日本統治時代台湾原住民に対する授産政策について
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(2) 理を容易にし、さらに原住民に生活手段の付与、即ち授産を行うためであった。 宇野は授産について次のように述べる。. 現在の主なる撫育方法としては蕃童教育、授産、醤療、交易と彼等の感化を促進せし むる観光とか活動窮眞とかで、授産は第一に彼等古來の農耕に代へる水田作、牧畜、 養翼、機業、煙草作、茶樹、桐木、柑橘、苧麻、萢草の栽培で、何れも指導所と指導 者があって、今では軍濁で水田作其の他の仕事を爲し得る者も寡くない(ω。 つまり、原住民古来の農耕法である輪耕作を止めさせ、定地耕作を行うことσ)、さらに、 多種の農牧畜技術を授けることによってその発展を計ることにあった(助。. 大正8・9年(1919・20)にほぼ確定した授産政策に対する具体的実施案が昭和初期に 出てくる。. 昭和5年(1930)1月目警察協会花蓮港支部会員の吉岡繁男は定地耕作と関連する施肥 について次のように述べる。. 我がヌブン族は、古來よりの慣習上、農家として旧くべからざる糞尿の取扱を嫌忌す る事甚だしく、從って之れが取扱を指導馴致するは一朝一二の業にあらず。然らば如 何にせば指導の實果を収め得べきか。即ち教育所に於ては菜園其の他の農作物の肥料 を糞尿を主とし、尚ほ肥れを利用して堆肥の製法を教へ、而も教育措任者自ら其の範 を示して、教育所修業中に人糞の取扱ひを何等忌避せざる程度に馴しむるを要す。尚 蕃社受持者は社内蕃人に封し、牛寮の構築、豚舎の改造等を下働し、肥れに依って得 る糞尿を以て堆肥の製造方法を教授せば、.彼等蕃人等も牛豚の糞尿を嫌ふ事人糞に封. する程にあらざるを以て、自然之に馴れ、遂には入門をも嫌忌せざるに至らんω㌦ 原住民は伝統的に糞尿を肥料とすることを嫌っているから、教育所、 「蕃社」内におい て堆肥の作り方を教え、慣れさせる事を提案している。. さらに水田耕作についてもいくつかの提案が出ている。同じく昭和5年1月に大漢の喜 耕生によると、 (1)森林付近に水源地を作ること、 (2)水田地盤の揚固めを行うこと、. (3)新田障害としての冷稲熱病を防ぐために焼土法を講ずる事、 (4>マラリア防遇の ために水田に2回以上石油その他の殺虫油を注いでボーフラを殺す事であった(1ω。. 以上、大正8年から昭和5年(1919∼30)までの授産政策をまとめると原住民の集団的 反抗を防ぐ「去勢」策であり、そのために奥地に住む彼等を山脚地帯に強制移住させ、警 察管理に便ならしめ、また輪耕作から定地耕作に、狩猟から牧畜に、そして多様な農牧業 の技術指導を行い、生活安定させることによりて「善良な農民」を育成する政策であった と言えよう。. H 原住民の集団移住 原住民の集団移住の状況を『高砂族授産年報(昭和17年版)』 (台湾総督府警務局、昭. 和18年6月)3D・31頁所載の「高砂族移住年次表」によって見てみよう。. 一26一.
(3) 年度毎に見ると、明治36年(1903)戸数74戸、人口707人(台中が100%を占める)、38 年(1905)161戸、742人(花蓮港100%)、39年(1906)60戸、312人(台中100%)、44年 (1911)24戸、87人(庭中100%)、45年(1912)72戸、374人(台北100%)、大正2年 (1913)85戸、476入(台北100%)、3年(1914)13戸、58入(台北100%)、4年(1915) 121戸、603人(台北100%)、6年(1917)12戸、49人(台北100%)、7年(1918)123戸、 563人(花蓮港88%、台北12%)、8年(1919)49戸、225人(台北100%)、9年(1920) 32戸、219人目台東68%、高雄32%)、10年(1921)72戸、330人. i台北57%、高雄43%)、 11年(1922)舘9戸、2,193人(台中77%、台北14%、新竹9%)、12年(1923)160戸、885 人(花蓮港100%)、13年(1924)60戸、260人(高雄106%)、14年(1925)413戸、1,791 入(台東41%、高雄36%、花蓮港13%、台北11%)、15年(1926)254戸、1,486人(新竹 43%、畑中38%、高雄19%)、昭和元年(1926)66戸、273人(花蓮港100%)、2年(1927) 253戸、1,055人(花蓮港49%、台東27%、高雄24%)、3年(1928)245戸、1,201人(花蓮 港51%、血中31%、高雄18%)、4年(1929)220戸、1,258人(台申46%、新島24%、花蓮 港20%、高雄10%)、5年(1930)337戸、1,504人(新竹38%、高雄24%、花蓮港12%、台 中11%)、6年(1931)294戸、1,369入(高雄i33%、台東32%、台中20%、花蓮港15%)、. 7年(1932)695戸、3,940人(高雄34%、池中31%、新竹15%、台北13%等)、8年(1933) 504戸、4,589人(花蓮港45%、台中23%、高雄18%、台東5%等)、9年(1934)17Q戸、 769人(高雄58%、花蓮港29%、台東13%)、10年(1935)27戸、121人(花蓮港79%等)、. 11年(1936)306戸1,955人(台中41%、新嘗27%、花蓮港24%等)、12年(1937)196戸、 1,421人(花蓮港45%、台中43%、台東10%等)、13年(1938)349戸、2,250人(台東28%、. 台北27%、花蓮港25%、新竹13%等)、14年(1939)447戸、2,604人(花蓮港45%、身中 25%、高雄17%、台東13%)、15年(1940)728戸、5,125人(台輪29%、高雄28%、花蓮 港22%、台東20%)、16年(1941)357戸、2,2ユ8入(高雄55%、台東38%、鳴竹7%)、 17年(1942)358戸、1,972人(高雄65%、台輪18%、台東10%)である。 40年間の総計は7,676戸、44,984人が移住したことになる.その中で親中が153戸、10,953. 人(24%)、花蓮港が1,894戸、10,772人(24%)、高雄が1,825戸、9,974人(22%)、台 東が844戸、5,582人(12%)、台北が789戸、3,921人(9%)、新誌が712戸、3,381人(8 %)、台南が39戸、262入(0.6%)であった。時期的には大正11年頃から増加し、特に霧 社事件以後の昭和7年からの増加が著しい。 III 授産政策の目的・問題点・対策. 台湾総督府技師岩城亀吉は昭和9年(1933)6月に「奥地蕃人集団移住問題の検討」を 書き、移住政策の目的、問題点、対策について次のように述べている。 奥地に住む原住民集団移住の目的は前述したように「蓼人古來の耕地を奄々する切替畑 農法を改めさせ平地人同様に一定の田畑耕作所謂定地耕作を管ましめて國土の纒濟的利用. 一27一.
(4) を爲さしむると共に彼等の生活の安定を得せしめやうとする」という経済的理由があった。 この経済的理由の根底には伝統的な切替畑耕作には(1)森林地帯の濫伐、 (2)河川の 氾濫、 (3)植林、開墾に不利、 (4)寒害、旱鼠害等の天災が起こりやすく、原住民の. 「兇暴性」を発揮させやすい。また、奥地故に、 (5)原住民の教化、授産指導上困難で ある、 (6)理蕃経費が多額を要する、 (7)「兇暴性」を矯正しにくい、 (8)「蕃地. 富源」の開発が困難等の不利な要因があったから、これらの要因を取り除くための政策で あったといわれるqD。 10数年来の移住・授産政策上の困難性について、次のように述べている。 蕃地乱入等は古來迷信に囚はる・こと甚しく、且つ又彼等の族長間には我國古への英. 雄的猛りをも藏するが爲に、彼等現居住の蕃社を他に卸せしむる際に之が渤誘説得を なすことは頗る至難である。…・集團移住をなさしめ得た後でも彼等の移住後一、二. 年間はその指導操縦に又之大なる努力を彿はねばならぬ。それは六二移住の多くはそ の農耕地が山川に近い山脚地帯であるが爲に癩刺利亜病の登生甚し.く、往々にして之. が爲め原社に逃げ錦る者があり、或は又新移住地で攣死者などを出せるが爲め迷信に 依て官憲を怨むことなどもあるので、朝タ彼等に接して指導の任に減る駐在所員は頑 迷極まる彼等の爲にほとほと弱らされることが多い(’2)。 つまり、 (1)原住民の古来からの居住地への愛着感と(2)移住後のマラリア問題で あった。. さらに、原住民が移住を渋る理由は(3)銃器の使用が不自由になる、 (4)狩猟が不 自由になり、また牧畜を行う経済的余裕もない、 (5)知己との交友が疎遠になるという ものがあった。また、現住地の立地条件が次のような場合にも移住を肯ぜない理由となつ にていた。 (6)奥地の処女森林地帯が広大であり、充分 開墾耕作可能である、 (7)山. 林に野獣が多く棲息し、狩猟を充分に行い得る、 (8)移住先での先住原住民による開墾 耕作が芳しい成績をあげていない、 (9)移住先は「高屋」が集団化し、四六時中駐在所. の監視にさらされる。以上g点の困難性をあげている(13㌔ これに対して岩城は「成績不良蕃社の根本的改善を浸る」、 「要移住奥蕃に封し温め移 住に出する理解を有たしむる」、 「先進移住蕃は向後一層積極的に指導訓をなす」、 「蕃. 人の精神生活方面に就て特に研究をなし以て眞に理解あり同情ある指導をなす」、 「具体. 的移住二二を樹立し移住實施を促進する」という5点の改善策をあげているU4)。 IV 移住・授産政策の実績 昭和17年(1942)版の『高砂族授産年報』には農業生産、養蚕・牧畜、造林、授産機関、 集団移住について統計が載せられている。. まず、農業生産は昭和16年(1941)の統計によると、水稲は作付面積4095.88甲、収穫高 33.864石、1甲当収穫高8.27石、甘藷は原住民食糧の首位を占め、作付面積8,848甲、収穫. 一28一.
(5) 高6,186万斤、甲当6,992斤、粟は作付面積6,913甲、収穫高28,762石、甲当4,16石、陸稲は. 作付面積3,666甲、収穫高16,437石、出血4.48石、蓮草は装飾用で造花材料、書画用紙等に. 用いられたが、作付面積206甲、生産高11,887斤、苧麻は麻布衣料となったが、作付面積5 959甲、収穫高144,659斤、甘雨は収穫面積495甲、収穫高3,142万斤、価額147,257円であっ た。. 養蚕は掃立枚数8,101枚、収繭量60,5902kg、価額126,752円、家畜は牛12,781頭、馬46頭、 豚26,660頭であった。. 造林は広葉杉、相思樹、内地杉、桐、油桐、赤松、榛、竹林などで、7,496甲であった。. 授産機関は農業改善指導のために設けられた産業指導所が台北州蘇漢郡大南懊、新竹州 竹東郡千代ノ台、台中州新高郡ナマカバン、台南州嘉義郡ララウヤ、高雄州屏東郡サモハ イ、台東庁関山郡ハイトトワン、花蓮港庁花蓮郡ブセガンの7ヶ所。優良青年を選抜して 農業教育を施し、 「国民精神を培い、堅実な農民を養成する」機関である農業講習所が台. 北州蘇襖郡南面(昭和10年創立)、新論州竹園郡千代の台(昭和9年創立)、台中州農耕 郡霧社(昭和10年創立)、台南州嘉義郡ララウヤ(昭和11年創立)、高雄州屏東郡サモハ. イ(昭和9年創立)、台東庁関山郡ハイトトワン(昭和11年創立)、台東庁台東郡大武 (昭和16年創立)、花蓮港庁花蓮郡ブセガン(昭和6年創立)の8ヶ所あり、昭和16年度 (1941)までの卒業生が1,134人にのぼっていた。さらに、定地耕作・家畜飼育・施肥を行 って展示し、原住民を訓練する機関である指導農園は台北州のウライ、寒渓、シキクン、 バヌン、ブター、ショウラ、新竹州の角板山、ガオガン、高熊峠、シバジー、象鼻、馬場、 控漢、マリコワン、新面心の埋伏坪、クラス、ナマカバン、過坑、タマロワン、川中島、. 台南州のサビキ、高雄州のタカヌワ、ビビユウ、ヴカバ、クナナウ、スボン、ボタン、ブ タイ、台東庁のアロエ、近黄、チョカクライ、カラタラン、紅頭喚、壽、リトパシカウ漢、 都饗山、花蓮港庁の論旨、チヤカン、銅門の合計39ヶ所あった。 集団移住は前述したように昭和17年(1942)までに実施した移住数は7,676戸、44,984人 であったG5)。 おわりに. 大正8年から昭和17年(1919∼42)までの授産政策を検討すると、多くの奥地原住民を 山脚地帯に集団移住させ、警察管理を強め、原住民の反抗を防止すること、さらに輪耕作 (切替畑)を止め、定地耕作による水稲等多種類の作物栽培、狩猟・銃器所有を制限し、 牧畜・養蚕を推進し、原住民の生活安定化策、即ち、 「善良な農民」育成策であった。. 実施上においてマラリアの多発等必ずしも総督府にとっても、原住民にとっても満足の いかない事が多かったが、農牧業上の発展は実現した。さらに、農業講習所等の設置等に より村の中堅人物の養成にも効果があったと言えよう。. 一29一.
(6) 註. (1)藤井志津枝『日拠時期台湾総督府的理蕃政策』 (国立台湾師範大学歴史研究所、. 1989年)、同r日治時期台湾総督府理蕃政策』 (文英堂出版社、1997年)がある。ただ、. 原住民授産に関係する研究としては陳秀淳r日拠時期台湾山地水田作的展開』稲郷出版 社、1998年)がある。. (2) 『台湾警察協会雑誌』第31号(大正8年12月25日)、 「全島地方官会議における田 総督の訓示」 (11月22日総督府会議室にて)。. (3)鈴木質め原住民教育政策については拙稿「新〈蕃童教育標準〉制定の意義について」 (『学校教育学研究』第12巻、2000年3月刊行予定)。 (4) 『台湾警察協会雑誌』第1G7号(大正15年5月)、鈴木生「新竹州蕃童教育所聯合學 国王及運動會を見て」。. (5) 『台湾日日新報』大正9年12月11日、 「蕃人は宜しく去勢するんだねと 宇野理蕃 課長語る」。. (6) r台湾警察協会雑誌』第73号(大正12年6月)、警務局理蕃課長 宇野英種「蕃情 と理蕃政策」。. (7) 『台湾警察協会雑誌』第147号(昭和4年9月)、台北州巡査宇田川支吉「理蕃に 就いて」において「現在多く蕃人が管みつ・ある輪耕作を以てするも其の生活は自給自 足的安定を得っ・あり。故に、定地耕の依っで生産品を増加する場合、・… 」とあるよ. うに、原住民の伝統的農耕方法は輪耕作であり、これを授産政策によって定地徳に変え られていったことが理解できよう。. (8)牧畜については台北、福井蹄枕生「高由蕃の授産方策としての緬羊」 (r台湾警察 時報』第56号、昭和7年12月)が出ている。. (9) 『台湾警察時報』第12号(昭和5年1月)、花蓮港支部会員 吉岡繁男「定地耕作 の漿勧と施肥に付いて」。. (10)註(9)と同書、大震 喜耕生「蕃人水田作指導上の注意事項」。尚、強制移住に 伴うマラリア対策については医学博士沢顕治「蕃人移住集団政策と〈マラリア〉問題 (1) (2)」 (『台湾警察時報』第40・41号、昭和6年10月)がある。 (11) r台湾警察時報』第223・224号(昭和9年6・7月)、総督府技師岩城亀吉「奥地蕃 人集団移住問題の検討」。 (12)註(11)に同じ。 (13)註(11)に同じ。 (14)註(11)に同じ。. (15) 『高砂族授産年報(昭和17年版)』 (台湾総督府警務局、昭和18年6月)。. 一30一.
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