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重力と言葉

─『アフリカの印象』前半部の構成について─

國分 俊宏 フーコーの読解から ミシェル・フーコーは、そのレーモン・ルーセル論の中で、『アフリカの印象』 前半部の見世物についてふれ、こう言っている。「この祭典の中で、何かが偶然に まかされたなどということはまさかあるまいと思う(ただし誘導語がシステムに入っ てくる時をのぞいてだが)。『アフリカの印象』の「説明的」部分[=前半部、引用 者注]を構成する九つの章のうち、最初の2章と最後の1章は除外しよう。これらは罪 人の処刑とモンタレスコの試練を語るものだからだ。それ以外の第三章から第八章 にかけて、比類なき難船者たちは、代わる代わる、彼らの解放をもたらす途方もな い見世物を繰り広げる。だがなぜ、ツィターを弾くみみずが運命の女神フォル チューヌに変装した少女と同じ系列の中に置かれているのか? なぜ「こだま人間」 たちが花火と一緒なのか? なぜ悲劇女優アディノルファは、同じグループのうちで、 切断した自分のすねで民謡を奏でる男の次に置かれているのか? なぜこの順序で、 何か別の順序でないのか? 比喩形象の系列ごとのグループ分け(章によって示さ れている)には、きっとそれなりの意味があるに違いない(1)」。 こう前置きした後で、フーコーは、この「グループ分け」に隠された内的連関に ついて論理付けを試みている。例えば、第三章の比喩形象=演目には、「統御された 偶然」という主題を認めることができ、第四章は「二重化された言語の歌」が示さ れているという。また次の第五章では「演劇とその挫折」という主題を見てとるべ きだろうか、と問いかけている。実はフーコーの分析は、残念ながらこの辺からあ やふやになり、第三章から第八章までといっておきながら、第六章の途中で尻切れ とんぼのまま終わってしまう。凡百の論文ならば明らかに欠点となるような瑕も、 この本の場合全く気にならないところがフーコーのすごいところだが、ともあれフー コーの問いかけそのものは、確かに受けとめてみる価値のあるものだといえるだろ う。 以下に続く文章で、われわれはルーセルの作品、とりわけ『アフリカの印象』に 現れる荒唐無稽な機械や超人的な離れ業、人物、オブジェなど、フーコーいうとこ ろのさまざまな「比喩形象」について、特にその「構成」という側面に注目しなが ら、考えてみることにしたい。その作業を通じて、これらの比喩形象群がどのよう な性質と特徴を持っているのか、また、一見言葉の偶然に依拠したような創作法を 用いるルーセルが、どれだけの秩序をもって自身の偏執に即した形象群を配置して いるのかが浮かび上がってくるだろう。 『ロクス・ソルス』の冒頭 ルーセルが、それぞれの章を構成する比喩形象群のグループ分けにある種の関連 性を与えようとしていたことは、例えば『ロクス・ソルス』の第一章を見てみるだ けで確認できる。 広大な敷地に建てられたロクス・ソルス荘の庭園の中で、話者を含む一団のグルー

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プが、科学者カントレル博士の蒐集品や発明品を見物して回るというこの物語の冒 頭に置かれているのは、一つは、深くくりぬかれた石の龕の中に安置された「同盟 者」という名前を持つ古い子供の像であり、もう一つは、その像をすっぽりと包む 龕の下部に彫られた三幅対の高浮き彫りの彫刻画である。まずは石の龕に据えられ た子供の像に注目する訪問者たちの一団に、カントレルが、「それはイブン・バ トゥータがトンブクトゥーで見たシナ花を持つ同盟者の像ですよ」と紹介し、その 由来を説明する。 かつてトンブクトゥーを治めていた女王デュル=セルールは、普段は叡知と慈悲 に富んだ善政を布いているのだが、時折、月経閉止の恐ろしい発作に見舞われるこ とがあり、その間は正常な判断力を失って、大勢の民を理由もなく死刑にしたり田 畑を焼き尽くさせたりする暴君に変貌してしまう。この病気を治せる者は誰一人お らず、発作の間、国民はただ圧制の嵐が通り過ぎるのを頭を下げて待つしかなかっ た。アラビアの旅行家イブン・バトゥータがトンブクトゥーを訪れたのは、ちょう どこの女王の発作の真っ最中であり、しかもそれはかつてないほど激しいものだっ た。人々は、デュル=セルールの祖であるフォルッコ王の御代に、王国と近隣部族と の同盟の象徴として作られ、それ以来彼らの守り神として崇められていた土ででき た子供の像に願をかけた。するとその夜嵐がその地方を襲い、しばらくしたある日、 像の右手から小さな草が生えてきた。やがて花が開いたので、それを摘んで女王に 投与したところ、遅れていた月経がたちどころに始まり、デュル=セルールは病気か ら解放された。人々はその花にたえず水をやって大切に育て、発作が起こる度に女 王に飲ませて、ついには完治させたという。 イブン・バトゥータが見聞録に記しているこの子供像「同盟者」が、カントレルの 友人である探検家エシュノズの手に渡り、その死後カントレルに遺贈されたのだっ た。 以上が「シナ花を手に持つ同盟者の像」の由来である。この説明が終わったあと、 訪問者らは今度はその子供像の下にある三幅対の彫刻画に目を向ける。カントレル によって物語られたその由来は、同盟者像よりさらに長くこみいったものだが、ご く簡単に要約しよう。 ケルラグエゾ国(ブルターニュ地方)の王クルムランは、まだ若かったが身体が 弱く、自分の死期が近いことを悟っていた。王妃は一人娘の王女エロを産んだ時に 死んでしまい独り身だった。自分の死後王位を継承するのは娘エロだったが、まだ 幼いため王位を狙う連中の陰謀に巻き込まれる恐れがあった。ところで、この国の 王位を象徴するのは、代々受け継がれてきた「マッシブ」と呼ばれる王冠だったが、 これはこの国の人々から非常に長い間尊重されてきたため、一種の物神信仰の対象 にまでなり、この王冠を持たない者はたとえ正統の継承者でも国民を統治すること はできず、また逆にこの王冠さえ持っていれば、たとえそれを策略によって手に入 れた場合でも民は王として受け入れるかもしれぬというほどの威光があった。そこ でクルムランは、娘エロに正統に王位を継がせるためには、この王冠をどこかに隠 し、それを、エロがしかるべき年齢に達した時に、彼女だけが見つけられるように すればよいと考えた。夢枕に立った前王の父ジュエルに名案を授かったクルムラン は、この難問が首尾良く解かれるような細工をして死ぬ。ほどなく、彼が見越して いたように王位簒奪戦が始まり、国は内戦で混乱状態に陥るが、王冠が見つからな

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いので誰も王になることができない。やがて成人に達したエロは、バラ色の服がト レードマークの片目の宮廷道化師ル・キエクの力を借りて見事に王冠を見つけだす。 かくしてエロは正統の後継者として王位につき、長らく続いた混乱の時代に終止符 を打つ。人々は平和の世の到来を記念して、王女エロの彫像を造り、それを聖女の 像のように広い龕の奥に安置する。その下には王女と道化師ル・キエクの王冠発見 の偉業をモチーフにした彫刻画が彫り込まれる。 というのがカントレルが所有するこの龕の由来であった。カントレルはこれを、 ブルターニュのこの地方を発掘しているさる会社から手に入れたのである。しかし 龕の中にあったはずのエロの彫像はこなごなに壊れてなくなってしまっていた。そ こでカントレルは代わりに先ほどの同盟者像を龕の中に設置した。それが、この物 語の冒頭で訪問者らが目にする石造りの龕と同盟者像と高浮き彫りの三幅対の彫刻 画というわけである。 さて、長くなったが、この二つのエピソードの類似性は一読して明らかであろう。 どちらも主役は女王、または王女であり、つまり王位に就いた(あるいは就きつつ ある)王家の女性である。そして一方は病気による狂気の発作のために、もう一方 は年齢がまだ幼いという非力のために、ともに王国に平和をもたらすことができず 混乱を引き起こす。さらにデュル=セルールの病についていえば、月経閉止とは、成 熟した大人の女性としての機能的な一種の「欠陥」を表していると見ることができ、 その意味で、まだ成人に達していない幼い王女エロとの類似はますます明らかであ ろう。この二人が、一方は成人女性としての正常な機能を取り戻し(病の完治)、 一方は年齢的に成人し王冠を手に入れて王位に就く、という経緯が、それぞれの物 語のあらすじなわけだ。しかし二人がそれを実現するためには、ある手助けが必要 である。デュル=セルールにとってそれは先祖フォルッコの治世に作られた「同盟者」 と呼ばれる子供像であり、エロにとっては祖父と父、二代の王が一致協力してはかっ た周到な準備とそれを可能にする忠実な家臣である宮廷道化師のル・キエクである。 どちらも先王がかかわっているということのほかに、土作りの素朴な子供の像と片 目の道化師との平行性にも目を向けておくべきだろう。それらはどちらも、ルーセ ルがあれほど執着していた子供文化の世界に結びついている。しかもエロが、道化 師ル・キエクこそ自分の味方であるということを知るのは、父から贈られた片目で バラ色の服を着た人形のおかげなのである。こうして人の姿を象った聖なる偶像と いう点においてもこの両者はつながっているわけだ。さらに、この二つの物語は、 どちらも、古い伝説や古文書の類から引かれたものという体裁をとっている。デュ ル=セルールの物語は、カントレルの友人である旅行家エシュノズが読んだイブン・ バトゥータの見聞録に書かれていたものであり、クルムランとエロの物語は、カン トレルが知っていたブルターニュ伝説の一故事である。物語内物語の形で入れ子状 にエピソードが連結していくのはルーセル作品の特徴だが、ここでもそれは正確に 踏襲されている。また、カントレル博士がこの二つの遺物を手に入れた経緯を考え てみると、片やエシュノズの仲介で、片やブルターニュの古都を発掘する会社から の入札で、という具合にどちらもある種の仲立ちを経て最終的にロクス・ソルスの 庭園に収まっていることまで同じであることが分かる。なお、この二人の女帝には、 どちらも父や先祖を除いて男の王、すなわち夫の影がまったく感じられないが、ミ シェル・カルージュならばここにこの二つの挿話の「独身者の神話」としての共通

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性を見るところであろう(2)。 このように考えてくると、『ロクス・ソルス』の冒頭にこの二つのエピソードが 一対をなして置かれていることは、当然の配慮だということが見えてくる。かつて は王冠をかぶった王女エロの彫像が収められていた三幅対の彫刻画付きの龕の中に、 代わりとしてデュル=セルールにまつわるあの「栄光に満ちた古代像である同盟者像 こそがふさわしい(3)」とルーセルが書くのは、まさに正確な判断だといわなけれ ばなるまい。 『アフリカの印象』第三章:式典の第一幕 こうして、少なくとも『ロクス・ソルス』の第一章に関して、章を構成する二つ のオブジェの中にそれを結びつけるに足る一定の論理が隠されていることが確認さ れた。そこで、冒頭に述べた『アフリカの印象』の「比喩形象」のグループ分けと いう問題に目を戻してみよう。というのは、『ロクス・ソルス』では、このあと、 第二章では歯を使ってモザイク画を作り出す空飛ぶ撞槌、第三章では「アクア・ミ カンス」に満たされた巨大なダイヤモンド、第四章では各々の人生の最も印象深い 場面を繰り返し演じ続ける死者たちのガラスの檻、といったように、原則として一 つの装置に一章ずつが割り当てられており、「グループ化」が行われていないから である(4)。フーコーが『アフリカの印象』だけを問題にしたのもそういう事情に よるものであろう。そういうわけで、ここでわれわれは科学者カントレルの庭園を 離れ、熱帯地アフリカで繰り広げられる曲芸を検討することにしたい。 暴風雨に巻き込まれてアフリカの国エジュールに漂着した新大陸行きの船「リュ ンケウス号」の乗客たちは、迎えが来るのを待つ間、「無比クラブ」というグルー プを結成して黒人の王タルー七世の聖別式を彩る見世物を興行することにする。こ れが『アフリカの印象』という風変わりな小説の要約にして骨組みのすべてだが、 この見世物は、すでにいったように、第三章から第八章にわたって描写されている。 そしてその次の第九章までが、いわゆる「提示的部分」と呼ばれる『アフリカの印 象』前半部である。ここまで読者は、ただ延々と繰り広げられるこれらの見世物や、 裏切り者たちの処刑などの場面を、一貫した説明を一切得られないまま読まされる のみだ。第十章に入って、ようやく語り手は時間を遡り、ことここに至った次第と 無比クラブのメンバーたちの驚くべき出し物の種明かしをしてくれるのである。つ まり『アフリカの印象』では、同じことが二度語られているわけだ。一度目は奇怪 な見世物の羅列として、二度目はその背景の謎解きとして。 それでは、『アフリカの印象』の第三章ではどのような出し物が演じられている かを検討してみよう。ここにあるのは、つぎのようなおよそ雑多な出し物の数々で ある。 1. ブシャレサスの四人兄弟のうち上の二人の兄、エクトルとトミーによる ボールを使った軽業 2. その下の弟マリユスに率いられた人取り遊びをする猫の一団 3. 末っ子による汽車や鋸の音、楽器の音などの物真似 4. 運命の女神に扮したその姉妹の少女ステラによる車輪乗り(彼女は金貨 をまきちらす)

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5. 射撃の名手バルベによる半熟卵を標的にした曲撃ち(銃で黄身を残して 白身だけをはぎとる) 6. 技師ラ・ビヨディエール=メゾニヤルが作ったフェンシング機械とバルベ の試合 7. 皇帝の息子レジェドによる空中遊泳 8. 化学者ベクスが発明したオーケストラ機械 9. 同じくベクスの発明による不思議な磁力で空中を飛んでボタン磨き板に 突き刺さる金属製鉛筆 10. ハンガリー人スカリオフスツキーのみみずによるチター演奏 ここで問題となっているのはどのような主題だろうか。フーコーは、この第三章 には「統御された偶然の形象」を認めることができると書いている。そのいわんと するところを、もう少し敷衍して説明するなら、偶然を廃棄するのではなく、それ を利用し統御するという様を、ここでの見世物はそれぞれ示しているということだ。 「例えば二重性という形で統御された偶然─シンメトリックな二人の曲芸師(その うちの一人は左利きである)が、互いに投げ返しあうボールのカーテンの両側で鏡 の像を形作る。あるいはゲームの規則に従って統御された偶然(比喩形象2─二チー ムに分かれて人取り遊びをする子猫たち)。または模倣の二重化によって統御され た偶然(比喩形象3─きわめて異質な物どもの物真似を提示する少年)‥‥(5 )」。 とはいえ、ここでのフーコーの主張をあまり真面目にとるのはやめておこう。これ らの説明は決して分かりやすいとはいえないが、それはかなりの程度こじつけであ るからだ。「ところで、この偶然は同時に、汲み尽くし得ぬ豊かさでもあるのだ(比 喩形象4─運命の女神フォルチューヌに変装した少女)」と、うまく当てはまらない ものに関して逃げを打たなければならないのもそのためである。実際、金貨を振り まきながら車輪乗りをするこの少女に、どのように「統御された偶然」を当てはめ ることができようか。フーコーは続ける。「だが、『もっとそれを利用するすべを 知らなければならない』とルーセルはいった。そこから、第5の比喩形象と、銃によっ て卵の黄身と白身を分ける射撃手が登場するのである。偶然は、実のところ推論的 な知、突発事を予期し、それを見越し、征服する力を持ったメカニズムによってし か征服されえないものだ(比喩形象6─思いがけないフェイントをもかわして反撃の 余地のない一撃を与える金属の剣士)‥‥」。こうした一連のパッサージュを、フー コーの「作文」といってしまえばそれまでだが、フーコーの行き着きたい地点はお そらく別にあるのだろう。これで彼の議論の価値がまったくなくなってしまうわけ ではない。要は、偶然の統御こそルーセル的「手法」の要諦だということなのだ。 フーコーの読解はすべてその方向に向かって進んでいる。 重力にさからって それではわれわれは、この第三章に関して、別のどのような答えが用意できるだ ろうか。われわれはここで、まったく抽象的ではない、きわめて単純で当たり前な 答えを提示することからはじめたい。それは、要するにここで演じられるのはすべ て「軽業」だということである。最もあからさまなものが最も見えにくい、などと

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弁解するつもりはない。こういういいかたは、単に、初めからそうとしか提示され ていないものをそうだといっているにすぎない。しかしわれわれは、この当たり前 のことにこだわることで見えてくる新しい風景を探そうとしている。 「軽業」という語はもちろん偶然に選ばれたものではない。ここで繰り広げられ る見世物は、まさに「身の軽さ」を表象するアクロバティックな曲芸を基調として いる。すなわちここでのテーマは「軽さ」だといってよいのではないか。そのこと を確かめてみよう。 「特別上演が始まった。/まず最初、ブシャレサスの四人兄弟が、バラ色の肉襦袢 と黒いビロードのパンツという、軽業師の揃いの衣裳をつけて登場した(IA, p.30) (6)」。こうしてまず最初に登場するのはブシャレサスというサーカスの一家の息 子たちだ。ここで「身の軽さ」が問題となっていることは、あえて説明するまでも なかろう。なお、ここで「軽業師」と訳したのは、原文では«acrobate» である。念の ため、アクロバット« acrobatie »やアクロバット芸人« acrobate »とは何であるかをプ チ・ロベールから拾っておくと、例として、 綱渡り« funambule »、とんぼ返り« saut

périlleux »、空中曲芸« voltige »、空中ブランコ« trapèse »などが挙げられているので、

これを「軽業」と日本語で呼ぶことに異論はないと思う。 四人兄弟の次に登場する少女ステラも同じ軽業師の家族で、この一家は、『アフ リカの印象』の「説明的」部分のはじまりである第十章の紹介では、ほかの何人か の芸人と併せて、「ブエノスアイレスのサーカスと三ケ月の契約を結んだ畸形の 人々、調教師、軽業師からなる異様な一団(p.151)」としてひとまとめに紹介され ている。ステラの車乗りは、他の人々の超人的な芸に比べると常人のレベルにとど まっており、見世物としては付随的なものに見えるが、実はとりわけ注目すべき部 分である。というのは彼女こそ、他の何よりも「軽さ」のテーマを代表しているか らなのだ。

 若い娘は、絶え間ない跳躍によって(au moyen de sauts ininterrompus)、 両足の靴底で、完璧な回転を見せている小さな車輪を前へ前へと飛び出させ (élançant)ながら、四方八方に旋回し始めた。(p.33) フランス語で示したように、« saut »、« élan »など「跳躍」にまつわる語彙が、こ の娘の動きを特徴づけている。退場する時は、「妖精のように(p.33)」姿を消す ステラは、明らかに身の軽さを体現した、いわば最も重力から自由な存在なのだ。 そのことを別の形で象徴しているのが、彼女がまきちらす贋の金貨である。  彼女は手に、深い円錐形の容器を持っていた。そこから突然、金貨の波さ ながら、きらめく軽い紙の貨幣があふれでた。それらは、ゆっくりと地に落 ち、金属の響きは少しも立てなかった。(p.33) 金貨の外見はしているが、紙のように軽く、音を立てずにふわりと着地する。こ れがステラがまく「金貨」なのである。「可愛い少女の進むあとには、ルイ金貨、 四十フラン金貨と大きな百フラン貨幣からなる輝く航跡が生まれた。彼女は、決し て地に足をふれず、唇に微笑を浮かべて平衡と敏捷さの奇跡を成し遂げた(p.33

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)」。重力の軛を脱した軽やかな少女に、「決して地に足をふれず」という言葉が 用意されていることを、われわれは読み過ごしてはならない。 飛翔の想像力 さて、次に登場するのは名手バルベの射撃と、機械相手のフェンシングの試合だ。 敏捷さと跳躍が支配するフェンシングの戦いについては特にいうこともあるまい。 だが、銃で卵の白身をはぎ取ることは、いかなる意味において「軽さ」と関係する のか。それを理解するためには、この銃の射撃が、というよりまっすぐに目標めが けて飛ぶ銃弾の軌跡が、このあと登場する化学者ベクスの、ボタン磨き板めがけて 飛ぶ鉛筆に似た巨大な金属の円筒と正確に呼応していることを見て取らなければな らない。「キャップを備えた大きな鉛筆に似た円筒(p.47)」、「巨大な鉛筆(p.47 )」などとルーセルは書いているが、これはすなわち銃弾の形にほかなるまい。標 的の卵はボタン、「弾丸が跳ねて飛ぶのを避けるために、一部平らに削られた幹」 は、ボタン磨き板に対応している。そしてそのように見れば、エマンティーヌとい う不思議な物質の磁力に引きつけられて空中を飛ぶ巨大な鉛筆が、「空を飛ぶ」と いうまさにそのことにおいて、この章の主題を正確に反映しているのと同様に、バ ルベの射撃をもわれわれの議論の枠内に引き入れることが可能になる。そう、ここ でわれわれはより劇的な主題の現れを視野に収めなければいけないことを知るのだ が、「軽さ」とか「跳躍」という主題は、その最も華々しい形態として「空を飛ぶ」 という現象となって現れるのだ。フェンシングのあとに現れる皇帝の息子レジェド が、「毛の赤い齧歯類の動物」の唾液とそれをめがけて飛来してきた一羽の大きな 鳥の力を使って、文字どおり空を飛ぶという勇敢な冒険をすることになるのは、ま さにそのためである。 こうして「飛翔」することという想像力の玉手箱が開けられた今や、われわれに 残されたのは、ベクスのもう一つの機械、自動オーケストラ装置と、スカリオフス ツキーのみみずによるチター演奏という二つの「音楽装置」だけである。しかし、 ルーセルにあって音楽が「飛翔」と結びついていることは、「飛翔の想像力」を扱っ たあのガストン・バシュラールの美しい書物、『大気と夢』(7)のタイトルを思い 浮かべるだけで容易に理解されるだろう。もちろん« L'Air et les Songes »という原題 のことをいっているのだ。副題として「動きの想像力をめぐる考察」と銘打たれて いるが、これは実質的にはむしろ「飛翔の想像力」を扱った本だといってよい。バ シュラールは、この本でルーセルについて語っているわけではないが、優れた直感 に満ちたその考察は、「空を飛ぶ」という行為にまつわる「大気」「運動」「敏捷 さ」「軽さ」などのもろもろの想像力の渦巻く磁場を丁寧に解き明かしてくれる。 「空を飛ぶ」形象とは、何よりもまず「大気(air )」にまつわる想像力の具現化な のである。そして「大気(air)」とはもちろん「旋律(air)」のことでもある以上、 音楽は「飛翔の想像力」に密接に結びつきうる要素なのだ。これをルーセル的な音 韻的転換の手法と考えてもよいが、バシュラールを繙きながら、われわれはむしろ これを、「手法」以前の、いわば太古からの詩人の直感が認めた結びつきなのであ るといっておきたい。音を伝える空気の存在が音楽を可能にしているのであること を、« air »という同じ言葉で「空気」と「音楽」が指し示されるという(少なくとも フランス語の)言語的事実が追認しているのに過ぎないからだ。バシュラールはいっ

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ている。「光と音響(sonorité)と軽さの統合こそが、垂直の上昇を決定づける(8 )」と。「上昇」および「飛翔」は、音響的要素と密接に結びついているのだ。ま た別のところでは、バルザックの『セラフィタ』における上昇のイメージと光と色 と音の融合を論じつつ、「音響的なもの(le sonore)、透き通ったもの(le diaphane )、そして可動的なもの(le mobile)という三つの連関が、『軽さ』の親密な印象 を生み出すのである(9)」と書く。 こうしてわれわれは、『アフリカの印象』第三章が、結局のところ« air »にまつ わる想像力の磁場から生み出されていることを確認することができる。「軽さ」と いい、「飛翔」といい、それらはすべて« air »の想像力の圏域にある。そして、ベク スの自動オーケストラ装置とスカリオフスツキーの音楽を奏でるみみずもこの圏内 からはみ出すものではない。しかもこれら二つの音楽芸のレパートリーにどちらも 「ダンス曲」が含まれているのならばなおさらである(「ベクスは、あらゆる種類 のダンス曲、混成曲、序曲、変奏曲を聞かせてくれた(p.45)」、「ワルツのあと、 あらゆる種類のダンス曲が、透明な桶を少しずつ空にしていった。(…)みみずは、 荒々しい、乱暴な抑揚のついたチャルダス(ハンガリアの舞踊曲)を弾き始めた( p.57)」)。ダンスとは、もちろん「跳躍」と「身の軽さ」の系列に典型的に含ま れるものであることはいうまでもない(10)。その意味では、身体をくねらせてチ ターを弾くみみずの姿は、ダンスそのものだともいえよう(「やがてみみずは、何 度も大きく飛び跳ねて、のびやかな構成のある旋律を演奏した。(…)みみずは、 数分の間、途方もない、軽業師のような動作にひたすら没頭した(p.57-58)」)。 またバシュラールは、「飛翔の想像力」における「矢(flèche)」のイメージの重要 性にもふれているが(11)、先ほど述べたベクスの発明による巨大な鉛筆状の円筒 が、まさに矢のように空中を切り裂いて飛ぶイメージを実現していることも、われ われは想起することができよう。 さらに、この「ロケット鉛筆」と対をなす射撃手バルベは、ブエノス=アイレス で開催される国際コンクールに出場する予定であり(p.148)、ブシャレサス一家の 子供たちを含む軽業師の一団も、同じくブエノス=アイレスのサーカス団に招かれて リュンケウス号の乗客となったのであったが、ブエノス=アイレスというこの地名が、 直訳すれば「よい空気(bon air)」であるという事実は、単なる偶然という以上に われわれの注意を引きつけるものがありはしないだろうか。 しかしブエノス=アイレスといえば、実はリュンケウス号自体が、「ブエノス=ア イレス行きの巨大高速船(p.147)」なのであり、上記の二組の演者のほかに、ラ・ ビヨディエール=メゾニヤル、リュクソ、シェヌヴィヨ、フュクシエ、ソローの五人 が、直接ブエノス=アイレスと結びつけられて紹介されている。 従ってわれわれは、「飛翔の想像力」が、そして« air »という主題系が、必ずし もこの第三章だけに特有のものだとはいえないということを認めなければならない。 実は、ルーセルの作品の中にはもともと「飛翔」の系列として論じうるような形象 がかなり多い。「飛ぶ」ことはルーセル的想像力の基本元素の一つをなしているの である。例えば『ロクス・ソルス』の空飛ぶ撞槌がそうであるし、上昇と下降の運 動という点で、あの七体の潜水人形を数えることもできよう。また、ここでもう一 度バシュラールを援用するなら、彼は「上昇」の徴として「額(front)」の重要性 を強調しているが、ルーセルにおける「額」のテーマの重要性も今さらいうまでも

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あるまい(12)。さらに「音楽」にまで領域を広げれば、『アフリカの印象』も『ロ クス・ソルス』も、それこそ全編、音楽が流れない挿話の方が少ないくらいである。 « air »という主題系は、ピアノ弾きでもあったルーセルの作品全般にわたって流れる 通奏低音のごときものだといってよいだろう。 とはいえ、『アフリカの印象』に限っていえば、直接に「飛翔」そのものや「身 の軽さ」に結びつく形象は、明らかにこの第三章に集中しているといえることも事 実である(その後第五章にもう一度問題になる場面があるが、それについてはあと で述べる)。何よりも、レジェドのように直接空を飛ぶ人物が登場するのはこの章 をおいてほかにないのだから。このあとは、たとえ「飛翔」や「跳躍」に関係があ るとしても、それは「音楽(air)」という迂回路を通して間接的に結びついている に過ぎない。 式典の第二幕:「口」さがない芸人たち さてここでわれわれは第三章を離れ次の章に向かうことにしよう。続く第四章で は、「二重化された言語の歌」を聞き取ったフーコーの読みの基本路線をそのまま 受け継ごうと思う。つまりここで問題になっているのは、すべて「言葉」である。 この章は、まず歌手カルミカエルの助けを得て、女声を真似た裏声でダリチェル リの「オーバード」を歌う黒人王タルーによって幕を開ける。「音楽(air )」とい う点で前章の主題系を引きずっているが、ここではもはやダンス曲ではなく、歌詞 (paroles)をもって歌われていることに注意しよう。そして、カルミカエルの役割 もまた、「プロンプター(souffleur)」すなわち言葉を与えるものである点にも注 目しておきたい。このことの重要性に関しては後にまた述べるつもりである。 そうして次に登場するのは、歴史学者のジュイヤールだ。「このすばらしい雄弁 家は、ブランデンブルク選挙侯の歴史を主題とする、精神を呼び覚ます明晰さに満 ちた簡潔な発表を行い、私たちを魅了した(p.60)」。ここではっきりとこの章の 主題が、言葉によって人を感動させる「語りの芸」にあることが示されている。そ してまたこの最初の出し物において、その言葉は何よりもまず「知」の言葉として 与えられているが、それは「語る」ということが、動物と峻別される人間の知のは たらきである以上当然だろう。「言葉」とは突きつめたところすなわち「知」であ るといってよい。だからこそ、次に続くのもやはり同じく学者の言葉なのである(魚 類学者のマルティニョンによる未知の交配種であるチョウザメエイの紹介)。 さて、これら二人の学者の後を受けるのは、今度は一転して両腕両足のない異形 のサーカス芸人タンクレード・ブシャレサスの一人オーケストラ演奏である。先の 章で登場した四人兄弟と「妖精のような」ステラの父親であるこの人物だけが、こ の章に繰り込まれているのはなぜだろうか。それはまさにこの人物が「腕も足もな い」からだ。言葉の追求は、「口」の持つあらゆる可能性の追求である。それゆえ タンクレード・ブシャレサス(Boucharessas = bouche ㎠ ressasse)がやってきて音楽 を奏でるのだが、「いざりで、その上両腕が不具(p.61)」である彼は、身体性を 弱化した「頭」だけ、つまりは「知」と言葉だけの象徴的存在となっているのであ る。実際のところ彼の芸は、口を使う物真似ではなく、その不自由な身体を駆使し ての楽器演奏ではあるのだが、その音楽は、上の二人の学者同様「知」を語る言葉 の系列にあることが暗示されている。ブシャレサスが退場する時、ルーセルは次の

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ように書き添えているからである。「最後の和音のあと、いつも元気なこの小男は、 その位置を去って舞台裏に姿を消した。その間に二人の息子エクトルとトミーが、 舞台を片づけるためにやってきて、器具と、講演者用のテーブルとイスをすぐに運 び去った(p.62)」。学者が講演に使った机が片づけられるのは、ブシャレサスの 一人オーケストラの器具と同時なのだ。彼の演奏は学者の「講演=知の言葉」と等価 なのである。 口の持つ可能性の追求という側面は、次のリュドヴィクでさらにはっきりする。 彼の持ち芸は、自分の口を四つに分けての「一人輪唱」だからである。彼の口はそ れぞれの部分が別々に言葉をしゃべる。言葉をしゃべる口の可能性追求としてこれ 以上のものがあろうか。 さらに四肢不自由の頭強調型身体という側面は、次のフィリッポで再び取り上げ られる。フィリッポは頭をのぞく体の他の部分が厚さ数センチの円盤の中にすっぽ り収まってしまうという極端な頭でっかちの小人である。 続いて自分の脛骨でできた笛を吹くブルターニュ人レルグアルシュ。ここでは口 の身体に対する優位が、あるいは身体の口への従属が語られている。彼の足は骨折 がもとで壊疽をおこしてしまい、切断しなければならなくなる。ルーセルはここで あえて一行だけの簡潔な段落をおいてその事実を告げる。

足の切断が必要だと判断された。(L'amputation fut jugée nécessaire.)(p.66 ) ルーセルのここでの書きぶりはわざとのようにそっけなく、またこの一行だけの 段落はいかにも目立つ。言葉の選び方も不気味である。一体何のために「必要( nécessaire)」だというのか。われわれはあえてこう読もう。これは身体性を弱化し て口に、すなわち「知」に奉仕させるために必要なのである。すなわち、口の可能 性を追求するためには、四肢を切断し不具になることさえ辞してはならないのだ。 ルーセルはこの犠牲にされた身体と、知性の入口である口との接触をきっちりと書 き込まずにはいないだろう。「口上を終えると、レルグアルシュは、自分の脛骨を 唇に持っていき、ゆるやかな、哀調に満ちたブルターニュの旋律を吹きはじめた( p.67, 強調引用者)」。この憂愁に満ちたもの哀しいメロディは、あるいは犠牲にさ れた身体の、知性に対するいわば情緒の哀愁でもあろうか。 さて、口の可能性の追求は、続くロムルスによって頂点に達する。ロムルスとは 馬である。しかし言葉をしゃべる馬なのだ。知性と言葉の集約された姿だと言わず して、言葉をしゃべる動物が、一体ほかの何であり得るだろうか。 次のウィルリジグは、一スー貨幣とドミノ札とトランプを使って一種のモザイク 画をこしらえてみせる道化役者である。フーコーは「語らないものを語らせる」機 能の体現として最前の話す馬と同列にこの挿話を置いている(「つまりこの言語は、 純粋なオートマティズムの中で自分で展開していくことができるのである。例えば (…)語らぬものを語らせることによって(形象18─おしゃべりな馬、形象19─名 祖的言葉が一つの物語を形作るように、ただ按配された偶然に従って空間的に配置 することで一つの画像を形作るドミノ札とトランプと貨幣)(13)」)。また、彼 が貨幣とカードで作り出す絵は、「司祭館に司祭を訪問するため、古い僧院の塔か

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ら出る尊師たちの一団」というもので、司祭、つまり知の体現者をモチーフにした ものである。さらに、彼のしゃべり方は「英語のアクセントを巧みに真似(p.68)」 たものであると、口と言葉の技法への書き込みもルーセルは忘れていない。 次に登場する歌手キュイジペルに口の技法を見るのはたやすい。しかもこの歌手 は、自分で発明した、声量を百倍の大きさにすることのできる不思議な金属製の笛 を使った出し物を見せるのだ。 最後に登場するのは悲劇女優のアディノルファである。見事なセリフ回しによっ て観衆を感動させる名女優の演技が、この口と言葉の(ひいては知の)可能性を追 求した一連の見世物を締めくくる。しかし彼女の言葉は知の言葉ではない。「彼女 の表情は、激しい苦痛を表していた。そしてその声は折々、ほとんどすすり泣きの ようになった。彼女は切なげに両手をよじり、その全身は、興奮と絶望によって苦 しげに震えた(p.72)」。ここでの言葉は、すでに嘆きと悲しみに満ちた心の底か らの高揚と感動の言葉に変わっている。「仰々しい調子の最後の詩句のシラブルの 一つ一つを、しぼり出すようなしわがれ声で叫ぶように唱えたあと、この天才悲劇 女優は、両手で頭をかかえて、しとどの涙を最後までふりまきつつ、ゆっくりした 足取りで立ち去った(p.73)」。こうして二人の学者による「知の言葉」で始まっ たこの舞台は、役者による高揚したセリフで終わる。「両手で頭をかかえ」ながら 退場するアディノルファの悲しみに満ちた独演は、次の舞台の準備のためのひそか な「転調」を意味するものではないだろうか。次なる主題は、まさに「演劇とその 挫折」だからである。 式典の第三幕:オルガ・チェルウォネンコフとカルミカエルはなぜ失敗した のか? 続く第五章では二つの「失敗」が語られている。リヴォニア生まれの年老いたバ レリーナ、オルガ・チェルウォネンコフの足の捻挫とマルセイユ生まれの歌手カル ミカエルの歌詞の胴忘れである。そしてそれらに先立って喜劇役者ソローによる六 種類の活人画が配されている。これから、なぜこの章で「失敗」が語られることに なるのかを、『アフリカの印象』前半部の構成の面から論理づけてみたいが、その 前にいくつかの予備的な指摘をしておこう。 まず、この第五章内部の構成は、多くの役者や曲芸師たちが入れ代わり立ち代わ り芸を披露する前の二つの章に比べてかなり凝縮されたものだといえる。ここでは 主要な人物は三人しかおらず、しかもカルミカエルは、ソローの活人画の際にも説 明役として登場し、舞台をかけ持ちすることで登場人物の効率化がはかられている からである。第三、第四章では、(第四章冒頭での皇帝タルーの「飛び入り」は別 として)それぞれ十種の出し物が披露されるのに対して、ここではソロー、オルガ、 カルミカエルの三種だけなのだ。 もう一つ重要なことは、この第五章をもって「無比クラブ」の特別上演のいわば 第一部が終わるということである。「第一部」とはどういうことか。第三章から第 五章までの三つの章では、舞台はすべて戦利品広場(Place des Trophées)だったの である。そしてそれはこの第五章で終わるのだ。第六章からは見物人も演者もみな 場所を移動して広い野原に出る。「ラオに率いられて元通りに並んだ行列は、私た ちのグループと、『無比クラブ』のおおかたの連中も加えて南に向かって足早に歩

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き始めた。/行列がエジュルの南の区画をすばやく通り抜けると、まもなく野原が現 れた(p.83)」。これが第六章の冒頭である。つまり戦利品広場(これはその名の 通り、まさにポニュケレ国の最も中心的にして神聖な場所だ)での見世物は第三、 第四、第五の三つの章で一区切りついているわけだ。だとするなら、この三つの章 がひとまとまりになって何らかの完結性を持っているとしてもなんら不思議ではあ るまい。そしてそれはそうなっているのである。 これまでの二つの章の主題は、すでに見たとおり「飛翔」と「言葉」だった。第 五章で語られるオルガのダンスの失敗とカルミカエルの歌詞の間違いは、それぞれ 正確にこの二つの主題に対応している。ダンスが「跳躍」でありすなわち「飛翔」 の主題系につながるものであることはすでに述べた。歌詞を忘却するという「言葉」 の失策についてはいうまでもあるまい。つまりここでは、先の二つの章の主題をも う一度とりあげてそれぞれの失敗を語るということが行われている。この章は、い わば前2章の正確な「裏焼き」となっているのである。 それでは彼らの失敗に先立つ喜劇役者ソローの活人画はどういう役割を果たして いるのか。まずいえることは、カルミカエルの「説明者」としての機能が、ここで もまた発揮されているということである。先ほどは皇帝タルーの歌を助けるプロン プターとして「言葉」を与える者だった彼は、今度は活人画の主題を一言で述べて 説明するプレゼンテーターとしての役目を担っている。 突然幕が再び開き、人目を引く陽気さにあふれた活人画が現れた。 カルミカエルは、この動かぬ姿を指し示し、よく響く声で、「オリュンポス の神々の祝宴」と突然短くはっきりといった。(p.75) ここでもまた、彼は言葉を与える者なのである。 さらにソロー演じる六種の活人画の内容を検討してみると、まずは上に引用した とおり「オリュンポスの神々の祝宴」であるが、ここでソローは何をしているか。 「喜劇役者ソローの演じるメルクリウスは、天井から綱でつり下げられているとも 見えないのに、翼の形をしたサンダルをはいて空中に浮かび、祝宴の上を飛遊して いた(p.75)(14)」。ソローは空を飛んでいるのである。こうしてこの章の中に、 これまでの主題の一つ一つがまるで寄せ集められたように少しずつ顔を出している 様が見て取れるだろう。 続く活人画はどうであるか。これは、魔法にかけられた人々を救おうとしている 少女ウルスラの物語を主題にしている。かつてウルスラをいじめた継母と妹と二人 の兄弟は、それぞれ魔法によってロバ、ガチョウ、頭は猪で身体は人間の化け物、 ヨアカシ、に変身させられてしまう。ヨアカシは湖の中をぐるぐる全速力で回らな ければならず、猪人間もまた地上を駆け回っている。湖の畔ではロバが決して食べ られない飼槽を前にして苦しんでおり、ガチョウは北風の神に追われて狂ったよう に走り回っている。心のきれいなウルスラは彼らを許し、救おうとするが、そのた めには、一年に一度、呪文をかけられたその日その時刻きっかりにロバのいる岸辺 に全員がぴったりと集合するというその瞬間に湖からヨアカシを見事釣り上げて岸 に投げ上げなければならない。しかしこれはまさに「敏捷さ」を必要とする神業で (15)、少女はすでに四年続けて「失敗」している。ソローの活人画は、まさにこ

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の「失敗」の瞬間を描き出しているのである。 さらに続く活人画「オラトリオ『ヴェスペル』の主題を機械的に作曲しているヘン デル」では、いうまでもなく音楽(air )という主題が取り上げられていると指摘で きるだろう。 次の「プレシチェーエフの暗殺者を発見するツァーのアレクセイ」では、暗殺者 がアレクセイの手管にはまって追いつめられ、死の間際に白状するという「言葉(= 自白)」と「失策(=犯行を暴かれる)」が描かれている。 続く「カナーリスに花々の香りを送る森のこだま」では、音響現象と香りが取り 上げられている。音と匂いの照応を語るこの生きた絵画に« air »の響きを聞き取るの は難しいことではあるまい。 最後に来るのは極め付きだ。「窃盗狂の金持ちサヴェリニ公が、ローマの下町で 浮浪者たちの持ち物を盗んでいるところ」。ここに「飛翔(vol)」から「盗み(vol )」への読み換えが行われていると見るのはあまりにばかげているだろうか。しか しわれわれにとって有利な材料は一つある。ここで窃盗狂と訳したのは« cleptomanie »だが、ルーセルはこの挿話を語る際に(それは二度にわたって70行近くあるが)、 一度も« vol »という言葉を使っていないのだ。ルーセルのやり口を知っている者な ら、それこそその裏にこの言葉が潜んでいるからだ、と確信するだろう。そしても ちろんこの貴族泥棒は最後には捕まる、「失敗」するのである。「翌日、このおぞ ましいスキャンダルは新聞に派手に報じられ、窃盗狂の貴族はイタリア全土の笑い 草となった(p.236)」 こうしてソローの活人画は、その六種類の主題のすべてにわたって、前章、前々 章の主題を引き継ぎ、かつダンサーと歌手の「失敗」を予告するにふさわしいもの となっていることが分かるだろう。この喜劇役者の露払いとしての役目はきっちり と果たされているのである。 重力と言葉 それでは、今度はさらに、この二つの失敗について、もう少し細やかな目を走ら せてみるとどうなるか。そうすると、この二つの失敗がまったく関係のない二つの ものなのではなく、一種の対照性を持って描かれていることが見えてくるだろう。 それは「重さ」(あるいは「軽さ」)にかかわるものである。 「身の軽さ」というテーマを底に隠し持つ第三章の裏焼きとして配された太りすぎ のダンサー、オルガ・チェルウォネンコフの失敗が、彼女が「重すぎる」ことから 来ていることは明らかである。  やがて舞台の幕が再び開くと、口ひげの生えた、肥え太り年老いたリヴォ ニア出身のバレリーナであるオルガ・チェルウォネンコフが登場した。彼女 はそのものすごい体重で押しつぶさんばかりにしながら、大鹿のスラドキの 背にまたがって現れた。(p.80) 彼女が「大鹿(élan)」に乗っているのはまったく象徴的だというべきか、それ とも皮肉というべきか。「跳躍(élan)」が彼女によって押しつぶされているのだ。 そして彼女が踊るのは「ニンフの踊り」である。ここでさきほどの「身の軽さ」の

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象徴である、金貨をばらまく「妖精」ステラ・ブシャレサスを思い起こさないでは いられない。ステラとオルガは、まったく対極にあるものとして描かれている。重 力を免れているかのような軽やかなステラに対して、オルガ・チェルウォネンコフ はまさに重力に耐えかねて転倒するのである(« Olga tomba lourdement » (p.80、強 調引用者))。ここには、重力から逃れた自由な者の豊かさ(金貨)と重力の軛に 縛られた者の無様さ(筋断裂痛)との対比がある。足を痛めたオルガを運ぶのが、 「軽」業師のエクトルとトミー・ブシャレサスだというのも象徴的である。

フランス語には「空気のように自由(libre comme l'air)」という表現がある。自 由と最もよく結びつく語は空気(air)だというのが、フランス語の感覚なのである (16)。重力の存在を思い知らせ、そこから自由でないことを強調する「巨漢」オ ルガ・チェルウォネンコフの失敗は、まさにこうした感覚の裏返しとして、ところ を得たものといえよう。 これに対してカルミカエルの歌の失敗だが、まずは歌=音楽もまた« air »の系列だ ということとともに、語られる言葉というものの一種の「軽さ」という性質を指摘 しておこう。オルガの失敗が「重さ」による失敗だとすれば、カルミカエルの失敗 は、「軽さ」にまつわる失敗なのである。それは、例えば次のような一節で確認さ れる。「女の喉の震えをそっくり真似た、彼の奇跡的な裏声は、大気中に朗々と響 きわたった(dans la grande sonorité du plein air) (p.81-82)」。ところでこの引用で 明らかなように、この歌手は、男でありながら女装をし、女の声で歌う歌手なのだ が、先ほどのリヴォニア・ダンサーが、すでに年老いて(ヨーロッパ、特にスラブ 系の女性によくあるように)「口ひげの生えた」女性であったことを想起するなら、 ここにもまた一種のキアズマが存在することが見て取れるだろう。男のような女と 女のような男という対照性が。さらにこのしくじりの罰として、皇帝タルーは歌手 に三時間の禁足を言い渡すのだが、その時ルーセルは、« pour punition de sa lég㎎re

défaillance » (p.82、強調引用者)と書き込むことを忘れない。口ひげを生やした踊 り子は「重々しく倒れる」が、女声の歌手は「軽い」物忘れを犯すのである。ここ にきてわれわれは、三章の「飛翔」、四章の「言葉」という別々の主題系が、「重 い/軽い」という座標軸に沿って新たに統合し直される様を確認することができたわ けである。 最後にやって来る者 ところで、われわれのこれまでの説明は、三、四、五章の緊密な構成(三、四章 の統合及び裏焼きとしての五章)の解説にはなっているが、そもそもなぜ「失敗」 なのか、という問いには答えていない。もちろん「裏焼き」としての第五章という 位置づけが「失敗」のモチーフをある程度呼び込んではいるが、決定的なものとは いえない。ただこれに関してはおそらく、処女作の『代役』以来、常に「挫折」を モチーフにして作品を生み出してきたルーセル(17)の、より根本的な問題として 語るべきだろう。それよりも、われわれはあくまで「構成」の概念にこだわって、 さらにこの「失敗」を主題とする章の、全体の中での位置づけを指摘して、本稿を 終えることにしよう。 カルミカエルの「説明者」としての役割の重要性についてはすでに指摘したが、 このカルミカエルが、逆に言葉によって失敗する時、それを手助けしにやってくる

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者がいる。語り手の「私」である。彼は、三時間立たされて歌詞を覚え直さなけれ ばならないカルミカエルのプロンプター役を申し出るのである。つまりかつてプロ ンプターだったカルミカエルのプロンプターになるのが語り手の「私」なのだ。そ のエピソードは第九章、つまり「提示的な」前半部の最後に語られる。このシーン を締めくくりとして話はもう一度頭に戻り、「説明的な」第二部に入るわけだ。と ころで、言葉によってしくじる者は、これまたカルミカエルばかりではない。第一 章に登場する奴隷サリダキスの像というのがあるが、これは、ギリシャ語の活用が うまく覚えられなかったために主人に処刑されてしまった奴隷の像なのである。 つまりこういうことだ。前半部を構成する第一章から第九章のうち、第一章には 言葉を覚えられなかった者の彫像がある。第五章には言葉を忘れてしまった者の失 敗が語られる。そして最後の第九章では、失われた言葉を取り戻してやり、再び言 葉を与えてやるために「私」が登場するのである。もちろん第五章というのは、九 つある章のうちの真ん中の章なのである。『アフリカの印象』前半部は、「言葉」 というスペクトルにかけてやれば、第五章を境に折り畳むことができるわけだ。 こうしてちょうど振り子の軌跡を描くように一から九までの章が組み立てられて いる様を確認することができる。さらに、失われた言葉を取り戻す役目としての 「私」が登場したところで、もっぱら「提示」からなる前半部は幕を閉じ、いよい よ謎解きが始まるというのも、これまた当然の流れであるといえるだろう。『アフ リカの印象』全体を通じて、語り手の「私」は表立って姿を現すことがきわめて少 ないが、その「私」が、言葉を取り戻させ、失敗を修復する者として現れることは、 非常に意味深いものがあろう。彼は、「人けのなくなった舞台裏からジュイヤール の椅子をとってきて」カルミカエルの隣に座り、手伝いをする。ジュイヤールは先 ほど第四章の幕開けで「知性に満ちた」講演をした歴史学者だが、同時にそもそも 「無比クラブ」の発案者でもある(18)。そのジュイヤールの椅子に座り、先ほど は言葉を与える側だったカルミカエルの教師となる「私」が、一体何に擬せられて いるのか、その答えを想像するのは難しいことではない。 これで『アフリカの印象』前半部の構成についていえることはいい尽くした、と いうわけでは到底ないが、本稿の「構成」としては、ここらで一つの「まとまり」 とするのがよかろう。フーコーの本同様、結局最後(第八章)までたどり着くこと はできなかった。六、七、八の三つの章について、最後に急いで一言でまとめてお くなら、それぞれ「空間の活用」、「失われた子供時代の復元」、「仮死の祭典」 とでもいった形に落ち着くだろうか。これら三つの章についての詳細な展開は、ま た別の機会に譲り、今はここで筆を置くことにしよう。 注

(1)Michel Foucault, Raymond Roussel, Gallimard, 1963, p.77-78. なおフーコーが「

figure=比喩形象」といっているのは、要するに、それぞれの演者の「出し物」や彼

らの手になる発明品や装置、場合によってはその人間自身、など、そこで提示され ている「演目」のことを指していると受け取ってよい。「比喩形象」という訳語は

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豊崎光一氏の訳(『レーモン・ルーセル』法政大学出版局、1975年)から借りた。 (2)実際、カルージュはデュル=セルールの月経閉止という病に「独身者」のモチー フを読みとっている。(Michel Carrouges, Les Machines Célibataires, Ch㎞ne, 1976, p.75

(3)Locus Solus, Jean-Jacques Pauvert, 1965, p.29.

(4)もちろん一つの章に出てくる装置が一つでも、そこで複数のエピソードが語ら れることもあり、これらエピソード間の関連というものを分析してみることは可能 だろう。それは他日の課題としたい。

(5)Foucault, op. cit., p.78.

(6)Impressions d'Afrique, Jean-Jacques Pauvert, 1963, p.30. 以下『アフリカの印象』か らの引用はこの版により、すべて本文中でページ数を示す。

(7)Gaston Bachelard, L'Air et les Songes : Essai sur l'imagination du mouvement, José

Corti, 1943.

(8)Bachelard, op. cit., p.69. (9)ibid., p.80.

(10)cf. Bachelard, op. cit., p.83-84. (11)Bachelard, op. cit., p.78-79.

(12)cf. Bachelard, op. cit., p.77. この観点からすると、ルーセルの処女作『代役』の 結びの言葉、「ガスパールは空を、空の星々を見上げる」も、上昇の契機を表した ものとして十全に受けとめなければなるまい。« relever le front »とは、まさに「頭を 上げる、上を向く」ことなのだから。

(13)Foucault, op. cit., p.80.

(14)ちなみに、バシュラールの前掲書では、空を飛んでいる時に、背中に翼をつ けているかのように思い浮かべるのは、悪しき「正当化・合理化」であり、本当に 純粋な詩人の想像力は、むしろ「かかとに翼をつけている」という瞠目すべき指摘 をしているが、ルーセルがここで「翼の形をしたサンダルをはいて」と書いている のはこの意味で大変興味深い。 (15)この少女を演じるのは、先ほどの「身軽さの化身」ステラ・ブシャレサスで ある。 (16)バシュラールは前掲書で、フランス語のこの表現に何度も注意を喚起してい る。

(17)例えばFrançois Caradec, Raymond Roussel, Fayard, 1997, p.46や、Jean Starobinski,

« Raymond Roussel et le mythe de la défaillance fatale », Les Lettres nouvelles, no 39, octobre 1963などを参照のこと。

(18)ジュイヤールという登場人物の重要性については、Laurent Jenny, « Structure et

fonctions du cliché », Poétique no 12, 1972. に指摘がある。『アフリカの印象』の劇場

用台本では、ジュイヤールの重要さがもっとはっきり現れている。彼はちょうど『ロ クス・ソルス』のカントレル博士のように、全体の狂言回しを務めているのである。

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参照

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