夜学 に 出ることに した。 そ してそ こか らの手 当は全部本誌の印刷 費 と講習会の諸費用 にあててい る」 と い う中浮 の言葉 は、それ を裏付 ける ものである。 こう した出版 の事情 は、 『国語』 たけに該 当す る ものではない'')。戦後初期 に発行 された雑誌 に共通 な問題 である。 だか ら、印刷経費が高騰 した り、 用紙 の入手が困難 になった りす る と、真数 を減 ら した り、定期刊行 を不定期刊行 に した り、 サ イ ズを小 さ くした り.雑誌 の値段や会費 を値上げ した りす るな どの状況が生 まれて くる。 『国語』 の 場合 も、裏表紙 に 「編集 を終 えて」 を印刷 した り、 員数 を減 ら した り、 季刊雑誌 と しての定期刊 行 を断念 して年間発行号数 を2年 目は2回 にす るこ とを余儀 な くされたのであ る。 それでは、 r国 語』 の発行号数 は どうなっていたか。次 にその点 について見 てみ よう。 目次構成 か らもうかが えるように、1947(昭和22)年度 は、夏季号、秋季号、冬季号の3号発 行。 翌1948年度 は、通巻4号 を 「昭和23年春季号」 と し、 5号 を 「昭和23年度」 とす る、 2号の 発行 だけである。 そ して、1949年度 は、 「昭和24年度」 と表紙 に印刷 されてい る もの 1号 しか確認 されていない、 とい う状況である01948年度 に発行 された通巻第5号 か ら、季刊 を示す

○季号」 とい う言葉が な くな り、 そのかわ りに 「昭和23年度」 とい う言葉 が印刷 され る ようになった。 翌 年度 もその形が踏襲 されて 「昭和24年度」 となってい る。 その点 に着 目 して言 えば、通巻第5号 か らは、季刊雑誌 として定期刊行が不可能 となったため に

、「

○季号」 とい う言葉が な くなった と

(9)

考 え られ る。 そ して、 その年度 に発行 す る号数 は、 印刷軽 費の高騰 や用紙 の入手 の困難 さな どの 諸般 の事情 を考慮 して決定す る とい うようになったのではないか と考 え られる。 とい うの も,過 巻第5号以下 の号 に、機関誌発行が年一回 になった とい う記述 は見あた らない し、1948年度 は 2 号発行 されているか らであ る。 ところで、 F国語』 の発行号数 は、 目次構成 どお り通巻6号であっ たか どうか, す ぐには断定 で きない。 しか し、第7号以下 の号が発行 された事実 を確認で きない の も事実 であ る。 印刷軽 費の高騰 や用紙 の入手の困難 さ、発行号数の減少 とい う事実、 「編集 を終 えて」 (r国語J第6号) の中の 「四 月末の読書新聞 に、 『学界雑誌の現状,発行継続 は三割、貴重 な研究論文 も発表不能』 と報ぜ られてい る。 まこ とに残念 であるが雑誌発行 の困難 は、 日に月 に 増す ばか りであ る。 本誌 も昨年 九月五号 を発行 して以来半年続 く赤字の補 てん と、誌代回収 に意 外 に手間 どっていたが、 この ほ ど、有志及 び所員 の方 々の特別 な御援助 を得 て ようや く、六号発 行 の運 び となった。大方 の御支援 を仰 ぎたい。」 とい う事情 を見 る限 り、第7号以下の号 は発行 さ れなか った可能性 が大 きい。 その こ とを指摘 した上で言 えば、確認 で きる 『国語』 の発行号数 は 通巻6号 までであ る と言 ってお きたい。 それ以降 の号数 については、今後 の調査研究 に待つ と し て、今回の小論 においては、 通巻6号 まで を対象 と しての考察 であるこ とを改めて述べ てお く。 それでは、 『国語』 に掲載 されている記事 や論稿 の内容 とその特徴 は どうなっているか。次 にその 点 を見 てみ よう。 r国語』 に掲載 された記事や論稿 の内容 とその特徴 が分 かるように、国語教育研究 に関す る も のつ いては

」 の印 を、 国語 学研 究 に関す る もの については 「ロ」 の印 を、 書評 につ いては 「△」の印 を,その他の記事 や論稿 については 「▽」 の印 を、上述の 目次 に付 しておいたので、 そ れに基づ いて F国語』 を分類す る と次 の ような表 になる. r国語1掲載記事及 び論稿の数量的傾 向 国語教育研究 国語学研究 書 評 その他 各号論稿数 第 1号 l 2(0) 5(2) 1(1) 2(0) 10(3) 第2号 l 4(2) 4(1) 1(1) 3(0) 12(4) 第3号 I 1(1) 10(2) 1(1) 4(0) ll 16(4) 第4号 8(5) 3(0) 0 2(0) 1 13(5) 第5号 12(5) 2(0) i o 3(0) 17(5) 第6号 5(2) 4(2) 0 3(0) 12(4) (か っこの中の数字 は、群馬県外 の執筆者 による もの数量 を示す。)

(10)

地域における戦後初期の国語教育改革運動

6

7

国語教育研究 に関する記事 ・論稿の数量が もっとも多 くて32編。全体 の40パーセ ン トを占める。 ついで、国語学研究 に関す る ものが

2

8

編。全体 の

3

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パーセ ン トを占める。 これ らの記事 ・論稿 を 合わせると60編。全体の記事 ・論稿の数が80編であるか ら、両者の記事 ・論稿 だけで全体の75パー セ ン トを占める。両者の数量の差 は4編 であ り、国語教育雑誌 とい う面か ら言 えば国語学研究 に 関す る記事 ・論稿が 占めている割合が高い とい うのが注 目される。 この点 は、創刊号の巻頭言で ある 「国語教育の基盤」 で 「彼等の国語生活の上 に、われわれは、国語教育 を確立 しよう。」 と述 べ、 「生活言語の科学的研究」 と 「民主的国語指導のあ り方の研究」 を目標 に掲 げたこととも関係 していると考 えられる。国語学研究の中身 を見 ると、「現代かなづかい解説 と批判」 の ような共通 語 としての 日本語 に関わる研究 と, 「群馬方言の研究」 の ような群馬県の生活言語 -方言 に関わる 研究がある。 これ ら二つの方向か ら国語学の研究がな されるのは、第一次米国教育使節団が教育 改革の一環 として 「国語の改革」 について も答 申を出 し、 それを踏 まえて国語教育の改革論議が なされた とい う事情 と、創刊号の巻頭言で述べ られた群馬国語文化研究所の研究姿勢か らも理解 されることである。 『国語』 に掲載 された国語学研究 に関す る記事 ・論稿 については、上述 の目次構成 で示 してい るので、 ここでは群馬の生活言語 に関す る記事 ・論稿が どの程度掲載 されているか を、件数 と割 合の面から見てみよう。 群馬の生活言語の研究 に関す る記事 ・論稿の数は

、1

7

編。国語学研究 に関す る記事 ・論稿の全 体の数は

2

8

編であるか ら、 そ こに占める群馬の生活言語 に関する ものの割合 は

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,

7

パ ーセ ン トで ある。 この ことや第3号で 「群馬方言の研究」 が特集 として組 まれていることか らも 「生活言語 の科学的研究」が 目標の掲示 だけに終 わっていないことが言 えるだろう。 そ してこのことは、 F国 語』 の特徴の一つである と,指摘 で きるだろ う。 それでは、次 に r国語J に掲載 された国語教育 研究の中身 を見てみ よう。 r国語』 に掲載 された国語教育研究 に関す る記事 ・論稿 は全体で32編である。 その うち戦後初 期の国語教育の改革 に関す る ものは

、1

8

編。 全体の

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.

3

パーセ ン トを占め る。群馬の生活言語 と 国論教育に関わる ものは

、 2

編。残 りの

1

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編 は国語教育一般 に関わる ものである。 この ことか ら 分かることは, 『国語』 の国語教育研究 に関す る記事 ・論稿の大半は国語教育の改革 に関す るもの であ り、群馬の生活語 と国語教育 に関す る ものは少 ない とい うことである。国語教育の改革 に関 するものが多 くなったのは、通巻第4号で 「学習指導要領国語科編 の解説」 が、第5号で 「国語 学習指導の研究」 が、特集 として組 まれたか らである。 そ して、 これ らの特集が組 まれたの も、 特集のテーマが国語教育の改革 と深 く関わってお り、今後 の国語の学習指導 に影響 を及 ぼす、学 習指導要領 と国語教科書の問題 であったか らである。 つ まり、早急 に対応 しなければならない国 語教育の課題 だったか ら特集が組 まれたのである。群馬の生活言語 と国語教育 に関す る研究が少 ないが、生活言語の研究 自体 は国語学研究 と して蓄積 されているのだか ら、 それは今後増加する と考 えられる。 それ よ りも、研究所 と しては、国語の改革 を経 て提示 されてきた学習指導要領国 語科編 をどのように理解 し、学習指導要領 に基づ く新 しい国語教科書の取 り扱 いをどうするかを、 まずは使先 しなければな らなかったのではないか。 そ うしなければ、群馬の生活言語 の研究の成 果 を、改革が求め られる今後 の社会や教育 に相応 しい民主的 な国語教育 にどう反映 させていけば よいか、 イメージや展望 を描 けないか らであ る。 つ ま り、 「民主的国語指導 のあ り方 の研究」 や 「協同社会的言語観の確立」、 「国語の純化、国語愛の創造」 を追究す るためには、群馬県 を規定す る日本 とい う国家 における社会 と言葉 の関係 に対 して、対応せ ざるを得 なかった とい うことであ

(11)

る。 そ うした ことを、 この国語教育研究の記事 ・論稿の中身か らうかが うことがで きよう。 以上の ことをまとめて言 えば、 r国語』 は1947年6月 1日付で、群馬国語文化研究所の機関誌 と して創刊 され、確認 され る ところで言 えば1949年 5月30日付の通巻第 6号 まで発行 された。 当初 は年4回の季刊発行 で、サ イズはA 5判。 しか し、季刊発行 は第5号 か ら崩 れ、真数 も印刷経費 の高騰 や用紙 の入手難 な どか ら一定 しなか った。 内容面では、 国語教育研究 と国語学研究 に関す る記事 ・論稿が全体 の75パ ーセ ン トを占め る。 その中身 を見 る と、 国語教育研 究 に関 しては国籍 教育改革 に関わる ものが多 く、国語学研究 においては群馬の生活言語 の研究 に関す る ものが多かっ た。 この ような傾向 は、創刊号の巻頭言 「園詩教育の基盤」 で掲 げた 「生活言語の科学的研究」、 「民主的国語指導 のあ り方 の研究」、 「協同社会的言語観の確立」、 「国語 の純化、国語愛の創造」 を 実際 に追究 してい ることを示 す ものであ った。 そ してそれは、 r国語』 が、群馬 とい う地域 の言葉 に根 ざ しなが ら. 国語教育 の改革 を進 めていた ことを物語 る ものであ った。 それでは、次 に群馬 国語文化研究所 が F国語』 を中心 としなが ら、群馬 とい う地域 において国語教育の改革 をどの よ うに進 めていたか を具体的 に見 てみ よう。

3.

『国 語 』 と群 馬 の 国 語 教 育 改 革 運 動 群馬国語文化研 究所が展開 した国語教育改革運動 を全体的 に知 るための手が か りは. 『国語』 に 掲載 されてい る 「研究所 だ よ り」 が主 な ものであ る。 そ こで、 これ らの記事 を手がか りに、 同研 究所 の運動の様子 を見 てみ よう。 この研究所 の組織 は、研 究所員 と研究員 が中心 になってい るが、次の文章か らもうかが えるよ うに、石黒修、金田一春彦、都竹通年雄 といった国語学者 といった後援 と、 F国語』 の読者 による 支援 を得 て運動が展開 されてい くようになっていた。 「本誌 の創刊 にあたっては、大ぜ いの方々のお世話 になった。所員,研究員の骨折 は もちろん、 心あ る方々か ら受 けた後援 も、大 きかった。 一・くに、最初 か ら親 身になって、原稿のお世話か ら、 研究所 の仕事 について まで、 なに くれ とな くご指導 くだ さっ た、石黒修、金 田一春彦両先生のお 骨折 りに対 しては、 まった く感謝 の外 はない。 また、東京帝国大学Eg詩研究室 の方 々、 と くに、 都竹通年雄氏 には、 たいへ んお世話 になっ た。 今後 もこれ らの方 々か らは、特別 ご後援 をいただ か なければな らない. 本誌 の発展 について も、 一人二人 の力で、 どうに もなる ものではない。 少 しで もよい雑誌 に しようとす るには、 お読 み下 さる方 々全体 の ご支援 を受 けなければな らない。 どうか。 皆 さんが、 ご自分 の雑誌 のつ も りで、編集 上の助言や、研究 を ど しど しよせ ていたた き たい。」7) 国語 学 者 な どの後 援 や r国語j の読者 の支援 を上記 の よ うに位 置づ けてい るの は、機 関誌の F国語Jfを次の ように捉 えて国語教育改革運動 を展開 しようと考 えていたか らである。 「本誌 は, もちろん、 当研究所員、研究員 の研究発表機 関であ るか ら、地方色 をおびて来 るの は、 当然であ ろ う。 といっ て、 単 なる一地方誌 に終 わ らせ た くない。 われわれは、研究 に対 して は、 あ くまで謙虚 で なければな らない。 あ らゆる方面 か らの研究成果 を、進 んで摂取す ることに、 努 め なければな らない. そ うい う意 味で、紙面 の相 当頁数 を、広 く一般 に提供 したい と思 う。 中 央 と地方 との提携 は、 従来 の、 中央本位 の研 究界の地方移動 に何 らかの形で役立つ こ とと思 う。 なお、県 外 か ら、特 に、東京 ・千葉 ・埼玉 ・静岡 ・大阪等 か ら、多数購読の 申 し込みがあった。 これ らの方 々に対 して も、 ご期待 にそ うよう編集 したい と思 うo」 群'

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地域における戦後初期の国語教育改革運動 69 『国語』が、創刊号 の巻頭言 「国語教育の基盤」 で言 うように,群馬の教師 と して 「自分 たち の言葉」 であ る 「生活言語 の科学的研究」 を進 め、 その言葉 の実態 を踏 まえて 「民主的国語指導 のあ り方 の研究」 を追究 す る以上、地方色 を帯 びて くるの は当然であ る。 しか し、編集兼発行人 である中滞政雄 は、 F国語』 を 「単 なる-地方誌 に終 わ らせ た くない。」 とい う. その理 由 を、 中 帝 は三つ挙 げている。 一つ は、研 究 に対 して謙虚 であ るべ きであ り、 あ らゆる方面 か らの研究成 果 を進 んで摂取す ることに、努 め なければな らないため とい うこ と。二つ 目は、 中央 と地方 の提 携 を進めてい くため とい うこ と。 三つ 目は、県外 か らの多数の購読者へ の期待 に応 えるため とい うこと。以上の三つであ る。 - とこの理 由は、研究の特性 か ら当然 の ことと考 え られる。 なぜ な ら、地域の生活語 の研究 は、 言語生活 の実態 とそ こに貫徹す る言語 の規則性 や法則性 の把握 に とどまらず に、 共通語 と目 され る日本語 や他地域 の生活語 との対比 の中でその特徴 を明 らか に してい くか らであ る。 つ ま り、 群 馬の生活語の研究 を進 めるため に、 「中央」 や他 「地方」 の研究者 と提携 ・交流 し、 その学問的成 果 に学 ばなければいけないのである。 それを機 関誌 『国語』誌上で実現 す るため には、 「紙面の相 当真数 を、広 く一般 に提供」 しなければな らな くなる。 合 わせ て県外 の購読者へ も配慮す る とな る と、群馬の生活言語 だけに とどまらない、 各地域 に共通す る生活言辞 の研 究 と国語教育 の改革 に関す る研究 を と りあげて編集 しなければな らな くなる。 国語教育一般 に関す る記事 ・論稿が12 編、国語教育改革 に関す る ものが18編、群馬以外 の国語学研 究 に関す る ものが 11編 あ るのはその ためであろ う。 そ うであれば、 当然 「-地方誌 に終 わ」 らな くなるであろ う。事実

「2」章に掲 げておいた 「表」 か らもうかが えるように、 『国語』 に掲載 された記事 ・論稿

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編 の うち,県外執 筆者 の手 になる もの は25編。 全体 の31.3パ ーセ ン トを占め るのであ る。 ちなみ に、県外 の執筆者 名 と所属 を示す と、次 の ようになる。 第一号の場合、石黒修 (国語協会理事、文部省顧問、法政大学教授)、金 田一春彦 (文部省嘱託, 東京帝国大学講師)、都竹通年雄 (東京帝国大学国語研究室勤務) の

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人執筆。第2号は、輿水責 (文部省嘱託)、石黒修 (国語審議会委員、教育研修所員、法政大学教授)、和 田貨 (兵庫師範学校 講師)、 白石大二 (文部事務官 国語課勤務) の4名執筆。第3号 は、東候操 (東洋大学教授),金 田一春彦、都竹通年雄、石黒修の 4名執筆。第 4号 は、飛田隆 (文部省嘱託、成操高等学校教授)、 久米井束 (東京都氷川小学校長、教科書編纂委員)、西原慶一 (日本女子大附属小学校主事、教科 書編纂委員)、輿水賞 (文部省嘱託、指導要領執筆者)、石森延男 (文部事務官、 園語教科書編修 主任)の

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名執筆。第

5

号 は、釘本久春 (文部省国語課長)、池帝国彦 (埼玉師範学校附属小学校)、 小島忠治 (東京高等師範学校教諭)、 お くだ ・あいぞお (静岡市立千代 田小学校)、石森延男 (文 部省第一編修課長) の5名執筆。 第6号 は、輿水賓 (国立国語研究所員)、釘本久春、 吉町義雄 (九州大学助教授)、都竹通年雄 の4名執筆。 以上の執筆者の状況 か らも分 か るように、 『国語』 は県外 の研究者 や読者 な どに誌面 を開放 し, 研究成果の交流 を進めていたのであ る。 だか ら、 『国語』 を 「-地方誌 に終 わ」 らせず に、全国の 研究者や読者 との研究 の提携 ・交流 を実現 しようとい う中洋 の意図 は、具体化 されてい る と言 え よう。 さらに言 えば、 それは同研究所 の場合、県外 の研究者や 『国語』 の読者 との提携 ・交流 は、 『国語』や各種の研究集会 などをとお しての研究 ・教育の交流 を意味 してお り、支部作 りや読者会 などを組織 して行 うとい うような ものではなか った。 そ うい う点 で言 えば、東京 の浅草区浅草橋3 -31の育英国民学校 内 に置 かれた国語教育協会 の行 き方 とは異 なる。 同協会 の機 関誌 『園諸文化j の創刊号 には 「支部 をお作 りくだ さい」 とい う案 内の棚があ り、次 の ような呼 びかけ文が掲載 さ

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れてい た。 「本会 の趣 旨 に賛 同 され た方 々で各地 に支 部 をお作 り下 さい。 /全 国各地 との連繋 の上 に、有 力 な研 究 団体 が結成 され て、 教 育 の民主化 と、 新 しい国語文化 の樹 立 とが、 力強 く推進 され るこ とを念願 してい ます。」。) つ ま り、 国語 教育 協会 の場 合 は、 東京 だけで な く全 国各地 に同協 会 の支部 を組織 して、 全国的 な国語 教育 改革運動 を展 開 してい こ うと してい たのであ る。 それ に対 して、 群馬 国語 文化研究所 の場合 は、県 内 に 「組織 をか ため、研究 を協 力 に進 め る ため に、 各地 区 に中心 となってお骨折 り 下 さる方」lo'、 つ ま り世話人 をお願 い して、次 の よ うな体制 で運動 を進 め る形 をとってい る。 (1) 邑 楽 地 区 伊那 良小学校 (2) 桐 生 地 区 県立桐 生高女 (3) 山 田 地 区 大間 々中学校 (4) 佐波伊勢崎地区 剛 志 中 学 校 (5) 多 野 地 区 (6) 前 橋 地 区 (7) 勢 多 地 区 (8) 高 崎 地 区 (9) 群 馬 地 区 (10) 吾 妻 地 区 (ll) 利 根 地 区 (12) 新 田 地 区 (13) 北 甘 楽 地 区 (14) 碓 氷 地 区 県 立藤 岡高女 前 橋 中 学 校 敷 島 小 学 校 佐 野 中 学 校 古 巻 中 学 校 名久 田中学校 沼 田 中 学 校 募 集 中 募 集 中 募 集 中 雄 1 美 郎 男 雄 巳 噸 人 三 勇 太 伸 政 勝 量 英 政 正 寛 治 秦 野 貝 町 黒 島 滞 野 野 保 田 野 黒 片 反 石 小 中 狩 高 神 山 上 「これ らの方 々 を中心、結束 して研究 をすすめていただ きたい。」 とい う記述が 「研究所 だ よ り」 (r国語』 1947年10月号) の 中 に見 えるが. 上述 の世話 人体 制が各地 区 にお ける研 究所 の所員や研 究 員達 の単 な る グルー プ活 動 を意 味す るのか、 それ とも支部 とい う位 置づ けの もとに展 開 され る 活 動 を意 味す るの か、 資料 か らは確 認 で きない。 しか し、 群馬国語文化研 究所 が全国 の国語教育 の動 向 を視野 に入 れていて も、 国語 教育協会 とは異 なる運動 の展 開 を してい た こ とは この世話 人 体 制 か らも明 らかであ る。 なぜ な ら、 同研 究所 に よる教 員 の組織化 の範 囲が群 馬県 内 に とど まっ てい るか らであ る。 この ことは、 この研究所の運動の特徴 と して注 目 され る ものであ る。 したが っ て、 群 馬 国語文化研究 所 の運 動 は、 全 国的 な視 野 を持 ちなが らも、言 葉 の研 究 の面 か らだけで な く、 組織運 動面 にお いて も、 あ くまで群 馬県 内 に根 ざ して国語教育改革運動 を展 開 しよ うと して いた と言 えるだ ろ う。 それで は、 具体 的 に どの ような運動 が展 開 され たの か を上述 の F国語』 第

2

号 の 「研 究所 だ よ り」 を もとに して示 してみ る と、 「講 習会」、 「臨地研 究」、 「図書、 機関誌」、 「各地 区の世話 人体制」 が主要 な もの となってい る。 講習 会 につ い て は、群 馬 園諸文化研究所 が発足 してか ら、 第2号が発刊 され る までの間 に、 3 回開催 され てい る。 第 一回 は、1947年6月18日に館 林南小学校 を会場 に して、 中滞政雄 が 「邑楽 郡及 びその周縁 地 区の ア クセ ン トにつ いて」 を、石黒修 が 「現代 か なづ か い及 び ローマ字教育 に つ い て」 を講演 した。 第2回 は、 同年6月28日に渋川 小学校 を会場 に して、岩 淵悦太郎が 「文法

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地域における戦後初期の何語教育改革運動 71 教育 について」 を、石黒修 が 「ローマ字教 育の諸 問題」 について を講 演 した。 第3回は、 同年 の 8月 1日か ら三 日間、伊勢崎市南小学校 を会場 に、石黒修 が 「新 しい国語教育 のあ り方」 を、金 田一春彦が 「国語の旋律 について」 を、輿水書が 「小学校 中学校 国語教科書 の解説」 を, 小島忠 治が 「実地授業、 五年 生、 教材、 狂言 ぶす」 を、 文部省 ローマ字 教科書編纂委 員 の鬼頭頑蔵 が 「ローマ字教育の理論 と実際、実地授業、四年生二時間」 を、それぞれ講演 した り、実地授業 を行 っ た りした。 また、翌年 には、 9月19日に佐波郡境町青年 団の 「教養講座」 で中揮政雄が 「民主社会 におけ る言葉のあ り方 について」 と題す る講演 を行 った。 前橋 の教育会館 において9月20日に上毛民俗 の会 と共催 した国語講演会では、講師 に宮 良禽壮 を迎 え, 「日本諸方言 における音声の組織」 につ いて講演 が な された。 また、 9月26日には美久里小学校が主催 した ローマ字教育研究会 (鬼頭頑 蔵 の講演 と授業、所員須川源市 の実地授業) を後援 し

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0

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日には高崎市教員組合文化部 と共 催 で、高崎市東小学校 を会場 に して、 国語教育協議会 を開催 した。 この国語教育協議会 では、所 員の神保庸至が一年生の文例 について指導 し、 中揮政雄 が単元 についての協議会 を担 当 した。 ま た、石黒修 が 「新 しい 日本語」 について、三時間の講演 を行 った。 さらに、1949年2月26日に開 催 された吾妻部名久 田中学校 国語研究会- 中滞政雄 が出席 し、所員の山田泰三 の授業 を見学、 国 語教育の諸問題 について座談会 を行 った。 以上の こ とか らも分 か るように、群馬国語文化研究所 は、 国語 や国語教育 について、啓蒙的 な 活動 を行 った り、研 究協議 を行 った りしている。 国語教育 の改革 を進め るため に、講演、研 究 協 議、実地授業 を行 う、大小の研究集会 などを各地 で開催 し、 自主的 な運動 を展開 したのであ る。 次 に、臨地研究 であ るが、1947年 には、 8月7日か ら四 日間多野郡寓場町上野村方 向で、 8月 20日か ら三 日間利根郡後閑で、 それぞれ現地の所員 とともに、座談会 をももちつつ、実施 された。 1948年 には、群馬郡東村帝人、花輪 での言辞調査 (10月 1日)、利根郡水上町藤原 の第一回言語調 香 (11月13日と14日)、 同藤原 の第二回言語調査 (11月21日)、利根郡沼田町,川 田村 の言語調査 (12月17日)が行 われた。1949年 には、吾妻郡滞 □村、四蔑温泉の言語調査 (2月26日) が行 われ たo 以上の事実 は、1947年の同研究所 の発足 か らの5ケ月間 と1948年9月か ら1949年 の5月16日ま での間の運動の一端 である。1948年 の8月 1日か ら三 日間開催 された 「国語教育研究講座」 や、 各地区の世話人が中心 となって開催 した国語教育の研究集会 については、 「研究所 だ よ り」 に記述 されている ものだけに限定 して記述 してい るためそれ以外 の ものは除 かれてい る。 しか し、 これ らか らだけで も、群馬国語文化研究所が、意 図的計画的 に生活言語 の科学的研究 の ため に、地域 の生活言語の実態調査 を進めていることが分 かる。 そ して、 こうした言語調査 の結果が、 『国語』 に 「特集 群馬方言 の研究」、 「東京 ア クセ ン トと異 なる群馬 ア クセ ン トにつ いて」、 「邑楽弁 の研 究」、 「桐生市及 びその付 近の方言」、 「群馬県利根郡片品村言語調査報告」 とな って掲載 されてい るのである。 国語教育 の改革 のため に、地域 の生活言語 の実態調査 を踏 まえた科学的研究 を意 図 的計画的 に行 っていることは、 F国語』 の特徴 であ る と考 え られるが、第6号の 「編集 を終 えて」 に も、次の ような記述があ る。 「本年度所 員の共同研究題 目を r児童の詩集調査』 と した。大体、農村、 山村、 小都 市、 中都 市の四地域 における、小学校二、 四、 六、 中学校 一、三 の各学年 について行 いたい と思 う。御協 力を御願 い したい。」 次 に図書 と機関誌 につ いてであ るが、第

「2

」章 な どで機関誌 『国語』 については述べ て きて

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い るので、 ここで は これ以 上触 れ ない。 図書 につい ては、所員 の都丸 十九一 の F天狗岩堰 開竪史j が1947年4月 に出版 され てい る。 また、 これ以外 の出版活 動 と しては、 「所報」 があ るが、 これ に つ いて は当初無料 で配布 されていたが、 『国語』 の第

5

号発行 の時期以降送料負担 となった ようで あ る。11) 最後 に、 各地 区の 「世話人」 体 制 につ いてで あ るが、 各地域 で行 われ る国語教育研 究集会 の開 催 や、 授業 の公 開、 協議会 や座談会 な どで の研 究 交流, 言語実態 調査 やその援助 な どの活動 にお いて,機 能 していた ようであ る。 それ以 上の こ とは, 資料が不足 してい るため に分 か らない。 以上述べ て きた こ とを整理 して言 えば、次 の ようになるだろ う。 群 馬 国語 文化研 究所 が展 開 して きた国語 教育改革運 動 は、 まず第 - に、講 習会 な どの開催 を通 じて、 新 しい国語 と国語 教育 に関す る啓蒙 と、 それ らにつ いて改革 を さらに前進 させ るための研 究協 議 を行 う形 で進 め られ た。 第 二 に、 国語教育 を地域 の生活語 の実態 を踏 まえて行 うため に、 生活 言 語 の科 学的研 究 の前提 であ る地域 の言語調査 を意 図的計画 的 に進 め る形 で展 開 され た。 そ して、 第 三 に、機 関誌 『国語』 を発行 して、 群馬 とい う地域 に根 ざす研究 を進 め なが ら国語 教育 の改革 を追究 しつつ、 「中央」 とも提携 ・交流 して研 究成果 を摂 取す るこ とに努 め、 さらに全国各 地 の読 者 に も誌 面 を割 い て研 究交 流 す る場 を設 け る とい った形 の, 全国 を視 野 に入 れ た国語教育 改革運 動 を展 開 した とい うこ とであ る。 おわ りに 以 上、 群馬 国語文化研 究所 が発行 した 『国語』 を中心 に しなが ら、群馬県 におけ る戦後初期 の 国語教育改革運 動 につ いて考察 して きた。 その結果 を整理 してお こ う。 『国語』 の発行 主体 で あ る群 馬 国語文化研 究所 は、 戦後 初期 の国語 教育 をめ ぐる 「無気 力」 と 「保守急進 両様 の うず まき」 とい う状況 に直 面 し、 国語国字 問題 な どに問題意識 を持 った群馬県 内 の教員達 に よって、1947年4月頃 に伊勢崎市 内 に創設 され た。彼等 は、 「生活言語 の科学的研究」、 「民主的国語指導 のあ り方 の研 究」、 「協 同社会的言語 観 の確 立」、 「国語 の純化,国語愛 の創造」 を 目標 に掲 げ、 地域 の生活語研 究 と国語教育 の関係 の面及組織運 動体 制 の面 か ら群馬 とい う地域 に 根 ざ した国語教育改革運動 を展 開 した。 具体的 には、 啓蒙 と研 究協議の ための講習会 などの開催、 生活言語 の実態 を把握 す るための臨地研 究、 「所報」 や機 関誌 『国語』 の発行、 各地 区の世話人体 制づ く りな どを行 って きた。 また、 彼 らは、 石黒修 な どの 「中央」 の研 究者達 の後援 を得 なが ら 講習会 や F国語』 な どで交流 して各方 面 の研 究成果 や新 しい民主的 な国語教 育 につ いての情報 を 摂取 して きた。 さ らに全国各地 の 『国語』 の読者 とも誌 上 を通 じて交流 で きる ように、 『国語』 の 記事 ・論稿 に も配慮 し、読者 の投稿 に も応 じられ る ように した。 そ して、 『国語』 を 「一地方誌 に 終 わ」 らせ ない よ う、県 外執筆者 の記事 ・論稿 を31.3パ ーセ ン ト掲載 した りす るな ど、 具体 的 に 編集 を工 夫 を しなが ら、 国語 教育 改革運 動 を展 開 してい ったのであ る。 それ は, 全国 を視野 に入 れ、 実 際 に国語 学者 な ど と提携 ・交流 しつつ も、 あ くまで運 動論 ・組織論 と して は群馬県 内 に限 定 し、研 究 におい ては地域 の生活 言語 の研 究 を踏 えた国語教 育 の研 究 を展 開 した国語教育改革運 動 だ ったの であ る。 ただ、 彼 らの生活語研 究 が、 国語 (共通語 と しての 日本語) を教 えるための 教授 法上 の問題 にのみ とど まってい たの か、 あ るいは、 ア イデ ンテ ィにか かわ った り、 地域 の文 化 の価 値 に関 わ った りす る方言 -生活 語 の価値 につ い て も認 め て研 究 ・教 育 しよ うと していたの か につ いて は今 回検 討 で きなか った。今後 の課題 であ る。

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地域における戦後初期の拘語教 育改 葬:運動 73 注 1)緑蔭書房 よ り、 これ まで 『国語創造』 (1999年)、 『教育新聞』(1999年)、 『教育科学』 (2000年) を復刻 した。 2)中滞 「編集 を終 えて」 『国語』1947年6月創刊号、群馬国語文化研究所、53頁。 3)無署名 「編集 を終 えて」 『国語』1949年5月号、群馬国語文化研究所、44頁。 4)沖縄県 で明治30年代頃 に普通語 (標 準語 や共通語 と称 され る 日本語 と同義 の言葉) を学習す る際 に障害 となっている方言 を排除す るため に採用 され た罰札 の こ とO方言 を使用 した子 ど もは、首 に方言札 をかけ られ、次 に方言 を使用 した子 どもを見 つ けて渡す までその ままだ っ た とい う。 5)村山俊太郎 「読み方教育 における北方的実践」 『読み方教育実践の進歩』1935年2月発行、厚 生闇。 (『村 山俊太郎著作集』第二巻所収、百合出版、40頁。) 6)梶村光郎 「解説 国語創造 について」『「国語創造」別冊』1999年、緑蔭書房、12貞一13頁参 照。 『国語創造』 の場合、誌型 の縮小、 号数 の合併、不定期刊行 (号数 の削減)、収入 を増 や すための会員の拡大の呼 びかけな どの対応 を していた。 7)中滞 「編集 を終 えて」 『国語』1947年6月創刊号、群馬国語文化研究所、53頁。 8)同上。 9)「支部 をお作 り下 さい」 『国語文化』1947年 1月、国語教育協会、52頁。 10)「研究所 だ よ り」 『国語』1947年10月、群馬国語文化研究所、26頁。 ll) 中滞 「編集 を終 えて」 『国語』1948年8月、群馬国語文化研究所、40頁o

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