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讃岐に於ける散居村落の研究--其の原因に就いて---香川大学学術情報リポジトリ

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讃岐が散屠制転於てよぐ後述してゐる軍略常地に衆夜着の誰も気付く魔であり、其の何故であるかに就いて不

審をいだく者も少くないのである。従て散展についての研究者も多く、之について尋ねられる革も少くない。自

分も亦讃岐に来て以来これに注意し、之れが解決を試みたいと思ふてゐる仙人である。此の散居について興味を

有せらるゝ方には自分の記憶する應だけを申しても、早くは京那帝細大畢名啓教授小川琢治博士があり、夫の日

本民家史の著者藤Ⅲ兎容氏は四蜘旗行の際、讃岐仲多度並に綾歌平野の村落が散居式であるのを注意して居る。

︵即諾謂︶最近では現今北選炭警讐、堺責蒜賀質蒜井欝等嘉し宗野信之助氏があり、

北海適の屯餌兵相調夜に尭立ち常鞄に来り散居制を親祭された。兜年は税率習院教授の村松繁横氏が未だ京郡帝

閏大単文拳部地理輿教皇の助手であつた頃、岡山腺児島濁畔の散居村を調べる序に常地に来られる約束であつた

讃岐に於ける散屑村落の研究

讃岐に於ける散居館落の研究

1・ト・其 の 原 因 に 就 い てt卜弓

貞 爽

寺 田

≡こ七

(2)

高松高等商染螢校閲校十周年記念論文払 落 の 景 居 散 目] 林 近 ′′し 木) ≡二八 がァ或る事情のため英されなかつ允。昨年︵凋鞘︶講じく京郡 帝国大塔馳弼寧教窒の助手米倉二郎塾士が埜筒になり二一三エ ロ滞留して宮地の散屠制について調査し、木田郡の林村篭仲多 度郡の郡率方面などを踏査された。文数年前木琴知事であつた 高橋雄財氏も常秤内の散居について注意せられ寺其の理由の調 査を希望して居られたことは讃岐郷土研究禽▲々報節十三耽の俸 ふる應である。 か︿讃岐の散屈ほ有名なものであるからて蕾地に居る自分と Lては如何にもして其の眞相を聞明せしめたいものと努めてゐ るのであるが豪打は未だ充分な解決が出来や遺憾に思ってゐる。 さりとて聯かでも考へがある時之れを書き綴って置くと云ふこ とは、他日完全な解決に到達する順路にもなると思ふので、恰 も本校開校十周隼記念論文集の企のあるのを利用し庵こゝに管 見を記すことにLた。 掩て散屠と云ふ言葉は勺早く京都帝国大軍教授小川琢治博士

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が主として越中問礪波地方に散在せる村落む適例として畢界に紹介せられ、北ハの村蕗が樹林で固まれたる孤立家

屋が蒜の閻隔をへだてゝ散在し、其の周囲の耕作地は各家所願になつてゐる鮎に於て、唱逸わ荘宅と申すもの

に類似してゐるので、昭逸で云ふ肛宅の名柄をとつて肛宅式村落と名づけられたのに敬してゐるのであると聞く。

︵別報触讐付議警配棚㌫訓鵬配網㍍馴鋸馳駆鴫詰責︶︶讐。ゝで散居と申すのは、小川望の云はれ

たやうな正確な荘宅式の特徴を有する衆落と云ふ意味ではなくして、単に民屋が密集せす、或る間隔を有して各

所に分散して建てられてあると云ふ意味に過ぎないのである用どちらにせよ此の散店的人文現象については、色

々と諭ぜられてゐるところで、従来曲げられた原因項目中盈滋滝のを額げると左の緒項になる。

第一、讃岐人の利己的精細に依る原因

第二、畜岐の地質上の原因

第三、土地制度上の原因

第四、交通上の関係

第瓦、催里との関係

第六、濯漑用溜池との関係

兜づ弟忘原因について考究するに、讃岐人が仙人主義的精神に於て俊達してゐると云ふ寄はよく聞く虎で、

讃岐に於ける散居村落の研究 ニ二血九

(4)

高聡高等商業拳校開校十周年記念論文鴇

≡三〇

之を文献に求むるならば、本願の衆議院議員であり、政志賀雪印允生の門下として■人文地球辟豪である小西和

氏は其の要撃内諾に於て次の如く云ふてゐる。︵蛸㌫舶㍍が瑚鋼酎人︶﹁内警耐の人言中には公徳心を 紋ぎ、弼創力を更ひ、模倣逐こと1し、小成に安んじ、利己主義にのみ奔るなどのものが抄なからぬかのやう云

々﹂と。

叉同論の八百七買には、﹁金牌内海方面の人々は、自己の心根を打明けないものが多いCこれも亦小さい山や

島が嬰糾を遮断して居るからで、定ひて小心翼々放臍の傭に乏しく、相互他を疑ふかのやうだから、自空ハ同的

の活動や大事業の経営には不適富であるなどゝ見らるゝのも、弘ち無理からぬこと1思ふ﹂と云ふてゐる。 次に小川博士も其の著人文地理畢研究︵貰霊︶に於て、﹁孤立農家の散在が地図上にも著しく見える他の扁

は、讃岐高冷附近の礫塵制の遺跡判然たる虚である。現場に就て調査した研によれぼ、多く小作人の小家屋では

ぁるが、此の地方では水害其の他の故障がない限り、選民は散布式居住を好むと云ふことである。故に此の場合

を併せ衷ふれぼ日本に荘宅の有ったか否かは問題にはならぬ梯で、島国の原始住民が多くの場合匹孤立肛宅とし

′ て居住を起し、樟々の型式の村落は其の後に形成したとするのは、必ずしも基想でなからう云ヱと云はれて、

蔚岐人の孤立を好む精神のあることを散居の原因と見て居られる。

然し、小西和氏の研究とても瀬戸内梅沿岸壷の人間についての立論であつて、少くとも讃岐人だけを指した

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第二の地質上の摘係監観るに、讃岐の地は其の位磁上⋮帯に乾放である。例へぼ降水豊を閉る匿、海岸忙在る 絞出に於て年降雨畳七五九・七粍、琴平二≡八・六粍で、南四図の覇戸二三九二・凍粍、高知の二七二六・九粍 等に比すると、約四分の両の降雨豊であり、提て晴天日数も他の地方に比し著しく多く、日照畳も亦大であり、 操鹿も亦小で、概して乾燥気候であると、地坪教育第十七令第六胱讃岐平野の地誌に記して居るのを以ても知 れ、米作には濯漑用溜池を設けて溌漑しなけれぼならぬ土地セあるハ従て土地は洪積巌の地方は固より、沖積暦 の低地でも決して潔潤でない。海岸を攻めたてた腐苗の如き土地を除けぼ、決して漁潤で滋い。虞によつては砂 漠の性質を帯びてゐる魔もある。例へば大川郡津田町附近の海岸地、三農郡観音寺町附近の海岸の如き此の例で あらう。故に、居住には何應でも不適常でない。代宅を超設するにせよ地盛を施す要もないのである。従て任民 は自己に那合のよい土地を選び、随意に住宅を営むやう鱒なり、之れがやがて讃岐をして散居たらしめたのであ ると。これも劃理あることで、内田賀川氏も経番地城に関する諸問題︵五︶盤発砲域の備に、耕地と農村の位竃と の関係を研究して、左の如く云ふてゐる羞謂網講義︶ 耕地と農村の位竃とは相接するを便とし、ために耕地の申に農村の饗達を見ることがあるとは云へ、耕地の地 形○地貌○地質等の関係から、家屋建築上の地盤として不適常と認められたり、或は人の住居に不衛生及庭と恩 はれたり、或は飲料水⑳用水が待欺いために、或は洪水の嘗の多いため虹、或は其の他色々な事情のために、耕 ものではないの 詑岐に於ける散原村落の研究 で あるから、これ けを以て 囚とは肇 へることば出来ない。 三三血

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高松高等商染襲校開校十周年記念論文集

三二三

地の申せ避けて家屋の位退を決定して居ることもヾ至る虚に見る覇賛である。特に水田の場合は畑の場合よりも

叙上の色々の事情を宅地として忌避される気分が多いから、偶々水田中に多少とも高まつた土地があるか、或は

盛土をするのに郡合のよい鹿は別として、多くは水田の周瘡の高みの場桝に農村が川来るのである﹂と。

即ち.讃岐はどの鮎から親て牒水田中に住宅を建設しても不便がないので、勝手に思い﹁1の遮に家屋がⅦ来

るのであると見ることが出来る。

讃岐でも比較的潔潤な魔には散居が蔑達してゐないのである。例へ・ぽ胸苗の機関となつた魔の如きは勿論民屋

を見ない。高松市の兼方渇元遼の厳鮭川地や二壷郡詫間墟の腰胸帯地の如逐は是でぁる。かゝる減潤地でなく

とも趣く故近に沖積地となつたと思はれる應、例へぼ二義部の詫間以酉高瀬何に至る問の如きは、未だ一軒も人

家が出水てゐないのであり、叉同じく三豊郡で観音寺町から西南に磯達してゐる土地の如きもー亦大川郡志度町

の周囲の地、木田部屋畠附近の海岸地などの如きも、人家を計ないの.である。し七みると乾燥な魔は人家が散居

になると云ふ考へも蒜あると申してよい。然しこれ旦糾わ人間の性質の諭と同感、蘇倣乾燥と云ふことは瀬戸

内海叫帯について云ふことで、讃岐だけの特徴と云ふわけでないから、此の鮎のみで讃岐だけが散居になつたと

は申し経い。

第三は土地の制度上散属になつたので濾ないかと云ふ説である誹牧野信之助氏は主として文献の芳田から村落

開費に脚する史料を拭訪し、散店側について研究されたⅧ其の結英は諸方の雑誌に後家されて罵り、大の越中の

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団礪波郡山田新出相関墾の場合には、新田裁訟役から改作奉行へ宛てた何番に二村は頭鼻地劇人に小鼻地十人 宛を限度とし二空ハケ村を作り、家櫛へは村中バラくに建てさせることゝす﹂とある事、叉その理由として、 若し⋮ケ朗に集合すれぼ坪地への距離遠くなり、不個なるペしと云ふ意味が述べちれ.てある啓、叉それに封して の回答に、伺の如く所作早速くては怒激可有之候としてあるこ†山田新田開慧蒜︶叉加賀薄では各瓢とも大 慣開拓には同様に適用されたと恩はれる寄↓又伺越中閲礪波部太田村の酢地割蓋嵐にも、卦†問の距離を以て 家作すべきを示してゐるものがあり、叉加賀濱の畠政に閲して歴代茸際の施設に参興した算単著石黒信基の記述 した居座敷叫巷事には、新屋数は凡そ五十佃の間隔を思いて打渡すべ.きを記して居り、叉下新川郡若輩村の天保 牒墨割中波中にも磨慧するもの援用マバラにな㌢﹂心牒べき旨潰してゐること、︵謂㌫錮、議 場小︶等の墓より絆し、地方に於ける放屁は土地制度上から、人語賃凄ものではないかと妥究に達せ られたのであり、同氏が先年常魔に来られた暗も比較の記録を漁り、常鯖内の散屈も土地制度の結英に非るかに つき尋ねてゐたが、寡聞なる未だ此の標記錬を後見するに至ってゐないのは遺憾であるっ定めて讃岐に於ても何威 か側部分には、此の柾の原因による散居地もあるかも知れないけれども、讃岐の散居の原因が全部これであるとは 固より考へられないし、叉村松繋樹氏も牧野氏等が購波平野の散居村落に於ける散居の起原をぼ、主として歴史 的な理由に求めて居るのを不満足に恩ひ、踏査の結英、礪波平野に於ける散膚の教生は確に環境に基調するもの なることを後見された。即ち此の掘波平野は二つの扇状地であり、か1る地形の魔には此の制度が通常であるた 讃岐に於ける散居村落の研究 ニ〓ニ三

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的に排列せられてゐたのであつて、大和平野捧河泉の平野並に近江平野などに於て、よく其の迫践を眺め得る。

昨年︵㌶︶嘉帝実琵琶針慧普二郎雪が窓、香川将に於ける優男孟温いて調苦れ、木田

グシゲ 郡林村並に仲多度那の郡家村などを踏査し、既に調杏臍の江洲地方の退蔵と比較し、雷願に於ける條里村落の敬

あつ艮

三三囲 高松二向等商染畢校開校十周年記念論文集 めに斯くなつたので、紳迫川。常願寺川の黒部川流域に於ける扇状地にも、央張り散居が碓達してゐるのは之を 雫るもので雪と云ふてゐる。︵指摘欝酢蛸覧凱㍍詣錮諸十欄詐欝︶此等の警り考へると、讃岐 に於ける散居の蟄連も環境に依るものではなからうかと考へられるのである。 第四の交通の関係と云ふ詮については、香川師範の教諭桑島安太郎氏も地理的観鮎からして此の給を記して居 られるのを見た。然しこれは大都市の附近では充分正云払得る現象で、例へぼ高松市近郊の如きは、白組串でも 使用するならば苗より相普遍隔の袖に居住して居ても生活上甚しき不便はない。単に不便でないのみでなく、都 合から離れて生活した方が反って衛生上其の他の鮎から観ても好都合であるので、自然散屈の状態をとるに至っ たものとも考へることが出来る。然し讃岐灸鰻の散居が果して右の原因のみで詮明し得るか否やは疑問である。 第五は條盟制とめ踊係である。大化の改新忙よつて班田制が確かれ、條里の音策は大和を始壇、近畿・畿外滋 境の諸餌にあつても、殊に図府附近の地方には割合に廉く正確に施行せられたことは奨を要しないノと稲せられ、 牧野信之助氏論文、歴皮と地 理帝二十七魯第二鶉貰〓七五 村松 論叢 謂郎綿詳㈹櫻︶而して其の村落の型態は條蜃の置割に讐芳形若くは長方形に密集し、鶏何拳 ︶此の制度の驚施された虚では村落は整備され、條盟式村落として焚付をなしたので

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生状態は虹洲蓮と興りのないことを確かめ、債鬼の一割に氏神祀が在り、民屋が密袋して畿達してゐた郎は類似し

てゐると云ふてゐた。従って讃岐に於ても條旦の賛施された常時に於ては、民屋は他の傑盟制の虎と同様に催盟

慣割の一部に密集して出来たものが、以後の時代に於て漸次各所に分散するやうになり、途に現今の如き盛んな

敵軍景観を呈するに至ったものと考へられる。此の考は常然云ひ得ることで、自分共も之を信するものである。

第六は藤漑用溜池との紬係である。讃岐は大版帝などゝ共に滋漑用溜他の多い土地である。弘法大輔の築造に

か圭侍ふる洒横地を痛めとし、其の数竺八〇〇讐軍︵餌場糎網軍容︶或は大小合す時には其の敬虹 二萬に垂んとすとも云はれてゐる。︵順鵬鵬猷諾閑謂︶此等溜池は何れ豊々実の多大姦力の結果入賞的に造

られたもので、極く秩序的に水耕が発つて屠るから、其の水耕霞城内の住民は此の溜池より得る水の関係上、住

宅を夫々便利の位置に設置すると云ふ事もあり得る葛と考へられ、而して其の場合には密集よりも散居の方が一

隊便利であらう。従つて蛮岐には散居が後逸したのであらうと考へられる。然しこれに就ては全く反封に米作に

封する濯漑施設は之豊ハ同に営むことが多く、叉其の農業鮭螢は蒜的に多くの努力を婁するものでぁるから、

教材を通して生活し、囲滑な村落生活を痙み得たのであつたと科し、これを以て寧ろ米相磯達の原因となす人も

雪。︵紳詣讃摘訴瑠︶然し靂上雷の如く散居の多い虚では、必ずLも浜村の冨とも考へられない。

或望拙論の如く濯漑用溜池は散居の∵原凶であるかも知れないのであるが、然しこれとても聾に之れだけで散居

が敏速したと断ずることは固より早計であらうと考へられる。

讃岐に於ける散居村落の研究

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高枚高等商業嬰校開校十周年記念論文集 三三ハ 以上紹原因について通観するに、此等の各項目は何れも讃岐に於ける散居の二軍因であるには相連ないことは 充分に之を認めるけれども、然し之れが金原因であるとは固より考へられないのである。こ野砲理的現象は決し ㌻喜原撃成立しねものではない。各秤の嬰由の総和が今日の入違・象姦晶したのである。︵別報定︶ 故に蟄岐の徴属の如きも、以上諸原因の飽和の結娼であることは申すまでもない寄である。 然し、其の要因中には単に讃岐の土地のみに限らす、他の地方にも共通な原因がある。前述の諸賢個中例へぼ 溌漑用溜池や條盟などは、讃岐と地理的関係の類似し滑他の多くある地方、例へぼ大和。河内。柿津などでは一 原因となるかも知れないし、叉條里の如きも大和並に近畿を始め其の以外の地でも、開府附近の如く催里の行は れた魔では、同原園となるであらうが、其の他の地方に封しては共通の原因とはならないのである。然L其の他 の原因例へば讃岐人が利己的であるとか、地質上土鞄が乾煉であるからとか、交通踊保とか云ふものになると、 畢に讃岐だけの特殊原因とは考へられない。少くとも或る程度までは各地共通の原因と見る方が寧雷である。故 に讃岐に於ては此の共通な原因のみで散居になつたと云はんよけも、寧特妹な原因吏ふ頑に退く要があると思は れる。而して讃岐に於ては使果と云ふ特殊原因があるのであるから、之をおいては他に通常な原因を求めること は六つかしいと考へられるのである。 そこで讃岐閣内に於ける散居地を調べて見ると、地形上左の如く分けることが出来る。第叫は平地に於ける散 居で、第二ば丘陵性他に於ける散属である。之を密地に就いて観るに左の如くである。

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兜づ平地に於ける散居より観るに、讃岐は元飛地積狭小ではあるが、河川が幾傭む南北に流れて居り、∴其の源 カlヾ 岸には多少とも平地が畿達してゐる。寄附郡・木田郡の平野は至る虚之に屈し、大川郡でも鴨部川並に津田川流 域殊に其の上流の長尾。石田並に富由村地方は之に屈し、綾歌郡では綾川の中流故に下流地方の一部、大東川並 に土器川流域、仲多度郡では金倉川流域側背、三豊部では財田川、稗田川流域が之に魔してゐる。 次に丘陵性地に於ける散居であ・るが、之は重に平地である沖積他の連繚に凝る洪痍地で、香川郡では俳生山町 以南に碗がれる躇野村並に川束村の高味の土地、由佐相並に地頭村方面、木田郡では三谷付から植由村、十河村、平 井村の奥、氷上柑嶽山の北斜面、大川郡では長尾◎石田。富田並に松尾諸相の南部に磯透せる高燥地、綾歌部では 昭和村完讐即ち畑田並に千疋の地、滞富以南の丘陵地、羽床の北部、富熊の北部地方、柴熊村の南部地方、岡 田並に迭勤寺の南部高味の地、仲多度郡では造か南部の吉野村、神野村の南部から十郷村にわたっての土地、三 豊郡で咋高瀬、比地二方面から笠田並に上高野の丘陵地、南部で財田天野村、辻村、豊田村、紀伊村の丘地より 大野原、萩原乃至は和田村に点る基地の地方は之に属して居る。 シ・ノサイ 之に反して散居をなしてゐない虚を観るに、香川郡では郷東川並に水津川河口附近、香田吋の北下笠屠村紳在 演に至る間の平地、木田郡では高松市の東方から屋島相場元に壷る海岸の平地、奉祀村中央.の水田地、井戸村の カベ 北部なる白羽、大川郡では志度町の周囲の平地、鴨部川流域の平地、津田町の附近の梅岸平地、鶴羽村の海岸苧 ヲウミ 地、三本ぬ附近の平地、即ち輿田川河口並に港川河口地方、引田町の附近即ち小海川の南岸平地、並に黒初の梢 讃岐に於ける散居村落の研究

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高松高等商染拳校閲攻十周年記念論文集 三三八 スエ タキノミヤ 高味の地など之に屈し、高松市以西では綾歌郡陶村から瀧宮村に至る萱原の平地、坂出町の東綾川河口Ⅵ梅岸 シラカタ 平地、宇多津、丸砲問の海岸平地、仲多度郡では多度津町以来の海岸平地、自方柑海岸附近の平地、青原村の四 カン′ トヅサカ タクマ ヒジフタ 部鳥坂附近の田園地、郡の南部沖野村より隔風見遼の平地、三豊郡では詫間町より南方蕾津村の平野、比地二村 モガミサマ の平鞄観音寺町の西南方平地、高宍村の平地、財田柑、財田大野村の一部、豊田村母紳山以南の平地などはぇに 属してゐる。 然らば何故に散村のよく畿達せる虚と、然らざる魔が生するか。兜づ散村でない虎に放て考究するに、讃岐に 於て散村でない虚隻剛連の諸地方で、多少の例外例へぼ綾歌郡の萱原、仲多度郡の青原村の四部、並に神野村よ 旦相良見地方、財出村、豊田村、比地二村、鴨部川滑岸などを除くの他は何れも海岸地並に河口附近であるが、 其の琴曲を一、二の例に就て胡察して見やう。 綾歌郡坂出町附近の如きは極く最近まで極超であつた應である。町の西南町饗ゆるを津山と糾し、町の東南方 山麓の衆落を隔江と補し、其の他川津。津郷などの地名もある如く、何れも海岸に囲係ある名粥であり、湛波の 深く潜入して居たことを想像せしめる。叉現今の香川願女子師鶴拳校数地内の老松咄は、景行天皇皇子紳揃王御 上陸の啓蹟と嘩へて キヤト 町の衆に吃正せる笠山山麓は最近まで醇汲を以て洗はれ、東方府中方面より丸亀に通するには府中より城山蕊に カナヤ7 番ひ、醜醐・酉圧を経て金山の麓を迎少、笠山との間を通り蒲江に出で、坂出町の南を経て丸亀に達したものと

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倍え、禽時の道路を俗に﹁かけどう﹂と桐してゐる。坂出附近はか1る新開の地であるから、坂出町の密集町を垂 する以前にあらては、村落は何れも海岸山麓の要所に教生し、地形の関係上密集村として畿達したのである。従 って坂出町附近せ今侍散居を具せず、福江村を始め西圧●醍醐は何れも衆村をなLてゐるものと考へられ、殊に 坂出町の東南方笠山に至る問の水田地の如きは其の区剖上より観て明に恩田より欒ぜしものなるを示し、水田中 ⋮軒の戌屋をも見サ、狭いながらに贋々たる水田の景観を呈して居り、耕作者は坂出町に居住し、耕作の必要上 各水田の一刻に小柄屋を建て、農具など保存してゐる様は他に見られぬ景色であるっ 之より東方綾川河口を観るに、ノ河口には江尻と云ふ変相があるだけで、衆北方雌山に至る問は頗漠たる水拇を なし、民屋の散在を見ないのである。著し此の地方も海岸近くには新開と云ふ地名をも宿する如く、近時まで海 波の地であつた馬めであらうと親祭される。 仲多度郡を経て三豊郡に入ると、詫間遜に出る。此の附近は現今こそ蟹田地として窮い低地をなしてゐるが最 近までは探き潤入地であつたものと考へられる。地形上から観察するに、今の詫間停車場より南に走る鋳造宥恕 線絨路の附近、、下高瀬村並に曹津村の過は常時の渥岸に相督し、周囲の山丘即ち汐木山・租山・山億山・葛山遼 までは少くとも潮水の入れ込んでゐたことを想像せしめ、今も東側の下高瀬村には洩津・束濱。四濱の地.名があ り、叉四側曹津村の万には汐木●津前など云ふ地名もあり、何れも海岸に紬係あることを示してゐる。来港鬼面 白く、此の間の平地は全く人家を見す、讃岐には珍らしい景色で、其の地の東側の丘麓より西側の山麓には、海 讃岐に於ける散原村落の研究

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高弦高等商業撃攻囲校十周年記念東女東 間 附 近 の 景 詫 郡 聖 三 三相〇 岸村落と恩ほれる集村が磯達して屠る。殊に汐本山麓に澹ふて畿 達してゐる汐木部蒲の如きは賢に校本的のもので∵担臓祓両氏が 地班箪評論第十巻第六既貢四七閤乃至四七五に於て、崇落位置の 地理箪的研究と題L、山麓稟落︵欝旦仁SS訂m2︶として置別してゐ るのに相若し≠村桧繁櫓氏が地墜論叢第一揮貢二八七に於て之を 詑明した如く、垂直的地形の欒化する繰旬乃至異った地質構成の 閤の接偶の線も即ち俳蘭酉の地理学者ブラーシュの夙に注意せる 所謂言s。ec。コtaC羞絹㍍㌧鰭藍eぎ遍h訂︶に民家の 集合した場合で、此の汐本山と其の山麓に畿達Lた平地とは、全く 地質構成が異って居り、平地の方は常に磁気に富んでゐるから、村 落は此の低警撃て山麓に細長く揮って出来たもゐで︵発語 二九三Jあるとも解せられるがセ自分は此の場合は柚質構成の威 ゝ 因に立ちもどつて匂海岸地であり後に此の平地が出来たものと見 て恥汐木村は海岸常時に畿達したものと考へるのである。此の附 近の山麓に出来てゐる村落の如きも喝之と同成因であると考へら

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れ、偽造路壱見ても、此の避の遡路は吉雄柑津前と下高瀬柑乙井とで交叉し、此慶に梢大きな密集部落を形成し

てゐるので雪。後醍醐天皇の皇蒜澄法親王が御上牒になつたのは、此地の西北耗問由井の附誓、︵詣謂 欄離︶後親王は比竺村の芝御移りになつ鬼享申し、莞御遺蹟が今比竺村毒比欝の点字岡並に勝閻村 大字下勝間の苧検視︵高話敢︶として残つてゐる。︵表蛸詣紅七︶此等遠の西側の真影品慧にな

つたもので、常時の地形を物語る好資料と考へられる。此の地方に散村のないのは自然の靴である。

三豊郡観音寺町の四南方に貰って、稗田川口近く、の液化畔で、南の神田川を堺し、常は常磐村のⅢ作南中出下

出の堺されて居る間の平野は、未だ人家をもつてゐない贋々とした田圃をなしてゐる。此等も多分液近まで潮水

であつた馬であらうと考へられる。蓋し此墟の耕作は坂出痘と同様、或は観晋寺町等附近の地に屏任し、此虎まで

出作をなすもので、地名にも杓作と云ふのが見受られ、団地の所々に農具物思小屋が出来て居り、中には此小屋の

住宅に欒じてゐるのもあるから、此等は叉讃岐に於ける散屏家屋額達の順序を示すものとも考へられて面白い。

讃岐では東瓢にも比例を観る。大川郡志度町附近の如き、町の周囲に教達せる衆落が何れも丘陵下に於て多少

共密集して屈hソ、其の問は狭小ながらこ碍の平原をかし、散屠衆落が畿達してゐ凄い。町の西南にある鍛冶屋部

落の如きは、地形上南北に突出した高味の地を利用したもので、衆村地形として興味を惹く。此の附近は近時ま

で山背海波であつたものゝ如く、今町の東方丘陵下に津村と粥する部落があり、其の北側を入江と糾してゐる。

地形上小飼入を友直る璧、如の入江竹造血景針︶の談によると、昔淀警で入警あつたので此倉生じた

≡四血

讃岐に於ける散居村落の研究

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もので、入江家は箇時より此虚に居住せる曹簸であると俸へ、叉家の後方丘麓にある老袷は邦繁稔又は明神松と 柄し、昔殉を繋いだ廃であると倖へ、今は櫓下に明神嗣を奉安してゐる。筒釆慶雨の畢方に津田に通する怖があ り、天野峠と科す。此磨は督竃渡船の出敬鮎をなし、西方は造に房前の酉の坂で卑鰻に通する峠︵俗稲もつとゆ すび︶まで、船舶の往来があつたものであり、志度町の史跡として知らる1海士の啓蹟の如きも蜜は今の志度町 ではなくして、天野峠の邁であると云ひ、今天野峠に通ずる道路の北側に其の追跡を存し海士子岩と補してゐ る。此等の諸鮎より推すと、志度町附近は近世まで渥滑であつたことが察せられ、従って散居村の磯連もなかっ たものと考へられる。 ハリエ ラー アマタキ ′ ではあるが平地をなし、田園がよく開けて居り、.民屋は山麓に小米村をなすのみで平地には豪速せす、唯津田町 として大衆落をなしてるのみである。津田町より敵方鶴羽の方も亦此の傾向をもつてぁる。 更に東方三本松より白鳥に至る梅岸附近を観るに、是も同銅係を弔し、殊に白鳥の東方山僻までの問に蟄連せ る新川と云ふ細流畔の如き、民屋は何れも変相をなし、田園中に趣く故近まで鯨波にあらはれててゐたと思はる ∼小さい岩丘の上に神岡の奉祀されてゐるのを見、叉白鳥引田問の境に放し相引と粥する虚があつたことは古記 に出てゐる。其の地は多分今の中山の地で、辟栗山と週山との問にある中山他の退であろらと考へられてゐる。 ︵調印錆脚臆断︶此等の粘から押しても此の蓮が近時暑警あり、住宅は山麓に衆柑とトて豪速したことが知れ 高松高等商業聾校開校十周年記念論文払 ≡四〓

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るのである。

ヒケク.チサミ 引田に出ると今の引田町の附近は小海川の河口で、一帯の平地又は蟹田であるが、これも故近の替達に屈し、

川の南側に於ては地形上、よく之を察することが出来、引田町の附近の如きは現に飽田の最近に開けたことがよ

く知られてゐるのである。従って散村をなさす、裡屋・荒井。北谷等の部落は皆周囲の丘陵下に密集して屠り、

小港川南時の田園に於ては人家は全く敬達してゐない。

以上は何れも海岸又は其の附近の地に就いての観察であるが、此の現象は単に海岸のみでなく、海岸より隔つ

モトヤマ た虚に於ても之れを見るしとが出来、三豊郡の本山村以北の地、綾歌郡の府中。加茂商材、同郡の菅原並に大川

郡の鴨部川沿岸の如きは此わ例である。本山附近は北は七貿山の迎撃南は蟹田。上高野の基地との問に放し、

殆ど南北に凍ってゐる浮川の沿岸凹地で、部落は何れも山麓又は丘陵上に畿達し、衆村をなし、凹部には未だ一

軒の人家をも有してゐない。其の理由に就hて竺概には云へないけれども、亦地形狭小のため両側に密集哉達

したものとも考へられ、綾歌郡府中並に加茂の平地、即ち城山と烏帽子山との問の綾川滑岸の如きも大櫻岡棟

で、民屋は屑例の丘陵下に密集してゐるのである。尤も大川郡鴨部川滑岸の如きは地形梢贋いやうではあるが、

香川郡や仲多度郡などの平野に比べると供小であるから、民屋は何れも桶岸の山幾に滑ふて戦法したのみで、平

地には散村を呈するまでに至ってゐないのであるとも考へられるのである。

トツサカ

庸開拓が新しい虚になると、散村をなさすに止まつてゐる鹿もある。善通寺町の西方島牧附近の地並に綾歌郡

≡四三

讃岐に於ける散居村落の研究

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竹岡奄高等滞米畢校開校十周年記念論女鹿 三四四 イヤグ■剛 の萱原の如き此の例で、鳥坂附近の如きは我辞輔山と雨霧山・河谷山とで成れる谷間の斜面で、比較的開拓が遅 かったやうに親祭され、民屋は矢張り両側山鷲に密集してゐるだけで斜面平地には民岸を見ないのであり、綾歌 ク士′ミヤ 部の萱原の如きは陶村と瀧官との問に椀がり、北は北條池南は鞍蹄山を中心として丘陵地を以て填せられてゐる 平地で、部落は何れも両側高昧の地に磯達し、北には北條池畔に菅原下の部落、東に陶畑の小部落、南側には菅 原上の部落が何れも衆村をなして費達して閉り、中央の平地には未だ一軒の民屋をも見ず、唯琴高電車繰の培っ てゐるのみである。此の地は地勢一般に高く従来水田として利用されなかつた虚であるが、徳川時代に入り萬難 を排して水利を竪へ、遠く南方丘陵を穿ちて綾川の上流から水を引き、今の艮田となした鬼ので、其の恩人は資 に久保太郎右衛門であつたのである。村の習家墜田家閉歳の文書に依ると、太郎右衛門は早く濯漑の必要を感じ、 打水ハモ 元線十年綾川上流山田村から驚原大口茂他に至る三里十八町の間に疏水工事を計蓋したのであるが、不幸許され す、獄に繋がる1身となり、妻女は嬰児を抱き遠路を意ともせす命良雄に日参、赤誠其の大成を斬った。滞公感 激して諾老犬久保主計の陳疏を容れ、質永四壁正月十仙目途に許さる1を得、エ事もやがて竣士した。今管顔の 地艮由を見る資に其の飴洋で雪。村民徽菅て碑姦て、︵畝離船︶基讐修L大に其の徳島んでゐる遥の地 方は斯く開荷が新しいので民屋はまだ出来ず、散居どころでなく、讃岐には珍らしい簡野を呈してゐるのである。 次に散属を呈してゐる地方を観察するに、これも低地と高地と嗣方に覆達してゐるのである。菟づ地形の高い 方より観察する。古く発兜以前即ち石群時代等忙於て鱒佳民屠任の状態も飴経典ってゐたには相違ないが、夫等

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は暫くおくとし、少くとも水田利何の時代に就いて考究すると、群岐に於ても他の地方に於けると同様、授初は

単に河畔の平地のみが利用され、次で人馬的に激漑用溜池を築癒し水門を増加せしめ冤而して、溜池は山手の

方を開拓し、次第に奥地に進む傾向があるから、高燥地の帝位は平地開拓後の閑敬にかゝるもので、平地を鹿二

吹開拓地とするならば、山貨又は丘陵地は第二次。第三次の開拓に屈するのである。趣く最近には水田許りでな

く、柑橘○革果◎枇杷●梨○水蜜桃などの果樹園を始め、其の他比較的高燥地の利周に通する作物、例へぼ除良

菊の顆が栽増せられ、従来顧みなかった丘陵地が空音惹ぐやうになり、随分高所まで叉随分急斜面までが開拓

せられるやうになり、讃岐園内壷る魔の丘陵地は固より随分高い山頂までが開墾せられてゐる。屋島山頂の水田

塩草遠代に屠‡にせよ、高松市南方の就評摺鉢谷︵謂虻︶、上笠居連山の斜凰欄虹。︶、綾歌那加汽 附近粥例の斜両地︵粒植讐射出の頂圭転剰︶、桧山村の雌山︵㌔ニ、琴平山の後側︵讐㍍︶、大姉山の田斜 面などの如きは、現今開墾せられつ∼ある高所であり率はエ型二次第相次の開墾地である。

キヤマ

か1る鬼は地勢急峻に失する馬め、多くは出耕作で、未だ民屋の覆達するまでに至つてゐないのが多い。城山

山頂の開墾地の如きは咋昭和八年の開拓で、山麓西庄村民は毎朝其の地に出かけ夕になり厨宅するを常として居

り、未だ住宅の建託を見ないのである。然し屋島山頂の如きは早く開けたので、耽竺一、三の農家を見、高松滞

イハ七ヲ の南なる石満座山の摺鉢谷の如きは既に新式の農園として磯達し、民屋も各所に塵てられてゐる。従て斯る新開

墾地の繁落は首然散村となる傾向が見えてゐる。 讃岐把好けぁ散層村落の研究 ≡四五

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一工四六 ⊥向を丙等商業拳校開校十周年記念論文集 港漑用溜池は山地深く築造さる1に伴ひ、谷間深く緋作が開かれ、而して谷間は比較的水を得るに容易である 関係上、早くより水田として利用され、民犀も之に伴って出来てゐるが、狭糧な谷になると之を新作するのに多 くの住民を要しない閲僻もあり、谷間には各所に民屋を見るのみで散村とは云ひながら、平地に見るが如き盛ん な散村景を重してゐるのではない。然し夫よりも鏑港漑用滑池が山地洗く塞迫さる1やうになると、捉来利用の 出奔なかつた低い丘陵性の土地が利用し得るやうになり、此等が開墾されることになつて来た。此の例は各地に 見る蒐で、高松市以南俳生山附近、綾歌郡昭和村の基地の部分、同郡瀧官附鑑並に閻田村、仲多度郡曽野村、三 ブゴウ 豊郡の豊田柑・大野原村・辻村・笠田柑の仙部、木田郡の三谷柑。十河村、大川郡の石闇村。富H村の叫部などは何 れも之に属してゐるっ而して此等の土地株高燥である関係上、恰も現今吾人が附近の山脈透見竃が如く、苗代に あつては利用することが出来す、叫般に哩窮地として利用されてゐたやうである。今此等の地方を観るに大抵は 古墳群地をなしてゐるのである。卵生山以南には爵塚と云ふ廃があり、′以前は古墳群地であつたやうであり、昭 カザシガオカ 郵相には北部に挿ケ丘、十三塚の苗墳群地があり、瀧宮村め前には萬塚と節する大石墳群地が残って居り、岡田 柑も甫坂と糾し大台墳群地であつた虚であ汀り、仲多度郡の菅野村地方の基地も苦境群地であつた魔で、今傭此の リユウヅ 村の南端龍放と云ふ虚には古墳が餞てゐる。三豊郡の豊田柑の如き、大野原の如き、辻村の如き何れも有名な古 墳群地であり、木田郡の三谷柑でも大川郡の石田村せも、是叉古墳群地であ炉、其の状態は到底記す暇を持た ぬ。此の古墳群地が漸次開覆せられて畑地になり、徳川時代には桑畑・甘庶。綿花作地となり、今は水田となつ

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た應も少くないのである。此等の開墾地は多くは散店の形式で、民屋は磯達してゐるが、賂の緯度は僻粗であ

る。賓例として綾歌郡昭和村︵醐摘㌫醗︶の畑閏を教げ七見やう。

昭和村畑用の教壇に就いては村の郷土史家聴講樺富民から資側に就いて指導を受けたことがある。これに依る

と常他の関数は村の北部、即ち琴高電車軌道の迫ってゐる地方で、殊に河畔地であつた。志し其の地は低平で水

田を営むに適したから、早く利周された。故に此拶には今綺管家も存し、又田地の如きも多年努力の結典として

土質もよくなり上田に屈してゐる。吹で潜漑用溜池が築造され高味の地が水田として利用さるゝやうになり、斯

くの如くして溜池の奥地に築地さる1と共に屈屋が南方にひろがり、遂に現今の状態を呈するやうになつたもの

ウブコ

である。然し部落は訂部では生子山の北東畑田小畢校附近に、北部では十三塚附近に密集してゐるのみで、他は

比較的粗な散村をなしてゐる。

斯く讃岐では土地の比較的高燥な鷹でも散属になつてゐるが、其の程度竺般に麒である。之れに反し、輩岐

国内で散居の最も著しいのは、此の丘陵地よりも地勢の低い平地である。高稔附近では香川郡・木田郡の平野、

′ウタ 同木田郡・大川郡豊る氷上。井戸・長尾・迫田・石田。富田の平地、綾歌郡。仲多度郡の平野、ニ義郎の平

野、母神山を中心とする平野などで1何れも讃岐に於ける大河川の流域地で耕地も廉いのである。香川郡では郷 東川蒜日川沿岸、大川郡で比鴨部川流域、仲多度郡では土器川流域1綾歌郡では綾川の流域、三豊郡では財出

川流域が是である。

讃岐忙於ける散骨村落の研究 ≡四七

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此等の流域鞄は水田として利用するに容易であるから、最も早く利用され、住民の増加を来たしたのである。 此等は現今残存してゐる古墳が何れも此の河畔の丘陵地に多数仔姦してゐることから察することが出来、殊に河 川が硲谷部から平野に出る地方に淀も多いのを見ると、こう云ふ慶は池水を利用するのに汲も通常である関係 上、⋮啓早く開けたものと考へられるのである。 従って所謂傭里別の布かれた時にも、此等河畔の平地は全部傑里地として適用され、現今で云はゞ耕地審理に あづかったわけである。此の傑藍の跡は讃岐ではよく保存されてゐるので、参謀本部版五霞分又は二範分劇団上 にて明にうかゞふことが出水、又各期に於て保男に甜係ある地名の現存してゐるのに依っても之を給することが

出警。今皆川詩習氏の芸岐通Å明哲漂晶急蒜臥念物調姦嘉志馴細別鵬詣猷豊橋訝︶な

どに依・り其の地名を蓼ぐると左の通りになる。 木田郡 井戸村二億。氷上村三億、五の坪。下高岡村四礫。林村六條。坂上村六億。 香川郡 太田村三傑。 綾歌郡川田村七條、八條。林田村六の坪。 仲多度郡 郡家尉三傑、四條。四億相川條。龍川村囲條、五條、六條。押野柑五條。梓井村六條。四倍相互 の坪、八の坪。多度津附二の坪、四の坪。豊原村四の坪。 ⊥ニ豊那 豊田村三傑、高盛村仙の坪、二の坪、三の坪、鞘の坪、六の坪、七の坪、八の坪、九の坪、十五 高松高等商染拳校開校十周年紙念論文集 三四八

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の坪。本山村六の坪。上高野村六の坪。稗田村劇の坪。粟井村一の坪、八の坪。和田村八の坪。 常磐村八の坪、十料の坪。 偽文書として債鬼の賛蒐を澄明するものには、糖左塵抄所載、建長八年八月の日曹祀領讃岐図枠田庄の境界の クヒ 校の位置を示すものがある。四至叫憤木、一本長角五條七旦二坪、紀伊郷並山本郷坂本郷常庄川之建打之とあ り、叉琴平富閉戒の貞治年間の古文書にむ條漫に閲したものがあり、奉寄進、稔尾寺金毘羅堂免田之専、合一段 者、在坪六億八里廿の坪、と記されてゐる。之を以ても條里は賛魔後随分後世までも、其の名柄が利用されてゐ ることを知る寄が出来るのである。 而して保呈寛魔笛時にあつては京都帝幽大挙地理蟄教窒の米倉文率土が調べられた如く、他願の億里と同機其 の劇割に氏神敢を建て、民屋も密集して造られたのであらうが、年と共に分家其の他の紺係上各自の新作に僻利 な場所を選んで屈性するやうになり、遮に現今の如き盛んな散居常観を呈するやうになつたのであらうと考へら れる。 斯く考へると、讃岐の散居はどうしても條里に大紬係があるものと見なけれぼならぬやうになつてくる。然ら ばなぜ傑里制であれば民屋は散居の虔が濃厚になるのであらうか。夫には叉複雑な原因が存在すること.1恩はれ るが、自分の多年普地に住み此の現象を昌座した経験から見ると、これはどうしても交通路の関係のやうに考へ 讃岐に於ける散居村落の研究

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高松高等商兼拳銃開校十周年記念論文集 米 1000 SPO O 10 8 0 剖地の相川龍ヽ家郡ヽ北典都度多仲 (るよK幅固守逸書・−\分千五属ニ) 三五〇 られるのである。 條里制の瞥施された鷹は田畑の所謂 畦邁以外によい沸梁や細道が叫耐に畿 達してゐるのである。傑里比嘉二町即 ち一坪を以て単位とし、方六町即ち三 十六坪を以て里と柄し、二軍円の各坪 は之に帯紙を附し、二り坪二の坪と云 ひ三十六の坪に至るのである。而して 一坪の地は更に小瞭畔により段に分た れてゐる。︵別納調臓用品碩舶詣詣 批臆鎧喝、︶雷の平地には此の芸 がよく残ってゐる。上圃は仲多度郡輿 北村。龍川村◎並に郡家村の内で、丁度 善通寺町の免に構はる如意山の北観の 耕地であぁ、條里の遺跡である事が明

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讃岐に於ける散層村落の研究 む望 を 近附村北興部度多仲 (山意如は陸丘の央中〕 に知れやうと忍ふ。爽で此の奥の棟遣を.ホす㍍めに條の字を用 ゐ勺何條何里何坪と柄し結締紋の形に聞知きれることにたる のである。此の各革位の田地には溝渠畦畔を設けて之を廣割す るのであり盲此の溝渠鹿砕の配壱は義山町︵一坪︶の四周に造る のを原則とするもので、米倉氏によれぼ大和や野旬近江の湖東 平野勺並に肥前平野などほ此の原則によつて造られて居ると云 ふ事である。而して此の各軍蛭間を置劃する溝渠並に道路の福 員は、米倉氏の研究によると。坪の路用の小蒲と畦畔との偏は 各三尺であり㌔m菅笠払割するものは九尺となつてゐる。即ち條 里制に於ける用排水並に道路計蓋は用耕水本蒲及び耕作本道は 約九尺の隔を宥して勺六町の間隔をとり、用排水小藩並に耕作 立道は約三尺の隔を有して、叫町の間隔をとつて配置され、だも の違う冨る。︵錮槻諾摘卜珊瑚齢虻漂㌘二︶蜜に於ける 條盟の遺跡を観ると正に此の通りで、各平野㌢痛じて大小の溝 渠並に遺顔が経緯線方略形に造られてゐるのである。 二言山一

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右固は犬川郡長尾町附近の平野で、條里の追跡と共に其の恒割に設けられた溝渠並に畦畔道路の状態をよくあ らはしてゐる。而して讃岐の地は平素乾燥であるから其の造たるや決して悪くなく、自縛車で往来することが出 来る有様である。現に讃岐では此の畦畔邁を自縛奉で往来することは盛んに行はれ、田棺時の如き自勝噂を利用 して早苗を配布しまはると云ふ寄現象を目撃するのである。此の瞳畔がよく僻ってゐることが畜岐に於ける散居 を誘ふ有力な原因と考へられるのである。 之忙反し、同じ平地でも散居をなしてゐない虚を観ると、田園の匿劃は眞の喧嘩で、條男制田園に於け各段を 分つ峻畔と同様であり、水田の場合には畦畔には大豆類が蒔かれ、重く農夫すら通行し得ざる程であり、眞に出 地閉り瞑劃軍服線に過ぎないもので、到底交通路とは申せないのであり、自縛革の往来などは夢にも出来ないこ とである。先述の散居をなさゞる地方、∨例へぼ高稔市附近では、東方屋島に至る海岸の田園地、志摩町関田の平 地、津田町附近のノ海岸地、鴫部川滑岸平地、三本松町並に白鳥町附近の平地、引田町附近の地、泰西町の北御衣 ホンヅ 濱附近の田園、郷東。本淫雨川尻の平地、坂出雨附近から綾川河口の低地、仲多度郡自方の梅岸近く、の平地、同 じく善通寺町の西方鳥坂附近の斜面地、ニ盛郡詫間以南の平地、本山村以北の凹地、観音寺町の北方高額村の田 園、同町の西南稗田川尻の平地、河内村の田園地、並に綾歌郡豊原の平地、鋼床蓮の平地などは何れも之に屈 し、田地の廟には通路のよいものが少く、全くの畦時に過ぎないのであ抄、鹿によつては畦畔並に小道は艶絆線 方格形になつてゐる虞もあるが、多ぐは不規則に畿達してゐる■のである。此の例は単に畜岐のみではな′\他僻で 讃岐に於ける散居村落の研究

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も同機で岡山から山陽本線で来し車窓から注硯すると、散居でない山鷲密集部落で、其の中間は⋮軒の農家を

も見ない虞漠たる水田地をなしてゐる慶を観察することが出奔る。而して此等の平野忙於ける田園の陰刻を観る

と、静岐などで見る條里別の平野とは全く異り、道と科すべきものは殆どなく、桝謂畦畔の僅に田園問の境堺を

なしてゐるのみであり、到底人間の往来に通しないのを蔑見するのである。

斯く、此等の地方に於て畦時のみで道路の後述しなかったのは、其の地が海岸又は河岸の地で最近まで海技地

であつたか、或は狭陽にして僻遠の地に屈し田園は自然のま1に後達し、特に道路の必要を認めなかつ允ので、

之が建設を見なかった蔑めであろう。綾歌郡の萱原の平地の如きは全く人為的の田園ではあるが、道路を設けな

かつた例であらう。従って此等の地は讃岐の大平野に見るが如き條農制などの賛施以外に屠してゐたことも祭せ

られるのである。唯散村をなさない平地で夫の三豊郡の高嚢村並に本山村以北の地、乃至は坂出町の東方綾川河

口近くの平地は、薦巣喧嘩並に道路もよく備はつてゐる虚である。此等は明に傭里制の茸施地である事が知ら

れ、殊に孟宗高墓相の平野の如きは催里の遺跡が讃岐的中でも汲もよく埋って居り、備里制の好標本地である。

︵馳摘朗細断謁㌶舶槻鯛鮒鵬㌃㍍馴︶然し此等の地方は土地鋏小であるため、土地経済上人家は平地払出す山

麓の斜面を利用して其虚に密集したものか、或は此等の地は僻遠の地であるため∵生活上の不便を避けて、平地

に出なかったものか、田園中には人家がない。此等は讃岐の他の天平野とは同〓監観察することは出来ないので

あろうと思ふのである。

高松高等商業拳校開校十周年記念論文集 ≡五四

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次に此の散属地と非散属地とを其の利用上から親察するに、徴層でない水田地は第一に通路が畿達してゐない から交通が不便でぁり、従って仮りに田園中に住宅を建てるにせよ、第叫建箸用材すら運ぶことが出来ない。若 し建築が机来克としても交通が不便で家族共は他に出ることも出来ないことになる。如何に耕作には便利である にせよ、日常生活が出来ないやうでは居住に適しない。叉か1る魔は土地も温潤で任尾の題設に適しないのみな らす、飲料水の関係もよくないかも知れないのである。 之に反し、讃岐の條盈別の資施された虚になると、第ナに平地は藷岐闘中では最も靡い虚であり、密薬居住の まゝであれば、机耕作のため遠方まで出かけなければならぬ不便があり、飼田地の聞には前通の如き立派な道路 と申してよい程度の通が川通八達してゐるから、交通上には何等不便がな小。讃岐は平素は乾触な土地セあるか ら低地と申しても決して操潤でない。居住地となしても決して非衛生的でない。建築にも大底の場合盛土地揚す ら必要がない隠である。飲料水の如き海岸を除いては決して不便でない。井戸水以外叱は道路と並行して必す溝 尭があ牒、常に流水が清らかであるから、洗濯匿も利用する儲利もある。非衛生的ではあるが、農家では今でも 筒此の流水を以て食器野末の洗准に利用してゐる程である。今でこそ電燈が鮎ぜない不便があると考へ畠が、燈 油時代に於てはか1る事は問題に及るはすはなく∵畢校の過客上不便であらう・と考ぺるが、とれも以前陀は由る 関越でないのであるq 葡﹁つ考へて置かねぼならぬ事は、瞳畔よりない魔は重に浪潤鞄のヰケに申したが、夫は濾潤鞄許りの現象で 讃岐忙於ける散居村落の研究 三五五

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二言六 高松高等商業拳校開校十周年記念論文集 はない。乾燥な地方でも此の現象のある虚があるのである。何度も例に出るが、夫の綾歌郡萱原の平地の如き是 である。此度は近時水利の出奔た魔で土地としては高燥な魔であり、乾燥地であり、道路などの関係はなくても 自由に住宅を営み得る土地柄である。然るに現今此の平地内には民屋は鰯二軒も出来てゐない。讃岐としては資 に珍らしい景観を呈してゐるのである。而して此の平地は條里の確かれた魔でないので、常時に出来たやう凝立 派な溝尭畦畔は造られてゐない。眞に人間の通行には適しない程度の畦畔があるだけである。して見ると住宅の 連署と此瞳畔とは何等かの紺係を有してゐるやうに考へられ、畦畔ぽかⅧの藍には散居は敬達しないと云ふ革資 を裏書するやうに考へられるのである。 斯る弼由に掛り、自分は債里制の資施された地方では、殊に地積の廉い苓地では、住民は最初條里の山割に密 集宋音を形成したものが、次第に自己の耕作上好都合の場所を選んで共慶に移住するやうになり、遮に現今の如 き散居を呈するやうになつたのであろうと考へるのである。現に各平野に散居してゐる戌屋について開いて見る と、固より相箇の懲豪もあるけれども、罪比較的近時に於て移住した家屋も少くないのである。而して其の住宅は 何れも催里制の遺跡である大小道路岐時に接Lて塵設され、一輝に山軒か二軒舵の割合で其の二剖の一隅又は其 の近くに建設されてゐるので、殊に望を甚劃する道路に沼ふて壌設されたものが多い。其の二割の全く中央に建 設されてゐるものは趣く稀である。即ち道路と全く無銘係に逮設されてゐるものは殆どないのである。此等はど 乙にでも其の例を見ることが出来るが、高松逸では林村の下村、太田村並に端岡辟の東南などに於て立沢に之を

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観ることが出来るのである。 讃岐の散居の原因に就いては多年熟考して居りながら、新寄驚をも蔑見しないのは遺憾であるが、野望別蓮の 程々の原因が相加って即ち前蓮諸原因の飽和で、其の現象を呈するに至ったものであることは零茸であるが、蔚 岐閣内の散居の場朗と然らざる場所とを比較した結果、自分にどうしても讃岐の散居の山大原因は僕達別に信 一 し、此の條里によつて道路の立淡なのが四方に通じてゐると云ふことが盈な原因をなしてゐると、考へるやうに なつたのであるァ他の地方の散居の原因に就いては、自分は断言することは出来ないのであるが、讃岐に於ける 散居の仙大原因は少くとも條里に因るよい道路の存在に辟困するものと申したいのである。 最後に現今郡市に於ける民屋建設の状態を観ても、道路が兜づ出来上り、而して後に人家が塵てられるのであ ることば凰々目撃する虚である。斯る桝は何虚にでも観ることが椚来る魔で、現に高松市の如き比較的小さい郡 ′ 帝に於てゞも此の例を親、市の西郊高冷高尚官舎所在地附近は従来実はしい田園地で、官舎以外には飴り民屋を 見ない虞であつたが、最近郡市計塞とでも申すべきか、市の住宅地匠となり、田園地を区制し新に道路を四方に 敷設したので、見るく住宅の建設を見、今ではやがて立派な市術地となるの傾向を示してゐるのである。之れ を朋る時讃岐の如きは條選別資魔以来既に千有飴年の久しき、條里忙よつて観申に立派な道路割が建設されたの であるから、最初は其の山剖乃至一割を定めて密集部落として民屋が建訟されたにせよ、年と共に住民は思払恩 払に便利の地を選定、既に建設されたる道路に沼ひて住宅を新設、途に現今の如き珍らしい散居の現象を量する 讃岐に於ける散居村落の研究

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原因たる傍謹ではなかろうかと思ふのである。

三五八

高松最等商幾螢校開校十周年記念論文集

に至ったものセあることが愈々額づかれ、此の調子で進んだならば讃岐の地は其の全部が仙大市層化するのでは

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