• 検索結果がありません。

聞 いたことがありますか 最 澄 が 修 業 で 使 った 灯 火 で 灯 火 を 守 るために 油 が 切 れないように 油 を 注 ぎ 芯 が 燃 え 尽 きそ うだと 新 しい 芯 に 代 える こうした 営 みを 永 遠 と 続 けてきた 日 本 の 宝 です 灯 火 を 見 ていると 一

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "聞 いたことがありますか 最 澄 が 修 業 で 使 った 灯 火 で 灯 火 を 守 るために 油 が 切 れないように 油 を 注 ぎ 芯 が 燃 え 尽 きそ うだと 新 しい 芯 に 代 える こうした 営 みを 永 遠 と 続 けてきた 日 本 の 宝 です 灯 火 を 見 ていると 一"

Copied!
5
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

暁星学園は1888年に「暁星学校」として始まり、今年126 年目に踏み出しました。私達は、爽やかな稔の秋の11月1日 を学園の創立記念日として覚え、記念の式典を挙行しており ます。学園創立の精神とその後の歴史に思いをいたし、現在 と将来への糧とする、そのような機会であります。 さて、正門で毎日皆さんの登下校を見守っている「暁の星 なる聖母」の絵を知っていますね。この絵は、ローマ駐在日 本大使館員であった山本信次郎氏がフランキ・ムッシーニ夫 人に制作を依頼したものです。 山本信次郎氏は片瀬海岸に避暑に訪れていたヘンリック 神父との出会いが縁で4期生として入学しました。先生を手こ ずらせる腕白少年であったそうですが、卒業後は海軍兵学 校に進み、日露戦争では東郷平八郎大将の配下として日本 海海戦で武勲をたてました。その後外交官となり、第一次世 界大戦後のパリ講和会議では西園寺公望全権の下で通訳と して活躍しました。この時代は、現在以上に日本が国際社会 で活躍していた時代でした。 その後日本は国際社会から孤立し、世界を敵に回した戦 争で、明治以来の国富を失ったのは皆さんも知っての通りで す。独り善がりで閉鎖的な社会や国民の意識が、どれだけ大 きな災禍を招くかという史訓です。皆さんが内向きになり視野 が狭くなってしまうことは、十年後、二十年後の日本を危うくし ます。 昨年、内閣府がアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、スウェ ーデン、韓国、日本の7カ国の若者を対象に意識調査を行っ たところ、「自国のために役立ちたい」と思っている割合が最 も高かったのは日本の皆さんの年代でした。にもかかわらず 「自分や自国の将来を肯定的に捉えている」割合は7カ国中 で群を抜いて低く、憂慮すべき状態にあります。 その大きな理由の一つが、経済成長の時代に代わる国の モデルが無いことにあると思われます。成長が続く時代にあ っては計画を管理・遂行するリーダーが求められました。現 在求められるのは新たなモデルを作るリーダーです。しかし、 豊かになった結果平等を求める風潮が強くなり、リーダーが 育ちにくい状況にあります。 天然資源に乏しく、働く人口が減少の一途を辿るこの島国 の利点は、海を通して世界の国々と直接交わることができる ことです。交易に生存と発展をかける、開放的な国造りを目 指すべきだと私は考えています。山本信次郎氏のような国際 人を多数輩出してきた学園には、この国のリーダーを育てる という大きな使命があり、皆さん一人ひとりに期待がかかって いるのです。 そのために、英仏二ヵ国語をしっかり学んでください。国を 挙げて英語力の強化に取り組んでいますが「英語が話せれ ばいい」というものではありません。「言語は単にコミュニケー ション手段ではなく思考の土台だ」とはある生徒の言葉です。 二ヵ国語を学んでいるからこそ見えた視点だと思います。外 国語を学ぶとは、外国を知り、他国と深く交わることです。価 値観や文化の異なる人々と対等に渡り合うには、自らを知り、 日本人としてのアイデンティティを持っていなければなりませ ん。 また、私達は島国で暮らしてきた故に、意識して外と触れ 合う機会を作って行かないと、独自に文化や技術を進化・発 展させてゆく癖があります。ガラ携のみならず大学のガラパゴ ス化が日本の大学の評価を下げています。国際社会では 「何が正しいとされ、何が好ましいとされているのか」、グロー バルな価値意識を身に付けることが大切です。 キリスト教を学んで世界宗教に見られる人類愛や奉仕の精 神に触れ、「利他の精神」を育んでください。「祈ることで、自 分の内なる声を聞きぶれない生き方をするようになった」とい う声をしばしば耳にします。特定の宗教を信仰しなくとも、一 人ひとりが自分の中に「神様」を見出すことは大切だと思いま す。 次に、伝統を守るということについてお話しします。皆さん は比叡山延暦寺に 1200 年の間、幾度もの災害に遭いながら 一度も消えたことがない「不滅の法灯」という灯明があることを 行 事 予 定 12月 1月 2月 8 月 期末試験(~11) 8 木 始業式(10 時) 3 火 入試・自宅学習(~5) 12 金 自宅学習(~15) 9 金 校内実力テスト(~10) 6 金 外部テスト(高1・2) 16 火 授業(答案返却) 13 火 中1学年ミサ 7 土 外部テスト(高2) 17 水 自宅学習(~20) 17 土 センター試験(~18) 10 火 生徒会行事 22 月 終業式 20 火 高2学年ミサ 18 水 灰の水曜日※ 24 水 クリスマス・イブ ミサ (講堂 18 時、聖堂 21 時) サッカー大会(~26) 17 火 生徒会役員選挙 22 木 福者シャミナード記念日※ 20 金 保護者会 25 木 主の降臨 23 金 後援会講演会 ※学校での行事は特にありません。 暁星中学高等学校 平成 26 年 12 月 18 日 Stella Matutina ラテン語で「暁星」の意味。頭文字の S.M.はセーター、鞄に記されています。

創立記念日式典

Stella Matutina

クリスマス号

(2)

聞いたことがありますか。最澄が修業で使った灯火で、灯火 を守るために油が切れないように油を注ぎ、芯が燃え尽きそ うだと新しい芯に代える、こうした営みを永遠と続けてきた日 本の宝です。 灯火を見ていると一つの疑問が涌きます。「なぜ守り続けら れたのか、誰がどのようにして守ってきたのか」と。高僧は答 えて言います「係や役割を決めたら何年かはうまくいくけれど も、役割を決めた瞬間に誰かの仕事だという甘えが出てきて 他人事になってしまう。そこに失敗の原因が隠されています。 比叡山では誰も役割を持っていません、気付いた人が油を 足す、気付いた人が芯を代えるのです。命に代えても守らな ければならないものはいけないものは、役割や係分担で行う ものではない。油が切れたら灯火は消えます、それは心に迷 いや怠慢が満ちて当たり前のことが当たり前に出来ないこと 東京大学総合博物館教授 遠 藤 秀 紀 氏 宗教部では今年の 「 いのち」のテー マを 「死」から考えてみるこ とにしました。 今年の創立記念日 は、記念講演として卒 業生の遠藤秀紀氏に お願いいたしました。 遠藤先生は東京大 学総合博物館教授と してお勤めです。解剖学の権威として活躍していらっしゃいます。 「死体から解く動物のなぞ」 「ようこそ死体の世界へ」「ようこそ解剖学へ」 東大で仕事をしています。暁星には幼稚園の第 1 期生、 開園した時の入園生です。まさか 50 年近くたってここで話を するとは思いませんでした。今日は「いのち」を皆さんのとは 違うとらえ方で考えていきたいと思っています。私の勤め先は 大学では、死んだ動物の骨などを集めて博物館を作ってい ます。骨ばかりではありません。剥製もあります。これ何だか 知っていますか。朱鷺です。皆さんが生まれる前に絶滅して しまいました。これは? そうです。忠犬ハチ公です。朱鷺は、 絶滅してしまった鳥。ハチ公は、ただの犬。でも、人間との間 にいろいろなエピソードがある犬です。戦争中は、「ハチ公の ように国に忠誠心をもって死になさい。」と言われた歴史を背 負ってしまった犬です。博物館というのは、こういったものを 集めて、失われてしまったものを未来に伝え、そこから新しい 見方を作り出すところなのです。今日は「死体は進化の歴史 書」だということを話したいのです。死体を集め、剥製にし、標 本にして未来に伝える。これが、私の仕事です。 死体は進化の歴史書 これは、パンダの死体です。これから、こういった写真が何 枚か出てきますが、画面がこわかったら、目をつぶってくださ い。私となら、こわくないし気持ち悪くもないはずです。死ん だパンダの皮を剥ぎ、中身は石膏で型を取る。そこにプラス ティックを流して、絨毯(パンダの皮)をかぶせる。それで剥製 ができあがる。これが上野の国立博物館にあるわけです。 パンダもクマの仲間ですが、クマは獰猛で爪で相手を殺し て、その肉を食べます。パンダは、笹や竹を食べます。パン を意味します。このことを『油断』と言います」と。 「油断」とはこういう意味だったのです。気付いた人が油を 足す、気付いた人が芯を代える、守らなければいけないもの は「まず自分から」そういう思いで取り組むことが大事なので す。 山本信次郎氏は「暁星でキリスト教の理念に基づく善良で 品位ある生活を学び、外国とその文化に触れ、対話するため には充分な外国語を習得したので、外交交渉で臆することな く主張することができました」と言っています。学園のこの伝統 は誰かが守ってくれるだろうではなく、「まず自分から行動す る人」になって欲しいと思います。それが、「地の塩 世の光」 となって生きることであると、126年目の節目に皆さんにお伝 えして、結びとします。 (校長) ダの手のひらにも、5 本の指があり、爪があります。クマの仲 間で獲物を取っていた証拠です。そんな不器用な手では笹 を食べられません。不器用な手が器用になったのです。CT スキャナーにパンダの死体を入れました。1ミリ刻みで手のひ らを切り、どうやって物を掴んでいるのか、アニメを作ろうとし たのです。1ミリ厚で 200 枚の写真を撮りました。死んだパン ダから竹を掴んでいたパンダの絵を作ったのです。でき上が ったアニメを動かしてみましょう。5 本指ですが、6 本目、7 本 目の骨がここに見えます。6 本目、7 本目の指が掴む機能を 果たしていることが分かったのです。普通のクマだったら落ち てしまうはずの竹を、こうして手のひらに収めることができるの です。人間は、物を掴むとき、親指と向かい合った 4 本の指 で物をはさみます。人間だけが器用な指をしているのです。 クマは、5 本の指を一緒に同じ向きに曲げて折ってしまうので、 物をつかむことができません。だから、パンダは、物を掴むた めに 6 本目、7 本目の指が必要になってきたのです。パンダ の死体が発見させてくれたことです。フェイフェイ、ホアンホア ンのおかげです。まさに、「死体は進化の歴史書」といえます。 クマが 2 本指を増やした、4 足歩行のサルが 2 足歩行の人間 になった、これらのことは、全て死体の研究からわかったこと です。古文書を調べるように死体から歴史がわかるのです。 「死体」はすごいと思います。「いのち」の勉強の仕方です。 死体から生き方、進化の歴史が研究できるのです。 先生は、続いて「イルカのCT画像」、「像の死体」、「大アリ クイ」の写真を提示し、それぞれにどんな特徴があり、どんな 進化を遂げてきたのかを説明してくださいました。そして、「バ イカルアザラシ」の研究から、これ以上進化できない動物の 説明もしてくださいました。 死体を前にして これは、名古屋のインドサイです。飼育係さんにとっては、 哀しい別れです。30~40 年いい所に過ごしてきた。家族と過 ごす時間より長かったりするわけです。そんな飼育係さんが 「死んだら、私達は、何にもしてやれない。学問で生かしてや ってくれないか。」とおっしゃいます。飼育係さんの気持ちを 考え、死体に接することが研究者の仕事だと思っています。 宗教の時間で 小学校 3 年の時、絵本みたいな旧約聖書を勉強していて、 当時ずいぶん進歩的な授業だと思いますが、清水神父様が 「科学と聖書で議論しなさい」とおっしゃったんです。それで、 聖書 対 科学の議論が始まったのです。私は、アフリカの化 石の話なんかして、聖書派を泣くぐらいに言い負かしました。

記念講演

(3)

それを見て、神父様は、「遠藤君は正しい。間違い無い。遠 藤君の言っている事は正しい。でも、ひとつだけ知って欲し い。世の中には、この本(聖書)に救われて生きていかなけれ ばならない人がいる。好きな科学の道にまい進して欲しい」と おっしゃいました。これは、僕の人生にとって大きな体験でし た。 死体を標本にして未来に伝える 死体を標本にして後世に知の宝物として残していく。骨に して保存します。骨にするために、3 年間土に埋めて発掘し たり、大きな鍋に入れ、80℃で4~5 日煮たりして、肉を洗い 落とします。こうして博物館に収め、後世の為に残すのです。 死や死体から隔離された現代社会 蝦夷人(昔のアイヌ)はオットセイの狩猟をしていました。マ タギは撃った熊を分けあって暮らしていました。死体の一部 を軒先につるし、魔除けにしたりしていました。魂を山に返す といった意味もありました。土佐の捕鯨も何も無駄にせず、使 っていました。そこには、命と死がありました。 そこに伝統的 儀式や文化がありました。 11 月 15 日(土) (於:日仏会館ホール) 第 7 回日仏会館フランス語コンクール 決勝大会 暁星高等学校から出場した 5年A組 田 島 凜太郎君が、第 2 部門で La famille, aujourd’hui (スピーチと質疑応答、15 名出場) という題でスピーチを行い、見事優勝しました。パリ往復航空 券と 4 週間の語学研修を獲得しました。 スピーチ原稿を紹介します。 Qu’est-ce que la famille ? Rintaro Tashima

Je viens de passer un an en France et j’ai appris beaucoup de choses, au lycée, dans l’équipe de football dont je faisais partie et avec la famille qui m’a accueilli. Comme c’était la première fois que j’habitais avec une autre famille que la mienne, cela m’a fait réfléchir à ce qu’est une famille.

Au Japon, je vis à l’intérieur de la famille ; mais en France, j'ai vécu avec une famille à laquelle je n’appartenais pas, ce qui m’a permis d'observer la famille « de l’extérieur ».

Neuilly, une grande maison, deux parents bien sur et quatre enfants, plus un chat. Quatre enfants, c’est-à-dire, deux filles, deux garçons, de 12 à 22 ans. La maison était donc très animée avec des conversations parfois agréables et parfois très bruyantes à cause des disputes.

Tous les membres de ma famille d’accueil prenaient autant que possible leur déjeuner et leur dîner ensemble, et ils en profitaient pour parler de ce qui s’était passé dans la journée, ou de politique, ou pour raconter des histoires drôles. Je ne comprenais pas encore bien le français, mais dans cette

ambiance conviviale, j'ai pu partager des moments agréables. 今、おじいちゃんやおばあちゃんは、自宅で死ぬことはあ りません。病院や老人ホームで亡くなってしまいます。長い間 生活していたと違う所で死んでしまう。死が近くにないのです。 また、理科の解剖実験を残酷だと批判する人がいる。食肉文 化を見る人間の目もおかしくなっています。たとえば、皮革職 人への偏見がいまだにあったりします。現代社会はゼロリスク やコンプライアンスで、思考停止した潔癖社会となってしまっ ています。 田舎では、鶏をしめて食べています。都会では、パックの 中の鶏肉しか見ることが出来ません。生きているものが死ん でいくものを見ることが無くなりました。見たくもない。このよう に生と死の世界を普段の社会から切り離してしまって良いの でしょうか。おじいちゃんが畳の上で死んでいくのを見て、命 について考えるのではないでしょうか。ファストフードの肉に は、「安心、安全、清潔」とは書いてありますが、屠殺している 事実は語られません。壁の向こうに追いやってしまっていま す。現代都市生活は命に対する考え方が歪み始めていると 感じています。

Mais j’ai vu que les parents étaient assez stricts: ils obligeaient leurs enfants à étudier sérieusement et ne leur permettaient presque pas de sortir. Donc, des disputes éclataient souvent.

Rodrique ! Qu’est ce que tu fais sur l’internet ? Ca ne te regarde pas !

Comment ? Vas dans ta chambre !

Les parents se souciaient beaucoup de ce que pensaient leur voisins ou leur proches. Et les enfants, à cause du stress qu’ils resentaient, fumaient en cachette (des cigarettes bien sur) et essayaient de prendre un peu de distance.

Chacun éprouvait sa part de mécontentement, d’autant plus qu’ils passaient de nombreux moments ensemble. Alors, ils sont malheureux ? Non, pas du tout. C’est leur style de vie et ils en sont tous satisfaits.

Maintenant, je vais vous parler de ma famille, qui est tout à fait différente de cette famille française. Mes parents travaillent tous les deux, et ils sont souvent en déplacement au Japon ou à l’étranger. Et de mon côté, comme je suis lycéen, mes cours me demandent beaucoup de travail à la maison. D'autre part, je fais partie d’une équipe de foot, je suis très occupé par l’entraînement. C’est pourquoi nous ne mangeons presque jamais ensemble et nous n’avons que très peu d’occasions de partager des moments agréables. Mais malgré tout, nous nous soutenons les uns les autres et nous restons une vraie famille. Je n’ai jamais éprouvé de sentiment de solitude. C’est notre façon d'être, qui ne changera pas.

Mais il y a une chose que je ne dois pas oublier. C’est la présence de ma grand-mère. Elle vit avec nous et s’occupe de la maison en l'absence de mes parents. Elle sert de pivot à notre famille.

Chaque famille a son style de vie. Il y a des familles dans lesquelles il convient mieux d'entretenir des relations très étroites et il y en a d’autres où chacun vit sa vie plus librement. Ce qu’on peut dire, c’est que toute famille peut connaître le bonheur quelle que soit sa manière d'être. Mais il

(4)

y a toujours une condition indispensable afin que chaque famille reste unie. Pour ma famille d’accueil, c’est de partager autant de moments ou de repas que possible. Et pour la mienne ? Je pense que c’est le respect que nous avons de la vie de chacun de nous et la présence de ma grand-mère. Je n’y avais jamais pensé avant d’aller vivre en France.

On parle de « diversité » dans de nombreux domaines ces derniers temps. Il faut respecter cette notion quand il s’agit de la famille également. Autant de familles, autant de styles. Chacun peut fonder une famille heureuse à sa façon, justement parce qu’il n’existe pas de réponse prédéfinie à la question : « Qu’est-ce que la famille ? »

感想 今回のスピーチコンテストには、先生と家族に勧めら れ、また自分のフランスでの経験を活かせる絶好の場だ と思い挑戦してみました。原稿を書くにあたっては、ど のような内容にするのか相当苦労し、何度も書き直した り、フランス語科の先生方に助けて頂いたりして、最終 的に良い文章に仕上げることができたと思います。また さらに大変だったことは、どう上手くスピーチし、なる べく楽しくお客さんに内容を伝えるかということでした。 本番では想像以上の緊張感と不安の気持ちで足はガタガ タ震えていました。ただ何度も噛みながらも、フランス 語での 5 分間のスピーチと 5 分間の質疑応答を最後まで やりきれたのは本当に貴重な経験と自信になりました。 周りの参加者は同年代より大学生やそれより年上の方々 が多く、その方たちの話からも色々と学ぶことができま した。また多くの審査員の方からは、暁星高校は以前か らフランス語で有名だよね、是非これからも頑張りなさ いと、声をかけていただき、暁星高校の生徒であること に誇りと責任を感じた日でした。このような、大人の人 と触れ合う機会は普段なかなか無いので、コンクールの 3 時間はとても楽しく、あっという間でした。高校生の うちにこのような経験を積めたことは有り難いことで、 これからの自分の糧にもなったと思います。 僕は一年間フランスへ留学し、色々なことを学校や、サッカーチーム、そしてホストファミリーから学びました。自分の家 族以外の家族と過ごすのは初めてだったので、家族とは何か考えさせられました。 日本では家族の“中”で暮らしているのに対し、フランスでは自分が属していない家族と暮らしたため、家族というものを “外”から見ることが出来ました。 自分が過ごした町ニュイー、大きな家、もちろん両親、そして4人の子供、さらには猫まで!4人の子供とは、12歳から2 2歳の2人の娘と2人の息子。そのため、時には楽しい会話、時にはもの凄くうるさい喧嘩で家は常に賑やかでした。 ホストファミリーは出来る限り昼食や夕食を皆で取り、その日起こった出来事や、時には政治の話、そして面白い話など を皆で話すようにしていました。その時僕はフランス語が良く理解できませんでしたが、その楽しい場にいることで、僕も皆 と楽しい時間を共有できました。 ただ、両親の厳しい面も垣間見ることも出来ました。両親は子供たちに真面目に勉強するようしつけ、外出を許すことも ほとんど無かったです。そのため喧嘩もよく起こりました。 “ロドリック!インターネットで何をしてるの! “ほっといてよ!” “何?部屋へ行きなさい!” 両親は体裁をひどく気にしていました。一方子供たちは、親からのストレスで隠れてタバコを吸ったり、親からなるべく距 離を取ろうとしたりしていました。 一緒にいる時間が長ければ長いほど、お互いへの不満も募っていきます。では彼らは幸せではないのでしょうか?い え、そういうことでは全くありません。それが彼らの生活スタイルで皆それに満足しています。 次に自分の家族について話したいとと思います。僕の家族は両親共に働いていて、国内や海外へよく出張に出かけて います。そして、自分は高校生なので家での勉強があります。また、サッカーもしていて非常に忙しい日々を送っていま す。そのため家族全員でご飯を食べることが少なく、ほんの少ししか楽しい時間を共有することができません。それでも、 お互いに支え合い本当の家族としてあり続けています。一度も寂しいと思ったことはありません。それが僕たちの家族のス タイルであり、これからも変わることのない形です。 ただ一つ忘れてはいけないことがあります。それは祖母の存在です。祖母は私たちと一緒に住み、親の代わりに家事を してくれています。祖母は家族の要となっているのです。 それぞれの家族にはそれぞれのスタイルがあります。お互いの距離がより近い関係でありたい家族もいれば、お互いが それぞれ自由に生活したい家族もいます。つまり、全ての家族はそれぞれのやり方で幸せを見つけることができるので す。しかし、常に一つの不可欠な条件があることにより家族としてあり続けることができます。ホームステイ先では、なるべく 楽しい時間やご飯の時間を共有することです。では、僕の家族は何でしょう?それは、お互いが尊重し合うことと祖母の存 在だと思います。フランスに行く前まではそのようなことを一度も考えたことがありませんでした。 私たちは“多様性”ということを様々な分野で最近話します。この概念は家族という場でも同じく尊重しなければいけませ ん。家族の数だけ、それぞれのスタイルがあります。皆が幸せな家族をそれぞれのやり方で探し出せるからこそ、家族とい うものを定義してこの質問に答えることはできないでしょう、“家族とは何か?

(5)

7月 31 日(木)~8月7日(木) 富士吉田市人材開発センター 今年の八月、僕は「創造性の育成塾」という合宿に参 加しました。元東京大学総長で塾長の有馬朗人先生はじ め、化学や生物、医学、工学など様々な分野で活躍され ている先生方の講義を受けました。応募対象は中学二年 生のみで、化学実験や新しい形状の薬の考案など、六つ の選考問題の中から一つを選びまとめたものと、作文を 提出し、全国から選ばれた四十名が参加しました。今年 は中国、韓国、タイからも八名が参加しました。僕は、 音速を計る課題を選びました。合宿は七泊八日で、山梨 県の富士山の麓で行われ、実験や講義で毎日ぎっしりつ まっていました。初日に塾長の有馬先生から、子供時代 にモーターやラジオを作る事に 夢中になったことや、大学院時代 の研究について詳しく聞くこと ができました。先生は大学院の時、 その頃世界で常識と考えられて いた磁気モーメント理論が、自分 の実験の数値と合わなかった事 から、その常識を疑い、自分が正 しいと信じた論文を発表したの ですが、長い間世界で認めてもら う事ができませんでした。それで も自分の論文は正しいと信じて 二十年間主張し続けた結果、よう やく認められ、今や世界の定説と なっています。この経験から、有 馬先生は、「世界の通説は信じる な。常識を破る事を恐れるな。ま た、自分が正しいと信じたならば、 他人がどう言おうと自説を主張 せよ。」というメッセージを僕達 に送って下さいました。この言葉 は、僕の心に深く残っています。 また、僕が一番楽しみにしてい たのは、宇宙飛行士の星出彰彦さ んの講義です。冒頭、一昨年、国 際宇宙ステーションに長期滞在 していた時の生活や、ミッション が記録された映像を見ながら、宇 宙の生活について話してくださ いました。意外だったのは、最近 になって宇宙の生活は地上の生 活に大分近づいて来ていて、快適 になっているという事でした。逆 に地上よりも便利なことが沢山 あると知り、現代の宇宙開発の進 歩に驚きました。この講義を聞い て、僕の、将来宇宙開発に携わり たいという夢は更に強くなりま した。 そしてもう一つ、僕がこの合宿 で得た大きなものがあります。そ れは、以前からずっと思っていた、「なぜ興味のない科目 まで勉強しなければならないのか?」という疑問の自分 なりの答えです。多くの先生方が共通して、「全ての学問 はつながっている」とおっしゃっていました。ロボット の研究に心理学を応用している大阪大学の石黒浩先生や、 手術の方法を決めるために、スーパーコンピューターを 使っている自治医科大学長の永井良三先生は、一見関係 なさそうな技術や学問を結びつけて、新しい事に挑戦さ れていました。僕はどんな学問もいつか必要になるのだ と気付き、だからこそ、今は興味のない事でも勉強する 事が大切なのだと思いました。 ここで得た事を、塾長の有馬先生もおっしゃっていた ように信念を持って、これからの人生に役立てていこう と思います。 2C 岡本斗志貴 科学オリンピックを目指す!

参照

関連したドキュメント

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

えて リア 会を設 したのです そして、 リア で 会を開 して、そこに 者を 込 ような仕 けをしました そして 会を必 開 して、オブザーバーにも必 の けをし ます

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

・ 11 日 17:30 , FP ポンプ室にある FP 制御盤の故障表示灯が点灯しているこ とを確認した。 FP 制御盤で故障復帰ボタンを押したところ, DDFP

○池本委員 事業計画について教えていただきたいのですが、12 ページの表 4-3 を見ます と、破砕処理施設は既存施設が 1 時間当たり 60t に対して、新施設は

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を