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Wordsworthの1802年から1804年まで
の神秘思想
原
田
俊
孝
1) 前稿ではWordsworthが自然の中で「幻想的輝き」に達したが,その回数は 次第に減っていき,このことが彼の詩的能力の衰退をもたらしたことをみた。 本稿では,なぜ彼のvisionが衰退したのか,そして次に彼はいかなる思想を もつに至ったのか,を考察してみたい。 4 まず,Wordsworthのvisionの喪失の原因を探ってみよう。彼がvisionを 一時的に取り戻せたのは,すでにみたように1802年3月と4月であるが,6月 17日より以前に書き終えていた“The Immortality Ode”の中で「幻想的輝き はどこへ消えたか」と嘆いていることから,その原因の一つの手掛りは3月か ら6月頃までにあると考えられる。そこでこの間の事情を詳しく調べてみた いQ 3月20日付の妹Dorothyの『日記』によると, Wordsworthと彼女は「外 国〔すなわちフランス〕へ行くことを話し合う」とあり,また3月22日に「私 はAnnette〔Vallon〕に会し・に行き, WilliamはMaryのもとへ行くことを決 めた」とある。二人がフランスへ行ったのは7月であり,彼がMaryを訪問し ぼ ヨう たのは4月7日である。Maryへの訪問の目的は,1801年末までに婚約していた !)滋賀大学経済学会『彦根論叢』 (人交科学特集),第43号(昭和55年10月)。 2) Ernest de Selincourt(ed,),Journals of I)orothbl研70rdsworth(1941;rpt. London: Macmillan&Co,,1959),工,128. 3) Mary Moorman, William;iVordsworth:ABiograρhy The Early Years,1770− 1803 (OxfQrd=Clarendon Press,1957), p.549.彼女との結婚のことと渡仏についての了解を得るためと考えられる。 4月7日,妹と一緒に自宅を出た彼は,妹がMaryの家に行きたがらなかっ たので(この理由は後で述べる),途中で別れて一人で行った。一人で行く心 境を彼は「自然の喜びと美しさに酔いしれると同時に,その美しい対象の中で 4) さえ,悲しみと絶望のどん底にいた」と述べている。また,出発少し前の3月 27日に書いた“The Immortality Ode”の中で,「いま私はどこへ行こうとも, 栄光は地上より消え失せたことを知る」,「私だけに悲しい思いが込み上げてき た」と歌っている。これはすでに述べたところでもある。 しかし,Maryの家から帰る途中で書いた“The Glow Worm”の詩におい らう て,彼は“Ojoy it was for her, and joy for me.”と歌えるほどの落ち着き を取り戻している。ここでの“her”とは,彼の手紙によると, Maryではな く,Dorothyである。つまり, Maryを訪聞するまでは絶望に沈んでいたが, 帰りには陽気さを取り戻して妹に喜びの歌を捧げていることが分かる。ここに 彼のvisionの喪失の一つの手掛りがあるのではないか。換,与すれば, Dorothy, Mary, Annetteをめぐる三人の女性関係に喪失の原因が求められるのではない か,と筆者は推測する。 そこでまず,1802年頃の彼と妹との関係を探ってみよう。3月24日,妹は『日 記』の中で「私たちはここ〔グラスミア〕を離れて〔Maryの住む〕ガロ 一一 アラ ヒルへ行くことができないと私は誓った」と述べ,兄と共にガロー ヒルの近 くまで行ったが,妹は友人の家に行き,兄だけがMaryに会いに行った。ま た,妹は兄とMaryとの10,月の結婚式にも健康がすぐれないという理由で出席 せず,「もはや耐えられなく,ベッドに身を投げ,何も聞こえず,何も見えぬ 4) Christopher Wordsworth, Memoirs of William Wordsworth, Poet Laureate, D. C. L. (1851; rpt. New York: AMS Press, 1966), 1, 173. orj “The Glow Worm’i (A,mong all lovely things my Love had been), 1. 20. 6)!802年4月16日付のWordsworthからColeridgeへの手紙。 Ernest de Selincourt (ed,) and Chester L. Shaver (revised), The Letters of William and Dorothor Wordsxvorth The Early Years 」787−/805 (Oxford: Clarendon Press, 1967), p, 348. 7) Ernest de Selincourt (ed.), oP・ cit., T, 128,
194 8) 状態で,じっと横たわっていた」。一方では, There never lived on earth a better woman than Mary H. and I have not a doubt but that she is in every respect formed to make 9) an excellent wife to my Brother. メァリー・H.よりもっとふさわしい女性はこの世にいなかった,し かもどの点からみても彼女が兄のすばらしい妻になれることは間違い ない。 と妹は考えていたのであるが。兄と妹は「近親相姦」の状態にあったのではな 10) いかとF.W. Batesonは言う。 Batesonの指摘ではないが,妹の『日記』に 11)「私はカーペットの上で彼〔兄〕とペッティングした」とあることからも,兄 妹の異常な関係が容易に察せられる。 以上のことから,彼は妹と二人でこれまで生活してきたが,Maryと結婚す ると,兄と妹の共同生活(肉体的関係にあったかどうかは分からない)の精神 的基盤が失われるのではないか。かかる彼の心理的葛藤がvisionの衰退をも たらし,霊感を欠く原因となったと判断できる。これはH.C. DuffinやH. 12) M.Margoliouthの説でもある。彼らの説をとれば, Maryを訪問するまでは 絶望に沈んでいたが,帰路,妹とのこれまで通りの生活に戻れると考え,精神 の安定を取り戻し,妹への喜びを歌った先程の詩の意味が理解できる。 しかし,これまで何度もMaryの家を訪れることを楽しみにしていたのに, 8) lbid. 1,176. 9) Ernest de Selincourt (ed.) and Chester L. Shaver (revised), oP. cit., p. 377. 10) Frederick Wilse Bateson, 1)Vordsworth: A Re−znterpretation (!954; rpt. London; Longmans, 1971) p. 153. 11) !802年1月31日の『日記』。Ernest de Selincourt(ed・), oP・cit・,1,105. 12) Henry Charles Duffin, The Way of HaPPiness: ’A Reading of Iliordsworth (London: Sidgwick and Jackson, 1947), p. 42; Herschel Maurice Margoliouth, Wordsworth and Coleridge 1795−1834 (London: Oxford University Press, 1953), p. 103,
今回の訪問がなぜ絶望のどん底となったのか。これまでの説明では納得できな い。他にも理由があったのではなかろうか。それはVallonとの関係に求めら れよう。婚約者のMaryはWordsworthと, Vallon及びその娘Carolineと の関係を,かなり知っていたことは当然考えられるが,その全貌を知らなかっ たのではないか。それはCarolineがWordsworthの実子であるという点だ。 このことを彼が今回の訪問ではじめて告白せざるをえなかったのではなかろう か。だから,その告白の前に彼は非常に悩んでいた,と筆者は考える。特に, 戦争のため,長い間渡仏できなかったが,アミアン条約によってそれが一時的 に可能となった今,Vallonとの問題を早急に解決しようとあせった。そのあ せりが,彼の精神的動揺を招いた。責任感の強い妹もMaryにCarolineが 兄の子であることを秘密にしておいたことが恥ずかしくてたまらないと思わ コ の ユおう れ,兄と一緒に「ガロー ヒルへ行くことができないと私は誓った」と言った のは,このためではなかろうか。 ユ ラ また,5月7日までに書き終えていた“The Leech−Gatherer”を読んだMary とその妹Saraは,死んだ妻と子供の描写が長すぎて「退屈だ」(tedious)と非 ユの 難した。かかる非難はこれまでになかったことである。この詩を書きはじめた のはMaryを訪問した直後であることから判断して, Vallon親子のことが彼 の脳裡を離れず,Vallonをこの詩の中で殺すことによって彼の心を安定させ ようとしたのではないかと思われる。この点をMaryとSaraは非常に娩三三 に非難したのではなかろうか。これに対して,Wordsworthは妹と共に人間性 をよく表わすものとしてこの部分を(後で削除したが)執拗に弁護し,また神 経質なほどの感情の高ぶりを示している。 5月9日,彼はこの詩を修正した後,補足して“Written in My Pocket−Copy of Thomson’s‘Castle of Indolence’”の詩を書いた。この中で「彼には恋人 !3)Ernest de Selincourt(ed.), op. cit.,1,128.(傍点は筆者) 14) Mark L. Reed, Wordsworth:The Chronologyげthe Middle Yeαrs 1800−1815 (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, !975), p. 167. 15) Ernest de Selincourt (ed.) and Chester L. Shaver (revised), oP. cit., p. 367.
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があり求婚したという人もい罰また「し練た花のように清白く清ざ
17)めて罪深い人のようになった」ともある。ここで言う.「恋人」とは明らかに Maryを指し,「罪深い人とはWordsworth自身であり,Vallon親子を見棄て ることになる彼自身の罪の意識であろう。MaryにCarolineが彼の子である ことをこれまで告白しなかった悔恨の念と,Vallon親子を見棄てなければな らぬ悔恨の念とが,この詩の中で微妙に重なり合い,非常に慎重に彼を「青ざ めた罪深い人」として描いたのではなかろうか。 逆に,WordsworthがMaryを訪問してCarolineは実子であると告白した のではなく,Maryはすでに全貌を知っていたと仮定しよう。そしてVallon親 子を見棄てることがvisionの喪失の一因であると考えると, H. Readの説が あげられる。Readは, Vallon親子を見棄ててしまう結果になったことに対す るWordsworthの深い悔恨の念が,彼の「無意識」の奥に長い間生き続け, 彼の思想や感情に三二と強い影響を及ぼし,彼の詩的能力の喪失をもたらし た,と言う。 この説に対して,もしWordsworthの詩的能力の喪失がVallonに対する悔 恨の潜在意識的な影響によるとすれば,なぜ彼の喪失はその悔恨と共に現われ ず,それよりずっと後の1802年以後になってようやく現われ,それ以前に彼の 詩的創造力の見事な開花があらたのか,という疑問を多くの学者が投げかけて う いる。例えば,わが国では原一郎氏である。これに対しReadは「その疑問に 答えることは人間心理の発展が示すある種のリズム(マルセル・ブルーストの いわゆる「心情の断続性」)ということを考慮に入れることであり,そのこと についてはWordsworthもよく気づいていて,彼はそれを有名な詩作理論の 20) 基礎とした」と述べる。Readのこのような説明はわれわれに十分納得のいく 答えではないQ 16) “‘Written in My Pocket−Copy of Thomson’s ‘Castle of lndolence’ ”, 1. 32. 17) Jbid., 11. 20−1. 18) Herbert Read, 1]Yordstvorth (1930; rpt. London: Faber and Faber, 1957),p. 14. !9) 原一郎『ワーズワース研究』 (東京:北斗堂,1970),p,223、 20) Herb. ert Read, op. cit,, p. 14,だから,Wordsworthが今まで抱いていた潜在的な罪の意識の上に,筆者が 考えるCarolineが彼の実子であることをMaryに告白したことが重なり合っ たため,1802年はその悔恨が前より一層強烈となり彼を絶望に沈ませていっ た。これが彼の詩的能力の喪失の一一因となったのだと考えると,Readの説は あながち間違いであるとは言えない。
以上のことから,Wordsworthのvisionの喪失の原因はDuffinやMar−
goliouthの言う彼とMaryをめぐるDorothyとの関係,またReadの言う彼
とVallonとの関係にあるといえる。 しかし,それぞれ別個の問題ではなく,彼はVallon親子に対して罪の意識 を強烈に感じながら,一方では,Maryと結婚すれば,妹とおりあいが悪くな るのではないかという,彼自身のひそかな不安が失意の気分を醸成し精神的な 苦痛となったのであろうと,筆者は総合的に考える。このことが彼の心に「妄 想」や「ぼんやりした悲しみ」となって現われたのであり,正義感の強い彼は 三人の女性とうまくやっていこうとするあまり葛藤を生じた。つまり,実生活 の方が彼の理想の世界よりも重く心にのしかかったのである。“The Immor− taiity Ode” セこし・う ...thy Soul shall have her earthly freight, And custom lie upon thee with a weight, Heavy as frost, and deep almosji as lif2?奄 , そなたの魂に浮世の重荷を背負わせ 慣はそなたの.ヒに重くのしかかってこよう のように重く 命のように深く ある。理想と現実とのバランスが崩れ,お互に相容れぬものとなり,それが 失の原因となったと筆者は考える。というのも,彼は理想と現実,喜悦と悲 といった二律背反のバランスがとれてはじめて最高最深なる思想に到達し得 1) “The lmrr}ortality Ode”, li. 130−2,198 た詩人であったからである。 5 この章では神秘主義の立場からvisionの喪失の原因を探ってみたい。 W.R. Ingeは,「霊的洞察力とは,私たちの嬰児の時から遠く旅し,墓場 へ近づくにつれて必ずぼんやりしてくるものであるから,憂うつな考.えを抱く ヨ 理由はない」と述べている。Ingeと同様, B. C. Batho女史も It seems to be supposed that a mystic has ecstasies or intuitions at frequent intervals from the beginning to the end of his life, and that any cessation of the experiences is evidence of declension in spiritual power and insight. Actually this is very far from the truth: the ecstasies, the intuitions, the‘‘consolations”, to use a technicaI ラ religious term, come at the beginning and may never be repeated. 神秘家は彼の生涯のはじまりから終りまでしばしぼt光惚あるいは直覚 を経験するものであり,そういった経験をしなくなることはいつれも, 霊力や洞察力の衰退の証拠であると考えられているようだ。実はこう いつた考えは正しくない。胱惚,直覚,宗教用語にいう「慰安」は, はじめにくるものであり決して繰り返されない。 と言い,visionの衰退を神秘家の衰えの証拠だとは考えていない。またB Z4) Willeyもこれを「神秘家の自然な発展」ととらえている。 ところが,Wordsworthはvisionを喪失して絶望に沈んでいた。この点は 22) William Ralph lnge, Christian Morsticism (1899; rpt. New York: Meridian Books, Living Age Edition, 1956), p. 313. 23) Edith C. Batho, The Later VVorゐworth (1933;rpt. New York:Russell& Russell, 1963), p・ 307. 24) Basil Willey, The Eighteenth Century Baefeground (London: ’Chatto And Windus, 1941), p. 293.
すでにみたところである。となると,visionの衰退は神秘家が当然たどるべき 一過程であったことに彼は気づかなかったことになる。果たしてそうなのか。 また彼は神秘主義をどのように考えていたのかがここで問題となろう。 一般的には,神秘主義は宗教の領域に含まれる絶対者あるいは神性を対象と し,Wordsworthのように自然を対象としない。しかし,これはあくまで宗教 の領域のことであり,自然を通してみられるさまざまな経験が厳密に絶対者と 結びつかなくても,それに近い特殊な意識を示す神秘的な状態であれば,かか る神秘的経験を神秘主義の範ちゅうに入れても差しつかえない。たとえば,少
年Wordsworthは
Iwas often unable to think of external things as having externaI existence, and I communed with all that I saw as something not apart from, but inherent in, my own immaterial nature. Many times while going to school have I grasped at a wall or tree to ヨの recall myself from this abyss of idealism to the reality. 私はしばしば外界の事物が外的存在をもつと考えることができなかっ たし,私の見るすべてのものと,私自身の非物質的なものから離れた ものとしてではなく,その中に内在するものとして交わった。通学の 途中,私は唯心論のこの深淵から自分自身を現実に呼び戻すために壁 や木につかまったことがたびたびある。 これは明らかに彼が自然の中で感得した神秘的経験を如実に語った一例であ り,自然を対象とした神秘主義と考えてよかろう。 Wordsworthの神秘主義と神秘的経験について, R D. Havensは What is at first one of the most remarkable things about Words一 25) “The Immortality Ode”についてのFenwick Note。 Ernest de Selincourt and Helen Darbishire (ed,), The Poetical IVorks of William 1)Vordsworth (1947; rp. t・ QxfQrd: Clarendon ?ress, !970), ISI, , 463.200 worth’s mystical experiences is that he never thought of the皿as such. lndeed, there is no evidence that he had ever heard of the term or of the thing it designates, which is the more surprising in view of Coleridge’s familiarity with Plotinus, Boehme, and similar writers. Presumably the mystic experience was at this time not clearly differentiated from other occasions of rapturous, idealistic 26) emotion and insight, and its unusual nature was not understood. ワーズワースの神秘的経験について,最も顕著なことはまず何である かというと,彼が自分の神秘的経験を決してそのように考えなかった ことである。本当に,それが示すような言葉か,あるいはものを彼が 聞いたという証拠は全くない。このことはコウルリッジがプロチヌス, ベーメ,これに類する人たちをよく知っていたことを考えると一層の 驚きである。恐らくその神秘経験は熱狂的,観念的な情感や洞察力の 他の場合とはこの時はっきりと区別されなかったし,その特別な性質 が理解されなかったろう。 と述べ,更に,Wordsworthは彼のエクスタシーを神秘主義と連想せず,そ れを彼が経験した自然との交霊とはやや違うものと考えた,と言う。まさに Havensの指摘通り, Wordsworthはエクスタシーを神秘主義と結びつけなか ったし,visionの衰退も当然な過程とは思わなかった。彼の神秘的経験は神秘 主義によるのではなく,想像力(imagination)に基づくとした。このことは The I)reludeに明らかである。それによると, Imagination! lifting up itself Before the eye and progress of my Song Like an unfather’d vapour; here that Power, 26) Raymond Dexter Havens, The Mindげapoet:AStudy o!VVordsworth・s Thought(1941;rpt. Baltimore:The Johns Hopkins Press,1967),工,167.
Wordsworthの1802年から1804年までの神秘思想 In all the might of its endowments, came Athwart me;Iwas Iost as in a cloud, Halted, without a strugg正e to hreak thrQugh. And now recovering, to my Soul I say Irecognise thy glory;in such strength Of usurpation, in such visitings Of awful promise, when the light of sense Goes out in flashes that have shewn to us The invisible world, doth Greatness make abode, There harbours whether we be young or old. Our destiny, our nature, and our home アラ ーs with infinitude, and only there; 想像力よ そなたはどこからともなく 湧き出る霧のように私の眼の前や 詩のゆくてに立ちのぼり いまその能力のあらん限りの力をもって私を遮った 雲の中に迷える如く 私は衝き破ろうとあがかず立ちどまった 平静に戻ったいま そなたの栄光を認めると私の魂にいえる 見えない世界を示す響めきの中で 感覚の光が消えるとき このようなすべてを奪う力 このような畏るべき訪れの中に偉大さが宿る 老若を問わずそこに偉大さが宿る 私たちの運命 私たちの本性 私たちの住み家は 実に そこにこそ無限性がある 27) The Prelude (1805), 11. 525−39.
202 このように,私たちの感覚の世界を越えて,超感覚ともいえる別の世界の無限 性を認識するのは想像力のなせる業であると彼は信じていた。しかし,永遠の 生命を実感させるような:無限性は,神秘主義のもつ諸相の一つであるが,彼は これを神秘主義とあくまで結びつけようとしなかった。ここに彼の“egoistical” な一面がうかがわれるのである。 この“egoistical”な一面が彼を一層悲劇へと導いたともいえる。想像力の衰 退と深くかかわっているvisionの衰退を,彼は神秘家のたどる自然な発展と 認めなかったために,前述した実生活のわずらわしさによる精神的な不安が, 一層彼を苦しめる結果となった。だから,彼の健康も更に悪化していった。健 康の悪化については,1803年のDorothyの『日記』に明らかである。M. Moor− man女史は伝記的立場から,健康の悪化こそ彼のvision喪退の原因であると 断言したほどである。 上述のように,三人の女性をめぐる彼の精神的なアンバランスがvisionの 衰退の直接の原因ではあったが,visionを神秘主義と結びつけなかったことが 彼を一層悲劇へと駆り立てたと言えよう。そのことが一層健康をむしばむ結果 となったが,健康の悪化がvisionの衰退の最大の原因ではなかったのである。 6 Wordsworthは失意の底に沈んでいても,自分の受け入れる精神的な準備が 整いさえずれば,自分の外にある自然からまだまだ多くのものを吸収できる と信じていた。Coleridgeは想像力により経験を美しい形態に造り上げ,自然 を自分の意志に従わせることができないと感じて失意に陥ったのであるが, Wordsworthはそうではなかった。 Coleridgeと違うWordsworthのこの作詩 態度がWordsworthを救ったともいえる。だから, Wordsworthは精神的危 機に直面しながらも詩人としての目標を決して棄てていなかった。彼の言う目 標とは,何の偏見ももたずに非常に素朴な生活を送っている人々を見て,私た 28) Mary Moorman, oP. cit., p. 53!.
29)ちの心の中の「人間性」(human nature)を歓ばせることにあった。その「人 間性とは決して特定の場所に釘づけされたものではなく,時間と空間のうちに 30) 生きながら,それよりも更に広く満ちあふれている一個の霊」のようなもので ある。人聞のもつ剛性(つまり人間性)を自然に潜む霊といかに調和させる か。人間と自然との調和というこの大いなる感動に魂が鼓舞される時こそ, 「その魂はまるでその至上の歓びに到達したように歓ぶ。というのは,魂とい うものは,主としてそのような時に,身をもって自己の由来を感じとり,やが ヨリて大自然をも通り抜けて,神のみもとに安らぐものなのだから」と彼は言う。 だから, 「偉大な詩人はある程度まで人々の感情を矯正し,人々に感情の新し い組織を示し,彼らの感情をより健全で永遠なるものに,つまり永遠なる自然, ヨ 万物の偉大なる魂に一層調和するようにすべきである」。ここに彼の詩人とし ての目標があったのである。 その一つの実例として“The Leech−Gatherer”の後半(第8連から20連ま で)を簡単に述べてみよう。この詩は2年前の1800年9月にWordsworthが 実際に出会った老人を描いている。Dorothyのr日記』によると,「ほとんど 二重に折れ曲がった老人」とあり,また「彼の職業は蛭の採集であった。しか し,今は蛭も数少な:くなり,それに彼には採集するだけの力もなくなった。彼 33) ● ・ O o o ・ ・ は物乞いをして生きており」とある。「立ってもなく,座ってもなく,ただ居 ・ 34) た」(“not stood, nor sat, but was”)この扇取り老人は, Wordsworthの詩の 29)1802年6月7日付のWordsworthからJohn Wilsonへの手紙。 Emest de Selin・ court (ed.) and Chester L. Shaver (revised), oP. czt., p, 355. 30) The Prelude (1805), 11. 761−4. 31) lbid., 11. 833−6. 32)1802年6月7日付のWordsworthからJohn Wilsonへの手紙。 Ernest de Selin・ court (ed.) and Chester L. Shaver (revised), oP. ctt., p, 355. 33)1800年10月3日の『日記』。Ernest de Selincourt(ed・), Op. cit・,1,63.この日 に闘取り老人と出会ったことを‘N.B’として書いている。しかし,実際に出会った 日は!800年9月26日である。William Knight, Poems of William Wordsworth (London;Macmillan&Co.,1896), ff,3!2を参照。 34) Christopher Wordsworth, oP. cit., 1, 174.
204 目標となった非常に素朴な生活をするのに適した人間性をそなえた人物と考え られた。1815年版の序文にあるように,この老人が「巨岩」(“ahuge stone”) や「海獣」 (“asea−beast”)と一一体となり,それが不動性あるいは永遠性を示 す。老人の孤独な人間性を表わすだけでなく,自然との完全な調和を表わして いる。かかる彼の背景には, 「外的生活の衰えに比例するほど内的生活は衰え ないし,精神的な衰えは肉体的な衰えめ必然的な結果ではない」という考えが あった。従って,この詩は先に述べた彼の詩の目標と合致するし,彼の理想と もなったのである。 1802年5月3日から5月7日までに書いた“The Leech−Gatherer”と同じ頃 に書かれた“To Sleep”において,彼は「私には忍耐を必要とするような苦痛 がない。そうなんだ。だから私は子供みたいに不機嫌にいらだつのだ」と述べ ているQ ここで大切なのは,「忍耐」の必要性に気づいた点である。彼が忍耐力に欠 けることに気づいたことが,また精神と肉体とのアンバランスにも気づくこと になった。こういつた考えが“The Leech−Gatherer”の後半に取り入れられ た。彼は上の二つの詩を書くことによって,危機的状態から救われたと言えよ う。だから,その教訓としてThe Excursionに述べているように,彼は自分 を抑え ...excrte No morbid passions, no disquietude, No vengeance, and no hatred.... 病的な情感,不安 復讐,憎悪などを 感じさせない 3s) Russell Noyes, 1)Villiam Wordsxvorth (New York: Twayne Publishers, lg71), p. 134. 36) “To Sleep” (O GENTLE Sleep! do they belong to thee), 11. 9−10. 37) “The Excursion”, IV’, 1210−2.
ものにしなければならないとも考えた。ここに彼が“stoic”な詩人と言われは じめるゆえんがあるQ Iかかる彼の禁欲的な志向は,しかしながら,神秘家がたどる当然な過程でも あったのである。すなわち, ...the ecstasies, the intuit量ons, the‘‘consolations”, to use a technical religious term, come at the beginning and may never be repeated. They are sometimes accomanied, and always fo110wed, by severe self,discipline, which contillues to the end of life, and is not aways ききラ rewarded by a return of these consolations or of anything like them. ’胱惚,直覚,宗教用語にいう「慰安」は,はじめにくるものであり 決して繰り返されない。そういう経験には厳しい自己規律が時々伴い, 常に続く。そしてその自己規律は人生の終りまで続き,上述の慰安と かいった種類の復帰によって必ずしも報われるものではない。 この「厳しい自己規律」が彼の詩作の根底となり,後の“Ode to Duty”(1805) の詩の特徴ともなるのである。彼のstoicismについては別稿で述べる予定であ る。 本稿の最初でみた彼の汎神論的神秘思想からの転向は,すでに明らかとなっ ていたのである。 (完) 38) Edith C. Batho, oP. cit., pp. 307−8.