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ヴィンチェンツォ・ベッリーニとベルカントの衰退  ― オペラ作品を通して ―

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Academic year: 2021

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はじめに オペラ作曲家ヴィンチェンツォ・ベッリーニ (Vincenzo Bellini, 1801~1835) はシチ リア島のカターニアで生まれ、10 作のオペラを完成させた後、34 歳でこの世を去った。 その旋律は芳醇な情緒を湛え、ロマン的美を誇る。ベッリーニのオペラは 19 世紀前半の ヨーロッパの音楽界にロマン派の花を咲かせ、グリンカやワーグナーにも影響を与えた。 しかしながらその第 7 作にあたるオペラ《ノルマ》から、すでにベルカント唱法の衰 退が始まっていたといわれる。ベッリーニの真骨頂が旋律にあることを考え合わせると、 これはにわかには信じ難いことである。ベルカントの衰退、その理由は何なのか、そして 次世代のオペラ界にどのような影響を与えたのか考えてみたいと思う。 1.ヴィンチェンツォ・ベッリーニとは ベッリーニの特色は前項でも触れたように、甘美で哀愁漂う抒情性豊かな旋律にある。フ ランスの音楽学者レオン・エスキュデー (Léon Escudier, 1821~1881)1は、ベッリーニを 次のように表した。「熟れた小麦の穂のような金髪で天使のように優しい面影、朝焼けのよ うに若く、夕焼けのような憂愁が漂い、スピリトの中にペルゴレージ(Giovanni Battista Pergolesi, 1710~1736)2や モ ー ツ ァ ル ト(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756~1791) と似た部分を持っていた。」3

ベッリーニは祖父がオルガン奏者で、父親も作曲家という音楽一家に育った。幼少期 より作曲の才能を発揮する。6 歳で〈雄鶏は歌えり〉(Gallus Cantavitt) や〈かくにも 尊き秘蹟をばわれ伏して拝み奉らん〉(Tantum ergo sacramentum veneremur cernui) を作曲している。1819 年 18 歳の時にカターニア市の奨学金を受け、音楽の中心都市で あったナポリへ赴き、現在のナポリ王立音楽院で学ぶ。ここで、当時のイタリア楽壇にお ける最も重要な人物の一人であるニコラ・ズィンガレッリ (Nicola Antonio Zingarelli,

ヴィンチェンツォ・ベッリーニとベルカントの衰退

― オペラ作品を通して ―

小 林 玲 子

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1752~1837)4に師事する。ズィンガレッリは「歌にはメロディーが大切である。観客の 心に訴えるためには作品をもっと歌わせなければならない。」と言ってベッリーニを指導 した。1820 年代の若い作曲家は皆がロッシーニの真似をしていたが、その中でもベッリー ニは一番早く自分のスタイルを築いたといえる。 ナポリで初期のオペラ作品《アデルソンとサルヴィーニ》(1825) 年と《ビアンカとフェ ルナンド》(1826)を初演、その後スカラ座より依頼を受け、1827 年 26 歳の時にミラ ノへ移る。そして、その地でフェリーチェ・ロマーニ (Felice Romani, 1877~1865)5 出会う。この人物こそ、後にベッリーニと手を携えて 7 つの傑作オペラを生み出した台 本作家である。 1833 年 8 月、32 歳の時《海賊》(Il Pirata)、《カプレーティ家とモンテッキ家》(I Capuleti e I Montecchi) の上演のためパリを訪れ、そこで新作《清教徒》(I Puritani) の依頼を受けてこれを完成させた。1835 年 1 月の初演は大成功であった。しかし同年 9 月 23 日、34 歳の若さで病没。遺体は 1876 年までパリのペール・ラシェーズ大墓地に眠 り6、その後生まれ故郷カターニアのサンタ・アガタ大聖堂へ改葬された。 前述の「観客の心に訴えるためには作品はもっと歌わなければならない」というズィン ガレッリの教えは、ベッリーニのオペラにどのように生かされたのであろうか。次の章で オペラ作品を概観する。 2.ベッリーニのオペラ オペラの作品一覧は表 1 のとおりである。参考までにライバル関係にあったドニゼッ ティ7のオペラ名と初演年月日を添付した。この表に基づき、各作品についてその概要を 記す。題名の後に作曲したときのベッリーニの年齢を加えた。 表 1   オペラ名 台本 初演 ドニゼッティ 1 アデルソンと サルヴィーニ A.・L・トットラ 1825 年ナポリS・セバスティアーノ音楽院 2 ビアンカと フェルナンド D. ジラルドーニフェリーチェ・ロマーニ 1826 年 5 月 20 日ナポリ、サンカルロ 1828. 5. 12アリーナ、ゴルゴン ダの女王 3 海賊 フェリーチェ・ロマーニ 1827 年 10 月 27 日 ミラノ、スカラ 4 異国の女 フェリーチェ・ロマーニ 1829 年 2 月 14 日 ミラノ、スカラ 5 ザイーラ  フェリーチェ・ロマーニ 1829 年 5 月 16 日 パルマ、ドゥカーレ  6 カプレーティ家 とモンテッキ家 フェリーチェ・ロマーニ 1830 年 3 月 11 日ヴェネツィア、フェニーチェ 1830. 12. 26アンナ・ボレーナ

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7 夢遊病の娘 フェリーチェ・ロマーニ 1831 年 3 月 6 日 ミラノ、カルカノ 1832. 5. 13愛の妙薬 8 ノルマ フェリーチェ・ロマーニ 1831 年 12 月 26 日 ミラノ、スカラ 9 テンダの ベアトリーチェ フェリーチェ・ロマーニ 1833 年 3 月 16 日ヴェネツィア、フェニーチェ 1833. 12. 26ルクレツィア・ボル ジア 10 清教徒 カルロ・ペーポリ 1835 年 1 月 24 日 パリ、イタリア座 1835. 9. 26ランメルモールのル チア ① 第 1 作《アデルソンとサルヴィーニ》(Adelson e Salvini) 24 歳 

本来、1815 年リスボン公演のために作られたトットラ (Andrea Leone Tottola) の台 本を原作として流用した。ナポリに留学していた時の師であるズィンガレッリの薦めによ り作曲し、母校(サン・セバスティアン音楽院)の学友たちの手により上演され、見事に 成功をおさめた。だが、作風にはロッシーニの影響が色濃く反映されている。ロッシーニ は 1815 年から 1823 年までナポリ王立劇場音楽監督の地位にあり、《エジプトのモゼ》《湖 上の美人》《セミラーミデ》を大成功させた当時の大人気作曲家であった。ベッリーニにとっ て初めての作品に、尊敬してやまないロッシーニの真似と思われる個所が散見されるのは やむを得ないことともいえよう。 また、ネリーのアリア〈暗雲の後に〉は、第 6 作のオペラ《カプレーティ家とモンテッ キ家》ジュリエッタの有名なアリア〈おお、幾度か〉に転用されている。この曲は一つの 旋律を長く美しく持続させるベッリーニの本質的要素を感じることができ、ショパンの〈夜 想曲〉を連想する向きも多いと思われる。 上演を客席で聴いていたドニゼッティはベッリーニを抱きしめ褒め称えた。さらに、同 じく客席にいた劇場経営者バルバイヤも8、この新しい才能を見逃さなかった。 この頃ベッリーニはナポリの司法官息女、マッダレーナ・フマローリと相思相愛であり 彼は 2 回、結婚の申し込みをしている。しかしマッダレーナの父は貧しい作曲家との結 婚に反対した。ベッリーニがミラノへと去ったため二人は別れることになったが、彼女は 他家へ嫁ぐことなく 1833 年、32 歳でこの世を去った。この悲恋もこの後のベッリーニ の音楽に影響を与えていると考えることができる。 ② 第 2 作《ビアンカとフェルナンド》(Bianca e Fernando) 25 歳  原作はカルロ・ローティ (Carlo Roti) の『アグリジェント公爵カルロ 4 世の墓前 のビアンカとフェルナンド』(Bianca e Fernando alla Tomba di Carlo IV, Duca d’ Agrigento) である。のちにコンビを組む台本作家、フェリーチェ・ロマーニが改訂者と して加わっている。前作でベッリーニに着目した劇場経営者バルバイヤは、早速ベッリー ニに新作オペラの作曲を依頼したが、それは国際的檜舞台といえるミラノ・スカラ座で上

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演するためであった9。ビアンカの第 1 幕のアリア〈私の心は幸せでいっぱいです、過去 の苦しかった思いも消えました〉はそのまま第 8 作《ノルマ》の有名なアリア〈清き女神よ〉 のカヴァレッタに転用されている10。また、第 2 幕のビアンカのアリア〈ああ、生きかえっ て ! お父様 !〉の旋律はベッリーニの独擅場ともいえる愛情に満ちた豊かな表現がさら に磨きをかけられている。 ③ 第 3 作《海賊》(Il Pirata) 27 歳

原作はチャールズ・ロバート・マトゥリン (Charles Robert Maturin) の悲劇『ベ ル ト ラ ム ま た は サ ン・ ア ル ド ブ ラ ン ド の 城 』(Maturin: Bertram o Il Castello di Aldobrando) である。 劇場経営者バルバイヤは《ビアンカとフェルナンド》を高く評価し、ミラノ・スカラ座 のために新しいオペラの作曲を依頼した。これを受けて作られた《海賊》は、フェリーチェ・ ロマーニとの協力による最初の作品である。このオペラは、ベッリーニの名をヨーロッパ中 に知らしめる作品となった。作中でグァルティェーロを演じたテノール歌手ルビーニは11 当時を回想して「ベッリーニは、いかなる装飾演唱も許さず、一音符すら変えることを許 さなかった。」と語っている。 この作品は今までには見られなかった管弦楽法によりオペラの質を上げたと言って良い だろう。特に第 2 幕は劇的であり、声楽的にも器楽的にもこれまでにない効果をあげて いる。 イモジェーネとグァルティェーロの二重唱〈お前は私の心の傷を広げたのだ〉、 イモ ジェーネ、グァルティェーロとエルネストの三重唱〈恐ろしい運命に屈して〉、そしてイ モジェーネのアリア〈その無邪気な微笑みで〉は、管弦楽が劇的展開に圧倒的な役割を果 たし、ベッリーニの哀愁に満ちた旋律が特に強調されて聞こえてくる。 台本がロマーニによって書かれたことも大成功の要因の一つであろう。《海賊》はイタ リア国外に進出したベッリーニの最初のオペラであった。翌年にはウィーンで上演、その 後ロンドン、ミュンヘンへと上演範囲を広げていった。 ④ 第 4 作《異国の女》(La Straniera) 28 歳

原作はシャルル・ヴィクトル・プレヴォ・ダルランクール (Charles Victor Prevost d’ Arlincourt) のロマンス小説『異邦人または異国の女』(L’ Étrangère) である。 この作品もミラノ・スカラ座で初演され大成功を収め、1870 年頃までは上演された。 物語自体はロマンティックではあるが、あらすじが複雑で難しく、アリアが少なく音楽も 厳格なためその後の上演回数は少ない。 しかしこの作品は、合唱を積極的に導入し、合唱曲に重要な役割を与えている。特に 1 幕冒頭の〈漕げよ、漕げよ、風はやんだ〉、2 幕の〈優しい乙女よ、愛の天使とおなじように〉 は、管弦楽と女声、男声、混声の組み合わせが絶妙な優れた合唱曲である。

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特記すべきは、ベッリーニの特徴である朗詠風アリアの登場である。1 幕、アルトゥー ロの〈ここには誰もいないのか〉は今後の作風を示唆するかのような例として挙げられる。

⑤ 第 5 作《ザイーラ》(Zaira) 28 歳

原作はフランソワ・マリー・アルエ・ヴォルテール (François Marie Arouet Voltaire) の悲劇『ザイール』(Zaire) である。 この作品は 4 月半ば以降に着手したにもかかわらず、5 月 16 日には初演の舞台に載せ られた。あまりに制作時間が短く作曲の充実がみられず、8 回上演されただけで、他の劇 場でも上演されることなく、失敗という不本意な結果に終わってしまった。 パルマに新しく建設された歌劇場、大公座の開場記念公演としてロッシーニが作曲を依 頼されたのだが、彼が断ったためベッリーニに委託された。題材の選択に時間がかかり過 ぎこのような結果に終わったのである。しかし第 1 幕の最後に聴かれるザイーラとファ ティマの二重唱〈おお、あの微笑みと共に〉(Oh! Con Qual Fronte Riedere) は、ベッリー ニらしい上品で優しい旋律であり、この旋律は《カプレーティ家とモンテッキ家》に転用 されている。

⑥ 第 6 作《カプレーティ家とモンテッキ家》(I Capuleti e I Montecchi) 29 歳

原作はルイージ・ダ・ポルタ (Luigi da Porta) の小説『ジュリエッタとロメオ』(Giulietta e Romeo) である。ヴェネツィアのフェニーチェ座において初演され、大成功を収め連演 された。しかしベッリーニは、この時期の過労が原因で胆汁過剰症を患い、いったんは重 体に陥った。幸いにもポッリーニ夫妻の看病により回復し、またこの頃、生涯の友となる 名ソプラノのジュディッタ・パスタ12(《夢遊病の娘》と《ノルマ》の初演をつとめた歌手) とコモ湖の別荘で知り合うこととなる。 1 幕のロメオのアリア〈たとえ私があなたの息子を殺したとしても〉、ジュリエッタの アリア〈おお、幾たびか〉、二重唱〈そう、逃げるのです。道はそれだけです〉などは前 作《海賊》《異国の女》から始まった朗詠風アリアが革新的な手法として発展を遂げてい ることの証しといえる。 ⑦ 第 7 作《夢遊病の娘》(La Sonnambula) 30 歳  原作はカシミール・デラヴィーニュ (Casimir Delavigne) のコメディー『村の夢遊病 の娘』(La Villageoise Sonnambule) である。

ミラノ・カルカノ座での初演は大成功であった。ベッリーニは 1830 年の夏をコモ湖畔 のジュディッタ・パスタの別荘で過ごし平穏を手に入れたようだ。このオペラの舞台とな るスイスの村はベッリーニが滞在していたコモ湖やその近郊の村の絹織物工場の女工のよ うすがイメージされ、土地の民謡は 2 幕の合唱〈ここにはもっと村人が必要だ〉に取り 入れられている。初演の舞台に主役を任されたジュディッタ・パスタは当時ロンドンとパ

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リを往復してロッシーニのオペラを歌い活躍しており、18 世紀カストラートのベルカン トと歌唱技巧の直接的後継者であった。彼女は広い音域をもち、輝かしく滑らかな声で軽 快に歌い、十分な表現力を備えていたと言われる。ベッリーニはパスタの歌唱から卓越し た技巧と装飾歌唱のスタイルを知り、それによって表現の幅とベルカント唱法の水準が高 まったことは明らかである。 1 幕アミーナが歌う〈澄んで晴れやかに〉、同じくアミーナ 2 幕最後の〈ああ信じられ ないわ〉の 2 曲のアリアは、レチタティーボ13 カヴァティーナ14 カヴァレッタを含む形 式で作曲され、流麗な 19 世紀ベルカント・オペラの代表作となっている。 ⑧ 第 8 作《ノルマ》(Norma) 30 歳

原作はアレクサンドル・スーメ (Alexandre Soumet) の悲劇、『ノルマ』(Norma) で ある。 ミラノ・スカラ座で初演された当時、タイトルロールはジュディッタ・パスタによって 歌われたが、初日は失敗に終わる。ベッリーニは、パスタを憎んでいる勢力が演奏を妨害 したと手紙に書きとめている。カヴァティーナ〈清らかな女神よ〉はベッリーニの作品の 中でも白眉といえるが、歌唱する側からすれば大変難しく、歌手泣かせの一曲といえる。 筆者が 1984 年にカターニアに残るベッリーニの生家を訪れた折、入口の扉を開くと、〈清 らかな女神よ〉のメロディーが静かに流れており、まるで天とつながっているかのような 清らかで、暖かい空気が流れていたことを思い出す。 ノルマは上演を重ねるごとに人気が高まった。現在でも上演回数の多いオペラである。 この時期ベッリーニの旋律が劇的で激しい裏には、それまでになかった社会情勢が窺え る。友人マッツィーニが政治運動を起こし逮捕され、財産没収のうえ国外追放になりなが らも、「青年イタリア党」15を結成して国外より祖国解放運動を指導していたという事実は、 ベッリーニの心を深く動かした。「青年イタリア党」の革命運動に音楽を以て協力したい と思ったのであろうか、戦闘的な行進曲、壮烈に力強い表現など、従来ベッリーニの音楽 を定義づけてきた「甘く、悲しげな」のからはおよそかけ離れ何か戦いの気配を感じさせ るのである。〈清らかな女神よ〉は、当時まだ統一されていなかったイタリアの運命を嘆き、 国の統一を神に願う曲として作曲されたと言っても過言ではないであろう。 第一幕ポッリオーネのアリア〈たとえお前たちが神に誓いを立てても〉、ノルマとアダ ルジーザの二重唱〈密かに一人神殿にいたときでした〉、第二幕ノルマのアリア〈どうぞ、 息子たちを私の犯した過ちの生贄にはなさらないでください〉は、劇的な表現が強く特に 注目したい名曲である。 ⑨ 第 9 作《テンダのベアトリーチェ》(Beatrice di Tenda) 32 歳

原作はディオダータ・サルッツォ・ロエーロ (Diodata Saluzzo Roero) の小説『ビ ナスコ城』(Il Castello di Binasco) で、それに基づいたアントーニオ・モンティチーニ

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(Antonio Monticini) のバレエ《テンダのベアトリーチェ》(Beatrice di Tenda) がベッ リーニに霊感を与え、オペラ作品として結実した。 ベッリーニは、このバレエをジュディッタ・パスタと一緒に観ており、女主人公ベアト リーチェの豊かな感傷性や衝撃的な情熱が、パスタの芸術をより大きく展開させる作品に なるだろうと直感した。 題材は 1402 年に起こった歴史的事件を基にしている。しかしこの時期、台本作家のフェ リーチェ・ロマーニは売れっ子で仕事を大量に抱えており、このオペラの台本に手を付け ることが出来ずにいた。翌年の 2 月に初演を迎えることを知りながら、12 月の時点で 1 行も書かれてはおらず、この状況は、丁寧に作曲をするベッリーニを大変苛立たせた。な んとか初演を迎えたものの大失敗に終わり、二人の芸術家は残念ながらここで協力関係を 絶った。 ジュディッタ・パスタは驚異的な音域の広さ、劇的な表現に必要な力強い歌声で、《夢 遊病の娘》《ノルマ》《テンダのベアトリーチェ》の主役を 3 作連続で務めた。まさにベッ リーニのオペラを世に轟かせたプリマドンナである。 《テンダのベアトリーチェ》は締切りが迫る中、台本が出来てこないという苛立ちの中 の作品ではあるが、ヒロインであるベアトリーチェの苦悩をここまで表現した音楽は他の 作品には見つけることはできない。この作品は公演回数こそ多くはないが、特に高い評価 を与えたい 2 曲のアリアがある。それは第 1 幕で歌われるベアトリーチェのアリア〈私 一人で済むのでしょうか〉(Ma la sola, ohime! Son io) と第 2 幕の処刑台に進みながら 歌う〈ああ、もし私に墓が許されたなら〉(Ah! Se un’ urna è a me concessa) である。 この実在したヒロイン、ベアトリーチェについての人物像と筋書きが同じでベッリーニ 悩ませたドニゼッティの作品《アンナ・ボレーナ》との関係は次項に記したい。

⑩ 第 10 作《清教徒》(I Puritani) 34 歳

原作はフランソワ・ポリカルプ・ダンスロ (François Polycarpe d’ Ancelot) とボンファ ス・クサヴィエ・サンティーヌ (Boniface Xavier Santine) 共作の戯曲史劇『議会党派と 王党派』(Têtes Rondes et Cavaliers) である。

パリのイタリア座で初演し大成功を収めた。ベッリーニ最後のこのオペラの台本作家は カルロ・ペーポリ(Carlo Pepoli)16 あった。この戯曲にベッリーニが興味を持った理由は、 女性主人公エルビーラが狂乱状態に陥る場面に強く魅せられたからである。この狂乱の場 はドニゼッティの《ランメルモールのルチア》と比較されるが、《清教徒》の狂乱の場で 歌われる〈あなたのやさしい声が〉はベッリーニの想像力が最高の域に達しており、ため 息がでるほど美しい。他には明るく軽快なポロネーズ風のアリア〈私は美しい乙女です〉 テノールのアリア〈おお、愛しい人よ、愛はしばしば私を涙のうちにひそかにあなたの許 しへと導いたのです〉バリトン 2 人のアリア〈ラッパを吹き鳴らせ〉は雄大で力強く後 にヴェルディに受け継がれてゆく流れを感じさせる。

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この作品は台本作家ペーポリの力量不足を指摘されたが、音楽自体は新しい技法が取り 入れられ、特に和声と転調技法には更なる進展がみられる。ベッリーニは亡くなる 1835 年、フランス政府よりレジョン・ド・ヌール勲章を授与され、2 月にこのオペラをアメリ イ王妃に献呈するが、《清教徒》を最後のオペラとして同年 2 月、肝膿瘍併発による急性 大腸炎を起こし、円熟期を迎えることなく死去した。34 歳であった。 3.オペラ《テンダのベアトリーチェ》に見られる悲劇の女性像とその表現 筆者はベッリーニのオペラを愛好し、そのオペラの中のソプラノのアリアはほとんど 歌ってきた。9 作目のオペラ《テンダのベアトリーチェ》は筆者に深い感銘を与えた作 品である。この作品は実在したベアトリーチェ・バルボ・ラスカリス17 (Beatrice Balbo Lascaris, 1372~1418) のストーリーである。 一方《アンナ・ボレーナ》はライバル関係にあったドニゼッティの出世作と言われる。 ドニゼッティ 32 作目のオペラであり、こちらも同じく実在したアン・ブーリン (Anne Boleyn, 1507~1536)18 のストーリーを基にした王家を巻き込む歴史的事件を扱ったオ ペラであった。興味深いことにこのオペラの台本もフェリーチェ・ロマーニが書きあげて いる。 この 2 作のオペラはともに、高貴な女性が夫の愛を侍女に奪われ、不義密通の罪人と して処刑されるという筋書きである。《アンナ・ボレーナ》は 1830 年に初演を迎え大成 功を収めていたため、ベッリーノとロマーニは《テンダのベアトリーチェ》が《アンナ・ ボレーナ》の二番煎じと評されないよう案を練らなければならなかった。 迫力のある《ノルマ》(1831) と磨き抜かれた旋律美を持つ《清教徒》(1835) に挟ま れた《テンダのベアトリーチェ》(1833) は少々隠れた存在ではあるが、それまでのベッ リーニとは違う個性を多く見ることが出来る。ヒロインのベアトリーチェは苦境の中に置 かれても領民を想い、現夫の侮辱にも怯まず、前夫の魂には心から詫び、彼女を崇拝する 者の反乱さえも必死でいさめる。その姿は凛然とし、裁判の場でも毅然と振る舞い、周囲 からも尊敬の念を送られる。処刑場へと赴くベアトリーチェを見送る廷臣たちは、彼女が 無実であることを確信しながら、「このようなお方にこれほど無残な死が与えられるとは、 なんと悲しいことであろう」と心から同情するのである。 これに対し《アンナ・ボレーナ》の場合はヒロイン、アンナに同情しつつも哀れな王妃 キャサリン・オブ・アラゴンの悲劇を想い浮かべ、因果応報と片付けられても仕方がない かもしれない。しかしベアトリーチェにはそのような弱点はなく、敵に追い詰められても 決して屈せぬ高貴な女性の姿を見ることが出来る。 ここで《テンダのベアトリーチェ》のアリア〈私一人で済むのでしょうか〉と《アンナ・ ボレーナ》のアリア〈私の生まれたあのお城〉の歌詞を比較してみよう。  

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ベアトリーチェのアリア

Ma la sola, ohime! Son io, 私一人で済むのでしょうか Che penar per lui si veda? 彼のために苦しむことになるのでは? O mie genti, o suol natio, O mie genti, 私の領民たち、私の生まれ故郷よ、私の民よ、 di chi mai vi diedi in preda 私はあなた方を誰の餌食にしてしまったのか Ed io stessa, ed io potei 私はなぜ、あなた方をあんな領主に委ねたのか Soggettarvi a un tal signor どうして、あのような酷い領主に

アンナのアリア

Al dolce guidami castel natio, 私の生まれたあのお城へ私を連れて行ってください ai Verdi platani al queto rio 青々としたプラタナスの樹に che i nostri mormora sospiri ancor 今もなお私たちのため息が囁くこの小川へそこで Cola’, dimentico de corsi affanni 私はこの苦悩を忘れます un giorno rendimi de miei prim'anni 若き日の一日を返してください un giorno solo del nostro amor 私たちの愛をたった一日だけでも

  二つのアリアを比べるとアンナは自身の愛についてのみ苦悩しているが、ベアトリー チェには国と領民に心を寄せる凛然とした公妃の気迫を感じることができる。この気迫は どこから来るのであろう。彼女は表向きには不義密通の罪で処刑されるが、彼女を慕う領 民の中には彼女の前夫に仕えていた者が大勢いた。すなわち、彼女は前夫ファチーノ・カー ネをいまだに慕う領民に恥じぬよう、気品のある凛とした姿勢で死に臨まなければならな かったのである。ベッリーニはベアトリーチェの登場するアリア〈私一人で済むのでしょ うか〉(Ma la sola, ohime! Son io) に短く引き締まったフレーズを与え彼女の気概を印 象付けた。派手でも耽美的でもないが、苦悩をここまで表現できるものかと、このベッリー ニの手法がより貴重なものと思わないわけにはいかないであろう。   4.ベッリーニとベルカントの衰退 ベルカント (Bel Canto) とは何であろうか。日本語では「美しい歌・美しい歌唱」と 訳される。「ベルカント歌唱」などと頻繁に使われるこの言葉であるが、そもそもどのよ うな歌い方なのだろう。この声楽用語の初出がいつなのかははっきりしていないが、「オッ クスフォード・オペラ大辞典」ではヴェネツィアで活躍した声楽教師ニコラ・ヴァッカイ (Nicola Vaccai, 1790~1848)19 が 1840 年以前に編纂した《室内アリエッタ集》(Arietta da camera)で用いたのが最初ではないかとしている。ヴァッカイの声楽教則本 (Metodo Pratico di Canto) は日本でも出版されており、滑らかな歌い方、母音唱法に基本を置く 装飾的な歌い方、歌手の創意で自由に変奏する技術などがベルカントの要約と言えよう。 声を軽やかに動かして歌うこと、お喋りをするように歌うこと、メロディーが流れるよ

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うに滑らかに歌うことなど、ヴァッカイの助言を取り入れてあり、ベルカントの初歩を垣 間見ることができる。ベルカントという言葉は、イタリア語で書かれた台本や詩に、イタ リアの作曲家が作曲をしたオペラや歌曲の歌唱テクニックを評価する時に使う。イタリア 語の特質がベルカントを育んだといっても過言ではないだろう。

「ニュー・グローブ・オペラ辞典」(The New Grove Book of Operas) には 1858 年パ リでの会議中にロッシーニ20 が「我々のベルカントは失われた」と嘆いたという記述が ある。1831 年初演の《ノルマ》では、すでに女主人公ノルマに歌唱装飾に頼らない力強 い歌唱によるドラマ表現がみられ、やがて発展するヴェルディ21 のオペラに近づいてい ると言える。ベルカントの衰退が、ベッリーニの第 7 作のオペラ《ノルマ》からすでに始まっ ていたと言われるのは驚きである。 1830 年代まで、テノールは高域音をファルセット(裏声)で歌っていた。一般的には 1 点イ音より上がファルセットになり、観客も作曲家も裏声の柔らかい響きが上品である という価値観であった。1837 年新進のテノール、ジルベール・デュプレが《ランメルモー ルのルチア》のエドガルド役をロッシーニの前で、2 点ハ音を胸声で響かせてからテノー ルの発声法は激変した。それを聞いたロッシーニは「鶏を絞め殺す時の声のようだ」とコ メントをしたと言われるが、21 世紀、現代のテノールは皆、この力強い胸声を超高音で 響かせるべく研鑽を積んでいるのである。バリトンは常に胸声で歌唱するためテノールの ような発声法の変化はなかった。 一方、ソプラノにはどのような変化があったのだろうか。ロッシーニの装飾歌唱技巧と 劇的歌唱と演劇性を融合したジュディッタ・パスタやマリブラン22 のような「歌手 = 女優」 が誕生したこと、そしてロッシーニの後を継いだベッリーニやドニゼッティが、オペラを 劇的歌唱時代に導いたことにより装飾歌唱技巧は衰退の一歩をたどった。劇的歌唱は悲劇 のヒロインを演じ切る秀でた演技力が必要とされ、軽快かつ機敏に歌われるアジリタのテ クニックや、声の色彩の多様性が失われていったのであろう。 19 世紀初頭までは歌手が絶対的優位に立っており、作曲家が彼らの要求をのむことは 当然のことと考えられていた。作曲家はいわば歌手を引き立てる立場であった。しかしベッ リーニは、歌手からの旋律への勝手な書き換え要求を退け、信念や美学を貫いた。そして 作曲家たちは書かれた通りに歌うよう歌手たちに求め、その役柄に合わせた歌い方を要求 した。今日ではごく当たり前のように思われるが、当時としては画期的なことだった。 ベッリーニの第 8 作のオペラ《ノルマ》は誰にでも歌える訳ではない。ベルカントの 声楽技巧、劇的歌唱、悲劇役者としての卓越した演技力、ジュディッタ・パスタがこのす べてを兼ね備えていたからこそ成立したのである。ベッリーニはパスタに自由な装飾唱法 を禁じたのではなく、パスタの中に紀元前 50 年頃の悲劇で神に選ばれた巫女でありなが ら二人の子供をもうけ、その子供を殺しかけるシーンもあるほど劇的なノルマを見出し、 音楽で造形したのである。 ロッシーニからヴェルディに至る過程で歌唱様式も大きく変わった。それは社会情勢の

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大きな変化に影響されている。ヴェルディも過去の美しい歌唱に対して醜い歌唱を推進し たのではなく、形式的な美を犠牲にしても達成しなければならない劇作理念を持っていた だけである。この劇的理念がベルカントの衰退を決定づけたと言って良いだろう。 おわりに 18 世紀イタリアの歌唱法は、様々な技巧を個々に発展させ融合しながら高度な歌唱ス タイルを形成していった。多様な装飾音譜を取り入れ滑らかに上行・下行するテクニック、 アジリタ、広音域の獲得、長い息の持続はロッシーニの時代に完成されたが、歴史的ベル カントも終わりを迎えることになる。 初期のドラマティック・ソプラノの多くはフランス、ドイツ、スペイン系の外国人であっ た。なぜならばイタリアの音楽院の声楽教師をつとめていたのは、おもに引退したカスト ラートだったからであり、かれらはドラマティックな発声、歌唱法を否定し過去のベルカ ントを最高のものと考えていたからである。 歴史的ベルカントは 1840 年頃失われたが、そのベルカント歌唱法の重要性が再認識さ れた現在は、修復期と言っても良いだろう。近年輩出される優れた歌手の歌を聴く時、失 われた歌唱法がどのくらいの割合で修復されたのか興味深いところである。筆者はオペラ 界に連なる者として、失われたベルカント歌唱法を取り戻していくこと、そして現代のベ ルカントを追究することが使命であると確信する。 註 1 レオン・エスキュデー (Léon Escudier, 1821~1881) はヴェルディの友人でもあるフランスの 音楽学者。

2 ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ (Giovanni Battista Pergolesi, 1710~1736)ナポ リ派のオペラ作曲家『奥様女中』宗教作品『スタバトマーテル』が有名であるが、26 歳で病没。 3 Rosselli, John, Bellini, Ricordi 1995 年 , p.13.

4 Nicola Antonio Zingarelli (1752~1837).

18 世紀から 19 世紀初頭にかけて重要な人物。特に宗教音楽、歌劇の作曲家として名声を博し ミラノ、ローマでは重要な役職を歴任した。1813 年に故郷であるナポリに戻り王立音楽院の院 長に任ぜられ、ベッリーニを指導した。 5 Felice Romani (1877~1865) ジェノヴァに生まれた 19 世紀前半を代表する台本作家。書かれ た台本数は 100 本を超え、ロマーニの台本を用いたオペラ作曲家はロッシーニをはじめとしド ニゼッティ、ベッリーニなどである。イタリアの作曲家は誰もがロマーニとの仕事を望んだ。そ れは「歌いやすい優美な歌詞」を皆が賞賛したからである。 6 この墓地には 1849 年、ショパンの遺体も葬られた。 7 Gaetano Donizetti (1797~1848) ベルガモ生まれ。ロッシーニを尊敬し、ベッリーニと共にイ タリア・オペラ黄金期を招来したオペラ作曲家。代表作は《アンナ・ボレーナ》《愛の妙薬》《ラ ンメルモールのルチア》など。彼は 70 作のオペラを残した。 8 Domenico Barbaja (1778~1841) ミラノ出身。イタリアの劇場経営者のプロとして力があった。

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ナポリのコーヒー店の主人から 1801 年に賭博場の経営者となり、後にナポリのサンカルロ座、 フォンド座の支配人となり、さらにミラノのスカラ座、ウィーンのケルントナートール座、アン・ デァ・ヴィーン座も支配下に収めた。ロッシーニ (1792~1868)、ドニゼッティ(1797~1848)、 ベッリーニら多くの作曲家を育て、新しい才 能の発見に長けていたと思われる。 9 レズリー・オーリイ『ベッリーニ生涯・芸術・作品』加納泰訳 東京音楽社 1988、p. 99。 10 Cavalletta オペラでは元来反復を持つ通俗的な形式なアリアの意。19 世紀のイタリア・オペラ ではテンポを速めた後半部、あるいは終結部を指す。

11 ジョヴァンニ・バッティスタ・ルビーニ (Giovanni Battista Rubini 1794~1854) 胸声で 2 点ロ 音までを有する。「涙の声」と言われるテクニックの持ち主。彼の声を聴いたベッリーニは「私 の音楽に天使の響きを与えた」と称賛した。 12 Giuditta Pasta (1797~1865) イタリア、サロンノ生まれのソプラノ歌手。ロッシーニ、ベッリー ニ、ドニゼッティの作品の主役を務め大成功に導いた 19 世紀初めの偉大な歌手である。 13 Recitativo 話し言葉の自然なリズムやアクセントを模した歌唱様式。叙唱という。アリアの前に 置かれて物語の状況を説明的に歌うなど、対話によって物語を進行させていくために使われる。 14 Cavatina 繰り返しを持たない流れる旋律を持つ形式のアリア。19 世紀のイタリア・オペラでは ゆったりとしたカヴァティーナに急速なカヴァレッタが続くことが多い。 15 オーストリアから独立するために結成されたイタリアの組織。マッツィーニが中心となり 1831 年に結成され、イタリア統一運動を進める上で大きな働きをした。 16 Carlo Pepoli (1796~1881) イタリア、ボローニャ生まれの詩人、台本作家。伯爵の位を持って いたが、政治活動の罪で国外追放になりパリに滞在中ベッリーニと会う。 17 13 世紀 Tende の一帯を治めていたラカリ家の 14 世紀末の当主ピエトロ・バルボ 2 世の娘で、 1403 年、イタリアの軍人ファチーノ・カーネの妻になったが、1412 年、夫を亡くし寡婦になる。 同年、ミラノ公国の若い公爵の求めに応じ彼の妻となるが、1418 年姦通罪で処刑される。舞台 となっているビナスコ (Binasco) は、ミラノから南西に 16 ㎞の位置にあり、当時北イタリアを 支配していたヴィスコンティの領地であった。 18 Anne Boleyn (1507~1536) イングランド王ヘンリー 8 世の 2 番目の王妃。ヘンリー 8 世の最 初の王妃キャサリン(Catherine of Aragon, 1485~1536)を追いやり王妃の座に就くが、国王 暗殺計画、および不義密通の罪で処刑された。 19 Nicola Vaccai (1790~1848) イタリア、トレンティーノ生まれの作曲家、歌唱指導者。 20 Gioacchino Rossini (1792~1868) イタリア、ペーザロ生まれのオペラ作曲家であり《セビリア の理髪師》《セミラーミデ》などの名作を作曲した。彼は 19 世紀イタリア・オペラ界の中でバロッ ク・オペラの流れを汲む装飾的で技巧的なベルカント唱法を極限まで高めた作曲家である。 21 Giuseppe Verdi (1813~1901) イタリア、ブッセート生まれのオペラ作曲家。代表作は《椿姫》《ア イーダ》《リゴレット》などがあり、ヴェルディの活動はイタリア・オペラ界に変革をもたらし、 現代にいたる最も重要な人物と評されている。 22 Maria Malibran (1808~1836) フランス、パリ生まれの 19 世紀で最も有名なオペラ歌手の一人。 メゾソプラノでありながらコントラルトとソプラノの音域を用いて歌うことが出来、強烈な個性 と力強くしなやかな歌唱において高く評価されたが、28 歳の若さで夭折した。

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参考文献

Faravelli, Danilo, Bellini, RICORDI.

Mirabelli, Ubaldo, I Teatri di Vincenzo Bellini, NOVECENTO, 2001. Rosselli, John, Bellini, RICORDI, 1995.

パトリック・バルビエ 『カストラートの歴史』野村正人訳ちくま学芸文庫 1999. レズリー・オーリイ『ベッリーニ生涯・芸術・作品』加納泰訳 東京音楽社 1981. ニューグローブ世界音楽大辞典 16 別巻 2 講談社 1994.

柴田南雄 『声のイメージ』岩波書店 2013. 楽譜

Bellini Vincenzo, La Sonnambula, Canto e Pianoforte, RICORDI, 2006. Bellini Vincenzo, La Straniera, Vocal Score, RICORDI, 2006.

Bellini Vincenzo, Norma, Canto e Pianoforte, RICORDI, 1997.

Bellini Vincenzo, I Capuleti e I Montecchi, Canto e Pianoforte, RICORDI, 1983. Bellini Vincenzo, Bianca e Fernando, Canto e Pianoforte RICORDI 1979. Bellini Vincenzo, Il Pirata, Canto e Pianoforte, RICORDI, 1978.

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Bellini Vincenzo, La Straniera, NIGHTINGALE, 2012.

Bellini Vincenzo, Bianca e Fernando, K09879, KALMUS VOCAL SCORE, 2009. Bellini Vincenzo, I Capuleti e I Montecchi, DEUTSCHE GRAMMOPHON, 2009. Bellini Vincenzo, Zaira, NUOVA ERA, 2009.

Bellini Vincenzo, Adelson e Salvini, Complete Operas, DYNAMIC, 2008. Bellini Vincenzo, I Puritani, Complete Operas, TDK, 2008.

Bellini Vincenzo, Bianca e Fernando, ALLEGRO CORPORATION, 2005. Bellini Vincenzo, La Sonnambula, RAMANTE, 1994.

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参照

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