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トーマス・マンのゲーテ像

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Academic year: 2021

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(1)Title. トーマス・マンのゲーテ像. Author(s). 岡光, 一浩. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 21(2): 145-159. Issue Date. 1971-02. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3985. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 6年2月. ト ー マ ス・マ ン の ゲ ー テ 像 岡. 光. 一. 浩. 北海道教育大学岩見沢分校独語独女学研究室. Kazuhiro OKAMITSU: Uber Thomas Manns・Goethebi ld. ドイ ツ 精 神 史 に お い て, 18世 紀 に 生 ま れ た ゲー テ (Johann Wo fgang von Goethe) は 今 な お l. 生きてい る. 彼は, ドイツ国民文化のア トラスの中で, 一孤峰ではなく 四方八方に 有益な水を , 送る雄大な山脈 である, いや, 世界人類 にとっ ても, 彼がなければ生の暗闇に頼り少なきを嘆か ねばならぬ導きの星であるといっても過言ではあるまい, 特に ドイツの女人達で 自国の精神の , 伝統の中にあって, 不滅の輝きを放とうとするものは, ゲーテの影響なくして, その功をなし得 た も の は な い. 現 代 作 家 だ け を 見 て も, ハ ウ プ トー マ ン (Gerhart Hauptmann) , シュ テ ファ ソ. ゲオ ル ゲ (Stefan George) H ホ タ H f フ ン h t l ス ー ( iner u n o マ v o n s ) ル o a n a m g , , リ ル ケ (Re ia Ri Mar lke) , ト ー マ ス .‐マ ン (Thomas Mann) , ヘ ッ セ (Hermann Hesse) , カ ロ ッ サ (Hans Carossa) F K f k ( カ フカ r a z 枚 挙 違 が n a a と に い ) な , . l ) で あ り 「現 代 の ゲー テ」 (a contemporary こ の 小 論 では, 現代作家随一の Goethe-Kenner , 2 ) と も い わ れ る トー マ ス ・ マ ンに 焦 点 を あ て Goethe) , 彼 が ど の よ う に, こ の 偉 大 な 先 達 に つ い て語 っ て い る か を 見 て ゆ きた い, マ ン は 若 い 頃 か ら ゲ ー テ を 語 り ナ チス の 嵐 の 吹 き ま く る ゲー テ , 忌100年 祭 に は 『市 民 時 代 の 代 表 者 と し て の ゲ ー テ』(,Goethe als Reprasentantdesbdrgerlichen , Ze i ter tal s“ i f t l l ste er, ,1932) や 『作 家 と し て の ゲ ー テ の 生 涯』 ( ,Goethes Laufbahn als Schr ,. 1932 ) などの講演を行ない, その後も数多くのエッセイや講演の中で, 折あるごと にゲーテにつ い て 触 れ, 1939年 に は ゲー テ ・ ロ マ ー ソ 『ワイ マ ー ル の ロ ッ テ』 ( Lot t imar”) を 完 成 ein we “. し, 死に至るまでゲーテの忠実な弟子としての道を歩んでゆく. 全生涯を通して顕著に現われる マ ンの ゲ 【 テ私 淑, こ の こ と に つ い て 見 て ゆ く こ と は マ ンの 精 神 の 成 長 史 を 語 る こ と こ他ならな い, マ ンにとっ て, ゲーテを語 ることは肉親を語るようなものであり, 叉自分自身を語るような も の で あ る.. そ し て マ ンに と っ て, ゲ ー テ は 自 分 の 外 に あ る も の で あ る と 同 時 に 自 分 の 内 に あ , る も の で あ っ た. お よ そ 全 て の ゲ ー テ書 に 然 る が 如 く, こ こ に は どこ ま で も マ ンの ゲ ー テ が あ り ,. ゲーテ体験があるのだが, 彼は従来の研究者達のゲーテ像とは異った, 自分の姿 にゲーテを見, ゲーテを語ることは自分を語ることに他ならない, とする作家特有のゲーテ学びを行なっ たため , マ ンは 自 分 に 似 せ て ゲ ー テ を 造 り だ し, 天 才 ゲ ー テ の 真 の 姿 を表 わ し て い な い, と ゲ ー テ の 歪 曲 , 裡造 だ と の 誹 藷 を 招し・た こ と も 決 し て 稀 で は な か っ た 例 ば え ンの ゲ を 身 マ ー テ像 自 ン の シ マ , , ニ カ ル な 自 画像 で あ ると 決 め つ け る ス イ ス の Wa l ) 立 脚 点(Standpunkt ter Muschg3 ) の なさを , 4 ) 「マ ンと は 一 体 ど ん な 作 家 な の か 偉 大 な 才 能 は 持 て い る よ う だ が 非難す る Fritz Rahn, , , っ , -14 5-.

(3) . io i i dO Uni▽er i t l。 t f H0kka on (sec ー 1 I A) s journa y ofEducat. Vo l 1 No ,2 ,2. Feb 1971. ) マ ンの ゲ ー テ と の 「神 秘 的 一 致」 5 l thusen, 全 く 独 創 性 の広 が り が な い」 と 酷 評 す る Egon Ho i i h H み X1 (Unio mystic ,S.147) を 取 り 上 げ, そ こ に, 皮 肉 的 な フ モ ー ル(ron sc er umor)の ” b h 歪 G i d ら の ゲー テ t P h t ン e 1 9 4 8 )か r e o e ( s e マ 『 を 見, 特 に, ゲ ー テ に つ い て の 幻 想』 “ an a , , 6 ) な ど, そ の 数 は 少 な く な い, し か し 一 方, マ 曲 の 論 拠 を説 く ニ ュ ー ジ ー ラ ン ドの J , A. Asher ンの ゲ ー テ と の・一致 を 認 め, ゲー テ 的 な 精 神 は マ ンの エ ッ セイ, 講 演, 創 作 に 充 分 現 わ れ て い る と. する研究者達の数も多い. マンを. der perfekte Goethe-Kenner と よ ぶ. 7) マ ン Rober t Faesie,. 8 ) マ ンを l ine o f Goethe の ichkei t を 見 る Bernard B1ume, の精神の中に, goethesche Wirkl in) L Bt mehr Licht here 9 ) ight ひと り に置く イ ギ リ ス の D.J .Enr , ゲー テ の 「も っ と 光 を !」 ( a. ) マ ンは 完 全 な る 理 想 の 実 現 を ゲ ー テ に 見, l o brecht Knaus か ら, マ ンと ゲ ー テ の 一 致 を 説 く A1 , b t 作品の中で ゲーテの su s ance を 確 立 し て い る, と 述 べ る オ ー ス トラ リ ア の MauriCe Benn,”). , 2 ) そ し て, 「… … ゲ ー テ ー マ ンと ゲーテの作品から年代記的な一致を説くカナ ダの Hans Eichner , 諸力がこれまで到達しえ の知的, 芸術的, 道徳的完成の中に, マ ンは, ドイツ市民階級の進歩的 s ) な どが 挙 げ ら れ る, 然 る に, た最高のものの 化身を描 き出している」 と述 べる Georg Lukacsi. 私は以下において, マ ンの語ったゲーテが どんなものであるかを年 代的に追い, 研究者達の両極 端の評価の所以をも合わせて考え, マ ンのゲーテ 像の本質を浮彫りにしたい, そして何故, マ ン は こ れ ほ ど ま で に ゲ ー テ を 語 ら ね ば な ら な か っ た の か, ‐一体, マ ンは ゲー テ か ら 何 を 学 ん だ の か を 明 ら か に し よ う と 試 み た. な お, こ の 小 論 は, 主 に 講 演, エ ッ セ イ を 中 心 と し た も の で あ る こ と を お こ と わ り し て お く.. 2 マ ンの ゲーテへの関心はすでに若い頃から始っ ているが, 作品を通して現われるのは普通,1905 年 の 『悩 み の ひ と と き』 (“Schwere Stunde”) で あ る と さ れ る. し か し, 1890年 代 前 半 の 彼 の 4 ノ ー ト ブ ッ ク に は す で に 沢 山 の ゲ ー テ に つ い て の 引 用 が 見 ら れ る, と W. A. Berendson1) は 書 い て い る,. カ ロ ッ サ が 子 供 の 頃, ま だ ゲ ー テ に つ い て 何 も 知 ら な い 年 齢 の 頃 か ら, 母 が ゲ ー テ の. 名をいうのを聞くと, いつも尊敬す べき表 象が浮んだ, と語 っているように, 10代後半のマ ンがゲ 0代 の 若 き ーテという名に特別な親しみを感じて いたとしても当然という他はない. しかし, 2 thur Schopenhauer) , ニ ー チェ マ ンに と っ て, ゲ ー テ 以 上 の 関 心 は シ ョ ウ ペ ン ハ ウ ェ ル (Ar l iedr ich Nietzsc chard Wagner) で あ っ た. こ の 「永 遠 に 結 ば れ た 精 神 l e) (Fr , ワ グ ナ ー (Ri i i st er) によって, マ ンは初期の作品群の iges t rn ewig verbundener Ge の オ リ オ ン座」 (Dre t dem Tode) を 作 品 全 体 に み な ぎ ら せ る の で あ る, e mi 基 調 を 学 び, 「死 へ の 共 感」 (Sympathi し か し, こ の ロ マ ン的 情 緒 に お い て も, ゲ ー テ の 文 学, 特 に シ ュ ト ゥ ル ム ・ ウ ソ ト ・ ドラ ソ グ び き な し に は 考 え ら れ な い, シ ラ ー 没 (Sturm und Drang , 1767‐1785) 時イヒの 文 学 と の結 つ iedr i ch von 後100年にあたる年に成 た短篇 『悩み の ひ と と き』 に お い て, マ ンは シ ラ ー (Fr. っ. l l schi er) を 描 く と み せ か け て, ゲ ー テ へ の 嫉 妬 深 い 憧′綬を 示 す. 絶 望 的 な 気 持 で, 『ヴ ァ レ ソ シ in“1799) を 書 い て い る シ ラ ー に 対 し て,マ ン は も う ひ と り の 男 ゲー テ を l l enste ュ タ イ ン』 (“ Wa 想 い 起 こ し, 次 の よ う に 言 う. 「も う ひと り は, あ の ワ イ マ ー ル に い る 男 で あ る, 彼 が な つ か し い 敵 意 で 愛 し て い る 男 で あ る. 自己を虐待しない, 自己に対 し て 充 あの男は聡 明だ 生きることを 剣ること を心得ている. ,. ,. ,. igen t i cht W eimar den er mit einer sehns , ich l f t B lb es en: miBhande chaf iebte. Der War weise Feindschaft l . Der wu te Zu e en, zu s. 分思いやりがある」 (der andere,. der dort in ,. -1 46-.

(4) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 6年2月. l i ich se l bs ni cht; war voller R菖c t 1 1 く s cht gegen s .373) ...,V1 .S ,. 「あの男のことを, もうひとりのことを, あの明るい, 官能に酔った , 感覚的な, 神々の如く 無 意 識 な 者 の こ と を, あ の ワ イ マ ー ル の 自 が か 分 な し 敵 愛 い 意 し て い る男の こ と を 考 つ で , えた の で あ る」 ( l igen en, Tastsel ..,..,des Gedankens an ihn, den anderen, den Hel , i Sinnl l ich-Unbewuβten an den dort in i d t w chen, Got i i t e ma r e e r n e r m e n , , , igen Fe indschaf sehn敦icht iebte tl. I1 ,S,374) .,.., VI .. さらに彼は, 創作の労苦の中にあるシラーの姿に自己を入れ, 自己の内面を告白する , 「あの男はおそらく神であろう-英雄ではないのだ. しかし英 雄であるよりも, 神である方 が楽ではないか. よりも楽…あの男の方が自分より楽にやっているのだ , 聡明な器用な手で, 認識と創造とを切り離していれば, 人間は朗らかに, のどかに, そして湧き出るほど多 産にな るであろう, けれども創造を神のものとすれば, 認識は英雄の事業である, そして認識しなが ら, 同時に創造する人, その人こそは神と英 雄との両者を兼ねているわけである」(Ein. Gott , leicht -ein Held war er nicht Aber es war leichter ein Gott zu sein al viel s ein , . ,. dl-Lei He l chter icher Hand t i ckl ,...Der andere hatte es leichter! Mit weiser und gl Brkennen und SCha圧en zu scheiden das mochte heiter und los und quel l end qual , fruchtbar machen, Aber war Scha”en g6tt l ich so war Brkenntnis Heldel t l um u , , nd. ides war der i be t t und ein He ld l cher erkennend schuf! I I , e n Go , we .S ,377) , VI .. この文章 には勿論, 芸術という情熱の火の中で人間的な苦悩を焼き清めてゆく シラーの姿と , 労苦と困難への意志を通して産み出されるシラー文学とへの憧慢とともに, マン自身 自分を「神 , 々の如く無意識な」 , 素朴な, 創造的なゲーテ型の詩人ではなく, 意識的な, 認識的, 感傷的 なシ ラー型の女人であるとする, ゲーテに対す る対立意識も読み取れる, しかし一方, ここに, 「なつ かしい敵意で愛している男」 であり, 「明るい, 官能に酔った感覚的な, 神々の如く無意識 な男」 であり, 「端的に, そして神々の如きロで朗らかな事物をなざす男」 (der unmit l bar und mit te l i i t chem Mund d e besonnten Dinge bei Namen nannte) で あ る ゲ ー テ へ の 憧 帳 も 確 か に g6t. 存在する. それゆえ, この短篇はマ ンの認識的, 感傷的な人へと, 素朴な, 創造的な人へとの両 極の憧慢に発し, 「認識しながら, 同時に創造す る」 という思想, 「死への共感」 から 「生への奉 tdem Leben) へ の, 即 ち ゲ ー テ へ の 転 回 の 兆 が 現 わ れ て い る と こ ろ に 大 き な 意 仕」(Dienst mi 義 を 持 つ. し か し, こ の兆 が は っ き り と し た 成 果 を 生 み 出 す に は 『魔 の 山』 ( Der Zauberberざ “ ,. 19 24) の出版される前年まで待たねばならない. 1911年, マ ンは 老 ゲ ー テ の 有 名 な マ リ エ ソ バ ー トの悲 劇 を 素 材 に , 『ヴ ェ ニ ス に 死 す』 ( , ,Der Todin Vened ig“) を 著 わ す 確 か に ゲ ー テ の ウ ー ル リ ケ と の 体 験 を ア シ ソ バ , ッ ェ ッ ・の運命に. 対応させ, ゲーテへの畏敬を充分に取り込んでおり, また, ゲーテがか つて病的なものと拒絶し た あ の ロ マ ニ テ ィ ッ ク な も の と も, 以 前 ほ ど 強 く 結 び つ い て は い な い が ,. まだ まだ ゲー テ に対 し. f て縁遠く ( f r emd) e rn) t rach- , 関係も薄い ( , 1918年の問題作 『非政治的な人間の考察』(“Be tungen eines Unpo i l i t schen”) においても, ゲーテは一面的 に 非政治的 で 反革命家 保守 , , , 主義者と規定されている, 「ゲーテのいう穏健な自由主 義者とは, <穏健な保守主義者> というのとほとんど同じ意味で あ る, と い う の は,. 周 知 の よ う に, ゲ ー テ が < 自 由 主 義 > と い う 時 に 意 味 し て い る も の は 啓 ,. 蒙主義や平等個人主義や共和制やく進歩〉でもなければ, 人間の権利 と 義務についての抽象的 倫理や, 経済的利害の世界支配をもたらした く自由競争> という理想でもないからである ゲ , ー1 47一.

(5) . vo l .2 ,21 No. ‐ テ は,. Feb , ,1971. i i i lof 日o l d id。 Univer ヒ t on . A) Journa on (Sec くa s y ofEducat. 自 由 <と> 平等などというものを頭 から信じてはいなかった,. 自分は自由主義者で. あ る と い っ た か ら と い っ て, 彼 は な に も, 自 分 は デ モ ク ラ ッ トで あ る と い っ た わ け で は な い」 in i6t wie 〉e (”,.ein gemaBigter Liberaler. Wras in seinem Munde ungefahr soviel he i l i iverく t >L bera smusく gemaBigter Konservat . Denn wie man ihn kennt , meinte er mi Cht ni. l i individua ichhei Ankl smus t arung s e , , G1. irgendeine abstrakte Ethik >freien. dem Konl くurrenzく ,. ik Repub1. und. i t tく cht >Fort Schr , ni. der Menschenrechte und-PHichten und jenes ldeal der man. wre1 therrschaft des 61 {onomischen lnteresses. die. ich i t t >undく G1 in, Goethe glaubte nicht an Freihei chhe ei verdankt . Br erkl談rte s , Ne iberalerkl te i ar ) s ch als l cht als Demokraten, indem er ni . .S .257f , , , XI f k fs i fer) reund) し か し, 彼 は こ れ 以 降,次 第 に ゲ ー テ を 人 生 の 助 力 者(Lebenhe , 将 来 の 友(Zu un t i se l i i e i tt er) scher Mi ヒ ュ ー マ ニ ズム の 仲 介 者 (humani , , 世 界 的 芸 術 個 生の 持 主 (e ne un ver i ichke Knnst i t) と し て 把 え る よ う に な る の で あ る, s6hnl erper ’ i toi’ ) s ベ 1921年9月, リ ュ ウ ッ ク で お こ な わ れ た 講演 『ゲー テ と トル ス トイ』 ( , ,G。etheund To i h D i h t ive und sentimentaisc e c - を シラ ー の 論 文 『素 朴 文 学 と 感 傷 文 学 に つ い て』 (“ Uber na unぎ,1796) に 想 を 得 て,. マ ンは 『悩 み の ひ と と き』 で 表 わ し た 両 極 へ の 憧 慢 を ヒ ュ ー マ ニ ズ ム. l i eb ng der Natur) の 典 型 と し て ゲ ー テ と トル ス ト の問題として展開する. 彼は自然の寵児 (Li i i i toi) を, その対極の精神の寵 児 (L eb ng des Geistes) の 典 型 と し て シラ ーと ド s イ (Leo Tol h i k i i i t D d h t F M j c ajow sc soews j ) を持ち出し, 彼らの人生的関係を縦横 o ス トエ フ ス キ ー ( eo er に論じ,そして自然の 寵児の精神化と精神の寵児の自然化という両極の歩みよりをゲーテと トルス トイに見 出し, 彼らの高められた人生概念を述べるとともに, 彼らへの憧慢を訴えるのである. し か し, こ こ に お い て も マ ンは 『悩 み の ひ と と き』 で 表 わ し た と 同 様, 属 す る 作 家 に お い て い る こ と は 間 違 い な い,. 自 分 を 感 傷 的 な タイ プ に. そ れ ゆ え, こ の 講 演 も マ ン自 身, 自 分 を ゲ ー テ の 対. 極 の タイ プ に 向 け て い る こ と に意 義 が あ ろ う,. し か し, ロ マ ン主 義 と 結 び つ き, 高 め ら れ た 個 人. 主 義, 病気と死 への共感に 身をゆだねたマンもゲーテを知っ て, 次第に人道主 義や来 るべき将来 の姿を学 び, 同時に, 教育の問題, 人間性の広 義な理念を自分の問題として持ち込むのであった, lhe lm Mei ters Wander jahrご, s 彼 は ゲ← テ の 『ヴィ ル ヘ ル ム ・ マ イ ス タ ー の 遍 歴 時 代』 ( , ,Wi. 0) の 「教育州」 を頭に描き, 教育者としてのゲーテを例に, 自伝的傾向と教育的傾向とが融 183 合して一体となる事 情を次のように言う. 「自叙伝と教育……このふたつの思 想は, 人物という観念, 即ち有機的なものとの共感の最高 の対象という観念が我々の前に生ずる瞬間, 再び結 びつく. そうだ, 元来造形的な観念である この観念に直面 すると, 自叙伝を書くという本能と教育するという本能とが融合して人間的統 一をつくる. つまり, 教育的要素は, 意識的に, あるいは無意識的に (そして無意識的である 方がより良いので あるが) , すでに自伝的なものの中にあり, そこから生じ, そこから成長す ich uns wieder 【 igen s ・ung..,.Die beiden Gedanken f る」 (AutobiograPhie und Erziei i dieses h6C ichen Gestaー t di d d lsten i i lsch1 ck l . den . Augenb zusarnmen i , , da e l ee er mel ichts dieser t dem organischen, voruns ersteht thie mi G ‐ egenstandes der sympa .Ja, anges it: 3 diese beiden Triebe zu hum l i1 aner Ei i h f L nhe i ih i t d i t ldee , er e gen c p as sc en, ver e en Bt, b Bt oder unbewuBt (und besser b Das p封dagogische Eie1nent l ebt , wenn ewu ) , ewu h h d t i h d 且 r i r a s e r vo h i b t a u sc araus bereits in dem autobiograp schen, es erg , ’ , es w c s. IX, S ,149) , -148-.

(6) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 6年2月. そして, 彼は自分の自我をひとつの文化的 課題と考え, これを形成し, 教育し, 指導す べき対 i 象とみなして執着した ゲーテを自己中心的 (e r ch) と名 づける. しかし, 自分の自我を文 s gozent 化的課題のために努力する意味で, さらに自己中心的になる人間は 「学ぶことが教え る こ とにな l t hat,indem er l る」( ehr ernte ,...daB er ge ..,.) 理 念 を ゲ ー テ の 中 に 知 る, 1924年 に 出 版 さ れた 『魔 の 山』 も こ の ゲー テ の 思 想 を 多 分 に 内 包 し て い る. 『ゲー テ と トルス トイ』 に お い て,. 初 め て ゲ ー テ を 中 心 テ ー マ と し て取 り 扱 っ た マ ンは, ゲ ー. テ忌100年祭の1932年の講演 『市民時代の代表者としてのゲーテ』 , , 『作家としてのゲーテの生涯』 1939年 の ゲ ー テ ・ ロ マ ー ソ 『ワイ マ ー ル の ロ ッ テ』 を 頂 点 と し て, 1949 1年 ま で ゲ ー テ に つ い て の. エッセイ, 講演, 創作を繰返し, 作家として, 都市貴族としての親近性からゲーテと取り組んで ゆ く の で あ る. 時 期 的 に み て, ゲー テ 忌100年 祭 の 講 演 に よ っ て, マ ンは30才 の 時 ゲー テ へ の 嫉 妬. 深い 童綬を示して以来培った ゲーテへの忠実な臣従を, 決定的にするのであるが, それ以前のゲ ー テ に つ い て の マ ン自 身 の 若 干 の 言 葉 を先 ず 引 い て み よ う, 1925年 の 評 論 集 『努 力』 (“Bemt ihungen”) に お い て, 彼 は 端 的 に,. ゲー テへ の 憧 帳 を 次 のよ. うに言う. 「私 は ゲー テ で は な い,. だ が, 私 は わ ず か な が ら, な ん ら か の 形 で, 昔 か ら ゲ ー テ 家 族 の 一 員. である」 (lch bin kein Goethe,aberein. ih , b in ich wenig, irgendwie , von we t er ...von. l i seiner Fami e). . i lber t St f と, シ ュ テ ィ フタ ー (Ada ter) の 言 葉 を 引 用 し, 冗 談 ま じ り に, ゲ ー テ と の Unio i t Lb bi日”) の 冒 頭 で は, mys ca を表 わ す. そ し て, 1930年 の 『略 伝』 ( , , e ensa. 「私の資質に流れている遺 伝質のことを自問すれば, 私はあのゲーテの有名な詩句を想い起こ さざるを得ない. 即ち, 私自身もまた<人生の厳粛ないとなみ>を父から, そして<楽天的性 質>, 即ち, 芸術家的感覚的性向と広い意味でのく創作癖〉とを母方から, 受け継いだといわ ichen Herkunft meiner Anlagen, so muB ざ る を得 な い」 (Frage ich mich nach der erbl ’ G b h t h h t h d k i i V t l ts te l c an oe es er no es ersc en en en und fes en,daB auch i ch 〉des Lebens d i innl t 1 i ernstes F ihrenく vom Vater, die >Frohnaturく aber t ins t che stdi ek er sch , as i ,.,.s Richtung und im. d ieren〈 weitesten Sinne des Wrortes die 〉Lust zu f abul , von er. Mutter habe , ,S.98), , X1. と, 遺伝的 な面 で も マ ンは ゲ ー テ と の Unio mystica を暗示させる.. 00 ドイ ツナチス党が国会選挙で全議席6 08のうち230を獲得し, 最大党になった年がゲーテ忌1 年祭の19 32年にあたる, 以後, この党は破竹の勢いで進出するが, このナチスの嵐の吹きまくる ’1930) の 講 演 を し た マ ンは ひ き続 l an di t’ 騒乱の中で, 『理性に訴う』(“Ein Appel e Vernunf , き, フ ァ シ ズム の 危 険 を 警 告 し, ゲ ー テ の ドイ ツ を 守 り, ッ セイ, 講 演 を 手が け る の で あ る,. 発 展 さ せ て ゆ く た め に, さ ま ざ ま な エ. ゲ ー テ 忌100年 祭 の年 に お こ な わ れ た 彼 の 最 初 の 講 演 は ベ ル リ ン芸 術 ア カ デ ミ ー に お け る 『市 民 時 代 の・代表 者 と し て の ゲ ー テ』 で あ る,. こ の 講 演 の 冒 頭 で, マ ンは フラ ンク フ ル トの ゲ ー テ ハ ウ. ス を 訪 ね た 時 の 印 象 を 次 の よ う に 言 っ て い る, 「私 は 数 年 前 初 め て,. フ ラ ンク フ ル トのヒ ル シ ュ グ ラ ー ベ ンに あ る ゲ ー テ の 両 親 の 家 を 訪 ね た. 時, 私を襲った感情を思い出す. この家の階段や部屋の様式や気分や雰囲気は私 にはなじみ深 ie mi t ch rufe die Empnndungen auf t i い も の で あ っ た」 (l ch bes rmten, als ich vor , d E1 ternhaus am Hirschgraben zu Frankfurt ging. Jahren zum erstenmal durch Goethどs ,. -1 49-.

(7) . Vo l ,21 No ,2. l 。f Hokka ido Univer i i i Journa t L s on (sec on 工 A) y ofEducat. Feb , ,1971. Diese Treppen und Zim mer waren mir nach St i i・ l ・ n Lung, Atmosphare urbekannt , , St n ,. IX.S . 297) . そ し て, さ ら に マ ンは ゲー テ を 認 識 す る 喜 び を 個 人 的 な 親 近 感 か ら, 次 の よ う に 言 っ て い る. 「私 は ゲ ー テ に つ い て は 愛 を も っ て よ り 他 に は 語 り え ま せ ん」 (l ch kann von Goethe nicht it Li anders sprechen al s1 ・ ・ ebe , ,IX,S.297). . l bstbi l dni こ の よ う に, マ ンが ゲ ー テ を 語 る 時 は い つ も, 彼 自 身 の geheime se sse (秘 か な 自. 画像) を語るといっ たふうなのである. しかし, 厳密にいえば, ゲーテに自分の隠された姿を見 る と い っ た 設 定 は い く ら か 無 理 な 感 じが し な い こ と も な い, と い う の も, ゲー テ と マ ン で は, そ も. そも歴史的な 立場が全く異っているのであるから, 前者は市民時代初期の, 本質的には昇り坂に ある階級に属しているのに対し, 後者は市民時代末期の, 衰退を辿る階級から常に遠ざかろうと 努力せねばならな い境地にある, いわば 展望を所有しない人間である, このような観点から見る と, ふたり の作家の人生の把え方, 人間性, イロニーなどは決して同じような響きをもつことは ) そして, 両作家の作品を本当に比較検討することなど不可能かもしれない, ゲ 5 ないであろう1 . ーテの文学的, 楽天的情緒, 自然信仰といった複雑な世界観も後世の芸術家には到底考えられな いことであろう, ゲーテは大臣にもなっ たし, 文学のあらゆる分野で最高の創造性を示したし, 特に女性を描くのに秀れた才能を発揮した, ‐ 一方, マ ンは若いうちに結婚をし, 自由な作家の生 活を歩み, 物語者として, エッセイス トとして成功したが, 男性を描く芸術の領域から決して離 れ な か っ た.. そ れ と い う の も, ゲ ー テ と マ ンで は 歴 史 的 な シチ ュ エ ー シ ョ ンが 完 全 に 異 っ て い る. か ら で あ ろ う. し か し, マ ンは や は り 現 代 の 偉 大 な ゲー テ 継 承 者 の ひ と り で あ る こ と に は 疑 い は な い.. マ ンの. 生活や創作の中で, ゲーテの意 義は高く評価されねばならないし, 彼はゲーテの人生や作品を知 る こ と に よ っ て, 驚 く べ き, 注 目 に 価 す る 成 功 を 博 す に い た っ た の だ か ら.. 『市民時代の代表者としてのゲーテ』 の講演の数日後, マ ンはワイ マール市の公会堂で, 講演 『作家としてのゲーテの生涯』 を行なう. この講演で彼は詩人と作家とを区別することはなんの ine recht unfruchtbare kritische Manie) で あ る, と 決 然 と 述 べ て 実も結ばない批評的偏執 (e ’ いる. ゲーテの芸術家精神における詩人と作家の境域は分 ち難く結 びついているのであるから,当 然 マ ンは 自 分 の こ と を 問 題 に し て い る の で あ ろ う,. し か し, こ こ で マ ン は そ れ に も ま し て, 非 政. 治的な, いわゆる純粋な詩の価値が再評価される一方, ファ シズムの圧迫に対 して, 日々の要求 を満たしてくれる, あの賢明で, 聡明な作家精神の評価が下がる傾向にある危険を切々と告白す る の で あ っ た, 叉, 5月 に行 な わ れ た ゲー テ 忌100年 祭 の た め の, 『フ ラ ンク フ ル ト・ ア ム ・ マ イ ソの ゲ ー テ 博 物 館 増 築 祝 賀 講演』 (“Ansprache bei der Einweihung des erweiterten Goethe‐M useums in Frankfurt an ・ Main“) に お い て は, マ ンは 熱 狂 的 に 次 の よ う に 述 べ る の で あ る. 「私 は 若 い 時 か ら, ゲ ー テ を 愛 し て き ま し た. そ の こ と を 今 日 こ こ で, な ぜ 申 し 上 げ て は な ら な い で し ょ う か. 私 の ゲ ー テ へ の 愛 は, こ れ 以 上 は な い と い う 熱 の 入 れ 方 で あ り, 悟 り す ま し,. 理想 の世界に遊び,完成を遂げた彼を見ながら,私自身を肯定するといっ たものでした」 ( .,.ich habe ihn ge iebt von jung auf, warum sol l lich es hier und heute nicht sagenh... mit l einer Li bst l se ebe e h6Chste s七eigerung der sympathie jahu 1g des eigenei l ,die di ,die Be in seiner ve l l i I 1 arung tat rk endung war , , VO ,1dea , X. S.328) .. 続 け て,. 彼は, 若 い 頃 傾 倒 し た ワ グ ナ ー, ニ ー チ ェ, シ ョ ウ ペ ンハ ウ ェ ル, トル ス トイ を 想 い -1 50-.

(8) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和46年2月. 起 こし なが ら, ゲー テ が 自 分 に と っ て 何 で あ っ た か を 明 ら か に す る,. 「精神界のお手本で, 私にとって ゲーテの場合ほど信頼や一途な帰依, 深い意志疎通が可能で あった例はありませんでした. 驚嘆し, 魅惑され, 情熱を感じ, この上ない興味の的となり, 時として, 夢中になっ て認識し, 無限の鼓舞を獲ようとしたのでした, このようなことは例え ば, ワ グナ ー, ニ ー チ ェ, シ ョ ウ ペ ンハ ウ ェ ル, トル ス トイ に 対 し て も あ り ま し た が,. 彼らの. 誰に対しても, 私は留保, 魅惑的な疑惑, 懐疑的な異議, 狂おしいまでの疑念を抱きました. … … し か し, ゲー テ に お い て は そ う で は あ り ま せ ん で し た,. 私 に と っ て ゲー テ は 異 っ た 究 極 の. 意味で, お手本であり, 原型であり, 私自身の本質を完壁化した理想像であり, あまつさえ, l d der 個人的なものが普遍的なものととげあっ た愛や帰依の権化でした」(Es gab kein Vorbi lose Hi t Geisteswel l ickhal t i che rt ngabe ck ein solches Vertrauen, eine so sen Anbl n des ,i , ieren Faszinat ion Leidenschaft; es gab lnteressantestes an das m i L an s chzeitweise verl , , d dl Anregung dav。nzutragen, Es gab etwas k ih ochte m L , um es zu er ennen un unen C e le h i Ab l waren vorha. te reizvol h h T l N i S t vvagner tberal erhier T etzsc e, c open auer , os o.・.. , , d ih k i h i i i iB ト T b i Goethe. Es wa fe Zwe i l r ,s eptsc e E nwan e, pass on ertes nd trauen..,. c t so e d i B l d d B d i Jber‐ i l d as d n e nem an eren und l das Vor-Bi l etzten sinne das Ur- i as t. ,. ,. ,. ichke i t einer Liebe und Hingebung ier l lkommene pro iz t j eigene We sen ins Vo , die M6gl I tdem AI t iberdies Chmol z n der das Pers6nlichste mi gemeinen vers ,328), . ,i , x, S こ の文 章 は 若 い マ ンが い か に ゲ ー テ に 親 密 さ を 感 じて い た か を 如 実 に 示 す も の に 見 え る が,. 」. こにはわずかながらも自己幻想的な気分が働いているのでは, と思えないこともない, というの ’ も, 1942年 の アメ リ カ で の 政 治 論 集 『現 代 の 秩 序』 ぐ‘order of the day’ ) に お い て は,. ゲー テ. との本当の結 びつきはかなり年とっ てからである, とするマ ン自身の 次のような告白が見られる か ら で あ る, 「思 うに, 私 の 愛 と 関 心 が 益 々, あ の 初 期 の 教 育 者 た ち, つ ま り ペ シミ ス テ ィ ッ ク で, ロ マ ン テ ィ ッ ク な 世 界 観 を 持 っ た ワ グ ナ ー,. ニ ー チ ェ, シ ョ ウ ペ ンハ ウ ェ ル ら よ り も ず っ と 幸 福 で,. 健全なお手本に, すなわち, デモーニ ッ シュなものと都会的なものとの偉大な結 びつきを持っ た-これがゲーテを人類の寵児にしたのであるが-ゲーテという 人間に向けられたのは おそら 6 ) く, か な り年 と っ て か ら の こ と で は な い か と 思 う」.1 そ れ はさ て お き, マ ンは 『フ ラ ンク フ ル ト・ ア ム ・ マ イ ソの ゲー テ 博物 館 増 築 祝 賀 講 演』 に み るが 如 く, 次 第 に ゲ ー テ へ と 近 づ き, ゲ ー テ と と も に 新 し い ヒ ュ ー マ ニ ズ ム へ 到 達 す る の で あ る,. ゲーテ忌100年祭への第四の寄稿としては, 日本と ドイツの精神交換のためになされた 「あるゲ h d“ ーテ研究」 という副題をもつ 『日本の若者に寄す』( , ,An die japanisc e Jugen ) が 挙 げ ら れ i l teratur t る, この論文では, 冒頭の 「世界文学の時 代 が 来 よ う と して い る」 (dieBpocheder Wel i ist an der Ze t ,283) と い う, ゲ ー テ の1820年 1月31日 に エ ッ カ ー マ ン (Johann Peter , ,IX,S. Eck e rmann) にあてた予言的な言葉に注目したい, ゲーテは, 世界に可能なる文学を創造し, 自 分の人生を何世紀か後に合わせたかの如く営み, あらゆる人間の生の高 揚に身を捧げたのであり, それゆえ, ゲー テ の 本 質 は 人 間 - 愛 - 未 来 (Mensch-Liebe-Zukunft) と い う 言 葉 で 最 も よ く 表 さ れ る の で は な い か, と い う の が 骨 子 と な っ て い る, マ ンは1936年 5月, ジ ー ク ム ソ ト・ フ ロ イ ト (SiegmundFreud) の80回 生 誕 記 念 日 に, ウィ ー ‘ t‘ ンで, 『フ ロイ トと 未 来』 (“Freud und Zukunf ) と い う 講 演 を お こ な っ て い る. そ の 中 で, --151一‐.

(9) . vo l ・21 NO .2. i lof 日o l d id。 Uni i i Journa t ve r on (Sect on 工 A) く a s y of Bducat. Feb , ,1971. 彼 は ゲ ー テ 学 びを 次 の よ う に 告 白 して い る.. 「……殊に芸術家は元来が遊び呆けた, ひどく子供っ ぽい人間でありますから, 自分の生涯, 自分の創造的生活への, 幼児的模倣のひそやかな, しかし叉, 明々白々たる影響について, ひ と つ の 歌 を 歌 う こ と を 心 得 て お り ま す,. そ して, こ の 創 造 的 な 生 活 と い う も の は しば し ば, 非. 常に違った時代と個人的な諸制約のもとにおける, また全然別個の, いわば 子供っ ぽい手段に 訴 え る と こ ろ の, 英 雄 の 生 涯 の 再 現 に ほ か な ら な い の で あ り ま す. こ の よ う に して, 『ヴ ェ ル タ ー』 の 段 階, 『ヴィ ル ヘ ル ム ・ マ イ ス タ ー』 の 段 階, 『フ ァ ウ ス ト』 や 『西 東 詩 集』 の 老 年 期 の. 段階などへの思い出をもつゲーテ学びは今日もなお, 無意識的にひとりの文筆家の生涯を規定 し, 神話的に制約しうるのであります,‐--私は無意識的にと申 しましたが, 芸術家にあって は, 無意識はいつでも微笑する意識的なもの, 子供っ ぼく深く注意するものへと移って行くの l ich l t igent l ich verspie l te und l inst l eidenschaf で あ りま す」 (Der K{ er zuma , dieser e kindische 入江ensch wei8 ein Lied zu singen von den gehei ・nen und doch auch o圧enen , Einat i l issen solcher infant en. Nachahmung auf seine. ive Biographie, seine produkt. Lebensfdhrung welche oft nichts anderes ist al s die Neubelebung der Heroenvita unter , ichen Bedingungen und n”t sehr anderen, sagen l ichen und pers6nl sehr anderen zeit io Goethes mit ihren Brinnerungen an die ichen N1 itteln. So kann die i ・ nitat wir: kindl. t< und >Divanく noch ie A1 ter Wrerter一, die Meister一Stufe und an d sphase Von >Faus i d f h 1 1 b iftste1 heute aus dem UnbewuBten ein Schr t 1 u lnmen; e n mythisch best rn ere en -ich sage; aus dem. Unbewu日ten, obgleich im. ler das UnbewuBte jeden Kれnst. l t ich tief Aufmerksame hint iberspi Augenbl i lnd BewuBte und kindl e ache ckinsl , , ,IX,S 499),. 他ならぬこの文章はマ ン自身が, 子が父を模倣するように, 後人が先人を模倣するように, ゲ ー テ を 模 倣 した こ と を 示 して い る,. この年12月, 彼はナチスにより財産を没収され, 国籍を剥奪され, またボン大学から名誉博士 号 の 撤 回 を 通 知さ れ た こ と な どに よ っ て, 1938 年 ア メ リ カ に 亡 命 す る, し か し, こ の 亡 命 に あ っ. ても, 彼は偉大なる教師であり, お手本であるゲーテから離れはしなかった, それどころか, 益 々 ゲ ー テ へ の結 び つ き を 強 め て ゆ く の で あ っ た. アメ リ カ で プ リ ンス ト ン大 学 の 古 典 文 学 の 講 師 に な っ た マ ンは 亡 命 した 年, ゲ ー テ に 関 す る ふ く”) と 『ゲ ー テ の < フ ァ たつの講演をする. 『ゲーテの < ヴ ェ ル タ ー >』 (, ,Goethes 〉Faust ” tく ) で あ る. 前 者 は 主 に 『ヴ ェ ル タ ー』の 歴 史 的, ウ ス ト〉 に つ いて』 (“Uber Goethes〉Faus. 自伝的諸背景を説明しているが, あまり 特筆 す べ きところもない, 強 い て い え ば, Eberhard l 9 ) が 言 う よ う に, 終 り の 方 で, 1816 年 に は す で に シ ャ ー ル ロ ッ テ ・ ケ ス トナ ー (Char‐ Hi l scher lotte Ke tner), 即 ち, ウ ェ ッ ラ ル の ロ ッ テ が, s. 自 分 の 姉 妹 の 一 人 が 嫁 い で い る ワイ マ ー ル に や. っ て きて, 67才 に な る ゲ ー テ と 44 年 ぶ り に 再 会 した, こ と が 語 ら れ て い る こ と で あ ろ う, い わ ゆ. るロマー ソ制作の暗示である, 彼はこの時の逸話をひとつの物語 に仕組んで, 天才ゲーテ像を作 り あ げ る こ と も で き る で あ ろ う と 言 っ て い る が, す で に 1930 年 か ら, こ の ロ マ ー ンの 準 備 を して い た の で あ っ て,1939年, つ ま り,『ゲー テ の くヴ ェ ル タ ー〉』 の 暗 示 の 翌 年, ゲ ー テ・ロ マ ー ソ 『ワ イ マ ー ルの ロ ッ テ』 を 完 成 す る の で あ る. 後 者 『ゲ ー テ の 〈フ ァ ウ ス ト〉 に つ い て』 で は,マ ンは t” こ の 有名 な 文 学 作 品 の 入 門 と 系 列 を 物 語 っ て い る, 『初 稿 フ ァ ウ ス ト』 (“ Ur-Faus , 1790) と 古. い民衆本との未だ解明されていない類似性を究明し,確固たる事実に基づく仮説をたてている, 徳 -1 52・一.

(10) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 6年2月. 沢 得 二 著 『フ ァ ウ ス ト論 考』 に よ ると 例 え ば フ ァ ウ ス ト伝 説 が 魔 術 師 ジ ー モ ソ (Simon Ma us) , , g 伝説 に 由 来 す る 推 論, フ ラ ンク フ ル トの 印 刷 者 シ ュ ピ ー ス (Spies) が 編 集 し た1585年 の 民 衆 本 の 言 及, メ フ ィ ス トフ ェ レス と い う名 の 由 来 な どが 挙 げら れ て い る 1 ) そして 8 , そ の 翌 年, ゲ ー テ .. という偉大な芸術家の内面生活に理解と共感をもっ て描いた 『ワイ マールのロッ テ』 が上梓され る が, こ の 小論 で は 取 り 扱 わ な い こ と に す る .. 第2次世界大 戦後のマ ンは, 若い頃語ったゲーテとはいくらか異なっ た趣きを呈して いる . 戦. 後 ゲ ーテ に つ い て 書 か れ た エ ッ セイ の う ち で , 最 も 素 晴 し いも の は, アメ リ カ 版 ゲ ー テ 選 集 『永 ’ 遠な る ゲーテ』 (“The permanent Goethe’ ) の 序 文 に あ る 『ゲー テ に つ い て の 幻 想』 で あ ろ う , こ の エ ッ セイ に お い て, マ ンは か な り 精 確 に, あ の ゲ ー テ ・ ロ マ ー ン 『ワ イマ ー ル の ロ テ の ッ 』 見 解 にそ っ て 書 い て い る が, ゲ ー テ の 生 活 と 作 品 も ま た 興 味 深 く 紹 介 し て い る 。 マ ンは ゲ ー テ の. 作品の本質を人間性に見出し, 次のように言っている. 「この多様な文学作品 は非常に男性的というものではないが, その代りに きわめて誠実に , , きわめてあからさまに, 極度に人間的で, そのうえ, というか叉はそ れなれば こそ どの点を , と っ ても, どの い い ま わ し を 見 て も, 作者 そ の 人 の 愛 す べ き こ と が 一 見 し て わ か る の で あ. っ て,. その愛すべきことたるや, あまねく精神的 創造の広大な世界をたずねても. 容易に二度とは見 , あたらな いも の な の で あ る」 (… .istdiesvielfaltigeDichtwerk nicht【iberaus mannl i ch ..,. ich aufs ehr 〔 ir α ichste o圧enste i l so ist es daf enschl I 1 3 1 n oder eben , , iu erste und tr浅gt zude dadurch an j edem Punkt undin ieder Wendung den pers6nl ichen Stempel einer Lie- bens v▽t irdigkei t Wie man sie in al l en ▽veiten und Breiten geist iger Sch6p fung nicht ,. l icht ein zweites Ma lf i e ndet , . 744), ,IX.S こ の 讃 美 の 文 章 こ そ, マ ンの ゲ ー テ を語 る 所 以 な の で あ り ゲー テ の 人 間 性 こ そ , , テ研 究 の 中 心 テ ー マ で あ る,. マ ンの ゲ ー し か し, こ の エ ッ セ イ に は 到 る 所 に 一見 ゲ ー テ を 誹 諾 し て い る , ,. のではないか, とも思われる描写が散在する. そのため, マ ンのゲー テ像はゲーテの真実の姿を 伝えず, ゲーテを歪曲して いる, と評価する研究者の数も少なくないのである J r は, . . A. Ashe マ ンはゲーテをヨーロッパ文学界の確固とした天才と見る伝統的な描写をやめ, ゲーテを完全に 暴露 し, ゲー テ の 信用 を 落 さ せ よ うと し て い る, と さ え 極 言 す る の で あ る , マ ンは74才 の ゲ ー テ . 「ザクセ ン・ワイ マール 大公国の首席国務大臣で, 世界的 に有名な詩人であり, … 花の よ うな 17才の少女とあくまで も 結 婚 し た い と 望 む 閣-下」 (Se l l ine Bxze enz , der rangalteste staats‐ minister des. GroBherzogtun・ s. sachen--▽Veimar. und. tber菖hn1 te wel. Dichter d , .,.un. durch aus elne s iebzehniahr ige Madchenbl te he i l l t i raten wi ・ , ,714f.) .... ,1×, S. と, 皮肉に紹介し, その姿は 「重苦しい肥満ぶり」 ine schwerfal l ige Be l i t), 不 機 嫌 eibthe ぼ な顔つき, 腫れ っ たい目, 垂れさがった頬をもち, 人生のある時期では 「平凡なおきまり文句を lkonvent ione l l 並 べ た り」 (bana ) , う ん ざ りす る よ う な 自 惚 れ を 示 す が, 他 の 時 期 で は ひ どく ペ ダ ソテ ィ ッ シ ュ で, 高 慢 で, か つ 倣 慢 で あ る, と 説 明 す る , ま た 彼 は 恋 愛 に お い て, み だ ら で, 不誠実で, 自己陶酔者 であるに加えて, 「我々の概念にあてはめると ほと ん ど ア ル コ ー ル中毒患 , t ir unsere Beg i賃e beinahe ein A1kohl 者」( r iker ) な の で あ る, そ れ に 加 え て, ゲ ー テ の ,...f. 家族の精神病について, ゲーテの精神病的性癖 についても長い詳細な記述がなさ れている この , よ う に見 て く ると, マ ンは ゲ ー テ の 悪 態 を つ く た め に,. ゲーテ を描 写して い るの かと 思 わせ る ほ. ど で あ る. 次 の告 白 は そ の こ と を 端 的 に 示 し て い る で あ ろ う , -1 53-.

(11) . Vo l ・2 ,21 No. i i t i on I A) on (Sec t l。f H0kkaido Uni ver s journa y of Bducat. Feb . ’1971. 「それというのも, 彼はどういうやり方で自分 自身を示している のか, あわれな 弱虫を示すこ ゴ と によ っ て, で あ る, 自 殺 者 ヴ ェ ル テ ル, 裏 切 り者 ク ラ ヴィ ー , ヒ ス テ リ ー 患 者 タ ッ ソ ー, ・」 定 見 の な い エ ド ゥ ア ル ト, 『シ ュ テ ラ』 に 出 て く る ま さ し く 非 常 識 な フ ェ ル ナ ン ドー …・… …・ D l b t‐ i b t s h l i h e r e s l ber? lndem er Schacher und Sc wac nge g . ich se (Denn wie gibt er s lose Eduard, de d ‐ hal t r l i くer Tasso 6rder Vyerter der verr乳ter clavigo der Hyster , el m. , , 1 1 i S d t F く”.み 1x・ S e a d i h > r i a n o e n n e c .744) ・ gera ezu ゆps. さ ら に, マ ンの ゲ ー テ は 出 版 の 自 由, デ モ ク ラ シ ー や 憲 法 に 反 対 し, 政 治 的 見 解 は 「残 忍 さ か d i Schritt oder , ら 3 歩 し か 離 れ て い な い, あ る い は も っ と 離 れ て い な い の で あ り」(… ,nur re B tl f rnt ) e nt weniger , , vom ru a en e. 理想主 義的な考えを全く捨て, 人間のあらゆる行為というも. の は 役 に 立 た な い も の と す る の で あ る, マ ンは 次 の よ う に 述 べ て い る. べ 「ゲ ー テ に と っ て, い っ さ い の 意 欲, 格 闘, 努 力, 闘 争 は せ い ぜ い の と こ ろ 称 讃 す き も の で. ( はあるが, 高貴なもの ではなく て, 彼が結局見込みのないものと思っ ているものである」 ….. ich, aber niCht vornehm 6bl Ringen Streben, Kampfen, das h6chstens 1 l ~ ′ol l . en es v a , , l t t i r aussichtslos ha ist und das erim Grunde f .375) , , ,IX.S ,. ま た, ゲー テ の 創 造 的 な 作 品 に つ い て は, 彼--流 のイ ロ ニ ー で 分 析 し て い く.. 「そこには 一種の絶対不実とでもいうものがあるのであっ て, この不実は見捨てた り, どの原理 して, の支持者たちをも, その原理を完全なものにする-と同時に, 他の原理をも完全なものに 赤面 さ せ た りす る こ と を 面 白 が っ て い る の だ,. 実 際, こ れ はイ ロ ニ ー と し て の, ま た 一 方 を 他. 深いニヒリ ズ 方へ売り わたす朗らかな裏切りとしての世界支配のようなものである, そこには 義が作用して ムが作用している, 芸術の-そし て自然の-区別し評価することを 好まぬ客観主 包 いる, あらゆる一 義的明白性からす早く 逃げだす 自然・妖魔的な もの, 暖味性の, 否定の, i e Art von souveraner Treulo- it d 括的な懐疑の要素が作用している」 ( . .,.und es s a e n isanen iedes die Anhanger im stich zu lassen, die Part s aB macht d igkei t s , ・ , er es p st etwas l ‐ r -und da endet s andere auch. Ja, es i inz ips zu beschamen,indem man es vol Pr d , und ein s lronie und heiterer Verrat des einen an das an ere therrrschaft al wie vvel. ivi ige 〇bjekt l l smus der Kunst- d Wer ten unWi d S h id l i iefer Nihi t smus , er zunI c e en un i ig l t ・ l ds a {e NaturーB1bisches er Bindeut t l , a und der Natur--ist darin wirksan , , e was d lfaSsenden vernei t I lung und deS un i rdig1 (ei E1e i ent der Fragwt ー 庄 ー , er entwischt , en. fe l i Zwe s ,IX,S.740). ,..., a‐ 寄 者 (Schl l l こ の 文 章 の ゲー テ を 『ワ イ マ ー ル の ロ ッ テ』 の ゲ ー テ 即 ち, ニ ヒ リ ス テ ィ ッ ク な 食 い に エ セイ つ ) と 評 価す る J 9 . A, Asher の よ う な 研 究 者 も い る, こ の ッ rotzer) に 似 て い る,1. 以上取り扱わな は研究者の意見 もさまざまであり, それだけ問題も複雑であるが, ここではこれ い こ と にす る.. 1947年72才で, 精神的には勿論, 肉体的にさえ老いて益々 若返る趣きのあるマ ンは, ゲーテの. 『 士 一 友 人 の 物 語 る ドイ ツ の 作 曲 『フ ァ ウ ス ト』 (“Faust” ,1831) に な ぞ ら え て, フ ァ ウ ス ト博 , d t h d . Das Leben es eusc en 家 ア ドリ ア ソ, レ ヴ ァ ー キ ュ ー ソの 生 涯』 (“Doktor Faustus inem Freunde”) と 題 す る 長 篇 小 説 を 発 表 す t von e ihn erz員hl ian Leverkt Tonsetzers Adr. の る. その後2年して, マ ンはこの小説の成り立ちを物語る 『ファ ウス ト博士の誕生, ある小説 ‘ ‘ R 小説を世 F us tus D kt d tt h . Roman eines omans , 1949) の 小 説』 ( ,Die En s e ung es o or a , Unio mystica と表現する. に 問 う. こ の 中 の 冒 頭 の 章 で, マ ン は ゲ ー テ と の結 び つ き を 一1 54冊.

(12) . 第 21 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 6年2月. 『ワイ マールのロッ テ』 の最もすぐれた数章は, 私が, 実に半年以上も長引いた伝染性坐骨神 「 経痛の苦しみという, 経験のない人には話しようのない苦しみ のただなかで書いたものだが, ……毎夜毎夜がもう金輪際繰返してもらいたくないような夜であったか, そういう夜が明けて, 朝食をとると, それがいつも, 炎 症の高熱にさらされた神経をいくらか鎮静してくれる, その 後で, 私は, 何とか斜めにかまえた坐り方で書きもの机に向っ て, 〈最も美しい高みに昇りつめ た星〉 であるかの男との神秘的一致を遂行したのであった」(Di e besten Kapital von 〉Lotte in wre imar〈 habe ich unter den, Unerfahrenen nicht zu beschreibenden Qualen einer iber e in ha i lbes Jahrs iehenden infekt i N ch wohlt 6se ch hinz 1 1l schias geschrieben, ,.., a d Nt t i ( ihst i cl egte das Fr chten く eine r , vor eren VViederholung mich Gott bewahre, Pa igung des in Entz t indungsgluten stehenden Nerven zu bringen und in gewisse Besanft , irgendeiner s B i t s t isch vol lzug i h a c r g angepa en zmanier an meinem Schreibt ch danach. d i tlhm, dem 〉Stern der sch6nsten H6heく e Unio mystica mi , .147), , XI .S そ し て, 彼 は 同 じエ ッ セイ で, 「私 は ゲ ー テ が 実 際 に は 言 わ な か っ た と し て も,. し か し, ゲ ー テ は 機 会 さ え あ れ ば, そ う い う. dβ こと が 言 え た で あ ろ う と 思 わ れ る」 (Doch verbnrgt ei ch mich dafnr , a , wenn Goethe ich gesagt habeト h h k h l d h t 6 a t cht wi rkl r e s s e ni e r es oc agen wo nnenh,, “ ×1 ,,, , s,274),. と, さえ言い, 自分がゲーテの代弁者であることを強調する. 翌 年, ゲー テ 生 誕200年 の1949年, マ ンは 再 び, フ ラ ンク フ ル ト・ ア ム ・ マ イ ソと ワイ マ ー ル で 『1949年 ゲ ーテ 祭 記 念 講 演』 ( Ansprache in Goethejahr l 5年以上も故国 ド 949”) を行なう 1 “. . イ ツを見なかっ た彼は興奮して, 亡命地のことや郷里に帰った感想などを語るるとともに, ゲーテ iedenshe ld) と し て, 自 然 と 精 神 に よ っ て 祝 福 さ れ を人生の友 (Lebensfreund), 平 和 の 英 雄 (Fr た 人 と し て 讃 え て い る。 な お, こ の 講 演 の 若 干 は, 最 初, 『ゲ ー テ, ドイ ツ の 驚 異』 (“Goethe , ‘ ‘ das deutsche Wunde i Gewaltigen‘ r‘ e ) と い う タ イ トルを持っ た論文 『三人の巨人』(“Diedr ,. in Luther) t t 1949) に 再 録 さ れ て い る. こ こ で は, ル タ ー (Mar , ビス マ ル ク (Herber , F館st. Bi sma rk) , ゲーテという ドイ ツの偉大な,人物を, 大胆に歴史性を無視して比較し, 天才ゲー テに真の心の傾倒を訴えてい る,. von. ま た, こ の ゲー テ 生 誕200年 祭 の 年 に は, 彼 は 西 洋 の 各 地 で,『ゲ ー テ と デ モ ク ラ シ ー』(“Goethe ie”) と い う 講 演 を 行 な っ て い る こ の 講 演 は 題 名 か ら, ゲ ー テ が ど の よ う な 道 を und Demokrat .. 進んだかを明らかにしている. ゲーテを保守性, 貴族性のゆえに尊敬した以前とくら べ, ゲーテ の 中 に あ る デ モク ラ テ ィ ッ シ ュ な も の に 目 を 向 け る と と も に,. ゲーテ の個 人的 な 言葉 の 中 の 反 デ. モ ク ラ テ ィ ッ シ ュ な も の を す べ てメ フィ ス トフ ェ レス 的 な 役 に 帰 し て い る と こ ろ に, こ の 講 演 な t) ら で は のも のが あ る.そ し て, マ ンは ゲ ー テ の 作 品 の特 徴 を 生 へ の 親 し み (Lebensf reundschaf , i ksel l l i t 善 意 (Gutwi ) ement) に お い て い る, 冒 頭 に gke , 庶民的なものへの愛 (Liebezum Vol. は次のような言葉がある. 「ゲ ーテ の 生 ま れ て200年 間, 死 後117年 間, 人 々 が ゲ ー テ に つ い て 語 る 時,. 私は あなた に何も. ihundert 新 し い こ と を い う に は 及 び ま せ ん, と 語 り 始 め る こ と が 望 ま し い こ と で あ る」 (Zwe ‐ hundertunds iebzehn nach seinem Tode,tut man gut, einen t J ahre nach Goethe’s Gebur , it dem Satz zu beginnen: lch habe lhnen nichts Neues zu sagen, Vortrag aber ihn n・ ,. IX.S,755) . し か し, マ ンが 本 当 に こ の 言 葉 を 認 識 す る た め に は, ゲ ー テ に つ い て 知 る だ け で な く, 一1 55-. 自分目.

(13) . i i i t ido Un on IA) t on (Sec lof Hokka iver s journa y of Educat. Vo l ,21 No ,2. Feb , ,1971. 身をも克服せねばならないことは当 然であろう. そのため か, 彼の老年期のエッセイ には自己引 用, 繰返し, 楓刺が多くなっ ている, 彼は回顧的に次のように言う, 「私 自 身, 私 の こ と を 語 っ て き た, そ の た め 私 の 袋 は 空 に な っ て し ま っ た, - い く つ も の 論 文 l bs t habe das で も, 私 は そ う し た し, あ の ロ マ ー ソ全 体 に お い て も そ う で あ り た」 (lch se ch in eine ・n halben Dutzend Aufs負tzen habei ine esa t und r eert ・en sack gel M [ l ] Qei e g. g. ,・,.. das getan und ・in einem ganzen Roman . ,IX. S,755).. マ ン は エ ッ セ イ に お い て も, 講 演 に お い て も, あ の ゲ ー プ ・ ロ マ ー ソに お い て も, ゲ ー テ を 物 語 る と と も に, 自 分 自 身 を 語 っ た の で あ る. し か し, ま こ の 文 章は 確 か に, 簡 単 に 理 解 で き る,. た彼は自分自 身を語 る時にはゲーテに触れずにはおれな かっ たのであり, ゲーテは彼の偉 大な範 例であった, 30年以上も〆 特 に 老 年 期 の ロ マ ー ソ の ほ と ん ど に お い て,. ゲー テ を語 っ て きた マ ン. は どの 芸 術 家 に も 劣 ら な い・Goethe-Kenner な の で あ る. 3. ‐ マ ンは 『フ ァ ウ ス ト博 士 の 誕 生』 に お い て,. 自 分と ゲーテと の関 係 を. ica mi t t Unio mys. lhm, dem 〉Stern der sch6nsten H6heく と 規 定 と し て い る こ と は す で に 言 っ た が,こ の 表 現 に 対 ki d fsupernaturallink between し て, 1 . A.Asher は Are we seriously to suppose some n o ) と 疑 問 を 投 げ か け, マ ンの 描 く ゲ ー テ 像 の 歪 曲 性 を 唱 え て い る。 2 0 Thomas Mann and Goethe?. 彼の説くところによると, マ ンのゲーテ歪曲の根拠は, ① マ ンの持つ事実に対する, 特に歴史上の in-cheek な 態 度 か ら 現 わ れ る, エ ッ セ イ や 自 伝 的 な 作 t ight-hear ed で tongue- 事実に対す る l 『 い て の 幻 想』 に 現 わ れ る ゲ 品 に お け る inaccuracy , ② ゲ ー テ の 政 治 性 の 歪 曲 化, ③ ゲ ー テ に つ ー テ の 悪 態 を つく, と い っ た 描 写, ④ 種 々 の エ ッ セイ に お け る, シ ャ ー ル ロ ッ テ ・ フ ォ ソ. シラ l l l te von schi er) の 簡 単 な ゲー テ に つ い て の 印 象 へ の あ ま りの執着, ⑤確固とし た ー (Char ot. 立脚点の なさ, ⑥caprlc・ousness,. l humour ronica ⑦parody, travesty i. からくる不真面目さ,. に あ る. さ ら に, J . A. Asher はこんな表現 もする, セ イ, 説 i ca 「マ ンの 描 い た 全 て の ゲ ー テ 像, unio myst , ゲー テ と の 一 致 を 示 す 言 葉, 小 , エ ッ. 種々の著作はどれも真面目に受けとられることを意図されていない, これらはすべて, おそら く マ ンが Parodie, Travestie, ironischer Humor, Nichternstnehmen を好んだ 所産ではな い ight-hear ted な態度や典拠への反対感情を 抱くアプ ローチが だ ろ う か マ ンの 事 実 に 対 す る l , . , こ の意 見 を 具 体 的 に し て く れ る」20. そ し て 最 後 に, 彼 は マ ン と ゲー テ と の 関 係 を 次 の よ う に 結 ん で い る,. 「マ ンの ゲ ー テ と の 一 致 は, マ ンの ironischer Humor の例示にすぎなく, マ ンの作品が人々. の興味をひくのは, 研究者たちの考えるような, マ ンの描いた ゲーテ像に ゲーテの真の姿が写 ) 2 る か ら で は な く, マ ンの 持 つ lronie の 素 暗 し さ に よ る も の で あ る」2 ,. -テの姿に自分を見出す, マ ンのゲーテ像は, ただ単なる称賛や模倣 を越えるものであり, ゲ- 一般的なゲーテ研究とは異なる 独自な解釈を持つため, このような歪曲 説を招くのであるが, そ れ は ほ と ん ど, 『ゲ ー テ に つ い て の 幻 想』 に 集 約 さ れ て い る と 見 て よ い. こ の エ ッ セイ で, 描 く マ. , ンのゲーテは矛盾や弱さを持ち, 反道徳的で, 「意地悪く混乱させるようで, 否定的で, 悪魔的」 「妖 魔 的」 で あ る か も し れ な い.. し か し, マ ンの ゲ ー テ 研 究 は 単 な る 作 品 の 解 釈 で は な く, ゲ ー. テの人間性の 追求にあるのである, 文化の危機に陥り, 市民性の喪失した時代に何が一番必要で マンは ゲーテの人間性を強調する意味で, 偉 あるか, それは人間性の回復であろう, そのた め, ・ -1 56-.

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