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寺子屋師匠はボランティア

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(1)

新島学園短期大学紀要 第33号 67頁-95頁 2013

寺子屋師匠はボランテ ィア

富 岡 守

Terakoya Teacher Volunteers

ヽ任

amOru ToMloKA

N'ウtttα 6した″η」υ″οr CO′″″

口αルαsαルt,C“れれαθ70‐ω6&J"′ αれ

富岡製糸場の世界遺産への期待が高まっているが,この登録は,ユネスコの世 界遺産保存活動の一環である。 日本ユネスコで協会は,「

WoRLD TELヽ

KOYA

MOVEMENTJと

して

,世

界寺子屋運動 を展開 している。江戸時代の寺子屋は, 世界的にも庶民の教育機関 としては最先端の組織であった。

::‖

2,草

:t,t孝

,①

l瞥

riま

:贅 江戸時代 の寺子屋が設立 された背景 を探 り

,寺

子屋 の設置状況や教育内容

,学

習方法

,運

営方法

,指

導者 の概 要 を検討 し

,寺

子屋 が

,ボ

ラ ンテ ィアに よって成 立 してい た こ とを検証 した。 Abstract

Although sales are expected to TOm10ka Silkヽ lill wOrld Heritage Site,this

registratiOn is part Of the UNESCO WOrld Heritage preservation

activities UNESCO Japan is deve10ping aヽ VOrld TerakOya MOvement Terakoya Of the Edo periOd,as an educatiOnal institutiOn of the cOmmon people was state― or

the―art OrganizatiOn in the、 vOrld

Ne、v public have been proposed,in the EdO periOd also corresponds 01d pllblic

=niょ

1:、

Lよ

よ跳

f:::ぶ

肌肌

::肥

leoJ。

We have verified that exp10re the backgrOund tO the Terakoya in the EdO period、vas established tO cOnsider a summary contents of educatiOn and the installation situatiOn Of the Terakoya,learning methOds,methOds Of Operation, leaders,Terakoya has been established by v。 lunteers

(2)

1

日本 にお けるボ ラ ンテ ィァ と公共 東 日本大震災では

,阪

神淡路大震災のボランティアを上回る多種多様なボランティ アが被災地で展開された。今回の震災の最大の被災地石巻市では

,旧

市街地を中′さに 2万戸以上が倒壊 し, 4千 人以上の犠牲者が発生 してぃる。石巻市の震災被害は

,他

の三陸地域の被災地 と大きく異なり

,最

大5万人 といわれた被災者 と被災地に堆積 し た泥だつた。犠牲者の救援

,倒

壊家屋や道路の改修などは行政や自衛隊で行えるが , 5万人の被災者への きめ細かな支援や

,個

々の家庭 に堆積 した泥までは行政では対応 し切れない。被災地には

,阪

神淡路大震災以上 に数多 くの支援組織が活動 している。 支援組織の ビース ボー ト(以下「

PBJと

言 う

)の

現地ボランティアセンターの活 動事例 を通 じて

,被

災地におけるボランティァ活動 を検証 し, 日本におけるボランテ イア活動の課題 を探 ってみた。

PBは ,震

災直後に情報の確認の為 に現地ヘス タッフを派遣 し

,支

援物資の提供 , 支援物資運搬手伝い

,支

援物資関連の支援

,現

地での活動拠点の確保

,支

援ボランテ イアの募集 を行い

,阪

神淡路大震災の教訓が生か されている。その後は

,炊

き出 し , 泥のか きだ し

,NPOの

特性 を生か した外国メディアヘの協力等 を行っている。また , 多数の内外企業からの支援 を得ていることからいち早 く支援要請を行ったと考えられ る。 日本の

NPO等

の特徴 として

,活

動資金が少ないこと。 自分の組織の広報が苦手 なこと。小規模であること。スポンサーが少ないこと。寄付が集まらないこと。ボラ ンテ ィア コーディネー トカに欠けること。他の組織 との協調 した行動にあまり積極 的ではないこと。組織内での新陳代謝が少ないこと等が挙げられるが

,PBの

今回の 震災に対する対応では無難にこれ らをこな している。特に

,PBの

特性 を生か した外 国人ボランテ ィアの受け入れや

,海

外への被災情報の広報 には見るべ きものがある。 また

,震

災直後から石巻市街地にある「守谷 フルーッ」 を集中的に支援するなど

,従

来あ まり日本では行われなかった支援活動は評価で きる。これらの活動が,「養殖い かだの救済支援ボランテ ィア

Jゃ

「硯の原石の採集ボランティァ」につながったと考 えている。ただ

,避

難所での入浴支援 は

,他

の支援 と比較する立 ち後れ感があるが , 「仮設 きずな新聞

Jは

,2011年 9月 発行以来

,現

在 まで45号が発行 されてお り,この 継続には見るべ きものがある。 阪神淡路大震災の発生 した1"5年 (平成7年

)は

, 日本のポランティア元年 と言わ れている。それ以前は

,特

定者の活動。福4■以外の活動はボランティアではない。ボ ランテ ィアは無償

,経

費は全部 自分持ちといった考え方が主流を占めていた。阪神淡 路大震災で発生 した被害は

,当

時 としては未曾有な被害で

,全

国から若者が被災地 を 訪れ被災者の支援活動 に当たった。当時の国のボランティァに対する考え方 として, 経済企 画庁 国民生活審議 会 総 合政策部会 市民意識 と社会参加活動委員 会 68

(3)

寺子屋師匠はボランテ イア (1994/6)「自発的に基づ く行為であ り

,慈

善や奉仕の心

,自

己実現

,相

互扶助

,互

酬 性 といった動機 に裏付 け された行動。」

,厚

生省 中央社会福祉審議会意見具 申 (1993/7)「自発的な意思に基づき他人や社会に貢献すること。

J,文

部省・生涯学習審 議会答申 (1992/7)「個人の自由意志に基づ き

,そ

の技能や時間等を進んで提供 し, 社会に貢献すること。」,こ の報告や答 申には,「社会貢献

Jや

「慈善や奉仕の′さ」が 重要視 されている 。「貢献

Jや

「奉仕」は

,下

位に位置する者 と上位 に位置する者 の間に成立する行為だと考える。被災地神戸に駆けつけた若者の多 くは,「貢献」や 「奉仕」ではなく,「震災で困っている人を助けたいJ,「自分にも何か出来るのではな いか」そんな思いで被災地に駆けつけた若者が多かったと聞く。そんな若者の行動は, 自発性

,社

会性

,無

償制

,先

駆性に基づいたボランティアであった。 昭和30年の第 1版 広辞苑には「ボランティア」の単語はなく

,昭

44年 (1969)の 第 2版 から登場する。「ボランティア」は

,昭

和30年頃は誰 も知 らない単語で

,昭

和 44年以前は特定の人が知 しっている単語だったと思われる。広辞苑では,VOlunteer (義勇兵

)志

願者。奉仕者。自らすすんで社会事業などに無償で参加する人とある。

オックスフォー ド大辞典では,「 one whO voluntarily oflers Or enrOll himself fOr

mnitaw service」 と志願兵との説明があり,1638年 の最も古い記録では「one wh0 0f his ωm free win takes palt in any enterprも e」 と自分の自由意志とあり,イ ギリスで

,Ⅳ

Olunteer=Own free w‖」 だと理解 している。 阪神淡路大震災以前の日本では , 「ボランティア

=奉

仕活動」 との考えが一般的で

,現

在で も

,ボ

ランティア活動は奉 仕活動の同義語 と捉えられる場合 もあるが,「ボランティア活動」と「奉仕活動」は , 似て非なる物である。ボランティア活動は対等の立場の活動であり

,奉

仕活動は上下 関係の活動である。 「新 しい公共

Jと

の考え方が鳩山内閣で提唱されたが

,対

照となる「公共Jと は何 か

,第

8回 「新 しい公共

J円

卓会議資料では,「古い公共

Jを

提案 している。「公共J を大辞林では「社会全体に関すること。おおゃけ。

Jと

説明 してあるが,「公共」は, 「pubhc」 の訳 として福沢諭吉が万延元年に初めて使用 したとされている。「publlcJ は,「privateJゃ Lndividual」 に対置 される概念だとされている。さらに,「社会」 という言葉 も「societyJが江戸時代末期に日本語訳された言葉である。これらの言 葉 も使用 され始めて150年以上経過 し, 日本語 として定着 している。「ボランティア」 という言葉 も辞書に登場 してから50年近い年月が経過 し,日本社会に定着 しているが , 欧米流の「VOlunteer」 と日本のボランティアは異なると考えている。「VOlunteer J

と同様に「sOcねtyJ,「publicJ,「p五vateJ,「ndividua」 も欧米 とは異なる日本流の

社会や公共が成立 している。戦後の民主主義下の高度成長は

,そ

んな日本流の社会や 公共で支えられ達成 された。

(4)

,そ

の 日本流の社会や公共が曲が り角に来ている。以前

,故

田村明氏 (法政大学 名誉教授

)か

ら,「東大の図書館で

,明

治30年代の内務省の公文書に中に「昨今の地 方社会は課題が多い

,以

前はもっとしっか りした地方社会であった。

J旨

の文書 を読 んだことがぁる。今 も昔 も変わらないね。

Jこ

の会話 も20年近 く前の会話 と記憶 して いる。会話後

,当

該文書について調べたが読むことは出来なかった。その会話から 20 年 を経過 し, 日本社会は更に大 きな課題 を抱え

,従

来の社会 システムでは対応が難 し い状態 とな り,「新 しい公共

Jが

提案 された側面 もある。今回検討 した江戸時代の寺 子屋 は

,そ

こで暮 らす人々によって支えられていた。明治時代の内務省の公文書にあ つた「 しっか りした地方社会

Jを

支えた一つが「寺子屋

Jあ

った。

2

江戸時代 の群馬 県 壬申戸籍 (明治6年 1月 1日調査が第 1回

)は ,江

戸時代末期の日本の状況 を記録 している。 日本全体では

,約

Ю万戸,33XICl万人で

,群

馬県 (上野国

)は ,士

族21,055 人

,平

民等488,886人

,計

5K19,941人である。当時の基礎 自治体である郷村の状況につ いては

,明

治8年の大政官達第97号「皇國地誌編輯例貝J並びに着手方法 を定む」に基 づ き

,各

府県から政府に提出された郡村誌 として知ることが出来たが

,原

本は関東大 震災で失われている。 廃藩置県 (明治4年7月

)後

の群馬県 には, 9県が設置 されていたが

,第

1次府県 統合 (明治4年10月

)に

より

,第

1次群馬県 (東3郡を除 く

)が

誕生 し

,熊

谷県へ の合併 (明治6年

),第 2次

群馬県 (明治9年8月

)の

誕生 と地方制度が激 しく変動 する中

,郷

村においては

,大

政官達に基づいて郷村誌が作成 され

,郡

役所で取 り経め られた郷村誌は

,明

治9年頃に群馬県庁 に提出されている。提出 された郷村誌は100 年の間

,群

馬県庁書庫で保管 されていた。 この郷村誌 を活字化 したものが上野国郡村 誌'1である。全国的にみても,郡村誌力ヽまぼ完全の形で保管 され公表 されているのは , 群馬県 と埼玉県のみである。郡村誌の各郷村への作成通知は

,第

1次群馬県 (一部は 第一次栃木県

)か

ら発せ られたが

,提

出先は第

2次

群馬県 と考えられる。郡村誌は , 基本的には明治8年当時の地域の状況が記録 されているが

,邑

楽郡の郷村誌は

,明

の大合併後の明治23年となっている。 郡村誌は

,明

治8年の状況 を記録 しているが

,交

通手段や情報獲得手段が現代 と異 な り当時の郷村は

,江

戸末期姿を伝 えているとされ

,江

戸時代の地方の社会情勢を知 りうる貴重な資料である。なお

,群

馬県立文書館 には

,当

時の郷村別の絵図 (壬申地 券地引絵図)。2が10∞舗以上保管 されてお り

,両

資料により当時の郷村の状況をより 詳 しく知ることが出来る。 つ

(5)

寺子屋師匠はボランテイア 表

1

明 治 初 期 の群 馬 県 の概 要 (上野 郡 誌 に よ る) 区 分 郷 村 戸 数 ノ、ロ 民 業 の 戸 菫 一 人 当 生 産額 農 家 i家 工: 薪 炭 作業 姜 蚕 勢多郡 13,321 64.151 11 713 224 59 群馬 郡 27273 109,143 18,049 4.043 1,057 127 多野郡 71 8.178 32,792 6.425 79% 733 115 137 81 甘 楽郡 l18 13,705 56,825 11,971 126 41 碓 水 郡 9,471 36,351 7,709 131 66 吾妻 郡 7.620 32,309 6,129 191 10 1 31 69 利根郡 111 8,307 31,525 7,155 27 0 32 佐波郡 10,217 43.900 772 44 59 新 口郡 8,383 36,879 525 15 70 山 ln郡 8,707 36,671 4,827 32 47 こ楽郡 60,216 戸致 人口は明治 10年 の統計値 計 1144 115,182 540,762 89,346 9,646 2,765 l,063 2,397 108 59 注1群馬 県立文書館紀要第27号45頁 より作成 こ楽 君いのF撃人 口 に 明 ● 注2縁埜郡 多胡郡を多野郡、那波郡 佐位郡を佐波郡に集計 片岡郡は群FI郡に含めた. 注3農業生産額は 群馬県立文書館紀要第27号 50頁(明治 11年 天皇巡幸時の上申書より作成、判 'は 円) 表 1は

,郡

村誌の郷村別の数値 を集計 したものある。当時の基礎 自治体 とされる郷 村の規模 は

,平

均で101戸,473人で

,半

数以上の郷村は平均以下であ り,10戸未満の 郷村 も複数存在 した。当時の郷村はその殆 どが農家であ り

,県

平均で も農家の構成割 合は78%で

,農

家 (寺戸

,社

戸 を含む

)の

みのlal村も半数以上あった。なお

,農

家の 構成割合が最 も高かったのは勢多郡

(88%)で ,最

も低かったのは山田郡

(55%)で

, 商家の構成割合が最 も高かつたのは群馬郡であつた。 群馬県には

,明

治10年に開業 した新町紡績所の視察に巡幸 した明治天皇への上奏書 の添付資料 として,「明治10年上野国特有物産表」が保管 されている。物産表・]には, 農産品の平均単価 と

,群

馬県内の郡別の農産物の生産規模が記載 されている。郡 ごと に米麦

,五

,綿

,麻

,南 ,生

,茶 ,紙 ,椎

,採

,蜂

蜜など29品目の生産量が 記録 されてお り

,当

時の主要産業である農業の概要を知ることが出来る。なお

,当

時 の郷村 における主要産物であつた「蚕種」 と「自地の絹織物

Jは

記録 されていない。 郡村誌 には

,戸

数や人口の他 に地域の歴史

,耕

地面積

,貢

租額

,馬

,船 ,車

,産

物, 旧跡の他に

,養

蚕に従事する女性数の記載 も求め られてお り

,当

時の政府が養蚕をい かに重用視 していたかが伺 える。 農業生産の地域別の人ロー人当た りの金額か ら

,西

毛地域 (甘楽郡

,多

野郡

,群

馬 郡

,碓

氷郡

)は

養蚕が盛んで

,東

毛地域 (邑楽郡

,新

田郡)と北毛地域 (吾妻郡

,利

根郡

)は

,あ

まり盛んでなかつたことが伺える。農業生産の人ロー人当た りの生産額 が高かつたのは多野郡 (137円

),碓

氷郡 (131円

)で ,最

も低かつたには

,養

蚕が殆 ど行われていなかつた邑楽郡 (66円

)で

,当

時の養蚕が重要産業であつたかが伺 え る。なお

,郡

村誌には

,郷

村別に織物の生産量記録 されてお り,これらが盛んであつ 71

(6)

,山

田郡

,多

野郡

,甘

楽郡

,碓

氷郡

,佐

波郡では

,表

1の 郡別の生産額にこれらが 加算 され

,一

人当た りの所得が増加すると考えられる。 表

2

前橋町

,高

崎町

,桐

生町の概要 区 分 宅 地 戸 数 人 口 農 家 商 家 工 家 他 前橋町 51 7口│ 2.574 10,678 532 119 532 21% 高崎 町 988口, 4,418 13478 377 2.300 1,221 52% 桐牛新町 356口「 4,381 558 251 24% 注 上野郡村誌より作成 群馬県内 には高崎,前橋, 桐生

,大

,伊

勢崎 な どの 中規模都市 が点在 し

,江

戸 時代 に地域 の中心 となる大 藩が なか つた こ とが原 因で あ る とされ る。江戸時代 に 規模が大 きか つた町は

,高

,前

,桐

生である。当時の郷村は

,大

部分が農地であつたが, 3町の場合は殆 ど が宅地であつた。規模が最 も大 きかつたのは高崎町で

,次

に前橋町桐生新町 となる。 前橋町の場合は

,郡

村誌にlmXl戸を超える士族・4が記録 され

,慶

応3年の松平家の川 越か らの移転に伴い多数の藩士が移動 してお り

,関

係者 を含める大規模な転入があつ た。また

,桐

生新町の場合は

,隣

接の下久方村は商家数などから両者は一つの町と形 成 していた と考えられ

,江

戸時代の両町はほぼ同 じ規模 だつたと考えられる。なお, 3町以外の規模の大 きな町は,沼田町 (1055戸

,38%人

),藤岡町 (1077戸,3358人), 伊勢崎町 (888戸,3204人

),大

田町 (583戸

,2578),富

岡町 (647戸,18KXl人

)で

あ った。

3

群馬 県域 にお ける江戸時代 の寺子 屋 明治維新直後の明治5年の「學事業釉二開スル被仰出書」(明治5年

)で

,人

々 が 自ら身を立て

,産

を治め

,業

を盛んにするために「學校 ノ設アル所以

Jと

し,「邑 (村

)二

不學 ノ戸ナク家二不學 ノ人ナカラシメン」ためにも,「自ラ奮テ必ス學二従事 セシムヘキ様心得ヘキ事

Jを

発布 した。また

,布

告文の最後に「地方官二於テ邊隅小 民二至ル迄不洩様便宜解詳 ヲ加へ精細申諭文部省規則二随 ヒ學問普及致l■_様方法 ヲ設 可施行事」 として

,地

方において教育制度が確立するよう通知 した。これを受け明治 5年∼10年にかけ日本各地で多数の小学校が設立 されている。 布告 には,「學問ハ士人以上 ノ事 トシ

Jと

あるが

,明

治政府が明治22年に発行 した 「日本教育史資料」 には

,江

戸時代の庶民教育機関 として寺子屋 私塾の全国の一覧 表があ り, 日本全国で多数の私塾や寺子屋の存在が確認 されている。一覧表では

,群

馬県の教育機関 として私塾39,寺子屋55カ所の記録・Sがある。 群馬県全域の江戸時代 の寺子屋の状況を調査 した資料 として,「群馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書」*6が ある。この報告書は

,群

馬県教育会'Fが群馬県教育史編纂のための基礎資料 として, 昭和11年3月 に県内の全尋常高等小学校長に依頼 し

,各

地域で作成 され提出された調 72

(7)

寺子屋師匠はボランテイア 査票 を整理編集 した ものである。 当時の 日本 は

,慮

溝橋事件 (昭和12年7月 7日

)を

発 端 と した 日中戦 争 の混 乱 期 で

,調

査 票 の提 出 は遅 れ たが

,昭

和 17年 1月 に総 数 1,718枚の調査票が提 出 されてい る。 ① 群馬県庶民教育調査 群馬県庶民教育調査の調査票は

,文

献その他の方法で調査 した庶民教育調査票 (以 下調査票1と いう)と

,寺

子屋教育受けたことのある75歳以上の現存者 を対象に

,小

学校長等の聞 き取 り結果を取 りまとめた寺子屋教育調査表 (以下調査票 2と いう

)の

2種類がある。 調査票 1に は,名称

,所

在地

,師

匠名

,沿

,教

科 目

,教

科書

,入

学年度修学年数, 東イ●謝儀

,維

持の方法

,停

記欄があ り

,調

査票2には

,一

般欄 (所在地

,師

匠名

,師

匠の身分

,児

童数

,通

学年数

,家

庭の状況

,盲

聾唖の入学等

),教

授欄 (教科 目

,掟

の教授

,課

外事業

,始

業終業時亥」

,休

,通

年授業

,座

席配置

,成

績表等),訓練欄 (掟書

,訓

練事項

,賞

罰の方法

,花

),管

理欄 (躾方法,ネ L儀

,教

室の管理

,通

学途 上の遊技

,子

供の関係

),師

匠家庭欄 (師匠 との関係

,父

兄 との関係

,家

庭訪間

),経

費欄 (入学時東脩,月謝

,薪

,師

匠の生活状況

),雑

記欄 (師匠の社会上の位置, 感想等)力`あ り

,当

時の寺子屋の状況 を知ることの出来る貴重な資料である。 調査票が提出された時期は

,真

珠湾攻撃 (昭和16年 12月8日

)を

契機 とした太平洋 戦争による日本社会最大の混乱期で

,調

査結果の取 り纏めはなされなかつた。なお, 当時の群馬県の行政区域は, 3市 (高崎

,前

,桐

)と

11郡 (勢多

,群

,多

野, 北甘楽

,碓

,吾

,利

,佐

,新

,山

,邑

)で

構成 されていたが

,佐

波郡 の調査票の存在が確認 されていない。 調査結果の取 り纏めは

,昭

和20年4月 に大 日本教育会群馬支部 (旧群馬教育会

)か

,当

時の群馬青年師範学校教授高井浩氏に委託 されている。調査票は

,個

々の研究 の参考 として活用 されていたが

,全

体的な調査の取 り纏めは為 されていない。高井氏 没後当該調査票は

,群

馬県内で教員を勤めた柳井久雄氏 に引 き継がれ

,柳

井久雄氏の 整理編集の成果により平成17年の報告書 として出版 されている。 ② 群馬県内各地にあった寺子屋 学制頒布後に設立 された小学校は

,地

域の負担で

,設

立や運営がなされ

,郡

村誌の 学校区分でも人民共立小学校であった。学市」頒布直後に

,多

数の小学校が設立 された 要因は

,江

戸時代の寺子屋の伝統が明治維新後 も引 き継がれていると推測 している。 本論において群馬県内の江戸時代の寺子屋の設置状況を検討 した結果 この推測が検証 で きる事例が確認 された。 表3は

,江

戸時代の寺子屋が明治以降も引 き継がれていると推測 される事例で

,明

治の大合併時 (小学校のための合併 :明治22年

)の

村域内の大字で

,郡

村誌 において

(8)

● ● ト ロ ビ tl` ポ 韓 螢 口 榊 al}.! lt 口 ● ● ● ● ● `■ ● ● ■ ● ● ● ●E口 ● こ+l■ 民 ロ “ 口 ■ 鴨 │● al\lrt.rr.rrr. 口■ヽ●●(● ^■″ 'ヽ●●

==彙

=冒

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=中

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織嗜じさ僣駅嘔‖颯

=十

中 国 さ 孤 羅 判 繊 は1曹

=ユ :ミ

ヽ詢

1

群馬県教育史編纂資料寺子屋教育調査票

(9)

寺子屋師匠はボランティア 表

3

小学校設立頒 布 によ り設立 された小学校 と校 区内にあった寺子屋 村内の小学生数が記録 され,さ らに

,寺

子屋調査 において子弟数が記録 されている事 例 を紹介する。なお

,本

論では

,江

戸時代の庶民に対する教育機関として寺子屋 と私 塾があるが

,両

者を同一なもの として論 じた。 碓氷郡の新堀小学校 (安中市松井田町新堀

)は ,明

6年1月の設立で

,校

合には 補陀寺が使用 された。補陀寺にあった寺子屋は

,新

堀小学校の設立時に廃止 されてい る。小学校の校舎には寺子屋の施設がそのまま使用 され

,児

童数 も女子は増加 してい るが

,男

子は大 きな変化はなく寺子屋が小学校 に移行 したと考えている。勢多郡久呂 保村の森下小学校 (昭和村森下)も

,設

立が明治7年2月 で

,寺

子屋の廃止が明治6 年である。児童数は寺子屋時代 より減少 しているが

,寺

子屋調査の児童数は

,昭

和11 年 に75歳以上の高齢者を対象 とした聞 き取 り調査に基づいた数値であ り参考数値 と判 断 され

,森

下小学校の場合 も寺子屋が移行 したと考 えている。また

,三

波川小学校で は

,児

童数は寺子屋 と比較 して大幅に増加 しているが

,鬼

石町誌のよると

,飯

塚家の 他 に3カ 所の寺子屋が設置 されていた。 当時の小学校は

,地

域住民の負担 により設立運営 されてお り

,小

学校の創設には , 地域内の住民の合意が必要 となる。小学校設立に関する地域住民の合意には

,教

育に 対する地域住民の理解が不可欠である。明治初年に多数の小学校設立 された背景 とし

(10)

4

江戸時代の群馬県内の寺子屋数 区 分 調査票集計結果

日本教育 史 郷村数 市町村誌 総 数 江 戸 明 治 総 数 江 戸 明 治 勢多郡 161 4 1 0 IB,村 12報告書2 上川渕村16報告書5 鬼●町10報告書5 -/宮町16報告書6 九 卜九村8、報告書5 高山村7報告書2 尾島町30報告書2 人間々町13報告書2 小泉町11報告書1 群馬郡 210 238 1 0 多野郡 71 76 2 ■楽郡 150 8 3 1 確 氷 郡 77 3 10 10 0 70 吾妻郡 125 115 7 0 80 利根郡 3 2 2 0 111 佐波郡 38 91 新 田部 107 9 122 5 山田部 73 6 4 3 1 51 邑楽郡 ,2 6 8 l 計 1.213 1 144 1304 17 1144 * 群馬 県教育(寺子屋)教育調査報告書 日本教育 史資tl各市町村誌より作成 市町村誌との寺子屋設置数の比較範囲は、明治の人合併時の町村の範囲とした て

,江

戸時代か らの地域内における教育環境が整つていたことが

,住

民の合意形成 に 寄与 したと考えられる。当初の小学校は

,地

理的条件 によつて異なるが

,大

規模郷村 では村に1カ所

,規

模の小 さい郷村では複数の郷村が共同 して 1つ の小学校 を設立 し た場合が多い。 表3の森下村のように比較的規模の大 きい郷村では

,複

数の寺子屋が設立 されてい た事例が多い。明治10年の群馬県内の小学校数は539校・8が記録 されてお り

,江

戸時 代の群馬県域には

,小

学校数をはるかに上回る寺子屋があつたo 表4は

,群

馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書 と日本教育史資料により群馬県内の 寺子屋の設置数等 を整理 した。 日本教育史資料では県内に94カ所であつたが

,群

馬県 庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書では1304カ所ある。なお

,各

市町村で作成 した市町村 誌には寺子屋の設置状況の記録があるが

,そ

の多 くは

,群

馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査に基づいて記述 されている。 一部の町村では

,以

前に作成された町村誌等を参考に

,寺

子屋に関する記述のある 市町村誌 もあ り

,表

4でその一例 を紹介 した。大泉町誌によると

,合

併前の小泉村で は寺子屋が11記録 されているが

,群

馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書では1カ所の みであ り

,独

自調査 をした市町村誌では

,大

幅に寺子屋数が増加 している。また, 日 本教育史資料8の群馬県内の寺子屋の一覧表記録 されている42施設 (那波郡

,佐

位郡 を除 く

)の

中で

,群

馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書に記載のある寺子屋は18施設 であ り半数以上の記載がない。以上を考慮すると

,江

戸時代の群馬県域 には

,群

馬県 庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書掲載の寺子屋数を

,通

かに上回る寺子屋が設置 されて いたと推颯1される。なお

,今

回の整理では

,明

治期に設立 された寺子屋は検討対象外 とした。 76

(11)

寺 子屋 師匠 はボ ラ ンテ イア ③ 寺子屋の師匠 と教科書 寺子屋は, 1人の師匠が弟子 を教えていた場合が多い。師匠は

,寺

子屋教育 を考え る上で重要な要素 となる。調査票 1の 博記欄では

,師

匠の経歴等が記録 されている。 しか し,「何 レデ修学セシヤ不明ナルモ学問二精通 シ

」,「幼 クシテ学 ヲ好 ミ独 学ニヨリ

J,「

読書等二通 ジ俳句華道二秀デタル

」,「温良ニシテ書道 ヲヨ クナス」等 と

,具

体的な学習経歴が記録 した場合は少ない。師匠が

,僧

侶や神官の場 合は

,若

年期の修業過程で学んだと考えられるが

,僧

侶や神官以外の学習経歴を調査 書1から抜粋 して紹介する。 新田郡牛沢村名主神谷藤十郎は,「当家十代太郎兵衛 ノ子ニシテ若 クシテ名主 ヲウ ケ

,江

戸二出

,山

口紫山二学び

,家

事 ノ都合ニヨリ郷二帰 り多 クハ通信教育ニヨリ学 プ

J(第

4巻58頁) 利根郡小仁田村の鈴木雄之助は,「十六歳ニシテ志 ヲ立テ

,当

時ノ将軍家祐筆生方 県斎 ヲタヨリテ家ヲ出テ上京ス

,学

プコ トニ年

,大

イニ師二愛サ レ

,将

軍 ノ側近二出 ブルコ トニ回」(第 1巻385頁)とあ り

,帰

郷後寺子屋を開いたとされている。 勢多郡西大室村の井上正香は,「文政2年農家に生 まれ

,江

戸に遊学 し

,儒

,医

,書 ,詩

,和

歌 を学び,さ らに

,権

田直助や平田篤胤 に医 国学 を師事 して修学 し,22歳の時に帰国 し5年間ほど家業の医業 を開 き傍 ら子弟教育に従い,さ らに

,京

都 に上が り権田直助の医学塾に学び

,傍

ら自河学校や医学塾の子弟の教育 に当た り。 明治4年前橋藩和漢洋三学校にて和学をaliし

,明

治6年貫前神社権宮司をしていた が

,明

治13年に帰国 して再び医業を開き明治33年に82歳で没す」(第 1巻201頁)とあ り

,全

国的に著名な学者 に学んでいる。 山田郡桐生町の寺子屋松声堂の師匠は

,二

代 とも女性であった。二代 目師匠望月福 子 は,「天保四年桐生町本町望月長三郎の次女に生 まれ

,幼

少 より東久方の田村梶子 の間に学び

,梶

子の勧めにより17歳の時に江戸に出て丹波国園部藩主小出美濃守の母 心鏡院の祐筆 として仕える傍 ら藩医某に漢学 を学ぶこと五年

,三

二歳にして帰 り

,直

ちに師田村梶子の後 を継 ぎ二代 日松声堂の師匠とな り塾舎 を新築 した。門弟の中には 館林や本庄から来て寄宿する者 もあつたが

,明

治五年の学制生頒布により塾を閉 じて いる。」(第 4巻 6頁) また

,松

声堂初代の田村梶子 は,「天明五年機業田村金兵衛の長女 として生 まれ, 17歳の時に選ばれて幕府の祐筆に挙げられ,31歳の時帰郷 し近隣の求めに応 じて書 き 方教授 を始め

,安

政6年76歳の時

,望

月福子に塾 を譲つている。

J(第

4巻27頁) 勢多郡荒口村の阿部耕雲は,「弱冠ニシテ江戸二出

,久

留米藩 ノ侍諸岡永陽先生ノ 門二入 り専ラ漠籍 ヲ修ム

,後

藤恭助先生及ビ鷲津貞助先生二就キ文 ヲ修メ遂二皇朝詩 文ノ著アルニ至ル

,後

帰郷 シテ

J(第

1巻188頁

)な

,阿

部耕雲に関する書類

(12)

5

寺子屋で使用 されていた教科書 郷村名 師匠名 職 名 教科書名 所 在 勢多郡 原之郷村 小見勇造 名 主 読 今川 女今川 実語教 庭 訓往 来、商売往来 四書 1巻150頁 書 平仮名 名頭 文字 村名尽 国尽 本朝千字文(自筆) 算 ′ヽ筆 見― 相場割

脚帥

中澤愛― 名 主 読 Jヽ学 大学、中庸 論語 孟子、詩経 薔記 文選 史記 1巻297頁 書 一算 平覆露:言 手尽 村名 国尽 商売往来 和漠朗詠 人算 見― 碓氷郡 五料村 猿谷弥兵衛 百 姓 読 実語 今川 庭副 3巻 351頁 書 セ`ろは 源平藤橘 木曽路往来 商売往 来 算 珠算 力,減乗除、開平開立 甘楽郡 ―ノ官町 横 田寛弘 僧 侶 諄 ス壺 対 尺 国尽 商売往 来 庭司1往来 四書五経 3巻 130貢 書 ヽヽろは 万葉仮名 千字文 算 珠算九九 勢多郡 駒形町 武藤 平吉 OII屋 読 今川了後 庭訓往来、商売往来 四書五経 ltt183貢 書 ヽヽろは 名頭字、商売往来 消 勢多郡 大前 田村 口島義賢 神 官 読 四書 ― l巻235頁 書 手本 一 算 ブヽ算見 一 甘楽郡 南蛇井村 横尾和平 医 師 読 女今, 女庭副、女大学 女中庸(女性 用)、名頭 国尽_ 3巻 256頁 ― づ くし 女用文章 勢多郡 清工寺 中西弘造 藩 士 漢学 日本 史外 史、四書工経 漢詩 1巻39頁

姉獅

石原 辻 郎 浪 人 読 実語教 今川往来 四書工経 4巻 130貢 書 仮名手本 国尽 尽名頭 商売往来 消 息往 来 … 屋)教育調査報告書より作成 は

,大

正2年に火災で失われていると沿革にあるが

,そ

の他の調査票にも火災で関係 資料が焼失旨の記載が多数散見 された。なお

,上

記の事例以外にも江戸で学んだ事例 や

,藩

校や私塾

,寺

子屋ЯT匠

,父

親 に学んだことなどが記録 されている事例 もあるが その事例は少ない。 調査票1には

,教

科 目欄 と教科書欄があ り

,寺

子屋の教育内容 と教科書が解る。寺 子屋教育は

,基

礎的な「読み書 き算盤」 とされているが

,時

売み書 き」のみを教える寺 子屋 も半数以上あつた。また

,一

部には

,算

,柔

,剣

術 を教える寺子屋 もあつた。 表5は

,教

科書が詳細 に記録 されている事例であるが,「読

Jの

教科書 として

,今

り‖(道徳書

),庭

副往来 (手紙の書 き方

),童

子教 (儒教の格言 による行儀作法

),実

語教 (教訓集

),商

売往来 (商業知識

)な

ど実務的な知識の習得す る本の他に

,四

書 五経

,大

学中庸

,唐

詩選

,文

,御

成敗式 目なども見受けられた。 「書」の教科書 として

,い

ろは

,平

仮名

,名

,村

名尽

,国

,庭

コ1往来

,商

売往 来などがある。「算

Jの

教科書 として

,八

算見一

,九

,相

場割

,開

,開

立があつ たが

,教

科書が記録 されていない事例 も多数あった。書の場合は,「手本は師匠が直 筆」 との記載 も多 く,また

,質

入証文 との事例 も多数ある。なお

,寺

子屋の詳細が記 録 されている一部市町村誌 には使用教科書 とし50種類ほどの書名が記録 されてお り, 船津伝次平の寺子屋で も “ 種類'9の教科書名が挙げられている。 山田郡高津戸村の自音寺の寺子屋の沿革には,「通学児童ハ几 ソ男二十人

,女

二十 78

(13)

寺子屋師匠はボランティア 人ニシテ

,村

内ノ子女大概通学シ毎 日午前八時 ヨリタ刻六時頃迄

,通

年制ニシテ勉学 セシム。但

,村

ノ祭 リ ト

,五

節句ニハ授業 ヲ休ム。課業 トシテハ読 ミ

,書

,算

盤マ ルモ読 ミ

,書

キガ主体ニシテ

,課

業ハ別ニシテ掃除 卜庭ノ除草 ヲナス」(第4巻 228頁) とあ り

,寺

子屋の授業の様子が記録 されている。調査票2には

,教

授欄があ り

,教

科 目

,手

習の順序

,読

書の順序

,算

術の科 目

,掟

の学習

,課

外作業

,始

業・終業時刻, 通年か季節か

,男

女の席

,書

法の流儀, 1日 の習字枚数

,評

,成

績表

,朝

稽古

,夜

間授業

,教

授の方法

,個

別授業の18項目があ り

,当

時の寺子屋の様子 を知ることがで きる。 表6は ,群馬県庶民教育 (寺子屋)調査報告書 に記録がある山田部内の75施設の内, 調査票2のある44寺子屋の概要を取 り取 りまとめた。 山田郡は

,桐

生を中心に渡良瀬川流域の51村で構成 され

,繭

の生産や織物が盛んで あつた地域 (29郷村 :現在の桐生市内)と

,木

綿が生産 され繭等の生産量が少ない地 域 (23郷村 :現在の大田市内

)に

大別出来る。人口規模的には

,桐

生地域2に対 して 大田地域1であるが

,大

田地域は農家が大半であるのに対 して

,桐

生地域は農家が半 数以下で

,商

家 工家 雑業が5割を超え

,当

時の群馬県では一番近代化が進んでい た地域であ り

,経

済的には大 きな格差が存在 していたと考えられる。 表6における寺子屋の特色 (桐生地域 と大田地域 を分けて検討)は ,第 1点として , 女性師匠 (桐生地域

)の

存在で

,女

性師匠は

,山

田郡以外では群馬県内では2名のみ であつたが

,山

田部には6名 (表6以外 に2名

)い

た。第2は

,農

村部における浪人 の師匠である。東毛3郡には

,農

家 を主体 とした郷村に山田郡 と邑楽郡には5人の浪 人の師匠がいたが

,群

馬郡で5人 (総数210)ほか

,他

郡では0∼ 2人程度であった。 第3は

,農

民 と名主の師匠の割合力活 く

,寺

の僧侶が師匠の寺子屋の割合が高いこと である。上記の第2及び第3の傾向は

,新

田郡

,邑

楽郡において同様な傾向が伺えた。 名主や農民が師匠である寺子屋では,「農閑期 を利用 して教授 し」,「季節教授」等 により通年授業でない寺子屋も相当数あったが

,表

6の 寺子屋ではすべてが通年授業 であつた。なお

,休

日は月1回程度で

,一

部には休 日のない寺子屋 もあった。女子の 割合は

,桐

生地域 (山田郡

)の

寺子屋は

,他

郡 と比較 して高いが

,大

田地域の寺子屋 では県内と同水準であった。なお

,女

性師匠の寺子屋では

,ほ

ぼ同率であった。教科 別では,「読み書き算盤」が20カ所,「読み書 き」が24カ所あった。 授業の開始時刻 と終業時刻は

,大

部分が 8時 又は9時 開始が多 く, 3時 又は4時 終 業の事例が多い。修学期間の設間は,「最 も長 く通学 した者の期間」を調査 している。 修学期間の最長は10年であるが

,殆

どが 5∼ 6年 で

,現

在の小学生 と同様であった。 通学児童の家庭の環境では,「中流以上J,「上農の子女」,「財産家」等カラ4カ所,「大 概の子弟J,「一般家庭」,「誰でも」,「希望者」,「農家

Jが

20カ所であった。

(14)

6

山田部内の寺子屋

(15)

寺子 屋 師匠 はボ ラ ンテ イア ④ 寺子屋師匠の職業 本論作成にあてつて

,群

馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書記載の171Xl枚 を超える 調査票か ら

,設

置村名 (江戸時代の郷村名

),師

匠名

,職

,創

設時期

,児

童数等 を 整理集計 した。師匠の職業 に関 しては相対的な記述が多 く次の基準で整理 した。 名主:身分欄 博記欄 に名主

,里

,戸

長の記録

,調

査票2に名主の記録 農 :農 業

,百

姓等の記録

,所

在地に子孫が居住 していた農村の師匠 僧侶 :僧 侶法印の記録

,名

称所在地が寺で

,停

記等に他の職種の記録がない 医師:身分欄 停記欄に医師の記録

,調

査票2に同様 な記録 神官:身分IIn 停記欄 に神官 修験者 別当の記録

,調

査票2に同様 な記録 武士等 :藩 士

,浪

,関

,郷

,士

,城

門番

,用

人の記録 その他 :女性7人

,商

9人

,俳

,画

,俗

,学

,精

米業

,手

習い師匠 と様々 不明 :調 査票で職業に関す記載ない 表7は

,地

域別職業別の寺子屋師匠数であるが

,群

馬県全体の師匠の職種割合は, 名主

21%,農

業従事者

26%,僧

24%,医

師神官

17%,武

±

8%で

ある。戦種別の特 色 として

,僧

lBの割合が東毛地区 (山田部

41%,新

田郡

29%,邑

楽郡

29%)で

高 く, 西毛地区 (碓氷郡

17%,吾

妻郡20,多野郡

21%)は

低い。逆に

,名

主 と農業の師匠の 割合では

,西

毛地域 (多野郡

58%,甘

楽郡

53%,利

根郡

60%)が

高 く

,東

毛地域 (山 田郡

24%,邑

楽郡

36%,新

田郡

40%)が

低 くなつている。調査票の記録では

,医

師は その多 くが神職 を兼ねてお り

,医

師 と神官 を合計す ると

,群

馬郡

(21%),吾

妻郡

(20%),新

田郡

(17%)と

高 く

,利

根郡

(8%),山

田郡

(10%),甘

楽郡

(10%)が

低 くなつている。また

,武

士等が師匠の寺子屋は81カ 所あるが

,身

分欄 に藩士

,士

族 の名称があつた寺子屋は35カ所で

,大

部分が藩主の居住地がその所在地 となつてお り 地方における武士による寺子屋は殆 ど存在 しなかった。なお

,群

馬県庶民教育 (寺子 屋

)調

査以外 に独 自調査 を実施 した市町村誌では

,報

告書に未記載の寺院の寺子屋が 多 く見 られ

,僧

侶が師匠 となった寺子屋数は増加すると推測 される。 81 表

7

師匠の職種別の寺子屋数

(16)

調査票 1に は

,師

匠の身分欄があるが

,僧

侶の場合は不詳の記述が多 く

,あ

った場 合 も「

Oo寺

住職J,「第×代○○寺住職」,「××年◇◇村○○寺カラ来ル」等の記載 がある者が多い。医師及び神官の経歴等は

,比

較的詳細に記録 されている。医師及び 神官は

,代

々神官や医家 を継続 している場合が多 く

,群

馬郡川島村窪内の光明塾の塾 主は甲波宿弥神社の別当で

,沿

革では「初代歓什元禄年間始メ光明塾 ヲ開キ代 々光明 寺ノ住職師匠 トナリ五代知教 ノ時即寛政年間ヲ以テ全盛費時 トナス門弟八十名

,女

子 数名

,明

治六年主膳 ノ時閉鎖ス」 とあ り

,博

記では10名の塾主名が記録 されている (第 2巻285頁)。 師匠が医家の場合 も同様で

,経

歴等が詳細に記録 されている場合が 多 く

,勢

多郡竜蔵寺村の加々美家の停記では,「加々美能清医業 ヲ常 トシ酒井候二仕

天和二年没」 とあ り

,七

代 目までの師匠名 と没年が記録 されている。 名主が師匠の場合 (群馬郡広馬場村

)で

,教

師名が富澤文次郎

,富

澤文明

,富

元徳

,富

澤又市の4名が記録 されてお り

,沿

草 として「創始ハ富澤文次郎氏ナレ ド 種々ノ点 ヨリ元文年間頃ナラン門弟ハ不明ナレド11ケ村 ヨリ集ル碑二見ユ

,続

イテ富 澤文明氏弟子5CKl人

,富

澤元徳氏弟子

lm人

,富

澤又市氏弟子Ю人

,全

盛期ハ文化文政 ノ頃ナラン」(第2巻170頁)とある。 また

,名

主である祖父か ら師匠を引 き継いだ事 例 として

,師

匠欄 に「塾主

,馬

場吉兵衛

,綾

女 (吉兵衛 ノ孫ニシテ祖父ノ死後ハ弟子 ヲ指導ス」 とあ り

,そ

の沿革では「文化ノ頃ヨリ代々私塾 ヲ開キ

安政三年八 十八歳 ヲ以テ吉兵衛没後 孫女綾弟子 ヲ教養シテ明治六年四十歳ニテ終焉ス」(第2巻 250頁)とある。 名主は

,領

主への年貢の納入の責務 を負っていたが

,当

時の群馬県では名主の人数 を把握することは不可能 と判断 している。江戸時代の群馬県域では

,歴

代名主を務め た家がある一方で

,名

主を交代で選んだ郷村 も多数ある。 また

,幕

末には群馬県内に は旗本領 も多数あ り

,そ

の多 くは相給郷村・Юであ り

,相

給郷村には複数の名主が存在 していた。旧高旧領帳“Hにより新田郡の名主数 を推計 した。新田郡は

,113郷

村で, 藩領 と藩領,代官領 と藩領,旗本領 と代官領などの相給郷村が拠村,代官領力%3郷村, 旗本領カラ1郷村で86人の旗本が領主 となってお り

,新

田郡には2∞人を上回る名主がい たことになり

,名

=裕

福の方程式は

,当

時の群馬県では成立 しないと考えている。 名主以外の農民が師匠 となった事例 として,「少年時代二足ノ病 ヲ患 ヒテ歩行 自由 ナラズ

,家

代 々広 ク農業 ヲ営 ミシモ濃厚二従事スルコ ト能ワズ

,依

リテ手職 ヲ習ワシ トセシガ

,生

来学 ヲ好 ミテ天王院ノ寺子屋二通 とテ勉強シ独立 シテ手習師匠 トナル。」 (第 4巻255頁)と の事例 もある。なお,師匠の森田宇平は明治3年に死亡 しているが , 同 じ村の今泉儀平 に寺子屋は引き継がれている。師匠が百姓等の場合は沿革等で詳細 な記録がない場合が多い。 また浪人の師匠 として

,山

田部の茂木村の浪人石本金之丞の停記では,「出生明ラ 82

(17)

寺子屋師匠はボランティア カナ ラズ

,旗

本 浪人 トシテ本村 二来 タ リ

,名

主代筆 ノ職 ノツ トムル傍 ラ子弟 ノ教 育ニ 当 タル

生前敢 テ其 ノ本 名 ヲ明 カサズ

,死

期 二臨 ミ徒 弟 ノ強 ツテノ懇願 二依 り始 メテ其 ノ本名 ヲ明 ラカニナセ リ

J(第

4巻286頁)との記録 もあ り

,武

士 や浪 人は 比較的沿革 な どで経歴が明 らかな師匠が多 い。 ⑤ 寺子屋の開始 された時期 江戸時代の群馬県域の教育機 関は

,寺

子屋の他 に大名家が設 立 した藩校がある。藩校が

,最

も早 く設立 されたのは寛保年代 の沼田藩の沼田学舎である。次 いで

,高

崎藩

,伊

勢崎藩

,小

幡 藩 と続 く。当時は川越藩であっ た前橋藩は文政10年 (1827)で あ り

,吉

井藩は幕末の文久4年 に設立 されている。なお

,館

林藩の造士学院は

,弘

4(1847)年

の設立であるが, 秋元家が山形から館林への移封後に設立 されてお り

,江

戸藩邸は安政4年に設立 され たことか ら

,藩

校 としては同時期 に設立 されてと考えられる。 当時の地方政府 とされる藩が設立 した藩校 (公立学校

)で

,享

保年代以降 (1736 年

)に

設立 されている。分福茶釜で有名な茂林寺の寺子屋の成立は

,江

戸幕府成立以 前の天正の頃に設立 されたとされ

,藩

校設立以前に県内では多数の寺子屋が設立 され ている。 表

8

幕末期の群馬県内の藩校 創始年代が元禄期以前の寺子屋 田

(18)

群馬県庶民教育 (寺子屋)Fll査結果で最 も古い寺子屋は

,新

田郡世良田村の清泉寺 の寺子屋で創設は鎌倉時代 とされる。また, 日本教育史資料では

,吾

妻郡林村 (長野 原町林

)の

寺子屋の開業が天正年間とされる。群馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書 によると

,元

禄期以前の設立 された寺子屋は表9の通 りで15カ所ある。寺の僧侶が師 匠の寺子屋が 8カ 所

,神

官が3カ所

,医

家が1カ所

,名

主をつ とめていた家が 4カ 所 で,これらの寺子屋は小学校が開設 されるまで続いていた。なお

,緑

埜郡三波川村の 飯塚家の寺子屋の沿革では,「開始年月等不詳ナルモ徳川初期 ヨリ

Jと

あ り

,明

確 な 倉1立時期は確定 されていない。28000点 を超える飯塚家の古文書 は

,群

馬県重要文化 財に指定 され群馬立文書館で閲覧可能であ り

,飯

塚家の寺子屋の実態を知ることが出 来る。 寺子屋の設立 を年次別に整理 したが

,江

戸時代は

,慶

長8年8月 (1603)から慶応 4年5月 (1868)ま で,265年間続 くが

,そ

の間に37の年号がある。1年号当た りの 平均年数は約7年で

,最

も長期間であったのは寛政の20年ケ9月 間で

,最

も短い万延 の期間は1年未満であつた。一般には年号の順番や年数が解 らないため

,創

設年次別 の寺子屋数や年号の期間を考慮 して

,郡

別に寺子屋数 を整理 した ものが表10である。 元禄期以前の年号 について簡略化 し

,元

禄以降の年号では

,元

文を除きは年代順に整 理 した。寺子屋の設立年が,Fla査票で半l明できた寺子屋は対象の半数強で

,残

りの約 半数は不明であるが

,停

記欄の師匠の伝記や没年か ら開設時期 を推定可能な寺子屋 も 多数あった。なお

,地

域別の設立年代判明率では

,甘

楽郡 (61%)と 山田部 (60%) が高 く

,多

野郡 (41%)と碓氷郡 (“

%)が

低かつた。 設立年代が確定で きる寺子屋は602で

,そ

の9割が文化文政期以降に設立 されてい る。表10の区分で, 1年ごとの寺子屋の設立数は

,文

化文政

135,天

296,弘

化嘉 表

10

設立年代別・ 地域別の寺子屋数 年 片 西 暦 期 間 勢 多 FI馬 多 野 廿 楽 碓 水 吾 妻 利 根 新 田 山 田 邑 楽 江,ヨ時代初期 -1614 l 4 フL和 寛 文 入 和 1615 1683 3 元 裸 1703 1 2 3 l 正徳 享保 1711 1735 25 1 3 1 7 元 支 寛保 延享 寛延 1736 1750 15 1 3 4 宝暦 明和 安水 1751 3 l l 2 7 天明 寛政 享和 1303 l 0 10 l 31 文(ヒ 女 政 2 2 9 3 9 9 2 天 保 1 1 2 6 5 5 弘化 嘉 永 1844 1853 7 19 6 17 8 16 1 9 安 政 6 13 8 万 延 文久 ,し冷 慶 応 1867 8 19 29 7 17 7 7 17 147 不nJl 77 113 55 64 計 161 142 115 73 145 *群馬県庶 民教育(寺子屋)調査報告書より作成。年号とy●暦の対照は相書房提供の資料に思づく 84

(19)

寺子屋師匠はボランテイア 永

629,安

128,安

政以降1633と年 とともに急速に拡大 していった。設立年代が明 らかな寺子屋の9割が文化文政期以降に設立 されている。文化 文政期以降に設立 さ れた寺子屋の地域別の構成割合が高かったのは山田郡 (98%),新田部 (96%),吾妻 郡

(95%)で

,逆

に古 くか ら寺子屋が設立 されていた割合が高かつたのは

,利

根郡 (22%),碓氷郡

(18%)で

ある。 利根郡平川村 (沼田市利根村平川

)の

寺子屋の沿革 に,「天明年間

,西

求ナルモノ 雲水ニテ当地二足 ヲ留 メ十王堂寺守 トナ リテ近隣ノ者二読書 フ授 ケ爾後文化九年没ス ルマデ継続ス。西求死スルヤ当地二覚英ナル者雲水ニテ当地二来 り西求ノ後 ヲ受ケテ 之 ヲ継 グ

J(第

1巻302頁)とある。平川村は

,江

戸時代の石高力213石で

,郡

村誌で は,110戸427人 と平均的な規模の郷村で

,水

16町

,畑

69町

,特

産物 として繭 や豆類や麻があるが

,寺

子屋が成立 した天明期では

,養

蚕は江戸末期ほどの収入は期 待で きず

,麻

や雑穀類

,炭

焼 きで生活が成 り立っていたと考えられる貧 しい村落であ ったが

,統

計的にみて比較的貧 しい と考えられる郷村で も寺子屋が設けられていた。 上野郡村誌 によると1145の郷村があ り

,群

馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査報告書に寺子 屋の記録がある郷村は約半数であ り

,記

録のない郷村でも寺子屋が設置 されたと考え ている。群馬県庶民教育 (寺子屋

)調

査の報告書の提出状況 を整理 した感想 として , 山間部の小規模郷村の寺子屋は比較的よく報告 されてお り

,平

野部の大規模郷村の寺 子屋は報告数が少ないと感 じた。

4

老農「船津伝 次平」の寺子屋 ① 原之郷村 船津伝次平は

,勢

多郡原之郷村 (前橋市富士見町原之郷)出 身である。原之郷村は , 前橋藩領で石高850石と近隣では一番規模の大 きい村であった。郡村誌等によれば戸 数193戸

,人

口957人

,馬

が1舵頭で生糸180貫

,米

150石

,大

麦50石

,小

麦30石が生産 されている。 4代 目の伝次平は

,幕

末に3回 名主に選ばれている。 表11は

,原

之郷村 と隣接する4郷 村の状況を

,郡

村誌等に基づいて整理 した。勢多

11

原 ノ郷村に隣接 し郷村の経済状況 戸 数 人 口 田 畑 馬

穀 類 l週ヒ 接 置 隣 位 人 数 日 畑 馬 収 入 原 之郷村 957 1256 102 4 718 1079 496 65 05 300 横室村 283 332 6,553 875 574 39 07 西 田嶋村 313 345 3,5 1 566 482 53 52 472 Jヒ 小暮 村 123 476 638 2.707 3,551 533 39 52 05 509 東 川端 村 107 63 552 43 02 南 日 口村 535 285 555 2,698 500 27 04 934 西 数 (明治10年)に よ 穀類は生産金額 口畑の面積 単位は日「と反である * 繭│・糸 穀類の数値 は、生産量に単価を乗 じた数値で 単価は明治天皇上奏資料による .

(20)

郡の郡村誌は

,他

郡に遅れて明治11年に群馬県に提出されてお り

,勢

多郡部分は

,他

郡にはない郷村の穀物の生産量が記録され

,そ

の記録は

,明

治天皇巡幸時の上奏資料 の基礎資料 と推測 される。 当時の農村では最 も重要な農地の耕作面積 (1世帯当た り

)で

,小

規模郷村の川 端村が最 も少ない。原之郷村は

,横

室村や田口村 を耕地面積では上回っているが

,両

村は生糸の生産が盛 んで, 1戸当た りの生糸による収入は

,原

之郷村に比べ横室村 (29倍

),田

口村 (23倍)と大 きな開 きがあ り, さらに

,田

口村は

,穀

類の生産量 も 多 く

,蚕

種 も生産 されてお り

,世

帯当た りの生産額は

,原

之郷村の

3倍

以上 になる。 なお

,川

端村は

,戸

数 も耕地面積 も少な く

,米

の収穫量 も少ないことから条件の厳 し い郷村であったことが推測される。 船津家の寺子屋が成立 した天保時の原之郷村は213戸 764人・2で, 1世帯当た りの人 数は36人で

,独

身世帯が40戸あったが

,世

帯人数は

,当

時の経済状況の判断基準 と なる。原之郷村の世帯人拠 96人で

,田

島村 を上回るだけで

,周

辺の郷村 と比較する と低いことか ら,当 時 もまだ独身世帯が存在 したことを伺わせる。馬の所有状況では, 川端村の数値が低 く

,稲

作では

,馬

の使用頻度が低かったと推測 される。なお

,当

の群馬県には, 3万 5千頭以上朝の馬がいたが

,稲

作地帯や養蚕が中心の地域は馬の 所有率が低かった。 比較 した5郷村では

,田

口村

,西

室村

,原

之郷村の3村では

,養

蚕関係の収入が , 穀物収入 を大幅に上回 り

,あ

まり養蚕が盛んでないと推測 される中島村と川端村でさ え養蚕による生産額が穀類のそれを上回っている。穀類の多 くが自家消費であること を考慮すれば

,養

蚕による収入が地域 を豊かにしていた。養蚕 と穀類 を合計 した1世 帯当た りの生産額が

,原

之郷村の3倍以上ある田口村は勢多郡で も特 に豊かな郷村だ

,貧

しいと推測 される川端村の生産額26円を

,若

干上回るだけの原之郷村の生産額 30円は

,原

之郷村が決 して豊かな郷村ではなかったことを示 している。この豊かでな い郷村の江戸時代末期 には, 5カ所の寺子屋が存在 していたことを今なお残る筆子塚 が後世に伝 えている。 ② 船津伝次平家 上毛カルタで,「老労 船津伝次平

Jと

,群

馬県人に知 られる船津伝次平だが

,現

在の群馬県人には馴染みのない存在である。 しか し,「明治の

3老

農」 と明治期の 日 本経済 を支えていた農業の指導者 として

,全

国的に知れ渡 つていた。船津伝次平は , 天保3年 (1832)│こ 上野国勢多郡原之郷 に生まれ

,父

の後 を継いで小規模農業 を営む 傍 ら寺子屋 も開いていた。明治6年の熊谷県地租改正用掛を皮切 りに

,駒

場農学校の 実業教師

,明

治政府の農事巡回教師などを歴任 している。 労農船津伝次平の生家である「船津家

Jは

,18世

紀 に成立 したと推定 されている。 86

(21)

寺子屋 師匠 はボ ラ ンテ イア 表

12

船津伝次平家の経営規模 と家族構成 年(西暦) 日 畑 畑 家族構成 備 考 反 畝 町 反 畝 町 反 畝 寛 永4 1792 3 5 4 5 4 4 1 2 1 1 1 9 l 6

一ホ

文化4 1807 戸主(36)、妻(33)長男(1■型望型と運正

___

文化1 1815 ワくイ呆10 1839 戸主(28)父(58)母 (5'X妻 (30)長 男(6)長女(2)馬l 3代 嘉永2 1850 戸主(40)父 (70)妻 (43)長 男(11)長女(14)馬1 ― (32)長 男(lD次男(6)三男(2)馬 1 41ヽ 慶 'こ 3 10b′ 注 近 世村 落 誌 生活 史序説(高橋敏 者 未 来社)128頁 船津家の経営基盤である農地は

,畑

を中心 とした小規模農家で

,農

地を増や した2代 目伝次平 (英助

),寺

子屋 を自l設した3代目伝次平 (理兵衛

),老

農である4代目伝次 平 (市造

)に

引 き継がれ明治維新 に至つている。船津家の家族構成は

,家

主 と妻

,家

主の両親

,子

供で構成 され

:養

蚕を中心に家族 と雇い人 (2∼ 4人

),馬

1頭の農業 で

,養

蚕を主体 とした自作農家であつた。自作農家の主人が寺子屋を開いた背景を探 った。 江戸末期の伝次平家の耕地面積 は, 1町

6畝

で郡村誌 による村の平均の91反を上 回つているが

,馬

の頭数当たりの耕地面積1町6反 7畝と比較すると6割程度に止 ま っている。又

,耕

地を田畑別に見た場合

,原

之郷村は

,田 26%対

Z%で

あるが

,伝

次平家の場合は田

18%,畑

82%で ,畑

作中′亡、の原之郷の中で も畑の割合が高い農家で あった。なお, 4代目伝次平は

,幕

末の3回名主 をつ とめているが

,隣

接する勢多郡 日輪寺村では,自作農24戸が交代で名主をつ とめていた事例 もあ り

,伝

次平家 も農地 の所有状況か ら考 えると平均的な農家であつたと考えられる。 ③ 家財歳時記 武士の家計簿が映画化 され話題を呼んだが,これは,「武士の家計簿「加賀藩御算用 者」の幕末維新J・Hが映画化 されたものである。船津家で も, 3代伝次平24歳 の時 (天保4年 :1833)から始 まる「家財歳時記

Jが

保管 され

,古

くからその存在知 られ, 群馬県蚕糸業協会誌

,横

浜市誌

,近

世村落生活文化史序説 らで紹介 されている。本論 は,これに著述に基づいて寺子屋が営 まれていた船津家の経済的な背景を考えた。 家財歳時記では

,船

津家の31年間 (天保4年 :1633∼元冶元年:1864,但 し安政6 年記録ナシ)の収入支出が記録 されている。家財歳時記が始 まる天保4年

(183)は

, 収入10両 1分

.支

出9両 2分で

,そ

の後

,収

入は徐 々に増加 し

,そ

れに伴い支出 も増 加 している。その後 も収入はさらに増加 し,30年後の文久2年 (1862)には

lm両

2 分に達 し

,支

出 も文久年3年 (1863)にはlllkl両 とな り

,船

津家の家計は,30年間で はぼ10倍になつている。 31年間の収入支出はほぼ均衡 してお り,赤字が発生 した年は,船津家の慶事や不幸, 87

(22)

注 近世村落生活 史序説133頁 より作成 図

2

船津家の収入 と支出 (天4年∼元治元年の32年 間) 家屋等の修理が行われ通常 と異なる状態が発生 した場合である。31年間 トータルでの 収支バ ランスは27両の黒字 となっている。大幅な赤字が発生 した年が 7カ 年あるが , とその事由は以下の通 りである。天保11年, 2代 日長男伊勢参宮 (6両

2分),天

5年 2代目母不幸 (3両

),嘉

4年家の修理 (10両), 嘉永3年 土地購入 (lo両) 3代目子供の病気死亡 (5両 3分

),嘉

5年4代目伝次平の婚礼 (32両2分

),安

政 3年 4代日長女嫁入 り (40両 :銀 1匁700文換算)・

6,万

延元年

,土

蔵修理 (15両1 分1朱

)で

ある。ここで注目されるのは

,婚

礼費用である。4代目当主の婚礼費用は , 増加 しつつある農業収入 (30両

3分)を

上回る額が支出され

,慶

事は家族にとって重 要であったことが伺える。 ④ 船津家の農業収入 船津家の農業収入の詳細な記録は

,弘

化4年以降の記録が残 されている。幕末期の 船津家の農業収入の推移 を整理 したのが表13である。収入 を

,穀

類等 と養蚕関係 に大 別 して計上 した。穀類等 としては

,雑

,採

,竹

,杉

があ り

,養

蚕関係 としては, 糸の し王

,古

,蛹 ,蚕

等の記載が見 られる。農業収入以外の収入を

,収

入差額欄に 記載 した。差額の要因の一部は判明するが,多くは不明である。差額の要因としては , 所有地の売 り払い

,香

,見

舞金

,寺

子屋の謝儀などが考えられる。今後

,詳

細につ いては検討 して参 りたい。先に述べたように当時の群馬県では養蚕により地域が成 り 立っていたが

,船

津家の農業収入の内訳で も一目瞭然である。なお

,な

,万

延元年 の総収入との収入差額が59両とされるが

,安

政6年の横浜港開港以降の前橋生糸市場 相の生糸価格の急騰・“を考慮すると養蚕関係の収入が記録 より多かったのではないか と推測 している。 88 153 一 ■ ム 一 1 文 久 3 文 久 2 文 久 1 万 廷 1 安 取 5 安 政 4 安 政 3 安 政 2 安 政 1 〓 永 6 ■ 永 5 嘉 永 4 嘉 永 3 墓 永 2 嘉 永 1 弘 化 4 弘 化 3 弘 化 2 弘 化 1 天 保 1 3 天 保 1 0 天 保 1 2 天 保 1 1 天 保 1 0 天 保 9 天 保 8 天 保 7 天 保 6 天 保 5 天 保 4

(23)

13

船津家の農業収入 近世 村 落 生活 史庁 説137頁 = 叫 1 可 5︲ 司 8︲ = ︲0︲ 22︲ 33 ︲4 詢 24 22 6 1       1                 1   つ 一   1 一   1   一 ︱   ‘ ‘   ● ‘       一

.螂

御﹁鋼

﹁ ︲

︲襴

州﹁

州 ﹁

︲﹁

側 

  

 54 0

  

.   

3 4 8

¨

2 2       ,   2 2   2 . 3 3 3 2 3 ︲3 ︲0 ” 23 鰤 30 ” 34 22 24 3︲ . 17 34 80 75 2 67

9 7 24 ︲4 20 25 ■ 22 m ︲8 ︲7 ︲7 26 ﹁ 75 63 57 州 ¶ ︲ ﹁ 馴 悧 ﹁ ︲ 340     ︲48 776 4 2 2 8 5 5 8 ︲1 ・ 2 6 ︲3   8 6   4 9 弘イヒ4年 1847 嘉永1年 1848 嘉永2年 1849 嘉永3年 1850 嘉永4年 1851 嘉永5年 1852 嘉・176年 1853 嘉永7年 185, 安政2年 1855 安政3年 1856 安政4年 1857 安政5年 1858 万延1年 1860 文久1年 1861 文久2年 1862 文久3年 1863 寺子屋師匠はボランテイア 「五公五民]な ど江戸時代の農民は

,重

税に 苦 しんだと言われているが

,船

津家の年貢 を 紹介する。船津家では

,原

之郷の他 に不動村, 川端村に農地を有 してお り村 ごとの年貢額が 記録 されている。年貢は

,夏

,春 ,社

,蚕

積金

,米

拝借

,蚕

積金カリ

,米

,夫

,和

宮 割高等 と細分 して課 されている。表14は 3村の年貢の合計額である。年貢で も例年定 例的に課 される年貢 と

,臨

時的に課 される年貢に大別された。臨時的に徴収分として 注 目されるのは

,文

久1年の和官降嫁 に かかる費用が年貢 として徴収 されている ことである。詳細 な項 目別の年貢額は省 略 したが

,文

久1年の年貢総額の約

25%

が 「和官割高」 として課 されていた。 な お

,総

収入額 に占め る年貢の割合は

5%

程度で

,現

在 の負担 (国税

,地

方税

,社

会保険料

)か

ら比較す る と過か に低率で あつた。 近世村落生活文化史序説では

,家

財歳 時記 を分析 し当時の船津家の生活の様子 を衣食住

,余

lFx,家族関係 の方面か ら述 表

14

船津家の年貢 近世村落′に活史序説139頁に 表

15

文久2年 , 3年書籍等購入費用 r166rr'5OOa=fiq

表 4  江戸時代の群馬県内の寺子屋数 区 分 調査票集計結果 詭 峠 日本教育 史 郷村数 市町村誌 総 数 江 戸 明 治 総 数 江 戸 明 治 勢多郡 161 4 1 0 IB,村 12報 告書 2 上川渕村 16報 告書5 鬼●町 10報 告書 5 ‑/宮 町 16報 告書 6 九 卜九村 8、 報告書 5 高山村 7報 告書 2 尾島町 30報 告書 2 人間々町 13報 告書 2 小泉町 11報 告書 1群馬郡21023810多野郡71762■楽郡150831確 氷 郡7731010070吾妻
表 5  寺子屋で使用 されていた教科書 郷村名 師匠名 職 名 教科書名 所 在 勢多郡 原之郷村 小見勇造 名 主 読 今川 女今川 実語教 庭 訓往 来、商売往来 四書 1巻 150頁書 平仮名 名頭 文字 村名尽 国尽 本朝千字文(自筆) 算 ′ ヽ 筆 見― 相場割 脚帥 中澤愛― 名 主 読 Jヽ 学 大学、中庸 論語 孟子、詩経 薔記 文選 史記 1巻 297頁書 一算 平覆露:言 手尽 村名 国尽 商売往来 和漠朗詠 人算 見― 碓氷郡 五料村 猿谷弥兵衛 百 姓 読 実語 今川 庭副 3巻
表 6  山田部内の寺子屋
表 13  船津家の農業収入 近世 村 落 生活 史庁 説 137頁 =叫 1可5 ︲司8︲=︲0 ︲22︲33︲4詢242261   1        1 つ一 1一 1 一︱  ●   一判鍋螂螂瑯嚇.螂榔御﹁鋼﹁ ︲︲襴州﹁州 ﹁側   ︲﹁ 54 0  .   3 4 8¨22   ︐ 22 2.33323︲3︲023鰤303422243︲.17348075267側︱引側訓﹁︲︲﹁︲硼︲200︲200抑09724︲42025■22m︲8︲7︲726﹁756357州¶︲﹁馴悧﹁︲340  ︲48776

参照

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疎開先所在地 勢多郡大胡町 群馬郡総社村 群馬郡総社村 勢多郡黒保根村 勢多郡富士見村 群馬郡古巻村 群馬郡古巻村 勢多郡北橘村

第12条第3項 事業者は、その産業廃棄物の運搬又は処分を他 人に委託する場合には、その運搬については・ ・ ・

神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな