「国際文化研究論集」第 8 号抜刷 平 成 26 年 1 月 発 行
中国・長春市の主要近代建築について
中国・長春市の主要近代建築について
矢 羽 田 朋 子
はじめに 現在,長春市は中国吉林省の省会であり,商業都市として栄えている。この 長春市の都市形成には帝政ロシア・日本・歴代中国政府による影響が考えられ るが,特に満洲国国都建設期に行われた都市計画による都市建設が,その骨格 形成に大きな役割を結果として果たしたのではないだろうか。筆者が初めて長 春市を訪れた 2004 年から 2005 年の段階では,長春市には満洲国国都建設期に 創建された建築物の一部が学校や病院施設等として使用されており,尚且つ都 市景観の一部となっていた様に思われる。本論では,長春市の主要「近代建築」 物をリストアップし,2010 年 8 月に再び長春市を訪れて現地調査した結果をも とに,長春市の主要近代建築の建築様式と新中国成立以後の保護と利用の過程 との関係性の考察を行うものとする。 研究対象地:長春市について 長春市の主要近代建築について論ずるにあたって,まず長春市について触れ ておきたいと思う。 「北国春城」の異名を持つ長春市は,吉林省の省会であり,吉林省の中部伊通 河畔に位置し,緯度は日本の旭川に相当する。経済開発区を含む 12 市区,3 市,1 県から成っており,都市を取り巻く松遼平原は玉蜀黍や大豆の産地とし て有名である。長春は,1800 年(清嘉慶 5 年)に清朝が長春庁を設置したことによって始ま り,現在まで 210 年余りの歴史を持つ都市である。最初の 1 世紀は,長春は単 なる地方都市の一つに過ぎなかった。しかし 1899 年の帝政ロシアによる中東鉄 路建設とそれに伴う寛城子駅舎建設によって近代都市化を始め,その後の南満 州鉄道株式会社の付属地建設によって近代都市としての様相を整えていくこと となった。そして 1932 年からの満洲国の国都建設期を経て長春は中国における 重要都市の一つとなったのである。しかし,1946 年からの 2 年にわたる国共内 戦により長春市は一時壊滅的なダメージを与えられた1と伝えられている。長 春は 1948 年,共産党により解放された。その後の 50 年余りの建設は都市の面 貌に大きな変化をもたらした2と言われている。 現在,長春市の全市面積は 20,571 平方㎞で吉林省全体の約 11 %を占める。 また,長春市の戸籍人口は 762 万人で,吉林省全体(2,727 万人)の約 28 %の 人口を有している3。長春市は吉林省の政治,経済,文化の中心地であり,映 画製作と自動車産業が市の代表的な産業として,世界的によく知られている。 満洲国期,その首都として「新京」と呼ばれていた長春には,現在でも市内に 1 越沢[2002] 2 張・福川[2002] 3 在瀋陽日本国総領事館,2 .長春市概況 http://www.shenyang.cn.emb-japan.go.jp/jp/ northeast/neintroduction/northeast_2_1_1.htm (2013 年 12 月現在)
は以下に述べる「満州国」期の建築物が比較的多く残っている。 長春市の近代建築の成立過程について 長春の近代建築は 1841 年のイギリス宣教師による教会建築がその初めとされ ている。また張・福川 [2002] によると,その形成期によって 3 つの時期に分類 して考えることが出来る。 ( 1 )寛城子付属地建設期 1860 年頃~ ( 2 )満鉄付属地建設期 1906 年頃~ ( 3 )国都建設期 1932 年頃~ 本論で取り扱うのは,主に( 3 )の国都建設期の近代建築4,その中でも特 に官衙建築である。 研究方法と目的 本論では,長春市の近代建築の保護と利用の過程及び現状を考察し,今後の 長春市の都市建設の中において,近代建築をどの様に保存及び利用していくか という問題についての答えを模索することを目的とする。その際,近代建築の 様式の問題と関連性を取り上げて考察を行いたいと思う。研究方法は主に文献 考察により,現地調査の結果も使用する。 本論の位置づけ 長春市の都市と建築に関する研究の主なものには日本では,西澤泰彦による 4 長春市における「満洲国」期の主要近代建築は,「二宮」と「九部」である。「二宮」 とは「仮宮殿」と「新宮殿」のことであり,「九部」は「駐満関東軍司令部」と「満洲 国八大部」のことをいう。これらの建築物の内「偽皇宮」を除く他のものは,文化広 場と新民広場をつなぐ新民大街沿いに集中しており,その建築様式には何か「異質」 なものが感じられる。
建築及び建築組織,建築家に関する研究や越沢明による近代都市計画に関する 研究が挙げられる。中国では杨家安・莫畏による都市計画に関する研究が主な ものとして挙げられるだろう。また,近代建築の保存と利用に関する研究とし ては,管見の限りでは近年の張海星・福川裕一の共同研究が挙げられる。しか し,長春市の都市と建築に関する研究は未だ歴史的な課題に重点が置かれてお り,今日の保護と利用に関連づけられたものは少ないように思う。本論では, 長春市の近代建築の保護及び利用とそれに関連していると考えられる近代建築 の様式における問題について考察を行いたいと思う。 近代建築の調査・保護及び利用状況について 新中国成立以降行われた長春市の近代建築調査は大きく 4 回に分けることが 出来る。 ① 「中国建築三史」編成にあたり,1959 年に行われた調査。 長春の官衙建築の様式を「興亜式」としている。 ② 1986 年に「都市マスタープラン」策定にあたり行われた調査。 ③ 1988 年から 1994 年にかけて日中が協力して行われた調査。 長春だけではなく,全国的に行われた調査。長春の官衙建築の様式は「興 亜式」とする。 ④ 1995 年から 1999 年にかけて吉林建築工程学院の李之吉等が行った調査。 長春の官衙建築の様式を「満州式」と確定した。 長春市の主要近代建築の建築様式をめぐる議論:日本 ≪興亜式≫:ファシズム建築様式の一つと考えられる帝冠様式の延長上の建築 様式。 満洲国の官衙建築は,東洋風の屋根を戴くという点において,しばしば日本 国内の「帝冠様式」との類似性が指摘されている。この点について,越沢は形
態的類似を根拠にして満洲の官衙建築を「帝冠様式の延長上」と捉え,「興亜 式」もしくは「アジア主義様式」と呼ぶのが相応しいとしている。カナダ・セ ントメアリー大学助教授のビル・スウェルは,「旧満州における戦前日本の町づ くり活動5」において,満洲国時代に「興亜式」という用語が殆ど使われてい なかったとしながらも,満洲国の官衙建築の様式を「興亜式」としている。 しかし,実際に「興亜式」が理論的に確定されたのは 1942 年に行われた建築 学会6においてである。 ≪満洲式≫:満洲という土地の雰囲気が根底にある建築様式。 一方,西澤は形態的類似を認めてはいるものの,成立過程が異なる7ことを 根拠に,同様の様式,もしくはその延長にあるという解釈を否定し,「あくまで も,帝冠様式と「満洲国式」を別個の建築様式と認識すべきである8」として いる。また,張・福川もその成立過程と政治的背景の違いから「満洲式」と「興 亜式」を分けて考えている。 この「満洲式」建築様式の理論的根拠となったのは,佐野利器が提出した意 見書9である。 「商店住宅等一般の建築様式は恐らく多種多様なるべく,これらは自然のまま にまかす外なし。唯諸官衙の建築はその内容は利便に基づくべく,外形はまた 質実を旨とすべしといえども常に満洲の気分を基調とすることを望む。」 「満洲式」の名称は相賀兼介の第一庁舎(1932 年 7 月)の「建築工事概要」 5 日文研フォーラム 2003 年 6 「大東亜共栄圏における建築様式」と題された座談会が行われた。 7 「成立過程をみると帝冠様式がいく度かの設計競技を経て成立したのに比べて,「満洲 国式」はそのような過程を経ず…省略…」西澤[1996] 8 西澤[1996] 9 越沢[2002]
が初出である。のちに「満洲建築雑誌」において同類建築様式の建築工事概要 が「満洲式」と表記されるようになった。 「満洲式」建築は,相賀兼介の第二庁舎(1932 年 7 月)から石井達郎の国務 院(1934 年 6 月),雪野元吉の忠霊塔(1934 年 7 月),牧野正の中央法衙(1936 年 6 月)と建国忠霊塔(1936 年 9 月)の建設などが挙げられる。 これら「満洲式」建築の代表的なものとしてあげられているのは,国務院庁 舎である。石井達郎はその設計において,両側の翼と中央の塔屋はそれぞれ関 東軍司令部と日本国会議事堂から処理方法のヒントを得たと言われている。ま た,設計をする前に北京の故宮を考察するなど,国務院建築は中日伝統的建築 要素を近代建築においてうまく調和させることによって,現代的でありながら も伝統的でもあるという満洲国独自の雰囲気を表わそうとした。 「満洲式」の建築様式の特徴は概ね,左右対称の空間構成,東洋あるいは中国 伝統形式に則った屋根,西洋古典建築様式のファサード(正面デザイン),外観 は褐色を基本としてまとめられると考えられる。
図:相賀健介による第一庁舎と第二庁舎
満洲国第一庁舎(現中国共産党庁舎) 満洲国第二庁舎(現長春市公安局)
(上段画像:2005 年相良氏提供。下段画像:写真集「さらば新京」国書刊行会 1979 年よ り抜粋)
主要近代建築リスト 国務院:(現吉林大学新民校区基础医学部) 新民大街 2 号 竣工年:1936 年 設計:総務庁需用所営繕科(石井達郎) 2005 年筆者撮影 2005 年筆者撮影 2005 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 満洲式。 西洋古典様式と中国古典様式の融合。 鉄筋コンクリート建。敷地面積は 50,600 ㎡,建築面積は 20,500 ㎡。 正門は西に向かって,平面は“山”字の形,屋上は塔式。主体は階建てで,両翼はそ れぞれ 4 階(地下 1 階)となっている。地下は長春駅まで繋がっていたとされる。 当初国務院は,清朝の道台衙門の建物を使用しており,これは新築された二代目であ る。 外観が日本の国会議事堂に酷似していることを挙げ,満洲国が日本の傀儡国家であっ たことを象徴しているとする説もある。 国務院は満洲国最高行政機関であり,行政事務を管理。1945 年の日本敗戦後,国民党 が長春を支配した期間はアメリカ・蒋介石特務組織励志社に占用,一部分は破壊され た。1948 年,共産党による長春解放後,中国人民解放軍軍医大学に接収管理。その 後,白求医科大学となり,破壊された部分を修理して基礎医学院として使われ,現在 も吉林大学基礎医学院として使用されている。 2005 年時は,入り口付近と当時使用されていたエレベーターがガイド付きで見学(学 生料金 5 元,一般は 15 元)できた。2005 年以前は張景恵のオフィスや閲兵台も見学 出来たそうだが,大学に返却した為に見学は不可とガイドから説明があった。 2010 年は見学できず。
関東軍司令部:(現中共吉林省委) 人民大街 47 号 2005 年相良氏提供 2010 年筆者撮影 竣工年:1934 年 設計:関東軍経理部 日本式建築。または「大陸様式」(ヨーロッパ建築と日本の城郭建築を融合したもの。) という説がある。 中国の研究者間では「城門式」(名古屋城をモチーフとした説)と言われている。 「満洲国」の事実上の支配者であった関東軍総司令部の建物。 鉄筋コンクリート建。銅瓦。地上 4 階,地下 1 階。建築面積 15,276 ㎡,敷地面積 34,221 ㎡。 現在の長春市人民広場の北西側に位置する。新京の中心地にあった。 日本統治期の関東軍司令部は 1932 年に瀋陽から長春に移転し,日本駐満洲国領事館 (現吉林省政治協商会議)にあったが,1934 年に現住所に移転した。 当時の日本人からはその特徴的な形から 「お城」と呼ばれていたらしい。
総合法衙:(現四六一医院) 自由大路 22 号 2005 年筆者撮影 2005 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 竣工年:1938 年 設計:営繕需品局営繕処 総合法衙は満洲国の最高法院・最高検察庁である。
新民広場の東側に位置している。 建物中央の塔式屋根は紫色の瑠璃瓦が嵌め込まれおり,外塀は茶色の薄いレンガが貼 り付けられている。 設計は新奇独特とされ,外見は丸い曲線形。 2005 年に聞いたタクシー運転手の話では,戦中,楼内には尋問室や絞人機など何十種 もの刑具が設置されており,ここで殺害された中国人が多数いたということである。 八大部: 治安部(軍事部):(現吉林大学新民校区第一临床学院) 新民大街 1 号 2005 年筆者撮影 2005 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 2010 年筆者撮影
竣工年:1396 年 設計:営繕需品局営繕処 満洲式。 「八」の字形をした鉄筋コンクリートの構造である。 敷地面積 53,850 ㎡,建築面積は 47,802 ㎡。車庫,ボイラー室がある。 建物の出入口は立地を活かし,角地に設けられている。国務院の向かいに位置する。 玄関は 4 本のオーダーで支えられている。内部の壁はすべて赭色の大理石で飾られ, 雨棚屋上は花崗岩の欄干がある。また濃褐色タイルが貼り付けられ,屋根と軒下部分 はグリーンの瑠璃瓦である。 軍事部は軍政を管理し,兵を指揮し陸海軍を管轄する為に設けられた。つまり,反満 抗日運動を弾圧し,日本の植民地活動に協力する為の機関であった。満洲国解体後は 国民党に占用,建物内は破壊を受けた。共産党下では,中国人民解放軍軍医大学に接 収,補修され,現在まで病院として使われている。 司法部:(現吉林大学新民校区校部) 新民大街 6 号 竣工年:1396 年 設計:総務庁需用所営繕科(相賀兼介) 和漢折衷様式。中国式のアーチ型拱窓と 日本式の玄関が入り混じっている。 十字型をした鉄筋コンクリート構造。 総建築面積は 16,328 ㎡。 地上 3 階,地下 1 階建,中間の部分は 6 階建。 建物全体は褐色のタイル張で,中央部分 は主体の 3 分の 1 程度高くして,白タイ ルで敷きつけられている。 塔の頂,屋上と屋根は青い瑠璃瓦。 司法部は建造初期には道勝銀行に設けら れていたが,同年商埠地五馬路旧蒲団工 場に移転し,その後大同広場第二庁に移 転。さらに 1936 年に現在の場所に移転し た。 2005 年筆者撮影 2010 年筆者撮影
財政部(経済部):(吉林大学新民校区第三临床学院) 新民大街 5 号 2005 年筆者撮影 2005 年筆者撮影 2005 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 竣工年:1939 年 設計:営繕需品局営繕処 満洲式。 全体の建築平面は“F”型を呈している。鉄筋コンクリート構造。 敷地面積 43,200 ㎡。 建築主体は五階建,両翼は 4 階建,褐色タイル張,地下 1 階。屋根と周縁は濃色瑠璃 瓦。 経済部は,税務,専売,貨幣,金融と国有財産の管理にあたっていた。 設立当初は北大街(東三省官銀号)に設置され,後に現吉林省化工設計院に移転。 1937 年から経済部と改称。 日本投降後,国民党に占用され,内部に破壊を受けたといわれている。
外交部:(現在は不動産会社所有) 建设街 30 号 竣工年:1932 年または 1936 年 設計:ブロサール・モパン 煉瓦造 2 階建,地下 1 階。 建築面積 9700 ㎡。 後部建物の曲がり角に円楼が立っていた。 建築様式は砦式。西洋建築の特徴を持っ ている。 長春が共産党に解放された後は,相次い で吉林省委員会党校,東北文史研究所, 吉林省軍区,吉林省社会科学院などの機 関に使用された。 2005 年林田氏提供 交通部:(吉林大学新民校区卫生系) 新民大街 7 号 2005 年筆者撮影 2005 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 2010 年筆者撮影 竣工年:1937 年 設計:営繕需品局営繕処 満洲式。
鉄筋コンクリート構造。建物主体 4 階建,両翼 3 階,地下 1 階。 屋根は“人”形で,新民大街に向かっている。 屋根の周縁には図案らしきものが彫られており,その下に壁を突き出ている装飾柱が 4 本ある。 建物は全部褐色タイルで装飾。濃赤色の瑠璃瓦が屋根に敷かれている。 興農部:(現东北师范大学附属中学) 自由大路 8 号 竣工年:1937 年 設計:不明。 コンクリート構造,2 階建。 建築面積 9871 ㎡。 1958 年 8 月東北師大学付属中学校とな り,改修工事によって原型はとどめられ ていない。 2005 年相良氏提供 2010 年筆者撮影
文教部:(現东北师范大学附属小学) 自由大路 10 号 竣工年:1938 年 設計:不明 鉄筋コンクリート構造。 敷地面積 10,000 ㎡。 1948 年の長春解放後,東北師範大学に引 き継がれて東北師範大学附属中学校に使 用された後,1958 年から同付属小学校の 施設となった。 建物自体が新しく改築された為,昔の面 影は残っていない。 2005 年相良氏提供 2010 年筆者撮影
民政部:(現吉林石油化工设计院) 人民大路 113 号 2005 年相良氏提供 2005 年相良氏提供 竣工年:1937 年 設計:不明 鉄筋コンクリート構造。 2 階建,地下 1 階。 おわりに 「満洲式」も「興亜式」も共に「アジア主義」の中に含まれてしまうものだ が,2 つの建築様式の理念は明らかに違うものである。 このことから近年の中国人研究者は「満洲式」という言葉を以てその建築様 式を表しているかのようである。確かに,植民地の首都建設の為に建設された 建築物が長春市において存在し,使用されていることの原因の一つとして,「満 洲式」建築に見られる「帝冠様式」建築の理念的影響力は,満洲国終焉ととも に消失していき,「満洲式」建築の理念が持つ「中国民族様式」色彩は中国解放 以後も継続されてきているということが考えられる。 しかし実際には,文物保護指定のパネル上に「興亜式」の文字が残るように, その様式は確定しきれていない状況のまま,使用されている近代建築が多数残っ ている状況である。
引用・参考文献(年代順) 近江栄 「近代建築史における設計競技の位置№ 8 帝冠様式への起因」日本大学 1967 年 田島勝雄 『満鉄の建築と技術人』満鉄建築会 1976 年 小島麗逸 『中国の都市化と農村建設』龍渓書舎 1978 年 同時代建築研究会 『悲喜劇・一九三〇年代の建築と文化』同時代建築研究会 1981 年 加藤祐三 『アジアの都市と建築』鹿島出版 1986 年 迫田正美 「建築における機能の問題について」『日本建築学会大会学術講演梗概集』 1986 年 迫田正美 「建築をめぐる意味と解釈」『日本建築学会近畿支部研究報告集』 1987 年 川道麟太郎 橋寺知子 杉山竜彦 「帝冠様式と伊東忠太」日本建築学会大会 1991 年 西澤泰彦 「「満洲国」の建設事業」 『「満洲国」の研究』山本有造編 緑蔭書房 1995 年 張復合 村上伸 「中国の近代建築」『全国調査東アジア近代の都市と建築』藤森照信・汪坦編 大 成建設株式会社 1996 年 西澤泰彦 『海を渡った日本人建築家』彰国社 1996 年 『「満洲」都市物語』河出書房新社 1996 年 田中禎彦 「満州国における歴史的建造物の調査保存事業」『日本建築学会計画系論文集第 525 号』 1999 年 劉霊芝 小西敏正 桝田佳寛 中村成春 「日中近代建築外観のイメージに関する研究―日本人によるイメージアナリス―」 日本建築学会 2001 年 劉霊芝 小西敏正 桝田佳寛 中村成春 金子和人 日本建築学会 「日中近代建築外観のイメージに関する研究─日本人によるファジィ・アウトラ ンキング法を応用した「らしさ」の評価─」 2002 年 劉霊芝 中村成春 小西敏正 「中日近代建築外観のイメージに関する研究」 日本建築学会計画系論文集 2002 年 越沢明 『満洲国の首都計画』 ちくま学芸文庫 2002 年 「中国・長春の近代建築の保存と利用に関する考察」 張海星・福川祐一 日本建
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