T. S. エリオットとF. R. リーヴィス(2) : 伝統論をめぐって
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(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部A) 第43巻 第1号 lof Hokkaido Universi i Jouma ty ofEducat i l 43 I t on(Sec on IA) Vo . . . No. 平成 4年7月 l Ju y ,1992. T‐S. エ リ オ ッ ト と F. R‐ リ・一 ヴメ ス( 2). -- 伝統論をめぐって --. 石. 田. 洋. 至. D‐ H. ロ レ ン ス の 評 価 を め ぐる T‐S. エ リ オ ッ ト と F R リ ー ヴィ ス の 正 反 対 の 立 場 は イ ギ ‐ . ,. リス文学の伝統の捉 え方の相違にあり, その伝統論に基づく個々の詩人, 小説家の評価と深く関係 し て いる. 1 )に お い て リ ー ヴィ ス は 『偉 大 な る 伝 統 ( )に お い て そ れ エ リ オ ッ ト は 『伝 統 と 個 人 の 才 能』{ 』2 , ,. ぞれの伝統論を展開している. ふたりの伝統論は相 容れないものであるが, それは詩人 小説家が , 特に過去と どのように関わるのかという認識の相違 によるものであり, また 詩人 小説家の文学 , , の捉え方や, 文学作品を創作する時の詩人, 小説家の取るべき態度についての認識の相違によるも のなのである. 本論では, この相違を比較検討する ことによっ て, イ ギリス文学の伝統の意味を考 察する.. 1 1. エリオッ トの伝統論は, 詩人の現在と過去に対する関わり方, 特に過去に対する関わり方と 詩 , 人と詩人の創作した詩との関係のふたつから成り立っ ている まず詩人の過去に対する関わり方に . つ い て 見 て み よ う.. エリオッ トによれば, 伝統は詩人の現在と過去の認識の仕方によっ て決まるのである この認識 . をエリオッ トは 「歴史的感覚」 と呼び, 詩人はこの 「歴史的感覚」 を持っていなければ詩人たり得 ない‐ 伝統は詩人の 「歴史的感覚」 によっ て支えられるのである . しかしながら, もし伝統の, そして後世に伝えていく ことの唯一の形式が 我々の直前の世代 , の成果に盲目的におずおず と執着しながらその世代の方法に従うという ことにあるとすれば 「伝 , 統」 は明らかに消極的なものになってしまう であろう 我々は多くの そのような風潮がす ぐに崩 . れ落ち, 消え去っ ていくのを見てきた. そして目新しさは繰り返 しよりはましである 伝統はも . っ と広い意義を持 つものである. 伝統は受け継がれることはできない. もし伝統を望 むなら, 大 きな労力を使っ て手に入れなければならない‐ まず第一に, 伝統には歴史的感覚が含まれており , その歴史的感覚を,25歳を過 ぎても詩人であり続けようと望む者にとっ ては ほとんど不可欠な , ものと呼んでいいほどである. 歴史的感覚 には過去の過去性ばかり ではなく 過去の現在性も ま , た含まれている. 歴史的感覚があれば, 人は どうしても自分自身の世代を意識して書かなくては ならないだけでなく, ホメロス以後のヨーロッパ攻 学全体が そしてヨーロッパ文学の中にある , 自国の文学全体が, 同時的存在を有 し, 同時的秩序を構成 しているのだという感情を持っ ても書 121.
(3) . 石 田 洋 至 3 ) か なく て は な ら な い の で あ る( .. 詩人が 「過去の過去性」 だけを認識すればよいとなると, 詩人は自分から過去を切り 離すことがで き, 自分 が生きている 時代 -- 現在 -- だけを意識して いれば詩人たり 得ることになる. しかし 「過去の現在性」 を認識してい なければならないとなると, 現在は 時間的に単に過去につながっ て いるのではなく, 過去は現在を包含し, 現在に対し,「同 時的存在を有し, 同時的秩序を構成してい るのだ」 と主張することになる. このことは詩人にとっ て大きな 重荷である. 詩人は同世代の文学 「 ばかりではなく,「ホメロス以後のヨ ーロ ッパ文学全体」 , ヨーロ ッパ攻:学の中にある自国の文学全 「 体」 を現在的存在として受け入れなければならなく なるのである. こうした 歴史的感覚」 , つまり 「 「 「過去の過去性」 のみならず, 過去の現在性」 を認識すること ができることが, 作家を伝統的に 4 )なのである 従っ て, 伝統は容易に手に入るものでは なく, 「伝統はより 広い意義を持 するもの」( . ウもの」 であり, 「受け継がれることはできない」 ものであり, 「もし伝統を望むなら, 大きな労力 を使っ て手に入れなければならない」 ものなのである. 伝統をこのように捉えると, 詩作の時, 詩人には過去の文学に関する膨大な知 識が必要とされる. ヨーロ ッ パ文学の古典から現代の文学に至る までの知識を身に付 けていなければならなく なるので 「過去の過去性」 と 「過去の現在性」 ) -- 「文学に関 あ る つ ま り 「伝 統一 -- 「歴史的感覚」 ( .. ,. 成立するのである. する全知識の獲得」 と ・いう図式が, エリオッ トの伝統論から てのエリオッ トの考え方を説明 詩人のとるべき立場につい これまでは過去の現在に対する関係で した. では, 現在の過去に対する関係をエリオッ トはどのように説明しているのであろうか. いかなる詩人, いかなる分野の芸 術家も単独では完全 な意味を持たない. 彼の意義, 彼の評価 は, 彼の過去の詩人, 芸術家に対する関係の評価である. 彼を単独で評価することはできない. 5 ) 比較対照するため, 彼を過去の詩人, 芸術家の間に置かなければならないのである( . 詩人の持つ意味, 意義, 評価は, 過去との関係, つまり, 過去の詩人との 比較対照によっ て決まる のである. たとえば, 新しい詩が創作された時, 何が起こるのであろうか. 新しい芸術作 品が創作された 時に起こることは, その芸術作品に先行するすべての芸術作品に起 こることなのである. 既存の不朽の作品は, その作品間で理想的な秩序を形式している. しかし その秩序は, 新しい(真に新しい)芸術作品がその作品間に導入される と, 修正されるのである. 新しい作品が到 来するまでは, 既存の秩序は完全である. 新しいものが付加された後に秩序が残 存するためには, 既存の秩序全体が, たとえどれほど小さなものであるとしても, 変化を受 けな ければならない. 全体に対する個々の芸術 ず作品の関係, 割合, 評価は再調整される. これが古い 6 } も の と 新 しい も の と の 間 の 適 合 で あ る( .. 現在によっ て過去が影響を受け, 変化するというこ とである. エリオッ トの言う現在と過 去の関係 7 ( )ということであり, をまとめると, 過去の現在に対する関係は, 「現在は過去によっ て導びかれる」 { 8 ) 「 現在の過 去に対する関係は, 過去は現在によっ て変化させられる」 ということなのである. つま り, 現在と過 去がたがいに 「適合」 し合うことにより伝統が成立するのである. 現在と過去との関係, 新しい芸術作品と過 去の芸術作品との関係, 詩人と過去との関係による伝 統の説明のほ かに, 詩作における 詩人のとるべき態度, つまり詩人と詩との関係についてもエリオ 122.
(4) . T.S.エ リ オ ッ トと F.R‐リ ー ウー ス( 2 ). ツ トは 説明 し て い る.. ひとつの詩と他の作家の詩との関係 の重要性を私は指摘しようとしてきた そしてこれまで書か . れた詩を生きた全体として捉える詩の概念を提示した. この詩の非個性化の理論のもう ひとつの 9 } 側面は, 詩とその作家との関係である( . エリオ ッ トによれば, 詩人が伝統 に対する感覚を持っ ていれば, 詩を創作する時,「継続的な自己犠 1 0 }が必要となり この自己犠牲や非個性化によっ て .芸術は科学の状態 牲, 継続的な個性の消滅」( , , に近づき得るというのである. 詩作における詩人の役割 について, 白金を触媒とした時の酸素と二 1 1 酸化硫黄の変化の例をあげてエリオッ トは説明する. 酸素と二酸化硫黄を結合させて三酸化硫黄{ ) を作るのは困難であるが, . 白金を触媒として用いれば, これは可能になる. その時, 白金そのもの は何の変化も受けない. これを詩人と詩の関係にあてはめるのである. 酸素, 二酸化硫黄にいたる 1 2 )であり 詩にあたるのが三酸化硫黄 であり 白金にあたる のが詩人の 「特別で大変 多様な感情」{ , , のが詩 人の精神である. 詩人の精神は白金線である. それは, 人間自身の経験に部分的にあるいは全体的に作用する し . かし, 芸術家が完全であればあるほど, 苦しんでいる人間と創作する精神が芸術家の内部でより 1 3 ) 完全に分離され, . 精神はより完全にその素材 である感情を消化し変化させるのである( . 触媒として の詩人の精神によっ て, 詩人の感情, 個性はその固有の性質をまっ たく失い 別の種類 , のものに変化してしまう. 従っ て, 詩そのものから受ける感情は, 詩人の感情 個性とはまったく , 1 4 )と呼んでいる 「重要なのは 構成要素 で 異質なものであり, エリオッ トはこれを「構造的感情」{ , . ある感情の 「偉大さ」 や強度ではなく, 芸術的過程の強度 であり, 言わば 融合が起こる 時の圧力 , 1 5 ) 詩から受ける読者の感情は 「構造的感情 である以上 これを生み出す詩人の技 なのである」( 」 . , , 法に力点が置か れる. 詩人が優れており, 興味を起こさせるのは, 詩人個人の感情, すなわち 詩人の人生における , 特別な出来事によって喚起された感情にあるの ではない ”..詩人の仕事は新しい感情を発見する こと ではなく, ふつうの感情を用いる ことであり, そしてその感情を詩 の中に取り入れる 時 実 , 1 6 ) 際の感情とはまっ たく異なる感情を表現することである{ . 従っ て, 詩人が詩人として偉大であるための条件は, 詩人自身がどれほど独特の個性を持っ ている かということではなく, 詩から受 ける 「構造的感情」 を表現するため に どれほど効果的な 触媒に , なり得るか, どれほ ど有効な技法を持ち合わせているかということ である ・ . , 詩人には表現すべき 「個性」 はなく, 特別な手段 がある. その手段はあくまでも手段であり個性 1 7 ではない. その手段によっ て印象や感情が, 特別な思い がけない方法で結合する( } . , このように見てく ると, エリオ ッ トが強調しているのは, 詩作の時の詩 人の技法である 詩人が 。 どれだけ優れた技法 で詩を創作しているのかが詩の良悪の判断基準となるのである エリオ ッ トの . 伝統論を支えているのは, 現在と過去との関係や詩人と詩との関係 での説明から明らかなように , 123.
(5) . 石 田. 洋 至. 知識と技法というこ とになる.. m 1 8 )に お い て よく 示 さ れ て い る エ ( ノ・ム レ ッ ト と 彼 の 問 題』 上 述 の よ う なエ リ オ ッ ト の 考 え 方 は, 『 . 「 ノ・ム レ ッ ト』 は シ ェ イ ク ス ピア の 傑 作 で あ る どこ ろ か, ま っ た く 明 ら リ オ ッ トは, 劇 と して の 『 1 9 )と 言 う そ の 理 由 を ふ た つ あ げ て い る ひ と つ は, ハ ム レ ッ ト劇 の 歴 か に 芸 術 的 失 敗 作 で あ る」( . .. 史的な成立過程によるものである. ハムレッ ト劇はシェイ クスピア以前から存在し, シェイクスピ アが独自に創作したものではない‐ 批評家たちが, シェイクスピアの 『ハムレッ ト』 の解釈におい 「『 て明らかな事実を無視してしまうことで, その解釈を誤っ たというのである. その事実とは ノ・ム レッ ト』 は層に層 を重ねてできたものである. それは一連の人々の 努力を表わしており, どの人も 2 0 )という事実である つまり, シェイクス 前作者の作品から なし得ることを なしてきたのである」( . ノ・ム レ ッ ト』 を 創 作 す る 以 前 か ら ハ ム レ ッ ト劇 は 存 在 して い た. そ れ は ト マ ス ・ キ ッ ドの ピア が 『 ハ ム レ ッ ト劇 で あ る. キ ッ ト の ハ ム レ ッ ト劇 は 今 日 残 っ て は い な い が, どの よ う な も の で あ っ た か 『 は 推 測 で き る と 言う. キ ッ ドの 「『ス ペ イ ン の 悲 劇』 そ の も の か ら, キ ッ ドの ノ・ム レ ッ ト』 を 基 に し た に ち が い な い ベ ルフ ォ ー レ ス ト の 物 語 か ら, シ ェ イ ク ス ピア の 『ノ・ム レ ッ ト』 か ら で は なく, キ ッ ドの 『ノ・ム レ ッ ト』 か ら 採 っ た と い う 明 ら か な 証 拠 の あ る, シ ェ イ ク ス ピ ア 在 命 中 に ドイ ツ で. 2 1 }手がかりを得れると言う 公演された台本から」{ . これらの 三点の資料から明らかなことは, キッ ドのハムレッ ト劇の動機は単なる復讐の動機であ り, (ハムレッ トの) 行動, あるいは (復讐の) 遅れは, 護衛に取り囲まれている君主を暗殺する ことの難しさに専ら起因しており, ハムレッ トは疑いを首 尾よく免がれるために狂気を装ってい るのである. 一方, シェイ クスピアのハムレッ ト劇では, 復讐の動機よりももっ と重要な動機が あり, その動機が明らかに復讐の動機を弱めて いるのである‐ 復讐の遅れは, 必然的に, 当然そ のようになるという根拠に基づいて説明されていない. 「狂気」の持つ効果は, 王の疑いを和ら げ 2 2 ) る も の で は なく, 引 き 起 こ す も の な の で あ る( .. シェイクスピアが参考に したキッ ドのハムレッ ト劇は, 「層に層を重ねてできたものであり」 , ハム 「 レッ トの狂気は単に復讐 の動機に基づくものであっ たが, シェイ クスピアは復讐の動機を 息子に 2 3 )に変えたが これをキッ ドのハムレッ ト劇にうまく乗せることができな 対する母親の罪の 影響」( , か っ た と いう の で あ る. そ し て こ れ を 『ノ・ム レ ッ ト』 が 失 敗 作 で あ る と い う ひ と つ の 理 由 と し て エ リ オ ッ トは あ げる の で あ る. エ リ オ ッ ト は 主 人 公ハ ム レ ッ トの 扱 い 方, つ ま り, ハ ム レ ッ ト劇 の 文. 学上の歴史的事実を考察し,その結果得た知識を基礎にしてハム レッ ト論を展開しているのである. シ ェ イ ク ス ピア の ハ ム レ ッ ト劇 が 失 敗 作 で あ る と い う も う ひ と つ の 理 由 は, シ ェ イ ク ス ピ ア が主. 人公ハムレッ トの感情を表現するための 「客観的相関物」 を見つけることができなかっ たからであ るとエリオッ トは言う. 「客観的相関物」 をエリオッ トは次のように説明 する. 芸術の形式において感情を表現する唯一の方法は, 「客観的相関物」を見つけることによる. 換 言すれば, あの特別な感情を示す方式でな ければならない 一組の対象物, ひとつの場面, 一連の 出来事, つまり, 外部的事実 -- これは感覚的に経験されるところまでに到達しな ければならな のだが-- が与えられると, 感情が即座 に喚起されるような事物を見つ けることによるの であ 124.
(6) . 2 ) T‐S‐エ リ オ ッ トと F.R‐リ ー ヴイ ス( 2 4 ) る{ .. シェイ クス ピアはハムレッ トの感情を表現するために必要なハムレッ トの行動や場面を作品の中に 創造することができなかっ たということである. このようなことが生じたのはシェイクスピアの特 別な経験によるものであると推測し, シェイクスピアの伝記的事実をもっ と知る必要があるとエリ オ ッ トは結論づやけるのである. 主人公ハムレッ トの感情が--エリオッ トによると, シェイ クスピア自身の感情なのであるが- - 「客観的相関物」 を見出せなかっ たということである. つまり, シェイクスピアは自分自身の感 情を芸術的, 詩的感情に変化させるための触媒としての役割を充分に果すことができなかっ た, あ る い は, そ の た め の 十 分 な 手 段 を 持 ち 合 わ せ て い な か っ た と い う こ と で あ る‐ こ れ が, エ リ オ ッ ト が 『ノ・ム レ ッ ト』 を 失 敗 作 と 断 定 す る も う ひ と つ の 理 由 な の で あ る. エ リ オ ッ ト の ハ ム レ ッ ト 論 は,. たものと言える. 彼の伝統論を明らかに具現し ,. エリオッ トの伝統論は, 詩を文学の中心として捉えて論じられている‐ 詩の歴史に比べると, 小 説の歴史は, はるかに短いものである‐ イ ギリス文学に現代的意味での本格的な小説が現われたの 9世紀であっ た. エリオッ トの伝統論のねらいのひとつは, 現代の詩を過去の詩の中に包含する は1 ことによっ て, その存在を強調することにあっ たように思われる. 一方, リー ヴィ スの伝統論は, 詩に限らず, 文学作品の著者のとる人生に対する態度を中心とし て 論 じ ら れ て い る. リ ー ヴィ ス は 『小 説 家 D. H. ロ レ ン ス』 に お い て 次 の よ う に 述 べ て い る‐. 言わなければならなのはこうである--ロレンスは誰にもまして偉大な小説家であり, まさに 最も偉大な小説家のひとりである. とりわけロレンスはイ ギリス文学の伝統に属する小説家のひ 」として生き続けるであろうということである この提案に正当な力強さを与えるために 私 とり , . は別の所で提案した英語の散文 ・説の歴史の概念に言及しなければならない. そこには次のよう な見解が含まれている. もし人間の経験を提示する時の深さと幅広さと範囲と精妙さとが基準で ある と す る な ら, ジ ェ イ ン ・ オ ー ス テ ィ ン か ら ロ レ ン ス に 至 る 偉 大 な 小 説 家 - - ホ ー ソ ン, ディ ケ ン ズ, ジ ョ ー ジ ・ エ リ オ ッ ト, ヘ ン リ ー ・ ジ ェイ ム ズ, メ ル ヴィ ル, マ ー ク ・ ト ウ ェ イ ン, コ. ンラ ッ ドを私は考えているのだが--の作品の中に, 凌駕されない, 文学史の有名 な部分や章の どれにも凌駕されない創造的業績がある. これらの偉大な小説家はシェイ クスピアの後継者であ 9世紀以後, 英語という言語の持つカ ー- 詩的で創造的なカ ー一 は散文小説 る.... なぜなら,1 に移っているか らである. 比較すれば, 形式的な詩は重要な問題ではない.T.S‐エリオッ トの業 2 5 ) 績は注目に値いするが, この関係を逆転させはしなかっ た{ . リ ー ヴィ ス は エ リ オ ッ トの 詩 を 評 価 し て い な い の で は な い. エ リ オ ッ ト の 詩 を 評 価 し た と して も,. 歴史的事実を変えるだけのものではなかっ たということである. つまり, イ ギリス文学の伝統は- -これは詩の伝統でもあっ たのだが--19世紀以後, 詩に引き継がれているのではなく, 小説に引 き継がれ, 伝統を支える文学のジャ ンルは詩から小説へ移行したというのである. このことは, 現 在と過去との関係, 詩人と詩との関係で現代詩の歴史的意義付けをしようとする批評家としてのエ リオッ トの伝統論に対する反論である. 125.
(7) . 石 田 洋 至. エリオッ トの創造的作品をフローベ ルの作品と比べようと考えた人は誰もいなかっ たかもしれ ないが, 人生に対するエリオッ トの態度は, フローベ ルの態度に劣らず, 不快と嫌悪に満ちた態 度 である. 従っ て, フローベ ルがその偉大な実例となっ ている矛盾が, エリオッ トの芸術に含ま れている. なぜなら, 確かにそれは, フローベ ルの場合が古典的に示している矛盾--不快と嫌 ,悪と倦怠が決定的な役割を果している態度を表現するために献げられたあのひとりよがりの創造 的緊張, あの制作の緊 張÷÷である. つまり, ひとつの宗教に帰着し, その指導的精神は人生の 2 6 ) 拒否に帰着する芸術崇拝である( . 「あのひとりよがりの創造的緊張 あの制作の緊張」 という表現は 明らかに エリオッ トの言う , , , 伝統を支える要素のひとつである詩人の詩作の時の役割--詩人は触媒の働きを持ち, 経験と感情 を 「構造的感情」 に変化させなければならないという詩人の役割一一に対する反論である. エリオ ッ トが人間の経験,,感情を, 芸術的経験, 感情に変える技法を芸術作品の評価の基準と考えている のに対し, リー ヴィ スは 「人間の経験を提示する時の深さと幅広さと範囲と精妙さ」 と・が評価の基 準と考えているのである. 2 7 )の中で 彼の伝統論を展開している リー ヴィ スはこの著書で リー ヴィ スは『偉大なる伝統』{ , , . ン ョ ー ジ ・ エ リ オ ッ ト, ヘ ン リ ー ・ ジ ェ イ ム ズ, ジ ョ セ フ ・ コ ン ラ ッ ドがイ ギリ ス の 小 説 の 伝 統 を. 形成する小説家の中でも, 中心的で主要な小説家として取り上げている. 特に注目すべき点は, 後 に 個 別 の 作 家 論 と し て 取 り 上 げ る こ と に な る ジ ェ イ ン・オ ー ス テ ィ ン と D‐ H‐ ロ レ ン ス へ の 言 及 で. ある. オースティ ン, ロレンスはこれらの小説家の前後に位置する小説家である. リー ヴィ スの伝統論は, 「芸術の可能性」 と 「人生の可能性」 とがいかにして小説の中で実現され ているかという点に基づいている. 「芸術の可能性」 のために 「人生の可能性」 を犠牲にしたりして はならないのであり, その逆もまた小説家として取るべき態度 ではないのである. また, このふた つの可能性を両立させるために, それぞれの可能性を縮小させてもいけないのである。「芸術の可能 性」 と 「人生の可能性」 というふたつの可能性を最大限に発揮し, 両立させることのできる小説家 こそが, 偉大なる小説家であり, 偉大なる伝統に属するのであり, シェイ クスピアの後継者である ということになるのである. そこで, 主張することが必要なのであるが, 重要な区別がなされなければならないし, 文学史 に名 前の出てくる小説家がすべて意義のある創造的領域に属しているとはまっ たく言えな いので ある. そこで, 差異に関する正しい認識を想起するために, 少数の真に偉大な小説家--主要な 詩人と同じように, 小説に携わっているものや読者に対して, その芸術の可能性を変化させるば かりではなく, 人間的意識を促進する, つまり, 人生の可能性についての意識を促進するという 点で意義があるという意味で重きをなす主要な小説家--を区別することから始めるのが適切で } あ るα8 .. 「主要な詩人と同じように . .. 芸術の可能性を変化させるばかりではなく... 人生の可能性につい 主要な小説家 ての意識を促進する.” 」 という部分に, リー ヴィ スの伝統についての考えが明確に 示されている. 小説が文学のジャ ンルのひとつとして登場し, 完成されていく過程の中で, これま での詩を中心としたイ ギリス文学の伝統を小説が受け継いでいるのであるから, 「芸術の可能性」と 「人生の可能性」 ということが 伝統に属しているか否かの判断基準となるのであ′ る.,エリオッ ト , 126.
(8) . T.S.エ リ オ ッ トと F.R‐リ ー ヴィ ス( 2 ). が 『伝統と個人の才能』 で示した基準は, 詩人の人生に対する態度ではなく, 詩人の芸術に対する 態度であっ た. 従っ て, 詩人自身の経験や感情は重要なものではなかっ た. 詩人の芸術に対する関 わり方が重要なのであっ た. これは明らかにリー ヴィ スの言う基準, とは異なるものである. リー ヴ ィ スはジェイン・オースティ ンが伝統に属する小説家であるという理由のひとつとして, 次のよう に述べ ている. 事実, ジェイ ン・オースティ ンは他の作家に学びながらも, 独創性の本質について非常に明快な 研究を提供し, 伝統に対する 「個人の才能」 の関係を見事に例証している. もし彼女に関係のあ る影響が, 明らかに伝統と呼ばれるものを含んでいなかっ たといたなら, 彼女は自分自身と真の 進むべき方向を見出すことはできなかっ たであろう‐ しかし彼女の伝統に対する関係は創造的な ものであっ た. 彼女は後に続く者のために伝統を創造したばかりではなく, 彼女の業績は我々に 対して遡及的効果を持っ ている. 彼女より以前の過去を振り返ってみる時, 我々は彼女より以前 にあっ たものの中に, 彼女のおかげで, 彼女にまでつながっ ている伝統を彼女が我々のために創 造したという意味で明らかになる可能性や意義を 見出す. 彼女の作品は, すべての偉大な創造的 2 9 } 作家と同じく, 過去に対して意味を与えるのである( ‐ オースティ ン以前の小説家 例えば, フィ ールディ ング, リチャー ドソン が創造していたイ ギリスの小説の伝統を, オーステインが創造した伝統が変化させ, 修正し, オースティ ンに至るま での新しい伝統を創造したということであり, 以前の伝統の中での評価の再評価がなされ, それぞ れの小説家の可能性や意義が確定するということである. これは明らかにエリオ ッ トを意識したも のである. 伝統に対する個人の才能の関わり方を, エリオッ トは伝統に適合することと規定してい るのに対し, リー ヴィ スは伝統を創造することと規定するのである. エリオッ トは現在が過去に適 合することによ, っ て現在が意義を持つと考えているのに対し,リー ヴィ スは過去の伝統を変化させ, 未来につながる伝統にも影響を与えるものとして現在を捉えているのである.リー ヴィ スの意図は, 小説に受け継がれたイ ギリス文学の伝統が, その伝統を形成する条件を満たす小説家によっ て確実 に生き続づけていることを証明しようとするものであり, それを, 彼が偉大なる伝統に属している とみなす小説家によっ て例証しようとすることなの である. リー ヴィ スの言う 「芸術」 と 「人生」 の関係を見てみよう. 1 9世紀以後のイ ギリ ス小説を 「人生」 「 よりも 芸術」 に重点を置いた観点から評価することが, 今世紀になっ てから盛んになっ たという 事実がある. 作品の完成度を 「形式」 によって計るということである. これにはエリオ ッ トの考え 方と共通するものがあ ,る. ディ ヴィ ド・セシル卿が, ジョ ージ.エリオッ トが 「最初の現代的小説 ( 3 0 ) 家である」 と言う時, 彼女が小説の 「形式」 のために 「人生」 を犠牲にしたからであるというの がその根拠である. リー ヴィ スはこの考え方は問題であるとする. 確かに, これまでの小説には小 説の 「形式」 に合わせるために 「人生」 を軽く扱う傾向があり, これがイ ギリス小説の伝統と考 え られていた. この伝統に合わせて見事な作品を生み出したのがジメイ ン・オースティ ンであるとい うのがセシル卿の見解である. しかしジョ ージ・エリオッ トはこの小説の伝統を破r り, 「形式」 のた めに 「人生」 を犠牲 に したという意味で, 彼女が 「最初の現代的小説家」 であるとするのである . リ ー ヴィ ス は セ シ ル 卿 に 反 論 す る. イ ギリ ス の 小 説 は 18 世 紀 に 始 ま っ た と 言 え る ジ ェ イ ン・オ . ー ス チ ン に 至 る ま で, フ ィ r ル デ ン グ, リ チ ャ ー ドソ ン ら の 小 説 家 が い た , し か し 彼 ら はイ ギリ ス .. 文学の伝統を受け継 ぐ小説家ではなかっ たと言える. たとえばフィ ールディ ングの持つ 「可能性や 「芸術の可能性」 意義」 は, 小説という 「形式」 ( ) をジェイン・オースティ ンに与えたことであり, 127.
(9) . 石 田 洋 至. この点で評価できる小説家であるが, 「人生の可能性」に関してはほとんど何も与えない小説家であ ら伝統に属するとは言えないのである. リチャ ー ドソンは 「感情的状態, 心理的状態の分 る. だか. 「 ( 3 1 ) ) に関して, ジェイン・オースティ ンに影響を与えたという 点で評価でき ( 人生の可能性」 析」 十分な 「感情的状態, 心理的状態の分析」 を持っ て あるが 伝統に属すると言えるほど る小説家で , い る と は 言 え な い. フ ィ ー ル ディ ン グ, リ チ ャ ー ドソ ン の 接 点 と し て ジ ェ イ ン ・ オ ー ス ティ ン が い. るのであっ て, 彼女によっ て小説によるイ ギリス文学の伝統の継承が可能になっ ているとリー ヴィ ス は 言 う の で ある. こ れ ま で 一 般 的 に 言 わ れ て いる よ う に, ジ ェ イ ン ・ オ ー ス テ ィ ン の 人生 に 対 す. る態度は,「著しく文明化された人生の喜劇を描いて, 我々に心配ごとや道徳的緊張を忘れさせてく 3 2 )といっ た軽妙なものではなく 最も真剣 なものであり, これが小説の 「形式」 と見事に調 れる」( , 「 和しているのである. 「芸術の可能性」 , 人生の可能性」 を発揮しているから, ジェイン・オーステ ィ ンはイ ギリス文学の伝統を継承しているのである. 「建物 ジェイ ン・オースティ ンのプロッ ト, そして彼女の小説一般が, 熟慮と計算をかさねて ( 「 のように」 とは言わないが) 組み立てられたのである. しかし彼女の 構成」 に対する興味は, 人生に対する興味に対立させら れるようなものではない. また, 彼女は道徳的意義と分離できる ような 「審美的」 な価値も提供してはいない. 構成の原理, そして展開の原理は, 彼女の作品に あっ ては, 人生における彼女自身の強い道徳的興味であり, それはまず第一に, 人生が彼女に個 人的問題として強制するある種の問題に対する関心である. 彼女はその芸術において, 彼女の道 徳的緊張をより完全に意識するようになろう, そして, 人生に対する興味において, それをどう 扱うかを学ぶようになろうと努力しながら, それを非個人化すること ができるのに十分 知的であ り真剣であっ た. 彼女の強い道徳的関心がなかっ たならば, 彼女は偉大な小説家になることはな 3 3 ) か っ た で あ ろ う( .. 道徳的興味, 人生に対する関心, そしてそれに対する 真剣さ, それを表現する形式を見出した小説 家こそ偉大な伝統に属する小説家と言えるとリー ヴィ スは主張するのである. リー ヴィ スが,『偉大 な る 伝 統』 に お いて, ジ ョ ー ジ ・ エ リ オ ッ ト, ヘ ン リ ー ・ ジ ェ イ ム ズ, ジ ヨ ゼ フ ・ コ ン ラ ッ ドを と り あ げ, ジ ェ イ ン・オ ー ス テ ィ ン, D‐ H. ロ レ ン ス に 言 及 す る 理 由 は こ こ に あ る の で あ り, い ず れ. 「 の小説家も, 「芸術の可能性」 , 人生の可能性」に真剣に取り組ん だ小説家であるとリー ヴィ スは言 うのである. フローベ ル的な小説に対する態度をリーヴィ スは否定する. リーヴィ スによれば, これは芸術至 上主義に通 じるのであり, エリオッ トもフローベ ルの同一線上にある. 次のふたつの引用から, エ リ オ ッ ト と リ ー ヴィ ス の 立 場 の 違 い が 明 ら か に な る.. この過程において明らかになる事実は, 我々 が詩人を賞賛する 時, その詩人が他の詩人に少しも ・な作品の特徴を主張する傾向.である. 我々は詩人の作品のこうした面や部分に, 似ていないよう 個人的なものや詩人の特別な本質を見出すふりをする. 我々は満足気に詩人の先 輩--とりわけ 直前の先輩--との相違を長々と論ずる. 我々は亨受されるために分離されることのできるもの を見出そうと努力する. 一方, もし我々 がこの偏見を持たずに詩人に近寄る時, 詩人の最もすば らしいそして最も個人的な部分は, その詩人の先祖である過去の詩人が, 力強くその不滅性を主 3 4 ) 張 して い る 部 分 な の で あ る( .. 128.
(10) . 2 ) T.S.エ リ オ ッ トと F.R.リ ー ヴイ ス(. もちろん, 『エマ』の形式上の完成度を評価する 時, 我々は小説家の人生に対する特別な興味を 特徴付けている道徳的関心によって しか『エマ』を評価できないということに気付く. それが「審 美的な問題J であり, 奇蹟的に 「人生の真実」 と結びついている 「構成」 の美であると仮定する 人々は, 『エマ』が偉大な小説であるという見解に適切な理由を与えることもできないし, その形 式上の完成度について理解をしてもらえるような説明もできない. 同様に, 他の偉大な小説家に ついても, 芸術に対する興味がペーターやジョ ージ・ムアとはにても似付かぬものを与えている のだと言い得るのである. 強く焦点を合わせてみると, それは人生に対する異常に発達した興味 なのである. というのも, フローベ ルの嫌悪や軽蔑や倦怠とはほど遠く, 彼らはみな経験に対す ・る力強い能力, 人生を前にした 時の一種の敬鹿な率直さ, 著しい道徳的な強さによっ てす ぐれて 3 5 } い る の で ある( .. V ロ レ ン ス の 評 価 を め ぐる エ リ オ ッ ト, リ ー ヴィ ス の 立 場 に は, こ れ ま で 述 べ て き た よ う な ふ た り. の伝統についての考え方が根底にあるのである. 20世紀の小説家を評価する時, 「知性」 「形式」 を 「 重んずるエリオ ッ トがジェイム ズ・ジョイスの評価に向っ たのも,「芸術の可能性」 , 人生の可能性」 を重んずるリー ヴィ スがロレンスの評価に向っ たのも当然かもしれない. エリオッ トの評価を受け た ジ ョ イ ス, エ リ オ ッ ト の 影 響 を 受 け た と さ れ る ヘ ン リ 一・ミ ラ ー, ロ レ ン ス・ダ レ ル ら の 20 世 紀. の小説家が, エリオッ トの言うイ ギリス文学の伝統を定着させるのか, また, リー ヴィ スの言うよ うに, オースティ ンがイ ギリス文学の伝統を創造したように, 20世紀において, ロレンスが新しい 伝統を創造することになるのか,20世紀の小説家のこれまでの評価を変化させることのできる存在 となり得えるのか. 少なくとも, リー ヴィ スはこれが起こり得ると確信を持っ て, 伝統論を展開し て いる.. )王. Zd ( ) EZあろ 71S 1 7 2α 劫e lz直り z棚Z Zα彫れち 1948 2α ‐ . , Tm 霞ご幻7 T d 訪 わ 9 8 Z 跨 1 4 C 2 の ( ) 乙細り声, E R‐ m ” e 陀 , . , ) P P. 48一49 1966 Z鑑 71S ( ) EZ 3 . . , , Z脳 Sα”βd Wood (Methuen l lowi i ion ftheonly fonn oft tedinfo Yeti t ngthe waysofthe ng down,cons s radi ,ofhandi i i d a(並erenCe to i ts suCα渇ses, ”traditioα’ immediate generation before usi n a bl nd or t節ロ imp1 l md pos i i 1y be di t m the t e cmrrentssoon1os ve scouraged sho ・Wアe have seen manysuchs i i f i ioni i ion t t cance sand sa matterof much Widers l Id noveltyi sbetterthanrepet g p n ;a ‐ ‐Tradi ini i fyou wanti l tobta tby gl tinvolves,in tyou mus ted tcannotbei這】 abour er reatl ‐l ,andi l lsense, which we may ca l nearly i i i thef eto anyone who ndi spensabl rst place,the hi stor ca i f i lsenseinvolves a thyear tor s ca stwenty‐f would continueto be a poetbeyondhi ;andthehi ion, not only o fthe pastness ofthe past, but ofi t s presence; the historical sense percept. ly wi l i l thhi th af ng s own generationin hi sbones ee compe s a manto write not mere ,but Wi H h h l f ft E f d i h i i ft h l i t tt t t thatthe whol n e w oe o he e era ure o urope rom omer an w eo 〔 nul i taneous l i terature ofh s own country has a simultaneous existence and composes a sも order ・ 129.
(11) . 石 田 洋 至 { 4 ) あ頭- . , P. 49 h i iona l t t rad s a writert ” .w a make . ( 5 ) 必然リ. P. 49 .. No poet no a代ist of any a〔 ha f lone i i le te meaning a ss cance s s hi s comp g匹i ‐ Hi , , , hi. iat ioni iat ionofhi apprec stheapprec srelationtothe dead poetsそ=ld artists‐Youcamlotvalue. h i l h alone;you mustset hi魚,for contrast and comparison,ainong thedead. 6 ( ) 坊競り P p. 49一50 . h h h ly imu l t taneous w a a n new work ofa貴i a n w screatedi ssomethingthathappenss e e s p p - , . lorderamong l ltheworksofan wh toa i i t t ng monu chprecededi s u □ nentsform anidea ‐Theexi i ion ofthenew ( l ly new) work of art themselves f therea i nt roduct ed bythei chi s modi , wh hem.Theexi ing orderi aEnongt scomplete beforethenew work a]菖ives;fororderto persist st feversos l ight ly l ionofnove l i tered ty t terthesupe1′ ngordermustbe ent s af ; ,i ,a ,thew 加彦exi leareread herelations,proportions,valuesofeach Workofar ttowardthewho ted jus al Idsot ; 1d andthenew・ i ty between theo andth si sconformi { 7 ) 坊競り. p. 50 .. the presenti sdi rectedbythe past ‐ ” .. 8 d ( ) あZ . , p. 50 . h ldbea l t teredbythe present.“ . - - e pastshou ( ) あ詞. 9 . , P. 53 l i i lat ion ofthe poem to other poems by other r edto po nt outtheimportance ofthere . - .t i 1 1 1thepoetrythathas tedthe conceptiOn ofpoe t authors s ving who eofa 1γ as a1 ,andsugge lat i tten. The o theraspectofthi onofthe ever been wri ryi slmpersonaltheoryofpoet sthere t s author‐ poe.n toi. ( 1 0 ) あZd, p. 53. l i inuals l f i f i ‐ e sacr ce ” .a cont ,a continual extinction ofpersona ty.. ( ) エリオッ トの説明では, 白金を触媒とした時, 酸素と二酸化硫黄から生じるのは亜硫酸である 1 1 となっ ているが, 化学上は三酸化硫黄である. ) あ畝. ( 2 1 , p. 54 . i 1 ings specia1 r ed ee , . ・ . ・ - , or very va ,f. ( 3 ) する云d 1 - . , p. 54 lat i The mindofthepoeti ゴ ビ t maypa忙ly orexclusively operateuponthe nWm.l sthesh edofp l f i le lyseperate he manhi t t te experienceoft l l l l s se ectthear p ;but ,the morecom ,the moreperf l lthe l lbethe man whosuffers andthe mind whi i ch creates;the more perfectly wi n hむn wi he passions whi t t andtrans l n L utet minddiges ch arei s material . ( ) あすd 1 4 . , p. 57 . ion. the structural emot ‐ . . ,“. 彫頭. , p. 55 . “ eatness” thei i i i ions t i t h tyof ty t n o ntens ntens s e g t . . ‐ ,butthei ,thecomponents , ,oftheemot. (翰. hi hthefus iontakesplace thatcounts k d Q1 i i thear t t ヌ s s cproceミ ‐ , ,sotospea ,un er w c , e pressure. ( ) あすメリ p p. 57一58. 6 1 i i f t l ti cular eventsin hi sl e s personalemotions,the emotions provokedby par s notin hi ,. 1 30.
(12) . T.S.エ リ オ ッ ト と F‐R‐リ ー ヴイ ス( ) 2. r l t i atthe poeti sin any wayremarkable orinteresting. nessofthe poeti s notto ‐ . . Thebus f ind new emotions, butto use the ordi na ly ones, and,in working them up into poetly,to l ings whi expressf ee ch are notin actual emotions at an‐ る1ば ( ) す 1 7 . , P. 56 ・ ” rsona the poet has l i l 山ar medi ) 唖y a tゾ’to express, but a panic u i ゴ ロ chi so . . ‐ , not a pe , whi i ionsand experiencescombinei ty,in whichi血lpress l 唖iarz mediwm ar ld not a personal npec 虹・d W1expected ways .. E1 i ot S Pのる乾物嵐 ,T.S- ,方筋伽彦≠α”d 力Z ( 9 0 1 膨 Sαcだd Wood p. 98. 回. 1919 ‐. farf ing Shakespearぎs masterpiece,the playi i i lmr tcertainly an a貴i rom be s mos st cfa e . - - .. ( の 2. 妨Zd . , P. 96 .. ion i f i that お鱗伽彦Zi trepresentstheeffortsofaseriesof men,each making t rat cat sas . - - ,thati ld out ofthe work ofhi whathecou s predecessors. ( 2 1 ) あすd, p. 97 . ’ f h s leofBe l leforestuponwhi t l f 禽姦7 1mgeメタi t r om e t se 夢 α れ rom theta ch Kyd s 品α規定Zmus ‐ . . ,f ’ havebeen based i d df G imewh i i fe t n ermanyi nShakespearesl chbears ,an rom a vers on acte i ier notf l l fhavi h t t strong evidence o a e r a ng been adaptedf m rom the earl r o e p y ‐ , , ◎. 崩す d ‐ , p. 97 . Fro laythelr ive was are▽enge‐mot hreesourcesi ive ti ]n theset ーot ntheearlierp sclearthati. t d lp ly Z l f i f icul s ty 7 2 sた Tmggd男 sol e ;thatthe action or delayiscaused,asin the sめα ybythed ‘ ‘ ’ ’ l of assa器inating a monarch surrounded by guards l r I et was ;andthatthe madness of 日a. f ignedi h l l l l コ t i i lp layofShakespeare nordertoescapesuspl e c lon na ef y .lnt ,andsuccessf ,ont e h hi i there i i d も ( ’ ロ h h f t h i t tt t t w a other hand r r e v n e a n mo v c s mo e e g, e s an a o w ch poran , “ ’ , lunt i ly b layinrevengei i ter t s thelat exp1 c sunexplai ned on grounds ofnece蒙sity or ;thede “ ” ’ d i d h f f f h d i t l l lb t t t expe ency;an ee ec o e ma ness s no u ut arousethe ki ng ssusplclon‐ ( 2 3 り 坊Z仏, p. 98 . the e f fectof a n l t upon herson, 7 ー othersgui ” . . . ,. ( ) 必須‐ 2 4 , p. 100 . The only way of expressing emotion in the form of art i i ive nding an “obj s by f ect ivざ;in other words aset ofobjects asi ion achain ofevents whichsha tuat correlat l lbethe , , ,. formulaofthat力α打た”卿γ emotion;suchthat whenthe exten1alfacts, which mustterminate i i 〕 □mediate 1y evoked. n senso1 ven s” : 「 1 ゾ experience , are g ,the emotioni ⑦5 ) Leavi to and Wi ) p p. 17一18 s e〃”′ 断切〆涛Z(Chat ndus ,F‐R‐ , D. 丑 乙αw〆 ,1962 . L ▽▽hatneedsto besai di h i i 1 i b f 1 1 t t コ ヒ ーeve : aVVrence s eorea ese a grea nove1 st s s ry ,one oft l t ti i i ionthathewi t l labovea jornove l l t sasoneofthe ma s softheEngl shtradi greates ,andi l i T i h i i i d f lh i f h i ve avetoreferto a concept on o t e hstory of ‐ o gvet e proposton ts ue orce i ionin Engl i fdepth ct shthatlhave proposed elsewhere‐ltinvolvesthevi prosef ew that ,i , l range andsubt etyinthe present・nent ofhuコman experience arecriteria,theninthe work of l i the great nove t rom Jane Austen to Lawrence s sf. lt hi nk of Hawtho lne ckens , Di ,. George E1 iot l 1vi 1 i e n, Gonrad , Hen呼 jamoes , Me , Mark Twa. iVe we have a creat. hati i t l ac垣eve ・ エ lentt j rpassed by any oft s unsurpassed; unsu e fainous phrases or chapters of 131.
(13) . 石 田 洋 至 fShakeSpeare i :for mthe 1 i toty‐1ntheSe great noVe1 Sts teraryhi S . . - we haVethe succe祭;orS o i h i - - ofthe d t h h t - - t h t r v e dl t h c e a c t i t o e s r e n酢 t an eP nneteent cen u1γ an a er esren啓 ion i i s a margina1 Eng1 ct shlanguage goes into ProSe f .1n comparison the fornQa1 Poetry i ion lat k b l i d i d h i t fT S E 1 i t h t v fa i no re ersethere ば l en o . ‐ ot af r . , .Aぬdt e ac eve】 ,remar a eas was 6 ( 2 ) あZd . . , P. 25 ’ ’ ’ iot t iot one may not havethought ofcomParing E1 s s s creative work to F1auber ,but E1 ’ l t H r t i i i dd b fd t n e n h F 1 t a c o s e u l i f i l t d t i t r t t n s s s y t t t s a s ea q o s o n eo a n a u e es gu . a ue , , , ,no ess tis,surely, a 〕 ni i sthe great exa叢nple. Fori ch F1aube vedi nthe contradiction of whi si nvol ’ ive ly --一 an that would‐be creat ion that F1aubert s case Presents classical contradict. ’ devotedto expressing at i t i te intens i t tudesin whi i doi ty,t hati sgus chd stas ty of‘ ng ntens ,di , ing l i t i i tthatamount rec tofar stoare veapan;acul s gion a ldboredom havesodec l ,andthedi i f ionofl i tofi t a re ject e spi r ‐ 7 1m 霞云わ“ F R 7 T 脳 筋 Leavi C の s 惚 . ‐ , 1948 . , , P G で d 訪 わ 7 F R ) P.10 の T 脳 園 Leavi 7 2( e n n Books 陀 惚 s 圭醜i . ,1967 , ,. ‐ inct ionstobe made i tantdi t l ti s st snecessaryto ms ,andthatfar ,then ,thatthereareimpor ive lm ofs i f i i longtotherea i i f l lofthena teraryh cantcreat stor esreanybe gni j 〔 nesinthel rom a i i ing f f tar tbydi l ltoaduesenseofdi ngu ti st sh erencesi swentos achievement ‐Aぬdasareca h h j l i t ti t h ma r n t e o o h wa a s n n ame t v c o u es h f P ets t e ew rea y grea --t e ma jorno e s s w o y , i i t bi i l i i l t inthesensethat化l onersandreaders esofthea沈 forPract eynoto副 ychangetheposs , igr i butthatthey ares df ntermsofthathumnan awarenessthey Promote;awareness of canti l i f i bi i i t the poss e esofl ‐ 触り 妨謬り P P. 13一14 . ing ( b lessto others,Provides an exceptionanyinul nat ni lnfact ten ,inherindebte ,jane Aus ‘ funy the re lat ions of the i i f i i ina l ig ty, and she exemP1 tudy of the nature of or es beaut s ’ ’ d i d something h h i t l h i f l b i i l ft l t t d n r d i i d t t o r n c o m s e i t r n e a e n uences ea g p n v ua a en o ra on ‐ ’ l fand her true d i i ldnt have found herse ionshecou fa ly to becanedtradi rect i t on ;buther r i ter h f d i l k i i t t t c ng af h t S e om t i i i ion totradton s a crea ve one lat re , . e no ony ma es ra on or os butherachievementhasforus aretroactiveeffect :as wel ookbackbeyondher wesee what i i f l d i iai t nsucha way cancesbroughtouti esan sgn i goesbefore ,Potent ,andseebecauseofher ikethe work h radi ion we seel t せlat ng down to her eadi ‐ Her work,l ,for us,She createst et lgreat creative writers, gives a meaning to the Past‐ l ofa 必須. . , P. 16 ’ ‘ i f i d t st novel mo e r n r s . … ) 坊詔‐ 栂 1 . , P. 13. (鋤. lstates. i lys sofemotionaland mora . . …theana 1 4 P 鰯 ) あZd ‐ , . . fe i ivi l i ltensionsinthecomedy ofpre‐eminently c let usf zedl ra i rcares and mo orget ou . . ‐ ‐. 鱗 ) 坊競り. p. 15 . ‘ d b tl l h dl i l A teds plot lane us s ,and her novesin genera, were Puttoget er very e era ey an ‘ ’ ‘ ’ ingto be i ion i t l di fnot l ikeabui tin comPos i snotsometh l lated ly ( ng) ca cu .Butherinteres ‘ l h h i ( ゴ h f f t ti i f d t t v s eParable t t i l i a e 宜 l u a s ther n eres n e ;nor oess eo eran aes e putover aga s. 1 32.
(14) . 2 T.S.エ リ オ ッ トと F.R.リー ヴイ ス( ). f ls ig i f i iP1 inc inc i e ofdeveloPment,in rom mora 1 cance eoforganization,andthe Pr n ‐ ThePr her wo linterest of her owni f i i t place a preocc捷 rki s an intense mora nl ethati si nthef rs ion wi i f th certain probl l l igentand pat emsthatl ecompels on her as personalones si nte .Shei i l ltensions asshe strives,i serious enough to be ab ze he n her art,to eto impersonal r mora i h i become morefu l ly conscious ofthem,andtolearn what i f nl e , nt e nterestsi ,sheoughtto. do wi i l preoccupation she wo th them‐ 訳′ thout her intense mora l 鴎dばt have been a gl 「eat ter wri ・. はめ. Z跨e sαcだd 隣の4 p. 48 ‐ one o fthefactsthat mightcometol i i h sprocessi sourtendencytoinsist ghtinth , w en we. l sea poet s workin whichheleastresemblesanyonee se prai nthese ‐l ,uponthoseaspectsofhi. i ind wha dua l l iaressence aspectsorpartsofh ti swork wepretendtof sindi vi sthepecu ,whati , f f i h i f W ア d l l i h d i f h i t t t t t n r s o e u o ofthe man e n erence rom s p decessors, ep sa s ac o p . e we w ia l ly hi indsomethi lated espec simmediate predecessors; we endeavourtof ngthatcan bei so i f weapproach a poe l loften t wi thouthi n order to been joyed judi spre ce wesha ‐ Wrhereasi f i lparts ofhi ti ndthat not onl ndi vidua s work maybethosei n whi ch ythebest ,butthe mos i l i t t h i i i l the dead poets,h ta ty mos t v gorous y‐ s ances ors, asser t er mmor. は 5 ) T跨8 G焔の. 名ロメ効力“ , p. 17 . i As a mat ff lperfection of Em“aα tero act i tcan ndthati , wef ,when weexam netheforma. ’ be appreciated o国y i i l preoccupations that characterize the novel nterms ofthe mora s st ‘ iar interest in l f i e pecul ‐ Those who suppose it to be an aesthetic matter, a beauty of ‘com osi ’ can iveno ad ion7t hatiscombined, miraculously, wi ife th‘ truthtol p t equatereason g ,. forthevi l l i i tsperf ew thatE粥“伽i sa great novel nte ect onoffor ! : n‐ gentaccotmtofi ,and noi l i h t f i h 菰 l i h h i ti l i h h t i t tE i t nt r t t s esame way ue o eo er gr ea ng s nove ss att er n eres nt er art hem the opposite ofaf f i th Pater and George Moore;itis,broughtto ar ty wi ni .intense givest ’ focus an u1 l l i d l d t F t i l i f f f h i lusua y eveope n eres n e t ng of F1auber s , . or , ar rom avng an直hi di l ldi ingui t or di i lcapacity forexperience, n or boredom,they are a sgus sdai ta st shedby a v ind ofreverent oper forel i fe lintensity. ak l ness be ,and a marked mora (本 学助 教 授 ・ 旭 川 分 校). 133.
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