著者
橋本 由紀子
雑誌名
東北ドイツ文学研究
巻
54
ページ
15-35
発行年
2012-09-30
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127125
──バロック的祝祭から見たゲーテの宮廷祝祭劇──
1)橋本 由紀子
1.序 20 代にはシュトルム・ウント・ドラングの旗手として,晩年には『ヴィルヘルム・ マイスターの遍歴時代』や『親和力』,『ファウスト』の筆者としてよく知られたゲー テは,27 歳からヴァイマール宮廷に入って政治的要職に就き,詩人としてだけでな く宮廷人としての顔をも持つことは周知の通りである。それゆえ,当然宮廷内外の 祝賀行事の為の祝賀劇(Festspiel)を執筆することもあったが,こうした祝賀劇制 作者としてのゲーテはこれまで殆ど注目されてこなかった。したがって,祝賀劇制 作者としての著作『パレオフロンとネオテルぺ』Paläophron und Neoterpe(1800) も顧みられることが少なかった。この作品は,1800 年にザクセン=ヴァイマール= アイゼナハ大公国太后アンナ・アマーリアの 61 歳の誕生を祝して制作され,太后 の誕生日から 1 週間遅れの 10 月 31 日,太后の居城ヴィトムス宮殿で初演されたほ か,1803 年 1 月 1 日にヴァイマール劇場で,1819 年 2 月 3 日にはカール・アウグ ストの孫マリーの 11 歳の誕生を機にゲーテ邸内ジュノーの間において,2 回とも最 終場面のテクストを変更して再演された。 この作品は,太后の誕生祝いの余興ゆえ,文学作品として認知されず,これまで のゲーテ研究において殆ど議論の対象とされなかった。ほぼ唯一と言っても過言で はない先行研究2)であるアルトゥア・ぺタクによる分析がなされたのが,1901 年の 1) 拙論は,2011 年度日本独文学会秋季研究発表会での同一表題の口頭発表の内容を大 幅に改訂したものである。『パレオフロンとネオテルぺ』からの引用は,以下のハン ブルク版を使用し,本文中に行数を示す。Goethe, Johann Wolfgang [1800]: Paläophron und Neoterpe. In: Johann Wolfgang von Goethe Werke. Hamburger Ausgabe (= HA) in 14 Bänden. München 2000, Bd. 5., S. 300-308. また,翻訳に際しては,熊田力雄訳:パレオ フロンとネオテルぺ,ゲーテ全集第 5 巻,潮出版社,2003 を参考にした。2) べネデット・クローチェによるこの作品の紹介があるが,それは専ら本作のイタリア
語訳とその解説であり,論考ではない。Vgl. Croce, Benedetto: Un contrasto tra la vecchie età e la nuova. Il „Palaeophron und Neoterpe“ di Volfango Goethe. Critica 30, 1932, S.
ことである。ぺタクによれば,『パレオフロンとネオテルぺ』には,テクストの随 所にその「ロマン主義的」特徴が認められると言う3)。例えば,アレゴリー的人物 に仮面を使用すること,観客への呼びかけ,シンボルとしての薔薇の冠とオークの 冠の戴冠,比較的多くの箇所でのロマン的イロニーの使用などをその根拠に挙げて いる4)。だが,これらの指摘も果たしてどこまでロマン主義的特徴に合致している のか,いささか疑わしい点があることは否めない。主としてどのようなロマン派詩 人に依拠してぺタクがこのような指摘しているのかが不明であり,ロマン派の諸作 品からの具体例を一切挙げていないからである5)。 それのみならず,この作品がぺタク以来,全集版における解説を除いて一顧だに されなかったことに,ある種の違和感を感じざるを得ない。同じ祝賀劇である『パ ンドーラ』が,『ファウスト』に見られる主要モチーフ(「原初に行為ありき」や「永 遠の女性」)が見受けられるという理由で多数の研究がなされているのとは甚だし い違いを見せているからである。だが,『パレオフロンとネオテルぺ』を注視して みると,ここにも『ファウスト第一部』と共通の,重要なテーマが見出される。後 述するように,それは旧時代と新時代の対立である。また,それだけでなく,この 作品が前世紀のバロック時代における宮廷文化の 1 つである祝賀劇の伝統を踏襲し ていることも見逃されてはならない。この見地から,ぺタクとは別方向の分析をす る価値があると思われる。拙論の目的は,宮廷人としてのゲーテが著した『パレオ フロンとネオテルぺ』を,バロック期の祝祭という観点から考察し,この作品の制 作期である 1800 年当時において既に古風になっていたであろう祝賀劇をゲーテが 制作した意義を探ることにある。 2.バロック的宮廷祝祭とそこで演じられる祝賀劇 ヴァイマール宮廷の幕僚としてのゲーテが祝賀劇を制作するにあたり,前世紀の バロック期から連綿と引き継がれてきた宮廷祝祭の伝統に従っていたことは,論を 81-94.
3) Petak, Arthur: Über Goethes »Palaeophron und Neoterpe«. In: Chronik des Wiener Goethe- Vereins 15, 1901, S. 18-24. 4) Petak, a.a.O., S. 23. 5) 『パレオフロンとネオテルぺ』の表題を最終決定する際,ゲーテはギリシャ語に造詣 の深いフリードリヒ・シュレーゲルの助言に従った経緯があった。それゆえ,ぺタク は作中のロマン派の影響を主張したと思われる。観客への呼びかけは既にシュトルム・ ウント・ドラング期のゲーテの戯曲『いとしい方はむずかり屋』に見られる。戴冠の 場面はノヴァーリスの『青い花』第 1 部第 9 章に見られるが,『パレオフロンとネオ テルぺ』のような登場人物の間での冠の交換ではない。122 行目以降,179 行目以降, 197 行目以降にそれぞれ使われているとされるロマン的イロニーも,197 行目以降の 例「独善家はまさに正論を言おうとし,それにこだわろうとするからこそ,正論を言 わないのだ。(V. 198-199)」という箇所は理解できるものの,その他の箇所はイロニー としてどこまで妥当か明らかではない。
俟たない。そこで本節では,『パレオフロンとネオテルぺ』を検討する前に,本論 の分析の手掛かりとなるバロック的宮廷祝祭と,そこで演じられる祝賀劇について 概観しておきたい。 2.1 バロック的宮廷祝祭 バロック的宮廷祝祭とは,ある王家に属する人間の誕生日や命日,結婚式,海外 訪問,講和などを契機に,数週間から場合によっては一年間かけて行われる,主催 者の権威誇示を主目的にした祝祭である。この種の意図を持つ宮廷祝祭自体につい て,ファン・デュルメンは,「バロック時代にはじめて現われた現象ではない。こ の種の祭は,貴族が政治的要求を掲げているあいだは存在しつづけたものである」6) と述べている。例えば,ルネサンス期のフィレンツェ公国では,既にバロック的宮 廷祝祭の先駆けとして,1539 年のコジモ 1 世7)とスペイン・ハプスブルク家出身の エレオノーラの婚儀を祝う宮廷祝祭が行われていた。彼の初期の文化政策の要であ る「一五三九年の祝祭は,祝祭としては大規模なものではなく,多くの装飾も,レ オ一〇世時代のメディチ家の方法を踏襲したものであり,新機軸はそれほど多くは なかった。しかしこの祝祭によって,コジモは初めて,自らの君主としての正当性 を,広く内外に知らしめた」8)という。この場合,祝賀劇に類似した出し物として, トスカナの諸都市を寓意化した人物達による歌と踊り,アントニオ・ランディの喜 劇『好都合』が挙げられる。この場合,喜劇よりも歌と踊りの方に政治的意図が含 まれている9)。この出し物は,コジモによって復活したメディチ家礼賛を謳うこと により,メディチ家の伝統の中に組み込まれた君主としてのコジモ 1 世のイメージ 戦略を図っている。また,ここに挙げた出し物の他,エレオノーラを迎える記念門 の装飾にも,メディチ家繁栄の願いとコジモの位置づけを確固たるものにしようと する意図が込められている。 「高所にそびえる城で行われたにもかかわらず,農民や都市貴族の祭文化との境 界線はあいまいだった」10)とされる 17 世紀より前の段階から,前述のコジモ 1 世の 6) リヒャルト・ファン・デュルメン(佐藤正樹訳):近世の文化と日常生活 2 ──村と 都市,鳥影社,1995,215 頁。 7) このコジモ 1 世の宮廷祝祭の例は,君主自身が初めて対外的に自己の威信を広めるた めに祝祭を利用した典型的実例である。石黒によれば,「コジモ 1 世に関していえば 前当主アレッサンドロ暗殺により突如公位を継承したその地位は,続く歴代の大公た ちに比べはるかに脆弱であった」(173 頁)とされ,自らの地位を盤石にするには,ス ペイン・ハプスブルク家から迎えたエレオノーラとの婚儀にまつわる宮廷祝祭によっ て自己神格化を図ることが肝要であった。石黒盛久:マキアヴェッリとルネサンス国 家──言説・祝祭・権力,風行社,2009,170−193 頁。 8) 北田葉子:近世フィレンツェの政治と文化 コジモ 1 世の文化政策(1537−60),刀 水書房,2003,263 頁。 9) 北田,前掲書,174 頁以降参照。 10) ファン・デュルメン,前掲書,215 頁。
婚儀祝祭に見られるような移行期を経て成立したバロック時代の宮廷祝祭は,民衆 の祝祭に見られるような無秩序を排斥し,庶民と君侯貴族の断絶をさらに際立たせ るようになった11)。式次第から祝祭における君主とその家族,宮中貴族の役割に至 るまで,細部にわたって計画し尽くされるよう,運営方法に対しても同じく秩序が 求められた。バロック的宮廷祝祭においては,一つの行事につき,凱旋式,バレエ やオペラなどの舞台芸術,花火,狩猟,軍事教練が形骸化した馬上試合などの様々 な催物が,とある王侯の慶事を祝うとともに敬意を表現するという統一的指導理念 の下,王侯を飽きさせず,彼らの関心を常に惹きつけるために,あらゆる工夫を凝 らして催された。祝賀劇もこのような宮廷祝祭行事の一部として例外なく組み込ま れ,その政治的意図に従い王侯を礼賛する役割を担うようになった。また,この時 代の宮廷祝祭では,その開催規模が祝宴を主催する宮廷の威信を左右するようにな るため,浪費への傾向も持つようになった12)。 贅を尽くすのは費用や時間のみならず,その企画のための人材についても同様で ある。バロック的宮廷祝祭のプログラムは,当代第一線で活躍する芸術家達を総動 員して編成され,頻繁に,しかも次々と祝祭が行われるために,祝祭に関わる芸術 家と学識者の仕事が絶えることはなかった。バロック時代から 1 世紀以上の時が過 ぎたヴァイマール宮廷においても,ゲーテもこの種の芸術家の内に入っていた13)。 そして,このような宮廷祝祭の伝統に沿いながら,本論で扱う『パレオフロンとネ オテルぺ』のほか,『エルぺノール』Elpenor(1781−83),『パンドーラ』Pandora(1808), 11) ファン・デュルメン,前掲書,214 頁以降参照。「十七世紀以降の宮廷の祭の新しい 特色は,一つは,それが庶民社会から際立たせられ,庶民がせいぜいのところその『観 客』であることを許されるにとどまったことであり,もう一つは,宮廷の祭がひとき わ上品になったことである。粗野と乱痴気騒ぎは儀式から跡形もなく姿を消していた。 貴族はもはや農民と争ったり,一緒になって笑ってはならなかった。」(215 頁) 12) アレヴィンによれば,「バロックの祝宴はすべて多様な要素から成る拡大され均衡の とれたコンポジションである。飽和と疲労は変化と転調によって予防されていた。す べての時間はそれ独自の貌をもち,すべての日はそれぞれに異なる標語の下にあった。 しかもなおすべては一つの指導的な理念と結びついていた。どれほど多くの河が,一 六〇八年のアルノー河のように,金羊皮を求めるアルゴナウテンの一行を浮かべたこ とであろう!いかにしばしば,一六六八年のヴェルサイユにおいてのように,キリス ト教の騎士と異教徒ないし魔法使いとの戦いが繰り返されたことであろう。……いか にしばしば王の婚礼が神々の婚礼にまで高められたことであろう。日,週,月は構成 しつくされ,生きているものも死んだものも,城の最下級の従僕や庭園の最後のオレ ンジの木に到るまで,すべては一つの大いなる計画の一部をなしているのであった。」 R. アレヴィン/K. ゼルツレ(円子修平訳):大世界劇場 宮廷祝宴の時代,法政大学 出版局,1985,6 頁。 13) 「プログラムの構成のなかに同時代人を恍惚たらしめる優雅と洞察力が現われてい る。それはたんなる手職人や役人の仕事ではない。ヴェルサイユの大祝宴には,…… 国家第一級の芸術家たちが参加した。他の国では……そればかりかヴァイマルのゲー テまで,その精力の一部を,きわめてはかない,われわれの観念からすれば天才の品 位にもとる,このような仕事に捧げた。」R.アレヴィン/K.ゼルツレ,前掲書,6−7 頁。
『エピメニデスの目覚め』Des Epimenides Erwachen(1814)などの祝賀劇を制作し たのである。
2.2 バロック時代の宮廷祝賀劇『美と徳の抗争』(1678 年頃)
バロック的宮廷祝祭の一プログラムである祝賀劇の実例として,本節では,対立 する両者の和解という設定の上で『パレオフロンとネオテルぺ』と類似の物語構成 を持つ実際のバロック時代の宮廷祝賀劇から,『美と徳の抗争』Streit der Schönheit und der Tugend(ca. 1678)を紹介したい。このバロック期の作品をあらかじめ概観し, 比較材料とすることで,『パレオフロンとネオテルぺ』の特徴がより明確になるか らである。 『美と徳の抗争』は幕間劇付きの一幕物の祝賀劇で,1678 年頃,プファルツ選帝 侯ヨーハン・ヴィルヘルムとオーストリア皇女マリーア・アンナの婚儀と彼女の誕 生日が重なることを契機に制作され,ヨーハン・ヴィルヘルムの統治領の一部であっ たバイエルン地方のドナウ河畔ノイブルクで上演された14)。筆者の名前は特に記さ れていない。この婚儀がいかなるプログラムで編成されていたかは不明だが,この 祝賀劇の表紙にある「いまなお続く花嫁を迎える祝祭」15)という表記から,前節で 概観したような複数の婚儀関連の行事が長期間にかけて開催され,『美と徳の抗争』 自体もその中の一つとして上演されていたと推測してよいだろう。 この祝賀劇の内容構成について触れておきたい。まず,天上界から冥界に至る全 世界において,美と徳のどちらが優れているかについて,ギリシア・ローマ神話の 神々が争いを始める。つまり,ヴェヌス,ディアーナ,テティス,プロセルピナは 美を最上のものと考え,パラス,パン,ネプチューン,プルートーは徳の側に加勢 して戦いに挑む。天上界ではヴェヌスとパラスが,地上界ではディアーナとパンが, 冥界ではプロセルピナとプルートーが,海洋界ではテティスとネプチューンが美と 徳についてそれぞれ論争をするが,両陣営とも持論を展開し合うのみで,互いに全 く譲り合う様子を見せない。 では,この作品において神話の神々が実際にどのような口論をしているかを辿っ
14) Anon. [ca. 1678]: Streit der Schönheit und der Tugend/ Entscheidet und beygelegt in Gegenwart Der so wol an Schönheit als Tugend unvergleichlichen ... Maria Anna, Geborner aus dem Glor-würdigsten Ertz-Hauß Oesterreich/ [et]c. Als nach beschehener Vermählung Mit dem Durchleuchtigsten ... Joh. Wilhelm, Entsprossenem aus dem Uhralten Chur- und Fürstl. Hauß der Pfaltzgrafen bey Rhein ... Bey annoch continuirtem Heimführungs-Fest/ Höchstgedachter Durchleuchtigster Ertz-Hertzogin ... Erfreulichster Geburts-Tag eingefallen/ Und Feyrlich begangen worden : Vorgestellet in Music, und Mit einem ansehenlichen Fuß-Turnier ... Balleten und Täntzen ... So geschehen In der Hochfürstl. Residentz-Stadt Neuburg an der Donau. [http://diglib.hab.de/wdb.php?dir=drucke/xb-4f-408 (16.9.2011)] 本資料には頁数が付されていないため,引用の際にはウェブ上の頁数を 便宜上使うことにする。
てみたい。神々の諍いは,ヴェヌスとパラスの口論で始まる。最初に美の象徴パラ スを登場させるのは,『美と徳の抗争』というこの祝賀劇のタイトルに合わせるた めであろう。 パラス。 徳の輝きは決して衰えない。 徳は墓場を知らぬ。 美は衰えるが, 徳は不滅。 ヴェヌス。 とんでもない!パラスよ,臆面なく傲慢な口をきくでない。 徳などただの幻想の中にあるに過ぎない。16) この後,ヴェヌス軍とパラス軍の二手に分かれた 12 人ずつの騎士達のグループ が武芸試合を見せる。互角の戦いはなかなか決着を見せず,次のディアーナとパン の対決に移る。 パン。 ヴェヌスなど消え失せよ!美など失せるがよい!うわべを装うだけの阿りな ど一切無くなるがよい。 ディアーナ。 黙れパンよ,お前自身醜い男なのだから, 美がお前の傍にいられないのだ。 まもなく私の牧人達がお前に知らしめてくれるだろう, このたびの問題について,いずれお前は黙らざるを得ないということを。17) ディアーナは 3 人の牧人を,パンは 3 人のサトゥルヌスを呼び出し,この 6 人が 二手に分かれて剣術と舞踏で戦い,勝敗を決めようとするが,この戦いにおいても 美と徳のどちらに優位性があるのか結論が出ないまま,戦いは中断する。 天界と地上界での口論の後,優柔不断な態度を見せるヘラクレスの場面が挿入さ れる。このヘラクレスの場面は,美と徳がどちらもその特性上比較困難であること, 更には,ヘラクレスの熟考にもかかわらずなかなか結論が出ない状況を示すことで, 観客にこの祝賀劇の展開を安易に予測させず,彼らの関心を惹き続ける演出上の工 夫が凝らされていることがわかる。 神々の諍いの後半戦は,冥界のプロセルピナとプルートーの戦いと,海洋界のテ 16) a.a.O., S. 7. 17) a.a.O., S. 10.
ティスとネプチューンの戦いである。冥界では,手に入れることが困難だからこそ 素晴らしいとプルートーが徳を称えるのに対し,プロセルピナは自分が嫌悪する冥 界の対極にある美に憧れ,冥界の王プルートーが支配できないものだからこそ美の 方が素晴らしいと主張している。 プロセルピナ。 ここにお前の王国があり,何がお前の王笏に仕えているか, その実態がここにある。このことからわかるのは, おお,プルートーよ,まさに美がお前の王国の 下僕でもなければお前の玉座にも跪かないということなのだ。 プルートー。 なんだと!この私が黄金の神でもなければ,あらゆる財宝の神でもないとい うのか。 この私が黄金や財宝の輝きによって心から喜ぶにふさわしくないというのか。18) プロセルピナは復讐の女神達(フーリエ)を,プルートーは冥界に漂う死霊達を 呼び出し,剣術とバレエの対決をさせる。ここでも戦いの決着は保留にされたまま, 次の海洋界でのテティスとネプチューンの争いに移る。 ネプチューン。 私はケレースへの少なからぬ愛の欲望を感じ, 美に捕らわれたこともあった。 しばらくしてから,私は馬に化けて彼女を この私の国へ連れていった。だが,美はやがて衰えるものだ。 だから美だけを拠り所とし,徳を拠り所としない愛が 消え失せることも多いのだ。 これとは反対に,本物の徳の枷につながれている愛は, 常に強固な基盤にあって滅びないものだ。 テティス。 ネプチューンよ,私は腹の底からお前を笑わずにはいられない, お前が徳から岩礁を創ろうとしているとは。 これほどまでに多くの事故が起き, これほど無数の船が打ち砕かれるのは,岩礁のせいではないのか。 …… テティス。 18) a.a.O., S. 14.
私はむしろ, 険しく切り立った岩礁からはるか遠く離れているがゆえに, この海の静けさを愛し,称える。 ネプチューン。 海が静かであるほど,より多くの危険が 海の深さゆえ常に潜んでいるのだ。19) この口論の後,テティス側に控えるセイレーン達とネプチューン側のトリトン達 がバレエと剣術試合を始める。海洋界での争いの後に,料理人と給仕が登場する幕 間劇が入る。この 2 人は,この婚礼に供されるワインを盗み飲んだり,料理を勝手 につまむなどして,観客の笑いを誘う役目を担っている。彼らは初対面にもかかわ らず,意気投合する様を見せる。このことが,祝賀劇のハッピーエンドを暗示する。 幕間劇が終わると,舞台は最初のヴェヌスとパラスの戦いが繰り広げられた天界 (宮廷内の屋外の広場)に戻る。最後にデウス・エクス・マキーナとしてのジュピ ターが登場して,美と徳の争いを調停し,二手に分かれて争っていた神々を和解さ せ,美と徳を一身に体現する人物として,マリーア・アンナを以下のように称賛す る。 ジュピター。 この似姿を見よ。この女神をとくと見よ。 徳がこの御方のところで,この御方の美しさから出る輝きと こんなに素晴らしく調和しているではないか。ここに完璧さがある, この完璧さには天も自ら喜ばずにはいられない!20) 最後に,「喜び,祝福,楽しみ,長寿,これらがこの御方をいつまでも取り囲む ように。」21)と祈願してこの祝賀劇は終わる。 『美と徳の抗争』は,美と徳を巡る神々の激しい口論や合戦の描写が全 24 ペー ジ中 6 割を占めている。最終的な戦いの決着方法はジュピターという絶対的な権力 者による強制的な和解であり,この場面は 2 ページ程の短さである。祝意の対象で あるマリーア・アンナは,美と徳の調和を司る中心点として高められ,美と徳を両 立させる「まさに比類なき生きた実例」22)として称揚されている。前述のように, 天界,地上界,冥界,海洋界のそれぞれの戦いの後に,神々に加勢する集団による 様々な舞踏や武芸試合が入ることから,登場人物の人数は舞踏のみの出演者も含め ると総勢 50 名以上に達する。森や海,冥界などの書割を多用した舞台装置から推 19) a.a.O., S. 17. 20) a.a.O., S. 24. 21) a.a.O., S. 25. 22) a.a.O., S. 24.
測すると,おそらく宮廷内の屋外広場が使われたと推察される。このことから,『美 と徳の抗争』は,贅を尽くし多額の費用をかけたバロック的宮廷祝祭の要素を備え た祝賀劇であると言えるだろう。 3.『パレオフロンとネオテルぺ』 次に『パレオフロンとネオテルぺ』について,登場人物と筋運びを中心に検討し てみよう。前節で紹介したバロック的宮廷祝賀劇と比較すると,ゲーテのこの宮廷 祝賀劇はどのような様相を呈しているであろうか。 『パレオフロンとネオテルぺ』では登場人物は 6 人のみで,しかも台詞のある主 要人物は,新時代の擬人化であり若い女性の姿をしたネオテルぺと,旧時代の擬人 化であり年老いた男性の姿をしたパレオフロンの 2 名に限られる。彼らには 2 人ず つ従者が付いており,ネオテルぺには青二才と出しゃばりが,パレオフロンには独 善家と気難し屋が控えている。ネオテルぺを除く全登場人物は仮面を被っているの で,一見 17 世紀前半のごく一時期にイギリスで流行した仮面劇(Masque)23)を思わ せる。だが,本祝賀劇において,パレオフロンの仮面はその年老いた姿を,そして 4 名の従者達の仮面は彼らの性格ならびに役柄を,それぞれ端的に表す効果しか持 たない。この祝賀劇でパレオフロンを実際に演じたのは宮廷人のこともあれば女性 のこともあるが,いずれにせよ年配の男性ではなく若い人々だったため,年老いた 表情を仮面によって補う必要があったと推測して間違いない。また,4 名の従者達 に関しては,台詞の無い役のため,彼らの仮面以外に性格を表す手段が無い。した がって,この祝賀劇における仮面はむしろ,古代ギリシャ演劇における仮面と同様 の実用的機能を認める方が正当であろう24)。 物語は,旧時代を表すパレオフロンと新時代を表すネオテルぺの両者が,対立状 態から徐々に和解へ向かう様を描いている。つまり,旧時代と新時代の対立を描い ていることから,『パレオフロンとネオテルぺ』には,ほぼ同時期に書かれた『ファ ウスト第一部』の「ワルプルギスの夜の夢」とも共通するテーマ設定が見られるの である。幕間劇「ワルプルギスの夜の夢」の 5 人の政治家達の場面では,旧時代の 政治家と新時代の政治家が対立し,フランス革命によって後者が成り上がり,前者 23) ロイ・ストロング(星和彦訳):ルネサンスの祝祭 王権と芸術 下,平凡社,1987 年,120 頁以下参照。 24) 古代ギリシャ演劇の仮面については,原始宗教との関連の他,劇中での実用的機能 が指摘されている。例えば,少ない人数の俳優で数多くの役を演じる場合,場面と場 面の間のコロスの舞歌の際に仮面と衣装を取り換え,別人として登場したと考えられ る。また,ギリシャ悲劇において,主人公以外の登場人物に特に表情が必要とされて いない場合には,その人物の特色や社会的地位を示す道具として仮面が利用されてい たらしい。徳永哲:ギリシア劇の仮面から現代劇の仮面へ,佐藤泰正編:文学におけ る仮面,笠間書院,1994,54−57 頁参照。
が淘汰される様が諷刺されている25)。以上のように,1800 年前後に新旧対立という テーマがこれらの作品に反映されていることから,フランス革命を機にした世界史 上の大変動にゲーテが多大の関心を寄せていたことは言うまでもない。 さて,これよりこの祝賀劇の内容を辿ってみたい。この作品は,わきに祭壇の見 える舞台上にネオテルぺが登場し,観客に向かって挨拶するところから始まる。彼 女は自分の身の上を以下のように語り出す。 ネオテルぺ ある人達は私のことを新時代と呼んできましたし, 私は彼らにとって時代の守護神だったことも時折ありました。 …… 今述べたように,私は必要でもあれば喜ばしい存在でもあるのですが, にもかかわらず,ある老人が私の後をいつも追いかけてくるのです。 この年寄りがあのゆっくりした,じっくり考えるような足取りで 私にうまく追いつくことがあろうものなら, 私はあの人に滅ぼされてしまうでしょう。 …… 今私はここに辿りついて命拾いした気がしました。 ここには,当然この佳き日を喜ぶために集まった人々がいるのですから。 (V. 10-24) こうして逃亡中のひと時,ネオテルぺが追手に捕まらぬよう従者の青二才と出しゃ ばりと一緒に祭壇に祈りを捧げていると,パレオフロンが登場し,彼がネオテルぺ を追いかける事情を説明する。 パレオフロン たいてい私は旧時代と呼ばれるが, 特に私と懇意になろうとしてくれる者は,私のことを 黄金時代とも呼んでくれる。誰もが自分の青春時代に私を 友として持っておきたいと願ったものだった。 なぜなら,私は彼らと同じように若く, 元気で,比べようもないほどだったと言われているからだ。 また,耳を澄ましさえすれば,至る所で うっとりするほど私を褒め称える大きな声が聞こえてくる。 25) 詳細は,以下の拙論を参照のこと。橋本由紀子:異界からの訓言──エンブレム的 構造から読むゲーテ『ファウスト第一部』──,東北ドイツ文学会『東北ドイツ文学 研究』第 52 号,2009,1−18 頁。
だが,誰もが私に背を向け, いそいそと顔をあの新参者に向けているではないか。 ほれ,そこにいるその若い女のことだ,彼女は人々の間に分け入り, お世辞を使い,愚かな連れと一緒になって皆を駄目にしておる。 だから私は彼女を,ここにいる有能な連れとともに追いかけ, とうとう彼女を窮地に追い詰めたのだ。(V. 52-64) 新奇なものを与え,楽しさを振りまく半面,軽薄と受け取られがちな若い女性と, 思慮深さのあまり信念に固執する頑迷な年老いた男性という,好対照な姿で描かれ る 2 人は,この後互いを意識しつつも,しばらくモノローグを重ねていく。そうす る内に,両者はこれまで相手を拒んできた理由を振り返り,従来の先入観を捨てて 互いに相手を見つめ直そうと試みるようになる。 ネオテルぺ この人をこんなに間近に見るのは初めてだけど, この人のそばに気難しそうに控えているあんな醜いお連れさえいなければ, 私はこの人を好きになれると思うわ。だって,話ぶりは親切だし, 品があるように見えるから,こんな喜ばしい形の神々しさがあるんだって 感じられるはずですもの。 ここらで向きを変えて,この人に話しかけてみようかしら!(V. 102-108) パレオフロン 私は普段この娘を遠くからしか,しかも逃げる姿でしか 見たことがないが,私の嫌いなあの愚かしい仲間を 彼女が連れてさえいなければ, いつも私のそばに置いて,優美な眼差しから若さという杯を満たす そのへーべにも似た愛らしい姿を眺めていたいものだが。 おや,こちらへ向きを変えたぞ,だが口は開かぬようだ。となれば,私が話 す番ということか。(V. 109-115) パレオフロンのこの発言の直後,ネオテルぺは彼にすぐ返答し,彼と対立するこ とが必ずしも本意でない旨を打ち明ける。彼女の以下の発言は,彼女のパレオフロ ンへの更なる歩み寄りを表している。 ネオテルぺ なぜなら,私がまだ幼かった頃,常々こう聞いていたからです。 若者を導くのは年寄りだって。若者も年寄りも
互いに結束して進めば,どちらにも幸せがもたらされるだろうって。 (V. 121-123) この言葉を心地よく受け取りつつも,まだ完全に彼女を信用できないパレオフロ ンは,彼女が連れている 2 人の従者,青二才と出しゃばりの正体を尋ね,彼女も同 様に彼の従者達である独善家と気難し屋について質問する。それから,両者は自分 の従者達が互いに会わないよう上手に規則を作ってやり,彼らを解放する26)。する と両者の距離は更に近づき,より一層の歩み寄りを見せる。ネオテルぺは,それま で居た避難所からパレオフロンとの間を隔てていた塀の上へ移動し,彼の隣に座り, 友好のしるしに互いが被っている冠を交換しようと持ちかける。 ネオテルぺ さあ,私達の冠を交換しましょう。 これまで強情を張って,自分達に合う冠は これしかないと思いあがっていたのですから。 さあ,私の冠を外しましょう。 彼女は薔薇の冠を外す。 パレオフロン(オークの冠を外す。) 同じく私も自分の冠を外そう。 そして,この冠を交換する遊びが, 私達二人の絆を結び,この絆でこの都市が大いに栄えるよう。 彼は彼女の頭上にオークの冠を被せる。(V. 235-242) それから彼らは,互いの心の距離が近くなったことを象徴するかのように,隔行 対話27)で語り合い,最後に和解し合う。そのとき,現実生活での旧世代と新世代と の和解を実現した人物を観客に注視させる方向に,2 人の話が転換していく。最後 に,その実例として 2 人はアンナ・アマーリア太后を褒め称える。 ネオテルぺ 高貴なお手本が困難な事業を容易にしてくださいますわ。 26) 従者達の解放は,パレオフロンとネオテルぺが相互に抱いていた偏見の誘因を排除 することを意味する。 27) 隔行対話は,バロックの悲劇では論争の場面,特に見解をぶつけ合う格言の応酬が なされる場面に使われることが多い。アルブレヒト・シェーネ(岡部仁+小野真紀子 訳):エンブレムとバロック演劇,ありな書房,2002,152 頁参照。ゲーテの場合,興 味深いことに,隔行対話という形式を論争場面ではなく,両者がすっかり意気投合し た様子を表現する手段として使っている。
パレオフロン おまえがそれでどなたのことを言おうとしているか,よく分かる。 ネオテルぺ あのお方は私たちが今実行しようと約束したことをとうに実行なさったのです。 パレオフロン それにあのお方はこの都市でわれわれが提携するもとを築いてくださったのだ。 ネオテルぺ この冠を取って,あのお方に捧げましょう。 パレオフロン 私も自分の冠をさし上げよう。 (彼らは冠を外して,アンナ・アマーリア太后に差し出す。) ネオテルぺ やんごとなき太后様,末永くご健在で! パレオフロン またこの薔薇があなたに目くばせしておりますように,いつまでもご機嫌よ ろしゅう! ネオテルぺ 太后様,万歳!ご同席の皆様もご一緒にご唱和を!(V. 259-266) 『パレオフロンとネオテルぺ』を概観すると,祝賀劇末尾のアンナ・アマーリア を称賛する場面が,敬意を払う対象としての王侯に最大限の祝意を捧げるバロック 的祝賀劇の名残をとどめているが,称賛への移行は『美と徳の抗争』と比べると無 理がない。互いの冠を交換し合った後,パレオフロンが年長者として分け与えてく れるものをネオテルぺが「私は喜んでそれを集め,自分もそれをいつか与えられる ようにしましょう。」(V. 257)と言った後,パレオフロンは「計画するのは良いが, 実現は難しい。」(V. 258)と一般論を言う。この言葉が引き金となって,ネオテル ぺに困難な事業をたやすく成し遂げる「高貴なお手本」を連想させる。そこから一 息にアンナ・アマーリアに対する称賛へ向かうことは,259 行目から 266 行目の引 用で確認した通りである。 また,筋立てにも明白な違いがある。この作品の場合,バロック期の『美と徳の 抗争』のように主要登場人物達の口論のような激しい対立を直接見せるのではなく, 旧時代と新時代の対立を両者の自己紹介の中や,モノローグの応酬によって間接的 に示すにとどめている。ネオテルぺが自己紹介の中で「ある老人が私の後をいつも 追いかけてくるのです。」と言い,パレオフロンも同様に自己紹介しながら「彼女 は人々の間に分け入り,お世辞を使って愚かな連れと一緒になって皆を駄目にして おる。だから私は彼女を,ここにいる有能な連れとともに追いかけ,とうとう彼女 を窮地に追い詰めたのだ。」と言う様子からは,確かに両者の不仲が窺える。だが,
彼の実際の振舞いを検討すると,相手を武力で屈服させようというほどの徹底した 敵対心までは表されていない。また,彼らの言辞からは,対決から生じる緊張感が 感じられず,『美と徳の抗争』のように神々の争いの後に武芸試合や舞踊の対決が 入って対立を大げさに演出することも一切ない。ここで描かれる旧時代と新時代の 対立は,両者の相互理解の不足から生じた観念的なものとして表されているに過ぎ ない。 『美と徳の抗争』とは違い,ゲーテのこの祝賀劇では,対立そのものより両者の 相互理解への努力に重点が置かれている。この作品の中で,ネオテルぺは「あんな 醜いお連れさえいなければ,私はこの人を好きになれると思うわ。」と述べ,パレ オフロンに話しかけるか否か検討している。パレオフロンは「私の嫌いなあの愚か しい仲間を彼女が連れてさえいなければ,いつも私のそばに置いて,優美な眼差し から若さという杯を満たすそのへーべにも似た愛らしい姿を眺めていたいものだが。」 と言い,その後で彼女が話しかけないのなら自分から話しかけようと試みている。 当初はモノローグの応酬に過ぎなかった彼らの発言が徐々に対話へ移行していく様 は,両者の和解のプロセスを緩やかに描いている。そして遂に,彼らは互いの頭を 飾る冠を和解のしるしとして交換するに至るのである。 大掛かりな仕掛けのない簡素な舞台設備,登場人物の少なさをとってみても,『美 と徳の抗争』のような壮大さはない。『パレオフロンとネオテルぺ』の場合,その 上演自体は,宮廷祝祭において繰り広げられる多数の行事の一つとしてではなく, 1 週間遅れのアンナ・アマーリアの誕生日を祝う宮廷内の単発の祝賀行事として行 われていたようである28)。ゲーテの祝賀劇は,以上の点で『美と徳の抗争』のよう なバロック的宮廷祝祭の一プログラムとしての祝賀劇とは趣を異にしている。 4.ゲーテの祝祭観 バロック的宮廷祝祭劇『美と徳の抗争』とゲーテの『パレオフロンとネオテルぺ』 の比較を試みた結果,両者には作風に明白な違いが生じている。それは,ゲーテの 宮廷祝祭観がバロック時代のそれとは異なっていることに起因するように思われる。 そこで本節では,『パレオフロンとネオテルぺ』が制作された 1800 年までに培われ たゲーテの祝祭29)観を確かめてみたい。 まず,祝祭についてのゲーテの第一の見解として,『詩と真実』30)第一部第 5 章に
28) FA., I. Abt., Bd. 6, S. 1079f.; MA., Bd. 6・1, S. 950ff.
29) ここでの祝祭は広義のそれであり,本論で言及している宮廷祝祭のような公式的な 祝祭と,後述するカーニバルのような民衆祝祭の両方を含む。 30) 『詩と真実』からの引用は,『パレオフロンとネオテルぺ』と同様ハンブルク版(= HA) 第 9 巻から引用し,本文中及び脚注に巻数と頁数を示す。翻訳に際しては,山崎章甫・ 河原忠彦訳:詩と真実 第 1 部・第 2 部,ゲーテ全集第 9 巻,潮出版社,2003 を参考 にした。
おける,彼が 14 歳頃の 1764 年 4 月 3 日のフランクフルトにおけるヨーゼフ大公の ローマ王戴冠式に向けた一連の祝祭についての描写がまず挙げられる。ここでは, 1763 年の末から翌年にかけて行われたこの祝祭の様子を,還暦を迎えた頃のゲーテ が回想しながら詳細に記している。使節や選帝侯達の到着毎に繰り広げられる壮観 な入市のほか,この戴冠式の主役である皇帝と国王の入市の様子を,彼は次のよう に描いている。 だがいまや,威厳と壮麗さが高まるにつれ,行列もその密度を増してきた。 ある者は徒歩で,またある者は馬に乗るなどした選り抜きの家臣団をひき連れ て,選帝使節と選帝侯自身が登場した。誰もが豪華な儀装馬車に乗っていたが, 位の高い者ほど後に並んでいた。マインツ選帝侯のすぐ後に 10 人の皇帝の使 者,41 人の従僕,そして 8 人のハンガリー風衣装を身に着けた召使が,皇帝と 国王を先導していた。背面を全面鏡張りにし,絵画や塗装,彫り物に金箔を施 して,刺繍の入った赤いビロードを内装前面にはりめぐらせた最も豪華な儀装 馬車が,待望の 2 人の元首である皇帝と国王を乗せていた。だから我々は彼ら をその威容のうちに眺めることができた。行列は大きな回り道をして進んだが, それは行列をできるだけ展開させる必要上から,それから,大勢の観衆がその 行列を拝観できるようにするためだった。31) この描写をはじめとしたローマ王戴冠式をめぐる一連の祝祭に関して,彼はバロッ ク的宮廷祝祭における特徴を的確に捉えている。数か月にも及ぶ準備期間と行列の 規模の大きさについては言うまでもないが,「位の高い者ほどあとに」なる順列の 仕方は,王侯を頂点に据えたバロック的階層原理そのものである32)。「はなやかな 衣装をつけた数多の従僕やその他の役人たち,悠然と足を運ぶ堂々たる貴族たちを 眺めているだけで目は疲れた」33)という述懐からは,延々と続く行列の豪華絢爛な 様子が見て取れる。また,皇帝と国王の馬車が回り道をして進んだことに関して, 「大勢の観衆がその行列を拝観できるようにするためだった。」と述べている。ゲー テはこの儀装馬車の行列に,スペクタクルを見せる王侯と,それをただ見ることし か許されていない民衆という,明確に二分化された社会構造を目の当たりにした。 バフチーンの言を借りれば,ゲーテはここに「現存する機構を聖なるものとして裁 可し,機構を強化した」,「すべての現存する世界秩序──現在の階層秩序,現存の 宗教的・政治的・道徳的規範,禁止──の安定性,普遍性,永遠性を確認すること 31) HA, Bd. 9, S. 192. 32) 「行進の中心に位置する君主はスペクタクルの要であると同時に,組織原理でもあ る。階層構造内における諸団体の位置は,君主を起点にして決定される。」ジャン= マリー・アポストリデス(水林章訳):機械としての王,みすず書房,1996,12 頁。 33) HA, Bd. 9, S. 200.
さえあった」34)宮廷祝祭35)の姿を見たのである。バフチーンによれば,この戴冠式 の観察が,『ローマのカーニバル』Das Römische Carneval(1788)の下準備となっ
た36)。なぜなら,「新しきものの戴冠には,常に古きものの奪冠が伴な」37)うとい う意味で,君侯の戴冠式は,民衆の祭であるカーニバルの裏返しだからである。 『ローマのカーニバル』は,表題の民衆祝祭の解説であり,その開始と終了,開 催の中心的場所,実施期間中の喧騒などが卓越した観察眼でもって叙述され,最後 にこの民衆祝祭についての考察で終えている。バフチーンは,カーニバルの諸重要 モチーフを余すところなく収拾している点ではこの小論を評価しているが,最終節 である「灰の水曜日的考察」には,「ゲーテのこの思索はいくぶん失望感をもたら す。ここではカーニバルの全要素が言い尽くされていない(たとえば,道化王の選 挙,カーニバル的争い,殺害モチーフ等々)。カーニバルの意味が,個人的な生と 死の問題に局限されている。」として不満を述べている。だが,ゲーテの立場から すれば,彼は『ローマのカーニバル』においてカーニバルの本質を研究したいので はない。彼はカーニバル観察を通した社会洞察と,そこから得られる教訓を示した かったのである。カーニバル観察を通した彼の社会洞察は,既にこの小論の冒頭で の,それほど重要性を持たないように見えるローマのカーニバルの定義から窺える。 ローマのカーニバルとは,そもそも民衆に与えられた祭ではなく,民衆が自分 で行う祭である。 国家はこの祭のために殆ど準備もしなければ,費用も負担しない。歓喜の輪が おのずから動き出し,警察もただ手加減して統制するのみである。 …… ここではむしろ,誰もが思うがままに愚かになってもよく,羽目をはずしても よいこと,それから,殴打と刃傷騒ぎを除いたほぼすべてのことが許されてい ること,以上のことがひとつの合図として示されるのである。38) 「殴打と刃傷騒ぎを除いたほぼすべてのことが許されていること」とは,仮面を 付けた人々の無作法な振舞い,コンフェッティを投げ合う戦い,カーニバルの終盤 におけるろうそくを持った人々の行列に見られるような,「ろうそくの燃えさしを 持っていない者は殺されてしまえ!」という罵倒表現が飛び交うことを指す。この 34) ミハイール・バフチーン(川端香男里訳):フランソワ・ラブレーの作品と中世・ル ネッサンスの民衆文化,せりか書房,1974,16 頁。 35) バフチーンの表現では「公式祝祭」であり,教会の祭と封建国家の祭を指している。 本稿では,主に後者の意味で使っているが,用語の混乱を避ける都合上,宮廷祝祭と 言い表わすことにする。 36) バフチーン,同掲書,215 頁。 37) バフチーン,同掲書,215 頁。 38) HA, Bd. 11, S. 484.
ような既存の秩序が転倒し混迷した世界は,彼の目から見れば,秩序を維持する既 存の統制機構が無くなる場合に,ひとつの可能性として想定できる社会像であった。 『ローマのカーニバル』からは,このような価値転倒的世界はできれば実現して欲 しくないという彼の願望すら感じられる。執筆時の 1788 年はそのような民衆のエ ネルギーがいつ噴出してもおかしくない時期であり,まさにカーニバルで示される 第二の世界が現実に出現しかねない時期であった。そして,カーニバル観察の結果 得られた教訓を,彼は「灰の水曜日的考察」においてフランス革命を予言するかの ように語る。 ここで取り上げても良さそうな話題を差し置いて,もっと真面目な話を続ける ならば,活気ある最高の楽しみは,目の前を疾駆する馬のようにほんの一瞬だ け我々のところに現われ,我々を揺さぶりもするが,魂に殆ど何の痕跡も残さ ないということ,それから,自由と平等は,ただ逸脱の眩暈の中でしか享受し 得ないこと,……に我々は気づかされるだろう。39) こうした時代省察的で一見反動的な教訓的結語でゲーテは『ローマのカーニバル』 を終えている。この締めくくりからは,自由と平等を求める民衆の運動が暴走して, 社会的荒廃を招くことをとにかく回避したいというゲーテの願いが伝わってくる。 なぜなら,彼はフランス革命前の 1785 年にフランス王室で起きた首飾り事件が, 王権という既存の管理統制機構の有名無実化を物語ることを察知し,この事件を契 機にして革命と社会混乱を予感していたからであった。彼はこの予感を抱えたまま イタリアへ向かい,ローマのカーニバル観察を通じてその確信を強めた。ここに挙 げる教訓的結語は,当時の社会がそのような最悪の結果になりかねないとゲーテが 懸念していた証でもある。 以上のような彼の民衆祝祭の観察は,従来の宮廷祝祭ではあり得なかった祝祭の 持つ新たな効用をゲーテに発見させたと推測できる。つまり,祝祭がその参加者に 社会洞察の機会と教訓を付与する効用があるという,彼の祝祭観が生まれたのであ る。 5.結語 祝賀劇『パレオフロンとネオテルぺ』の執筆時期である 1800 年前後の時期は, フランス革命によるヨーロッパの大変動期の真っ只中であり,1800 年という節目の 年は来るべき新世紀を展望する格好の機会であった。詩人であると同時に宮廷人で あったゲーテは,その鋭敏な洞察力で時代や社会についての自らの予見を表現しよ うと考えていたところに,アンナ・アマーリアの誕生祝いのための祝賀劇制作の機 39) HA, Bd. 11, S. 515.
会を得た。こうして作られた祝賀劇は,ヴァイマール宮廷内の観客だけでなく,祝 意を捧げる王侯にも社会洞察と内省の機会を与える可能性を帯び,進言的性格にな ることは否めない。だが,ゲーテは中立を理想とし正しい社会洞察を目指す詩人と しての立場と,安定した国内政治を目指す宮廷人としての立場から,こうした進言 的方向を避けるわけにはいかなかった。なぜなら,いまなおヴァイマール公国内の 統治実権を握っているのは王侯であり,国内の秩序維持は彼ら次第だからである。 ややもすれば神聖ローマ帝国内の社会も激変しかねないこの時期の王侯は,社会情 勢を洞察し,為政者として新時代と旧時代の和解という極めて困難な課題に直面す ることを予測し,無駄な対立を回避し,理性的で慎重な協議によって両者を和解に 導かなければならないということを,ゲーテはこの機に王侯に伝達できると思った のである。王侯への敬意を表する祝賀劇であれば,彼の考えを王侯に抵抗なく聞き 入れてもらえることも可能で,しかも祝意が前面に押し出されているため,彼が込 めようとしている進言的意図が目立たなくなる効果も生まれるわけである。 ゲーテの時代,既に宮廷祝祭自体がバロック時代のそれから変化してきていた。 ファン・デュルメンによれば,「たしかに一領邦の経済力に著しい被害を及ぼしか ねないこの種のぜいたくな祭がひんぱんに行われたわけではないが,一五八〇年か ら一七四〇年ないし五〇年にかけては宮廷の祭がつぎからつぎへ行われた時代で, それはまだ絶対主義権力の形成期と重なっていた。時代が下ってもまだ宮廷の祭が 行われたことをわたしたちは知っているが,豪勢な華美を競うやり方は退潮に向か い,啓蒙主義の洗礼を受けた諸侯は君主として行うべき他の職務に精を出し,宮廷 の祭もしだいに『私的』な性格を強めていったのである。多くの人を集めて行った 日常的な気晴らしと費用のかかる遊興に代り,それほど手のこんだものでなくても 『心のこもった』楽しみや,著名な音楽家を招いて行う音楽の夕べ,あるいは自然 のなかを散策したり遠乗りしたりすることに,控えめな関心を寄せるようになった。」40) このような内向きの宮廷祝祭が,バロック時代のように王権の威容を公に向かって 見せつける傾向を弱めていったとも言えよう。宮廷祝祭の公式性や威圧感が色褪せ, 私的な性格を強めていくにつれ,ゲーテは宮廷祝賀劇にローマのカーニバルについ ての考察によって体得した祝祭の効用──社会洞察の機会と教訓の付与──を導入 していったのである。 以上のことから,『パレオフロンとネオテルぺ』は,バロック的宮廷祝祭の伝統 を形式的に引き継ぎつつも,彼がイタリア滞在中に獲得した新しい祝祭観をも反映 した,従来にないスタイルの宮廷祝賀劇が誕生することになった。そして,この作 品は従来の宮廷祝賀劇のように王権の威容を市民に向けて発信するというよりも, 当時の宮廷祝祭の実情に合わせて,市民の代表としての宮廷人ゲーテが王侯に向け て教訓的内容を発信しようと努めた新しい試みなのである。 40) ファン・デュルメン,前掲書,231 頁以降。
Goethes Paläophron und Neoterpe
– Eine Betrachtung über sein Festspiel am Weimarer Hof
aus der Sicht des barocken Fests –
Yukiko HASHIMOTO
Wenn man Goethes Werke aus der Sicht des Barock analysiert, so trifft man auf bisher übersehene Teile seines Lebenswerkes wie der Faust-Dichtung oder eines seiner unbekannten Werke. Sein Festspiel Paläophron und Neoterpe, das 1800 anlässlich des 61. Geburtstags von Anna Amalia, der Herzogin-Mutter in Sachsen-Weimar-Eisenach, geschrieben und im Wittmus-Palais uraufgeführt wurde, ist ein solches Werk.
Bisher gab es eine einzige Arbeit, und zwar diejenige von Arthur Petak, in der dieses Festspiel analysiert wurde. Petak zufolge könne man darin einen Einfluss der romantischen Schule entdecken, aber seine Behauptung ist meines Erachtens wegen fehlender Argumente wenig überzeugend. Während das andere Festspiel, Pandora, wegen der Ähnlichkeit der Thematik mit der von Faust oft und umfassend analysiert worden ist, weil man einige Themen (das Ewig-Weibliche, „Im Anfang war die Tat.“ usw.) in beiden Werken findet, ist dieses Festspiel meines Erachtens bisher zu Unrecht nur am Rande behandelt worden, obwohl es auch ein ähnliches Thema mit Faust hat, eine Zwietracht zwischen dem Alten und dem Neuen und die Umwälzung der Zeit in der Szene „Walpurgisnachtstraum“. Außerdem steht dieses Festspiel in der Tradition des barocken Festes und des Festspiels. Deswegen habe ich in der vorliegenden Abhandlung versucht, Goethes Paläophron und Neoterpe mit einem Beispiel des barocken Festspiels Streit der Schönheit und der Tugend (ca. 1678) zu vergleichen, weil das letztere ein ähnliches Hauptthema wie ersteres hat, d. h., einen Streit zwischen den beiden Seiten und anschließend ihre Versöhnung.
Im Vergleich mit Streit der Schönheit und der Tugend kann man Folgendes herausfinden:
1) Die Laudatio an die Fürsten bleibt nur förmlich.
2) Die Art und Weise der Übereinstimmung von Paläophron und Neoterpe ist nicht so gezwungen wie im barocken Festspiel.
3) Goethe zeigt Gegensätze zwischen der alten und der neuen Zeit mittelbar, wenn Paläophron und Neoterpe sich im einzelnen vorstellen.
4) In Paläophron und Neoterpe gibt es keine Turniere und keine Tanzwettbewerbe wie im barocken Festspiel, und die Auseinandersetzung der beiden Seiten ist nicht übertrieben inszeniert.
5) Die Bemühung zur gegenseitigen Verständigung zwischen Paläophron und Neoterpe kommt mehr in Betracht als die Gegensätze selbst.
6) Das Ausmaß der Aufführung ist nicht so groß wie das des barocken Festspiels, denn die Ausrichtung der Bühne ist einfach und die Anzahl der Gestalten ist ganz gering.
Zwar hielt Goethes Festspiel Paläophron und Neoterpe am Weimarer Hof an der Überlieferung der barocken Festkultur zum Teil fest, aber es unterscheidet sich vom barocken Festspiel.
Das geht auf die Festanschauung Goethes zurück, die er bis 1800 konzipierte, als er dieses Festspiel schrieb. Er verfasste 1788, während seines Aufenthaltes in Italien, seinen kleinen Aufsatz Das Römische Carneval. Mittels der Beobachtung des Karnevals fand er heraus, dass der Karneval einen Hinweis auf die gesellschaftliche Entwicklung im Falle der Umwälzung gibt und dass ein Fest eine Gelegenheit zur Einsicht in die gesellschaftlichen Zusammenhänge und die sich daraus ergebenden Lehren ist. Gerade als er 1800, in der Umwälzungszeit nach der Französischen Revolution, einen Ausblick auf das kommende Jahrhundert haben wollte, nahm er die Gelegenheit wahr, ein Festspiel zum Geburtstag von Herzogin-Mutter Anna Amalia zu schreiben.
Das Festspiel, dem Goethe die neue oben dargelegte Festanschauung hinzufügte, wurde zu einem Bühnenstück mit der Warnung für die Fürsten. Er wollte mittels seines Festspiels nicht nur dem Publikum, sondern auch den Fürsten zum Anlass des Glückwunsches eine Gelegenheit zur Einsichtnahme in die gesellschaftlichen Zustände und der Selbstbetrachtung geben. Er dachte, dass sich die damaligen Fürsten vieler Aufgaben selbst bewusst sein müssen. D. h., sie sollen als Herrscher die Soziallage überblicken, auf die Konfrontation mit einer schwierigen Aufgabe vorbereitet sein, die Versöhnung zwischen der alten und der neuen Generation voraussehen und sie vernünftig lösen und dann Landesfrieden bewahren. Demzufolge versuchte Goethe, seine derartige Auffassung von der Politik zu seinem Festspiel hinzuzufügen. Dabei erwartete er die Wirkung, dass er den Fürsten seine Auffassung widerstandslos mitteilen konnte, wenn man sie im Festspiel mit der Laudatio ausdrückt.
neuartige höfische Festspiel, das die Tradition der barocken Festkultur förmlich pflegt, in dem sich aber seine eigene Festanschauung widerspiegelt und durch das er den Fürsten Ratschläge für die Zukunft geben möchte.