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非常服としてのモンペの〈流行〉 : 第二次世界大戦期の新聞や婦人雑誌の記事に着目して

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ART RESEARCH vol.19 非常服としてのモンペの ︿流行﹀

第二次世界大戦期の新聞や婦人雑誌の記事に着目して

はじめに  1988(昭和63)年、京都府向日市の市議会本 会議にて、1人の女性議員がモンペ姿で登壇したと ころ、議会の品位を保てないと反発を受け、議会 が中断された1)。この事件を受け、71日の『朝日 新聞』に掲載された「もんぺ論争」という記事には、 「若い女性に流行しているボディーコンシャスの服と は正反対の実用本位のファッションだが、そのゆっ たりとした着ごこち、うごきやすさは、特に年配者に は手放しがたい2)」とある。同記事には、巣鴨の 商店街の衣料品店を取材し、田舎くさいからと店 舗の奥に置いていた「もんぺスラックス3)」が、月に 200本から300本売れていることが記載されている。 80年代後半にはモンペは、野暮ったく、田舎くさい ものであるが、ゆったりとした着心地が手放しがた いという消極的理由で着用されるものとなっていた。 現在の若い世代ではモンペを知らない人も多いが、 モンペを知る人々の間では今もこのような印象が共 有されているのではないだろうか。  しかし、モンペは昔から常に野暮ったく田舎くさ い衣服であったのだろうか。昭和・戦前期の『アサ ヒグラフ』や『写真週報』などのグラフ誌には都会 でモンペを着用している若い女性たちの写真が数 多く残っている。井上(2001)は、戦時中「婦人 標準服」が制定され、政府は婦人標準服を普及さ せたかったことを明らかとした。しかし、実際には モンペが広く着用されたことを指摘している4)  1969(昭和44)年に暮しの手帖社が発刊した『戦

非常服としてのモンペの〈流行〉

―第二次世界大戦期の新聞や婦人雑誌の記事に着目して―

枝木 妙子(立命館大学先端総合学術研究科/日本学術振興会特別研究員〈DC2〉) E-mail  [email protected] 要旨  現在、古風な労働着とされているモンペは、本来地方の野良着であったが、第二次大戦中に「非常 服」として都市部を含め全国で普及した。それは国策による「婦人標準服」をはるかに上回っていた。 本稿は、モンペの普及を一種の「流行」ととらえ、出版メディアの分析を通してその普及過程を明らか にした。その中で、形状の洋装化と単純な柄への改良によって標準化していくと同時に、華美な柄や 立体的な形状など先端的「ファッション」としての逸脱もあった。 abstract

MONPE style pants are considered to be Japanese women s old-fashioned work wear. They were originally working pants in rural areas. It was widespread in the entire country including urban areas as "emergency clothes" during World War II. Their popularity far exceeded the "women's standard clothes", designated by the military government. This paper recognized the spread of MONPE as a kind of "fashion" and investigated its diffusion process through examining some major published media. The result finds that MONPE were standardized as work wear by westernizing shape and simplifying patterns. At the same time, however, there was deviation as an advanced "fashion" such as ornate patterns and three-dimensional shapes.

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Th e f as hio n o f M O N P E a s e m er ge nc y c lo th es : A s tu d y o f n ew sp ap er s a nd w om en s m ag az in es d ur in g W or ld W ar I I 争中の暮しの記録』には、モンペを積極的に着用 したエピソードが2編載せられている5)。また戦後、 自ら考案したモンペスーツを着用し続けたデザイナー の大塚末子は、自身のエッセイの中でこう語っている。 「今思えば、モンペは当時のファッションでした。形 のよいのはモードのように騒がれて、あちらこちらに 回されボロボロになってから返されてくる6)」。これら のことからモンペは戦時中においては消極的理由の みで着用されていたわけではなく、二つの意味で 「流行」していたと考えられるのではないだろうか。 一つは量的に数多く「普及」していたという意味で あり、もう一つは「ファッション」として受け入れられ ていたという意味である。ここで、モンペの普及は 国家権力の介在によるものではないという井上の指 摘は重要である。そこで当時の新聞、雑誌などの 記事を読解し、モンペの普及の過程を明らかにし、 戦時中モンペがどのように流行していったのか、ま たそれは当時の人々にとってどのような意味を有し ていたのかを分析していく。  研究方法としては、主要な出版メディアの言説 分析を用いる。本稿では当時膨大に出版されてい たメディアの中から、読者層の広かった大手新聞 の『朝日新聞』と『読売新聞』、そして婦人雑誌 である『婦人画報』に分析対象を絞り込んだ。四 大婦人雑誌の中から『婦人画報』を選択する理由 は、富裕層のファッションとライフスタイルをテーマと する雑誌であり、モンペの着用とは相容れない志向 を提示する比較対象と考えられるからである。  1節では、まず昭和期に先立って大正期の生活 改善運動によってモンペが農村の「野良着」として 普及していったこと、そして農村の人々の活動的衣 服という印象が、都市の人々に定着していったこと を明らかにする。2節では、戦時の防空訓練を契 機に、モンペが「非常服」として都市の人々に普 及していったことを明らかにする。3節では、都市 に受け入れられたモンペがいくつかの理由から改良 された結果、洋装の「ズボン」に近づいていったこ とを明らかにする。それと共に柄に注目し、戦時中 に多く採用された縞や絣そして無地は、政局による 図柄の単純化という意味だけでなく、むしろ洋装化 という意味が込められていたことを明らかにする。 1 大正期における野良着としての   モンペの普及とそのイメージ生成  『服飾辞典』によるとモンペは、農村で用いられ る労働着の袴の一種とされる7)。寒冷地を中心に、 タチツケ、モンペ、カルサン等の呼び方があり、そ の起源も形も様々である。宮本(1941)は、各地 方でモンペの名称は160種以上あることを明らかに した。そして宮本はモンペを形状によって3種類に 類別した。一つ目が「タチツケ系統」、二つ目が「モ ンペ系統」、三つ目が「カルサン系統」である。「タ チツケ系統」は、膝から下が全て一幅布で作られ ていて、下の方が細くなるよう仕立て、着物をたく し上げ、裾を紐で結ぶかコハゼ掛けなどにして、 労働に対応する形としている。「モンペ系統」は、 襠(まち)が発達しているのが特徴で、膝下がゆる やかなため袴と同様に、着物をあまりたくし上げる 必要がなく、主として防寒のために家の中で着用し たものである。「カルサン系統」は、裾(すそ)に 別布を輪にしてつけ、膝上に襞(ひだ)があるもの である。2通りのはき方があり、袴のようにはく方法と、 裾継(裾に別に付けた輪布)を膝の下まで上げて、 その上に脚絆を付ける方法である。すなわち普段 は裾継を下げてはき、労働を行うときには脚絆をつ けた8)  以上のように、モンペは庶民の生活の場で様々 に工夫されながら着用されていた。この状況に変 化が起こったのは大正期である。モンペは大正期 に行われた生活改善運動の一環として、1931年に 『農村生活改善指針』が示されたことにより農村の 作業着として提唱された。生活改善運動は文部省 の外郭団体である生活改善同盟会など様々な団体 によって生活習慣全般の改善を目的に行われた活 動である。尾崎(2016)は、女性がモンペをはか ない地域では、服の形だけでなく生地もそろえて「制 服」として一斉に着用させることによって普及を図っ たことを明らかにした。そして「制服」はメディアで 報じられ、全国で広がったヤマバカマ型下衣が女 性の勤労の象徴となったことを指摘した。また、 1937(昭和12)年以降、地方によって異なっていた 「カルサン」や「ユキバカマ」、「モンペイ」という

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第二次世界大戦期の新聞や婦人雑誌の記事に着目して

名称が「モンペ」に統合され普及したことを明らか としている9)  一方都市部では、農村の女性が繰り返し報道さ れることによって、モンペが農村で働く女性の象徴 の一つとして認識されるようになっていった。『朝 日新聞』では、1923(大正12)年に「モンペ」が 新聞で報道10)されて以降、断続的に農村事情に ついて報道している11)  1925(大正14)年に、『朝日新聞』は「農村ス ケツチ」という記事を6月から10月までの間に約50 回にわたって連載している12)。モンペ姿の女性が取 り上げられている記事の見出しをいくつか挙げると 「油絵の様なリンゴとサクランボ―色づき加減を見分 けるモンペイ姿の娘さん13)」や「夕の食卓に上るイ ナゴの料理―畔道を終日漕ぎ歩くモンペイの女14) や「モンペイ姿で女の稲かり―六寸重箱の弁当ペ ロリと秋田米の取入れ15)」などがある。「農村スケ ツチ」というコーナー名からも分かるように、これら の記事は四季折々の農村生活をおくる人々を写真と ともに報じている。これらの写真は11月25日から上 野で行われた全国副業展覧会で展示され16)、人々 でにぎわっている様子がうかがえる17)  1933(昭和8)年9月23日『朝日新聞』には、家 庭欄に「制服はモンペイ姿―おらが村の『花嫁学 校』」という記事がある。山形県農会の農村女学 校の活動が高い実績を収めたので、農林省が撮 影班を送り全国に宣伝したと報じている18)  このほかに、モンペ姿の女性は絵葉書にも見るこ とができる。当時の絵葉書は図像としてニュースを 伝えることができるメディアとして、人々に人気があっ た19)。絵葉書は土産物であることからも、モンペの 女性が好意的にとらえられていたことは間違いない。 図1は「山形風俗モンペ姿」という名前が付けられ、 8枚1組で発行された絵葉書の1枚である。1930 (昭和5)年の「奥羽六県聯合共進会」記念のスタ ンプが押してあることから、この前後に作られた絵 葉書だと考えられる。これらの絵葉書の多くは庭や 戸口など生活空間で撮影され、箒や桶などを手に 持っている。特筆すべきはスタジオで撮影された写 真にもかかわらず、バケツを手に持っているものが あることである。つまり、これらの絵葉書は、モンペ を着用し労働しているという図像を購入者のために 作り上げているということである。「勤労」するモン ペ姿の女性像は、作られて消費されるほど流布し ていたことが分かる。以上のことから、メディアによっ て、都市民は農村の象徴としてのモンペを認識して いったことが分かる。  1937(昭和12)年4月6日には、モンペの新しい デザインをデザイナーの那智瀧子が考案したという 記事がある20)。この記事には、那智がデザインする 際にインスピレーションを受けた体験が書かれており、 女学生時代に伊豆に旅行した際、地元の子供に崖 の上の椿を取ってもらったとある。その際に子供の パッチリした目と引き締まった顔に感激し、その子供 に着せてみたいと思ってモンペをデザインしたとあ る。ここから、農村の人々は活動的だという印象が 都市民についていたことが伺える。また、モンペは 労働に適した労働着として認識されていたことが分 かる。  本節で取り上げた新聞記事は、生活改善運動 の影響を受けていると考えられる。久井(2005)は、 戦前の生活改善運動で主要な役割を担った生活 図1 モンペ姿の女性の絵葉書

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改善同盟会と生活改善中央会の機関誌である『生 活改善』の記事に20年代末以降、農村を主題とす る記事が見られるようになることを指摘した。そして、 それらの記事が、〈都市〉の「他者」たる〈農村〉に 生活改善の範を見出し、〈都市〉の生活問題を際 立たせるために活用されていたことを指摘した21)  この様な背景からも、都市部の人々は、農村の 人々をひとまとまりの他者として区別した上で、活動 的な農村女性を好ましく見ており、モンペを農村の 女性の「勤労」の象徴と捉えていたと考えられる。  この時点では、都市の女性が自らモンペをはくこ とを想定しているとは考えられない。次節では、都市 の女性がモンペをはくことになった契機を説明する。 2 戦時下における都市の非常服としての   モンペの普及  前節では、モンペが農村で普及していき、都市 においては実際の農村の実態とは別に農村女性の 「勤労」の象徴の一つとして機能していたことを明 らかにした。本項では、農村のものと考えられてい たモンペが都市で普及した要因を明らかにしていく。  モンペをめぐる状況は、昭和に入り戦時色が強ま る中で著しく変化していく。その契機とみなせるの が、1937(昭和12)年9月15-19日に行われた関東 防空大演習である。東京府、神奈川、千葉、埼玉、 栃木、群馬、茨城6県並びに静岡県で行われ、 軍部のみの演習だけでなく、軍民共同演習が行わ れることが報じられている22)。これに先立ち、向こう 三軒両隣で家庭防火群が編成され、各家庭の防火 責任者は火災発生の際には直ちに現場に急行し、 防火に努めることが求められることとなった23)。これ により女性の防火訓練への参加が求められ、都市 部の女性はこれまで必要とされていなかった迅速な 作業が初めて求められた。しかし実際は、新聞の 読者投稿に中野付近で行われた訓練にバケツを持っ て行ったが、だれも来なかったという投書24)があるな ど円滑に訓練が行われなかった地域もあった。9月 10日に銀座8丁目で行われた焼夷弾防火訓練を報 道した記事25)には写真が掲載されているが、この 時点ではまだ着物に割烹着を着用して対応している ようにうかがえる。  『朝日新聞』では9月11日より「防空は家庭から」 という特集が6回にわたって行われた。その4回目 に着物では非常時に十分な活動ができないため、 モンペが理想的な服装である26)と紹介されているこ とは重要である。すなわち、都市の女性は初めて 野外での激しい運動にさらされ、十分に動くことが できる服装をもちあわせていなかった。そのため「非 常服」という名称が使われるようになり、運動に適 した衣服が求められるようになった。  さらに1937(昭和12)年10月18日からは、「非常 服めぐり」という連載を7回にわたり行っている27) この記事は活動が盛んであった様々な婦人会を取 材し、これらの婦人会が種々の活動にどのような服 装が適すると推奨していたのかを記事にしている(表 1)。この連載では、8団体中5団体がモンペ様のも のを非常服として推奨していたことが分かる。ここで 挙げられている非常服は色や形が指定されており、 「制服」としての側面が強い。そのために団体ごと に特色や所属している人々の好みが反映されている。 特に7回目の連載で取り上げられている東京市女子 連合会青年団の制服は、白の外被にヒトラー型の 帽子を提案している。この記事の中では、「はじめ Th e f as hio n o f M O N P E a s e m er ge nc y c lo th es : A s tu d y o f n ew sp ap er s a nd w om en s m ag az in es d ur in g W or ld W ar I I 表1 非常服めぐり記事一覧 発行日 「非常服巡り」見出し 取材先 モンペ型 概要 1937年10月18日 1 銃後の固め、愛国婦人会の制服 愛国婦人会 ○ 国防色の上っ張りとモンペ式のズボン 1937年10月19日 2 迷彩  緩急模様 日満帝国婦人会の考案 日満帝国婦人会 ○ 上衣は襟の詰まった事務服で下が同色のモンペ 1937年10月20日 3 放水火の 義勇服 連合女子青年団で採用 連合女子青年団 ○ ワンピース型と、ツーピース型 1937年10月21日 4 農村向き労働服 被服協会の試作品 被服協会 ○ 国防色の上衣とモンペ 1937年10月22日 5 われもわれもと、米沢モンペ丸山女史推賞の働き着 福祉活動家・丸山千代 ○ 丸山千代考案のモンペ 1937年10月23日 6 男仕立ての洋装 スカートに研究の余地 板橋区長崎東町女子防護団第二分団 スカートに背広式 1937年10月25日 7 白の外被にヒトラー帽江戸ッ子の娘さん向きに 東京市女子連合会青年団 白の外被にヒトラー型の帽子 1937年10月26日 8 あっぱれ女子軍姿 小樽市の北海製罐の女工 シャツとズボン

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第二次世界大戦期の新聞や婦人雑誌の記事に着目して

は割烹着を着ていたが何となくきちんとしないためこ の制服にしたとのこと。国防色でないのは江戸っ子 の娘は白の方が性に合い、モンペと上衣では咄嗟 に着るのに手間がかかる、また東京娘の気に入りそ うにもないので、下は学校時代の袴なりスカートを用 いすぐ上に着られる外被にしてみました28)」とある。 このように活動性より見た目を重視した非常服を提 案した団体もあった。  1941年3月標準服の制定が本格的に開始された が、この時勝手に普及し始めてしまったモンペをど うやって食い止めるかという議論から始まったことを 井上は指摘している29)。実際この時点では、非常 服の必要性は強くとかれているが、その形はメディ アも決めかねており、モンペ様のものが多く挙げら れているが、完全に統一されているわけではない。  1937(昭和12)年以降モンペは、農村の労働着 ではなく都市の非常服として急速に受け入れられて いった。1938(昭和13)年にはモンペの女性が活 躍した旨が報道されるようになる30)1938(昭和 13)年11月19日の『朝日新聞』「現代婦人の服装 百態」には「和服の上でもすぐにまとへるといふの で、帝都の女性にもお馴染になった所謂モンペ31) とモンペが紹介されている。この記事からは、都会 人は好まないとしながらも、非常時の服装としてす でにモンペ姿が定着し始めていると伝えていること からも、やはり見た目は重要視されていたことがわ かる。  また、地方の富裕層を対象とした通信販売を行っ ていた三越百貨店のパンフレットの中にも、モンペ 様の非常服が販売されているのを確認することがで きた。これらのパンフレットは使用後処分されてしま うため、閲覧することができたのは1938年10月号 のみであるが、本号には「モンペイ袴」として三越 が改良を加えたモンペが販売されている32)。当時 の百貨店の通信販売は、都市の流行を敏感に反 映しようとしていた33)ことからも、都市で非常服が 受け入れられていたと考えられる。  これらのことは、着物より運動性の高い衣服が都 市の人々に求められ、「非常服」という新しいドレス コードが受け入れられていった結果モンペが普及し たことを示している。次節ではモンペが、都市民に よってどのように改良されていったのかを明らかにする。 3 モンペの洋装化における機能性と   ファッション性 3.1 形状  前節では、モンペが都市民に非常服として普及 したことを明らかにした。確かに非常服とされたモ ンペは、足を広げてもはだけないため、着物より運 動性が高いことは明らかである。その後モンペは、 使用目的に合わせて徐々にその形態を変化させて いくことになった。本項では、新聞や雑誌に掲載さ れたモンペの型紙図を検討し、モンペの形の変化 を明らかにする。  新聞紙面にモンペの作り方が掲載された初期の 例として1937(昭和12)年9月21日の『読売新聞』 が挙げられる。この記事は、空襲への備えに活動 しやすく肌が見えない服装として、モンペの作り方 が掲載されている34)927日には、『朝日新聞』 でも、モンペの作り方が掲載されている35)。この記 事は、非常服として国防服やボタンを留めるとズボ ンに変えられるスカートが紹介されると共に、モンペ が緊急の場合に役立つとしてモンペの作り方を掲載 している。両記事に掲載されているモンペは、襠 が大きくついた作り方を掲載している(図2)。この 図2 直線を使用した襠付きのモンペ 『朝日新聞東京版』1937年9月27日朝刊「和風と洋式のもんぺ 非常服」より引用

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Th e f as hio n o f M O N P E a s e m er ge nc y c lo th es : A s tu d y o f n ew sp ap er s a nd w om en s m ag az in es d ur in g W or ld W ar I I モンペの形状は、宮本36)が分類したところの「モン ペ系統」である。つまり、本来であれば家事や防 寒のために着用するためのものであり、モンペの中 では運動性の低い形状のものである。  翌1938(昭和13)年8月の『読売新聞』に、防 空演習の日までにモンペを用意しておくようにとの注 意を受けたという質問への回答に、モンペの作り方 が掲載されている37)。この記事では、前年のモンペ に比べて工夫が凝らされている。一つ目が、襠を 小さくしスマートなシルエットにすること、二つ目が腰 の部分で縛る紐を袴のように4本の紐で前後に結ぶ のではなく、脇に2本の紐をつけることで一か所の み紐を結べば良いようになっていることである。この モンペは、襠があることによって股下で布がだぶつ くことを防ぎ、スマートな形になっている。  1940(昭和15)年1月の『朝日新聞』では、民 俗学研究者の今和次郎が従来より股の位置を少し 高めに取ったモンペを提案している38)。ここでは、 股位置を上げることによって運動性を上げている。  1941(昭和16)年8月には、『読売新聞』に「窮 屈で不便を感じるモンペを直す」という記事が掲載 される39)。この記事では、手持ちのモンペの股下 が短くて足が開かない人や股上がつれて腰の屈伸 が窮屈な人が多いようだとあり、これらの問題を直 すためには、後ろに襞を取り、襠の切れ目を30セン チほど上げるとよいと書かれている。  ここまで、モンペの図面が掲載されていた記事を 確認した。これらの記事では、襠がついているた めに股下がだぶつく点、次に股下の位置が低いた めに足が開かない点という機能性の問題に注目して いることが共通している。そしてこの問題を改善す るために股下の襠を減らし、股上の位置を上げるこ とにより運動性を上昇させている。ここで注目すべ きは、あくまでも和服で用いられる直線裁ちを用い て工夫されていることである。  宮野(2016)は、柴田学園創設者の柴田やす が考案した通称「柴田式モンペ」の構造を検討し ている。この「柴田式モンペ」は1940(昭和15) 年11月に特許を取得し、青森県弘前の女性が広く 着用した40)。宮野(2016)の図を見ると、柴田式 モンペは洋服を裁つときに用いられる曲線を利用し、 襠をなくすことによって股上を上げている。そして、 襞を多くとっていることが特徴である。  1941(昭和16)年4月には、『婦人画報』におい て初のモンペ特集が組まれる41)。ここでは、「最近 働き着の一つとして都会に於いても、モンペが推奨 されている」とあり、和洋女子大学の藤田とらが、 都会の人の為に改良したとされるモンペが2種類 紹介されている。一つは室内で家事をする場合の もの、二つ目は激しい労働をする場合に用いるもの である。室内用のものは、襞を裾口までとり、後ろ も中央に二重に襞を作っている。戸外で用いるもの は襠をほとんどとらず、膝下で襞を取って脚絆を付 けることとある。このように襠が小さくなるにつれて、 襞がとられるようになっていく。これは、襠がなくなっ たために、しゃがんだ時にひきつれるのを防止する という機能のためだけに付けられているわけではない。 臀部のラインが露出しないことに配慮しつつも、「美 しい線を出す」ためというファッション性を重視して いることに注目したい。  1943(昭和18)年1月の『婦人画報』には、「決 戦衣服への切替え技術」という記事が掲載され、 「防空日のために、又勤労奉仕の日のために特にモ ンペやズボンをはくわけでなく42)」日常のきものになっ たとある。ここでは、活動着と書いてあり、モンペと 断言されてないが、和服を再更生するなど明らか にモンペが意識されている。ここであげられている 図3 曲線を利用したズボン風のモンペ 『読売新聞』1943年3月16日朝刊「ズボン型のモンペ」より引用

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下衣は、裾にゴムが通されている。『戦争中の暮し の記録』の中でも、「少しでも目立たせたいという 心理から、お互に工夫をこらしたが、その一つが、 もんぺの裾にゴムを通す工夫である43)」とある。  当初普及したモンペは運動に不向きだったため に、変化が加えられていった。これは襠を小型化し、 股上を上げ、最終的に曲線を使用し布を裁ちズボ ンに近い形へ変化(図3)させることにより機能性を 高めるだけではなかった。臀部のラインを隠すため に襞をよせたり、逆に目立たせるためにゴムを通す 事例など、結果として機能性を高めてはいるものの、 ファッション性を重視した変更も行われていた。 3.2 柄  前項までは、モンペが都市に普及していった過 程を追い、その形が徐々にズボンの様に変化していっ たことを明らかにした。本項では形ではなく柄に注 目し、柄の選択がどのような意味を持っていたのか を考察する。  『朝日新聞』では、1939(昭和14)年6月28日か ら7月3日にかけて、今和次郎、洋画家の仲田菊 代、日本標準色協会(現日本色彩研究所)を創立 した和田三造による鼎談が5回にわたって掲載さ れ、当時の風俗について語っている44)1回目は色 彩について語られ、「赤と黄、黄と黒、緑と赤と云っ た工合に、支那趣味特有な強烈な色彩の対立をもっ て表れて来ている45)」と和田が述べている。2回目 は柄について語られ、日本古来の図柄が多くなり、 柄の大きさも小さくなっているとある。具体的には、 和田は「矢絣」、「マンジ菊」、「鼈甲模様」を挙げ、 仲田は「折鶴」「梅鉢」を挙げている46)  1940(昭和15)年1月号の『婦人画報』では、数 寄屋建築を近代化した建築家である吉田五十八 が小紋について寄稿している。ここでは、「最近、 この小紋風のきものが、近代人の気持ちを刺激して、 多くの人が着るようになってきた。これは、強すぎる 色彩や大き過ぎる模様に飽きてきた半面、洋服の 影響からくるものと考えてよい47)」とある。ここでは、 小さく無地に近い小紋の流行を洋服の影響としてい る。『婦人画報』がこの寄稿を掲載していることから も、「小紋」は流行現象ととらえられるほど普及して いたと考えられる。  1940(昭和15)年5月号の『婦人画報』には、「こ の夏の着物の傾向」が特集される48)。ここでは染 物から織物に流行が変化し、縫取お召し、縮緬お 召し、絹薩摩など変わったものがみられるようになっ たとある。柄は舶来模様が忘れ去られ、鮫小紋の ような古い柄の上に単純化された花模様等があしら われたもの等が挙げられている。このように大柄な 西洋風の絵柄が敬遠され、細かな柄が好まれるよ うになるが、まだ花柄や吉祥模様など具体的な事 象がデザインされた着物が流行していたことが分か る。  その後、大きな変化が起きる。1940(昭和15) 年7月7日に「奢侈品等製造販売規則(7.7禁令)」 が施行されたのである。同日より、絵羽模様の製品、 綴織の帯、金銀糸漆糸、ベルベット、ビロード、絹レー スの製造が禁止された。その後、10月7日からはこ れらの製品の販売も禁止された。「7.7禁令」は当 時の人々にとっても重大な問題であったようであり、 施行後の女性の服装調査の結果が1941(昭和16) 年9月号の『婦人画報』に掲載されている49)。誌面 上で回答を募集し、読者289人がアンケートに答え ている。回答者の平均年齢は22.5歳であり、女学 校卒業以上の未婚の女性が大半を占めている。 女学校を卒業していることからも、中流階級以上で あったと考えられる。本アンケートの結果では図柄 の好みについて回答している部分があり、大柄より 小柄のものを好む傾向がみられる。加えて、絣や 縞物など具体的な事象ではない柄が好まれている ことが分かる。  1940(昭和15)年12月に生活社から、『婦人の 生活』というシリーズが刊行する。生活改善を目的 とした双書として全10巻が刊行予定であったが、 国会図書館に現存する資料で確認できるものは、 4冊までであった。このシリーズは『婦人画報』に 広告が掲載されていることからも、読者層を共有し ていたと考えられる。内容は衣服や美容、住居に ついての作家や画家、評論家の寄稿である。これ らの寄稿原稿の衣服を取り扱ったものには、着物を 取り扱っているものと洋服を取り扱っているものが混 同している。特に1、2冊目に着物を対象としている ものが多い。本稿では、この中で着物の柄につい

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Th e f as hio n o f M O N P E a s e m er ge nc y c lo th es : A s tu d y o f n ew sp ap er s a nd w om en s m ag az in es d ur in g W or ld W ar I I て書かれた部分を抽出した。  藤原歌劇団の育成に尽力した藤原あきは、「7.7 禁令」後の着物の柄に小紋や縞お召、紬や絣を 提案している。特に唐桟縞風のお召しは、もともと 舶来物のため、江戸っ子風な粋だけでなく、洋装 にも調和すると書いている50)。森鴎外の次女であり 随筆家の古堀杏奴は「私の着物」の中で、日本の 風俗の中でモンペが一番好きだと記し、絣の着物 に赤い帯を締めて、モンペをはいた姿は美しいとす すめている。その後、パリで好まれる色合わせを 説明し、日本でもこのような取り合わせができるとよ いと書いている51)。画家の佐野繁次郎も新体制の 柄は十絣と大名縞が良いと書いている。ここで佐 野が挙げている大名縞は、原稿末にイラストが掲 載されており、現在もスーツに使用されるペンシルス トライプのような細い縞を勧めている52)。洋行してい た佐野は洋装的感覚でこの縞をすすめているので はないかと考えられる。  1930(昭和5)年に発表された哲学者・九鬼周造 『「いき」の構造 』では、粋な柄として縞模様が挙げ られている53)。このことから、元来縞模様や紺色は 粋なものとして捉えられていたことは間違いない。し かし、絣模様や縞模様の推奨理由として、日本古 来の模様であることが挙げられると同時に、洋服的 な感性を持って縞や絣をすすめている人物がいたこ とが分かる。  今和次郎は、「近年、将来の服装を研究するよ うな会で、その参考品として示される婦人用の織物 は大部分が縞物か、絣、あるいは無地である54) とし、1942(昭和17)年12月22日の『読売新聞』 では、「農村生活の都会移入(上)」の中で、色が まちまちで困れば黒か紺に染めればよい55)と述べ るようになる。  この発言は、物資や職人不足、贅沢禁止令が 出た戦時体制下の発言である。しかしここで今和 次郎は色彩について言及し、黒や紺を勧めている。 無地が推奨されるようになったことで色が重要になっ たためだと考えられる。紺は前述の九鬼の記述から も分かるとおり、日本で好まれた色であり、見た目を 意識していることが伺える。 結論  ここまでモンペがどのような印象を持って都市の人々 に受け入れられてきたのかを明らかにしてきた。1節 では、モンペが農村から普及していき、農村の女 性とモンペが強く結びつき、都市部の人によって「勤 労」の象徴としてモンペが存在していたことを明ら かにした。2節では、防空訓練を契機に都市にモ ンペが普及したことを明らかにした。3節では、モン ペが都市部に受け入れられるにしたがって改良され ていき、限りなくズボンに近い形に変化していったこ とを明らかにした。また徐々に柄が単純化していき、 一見日本の伝統的な柄を推奨しているように見える が、実際は洋装の影響が伺えることを明らかにし た。しかしモンペは、新しい反物から作られるだけ でなく、手持ちの着物を解いて作られることもあり、 実際のモンペがどのような柄ゆきで作られたかまで は、明らかにすることができなかった。これは今後 の課題としたい。  伊藤洋裁研究所の伊藤茂平は1940年11月号 『婦人画報』に「婦人国民服の創案に就いて」と 題しモンペについて以下の様に述べている。「もん ぺの内容と性格は、明らかに洋装のズボンと、日本 の袴との両面を、兼備するものである。その意味 に於て、之以上のものはあり得ない。(中略)都会 で見るもんぺが、美しくないのは、使用する生地の 色彩や、仕立方のせいであって、秋田や山形あた りの、素朴な山野を背景とする、若い娘の労働着と しては、実に健康的な、ローカル美さへ感ずると云 はれている。56)  この文章は、モンペについて当時の人々が抱い ていたイメージをよく表しているものであるといえる。 モンペは、洋装的な効率化を図っているにもかかわ らず「伝統的な」野良着の「勤勉さ」というベー ルが被されていたために多くの人がモンペを選択し たと考えられる。実際、『婦人の生活』シリーズの 中でも、田舎の野良着を美しく女性らしいと書いた ものが存在する57)。また、「モガ」へのネガティブ な印象58)等、洋装化への抵抗がこの時期の女性に まだ残っていたことも一つの要因と考えられる。  『朝日新聞』では、1941年1月秋田で警察の制

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ART RESEARCH vol.19 非常服としてのモンペの ︿流行﹀

第二次世界大戦期の新聞や婦人雑誌の記事に着目して

服としてモンペが採用されたこと59)5月には長野県 松本郵便局の交換嬢の制服が黒か紺のモンペに 決定されたこと60)が報道された。この様にモンペは 1941年以降、非常服としてだけではなく、公式的 な制服にも採用されていく。これはモンペの普及に 体制が追随していったことを示している。  一方1943年6月16日には、大政翼賛会が都市 の婦人の間で、ことさらに華美なモンペを作り高級 な布地のモンペを新調する風潮があるとし、「流行 モンペ」に注意を要請している。また、常会で揃 いのモンペを作るというような申し合わせも禁止され た61)。この様な要請が出た理由として、モンペが 「流行」として「ファッション性」をもっていたことが 背景にあったと考えられる。  このように、機能性を持っていたためにモンペは 普及すると同時に、機能性からの逸脱を誘発する 「ファッション性」を併せ持っていたという意味で「流 行」といえるのである。   〔注釈〕 1) 「金曜ひろば―もんぺ論争」『朝日新聞』1988年 7月1日東京朝刊,p.18 2) 「金曜ひろば―もんぺ論争」『朝日新聞』1988年 7月1日東京朝刊,p.19 3) 洋服地で作られたウエストにゴムを通したモンペ。 4) 井上雅人,『洋服と日本人―国民服というモード』廣 済堂出版,2001年 5) 「佳人薄命」『戦争中の暮しの記録』暮しの手帖社, 1969年,p.137 柄のいい上等の布地でモンペを作れば、上流階級の 奥さんの様な姿になれるのではないかと思い、とって おきの銘仙絣をくずしてモンペを作ったエピソードが 書かれている。 「自家足袋」『戦争中の暮しの記録』暮しの手帖社, 1969年,p.138 洋裁の知識のある人が、製図をしたモンペがアッとい うまに流行し、少しでも目立たせたいという心理から、 互いに工夫をこらしたエピソードが書かれている。 6) 大塚末子,『きものと私』春陽堂書店,1958年 7) 『服飾辞典』文化出版局,1979年,p.897,「もんぺ」 の項目を参照。 8) 宮本勢助,「もんぺ」『婦人画報』446号,東京社, 1941年,ページ記載なし 9) 尾崎(井内)智子「農村生活改善による改良野良 着の普及とモンペ」『東京大学日本史学研究室紀要』 20号,2016年,pp.35-61 10)「東北の「モンペ」」『朝日新聞』1923年10月16日 東京夕刊,p.2 11) 1929年1月9-24日に掲載された「早春の雪国巡礼」 の連載や1935年5月25日-7月3日にかけて掲載された 「村のラッシュ・アワー」の連載など。 12)この連載は1925年6月10日-7月3日の期間で20回の 連載が行われ、その後7月4日-8月7日の間16回は通 し番号が付されず掲載、9月4日からは「実る秋農村 スケツチ」と名前を変え10月3日まで15回の連載が続 く。 13)「農村スケツチ16」『朝日新聞』1925年6月27日東 京夕刊,p.1 14)「実る秋農村スケツチ10」『朝日新聞』1925年9月 19日東京夕刊,p.2 15)「実る秋農村スケツチ16」『朝日新聞』1925年10 月3日東京夕刊,p.1 16)「お国名物を集めて―廿五日から副業展開く」『朝 日新聞』1925年11月23日東京朝刊,p.7 17)「副業展の人気」『朝日新聞』1925年11月26日東 京朝刊,p.2 18)「制服はモンペイ姿―おらが村の『花嫁学校』」『朝 日新聞』1933年9月23日東京朝刊,p.5 19)田邊幹「メディアとしての絵葉書」『新潟県立博物 館研究紀要』3号,2002年,pp.73-83 毛利康秀「絵葉書のメディア論的な予備的分析」『愛 国学院大学人間文化研究紀要』15号,2013年, pp.29-46 等に詳しい。 20)「型を破って2 ―土に働く乙女達へ着せて見たい」 『朝日新聞』1937年4月6日東京夕刊,p.4 21)久井英輔「大正後期・昭和初期の生活改善運動に おける〈都市〉と〈農村〉―事業の対象をめぐる言説 とその変遷を中心に」『東京大学大学院教育学研 究科紀要』44巻,2005年3月,pp.379-389 22)「軍・民一致して非常時の護りへ―関東防空大演 習の発表」『朝日新聞』1937年8月26日東京朝刊, p.10 23)「力強い家庭防火群」『朝日新聞』1937年5月7日 東京朝刊,p.12 24)「女性の聲―主婦の集団訓練」『朝日新聞』1937 年9月9日東京朝刊,p.6 25)「焼夷弾を潜って銀座ッ子の活躍」『朝日新聞』 1937年9月11日東京朝刊,p.10 26)「防空は家庭から4 ―火は30秒で防げ恐るべき焼 夷弾の投下に備う」『朝日新聞』9月15日東京朝刊, p.6 27)「非常服めぐり1-6」『朝日新聞』1937年10月 18-23, 25, 26日東京朝刊 28)「非常服めぐり(7)/白の外被にヒトラー帽 江戸ッ 子の娘さん向きに」『朝日新聞』1937年10月26日東 京朝刊,p.10 29)井上(2001),p.173 30)「女性軍、消火ぶり鮮やか」『朝日新聞』1938年8

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Th e f as hio n o f M O N P E a s e m er ge nc y c lo th es : A s tu d y o f n ew sp ap er s a nd w om en s m ag az in es d ur in g W or ld W ar I I 月7日東京朝刊,p.10,「モンペ姿で活躍新興に防護 団」『朝日新聞』1938年8月17日東京夕刊,p.3,「モ ンペで大活躍6区合同訓練」『朝日新聞』1938年8 月21日東京夕刊,p.2 31)「現代婦人の服装百態2 ―モンペ」『朝日新聞』 1938年11月19日東京夕刊,p.6 32)『三越10月号』158号,1938年10月1日 33)満薗勇『日本型大衆消費社会への胎動―戦前期日 本の通信販売と月賦販売』東京大学出版会,2014 年 34)「スワ、空襲!婦人の「非常服」をぜひ一人に一着」 『読売新聞』1937年9月21日朝刊,p.9 35)「和風と洋式のもんぺ非常服」『朝日新聞』1937 年9月27日東京朝刊,p.10 36)宮本(1941) 37)「モンペの裁ち方縫ひ方をご紹介」『読売新聞』 1938年8月29日朝刊,p.5 38)「衣服改良の試案1 ―パンツ式もんぺ」『朝日新聞』 1940年1月24日東京朝刊,p.5 39)「家庭壁しんぶん―窮屈で不便を感ずるモンペを 直す」『読売新聞』1941年8月19日朝刊,p.4 40)宮野洋子「「柴田式モンペ」の研究(第1報)」『東 北女子大学・東北女子短期大学紀要』55号,2016 年,pp.117-123 41)『婦人画報』446号,東京社,1941年 42)『婦人画報』479号,東京社,1943年 43)「自家足袋」『戦争中の暮しの記録』暮しの手帖社, 1969年,p.138 44)「事変下の風俗 どう変ったか?1-4、終」『朝日新 聞』1939年6月28日-7月1日,7月3日東京朝刊 45)「事変下の風俗 どう変ったか?1 ―興亜の気に燃 える、強く烈しい原色調」『朝日新聞』1939年6月 28日東京朝刊,p.6 46)「事変下の風俗 どう変ったか?2 ―復古趣味へ帰 る細かい柄が目立つ」『朝日新聞』1939年6月29日 東京朝刊,p.6 47)吉田五十八「小紋」『婦人画報』431号,東京社, 1940年,ページ記載なし 48)稻林治郎「この夏のきものの傾向」『婦人画報』 435号,東京社,1940年,ページ記載なし 49)田中俊雄「特集・現代婦人服装生活の調査検討」 『婦人画報』451号,東京社,1941年,pp.145-171 50)藤原あき「小紋と縞ものと」『婦人の生活第一冊』 生活社,1940年,pp.69-71 51)小堀杏奴「私の着物」『婦人の生活第一冊』生活 社,1940年,pp.72-75 52)佐野繁次郎「塗なほすべし生活」『婦人の生活第 一冊』生活社,1940年,pp.86-89 53)九鬼周造『「いき」の構造』岩波書店, 1930年 54)今和次郎「きもの「廻れ右」」『婦人の生活第一冊』 生活社,1940年,pp.107-109 55)「農村生活の都会移入(上)」『読売新聞』1942 年12月22日朝刊,p.4 56)伊藤茂平「婦人国民服の創案に就いて」『婦人画 報』441号,東京社,1940年,pp.145-151 57)中川紀元「野良着」『婦人の生活第一冊』生活社, 1940年,pp.97-99 山本嘉次郎「野良着の美しさ」『切れの工夫』日本 出版,1944年,pp.34-41 58)大丸弘,高橋晴子『日本人のすがたと暮し』,三元社, 2016年,pp.348-350 59)「村と街女性版―警察にもモンペ嬢」『朝日新聞』 1941年1月30日東京朝刊,p.4 60) 「村と街女性版―交換嬢もモンペ姿」『朝日新聞』 1941年5月5日東京朝刊,p.4 61)「無駄なモンペの新調」『朝日新聞』1943年6月16 日東京朝刊,p.3

参照

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