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<Article>A Study on the Causes for the Slow Development of Recent Scientific Technology in China

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中国近 代科 学 技術 の発 展が

遅 れ た原 因の探索

目 次 は じめ に 一 封建制 度の及ぼ した近代科学技術へ の障害 二.封 建統 治者 の科学技術 に対 す る考 え方 三.鎖 国が もた ら した もの 四.自 給 自足経済 の存在 が科学 技術 の発展 を束縛 五.商 工業資本 の制約 六.近 代中国科学技術 の資本主義生産推 進の欠乏 七.海 外貿 易の軽 視 八.科 学技術 を導入す る上 での弊害 九.中 国 とヨー ロ ッパの教育制度 の違 い 十.封 建政府 で創立 す る科学技術 の弊害 十一.中 国科学技術体 系の弱点 と欠点が与 え る発展 への影響 十二.科 学哲学体系 を形成 しなか った中国近代哲学 十 三.中 国近代政府 の科学研究機構 未設 定 と科学技術 交流 の現実 十 四.西 洋人へ の依存性 十五.外 来 要素 お わ り に 41

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中 国 の 古代 科 学 技術 の伝 統 の 成 果 は輝 か し く,古 代 世 界 文 明 国 家 の 中で も 唯 一 科 学 文 化 が 断 絶 す る こ とが な か っ た。 そ して,そ れ は 中 国 に対 す るば か りで な く,近 代 ヨー ロ ッパ の社 会 変 革 と科 学 技 術 の復 興 及 び,全 て の人 類 社 会 の進 歩 に も多大 な影 響 を与 えた。 ヨー ロ ッパ ・ル ネサ ンス以 前 に は,イ ギ リス の著 名 な科 学 技 術 家 で あ る ケ ンブ リ ッジ大 学 の ジ ョセ ブ ・ニ ー ダ ム博 士 に よ る 「中 国 は紀 元3∼13世 紀 の間 に,西 方 国 家 が 及 ん で い な い科 学 知 識 水 準 を保 っ て い1)」 とい う言 葉 が 劾 す よ うに,中 国 は世 界 を先 導 す る地 位 を 占 め て いた 。 そ して 中国 の科 学 の発 明 と発 見 は 「ほ とん どにお い て,同 じ時 2) 代 の ヨー ロ ッパ を上 回 り特 に15世 紀 以 前 に は は るか に越 えて い た 」。 ア メ リ カ の ボ ロー ・コ ンニ デ ィ も近 年 その著 作 『大 国 の 興 衰 』 の中 で 「近代 以 前 の 全 て の文 明 にお い て,中 国 は最 も発 達 して い るが,他 の 国 に は先 進 的 な もの が稀 に しか な い」 と述 べ てい る。 また,あ る統 計 資 料 に よ る と,紀 元 前6世 紀 か ら15世 紀 まで の間,世 界 の重 大 な科 学 技 術 の成 果 は 中 国 が常 に54%以 上 の比 率 を 占 め て い た。 しか し,そ の後 は少 しず つ減 少 し,19世 紀 にな る とわ ず か0.4%と な った 。 そ して,そ れ に 反比 例 して16世 紀 以 後 の ヨー'ロッパ で はル ネ サ ンス と資 本 主義 生 産 方 式 の確 立 に よ り,近 代 自然 科 学 と近代 技術 が 発 展 して い った。 そ して,そ れ は非 常 に大 きな勢 いで 中 国 を越 えて い った の で あ る。 で は,何 故15世 紀 まで は輝 か しい成 果 を上 げ て い た 中 国 の科 学 技 術 が16世 紀 以 後 に は少 しず つ減 少 して い った の だ ろ うか。 これ は長 ら く(17,18世 紀 ヨー ロ ッパ 人 に は論 述 が あ る〉,世 界 の学 者 が共 通 に重 視 す る重 大 な学 術 問 題 で,そ の発 展 の遅 れ た 原 因 を探 索 す る こ とは,中 国 科 学 技術 を決起 す る上 で重 要 な 問題 で あ る。 そ して,そ の原 因 に は複 雑 か つ,多 方 面 的 な内 部 ・外 部 要 素,封 建 社 会 の要 素,清 王 朝 自身 の要 素 な どが考 え られ る。 42国 際 経 営 論 集No.181999

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一 .封 建 制 度 の及 ぼ した 近代 科 学 技 術 へ の 障害

封 建 統 治 階級 者 は,自 身 の長 期 的 な功 績 と名 声 を保 つ た め に,大 量 の知 識 人 を引 き入 れ儒 教 経 典 の研 究 に費 や させ た。 この傾 向 は,清 朝 に多 く見 られ, 絶 えず 「文 字 獄 」(儒 教 以 外 の研 究 を した 者 を罰 す る こ と)を 引 き起 こ した た め,知 識 人 達 は罰 せ られ な い よ う にや む を えず,古 籍,注 釈 及 び,そ の 解 釈,考 証 な どを深 く研 究 し,自 然 界 の観 察 と研 究 の 道 か ら離 れ て い った 。 わ ず か に,科 学 技 術 の研 究 に従 事 した者 もい た が,大 きな組 織 を作 りあ げ る こ とは困 難 で あ った。 中 国封 建 制 度 が 近 代 科 学 技 術 の誕 生 に極 め て大 きな障 害 とな っ た の で あ る。 そ の一 方 で,近 代 の ヨー ロ ッパ で は,科 学 技術 に力 を入 れ て お り,学 術 界 人 士 は古 代 ギ リシ ャ,ロ ー マ,ア ラ ビア の 科 学技 術 文 化 を 取 り入 れ る こ とに努 力 し,高 い熱 情 で 自然 界 の 奥 と新 しい技 術 を探 索 して い た。

二.封

建 統 治 者 の 科 学 技 術 に対 す る考 え方

封建 統 治 集 団 で は,「 本 に頭 を埋 め る士 大 夫 階 層 が 主 導 の 地 位 を 占 め,彼 ら は行 政 機 構 の 発 展 を 重 視 して,自 然 科 学 は 人 類 に 福 を与 え る も の で は 3) な い」 とい う考 え を持 っ て治 め て い た 。 また,封 建 専 制 の 官僚 政 治 の下 で, た だ財 産 と寿命 にだ け関 心 を示 し,そ の た め,彼 らは 占星 術 や 煉 丹 術,建 築 術 を重 視 して い た。 例 え ば 『営 造 法 式 』 とい う本 を出版 す る こ とは,南 宋 皇 帝 が 杭 州 へ遷 都 す る うえで,と て も重 要 だ った た め,重 視 され た が,手 工 業 生 産 の発 展 及 び技 術 な どに関 す る本 な どは重 視 され なか っ た。 これ は,官 僚 に大 きな利 益 を もた ら さな い 科 学 技術 は,政 権 を持 つ彼 らに とっ て重 要 で は な い もの とみ な され た か らで あ る。 また,中 国 歴 代 統 治者 は歴 法 を作 る上 で 必 要 で あ った た め天 文,数 学 に関 心 を持 っ て い た。 彼 ら は天 文,歴 法 の 独 占 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索43

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を実 行 す るた め,民 間 習 歴 を禁 止 した 。 この よ うに,中 国古 代 の科 学 技 術 は, いつ も閉 じ込 め られ,卑 し まれ て い た た め,科 学 研 究 に従 事 す る者 に は常 に 危 険 が 伴 っ て い た。 孫 中 山先 生 の言 うよ うに,中 国封 建 社 会 下 で は 「新 しい 機 械 の創 造 や新 しい学 説 を発 明 して も,人 民 は死 刑 を恐 れ て,こ れ を実 行 で きな か った 」。 科 学 技 術 の発 展 や進 歩 は常 々妨 害 され て きた の で あ る。 中 国社 会 が 科 学技 術 を卑 しむ こ ととは反 対 に,ヨ ー ロ ッパ の社 会 気 風 は科 学 技術 の発 展 に有 利 で あ った 。14,15世 紀 頃 よ りヨー ロ ッパ 社 会 で は学 術 研 究 の気 風 が あ っ たが,16,17世 紀 以 後 に は,科 学 の研 究 が盛 ん に な り,学 者 が 尊 ば れ る よ うに な った。 ヨー ロ ッパ科 学 の 発 展 に重 要 な条件 を構 成 して い った の で あ る。1705年,ニ ュー トン は イ ギ リス の ア ンナ女 王 か らナ イ トの称 号 を与 え られ た 。 女 王 と王子 は,わ ざ と歩 い て ケ ンブ リッジ大 学 の授 爵 式 に 参 加 して,彼 の研 究 の 成 果 を重 視 す る態 度 を示 した。 また,学 術 を提 唱 す る た め に ロ シ ア の ツ ァー ビキ ク皇 帝 は1727年 と1766年 の二 回大 数学 家 の オ ー ラ を招 い てサ ンク トペ テ ル ブ ル クで 講 義 を させ た な ど,こ の よ う な例 は まだ た くさん あ る。 中 国封 建 統 治 者 の 中 に も,科 学 技 術 を好 んだ 者 は いた が(例 え ば清 朝 康 煕),こ れ はた だ 単 に好 ん で い た だ けで,彼 の 科 学 観 は は るか に普 通 資 産 階 級 の水 準 に達 して い なか った 。 中 国封 建 統 治者 は人 文 を重視 して 自然 を軽 蔑 す るば か りで な く,科 学 技術 を 「奇 技 淫 巧 」 だ と認 識 して いた 。 それ は,立 国 の道 とは関 係 の な い こ とだ と思 って い た か らで あ る。 また,政 権 が 変 わ る こ とに よ り,科 学 技 術 に携 わ る人 材 が 迫 害 され,そ の著 作 が 禁 止 され る こ と も中 国 で は 日常 的 で あ った。 明 朝 末 期,徐 光 啓 は歴 法 局 の 仕 事 を司 っ て か ら,「 度 数 労 通 十 事 」 の 遠 大 な 計 画 を立 て,彼 の大 きな志 と信 念 に よ って,同 様 の学 者 を団結 させ,中 国 の 科 学 団体 を作 りあ げ た。 これ は,イ ギ リス皇 家学 会 の初 創 の時 期 と呼 応 す る。 徐 光 啓 の遠 い見 通 し は西 洋 学 術 界 の それ よ り も悪 くは なか った が,彼 の思 い とは別 に,政 府 の対 応 は技 術 者 を絞 め殺 す よ うな現 実 だ っ たた め,や は り近 代 中 国 の学 術 団体 は誕 生 で きなか った 。 明 朝 未 期 か ら清 朝 初 期 の有 名 な思 想 44国 際経営論集No181999

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家,科 学 者 で あ る方 以 智 も明 朝 滅 亡 後,反 清 運 動 に参 加 し ,い た る所 に流 亡 した の ち家 を 離 れ 僧 人 とな っ た が,彼 の 学 術 成 果 『物 理 小 識 』 な ど は清 朝 300年 の 治 世 の 間 ず っ と埋 め られ 各 種 の 「学 案 」 か ら避 け られ た 。 またi明 朝 末 期 の科 学 者,工 程 技術 専 門 家 の宋 応 星 も南 明政 権 で 役 職 に つ き ,反 清 運 動 の失 敗 の の ち 流亡 した が,彼 の 『天 工 開 物 』 は広 く伝 わ る前 に禁 止 され , 破 られ た。 『四 庫 全 書 』 や 『四庫 全 書 ・総 目』 の 目録 さ え も出 版 され る こ と は な か っ た。 『天 工 開物 』 は,中 国 国 内 で の 運 命 は思 わ し くな か っ た が,世 界 に出 てか らは,さ っ そ く外 国科 学 技 術 界 に重視 され た。17世 紀 末 期 に は, 江 戸 時 代 の 日本 に伝 わ り日本 学 者 の大 きな興 味 を引 き起 こ した 。 また,宋 応 星 の 『天 工 開 物 』 と李 時 珍 の 『本 草 綱 目』 は西 洋近 代 科 学 以 前 の科 学 が 流入 す る前 の 日本 瞳 大 な影 響 を与 認 そ して,18世 紀 に は ヨー 。 ッパ に,19 世 紀 初 期 に は イ ギ リス,フ ラ ン スfイ タ リア,ド イ ツ,ロ シア な どの 国 々 に 伝 わ って い った。 徐 光 啓 の著 作 『農 政 全 書 』 は}や は り彼 の反 清 運 動 参 加 と い う清 朝 に とっ て心 良 くな い行 為 の た め,そ の 出版 が200年 近 く禁 止 され た。 清 朝 軍 隊 が 入 関 す る前 に刊 行 印 刷 され た初 刊 本 で さ え も数 少 な い 。 その他 に も,あ る科 学 者 は反 清 した た め殺 され ,ま た あ る科 学 者 及 び その 著 作 は一 生 粗 宋 に扱 わ れ た 。 これ は,清 朝 の 科学 技 術 の 発 展 に大 きな危 害 を加 えた 。 こ れ らの こ とに よ り,中 国 は西 欧 と共 に前 進 す る機 会 を失 っ て し まっ た の で あ る。

三.鎖

国 が も た ら した もの

近 代 の 中 国 はわ りあ い閉 鎖 的 で あ り,長 期 に亙 り,中 央 集権 の封 建 制 度 統 治 下 に あ っ た経 済,文 化,科 学 技 術 は外 部世 界 に差 し迫 った必 要 が な かった 。 地 理 上 の理 由 と して は,中 国 は ギ リシア の よ うな 文 明 発 達 地 区 とは は るか に 離 れ て お り,交 渉 す る こ とが 少 なか っ た。 そ の た め 中 国 の 古代 科 学 技 術 は独 自で形 成 され,閉 じ られ て お り外 か ら来 た もの を受 け入 れ る こ とは多 くなか 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索45

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った 。 また,封 建 社会 の中 国 はず っ と 「天 朝 帝 国 」 として 自負 して い た た め, 近 代 西 洋 文 明 の最 新 成 果 を受 け る こ とを拒 み,中 国封 建 社 会2000年 以 来 形 成 され た政 治,経 済 と文 化 ・伝 統 を おだ や か に構 成 して い った 。 特 に明 朝 以 来, 西 欧 列 強 は東 方 に盛 ん に進 出す る情 況 下 にあ っ た が,封 建 統 治 者 は さ らに鎖 国 的政 策 を実行 し 自国 の もの よ り先 進 的 な外 来 の もの は簡 単 に押 し退 け る態 度 を と り,自 分 の科 学 技術 に閉 じ込 も り,保 守 性 も加 わ って科 学 技 術 の発 展 をひ ど く妨 害 した。 一 方 で近 代 ヨー ロ ッパ 人 は中 国 か ら伝 わ っ て きた 科 学 技術 を積 極 的 に勉 強 し運 用 した。 また,1860年 代 に東 の 日本 は鎖 国 を終 え}開 放 ・吸 収 す る国 と な った。 その結 果,そ れ らの 国 々 に は近 代 化 が もた らされ た。 その 頃 中国 で

はアヘ ン戦争以後・イギ リス雛

の初代大使郭簾 晒

方繍

と学術 響 収

し,清 朝 政 府 に奉 じて西 洋 の先 進 的 な文 化 を勉 強 す る こ とを主 張 して い た 。 同時 に 日本 で も,イ ギ リス に駐 在 して いた 大 使 が 明 治 天 皇 に奉 じて これ を 主 張 して いた 。 この 内容 は ほ とん ど同様 で あ った が報 告書 を受 けた側 の 反応 は 違 っ て い た。 そ して これ は両 国 の 歴史 上 で 異 な る結 果 を もた ら した 。 清 朝 政 府 は深 く考 え る こ とな く排 外 し,郭 嵩 煮 の提 案 を拒 ん だ た め 中国 は ます ます 低 迷 した。 日本 の明 治 天 皇 は報 告 書 の意 見 を受 け入 れ,西 洋 に学 び,以 前 の 鎖 国制 度 をや め,全 面 的 に これ を導 入 す る方 法 を実行 した 。 科 学 技 術 の方 面 だ けで な く,工 商 業 な どに お い て も西 洋 の技 術 を用 い た。 彼 らは また 官僚 視 察 団 を派 遣 して外 国 を考 察 し,体 制 改 革 を行 な った 。 日本 は これ らの こ とに よって ヨー ロ ッパ に追 いっ いた ので あ っ た。

四.自

給 自足経 済 の 存 在 が 科 学技 術 の発 展 を束 縛

第0に,自 給 自足 の 自然 経 済 の影 響 下 にお い て,科 学技 術 に従事 す る者 は 常 に多 くの 精 力 を農 学 及 び農 業 関 係 の問 題 に集 中 させ られ,他 の科 学 分 野 を 研 究 す る こ とは少 な か っ た。 そ の結 果,中 国 で は農業 書 籍 が 多 く内容 も詳 し 46国 際 経 営 論 集No.181999

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くて,研 究 内容 の深 い こ とは世 界 で も有 名 で あ る。 また,手 工 業 技術 と工 業 生 産 方 面 に及 ん で い る著作 は とて も少 な く,た だ 実践 で積 め る知 識 を表 面 上 だ けの形 式 で表 わ して い る。 理 論 上 の研 究 討 論 はわ ず か で あ っ た。 第 二 に,自 給 自足 の 自然 経 済 は利 己 的 な心 理 を形 成 しや す か っ た。 た まに 技 術 的 な成 果 が あ っ て も,そ れ が 世 間 に出 て くる こ とは なか っ た。 例 え ば医 学 方 面 にお け る家伝 の秘 方 はす べ て を伝 えて い なか った 。 製 造 工 芸 方面 の先 進 的 な技 術,先 進 的 な操 作 方 法 もた だ 自分 の子 孫 に伝 え るだ けで あ った。 教 師 は学 生 を教 え て も,全 て は教 えな か った。 この よ うに して科 学 技 術 の発 展 は抑 制 され た。 ひ い て は,専 門 的 な科 学 技 術 の伝 達 の喪 失 を も もた ら した 。 第 三 に,自 給 自足 の 自然 経 済 は科 学 技 術 に需 要 す る もの に限 りが あ った 。 一 つ は農民 が た だ 経 済 上 の 自給 自足 が欲 しいだ けで ,知 識 を求 め る心 が切 迫 して い なか った とい う こ とで,二 つ は地 主 階級 が 科 学 技術 に関 心 を示 さず, た くさん の技 術 発 明 は生 産 面 に お い て 広 く応 用 で きず,改 善 され な か った た め ヨー ロ ッパ の よ うに強 大 な社 会 需 要 力 を生 じなか っ た こ とで あ る。

五.商

工 業 資 本 の 制 約

封 建 統 治 者 か ら見 る と,農 業 は優 先 され るべ き もの で商 工 業 は二 の 次 で あ っ た。 「強 本 抑 末 」 とい う農 業 を保 障 し商 工 業 を抑 制 す る この 政 策 は,手 工 業 の成 長 を抑 圧 した の で,科 学 技 術 の 発 展 は無 水 の源 とな り,存 在 で きな い 6) 状 態 に さ ら され た。 歴 史 か ら見 る と,商 工 業 を抑 制 す る政 策 は秦 朝 か らず っ と清 代 に奉 行 され た もの で あ る。 中国 の封 建 社 会 の後 期 に商工 業 者 の実 力 は 相 対 して弱 くな り,そ の 原 因 と して は軽 重 論 政 策 体 系 の 形 成 が あ げ られ る。 そ の体 系 に よ り商 工 業者 の 活 動 範 囲 が 大 い に小 さ くな った 。 国 家 は豊 富 な 自 然 資 源 を独 占 して その 中 で 一 番 利 益 が あ が る もの を直 接 経 営 し,経 営 す る こ とが難 しい もの は商 工 業 者 に経 営 させ,重 税 をか け た。 国家 は また,大 量 の 財 を掌 握 し自 ら商 工 業 を経 営 した た め民 間 の商 工 業 者 は封 建 政 治 特 権 を持 つ 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索47

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国家 の商 工 業 者 を相 手 に競 わ な けれ ば な らなか っ た。 また,政 府 で 経 営 す る 工 業 と国家 で掌 握 す る運 輸 工 具,運 輸 施 設 で 皇族,貴 族,官 僚,軍 隊 な どで 使 う生 活 必 需 品 の大 部 分 を供 給 し,市 場 が 必 要 とす る もの を減 少 させ,同 時 に軽 重 理 論 にそ って財 を集 め,私 腹 を こや した た め,人 民 の貧 しさ は ひ ど く な っ て い った。 これ らの こ とは商 品市 場 を衰 退 させ た 。 一 方,西 欧 各 国 で は封 建 社 会 後 期 の商 品 生産 の発 展 が 中 国 よ りも順 調 で あ っ た。 そ の要 因 として,社 会 生 活 で起 きた作 用 と商 工 業者 の社 会 地位 の直 接 的 な関 係 が み られ る。 西 欧 の封 建 社 会 の 中後 期 は}国 家 と して の地 位 が 中 国 よ りは るか に脆 弱 だ っ た。 宗 教 体 系 はほ とん ど国家 行 政 体 系 か ら独 立 して お り,あ る時 に は国 家 行 政 体 系 を凌 駕 して い る。 国家 は内 に対 す る集 権 程 度 も は るか に中 国 の よ うに高 くは な く,地 方 と各 階層 貴 族 の封 地 も多大 な独 立 性 が あ り,こ の 意 義 か ら言 え ば,国 家 組 織 自身 は締 ま りが な い と言 え る。 そ の た め 多 くの 力量 を削 った の で あ る。 それ と相 対 す るの は,封 建 社 会 中後 期 に 商 工 業 者 の勢 力 が とて も大 きい こ とで,た くさん の商 工 業 都 市 が封 建 社 会 に よ って発 展 した期 間 に,相 次 いで 自治権 を争 った 。 商工 業 が 発 展 す る上 で も, 中 国 の よ うな商 工 政 策 を抑 え る妨 害 や 強 大 な封建 運 営 に よる経 営 経 済 か らの 締 め 出 し を受 け る こ と もな く,封 建 官僚 が頻 繁 に関与 す る こ と もなか った 。 また,西 欧 各 国 の商 工 業 発 展 は もち ろん封 建 制 度 に妨 げ られ る こ とは あ った が,こ れ は 中 国 で の妨 げ と比 較 す る とず っ と小 さい もの で あ った。 そ して商 工 業,特 に商 業 の発 展 と ともに,封 建 制 度 が 崩 れ て い った。 また,国 家 の強 弱 と財 の不 足 に は因 果 関 係 が あ っ た。 教 会 の様 々 な税 や 地 方貴 族 と都 市 に よ る地 方税 が 回 収 され た の で,国 家 が 獲 得 で きた税 に は限 りが あ った。 そ の た め国 家 は金 の 需 要 を しば しば商 工 業 者 に妥 協 させ,商 工 業 者 は しば しば国 家 と商 工 業 者 の利 益 を あ る程度 一 致 させ て いた 。 国 家 は大 きい活 動 が あ るた び に商 工 業 者 か ら資 金 を調 達 した り貸 し付 け を うけ た り した 。 国 家 が 商 工 業 者 にあ る程 度 頼 る よ う に な る と,彼 らは,ま す ます 多 くの 商工 業者 代 表 を議 会 に参 加 させ な けれ ばな らな くな った 。例 え ば イ ギ リスで は,1509年 か ら1588 48国 際経営論集No.181999

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年 の16期 会 議 で ロ ン ドンか ら派 遣 され る議 員 は全 部 で36人 で あ った。 その う ち1人 は身 分 の は っ き りしな い者,9人 は弁護 士 で 残 りはみ な商 工 業者 で あ った 。 フラ ンス で は14世 紀 の初 期,第 一 回 三 級 会 議 を組 織 す る際 に少 な くな い数 の商 工 業 者 の代 表 を参 加 させ た 。 西 欧 各 国 で は商 工 業者 が 早 くか ら合 法 的 な議 政 権 を持 ち,ま た この権 利 は 当時 の 中 国商 工 業 者 に は全 く考 え られ な い もの で あ った 。 その 頃 の 西 欧 各 国 で は,商 工 業 者 の 身 分 で も政 府 役 人 にな る こ とが で きた り,封 じ られ て い た爵 位 を与 え られ貴 族 に もな る こ とが で き た の で あ る。 あ る時 に は金 を借 りるた め に,税 収 機 関 の活 動 を商 工 業 者 の監 視 下 に置 くとい う こ とを承 諾 しな けれ ば な らな い こ と もあ っ た。 これ らの こ とは,そ の 当時 の 中 国 に は ま った く不 思 議 な こ とで あ っ た。 西 欧 各 国 政 府 は封 建 社 会 後 期 に な る と,程 度 の差 こそ あ れ商 工 業 の 発 展 を 励 ます 政 策 を取 り入 れ た 。 フ ラ ン ス 国 王 ル イ十 一 世(1461-83年)は 自 ら 自 国 の絹 織 業 を励 ます こ とに参与 し,そ して外 国 か ら技 術,人 材 を招 き入 れ る 政 策 を制 定 した。 イ ギ リス 国 王 エ ドワ ー ド四 世(1461-83年)は,羊 毛 の 輸 出 を禁 止 して,毛 織 物 の輸 出 を奨 励 し 自国 の 毛織 業 が 発 展 す る よ う命 令 した。

六.近

代 中 国 科 学技 術 の 資 本 主 義 生 産 推 進 の 欠 乏

西 欧 各 国 が近 代 で率 先 した 要 因 に は,早 くか ら封 建 社 会 か ら資 本 主 義 社 会 へ の歴 史 転 変 を実現 した とい う こ とが 挙 げ られ る。 資本 主 義 制 度 が 封建 制 度 に よ って妨 げ られ る社 会 生 産 力 か ら釈 放 され て,急 に発 展 しだ し西 欧 各 国 は 世 界 中 の他 の 国 家(中 国 を含 む)か らは るか に飛 び抜 け た の で あ る。 何 故 西 洋 国家 は早 くか ら封 建 制 度 か ら資 本 主義 制 度 に転 変 で きた の で あ ろ うか 。 そ れ は主 に西 欧 各 国 の商 品 生 産 の発 展 が順 調 で,急 速 に高 い程 度 に達 した か ら で あ る。 そ して,ヨ ー ロ ッパ 資本 主 義 が 芽 ば え成 長 す る時,封 建 経 済 が 絶 え ず 敗 れ て い るの で あ る。 つ ま り,封 建 的 な経 済 構 成 が 中 国 よ りず っ と弱 い の で あ る。 これ に対 し て中 国 は世 界 で も封 建 社 会 の歴 史 が 最 も長 く,封 建 主義 中 国近 代 科 学 技術 の 発 展 が 遅 れ た原 因 の探 索49

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が長 足 に発 展 してお り,封 建 社 会 を強 固 に存 続 す る頑 固 な力 量 が あ った。 中 国 は資 本 主義 の芽 ば えが小 さい ばか りで な く,封 建 経 済 の 巨 石 の下 に押 しっ ぶ され る,つ ま り長 期 に形 成 して い る穏 や か す ぎ る封 建 生 産 形 式 は極 めて 大 きい惰 性 とな り,活 性 化 しに く く先 進 的 な資 本 主義 方式 に変 わ る こ とが で き なか っ た の で あ る。 発 展 の遅 れ て い る生 産 力 の代 表 と して の清 王 朝 統 治 者 は,朝 廷 を立 て る初 期 に は規 制 を穏 や か に して,生 産 の発 展 を促 す とい う政 策 を取 るが,そ の後 は彼 ら は主要 な精 力 を清 朝 に反 対 す る もの の 一掃 にか た む け て いた 中 央 集権 を強 化 す るた め清 朝 に反 対 す る商 品経 済 が わ りあ い発 達 して い る東南 沿海 の 勢 力 に残 酷 な弾 圧 を した ので,も とも と弱 小 的 で あ った 資本 主義 の芽 ば え は ひ ど く打 ち こわ され た 。 その た め経 済 が 回復 す る速 度 は とて も遅 くな った。 清 王 朝 が立 っ て100年 余 り後 にや っ と商 品 生 産 は明 朝 中 期 の水 準 に追 い っ い た の で あ る。 社 会 生 産 が退 歩 す る とは,常 に世 界 先 進 的 な地位 に あ る手 工 業 技 術 が落 伍 し始 め るば か りで な く,も う落 伍 す る科 学 は ほ とん ど停 止 して 前 に進 まな い状 態 に な る とい う こ とで あ る。 近 代 ヨー ロ ッパ の科 学 は資本 主義 が 発 展 す る と と もに生 じて,発 展 して きた。16,17世 紀 ヨー ロ ッパ 資 本 主 義 は ち ょ う ど上 昇 の 時期 に あ り,商 業 と工 業 上 の多 くの新 しい技 術 問 題 を人 々 は努 力 して探 索 し,積 極 的 に科 学 理 論 を研 究 し,資 本 主 義 生 産 は 自然 科 学 の 発 展 に巨大 な影 響 を与 えた。 も し資本 主義 生 産 が発 展 す る こ とが な けれ ば, 近 代 自然 科 学 は存 在 しな い の で あ る。 中 国 で は資本 主 義 生 産 が順 序 よ く発 展 しな いた め,全 体 社 会 が 科 学 に強 く需 要 す る とい う形 成 に な らず,科 学 実 験 と技 術 革新,科 学 革 命 に必 要 な前提 条 件 が 取 れ な い ので あ る。 そ の た め,中 国科 学 が発 展 す る速 度 は大 い に遅 くな り,近 代 科 学 も中 国 で は生 じ られ なか っ た の で あ る。 50国 際 経 営 論 集No.181999

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七.海

外 貿 易 の 軽 視

封 建 社 会 の後 期 に まず スペ イ ン,オ ラ ン ダ な どの 国 の 政 府 は積 極 的 に 自国 の商 人 を励 ま して海 上 の貿 易 と探 険 を させ た 。 その 後15世 紀 に イ ギ リス,フ ラ ンス な どの国 々 で も同 じ よ う に商 人 を支 持 し海 上 貿 易 と探 検 が行 わ れ た 。 また,国 内 の手 工 業 の発 展 も奨 励 した 。 フ ラ ンス国 王 ル イ十 一 世 は しば しば, 自国 の 商 人 が 活 動 しな い こ とや危 険 を 冒 して まで大 きな経 済 を経 営 す る勇 気 が な い こ と に憤 慨 した。 イ ギ リス 国 王 ヘ ン リー 七 世(1485-1509年)は 法 令 を発 布 して船 を造 り,船 を買 う こ とを励 ま して海 上 貿 易 を促 した 。 お よそ80 トン以 上 の もの に は1隻 ご とに国 家 が20ポ ン ドの手 当 て を与 えた 。16,17世 紀 にな って か らは西 欧 各 国 は さ らに 自国 の商 人 が大 きな対 外 貿 易 会 社 を創 立 す る こ とを支持 した 。 イ ギ リス は1554年 に イ ギ リス ・モ ス クワ会 社 を創 立 しs ロ シ ア,ペ ル シ ァな どの 地 区 に対 す る貿 易 を専 門 に経 営 した 。 そ して1579年 に は イ ス トク ラ ン会 社 を成 立 させ,バ ル ト海 沿 岸 地 区 に対 す る貿 易 を経 営 し, 1581年 に は レフ ン トク会 社 を成 立,地 中海 東 岸 に対 す る貿 易 を経 営,1588年 に は ギニ ア会 社 を設 立 し,ア フ リカ,ア メ リカ な どに対 して略 奪 性 の貿 易 と 黒 人 奴 隷 の販 売 を経 営 した 。 そ の後 も1600年 に東 イ ン ド会 社 を設 立 して触 角 を東 方 の 中国 に伸 ば して い る。 その 間 に フ ラ ンス も積 極 的 に 自国 の 商 人 を支 持 して少 な くな い大 会 社 を組 織 し,そ れ ぞ れ に地 中海 沿 岸,ロ シ ア と中東 地 区 に対 す る貿 易 経 営 を した 。1604年 には専 門 的 にア ジア地 区 と貿 易 す るイ ン ド会 社,北 米 と貿 易 す るノル マ ンジ ー会 社 を設 立 した 。 西 欧 各 国 政 府 が とっ た これ らの政 策 は 自国 の 商 品 生 産 と商 品経 済 の発 展 を大 き く促 進 させ た。 一 方 中 国 で は,明 朝 の 鄭 和 が 七 回 に渡 り規 模 の 大 きな航 海 を した が,第 回 目 の航 海 で は総 員27800人 あ ま りの62隻 の 大 船 とな っ た。 そ の 中 で も大 き い船 の 長 さ は44.4丈,広 さ は18丈 で この よ うな規 模 の長 距 離 航 海 船 隊 は同 時 期 の 世 界 中 の どの 国 に もな く,地 理 大 発 見 時 代 の どの艦 隊 よ りも大 規 模 で あ 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索51

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っ た。 鄭 和 船 隊 の規 模,装 備,技 術 な どの航 海 能 力 につ い て論 じれ ば,そ の 当時 中国 人 は完 全 に地 理 の大 発 見 と海 外 貿 易 航 路 を開 くこ とが で きた で あ ろ う。 人 々 に惜 し まれ る こ とは,鄭 和 が西 洋 へ行 って以 来,明 朝 が長 距 離 航 行 す る船 隊 を再 び派 遣 しなか っ た こ とで あ る。 世 界 的 に有 名 な鄭 和 は航 海 す る とい う壮 挙 は した もの の,海 外 貿 易 を行 わ な か っ たが,こ れ には原 因 が あ っ た。 出 国 す る活 動 は表面 か ら見 る と明 朝 朝廷 が 遠 い財 富 に対 して欲 望 を抱 い て い る よ うに見 え,朝 廷 はそ れ を いや が っ た ので あ る。 また,地 理 大 発 見 上 の成 功 と経 済 動 力 の発 展 につ なが っ てい る よ うで あ るが,実 は そ うで は なか った。 鄭 和 が西 洋 に行 く目的 は経 済 的 な 要求 で はな く政 治 目的 で あ り,国 を 安 定 させ 懐 柔 政 策 を実 行 す る こ とにあ った。 鄭 和 に は七 回 に渡 る航 海 で,後 の西 欧 冒険 家 が 長距 離 航 海 す る よ う に巨額 の利 益 を得 ず,大 量 の金 銀,銅 銭, 磁 器,絹,綿 布 や 銅 器,鉄 農 具 を持 って行 き,引 き換 え る もの とい えば皇 室 と貴 族 官 僚 に使 う珍 しい宝 物,鳥 獣,香 料,薬 及 び い ろい ろな奢 修 品 な の で あ った 。 そ して毎 回 の航 海 で 消耗 す る資 金 が 巨 額 な た め国 庫 は底 をつ い て し ま った の で あ る。 政 治 目的 の も う一 つ の理 由 と して は建 文 皇 太 子 を探 しだす 7) た め とい う こ とが あ っ た 。

八.科

学技 術 を導 入 す る上 で の 弊 害

1 学 科 を導 入 す る体 系 で 科 学 方 法論,科 学 史 の よ うな文 献 が 乏 しか っ た。 エ ンゲ ル ス は 「一一つ の民 族 を科 学 の 高 い地 位 に立 て よ う とす れ ば,一 刻 に も理 H) 論 思 惟 が 離 れ な か っ た 。」 と言 っ て い る。 イ ギ リス の フ ラ ン シ ス ・べ 一 コ ン は,17世 紀 に 「科 学 の 歴 史 を 研 究 す る こ と は,私 達 を 助 け,類 理 性 の 本 質 と 用 途 を 発 現 す る」 と指 摘 した 。 フ ラ ン ス の ビ ュ フ ォ ン が1746年 に 出 版 した 巨 著 『自 然 史 』,モ ン テ ィ ク ラ の 『数 学 史 』(1758年),バ ー一イ の 『古 代 天 文 学 史 』(1775年)や 『近 代 天 学 史 』(1778-82年),ラ ラ ン ト ク の 『数 学 史 』 52国 際 経 営 論 集No.181999

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(1802年),ヒ ュ ー エ ル の 『帰 納 科 学 史 』(1837年),キ ュ ヴ ィエ の 『生 物 科 学 史 』(1841年)な どが あ る1892年 に フ ラ ン ス の フ ラ ン シ 学 院 が 「一 般 科 学 史 」 講 座 を 開 設 した 時 に は,中 国 で は全 く知 られ て い な か っ た 。 し か し,導 入 し た 文 献 を詳 細 に 考 察 す る と,た ま に医 学 史 や 科 学 方 法 論 な ど の 文 献 が 紛 れ こ ん で い た が,ほ とん ど重 視 さ れ な か っ た の で あ る。 2. 16,17世 紀 及 び18世 紀 の多 くの西 洋 科 学 の 重 要 な著 作 は,み な相 次 いで 中 国 に伝 わ っ て きた。 例 え ば コペ ル ニ ク ス の 『天 文 運 行 論 』,デ カ ル トの 機 何 学 』,ニ ュー トンの 『自然 哲 学 の数 学 原 理 』 な どが あ る。 しか し多 くの 著 作 が 漢 語 に翻 訳 され ず,ま た され た と して も翻 訳 と編 集 翻 訳 は み な 中国 に い る宣 教 師 と中 国人 の学 者 と共 同 で 行 わ れ て い た。 外 国 語 の で き る人 材 が 乏 し く,特 に外 国 語 も科 学 技 術 もで き る人 材 は少 な か っ た。 そ の た め西 欧 か ら伝 わ って きた 大 量 の先 進 的 な外 国語 科 学 技 術 書 籍 は あ るべ き作 用 を発 揮 で きな か った。 その ほか に も,18世 紀 末 期 以 前 の 西 洋科 学 の 中 で は一 番 重 要 な成 果 が伝 わ らず,例 え ば解析 幾 何,微 積 分,ニ ュー トン力 学,リ ンネ の生 物 分 類 法 と命 名 法 な どに関係 した 著 作 を訳 さなか っ た た めy中 国 で は知 られ る こ と が なか っ た。 この時 期 中 国 に伝 わ った もの の大 半 はそ の 頃 の西 方 で は先 進 的 な科 学 成 果 で は な か った。 先 進 的 な もの は紹 介 され な か っ た り,紹 介 され る の が遅 か っ たた め に そ の作 用 を発 揮 で きな か った の で あ る。 3. 積 極 的,系 統 的,そ して 全面 的 に西 洋 科 学 技 術 を導入 す る こ とが な か っ た。 近代 中国 政 府 は西 洋 科 学 技 術 を導 入 す る態 度 が 消 極 的 で あ った がt彼 らは一 貫 した 計 画 を持 っ て い た。 それ は全 方位 へ の 導 入 で は な く,た だ宣 教 師 に よ って伝 え る とい う こ とで あ った。 厳 密 に い え ば導 入 す る こ とが で きず,断 続 的 に伝 わ っ て きた とい う こ とで あ る。 しか し近 代 後 期 の 日本 政 府 は積 極 的 に 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索53

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西 洋 の 学 問 を 導 入 し て い た(蘭 学 とい う)。1740年 に青 木 昆 陽(1698-1769 年)や 野 呂元 文(1693-1761年)に 命 令 して オ ラ ンダ語 を勉 強 させ た 。 また, 政 府 が組 織 した初 めて の外 国 語 を勉 強 す るた め の機 構 は,日 本 で は1856年 の 蘭 学 館 で あ り,中 国 で は1862年 の京 師 同文 館 で あ るが,両 国 の 間 に は差 が あ っ た。 日本 は洋 学 を導 入 す る こ とを基 本 国策 と し,科 学知 識 が 国 を振 興 す る 基 礎 を作 る と考 えて い た た め,西 洋 の 科 学 者 と技 術 者 を招 き,学 校 を立 て て 学 問 を講義 し,訪 問 団 を派 遣 して,群 書 を広 く訳 した 。 また政 府 は専 門 的 な 調 査 を研 究 す る機 構 を設 立 して,世 界 で 新 し く出版 され る本 と学 校 を調 べ て, 国 民教 育 の テ キス トに な る よ う加 工 した。 つ ま り日本 は,積 極 的 に 導入 し, 効 率 よ く吸収 す る こ とで 近 代 西 洋 科 学 技 術 を全 体 的 に把 握 した の で あ った。

九.中

国 と ヨ ー ロ ッパ の 教 育 制 度 の 違 い

ヨ ー ロ ッパ は大 学 の 設 立 が 最 も早 く,中 世 の ヨー ロ ッパ に 教 会 大 学 が で き て い る 。 教 会 学 校 で は神 学 教 育 を 主 に し て い た が 「七 種 自然 芸 術 」 も あ り, そ の 中 に は弁 証 法,算 術,幾 何 と天 文 学 な どが あ っ た 。 大 学 に は 自 由 芸 術 学 部,医 学 部,物 理 学 部 な どが あ り,分 科 学 習 の 傾 向 が あ っ た 。 この よ う な 課 程 を設 け る こ とで 分 科 教 学 は多 か れ 少 な か れ 人 々 に 自然 科 学 に触 れ る機 会 と 研 究 す る チ ャ ン ス を 提 供 し た 。11,12世 紀 以 後 に は都 市 工 商 業 の 発 展 や 自 治 都 市 が 出 現 し,市 民 階 層 に よ る文 化 知 識 の 需 要 が 増 え た た め,世 俗 的 な都 市 大 学 が ま ち ま ち に 設 立 し て い っ た 。 有 名 な の は イ タ リ ア の ポ ロ0ニ ャ大 学 (1158年),フ ラ ン ス の パ リ大 学(1160年),イ ギ リス の オ ッ ク ス フ ォ ー ド大 学(1168年)と ケ ン ブ リ ッ ジ大 学(1209年)な どで,14世 紀 ま で に は イ タ リ ア の 大 学 は18カ 所,フ ラ ン ス に は16カ 所,ヨ ー ロ ッ パ 全 体 で は40カ 所 と な っ た 。 い わ ゆ る"大 学 は 科 学 者 の 揺 りか ご"で あ る。 ル ネ サ ン ス 期 に 多 くの 科 学 者 は 大 学 教 育 を 受 けた こ とが あ り,そ の 後 の 中 世 の 学 術 の 中 心 は修 道 院 か ら都 市 大 学 に 変 わ っ て い る 。 教 育 事 業 も教 会 の 独 占 か ら抜 け 出 し始 め て,大 54国 際経営論集No181999

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き く発 展 した。 特 に専 門 的 な科 学 技術 教 育 大 学 と研 究 機構 の 出 現 ,発 展 は科 学 技 術 の進 歩 に新 しい活 動 を注 ぎ,そ の 結 果 予 備 軍 も増 えた。 しか し,そ の 当時 の 中 国 に は大 学 も科 学 技術 教 育 もな く,封 建 科 挙 教 育 が 科 学 技 術 の 内容 を排 斥 して い る状 況 だ った 。知 識 界 は た だ た だ科 挙 を尊 び,科 学 技術 を軽 蔑 した の で,科 学 技術 人 材 を育 成 で きず科 学 技術 隊 列 は形 成 され る こ とは なか っ た。 この よ うなな か で 知 識 分 野 か ら抜 きん 出 た 少 数 の人 材 と して は ,例 え ば沈 括,徐 光 啓 な どで彼 ら は教 育 制 度 保 証 の産 物 で はな く,自 ら成 功 す る も の の代 表 で あ った 。 他 に は李 時 珍,徐 霞客 ,宋 応 星,李 善 蘭,顧 観 光,徐 寿, 華 衡 芳 な どが い た。 中 国 は 日本 とは科 学 教 育 の差 が大 き く開 い て い た。1868年8月 に明 治 天皇 が即 位 した 時 に は 「世 界 か ら知 識 を求 め る こ とは皇 業 で あ る」 と示 した 。 教 育 の基 本 的 政 策 を確 立 して か ら,1872年 に は 「新 学 制 」 を発 布 しテ キ ス トの 内容 は全 て西 洋 を まね て つ くられ て お り,例 え ば数 学 に は算 術,代 数,幾 な ど を使 用 した。 そ して和 算 は除 かれ た。 この よ うな措 置 は西 洋 科 学 技 術 の 導 入 の安 定 した基 礎 を築 い た。 旧 学 制 を排 除 す るの に中 国 で は 日本 よ り も30 年 近 くか か っ た が(1903年 癸 卯 学 制 改 革 科 挙),こ の こ とが 日本 との 差 の肝 心 な点 で はな くて,中 国 の新 学 制 は"琵 琶 を抱 い て顔 を半 分遮 る"と い う こ とを指 し示 した点 に あ るの で あ る。1907年 まで に教 育 改 革 を宣 言 した が ,新 式 学 校 は あ い か わ らず,旧 学 や 新 学(科 学),そ して 科 挙 を排 斥 して か ら生 まれ た 中学(四 書 五 経),西 学(科 学 技 術)を 兼 ね備 え た課 程 内容 を堅 持 し た 。 学 生 は毎 日経 書 を読 む こ とを要 求 され ,必 ず 自分 の人 格 を磨 き修 養 を積 む こ と も求 め られ た 。 洋 学 研 究 機 構 と教 育 機 関 を建 て る こ とで も,日 本 は中 国 よ りず っ と早 か っ た 。 日本 は1844年 に明 倫 館 を建 て,1854年 に は 召 友 館 ,1855年 に は洋 学 所 (東 京 大 学 の前 身)を 建 て て い る。 中 国 で は1862年 に 同 文 館 ,1867年 に上 海 機 械 学 堂,1880年 に は北 洋 獅 学堂,1889年 に は北 洋 大 学 腱 て て し、2.そ の 後 も1898年7月 に 北 京 で 京 師 大 学 堂 を 創 立 し,1910年 に は科 目 を経,法, 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索55

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文,格 致,農,工,商 の七 科 目 に変 え,1912年5月 に は北 京 大学 と改名 して い る。 中 国 の 大 学 は そ の 後 も設 立 され るが 遅 か った 。 日本 で は,明 治13年 (1880年)に も う1カ 所 に大 学 が で き,明 治43年(1910年)に は大 学 はす で に54ヵ 所 に増 えて い た。 近 代 科 学技 術 史 の発 展 か ら見 る と,中 日両 国 の近 代 大 学教 育 の 始 ま りはだ いた い 同 じで あ った が,日 本 の発 展 が 早 い の に対 して 中国 は発 展 が 遅 か っ た。 日本 が西 洋 科 学 技 術 水 準 に追 い つ い た の に対 して, 中 国 は西 洋 科 学 技 術 との差 が大 き くな って い った。

十.封

建 政 府 で創 立 す る科 学技 術 の 弊 害

封 建 政 府 で 創立 す る科 学 技術 は規 模 が 大 き く労 力 や物 資 が 集 中 して い る た め,科 学 技術 の発 展 に は有 利 で あ った 。 しか し この類 の科 学 技 術 は統 治 者 に 奉 仕 す る こ とを 目的 として お り,重 要 な 科学 技 術 項 目 を独 占 した た め,大 半 の科 学 技 術 の成 果 は社 会 全 体 に向 か う こ とは な く,全 体 社 会 生 産 の発 展 を妨 げた 。 そ して,こ れ らの政 府 で 創 立 す る科 学 技 術 事 業 の ほ とん どは大 官 僚 が リー ダ ー とな っ て い るが,官 僚 自身 は科 学 技 術 の知 識 が な く,科 学技 術 人 員 の 多数 も封 建 官僚 で あ るた め,封 建 官僚 体 制 で は 自然 科 学 を研 究 す るだ け で, 新 しい技術 を発 明 す る とい う職 責 を果 た して い な い の で あ る。 清 朝 末 期 に は 「洋務 運 動 」 が 行 わ れ た が,こ の 時 期 に政 府 が創 立 した 多 くの工 場 と炭 鉱 は 官 僚 式 に管 理 され て い た た め,汚 職 をす る こ とが 気 風 とな って いた 。 そ して これ らの こ とは科 学 技術 が 発 展 す る上 で多 くの弊 害 とな っ た。

十 一.中

国科 学 技 術 体 系 の 弱 点 と欠点 が 与 え る発 展 への 影 響

1 中 国 の 古 代 科 学 技 術 体 系 が 長 期 に亙 り存 在 す る こ とで,壁 が 形 成 さ れ そ の た め に あ る 程 度 の保 守 性,独 立 性,排 外 性 が 生 ま れ た 。 体 系 自身 の 充 実 と発 56国 置i祭経営論集No.181999

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展 に した が って,こ の問 題 が ます ます突 出 す る一 方 で ,新 しい科 学,技 術 の 成 果 及 び科 学 思想 の 出 現 は抑 制 され た 。 それ は,外 来 の 科 学技 術 の知 識 を吸 収 す る こ とに対 して大 きな選 択 や排 斥 を した が た め に,世 界 の優 秀 な科 学 技 術 を吸 収 せ ず に近 代 科 学 技術 は発 生 しな か った。 一 方 西 欧 国 家 で は,他 の地 区 の科 学 技 術 を勉 強 す る こ とを基礎 に,互 い を参 考 しあ い,互 い に促 進 して 近 代 科 学技 術 を形 成 して い っ た。 2, 近 代 中国 の伝 統 的 な科 学 技 術 は,ヨ ー ロ ッパ近 代 科 学 の よ うな厳 密 な理 論 体 系 に乏 しか った。 普 遍 的 な科 学 規 律 と法 則 を得 られ な いの で,当 然近 代 科 学 の高 さに まで は上 れ な か った。 ① 実 際 上 の 応 用 に満 足 して,理 論 上 の探 索 討 論 を重 視 しな か った。 中 国 の伝 統 的 な科 学 の著 しい特徴 は実 用 性 が高 い こ とで あ る。 古代 か ら残 っ て き た 多 くの科 学 技 術 は,大 体 は その 時 の 生産 経験 を直 接 的 に記 載 し ,ま た 自然 現 象 を直 接 的 に描 写 して い るに す ぎな か った。 推 測 性 の 議 論 の ほか に は わ ず か な科 学 理 論 的 な分 析 で研 究 を行 っ て い た。 天 文 学 の研 究 は歴 法 を制定 す る た め に行 わ れ,ま た農 牧 業 生 産 実践 と連 係 した 。 地 学 研 究 は,戦 争,生 産 と 生 活 の た め に行 わ れ た 。 医 学 研 究 は,臨 床 医療 の た め に行 わ れ た。 生 物 学 研 究 は,主 に農 業 と牧 畜 業 の経 験 を述 べ る た め に行 わ れ た。 数 学 は生 産 実践 で で あ った 問題 を整 理 し帰 納 して か ら具 体 的 な答 案 方 法 を求 め る もの だ った 。 実 用 伝 統 と連 係 す る他 の伝 統 も理 論 を重 視 しな か った。 職 人 は ただ 師 匠 の技 術 を受 け つ い で 同 じ よ う に行 い,疑 問 を抱 かず,学 者 はた だ生 産 実践 中 の経 験 を記 述 す るの みで あ る範 囲 内 で科 学 研 究 の部 分 を休 止 して い る。 科 学理 論 方 面 の研 究 も進 ん で お らず,新 しい発 見 も少 な か った 。 他 に も,中 国古 代 の思 弁性 思惟 が 発 達 したが,こ れ らの 思弁 性 思惟 は往 々 に して 経験 また は実 験 事 実 の み で,基 礎 にす る ものが 乏 しか った。 また,空 漠 た る議 論 が 多 く実 質性 の 内容 が 少 な い の で,現 象 を解 釈 す る こ と は浅 く, 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索57

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表面 的 な もの とな り,厳 密 な科 学 理論 形 成 を妨 げた 。 ② 科 学 実 験 の精 神 が 乏 しい。 科 学 実験 は特 に近 代 科 学 技 術 の発 展 に重 要 な作 用 を起 こ した 。 ア イ ン シ ュ タ イ ンは,友 人 に送 った 手紙 の 中 で 「中 国 は 以 前 か らユ ー ク リ ッ ド幾 何 学 と実 験 方 法 が 乏 しい た め,近 代 科 学 が誕 生 す る こ と を 妨 げ る.:.wwな 原 因 を 作 っ て い 紫 」 と 言 っ て い る.ヨ ー ・ ッ パ 近 代 科 学 は大 量 の 科 学 実 験 とい う基 礎 の 上 に成 り立 っ て い た の で あ る 。 一 番 早 く実 験 の 重 要 性 を 認 識 し,系 統 的 に 論 じ た の は,13世 紀 の ロ ジ ャ ー ・べ 一 コ ン で あ'8,べ_コ ン は,実 験 こ そ 科 学 を轍 ・に す る と い う こ と を 言 っ た ・ 彼 は 実 験 科 学 が他 の 科学 よ り もっ と重 要 で優 れ てお り,科 学 の 証 明 に は実 験 が 必 要 で あ る とみ な して いた 。 各 種 の論 証 に よ る科 学 は,ど ん な に推 理 力 が あ って もそ れ ら は確 実 性 を提 供 され な い。 実 験 な しで は その結 論 を証 明 す る こ とは で き ない の で あ る。 それ か らダ ・ビ ンチ は また 「科 学 は も し経 験 か ら生 まれ ず,素 晴 ら しい実 験 を終 え な か っ た ら,少 し も用 途 が な く,実 験 が あ ま り良 い もの で な けれ ば まち が いが 多 くあ る。 実験 は科 学 の母 だ 」 と述 べ て い る。 つ け加 えて 言 え ば,16世 紀 イ ギ リスで は フ ラ ンシ ス ・べ 一 コ ンは,科 学 と技 術 の 発 展 を促 して い る新 しい科 学 方 法 は,ま ず観 察 と実 験 科 学 に基 づ き,多 くの事 実 を探 して か ら比 較 し,類 別 に帰 納 す る可能 の仮 説 を表 して,最 後 に い ろい ろな 実験 の検 証 を して 科学 の 知識 を得 られ るの だ と述 べ て い る。 以 上 の こ とは科 学 実 現 を深 く認 識 し,重 要 な論 述 は西 欧 科 学 家 の鋭 利 な刃 物 とな り,古 代 科 学 の か た い殻 をや ぶ って,人 々 の近 代 科 学 技 術 へ の 道 を早 急 に進 ませ た。 べ 一 コ ンの理 論 は,科 学 上 の コ ロ ン ブ スの よ うに近 代 科 学技 術 運 動 に発 展 の 動 力 と方 向 を示 した 。 西 洋 の近 代 科 学 技 術 は分 析 で勝 利 し,総 合 す る こ とが 強 く分 析 す る こ とが 弱 点 で あ った 中 国 は この分 析 時代 に劣 っ て い た。 ル ネ サ ンス以 後 ヨー ロ ッパ の科 学 思想 と科 学 方 法 は全 て大 き く変 革 し,実 験 科 学 が 主 とな った 。 全 て の 結論 は教 義 か ら来 ず,必 ず 観 察,実 験 を し,こ れ らは ヨー ロ ッパ 科 学 で重 要 な地 位 を占 め て い た。 フ ラ ン シ ス ・べ 一 コ ンが提 唱 した帰 納 法 とデ カル トが提 唱 した演 繹 法 は近 代 科 学 を生 み,発 展 させ る道 58国 際 経 営 論 集No.181999

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をつ く りだ した 。 特 に,目 的 を もった 特定 の 実験 を す る こ とが近 代 科 学 の成 立 に重 要 な意 義 が あ り,近 代 科 学 は特 定 の設 定 に よ っ て,そ の過 程 の 実験 基 礎 か ら生 まれ,発 展 して い った と言 え る。 近 代 ヨー ロ ッパ の 著名 な物 理,化 学,生 物 学 家 の ガ リレイ,ニ ュー トン,ボ イル,ラ ヴ ォア ジ ェ,ハ ー ヴ ィな どは誰 も科 学 実 験 を切 り離 して はい な い。 比 較 して み る と,中 国 は極 め て 科 学 実験,特 に定 量 の科 学 実験 精 神 に乏 し か った 。 天 文観 測 が 歴 代 に お い て重 視 され て い る に もか か わ らず ,物 理 学 と 化 学 の 実験 は軽 視 され,少 数(例 えば煉 丹 家 の 沈括,趙 友 欽 な ど)が あ る実 験 を して も人 々 に は重 視 され なか った 。 そ して定 量 の 実験 を しな けれ ば ,自 然 界 の い ろ い ろ と複 雑 な現 象 をそ れ ぞ れ に分 離 す る こ とが で きず,深 い 分析a 研 究 が で きな い。 お お か た の結 論 しか 導 き出 せ な いの で あ る。 精 密 な定 量 実 験 が で きな い原 因 の一 つ に は,ガ ラ ス の質 が 悪 い こ とが あ る。 中 国 の ガ ラ ス 実験 器 具 の 製 造 は西 欧 に比 べ て遅 れ て いた の で,ほ とん どガ ラス器 具 で化 学 実 験 をす る こ とは な く,陶,磁,缶 を用 い て実 験 を行 っ て いた 。 そ の た め焼 く処 理 に耐 え る こ とが で きず観 察 に は む か ず,重 い の で使 い に くか った 。 ま た 多種 類 の精 密 計 器 を作 る こ とが で き なか った 。 ③ 中 国 古代 科 学 技術 構 造 が 近 代 科 学 技 術 革 命 の発 生 を不利 に して い た。 16世 紀 に な って か ら,西 欧 は しだ い に構 造 性 自然 観,定 量 実験 と開 放 性 技 術 体 系 で組 み 立 て る科 学 技 術 構 造 を確 立 した 。 この構 造 は科 学 理 論 ,実 験,技 術 の三 者 間 で互 い に推 し進 め あ う循 環 加 速 メ カニ ズ ム を持 っ て い るの で,科 学 技術 革 命 を促 進 した。 中 国封 建 社 会 の科 学 技 術 構造 で は,こ の 三 者 が互 い に離 れ てお り,促 進 しあ うメ カ ニ ズ ム に な っ て い な か っ た た め,近 代 科 学 技 術 革 命 の運 行 レー ル に は乗 りに くか っ た。

十二.科

学 哲 学体 系 を形成 しな か った 中 国近 代 哲 学

中国 で は 自然 哲 学,科 学 哲 学体 系 が 乏 しい の で,自 然 界 の知 識 を総 括 し整 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索59

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l2) 理 して,理 論体 系 を形 成 す る こ とが不 利 で あ り,自 然 科 学 が発 展 しに くい。 西 方 科 学 と哲 学 の歴 史 上 で は,多 くの科 学 者 が 同 時 に哲 学 者 で もあ った 。例 え ば,ピ タ ゴ ラ ス,ア リス トテ レス,ベ ー コ ン,ラ イ プ ニ ッツ,デ カ ル ト, カ ン ト,シ ュ レデ ィ ンガ ー,ボ ー ア,ハ イ ゼ ンベ ル ク,ポ ッパ ー な どは科 学 と哲 学 の歴 史 の殿 堂 に輝 か し く名 をつ らね て い る。 しか し,こ の よ うに科 学 と哲 学 が結 び つ くこ とは中 国 で は少 ない 。 一 方 で 前 述 した西 洋 学 者 達 は強 い 自然 哲 学 思 想 を持 っ て お り,例 え ば 「始 基 」 とい う概 念,原 子 論 思想,天 体 =構造 思 想,天 体 演 化 観 念 な どはみ な西 洋 科 学 哲 学 者 が初 め に言 い だ した もの で あ る。 中 国 の伝 統 的 な思想 方 式 は科学 技 術 の発 展 をひ ど く妨 げ て い た。 中 国 に は古代 か ら直 覚 思 想 の伝 統 が あ っ たが,論 理 の方 法 は ヨー ロ ッパ に は及 んで い なか っ た。 つ ま り真 の知 識 と見解 はあ る けれ ど,科 学 的 な論 理 体 系 に はな っ て い な い の で あ る。

十 三.中

国近 代 政 府 の科 学研 究機 構 未 設 定 と科 学 技 術 交流 の 現 実

中 国近 代 政 府 は総 合 性 の 国 家 レベ ル の科 学研 究 機 構 を設 けて い な い。 つ ま り,国 家 の 科 学技 術 研 究 組 織 の 中心 が な い の で あ る。 そ ん な 中 で どうや って 近 代 科 学 技 術 を中国 で誕 生 させ る と こが で き よ うか。 また どうや って近 代 科 学 技 術 の発 達 した 国家 と一 緒 に進 む こ とが で き よ うか 。 比 較 して み る と,イ ギ リス は1660年 に皇 家 学 会 を創 立 して い る。 フラ ンス は1666年 にパ リ科 学 院(す なわ ち フ ラ ンス科 学 院)を 創 立 して い る。 ドイ ツ は1700年 にベ ル リン学 会(す な わ ち ベ ル リン科 学 院)を 創 立,ロ シ ア も1740 年 にサ ン ク トペ テ ル ブル ク学会(す なわ ちサ ンク トペ テル ブル ク科 学 院)を 創 立,中 で も ドイ ツ とロ シ ア は科 学 院 の建 設 を強 化 す るた め に 多 くの外 国 科 学 者 を招 い て い て,そ の 中 に は長 期 間職 を勤 め た者 もい た。 中 国 で は国家 レ 13) ベ ル の 科 学 研 究 機 構 中 央 研 究 院 は1928年 に建 っ て い る 。 しか し,中 国 近 代 政 府 は 国 と国 との 間 で 科 学 技 術 交 流 を す る こ と を 認 め て い な か っ た 。 徐 建 寅 は 60国 際経営論集No.181999

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ヨー ロ ッパ に行 き考 察 して も,た だ考 察 した だ けで 交 流 した とは い え な い。 中国 と西 洋 諸 国 の真 の科 学 者,技 術 専 門 家 が 互 い訪 問 す る こ と もほ とん どな か った 。 それ に対 して}同 時 代 の ヨー ロ ッパ 各 国 間 の 科 学 者,技 術 専 門家 は 互 い に訪 問 し あ い,合 作 研 究 す る こ と も頻 繁 に行 わ れ て いた 。 この よ うな例 を あ げ る と数 え きれ な い。 留 学 生 を派遣 す る こ と は,ヨ ー ロ ッパ 各 国 で はル ネサ ン ス期 に も とて も盛 ん で あ った。1847年 に な る と,中 国 で も容 闘 ,黄 寛 な どが初 め て米 国 に留 学 し,1872年 にや っ と政 府 が第 一 陣 で あ る窟 天 佑 な ど30人 を米 国 に派遣 し留 学 14} させ た。 この よ うに 中国 近 代 政 府 は,科 学 技 術 考 察 と交 流 へ の動 作 が遅 か っ た。 そ して それ は極 め て中 国 近 代 科 学 技 術 が発 展 す る過 程 を延 ば させ て い る 。 1582年 イ タ リア宣 教 師 マ テ オ ニ リ ッチが 中国 に来 た時 ,皇 帝 や 臣 下 達 な ど多 くの人 々 は彼 か ら西 洋 の こ とを学 ん だ。 しか し,中 国 政 府 は そ の時 に外 国 を 訪 問 した い とい う思 い を抱 か な か っ た。 対 して,日 本 は ち ょ う ど この年 に伊 東,千 石 な ど4人 の 少年 で構 成 され た 使 節 団 を ロー マ に派遣 して い る。4人 は西 洋 人 宣 教 師 に つ れ られ て海 路 イ ン ドを通 り,1585年 に ロー マ に到 着 しそ して1590年 に は 日本 に掛 け時 計 や腕 時 計,地 球 儀 ,活 字 印 刷機 な ど を持 ち帰 っ て い る。 また 中 国 と日本 との 大 き な 違 い は1871年 ,日 本 政 府 は 岩 倉 具 視 (1825-83年)を 始 め とす る100人 余 りの政 府 の 重 要 人 物 達 で構i成 した 高 級 訪 問 団 を派遣 して,ヨ ー ロ ッパ を考 察 させ て い る こ とで あ る。 そ れ以 降 も政 府 は い ろい ろな視 察 団 を派 遣 し,彼 らは イ ギ リス,ア メ リカ な どで勉 強 し経 験 を つ み,大 量 の科 学 技 術 文 献 を持 っ て帰 っ た。 この よ う な こ とが,日 本 近 代 科 学技 術 の 発 展 を加 速 させ た。

十 四.西

洋 人 へ の 依 存 性

近 代 中 国 が 科 学 技 術 知 識 の伝 播 に西 洋人 の助 け を必 要 と した こ とは,言 う まで もな い。 しか し,す べ て を西 洋 人 に頼 るの で はな く,早 急 に 自 国 の人 材 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索61

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を養成 して 逐 次代 えて ゆ くので な けれ ば,自 国 の科 学 事 業 の有 効 な発 展 は の ぞ め な か っ た。 西 洋 人 に過 度 に依 存 す る状 況 は,中 国 で は きわ め て長 い期 間 継 続 した。 例 えば,明 末 の 『泰 西 水 法 』 か ら,清 末 の 『博 物 新編 』,『格物 探 原 』 等 の一 連 の 科 学 書 に至 る まで,表 面 上 は徐 光 啓,徐 寿 等 が 参 加,共 訳 し て い るが,実 質 的 に は漢 語 に通 暁 した西 洋 人 の 口述 を中 国人 学 者 が筆 記 した もの で あ った。 また,最 初 の 科 学 系学 校 で あ る格 致 書 院 の 設 立 も,最 初 の 科 学 刊 行 物 で あ る 『格 致 睡編 』 や 最 初 の月刊 紙 で あ る 『東 西 洋 考 毎 月統 計 伝 』 の創 刊 もsす べ て主 要 部 分 また は全 部 を西 洋 人 に頼 る こ とに よ って完 成 され た。 日本 で は逆 に,自 国 の 人 材 に よる西 洋 科 学 技 術 の導 入 に重 点 を置 い た。 例 え ば,日 本 で 最 初 の 洋 書 の翻 訳 で あ る 『解 体 新 書 』(1774年)は,前 野 良 沢 (1723-1803年),杉 田 玄 白(1733-1817年),中 川 淳 庵(1739-86年)ら が 自分 た ち で訳 出 した もの で あ り,日 本 で 最 初 の 化 学 の 翻 訳 書 『舎 密 開 宗 』(1837-47年)も また,日 本 人 学 者 宇 田川 樒 庵(1798-1846年)が 独 自 に完 成 した も の で あ る。 この よ うに 日本 は西 洋 科 学 の導 入 に あた って 最初 か ら自力更 生 的 基 礎 を築 きあ げ,以 後 の伝 播 の 仕事 にお け る規範 を樹 立 した。 日本 か らの 西 洋 へ の 留 学 生 派 遣(内 田正 雄,榎 本 武 揚 西 周 等15人 が オ ラ ンダへ 〉 は1862年,中 国 か らの ア メ リカ へ の派 遣 は1872年 で10年 遅 れ た。 日 本 の ヴ ォル テ ー ル と称 さ れ る福 沢 諭 吉(1835-1901年)が1862年 に ロ ン ドン で 中 国 官吏 と交 わ した 談話 に よれ ば,当 時 の 中国 で西 洋 語 の翻 訳 と教 授 が で き る者 は全 国 で11人 に過 ぎな か っ た の に対 し,日 本 で は500人 に達 して い た とい う。 この よ うな状 況 下 で は中 国 の洋 学 は西 洋 人 に頼 る ほか な く,日 本 で は 日本 人 に よ って い た か ら丁両 国 にお け る洋 学 の伝 播 と,自 国 の 科 学 技術 事 業 を発 展 させ る速 度 とその 水 準 に差 異 が 生 じた の は,言 う まで もな い こ とで あ った 。 62国 際 経 営 論 集No.181999

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十 五.外

1842年 か ら1911年 の 間,西 洋 は清 朝 と515個 の 条 約 を締 結 した 。 一 つ例 を あ げ る と,辛 丑 条 約 で は,中 国 は銀4億5000万 両 の賠 償 金 を要 求 され た 。 そ れ は39年 間 にわ け て支 払 わ れ,毎 年 の利 息 は4厘 で 結 局 は全 部 で9億8000万 両 とな った。 これ は清朝 の12年 の 収 入 に相 当 す る。 清朝 は支 払 っ た銀 の 数 量 は何 と膨 大 な量 だ ろ うか。 国力 は非 常 に衰 弱 し,こ れ が清 朝 の科 学 技 術 が 更 に落 伍 した 主 な原 因 の一・つ とな っ た。 世 界 近 代 科 学 技 術 発 展 史 か ら この よ うな結 論 が導 き出 せ る。 どの 国 で も外 に対 し,積 極 的 に外 国 の先 進 的 な 科 学 技術 を吸 収 し,内 で は 自分 の 国 の 科 学 技 術 を発 展 させ る こ とを重 視 す る。 そ うす れ ば必 ず 前 進 で き るの で あ る 。 し か し7反 対 にそ れ を しな けれ ば落 伍 して し ま う。 近 代 の 中 国 と ヨー ロ ッパ で 言 え ば,落 伍 して い た ヨー ロ ッパ は努 力 し進 歩 し発 達 した。 一 方,か つ て は 先 進 的 で あ った 中 国 は それ を怠 っ た た め に落 伍 した。 しか し歴 史 は再 び 前 に 進 ん で い る。 新 中 国 は,ま た新 しい基 礎 の上 に発 展 して ,新 しい時 代 を実 現 で きるだ ろ う。

上 述 の よ うな社 会 制 度 的,歴 史 的,思 想 的,研 究 方 法 的 ,教 育 的 な どの 要 因 の他 に膨 大 な人 口や領 土 とい っ た物 理 的 な原 因 も加 わ って ,中 国 の 西 洋 科 学 技 術 の 受 容 は遅 滞 した もの と考 え られ るが,こ れ らの原 因 の う ち あ る部 分 ユろラ は新 中 国 に も残 され た課 題 で あ る。 中 国近 代 科学 技 術 の 発 展 が 遅 れ た原 因 の探 索63

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注 1)イ ギ リス,ジ ョセ ブ ・ニ ー ダ ム著 『中 国 科 学 技 術 史 』第1巻 第1分 冊 第43 頁 。 2)ジ ョセ ブ ・ニ ー ダ ム著 『中 国 科学 技 術 史 』第1巻 第1分 冊 第3頁 。 3)ア メ リカ,セ イ ウ ン稿 「なぜ 中国 は近 代 科 学 革 命 が 発 生 しな か った 」 『科 学 と哲 学 』 第1号(1984年)。 4)田 育 誠 著 『中 国 と世 界 科 学 文 化 発 展 』 吉 林 科 技 出版 社,第234頁,1993年 。 5)佐 佐 木 揚 著 「清 国初 代 駐 英 公使 郭 嵩 煮 の 明 治 初 期 日本 論 」 『東 方学 』第 八 十 三 輯 。 6)杜 石 然 他 編 著,川 原 秀 城 他 訳 『中 国 科 学 技 術 史』 下,東 京 大 学 出 版 会, 1997年 初 版 。 7)侃 健 民,宋 宜 昌 主 編 『海 洋 中 国F中 巻,第671-689頁,中 国 国 際放 送 出 版 社,1997年 初 版 。 8)エ ンゲル ス 『自然 弁 証 法 』 第29頁,人 民 出版 社,1971年 。 9)鄭 登 雲 編 著 『中 国近 代 教 育 史 』 第22-49頁 。華 東 師 範 大 学 出版 社,1994年 。 10)藪 内 清 著 「中 国 科 学 の伝 統 と特 色 」 『科 学 と哲 学 』 第62頁,1984年,第1 号 。 11)湯 浅 光 朝 著 『科 学 文 化 史 年 表 』 第34-35頁 。科 学技 術 出版 社,1984年 。 12)田 育 誠 著 「論 明清 科 技 文献 の輸 入」 『中 国 科 技 史 料 』 北 京 科 学 技 術 出版 社, 1993年,第3号 。 13)何 莫 生,梁 成 瑞 著 『中 国 民 国 科 学 技 術 史 』 第14-17頁,人 民 出 版 社,1994 年 。 14)田 育 誠(共 著)『 日 中 文 化 比 較 研 究 』 第204-205頁,文 化 書 房 博 文 社, 1999年7月 。 15)劉 学 銘,山 口達 明 著 「近 代 西 欧 科 学 技 術 の 受 容 に 関 す る 日中 の比 較 」 『大 学 院 研 究 年 報 』 第17号,1988年3月 。 参 考 文 献 1)『 中 国 の 科 学 と 文 明 』 第1巻,ジ ョ セ ブ ・ニ ー ダ ム(JosephNeedham)著 ・ 日 本 語 版 監 修 東 畑 精 一,藪 内 清,思 索 社,1974年 初 版 。 2)『 中 国 の 科 学 と 文 明 』 ロ バ ー ト ・K・G・ テ ン プ ル 著,牛 山 輝 代 監 訳,ジ ョ 64国 際 経 営 論 集No.181999

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セ ブ ・ニ ー ダ ム 「序 文 」 河 出 書 房 新 社 ,1992年 初 版 。 3)『 中国 の科 学 と 日本 』 藪i内 清 著,朝 日新 聞 社,1972年 初 版 。 4)『 科学 史研 究 入 門 』 中 山 茂,石 山 洋 著=,東 京 大 学 出 版 会,1987年 初 版 。 5)『 幕末 の洋 学 』 中 山 茂 編,ミ ネ ル ヴ ァ書 房 ,1984年 初 版 。 6)『 日本 科 学 者 伝 』 常 石敬 一 ほか 著,常 石 敬 一 解 説 ,小 学 館,1996年 初版 。 7)『 科 学 と西 洋 の世 界 制 覇 』K・ ソ ンデ ル ス ゾー ン著 ,常 石 敬 一 訳,み す ず 書 房,1980年 初版 。 8)『 日本人 と近 代 科 学 』村 上 陽 一 郎 著 ,新 曜 社,1980年 初版 。 9)『 近 代 中 国科 技 史 論 集 』 楊 翠 華,黄 一 農 編,台 湾 中 央 研 究 院,清 華 大 学 出 版,1991年 初 版 。 10)『 ア ジ ア科 学 と文 明』 趙 令 揚,凋 錦 榮 編 ,香 港 明報 出版 社91995年 初 版 。 11)日 本 現代 史 大 系 『科 学 史 』 湯 浅 光 朝 著 ,東 洋 経 済 新 報 社,1965年 第2刷 12)『 中 国 と世 界 科 学 文 化 発 展 』 田 育 誠 著,第224-230頁 「中 国 清 代 の科 学 技 術 」 吉 林 科 技 出版 社,1993年 初 版 。 13) 14) 15) 16) 『科 技 文 鈎 沈 訳 評 』 田 育 誠 著,教 育 音 像 出版 社,1991年 初 版 。 「科学 史 と愛 国 主 義 」 田 育 誠 稿 『人 民 日報(海 外 版)』 北 京,1991年2月 『世 界 近 代 科 学技 術 発 展 史 』 下,童 鷹 著,上 海 人 民 出版 社 ,1990年 初 版 。 『李 鴻 章 と中 国 近 代 化 』 周 軍,楊 雨 潤 主 編,安 徽 人 民 出 版 社 ,1989年 初 版 。 17)中 日文 化 交 流 史 大 系 『科 学 技 術 巻 』 李 延 挙 ,吉 田 忠 主 編,漸 江 人 民 出 版 社,1996年 初 版 。 18)『 中国 科 学 文献 翻 訳 史 稿 』 黎 難 秋 著,中 国 科 学 技 術 大 学 出 版 社 ,1993年 初 版 。 19)「 中 国 と日本 科 学 文 化 交 流 発 展 の研 究 」 田 育 誠 稿 『国 際 経 営 論 集 』 神 奈 川 大 学,1997年6月 。 20)清 末 学 術 史 論 『真 文 明 の探 索 』 朱 維 鐸 著,上 海 古i籍出 版 社,1997年 第2 刷 。 21) 22) 23) 24) 25) 『中西 文 化 交 流 史』 沈 福 偉 著,上 海人 民 出版 辻,1993年 第3刷 『宣 教 師 と近 代 中 国 』 顧 長 声 著,上 海 人 民 出 版 社,1995年 第4刷 『中華 開放 史 』凋 天 喩 他 著,湖 北 人 民 出版 社,1996年 初 版 。 『中国 の近 代 と現 代 』 浜 口允 子 編 著,放 送 大 学 教 育 振 興 会 発 行,1993年 初 版 。 『重 商 主 義 と西 洋 の東 漸 』渡 邊 與 五 郎 著,至 誠 堂 出版,1986年 初 版 。 中国近代科学技術の発展が遅れた原因の探索65

(26)

26)『 洋 学 事始 』渡 邊 與 五 郎 著,文 化 書 房博 文 社,1993年 初 版 。 27)『 東 ア ジ アの 科 学 』 吉 田 忠 編,勤 草 書 房,1982年 初 版 。 28)『 近 代 日本 そ の科 学 と技 術 』 紫 藤 貞 昭,矢 部 一 郎 編 著,弘 学 出版 株 式 会 社, 1990年 初 版 。 29)『 東 ア ジ アの 近 代 』 加 藤 祐 三 著,講 談 社,1990年 第5刷 。 66国 際 経 営 論 集No.181999

参照

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