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泉 鏡 花「年 譜」補 訂 (十五)

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(1)

花「年

譜」補

(十五)

吉田昌志

本稿は、

先年刊行した岩波書店版『新編泉鏡花集』

別巻二

(平成十八年 一月二十日)

収録の泉鏡花

「年譜」

の補訂で、

本誌七九五号

(平成十九年一 月一日)

掲載の

「補訂



」、

七九七号

(平成十九年三月一日)

掲載の

「補訂



」、

八一九号

(平成二十一年一月一日)

掲載の

「補訂



」、

八二一号

(平成二十一 年三月一日)

掲載の

「補訂



」、

八二六号

(平成二十一年八月一日)

掲載の

「補訂



」、八

(平成二十三年一月一日)

掲載の

補訂



」、八

(平成二十三年三月一日)

掲載の「補訂



」、八五〇号

(平成二十三年八月一日)

掲載の「補訂



」、八五五号

(平成二十四年一月一日)

掲載の「補訂



」、八

五七号

(平成二十四年三月一日)

掲載の

補訂



」、八

(平成二十四年 八月一日)

掲載の

補訂

(十一)

」、八

(平成二十五年一月一日)

掲載

の「補訂

(十二)

」、八六九号

(平成二十五年三月一日)

掲載の「補訂

(十三)

」、

八七九号

(平成二十六年一月一日)

掲載の「補訂

(十四)

」に続くものである。

内容は、

[誤記



誤植の訂正]

、[本文の訂正



追加]

、[典拠の訂正



加]

、[新たな項目]

、の四部に分かち、書式を次の通りとする。

一、表記は、原則として右「年譜」に準じた。

一、

「年譜」本文の後に、

典拠



として、文献の原文、未公刊資料の翻

字等を示し、

典拠が複数の場合は番号を付して併記した。

注記



の項には、内容の解説、考証等を記した。

一、引用文の仮名づかいは、原文のままとし、字体は概ね現行の印刷文

字に改め、読解に必要なルビを残した。傍点、圏点は概ね原文のま

まとした。

一、引用文の中略部分は、総て「

(…)

」で示し、前略、後略はいちいち

断わらなかった。引用文の誤記



誤植は、

]内に補正した。

一、典拠文献が複数項目に重出する場合も、そのつど項目ごとに示して、

書誌的事項の記載を省かなかった。

一、

[本文の訂正



追加]

では、

訂正部分、

新たな追加部分に傍線を付

して区別した。

一、文中の敬称は、原則として省略した。

一、必要に応じて、

「*」のあとに注記事項を補った。

[誤記



誤植の訂正]

年譜

64

頁上段

15

行目

吉沢商会

吉沢商店

学苑 日本文学紀要 第八九一号 七〇~九一(二〇一五 一)

(2)

補訂(十四)

48

頁下段

23

行目

なかでも典拠

「都新聞」

が最も詳しい。

なかで

も典拠「都新聞」が最も詳しい(同日付「東京日日新聞」にも同内

容の記事のあることは、秋山稔「資料紹介



こまかい話



江戸時代

の人情本の事



」「泉鏡花研究会会報」二十五号、平成二十一年十二

月二十日、に紹介ずみ)

*傍線部を追加。

[本文の訂正



追加]

明治四十四年(一九一一)

辛亥

三十九歳

一月

一日発行の「新小説」に、後藤宙外が同誌主幹を退任し、以後の事

務取扱を本多直次郎(嘯月)に引継ぐむねの「禀告」が載った。同日発

行の

「早稲田文学」

(第六十三号)

「文芸消息」

欄には、

次のように

報じられた。

◎新小説の改革

後藤宙外泉鏡花二氏は事情ありて去月「新小説」の

編輯を辞し、本多嘯月氏之に代つた。

この件に関し、

九日付

「東京朝日新聞」

(六面)

文壇の非

ボイ

同盟

コツト

には、真山青果の原稿二重売り問題にからみ、引責辞任する後藤宙外に

伴って鏡花も退く、との報道があった。

典拠  「文壇の非買同盟」 (「東京朝日新聞」明治四十四年一月九日付 六面) ▽小説家真山青果 ▽原稿の二重売り 虚名に慢じ放縦なる生活に れた文学者が産み出す罪悪に三つある即ち濫作、 代作、 原 稿二重売である、 第 一は芸術的良心の傷つけるを示し第二は其の麻 痺したるを意味し第三に至つては言語道断純然たる法律の罪人である、 真山 青果氏は久しき以前から此三罪を犯せる文壇の前科者であるが、 最 近更に罪 悪を重ねたのである、 即ち昨年十二月太陽に 「子供」 なる短 を発表し次で 「枷」と題するものを新小説の新年号に載せた、然るに其「枷」は太陽の「子 供」 の題を代へたる許りで中味は全々同一物であるのだ此為に新小説を十三 年も主幹した後藤宙外氏は責を引いて退社し泉鏡花氏又新小説を去る等の紛 擾を演出したと せらるヽに至つた、 (…) ▽詐欺の真相 記者は春陽堂の二階に本多直次郎氏を訪ねた[、 ] 氏は 今回 後藤氏の後を 受 けて新小説の 万 事を引 受 けた春陽堂の 大番頭 だ、 本多氏が 云 ふ には、新小説新年号の原稿 締 切 は十一月三十日 で、 「枷」の原稿は十一月 四五日 頃 真山氏 自身 に ( ママ ) 持 つて 来 た、 勿論 新作と 云ふ 話だから二十 字 二十行即 ち四 百 字 詰 四十五 枚 の 割 に原稿料を 払 つた、 一 枚八 十 銭 で 卅 六 円 であつた、 然るに十二月十四五日 頃 私 の 方 では 知 ら ん で 居 たが真山氏の 弟弟 子 岡 本 霊華 氏が 来 て、 実 は「枷」は 既 に「子供」と 云ふ 題で太陽の十二月号に出た[、 ] 真山 君 の 考 へ で は 「 子 供 」 は 太 陽 の二 月 号 へ載せ る為に 書 いたのだが 急 に十 二 月へ出たから、 「枷」を新年号に出すことは 見合 して 貰ひ たい、真山 君 は最 初 から 「枷」 は後から引代へる 積 で代りの小説は 既 に 半分 許りも出 来 て 居 るか ら三四日 待 つて 呉 れとの事でした ▽宙外氏の退社 併 し 既 に其時 分 は二 万 部からの 印刷 を 終 つて 製 本にもか ヽつて 居 り 且 新年物で時日も 切 迫 して 居 たから 如何 ともすることが出 来 なか つた 私 初め 後藤宙外も取代へ 得 れ ば 取代へたかつたのだが 右様 の次第で真山 氏の 不徳 を 憤 り 乍 らも 不体裁 なる新年号を出しました、 其時に 店 では 損 にな るから取代へられ ぬ と 云 ひ 後藤氏は 何 でも取代へようと 云 つて為に後藤氏が 退社するに至つたな ど ヽは 大 なる 間 違 で、 後藤氏泉氏の退社の 理由 は 別 にも あるが 夫 は 申上げ る 限 でありませ ん

(3)

▽風葉門下の悪徳 次 に太陽の文芸編輯員中原青蕪氏を訪うて話を聞くと (…) 後藤氏が春陽堂を止めた遠因は春陽堂の嗣子静子の養子さんと後藤氏と 意見が合はぬ即ち店と編輯の衝突で前々からあつたんだが今度真山の原稿を 取代へると損になるとて店の方で承知しなかつたもんだから是をキツカケに して後藤氏は止められ泉氏も後藤氏に附いてやめたのだと本多氏から内々聞 いたやうに思ひます 注記  「新小説」編輯局退任に関し、 「東京朝日新聞」の報道を追加した。 典拠は紙面四段におよぶ長文のため、宙外鏡花に関わる部分のみを摘記したが、 引用を省いた後半には、小栗風葉の「弟弟子新潮記者中村泣花氏」 (=中村武羅夫) の語るところが録されている。 この記事については、 野村喬 『 評伝 真山青果』 (リブロポート、 平成六年十月二十日) の第二章 「自然主義時代」 に詳しく、 一月十四日付 「国民新聞」 にも青果の罵倒 記事の載ったことが紹介されており、報道に関し、 「東京朝日」記者の「旧硯友社 系の風葉一門への侮蔑の目があるように感じられてならない」とする。 文中、 「太陽」の中原青蕪の談に宙外の春陽堂を辞めた「遠因」とされる「春陽 堂の嗣子静子の養子さん」との「衝突」は真偽を審かにしない。 和田静子 (明治二十四年三月生) は、 創業者和田篤太郎 うめ夫婦の孫。 うめの 連れ子のき 、 ん 、 が嫁いだ小林直造の長女で、和田家の養女となり、篤太郎歿 (明治三 十二年三月二十四日) 後に主人を継いだうめの亡くなった (三十九年十二月二十一日) のちに三代目になったが、 大正三年一月十九日、 二十三歳の時に今村利彦を婿に 迎え、 爾来利彦が業を継いだ。 明治四十四年当時 「養子」 があったことを確認で きないため、 今後調査をする必 要 がある。 また 「年 譜 」 にも記したが、 この一年 前の四十三年一月 七 日付 「やまと新聞」 (一面) の「 そ の面 影    泉鏡花氏」 の 末 尾 には「氏 最近 に春陽堂を退き、 専 ら創 作 に 従 事中。 」と報じられており、この当 時の鏡花と春陽堂 (「新小説」編輯局) との関 係 についても一 考 を 要 する。 なお、 本 多直次郎 ( 嘯 月) の談話中に 「新小説新年 号 の原稿 締切 は十一月三十日」 、 青果の原稿 料 が四 百字詰 「一 枚八 十 銭 」、また「新小説」の 印刷 部 数 「二 万 部」と あるのは、 雑誌 編輯に関して、一つのめやすになる 証言 である。

大正十二年(一九二三)

癸亥

五十一歳

九月

一日

生の関東大

震災

では、

類焼

避け

、下六

番町

の自

れて

見附

くの

公園

で二

昼夜

過ご

し、

のありさまを

罹災

記「

露宿

って、

月十月

の「女

」(

印刷

本九月

日、

日十月一日)

「文

壇名

遭難

記」の一



として

した。

中に、

二が

赤坂

執筆

中の

番町

って

有島

家に

った

か、

代も見

に訪れて、自

のある

った。

三日に

後、

太郎、

吉井勇

久保

太郎らが見

に訪れた。

四日

以降

子を「十六

」に記し、

月一日から

日まで「東京日日

新聞」

夕刊

に連載した。

この

で、当時

鎌倉在住

の鏡花門人

寺木定芳

の夫人(本

子。

明治二十九年

月二十

日生、

年十月十

。もと新

優衣川孔雀

)は、家の倒

壊火

い、三人の子のうち二人を

くした。

二十日付「

読売

新聞」の「文

人の

消息

」に「泉鏡花

には

まで

たが

類焼

れた。

」と報じられた。

二十一日付

神戸又

新日報」

面)

には、

小山内

の談として

「泉

ママ )

家が

れたので、

葉山人の一

を小

へて、

有島

の家の倒

れた

を伝はつて

逃げ出

して

かり、

と報じられ、

日付

「大

(4)

朝日新聞」夕刊(二面)にも同様の記事が載った。

典拠 3  穴倉玉日 「 露宿 を読む 泉鏡花と関東大震災  」(泉鏡花研究会編 『論集泉 鏡花』五集、和泉書院、平成二十三年九月二十日) なお、この後に記された岡田八千代の来訪について、 『新編 泉 鏡花集』別 巻二の年譜には九月三日の鏡花の帰宅後のこととして記載されているが、 夫 の岡田三郎助の女弟子に提灯を持たせていることから夜間の訪問とみられる こと、 また これから又渋谷まで火を潜つて帰る とあることから、 八千代 の来訪は火が鎮火する三日以前、 しかも鏡花がまだ 番町の家から四谷見附の公園に避難する前であり、 少時すると とあるように先の里見の訪問からさほ ど時間を経ない内と思われる。 典拠 4  「文劇壇人の消息や 劇界雑誌界の を詳かに 語る 山田耕作氏や泉氏の避難談を 話 上手の小 山内薫氏が」 (「神戸又新日報」 大正十二年九月二十一 日 七面)*活字の大きさは均等とした。 前に小山内氏及び谷崎氏を訪へば谷崎氏と小山内氏 はキヤビンが隣同志 (ママ) なので谷崎氏のキヤビンに記者 を招じた。 そして 谷崎氏は如才も無く瀟洒な洋装をした令 妹葉山三千子さん及び及 (ママ) 夫人を記者に紹介して後震 災当時東京湘南方面に居て罹災した文壇劇壇の人々 の消息を交々に物語つた小山内薫氏は 『私は罹災当 時大阪に居ましたが家族が心配なので単身船で東京 に急行し漸く 姉と妹 と を連て来ました。 之れから大阪天王寺 悲田院町の中山太陽堂の弟の家は [ に] 落ち着く筈にして居りますが、 山の 手は兎も角下町は御話になりません (…) 今度プラトン社では此の震災に関し た 各 文壇の人 達 の書いたものを集 め て 単行 本 を 出 す 相 で、 芥川龍 之助 (ママ) 、山 本有 三、 長 田 幹彦 [、 ] 吉 田 絃 二郎、 泉鏡花等の 原稿 を 預 かつて来しまか [ました] が 、 皆 あんな 騒ぎ の中で 良 く 書きましたよ、 (…) 泉は家が 潰 れたので、 漸く 紅 葉山人の一 軸 を小 脇 に 抱 へ 典拠 1「女性」広告(「大阪朝日新聞」大正十二年九月十七日付三面) 典拠 2「女性」広告(「読売新聞」大正十二年十月二十一日付三面)

(5)

て、 有島君の家の倒れた塀の上を伝はつて逃げ出して助かり里見は妻君と子 供を 子に置いて溜池の例の 定宿に 陣 取つて居た処か [が] 之 も家が潰れて下敷になつたが幸に巧く 逃げ出しましたが、 細君の方は 子で梁に、 右腕を押潰されて近所の植木屋 に鋸で梁を引切つて助けられ子供は遊びに出て居て無事だつた相です (…) 』 典拠 5  「無事の家族を連れ 谷崎、 小山内氏等神戸へ 文壇、 劇壇の種々な話」 (「大阪朝日新聞」大正十二年九月二十一日付夕刊 二面) 震災と同時に箱根から大阪へ逃れて来て家族の安否を気遣ひ再ひ [び] 横 浜 に赴いた谷崎潤一郎氏や又当時大阪にゐた小山内薫氏等の家族岡田八千代女 史達は二十日午前十一時半神戸に入港した郵船上海丸で神戸にやつて来た、 小山内氏は語る 私は震災当時大阪にゐましたが家族や仕事の事が気遣はれますので東京に 行きいろ  関係方面の消息を探つた (…) 泉鏡花先生は最初の一揺れと同時に恩師紅葉山人の一軸を大事さうに持つて 黒板塀を乗り越して逃げ出したとの事、この外大分珍談があるらしい 注記  「年譜」 で は、 「露宿」 掲載誌 「 女性」 の印刷納本日のみを記したが、 発行日を 追加し、 岡田八千代の訪問を三日としたのを、 典拠 3 の穴倉氏の論文によって、 里見弴の来訪の後のことに訂正し、小山内薫の談話の内容を補った。 「女性」十月特別号 (第四巻第四号) は、震災のための特別編輯で、広告は典拠 1 の九月十七日付のものが一番早いが、 見る通り、 この時点で 「露宿」 を含む 「文 壇名家遭難記」 は 示 されていない。 実際 発 売 された号 (典拠 2 ) は 「文壇名家遭難 記」 (一 九三 頁 ) 、「震災論 叢 」(二 三 六頁 ) 、 森 田 草平 「 輪廻 」 以 下の本 欄 (二  一九二 頁 ) の三 部 からなり、 各 々に ノンブル がある。 後 ろの ほ うが先に編輯の 終 っ ていた分で、震災関連の文 章 を 順 に前へ置いていったのである。 「露宿」を含めた 「文壇名家遭難記」 全 二十 のう ち 、 日付の 判 るものは、 掲載 順 に ( 題 名を 省 く) 、 吉 田 絃 二郎 (十一日) 、加 能作 次 郎 (十二日) 、 里見弴 (十四日) 、 柴 田 勝衛 (十 五 日) 、 広 津和 郎 (十三日) 、 長 田 幹彦 (七日) 、木 村荘太 (二十一日) 、 中原綾 子 (十日) であ り、 末尾 に 「九月二十一日大阪 天 王寺 にて」 とある木 村荘太 「震災 罹 災記」 が お そ らく最後に入 稿 された 原 稿 であろうから、 発 売 日は典拠 1 の広告の 「二十日」 ではなく、発行日の十月一日に近い日であったと 思わ れる。 九月二十日に上海丸で神戸に 着 いた小山内薫の談話は、 地元 神戸の 「神戸又新 日 報 」 の記事が最も 詳 しく、 引 用 を 省 いたが、 同 紙 面には 「 焦土 の 都 から」 と 題 し、 甲 板上で 撮 った (右から) 谷崎潤一郎、 同 夫 人 令嬢 、 葉 山三千子、 小 山内薫、 岡田八千代の 並ぶ写真 が掲げられている (典拠 5 も同 じ ) 。 談話 中 、 プラト ン 社 からの震災文 集 は 未 刊だが、鏡花の 原 稿 は おそ らく「露宿」 のことであろう。 「露宿」を 読 め ば 、小山内の語る鏡花の 避 難の 様 子が 誇張 である ことはす ぐ に 判 ったは ず である。 里見の 「溜池の例の定宿」 は、 小谷 野敦 『 里見 弴伝 馬鹿 正 直 の人生 』 中 央公 論新 社 、 平 成 二十年十二月二十日) には 「 赤坂 の 待合  三島」と出ているが、 「露宿」では「 赤坂 の 某旅館 」と記されている。 同日付 「大阪 毎 日新聞」 (二面) には小山内の 「安 売 したくない 東京 俳優 結 局 は関 西 に出 演 しや ママ ) う」と 題 する 短 い談話が載っている。

昭和六年(一九三一)

辛未

五十九歳

十一月

四日、鏡花満五十八歳。

この月

(四日

前)

金沢

人同

帰郷

し、

畠藤

旅館

た。

四日の

生日には

松任

の行

麻耶

人に

参詣

した。

日には

北国

新聞」

が取

に訪れ、

日付朝刊

面)

に載った談話記事

(6)

の末尾に「十日午後七時十分発の急行で帰京の予定である」と報じられ

た。この宿へは幼なじみの能與作(明治七年七月生)が訪れ、帰京の当

日、金沢停車場まで見送りに来てくれた。

典拠  「蒸し立ての饅頭に 鏡花老、車内の恐縮 蟹 の味に郷土をなつかしむ 久振りに帰つた泉さん夫妻」 (「北国新聞」 昭和六年十一月十日付 朝刊五面) *写真の引用を省く。 金沢が生んだ美辞と麗筆を誇る日本文壇第一人者と称へられる鏡花泉鏡太郎 氏が夫人同伴で久しぶりに郷里金沢の大通りに姿を見せてゐる、 そ して金沢 の文芸愛好家から 「鏡花が子供連れで来てゐる」 と風評され子宝のなかつた鏡花にサテハとの も高い、 宿泊先の柿木畠藤屋 旅館に訪ねれば 「金沢へは四、五年振りかで来た、今度は蟹を食べたいといふお客さんを連 れて遊びに来たんだ」 と元気そうな笑ひで話す、 その蟹のお客さんこそ親類の娘で鏡花老の娘と間 違へられたお嬢さんである 「東京では全く蟹が珍らしい、殊にいばら蟹といふやつは東京で見られない、 何しろ金沢の芸妓は蟹を出すことが非常にうまいと話されてゐる程で大袈 裟にいへば料理人ですら蟹をほぢくり出すことを知らなかつたものだ、 こ ちらへ来てから毎日蟹を食つてゐるが懐かしい郷里の味だ」 と老後の食道楽そつくりな気持で 「つぐみのじぶなんかも金沢に来て嬉しい料理であるが今では歯の具合が悪 くて……しかし二つ三つはばり  やれる」 と凝つた郷土料理を讃美しながら 「金沢の街も変つたネ、家内と一緒に近江町市場でいばら蟹を見つけて買ひ 附近で饅頭の蒸し立てを見て懐かしくなりそれも買つて電車に飛び乗つた ところ方向違ひの浅野川行だつたので困つた、 それに買ひ立ての饅頭から ムク  と湯気が立つので乗客から笑はれ逃げるように降りてタクシーで 帰つたりなどしたハ……」 郷里に帰つた鏡花老が金沢で 落 とした ゴ シ ツ プ としては何と食道楽らしい嬉 しいものを 感ず るではないか 「 粟ケ崎 の 浜 や 夢香山 にも 登 つてみたが懐かしみ 多 いものがあつた、 私 の 少 年時 代 の家は 下 新町で今の 森八 さんの 住宅 あたりだと 思 ふ 上 の方が大 き く 拡 がつた 伝説深 い 楓 の木があつたがあれはどうなつたらう」 と 幾多 の 小説 にも 書 かれた 少 年時 代 のありし日を 偲 ぶ 如 でもあつた 「今度金沢へ来る気になつたもの ゝ 一つに 母 が 私 のまだ 腹 の 中 にゐるころ 松 任 町附近の 成 にある 麻耶天 に 安産 を 祈 つたことがあるのでそのお 礼 に 詣 り たかつたのです、 私 の 誕 生日である四日に 恰 度 参詣 して き ました」 と六十年後になほ郷里に引 き つけられる 心情 を 洩 らした 「金沢は 静 かでよいところだが老後を 永 住 する気にもなれない東京では近 頃 はただその日を送つてゐるに 過ぎ ません、 相手 があれば 将 棋 ぐらひが近 頃 の 趣 味です、 散歩 も 最 近は 犬 に恐ろしくなつてから出ません、 酒 は 晩酌 一 本といふところで先日も 酒 の 座談会 なんかに引出されましたよ」 と文芸家らしい笑 顔 で郷里の懐しい話が 続 けられ 思 ひ出の出 身校 である 馬 場 小 学校 や北 陸英 和 学校 などのことに話はつ き なかつた、 な ほ鏡花老は十日午 後七時十分発の急行で帰京の予定である(写真は 昨 日藤屋旅館にて) 注記  「年 譜 」 で は、 泉鏡花 記念 館 蔵 の能與作 宛 書 簡 (昭和六年十二月十 九 日付 〔 年月 推 定 〕)

(7)

により、 発信の前月十一月の帰郷を記したが、 右記事により夫人の同伴、 松任成 の麻耶夫人参詣、十日の帰京予定等を補うことができた。 右記事は、第五十二回泉鏡花研究会 (平成二十一年十一月二十二日、於金沢市近江町 交流プラザ) での秋山稔氏 「鏡花と金沢 最終作品 縷紅新草 の背景 」と 題 す る発表において初めて紹介された (のち、 同氏の著 『 泉鏡花 転成する物語 』梧 桐 書 院 、 平成二十六年四月二十四日、に「 縷紅新草 招魂の機構」として収録) 。 談話中の 「親類の娘で鏡花老の娘と間違へられたお嬢さん」 は、 おそらく 「山 海評判記」のお李枝、 「貝の穴に河童の居る事」の「娘」のモデルに当る人物かと 思われるが、いまだ特定するに至らない。

昭和十三年(一九三八)

戊寅

六十六歳

七月

一日から、

「伊井蓉峰追善興行」

歌舞伎座四番目狂言として

「湯島

詣」

(五幕、

巌谷三一脚色、

久保田万太郎監督、

小村雪岱舞台装置)

上演された。

この上演に際し、

「湯島天神境内の幕切」

のほか、

相当部

分を書き加えた。

配役は、

ママ

月梓=柳永二郎、

蝶吉=花柳章太郎、

龍田=

大矢市次郎、綱吉=英太郎、龍子=市川紅梅、女易者千原数子=喜多村

緑郎、芸者歌千代後に歌枕の女将おうた=河合武雄ほか。七日付「都新

聞」

(朝刊七面)

には、

上演に当って鏡花の与えた

注意

を紹介する記事

った。

典拠  「これはいい話で せ うが ‥‥ 恩師 を 憶ふ 鏡花氏 紅 葉 を 焚 くなと 湯島 詣 の演 出 に 註文 」 (「都新聞」 昭和 十三年七月七日付 朝刊七面) *文 中の 仕 切 りの記 号 を「 * 」に 変 える。 泉氏は 昔 から 文 筆 にた づ さはる者として 「天神 様 」 尊崇 の 念深 く同氏原作 「 瀧 の 白糸 」に 出 て 来 る「 卯辰橋 」 も実 は天神 橋 で、 古 い「 瀧 の 白糸 」では天 神 橋 として上演された も の もあ るが、 最近は泉氏の 希望 により 「 天神」 の 名 を 避け て「 卯辰橋 」と 称 して ゐ る * 今度 の 「 湯島詣」 に も 湯島天神の境内が 出 るが、 プ ロ グ ラ ム が 粗末 に 扱 は れた 場 合、 天神とい ふ 活字 が 必然見 物の 足 に 踏 まれたりするのが 勿体 ない とて 時 に天 神と い ふ 二 字 を 使 はないようとの 注意 が あ り 「湯島境内」 と し た * なほこれは泉氏の 細 かな 師 弟 の 情 を語る 佳 話で あ るが 「湯島詣」 の 脚色者巌 谷氏が泉氏を 訪ひ打 合 せ をして 扨 帰らうとすると、 泉氏が 態々呼び とめて 「境内の 場 で 落 葉 を 焚 くと あ りますが、 も み ぢ は 焚 かないで 下 さい ね 」と言 つ た、 巌谷氏 も 一 寸 その 意 味 が分らなか つ たが 「 も み ぢ 」は 即 ち「 紅 葉 」で 泉 氏の 恩師 尾崎 紅 葉 の 名 で あ る、 泉氏は 恩師 の 名 に 因む 紅 葉 を 芝 居とはいへ 焚 くに 忍 び なか つ たのだ 注 記  「年 譜 」 で 「六幕」 としたのを、 歌舞伎座 筋 書 ( 昭和 十三年七月一日) によって 「五幕」 に 訂正 し、 その 他 「伊井蓉峰追善興行」 、 監督、 舞台装置、 河合武雄の役 割 等を補い、さらに「都新聞」の記事を加えた。 昭和 七年 八 月十五日に 歿 した伊井蓉峰の七回 忌 追善興行の番 組 は、第一「 口 上」 、 第二「 己 が 罪 」、第三「 豪雨 」、第四「湯島詣」だった。 「湯島詣」の上演は鏡花 存命 中、 今 のとこ ろ 十三回を数える。 明 治 三十 九 年 九 月 の大 阪 朝日座の初演は、 小山内 薫 が「 劇 となりたる鏡花氏の小 説 」 (「 読売 新聞」 明 治 四十一年六月二十一日付 六面) で「 湯島詣 が 三枚続 と 綴 り合はされて、 大 阪 の朝日座に演 ぜ られたとい ふ 話は 嘗 て聞いて ゐ たが」 云 々 と 述べ ているよう に、 「湯島詣」と「三 枚続 」とを 綯 交 ぜ にした 劇 で あ った。 以 後「湯島詣」の題に

(8)

よる上演のほとんどはこの綯交ぜであり、 逝 去の前年の歌舞伎座興行にいたって 初めて鏡花は原作に沿った劇の上演に立ち会うことができたのである (もっとも畏 友喜多村緑郎のために女易者千原数子を加役するなど原作そのままの再現ではなかった) 。 この歌舞伎座興行については、 田中励儀 「 泉鏡花 湯島詣 の成立と変容」 (「日本近代文学」七十二集、平成十七年五月五日) に詳しい言及がある。

[新たな項目]

明治三十二年(一八九九)

己亥

二十七歳

六月

十日、

後藤宙外は同日付

「大阪毎日新聞」

(五面)

掲載の

文壇雑

爼」で、

『湯島詣』の単行、

「黒百合」の「読売新聞」連載、

「辰巳



談」

上演の予報とともに、世評に対する鏡花の反駁を伝えた。同じく二十五

日付(三面)の「文壇雑爼」では「泉

氏は加州金沢地方へ柳

氏は会津地方に漫遊せんとす」と報じた。

典拠 1  後藤宙外「文壇雑爼」 (「大阪毎日新聞」明治三十二年六月十日付 五面) ◎泉 、 鏡 、 花 、 氏は春陽堂より 『湯島詣』 と題する二百五十頁余の単行小説を出だ すべく又 『読売新聞』 紙上に短 『黒百合』 を掲ぐべし尚同氏が旧著 『辰巳 談』 は川上座の福井茂兵衛、 藤澤浅次 (ママ) 郎等の新俳優に依りて劇に演ぜらるゝ 近きにあらん (…) ◎泉 、 鏡 、 花 、 氏頃日世の批評家等が氏が作を評するに狂的病的 などの語を用ゐて漫罵するを一笑し偖曰く平凡普通の事を言ツて居るのが常 、 識 、 といふのであらうが例へて言へば極凪 なぎ た水の面を眺めて居ても面白くない が其所へ石を投入れるか左もなくとも何か物に激して波瀾を起すと或趣味が 始めて出て来る之れを人事の上で云へば極通常の状 態 に居る所は所 謂 常識に ふものだらうが喜 かな 怒 哀楽 の 情 が 内 に 動 いて来ると或は前後を 忘 れたり 躍 り あがツたりする 是 れは狂的と評すれば狂的に 違ひ ない。 信 州の 山 中から 茫然 ぽ つと 出 で の田 舎 者の 目 からは 都 人のする事は余 程 狂的に 見 えるかも 知 れ ぬ 。 併 し 感 情 の激 烈 であツて 微妙 な事にも 心 の 動 くのは 鈍 い方から 見 れば狂的かも 知 れ ぬ が 僕 は余 程 高 尚であると 思 ふ。 余 計 に 感 じ又 深 く 感 じた 処 を面白味を 附け て 書 くと 感 情 の 鈍 い 輩 は之れを 見 て狂的だの病的だのと罵るが 僕 は 服 し 難 い。 所 謂 名 工苦 心 のとこ ろ な ぞ は 豆腐 を 拵 へて居る者に 比 べれば 頗 る病的狂的で あらう。 勿論 僕 の作が 色々悪 く言はれるのは 写 し方に 腕 の 足 りない所がある からであらうから 此点 は 充分研究 する 考 へである。 併 し 些 事にも多くの趣味 を 感 じ又 深 く 感 ず るのを 描 いたものを 以 て狂的であるの病的であるのと評す るのには 服 し 難 い。 「 思 ふ事 積 んでは 崩 す 火桶 かな」といふ 痴 態 は常人と 雖 も 物 思 ひ に 沈 んだ 時 には現にある又 「 我 を載せて 廓 を出でよ 烏賊凧 いかの ぼ り 」 と云のも 傾城 の 真 情 を 能 く 穿 ツたものであるが 冷 い 鈍 い 頭 の人に聞かせたら狂的と云 ふのであらう。 典拠 2  後藤宙外 「文壇雑爼 (二葉 亭主 人が 時 代の 精神 と小説 論 ) 」 (「大阪毎日新聞」 明治三十二年六月二十五日付 三面) 田 、 岡 、 嶺 、 雲 、 氏は 清国 に 渡航 し泉 、 鏡 、 花 、 氏は加州金沢地方へ柳 、 川 、 春 、 葉 、 氏は会津地 方に漫遊せんとす 注記  典拠 1  2 の 「文壇雑爼」 は 『近代文学 研究 叢 書 』 第四 十三 巻 ( 昭和 女子大学近 代文 化 研究 所、 昭和 五十一年七月二十日) の後藤宙外「著作年 表 」に 記 載を み ない。 宙外が 「大阪毎日新聞」 と 関わ りをもつに 至 った 経緯 は 『明治文壇 回顧録 』 岡 倉 書 房 、 昭和 十一年五月二十日) の十 四 章 「 碧梧桐 、春陽堂初代、 幽芳 、 篁邨 等が事」 に詳しく、 明治三十一年十二月二日に、 大 橋乙羽 の 紹介 状を 携 えて 「大阪毎日」 文学 部 主 事の 菊 池 幽芳 が宙外 宅 を 訪 れ、 同紙入 社 を 懇請 したが、 東京 を 離 れられ

(9)

ぬとて謝絶、 その代りに 「客員として、 毎週一回位づゝ 文芸通信 といふやう な物を寄稿して貰へぬか、 と いふお頼みであつた。 その位のことなら、 お引受け しませうといふ事で、 その後、 四五年間、 毎週、 何か雑文を書いて寄稿したので ある」という。 「大阪毎日新聞」を見ると、三十一年十二月二十九日の一面に「紙面拡張」の実 行を掲げ、 新年から 「東京に於る知名の小説家」 広津柳浪作 「 心 中 二ッどもゑ」 の 連載と、 「文学欄」の設置が告知されている。宙外の「客員」となったことが示さ れたのは最初の寄稿「 文学欄 新設に就きて」の載った二月七日である。以後三 か月の間をおいて二回目の寄稿が六月二日の「文壇雑爼 (逍遥先生が詩人小説家の同 情と観察の説) 」、 三回目が典拠 1 となる。 「毎週一回位づゝ」 という宙外の言葉は やや誇張に過ぎようが、 東京文壇の動静を逐次伝える重要な役割を果たしたこと は動かない。 このかんに柳浪作 「心中二つ巴」 (一月十六日 四月六日) 中絶のあとを承けて鏡 花作「通夜物語」 (四月七日 五月八日、全三十二回) の連載があった。本作について は、かつて「泉鏡花作 通夜物語 のかたち」 (昭和女子大学女性文化研究所編『女性 文化と文学』御茶の水書房、平成二十年三月十八日) に述べたことがある。 典拠 1 の、 世上批評家の漫罵に対する鏡花の反駁は必ずしも理を分けたもので はないが、 三十年四月創刊の 「新著月刊」 誌上に 「作家苦心談」 を担当連載して 定評のあった宙外の聞取りだけに、 かえって鏡花の談話の実際に近いのかもしれ ない。 鏡花の談話としては、 明治三十一年の 「文家雑談」 (一月 「新著月刊」 ) 、「小 説文体」 (二月 「早稲田文学」 ) などに次いで最も早い時期のものに属し、 世評に対 する率直な反論として興味深い内容といえよう。 典拠 2 では、 鏡花の金沢行き、 春葉の会津行きを伝えるが、 今のところ金沢帰 郷は確認できず、 この年八月下旬、 報とは逆に鏡花が会津滞在中の宙外を訪ねて 書 簡 体 「 会津より」 の一文を 「 読売 新聞」 (三十二年八月二十八日 付 六面) に寄せ ている。 すでに「年 譜 」には 記 したが、本紙九月二十九日 付 (七面) 宙外の「文 界消息 」 に、 「鏡花 氏 が 令妹 」 ( 他賀 ) の 病褥 にあり、その 看護 に当りつつ 執筆 している む ね の報がある。 今回の典拠 1  2 も 含め 、 こ の時期、 東京の紙誌に載らぬ鏡花の動 静が「客員」宙外を通 じ て 関西 紙上に報 道 されていた 点 、 注意 を要する。 予 報のあった 「 辰巳 談」 は、 翌 七月一日より 横浜蔦座 の二 番 目 狂 言 (一 番 目は 「 遼 東 半島 」七 幕 ) として上 演 された。 「 福井藤澤合 同」 と 題 する 絵番附 (早稲田大学 坪 内 博士 記 念演劇博 物 館蔵 ) に拠れ ば 、上 (二 場 ) 、中 (三 場 ) 、下 (二 場 ) の三 部構 成 で、 配 役は、 小間物 売 沖 津 = 藤澤 浅 二 郎 、学 生 宮 部 鼎=柴 田 善太郎 、 胡蝶 後にお 君= 日 野健 一 郎 、新 造 お重 = 恩 田五 郎 、 舟頭宗 平 = 深 澤 恒造 、 乞食頭穴熊 = 福井 茂兵衛ほ か、 であった。 番附 左端 の 口 上には 「 永 ら く 関西 地方 に於て興行 罷 在 候 福井 茂兵衛儀 今回 久々 にて帰 浜 致 し 藤澤 浅 次 ( ママ ) 郎 と 合 同にて 開 演 仕 候 」 云 々 とある。 本興行は 現 在までに確認できる「 辰巳 談」の最も早い上 演 である。 本 公 演 の 絵番附 については、 梅山聡 氏 の御 教 示を 得 た。

明治三十三年(一九〇〇)

庚子

二十八歳

九月

この月

(二十一日以

)、

巌谷

独逸

行の

送別宴

(於

萬源楼

へ、

尾崎紅

葉、小

栗風

葉、

秋聲

らとともに

出席

した。二十二日、小

ハンブルヒ号

横浜

出帆

した。

典拠 1  井 上 々 「文 豪 生面 記 尾崎紅 葉」 (「中 央 公 論」 三十八年三 号 、大 正 十二 年三月一日) 紅 葉 山 人に初 め て対面せるは、 小 波 先生が 元 園町 の 旧居 、 楽天居 に 催 され たる 紫吟社句 会の際なり、 羅蘇 山 人に 誘 はれ、 永 井 荷 風 と 共 に 赴 く 、 坐 に泉

(10)

鏡花、 小林蹴月、 谷活東、 齋木菊雨、 星野麥人、 大田南岳、 黒田湖山、 生田 葵山、 柴 田流星、 藤井紫明の諸氏綺羅星の如く居列び、 当時一学徒に過ぎざ りし予は心自ら臆せざらんとするも得ず、 末 席に扣へて、 高説を拝聴せり。 僥倖にして句相撲に優賞を得て、 新参忽ち面目を施す、 乃 ち乞ふて小波先生 の門下となり、 その主宰せる木曜会の一員となれり。 紅葉山人は広額巨眼に して無髯の偉丈夫、 塩瀬御納戸無地の羽織に、 白 足袋を穿ち、 小波先生は着 流しに兵子帯の扮装、 点者として文台を前にして端座す。 紅葉山人諧謔口を 衝いて出で、 時流を 罵して痛烈骨を刺すものあり、 小波先生風貌貴公子の 如く、言説流暢にして些の凝滞なし。泉鏡花は浴衣に淀屋橋の烟草入を提げ、 宛然として職人の如し。 (…) 後に富士見町萬源楼に小波先生独逸行の別宴を 張る。会する者紅葉山人を始めとし、小栗風葉、泉鏡花、徳田秋聲の門下生、 小波先生を主賓として、その門下木曜会員数名なり、 典拠 2  江見水蔭 「文士の海水浴 ( 明治三十三 年の夏の下 )」 (『 自己 中心 明治文壇史』 博文館、 昭和二 年十月二十八日) 小波の独逸行は、 い よ  確定した。 交 際家の彼の事とて、 連 日の如く送 別会が開かれてゐたが、 自分は、 称 好塾と、 硯友 社 と、 博文館と、 三 重 に 縁 故 が 結ば れてゐる 為 に、それ ゛ に 矢 張 顔 を出した。 九 月二十二日 ハンブル ヒ号 といふので彼は 横浜 を出 帆 したが、 その日それ を 本船ま で見送 つ た 昵懇 者は( 未だ築港 前で 完全 な 桟 橋が無か つ た。 ) 帰 りに 艀 を 備 後 丸 に 寄 せた。その事 務長 は 細 川 風谷なのであ つ た。 注記  巌 谷小波の 洋 行に 関 し、 「 読売 新 聞 」の「 よ みう り 抄 」八 月 十 五 日 付 ( 四 面) で は「 独 逸 に 赴 く べき 高山林 次郎 氏は 既 記 の如く 来 月出 発 する 筈 なるが 巌 谷小波氏 は後 お くれ て十一月 頃 出 発 の 筈 なりと」 と あ っ たのが、 ほぼ 一と月後の 九 月十二日 付 ( 同 ) では、 独逸行が 「 意外 に 早 くなり 本 月二十日 頃 出 立 する 都合 なりといふ」 と あるので、 送別宴も 九 月の こ とと 推測 した。 当 初 の十一月より時 期 が 早 ま っ たの は、 八月八日に 喀血 、入 院 し、 九 月予定の 渡欧 を明年二月 ま で 延 期 する こ とにな っ た高山 樗牛 の 動静 と無 縁 ではないと 思わ れる ( 結 局 、 樗牛 の 洋 行は 実現 しなか っ た) 。 江見水蔭の 述 べ る ご とく、 交 際の広い小波の送別会は 各所 で開かれたが、 九 月 十八日には、紅葉、水蔭らが 発 起 人とな っ た送別会 ( 於 紅葉館、 午 後十時 散 会) が 催 さ れた。 八 十 余 名が参 集 した こ の会に、 鏡花は出席していない (「 漣 山人の送別宴会」 「 少 年 世 界 」 六巻 十二 号 、明治三十三年十月十 五 日) 。 萬源楼での送別宴に水蔭の出席は確 認 で き ないが、 顔 ぶ れからすると、 紅葉小 波 両 人の門下生の 集 ま っ た ご く 内輪 の会 だ っ たと 考え られる。 萬源楼は 「新 東 京 名 所 図 会 第 十 九 編 」(明治三十二年 六 月二十 五 日) の「 町 区之部 下の 貳 」に「 三 番 町 五 番 地に 在 り」 と出て お り、 『東 京 案 内 』 ( 読売 新 聞 社 、 明治三十 九 年 五 月二十八 日) にも 「三 番 町」 とある。 こ の地 番 は富士見町一 丁 目の 西隣 であるから、 井 上 の 思 い 違 いかと 思わ れる。 九 月二十二日出 発 当日の 模様 は『 洋 行 土産 』 上 巻 (博文館、明治三十 六 年 四 月 四 日) の 巻 頭 「 さ ゞ 波日 記 」に 縷々 述 べ られて お り、当時の 洋 行の 実 態 を 窺 う に足る。 洋 行に 関 する新 聞 報 の う ち、 当時小波が 北清 事 変 にちな む 「 軍 事 俳 句 披露 」の 選 に当り、 黒田湖山が 記 者をしていた 「 中 央 新 聞 」 には、 出 発 当日の 九 月二十二 日 付 (三面) に「小波先生を送る」と 題 して、木曜会の葵山、 渚 山、 荷 風、 々 、 鬼 川 、小 麿 、 紫 草、 南岳、 湖 山の送別句 ( 各 一句) が 載 っ ている。 当時二十二 歳 で 前年から木曜会に 加 わ っ た 荷 風の句 「三日月 や折 りから 錨 上 ぐ る 船 」は 、 岩 波 書 店版 『 荷 風 全 集 』 第 二十 巻 ( 平成 二十二年十一月二十 五 日、二 刷 ) に「明治三三 木 曜 会句会 懐紙 」として「三日月 や お りからいかり 上 ぐ るふ ね 」で 収 録 さ れているが、 右 「中 央 新 聞 」を 初 出とする こ とがで き よ う 。

(11)

なお、 最近紹介された井上 々宛 (カ) 書簡 (須田千里 「 資料紹介 井上宛泉鏡花書 簡」 「泉鏡花研究会会報」 二十九号、 平成二十五年十二月二十日) は鏡花と井上 々を含 む木曜会の面々との交流を窺うことのできる貴重な資料である。

明治三十六年(一九〇三)

癸卯

三十一歳

六月

二十日、同好観劇会(第六回)に加わり、尾崎紅葉らとともに東京

座の「金色夜叉」

(十四日初日)を観た。この回の観劇会員は四十余名。

配役は、荒尾譲介=高田実、富山唯継=佐藤歳三、蒲田鉄哉=中野信近、

宮=山田九州男、

赤樫満枝=守住月華

(市川九女八)

間貫一=藤澤浅

二郎ほか。

典拠 1  「雑報 同好観劇会」 (「歌舞伎」三十八号、明治三十六年七月一日) 第六回は去月廿日東京座で催され、 参会者は四十余名で、 人名の大 略 あらまし は左の 通 とほり だ。 (着到順) 尾崎紅葉君、 熊谷無漏君、 畔柳芥舟君、 篠原嶺葉君、 横山剣舟君、 永井天 橋君、大塚保治君、同楠緒子君、巌谷小波君、石橋思案君、加藤晴比古君、 鰭崎英朋君、 中村春雨君、 高田俊雄君、 梅若誠太郎君、 水口薇陽君、 加藤 竹三郎君、 高橋孝子君、 北 里闌 (ママ) 君、 上田敏君、 伊臣紫葉君、 鏑木清方君、 山中古洞君、 都筑真琴君、 泉鏡花君、 田中萬逸君、 内田旭君、 安田直次郎 君、安田横阿弥君、白井真如君、伊原青々園君、三木竹二君 典拠 2  「梨園叢話 しばゐだより 」 (「都新聞」明治三十六年六月十三日付 三面) ▲東京座の正劇派合同一座の狂 言 「金色夜叉」 ( … ) 本 日 惣浚 明十四日より 開 場 役 割 は 荒尾譲 助 (ママ) (高田) 富山唯継 (佐藤歳) 蒲田鉄哉 ( 中野) ( … ) 鴫 澤 峰 三、 西洋 人 フツト マ ン (五 味 ) 鴫 澤 娘 宮 後 に富山 妻 宮 (山田) 赤樫満枝 (守住) 間貫 一(藤澤) 注記  同好観劇会は 「 外 君の 浦島が塲 に上るを 機 とし、 歌舞伎 発行所 で同好 看 (ママ) 劇会 なるものを 組織 し、 そ の第一回とし て 一月十一日に市村座を 見物 した」 (「歌舞伎」 三十三号、 明治三十六年二月八日) のに 始 まる。 「 外 君の 浦島 」と は 『玉篋両浦島』 (歌舞伎 発行所 、明治三十五年十二月二十九日) で、 以後 、第二回 が 二月十五日 (明治座 「 オセロ 」) 、 第三回 が 三月二十三日 (歌舞伎座 「花 盛 劇 楓 葉 はな ざ かりか ぶ きのも みぢ は 」 他 ) 、 第四回は 休 会、 第五回 が 六月七日 (明治座「 江戸城 明 渡 」「マ アチヤ ント オヴヴエニス 」) であ っ た。 紅葉 「十千 万堂 日 録 」の 当 日の 項 には 「 〇 時卅分樺嶋母 横尾 叔母菊 子と 車 を 聯 ね て 東京座 や まとに 趣く 。 夏 葉 先在 り。 樺嶋父及び 川 喜多遅 れ て 到る。 」とあり、 一 族 って の観劇だ っ たこと が 判 る。 そ の 模様 は「 八 分 の大 入也 。藤 沢 部屋 に て 始て 高田実佐藤歳三に会 ふ 」ともある。 紅葉は観劇 後 、典 拠 1 の 「歌舞伎」 誌 上に 談 話 「東京座の金色夜叉を 見て 」を 寄せ 、「 今度 東京座の金色夜叉は、 自 分 が塲 割 をし て 、座 附 の 岩 崎 舜 (ママ) 花子 が 筆 を 執 ると 云ふ事 であ つ たのに、 蓋 が 明 い て見 ると、 あの通り 筋 を 壊 し て 、 怪 しから ん 者にし て 了 つ た」 と 憤 りな が ら、 俳優 の 演技 に つ い て は「 自 分 は 今度 始て 高田を 見 たのである が 、 聞きしに 差 た が は ぬ 上 手 で、 荒尾の 出来 は 百点 の満 点 を 与へ て 差支 な い 。 之 を 彼 の 夏 小 袖 の小 (ママ) 島 のお 染 と 両 々 相対 し て 、新 演 劇の 双璧 と 謂 ふ て も 可 なら ん 乎 。」と 述べ た が 、 前 日に 門生 三名 (山里水葉、 篠山 吟 葉、 北 嶋 春石) を東京 座に 遣 わした 彼 はまた会 津 の 後 藤 宙 外 に「 脚 色 拙劣 、 本 文打 壊 しに て 迷惑 に 御 座 候 」(十九日付) とも書き 送 って い る。 紅葉は 前 々日十八日に「 場 所見 をか ね て 茶 や 大 和 に 趣 」き、 「三 時 頃海岸別 より 暗 打 まで 見て か へ る」 が 、 帰宅 後 「鏡花 生来 り、 宙 外 氏 より 寄 贈 せ る 換草 [果] 「 御 信 心 」の 一 を 持 来 る。 昨 日 松 本 氏 と東京座 見物 せ しと て 其 話 有 り」 ( 前出

(12)

「十千万堂日録」 ) と記されていることよりすれば、 鏡花もまた、 十七日と二十日の 両日東京座に通ったことになる (十七日の観劇は「年譜」記載済み) 。 なお、 喜多村緑郎は鏡花逝去後のインタビュー記事 (「都新聞」 昭和十四年九月九 日付 朝刊七面) で、鏡花と出会う以前の大阪時代のことを語って、 「当時私は文学 青年で泉さんのものは特に熱読してゐました、その後高田は一度上京しましたが、 又大阪へ帰つて来たときに 君にいゝお土産を持つて来たよ といつて金短冊を 私にくれました 金色夜叉 を上演した頃のことで、 何でも東京の稽古場に紅葉 さんが見えられ、 そのお供に風葉さん、 鏡 花さんがゐた、 君の鏡花気狂ひを思ひ 出したので泉さんに短冊を書いて貰つて来たといふのです、 迚も嬉しかつたです ね、その短冊は震災までありましたが[、 ]秋の雲尾上の薄そよぐなりだつたか見 ゆるなりだつたか、 とも角早速鏡台の上へ飾つたところ、 誤つて紅をこぼしてし まひ、 それが短冊へも飛んで血の様です、 それを又みんなで鏡花調だと喜んだこ とがありました」 と述べている。 紅葉とともに楽屋を訪問した鏡花から高田実が 揮毫の短冊を得たのはおそらく二十日であろう。 鏡花の句は 「秋の雲尾上の薄見 ゆるなり」が正しい。鏡花の愛吟で、多数の色紙短冊への揮毫がある。

明治三十六年(一九〇三)

癸卯

三十一歳

八月

二十六日、病中の尾崎紅葉を見舞った。当日は他に、小栗風葉、徳

田秋聲、半井桃水、星野麥人、三宜亭主人西尾ら合せて十余名が見舞に

訪れた。

三十日、斜汀とともに白屈菜の採取にむかった。

九月

六日、喜久夫人に代って徹夜で紅葉の看護にあたった。以後、八日、

十一日、十三日、十六日、十九日、二十二日には、他の門弟とともに夜

伽をし、二十七日にも見舞った。

十月

十四日、

十九日、

二十一日に紅葉の夜伽をした。

二十三日の夜

(カ)

には、前日の夜伽の模様を斎藤松洲が画き、村上麻

、高久佐

、斜汀、

風葉、秋聲が署名(および句書)した「十千万堂病室俯瞰之図」の余白

に文を認め、紅葉の句「

すれ

や長

夜のうつゝ

たり」を書した。

二十

日にも夜伽をし、二十八日、

夜に病

伺候

した。

典拠 1  原生 〔原抱 一 庵〕 手 記 「 尾崎紅葉君の病屋を訪ふ」 (「東京朝日新聞」 明 治 三十六年八月二十八日付 七面) *〔 〕内引用者 。 ▲臍心 を中 央 にして四 方 五 寸 ばかり 塊肉 の 隆起 あり。 ▲精神 に 異状 なし、 談弁滔々 、 対客却 りて 辟易 せしめらる。 ( … ) ▲ 令閨 は 昨 まで七 昼 七夜、一 睡 せられ ず 。 ▲ 玄関 に 机 を 据ゑ居 れるは、 藻 ○ 社 ○ 中の人、 山里 水葉、 北島英 一( 春石 )の 両 君なり。 ▲ 一 昨 日( 二 十 五 日) の訪問 者 を 順 記せば、 高田早 苗 、大 橋 新 太 郎、 竹 ( ママ ) 内 桂 舟 、 巌谷 小 波 、 石橋 思 案 、 苔 花、泉斜汀、他知 友 合せて十 五 人。 ▲ 昨 日のは泉鏡花、 小栗風葉、 徳田秋聲、 西尾 (三宜亭主人) 半井桃水、 麥 人、他合せて十一二人。 ( … ) ○附 記。八月二十六日夜九時十 分 前 往 訪、十時十 五 分 前 辞 去。 尾崎夫 妻 に面会せ ず 、水 葉 、 春石 、 両君によりて以上のことを聞知せるな り。 典拠 2  山里 水葉 「十千万堂日 誌 」 ( 木 谷 喜 美枝 『 尾崎紅葉の 研究』 双 文 社 出 版 、 平 成 七年一月十八日、 の 翻刻 による) *〔 〕内 引 用 者 。 / は 改行 。 □ は 原 文の 判 読 不能 箇所 。 〔明治 三十六年 〕 九月六日 晴 ( … ) 夜小栗君より 使 、 横 尾 氏 令閨 、 篠 山 、 遅 く / 鏡花君 参 る 昨 徹夜の 奥 様に

(13)

代りて看護/白屈菜の版下を書く二六新報に掲載の為也/鏡花君の依頼石橋 氏責任を負ひて広く天/下の人に求むる由 (…) /八月三十日/早朝春石は王 子へ吟葉は目黒へ鏡花/斜汀の両君も場所を選定して採取に向/へり (…) / 夜鏡花兄と共に徹夜して御看護 (…) 八日 くもり夕少雨 (…) 夜くさ紅葉の校正鏡花兄吟葉と徹夜/にて御看護 (…) 十一日 涼大ニ甚しくもり夜雨 (…) 夜鏡/花風葉秋声の三兄お伽 (…) 十三日 雨後くもり (…) 夜鏡花秋声両兄お伽、午前二時帰る (…) 十六日 前徳田秋声/小原芳郎/後岡田朝太郎/夜風、鏡、秋、 (…) (十九日) (…) 夜 安川氏/鏡花/風葉 (…) (廿二日) (…) 一時頃より鏡風両兄参る、お伽 (…) 二十七日 (…) 小波/小泉/中華亭/木沢/鏡花 (…) 〔十月〕十四日 (…) 夜玄関に集る者鏡、 風 、 吟 、 流 、 前 に/三田村玄龍氏予と春石と合せて 都合/七名お伽す (…) 十九日 (…) 鏡岡秋三兄お伽、 (…) 廿一日 (…) お伽の人々鏡風吟と予と也 (…) 廿三日 (…) 前夜席上松洲画伯揮毫の御肖像/髣髴として先生也風葉秋声斜/汀お伽 にて各々句あり (…) 鏡花風葉春鴻吟葉流霞五兄夜/伽 (…) 廿五日 藻社□□来会者鏡、 風 、 秋 、 嶺 、 / 雨、 苔、 流、 鴻、 斜、 麦、 内三人/憲法 を定む (…) /お伽、鏡、風、春、嶺、流/春兄お目にかゝれず (…) 廿八日 (…) 鏡風春流の四兄既に伺候す/先生はすや  とお寐みに□れり 典拠 3  「十千万堂病室俯瞰之図」 (岩波書店版 「紅葉全集月報」 12 別巻附録 、平 成七年三月) *同 『紅葉全集』 第十一巻、 平成七年一月二十六日、 の口絵 (カラー写 真版) を翻字したもの。 後馳に伺候して (卅六年十月廿二日夜十二時) 村上 秋の雨人も通らぬ大路かな 麻知 斜汀





汀 昼よりの秋雨夜に入りて風さへ吹きそひいぶせ さいふばかりなき折から松洲氏の席画など御覧 じあらせられてわづかに御悩紛らせ給ひつゝあ りしも夜深けて少しく ま ど ろま せ給ひければ一 同 次 の 間 に 退 き 風 葉

(14)

火桶に額を集めて 罨法のこんにやく茹る夜寒かな 風葉 二十三日午前一時 端坐して秋の雨聴く夜伽哉 秋 声 秋声 鏡華 川[小] 史 当夜は人々とゝもにおん枕辺にかしつきたてま つるへかりしが豊春か宿直の番なりしためまゐ りあはさず をりからの雨に寝もやらで先生の おん俤見るが如く諸氏のひそめく声も聞くが如 くなりし一夜 床すれの御句は此の画帖におんしたゝめあらむ とのお言のよし 此事遺憾やる方なしと風葉子 が切に求めらるゝまゝ予て手習せよ  と叱ら せたまひし予が拙き書の恐多けれどつゝしんで こゝにしるしたてまつる 床すれや長夜のうつゝ砥に似たり 鏡花謹識 紅葉 山人 高久佐都 高久 注記  「十千万堂日録」の記載が途絶える七月下旬以降、十月末の紅葉逝去までの見舞 の状況を「読売新聞」記事、山里水葉の「十千万堂日誌」により補った。 典拠 1 は、 逝去二か月前の原抱一庵の見舞記事であるが、 紅葉の病態に関して 「塊肉の隆起」を記したものは珍しい。見舞客のうち「三宜亭」は良く知られる上 野公園内の貸席ではなく、 牛込矢来町の料理仕出しの店ではないかと思われる (「読売新聞」明治二十二年十二月二十七日付 四面の広告) 。なお、抱一庵は、七月二十 九日にも見舞に訪れ (ただし面会せず) 、 そ の日に認められた紅葉の葉書の文面を 「文壇週報」 (「東京朝日新聞」明治三十六年八月三日付 六面) で紹介している。 「十千万堂日誌」をものした山里水葉は紅葉「十千万堂日録」の記載によれば明 治三十四年一月二十九日に初出の紅葉晩年の門弟で、 中央公論社版 『尾崎紅葉全 集』 第九巻 (昭和十七年九月十五日) の柳田泉氏の註には 「 山里弦次 郎 、画 号玄 崖 (小 堀鞆音 弟子) 、 後 水葉。 」 とあるが、 これより 詳 しい 履歴 は 判 っていない。 「十千 万堂日誌」九月六日の 項 に、 「二六新報」に「 白屈菜 の版下を書く」としているの は、 右 の画 歴 あるがためであった。この「版下」は九月八日付 (三面) 掲 載「紅葉 山人と新 薬 」の 記 事 の 挿絵 となった。 文中に 「 白屈菜 くさのわう は 本草綱目 にも載せありて 腫物 を 消 す 旨 を記るしあれば 今回 独逸 にて 発 明せし 胃癌 の新 薬 と 成分 の一 致 せる も 偶然 にあら ざ る べ し」とあり、 根 と花と葉の 図 を 添 えている。 「 白屈菜 」 のことは、 三十六年九月十七日付の前田 曙 山 宛 紅葉書 簡 (小 栗 風葉 代 筆 ) にも 「四五日前より 白屈菜 より 製 したる新 薬 相用 ゐ 居 り 候 二三週 間 も 連用候 は ゞ 多 少 効験 も 相 見らる べ きかと 存じ 候 」と あ る 。そ の 後 、 同紙 九月二十六日付 (三面) 「紅葉山人と 白屈菜 」 にも報 じ られ、 雑 誌では 「新小 説 」 (八年十一巻、 十月 一日) が 鰭 崎 英朋 の 彩色 の 挿絵 に前田 曙 山 「 くさのわう」 、 鏡花の 「 白屈菜 記」 を 載せ、 また 「文 芸 楽部 」 (九巻十三 号 、 同 ) の「 文 界 彙 報」 の 「尾崎紅葉氏の病 况 」

(15)

等、 各紙誌で重ねてこの薬草の周知をはかり、 採取を呼びかけたが、 すでに病篤 く、効験は叶わなかった。 典拠 3 の図のことは、 典 拠 2 の十月二十二日の項にも 「 夜松洲氏を電報にて呼 ぶ」 「伽は松洲氏を初め風葉秋声、斜汀」 「席上画などありたり」と記されている。 画に日付を欠くので、 いつ 「謹識」 したのか定めがたいが、 画の出来た翌日の夜 伽の際に認めたとするのが自然であろう。 「床すれや」の句は、典拠 2 には、二十 一日に紅葉が詠んだ句として記録されている。 この図の最初に署名した「村上麻知」は、紅葉の愛妓として知られる「小えん」 の本名。 「十千万堂日録」にしばしば「村上」と出てくる。巌谷小波は、紅葉歿後 に山形県選出の代議士伊東知也 (明治六年四月十日生、 大正十年十一月二十六日歿) の 夫人となり、 そ の夫を亡くした彼女に、 先師杉浦重剛の法会 (大正十五年二月十三 日の三回忌法要カ) で再会したという (『私の今昔物語』 早稲田大学出版部、 昭和三年十 一月一日) 。「高久佐都」は、当時掛かりつけだった木澤病院の看護婦。紅葉歿後の 三十七年六月二日に柳川春葉と結婚し、千枝子、数彌の二子をもうけた。

明治三十八年(一九〇五)

乙巳

三十三歳

十月

十日付

読売新聞」

(一面)

「よみうり抄」

「大坂

(ママ)

時事新報の

依頼により長



小説を草しつゝあり」と報じられたが、同紙への掲載は

実現せず、翌年一月一日から「大阪朝日新聞」に「式部小路」が連載さ

れた。

典拠  「よみうり抄」 (「読売新聞」明治三十八年十月十日付 一面) 文界片々 広津柳浪氏は大阪朝日新聞の依頼に応じ長 小説執筆中なりと △泉鏡花氏は大坂 (ママ) 時事新報の依頼により長 小説を草しつゝあり 注記  本記事は、小栗風葉作「青春」の「夏之巻九の三」と同紙面。 「大阪時事新報」 のかわりに、 柳浪への依頼があったという 「大阪朝日新聞」 への連載が実現した のである。 「式部小路」は「三 枚続 」 (「大阪 毎 日新聞」明治三十三年八月九日 九月二十七日) の 続 編 だが、 両編 とも大阪の新聞に連載された。 「大阪時事新報」は、この報 道 の 約 七か月 前 の三十八年三月十五日、高 尾亀 を 主 筆として 創刊 、 紙名にも明らかな ご とく東 京 の 「時事新報」 の大阪 進 出である。 日 露開戦 の 好機 に 乗 じての 創刊 だったが、当時は「大阪朝日」 「大阪 毎 日」 両 紙が 圧倒的 な 勢力 をもって お り、 「 戦 時中の 号外競争 も朝 毎 両 紙にしてやられて 振 わず、 予期 した ほ ど 販 売 網 は 延 びなかった」 (小 野秀雄 「大阪 府 新聞 史 」 日本新聞 協 会 編刊 『 地方別 日本新聞 史 』昭和三十一年九月二十五日) 。 同紙 創刊 号 から広津柳浪 「二 筋 道 」 挿絵 は 渡 部 審 也カ) の連載が 始ま り、 七月二 十四日 ま での 百 三十回、 「作 者胃弱 の 為 、執 筆 意 に ま かせず」 、 前編 で連載を 打切 り、 翌二十四日から、 門 下 の中村春 雨 作「 犯 さ ぬ罪 」(十月二十五日 ま で、 全 九十二 回) 、 続 いて、み ぎ は生「 心 の波」 (十月二十七日 三十九年三月十一日、 全 百 三十六回) であった。 「み ぎ は生」は田 口掬 汀であるが、同時 期 「万朝報」に「 伯爵 夫人」を 連載中であったため、この名を 用 いたものであろう。 前 項 (明治三十二年六月十日) にも記した 通 り、柳浪は「大阪 毎 日新聞」連載「 心 中二つ 巴 」を 体調不良 のため八十回で中 絶 して お り、 この 「二 筋 道 」も ま た 前編 を 終 えたのみで 門 人の春 雨 に後を 譲 ったのである。 な お 、 上 記 「大阪時事新報」 連載の三作は、 高木 健 夫 編 『新聞小説 史 年 表 』 ( 国 書 刊 行 会、 昭和六十二年五月三十日) に記載をみないが、 いずれもの ち に今 古 堂から 鏑 木 清 方 の 口 絵 で 刊 行 されている。

(16)

明治三十九年(一九〇六)

丙午

三十四歳

一月

五日付「読売新聞」

(三面)の「文士と手蹟」で、

「鏡花の字は紅葉

そつくりなれど所謂似て非なるもの」と評された。

典拠  「文士と手蹟」 (「読売新聞」明治三十九年一月五日付 三面) △故紅 ● 葉 ● の手蹟は人も知る如く一種独特の名筆にて頗る俳味を帯び△故緑 ● 雨 ● の字は上手か下手か知らねど天下一品△柳 ● 浪 ● の字も当代文壇の珍とすべきも の殊に筆書に妙を得たり△天 ● 外 ● の字は如何と云ふに拙の方にて左上り右下り 跛文字と云ふ△鏡 ● 花 ● の字は紅葉そつくりなれど所謂似て非なるもの△銀 ● 月 ● の 字は芝居の看板式にて其顔の如くマン円 まる △ ● 外 ● 漁史の字は原稿には肉細く一 見独逸文字堅書の如くなれど普通の手紙などはこれと反対の肉太何れにして も活版屋泣かせ△逍 ● 遥 ● の字は美しくシツカリしたもの△鉄 ● 幹 ● の字は一寸風変 りにして印度経文式なり△其の御台所晶 ● 子 ● 女史の字に至りては珍無類の怪筆 にて活版屋泣かせどころか活版屋殺しなり△其他は略す 注記  手蹟の評は難しいが、 今に残っている鏡花の文字は、 少なくとも 「紅葉そつく り」とは言えず、 「似て非なる」どころか、全く別の手だという感が強い。

明治四十年(一九〇七)

丁未

三十五歳

十一月

五日、鏑木清方は鏡花作『婦系図』の装丁につき鰭崎英朋(春陽

堂内)へ葉書を送った。

典拠  鏑木清方の鰭崎英朋宛書簡 (明治四十年十一月五日付。 田中励儀 「著作目録を 作るために 泉鏡花 田中英光の場合 」「日本近代文学」 六十九集、 平成十五年十 月十五日、の翻刻による)*〔 〕内は引用者。 (明治四十年十一月五日 東京 消印) 〔宛先〕日本橋通四丁目 春陽堂 鰭崎英朋様 〔発信欄〕十一月五日 鏑木生 先日は失礼、 婦系図表紙は矢車草、 包は三世 相 と 極 め 意 匠致 すべし、 いつだ つ け か 神楽町 の泉 君 のう ち で 机 上に 挿 した矢車 艸 を 写 生した 事 が あ つたつ け 其 写 生今も 在 り表紙に 使 ふも 奇縁 なり  新 朝 顔日記、 包 の 校正来 て居り、 大 層 よい 色 なり 校正 部 と御 店 へ お つたへ 願ひ候 注記  右の田中文に、 これを 解説 して 「 単行 本 婦系図 は、 前 が明治四十一年 二 月十五日、 後 が 同 年六月十 八 日、 春陽堂から 刊行 された。 表紙は 前後 とも清 方えがく矢車草の図 柄 で 統 一されて お り、一 方 、 口絵 は 前後 それ ぞ れ、 清方  英朋 各 一 枚 とふたりの合作一 枚 、 計 三 枚 ずつの木版 画 で 飾 られている。 葉書の宛 名から 察 するに、 当 時 、 英朋は春陽堂に 在 籍 し、 出 版 物 の装 幀や 口絵 の 差 配 に 関 わ っていたのだろう。 春陽堂 刊行 の鏡花本をめ ぐ る清方と英朋の 競 作は、 『風 流線 』 (明 37  12  15) の 口絵 を清方が、 『 続 風 流線 』(明 38  8  18) の 口絵 を英朋が 描 い た 前 例 が 認 められる。 」 とする。 『新 朝 顔日記』 は春陽堂 刊 の 伊 原 青々園 の作品 ( 前 明治四十年十一月十 八 日、 後 同 十 二 月 二 十一日) 。 鰭崎英朋が春陽堂 「 新 小 説 」 編輯局 に 入 ったのは明治三十五年十月、 鏡花の 入 局 は三十三年一月で あ る。

明治四十一年(一九〇八)

戊申

三十六歳

四月

日、

より

十九

芸講演会

田橋

堂)で

島村抱

月、

藤宙

外、

貞馬

岩野泡鳴

真山

月、

別らとともに

講演

報じ

られた(

「東京

日新聞」

日付



面)

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