ロレンス研究の客観性を求めて : エリオットとリーヴィス以後のロレンス批評
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(2) . 平成 10年8月. 北海道教育大学紀要 (人文科学‐社会科学編) 第49巻 第1号 ) VOL49 I i i頭 Sc i desandsoc ences i ido Un iver tyofEducahon (Human lofHokka s . ,No J ouma. Augl st l998. ロレンス研究の客観性を求めて -- エリオ ッ トとリーヴィ ス 以後のロレ ンス批評 --. 石田 洋至 北海道教育大学旭川校 英語英文学研究室. ivi object ty ofLawrence Study iotand Leavls i i i --一 Cr t sm a食er E1 c. 一--. Yo iISH工DA j jkawa Campus dLi fEng l i tera tmr 0塩ceo e l l shLan l犯agea , , As副b i i fEducabon i do Un Hokka vers t yo. l 最近, フ ェ ミ ニ ズム, ニ ュ ー ヒス トリ シズム, カ ルチ ュ ラ ルス タ ディ ー, コロ ニアリ ズム な どの新 しい 文 学批 評 理 論を 基 盤 と した さ ま ざま な ロ レンス 研 究 が 試み ら れ, そ れ なり の 成 果 を÷収め てき て いる. しか し, 1930年代 のロ レ ンス の死 か ら1950年代 に至る エリ オ ッ トとリ ー ヴィ ス のロ レンス 批 評 を め ぐる 対 立と, 新 し. い文学批評理論に基づくロレンス研究との期間は空白であったわけではない. この間, ロレンス研究の客観 性を確立しようとする試みやロ レンスを新たに文学史に位置付けよう とする試みなど, ロレンス研究におい て はいる いる なア プロ ーチ が 試 み ら れていた. 本 論 で は, こう した ア プロ ーチ のな か でも特 に注 目に値する 「精 神 分析 学 的ア プローチ」 , 「ニ ーチ ェ の芸 術 論 的ア プロ ーチ」 の三つ を取り 上 げ, , 「生理 学的 ア プロ ー チ」 そ れぞ れのロ レンス 批 評の 意 味を 論 じよう と思 う.. 文学作 品 は, そ れを読 む人と作 家 と の 間に 「対 象 関係」 を 作り 出 し, 特 にロ レンス の思 想や ロ レンス が提. 起する問題は, その扱いの特殊性からして, どの作家よりも読書の過程において, 読む人の無意識的関与, i t jec つ ま り, 読 む 人 自身 の 主 観 的解 釈 を招 きや す い. こ の こと を 説 明 する た め に, 「投 影」 (pro on), 「投影 imag i 五cat i i thy) と いう 精神 分析 学 上の 的同一視」 (projectiveident na豆veempa on), 「想 像 的 感情移 入」 (. 三つの精神作用が, 文学作品を読む人に対して どのような影響を与えているのかということが問題となる. フロイ トの定義によると, 「投影」 は, 感情と思考の過程で精神の内部で認知されたものが, 外に向っ て 投影され, 自己の外に別の世界を作り出すように用い られる人間が生まれながらにして持っているメカニズ ム である. こ のメ カ ニ ズム, つ ま り, 「投 影」 は, 自 己の無 意 識 的な衝 動, 態 度, 感 情, 認知 な どを 自 己の. 外にある人間や対象に帰することによって, 無意識的な葛藤に対する防衛として機能するのである. 自分に とって都合の悪い部分を自分のものではなく, 他人のものであるように無意識のうちに操作し, 自分はそう した悪い部分を持っていないという状態を自分の精神の内部に作り だし, 安心感を得るということになる. したがって, これを文学研究に適用してみると, 文学の分野のあいまいさが大きければそれだけ読者の側の ‐. 65.
(3) . 石田 洋至. 投影的解釈, つまり, 読者にとって都合の良い解釈を刺激することになる. このように文学作品は読者の防衛的戦略を無意識のうち に作り出すが, こうした自己防衛意識が作用する のは, 読者の文学作品に対する反応が, 読者の側の心理的プロセスと関係があり, 読者の自己認識 (アイデ ン ティ ティ ー) の 問題 に 関 して, 読 者 にと っ て都 合 の 良い 解 釈 方 法 と 関係 がある か ら であ る この こ と は . ,. テーマがとても明確な文学作品の解釈においても, 研究者や批評家はまったく異なっ た解釈をしたり, 作品 中に出てくるいろいろな題材を使用して, 自分自身に都合のよいストーリーや意味を創造することがよくあ るからなのである. したがって, 精神分析学の立場から見ると, こうした読者の文学作品に対する自己防衛 的戦略が文学批評において見られるとするならば, つまり, 文学作品に対する 反応がもっ ぱら投影的反応で あるとするならば, 文学批評の範囲は際限なく広がってしまい, 文学批評の客観性はなくなってしまう. 読者の文学作品に対する 「投影的反応」( i t j o ec ve response) は, 文学 作 品 を解 釈 する 場 合, 読 者 が生 pr まれて以来ずうっと形成し続けてきた価値観などが無意識のうちに文学作品の解釈の基準を越えたその人な りの判断基準として作用してしまうことを意味することになる. したがって, 投影的反応のメカニズムを検 証することがより適切な文学批評の前提となると言える. 多くの批評書 (私のものも含めてのことだが) を投影的反応の例とみなすことは容易にできる. この投 影 的 反応 似 は投 影 的 同一視 (pro i i dent近ca t jec t vei on) と いう 初期 の (幼 児期 の) 発 達段 階にお ける 防衛. 機能が含まれていることがある. 投影的同一視は, 自己と他とのはっきりとした区別を確立する前に起こ る投影的過程を明確に定義するために, M. クラインによって初めて使用されたものである……投影的同・ ー 視 のメ カ ニ ズム は, 「自 己の 一 部 と 自己の 内 部 の対 象 が 分 裂 し, 外部 の 対 象 に投 影さ れる と いうメ カ ニ ズム なのである1 」. この説明から, 「投影的同一視」 によっ て, 自己と他の区別は確立されておらず, 自己と他とは混同され たま ま である こと がわ かる. した がっ て, 外部 の対象 に投 影さ れたも の は, 自 己にと っ て都 合 の 良い も のの こ ともある し, 都 合の悪 いも の のことも ある.. 「投影的同一視」 のこうしたメカニズムを文学研究にあてはめてみると, 文学作品を読む側にとっ て, 無 意識のうちに都合が悪いと感じられるとき, 完全な否定という反応につながるし, 無意識のうちに都合が良 いと 感 じら れる とき, 完 全な理想 化 につ な がる と いう こ と になる. ロ レンス 文 学の研 究 の場 合, 特 にこの 傾 向が強い と思 わ れる.. 精神分析学の 「投影的同一視」 の理論を実際の患者の治療に適用するとき, もっと厳密な分析が必要とな る.. 「投影的同一視」 は, 無意識の感情状態を押え込むために, こうした感情を他 に帰するために機能する のであり, 他とは実際の人間を対象にすることもあるし, 空想上その対象の代りになるもののこともある. 他に無事に帰したこうした感情を使って, 個々の人間は自己の望ましくない面を押え込もうとするのである2 . こうした状態が病的なものになると, この段階の 「投影的同一視」 は第一段階の 「投影的同一視」 である. 文学作品が作家の精神が無意識のうちに投影されてできたものであるというふうに考えれば, 作品は第一段 階の 「投影的同一視」 に属していることになる. 患者に対して精神分析による治療法を用いる場合, 患者は心理療法士に対して自分の症状についていろい ろ語るが, 正確に症状を心理療法士に伝えているということにはならない. 患者は自分に都合の良い部分の 66.
(4) . ロレンス研究の客観性を求めて. みを伝え, 心理療法士に自分を理解してもらおう とするのである. こうした患者の症状に対して, 心理療法 士側の投影的反応が起こる. これが第二段階の 「投影的反応」 である. 文学作品に関して言えば, 作家は作 品を通して読者に対して伝えたいことを正確に述べているとは限らない. 作品は作家の投影的反応の産物だ からである. さらに, 作品は読む側の投影的反応を刺激する. 文学の研究者や批評家がこの投影的反応によ って文学批評を行うとすると, これが第二の 「投影的同一視」 にあたるのである. 精神分析学を用いる心理療法士は, 患者の 「投影的同一視」 と心理療法士である自分の 「投影的同一視」 を経験し, 吸収することのできる能力を持たなければならない. これが第三段階の 「投影的同一視」 なので ある. これによって心理療法士は, 自分の投影的反応を排除し, 客観的に患者の症状を理解することができ るのである. 文学研究の場合にも同じことが言える. 研究者や批評家は自分の投影的反応を排除することに よって, 文学作品からは直接的には見えてこない作品の背後にある作家の真の意図を客観的に理解できるの である.. かなり洗練された読者でさえも, 自分の内部世界に投影された対象 -- 都合の良いものもあれば, 都 合の悪 いもの も ある の だ が--- をロ レンス のよう な作 家 と 同一視 し, その 対象 と の 関連 で, 作 家と その作 品 に反応 する. 思う に L. D. ク ラ ーク が1970年 の タオス にお ける D. H. ロ レンス ・ フ ェ ス ティ バ ル に. おいて, それがわれわれの内部にあるのだと指摘したものの背後で作用している精神のメカニズムなので ある. ク ラ ーク は, 「どの 人 間にも そ の 人 な り の ロ レ ンス のイ メ ー ジが あ り, 結 局 の と ころ, どの 人 間も. そのイメージに忠誠を示すのである」 と指摘したのである. われわれは実にうまく自分自身の批評上の立 場を合理化し防衛する……そうした反応は, いろいろな防衛装置を付けた文学批評として発表されるのだ けれども, 実際は批評家自身の内部世界から出てきているのであり, 感情に左右された境界の混合, つま り, 自己と他との不明確な区別を含んでおり, そのため批評上の反応に意味ありげな色付けを施すのであ る3 .. 投影的反応による文学批評は, 精神分析学の観点から見てみると, 必然的に主観的反応を伴うものなのであ る. 主観的文学批評を避けるために, 第三段階の 「投影的同一視」 の能力が必要となり, 精神分析を用いた 心理療法が, 客観的に患者の精神の内部に入っ ていく 「感情移入」( hy ) という概念を理解する必要 t empa がある.. 文学 上の 概念 と して の 「想 像 的感情移 入」 ( imag i i t thy) は ジ ョ ン. キーツ が 「ネ ガティ ブ. veempa na ケイ パ ピリ テ ィ ー」 (nega i ) と 呼ん でいる も の と 関連 が ある. つ ま り, 「人 間 が事実 や 理屈 t vecapab道ty. を手に入れようとする焦りを免れて, 不安や神秘や疑いのなかにいることのできる消極的でいられる態度」 と 関連 がある. ア ル フ レッ ド・マ ー ガリ ー ズ は, 「新 しく 経 験する」 ( i i l ) 手段 と して, exper enc ng esh y フ ッ サ ー ル の 「現 象 学 的 還 元」 (phenomenol l reduct ion) と フ ロ イ ト の 「自 由 連 想」 ( f ogi ca ree i a ssoc a亘on) との類 似 点 を比 較 し, キ ー ツ の 「ネ ガ ティ ブ・ ケイ パ ビリ ティ ー」 と を 関連 づ ける. キ ー ツ. の, 「詩人にはアイデンティティ ーはないのであり -- 詩人は絶えず求める状態のままでいるのだ -- 他 者の肉体を満たすのである」 という解説を引用して, マーガリーズは, 精神分析学者としての自身の経験 を利用して, キーツが追求していた 「内部から熟視された対象を明らかにするかのように, 他者の実在の なかで自分自身を感じる」 ということの目的は, 詩人ばかりではなく, 精神分析による心理療法士が他者 と対時しようとするための本質的な資質なのであるということを示している. マーガリーズは, 他者の世 界を共有するために必要なふたつの大まかな方法を説明している. ひとつの方法は, 期待や予断の排除と 67.
(5) . 石田 洋至. 他者についての結論を下すことの回避であり, もうひとつの方法は, 「想像的感情移入」 を用いた自分自 身の 意 識の 他者へ の投 影 である とす る. 一 番 目の 方 法 は 「ネ ガティ ブ・ケイ パ ビリ ティ ー」 に対 応 し, 二. 番目の方法は 「感情移入」(E遊ん亙皿ゆ に対応する4 . 文学作品, 批評, 精神分析学のそれぞれの分野には当然違いはある. しかし, こう した相違を乗り越えて, 精神分析学的手法を文学批評に応用してみることには意味がある. もちろん, 作家は精神分析学でいう患者 ではないし, 批評家は患者との治療関係に入る心理療士の立場にある わけではないが, 「想像的感情移入」 の特質は, 批評家にとっても心理療法士にとっても重要なものであると考えられるのである. ・とって都合の悪いものであると否 文学作品を読むと, 読む側の 「投影的同一視」 が作用し, 作品が読者に 定的反応を喚起し, その作品に対する嫌悪感を生むことになり, 極端な否定につながる. 作品が読者にとっ て都合の良いものであると肯定的反応を喚起し, その作品を賞讃し理想化してしまう感情を生むことになり, 過度な肯定につながる. こうした 「投影的同一視」 を排除し, 読む側が自分自身の作家に対する投影的反応 を一時的に停止して, 主観を排し客観的に作品を評価することのできる能力が 「想像的感情移入」 なのであ る.. 文学批評上の読みが精神分析的情況と類似していることに注目してみると, 作家の精神の投影による所産 である文学作品は第一段階の 「投影的同一視」 であり, 患者の 「投影的同一視」 と見ることができる. 文学 批評家の立場にある読者は精神分析学者の立場をとることになる. 第二段階として, 精神分析学者の 「投影 的同一視」 が作用し, 主観的診断が下される可能性が生じる. 批評家にとっ ては主観的評価を下す可能性 が 生じることになる. 第三段階として, 精神分析学者と同じように批評家も自分の 「投影的同一視」 を停止さ せ, 「ネ ガテ ィ ブ・ ケイ パ ビリ ティ ー」 で説 明 さ れて いる 態 度, つ ま り, 自 己のアイ デ ンテ ィ ティ ー を強調 する の で はなく, 自 己を他 者 のアイ デ ンテ ィ ティ ーの な か に置 き, 客 観的 な立場 で作 品の なか にいる よう に. するのである. そうすれば, 「投影的同一視」 が作用していては見えない部分が見えてくるのであり, 作品 中の真実を正確に伝えることができるようになるのである. このようにして自己の 「投影的同一視」 に支配 されない文学批評が可能になるのである. 患者の 「投影的同一視」 に対する精神分析による心理療法士の 「感情移入」 を用いた方法は, 適切に用い られると文学批評上の 「想像的感情移入」 を用いた方法と直接関係してくる. 批評家は 「感情移入」 を用 いる精神科医の役割を果せばいいのである5 . 精神分析学の理論がすべて文学批評にあてはまるということではなく, 文学批評に客観性を持つ方法として, 「投影的同一視」 , 「感情移入」 などの理論は, 文学批評において重要な意味を持つと言えるのである. 批 評家 は, 自分の ロ レンス 研 究 が主 観的 にな らないよう に, た とえロ レンス に共 鳴 し, ロ レ ンス か ら得 る も の がい か に 大であ っ た と しても, ま た, そ の 逆 であ っ た と しても, ロ レンス 文学 を客 観 的に見 て, ロ レン. スの正しい評価を試みる必要がある. 「感情移入」 の持つ特質は, ロレンスが言っ ているように, 作家よりも作品に忠実にということを知っ ているときでさえも, 自己の無意識の過去の記憶を停止させることができるのであり, 芸術家の意識的で 教訓的な意味を行間から読み取り, その背後にある無意識的願望の成就や 「神話的意味」 を把握すること ができるのである. このように, 作家と 「感情移入」 的関係を持つことで, 芸術の持つ精神の健康を回復 6 する 治療 的機 能と して, ロ レンス が見 ていたも のを 理解 する こと を可能 とする の である. 68.
(6) . ロレンス研究の客観性を求めて. 「批評家は, 無意識で分析されていない, うかつな 「投影的同一視」 を乗り越えて成長し, 自己の内部世 界に都合の良い対象として, あるいは自己の内部世界に都合の悪い対象として, 批評家自身の芸術家像 (ロ レンス 像) を 死 守 し, ロ レ ンス を 批 評家 自 身 の特 別 な ロ レ ンス と して はな らな い′ 」 と いう の が, カ ウ ア ン を は じめとする 精神 分析 学 的ア プロ ーチ による ロ レンス 批 評家 たち の主 張なの である. 皿 ロ レンス 研 究 の客 観性 を 生 理学 に求 める 研 究 法 もある. ロ レンス の 二 元 論 は, ロ レンス が否 定する も の と ロ レンス が主 張する も の とのバ ラ ンス を保つ た めのも の であ り, 生 理学 の 「ホメ オス タ シス」 (生 体恒常性, ) は, ロ レンス 文 学の 本 質を 知る 重 要 な 要 素 と なる. た と え ば, 人 間の 体 温 は常 に外界 の 影響 homeos i t as s を受 ける け れ ども, も しイ ンバ ラ ンス が生 じる と, バ ラ ンス を保つ よう に身 体 は機 能 する. こ れ が 「ホメ オ ス タ シス」 である が, 人 間の精神 も 身体 と 同 じよう に 「復元力」 ( ) を 持ち, 一 方 に振 れ過 ぎる と resmence 精神 の 健康 を守る た め に, バ ラ ンス を保つ よう に精 神 は機 能する. こ れがロ レンス 文学 に見 ら れる 「トレン ブリ ン グ・ バ ラ ンス」 ( lmg ba l ) なの であ り, この精神 の機 能 が文学 の 「創 造 的変化」 ( t remb ance creadve change) な の で あ る.. ロ レンス が生 き て いた 時代 にお い て, 科学 が人 間を どのよう に捉 えて き たの かという こ とを考 える と, 科. 学は人間の各器官は単独に存在するとし, 他の器官との有機的関係を考慮せずに人間の身体を研究の対象と してきた. しかし生理学は, 身体には内部環境が存在し, 各器官が身体の内部環境を守るために統一のとれ た働きをして, 身体の外部環境の影響を排除することによって身体の健康を守っているという考えから出発 して いる.. 単細胞生物と高等動物細胞との最大の相違は, 後者には内部環境が存在することである. 内部環境は, 狭義には細胞外液を指し, その中に含まれる諸部分, その温度, pH, 浸透圧などほぼすべてが一定に維 持 さ れて いる. こ れ を 内 部 環境 の恒 常 性 (ホメ オ ス タ ー シス, homeos i ) と 呼 び, 個 体 内 の各 器 官系 t as s. の統一のとれた協力によって初めてこれが可能となる. 恒常性の維持によっ て, 個々の細胞は体外の環境 の 変動 に左右 さ れず, 自由 に活動 する こと ができる8 ‐ このよう な 人 間の 身 体 の 捉 え 方 は, 「開 放系」 (open sys t em) であり, 身 体の 部 分を切 り離 し, そ の部 分 の み を単 独 で研 究 の 対象 とする 「閉鎖系」 ( l t c osed sys em) で はない. こう した科 学の研 究方法 の相 違 を文. 学研究に採用 し, ロレンス文学の現代的意味を説明しようとするのが, ロレンス文学に対する生理学的アプ ロ ー チ であ る が, 生理 学 の 「ホメ オス タ シ ス」 を 更 に詳 しく 見 て みよう 「ホメ オス タ シス」 の 概 念 は以 下 . のよう なも の である.. 生 理 学 で最 も 基 本 的 な概 念 の一 つ にホメ オス タ ー シスhomeos i t as sが ある. ホメ オhomeoは 「似 て いる」 を意 味 し, ス タ ー シスs i ta s sは「停 滞」を意 味する. した が っ てホメ オス ター シス と は「停 滞 に似 た 状態」と. なるが, 実際にはこのような静的状態ではなく, いくつかの互に影響しあう系の間で特定の生理変数値 (たとえば体温や血圧)がほぼ一定に保たれる状態をいう. すなわち, いくつかの組織あるいは器官の基本 的な機能がうまく組み合わされ, その結果, 高次の機能が調和してほぼ一定に保持される動的状態をさす . 生体が種々 の環境の変化にもかかわらずほぼ一定の機能を示すことは早くから気付かれていた 177 年 5 . 英 国エ ジンバ ラ の 医 師B1 agdenは, 友 人 のFordyce医 師が127℃ も の 高 温 にも 耐えう る こと を身 をも っ て証 明 したと驚 き をも っ て報 告 している. 69.
(7) . 石田 洋至. ) は, 彼 の輝 か しい 研 究歴 の締 めくくり 1878 フ ラ ン ス の 碩 学 ク ロ ー ド ・ ベ ル ナ ー レ C1aude Be rnard (. として内部環境の恒常性l a 賃xite. du m道eui i eurの基 本概 念 に到達 した. のち に米 国の生理 学者 キ ャ nt er. ノ ン Wa l ) はこ れをホメ オス ター シス と名 づ けた. ホメ オス ター シス は 開放系 (外界 ter B 1929 on ( .Cam1. b i i と物質およびエネルギー交換のある系) を取り扱う点で物理学的平衡equn r umとは異なり, また普通に 物理学が取り扱う定常状態s t eadystateよりも さ らに多 因子 が関与する点 で趣 を異 に している9 . ロ レ ンス が生 きた 時代 に前 後 する 生理学 者 ベ ル ナー レと キ ャ ノ ンに言及する こと によ っ て, ロ レンス 研 究 に生 理学 の 「ホメ オス タ シス」 を利用 する こ との 正当性 を説 明するカ ウ ア ン は, ロ レ ンス の 「トレン ブリ ン グ. バ ラ ンス」 とキ ャ ノ ンの 「ホメ オス タ シス」 とを比 較 し, 次の キ ャ ノ ンの一節 を例 示する.. 高度に発達した生物はオープン・システム であり, 環境に対して多くの関係を持つ. 環境の変化はこの シス テ ム 内 に反応 を刺 激 したり, この シス テ ム に直接 影響 を与 える. そ の結 果, この シス テ ム に内部 的 障. 害が生じる. 一般的にこうした障害は狭い範囲に限定される. なぜなら, このシステム内の自動制御装置 が作 動 する か らであり, このこ と によ っ て 大き な揺 れ は起 こ らず, この シス テ ム の内 部情 況 は一 定 に保た 0 れ る1.. 「開放系」 内の自動制御装置とは自律神経のことであるが, 人間の身体の内部状況は不動で 「固定」 され て いる の で はなく, 一 定 の 範 囲 内 で変 化す る の であ る. つ ま り, 「ホメ オス タ シス」 は静 的 状態 をさ す の で. はなく動的状態をさしているのである. こうした身体の微妙なバラ ンスを保つ機能が身体の健康を保つので あ り, こ の バ ラ ンス が崩 れる と病 気 と いう こと に なる の であ り, 「ホメ オス タ シス」 は身 体 の健 康 に重 要 な 役 割 を 果た して いる. (精 神 の 健 康 に 関 して, ロ レンス の 「トレ ン ブリ ング・ バ ラ ンス」 の 機 能 が 「ホメ オ ス タ シス」 にあ たる.). 生体にとって最も基本的な循環・呼吸・消化・代謝・分泌・体温維持・排撮・生殖などの機能は自律機 能と呼ばれる. 自律神経は平滑筋, 心筋および腺を支配し, 自律機能を協調的に調節 している. 体性神経 系が意識的随意的な制御を受けるのに対し, 自律神経系は意識的随意的な制御を受けない. そのため自律 神経系は, 植物神経系あるいは不随意神経系とも呼ばれる. l Lang eyが1921年に, 自律神経系を抹消性の遠心路として定義して以来, 自律神経系はその遠心路に限 定して考えられてきた. その後, 自律神経系の機能が詳細に研究される につれて, 求心路の存在すること が明らかになった. 現在では, 自律神経の機能を理解するのに自律神経求心路を無視することはできない. ただLang l eyの昔の定義にこだわる場合に, 自律神経の求心路を内臓求心路と呼ぶのが普通である. 自律神経は生体の恒常性 (ホメオスターシス) の維持に重要な役割を果たす. 生体の外部および内部環 境の情報は, 自律神経の中枢レベルにおいて統合され, 自律神経遠心路を介して自律性効果器に伝えられ る. 生体内で多くの場合, 自律機能は自律神経系, 内分泌系, 体性神経系によっ て協調的に調節される. 自律機能の調節は, 一部の例 では消化管の壁内神経叢のように抹消レベルでも行なわれる場合もあるが, 多くの例では脊髄, 脳幹, さらに高位の中枢 (視床下部, 大脳辺縁系, 小脳, 大脳皮質な ど) で統合的に 1 行 なわ れる1 . 2 ベ ル ナ ー ル が 『生 命 現 象1 』 にお い て, 生 命のメ カ ニ ズム は, どれほ ど変化 しよう と も, 身 体の 内 部 環境 を一 定 に保つ こ とを 唯一 の目 的と している という 趣 旨の こと を述 べ て いる が, こ れはキ ャ ノ ンの 「ホメ オス 70.
(8) . ロレンス研究の客観性を求めて. タ シ ス」 の概 念と 同 じもの である.. 生 理 学 的 ア プロ ー チ に よ っ て, ロ レ ンス の 文 学 理 論 を 説 明 しよう とす る 試 み に はいくつ かの 理 由 がある. ま ず 第一 に, ロ レンス 自 身 が生 理学 に興 味をも っ てい た 事実 である. ロ レ ンス は, 1914年6月5日にエ ドワー ド・ ガーネ ッ トに出 した手紙 のなか で, イ タリ ア の未 来 派の詩 人マリ ネ ッ テ ィ (F ) i th 1876‐1944 ne r .T .Ma に言及 して, 次のよう に述 べ ている.. この 本 はいく 分未 来 派的 だと私 は思う-- 無 意 識 的にそう な っ ている の だと思う. しか し私 がマリ ネ ッ. ティ を読むとき, 一言ごとに重ねられていく生命の深い直感が, その非論理的概念によっ て, 物質の直感 3 的 生理 学 を与 えてく れる の である. 私 は追 求 している も の を理解 する の である1 . (※こ の 本と は 『虹』 (&山ロbow l ) と 『恋する女たち』(故e women 童 Love l920) の原形 と な っ た 9 15 『結婚指輪』 (Weddmg Rmg) のこ と である.) もう ひとつ の理 由 は, 『虹』 にお ける 主 人公ア ー シ ュ ラ の生 き方 にあ る. 『虹』 は三 世代 の生 き 方 を描 いた. ものであるが, 人生の疑問に対して第一世代は 「神」 (God) にその解決策を求め, 第二世代は 「教会」 (Chur ) に解決策を求めている. 「神」 や 「教会」 は変化することのない絶対的存在である. これは科学 ch の 「閉鎖系」 と して の人 間の 扱い と 同質 なも の なの である. しか し第三 世代 の ア ー シ ュ ラ は 人生 の疑 問 に ,. 対する生き方を 「闇のなかの自己」( ) に求 める. ア ー シ ュ ラ がこう した認 識 に至る 経 he selfin darkness t 過は 『虹』 の 「愛の歓喜と苦杯」(The Bitterness of Ecstasy) に示 さ れている. カ ウア ンによ れ ば, 「ロ レ ンスの作品は生理学的ホメオスタシスに対する意識を示しているが, いつも生命の神秘に対する鋭い感受性 4 と生命の神秘の目的についての究極的な宗教的問題を伴うものである1 」 . 「愛の歓喜と苦杯」 の章において, ア ー シ ュ ラ は 単細 胞 の原 始 生物 を顕 微鏡 で見 て いる. 彼 女 の先 生 である フラ ンクス トン博 士 にと っ て のこの. 生物は, 電気や電気が作り出す熱と同類のものであっ て ひとつの生命をもつ有機体ではないのである こ , . の 生物 を フラ ンク ス トン博 士 は 「閉鎖系」 の存在 と して 扱 っ ている の である しか しア ー シ ュ ラ にと っ てこ . の生物 は, 生 命の神 秘 を持つ も の であり, 彼女 はこの生物 に生 理学 的 「ホメ オス タ シス」 を見る の である .. 彼女は非常に元気で顕微鏡の観察に取りかかったが, そのくせ注意力がほとんど半分も集中しない そ . れでもと も かく 大急 ぎで, やる こ と だ け は きち ん と や っ て しま っ た ス ライ ドの実 験材 料 は その 日ロ , . , ン ドンか ら届 い た という ある 特別 のも の で, 教授 は す っ かり興 奮 して 大騒 ぎを して いた ア ー シ ュ ラ , , .. は, 視野の中に光の焦点を決め, 明るい光の中に影のように横たわっている原始生物をじっと観察してい る 間も, 心 は同 時 に, つ い二, 三 日前 物 理 学の 女 教 授フラ ンクス トン博士 と 交 したある 会話の こ と で一 , ばい にな っ て いた. 「い い え, 本 当 よ,」 と, フ ラ ンクス トン博 士 はいう の だ っ た 「生 命 と いう 現 象 に対 して な ぜ特 に神 . , 秘 的理 由 を考 え な け れ ばな らな いの か, わ た しに はわ か らない -- そう じゃ あり ませ ん? ,. むろ ん わた. したち に, 電 気 の こと がわ かる の と 同 じよう に 生 命の こ と がわ か っ て いる の という の じ ゃ ないのよ で , . も だか らと い っ て, な にかそ れを特 別 のも の, 宇 宙 のあ らゆる も の と 質 的 に全く 違 っ たも の 別 物 だと , ,. 考える根拠にはならないと思うの -- どう, あなた, そう思う ? 結 局 こ ん な こ と な ん じゃ な い か しら , つまり生命現象といっ たところでね, 結局それは物理的, 化学的諸作用の ただきわめて複雑な複合体だ , という だ けな ん じゃ な い か しら. そ して その作用 そ のも の はね わた したち がす でに科学 で知 っ ている 諸 , 作用 と, 少 しも違 わな い 同 じも の だと いう こ と. と に かく わた しにはわ か らない の な ぜ特 に生 命と いう , 71.
(9) . 石田 洋至. 5 」(中野好夫訳) --1 特別のものがあると考えなければならないのか, そしてまた生命だけが- アーシュラは生理学的 「ホメオスタシス」 の概念を越えて, 生命の神秘とその目的にたどりつくことにな る.. 会話 は, そ のま ま 妙 に は っ き り しない, あ やふや のう ち に終 っ て しま っ た. だが, 問題 は, い っ たい ど. ういうことなのだろうか? 電気には魂はない. 光や熱にも魂はない. してみるとわたしという人間も, やはり同じような非人格的な一つの力, それともただ多くの力の結合に過ぎぬというのだろうか? 彼女 の 眼は, 顕 微鏡下, 明る い視 野 の 中 に横 たわ っ て いる 単細 胞 生物 の影 を, じっ と見つ め て いる. た しか に 生 き ている. 動く の が見 える, -- 繊 毛 の動 く た びに, 明る い霧 のよう なも の が動く の が見 える. キラリ. と光る細胞核も, 光の中をかすかに滑る ごとに, はっきりと見える. それならこの生物の意志とは, 果し てなになのだろう? もしこれが, 物理的化学的諸力の結合だというならば, いったいそうした力を結合 させ て いるも の, そ してま たそ の結合 の目 的という の は, なに なの だ?. そもそも何の目的があっ て, そうした無数の物理的化学的諸作用が, 今この顕微鏡下, まるで影のよう に動く一点に, 結合されねばならなかったのか? それらの力を結合させ, 今見るこの生物の意図はなに なの だ?. 自己の 実現, そ の ため なの だろう か?. そ れに して もそ の目 的と は, た だ単 に機械 的 な, 自 己. にただ局限されたものなのだろうか? なる ほ ど, 自 己の実 現, そ れだ けの こと なの かも しれない. だが, そ れな らそ の 自 己と はな ん だ?. 突. 然彼女の 心の中で, 不思議にも世界が, ちょう ど顕微鏡下の細胞核と同じように, 異様な光を帯 びて輝き はじめた. 一瞬彼女は, 舷いばかりに輝く知見の光の中に飛び込んでいたのだった. 彼女自身にも, 全体 の意 味 はよくつ かめ なか っ た が. だ が, た だ一つ は っ きり した こと は, そ れは決 して 限られた機械 的エネ ル ギー でも な け れ ば, た だ単 に 自己保存, 自 己主張 という ため のもの でも ない. い わ ばそ れ は, 自我 の完 成, 無 限者 になる こと であ っ た. 自我 と は, 無 限と一つ になる こと. 自 己実 現 と は, とりも なお さ ず 輝く 1 6 無 限の至上 の 勝利, その こと だ っ た の だ . (中野好 夫 訳). 結局, アーシュラが見出した生命の神秘とその目的は「自我の完成, 無限者になることであった. 自我とは, 無限と一つになること. 自我の実現とは, とりもなおさず輝く無限の至上の勝利」ということなのであった. 生理 学の 「ホメ オス タ シス」 と ロ レンス の 「トレン ブリ ン グ・ バ ラ ンス」 を 関連 づ ける 根 拠 をカ ウ ア ン は どこ に見 出 した の かという こと が 問題 と なる が, ロ レンス の小 説 論 にお いて示 さ れる 「トレ ン ブリ ン グ・ バ. ランス」 の概念が, 人間を有機体と考える 「ホメオスタシス」 とが人間の捉え方において同 じものなのであ る という 点 に注 目 したの であ る. もち ろ んロ レンス とキ ャ ノ ンは小 説家 と生 理学 者 と いう 点 で違 い はある の だが, まず, ロ レンス の 「トレン ブリ ング・ バ ラ ンス」 と は何 を 意 味す る の かと いう ことを考 えてみよう.. ) において, 人間と人間を取り巻く宇宙との関係を明らかにする ノ 『道 徳と小 説』 (Moz e a瞬 か and 鉱e Mov ことが芸術 (小説) の役割であるとロレンスは主張する. 小説は人間が発見 した微妙な相互関係のうちで最高に複雑なものなのである. すべてのものはそれ自体 の時代, 場所, 環境の内においては真実であるが, それ自体の時代, 場所, 環境の外においては真実では ないのである. 小説において, もし何かをく ぎ付けにしよう とするなら, その何かが小説を殺してしまう こと にも なる し, 小 説 が立ち上 っ て, く ぎと共 に歩 き去 っ て しまう こと にも なる. l i t ng instabmty of remb 小 説 にお ける 道 徳 と は, 振動 によ っ て バ ラ ンス が不安 定な 状態 のこ と をさ す ( 72.
(10) . ロレンス研究の客観性を求めて. ). 小 説家 が 計り に手 を触 れて, 自 分 自身 の好 みの方 へ とバ ラ ンス をく ず す な ら, そ の こと は ba l ance 1 7 る. こ で明 らか な こと は, ロ レンス の考 える 小 説 の小 説 たる ゆえ ん は, 生 理学 の 「ホメ オス タ シス」 と一致. 生 命 は次のよう に作 ら れて いる. つ ま り両 極 は振動 する バ ラ ンス を 中心 と して揺 れる ので ある. 父 親の. 、代の罪は, 子供の時代に受け継れる. 父親の時代が愛, 平和, 生産の側へとバラ ンスを崩すなら, 第三 代, 第四世代 は憎 悪, 怒り, 破壊の側へ とバ ラ ンス を激 しく揺り戻 すであろう. 私たち はその時々 によ っ て バ ラ ンス を保たなければな らないのだ.. すべての芸術の形式のなかで, なかんずく小説がバランスの振動と揺れを要求しているのだ. 「楽しい」 S I り であり, そ れゆえ, 血 と雷の小 説より も不 道 徳 なのである .. 注目に値するのは, 「生命は次のようにして作られている. つまり両極は振動するバ ラ ン ス を中心として れる のである.」(L迂eis so made,thatthe oppositessway aboutatrembl”1g centre ofthe balance) と, かんずく小説がバ ラ ンスの振動と揺れを要求しているのだ.」 ( the novel most of all demands the i natむig ofthe ba l ) と いう 部 分 である. こ れは生 理学の 「ホメ オス タ シス」 のイ ンバ mblmg ar ・d osc ance. ンスが生じるとバランス を取り戻し身体の健康を守る機能が精神にもあてはまることを意味する 「トレン リ ング・バ ラ ンス」 と いう ロ レ ンス の考 え方 と同 じなの である. / ) にお いてロ レ ンス は, 小 説 は教訓 的 なもの ではい けないの であ っ て, 小 説 にお い 回・説諭』(The Move. ものが相対的なものであり絶対的なものではないと言う. 小説は偉大な発見である. ガリレオの望遠鏡やだれかの無線よりもはるかに偉大な発見なのである. 小 、はこれまでに達成された人間の表現の最高の形式である なぜであろうか なぜならば小説は絶対とい . . う ことを可能 に しない か らである.. 9 ある小説が芸術であるならば, その小説のなかのすべてものが他のすべてものと相対的である1 . においては, 絶対的に変化しないものは存在しないのであって, 他との関係で変化するものしか存在 ないとロ レ ンス は言う のである.. 私 たち は生 身 なる も のと死 せる も の とを 選 択 しな け れ ばな らない. 生 身 なる も の はす べ て のもの にお い て 光り 輝 き, 死 せる もの は死 せる も のに しかす ぎない. … …. 生身なるものの生身たるゆえんを見出そうとすれば, それは生身なるものとそれ以外のものとの奇妙な 関係 にある. …… 次 に, 小 説 は教 訓 的絶対 性 を 含ま な い. 生身 なる も の はす べ て, そ して 生 身 なる も の によ っ て語 られ実 0 さ れる も の はす ばら しいの であ る2 .. ) を説明すると, 「生身なるもの」 は, 有機的で heq通ck ) と 「死せるもの」( hedead 「生身なるもの」( t t イナミ ックな開放系的存在を意味し, 「死せるもの」 は, 不動で固定された閉鎖系的存在を意味する. 「生 なる もの」 は, 生 理 学の 「ホメ オス タ シス」 , ロ レンス の 「トレン ブリ ン グ・ バ ラ ンス」 を, 「死せる も の」 73.
(11) . 石田 洋至. は, こ れま での科学の立場, 絶対 的存 在 と してのキリ ス ト教 を意 味 している. キ ャ ノ ンの 「ホメ オス タ シス」 とロ レンス の 「トレンブリ ン グ・ バ ラ ンス」 は, 生命 は有 機 的 で ダイ ナミ ッ ク な 「開放系」 であ る と いう 認 識 では一 致 して いる. キ ャ ノ ンと ロ レンス の違 い はふた り の方 法 論 にあ る.. キャノンは生命を合理的に検証する科学的な方法論を用いるのに対し, ロレンスは生命を直観的に経験する 宗 教 的 パ ース ペ ク テ ィ ブを用 いる の である.. もし人間の知識をその外側が未知なるものを包含する広大な暗闇に囲まれている光のあたる狭い領域で あ る と 考 える な ら ば, キ ャ ノ ンも ロ レ ンス も そ のよう に考え て いる と思 わ れる の だが, そ の未知 なる も の. を研究によって合理的に実験的に認識し, それらがいかに作用しているのかを説明することもできるし, 1 未知 なる もの を直 観的 に経 験する 方 向へ 進 むことも できる のである2 .. ロ レンス 文 学 に対 す る 生 理学 的ア プロ ー チ の 観点 か らす れ ば, ロ レ ンス の 「ト レン ブリ ン グ・ バ ラ ンス」 は, 生理学 の 「ホメ オス タ シス」 と 同 じレベ ルのも の であり, イ ン バ ラ ンス を起 こ している 人間の精神 に バ. ラ ンスを取り戻すものとして意義があるのであり, 精神の復元力が作用することで創造的変化が生まれるの である. 科学主義や産業主義, そしてこれらを支える現代キリスト教によって生じた精神の一方への振れ過 ぎを回復 しよう と してい たの がロ レンス 文学 なの である.. ロ レ ンス 文学 に対 する生 理学 的ア プローチ は, ロ レンス 文 学の研 究の客 観性 を生 理学 の 「ホメ オス タ シス」 に求め, 身 体と 同 様に精神 にも バ ラ ンス を保つ 機 能 があり, そ れ がロ レンス の 言う 「トレン ブリ ン グ・ バ ラ ンス」 である と した. 精神 の バ ラ ンス を保つ 機 能 がヨ ー ロ ッ パ 文学 で どのよう に働 いて い たの かを考 える と き, ニ ーチ ェ に 向う 研 究 があ る. ニーチ ェ の言う ヨーロ ッ パ の芸 術 に見 られる ア ポロ 的 なも の と, ディ オニ ソス 的 なも の と は どのよ う なも の であ り, この ふ た つ が どのよう な 関係 にある の かという ことを示 す こ と に よ り, ロ レ ンス 文学 を 検証 し評価 しよう とする の が この 研 究法 のね らい であ っ た. と ころ で, ニ ーチ ェ はア ポロ 的なもの と ディ オニ ソス 的なも のと を どのよう に定義 したの であろう か. 2 リ ー ヴィ ス は 『エリ オ ッ ト氏 とロ レ ンス2 』 にお いて, エリ オ ッ トと ロ レンス の 違 い は, 「生を妨 げる も の と 生 に役 立つ も の」 との違 い である と いう 主 旨のこ とを述 べ て いる が, こ のリ ー ヴィ ス の見 解 は, 部 分 的 に ニ ーチ ェ の 考 えに似 ている と ころ がある. ニ ーチ ェ は, 彼 がか かえてい た課 題 は 「学 問 を芸術 家 の視点 のも と に, さ らに芸術 を生 の 視 点 の も と に見 る と いう こと であ る潟」 と述 べ て いる. こ の こ と の 意 味 は生 の 視点. を抜きにして芸術を語ることはできないのだということである. ロレンスは彼の生きた時代の合理的精神や 科 学 主義 にも と づ く 学 問の当 然 の帰結 をき び しく 弾劾 している が, ロ レンス の 関連 で考 える と, ニ ーチ ェ の. 次の一節を見逃すわけにはいかない. 一切 「近代的諸理念」 とデモクラシー的な趣味の先入観にもかかわらず, おそらく楽観論の勝利, 支配 的となった合理主義, 実践上および理論上の功利主義は, 同時代に存在するデモクラシーそのものと同様 に, 低下する力・近づく老年期・生理学的疲労の一徴候ではなかろうか? 悲 観 論で はなかろう か? たろう か?. エ ピク ロス が楽 観 論者 であ っ た の はほかな らぬ病 苦 に悩 む 人と して で はな か っ. -- ごらん のとお り, こ の書物 が背負 い 込ん でいた の は, さ ま ざま な重大 な問いの 束 である.. --われわれはさらにもう一つ, もっ とも重大な問いを追加しよう! か--道徳は?…… 74. 絶対的にそうでないのは--. 生の視点で見て, 何を意味するの.
(12) . ロレンス研究の客観性を求めて. 生と道徳とはどのような関係になるのであろうか. 道徳とはもちろんキリスト教を基盤とした道徳である が, こう した道 徳 に 関 して, ロ レンス はニー チ ェ と見 解 を共有 している ところ がある. ロ レンス がキリス ト 教 的道 徳 を否 定 している こ と は明 らか である が, ニ ーチ ェ は, 生 は本来 的 に道徳 と対立 する もの である と考 え ている.. この反道徳的傾向の深みは, 私の書物全体のなかでキリスト教-- かつて人類が聞かされたことのある 道徳的テーマのもっとも途方もない修飾としてのキリスト教--を取り扱う際の慎重で敬意に満ちた沈黙 から, もっ ともよく推察されるであろう. 真実のところ, 私の書物に説かれているような純粋に美学的な 世界解釈と世界=正当化にとっ ては, ひたすら道徳的であるし, あろうと欲し, たとえば神の真実性のよ うな絶対的尺度によって芸術を, あらゆる芸術を虚偽の国に追放する. つまり否認し呪い断罪するキリ. スト教の教説より大きな対立は存在しない. 純粋であるかぎり芸術に敬意を持たざるをえないこの種の考 え方と評価法の背後に, 私はむかしから, 生に敵対的なもの, 生そのものに対する怨恨と復讐心に満ちた 反感を感じ取っていたのである. なぜならば, 一切の生は外見・芸術・欺踊・見地に, 遠近法と誤謬の必 然性に基づいているからである. キリスト教はそもそもの初めから本質的, 根本的に, 生の生に対する嫌 悪と飽満であっ て, それが, 「他の」 あるいは 「より良き」 生への信仰に仮装し, 隠れ, 装飾を求めたに すぎないのである. 「世界」 への憎悪, 情熱に向けられた呪説, 美と官能性への怖れ, 此岸をいっ そうう まく誹諾するために案出された彼岸, 根本において無への, 終末への, 安息への, 「安息中の安息日」 へ の欲求--これら一切のものは私には, 道徳的価値のみを認めようとするキリスト教の絶対的な意志と同 様に, 一つの 「没落への意志」 のありうるかぎりのもっとも危険で, もっ とも気味悪い形式だと思えた. 少 なく とも 生 につ い ての極 度 に深 い病 気 ・ 疲 労 ・ 困億 ・ 貧 困の 一 徴候 と思 え た. -- なぜ な ら, 道 徳 (と. りわけキリスト教の道徳, つまり絶対的道徳) に照らして見れば, 生は, 本質的に非道徳であるがゆえに, 絶えず, 不可避的に不正だとされざるをえない. --軽蔑と永遠の 「否」 の重荷に圧しつぶされ, しまい には生は願望するに値しないもの, それ自体無価値なものと感じられざるをえなくなるであろう. 道徳そ のもの -- これはどうか? 道徳は 「生の否定の意志」 , ひそかな破壊の本能, 額廃原理, 卑小化原理, 誹謎原理, 終末からの開始, そして結局は 「危険中の危険」 になるのではなかろうか?……こうして当時 私の本能は, 生の代弁者たる本能として, この疑問を羊んだ書物をもって道徳に反抗的に立ち向ったので あり, 生の原則的な対抗教説と対抗評価, つまり一つの純粋に芸術的で反キリスト教的な教説・評価を案 出 した の である. こ の 教 説・ 評価 を 何と 呼ん だ らい い の か?. 私 は文 献学 者お よ び言葉 の達 人と して, い. ささ か勝 手 に一-- な ぜな ら, ア ン ティ ク リス トの正 しい名 を 知 っ ている 者 があ ろう か ?. -- ギリ シ ャ の 5 一柱 の神 の名 を洗礼名 に使 っ た. つま り私 はそ れを ディ オ ニ ュ ソス 的と名 づ けたの である --2 . 「かつ て 人類 が 聞 かさ れた こ と の あ る 道 徳 的 テー マ の も っ とも 途 方 も な い 修飾 と して の キリ ス ト教」 「生 ,. に敵対的なもの, 生そのものに対する怨恨と復讐心に満ちた反感」 , 「生の否定への意志」 というように説明 されるキリスト教的道徳とそれに対立する 「対抗的説教と対抗評価, つまり一つの純粋に芸術的で反キリス ト教 的な教説・ 評価」 が, ア ポロ 的なも の と ディ オ ニ ソス 的なも のと の対 立な の である. こう したニ ーチ ェ の キリス ト教 に対す る 反応 は, ロ レンス の 反応 と 同 じ種類 のも の であ り ロ レンス 文 学 , の 中核 をな している. こう した ロ レ ンス のキリス ト教 的道 徳 の否 定をリ ー ヴィ ス は一 貫 して擁 護 して いる の. であるが, リーヴィスは 「生を妨げるものと生に役立つもの」 という以外に明確な根拠を示していないと言 える. ロ レンス 研 究 史上, リ ー ヴィ ス の果 した役 割 は, エリ オ ッ トの ロ レンス 批 評 を乗り越 える と いう 点 で は十 分評価 できる の である が, リ ー ヴィ ス 以上 にロ レ ンス 評価 の客 観性 を持 たせ る ため に ニ ーチ ェ のア ポ , 75.
(13) . 石田 洋至. ロ的 なも の と ディ オ ニ ソス 的なも のと に着 目 し, こ のふ たつ の対立 する 概 念がロ レンス 文学 に どのよう に関 係 して いる の か と いう こ とをロ レ ンス 文学研 究 の 出発 点 に しよう とする ロ レ ンス 文学 に対 するア プローチ が リ ー ヴィ ス 以後 に現 れた の である. ニ ーチ ェ の ア ポロ 的 なも の と ディ オ ニ ソス 的 なも のと の対 立 が注 目さ れる の は, そ れが, ロ レンス 文 学 に. 見られるロレンスの主張が, 反キリスト教的, 反社会的, 反民主主義的なものであるように見えたとしても, その主張には根拠がある, 芸術上そして哲学上の根拠があることを強調する理由を与えてくれるからである. ロ レンス 研 究 者 か ら見る と, リ ー ヴィス がいく らロ レンス を擁 護 しよう とも, そ の根 拠 が 「ロ レンス は才能 に恵ま れてい た か らである」 と いう こと だ けで は, 説 得力 はあまり ない と 反 論さ れる であ ろう. エリ オ ッ ト. と同様にリーヴィスもまた精神分析学の 「投影的同一視」 に左右されていた側面があっ たのかもしれない. ニーチ ェ の 『悲劇 の誕 生』 にお ける 次 のよう な ア ポロ 的 なもの と ディ オ ニソス 的 なも の との対 立 は注 目 に値 する. も しわ れわ れが, 芸 術 の 発展 が ア ポロ 的なる も の と ディ オ ニ ュ ソス 的 なる も の との相 麹 に結 びつ いて い. るのは, ちょうど世代が継続する闘争とただ周期的に現われる和解の形での男女両性という二元性に依存 するのと同様であるということについて, たんに論理的な見解だけでなく, 直観の直接的な確実性につい てまで到達したなら, 美学のためには大きな収穫を得たことになろう. 右の二つの名を私は, 自分たちの 芸術直観の深刻な秘教を概念においてではなく, 神々の世界のきわめて明白な二つの形姿において, 洞察 力 のある 者 の 耳 に は聞き と れる よう に した ギリ シア の 人か ら借用 する. ギリ シア の二 柱 の芸術神, ア ポロ ンと ディ オ ニ ュ ソス と に結 びつ けて考 察す れ ば, ギリ シ アの 世界 の なか で は彫刻 家 の芸術, つ ま り ア ポ ロ ン的芸 術 と, 音 楽 と いう 非 造形 的芸 術, つ ま り ディ オ ニ ュ ソス 的芸 術 とのあ い だ に, 起 源か ら見 ても 目 的. から見ても巨大な対立が成立する, という認識がわれわれに与えられるのである. あれほどにも異なった 両衝動は並んで進み, たいていは公然たる不和のなかで, 相互にますます新しくていっそう強力な誕生を するように刺 激しあい, やがて誕生したものたちとのあいだであの対立の闘争が永遠化し, もはや 「芸術」 という言葉はあの闘争に外見上だけの調停をするにすぎないことになる. そしてついにあ両者はギリシア 的 「意志」 の形而上学的な奇積行為によって, 結合した姿で現われ, 最後にディオニュソス的であるのと 2 6 同 程 度にア ポロ ン的な芸術 作 品たる ア ッ テ ィ ケ の悲 劇を産 み 出すの である .. ニーチェはア ポロ的なものの衝動とディオニソス的なものの衝動を生理学的現象としての夢と陶酔である と言う. アポロ的な衝動を示す夢は次のように説明されている. 夢 の 経験 の こ の楽 しい必 然性 は, ギリ シ ア 人 によ っ ても 彼 らの ア ポ ロ ンのな か に 表現さ れ たの である.. すべての造形的な力の神 としてのアポロンは, 同時に予言する神である. 語源から言えば 「輝く者」 , 光 の神であるアポロンはまた, 内面の想像=世界の美しい仮象をも支配する. 行きとどかない理解しか許さ れない日常の現実に対立して, 夢の状態のより高い真実性, 完全性, さらに眠りと夢のなかで治癒し援助 す る 自然 につ いての 深 い意 識 は, 同 時 に予 言 の能力 の, 一 般 に生 を可 能 に し, 生 きる に値する も の にする. 諸芸術の, 象徴的類似物である. しかしまた, 夢の形象が, 病的に作用しないために踏み越えてはならず, さもないと仮象が粗野な現実としてわれわれを欺くにいたるべき -- あの微妙な線はアポロンの像に不 可欠である. それはすなわち, あの節度ある制限設定, 荒々しい興奮からのあの自由, 造形家たる神の智 慧に満ちたあの安静である. 彼の眼はその起源にふさわしく 「太陽のよう」 でなくてはならない. この眼 は怒って不機嫌なまな ざしになるときにも, 美しい仮像の神聖さにおおわれていなくてはならない. こう 76.
(14) . ロレンス研究の客観性を求めて. して ア ポ ロ ンにつ い て は, シ ョ ー ペ ンハ ウ ア ー がマ ーヤ の 面紗 に捉 え ら れた 人 間につ いて 言 っ ている こ と. が, ある法外な意味では妥当するかも知れない. 『意志と表象としての世界』 正篇第六三節, 「四方 八方果てしなく, 砲畔する波を高めつ沈めつする荒海で, 一人の船人が弱々しい小船をたよりに坐り込ん i i i ) に支え ら i i dua恒on でる よう に, 個々 の 人 間 は苦悩 の 世界 の真 只 中 に, 個 別 化 の原 理 ( nd v s um i plmc p れ, そ れを た よ り と して, 静 か に坐 っ て い る.」 ま さ しく ア ポロ ン につ い て こそ は, あ の 原 理 に捉 え られ. た者のあの原理への牢固たる信頼と静坐とが最も崇高な表現を得られたときの姿だといえよう. さらにわ れわれはアポロン自身を個別化の原理の壮麗な神像と呼びうるのであって, この神像の身振りとまなざし 7 か ら, 「仮象」 の快 感 と智 慧 がそ の美 ととも にわ れわ れに語り か ける の である2 .. ディ オ ニ ソス 的 なも のの衝 動 を示 す 陶酔 につ いて は次 のよう に説明さ れている.. 同じ個所でショーペンハウアーは, 根拠律が何か一つの形成のなかである例外を示さざるをえない場合 に, 人間が突如として現象の認識諸形式を見失うにいたるとき, 人間を襲う途方もない恐怖をわれわれに 叙述してくれている. もしわれわれがこの恐怖に加えて, 個別化の原理の崩壊の際に人間のもっとも内奥 の根底から, のみならず自然の根底から, 湧き上がる歓喜に満ちた快惚状態を受け取るならば, われわれ はディ オ ニ ュ ソス 的なも の の 本質 を 一瞥 する こ と に なる. こ れ は陶酔 と いう 類 例 によ っ てわ れわ れにも っ. とも身近なものとなる. すべての原始的人間と民族が讃歌のなかで語っ ている麻酔力のなかにある飲物の 影響 か, そ れとも 全 自 然 に快 感 を みな ぎらせ る 春 の接 近 か, い ず れか によ っ て, ディ オ ニ ュ ソス 的な興奮. が目覚め, それが高まるにつれて主体的なものは完全に消滅して忘我状態と化するのである. ドイツの中 世 にお い ても 同 じディ オ ニ ュ ソス 的な威力 のも と に, た え ず増 大する 群 衆 が歌 いつ 踊 りつ 所々 方々 を 経巡 っ たの であ っ て, こ の聖 ヨハ ネ 祭踊 り と聖 フ ァイ ト祭踊 り の 参加 者 にお い てわ れわ れ は ギリ シ ア の バ ツ カ イ 合 唱 団 を再確 認する の である が, こ れ は小 ア ジ ア に前 史を 持ち バ ビ ロ ンとオ ル ギアス モス 的 なサカ エ 族. にまでさかのぼるものである. 経験の不足か鈍感さのために, このような現象を 「民族の病気」 と見, 自 分は健康だという感情に基づいて, 軽蔑と憐欄の態度でそれから顔をそむける人間どもがいる. この哀れ な人間どもはもちろん, 彼らのそばをディ オニュソス的な熱狂者たちの灼熱した生がざわめき過ぎるとき 8 に, ほかな らぬ彼 らの 「健康」 がそ れほ ど死相 を帯 び, 幽霊 じみ て見 える かを知 らないの である2 . ニー チ ェ の説 明 をま と める と 次のよう になる.. アポロ的なものの衝動は, 生理学的現象としては夢であり, 形式的な絵画的所与のアポロ的な意味を持つ. ディオニソス的なものの衝動は, 生理学的現象としては陶酔であり, 内面的な精神的経験としてのディオ ニソス 的 な意 味を持つ.. 夢( dr e am) は空間的な美学的関係によって秩序づけられる具体的な知覚の外面の世界である. 陶酔 ( i i ) は時 間的 な美学 的 関係 を 含 む精神 現象 の内面 の世 界 である. nt ox cahon ァ ポ口 的な芸 術 は, 光の神 ( l f=ght ) であ り, 個 別 化 の原 理 ( i i i i duabo us ) の神 像 で ord o nd um i v I prmc p. あり, 彫刻と叙事詩である. ディ オ ニ ソス 的 芸術 は, 闇 の神 ( l i i ord of darkness) であ り, エ レウ シス の秘 儀 (E1 eus n an mysteries). の神像であり, 音楽と踊りと汗情詩である鴛 . ア ポ ロ的 なも の が個 人へ と 向う の に対 して, ディ オ ニ ソス 的 なも の は全体へ と向う. ロ レンス が フ ァ シス ト 77.
(15) . 石田 洋至. と見 なさ れる ひとつ の 理 由は, ロ レ ンス 文学 に ディ オニソス 的要素 がある か らである. ディ オ ニ ュ ソス 的 なる も のの 魔力 のも と で は, た ん に人 間と 人 間とのあ い だ に盟 約 が結 ばれる だ けでは. なく, 疎外され, 敵となり, あるいは隷属していた自然が再び, その放蕩息子たる人間との宥和の祭を営 むのである. 大地はみずから進んでその賜物を提供し, 岩山と砂漠の猛獣たちはおとなしく近寄って来る. ディ オ ニ ュ ソス の車 に は花 と 花 輪 がたく さ ん 振り か け ら れて お り, そ れを引 い て 進 む の は豹 と 虎 である.. ベートーヴェンの 「歓喜」 の凱歌を一枚の絵画に変えてみて, 幾百万の人々力ゃ陳然たる有様で塵に伏 し沈 む光 景 にも 想 像力 を進 める が いい. そう す れ ば人々 は ディ オ ニ ュ ソス 的 なる も の に近 づく こ と が できる.. いまや奴隷は自由人となり, 窮迫・懇意あるいは 「厚かましい流行」 が人間と人間とのあいだに確定した 厳しくて敵意ある差別がいまやことごとく崩壊する. いまや, 世界調和のこの福音に接して, 各人がその 隣人と一致し, 宥和し, 融合したと感ずるにとどまらず, まるでマーヤの面紗が裂けて神秘に満ちた根 源=-者の前でただ布切れとしてはためくかのように, 隣人と一体化したと感ずるのである. 人間は歌い つ踊りつ, ある高次の共同体の一員たる自己を表現するのであっ て, もはや歩くことと語ることを忘却し, 踊りながら空中に舞い上がろうとしている. 彼の身振りからは魅了された状態があらわになる. いまや動 物たちが語り, 大地が乳と蜜を与えるのに応じて, 人間のなかからも何か超自然の音調が流れ出る. 人間 は自分を神と感じ, 彼が夢のなかで神々が動くのを見たとおりに, みずから怯惚として高められて動きま わる. 人間はもはや芸術家ではなく, 芸術作品になっ ていたのである. 全自然の芸術威力は根源=-者の 最高の歓喜の満足のために, 陶酔の戦係のもとに自己啓示を行なう. もっとも高貴な粘土, もっとも貴重 な 大理石 が ここ でこ ね られ, 彫 られて 人 間と なり, ディ オ ニ ュ ソス 的な世界 構 築 者 たる 芸術 の難 の音 につ. れてエレウシスの秘密祭鵡の叫びが響きわたる. 「おまえたちはひざまづくか, 幾百万の人々よ ?. おま. 0 」 えは創造者を予感するのか, 世界よ ?3 ヨ ーロ ッ パ の芸術 に は, ニ ーチ ェ が語 っ ている よう に, ア ポ ロ 的なもの の 要素 と ディ オニ ソス 的 な要素 が. あるが, このふたつの芸術上の衝動が どのように対立し, どのような関係があるのかを考えなければならな い が, そ のま え にヨーロ ッ パ の芸 術 の伝 統 のな か で, ア ポ ロ 的 なも のの伝 統 と ディ オ ニ ソス 的なも の の伝 統. がどのようなものであったかを整理しておこう. ア ポロ的なものの伝統は, 自己の外部の対象に携わりを持ち, 知性を客観化することを特徴とする知覚 様式を本物であるとする. ディ オ ニ ソス 的なも のの伝統 は, 内部の知 覚 に携 わり を持ち, 創 造的想 像 ( creadveimag面ado. を特. 徴とする知覚様式を本物とする. アポロ的なものの知的な美の理想は, 合理的能力となり, その能力は意識的精神における分析的な識別 (ana lyhca ld ) をす る. i i t on sc豊中i na. ディオニソス的なものの知的な美の理想 は, 直観的能力となり, その能力は創造的無意識における統合 的な比 較 ( i i z ngcomp蟹ison) を す る. s ~mthes. アポロ的なものの伝統における知的探求者は, 主観的なものから距離を置き, 外部の世界における真実 の光の探求のなかに自己を投影することになるのである. ディオニソス的なものの伝統における知的探求者は, 外部の世界の要素を内部の世界の周期的な夜のな かに身を置くことによって闇のなかで真実を求めるのである. アポロ的なものの伝統は, 直線的発展を仮定し, 因果関係の結果は識別できる言語で記述されるのであ 78.
(16) . ロレンス研究の客観性を求めて. る. また, 確立した明白な客観的真実を最終到達点とした科学, 社会科学, 技術の専門用語によって記述 さ れる の である.. ディオニソス的なものの伝統は, 周期的な発展を仮定し, 真実の客観的な知覚は識別できる言語では記 述されな いの である. ま た 表象 的象 徴 (presentahonalsymbol ) の 具体 的形象 ( ) にお いて, 神 imagery s 3 1 秘主義者や狂人の作品において記述されるのである . ニ ーチ ェ の 言う ア ポ ロ 的なも の と ディ オ ニ ソス 的なも のと いう 二 元 論は, ロ レンス の展 開す る 理 論に見 ら れる 二元 論と似 て いる と ころ がある. ロ レ ンス 文 学 を単 純 に見 る と, 理性 に示 さ れる ア ポロ 的なも のの全面 否 定と, 直 観 で示 さ れる ディ オ ニ ソス 的 なも の の全 面肯 定 が, ロ レ ンス 文学 の 本質 である と いう 結 論が下さ れ がち である が, 実 際 はそう 簡単 な 問 題で はない. ロ レンス は ア ポロ 的なも のの側 へ の一 方 的な傾 き によ っ て生 じる 精神 のイ ン バ ラ ンス を 修正さ せ る ため に, ディ オニ ソス 的 なもの を強調 したの であ っ て ディ オ ニ , ソス 的 なも のの側 へ の振 れ過 ぎさ せ て, ア ポ ロ 的な も のを 破壊 し, 新 た なイ ンバ ラ ンス を生 み 出そう と した. のではないのである. キリスト教的道徳, 資本主義的生産こそが創造であるとする功利主義的倫理 資本主 , 義による技術の発展が進歩であるとする産業主義などの方向への振れ過ぎを防ごうとしたのがロレンス であ り, こ の こと に 関 して は, ロ レ ンス と ニーチ ェ は同 じ考 えを 持 っ て いる の である 事 実 ニー チ ェ は次の よ . , べ う に述 ている.. わ れわ れ はこ こま でア ポロ ン的 なる も のの対 立 者 ディ オ ニ ュ ソス 的なるも の と を 人 間の芸術 家 の 媒 介 ,. なしに, 自然そのものから出現し, 自然の芸術衝動が真っ 先に直観的な道によって充足される 二つの芸 , 術的な力として考察してきた. すなわち, 一方の力 は夢の形象世界として充足され, その完全性は個々人 の知的高度や芸術的教養とは何の関係もないが, 他方の力もやはり個々人を無視するばかりでなく個別者 を破壊しようとさえし, 神秘な合一の知覚によって救済しようと努めるのである 以上のような自然の直 . 接的な芸術状態に対比させれば, あらゆる芸術家は 「模倣者」 であり, しかもアポロン的な夢の芸術家か , そ れとも ディ オ ニ ュ ソス 的な 陶酔 の芸術 家 か いず れか である か 第三 に -- た とえ ばギリ シ ア の悲劇 に , , お ける よう に一-- 陶酔 の芸術 家 である と 同 時 にま た夢 の芸術 家 でもある この 第三 の芸 術家 につ いて わ れ . わ れが想 定 しなく て はな らな い の は い かに して彼 が ディ オ ニ ュ ソス 的 な 陶酔 と神 秘 的 な 自己放棄 の な か ,. で孤独に, 熱狂する合唱団から離れて伏し沈むのか, またいまやいかにしてアポロン的な夢の影響によっ て, 自 分自 身の 状態, す な わち 自 分 は世 界 のも っ とも 内奥 の 根底 と一 体化 している と いう こ と が 一 つ の , 2 比 嚇 的な夢 の形象 にお いて彼 に啓示 さ れる の か という こと である3 , .. 「アポロン的な夢の芸術家」 , 「ディオニュソス的な陶酔の芸術家」 , 「第三の芸術家-- 陶酔の芸術家であ る と 同時 にま た夢 の芸 術家」 の どれ にロ レンス が属 する のかと 言 え ば 答 は明白 である , . ア ポロ 的なも のと ディ オ ニソス 的 なもの と の 間の バ ラ ンス のと れた 「両極性」 ( b l l逝 け) の例 a aanced Po 3 と して, カ ウ ア ンはロ レ ンス の 中編小 説 の 『て ん とう 虫3 』 を取 り 上 げ, 夫 バ ジルと の 関係 でア ポロ 的な も のの側 へ とイ ン バ ラ ンス を起 こ して いた 妻 ダフニ が ディ オ ニ ソス 的な も のの存在 と して の ディ オ ニソス を , 通 して バ ラ ンス を 回復 していく 過 程 を 詳細 に 論証 している このこ と は長 編小 説の 『翼 ある 蛇紳』 の ケイ ト . , 3 5 『チ ャ タ レイ 夫 人 の 恋 人 』 の コ ニ ー につ い て も 言 え る の であ る ま た 『恋 する 女 たち』 にお い て バ ー キ . , ,. ンの出した結論は暖昧なものであるという指摘があるが この暖昧さも アポロ的なものと ディ オニソス的 , , なも の と の 間 の バ ラ ンス を保 つ こ と が ロ レンス 文学 の特 徴 であ る と いう 観 点 に立 て ば説 明 はつ く つ ま り . , バ ー キ ンが ジ ェ ラ ル ドと 西 ア フリ カ 産 の 彫刻 像 につ い て の 議 論 の な か でこ の 像 が芸 術 作 品 であ る と 言う と 79.
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