『ゲスタ・グレイオールム』における
騎士道的友愛のスペクタクル
竹 村 は る み
法学院の祝祭文化
16 世紀のイングランドでは、ジェイムズ・バーベッジによるシアター座の建設を皮切りに商業演 劇が隆盛を極める中、知的洗練度にかけては圧倒的な存在感を誇ったアマチュアの演劇集団が存在 した。大学生と法学院生である。オックスフォード大学とケンブリッジ大学、そして今もロンドン に残る四つの法学院―グレイ法学院、インナー・テンプル法学院、リンカーン法学院、ミドル・テ ンプル法学院―で上演された大学劇と法学院劇は、近代初期イングランドにおける演劇の発展の重 要な一翼を担った1)。 クリストファー・マーロウ、トマス・ロッジ、ロバート・グリーン、ジョン・リリーら「大学才 人」と総称されるシェイクスピアのライバル作家の存在は夙に知られるが、錚々たる劇作家を輩出 したことでは、法学院もひけをとらない。ジョン・マーストン、ジョン・フォード、フランシス・ ボーモント、ウィリアム・ダヴェナントと、シェイクスピアの次世代の劇作家には法学院出身者が 目立つ。法律家(判事、裁判官、弁護士)と研修生で構成される法学院は、大学のカレッジ(学寮)と 同じく、教員と学生の共同寄宿生活を基盤とし、クリスマスや復活祭の祝祭時期を中心に学内での 演劇活動が盛んに行われた。主として法学院メンバーによる自作自演の劇が上演されたが、時には プロの劇団が呼ばれて上演することもあった。金払いがよく、芝居好きの法学院生達は、劇団にとっ て上得意だったに違いない。『間違いの喜劇』、『十二夜』、『トロイラスとクレシダ』など、法学院で 上演されたと推測されるシェイクスピア劇は多い。シェイクスピア劇に裁判や討論の場面が頻出し、 冗長な台詞や言葉遊びが多用されているのは、顧客である法学院生の好みを意識したためと考える 批評家も多い2)。 時に、1594 年のキリスト降臨節から翌年の懺悔節にかけて、前年まで続いたペスト蔓延による劇 場閉鎖の憂さを晴らすかのような壮麗な祝祭行事がグレイ法学院によって催された。約 100 年後に 出版された『ゲスタ・グレイオールム』(1688 年)によれば、このクリスマスの余興は一法学院の伝 統行事の枠を超えた大規模なものだった様子が窺える。2 ヶ月以上に及ぶ祝祭は、12 月 12 日に架空 の都市国家グレイ国を統治するパープール王を選出するところから始まる。以下、枢密院の組閣、騎 士団の叙勲式典、顧問官による演説、パープール王を総司令官とするロシアへの遠征、ロンドン市 中で繰り広げられる凱旋記念行進とテムズ川での水上パレード、ロンドン市長邸での祝宴、ホワイ トホールにてエリザベス一世の御前で上演された「プロテウスの仮面劇」へと続く一連の祝祭は、そ の豪華さもさることながら、法学院ならではの怜悧な政治的寓意性において、無視できない重要性 を有している。そもそも、法学院を理想の都市国家として捉え、政治家や法律家の卵である法学院生たちが未来 の予行演習として国家への奉仕のあるべき姿を演じる余興は、グレイ法学院に限らず、法学院の祝 祭行事の中心的な概念を形成している。16 世紀半ばには、祝祭を司る「無礼講の王」こと「クリス マスの王」を選出し、その王のもとに枢密院や騎士団を結成する趣向も定番化していた。グレイ法 学院はパープール王、ミドル・テンプル法学院はアムール王、インナー・テンプル法学院はエンペ ラー、リンカーン法学院はグランジュ王という具合に、それぞれの法学院が独自の〈影の王国〉を 擁する祝祭伝統が確立されていたようだ3)。ただし、法学院の仮想王国が 1590 年代という特異な時 代に現出する時、その政治性が一層先鋭的な性格を帯びることが予想される。歴史家ジョン・ガイ がいみじくも「エリザベス一世の治世の第二期」と呼んだ 1590 年代は、女王の求心力・支配力に明 らかな陰りが見え始め、社会全体に倦怠感や退廃的な風潮が蔓延した時代として関心を集めてい る4)。この時期に法学院がいかなる理想国家を描き出して世に問うたのか、本稿の関心事の一つは この点にある。 さらに、他の法学院劇とは異なるこの祝祭のもう一つの特徴として、それが宮廷だけではなくロ ンドン市民をも巻き込む開放性を有していた点にも着目したい。法学院と言えば、バーリー卿ウィ リアム・セシルやサー・フランシス・ウォルシンガムをはじめとするエリザベス朝の名だたる政治 家を輩出し、宮廷と密接な関係を有することで知られる。奨学金制度を持たない法学院は、大学よ りも学費が高く、構成員は裕福なジェントリー階級によって占められていた。しかしその一方で、16 世紀後半になると、新たに財を蓄えたロンドン商人の子弟も多数入学するなど、従来よりも幅広い 階層のメンバーを抱えるようになっていた5)。 宮廷社会と市民社会の接点という新たな特質は、法学院が位置していた場所の変化にも見ること ができる。ウェストミンスターとシティのちょうど中間に位置する法学院エリアは、もともとは学 究に専念すべく歓楽街から離れた場所として選ばれたが、その勉学的な環境も 16 世紀後半になると ロンドンの肥大化に伴って一変する。テムズ川を挟んだ対岸には芝居小屋と売春宿がひしめくサ ザック地区、金貸し業者や私設劇場が密集するブラックフライアーズ地区も目と鼻の先という具合 である。法学院こそが、宮廷社会と市民社会を抱え込んだエリザベス朝ロンドンの心臓部に位置し ていたと言っても過言ではない。 グレイ法学院の祝祭と言えば、シェイクスピアの『間違いの喜劇』が初めて上演された場として 知られているが、この文学史的事件もまた、宮廷文化と市民文化が物理的、そして文化的に近接し ていたエリザベス朝末期ならではの祝祭空間の在り様を示していると言えよう。以下の稿では、1590 年代半ばの宮廷政治の力学を視野に入れながら、この時期に生じていた祝祭文化の変容の過程につ いて考察したい。
昨日の友は今日の敵―緊迫する英仏関係と派閥抗争の兆し
グレイ法学院の祝祭が行われた 1590 年代半ばは、イングランドがまさに内憂外患に晒された時期 に符号している。1590 年代に入ると、1588 年の華々しいアルマダ戦勝は早くも過去の栄光となり、 スペインが差し向ける「第二のアルマダ」の脅威が現実のものとなりつつあった。その発端は、フ ランスの王位継承をめぐって急変したヨーロッパ情勢にある6)。アルマダの翌年の 1589 年、フランス国王アンリ三世がギーズ派に暗殺された後を受け、イングランド国民になじみのあるナヴァール 王がアンリ四世としてフランスの王位に就く。しかし、新たなプロテスタント君主の登場に危機感 を強めたフェリペ二世は、翌 1590 年にフランスのブルターニュ地方に侵攻する。ただでさえ国内の 宗教抗争に手を焼くアンリは、この火急の事態に、かねてより良好な関係を保ってきたイングラン ドに援軍を求める。かくして、1570 年代末から 1580 年代前半にかけてネーデルラントへの軍事支援 の是非をめぐって対スペイン政策の大きな軌道修正を迫られたイングランド政府は、今度はフラン スへの軍事支援という新たな難題を突きつけられることとなる。汎ヨーロッパ的なプロテスタント 同盟の盟主として軍事支援を行うべきか、それともスペインとの直接対決は極力回避する慎重策を 取るべきか―かつて枢密院を二分した議論が再浮上し、海外派兵には常に消極的な女王の迷いが混 乱に拍車をかける。 この悪夢の再来とも言える状況をさらに悪化させたのは、1580 年代にあっては主戦論者のレス ター伯と慎重派のバーリー卿の間で辛うじて保たれていた権力バランスと協働態勢が、1590 年代の エセックス伯とセシル父子の間では次第に綻びを見せ始め、派閥抗争の兆しが生じつつあったこと だ。近年の修正主義的な歴史学は、1590 年代の派閥主義を従来よりも慎重に捉える傾向がある。エ セックス伯とセシル父子に関しては、かつてはその対立関係のみがクローズアップされる傾向が あったが、バーリー卿ことウィリアム・セシルはもともと早くに父親をなくしたエセックス伯の後 見人であり、エセックス伯の母と再婚したレスター伯と共に代理父的な役割を果たしている7)。例 えば、1591 年にはエセックス伯が熱望したルーアンへの出兵を女王が認めるようにセシルが援護す るなど、少なくとも 1590 年代前半は両者は良好な関係を保っていた8)。 こうした関係に亀裂と言わないまでも微妙な変化が生じたのが、エセックス伯が枢密院入りを果 たした 1593 年である。この年、エセックス伯は友人のフランシス・ベイコンを法務長官の位に就け ようと奔走し、別の候補者を推薦していたバーリー卿と対立する格好になる9)。エセックス伯は、こ の時期それまでの軍人としてのキャリアを軌道修正し、ヨーロッパ外交を専門とする政治家への転 身を模索していた。つまり、軍人エセックス伯と官僚セシル父子の住み分けが解消され、内政とい う同じ土俵で両者が競合し始めたのが 1593 年であり、ベイコンの官職斡旋をめぐる二人の軋轢はそ れを端的に示す事例と言える。そして、自身の外交手腕を女王に認めさせたいエセックス伯が切り 札としたのが、ルーアンで共にスペイン軍と闘った時に築き上げたアンリ四世との信頼関係であり、 義父レスター伯から継承した武闘派プロテスタント主義の政治信条であった。 このように、風雲急を告げるヨーロッパ情勢を睨みつつ、枢密院内部に不穏な空気が流れ始めた 矢先に、エリザベス女王はもちろん、ロンドン市民をも激怒させる衝撃的な報がフランスよりもた らされる10)。自身の宗教的立場よりも国内勢力の宥和を優先したアンリ四世のカトリックへの改宗 である。以下は、アンリ四世を非難するエリザベス一世の書簡の一節である。 嗚呼、悪から善を成そうとして悪を行うのは危険です。あなたがもっと健全なことを思いつく ように、私は今でも願っています。とはいえ、私はあなたを私の祈りの真っ先に挙げることを やめるつもりはありません。ヤコブが授かるみ恵みをエサウの手が奪うことがありませんよう に。あなたは私に友情と忠誠を約束し、私はそれに誠意をもって報いてきましたし、そのこと を悔いることはないでしょう。ただし、それはあくまでもあなたが父を変えなければという条 件のもとでです11)。
エリザベスは、二人の間で育まれた友情に訴えて、アンリの説得を試みる。ただし、その友情は絶 対的な絆ではなく、エリザベス自身が示唆するように、あくまでも条件付きの関係にすぎない。エ リザベスは、アンリが別の父を仰ぐことになれば、すなわちカトリックに改宗すれば、二人の親交 は終わると警告しているからだ。実際、アンリの改宗に失望したエリザベスは、支援継続を主張す るエセックス伯の嘆願を聞き入れず、ほぼ全てのイングランド軍の撤収を命じ、英仏関係は急速に 悪化する。アンリ四世の改宗は、友愛とは何か、という古代以来の哲学的命題を政治レベルで提起 すると共に、政治的友愛、すなわち同盟や派閥の不確実性をいみじくも露呈することになったので ある。
友愛のトポス
ロジャー・アスカムやエラスムスなど、ルネサンス期の人文主義者がこぞって賛美した友愛の美 徳が極度に政治化して示された点に 1590 年代ならではの事情を窺うことができるとすれば、それは グレイ法学院の祝祭を理解する上でも有効な視点を提供する。『ゲスタ・グレイオールム』は、その 多彩な祝祭を通して友愛の主題が貫かれていることで知られている。中でもとりわけ目を惹くのは、 1 月 3 日にグレイ法学院とインナー・テンプル法学院の友好を祝して上演された余興である。以下、 エセックス伯、セシル父子をはじめ、カンバランド伯、シュリューズベリー伯、と錚々たる宮廷貴 族が賓客として列席する中で上演されたこの祝祭のあらましを略述する。 グレイ法学院の招待を受けて来校したインナー・テンプル法学院は、グレイ法学院を表すグレイ 国と同盟関係にあるテンプラリア国に模され、そのテンプラリア国は折しもトルコと戦争中という 設定になっている。祝祭はまず、テンプラリア国よりグレイ国に派遣された大使がパープール王と 共に観劇する「友愛の仮面劇」によって始まる。シーシアスとペイリトオス、アキレスとパトロク ロス、オレステスとピュラデース、スキピオとラエリウスといった、古代ギリシャ・ローマで無二 の親友としてその友愛の美徳を謳われた人物が腕を組んで二人ずつ入場し、ホールにしつらえられ た「友愛の女神」の祭壇に香を供える。ところが、最後に入場したグレイウスとテンプラリウスが 同様に香を供えると、女神はこれを拒絶し、突如生じた煙によって祭壇の炎はかき消される。女神 の怒りは、ニンフが歌う「平和の賛歌」によって鎮められ、グレイウスとテンプラリウスが再び捧 げた香により、「他のどの友人達の組よりも赤々と」(36)炎が燃え盛る12)。この仮面劇が終わると、 パープール王は「グレイ国民とテンプラリア国民の愛と善意」(37)を知らしめるためにテンプラリ ア国の大使とその随行員に「鉄兜の騎士団」の爵位を授与する。トランペットが鳴り響く中登場し た紋章官は、18 条から成る「鉄兜の騎士団」の規約を朗々と読み上げる。 近代初期の友情をめぐる概念は、ギリシャ・ローマ時代より受け継がれた連綿とした思想史を出 発点とするが、中でもテューダー期の人文主義者に大きな影響を与えたのはキケロの『友情につい て』だった。「友愛の仮面劇」においても、神話や伝説上の人物に混じってスキピオとラエリウスが 挙げられているのは、この二人の対話という形式をとったキケロの『友情について』へのオマージュ であろう。キケロが説く友情は、アリストテレスの倫理学を援用しつつも、いくつかの重要な点に おいて友情の概念規定を修正している。中でも最大の修正は、アリストテレスが友愛をあくまでも私徳と位置づけたのに対して、キケロは、友情によって相互に発生する義務を強調することにより、 共同体の構成員を結びつける政治的な美徳としての特性を前景化した点にある13)。キケロにとって、 理想的な友情とは、ラエリウスやスキピオのようにローマ共和国の繁栄のために行動する軍人や政 治家が身につけるべきローマ市民としての美徳である。こうしたキケロの友情論は、裏切りと陰謀 が渦巻く共和政末期のローマという時代、そしてキケロ自身の波乱に富んだ政治人生の中で培われ た哲学であり、単なる理想論にとどまらない実践的性格を有している。キケロは、一方で私利私欲 から解放された魂の結合としての友愛を賛美しつつも、例えば友人を助ける、あるいは友人から受 けた好意には何らかの形で報いる、といった相互扶助、相互義務を強調することによって、結果と しては計算高い功利主義的な友愛をも認めることになった。 そして、この清濁併せ呑んだ感のある、キケロらしい矛盾を内包した友情観こそが、ルネサンス 期イングランドの人文主義者を鼓舞したのである14)。それは、以下に引用する「友愛の仮面劇」の 結末にも浸透している。 そして、大祭司はグレイウスとテンプラリウスが誠の完璧な友人であること、二人がシーシア スとペイトリオス、アキレスとパトロクロス、ピュラデースとオレステス、あるいはスキピオ とラエリウスがかつてそうであったように、友情と友愛の絆と盟約でもって固く一つになった ことを宣言した。(36) 「友情と友愛の絆と盟約」という言葉に注目したい。「盟約(League)」は、「絆(bond)」よりもはる かに政治的、軍事的な意味を帯びており、友愛は、個人と個人の間ではなく、国家や共同体の間で 結ばれる契約として位置づけられる。列挙される人物の中で、「完璧な友人」と謳われるグレイウス とテンプラリウスだけが実は個人ではなく、それぞれグレイ法学院とインナー・テンプル法学院と いう組織を表すことからもわかるように、友愛はもはや完全に私徳からは切り離され、公徳として 再提示されている。 この祝祭が興味深いのは、こうした人文主義的な友愛論が、エリザベス朝イングランドが継承し たもう一つの友愛論とも言える騎士道精神の理念と融合した形で提示されている点である。「友愛の 仮面劇」から「鉄兜の騎士団」の叙勲式典へと続く一連の儀式が、エリザベス朝の一大宮廷祝祭行 事であるガーター騎士団の式典のパロディーであることは明白である。騎士同士の間で結ばれる友 愛の絆こそが、騎士団の結束を支える精神的支柱として機能したことは言うまでもない。チャール ズ二世によってウィンザー常任紋章官に任命されたエライアス・アシュモールは、ガーター騎士団 の故事来歴や典礼を編纂した歴史書の中で、騎士団の役割について以下のように述べている。 最後に、こうした騎士団を設立する四つ目の理由は、君主が戦争や危険な派閥抗争に巻き込ま れた時、(多くの勇敢な騎士達を友愛の組織に束ねる)こうした絆のお蔭で平和を取り戻し、嫉妬を 鎮め、愛情を一つにまとめ、自分たちのためにも、そして国家の安全と防備のためにも、いつ までも続く友情と大きな援助の同盟を築くことができるからだ15)。 ここで注目したいのは、騎士同士の間で結ばれる友愛の絆が、あくまでも「危険な派閥抗争」とは 明確に区別され、対比されている点である。しかし、こと現実の政治世界において、果たして「友
愛組織(Fraternity)」と「派閥(Faction)」はそれほど明確に区別され得るものだろうか。むしろ、 両者の境界線が限りなく曖昧になる点にこそ、1590 年代のきな臭い宮廷政治学を背景とする文学の 特異性を見ることができる。 騎士道的友愛が潜在的に有している派閥主義への可能性は、グレイ法学院の祝祭を考える上でも 示唆に富んだ視点を提起する。グレイ法学院の祝祭の執筆者として同定されているのは、ベイコン やフランシス・デイヴィソンなど、いずれも当時エセックス伯の庇護を受けていた者ばかりである。 その一方で、グレイ法学院はセシル父子の母校でもあり、『ゲスタ・グレイオールム』は祝祭への大 口出資者としてバーリー卿に謝辞を寄せている。こうなると、余興が掲げる友愛の主題とは裏腹に、 何やら不調和の構図が浮かび上がってくるのである。 特に注目したいのは、テンプラリア国の大使達の騎士団への加盟を祝することで、海外諸国との 同盟強化の重要性が説かれ、「鉄兜の騎士団」の国際性が強調されている点である。ガーター騎士団 は、創設当初より多分に軍事的な性質を有しており、他国の君主にガーター騎士団の勲爵位を授与 することは、しばしば両国の同盟関係の担保として利用された。特に、エリザベス一世は、相次ぐ 政治的難局を乗り切るためにガーター騎士団の勲爵位を外交の切り札として用いたことで知られて いる。例えば、フランスのアンリ三世は 1585 年に「外人騎士」としてガーター騎士団入りを許可さ れたが、そこにはスペインとの戦争に備えて英仏の同盟関係を強化したいイングランド側の思惑が あった16)。同様の措置をアンリ四世に対してもとるか否かは、王の即位以来の懸案事項となってい たが、その議論は当然のことながらアンリ四世の改宗によっていったん棚上げされる。それだけに、 「鉄兜の騎士団」の祝祭には親フランス政策を推し進めるエセックス伯とその一派による政治的意図 が反映されていると解釈することは、十分妥当であると思われる。 「鉄兜の騎士団」が他国の騎士の加盟を念頭に置いていることは、規約の第一条で既に明記されて いる。 ひとつ。この栄えある騎士団に所属する騎士は、この国に生まれた臣民であれ、あるいは他国 の生まれであれ、パープール陛下の御身に対しても、その国家に対しても、決して刃を向ける ことなく、あらゆる正義の戦争において陛下をお助けし、その正当なる大義と権利をお守りす ること。特に、かのアマゾン国と良き希望の岬における陛下の主権をお守りすること。(38-39) アマゾン国とは、売春宿が立ち並ぶ赤線地区を指しており、法学院らしい卑猥なユーモアに観客は さぞ湧いたことと推測される。ただし、その笑いに紛れ込ませる形で、「外人騎士」の戦略的重要性 が説かれていることに留意する必要がある。そもそも古代哲学における友情論では、友人の等質性 に重点が置かれ、同じ国の者同士というのが原則になっていた。アリストテレスが理想化する友情 は、ギリシャというポリス内における市民同士の関係であり、市民と奴隷の友情、あるいは男女の 友情が想定されないのと同様に、ギリシャ人と異民族との友情も論外ということになる。では、グ レイ法学院の祝祭が、グレイ国とテンプラリア国の軍事同盟を言祝ぐ趣向を通して、国境を越えた 友情を騎士道的友愛として殊更に賛美しているのはなぜか。そこには、かつてはレスター伯が、そ して今やエセックス伯が唱道する汎ヨーロッパ的な武闘派プロテスタント主義の表明が透けて見え るのである。
法学院騎士参上
「友愛の仮面劇」にガーター式典へのアリュージョンが見られるとすれば、それはこの時期の宮廷 祝祭に新たに付与された性格と役割を物語っている。エリザベス朝におけるガーター騎士団の発展 の最たる特徴は、この宮廷秘儀の可視化にあった。即位記念日の馬上槍試合と同様に、ガーター式 典もまた、次第に公的行事としての性格を強め、宮廷貴族のみならず一般市民の目をも楽しませる ようになる。式典に参列するために街路を行く騎士は華麗な衣装に身を包み、時には数百名から成 る供を従え、さながら凱旋行進の趣を呈したという17)。 そして、ガーター式典のショー化とも呼べるこうした現象が特に顕著になったのが 1590 年代だっ た。1597 年には、おそらくは祝祭の過熱傾向に歯止めをかけるために、新たに選出された騎士につ いては随行する従者の数を 50 名以下に制限する命令が出されたほどである18)。『ゲスタ・グレイオー ルム』に始まり、ジョージ・ピールの「ガーターの名誉」、エドマンド・スペンサーの『妖精の女 王』、シェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』等々、ガーター式典に材を取った詩作品や 戯曲が 1590 年代に集中して執筆されたのは、市民文化への宮廷祝祭の浸透と連動している。では、 なぜ、この時期の宮廷祝祭がこれほど活況を呈したのか。それは、多くの観客を動員する芝居の興 業がおしなべてそうであるように、ある傑出した〈人気役者〉の出現に因るところが大きい。 騎士道的なオーラを纏った宮廷祝祭行事は、野心溢れる若い貴族にとって、自身の英雄的資質を 女王のみならず市民に対しても誇示する絶好の機会となった。とりわけ、こうした宮廷祝祭が一般 市民に対して発揮する訴求力を熟知すると共に、それを最大限に活用したのが、1580 年代後半以降 一躍宮廷祝祭の寵児となったエセックス伯である。エセックス伯の義父レスター伯もまた、パジェ ント好きで知られ、お抱え劇団を所有するほどだったが、エセックス伯には、自ら詩想溢れる文学 的な趣向を凝らす詩人としての才があり、そしてそれを見事に演じきる天性の役者とも言うべき資 質が備わっていた。例えば 1590 年に、シドニーの未亡人との秘密結婚が発覚して女王の不興を買っ たエセックス伯は、前代未聞の驚くべき大胆な行動に出る。その年の即位記念日の馬上槍試合に、喪 服に身を包んだ姿で霊柩車に乗って登場し、女王の寵愛を失った我が身の「死」を悼んでみせたの である19)。宮廷の馬上槍試合は、既にヘンリー七世の時代から、入場料を取る形で一般市民に公開 されており、時には数千人の男女が詰めかけたという報告が残されている20)。騎士道ロマンスを地 で行くエセックス伯の大芝居は、こうした一般市民をも熱狂させたに違いない。1590 年代における 宮廷祝祭の大衆的人気の背景にエセックス伯の存在があったことは、エリザベス朝末期における宮 廷祝祭と都市祝祭の相関関係を考える上でまことに興味深い。 さて、グレイ法学院の祝祭は、懺悔節に宮廷で御前上演された「プロテウスの仮面劇」でクライ マックスを迎える。これは、『ゲスタ・グレイオールム』に記録された余興の中で作者が同定されて いる唯一の作品である。作者のデイヴィソンは、ベイコンと同じくエセックス伯の庇護を受けてお り、エセックス伯の武闘派プロテスタント政策とも因縁浅からぬ関係がある21)。デイヴィソンの父 ウィリアム・デイヴィソンは、ウォルシンガムの主席秘書を務めた人物だったが、スコットランド 女王メアリーの処刑を命じる令状を発行した際に、王族の処刑には最後まで難色を示したエリザベ スの怒りを一身に浴び、ロンドン塔に投獄される憂き目に遭っている。メアリーは、祖国スコット ランドを追われた後はイングランドで軟禁生活にあったが、カトリック系貴族やスペインが画策するエリザベスに対する陰謀事件に幾度も関わった。メアリーの処刑は、レスター伯やウォルシンガ ムら反カトリック主義を主張する貴族達の悲願であったものの、デイヴィソンの父はその一番の貧 乏籤をひかされたと言える。デイヴィソンが「プロテウスの仮面劇」を執筆したのは、自分のキャ リアはおろか、父親の名誉回復の兆しすら未だ見えぬ時であった。 「プロテウスの仮面劇」のプロットは、パープール王の従者とプロテウスの対話で説明される。パー プール王は、ロシア遠征からの帰還の途上、変身術に長けた海神プロテウスを捕縛し、「海の帝国」 の支配権の象徴である伝説の鉱石アダマントを進呈することを約束させる。これに対して、プロテ ウスは一つの条件を提示する。「海洋の星」アダマントの力をも凌駕する王者のもとに自分を連れて いくように、というものである。これを承諾したパープール王は、7 名の騎士と共にプロテウスの捕 囚としてアダマントの岩に自らを幽閉する。奇跡は、客席にいる「臣民の真のアダマント、いとも 高貴な女王」(83)であるエリザベスによって造作なくもたらされる。プロテウスは、「この世の王者 と海の覇者達がこぞって崇める」(85)至高の君主エリザベスへの拝謁がかなった感謝の印として、 アダマントの岩を打ち砕き、王達を中から解放する。 一見すると、「プロテウスの仮面劇」は、いかにも宮廷好みのあからさまな君主崇拝に徹している かのように思われる。しかし、リチャード・マッコイが指摘するように、この仮面劇の真の結末は 別に用意されており、この劇が単なる女王賛歌ではないことを示唆している22)。仮面劇と言えば、 通常は客席の男女も参加するダンスで締めくくられるが、「プロテウスの仮面劇」の場合は、矢来を めぐらせた屋外競技場に祝祭の場を移し、エセックス伯とカンバランド伯の馬上槍試合が行われた のである。女王礼賛よりも男性主義的な軍事的名誉への称賛を読み取り、「プロテウスの仮面劇」を エセックス伯が牽引する武闘派プロテスタント主義のプロパガンダとして読み解くマッコイの解釈 は、なるほど的を得ている。 ここで見逃してはならないのは、この槍試合にはパープール王も 7 人の騎士達と共に参戦してい る点である。そればかりか、パープール王と鉄兜の騎士たちは、その武勇に対する報酬として、ダ イヤモンドとルビーをちりばめた宝石を女王より手ずから授与されるという栄誉に浴している。「プ ロテウスの仮面劇」の末尾には、戦闘の際に使用されたと思われるパープール王と 7 人の騎士達の インプレーザ(盾の紋章)のリストが付されている。それによると、パープール王は「杉の木の幹に Eの文字が彫られた」(87)盾を掲げていたという。パープール王達がどんな形で馬上槍試合に参加 したのかは記されておらず、勝敗の結果も不明である。ただ、エセックス伯の頭文字である E の紋 章を掲げて戦うパープール王がエセックス伯側について戦った可能性は高い。実在の貴族と虚構の 騎士が入り乱れて戦う趣向の奇抜さもさることながら、一介の法学院生達がエセックス伯の陣営に 加勢して槍を振るう見世物は、まさに「無礼講の君主」の名に相応しい、異例中の異例とも言える 出来事だったに違いない。宮廷貴族をも巻き込んだグレイ法学院の馬上槍試合は、国策と宮廷政治 に並々ならぬ関心を寄せる法学院騎士達が夢想する大胆不敵な国家展望論の様相をも呈しているの である。
エセックス伯の騎士道的友愛のネットワーク
法学院生をも魅了したエセックス伯の騎士道的エートスについてさらに注目したいのは、それが友愛の精神と表裏一体を成していた点である。友人を大事にするエセックス伯の一面を語る際に必 ず取り上げられるエピソードが、先に触れたベイコンの官職斡旋をめぐるエセックス伯の献身的な 努力である。まだ何ら目立った実績を持たないベイコンにとって、法務長官は身の程知らずも甚だ しい要職だったが、エセックス伯は友人の出世のために奔走する。 この誰が見ても無謀と思われる推薦にエセックス伯が自信を持ったのは、もちろん自分に対する 女王の愛顧を過信したせいもあったが、ベイコンがバーリー卿の甥であり、当然その推薦も得られ ると考えたふしがある。しかし、バーリー卿は、ベイコン本人からも度重なる嘆願を受けたものの、 候補者の経験、そして年齢等を考慮して、1594 年の復活祭の頃には対立候補のコークを推薦するこ とを決める。ベイコンの兄アンソニー・ベイコンが母親に宛てた書簡では、セシル父子のベイコン に対する仕打ちに憤るエセックス伯の様子が臨場感たっぷりに報告されている。 サー・ロバート[・セシル]は、よく考えるようにエセックス伯に懇願した。「これが平の法務 官だったら、女王陛下も飲みやすいのだが」。(伯爵はこう言った)「どうしても飲めない話を私に 飲ませようとするな。法務長官はどうあっても私がフランシス・ベイコンのために得てやらな ければならない。そして、そのために私は最大限の信用と友情と権威を費やす積りだ。・・・よ く聞け。はっきりと言っておく。これほど近い親戚筋の人間の代わりに赤の他人を昇進させよ うと考える君の父上も君も、私にはどうにも理解できかねる23)。 この書簡からは、セシル父子とエセックス伯の対照的な政治手法がまざまざと浮かび上がる。それ は、平民から自分の才覚だけで身を起こしたバーリー卿と、由緒ある大貴族のエセックス伯という、 二人の出自の違いに起因している。「身内の人間、友人、食客の言うことには耳を貸すな。あれこれ せがむだけで、何の役にも立たない」という助言を息子に残したバーリー卿に対して、エセックス 伯の政治信条はいかにも貴族的な縁故主義に貫かれている24)。 「エセックス伯の行動を考える場合、自己愛と利他主義のいずれが動機になっているかを考えても ほとんど無意味である」と述べたハマーの言葉は、エセックス伯の友愛精神を考える上で示唆に富 む25)。自己愛と利他主義の線引きが特に難しくなるのは、そこに友情が介在する場合だからだ。も とより、自己愛と友愛の区別は必ずしも明確ではない。己を愛するように友を愛せ、と自己愛の延 長線上に友愛を位置づけるのは、アリストテレスに始まる古典的な友情論の基本である26)。そして、 エセックス伯にとって、それは騎士道的な名誉の概念と結びつき、軍閥貴族の行動原理を成してい た。エセックス伯はルーアン遠征の折に 24 名もの兵士を勝手に騎士にし、女王を激怒させるが、こ れもまたその騎士道的友愛の理念を示すエピソードと言える27)。懲りないエセックス伯は、女王の 叱責やバーリー卿の忠告をものともせずに、1596 年のカディス遠征の折には 68 名の騎士を、特に苛 酷を極めたアイルランド遠征の際にはおよそ 80 名もの騎士を任命した28)。 出自を度外視して量産された騎士は、しばしば「エセックス伯の騎士」として揶揄の対象となっ たが、その称号が出世の糸口がつかめず悶々とした日々を送る若者に与えた魅力は計り知れない29)。 もともと騎士の叙任は、戦争という有事を前にして平民を貴族化する〈社会的秘蹟〉としての特性 を有していた。騎士道が、庶子や十分な土地を相続できない二男以下の男子など、いわゆる貴族文 化の周縁に位置する者の間で特にもてはやされたのはこの所以である30)。マーヴィン・ジェイムズ も指摘するように、領土の授受を媒介とするのではなく、友愛の名のもとに主君と臣下の精神的結
束が固められた点に、エセックス伯の騎士団形成の新しい方向性が認められる31)。 友愛の美徳をめぐるバーリー卿とエセックス伯の価値観の違いは、同時代人の目にも顕著に映っ ていたようである。エドマンド・スペンサーの『妖精の女王』(1596 年)の第 4 巻、「友情の物語」と 題された巻は、バーリー卿への批判で始まることで知られる。 重々しい深慮でもって、王国の大義と、 国家の諸問題を統べる、眉間にしわをよせたお方が 私が最近ものした軽薄な詩を、 愛を賛美し、恋人達の苦悩を称えたかどで、手厳しくお咎めになった。 ・・・ 愛することができず、心が凍りついて 自然な情愛の炎を感じることができない者は、愛について誤解する32)。 バーリー卿は、第 4 巻が掲げる友愛の美徳を理解しない不粋者として真っ先に糾弾されている。 その一方でスペンサーは、同年に出版した『プロサレイミオン』で、カディス遠征で華々しい勝 利を挙げたエセックス伯への惜しみない称賛を捧げている。『プロサレイミオン』は、エセックス伯 邸で行われたウスター伯の二人の令嬢の婚約披露を祝した小詩であり、花嫁を表す二羽の白鳥が リー川からテムズ川へと下り、エセックス伯邸を目指して静々と進む様子を描く。いよいよロンド ンへと入った白鳥は、法学院の建物とエセックス伯邸が立ち並ぶ一帯にさしかかる。 白鳥は、あの煉瓦の建物がそびえる場所へとやってきた。 今では勤勉な法学院生達が居を構えるその場所には、 かつてはテンプル騎士団が住んでいたが、 彼らは高慢のために没落したのだった。 その隣には、あの壮大な邸が立っている。 その昔、そこに住んでおられたあの偉大な閣下から、 私はどれほどの贈物と恩恵を受けたことか。 かの君亡き今、友の不在が身に沁みる。 ・・・ だが、今はそこにあの気高い貴人がおられる。 偉大なイングランドの栄光であり、世界の大いなる驚異 その勇名は、つい先ごろもスペイン中に轟き、 ヘラクレスの柱こと、ジブラルタルに聳え立つ二つの断崖をも 振るわせ揺るがせたのだった。 麗しい名誉の枝、騎士道の花、 イングランドを凱旋の栄誉で満たすお方。 その尊い勝利の喜びと 幸せが約束された御名の通り、 未来永劫続く栄誉の幸福を享受されんことを33)。
詩人は、たゆたうテムズの流れに合わせて、中世におけるテンプル騎士団の栄華と凋落、騎士団の 跡地に集う法学院生達、パトロンであったレスター伯の死、そしてエセックス伯の凱旋へと思いを 馳せる34)。その時空を超えた瞑想は、騎士道の死と再生の幻視でもある。一度は廃れた騎士の都ロ ンドンが、今まさにエセックス伯によって再建されようとしている。 レスター伯からエセックス伯へ―引き継がれるのは、邸だけではない。スペンサーは、レスター 伯を友愛の士として偲んだ上で、その騎士道的友愛の継承者としてエセックス伯を称える。続く最 終節では、到着した花嫁を迎えるべく、エセックス伯が二人の花婿や多くの友人を伴って登場する 様が、一幅のタブローのように描かれている。 その高い塔から、この気高い閣下は、 金髪を大洋の波間に浸す 宵の明星のように姿を現わすと、 川面を見渡す所に降りて来られた。 多くの供をつき従えて。 その中には、見るも麗しい様子の 美々しい顔立ちの二人の騎士がいた35) 『プロサレイミオン』は、祝婚歌であると同時に、友人の娘の婚約披露宴を自邸で盛大に催したエ セックス伯の友情への頌歌でもある。この年、カディス遠征によるエセックス伯不在の隙を狙うか のように、伯爵が長年嘱望していた国務長官の位にロバート・セシルが任命される。エセックス伯 とバーリー卿の対立関係がいよいよ顕在化したまさにその年に、スペンサーが友愛の文学的トポス において両者を対置したことは、注目に値する。 しかし、肝心のベイコンはと言えば、どうやらエセックス伯の騎士道的友愛を醒めた視点で捉え ていたふしが窺える。1597 年に出版されたベイコンの『随想録』には、読者の期待に反して、「友情 について」と題した章はない。ベイコンは、キケロの『友情について』以来の人文主義的な命題を わざと避け、その代わりに「追従者と友人について」と題した章を設け、その末尾で「この世には 友情はほとんど存在しない。特に同等の者の間には存在しない」(528)と断じている36)。仮に友情 が存在するとすれば、それは支配者と被支配者、パトロンとその庇護を受ける者の間だけである、と 喝破するベイコンのシニカルな箴言は、伝統的な友情論が友人と追従者の見分け方を論じ、誠の友 情と偽りの友情を区別したのとは対照的である。『随想録』は以後改訂(1612 年、1625 年)を繰り返 すが、「友情について」の章を欠くのは 1597 年版のみである。それだけに、友人と追従者をあえて 同化した 1597 年版には、派閥であれ、同盟であれ、共通の仮想敵や利害関係を前提として結ばれた 絆を友愛として神話化する必要に迫られた 1590 年代特有の風潮を指摘することができる。と同時に、 ベイコンの悲観的な友情観とエセックス伯のおめでたい騎士道的友愛は、同じコインの表と裏であ ることがわかる。 「位の低い人間は団結しなければならない」(533)―『随想録』の「派閥主義について」の有名な 一節もまた、この時期のベイコンの苦い実体験から絞り出されたアフォリズムであったろう。仕官 がままならないことに痺れをきらし、公務への夢を断って文筆に専念することも考え始めていたベ
イコンにとって、エセックス伯がさしのべる手は文字通り最後の頼みの綱だったに違いない37)。『快 楽をめぐる談義』(1592 年)、『愛と自己愛について』(1595 年)と、1590 年代の前半から半ばにかけ てベイコンがグレイ法学院の学窓から放った二つの宮廷祝祭は、いずれもエセックス伯のために書 かれており、二人の共同制作と言っても過言ではない。そして、そのかりそめの友情は、『ゲスタ・ グレイオールム』が描く仮想の友愛国家と共鳴しつつ、エセックス伯という稀代の役者を迎えて最 後の高まりを見せるエリザベス朝騎士道文化の光と影を映し出しているのである。 注
1)大学演劇と法学院劇に関する簡便な解説については、Alan H. Nelson, The Universities and the Inns of Court, in The Oxford Handbook of Early Modern Theatre, ed. Richard Dutton(Oxford: Oxford UP, 2009), chap. 16 が有益である。大学演劇が商業演劇に与えた影響については、井出新、「パルナッソスから ロンドンへ―1580 年代における大学と大衆演劇」、日本シェイクスピア協会編『シェイクスピアとその時 代を読む』所収、3-24 頁 .
2)Nelson, 282; Lois Potter, The Life of William Shakespeare: A Critical Biography(Oxford: Wiley-Blackwell, 2012), 152.
3)4 つの法学院のクリスマス祝祭の伝統的な趣向については、以下の資料を参照。Leslie Hotson, Mr W.
H.(London: Rupert Hart-Davis, 1964), chap. 3; Philip J. Finkelpearl, John Marston of the Middle
Temple: An Elizabethan Dramatist in His School Setting(Cambridge, Mass.: Harvard UP, 1969), 35-38; Marie Axton, The Queen s Two Bodies: Drama and the Elizabethan Succession(London: Royal Historical Society, 1977), chap. 6; Alan H. Nelson and John R. Elliott, Jr., eds., Inns of Court, Records of Early English Drama(REED)(Cambridge: D. S. Brewer, 2010), vol. 1, xiii-xlvii.
4)John Guy, ed., The Reign of Elizabeth I: Court and Culture in the Last Decade(Cambridge: Cambridge UP, 1995).
5)Finkelpearl, 5-7; Ann Jennalie Cook, The Privileged Playgoers of Shakespeare s London 1576-1642 (Princeton: Princeton UP, 1981), 37-39.
6)フランスの王位継承問題をめぐって緊迫するヨーロッパ情勢とイングランド政府の対応については、以 下の資料を参照。R. B. Wernham, After the Armada: Elizabethan England and the Struggle for Western
Europe 1588-1595(Oxford: Clarendon, 1984); Paul E. J. Hammer, Elizabeth s Wars(NY: Palgrave Macmillan, 2003), chap. 5.
7)派閥主義に関する修正主義的な見直しについては、以下の資料を参照。Simon Adams, Factions, Clientage and Party: English Politics, 1550-1603, in Leicester and the Court: Essays on Elizabethan
Politics(Manchester: Manchester UP, 2002), 13-23; Janet Dickinson, Court Politics and the Earl of
Essex, 1589-1601(London: Pickering & Chatto, 2012), chap. 4.
8)Hammer, Patronage at Court, Faction and the Earl of Essex, in The Reign of Elizabeth I, 72-4. 9)ベイコンの推挙をめぐるセシル父子とエセックス伯の対立に関しては、James Spedding, ed., The
Letters and the Life of Francis Bacon, vol. 1: chap. 6 に詳しい。
10)イングランド国民におけるアンリ四世の人気、そしてその改宗に対する怒りの模様は、当時ロンドンで 出版されたバラッド等から窺うことができる。Paul J. Voss, Elizabethan News Pamphlets: Shakespeare,
Spenser, Marlowe and the Birth of Journalism(Pittsburgh: Duquesne UP, 2001), 103-109.
11) Elizabeth to Henry IV of France, July 1593, in Elizabeth I: Collected Works, ed. Leah S. Marcus, Janel Mueller, and Mary Beth Rose(Chicago: U of Chicago P, 2002), 371.
12)『ゲスタ・グレイオールム』からの引用は、David Bland, ed., Gesta Grayorum(Liverpool: Liverpool UP, 1968)に拠る。以下、本文中に頁数を括弧に入れて記す。
13)Benjamin Fiore, S. J., The Theory and Practice of Friendship in Cicero, in Greco-Roman
Perspectives of Friendship, ed. John T. Fitzgerald(Atlanta: Scholars Press, 1997), pp. 59-76; Daniel T. Lochman, Maritere López and Lorna Hutson(eds.), Discourses and Representations of Friendship in
Early Modern Europe, 1500-1700(Surrey: Ashgate, 2011), 6-7.
14)近代初期イングランドにおけるキケロの友情論の受容については、以下の資料を参照。Lorna Hutson,
The Usurer s Daughter: Male Friendship and Fictions of Women in Sixteenth-Century England
(London: Routledge, 1994), chap. 2; Laurie Shanon, Sovereign Amity: Figures of Friendship in
Shakespearean Contexts(Chicago: U of Chicago P, 2002), 23-30.
15)Elias Ashmole, The Institution, Laws and Ceremonies of the Most Noble Order of the Garter(London, 1693), 49.
16)Roy Strong, The Cult of Elizabeth: Elizabethan Portraiture and Pageantry(London: Thames and Hudson, 1977), 177.
17)Ibid., 173. 18)Ibid., 173.
19)Paul E. J. Hammer, The Polarization of Elizabethan Politics: the Political Career of Robert Devereux,
2nd Earl of Essex, 1585-1597(Cambridge: Cambridge UP, 1999), 202.
20)Alan Young, Tudor and Jacobean Tournaments(London: George Philip, 1987), 85-7.
21)フランシス・デイヴィソンの伝記情報、及び「プロテウスの仮面劇」執筆の政治的動機であるエセック ス伯との関係については、Richard C. McCoy, Lord of Liberty: Francis Davison and the Cult of Elizabeth, in The Reign of Elizabeth I, 212-228.
22)Ibid., 220-221.
23)The Letters and the Life of Francis Bacon, vol. 1, 269.
24)Louis B. Wright, ed., Advice to a Son: Precepts of Lord Burghley, Sir Walter Raleigh, and Francis
Osborne(Ithaca: Cornell UP, 1962), 11.
25)Hammer, Patronage at Court, Faction and the Earl of Essex, in The Reign of Elizabeth I, 85. 26)Frederic M. Schoroeder, Friendship in Aristotle and Some Peripatetic Philosopers, in Greco-Roman
Perspectives of Friendship, 35-36. 27)Hammer, Elizabeth Wars, 179-180. 28)Ibid., 197.
29)エセックス伯によって任命された騎士に対する侮蔑については、Dickinson, 20-21.
30)M. H. Keen, Chivalry, Nobility, and the Men-at-Arms, in War, Literature and Politics in the Late
Middle Ages: Essays in Honour of G. W. Coopland, ed. C. T. Allmand(Liverpool: Liverpool UP, 1976), 38-45.
31)Mervyn James, Society, Politics and Culture: Studies in Early Modern England(Cambridge: Cambridge UP, 1986), 327-332.
32)Edmund Spenser, The Faerie Queene, ed. A. C. Hamilton(London: Longman, 1977), IV. Pro. 1-2. 33)Edmund Spenser, Prothalamion, The Yale Edition of the Shorter Poems of Edmund Spenser, ed.
William A. Oram et. al.(New Haven: Yale UP, 1989), 145-154.
34)インナー・テンプル法学院とミドル・テンプル法学院は、十字軍遠征の要となったテンプル騎士団の本 部の跡地に建設された。両校の名前と、ミドル・テンプル法学院の神の子羊の紋章は、ここに由来する。 Finlkelpearl, 4; D. S. Bland, ed., Three Revels from the Inns of Court(Aldershot: Avebury, 1984), 17. 35)Prothalamion, 163-169.
36)James Spedding, Robert Leslie Ellis, and Douglas Denon Heath, eds., The Works of Francis Bacon, vol. 6, 528. 以下、本作品からの引用はこの版に拠る。本文中に頁数を括弧に入れて記載する。尚、1577 年 版の『随想録』に顕著なベイコンのマキャヴェリ的歴史観や倫理観を指摘した以下の好論も参照されたい。 F. J. Levy, Francis Bacon and the Style of Politics, in Renaissance Historicism: Selections from
English Literary Renaissance, ed. Arthur F. Kinney and Dan S. Collins(Amherst: U of Massachusetts P, 1987), 146-167.
37)1593 年 3 月 30 日、将来を悲観したベイコンは、エセックス伯宛ての書簡で、「私の運命はかくも惨めで はありますが、神のお助けにより、そしてこんなにも多くの徳高い立派な方々の支えという慰めによって、
二人程の友と一緒にケンブリッジ大学へと隠遁し、そこで後ろを振り返らずに学究と思惟に一生を捧げる つもりです」としたためている。Spedding et. al., ed., The Works of Francis Bacon, vol. 8, 291.