面接における「1つのありよう」を記述する試み
―佐治守夫『Tさんとの面接』の検討―
小林 孝雄*
An Attempt to Describe Morio Saji’s ‘ Way of Being’ in Counseling, by
studying the Transcript and the Film
“The Inter view with Mr.T”.
Takao KOBAYASHI
The purpose of this article was to describe Morio Saji’s ‘way of being’ by studying the transcript of Saji’s “The Interview with Mr.T”. Using the Hitoshi Nagai’s interpretation about Kitaro Nisida’s concepts of ‘pure experience’ and ‘place’, Saji’s way of being in counseling can be described as follows;
He was tr ying to feel the same experience as the client’s ‘pure experience’ in his own ‘place’. And sometimes, he tried to express his own feeling about that ‘pure experience’ he could feel, or client’s experiences that were not verbalized yet, and also he referred to his experiences in his own life.
The relations between this Saji’s way of being and ‘empathic understanding’, ‘participant observer’ and ’self-disclosure’ were briefl y discussed. And it was pointed out that Saji’s way of being was meaningful in terms of the form of clinical practices.
Key words:Morio Saji, person-centered therapy, empathic understanding, “The Interview with Mr. T” 佐治守夫、パーソン・センタード・セラピー、共感的理解、Tさんとの面接
1.はじめに
佐治守夫(1924∼1996)は言う。 カウンセラーとしての私は、深くカール・ロ ジャース(Carl R. Rogers)のクライエント・ セ ン タ ー ド・ セ ラ ピ ー(Client-centered Therapy)の考え方、パーソン・センタード・ アプローチ(Person-centered Approach)の態 度に感銘し、それを実現しようと思っています。 (佐治・飯長、1991、p. 191) その佐治(1992)は、実際担当していたクライ アントとの面接を映像に残している。ビデオおよ び逐語記録、『治療的面接の実際 Tさんとの面 接』(以下、『Tさん』)である(なお、オーディ オおよび逐語記録、『治療的面接の実際 ゆう子 のケース』(佐治、1985)もある。)。本稿では、 佐治がこの面接において行っていた、と筆者に思 えること、の記述を試みる。佐治が『Tさん』で やろうとしていたのではないか、と筆者が思うこ とを、できるだけよく表わしていると思える表現 で、記述してみたい。用いる用語や概念は、必ず しもパーソン・センタード・セラピーのものでは ない。 * こばやし たかお 文教大学人間科学部心理学科2. 前提として、体験をどう記述す
るのがふさわしいか
まず、面接開始部分。以下、Clはクライアント・ Tさん、Coは面接者・佐治守夫である。 Co1 それじゃどうぞ、どんなことからでも。 Cl1 そうですね、あのぅ、最近は少し落ち着 いてきている(はいはい)んですけれども ……ただ……うーん、やっぱり自分の中に、 その、根づいている劣等感っていうんです か(はい)。なかなかこう解消できないん ですね(うーん、うん)。あの、この間ちょっ とお話ししまし(はい)たけれども、あのぅ ……自分と母親との関係(はい)っていう んですか……うーん、ま、かなり強い、あ の、タイプの人間だったんですけれども。 Co2 あ、お母さんがね(えぇ)、きつくって。 はい。 Cl2 何かこう常に自分はこうダメだダメだと いうような気持ち(うーん、うん)を持ち 続けてしまって……来た(はい)のが、ま だ引きずっているんじゃないかな、と思う んですけれどもね。 Co3 自分はだめだ、うん、そういうことから 来る、何か劣等感のようなものがずっと(え え)根づいていたのねぇ。はい、はい。 Cl3 はい。そうですね(うーん)。ですからあ のぅ……普通の人ならば、あのぅほとんど 気にせずにこう(うん)……何ていうんで すかね、気にせずに過ごしてしまうような ことでも(うんうん)一つ一つ引っ掛かっ て し ま う よ う な こ と が 結 構 あ り ま し て ……。まぁ、そのたんびにこう落ち込んで みたり(うーん)まぁ、してはいるんです けれども(うーん、うん)。 Co4 ちょっとしたことに一つ一つこう引っ掛 かる……そんな感じがあってね、はい。うー ん、普通ならば、普通の人なら何でもなし に過ごしてしまうようなことでもねぇ、何 か引っ掛かるなぁって。 たとえばCl1の後半、「あのぅ……自分と母親と の関係っていうんですか……うーん、ま、かなり 強い、あの、タイプの人間だったんですけれども」 という発言をしているとき、Clは何を語っている と記述するのがふさわしいか、何が現象として「あ る」と記述できるか、まず整理してみたい。 永井(2006)は、西田幾多郎の「純粋経験」に ついて、川端康成の『雪国』の冒頭を取り上げて、 次のように述べている。 「国境の長いトンネルを抜けると雪国であっ た」とは、誰かその経験と独立のある人物がた またま持った経験を述べている文ではないの だ。もし強いて「私」という語を使うなら、国 境の長いトンネルを抜けると雪国であったとい う、そのこと自体が「私」なのである。だから、 その経験をする主体は、存在しない。西田幾多 郎の用語を使うなら、これは主体と客体が分か れる以前の「純粋経験」の描写である。(p. 12) また、次のようにも述べている。 ……したがって西田哲学的に解釈された日本 語においては、知覚する主体もまた、究極的に は存在しない。雷鳴が聞こえているとき、海が 見えているとき、それを聞いたり見たりしてい る主体は、存在しない。雷鳴が聞こえていると いうこと、海が見えているということが、存在 するだけである。あえて「私」と言うなら、私 が雷鳴を聞き、私が海を見るのではなく、雷鳴 が聞こえ、海が見えていること自体が、すなわ ち私なのである。(p. 17) 「私」というものが、このように記述できるもの、 と捉えられるならば、上記Cl1の発言が表わして いるのは、次のようなことではない。 (a )体験の主体である「私(Tさん)」の、母 親という関係にある人物(母)がもつ属性は、 「かなり強いタイプの人間だった」、である。 また、次のようなことでもない。(b )体験の主体である「私(Tさん)」が語っ たことは、「体験の主体である『私(Tさん)』 の、母親という関係にある人物(母)がも つ属性は、『かなり強いタイプの人間だっ た』」、である。 そうではなく、こうであろう。 (c )「自分のお母さんは、かなり強いタイプの 人だった(なあ)」という「思い」がある。 その「思い」があることが、すなわち「私」 である。そういう状態が、Tさんにおいて実 現している。 Cl2も同様に記述できるであろう。 体験の主体である「私(Tさん)」が、「常に自 分はダメだダメだというような気持ちを持ち続け てしまって来た」という体験をもっている、ので はなく、「常に自分はこうダメだダメだというよ うな気持ちを持ち続けてしまって来た(なあ)」 という「思い」がある。その思いがあることが、 すなわち「私」である。そういう状態が、Tさん において実現している。 余談であるが、反射(reflection)という応答 の形式のうちのあるものを、「おうむ返し」と揶 揄することがある。この例を用いるなら、応答の 形式としては、「あなたのお母さんは、かなり強 いタイプの人だった(のね)」とでもなろうか。 この形式の応答を治療者がするとき、この形式そ のものは、上記(a)(b)(c)のいずれであるかを 規定しない。いずれもありうる。したがって、形 式だけを取り上げて揶揄するのは的外れである。 また、(a)(b)(c)のいずれであろうとも、クライ アントはその治療者の応答を利用できる。プロセ スを考慮しない揶揄も、やはり的外れである。
3. 治療者が、「理解する」とは、ど
ういうことなのか
上記のような状態(現象)がTさんという「場所」 において実現しているとして、Tさんの目の前に いる佐治は、その現象を「そのまま」受け取って いる(受け取ろうとしている)のではあるまいか。 Cl1に対して、佐治は応答している。Co2「あ、 お母さんがね、きつくって。はい」。この応答か ら想像するに、佐治が上記(a)や(b)の意味だ けで受け取っているとは思えない。そうではなく、 (c)の意味として捉え、それを、佐治という「私」 あるいは「場所」において実現することを試みて いるのではあるまいか。その実現の試みに、こと ばを発しながら、従事しているのではあるまいか。 あえて表現するとしたら、「自分のお母さんは、 かなり強いタイプの人だった(なあ)」という「思 い」があるという「私」を、自分の「場所」にお いても、実現してみよう、とでもなろうか。 Co4の発言には、その試みがよく表れている、 と考えることができる。Co4「ちょっとしたこと に一つ一つこう引っ掛かる……そんな感じがあっ てね、はい。うーん、普通ならば、普通の人なら 何 で も な し に 過 ご し て し ま う よ う な こ と で も ねぇ、何か引っ掛かるなぁって」。このことばを 発している佐治は、「何か引っ掛かる(なあ)」と いう「思い」を、佐治の「私」、「場所」において 「思っている」、とでも言えるのではないか。 Tさんにおいて実現している現象が、「なんら かの『思い』がある」というべきものであるなら ば、その現象をそのまま「理解する」とは、治療 者という「私」、「場所」において、その「思い」 を「思ってみる」、そういう「思い」がある「私」 を実現してみる、ということになろう。 以上が、この開始部分ならびに面接全体を通じ て、佐治が基本的に行っていることではないか。4. 思ってみた「思い」、に対する、
治療者の「思い」
別の部分。 Cl18 そうですねぇ。(うん)あぁうらやまし いと思います(はい)。……(pause 48”) ……うーん、先生に、あの(はい)……そ ういう自由な(うん)生き方を始めたって (うん)さっき言いましたけど(はい)、だ けど果たして言葉で言うほど(うーん)そうなってたのかなって今ふっと(あぁそう) 疑問に思ったんですねぇ(はい)。うーん ……何ていうのかなぁ……やっぱりそうい う関係の、本とかまぁお話とか(うん)い ろいろ聞く機会が(うん)ありますんで ……。それもまた、こう何ていうのかな、 その……ひとつの自分の、し、縛りってい うんですかね、その(うん)人間は〈笑〉 自由でなきゃいけないとか(あぁ、はぁはぁ は ぁ ……)、 と ら わ れ ち ゃ い け な い と か (はぁはぁ)〈笑〉そういうのになっ…… ちゃってはいないかなぁなんて(うーん) ふと思ったんですけど。 Co19 あぁそう。うーん。自由がいいんだっ ていうことで、今度は自由であるのがいい んだと、ねぇ。うーん。とらわれちゃいけ ないんだってそこに少し、うん、こだわっ てるかなぁ……(pause 13”)…… Cl19 うん、そうですねぇ。こだわりがあるの かもしれないですねぇ(はいはい)。 Co20 そう思ってみると、その辺でも、まだ、 そ ん な に 自 由 で も な い の か も し れ な い なぁって、うーん、ちょっと思ったりする ねぇ……(pause 16”)…… 今のお話聞いていると、ずいぶんこう、何 ていうかなぁ。うーん、まじめなんだなぁっ て〈笑〉思うけどね(あぁ)。何かこうな かなか自分を崩せないというか、ねぇ。そ ういう感じ、ご自分でもなすってるかなぁ。 Cl20 そうですね(うん)。えぇ、あの、その 通りじゃないかと思うんです。(はいはい ふーん)……。まじめっていう(うん)意 味〈笑〉(はい)とはちょっと(ふんふん) 当たらないですけど、硬いと思いますね。 Co21 硬い(うん)。はい。 Cl21 あのぅ……一つ何かこう(はぁ)……こ うかなっていうふうに思い(うん)思うと、 わりとそれにこだわっちゃうような(はぁ、 はぁ)ところがあって……。あるいは、今 までずっと思ってきたような、考え方なり 感じ方を(うん)なかなか捨てられないよ うな(うん)、非常に不自由(はい)ですねぇ。 ……(pause 12”) Co22 今までの考え方、それがなかなか捨て られない。 Cl22 ですから、まぁ(うん)、もう……ここ んとこずっとあのぅ(はい)仲間と楽しく やる(うんうん)こう……まぁ、当たり前っ て言えば(うん)当たり前なんですけど(は い)、そのうん自分の硬さをこう……うー ん解きほぐしていくような(うんうん)そ のぅ過程……そういう何かこう、うーん、 意味もあって(うん)あの……できるだけ こう楽しんでいるんですけどねぇ〈笑〉(う んうん)……。 Co23 自分の硬さを解きほぐしたいな、うん。 そうね……。今まで、そういうことなかっ た分、もっと楽しみたいなぁってね。うん ……うん。……(pause 34”)…… Co20では、今まで、基本的なありよう(a way of being)として、Tさんの「思い」を「思って みて」いた佐治が、「まじめなんだなぁって、思 うけどね」ということばを発している。Tさんの 「思い」を「思ってみて」いるのではないことを、 佐治が行っている。こういうことではないか。T さんの「思い」を自分(佐治)の「場所」におい て「思ってみて」いるということに従事していた ところ、そうして「思ってみて」実現した「私」 に対するまた別の「思い」とでもいうものが、同 じ「私」という「場所」に生じてきた。その別の 「思い」というのが、「まじめなんだなぁ」である。 音楽をきく、という例を想定してみる。先の永 井(2006)の整理に従うなら、音楽をきいている とき、音楽がきこえるということ、それがすなわ ち私である。ところで、きいている音楽につい て、「きれいだなあ」とか、「激しいなあ」とか、 「いい曲だなあ」とか思うことがある。これは、 音楽がきこえるという「私」に対して、同じ「私」 という「場所」に生じた「思い」である。私を離 れて、音楽が鳴っている、ということはありえな いのであるから、きこえている音楽について何か 思うということは、音楽がきこえているという 「私」(あるいは「思い」)についての「思い」が、
「私」において生じる、ということである。この 場合、音楽がきこえている、という「私」と、「き れいだなあ」という「思い」がある「私」とは、 どういう関係になっているのか。 ふたたび永井(2006)を見てみる。 存在するのは、数学の試験問題を解こうとして いること、今朝の車内の出来事が思い出されて いること、脚にかゆみが感じられていること、 そうした諸々のことだけだろう。それなら、な ぜそれらはばらばらにならないで、一緒に感じ られるのか、と問われるなら、後の西田の用語 を使って、同じ「場所」に起こっているからだ、 と答えるのはごく自然な発想ではなかろうか。 そして、その「場所」を、あえて名づけるなら、 「私」と呼ぶのだ、と考えることができる。だ から、この場合の「私」は、「私は」という主 語的統一ではなく、「私に於いて」という述語 的統一なのである。西田自身の比喩を使ってい えば、それは、一つの点ではなく一つの円であ る、ということになる。(p. 18) 本稿でも、すでに「場所」という表現を用いて いるが、ほぼここで言われている意味として用い てきた。 音楽が聞こえている、ということと、その聞こ えている音楽(という「私」)について「きれい だなあ」という「思い」がある、ということは、 同じ「場所」において(同時に)ある。 Co20に戻るなら、「そんなに自由でもないのか もしれない(なあ)、と思ったりする(なあ)」と いう「思い」がある同じ「場所」において、その 「思い」(があるという「私」)に対して、「まじめ なんだなあ」という「思い」が生じた、とでも表 現できるのではないか。これは、聞こえていた音 楽についての「思い」と同じように、思っていた 「思い」についての「思い」、と言えよう。 思っていた「思い」は、Tさんという「場所」 において実現しているらしい「思い」を、自分(佐 治)の「場所」においても実現しようとして思っ ていた「思い」である。一方、その「思い」につ いての、「まじめなんだなあ」という「思い」は、 自分の「場所」に新たに生じた「思い」である。 ここで、次の佐治(1996)の記述を連想する。 ところで、「関与しながらの観察」という矛 盾をどう考えたか。「出たり入ったり論」とい うのが私の中に生まれてきた。患者さんと一緒 にいるその場で、その人の現象世界に没入し、 入り込んでいる、そこからちょっと身を引きま しょう。一秒間くらい身を引きましょう。その 次五秒間くらいは没入している。また離れて五 秒間いましょう。それをいったいどうやったら うまくできるのかということが私の臨床の訓練 の最初だった。(p. 120) Tさんの「思い」を実現しようとしている状態 が、「その人の現象世界に没入している」と表現 されている状態であり、実現した「思い」につい てあらためて「思う」ことが、「身を引く」と表 現されていることなのではないか。Co20が、「出 たり入ったり論」を典型的に表わしているわけで はないし、また、この発言だけが「出たり入った り論」を表わしているわけでもないが、その1つ の例として指摘できる。
5. 治療者に独自に生じた 「思い」、
を言葉にすること
引き続いて、次の部分を取り上げたい。 Cl27 話(はい)、例えば思春期あたりになっ て話を……やっぱり、ある程度こう、男同 士っていうんですかね(うんうん)ってい うような感じで、こう生意気にもこう(う ん)生意気な口をききたくなる時期って(は いはい)ありますよね(はい)。で、あの、 どっかで覚えたその(うん)何かこう難し い言葉を使ってみて(はいはい)そういう ときにあのぅ……何かこう難しい言葉を 使ったり(うん、うーん)、得意気に、何、 かこう(うん)〈笑〉聞きかじり、(うん)、 何かこう、ものをこう振り回して(うん)、 何かそういうのを楽しむ(うん)、父親と楽しみたいなぁなんて(はぁはぁ)思って も。 Co28 自 分 は こ れ だ け こ ん な こ と 言 え る ん だってね(ええ)。はい、はい。 Cl28 それはそういう時に使う言葉じゃないん だよとか(あぁ、なるほど)難しいことを 言っちゃいけないんだよとか(うん)って いうような(うんうん)何かこう……お前 はまだ何も知らないくせに(うんうん)っ ていうような(あ、そうか)その対応がす ごく多くて、何かこう、うーん、もう二度 と話をしたくないなっていうような(ほぉ、 そう)、ことに。 Co29 こっちはね。そういうのを覚えて、お 父さんに、お前もそこまでそんな言葉使え るようになったかって、むしろ認めてほし いような感じでいてもねぇ、うん。 Cl29 ええ、そうですね。 Co30 それをこう。 Cl30 そういう気持ちだったと思うんです。 やっぱり。 Co31 何も知らないのにそんな生意気な口き くんじゃないみたいに。 Cl31 ええ、そうなんです。ええ(うん)。で ……何だかこう、話に行ったのに(うん) 何か説教されて(うん)、終わってしまっ た(あぁ)ようなことが結構ありまして。 Co32 うん、そうか。説教されちゃうんじゃね、 もう二度と口ききたくないなって思っちゃ うなぁ。 Cl32 ええ(うんうんうん)……なんか、何か こう……何か一つ表現するのもすごく気を 使って、うちの中でも何かこう(うん)何 か話すのにも(うーん)あの……バカ、お 前はバカじゃないかって(はぁはぁ)、言 われるんじゃないかっていうような、だか らそのうーん……バカにされないようにっ て(うーん)いうんですかねぇ(うーん)。 あの、っていうか、まぁ、父……と、や、 母がきちんと自分と話して(うん)、ほし い と い う 気 持 ち だ っ た ん じ ゃ な い か な (うーん、うんうん)と思うんですけれど も、あの……話してくれるような話題を選 んだり(うん)、話し方をしたり(はい)っ ていうような時期が、今思うとずいぶん長 かったですねぇ(うーん、うんうん)。 Co33 一言口きくにしてもバカだって思われ やしないかとかねえ。 Cl33 そうですね。 Co34 うーん、その思いでずっといた、はぁ ……。 ここでも、佐治が基本的に行っていることは、 Tさんにおいて実現している「思い」を、佐治の「場 所」においても「思ってみる」、ということであ ろう。加えて、ここでは、Tさんが語っている言 葉だけからでは、はっきり捉えられない「思い」 をも、言葉にしている。たとえば、Co29の「お 父さんに、お前もそこまでそんな言葉使えるよう になったかって、むしろ認めてほしいような感 じ」。 おそらく佐治は、まずはTさんにおいて実現し ている「思い」を「思ってみて」、そういう「思い」 を思っている「私」を実現しようとしていた。そ して、そのようにして実現した「私」として、独 自に「思い」が生じてきたのだろう。それはTさ んのような「私」を実現しようとした結果生じて きた「思い」であって、当のTさんという「場所」 において実現している「私」においても生じうる 「思い」であるかもしれない。 Tさんにおいて実現している「私」をそのまま 佐治という「場所」においても実現しようとする ことに加え、そのように実現した「私」において 独自に生じうる「思い」を、思ってみて、言葉に している、とでも記述できよう。 仮に、佐治がそういうことをしている、とする ならば、次の、「共感(empathy)」に関するロジャー ズ(Rogers, 1957)の定義を連想する。 クライアントの世界が、治療者にとってこれ ほどの明確さを持ったものとなり、治療者がそ の世界の中を自由に動き回るようになると、治 療者は、クライアントが明瞭にわかっているこ とについての治療者の理解を、コミュニケート
することができ、クライアントがほとんど気づ いていないクライアント自身の体験の意味を、 言い表すこともできる。(p. 99) ロジャーズの表現では、「クライアントの世界」 となっており、これは、体験の主体としての「ク ライアント」と、その体験の主体が動き回ってい る「世界」、との分離を前提としているように思 える。そうだとすると、これは、本稿が参照して きた、永井および西田の表象の仕方とはまったく 異なる。本稿では、主客が分離していない純粋経 験、という表象の仕方がふさわしいと考えている。 したがって、ロジャーズの定義が、佐治が行って いることであろうと筆者が記述したことと類似し ているかどうかは、慎重な検討を要する(cf. 小 林(2004、2005))。関連する記述として、指摘の みしておく。
6. 治療者固有の「思い」、が生起する
次の引用を検討してみたい。 Cl53 そうですね(うん)。うーん、一人にな る……一人になって何してるってわけでは (うんうん)ないんですけれども(はぁはぁ) ……。煩わしいと思うんですかね(ああ)。 ただ、おもし、面白いことっていうか〈笑〉 (うん)あの、これは、ほんとに一人にな ることも(うん)あります、ありまして(は い)あの誰も家族の者がいない(うん)っ ていう時は(はぁはぁ)、無性にこう家族 の者に会いたくなる(うーん)んですね(う んうん)。 Co54 両方あるんだねぇ。無性に、家族の人 と会いたくなる、一人でいる時はねぇ、そ う思う時もあるし(ええ)うん。(ですから、) 今度は、ずうっと一緒にいると、少し煩わ しいのか、一人になりたいなぁ、両方ある んだなぁ。 Cl54 まぁ、普通なのかもしれないですけれど も(うんうん)。……(間)…… Co55 一人になって何してるってわけでもな い。そん時に一人になって、何かやりたいっ て思いで一人になるっていうのでもなさそ う。 Cl55 そういう、何かこう(うん)前向きな一 人のなり方じゃないですね(あぁ、はぁ はぁ)。何やってるってただぼーっとして る だ け な ん で す け れ ど も( う ん う ん ) ……。 Co56 なるほどね……。ぼーっとしていたい 気持ちっていうのもあるかな。……(pause 10”)…… Cl56 うーん、何なんですかね(うーん、はい)。 ……(pause 18”)……例えばあの(はい) 仕事から帰ってきて(うん)家に誰もいな いと何かこう(はあ)誰もいないのが(う ん)好きなんですよね。 Co57 あぁそう。ふーん。帰ってきた時に?(は い。まぁ、)おうちに誰もいないのが好き? 仕事から帰って。 Cl57 そ、それでもし、もし(うん)、仮に妻 子に逃げられて〈笑〉一人ぼっちだってい う時に非常に(うん)淋しいですけれども (うんうん)あのぅまぁ多分誰もいないと いっても、帰ってくる(はぁはぁ)あの保 証があって誰もいないっていう(うんうん) 意味なん(はい)でしょうけれどね……。 あのしばらく何かこう(うん)、うーん誰 もいない家ん中で(うん)、じぃっとして る……のが……好きなんですね。 Co58 うーん、ねぇ。……(間)……似たよ うな気持ちを僕も持つことあるけどねぇ ……。 Cl58 あ、そうですか(うん)。 Co59 こうグループなんかでね(ええ)、少し こう緊密なつながりっていうか、関係持っ てそこでやった後なんてのは、今度その後 は無性に一人になりたくなったりねぇ。 Cl59 へぇー……。(間)……ああ、そうなん ですか(うん)。……(pause 38”)……あ の(はい)、ただ、最近(うん)はほんと にそういうふうに思う(うん)ことが少な くなりましたねぇ。Co60 あぁそうですか、はい。 なお、この面接は、Co68で終了する。 やはりここでも、佐治が基本的に行っているこ とは、Tさんにおいて実現している「思い」を佐 治の「場所」においても「思ってみる」、という ことであろう。 佐治は、Co58で、「似たような気持ちを僕も持 つことあるけどねぇ」と、みずからの体験につい て語る、とでも言える発言をしている。ここでは 何が起きていたのだろうか。 おそらくこうではないか。Tさんにおいて実現 している「思い」を自分の「場所」においても「思っ て」みようとしていた。そして、なんらかの「思 い」を「思ってみる」ことが実現していた。そう したら、その思っている「思い」は自分にとって なじみがある「思い」であることに気づいた、で はないか。あるいは、なじみがあるという「思い」 が生じた、のではないか。ああ、この「思い」は、 グループのときに思ったことがある思いではない か、と。 いわゆる「自己開示(self disclosure)」と名づ けられる種類の発言と見なされるだろうこの発言 は、クライアントの「思い」を自分の「場所」に おいて実現しようとしていく過程で、(たまたま) 生じた「思い」を、言葉にしたものであろう。し たがって、「自己開示」をしようとする意図が、 単独で、あるいは、先に、あるわけではない。
7. クライアントにとって、どうい
う体験なのか
このようなカウンセラーと時間をともにすごす ことは、クライアントにとってどのような体験な のであろうか。 この面接記録には、カウンセラーとクライアン トが対談によってこの面接を振り返っている様子 が、映像としてセットになっている。その振り返 りで、Tさんが語ったことを一部紹介してみる。 ……何か考えて、何かこう、自分で話した後に、 こう、先生に、こう、あの先生からのあの、反 応っていうんですかね、が、返ってきて、でそ れが何かこう、えーどういうふうに言ったらい いんですかね。こう、トントンとこう、あの、 肩を叩かれるっていうんですかね、あのような 感じで、こう、それから先のことを考えがこう 進む前に、何てこう、おんなじようなことをグ ルグルグルグル考えるような段階から、ストン とこう、次の段階に移るような、何かそういう のが、あのえー、ま、こういうふうにして深ま るのかなっていうの、あの感じましたけれども。 (佐治、1992、p. 39) 当のTさんの感想はこのようである。ここで表 現されている体験がクライアントにとってどのよ うな体験であったのか、言い換えるべき表現が筆 者には現時点では思いつかない。その作業は今後 の課題としたい。 ただ、ここまでの検討を踏まえるならば、筆者 は次のようなことを考えている。すなわち、クラ イアントにとっては、「思い」をじっくり「思っ てみる」時間になっていたのではないか。本来、 自分という「場所」でしか実現されえない「思い」 が、治療者という「場所」においても実現が試み られ、ことばとして治療者から表現される。クラ イアント自身の「思い」を、その「思い」として、 ゆっくりと思う時間、クライアント自身という「場 所」をクライアントがゆっくり見回してみる(思っ てみる)時間、となっていたのではないか。(精 神分析における、カウチにおける自由連想を、佐 治は、対面、しかし、対話ならざる対座・対坐(後 述)において実現していた、という言い方も可能 か。)8. この面接で、佐治が行ったので
はないか、と思えること
近くにあるクライアントという「場所」で実現 している「思い」を、自分の「場所」において「思っ てみる」ということを、まずはひたすらに行って いたのではないだろうか。 音楽を、どんな音楽だろうか、と聴き入り、きこえてきた音楽が「私」となり、ああこんな音楽 なのか、との思いに浸るように、どんな「思い」 だろうか、と「思い入り」、思いが実現した「私」 となり、ああこんな「思い」なのか、と、また思 う。香りを嗅いだり、味を味わったりすることと も似ているかもしれない。 どんな「思い」なのだろうか、と関心を向ける こと、「思い」をじっくり「思ってみる」こと、 そうしながら「私」という「場所」に生じてくる 「思い」をも、また「思ってみる」こと。佐治は、 このようなことを行っていたのではないか。 仮にそうだとするならば、これは「対話」とい うのはふさわしくない。佐治自身のことばを借り れば、「対坐」、ということになるだろうか。 ひとり 春晝黙して白き時すぎぬ ふたり 春晝や含羞和敬の対坐かな 『佐治守夫先生御退官記念文集』(東京大学教育 学部心理教育相談室、1984)の劈頭に置かれた佐 治の句である。この句に体験される「ひとり」か ら「ふたり」への開けは、先に引用したTさんの 面接体験に正しく照応するように感じられる。そ れだけではない。これはカウンセラー・佐治の体 験で(も)ある。 普通の意味での他者とは、違った「ありよう」 と言えるかもしれない。徹底的に、「思い」の層で、 クライアントの前に、ある(being)(→presence; cf. 岡村・保坂(2004))、生きる、ということを、 行っていたのではないだろうか。 付言しておきたいことがある。佐治(1992)は、 『Tさん』の解説編で、「カウンセラーとして最近 考えていること」として、次のように言う。 特に何かをクライエントに対して与えるとか、 特別な力を貸してあげるとかということが、セ ラピイではないことを確信しています。……そ れがセラピイの本質なのだという思いを揺るが ないように持っていたいと思います。……改善 や変化を期待せずに会うことが大事だと思って います。(p. 27) また、次のようにも言う。 カウンセラーが自分の能力を相手に貸し与えた り……相手に影響を与えて、問題を除去ないし 変容してやったりすることが援助になるのでは ない。……もし「援助」が……相手に何かを与 え何かをしてやり、その結果としての相手の治 癒ないし改善を期待する働きである、と誤って 考えている……なら、その考えを放棄したとこ ろに「援助的関係」が始まることを銘記したい。 援助とは、そのような与えること、してあげる こと、その結果としての改善への期待を最小限 にした活動である。(佐治・岡村、保坂、2007、 p. 13) 筆者はこのことの含意をも、本稿における記述 の試みを通して見出したように感じている。こう した表現を招来する「ありよう」、あるいは、こ うした表現が指示しうる「ありよう」(の1つ)、 である。 佐治は、「特に何かをクライエントに対して与 えるとか、特別な力を貸してあげるとかというこ とが、セラピイではない」、「カウンセラーが自分 の能力を相手に貸し与えたり、相手に影響を与え て、問題を除去ないし変容してやったりすること が援助になるのではない」ことにおいてみずから の臨床を見出している。したがって、佐治の面接 に何事かを見出そうとする「臨床心理士」は少数 となるのであろう。もちろん、臨床の現象形態は 多様である。むしろ、それを要請されさえもする のではあるが。
9.おわりに
本稿の記述が、面接で生じている現象を言い尽 くせているはずもない。しかし、現象のある部分 を表現してみようと試みた。どう記述することが 現象を正しく捉えることになるのか、引き続き取 り組むべき作業である。regard、experiencing(以上、あえて和訳しない) などの、パーソン・センタード・セラピーの概念 を使用して記述する可能性もあるかもしれない。 しかし、それらの用語による記述が現象のある部 分をすくいそこねる危険がある、と考え、まずは 『Tさん』で佐治が行った(と筆者に思える、あ るいは、筆者が思う)ことをなんとか記述するこ とを優先した。これら既存の概念との関連につい ては、検討する意義がある。 本稿は、『Tさん』における佐治の「ありよう」 についての、現時点で筆者にできた、かろうじて の記述である。佐治の臨床は、検討されるべき臨 床の現象形態である、と考える。検討作業はまだ 少ない(『治療的面接の実際 ゆう子のケース』(佐 治、1985)についての保坂(1997)、岡村(2003)。 ほかに、「カウンセリングに強制的につれてこら れて強い抵抗を示している例」(佐治、1996、pp. 105―110)と「自己の内的葛藤に苦しみ、とくに 自分が自由でないと強く感じている30歳の男子の 例」(佐治、1996、pp. 110―115)についての小林・ 岡村(2007)など)。本稿が、1つの契機となれば、 さいわいである。
引用文献
保坂亨 1997「『ゆう子のケース』をめぐって」『東 京大学学生相談所紀要』10,12―18. 小林孝雄 2004「『状態』としての共感的理解の 定義を再考する―ロジャーズの記述の比較検 討―」『人間科学研究(文教大学人間科学部)』 26,67―75. 小林孝雄 2005「『共感的理解』体験をしている 治療者の状態に関する理論的検討―認知理論 と体験過程理論を用いた記述の試み―」『臨 床心理学』、5,673―684. 小林孝雄・岡村達也 2007「臨床心理面接:言葉 をめぐって―言葉を発する行為の重大さと可 能性―」伊藤良子(編)『臨床心理面接研究 セミナー』至文堂,226―237. 岡村達也 2003「『ゆう子のケース』を読む」岡 村達也 2007『カウンセリングの条件―クラ イアント中心療法の立場から―』日本評論社, 191―204. 岡村達也・保坂 亨 2004「プレゼンス(いま-ここに-いること)―治療者の『もう1つの態 度条件』をめぐって―」村瀬孝雄・村瀬嘉代 子(編)『ロジャーズ―クライエント中心療 法の現在―』日本評論社,70―92. 佐治守夫 1985『治療的面接の実際 ゆう子の ケース』日本・精神技術研究所. 佐治守夫 1992『治療的面接の実際 Tさんとの 面接』日本・精神技術研究所. 佐治守夫 1996『カウンセラーの〈こころ〉』み すず書房. 佐治守夫・飯長喜一郎(編) 1991『パーソナリティ 論』放送大学教育振興会. 佐治守夫・岡村達也・保坂亨 2007『カウンセリ ングを学ぶ ―理論・体験・実習 ―第2版』 東京大学出版会. 永井均 2006『西田幾多郎―〈絶対無〉とは何 か―』日本放送出版協会.Rogers, Carl R., 1957 “The necessar y and sufficient conditions of therapeutic personality change.” Journal of Consulting Psychology, 21, 95―103. 東京大学教育学部心理教育相談室 1984『佐治守 夫先生御退官記念文集』東京大学教育学部心理 教育相談室. [付記] 本稿は、2007年10月24日に脱稿したものに、わ ずかな修正を加えたものである。本稿には、岡村 達也先生(文教大学人間科学部教授)より示唆を 得た部分がある。記して感謝いたします。
[抄録] 本稿の目的は、佐治守夫の面接記録(『治療的面接の実際 Tさんとの面接』佐治,1992)を検討し、 カウンセラーの「ひとつのありよう」の記述を試みることである。 永井均による、西田幾多郎の「純粋経験」「場所」の概念の記述を手掛かりに、逐語記録の検討を行い、 佐治が面接で行おうとしていたことを次のように記述した。 基本的にはクライアントの「思い」を佐治の「私」という「場所」において実現することを試み続け ている。そして、その実現した「思い」について佐治が思ったことや、はっきりと語られていないが想 像できたクライアントの体験、浮かんできたカウンセラー自身の体験などを、適宜ことばにして伝えよ うとしている。 この「ありよう」と、「関与しながらの観察」「共感的理解」「自己開示」との関連について、簡単に 考察した。また、この「ありよう」は、1つの臨床形態として位置づけられるものであると指摘した。