元代の歴史を綴った「元史」二一○巻は、編纂の中心人物であった宋濾(一一一一一○~一一一一八一)が仏教と深い関わりがあ (1) った影響もあってか、他の正史とは違い仏教に関する記述が数多く含まれている。記述内容に必ずしも信頼性が無い とされる「元史」ではあるが、仏教に深く傾倒した元朝が、多大の経費を寺院建築など仏教経営に注ぎ込み、その結 果、財政の逼迫をもたらした実態が如実に見て取れる。仏教居士として知られる宋澱には、個人的な文集として「宋 学士文集」七五巻があるが、その中の仏教に関する文章だけを集めて再編したものに「宋文憲公護法録」一○巻訂刻 本Ⅱ「近世漢籍叢刊思想四編」第四冊、酪興蔵本ⅡC八四)があり、この中にある三十九編の塔銘や碑・記・序などによって元末か ら明初にかけての仏教界の姿を概観することができる。 今回の論文では、「元史」(中華替局校点本了「宋文意公護法録」(翻刻本)、及び「道園学古録」(四部叢刊本)・「金華黄先生 文集」同前)など元朝文人の詩文集類、「増集続伝燈録」といった燈史類、元代禅僧の「語録」類の記述を踏まえながら、 中国禅宗の活動の中心地であった元代江南における住持任命の制度、中でも任命権者が誰であったのかということを 具体的に明らかにしたい。
元代江南における住持任命権者の変遷
はじめに野口善敬
21また、元朝における仏教統理機関に関する先論としては、野上俊静「元の宣政院について」(「羽田博士頌寿記念翰砿」一九 五qまた「元史釈者輝の研究」所収)が、また江南に限定した研究としては西尾賢隆「元朝の江南統治における仏教」(「仏教史筐 (2) ’五「’三九七二が、更に行宣政院については都鋭齢「掌釈教揚密宗抑禅宗l元代杭州行宣政院」一鬮學:州艤史 辮鴇之五「元明積鼠枯附」枯州人民出版社・一九九七、所収)があるが、江南における仏教統理機関の変遷について、まだ十分に解 明しているとは言い難い。斯論では、この点についても併せて可能な限り言及したい。不十分な内容ではあるが、元 代仏教の実態を解明する一助となれば幸いである。 尚、紙幅の都合もあり資料は全て原文のままとした。(引腿宜料中の傍点・僕綴は全て鍵著による。また鐸繍中の〔〕内の文字は筆 者が付加したものである。) 至元十三年〈一一一八○)、南宋の徳祐二年、首都臨安府(村州)に在った恭宗が元軍に降り、宋王朝は実質的に滅亡する。 この翌至元十四年から至元二十八年(一一一九一)、杭州に行宣政院が設立されるまでの十年余の間、江南釈教総統として (3) 江南仏教界において権勢を振るったとされるのは楊漣真加である。 チベット 西番のラマ僧であった楊理真加(掻鰹真伽・鰯堤真佳・楊鷺異加などとも書かれる)については、生卒年を含めてその詳しい行状 は分かっておらず、江南釈教総統になった年次についても、「元史類編」に「至元十四年、世祖用為江南釈教総統」悪四
一・雑行一・コP)とあるものの、「元史』「新元史」にはその就任した年次が記されていな嗽一もとより反証もなく、「元史
類編」の記述を否定する必要もないが、少なくとも諸資料に具体的にその名前が見えてくるのは至元一一十一年(一一一八四) 以降であり、それ以前の七年間、実際に江南釈教総統としてどの様な仕事を行っていたのかは知ることができない。 、行宣政院設立以前(至元十四年~二十八年)……楊漣真加 22拠る)、陞住とい の法嗣である。 楊漣真加は、中央で権勢を誇っていた桑野(?~一二九二に取り入って未の諸陵墓一○一個所を発掘し、副葬されて いた財物を手に入れた悪徳の僧官として名高いが(「元史」巻一七・一一一六○頁、巻一一○二・四五一一一頁)、もちろん私腹を肥やした だけでなく、仏教寺院の整備にも力を注いでいる。至元二十一年から二十五年にかけて、楊漣真加による寺院修復の (5) 記事が散見しており、これは次に見える「仏祖歴代通載」の所一一一一口と対応している。 Ⅲ江南釈教都総統永福楊大師鍵真佳、大弘聖化、自至元二十二春、至二十四春、凡三敬。恢復仏寺三十餘所。 (「〃粗歴代灘戦」巻二一・大元至元辮偽琢随函序・豆垣・]◎す) 三年間に恢復した仏寺の数を「仏祖統紀」(巻四八・N一]一・台凶)は「一一一十六所」とし、名前も「永福大師楊漣真佳」とす るが、何れにしるこの時期に楊理真加が仏寺興隆に大いに寄与した事実が窺われる。また、至元二十五年正月十九日 のこととして、彼が江南の禅・教・律三宗の諸山の僧を集めて燕京に至らせ、帝前で問法が行われたという記述が見 える(「仏挫隠」巻四八L〕旨、「〃粗歴代通載」巻二一一・§”)。 しかし、肝心の住持任命について、「元史」はもとより燈史類にも楊漣真加が実名で関わった記事はほとんど見えな い。ただ「鼓山志」に次の様な二つの資料がある。 ②明年(至元二十三年)楊総摂挙師(Ⅱ川罰則料耐、識翻珂)補雪峰席。価奏聖旨与師護持、賜號仏塞円照。(「鼓山志」巻四 ③至元一一十三年、楊総摂挙師(剥鞘劃)住当山(Ⅱ鼓山)、几十一載。(「鼓山志」巻四・呂騨) 雪峰の第四十九代である俊明(?~’二九五)は法系等未詳である(「雪峰志」巻五・忍)。「扶桑五山記」によれば、福州の雪 峰は十刹の第七位、同じく福州の鼓山は甲刹とされている官刹であるから(以下、五山十刹の位次については全て「厳霊山塵に
拠る)、陞住ということになる。俊明の後住として鼓山五十二代となった平楚光鐸(一二二七~一一一九我一は大慧派偶渓広聞
い←己) 23側至元二十年一一一月念六日、都総摂、自燕京、遣僧使持割至温州鴫蕩山放牧寮、請師(Ⅱ鯏淵蝋)住持明州阿育王山 広利禅寺。前住持東湖鬮卿週閏、製江湖疏。……八月二日、入寺。……至元二十一年四月十一一日、〔欄Ⅲ相関〕 恭奉聖旨、稗住持本寺(Ⅱ阿育王山広利禅寺)。(「横川猛欝斤師錘農」巻上崩州阿育玉山広勲等語録・脚]巳・扇u・、一mg) 横川行瑛(一二一一一一~一二八九)は虎丘派の松源派滅翁文礼の法嗣である。その任命は「都総摂」により燕京から行われた
とされるが、「総統」と「総摂」は互用されているい}先の「仏祖歴代通載」の資料に楊漣真加のことを「江南釈教都総統」
、 (8) としていた一」とからも、楊漣真加のことを指すと考えてよかろう。横川の入寺上堂の抽香に際し、「今上皇帝」に続い て「国師大師、総摂大師」(同前・一胃)への拍香が行われていることも、「都総摂」が僧侶であった「永福大師」こと楊漣 真加であったことを窺わせる。ただ、燕京より使僧を出しての任命という点に疑問は残るが、恐らく楊鍵真加は江南 の地と燕京の間を頻繁に往来していたものであろう。 また、この六年後の至元一一十六年に横川の法嗣である竺元妙道(一二五七~一一一一四五〉が断江省台州府の慈源寺に住持す れる育王に住持した際の記事がある。 、、、、 ⑤至元〔二十六年〕己丑、釈教都統起師(Ⅱ凶ヨ釧圃)出世邑之慈源。(「増築籍謄燈録」巻五・N】台・や】厚) とあるが、この「釈教都統」も同様に楊漣真加のことであったと考えてよかろう。 ただ、例外として勅住とされる例も存在する。⑥明年(至元二十一櫻)、Ⅲ梱紺師(Ⅱ劇卿謝劉〉住持〔支提寺〕、復創寺宇。(「建州弘釈録」巻下・色】凶)
資料が残されているのはこの二』 ていたと考えるのが自然であろう。 る際の記事に、 実名は挙げられていないが楊漣真加が住持任命を行ったと思われるものとしては、横川行洪が中国五山第五位とざ 一点だけだが、これ以外の江南一帯の官刹も楊蕊真加の手によって住持選定が為され 24至元二十八年(一一一九一)九月十二日丙午、行宣政院が杭州に設置され、住持任命を含む江南地域の仏教政策を文官が
中心になって行うことになる(「元些巻一六・一一一五○頁「新元呂巻一一一j一国)。ただ、「至正金陵新志」巻六「統属官制」(」g)の
行宣政院条に拠れば、至元二十八年当初、院は建康(南京)に置かれ、至元三十年に杭州に移されたと言而一・楊漣真加
が牛耳っていた江南諸路の釈教総統所も残される流一、総統所全体を掌握する僧侶は置かれた形跡がない・総統所の廃
止を訴えて実現させることになる西番僧の仏智大師こと沙嚥巴(一二五九~一一一一一四)は、元貞元年(一二九五)に江湘等処釈
教総統になり、後に福建等処釈教総統に移っただけであるし(「仏祖歴代通塾巻一一二・「$n~『g四、「秋欄来」巻二一一・送総統仏智師南 還四庫雲瞥本・一合)、大徳三年(一一一九九)一一一月、成宗の命で日本に渡った妙慈弘済大師こと一山一寧(一二四七~一一一一一七)も「江漸釈教総統」〈「元史」巻二○・四二六頁、「一山国師語録」巻下・『g・層騨、「仏祖統紀」巻四八・N|〕一・魚。)に止まっている。また、
彼らが直接、住持任命に関わった形跡もない。そして一山が日本へ向かった直後の大徳三年五月一百壬午、江南諸路
の釈教総統所は廃止されている(「元星巻二○四二七頁「〃樋糠稲」巻四八・會己)。愚里澄襲(一一一一一一○~一一一一一一)は大慧派無文道燦の法嗣である。支提寺は福建省福寧にあった寺であるが、この様に皇
(⑩} 帝直々の任命もなされた様である。とはいえ、この場〈口にしても楊漣真加が間に介在した可能性がないわけではない。 江南における楊漣真加の権勢は、至元二十八年(一二九一)五月、官物横領の嫌疑の罪が暴かれ(「元呂巻一六・一一一四七頁)、 時を同じくして、楊漣真加と深い関わりがあり、中央において尚書右丞相兼宣政院使として絶大な権勢を誇っていた 桑寄が徹里の弾劾によって失脚し、同年七月、謙に伏することによって終わりを告げることになる(「元笙巻一六’一一一四七 ’九頁)。そして江南における仏教政策は行宣政院に引き継がれることになるのである。 一一、第一期の行宣政院時代(至元一一十八年~至大四年)……張間 25行宣政院設立二年後、建康から杭州へ院が移設された至元三十年の二月一一日已丑に楊漣真加の子であり宣政院使で あった暗普が江湖行省左丞に任ぜられるが〈「元史」巻一七・一一一七○頁)、同年五月十一日丙寅、楊鯉真加が江南庶民の怨み を買っているとの理由から暗普は罷免されており(同前・’一一七一一~一一一頁)、楊漣真加の影響力は江南仏教界から完全に払拭 ぱ次の様に言う。 されることになる。 、、、、、、、、、、、、、、、 n行》曰一政院。従一品衙門、管領江南諸省地面僧寺功徳詞訟事。設院便、同知、副使、翁院、同余、院判、経歴、 、、、 都事、照磨等員。……係脱脱大卿為頭院使。(「至正金陵新志」巻六・]悪‐1ケ) 職務内容としては、単に江南各省の住持任命だけでなく、仏教行事全般と僧侶の訴訟も含まれていたことが知られ る。院使以下の官吏の構成については、後節で引用する元統二年(一一一一一一一四)に設置された一一一度[曰の行宣政院の資料(「元 史」巻九二・百官志八・一一一一一一一一五頁)とほぼ同じであるが、こちらには人員の数が記載されていない。終わりの部分の「頭院便」 という語からすると、少なくとも行宣政院の最高位である院使は複数いたと考えてよかろう。 (週) 院使となったとされる脱脱(『・砲〔・・・または托托、托克托と表記)は、元朝に同名の者が数名いるため、どの脱脱を指すか今 のところ断定できないが、至元二十六年に南臺御史に除せられた脱脱あたりを指すものであろうか(「至正金陵新志」巻六・ 〈Ⅲ) 史)”)。とはいえ、住持任命に当たって脱脱の名が院使として登場することは無い。その他、脱脱と同じ時期に楊謹お (旧) よび叉木なる人物●も行宣政院使にいたことが知られているが、この一一人も住持任命に直接関わった資料は残されてい
ない。二人の中、楊謹という名前は、一見、漢人らしく見えるが、蒙古人もしくは色目人であ註一.これら脱脱・楊
謹・叉木の一一一人が、同時に院使に任じられていたとするならば、院使の定員は少なくとも一一一人であったことになる。 この時設置された行宣政院の職務内容と構成人員について、「元史」には記載が無いが、「至正金陵新志』巻六に拠れ 26後述するように、後の元統二年(一一一一一一一四)に行宣政院が再設された際の資料卿に拠れば、院使の中の一名は行省の最高
官吏である丞相が任じられており、この第一期の行宣政院においても同様に行省の丞相が当て職として院使を兼任し
ていた可能性はあるが、「新元史」巻三一一「行省宰相年聿窒の江断行省の欄は、至元一一十八年から大徳十一年まで丞相
の個所がほとんど空欄になっており、詳しいことは分からない。僅かに大徳二年十一一月十八日辛未から翌三年正月十
一日癸巳までの一ヶ月足らずの間、合刺合孫が丞相の地位にあったことが知られるだけである。ちなみに合刺合孫塔
刺吟孫C:C四の.一二五七~一一一一○八)は、後に行宣政院使として活躍する脱歓の父である。ともあれ、行宣政院が設置されてからしばらくの間は、行宣政院使であれ、その他の官職であれ、住持任命等につ
いて主導的な役割を果たした人物の名前は出てこない。また、前出③の平楚光鐸の資料に、 if瓢l ⑧元貞元年(一一一九五)、朝京、面奉聖旨住雪峰、賜号仏江妙辮。(「鼓山志」巻四・画、画) とある様に、この期間の始め頃には、勅住の例も見えている。その様な中、至元一一十八年(一二九一)から大徳七年(一一一一○三)までの十二年間の間に、行宣政院の手によって為された
住持任命の明確な実例としては、次の三つが知られる。 、、、、⑨大徳〔||年〕戊戌、〔幽画姻刈〕被上旨、佃主華蔵。行宣政院以霊隠虚席、撒師補其処。……卒不就・自是居華
蔵餘十年。(「金華黄先生文染」巻四一・天童坦懲鯉蔦・」①ワ) 、、、、叩大徳〔四年〕庚子、〔湖州〕何山耆旧、合辞上行宣政院、廷〔釧劉到矧〕致再住。(「増築続停擾録」巻三・目色・$①煙、、(
この中、⑨の例は実際に住持に至っていないが、他の二例は実際に住持している。側の僻一一西妙坦〈一二四五~一一一一一五)
叩大徳七年癸卯七月十一一日、〔印矧当山印〕受行宣政院請、入〔松江澱山禅〕寺。(「月江正印禅師語録」巻上・住松江澱山禅寺
⑨大徳〔二年〕戊戌、 蔵餘十年。(要撃黄叩大徳〔四年〕庚子、
「続燈左橋」巻一一一・⑬号) 語録・曰巴・]]。。) 27様に一一一百7。 五山第五位の育王に入った禅僧である。
刹とされる。山の月江正印(生卒韮不詳)は松源派虎巌浄伏の法嗣で、明極楚俊の同門であり、後の元統元年(一一一一一一一一一一)に
元年(一一一一○八)に五山第三位の天童に移っている。山の鉄鏡至明(一一一一一一○~一一一一一五)は大慧派堰渓広間の法嗣。何山は甲 は松源派虎巌浄伏と法兄弟で明極楚俊の法叔に当たる。要請を断った霊隠は五山第二位の大刹であるが、竺西は至大 第一期の行宣政院時代に長官である院使となった人物で、仏教と関わりを持ったことで具体的にその名前が知られ るのは張間である。元代禅門の大慧派を代表する元嬰行端(一一一五五~一一一一四一)の「送張中丞北帰」という偶の自序に次の 、、、、、 ⑫大徳八年十一月、御史中丞張公、以栄禄大夫・行宣政院使至之日、凡政之不便於僧、法之有叛於仏者、|掃而 刮絶之。人紳悦和、上下骨慶。(「元嬰行端禅師語録」巻六・N一塁・§) (旧) 張閤(]自碩一旨)は章間・張轤などと●も書かれており、明らかに漢人ではない。「元史」に伝が立てられておらず、生卒 年など詳しいことは分からないが、至元一一一十一年(一二九四)に江南行御史蔓中丞となり(「至正金陣薪志」巻六・鴬)、その後、 今述べた様に大徳八年(一一一一○四)に行宣政院史となっている。 彼が院使として江南に赴任する以前から、仏教行政と深い関わりを持っていたであろうことは、元貞二年(一一一九六)、 御史中丞の時、瑞州路(江西省高安県)北乾明寺からの救済嘆願を宣政院参議であった旦牙公(達爾嘉依)なる人物と共に大 護国仁王寺の金剛謄巴(一一一一一一○‐‐一一一一○三〉に上聞して奏効した事実からも知られる(「松雪斎文集」巻七・鴫卿路北乾明寺記・四部叢 刊本・蟹~す、「松郷集」巻一・瑞州路妙高峰北乾明寺記・&す~巳四)。謄巴は帝師八思巴の推挙で国師となり、種々の霊験を示現して 世柤・成宗の信任を得た僧侶である(「元史」巻二○二・四五一九頁)。 張閤が院使であった期間は極めて短く、着任一一年後の大徳十年閏正月一一十三日甲午には中書左丞となり北帰してい る(「元史」巻一一一・四六八頁、「新元史」巻一四・己o)。この二年間に張間が任命に直接関わった、もしくは関わったと思われる 28⑱大徳九年、霊隠虚席。行宣政院傅師(Ⅱ側圏御剛)主之。……居四歳而逝。(「金華黄先生文集」巻四一・霊隠悦堂禅師塔銘・ 』g、、[「増築続伝燈録」巻一一一・口台・路②。など)
この中、⑬には年次が示されていないが、大慧派の元豊行端(一二五五~一三四一)が十刹第一位とされる中天燐一一へ入院
したのは大徳九年五月十六日のことである(「元豊行端禅師語録」巻一一・住杭州路中天竺万寿禅寺語録・口隠・凶)。山の兼受正伝は法 系など未詳であるが、禅僧であることは間違いない。⑮の悦堂柤間(一一一一一一四~一一一一○八)は大慧派介石智朋の法嗣で、元貞元年(一一一九五)臆山東林に住持していた時、応召入対して成宗より璽書並びに禅師号・金繍法衣を下賜された僧侶で
ある(「金華黄先生文集」巻四一窺隠悦堂禅師塔銘.ごす)。この他、この時期の張閻の院使としての事跡として、杭州虎林山犬明 慶寺の復興に助力した車壬天が知られる(「程雪楼集」巻一三・虎林山大明慶寺重建仏殿記・蟹~す)。張間が京師へ去り、皇帝が成宗から武宗へ代わったこの時期、院使の職に後任として誰が入ったか不明だが、行宣
政院の主導で仕睦汗任命が行われ続けていた章軍夫を示す資料がある。 、、、、川至大元年、〔百エ蝿機元煕〕応浄慈之請。至之日、行中書省・行宣政院之長、登雫其属拝伏迎請。……門下以千
百数。居七年、乃作大仏閣。(「道園学古録」巻四九・晦機禅師塔銘・蟹、。m「浄慈寺志」巻二七・『す、「宗続編年」巻二七・g]す) ケースとして、》堂仔する資料に次の 、、 ⑬中書平章政事桐飼馴到、任行一己 端禅師語塗巻八・塔銘・冒今醤) l山聖元崇仏乗、設官分理、乃立行一曰一政院於杭。今中書平章政事張間公墓領院事、組好副巍、枇政具修、凡招提之
頽敞不葺者、悉更其旧。因詞諸宿徳、「執能継久上上人之志者」。則皆曰、「謂園叩名画伺、早登法会、植清浄
因。宜被蒐選」。公礼致彌敦、而師固辞弗獲得、命廼即席。時大徳九年八月也。(「巴西集」巻上重建崇寧万寿接待禅寺因。宜被遊 記・恩ケーヨ②) 残存する資料に次の三つがある。 、、、、、’政事張閻公、任行宣政院使、首挙師(Ⅱ羽劉剥)、主中天竺。開堂之日、公率僚属、親臨座下。(「元翌行
29何れも武宗の至大年間の資料である。晦機元煕(一一一一一一八~’一一一一九)は大慧派の禅僧で、笑隠大訴や東陽徳輝の師として知
られる。浄慈は五山第四位とされる。また、海印昭如(一一一四六~一一一一一一一)は破庵派無準師範の法孫で中峰明本の怯叔に当た
この他、皇帝の名と元号にズレがあるが、次の様な資料も見える。⑬成宗至大戊申年(成宗は前年の正月に残)、平章損倒領行宣攻院事、以浄慈澗謝謝園丁到劉劇)行業奏聞、上賜金欄
衣、徽號割刑習卿剣珊圃辨樹師・伍以璽書褒護。人以為栄、師無蒋色。(「浄蕊守志」巻一一七・『す)
千瀬善慶(生姿巣詳)は破庵派愚極智慧の法嗣で、清拙正澄と法兄弟である。年号が正しいとすれば張間が北帰して
後のことであり、誤記ということになるが、もし実際に張間が関わっていたとすれば、退任後、京師に在っても尚、
大きな影響力を残していたことになろう。 る禅僧である。至大四年(一一一一一一)正月八日庚辰、武宗が崩御し、三月十八日庚寅、聡明で「通達儒術、妙悟釈典」(「元史」巻一一六・五九
四頁)と評された仁宗が即位する。その間の一一月十二日甲寅、行宣政院が廃止され(同前・巻一一四・五一一一八頁)、同月一一十五日
丁卯には更に各所の僧禄・僧正・都綱司も廃止されて、「几僧人訴訟、悉帰有司」(同前・五一一一九頁)という大改革が行わ
れることにな麺。
これ以後、行》’ 、、、、⑰至大〔一一年〕己酉、行宣政院辞師(Ⅱ掴則咽刎)、住持〔江西省饒州東湖〕薦福〔禅寺〕。(「海印昭如禅師語録」附録・李減撰
塔銘・口隠・ど図) 行宣政院の再設置までの間、江南仏教は中央の影響を直接受けることになり、聖旨によって住持が決め 三、行宣政院の廃止(至大四年~延祐五年)……仁宗・張間 30中峰明本(一一一六一一一~一一一一一一三)は一一一一口うまでもなく元代を代表する虎丘派の禅僧で、破庵派高峰原妙の法嗣であり、生涯、
寺院への住持を受けることなく庵居した僧侶である。これによって、仁宗の意向を受けながら、主に宣政院が江南仏
教の統治を行っていたことが窺われよう。 jb見えている。 、、、⑳延祐〔一一一年〕丙辰、行省稟朝冒、迎師〈Ⅱ劇創劉【)居之(Ⅱ後山)。……住山七年而段。(「道圃学古録」巻四八・大僻禅師宝華
塔銘・]]■・す、a「犠腫存稿」巻六・日』、。(斫山)川の古林清茂(一二六二~一三二九)と剛の竺兀妙道(側に既出〉は共に松源派横川如瑛の法嗣、側の虚谷希陵(一二四七~一三二一一)
は破庵派雪巌祖欽の法嗣で無準師範の孫弟子に当たる。これらの資料の存在は、仏教に深く傾倒していた仁宗自らが 江南の住持任命に関わった可能性を示す●ものであるが、やはり実際には仏教統治の要である宣政院の存在を活用して いたと思われる。皇慶二年癸丑(一一一一一一一一)、濯時学が中峰明本を西天目の大覚禅寺に招請した際には「宣政院疏」が用い られたと言うし(「中峰広録」巻一一一○・行録・『苫)、また、同じ中峰に絡んで、宣政院使が江南へ赴いたとする次の様な資料 られたとする資料が幾つか見える。 、、、、⑲皇慶元年六月十一一日、〔訶澗凶樹閃〕欽奉聖旨〔再〕入〔平江府(江蘇省蘇州)開元禅〕寺。(「古林清茂禅師語録」巻一・再任開
元禅寺語録・田一場・目□、、(「増築種症彊違巻六白色・←合す) 、、⑳皇慶〔一一年〕癸丑正月……〔因詞劉吻圓〕被旨住黄岩(漸江省)之浮山鴻福禅寺、賜號調璽割祠劉閣叫(「金華黄先生文集」
巻四一一・尾山藤駆守竺元禅師塔銘・蟹、。{「増築続佇謄録」巻五・N]念・畠ワは「余震回明禅師」とする、「宗鋳繍遥巻一一七・冒四は翌延祐元年幽延祐丙辰(一一一年・’一一
天目祖山志」巻一一・」g) のこととする) 、、、、 一一一一一六)春、上〈Ⅱ仁宗)命宣政院使、整治釈教、距杭期入山候謁。師(Ⅱ矧鬮利)聞避之鎮江。(「西 31その他、江南の地に在って直接影響を与えた官吏も存在していた。その代表は院使経験のある張間であった。張閻
は仁宗即位直後の至大四年四月六日丁未、江断行省の平章政事として江南へと戻り(同前・五四一頁〉、翌皇慶元年(一三一
一一)五月朔日、中央の中書省平章政事となって再び北帰(五五一一頁)、一一一年後の廷祐二年〈一三一五)一一一月二十九日丁丑、江断
行省平章政事として江南に戻り(同前・巻一一五・五六八頁)、翌年までその任に在った(「新元星巻三一一.行者宰相里衣・ざワ)。そし
てその間、中央と杭州とを行き来しながらも、高級官吏として江南仏教界に影響力を行使し続けていた様である。
この時期の張閤が住持任命に関わっていたことを示す具体的な例はあまりないが、たとえば次の様な資料がある。
、、、、倒居七年(至大元年から)、於是中書省平章政事掴勵、与行省丞相、下令告群寺曰……、「径山者当卜某若某」。衆曰、
「諾」。丞相親探得師(Ⅱ鰯禦醐)名、以示衆。衆曰、「諾」。無異一一一一口。即親送師入山。(「道凰苦録」巻四九.灘憾師塔鏑
事の任に在ったこともあり、よ“ (、) して述べた次の様な資料がある。晦機が浄慈から径山へ移ったのは、「宗統編年」巻二七(曰ミ・巴』。)に拠れば延祐元年のことであり、張間が中書省
に在った時期と一致していることから正確な記事と見てよかろう。文中「行省丞相」とあるが、当時の江断行省丞相
は「新元史」巻一一一一一「行省宰相年圭否(ぢ“)に拠れば康里脱脱〈C目、一月・晩(・・一二七二~一一一一二七)と別不花(生驚茉詳出凋国目)
である。康里脱脱は至大四年(一一一一一一)から延祐五年(一三一八)まで八年間江所行省左丞相を勤めた人物であり、別不
花は皇慶二年(一一一一一一一一)から延祐元年(一一一一一四)の二年しか左丞相に在任していないが、別不花はそれ以前に江漸平章政
事の圧に在ったこともあり、より大きな影響力を持っていた様である。中峰明本の「塔銘」には別不花を張間と並記よって、晦機の径山招請に関わった行省丞相は別不花だった可能性が高いと考えられる。
凶行省丞相川刑凋、行宣政院使掴勵諸達官、尤加敬愛。毎径山虚席、必以待師丁矧鬮利)。師固不受。(「道園鐘古
「諾」。丞相如 四凱廼刊本・芝 録」巻四八・智覚禅師塔銘・号) 32延祐五年(一一二一八)九月一一一十日丁亥、再び杭州に行宣政院が設置される(「元呂巻二六’五八六頁、「新元史」巻一七・急、。「仏祖
歴代通載」巻二一一・『旨ヶは「六月」のこととする)。「元史」はこの時「設官八貝」(五八六頁)とするが、「仏祖歴代通載」は「参用常選
職官」(巻一一二・閨ワ)としており、新たな官吏を置くことはなく、併任の形を取っていたとしている。ただこれ以後、
延祐七年正月一一十一日辛丑、仁宗が三十六歳で崩御するまでの間は、行宣政院に目立った動きはない。唯一、仁宗崩
御の四日前の記事として次の一例があ睡・
、、、、圃至治元年辛酉正月十七日、〔製淵割副〕受行宣政院疏請、入〔建康路蒋山太平興国禅〕寺。(「曇芳守忠禅師語録」巻
上・建康路蒋山太平興国禅寺語録・ロ圏・』$。)曇芳守忠(一二七五~一三四八)は松源派玉山徳珍の法嗣で、後に大慧派の笑隠大訴と並んで江南仏教界に大きな影響力
元史」巻三二「行省宰相年表」(い]“)は、彼が延祐三年まで江断行省平章政事の職に在ったとしている。五九を捕らえ、三千余人の賊を職減したとされるのが最後である(「元星巻二五・五七○頁、巻一八八・王英伝・四三○八頁)。「新
いる賊軍が汀州寧化県(福建省)を陥落させて王号を僧称した際、江断行省平章政事として軍を率いて討伐に向かい、察
とにな麺・その落官の時期は未詳だが、張間に関する記事としては廷祐二年八月十日丙戌、輸州丘西省)の察五九が率
ことになり(「元里巻一一六・五八四頁)、最終的に御史中丞であった楊朶児只(一一一七九~一三一一○)の弾劾によって罷免されるこ一・文貞高公艶週碑銘蟹)、性急に法令を実施したため〈「玩斎集」巻一○・】]す)、九人の死者を出して吏部の取り調べを受ける
~四頁)、翌延祐二年三月、江断行省の平章政事となって江南の田糧の整理を行って賦税を増加するが(「滋渓文稿」巻一 ところで、張閤は平章政事であった延祐元年十月に江南の田糧の経理に着手し(「元呂巻二五・五六六頁、巻九一一一・二一一一五一一 四、行宣政院の再設置(延祐五年~天暦元年)……脱歓 33を持った禅僧である。
次いで延祐七年(一一一一一一○)三月十一日、仁宗の子である英宗が十八歳で即位する(「元史」巻二七・六○○頁)。英宗は一一一年
後の至治三年〈一一一一一一一一一)八月四日癸亥、也先鉄木児〈向醜目『§貝ぅ・~一一一一一一四)の首謀で試殺されることになるが、その間、
院使として著名な人物は出ないものの、行宣政院自体は活発な動きを呈している。
、、、、脚至治〔一一年〕壬戌、行宣政院虚径山席、強師(Ⅱ矧劉科)主之。師胎書院官、卒不就。結茅中佳山、将終焉。…
…十月、剰詞畠荊、特旨降香弁賜金欄僧伽梨、詔行宣政院官、親詣山、宣諭恩意。(「中峰庁驫」巻一一一○・行録.乱す~駒の中峰、mの元嬰行端、岡の月江正印はそれぞれ図⑬山に既出。
そして英宗が没した翌年、晋宗の泰定元年(一三二四)、脱歓が江湖行省平章政事となり(「新元呂巻三二.行篁箱錘表窓騨)、
併せて領行宣政院事となって活躍を開始することになる。 、、勵自泰定元年来、得丞相〔胴馴答刺聿〕領院事。而相公為之叶賛、|更旧弊。(「蒲零乘」轡間.昼忽部鴬總管瞥』、瞳)
脱歓(弓・曲・弓一一一九二~一一一一二八)の伝は「元史」巻一一一一六「恰刺恰孫〈C:C閉)」(一一一二九五頁)の伝に附録されている。吟刺
恰孫は脱歓の父であり、大徳三年に中書左丞相、同七年には右丞相となっている。名門の出身である脱歓は、大徳十
一年五月、十六歳で入侍(「元崖巻一三六・三一一九四頁)、御史中丞を経て皇慶二年一一一月、一一十二歳で御史大夫となり(同前.
巻一一四五五五頁)、延祐七年には南臺大夫に遷っている。また江断行省平章政事となった翌年の泰定二年(一一二一一五)正月
脚至治〔二年〕壬戌、行宣幸
…十月、英宗皇帝、特旨 『臼、「西天目祖山志」巻二・]宮) 『臼、「西天目祖山志」巻二・]宮) 、、、、、至治〔一一年〕壬戌、径山虚席。.…:行宣政院請師〈Ⅱ司劉制淵)補其処。(「金華黄先生文集」巻四一.径山元翌禅師塔銘.]谷、
。{「増築続伝燈録」巻一一一・日台・いむ『②、「五燈会元続略」巻一一一・口麓△望四) 、、、、鋤至治一一年壬戌五月十八日、〔則制]山師山受行宣政院請、入〔湖州何山宣化禅〕寺。(「月江正印禅師語録」巻上・住湖州何山
⑬至治二年壬戌五月十八 宣什騨寺語録・曰麗・己匡〉 の中峰、mの元嬰行端、 34、、、、、
㈱劉隠訓倒方主中竺法席、力蓉起之(Ⅱ刑劉四国)。江断行省丞相脱歓公、時領宣政院事、亦遣使迫師(Ⅱ刊圏祠創『)出
世。師皆不聴。(護法録・巻三・仏慧円明広照無辺普利大禅師塔銘・蟹)この中、鋤の笑隠大訴(一二八四~一三四四)は後に釈教宗主兼領五山寺を拝する大慧派の禅僧である。資料に住山の年
次は見えないが、笑隠の中天統一一入寺は「泰定一一年十月十七日」(「篭隠禅師語録」巻一・凶】⑭]・】{)厳)のことである。剛如蓄浄真
(一一一六一一~一三一一一三)は上天竺第一一一十九代住持となった天台系の教僧である。鯛の東喚徳海(’一一五六~一一一一一一七)は松源派石
林行篭の法嗣で、横川如洪の法姪に当たる。また岡の永嘉元啓は未詳。幽飼の竹泉法林(一一一八四~一一一一五五)は元里行端
に多での足跡を残すことになる。 省宰相壬率営)その任にある。そして、行省の平章政事・左丞相の任に在った五年間、領行宣政院事として江南仏教 一一十三日甲辰に一一一十四歳で行省左丞相となり(「元2巻一一九・六五三頁)、死去する天暦元年(一一一一一一八)まで(「新元呂巻一一一二・行 図表歪一一年、澗馴劉型桐謂〔罰圃樹濁出居霊隠。(「阿育玉山志」巻八下・有元霊隠承徳禅寺明宗恵忍禅師東襖海和尚塔銘・]凄) I…:卿泰定〔一一一年〕丙寅、寿卒。時江漸丞相脱歓公領行宣政院。以杭之浄慈典蔵永嘉一兀啓主之(Ⅱ法雲寺)。(「蒲室集」巻
九・寧国路宣城県織玻山桜雲禅寺記・】念)幽行省左丞相脳瓢凋曇明〔椚割鋼潮翻凹主万寿(Ⅱ十刹第四位)、遷中絲一一(Ⅱ十刹第一位)。(「続燈存稿」巻五・m因)
飼行省差丞相醐翻剰筆頭〔糊割劉圃州〕主霊隠(Ⅱ五山第二位)。宗風大振。(「増築続伝燈録」巻四・国]念・」]g、。{「続燈存稿」巻五・
、、、、、 ⑩江制行省丞相脱歓公、……兼行宣政院事、領東南浮図之教。几大刹、非名徳不軽授。特請師(Ⅱ闇劉調)住中天 竺。(「笑隠禅姉語録」巻四附録・行遺記白]巴・】圏、、。〔・塔銘・]函&) III0IIII--I、、、、 剛泰定〔一一年〕乙丑、行省丞相脱罐公兼視宣政院事、拳〔刎劉劃團『〕住下天什一一。〈「天如惟則禅師語録」巻六・上天竺寺如篭和 留已、「浄慈寺志」巻一○凸含) 尚塔銘・ロ圏・←巴、) 35の法嗣、鋤の千巌元長(一一一八四~一一一一五七)は中峰明本の法嗣である。その他、脱歓の名前は出てこないが、この時期に
行宣政院が住持任命関わった例として 、、、、、泰定中、行宣政院稔師(Ⅱ潤捌淵)之名、命出世海塩之福譲。(「護法録」巻一上・仏日普照懲辨禅製蕊・]淫)
鋤泰定元年、刊岡〔調澗〕陞遷演福。行宣政院請論師〈Ⅱ割例引)継其教席(Ⅱ海塩当湖徳謄守)。〈「護法塗巻一一一仏鑑円照論師の楚石梵埼〈’一一九六~一一一一七○)は大慧派元里行端の法嗣で、その海塩(斯江省嘉興府)福藻禅寺への入寺は泰定元年冬の
ことである(「楚石禅師語録」巻一・住福騨禅寺語録・口匿・弓・)。卿の大用必才(一一一九一一~一一一一五九)は天台宗の僧で、その師である玉岡蒙潤(一一一七五~一一一一四一一・古源永清の弟子)の南天妹一一の演福教寺陞住に伴って、玉岡が住していた海塩徳勝寺を継席した
ものである。鋤は「至治初」から「蹄三年」とあるから泰定元年のことであろう。季荷允若(一一一八○~一一一一五九)は天台宗
湛堂性澄門下の「四天王」と言われた一人で、趙孟順から「僧中御史」と称された僧であり、後に元末の至正十九年、
丘〈禍に遭った際、毅然として白刃に害され、「白乳溢出干地」(「鷲瞳録」巻一一一自陣~す〉と一一一一口わた人物である。釦の孚中懐信 (一一一八○~一一一一五七)は松源派竺西妙坦の法嗣で、以後、中天竺・天童・大龍翔と陞住を極めている。 (麹)住持任命以外に、脱歓が仏教行事を実施した記事も散見するが、彼において特筆すべきは住持選定における「公選
之道」〈「蒲壼藁疏」逸休眺住越之天葉斎序・鼻)を開いたことである。その公選とは、「〔脱歓〕丞相領院事、以三名圃選住持、
くじびき賄賂不行、善類吐気」(「蒲享藁疏」依無住住今川慶費帆諸山疏序・』』す〉とある様に、諸山より一一一名を推薦させ、鬮拍によって住持
を決定するというものであった。これ以後、「凡住持、不拘寺院大小、倶従三名」(「蒲霧護」答愚如篭替・学)とある通り、 の四つがある。 闘奉歪元年、玉岡〔拳 師大用才公行業碑・愚、) 、、、、倒奉全正中、行一曰一政院、
山塞歪〔三年〕丙寅、
請〔詞謝州劃臼主弥陀興什畦叙二屯(「護法録」巻一一一・天竺霊山敦寺慈光円照法師若公塔銘・覺~巴鱒) 、、、、 行宣政院請師〈Ⅱ剰刺倒伺)出世〔四〕明之観二且(「護法録」巻一上・大天界寺住持孚中禅師信公塔銘・画す) 36天暦元年(致和元年・’一一一一一八)七月十日庚午、晋一歪蛮疋帝が崩御し、以後六年間、後継をめぐる政争もあり天順帝・明
宗・文宗・寧宗・順帝と五人の皇帝が交替するが、その間、文宗の天暦元年、つまり脱歓が死去した蝿に行宣政院が
〈躯) 廃止され、これに替わって十六処の広教総管府が設立されたという(「仏祖歴代通載」巻一一二・『詮す、「仏祖統紀」巻四八・畠・)。 前節の終わりに引用した「一兀史」巻一一一一一(七二一頁)の資料にあった通り天暦元年十一月二十六日甲甲に行宣政院が廃止 されたとするならば、広教総管府はその同じ年のそれ以降の年末に設置されたこととなる。この十六処広教総管府の設置について「元史」巻一一一五(七七六頁)は三年後の至順一一年二月一一一日戊申のこととするが、今のところ何れが正しいか
(野) 決め手は存在しない。天暦元年以降、行宣政院の一任在に関して一一一一巨及した資料がないから、天暦元年説が正しいとも考 えられるが、同時に至順二年以前に広教総管府が存在した事実を示す資料もないのである。宋濾の文章に「天暦初、 (躯) 朝廷新設広教都総管府」(「護法録」巻一下・仏心蓬揖妙辨大師別峰同公塔銘・】③す)という記述がある一方、同じ宋澱の文章に「至順 〔三年〕壬申、広教都総管府新立」(「護法録」巻一一一二兀埜玉林禅駆桐江大公行業碑銘・獣)という記述もあることから考えると、明一一一名の候補による鬮拍は行宣政院による住持選定の際の{憂八となり、順帝期に至るまで広く行われることにな麺。
、、、、尚、「元史」巻一一一○に拠れば、泰定一一一年(’一一一一一六)八月一一十一一一日甲午、「罷行宣政院及功徳使司」〈六七一一頁)とある。し
かし、「新元史」巻一九はこの記事を削除しているし、「元史」巻一一一一一の天暦元年〈一一一一一一八)十一月二十六日甲申条に、「御史臺臣言、「行宣政院・行都水監宜罷」。従之」(七二一頁)という一節があり、更には「護法録」に「丁卯(泰定四年・’三
二七)春正月、劉鳳訓到一一一口刊闘(国圏行業千行宣政院、将惇出世住大禅坊」(巻一一一・天龍禅師無用鶴甚塔銘・』]す)と、行宣政院が
廃止されたとされる翌年にまだ存続していたとする記事もあるので今回は採用しない。 五、十六処広教総管府の設置(天暦元年~元統二年)……文宗 37初には既に記録の混乱がかなりあったのであろう。「新元史」巻一一二が泰定三年の行宣政院廃止と同様に広教総管府設
置の記述を採用していないのも一つの見識だと言える。何れにしる文宗の時に広教総管府が設立された事実は間違いがない。そしてその総管府内には官吏として達魯花赤
(Ⅱ長官)・総管・同知府事・判官各一員が置かれ、総管には僧侶が任命されたという(「元呂巻一一一五・七七六頁)。その広教 総管府が住持任命に関わったことを示す資料としては次の様なものがある。 、、、仙至順三年、広教府聰〔到潤刷刑〕主要之隻林。(「攪米櫻謄違巻四・目色・』]曾、同{「篠髪稿」巻五国念・胃)
、、、、、、㈹元統元年、広教都總管府請〔割劉周淵〕開元寺。辞弗就、郡守士民強起之。属天旱、太守道章公請師説法、即
雨至。(「阿育王山志」巻八下・有元阿育王山広利禅瀧持誕此天童承徳寺仏日円明普一蝋鮒光公塔銘・←す} :i’ ㈹元統甲戌(一一年)、制西江東道広敦総管府具疏、請〔|源永寧〕主常之天寧万寿。(「護法録」巻一一上・仏心了悟本覚妙明真浄 大禅蝋學公碑銘・』禺。【「続箪篤」巻六劃す)仙の玉渓思班(?~一一一一三七)は大慧宗果五伝の孫で、堰渓広間の孫弟子に当たる。また四の雪窓悟光(一二九二~一一一一五七)
は松源派東喚徳海の法嗣㈹の一源歪〒(一二九二~一三六九)は園悟克勤と五祖法漬下の兄弟である開福道寧七伝の法孫 宋澱は広教総管府について「避選名山主僧、一帰至公」(「護法鐘巻一下・]弓)と言い、官刹の住持任命において平等な 選定がなされたと評するが、恐らく文宗が広教総管府を設置したねらいはここにあったと思われ、ある程度の役割は文宗は天暦元年九月十三日壬申一一十五歳で即位し、途中、明宗に一日一譲位するものの、モンゴルの奥地に在った明
宗には実質的な権限はなかった。そのため、同年より至順三年八月十二日己酉の崩御に至るまで九四年ほどの間、文
宗が一貫して皇帝権力を掌握することになる。 果たしたものであろう。 である。 38その間、文宗は広教総管府の設置以外にも仏教に関する経営を数多く行っている。その中心となるのは大都の大承 天護聖寺、集慶(南京)の大龍翔集慶寺・大崇禧万寿寺という三力寺の建立と、集慶の太平興国寺の再建であり、大伽 (”) 藍建築のため巨費を投じることになる。その寺院への住持の任命は文含示の命で全て行われている。 、、 、、、、、、
幽天暦元年、出詔書、布徳於天下、即命廷臣、……賜〔曇芳〕守忠為仏海普印曇芳禅師、住持大崇禧万寿寺、兼
、、、、、、 領蕊〔太平興国禅〕寺。(「道圃弩舌録」巻一一四・鐘巌路重建太平興国禅寺碑・]いす~]蟹) 、、、、、、 陶天暦二年己巳、〔大〕龍翔〔集慶寺〕新籾、文一正叩広智(Ⅱ謝鬮調)為開山住持。(「護法録」巻一上・天界警世禅睾第四代覚 崇禧万寿・太平興国を兼住した曇芳と大龍翔集慶の笑隠は飼鋤に既出。㈱の大承天護聖の恵印は教学の僧侶である が、宗派・生卒年等は未詳である。その他、文宗が住持任命に直接関与したとされるものに、笑隠大訴退山後、中天 竺の住持となった一渓自如(生霊栗詳)の選任がある。 、、阿天暦初、中天竺笑隠奉詔開山大龍翔寺。因挙代中竺者三人。御筆点師(Ⅱ。聞剛)名。宣政院具疏敦請。〈「樹蕊続
停攪録」巻四口金・←]、す、、〔「続燈存稿」巻五・$。) 一渓自如は大慧派雲峰妙高の法嗣である。 (犯) これらの寺の中、天暦二年に笑隠大訴が住持として入った大龍翔集慶寺は以後、五山の上に位置する寺として明初 に至るまで江南仏教の頂点に在った寺であり、恐らく住職となった笑隠自身は脱歓の時代から引き続いて住持選任に 強い影響力を持っていたことと思われる。 文宗が笑隠を始めとする禅門の高僧に対して深い敬慕の念を抱いていたであろうことは、天暦二年の中峰明本に対 、、、、、、 、 ㈹〔至順〕一一一年、〔大承天護聖〕寺大成。於是召五臺山万聖寺釈師恵印、特賜栄禄大夫司徒、主教於寺。(「道圃学古 ⑮天暦二年己巳、〔大〕 原禅鞭垣衣塔銘・『7蟹) 〔至順〕三年、〔大承天護一 録」巻一一五・大承天護聖寺碑・副) 39する追認や(「増築続伝燈録」巻六・烏山、「仏祖統紀」巻四八ム患、)、至順元年の笑隠大訴ならびに曇芳守忠の京師への召聰と賜 坐説法(「金華黄先生文集」巻四一一髄翔集塵寺笑隠禅師塔銘・国ワ)、至順二年の断崖了義に対する遣使宣問(「道圃学古録」巻四九・断崖和尚 塔銘・蟹)等を見て‐も明らかであり、その繋がりで禅門の仕畦符任命に対しても大きな関心を懐いていたものであろう。 至順三年八月十二日己酉に文宗が二十九歳で崩御し、明宗の第二子であった七歳の寧宗が十月四日庚子に即位する。 しかし、僅か二ヶ月足らず後の十一月二十六日壬辰に没し、その後を継いで翌元統元年六月八日己巳、明宗の第一子 であった十四歳の順帝が即位する。順帝はこれ以後、滅亡に至るまでの三十六年間、元朝最後の皇帝をつとめるが、 政情が不安定になる中、仏教興隆に尽力した文宗の時代とは一転して、私創寺院の禁止や度牒の有料化(「元呂巻一一一八・ 八一一五頁)、仏教行事の削減(同前・八二一頁)など、仏教政策も引き締めの様相となっていく。 その改革の一貫として、順帝即位の翌年の元統二年正月二十五日甲寅、十六処の広教総管府が廃止され、行宣政院 が杭州に三度目の設置をされることになる(「元史」巻一一一八・八二○頁)。「元史」の同年十一月七日辛卯条に拠れば、「賜行宣 やくしょ 政院廃寺銭一千錠以営公廓」(巻一一一八・八二五頁、、[「新元史」巻二一一一には無し)とあり、その運営費として廃寺のお金が充てられ た事実が知られる。 また、三度設置茎 庭、三度設置された行宣政院の中で、その組織内容が正史の中で明確に分かっているのはこの時のものだけである。 ㈹元統二年正月、革罷広教総管府一十六処、置行宣政院干杭州。除院使二員、同知二員、副使二員、同余・院判 各一員。首領官、経歴二員、都事・知事・照磨各一員、令史八人、訳史二人、宣使八人。(「元史」巻九一一・百官志 八・二一一一一一一五頁、具「新元呂巻五八・画煙) 六、三度目の行宣政院設置(元統一一年~至正一一十七年)……高納麟・采児只・連識帖穆爾 40
この中で長官である院使に二人が任命されていた事実が知られるが、その一人は江断行省の丞相が充てられていた ことが、次に引く平山処林(一二七九~一一一一六一)の「塔銘」によって知られる。 、、、、、、、、、、、、、、
卿元時断江行省所治、必命丞相鎮之。且兼領行宣政院事。前後以丞相領院事者、如別怯里卜花・孕児只・亦輩真班、
悉皆礼敬、為師(Ⅱ刑刷編)外護。而達識帖睦爾敬礼尤篤。(「浄蕊守志」巻一一一・徐一壌砦愚鴬蝿師平山林和尚塔銘・」&) 平山は破庵派及庵宗信の法嗣で、石屋清瑛(一二七一一~一一一一五二〉の兄弟弟子、中峰明本とは法従兄弟になる。文中、江 断行省の丞相として挙げられた人物は、誤字が目立つものの、別怯里卜花は別児怯不花(国の『訂国§.?~一一一一五○、別里怯 不花)を、孕児只は朶児只e・1一・一一一一○四~一一一一五五)を、亦蕊真班は亦憐真班(口『旨・冒恩一・?~一一一一五四)を、達識帖睦爾は連 識帖睦邇(曰働、弓圓員。?~’一一一六四)を指し、それぞれが行省丞相の地位にあったのは、別児怯不花が至正二年(一一一一四二) から四年(一三四四)まで(「元史」巻一四○・一一一一一一六六頁「新元呂行省宰囎表・溢四~s画)、朶児只が至正四年から七年まで(「元呂巻 一一二九・一一一三五四頁、「新元呂巻一一一一一・行沓睾相年表・鳶~臼画)、亦憐真班が至正十一年(一一一一五一)から翌十二年まで(「元呂巻一四五・ 一一一四四六頁、「哲兀望行省宰想笙表・田ワー:)、達識帖睦邇が至正十五年(’一一一五五)から至正二十四年(一三六四)までであり(「元呂 巻一四○一一一一一一七五頁「新元呂行省宰想嘩表・爵~団す)、行省丞相の位が空位だった時期を除き、至正二年以降、元末に至る歴 代四人の丞相名が並んでいることになる。但し、後に改めて紹介する朶児只と達識帖睦邇を除く二人は、僧侶の任命 にその名前が出てくることは無い。以下、長期にわたる順帝期について五つの時期に区切って、実質的に住持任命に 関わった人物について見てみよう。 この七年間、住持任命に際して行宣政院使として諸資料に名前が挙げられている人物は存在しない。至正初年に院 (ア)元統一一年(一三一一一四)~至正元年(一一一一四一) 41、、、、 倒〔裕之智寛〈雛雪洞)〕於後至元五年、以行宣政院撤、由呉江聖寿来、主嘉禾一一一塔景徳寺席、構一軒、顔曰愛松。 所著「雲海偶和詩」。(「元詩選癸集」壬上・召す~爵) 、、、、
倒重紀至元中、行宣政院遷主嘉禾之東塔、公(Ⅱ‐ゴ劃仰ヨ剛)不赴。時宰臣領院事、乃改宝林。……至第一一疏姶投快而
起。(「護法録」巻一丁仏心慈済妙辨大師別峰同公塔銘・]夢~]『四) 、、、、 剛至正〔元年〕辛巳、行宣政院、遷〔掴山綱一m(〕主金華山智者広福禅寺。(「護法録」巻三・元故宝林禅師桐江大公行業碑銘・閉”) この中、剛東漠慧日(一一一九一‐‐一一一一七九)と仙天岸弘済(一一一七一~一一一一五六)は天台宗の僧で、東漠は仏光法照の孫弟子、天岸は湛堂性澄の弟子である。倒の裕之智寛は松源派東喚徳海(一一一五六‐‐一一一一二七)の法嗣。岡の一雲大同(一一一九○~一一一一七○)
は別峰と号した華厳宗の僧。剛の桐江紹大(一一一八六~一一一一五九)は破庵派虚谷希陵の法嗣で中峰明本と法従兄弟である。 禅宗と教宗の僧が入り混じった形となっている。 この時期に一つ忘れてならないのは、大龍翔集慶寺にいた笑隠大訴の動きであろう。元統一一一年(一一一一一一一五)七月、東陽徳輝が重輯し、笑隠が校正した「勅修百丈清規」が出され(「勅修百丈清規」附録・欧陽玄叙自室皀巴。)、同じ蝿に笑隠は特詔
によって「釈教宗主兼領五山寺」の号を加えられており(「金華黄先生文集」巻四一一・龍翔集慶寺笑隠禅師塔銘・]興国]圏・】§)、引 き続き江南仏教界に大きな影響力を持ち続けていたと思われる。 〈、} 便として岳石木(]・§宮、また約薩識憾爾とも表記)なる人物がいたことが知られるが、彼の名前が仏教との関わりで出てくる (鉋) ことはない。但し、江南の行宣政院そのjbのが住持任命を行っていたことを示す記事はいくつか見える。 、、、、 剛〔重紀〕至元四年、行宣政院、釆諸人望、以主列刹。而師(Ⅱ劇劃割則)獲住薦福。(「護法録」巻一下・上天竺慈光妙稔普済 大師東漠日公碑銘・]】す、。『「続仏祖漣極」巻下・凶巴・韻、。、「杭州上天竺講寺志」巻四・窟) 、、、、 ⑭重紀至元之五年、江南行宣政院、選〔天岸弘済〕主会稽之円通。……寺為中興。(「護法録」巻一一一・普福法師天岸済公塔 銘・」g) 42至正二年、江断行省平章政事であった高納麟(一二八一~一一一一五九)が行宣政院使に除せられる。納麟は西夏国河西(今の 甘粛省玉門付近)の出身で、祖父の高智耀(生杢襲詳)は西夏に仕えていたが、西夏滅亡後、世祖の信任を得て翰林学士を 拝し(「元史」巻一二五・一一一○七二頁)、父の高客(一二四九~一一一一一四)は成宗・武宗・仁宗の三代に仕え、官は江南行臺侍御史か ら御史中丞となり准東道粛政廉訪使に至った人物である(同前一一一○七四頁)。納麟の伝は「元史」巻一四二〈一一一四○六~八頁) に見えるが、彼は歴官の後、重紀至元元年(一一一一三五)に江南行江湖行省右丞となり〈「新元呂巻一一一二・行省宰相年表ム念)、六 年後の至正元年(一一一一四一)、つまり院使になる前年に行省平章政事に昇任しており(同前・§)、院使となった翌年の至正 三年には河南行省平章政事に遷っている(同前・鼻)。よって江南との繋がりは都合七年間あったことになる。 高納麟が院使の職に在った期間は足かけ二年に過ぎないが、その間に仏教行政に関わる大きな改革を行っている。 、℃、
飼至正一一年、〔納麟〕除行宣政院使。上天緋一一耆旧僧彌戒・径山耆旧僧恵洲、盗縦犯法、納麟皆坐以重罪。請行宣
、、、、、、 、、、、 政院設崇教所、繍行省理問官、秩四品、以治僧獄訟。従之。(「元史」巻一四一一・一一一四○七頁) 教寺である上天竺と禅寺である径山で起こった犯罪をきっかけとして、納麟の発案で行宣政院の中に僧侶の獄訟を 取り扱う専門機関として設けられたのが崇教所であった。至大四年(’一一一一一)に僧人の訴訟が有司に委ねられる様にな ってから、実に一一一十年ぶりの専門官の設置であった。資料、に拠れば、至元二十八年に設置された最初の行宣政院は 僧侶の訴訟を管轄していたとされているが、ここで崇教所が設置されたということによって、二度目、’一一度目の行宣 政院にはもともと獄訟の職分が備わっていなかったことが知られる。 この様な機関の設置は、納麟が江南仏教の改革に積極的な関心を持っていたことを示すものであろうが、更に彼の それは崇教所の設置であった。 (イ)至正二年(一一一一四一)~至正一一一年(一一一一四一一)……高納麟 43改革の矛先は住持の選任に向けられる。 、、、、、、、
岡至正二年、行宣政院使納麟公欲尽革僧寺宿敵、首挙師(Ⅱ劉濁詔)阿育王山広利禅寺。先是諸僧構訟、産業愉没、
過者半至霞鶴不継。師力除其姦。旬月之間、山川草木、為之改観、墾田既復、倉僚日積。(両育王山志」巻八丁有 元阿育玉山広利禅圭佳持兼住天童曝露守仏日円明鷲蝋師兀公塔銘・合~蟹)、〔至正〕一一零、高倒細鯛由枢密使、出為行宣政院使、川扱教門為己任。凡選住持、必推有徳望者、諸妄庸不得
倖進。浄慈禅寺、杭之大方也。……公素知師〈Ⅱ刑刷嗣)有道行、以謂、浄慈住持、非紺謝不可。拠睨揮塵。住
後学徒雲集、動至万指。(「浄篭守志」巻一一一・鑓愚怯悟糎師亟山林和博橋銘蟹~ワ〉 あらたすぐつまり「僧寺の宿敵を革め」「教門を錘う」ための住持任命であった。雪窓は⑫に、平山は㈹にそれぞれ既出している。
この他、院使在任中の一一年間に納麟が行宣政院主導で行った住持任命が数多くある。納麟の名前が見える資料とし先の雪窓の育王住持も含め、何れも禅・教の大刹の人事である。この中、東漠と曇芳は剛飼に前出しているが、
の絶宗善継〈一一一八六~一一一一五七)は天台宗の僧で、湛堂性澄の弟子であり、剛の天岸弘済と兄弟弟子に当たる。また、
この他、院使在任{ ては次の三つがある。 州上天竺講寺志」巻四・富) ママ 剛〔至正〕一一年四月、江断行省左丞相則は冶沁普化公(Ⅱ別間倒刑楓)・行宣政院使鋤蝿副勾、 〔圏詞割判柳〕禅師住径山。(「曇芳守忠禅師語録」巻下附録・塔銘・㈲】瞳・】『弓) ㈹至正〔二年〕壬午、断省平音嵩公納騨、兼領行宣政院、移〔紙崇善継〕住天竺薦福敦寺倒歴三暑寒〈Ⅱ至元六年)、下竺霊山教寺災。至正元年、宣政使高公納麟謂、「非師(Ⅱ劇劇画皿無以腐起廃之任」。移
l 師粒之。師至修普賢大士殿。(「護法録」巻一下上天竺鷲莎応普済大師東漠日公碑銘・ロヮ、。{「続仏柤漣に」巻下・田目・欝同、「杭 法師塔銘・]蟹) 断省平章高公納騨、 兼領行宣政院、移〔絶宗善継〕住天竺薦福教寺。(「護法違巻一一一・故文明海慧 差宣使持省院疏文、起 (59)(60) 44の中に、誤字はあるものの当時院便を兼任していたはずの行省丞相である別児怯不花の名前が見えるが、これ以外、 他の住持任命の資料には彼の名前は全く見えないから、実質的な院使の仕事は納麟一人が行っていたものであろう。 丞相の院使は単なる当て職であったことが窺われる。 その他、納麟の名前が冠されていない行宣政院によるこの時期の住持任命としては、次の七つが知られる。 、、、、 側〔至正〕一一年七月〔十一日〕……行宣政院又撒請〔独峰□高〕主海塩之天寧寺。(「蒲窒素」巻一四・鑿節土寺記後・『“) 、、、、 倒至正〔|一年〕壬午十月十日、〔以中智及〕承〔江南〕行宣政院疏請入〔慶元路昌国隆教禅〕寺。(「愚篭和尚語録」巻一・ 初住慶元路隆教禅寺錘爵・国層・』田山、。[「護法塗巻一下・明辮正憲蝋蘓師径山和尚及公塔銘凸留) 、、、、 ⑪至正〔一一年〕壬午、江南行宣政院命師(Ⅱ副削剥)主大華蔵寺。師挙龍門贋代之。(「護法鐘巻一一上・仏心了婿鱒砂明真 側の独峰□高は海塩天寧寺に入って僅か二ヶ月余で遷化したことが知られるが(「蒲壼萸」巻一五・還減独峰文・扇山)、それ 以外、法系等については未詳である。㈹の以中智及(号鴎鰭・’一一一一一~一一一一七八)は大慧派元翌行端の法嗣で、後に浄慈・ 径山と陸住した禅僧である。岡の一源は㈹に既出。龍門贋は未詳。脚の用貞輔良(号介庵・’一一一一七~一一一一七一)及び岡の用 章廷俊(昊徽庵・一二九九~一一一一六八)は、共に大慧派笑隠大訴の法嗣で、用貞は天童・中天妹一一・霊隠に、用章は中天竺・浄 慈に歴住することになるが、その準備段階での住持である。㈹の松隠小茂は松源派古林清茂(一一一八○~’三六四)の法嗣 幽主正三年〕壬午、行宣政院榔 霊隠妻散輔良大師石塔碑銘・瞳す~誉) 浄大禅甑寧公碑銘・爵) 蜘至正三年〕壬午、 、、、、 、室正一一年、行宣政院選師(Ⅱ剛割固倒)住蘇之白馬。(「増築綜伝臓録」巻五・口台・営四) 、、、、 、室正〔一一年〕壬午、行宣政院命〔実庵松隠小茂〕長明之瑞雲山清涼寺。……住清涼一十五年。(「諜法録」巻一一一・仏尤普 照大師塔銘・麓巳 、、、、 行宣政院徽〔用劇輔副{〕大師、出世嘉興資聖寺。……大師年始一一十有六・(「護法録」巻一一上・杭州 45
高納麟は至正三年、河南行省平章政事へと遷り(「新元呂巻一一一一一・行省宰想率表・鼻)、院使の職を辞する。そして、納麟 が去った翌至正四年、河南行省左丞相であった朶児只が江湖行省左丞相として赴任することになる(「元史」巻一一一一九・一一一 一一一五四頁、「新元2巻一一一一一・行省丞相錘表・乞画)。 朶児只e・1一・一一一一○四~一三五五)は、太祖に仕えて国王に封じられた木華黎(胃。胃一・一一七○~一二二一一一)の六世の孫に当 たる。その伝は「元史」巻一一一一九(一一一三五一一一頁)などに見えるが、名門の出身でもあり、彼自身、天暦二年(一三二九)に国 王位を襲い、後に中書右丞相にまで上り詰めている。彼は江断行省左丞相であった至正四年から七年にかけて、当て 職として当然、行宣政院使の任に当たっていたと思われるが、実際に院使として活動をしていたことを示す資料は皆 無に近く、僅かに次の資料が一つ存するだけである。 盆--1個、、、、、、 、至正五年、漸江丞相朶児知国王、領行宣政院事、特移師(Ⅱ閣卿劇)住杭之中天妹一一。(「径山志」巻六・危素撰古鼎銘鋼肺 誤字があるが、この頃、朶児只が住持任命に関わっていた事実は間違いあるまい。古鼎祖銘(一一一八○~一一一一五八)は大 慧派元望行端の法嗣であり、二年後の至正七年、径山に陞住し(「径山志」巻六・嬉索撰古鼎銘禅鄭洽銘・】Cワ、「轄懲左稿」巻五・§)、 その後、径山が戦禍に巻き込まれるまでの十年間、その住持として活躍した僧侶である(同前・塔銘皀騨)。 この時期の行宣政院が行った住持任命としては、この他に次の二つがある。 、、、、 倒主正六年冬、江南行宣政院亦録師〈Ⅱ鬮捌副)之行業、請広徳石渓興龍禅寺。(「護法録」巻一一上・仏智弘辨禅師鯵膿愚公石 である。 塔銘・』s) (ウ)至正四年(一三四四)~至正七年(一三四七)……朶児只・高納麟 46
傑峰世愚(一三○一~一一一一七○)は臨済宗園悟克勤下、此庵景元六伝の法孫であり、無相□観は法系未詳であるが、元統 元年(一一一一一一一三)、皇太后より金欄を下賜されている(同前)。 この期間に起こった大きな事件としては、大龍翔集慶寺の住持交替があり、これにも朶児只が当然関係している。 至正四年五月一日、笑隠大訴は後を径山の曇芳守忠に託す書簡を作って広智庵に退居し(璽薗禅師語録」巻四附録・虞集撰行 道記・日田・冨印、)、同月二十四日に遷化する(同前、「金華黄先生文集」巻四一一・笑隠禅勵冶銘・]凶)。そして翌至正五年正月一一十九日、 曇芳は大龍翔に入院することになるが(「曇韓灘師語録」巻下・大辮翰遮慶寺語録・曰圏・冨璽)、その際の記事に次の様にある。 、、、、 1幅-1 m〔至正〕五年乙酉春、行臺奉旨、移師(Ⅱ劉割劇)住龍翔。江湘丞相朶而只公、親為敦請、即日乗伝、至金陵。 (「曇覧寸忠禅師語録」巻下附録行業記・国】圏皀『、す) ただ、この時の住持任命は「今上皇帝特旨」(同前巻下附録・塔銘』ゴロ)に拠るものであり、行臺(狩御史謹)主導で行われ ており、行省丞相の朶児只は単なる取り次ぎ役であった。更にこの行臺の関与は翌年、曇芳が大龍翔に再住する際に も見られる。曇芳は大龍翔に住持した翌至正六年三月一日、七十二歳という高齢もあり、退院して朝命を待つが、七 月十三日に大龍翔は火災に遭って焼失し、同月十五日、再往することになる(「曇芳禅師語録」巻下・大龍翔鐘慶寺語録・曰困・ ]so)。曇芳の「塔銘」「行業記」に言う、 、、、、 ⑪〔至正〕六年一一一月、〔曇芳守忠〕禅師退居広慈庵。……七月、〔大龍翔集慶〕寺冨。南臺大夫納燐率僚属、詣広慈 庵、謂師曰、「国朝江南建寺、惟此一寺為盛。今遇蒼変。非有道行願力者、執能興復之」。禅師側然、念先皇 厚恩、即起主寺事、首傾衣鉢、市木鳩工、重為興造。(「曇芳室愈禅師語違巻下附録・塔銘・国』餡]割) 恵安禅寺璽興記・蟹) 剛至正七年、〔鉦紺 塔碑銘・巴ご
〔無相、観師(號鑑空)〕承杼院割、
I 至本寺(Ⅱ雷姿禅寺)法席、嗣子本寺隠岩静顕師云。(「粛羅ェ文集」巻一一○ 47、、、、