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日本で受けた教育をふりかえる

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Academic year: 2021

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日本で受けた教育をふりかえる

医学博士

秋 江

(台北市在住) 現今の国際情勢は年毎に混迷の度を深め、国際関係は複雑化してきている。第2次世界大戦 後、とくに台湾・中国問題は深刻の度合いを増したように見えるが、これは一つには台湾が 50年間日本植民地としての歴史をもったことによっている。 私は植民地台湾に生まれ育ち、現在も医師として生活しているが、終戦前は台湾人としてでな く、日本人として基礎教育をうけ、そして日本内地で高等教育を受けた。台湾人に戻ってすでに 50年を経たが、この間他の多くの同胞たち同様、日本一台湾の狭間に置かれた悲哀を味わった。 同時に両者をむしろ客観的に見る有利な立場をもつこともできた。戦後50年を経て私の医師と しての半生を日本式教育との関わりにおいて振り返り、植民地台湾のおかれた立場と、戦後の変 遷を概観したい。広い意味における人間環境の歴史的研究も一環に係わる一例として、戦時日本 の教育を受けた台湾一知識人の半生を知って頂ければ望外の幸いである。

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.植民地台湾から憧れの日本ヘ

台湾における日本基礎教育(小、中学校)の後、私が日本内地で受けた教育は3段階に分けら れよう。高等学校における一般高等教育、大学における医学専門教育、および外科医実地訓練、 である。現在に至るまで外科医師として台湾社会に寄与できたのも、これら日本において受けた 教育のお陰である。その中でも、とくに3年間の高等学校生活は人間形成の場であり、私に独力 で思考し、判断させる機会を与えてくれた。その実利主義的専門知識を超越した、人生理念・情操 を重視する教育は、わが人生観、宇宙観を、より遠大かつ深奥ならしめるのに大いに役立った。 昭和14年2月、台湾の中学校を卒業し、高等学校受験のため幼少から夢見た日本内地へ出発 した時の希望に満ちた胸の高鳴りは今も忘れなL、。入学すれば憧れの白線帽に釣鐘マントの高等 学校生徒として閲歩する自分の姿を想像するだけで興奮した。何の臆するところもなく、自由を 謡歌し、理想、を探究できる高等学校へ行くのだとo我が青春時代に最高の教育を受けるのに、日 本の高等学校に勝る学園が他にあろうか。首尾よく松本の高等学校に合格し、今まで圧迫感のあ った植民地から解放され、憂欝な人種差別の雰囲気もない新天地で勉強できる幸運に恵まれた。 この希望がなければ、 2月の海上で荒れ狂う時化に道い、胆汁まで吐いた苦しみに、船から荒海 に飛び込んだかも知れない。かつて唐へ渡った日本留学生が水杯までし、危険を侵して支那大陸 へ渡航したことを思い出した。水杯はせぬまでも、大勢の家族に見送られ、我が日本留学に望み をかける故郷の人びとに対する重責を感じ、私の心は期待と不安に満ちていた。 数年後の、戦争の陰影に覆われた暗い空襲下の東京における大学生活とは対照的に、千山万岳

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高きを競う白雪日本アルプスの麓の明るい高等学校生活で、私はロマンチックな青春を謡歌しつ つ学んだ。信州の美しい大自然は、春の桜、秋の紅葉ばかりでなく、亜熱帯の台湾にない四季の 変化を私の眼前に展開してくれた。ときにはホームシックで半ば神経衰弱になりながら、この素 晴らしい環境で学問とともに人生と自然を学んだ。また、ときには植民地人のためか笑い者にさ れたこともあったが、幸い親切な師友に恵まれたので私の高等学校生活はまた多彩で豊かであっ た。そこで受けた教育は専門知識よりも学問・人生の序論であり、将来物事を深く探究する専門 教育に入る前の重要な基本学習であった。校内はもとより、課外や先生のお宅で矩爆を囲んでい ろいろなお話を伺ったこと、私の稚拙な愚問にも答えて下さったこと、友と駄弁り、討論しあっ たことは今も役立って居り、その中には深い学問・人生の真理が潜んでいた口社会人からは、気 位ばかり高い生意気な青年と言われるくらい、心の奥底に凡俗から超越しようという気構えがあ った。とくに天下一品の優れた先生に恵まれ、この先生方を何時までも生涯の師と仰ぐことが出 来たのは幸せであった。 高等学校で受けた教育は、一言で言い尽くし難いほど私の血肉となっている。今までの中学校 の初歩的勉学とは段違いで、余程頑張らないと理解できない高等学校の学科であった。語学、高 等数学にはとうやらついて行けたが、高等物理化学の内容は難しく、理論と実験を十分学ばなけ れば、その理解は到底無理であったろうと現在でも思っている。それ故、私の在籍した理科乙類 では膨大な量のドイツ語の授業とも相まって、落第が一番多かった。一週間に14時間もドイツ 語でぎゅうぎゅう鍛えられた。しかし、語学によって人生観、世界観がより広くなったように思 う。とくに私の保証人教授であった手塚富雄先生は、 ドイツ語で学生から恐れられていたが、私 にとっては人間形成の思人であった。授業は厳しかったので、予習をしていなかった者は盛んに 「先生、駄弁りましょう」などと言って授業を遅らせる努力をしていた。そのような時、先生の 雑談は実に多岐に渡っていた。恋愛をした山鹿素行がその醜貌に悩み、恋い焦がれた美貌の娘を 貰うためにはただただ刻苦勉励すべきことを教わり、ついに彼女を得た逸話、お見合いの時、相 手を盗み見するのでなく、堂々と正面から見るべきこと、芭蕉の俳句の精髄、森鴎外、夏目激石 は日本文学の本質、一流作家であるゲーテ、シラ一、へルダリンの如き文学作品と取り組むべき こと、梅蘭芳のすでにマンネリズム化した京劇演技を自分の日で批判すべきこと、総ての物事の 本質を見極めるべきこと、等々、と数え切れない。このようにして、理性的批判精神を手塚先生 から教わったことが、里子性的迫力を身につける知恵を授かり、体造りを教わったのは数学の蛭川 幸茂先生であった。高等学校は将来社会に出たとき、こせこせしない、つぶしの利く人間を造る ところだと教えられた。先生には「千万人とも我往かん」の気構えがあった。グラウンドで先生 と一緒にハンマー投をしながら体を鍛えられた上、生来気が小さく優柔不断な私の性格に活気を 与え、重症のホームシックによる神経衰弱も癒された。

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大学で受けた教育。医学生時代

信州の高等学校生活を終えて大学に入ると、まるで虹色の甘い夢を破られた如く、大都会東京 の、今までと全く違う環境の中で私のロマンチシズムも霧散した。大東亜戦争の激化とともに、 やがて空襲に遇い、何時も半飢餓状態で、何処かに食べ物がなし、かと、食い意地汚く探し歩き、 大学の講義もうわの空で将来の希望も失いがちであった。学問習得の可否に関する懸念、将来医 師になろうという念願に対する不安、等々。植民地台湾の将来に対する漠然たる恐れ。即ち、日 本と生死を共にすべきか、はたまた人生の諸問題のほうがより大切か、など錯綜した考えが私の 学生生活の上にのしかかっていた。赤たすきをかけた出征軍人や学徒兵を見るにつけ、日本人が 何の抵抗もなく、むしろお国のために勇んで戦場へ赴く気持ちを持っていると想像した。私も幼 時から一人前の「日本人」になる教育を受けてきたが、そのような日本人と同じ気持ちには到底 なれず、また勇気も持てなかった。これは日本人の教育によるよりも、日本人の大昔からの土着 性民族の精神構造から来たものとしか考えられなかった。 当時の日本政府は日本人民に、し、かに必勝の信念をもってこの戦争に最後の勝利を得るかとい う、いわばマインドコントロールを行い、潔く国家のために殉ずるかを諭しているようだった。 どこに行っても日の丸の旗がはためき、敵艦轟沈や敵地侵攻・陥落の歓喜の声を聞いたが、その 反面、ほとんどの日本人が沈痛の面持ちで、栄養不良の顔がむくんで青ざめていた。大学では衰 弱した教授たちが貧血のため、ひょろひよろし、声は小さく黒板の字は薄くて学生には読めない ほどであった。折角苦労し、難関を突破して入学した赤門にしては、授業は学生の興味を起こさ ず、むしろ煩噴な基礎医学の術語の無味乾燥な暗記で、忙しかった。脳神経、感覚器官、内蔵、心 臓血管、あるいは骨、筋肉なと断片的知識を与える講義を受けたが、将来学ぶべき総合的臨床医 学と関連づけた、生命ある有機体として身体を見る教育法ではないように思えた。生命現象の不 可思議、身体の自律的行動や知恵、が教えられるべきと期待していたが、その期待は脆くも消え去 ったようで、幻滅を感じた。その代わり、アメリカの有名なノーベル賞受賞者キャノンが出した 名著「身体の知恵」を読んだ。また、私は当時翻訳されたベルナールの「実験医学序説」を読 み、初めて医学実験の科学的方法を知ることができた。大学の講義に、このような名著の内容を 期待するのは当時は難しいようだった。およそ難解な講義は、先生と学生のどちらに責任がある か判らないが、学生の不勉強が最大の原因かも知れなかった。すぐ近くにそうそうたる大家の教 授がおられたのに、その学問を吸収できず、愚問さえ発し得ず、実に情けなかった。そうは言う ものの、当時の私は余りにも幼稚で体験も少なく、勉強不足でもあり、質問すべき問題のある筈 もなかった。一流の講義も残念ながら聞き流していた。もっとも一流の世界的学者が必ずしも理 想的な良い教育者でないのは勿論であろう。世界的権威といわれる教授が、自分にしか判らない 細かい専門研究知識を細々と、全然聞き取れない声で黒板に向かい小さな字を書きながら話す講

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義はとても名講義とは言えないと思った。私の学生時代、特別に熱心に図解工夫して学生に理解 させようとする親切な教授はほとんどおられなかった。このように、何年も講義に使ったノート を一宇一旬も違わずに読んで学生に筆記させる退屈な講義に対し、患者を前に分析する臨床講義 はさすがに立派で、学生を大いに魅了した。当時の大学の講義はこのように、玉石混請の感があ っfニO 基礎も臨床も試験は比較的楽で、学生は学問研究よりは戦時下に一刻も早く国家の戦争遂行に 役立つ人材になるよう、早々に追い出された。したがって、学生たちはほとんど独力で図書館通 いをして勉強することが多かった。講義をさぼって宗教、絵画、美術や文学・外国語を習得する 者も居たが、学生たちはかなり何でも自由に学ぶことができた。私も空襲下の危険を冒して、自 由が丘の矢内原忠雄先生のお宅へ通い、オーガスチヌスの「告白」、ダンテの「神曲」を学び、 またアテネフランセでフランス語を習ったことは忘れられない。 同級生たちと違い、私は終戦まで軍医に召集されなかった。私の場合、幼時から日本教育は戦 争に始まり、大学卒業とともに戦争が終わった。波j闇万丈の日本現代史の中で生き、ほとんど受 動的にこれをそのまま受け入れた。医学、科学、文芸ばかりでなく、人生観、世界観と日本人独 特の土着性民族精神構造、社会構造の本質をも、日本人と同じように学んだわけである。

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臨床訓練--医師修行時代

大学卒業後、いよいよ医師の卵として、今の信州大学の前身の松本病院で受けた外科の臨床実 地訓練は、大学で受けた教育に劣らず、将来の私の医術の重要な基本として大いに役立つた。こ こでは伊藤先生と星子先生に可愛がられ、手をとるように何から何まで教えて頂いた。大学では 習えない診療の実際、技術、医師の心得が無限にあり、一人前の医師となるための道のりは誠に 遠いと思った。新米の医者としての私は、私の自の前で苦痛に悩む患者を見て、不安感と無力感 に苛まれた。どうにか一刻も早く診療できる有能な医者になることを願って努力したが、日本へ 渡って久しいのに、未だ何一つできない卵であることを情けなく思った。私が日本留学を終えて 故郷に錦を飾ることを一日千秋の思いで待っていた母は、私の大学在学中にアメーパ赤痢で亡く なった。母の病床に付き添って、日本で学んだ医学によって母を治癒することができず、無念で 仕方なかった。 厳しいが竹を割ったような性格の典型的な日本男児で、声も大きく看護婦からは雷先生とあだ 名されていた伊藤先生から患者のまえでも容赦なくよく叱責された。しかし怒ったあと、まるで 何事も無かったような顔に戻る先生であった。先生の、必ず手抜きをせず、誤魔化さずに必要な 事項を検査して、正直に最後まで診療せよ、とL寸言葉は印象に残った。こうして私はこの大病 院外科外来診察室で、一年の短期間ながら実に貴重な、多種多様な外科体験をさせて頂いた。骨

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折、重傷大出血、あるいは救急開腹の大小手術をはじめ激痛緩和なと、即戦即決、一刻の猶予も 許されない機敏な診療の訓練を受けた。私はこれほど緊張を要し、責任の重い仕事を選んだこと を一時は後悔した。救助できない患者を前にして医師がもっ絶望的無力感や、不眠不休でやっと 患者を救い得たときの喜びは医師の体験のないものには到底分からないと思う。伊藤先生を機敏 で厳しい行動的外科医とするならばもう一人の星子先生は熟慮する理性的な、ときには保守的外 科医だったとも言えよう。日本で高等学校、そして大学の医学教育を受けたのち、私を真に病人 の病苦を診察できる医者に直接育て上げたのはこのお二方の充実した診療訓練のお陰である。

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台湾は皇民化されず日本化された-植民地化された台湾の人々の受けた功罪

植民地下の台湾を50年間、日本政府が努力したその皇民化は結局、表面的な形式だけに終わ ったが、ある意味では台湾が日本化されたことは確かである。日本語を喋り、和服を着て畳に座 り、刺身と味噌汁を食べ、日本式にお辞儀をして深く身体を曲げる習慣は、日本内地よりも日本 的で、かえって我々は真に日本人と思われるくらいであった。 しかし勿論、台湾の生活様式のなかには中国大陸から渡ってきた先祖代々伝統的に伝えられた 独特の言語、生活習慣、信仰、観念、飲食物などはよかれあしかれ根強く守られてきた。幼時か ら学校で日本式教育を受けた我々世代の者は、台湾語しか知らない老人をも説き伏せ、模範的日 本語家庭として表彰されるのを誇りと思った。極端に日本化した者は学校で禁じられていた台湾 語を少しでも用いることですら恥とした。日本留学生となって上手に日本語を話し、日本の専門 上級学校を出た者は、台湾社会の寵児であり、将来を嘱望されていた。 私も日本人の祖先の神話に出てくる天照大神を中心とした神々と皇室との関係を、幼児の頃か ら教えられたまま信じていた。皇民になるためにこの信仰を堅く守らなくてはならないと思って いた。皇民化運動と日本精神教育によって、一部の台湾人は日本人でさえ意識しない日本精神の 神髄と、世界に類を見ない日本文化・芸術を生み出した精神の奥義根源に触れることができると 思っていた。日本の詩歌、文芸に染み込んでいる大和心、幽玄や物の哀れ、静謡、諦念を日本か ら学ぶことはしかし、私には難しかった。しかし、日本人の社会の中で苦労を共にし、日本の美 しい自然、風土に接し、師友と友情溢れる人間的な触れ合いにより、私は日本の心を知ったよう に思う。植民地化された台湾の日本化は、幸い深刻なものとはならなかった。ユーモアに乏しい 画一性、謹厳寡黙、国際性の欠如した閉鎖社会も日本精神の重要な一面で、科学・学問の尊重、 法治秩序、清廉潔白、正義、清潔衛生は、台湾人の理想となった。これらの日本的要素は今にし て思えば戦後台湾の社会新秩序建設に当たって最も重要なことであった。 終戦後、日本軍隊が台湾から引き上げるとともに、中国大陸から中国国民党が台湾を当然のよ うに占領した。期待して歓迎した同祖、同民族のはずだったが、はかなくもその期待は裏切られ

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た。大陸から渡ってきたものは失望を通り越したもので、同属同文化ところか全くの異邦人と異 質文化であった。台湾が折角、日本から50年かけて学んだことはすべて無視され、大陸の国民 党一党専制で軍閥独裁統治が始まった。やっと数年前になって初めて多党議会制度になった。国 民党の来台によって社会が無秩序になると、日本の皇民化と差別的植民政策が押しつけられた当 時の苦悩も忘れ、日本植民地当時の法治社会が懐かしく思えるようになった。こうして、台湾の 日本による植民地化と、中国国民党の40年に亘る戒厳令で、台湾はすっかり骨抜きにされ、自 主性を失ったが、最近では欧米から国際的な面を学び、自己の道を発見し、健気に立ち上がった といえる。 5.

日本精神に対する考え方

私が受けた日本教育の根本理念、は、日本人としての基本的共通意識、いわゆる日本精神をもつ ことで、無条件に日本民族族長である皇室に忠誠を尽くすことであった。日本民族は元来独特の 哲学、つまり皇道、神道、武士道の精神構造を持ち、閉鎖的島国の中で長年の内戦を経てきた結 果、共同民族意識が他国民よりも強く培われている。 国を挙げて満州、中国大陸や東南アジアに出兵侵攻したのは、生物学的自然生存競争として見 れば、ごく自然発生的客観現象であろう。そのような時局下では学校における教育目標は、神聖 にして正当な戦争遂行であり、教育理念はそれに従い、使命感をもつことを教えた。そしてそれ は崇高な宗教的信仰にまで高められた。しかし、学生にとってこの戦意高揚と学問の両立は困難 であった。哲学的、学問的批判精神を持つことは許されず、戦勝を祝う軍歌や、特攻隊出発の勇 ましい歌を聴くと、心から深い寂しさと精神的混迷を感じた。 バッハ、ベートーベン、ゲーテの高度の芸術、美しい言葉が、荒れ狂うヒットラーの殺伐な暴 行と共存することが考えにくいごとく、あれほど優雅でやさしい大和言葉の中に、切迫した荒々 しく猛々しい侵略と戦争の怒号を聞くのは耐えがたい思いであった。ことに戦争末期には、撃滅 米英、一億一心というモットーが叫ばれ、修身、科学、技術を学ぶ前に戦争理念が植えつけられ た。しかし、国家の理想がL、かに多くの欺摘、偽善や妄信で充満しているかを知った。当時の日 本でも当時としては珍しいリベラリストの方から日本のおかれた真実の様子を知らされた時には 惇然とした。純粋で誠実、潔白な日本精神は、日本国内では忠君愛国に通ずる生活理念であり、 本質的にはそれで良かった。しかし日本が他の世界各国と接触し、国際舞台に出た時に、自己陶 酔、我田引水から元来の純粋な精神を失い、強引、食欲に他国に犠牲を

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郎、た軍国日本によって その本質的な日本精神を失うに至った。真の日本精神はより広く世界に受け入れられなければな らない。

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日本と台湾の関係一一現在と将来

もはや過去の植民地時代の主従関係が消滅した現在、日本は敗戦後の苦境を切り抜け、以前と 違い平和民主国家としての道を歩んできた。これに対し、日本から離れた台湾は日本による 50年の建設も停止し、大陸の混沌社会に引きずりおろされた。日本は自分の問題を解決するのに 精一杯だし、台湾の内政に口を挟む立場になかった。それに国民党政府は極度に日本語を禁止 し、台湾が日本に接近するのを警戒した。戒厳令が解かれるまで、私たちはいわゆる白色恐怖に 曝され、多くの日本の進歩的書物は発禁となり、台湾は鎖国状態であった。それでも僅かなが ら、日本、中国その他世界の情報が台湾に流れて来るものを垣間見た。こうして、台湾は日本か ら離れて尚一層一人立ちできない宿命的東洋の孤児になってしまった。台湾はこの厳しい政治と 混乱の中で、日本から一方的に国交断絶を宣告されたときは、絶望的孤独感を味わった。しかし 「顛難汝を玉にす」で、この時期こそ、台湾の主人としてL、かに苦しくとも自力で台湾を国際社 会に受け入れてもらい、世界に貢献する国家社会にする、国づくりの好機が到来したといえるの である。過去の植民地時代を経て、戦後の国民党専制が終わるまで台湾人は自らの政治経験を持 つことがなかったので、海千山千の国民党政治家に牛耳られてきた。台湾人の馬鹿正直、楽観的 で、政府の命令に盲従する生き方は、国民党軍閥政府の腐敗と汚職に対しても、なんらなす術を 知らなかった。反面、台湾が戦後50年も経つのに、いまだに大陸の人達と融合できないのは日 本植民地教育によって台湾が日本化したことで、まことに皮肉なことである。 台湾は一方では日本の文化的特徴並びに長所をあまりにも良く知るが、中国文化や、中国人の 伝統的性格および長所をも弁えている。衣食住、言語習慣、物の感じ方まで文化的に日本化して も、なお土着性の漢民族文化は失われることなく、時に強く現れたり、あるいは潜在化していた りする。 日台国交断絶後、経済貿易以外に、消極的ではあるが、僅かに文化芸術交流があるのみでほと んど個人的友情の往来だけで現在に至っている。

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国破山河在」よりも「国破友情在」と痛感し ている。今や国際舞台ですべての部門でリードする平和日本から学ぶべきことは数え切れない。 欧米留学傾向をもってきた多くの台湾留学生の関心はしだいに日本へ向かいつつある。テレビで も日本語を話し、日本映画やニュースが聴けるようになった。昔の日本留学生でなく、現在では 新日本で留学した若い台湾の人材が多く帰国して、民主主義的新台湾の社会造りに貢献している。 日本人の台湾留学生にも会う機会が増えた。これらの人々は台湾は賑やかな楽園で、台湾人は 友人を良く歓迎してくれると言い、台湾が好きになり、喜んで日本へ帰るようである。台湾はも はや日本でもなく、また中国に戻ったわけでもなく、中国大陸と異質の新しい台湾独特の文化を 持つようになった。そして、台湾は将来隣国の日本、中国と平和共存できるだけでなく、国際的 に平和を愛し、他国に貢献しうる素地を充分に持ちつつあると考えられる。

参照

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『台灣省行政長官公署公報』2:51946.01.30.出版,P.11 より編集、引用。

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