近代 日本 にお ける植民地体育政策 の研究
(第
3報
)一帝政への移行 と日満 ファシズム体育体制 の強化―
保健体育教室
入
江
A Study of the Colonial Policy of Physical Education by the Pre‐
War
Japanese Authorities(Part 3)
一
A/1ovement from a]Dictatorship to lmperial Goverment and the Strengthening
of Ultranationalsm in Physical Educati6n in Japan and WIanchukuo―
Katsumi IRIE*
は じめ に 1934年 に執制か ら帝政へ と移行す ることによって 日満の癒着 とファシズム体制が強化 され るとと もに,そ
れに呼応 して満州体育連盟 を中心 とす るスポーツ組織 のファッシ ョ的再編 と,例
えば東亜 競技大会 に象徴 されるように,日
本 のイエ シアチブによるスポーツ・ イヴェン トを介在 させた東亜 スポーツ文化圏の拡大 。強化が画策 されてい く。 また,満
州国における治外法権撤廃 と行政権 の委 譲 にともなう植民地教育 な らびに体育政策機構・ 制度の改編 を通 して 日満国民精神・体力総動員体 制が強化 されてい くことにな るが,こ
のだヽ論で は,主
として帝政期 の1940(昭
和15
康徳7)年
ま での日満スポーツ体制 を対象 に以下 の点 を明 らかにしたい。 但)執
政か ら帝政への移行 と薄儀 の訪 日による日満 ファシズム体制の強化 の過程 鬱)新
体制下 における体育・ スポーツ政策 とその理念0)大
満州帝国体育連盟 。日本 におけるファシズム体育体制 と満州国の植民地体育政策 の癒着 と強 化 の過程(4)日
満 ファシズム体制 によるスポーツ・ イヴェン トの展開 と日満国民精神 。体力総動員体制強化 の過程1.帝
政 の 実 施 と薄 儀 の 訪 日(1)執
政か ら帝政へ 1932(昭和7)年
の5・ 15事件 により犬養内閣が倒れ,代
わって斉藤実内閣が登場す る。外務大臣 に内田康哉,陸
軍大臣には荒木貞夫が留任 したが,荒
木や柳川平助陸軍次官,真
崎甚二郎参謀次長入江克己 :近代 日本における植民地体育政策の研究 (第3報) 等 は
,国
体明徴派であ り,関
東軍 (小磯 国昭参謀長,後
首相)と
ともに満州国における帝政への移 行 を画策 していた。 また満州 においては協和会奉天支部が1934(日召和9大
同3)年
1月18日,帝
政促進市民大会 を実 施 し,執
政の皇帝推戴 を決議 しているが,そ
の他 の地 区で も皇帝推戴 の国民運動が展開 されていつ た。 こうして1934(康
徳元)年
1月20日,鄭
孝腎等 は国務院大会議室で「新国是決定皇極奏請」の会 議 を開 き,建
国2周年記念 日である 3月 1日 に即位式 を実施 し,君
主政体 の樹立 を決議 したのであ る。 そして1934年 3月 1日,新
京 において即位式 を実施するとともに,式
後,即
位詔書 によ り帝政 実施 を布告 しているが,そ
の即位詔書 は,「天命 を敬承せ さらんや,其
大同三年二月一 日を以て皇帝 の位 に即 き,改
めて大同の年号 を康徳 となし,"ほ
満州の国号 を用 ゆ,世
難未だ文 きず,何
そ敢て 荀安せん。有 らゆる守国の遠図,経
邦 の長策 は常 に日本帝国 と協力,同心以 て永固を期すへ し(1也と , 満州国の将来的な発展 は日本 との提携 の強化以外 にはない と唱 っている。 また同月 5日,薄
儀 は,張
軍政部大臣に軍人勅諭 を下賜する一方,帝
政実施 とともに満州国 は, 3月 2日 付 けで 日本政府 に帝政実施 を通告 し,日
本政府 は,菱
刈特命全権大使名 をもって同 日付 け で承認 している。 こうして帝政実施 にともなって1932年の政府組織法 は廃止 され,新
たに組織法が 公布 された。 同組織法 は,「第一章 皇帝 第二章 参議府 第二章 立法院 第 四章 国務 院 第五章 法 院」 にわたって規定 しているが,例
えば「第一章 皇帝Jで
は「第一条 満州帝国 は皇帝之 を統治 す 帝位 の継承 は別 に定むる所 に依 る 第二条 皇帝の尊厳 は侵 さるることな し 第二条 皇帝 長 そうらん 国の元首 にして統治権 を総績 し,本
法の条規 に依 り之 を行ふ……第十条 皇帝 は戦 を宣 し,和
を轄 し,及
条約 を締結す 第十一条 皇帝 は陸海空軍 を統率す②」ること等 を定 めているが,これ も明治 憲法 と酷似するものであった。12)薄
儀の訪 日と回蟹訓民詔書 ところで帝政実施 を慶祝す るために,秩
父宮が渡満 している。満州国 は,1934年
4月,鄭
孝吾国 務総理 と熙沿宮内府大臣を帝政実施報告の特使 として 日本 に派遣 し,翌
1935(昭
和10
康徳2)年
4月,秩
父宮の渡満 に対す る答礼 として薄儀が訪 日しているが,薄
儀 は4月 2日,大
連か ら日本側 の軍艦比叡で同 6日 に横浜 に入港 し,午
前11時 30分に東京駅 に到着。同4月23日に神戸 を離れてい 資料-1
薄儀の皇帝即位式 と訪 日 資料-2
満州国皇帝奉迎運動会 (上)1934年3月 1日,皇 帝即位 に際 し郊祭の儀に臨む薄儀 (左)1935年,訪日時の薄儀 と昭 和天皇 *山 室仲一『キメラー満州国の 肖像』(中央公論社 1993年)に よる *『体育 と競技』(昭和10年5月号) による鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 36巻 第
2号
(1994) る。 その際に薄儀 を歓迎す る運動会が明治神宮競技場で開催 されている (資料-1参
照)。 この薄儀 の訪 日について『満州建国十年史』は,「第一 に康徳元年二月御挙行あそばされた登極 の 大典慶祝 に就 き,日
本,皇
室 より御名代秩父宮殿下 を御差遣遊 ぱされたに対する御答礼 の為 めであ り,ま
た第二 には我が国建国以来,終
始一貫,不
易 の熱意 を以て理想国家建設の大業 を支持 して き た日本 の彼義 と援助 に対 して,皇
室 を始 め奉 り,全
国民 に感謝 あ らせ らるるの思召 しに出で させ ら れた ものである。又第二 には,畏
くも御窮 ら日満親善 の範 を垂れ させ給 い,御
抱懐 あそばさるる御 理想 を御翔 ら自ら示 させ給 うことにあった」のであ り,「此の第一回の御訪 日は,日
満両国の歴史 に 新 しき生命 を注入 した もの として,両
国の歴史 に一心時期 を画す る大事件であつた と同時 に,畏
く も皇帝陛下 に於かせ られて は,こ
れに依 つて 日本皇室の御情誼 と御仁徳 とに深 く感激 あそばされ, 日本興国の由来 と現実 とを患々深 く御賢察 あ らせ られたk3J」 と記 している。 しゆうぼくれんかん そして康徳2年
5月 2日,「朕 登極 よ り以来,…
…嘉か ら日本皇室 を訪ひ,修
睦連歓以て績慕 を 伸へん ことを思ぶ,今
次東渡宿願 を克 く遂 く,日
本皇室懇切相待 ち備 さに優隆を極 め,其
臣民熱誠 迎送亦礼敬 を卵掲せ さるな し,…
…我国建国 より以て今姦 に逮ふ まて皆友邦の伎義尽力 に頼 り,以
て盃基 を貧 めた り,…
…朕 日本天皇陛下 と精神一体 の如 し,爾
衆庶等更 に当に仰 いて此の意 を体 し,友
邦 と一徳一心以 て両国永久 の基礎 を貧定 し,東
方道徳 の真義 を発場孝べ し,則
智大局 の翻託売 人類 の福祉必す致すへ きな り,凡
そ我か臣民務 めて朕か 旨に遵 ひ,以
て万藤 に垂れ よω」とす る回量(=帰
国)訓
民詔書が澳発 され,こ
の詔書の澳発 をもって「訪 日宣詔記念 日」とされたが,『満州建 国十年史』 は,次
のように記録 している。 「満州国の文教 の最初 の出立点 は,皇
帝陛下の訪 日宣詔 の日に在 りとす るを以て正当な りとすべ き である。即 ち康徳二年五月二 日である。此 の時 を以て満州国の教育の根本精神が明 らか にされ たの であ り,此の時 よりして満州国の教育 は鮮かなる建 国精神 の下 に躍動す るに至 った ものである。…… 訪 日宣詔 の意義 は日満一徳一心の間明である。 それ は単なる理 の宣言で はな くして,皇
帝陛下が親 し く日本皇帝 を訪ひたまひ,そ
の温か き根本 生命 に感触 したまうたのである。即 ち満州国文教 の出立点 は日本 の国家の中心たる皇室 に流れ るる 悠久無限 にして暖か き根本生命の感触 にあ りと言わねばな らぬ。斯か る意味 に於て満州国の文教 の 出立点 は生命 に満 ちたるものである。 “L
13)「
満州帝国協和会の根本精神」 また,1986(昭
和11康
徳3)年
9月18日の満州国建 国記念式 において植田関東軍司令官,張
景恵 等が出席 して「満州帝国協和会の根本精神」(いわゆる植 田―関東軍司令官―声明)が
発表 された。 この声明 は,協
和会が国家機構 として「建国精神 の普及 と国民訓練 のための唯一の思想的,教
化的, 政治的実践団体であ り,政
府 に従属せず,ま
た対立せず,政
府 の精神的母胎であるとして,そ
の政 治的′性格 を明 らかにした。)」 ものであるが,具
体 的には,次
のように述べている。 「―,満
州帝国の政治の特質 ひん なら 満州国の政治 は民主主義的議会政治の写 に傲 はす,専
制政治の弊 に陥 らす,民
族協和 し,正
し き民意 を反映せ る官民一途の独創的王道政治 を実現す 二,協
和会創立 の意義 協和会 は満州建 国 と共 に生れ,国
家機構 として定 めたる団体 にして建国精神 を無窮 に護持 し, 国民 を訓練 し,其
の理想 を実現すべ き唯― の思想的,教
化的,政
治的実践組織体 な り。実践 し て偏 す ることな く,結
合 して私す るなし入江克己 :近代 日本における植民地体育政策の研究 (第3報) 三
,満
州国政府 と協和会 との関係 建 国精神 の神髄 は協和会 の体得すべ き唯一絶対 の物 な り,建
国精神 の政治的発動,顕
現 は満州 国政府 に拠 り,其
の思想的,教
化的,政
治的実践 は協和会 に拠 るへ く民意の暢 達,之
に依 りて 期すへ し,従
って協和会 は政府の従属機関 に非す,対
立機関 に非す,政
府の精神的母胎 な り, 政府 は建 国精神,即
ち協和会精神 の上 に構成せ られたる機関 にして,其
官吏 は協和会精神 の最 高熱烈なる体得者 たるへ きものな り 真 の協和会員か政府 に入 り,又
は野 にあ りて政治,経
済 を指導 し,思
想 を善導 し,建
国精神 を 以 て動員 を完成す る時,王
道政治の実現 は期待せ らるへ し。L
この植 田声明がい う「工道政治」とは,「八紘一宇」を意味す るものにほかな らず,満
州国 と一般 民衆の民意 を媒介 し,か
つ世界制覇 を画策す る半官半民的な組織 として協和会の大衆化路線 を改 め て強調 した ものであるが,こ
の声明 は,単
に満州国内に とどまらず, 2・26事件以後 の軍部,な
か んず く陸軍 による政党内閣制 を否定する専制独裁 イデオロギー として影響 を与 えることになる。2.満
州 体 育 連 盟 の再 編 と 日満 フ ァ シ ズ ム体 育 体 制 の 強 化(1)大
満州帝国体育連盟の設立 帝政実施か ら新学制実施 までにおける体育政策 の顕著 な例 は,大
満州体育連盟,満
州国武道会 の 設立であろう。帝政実施 を記念する「満州国帝政実施慶祝大運動会」が1934(昭
和9
康徳元)年
6月 に実施 され るとともに, 9月
には,第
3回
満州国体育大会が南嶺 に新設 された国立総合 グラウ ン ド(1933年に工事 に着手,1936年
に第1期工事終了)で,グ
ラウン ド開 きをかねて実施 されている。 大会 には,8団
体700名が参加 し,選
手権種 目として新 たに男子ハ ン ドボール,男
女卓球,選
手権 外種 目として野球,拉
式足球 (ラグビー)カ ウロえられ,陸
上で は14の大会新 と13の満州国新記録が 出た とい う。 そして第1回
日満建国大運動会 の実施 とともに設立 された満州国体育協会 は,帝
政へ の移行 と同時 に設立 された「大満州帝国体育連盟」 に再編 された。 その理由は次の点 にあった。 すなわち(D国 際オ リンピックな らびに極東大会参加 問題 の経緯か ら,純
然たる運動競技団体 の国 家統制機関の確立が必要 とされた こと。(2)運動競技 の急速 な発達 によって,種
目別 による指導,普
及体制 を強化 しなければな らなかったこと。●)学校体育 の重要性 に対 して体育行政組織 の整備 。拡 充が必要 とされ,広
範囲な分野 にわたる体育 の執行機関であった旧協会 の性格 を改 め,行
政機構 に おいて直接執行す る領域 を明確 にすべ き必要 に追 られたことである。 その理念 は,究
極的 には体育・ スポーツ組織 の国家的統制,建
国精神・ 民族協和 。一億一心 とい う精ネ申的土壌,さ
らには人的資源体制 の強化 に収敷 させ ることにほかな らなかった。 「建国元年四月,大
同アジヤの黎明を祝福 して民族協和 の大理想 の下 に開催せ る建 国記念第一 回大 運動会 と共 に,本
連盟の母体満州国体育協会 を創設 し,爾
来国内治安工作の進展 に伴 ひ,漸
次地方 的に体育運動の普及 を見 るに至 り,陸
上競技,足
球,蜜
球,排
球 に吾々著 しき発達 を見,大
同元年 より短 日月 に整備 しつつある我国運 とスポーツの進歩が将 に正比例せ るを立証す るに充分 なるもの がある。 康徳元年七月,新
年度活動方針の樹立 に際 し,体
協 の組織,機
能 と国内運動競技団体 の現況 に鑑 み組織 を改変 し,即
ち従来の体協本部並支部 の単一的組織 を拡大 して各種運動競技別協会 に依 る有 機的練盟組織 とし,地方事務局 との円滑なる連絡 に依 って全国運動競技団体 の合理的統制機関 とし, 逐次修正 を加へ,現
在 に及備 した次第である。……鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第36巻 第
2号 (1994) 291
越へて作年十二月,従
来 日本帝国が現 に我国に於て有す る一切 の治外法権 を完全撤廃 し,南
満州 鉄道付属地行政権 を全面的 に移譲す るに因 り,我
が体育運動団体 に於 て も其の国策 の根本趣 旨に基 き,両
国間に於 ける運動競技者統制 に関す る協定 を結 び,従
来満州 に於 ける三元的統制 を渾然一体 とし,満
州国内に居住す る日本人競技者 も名実共 に民族協和 の本質 に従 ひ,而
して一億一心,不
可 分関係 にある両国体育運動 を一層密接 にす ると共 に,両
国の並行的向上 を期す ることとなったので ある。 抑々運動競技 の健全 なる発展が其の組織 の運営如何 にある事 は之れ を列国に徴 し,明なることで, 我満州国が世界列強 に対 し新興国の正義 を認識せ しめ,東
亜永遠 の平和 を誠すべ く,こ
れが礎石 と もなるべ き人的資源,即
ち体育運動 によ り剛健 なる身体 を鍛練 し,建
国精神 を鼓吹 し,国
民の資質 を向上 し,初
期 の目的達成 に邁進 している現況である。OL
資料-3
大満州帝国体育連盟組織図 天 省 事 務 局 天 市 事 務 局 林 省 事 務 局 江 省 事 務 局 河 省 事 務 局 ︱ ︱ 興 安 束 省 事 務 局 興 安 四 省 事 務 局 安 南 省 小 務 局 省 事 務 局 市 事 務 局 州 省 事 務 局 束 省 事 務 局 ︱ 十 三 江 省 事 務 局 化 省 事 務 局 ︱ ︱ 牡 丹 江 省 事 務 局 山 市 事 務 局 順 市 事 務 局 ︵各 協 會 支 部 ︶ ︵令 縣 胆 育 曾 ︱ ︱ 各 協 含 支 部 ︶ ︵各 協 含 支 部 ︶ ︵各 縣 腱 育 含 ︱ ︱ 各 協 含 支 部 ︶ ︵各 縣 俺 育 會 ︱ ︱ 各 協 含 支 部 ︶ ︵各 縣 他 育 曾 ︱ ︱ 各 協 含 支 部 ︶ ︵各 縣 腱 育 會 ︱ ︱ 各 協 會 支 部 ︶ ︵各 縣 麓 育 會 ︱ ︱ 各 協 會 支 部 ︶ ︵各 縣 腱 育 會 ︱ ︱ 各 助 會 支 部 ︶ ︵各 縣 脱 育 含 ︱ ︱ 各 協 脅 支 部 ︶ ︵各 助 會 支 部 ︶ ︵各 縣 腱 育 含 ︱ ︱ 各 協 會 支 部 ︶ ︵各 縣 脱 育 會 ︱ ︱ 各 協 會 支 部 ︶ ︵各 縣 俺 育 會 ︱ ︱ 各 協 含 支 部 ︶ ︵ 各 縣 虚 育 會 ︱ ︱ 各 協 會 文 部 ︶ ︵各 縣 捜 育 會 ︱ ︱ 各 協 會 支 部 ︶ ︵各 縣 慢 育 含 ︱ ︱ 各 協 會 支 部 ︶ ︵ 各 縣 證 育 會 ︱ ︱ 各 協 會 支 部 ︶ ︵ 各 協 含 支 部 ︶ ︵ 各 協 含 支 部 ︶ 演 江 省 事 務 局 問 勝 省 事 務 局 ︵各 縣 也 育 命 ︱ ︱ 各 協 曾 支 部 ︶ 河 省 事 務 局 満 洲 帝 図 足 球 協 蒲 洲 希 図 水 泳 協 滞 洲 帯 函 野 球 協 蒲 淵 希 囲 籠 球 協 蒲 洲 帯 図 排 球 協 曾 ︱ ︱ 満 淵 希 図 卓 球 協 溝 洲 希 図 腱 操 腸 *満州国民生部 F満州国体育行政概要 上J(225ページ)による入江克己 :近代 日本 における植民地体育政策の研究 (第3報) そして「指導精神及特質」 として次のように唱っている。 「本連盟 は建国の根本理想 の下 に建国精神 の涵養 と体育運動 を通 じて民族協和 の実 を挙 ぐると共に, 国民体力の向上 と健全 なる運動競技 の普及
,発
達 を図 り,以
て全国体育運動団体 の統制,指
導 は勿 論であるが,其
の目的の期す る処 は満州国の国情並 に気候,風
土 を考慮 し,満
州国の将来 を背負ぶ べ き青少年を中心 とし,精
神,肉
体両方面 よ りして奨励 すべ き運動競技 に重点 を置 くと共 に,一
方 民衆体育 の徹底,普
及 に特 に心懸 け,之
が具体的方法 として建国体操 を制定 し,学
校 に対 しては文 教部 に於 て訓令 を以て之が普及 を企図 し,本
連盟 は之が社会一般 に対 す る普及 に努 め,更
に康徳三 年 よ りは建国記念 日,訪
日宣詔記念 日,(満
州 筆者注)事
変記念 日を以 て建 国体操 日と定 め,本
体 操 の全国的実施 に依 り其 の普及 を期する と共 に,本
記念 日の意義 を永遠 に銘記す る事 にせ り。 更 に本連盟 の運動競技 に対 す る指導 目標 は前述せるが如 く,国
民 の体力 向上 と民族協和 の重大使 命 を持つ関係上,国
民性 に立脚せ る,即
ち大衆的スポーツを中心 に各競技の虹行的発違 を期 し,建
国以来専 ら連盟組織 の内容充実 を計 った次第である。●L
この大満州体育連盟 の組織 は (資料-3)の
ようになっている。同連盟 は,以
上 のような設立精 神・特質等 を要約 し,そ
の目的 について「本連盟 は全国体育運動 を統制 し,国
民体力の向上 と健全 なる運動競技 の普及,発
達 を図 り,以
て国民精神 を作興 し,其
の資質 を向上せ しむ る共 に,民
族融 和 の実 を挙 ぐる。る ことであると規定 している。 同連盟規約 によれば,名
誉総裁 を国務総理大臣をあて,総
裁 には民生部大臣,理
事長 には民生部 次長が就任す ることになっている。 また,そ
の事業 として次 のような活動 を行 なうとしている。 「一,政
府,其
の他公私機関 に対 し体育運動 に関する意見 の提出 ―,運
動競技諸施設 に関す る意見の提出 ―,満
州帝国体育大会 の開催 ―,建
国記念大運動会 の開催 ―,国
際競技会 の開催 ―,各
種運動競技規則 の統制 ―,運
動競技 に関す る講演会,講
習会,映
画会,巡
回指導の実施 ―,機
関誌 『満州体育』 の発行遊 に其他刊行物の出版 ―,其
他本連盟 の目的遂行 の上必要 なる一切 の事業12)満
州帝国武道会の創設 康徳元年 3月,名
誉会長 を国務総理,会
長 を民生部大臣 とする「満州帝国武道会」が設立 された が,同
会の設立 にいたる経緯 について「本会 は満州帝国建 国 と共 に,満
州国中央官署 の同好 の有志 にて設立せ られ,単
なる新京 のみの行事 を行 ひ,其
の名称 を満州国柔道会,満
州国剣道部 と称せ り。 康徳元年二月,噴
古の御大典 を 卜し,御
大典記念全満武道大会 を開催 し,天
覧 を奉迎,以
て祝意 の微衷 を表 し,合
て全満的行事 となし,本
会 を満州帝国武道会 と改名せ り。 満州国武道会 は満州国の立場 よ り純粋 日本武道 を民族岐視 の見 を去 り,広
く武道精励 の士 を糾合 し,一
は之て報本反始,義
勇公 の精神 を養ひ,一
は以て質実剛健 の士風 と熱烈真摯 なる武技の錬磨 と振作 を目的 として結成せ られてよ り年々内容遊事業 は拡大せ られ,…
…全満各主要都市 に十五個 所 (新京特別市,奉
天市,ハ
ル ピン市,吉
林市,チ
チハル市,安
東市,撫
順市,鞍
山市,錦
州市, 遼陽市,仕
丹江市等のほか,間
島省,通
化省,熱
河省,興
安東省,興
安南省等の各省,康
徳5年
に は,主
要都市の25に拡大す る 筆者注)に
支部 を設置 し,全
満武道関係団体 の一元的統制 と武道の鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 36巻 第
2号
(1994) 宣揚 を図 り,以
て国民品性の陶冶 と民族協和 の実 を亜 げ,我
国創建 の大理想徹底 に重要 なる貢献 を 為 しつつあ り。)」 としている。 そして,
この武道会 その設立趣 旨について,こ
う述べている。 「盟邦 日本帝国の使義援助 により,不
朽 の大業 を開 きて盤石 の国基 を箕定せ る我が満州国 は,盟
訪 と咸有一徳 を以て建 国精神 となすべ きは言 を倹たず,恭
し く惟 るに盟邦固有の武道 は,実
に智仁勇 の三者 を以て体 とな し,惟
れ誠,惟
れ義,身
を捨てて道 に殉ずるを以て用 とな し,神
祖,肇
国 よ り 薮 に三千年,国
威 の成々 として八紘 に光被す る一 に斯道の発揚 に之れ由 らずんばあ らず, 我邦 の盟邦 と咸有一徳 を以て建 国の精神 となす,亦
洵 に日本武道の錬磨 と体得 とを棄 てて他 に合 契醇化 の問あるな し。是れ本会 を創立せ る所以 にして,吾
人 は本主 旨の宣明す る所鳴轟篠邁進 し, こう ぼ 東方武道の精華が必ず治国平天下 の鴻譲 に貢献 す ることを確信す ると共 に,挙国の士 翁 然 として質 成せ らるることを疑 はざるもの也。0」 この主 旨は,規
定 において「本会 は満州国の立場 より純粋 日本武道 を民族岐視 の見 を去 り,広
く 武道精励 の士 を糾合 し,一
は以て報本反始,義
勇奉公 の精神 を養ひ,一
は以て質実剛健 の士風 と熱 烈真摯なる武技 の錬磨 を振作す るを以て 目的 とす0」 と表現 されているが,要
するに「満州国の立場 か ら純粋 日本武道 を民族岐視 の見 を去 り,広
く武道精励 の士 を糾合 して,義
勇公 の精神 を養ひ,且
つ,質 実剛健 の士風 と,熱 烈真摯 なる武技 の錬磨 と振作 とを目的(8Ъとした ものにほかな らなかった。 またその「事業」 として「―,大
典記念全満武道大会 の開催 (毎年秋)
二,訪
日宣詔記念武道 大会 の開催 三,全
満中等学校武道大会 の開催 四,其
の他対外試合の開催 (日本学生連盟,東
京 各大学 との対抗試合等)五
,各
武道審判規定の統制 六,其
の他武道の普及,発
達 に関す る一切 の事項。ちが挙 げられてお り,1937(昭
和12康
徳4)年
12月 1日 の治外法権 の撤廃等 に ともなって, それ まで独 自の位置 にあった満鉄付属地 内の武道関係者 も同会 に加盟 している。 この武道会 の創設 をきっか として各種 の武道大会が開催 されるようになる。つ ま り同会 の設立 と 同月に全満武道大会(以後,皇
帝の出席 を求 めて毎年10月に満州最大の武道大会 にな る),同月10日, 全満南北対抗武道大会, 6月
に全満中等学校武道大会, 8月
には満 。日学生対抗武道大会,10月
に は全満青年学校武道大会,さ
らに11月には全満大学・ 高専武道大会が開催 されてお り,後
の康徳7 年 には新京 に中央の道場 として神武殿が建設 されることになる。 その参加規模 はどのようなものであったのか。例 えば,1939(昭
和14康
徳6)年
の「大典記念全 満武道大会」 についてみると,柔
・ 剣・ 弓道 に参加 団体141団体,総
勢1,500人に達 している。 また 1938(昭和13康
徳5)年
9月18日に開催 された全満都市対抗角道 け目撲)大
会 をきっか けに,従
来 の満州相撲連盟 を改 め,全
満角道会 として再編 し,1940(康
徳7)年
11月には満州帝国武道会角道 部 として吸収 されている。13)満
州体育保健協会の設立 これ らの組織 とともに,1938(康
徳5)年
4月,満
州体育保健協会が創設 されてい るが,こ
の協 会の設立 に も満鉄が深 くかかわっている。 その経緯 は,次
のようなものであった。 「本 日姦 に『満州体育保健協会』創立総会 の開会 に方 り,些
か設立委員会の経過 と計画の大要 を述 べて報告芳々各位 のご了承 を願わん とす,惟
うに本協会設立 の動機 は,本
年四月一 日創業二十周年 に相当せ る満鉄会社 に於て,之
が記念事業 の一 として,満
州 の主要都市 に体育館 を建設せん との議 起 りたるが,一
方満州国に於て も,官
民有力者間に体育館 の設立 を熱望 しあ りし処,偶
治外法権撤 廃の記念事業 として之が建設資金 を上出せん とす る意向あ りたるにより,関
係者協議 の上,具
体的 計画 を樹つ る気運 に進みた り。入江克己:近代 日本 にお ける植民地体育政策 の研究 (第3報) 姦 に於て昭和十一年十二月二十三 日
,日
満軍人会館 に於て第一回懇談会 を開 きたるが,満
州国政 府虹満鉄 を首 め,関
東軍,大
使館,関
東局,協
和会 の関係者十七名 の参会者 あ り,席
上 中西満鉄理 事 よ り懇談会開催趣 旨について説明 あ りたる後,参
会者 よ り体育館建設のために『満州体育保健協 会』 の設立す る必要 を認 め,こ
れが基金の処理,体
育館の建設方針及経営方法等 につ き種々懇談い た したるが,爾
後 の具体的計画立案 のために先ず 『設立委員会』 を設置す ることにな り,委
員十八 名,幹
事十三名 の委嘱 をみた り(委員長 今村関東軍参謀副長 筆者注)。 爾来,幹
事会 を開催す る こと前後二回に亘 り,慎
重審議 を重ねたる結果,去
る(康徳4年 筆者注)二
月五 日の協議会 を最後 に大要次のごとき決議案 を作成す。(10」 そして,そ
の「本協会設立の根本 に関す る件」で基本的な方針 を明 らかにしている。 「第一 協会 は将来満州 に於 ける社会体育 の中心機関たるの目的 を以て,先
づ体育館 を設立す るも の とす` 第二 体育科 の捨導 は精神的訓練 を中心 として
,国
民体位 の向上 と健康 の増進 とを図 るの方針 に 拠 るもの とす 第二 体育館 は一年 を通 じて運動 を為 し得 る様 に施設 し,特
に満州の自然的環境 に鑑 み,冬
季運 動施設の欠陥 を補ふ ことを方針 とす 第四 単なる一部選手の利用 に堕せず,一
般 の利用 と之 に依 る国民の保健増進 を主眼 とし,適
切 なる指導,施
設 を為す もの とす(1lL また「施設内容 に関する方針」で は,「イ,民
族協和 の精神 に基づ き各民族の利用 に就 き充分の考 慮 を払ぶ こと 口,選
手養成 を目標 とせざること ハ,青
年層 にのみ偏す ることな く,幼
児域婦女 子 をも対象 とす ること 二,経
営上 の考慮 を忘れざること……へ,戸
外運動奨励 の趣 旨に反せ ざる 様,其
の施設 に考慮す ること。2も と述べ,さ
らに「体育館建築計画内容二関スル件」で は,体
育館 の施設・ 内容 に関 しての基本的な考 え方 を提示 している。 「体育館 の施設内容 に就ては,…
…柔剣道の道場 を始 め,屋
内プール・各種競技場 。相撲場,児
童 遊戯場 。レン トゲ ン室,検
査室 。その他 を有 す る外,附
設 としてカパー ト,ス
ケー トリンク・ 弓道 場 。テニスコー ト等 を施設す る方針 にて,特
に奉天 には体育研究室 を設置 し,満
州医科大学 と連繋 を取 りて体育衛生の進歩,向
上 を図 る方針 な り。更 に之が経営,運
用 に関 しては充分利用価値 を高 むる方法 を講ず る外,各
館 には指導員 を配 して精神的訓練 を中心 に各種体育 の指導 は勿論,館
内の 規律,衛
生等 に至 る迄高遺憾 な きを期す る方針 とす。(13Ъ 満州体育保健協会 は,そ
の設立 の趣 旨によ り,第
1期
計画 として奉天,ハ
ル ピン,新
京,大
連, チチハル,撫
順,仕
丹江の7都
市 を指定 し,各
地 に体育館設置 の実行委員会 を設 けてい る。14)極
東体育協会か ら東洋体育協会への再編 第10回極東大会終了後,極
東選手権大会 (東洋オ リンピック)は ,満
州国を参加 させ ようとす る 日本 の策略によって1934(昭
和9
康徳元)年
の10回大会 をもって崩壊す るとともに,極
東体育協 会 は解体 し,日
本主導の東洋体育協会へ と再編 されてい くが,そ
れ は,明
らかに満州国 をわが国の ファシズム・ スポーツ体制 に取 り込 む ことと,国
際的な認知 に向けての新 たな謀略で もあった。大 会期間中に開催 された最後の極東体育協会 の定期総会 において満州国の参加 に対 し絶対反対 として 中国が退場 した 5月19日の翌 日,大
日本体育協会 とフィリピン体育協会,さ
らにマニ ラ在住 の木村 総領事が加わって,極
東大会 の解散 に関する声明 を発表す ることと同時に,日
本,フ
ィ リピンにカロ えて満州,中
国,イ
ン ド,仏
印,蘭
印,マ
レー を力日えた新 たな極東大会 を組織す ることが話 し合わ鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 36巻 第
2号
(1994) れた。 その結果,極
東体育協会 に代わつて東洋体育協会が設立 され,1938(昭
和13
康徳5)年
に東京 で第1回大会 の開催が決定 された。康徳元年10月 10日,大
満州体育連盟 は,東
洋体育協会 の会長平 沼亮三宛 に対 して正式 に力日盟手続 きを行ない,こ
こに「満州国体育界 の国際的進出の第一歩 を印 し た。0」 ものの,こ
の大会 は,皮
肉に も前年 に自ら火 をつ けたた日中戦争 によって中止 を余儀 な くさ れ ることになる。 そ して,同
年の12月14日に東京 において第2回
加盟国総会 (第1回総会 は,マ
ニ ラの設立総会)が
開かれ,満
州国代表 として大満州体育連盟 の飯沢理事が出席 している。 また第3 回総会 は,康
徳2年
4月21日に東京会館で開催 されているが,満
州国代表 として久保 田完三が出席 し,そ
こでは,再
度東洋体育協会 として満州国のオ リンピック参加 をIOCに
要求すること,さ
ら に各国際競技連盟 に満州国のカロ盟 を促す推薦文 を送付する旨を要望 し,承
認 されている。 その結果,翌
康徳2年
8月31日∼ 9月 1日 にわたって開催 された日本,
ドイツ,ハ
ンガ リー,ス
イス,イ
タリアの5ケ国による国際陸上競技大会が行 なわれ る前 日の27日∼28日に国際陸連委員会 が開催 され,席
上,日
本代表の山本忠興が「満州国の国情 と建 国以来著 しい躍進 をなしつつある陸 上競技界 の実情 を示 して,そ
の加盟 を提案(15ろ し,1938(昭
和13
康徳5)年
2月,ロ
ン ドンにお ける国際陸連総会で満州国による加盟の意思表示がなされ,同
6年
4月 1日 にカロ盟手続 きを完了す るとともに,同
年 6月 には満州国の国際陸連へのカロ盟が仮承認 されている。 141 日・ 満体育連絡委員会の設置 この段階で注 目しなければな らない ことは,日
満 の体育・ スポーツの癒着が体制的に確認 された ことである。その一つ は,日
満体育連絡委員会 の設置である。1935(昭和10
康徳2)年
2月18日, 19日の両 日,満
州 における日本側 のスポーツ統括団体である満州体育協会 と大満州体育連盟当事者 との間に連絡委員会 を開催 し,満
州地 区におけるスポーツ統制問題 についての意見交換がなされ, 非公式で はあるが,次
のような事項が取 り決め られている。 「1
将来満州体育協会 と大満州体育連盟 を全面的に合同,編
成す ることを理想 とし,関
東州 をも ふ くめ,一
体 とした満州競技統制地区を形成す ること。2
これを実現 し,相
互 の提携,連
絡 を密 にす るために日満体育連絡委員会 を設置すること。3
これを内部的 に促進す るため満州 における日満選手 を包含す る大陸選手権 (陸上競技)大
会 を年1回開催す ること。4
東洋体育協会 に対 しては満州競技地区によ り加盟す ることを原則 とし,次
の連絡会議 には満 州国案 に関す る原案 を相互 に持 ち寄 り,東
洋体育協会 に統一案 を提出す ること。5
以上の原則 を実現す る一つの方法 として,各
満州居住民族が実施可能 な団体体操 を創出す る こと。(16)」15)日
・ 満運動競技者統制協定の締結 と東亜体育連盟の結成 こうした体制づ くりは,満
州 における治外法権撤廃,行
政権移譲 によって さらなる具体化へ と進 んでい く。 「治外法権撤廃,付
属地行政権 の移譲 に伴 い,体
育運動団体 において も国策 の根本趣 旨に基づ き, 日満両国間における運動競技者統制 に関す る協定 を結 び,従
来 の満州 における三元的統制 を渾然一 体 とし,日 満特殊 関係 に立 って体育運動方面 において も,満
州国の独立性 を強化す ることになった。 協定締結 にいたる経過 を略述すれば,康
徳四年八月,満
州国体育協会 と大満州帝国体育連盟 との意入江克己 :近代 日本における植民地体育政策の研究 (第3報) 見交換 を行ない
,九
月八 日,名
古屋 において開催 された日満米国際陸上競技会 に参加 を契機 として 連盟田中主事が上京 し,こ
の問題 について大 日本体育協会専務理事 卿隆氏,理
事末弘氏,其
の他 関係団体役員 との間 に非公式 に協定書交換 についての趣 旨,内
容 について協議 し,両
国が各々協定 書の草案 を作成 し,康
徳四年度内に協定書の交換 を約束 している。(1つ」 その後,同4年
10月 23日,大
連 において満州国体育協会側 の役員 と大満州体育連盟飯沢常務理事, 田中主事 との間で本協定書 の細 目についての意見交換が行 なわれ,11月
初旬 に開催 された明治神宮 体育大会 に際 して上京 した満州国体育協会理事村上国平が連盟代表 に委嘱 され,村
上 より大 日本体 育協会側 に説明 をす るとともに,大
日本体育協会 は,鈴
木武 に草案 を委嘱 している。 11月 21日に新京 において 日本側代表 の鈴木,関
東州側代表村上,満
州国側代表 の皆川豊治連盟理 事のほか常務理事等が出席 し,両
国の車案 を審議 し,最
終的な協定書の修正。 この草案 を大 日本体 育協会 に送付,了
承 を得,12月
28日,民
生部 において大 日本体育協会代表 の村上 と満州国体育連盟 代表の宮沢理事長 によって調印され,こ
こに東亜体育連盟が結成 されている。 この協定 によって満州国内における日本人運動競技者 は,民
族協和 の理念 にしたがって満州国運 動競技者 として諸々の大会 に参加す ることが可能 になったが,そ
れ は,ま
さに満州国が 日本 ファシ ズム体育体制 に収敷 されてい く途で もあった と言 える。何故 な らば,満
州国が,こ
の協定 により明 治神宮大会 に参加 を始 めた ことが,何
よ りも,そ
の ことを物語 っている。 また体協 は,日 米 スポーツ交換 も断絶 したため,「現下の世界秩序 に副ぶべ き運動競技会の新体制 確立 を目指 し,…
…内外 の社会情勢 を凝視 し」て,以
下の事項 について検討すべ きであるとしてい る。 すなわち「―,国
内体育運動体制 の一元的整備 を急速 に具体化 し,日
本運動競技会 の向ぶべ き方 途 を明瞭 にすべ きこと,二 ,運
動競技指導の国策理念 を確立 し,広
汎なる国民体育運動 となすべ き こと,特
に学校,軍
隊,郷
軍,そ
の他 を通 じ一貫せ る体力増強,保
持 を図 る具体 的施設 を研究す る こと,三,対
外関係 の基調 として東亜南洋関係 における民族的体育運動思想 を集中す るため,東
亜 体育連盟の結成 に着手すべ きとと,四 ,独
伊枢軸 との体育文化提携及び日満独伊 の交互開催 を考究 すること,五
,オ
リム ピック及び国際各競技連盟 に対す る革新的方策 を研究,提
唱 し,そ
の具体化 を図ること。9」 である。 (61 日満スポーツ・ イヴェン トの展開 ∼東亜競技大会の創設∼ こうした体育・ スポーツの国家的な体制下 を背景 に,ス
ポーツによる大衆 の教化運動 を繰 り広 げ るため,康
徳元年 には以下 のような各競技種 目日 (いわゆるスポーツ 。デー)が
設定 されている。 卓球 日1月
13日 バスケッ ト日4月
28日 バ レーボール 日5月
5日 ハ ン ドボール 日6月
2日 陸上競技 日6月
9日 野球 日6月
23日 馬術 日9月
16日 サ ッカー 日10月
7日 ラグビー 日11月
4日 スケー ト日12月
16日 また康徳元年6月■ 日,秩
父宮の訪満 にともなって新京西公園競技場 において陸上,サ
ッカー, ラグビーの種 日にわたって「秩父宮殿下奉迎競技会」が開催 されている。 さらに同年 8月 には都市 対抗サ ッカー競技大会が開始 され,以
後,定
期的に開催 され,1941(昭
和16
康徳8)年
には全種 目にわたる都市対抗競技大会へ と拡大 している。 翌2年
4月14日に明治神宮 において「 日満国交の歴史的盛儀 として,日
満官民 を挙 げて祝福せ る 皇帝陛下の御訪 日を記念 し,且
は極東大会参加問題以来 の一部 の誤れ る日満体育関係 を正すべ き儀鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 36巻 第
2号
(1994) 礼 をも兼ねて,大
日本体育協会 との間 に皇帝陛 下訪 日記念 日日満交歓競技会が成立(19」 し,開
催 されている。陸上,バ
スケ ッ ト,バ
レー,ス
ケー トの4種
目,監
督,選
手45名は,康
徳2年
3月25日に新京 を出発。東京で合宿 し,明
治神 宮での競技 を終 えて以降,17日
と18日は京都, 帰途 には21日長府,23日
には京城(現 ソウル) で,そ
れぞれ交歓試合 を行 なってい る。1936(昭
和11
康徳3)年
1月20日 には大満 州帝国スケー ト協会 の主催 の もとに吉林 の松花 江スケー ト場 において奉天省,吉
林省,北
満, 新京 の団体が参加 して第1回全満 スケー ト大会 が実施 されている。また康徳4年
3月16日には, 皇帝 の下賜金 によって設立 されたハル ピンの宣徳体育館 の開館 を記念 して「宣徳体育館開館記念排 籠球大会」が開催 され,新
京,奉
天,ハ
ル ピン,吉
林,黒
龍江が参加 し,バ
レー,バ
スケッ トでハ ル ピン代表が優勝 している。同年 6月 7日 に満州建国5周年,満
鉄創業30周年記念新京 。大連駅伝 資料-5
東亜競技大会 資料-4
日満交歓競技入場式 *『 体育 と競技』(昭和10年5月 号)による 百米競走決勝(一着吉岡選手) 縮裁秩父宮同妃両殿下御台臨 蒙古相撲土俵入 り 開 會 式(比島選手入場) *『 体育 と競技』(昭和15年7月号)による298
入江克己 :近代 日本における植民地体育政策の研究 (第3報) 大会が新京,大連,奉天等の参加 によって実施 され,1位
大 連, 2位
奉天, 3位
新京であった。 康徳4年
には,名
古屋で開催 された 日米国際陸上競技会 に 満州国代表 として3名が参加 し,同
年■月には新京で満華交 換バスケ ッ トボール大会が開催 されている。 その他,
日満の 癒着 を促進す るさまざまなスポーツ・ イヴェン トが開催 され ている。康徳元年 6月,日
本サ ッカー協会 と大満州国体育連 盟 との間 に隔年 ごとに相互が招待す るサ ッカー定期戦が成立 し,第
1回は,康
徳2年
7月 に日本代表 の早稲 田大学 と新京 で行 なわれ,第
3回は,1937(昭
和12康
徳4)年
9月,満
州 国が訪 日しているが,第
4回
大会以後 は,日
満総合交歓競技 会や明治神宮大会等への参加 によって廃止 されている。 さらに,1940(昭
和15
康徳7)年
6月 5日 か ら 9日 にか けて5日間,東
京(明治神宮外苑競技場)で ,ま
た 6月15日, 資料-7
東亜競技大会参加国および参加人員予定表 備考 「布畦」は「ハワイJ種目名は十日称とした。「送球」は「ハンドボールJ (編集部「前掲J 前掲誌 48ページによる) 串『体育と競技』(昭和15年6月号 46ペ ージ)イこよる 16日の 2日 間にわたって関西(会場 甲 子園,橿
原競技場,花
園 ラグ ビー場等) で皇期二千六百年奉祝事業 として「東 亜競技大会」(当初 は「興亜」と呼称 し ていた)が
開催 された。 参加国 は日,満
,華,蒙
古,フ
ィリ ピン,タ
イ,ハ
ワイ 開催種 目陸上競 技,サ
ッカー,野
球,硬
式・ 軟式テニ ス,ホ ッケー,ボ
クシング,ラ グビー, バ レー,バ
スケッ ト, レス リング, ヨ ッ ト,自
転車,卓
球等15種目,体
操, 行進遊戯,武
道,国
防競技,自
転車訓 練,蒙
古相 撲 等 の公 演 参 加 予定 選 手・役員約732名)が
開催 され,満
州国 か らは,10種目に選手163名 ,役員38名, 総勢201名の代表 団 を送 り込 んでい る (資料-7参
照)。 これ は,東
京オ リン ピック中止後 の代替的 な大会 として, また「東亜スポーツの新体制 を確立せ んとする一大契機 として計画 された90」 ものであった。 大会の組織 は,厚
生省,文
部省,外
資料-6
東亜競技大会ポスター 国 目 種 日 本 満 州 中 華 比 島 泰 国 布 畦 在 留 外 人 計 グ 魏 球 を ツケ. 球 螂 球 球 球 球 鞭 聞 ゆ 球 ハ 陸 蹴 ラ ホ 送 自 排 籠 野 庭 軟 拳 レ 卓 ヨ 38 17 23 13 13 13 1, i 12 11 13 15 2 H3 61 38 26 26 26 38 51 79 21 22 10 10 20 56 小 計 2 役 員 6 1 計 3鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 36巻 第
2号
(1994) 299
務省,鉄
道省,内
閣紀元二千六百年祝典事務局,国
民精神総動員本部 の後援 の もとに,秩
父宮 を総 裁 に,副
総裁米 内首相,張
満州国務総理,江
中央政府首席代理,ケ
ソン・ フィリピン大統領,会
長 に近衛文麿,副
会長 には坂谷芳男男爵,大
久保東京市長,下
村体育会長,名
誉顧問 として各国務大 臣,貴
衆両院議長等 のほか,大
会委員 には,各
省次官等が連ね,事
務総長 には末弘厳太郎が就任 し ている。 そ して,大
会趣 旨 として「光輝 アル紀元二千六百年 ヲ迎へ,国
運益々隆昌ナル此 ノ佳 キ年 ヲ奉祝 記念スル為,東
亜友邦 ノ青年代表 ヲ招キ,勇
健明朗 ナル体育運動 ヲ通 ジテ相互 ノ理解,親
善 ヲ増進 スル ト共二,新
東亜建設 ノロ的達成二資スベ ク東亜競技大会 ヲ開催セ ン トスルモノナ リ91も 開会式 は,明
治神宮競技場 で開催 されたが,同
大会 の総裁である秩父宮 は,「紀元二千六百年 ヲ奉 祝 シテ薮二東亜競技大会 ヲ開 ク,善
隣ノ諸邦 ヨリ多数 ノ青年遠 ク来朝 シテ此 ノ盛挙二参加 シ,一
同 和協本大会 ノ成功 ヲ希図セルハ洵二欣快二堪ヘズ,余
ハ諸子ガ終始公正,友
愛 ノ至情 ヲ失 フコ トナ ク,平
素鍛練セル技価 ヲ十分二発揮 シテ,各
其 ノ技 ヲ競 ヒ,以
テ運動競技 ノ精神 ヲ顕揚 シ,且
友邦 親善二資セ ンコ トヲ望ム 若夫今 日以後本大会ガ機因 トナ リテ此種競技大会 ノ開催 ヲ促 シ,為
二善 隣友好 ノ増進二寄興 スル コ トアラバ,其
ノ幸慶 タル,更
二大ナルモノアラン トス 諸子其 レ之 ヲ努 メヨOり」と挨拶 している。 そして,満
州国選手団 は,同
年10月の第11回明治神宮国民体育大会 に正 式に参加す ることにのるのである。 さらに1940(昭
和15
康徳7)年
6月10日前後 の一週間 にわたつて,二
千六百年慶祝委員会,満
州帝国協和会,大
満州帝国体育連盟等の主催 による「皇期二千六百年満州帝国慶祝中央体育大会」 をかねた建 国記念九回満州国体育大会が秋季大会 と冬季大会 として実施 され ると同時 に,やは り「皇 期二千六百年満州帝国慶祝興亜大運動会」が各市,県
,旗
等 の約600ヶ所,200万
人余 を動員 して開 催 されている。建 国体操,舞
踊,団
体競争,余
興競争,仮
装競争等 を主 とし,他
に武道,相
撲 を加 えた種 目に各民族 の青少年 をはじめ,一
般老若男女が参加 している。 ちなみに,康
徳4年
7月15日に開催 された満州国体育大会 の予選 を兼ねた全奉天省選手権大会 の 宣言文 を引いてお きたい。 「時将二炎暑 ノ棚姦二第六回全奉天省選手権大会並二第六回満州国体育大会奉天省予選会 ノ争覇 ガ 展開サレ,奉
天市 ヲ除 ク省内12精鋭男女三百余名ガ堂々……競 フ今 日ノ日ハ正エスポーツ満州帝国 躍進 ノ颯爽タル英姿 ヲ表徴 スルスルモノナ リ 由来体育 卜競技 ノ拡大,普
遍ハ国民文化 ノ進展尺度 ヲ表示スル,更
ラニ之ガ健全ナル普及,発
達 ハ国民保健 ノ向上 卜伴行 シ,民
心 ノ作輿ガ剛健 ナル運動精神 ノ活躍ニ ヨッテ涵養サ レルコ トハ云 フ 迄モ無イ 近時世界列国ノ達識ハ体育 卜競技 ヲ通 ジテ平時戦備 ノ充実方策ニマデ展開セシメツアル折柄,大
会ハ,年
ヲ累スルコ ト六次,此
年参加人員 ノ数ハ増 シ,記
録 ノ躍進ハ ロ覚マ シキモノガアル,即
チ 昨年 ノ如キハ陸上競技二於イテ六種 ロノ奉天省記録 卜二種 ロノ満州国新記録ガ更新セラレ,本
年ハ 更 ラニ幾多 ノ記録 ヲ樹立スルデアラウ ト期待サ レル,想
ヘバ我奉天省二於イテモ体育満州国ノ厳然 タル雄姿 ヲ見出シ得ルデハナイカ 今 ヤ世界 ノ動勢ハ錯雑分交 ノ渦中エアル,此
ノ間二処 スル吾等青年ハ公明ニシテ,而
モ純正 ナル 体育 卜競技 ノ分野 ヲ渡化 シテ,旺
盛剛健 ノ身心二則 シテ強靱 ナル五族結合 ノ実 ヲ挙ゲ,以
テ国家 ノ 発展二資スル所 ア リ度イ 吾等 ノ熱望ニ ヨリテ生誕 シタル東洋体育大会 ノ開催ハ早 ヤー年後二迫 り来 ッタ,即
チ今次大会ハ 東洋大会 ノ満州国第一次予選会 トサレル故二,我
省 ヨリモ国際的優秀選手 ノ輩出ヲ期待 シ,堂
々本入江克己 :近代 日本 における植民地体育政策の研究 (第3報) 大会 ヲ挙行スル所以 デアル
,而
シテ吾等ハ東洋大会生誕二当 り,絶
大 ノ支援 卜努カ ヲ払イシ友邦 日 本 ノ信誼二報 ヒル為ニモ,旗
鼓堂々 卜馬 ヲ進ムヘキ責務 ヲ痛感 スル 本大会参加 ノ諸君 ヨ !望 ムラクハ正々堂々真技 ヲ蓋 シテ,良
ク本大会 ノ意義二応へ,権
威 ヲ保 チ, 酷暑二打勝チ,光
輝 アル成果 ヲ収 メヤウデハナイカ,90」 この他,康
徳5年
8月27日 と28日の 2日 間にわたって水泳,テ
ニス,軟
式 テエスの3種
目による 鮮満交換競技会が実施 されているが,こ
の大会 は,第
3回
大会 まで行 なわれてお り,´種 目も康徳6 年の第2回大会 (京城)で
は陸上,野
球,バ
スケ ッ ト,サ
ッカー,卓
球,ラ
グ ビー,体
操が加わ り, 第3回
大会 は,新
京で開催 されている。 一方,康
徳6年
2月 5日, 6日
には奉天で 日満水上 交歓競技大会が,続
いて 3月31日か ら6日間 にわた り新京国立南嶺総合 グラウンドおよび奉天国際競技場で 日満交歓大競技会が開催 されている。 さらには同年 8月31日か ら6日間,や
はり新京国立南嶺総合 グラウン ドと奉天国際競技場で 日満華 の交歓競技大会が開催 されてお り,大
会副総裁である総務長官の星野直樹 は,大
会最後の 日に次の ように挨拶 している。 「今回 日満華交歓競技大会が開催せ られ,三
国選手諸君 の三 日間の奮闘の後,今
日薮 に目出度其 の 終了 を見 るに至 りたることは,私
の最 も欣快 とす る所であ ります。 今 回の競技会 は不幸 にして天候 に恵 まれず,各
競技者 は悉 く豪雨 と泥澤 の中に戦 はざるを得ず, 競技 は極 めて困難 なる状態の下 に行 はれたのであ ります。三国選手 の精神 は良 く之の悪条件 を克】叉 し,各
競技共極 めて元気良 く,叉
正々堂々 と見事 なる結果 を以て之が終了 を見 るに至 りました こと は,之
れ実 に興亜青年 の天 を衝 く意気 を全世界 に示 し得 た もの として,我
々の誠 に愉快 の情禁 じ得 ざる所であ ります。 蓋 し今回の交歓大会 は,之
れ実 に今や建設 の途上 にある新東洋の先駆であ り,又
其の縮図であ り ます。然か も我々今建立せん とす る東洋 も,今
回の競技 と同様,幾
多の障碍 と困難の中に建設 を進 められつつあるのであ ります。新東洋 は,豪
雨 と泥渾 との中に建設せ られつつあるのであ ります。 而 も我々此豪雨 と泥渾 とを冒 して其 の建設 を成就 し,や
がて今 日の如 く最後 には秋晴れわた りた る中に其の動か ざる雄偉なる姿 を現出するに至 ることを固 く信 じて居 るものであ ります。 而 して今回の大会 は,即
ち其 の輝 しき予告であると思い ます。薮 に私 は本大会の成功 を祝 し,三
国選手 の苦闘 に感激の情 を述べ ると共 に,新
東洋 の輝 しき建設 の速やかなる達成 を記念 して選手諸 君 を送 る辞 とします。¢0」 こうした日満 のみな らず,枢
軸国 との癒着 も子旨摘 され る。例 えば康徳5年4月25日には,イ タ リア・ ファッシス ト党 の親善使節団が渡満 した際,イ
タ リア・ オ リンピック委員代表のプッチオ・ ブ ッテ の歓迎会 を行 ない,満
州体育 の現状 を紹介 している。(7)建
国体操の制定 と実施 康徳2年
には建 国体操 を制定 しているが,こ
れ は,訓
令 に明 らかにされているように,国
民大衆 を日満 を中軸 とす る東亜新秩序体制 に総動員す る方策 の一翼 を担 うものであった。この体操 は,日。 満体育連絡委員会 の決議 に基づ き, 2月
23日,満
州国,関
東州,満
鉄 よ り選 ばれた委員 によって作 成 され,第
1回
訪 日宣詔記念 日の当 日,新
京 において公開されている。 そして 7月25日附文教部訓令 (第71号 )「建国体操制定認可 ノ件」によって国民体操 として全国民 実施 の指令が通達 され,さ
らに康徳3年
4月 2日 になって訓令「建 国体操 日設定 ノ件」(第20号)に より建 国体操 日として毎年 3月 1日, 5月
2日, 9月
18日の 3日 が建 国体操 日として決定 され,体
鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 36巻 第
2号
(1994) 301
操の実施が強制 されたのである。両訓令 は,こ
う述べている。 「今次大満州帝国体育連盟ガ回曇訓民詔書澳発 ノ為,制
定 シタル建国体操二関 シ本部二於 テ審査 ノ 結果,之
ヲ許可 シタル ヲ以テ,貴
省長,市
長,ハ
所属学校及社会教育機関二転令 シ,可
及的範囲ニ 於テ之ガ実施 ヲ督促 シ,以
テ国民体育 ノ向上二資スベ シ,此
二令ス 文教部大臣 院振鐸」(「建国 体操制定認可ノ件」) 「異二本部訓令第七一号 ヲ以 テ令達セル建国体操普及二関 シ,本
年度 ヨ リ左記要項二基 キ,同
体操 日ヲ設定セルニ付 テハ貴省長,市
長,ハ
ー般学校虹二社会教育機関二令達 シ,之
ガ実施方 ヲ督励 シ, 以 テ所期 ノロ的達成二努ムベ シ 文教部大臣 尻振鐸95L(「 建国体操 日設定 ノ件」) また この康徳2年
5月に開催 された日本 の体育運動主事会議 において 日満 の特殊関係 にもとづい て 日満 に関係のある記念 日には,日
本 において も建国体操 を実施す るよう建議 され,決
定 された。 その結果,全
日本体操連盟 の主管 の もとに陸軍省,文
部省,対
満事務局,陸
軍戸 山学校等の後援 によって 日本国民保健協会が中心 になって,昭
和12(康
徳4年
)年
9月18日の満州事変五周年記念 日に第1回建国体操会が 日本全 国で実施 され るようになった経緯がある。 そして同年末 には日本国民保健協会が 日本建 国体操 を制定 し,日
本 のみな らず,満
州国において も同体操 の普及,実
施が強化 され ることになるが,
この建国体操 の趣 旨について こう述べている。 「近頃頻 りに我が国民体位 の向上が叫ばれるが,其
の積極的の方策 として は,国
民の誰で も,即
ち 老若男女 を間 はず,実
行 の容易 な体操 を普及,奨
励す るの外 はない と思ぶ。然 るに,従
来の体操の 多 くは,其
の形態 を西洋か ら取 り来 たつて,言
はば西洋人 の生活か ら生 まれ出た ものを借 りていた 感があった。而 も体操 の実施 に当って も,自 分の健康 を増進す るのだ と言ぶ程度 の自覚 しかな くて, そこに精神,魂
が吹 き込 まれていない憾があるのである。 日本 の土地か ら芽 ばえ,日
本国民 の生活 の中か らにじみ出た 日本的な体操が生 まれ出て来 なけれ ばな らない。国民生活 を基礎 としての体力 の向上 と,更
に之 を通 して国民 の精神的鍛練 を資するに 足 る,物
心一如の真の国民体操が案出せ られなければな らぬ と思 う。何 らの精神的意義 もなしに, 徒 に手足 を運動 させてお る体操 ほ ど無意味な ものはない。然 らば此 の様 に魂 を入れ,精
神的意義 を 有 たせ る とすれば,悠
久三千年 の音 に朔 って八紘一宇の大理想 ある建国精神 の外 に求むべ きものは ない。斯 くの如 く建国体操 は純 日本的な ものであって,之
を実施する人 は其 の一挙手,一
投足 を通 じて建 国精神 を具現 し,国
運 の発展 に寄与 しようと言ふ熱意 に燃 えて体操す るところに従来 の もの と異なった意味があるのである。 而 も其 の動作 は古武道の型か ら採 つてあるために手,足
首,腰
といったや うに,突
くにして も, 打つにして も全体的な,総
合的な全身運動である点が特色である。即 ち建 国精神具現の熱意 と古武 道の型 による動作 と言ふ 自覚が伴ふ ところに,建
国体操の意義があ り,特
色がある訳である。 そこ で建 国体操の実施 には一貫 した行事が必要なのである。先ず建 国体操前奏歌 を合唱 して建 国精神 を 心の中に燃 し,次
に体操 を行ふ。其 の後 に建 国讃歌 を謳ふのである。此 の行事 に依 つて初 めて心 を ― にし,共
同の動作 を行 って,身
心一如の鍛練がで きると思ふ。90」 また,そ
の特徴 については,こ
う記 している。 「建国体操 は,日
本武道 の術 を採 り,之
に体操 の形式 を与へて組織 した ものであって,日
本武道 の 精神 を以て其の精神 とす る。 日本武道 は,武
術 を修業 して自己 を完成 し,以
て尽忠の誠 を体現する ことを本義 とする。 建国体操 の目的 は,体
操 に依 つて身体 を錬成 し,霊
を磨 き,以
て皇運不扶翼 の一途 に参ず るにある。 抑 も建国体操の形式 は,之
を武道 に とってあるか ら,常
に対手 を予想 して之 を突 く,打
つ,切
る等入江克己 :近 代 日本 における植民地体育政策の研究 (第3報) の動作 をす るが,こ の目的物 もやがて周囲の障碍 と置換 えられ
,困
苦の万難 を征月Rして所信 に向ひ, 勇往邁進す る態度 とな り,更
に,内
々 は,自
己の神性 の正 しき発動 を妨 げる小我 を対象 として,是
れが克服,粉
砕 を期 しつつ動作す ることになる。なほ建 国体操 は,攻
撃 の目標 を自己の前方,側
方, 下方,そ
の他の方向にとってあるか ら,随
つて之が撃破 の溜 めに,体
を諸種 の方向に伸 ばし,捻
る ことにな り,自
然是等の動作が体操 の作用 を為 し,そ
の結果,身
体 の修練 になる。斯 くの如 くにし て,こ
の建国体操 は,精
神錬磨 の方法 とな りて,身
体強化 の手段 となるのである。建国体操 の運動 の特徴 を列挙すれば,概
ね次の如 くである。 資料-8
建国体操図の一例 但)前
突 の運動 ② 側突の運動庁食臥入
(3)上突 の運動 石橋武彦・ 佐藤友久 F増補 日本 の体操―百年の歩み と実技―』 (不味堂出版 1966年 692∼ 693ページ)により作成 (1)各動作 は一々障碍 を仮想 し,之
を撃破せん と意志 しつつ行ぶ為 に,意
志強化 の上 に大 なる効果が ある。鬱)各動作 に突 く,打
つ,切
る等の直接的な目的がある為 に,運
動が真剣 になる。(3)建国体操 は,前
操,後
操及び終操の3つの部分か ら構成 されているが,そ
の内,前
操 と終操 と結び着 けて も, 夫々一連 の体操体系が成立す る。(4)自己防衛 の基本的技術 の修練が出来 る。97L ところで,こ
の建国体操 について大谷武― は,次
のように言ちている。 「建 国体操 は,一
つの時代 の要求 に合致 したせい もあると思ぶが,関
係各位 の非常 な御支援 に依 り, 文字通 り,燎
原の火の如 く勢ひで,全
国津々浦々 に広が り,更
に海 を越 えて大陸にまで発展 した こ とは,建
国体操の同人 の一人 として感激 に堪 えない。… …満州の吉林省で は,建
国体操 を青年学校 の正課体操 に採用 した といぶ話 を聞いている。満鉄で も青年社員 は之れ を実行 している。 建 国体操 の特徴 の中で,最
も誇 り得 るのは,建
国体操が 日本 に生 まれた,純
日本式 の体操である といぶ ことである。爾余の体操 は,名
が何 とあ らうと,何
れ も,西
洋 の体操 そのま ゝか,そ
の焼直鳥取大学教育学部研究報告 教育科学 第 36巻 第