18 世紀小説における「自由」
中島ひかる
RESUMEENous examinons ici, le thème qui traverse nos diverses articles parus depuis plusieurs années. Notre intérêt y consiste à analyser la société du 18e siècle où règne le ≪paraître≫ quʼest le contraire de lʼ≪être≫. Dans cet article, en introduisant la notion de Rousseau, la ≪volonté particulier≫, la ≪volonté de tous ≫ et la ≪volonté générale≫, nous voulons voir quʼ est la iberté humaine comme expression de son essence. Dans le monde de réputation, par exemple chez Laclos, le libertin est-il vraiment libre par sa proper volonté? Au contraire, dans ≪ Manon Lescaut≫, le héros, même sʼil semble être possédé passivement par la passion, nʼest-il pas fidèle à son propre sentiment ? Enfin ne sʼagit-il pas ici de la valeur absolue qui dépasse les individus? Et cette valeur seule nʼassure-t-elle pas le monde humain ? ここ数年のあいだに公にした論文*1で、18世紀のフランス小説やルソーを扱ってきたが、そ れぞれの論考で個別に扱った事柄の中には、振り返ってみると一貫した筆者の関心事があり、 別の素材を扱いながらも繰り返して論じているテーマがある。ここに、それを横断的に総括し、 筆者の論文に共通する18世紀文学に対する問題意識を、ルソーの「全体意志」と「一般意志」 の概念も視野に入れながら整理してみたい。 1)全体意志と一般意志 一連の論考の中で、18世紀の小説やルソーを扱ってきたとき、筆者の一貫した関心事は「見 せかけ paraître」によって支配される18世紀社交界のあり方、つまりはその世界を動かしてい る「ゲームの規則」にあった。「存在 être」から乖離したこの「見せかけ」をルソーは近代社 会の病理として激しく糾弾し、その批判を自己の思想の根幹にも据えるのだが、はたして社会 の中において「見せかけ」の対立項として示される真の本質的な「存在」などあるのだろうか。 あるいは、それが可能だとするなら、どのような条件と形においてであろうか。 社会は、複数の人間によって成立し、その関係性によって動いていく。しかし、人間のあり 方は本来、構成員相互の関係によって成立する相対的価値によって判断されてはならないもの であろう。「存在」の本質は皆の考えの総和を超える、何か絶対的で不変の価値として成立する はずで、それはそもそも、合議による総意によって成立する民主主義とは相容れないものなの ではないのか。ルソーが『社会契約論』の中で、個人の「特殊意志 volonté particulière」の総 和にしかすぎない「全体意志 volonté de tous」 と、「一般意志 volonté générale」を明確に区 別したのも、まさに個人の特殊意志をいくら積み重ねても、そこに絶対的な判断基準は生まれ
ないからであっただろう。 全体意志と一般意志のあいだには、しばしばかなりの相違がある。一般意志は共同の利益 しか考慮しないが、全体意志は私的利益を考慮するものであり、それは、特殊意志の総和 にしかすぎない。*2 個々の特殊意志がいくら数多く集まっても、極論すれば、たとえそれが全員一致であっても、 それだけでは一般意志にはならない。一般意志が成立するためには、個の総和を超える何かが そこには必要なのであって、しかもそのようにして形成された意志は特殊意志に反していても、 それと矛盾するものではない。むしろそれは個人の特殊意志が自分でも気がつかずに本来望ん でいたはずのもの、つまり個の本来あるべき姿としての「本質」を現している。 実際、各個人は、人としては、彼が市民として持っている一般意志に反するか、あるい は似通っていない一つ特殊な意志を持ちうる。*3 したがって社会契約を空虚な公式としないために、この契約は、誰であれ一般意志への 服従を拒むようなら、集団全体によってその一般意志に服従するように強制されるsera contraint、という約束を暗黙のうちに含んでおり、その約束だけが他の約束に効力を与え ることができる。このことは、彼は自由であるように強制されるon le forcera、という以 外のいかなることも意味しない。*4 個人は自由へと「強制される」。とするなら、そもそもこのような形での本来の人間の有り様は、 「見せかけ」である装飾的な外部を取り払って、個人の内部を振り返ってみれば、ごく自然に 認識できるありのままの「存在」とは異なるのではないか。上の引用で言われている「集団 corps」、あるいは個を強制する匿名の主体「on」は、個を含む「公 public」ではあるが、個人 の総和ではなく、それは個人を超えた何か超越的なものとして、新たに未来の時間軸で保証さ れなければならないものではないか。そしてそれは常に正しいものとして想定されている。 以上述べたことから、一般意志は常に正しく、常に公益を目指すということが出てくる。*5 たしかにルソーが『不平等起源論』での描く未開人は、「見せかけ」にとらわれた現代の人 間と対比されていた。 未開人は自分自身の中で生きているのに対して、社会の人は常に自分の外にあり、他の人々 の意見のなかでしか生きることができない。そして彼が自身の存在の感情を引き出すのは、 いわば他人の判断からだけなのである。*6 しかしここでルソーはそこに描かれている未開人に対して、人間の本来あるべき姿として の「本質」という言葉を当てていない。この未開人は「人間の現在の性質のなかに最初にあっ たもの」*7を示してははいるが、そこには本人にとって、善悪の倫理を含めたあるべき姿とし ての価値判断が含まれていないからである。現在という瞬間瞬間に生きている未開人は、たし
かに自身の「存在」から乖離してはいないが、彼はただ存在するだけであって、道徳的にはゼ ロの状態である。 この状態の人間たちは、お互いのあいだに、いかなる種類の道徳的な関係も、既知の義務 も持っていなかったのだから、良くも悪くもありえず、また悪徳も美徳ももっていなかっ たと思われる。*8 未開人の行為は現在の必要性に限定されるが、善悪とはそもそも他に対して作用する行為の結 果の判断であるから、結果の予測と判断、そしてその起こった結果に対する反省をともない、 それは、過去と未来の時間を想定しなければならない。つまり倫理の意識は時間の観念を必要 とするのだから、ここで描かれている現在時に生きる未開人にはそもそも適用されない。そし てまた、本質が、自らのあるべき本来の姿、という意識と不可分であるなら、それは自己から 離れて自己を他者として眺めるという契機を必要とするはずである。つまり、まさにルソーの 糾弾する「自己疎外」として、自己から離れて自己を見る意識がなければ、そこに本質の意識 や表現はない。だから、このような未開人の状態は、関係性としての社会が始まり、時間とし ての歴史が始まって以降の人間の姿としては不可能であることはルソーも明言しており、これ はあくまで現代を照射する目的で、ゼロの状態に戻ってみるため(「問題を明らかにし、その 問題を真の状態に引き戻す意図」*9)の仮定的状態としてのモデルだとされている。 その意味における未開人は、むしろ、絶対的存在としての「神」に似ているのではないだろ うか。というのも「神」の場合も、その存在自体は外から見れば十全な「存在」ではあっても、 自身は、善悪やあるべき姿という本質の価値判断には無関係だからである。ルソーは『孤独な 夢想者の散歩』「第5の散歩」の中で、ビエンヌ湖の岸辺で感じた幸福を、激しい情念による活 き活きとした、しかしつかの間の幸福と対比させて、穏やかな持続する幸福としているが、そ のとき、永遠の現在が続く、時間概念を超えた幸福を、神の状態にたとえていた。 魂が十分に確固たる地盤を見いだし、そこにすっかり身を落ち着けて休息し、自己の全 存在をその場に集めるような状態。過去を思い出す必要も、未来に飛躍する必要もなく、 時間は魂にとって何ものでもなく、いつまでも現在が続き、それでもその持続を感じさせ ず、継起の痕跡もない状態。私たちが存在するという感情だけで、それ以外には欠落や享 楽、快楽や苦痛、欲望や恐れといった感情のない状態、そしてその存在の感情だけですべ てを満たせるような状態。もし、そのような状態があったとしたら、その状態が続く限り、 そこにいる人は自ら幸福と称することができるだろう。それは人生の快楽の中に見いださ れる不完全で、惨めな、相対的幸福ではなく、十分で完全な充溢した幸福であり、魂の中 に満たさねばならない、と思うような空虚を何も残さない幸福なのである。*10 この後に続けて、「この状態が続く限り、人は神のように自ら充足する」*11 と言われているの だが、上の引用にもあるように、この完全無欠な充足としての幸福は、人生の通常の喜びの中 に見いだせる状態ではない。 この世で、すべては絶えざる流れの中にある。そこでは何も不変の、静止した形を保つ ことはなく、外の事物に結びついたわれわれの感情も必然的にその事物と同じように過ぎ
去り、変化する。感情は常に、我々の前か後ろにあって、もはやない過去を思い出すか、 しばしば決して存在するはずのない未来を予測する。そこでは心が結びつくことのできる 確固たるものは何もない。だからわれわれはこの世では、過ぎ去りゆく快楽をかろうじて 得るだけである。持続する幸福については、それが知られることがあるのか、私は疑わし いと思う。*12 永遠に続く現在における充足とは、人間が自己本来の状態におかれていること以外の何もので もないであろうが、それは現世において人間に許される状態ではないとされているのである。 充足を人間が意識するためには、非充足としての欠落を意識することで、その差異によって充 足が反省的に意識されねばばらない。現世における事物の認識は、すべてそうした差異に元づ く相対性から来ており、絶対は意識されない。差異が生じるためには、時間が必要であり、永 遠の現在における欠落のない充足は、充足とは意識されないからである。だから、永遠である 神そのものに充足の意識は無縁であり、同じように永遠の現在の中における未開人も、自己の 本質に生きていることを意識しえない。未開人も神と同じで、自己の存在に充足しているかも しれないが、それは時間の中に生きる人間に可能な状態としての、本来あるべき姿の表現には なりえないのである。 とするなら、ルソーはここで時間の作用によって自己疎外された社会の中においてこそ、新 たなあるべき姿としての絶対的基準を構築しなければならないことになる。それが「一般意志」 に適ったものだとするなら、それは個のなかにもともとあったものを引き出して得られるもの として、個の延長線上にあるではなく、個を一度捨て、それを超えたものとして成立すること になる。だが、個を超えたそうした絶対的価値基準が存在する世界は他にはなかったのだろう か。他者との関係性の中でしか自己を判断できない世界を18世紀の社交界に見るなら、その対 局に、他者によって自己を判断するという以外の判断基準が存在する世界を『マノン・レスコ ー』のなかに見いだすことができるのでははないか。この二つの世界を対比させて見ていくこ とで、そこにおける自己の自由と価値判断基準との関係、そしてその自由が自己の本質の表現 に持ちうる意味を検討していきたい。 2)リベルタンの自由/ 世間の評判 リベルタンを扱ったとき、筆者の関心事は「見せかけ」の世界を成立させるゲームの規則に あった。そしてそのリベルタンの典型として、ゲームの規則を自らが完璧に統御している、自 分は自分の作ったものである、という強烈な自負をもったラクロの『危険な関係』のメルトゥ イユ夫人を取り上げ、それが感情さえも意志の力で統御するという、きわめて18世紀的な人間 理性への信頼に元づく人物造形ではないかと考えた。しかし、ここでいうリベルタンの「自由」、 すなわち自らが自らの主人であるという自由とはいったい何なのだろうか。確かに、それは神 から与えられたままの場に疑いをいだかず甘んじる、人間存在のありかたとは異なっており、 その意味では、人間は、ここで神や与えられた運命から意志を持って「自由」であることを志 向しているだろう。だが、このとき人間は本当に何にも拘束されずに自らの主人であるのだろ うか。あるいは言い換えれば、この自由によって、人間は本当に自己の本来の姿としての本質 を表現できているのだろうか。 リベルタンは、社会の規範から自由であろうとする。そもそも、この語の原義は「宗教の信
仰や実践」に逆らう自由思想家であるが、そのように広く社会に容認された大きな権威に逆ら い、自らの精神にのみ信頼を置く「自由」は、大きなリスクを伴うものであった。しかし、この 「リベルタン」は18世紀後半になって世俗的な意味に変貌し、「放蕩者」としばしば同じ意味で 使われることになる。そのようにして、ブルジョア化した社会のゲームとなったとき、自由に 伴うリスクも失われるが、ただそこでリベルタンが示す厳格な自己の統御は、時代が変わって も完全に消失することはなかったとされる。*13 社会が道徳というとりあえずの建前で成り立っているとすれば、そこにおける男女間の結婚 に基づく社会規範に真っ向から対立するのが18世紀のリベルタンであろう。『危険な関係』に は最初に出版社と編集者の前書きが付されているが、そこに見られるのは、光の世紀であるわ れわれの世紀18世紀に、このような人物がいるわけがないという断言であり*14、この作品はあ くまでフィクションだ、こういう「反社会的」人物は実際にこの時代に許されるわけがない、 という弁明がなされている。そして作中描かれているリベルタンにも最後は勧善懲悪的な結末 が用意されており、建前上は作者もこのリベルタンの「自由」を否定し、社会規範に沿った安 心を保証しなければならないかのようにみえる。このように勝手気ままに自由に振る舞う人物 は、存在しではならないというわけである。実際、フランス文学史上、長い間この作品は「悪 書」という分類を受けてきた。しかしこの小説は、本当に「反」社会的であり、社会の規範に 対して、本当にリベルタンは自分の意志で自由に振る舞っているのだろうか。 いくつかの論文で論じてきたように、小説中で描かれているのは、むしろリベルタンの世界 の中の規範=ゲームの規則である。主人公はそこから降りることはできない。虚しい疾走、と 知りつつも、主人公がその虚しさを振り返ることは、年老いて引退し、田舎に隠棲した後の回 想録においてのみ許される。彼はその意味で「自由」ではない。だから、その世界にとどまる かぎり、主人公たちが苦労するのはそのルールの習得についてである。年長者による手ほどき= 教育というテーマ、あるいはメルトゥイユ夫人のような自己教育というテーマが存在するのも そのためである。彼女は、自分の信念は、他のくだらない女性たちの信念のように「偶然与え られ、検討もせず受け取り、習慣になってしまった」ものではない、意識して自己が作ってき た「原則」「規則」だと言う。*15 しかし、ここで学ぶべきルールは、誰かが絶対的権威を持っ て定めたものではない。それは、この社会の中で長年、経験的に培われてきたもので、言って みれば個の規則の総和としての体系である。しかし、それが学ぶべきものとして存在している ということは、いったん経験が体系になってしまうと、今度はその規則が自立して、それを作 った個人を拘束するようになってしまうということでもないだろうか。リベルタンは、本当は、 自分で操れると思っていたはずの規則の奴隷である。彼らは自分で規則を創設することはでき ない。メルトゥイユ夫人も。社交界に入った当初は先ず「観察」に心を砕いたと言っている。そ れは既存の体系の意識的な習得である。だから、いくら規則に習熟し、それを意のままに操っ ていると自分で思っている場合でも、その規則のなかでこそリベルタンは名声を得、実体のな い実力まで周囲から付与される。その意味では、自己の主人であるはずのリベルタン個人も、 大きな枠組みの中で規定されており、集団全体の意志によってこそ判断され、裁かれている。 そして、その規則を保証するものは何もないのである。おそらく歴史的には、流行を作ってい く王を中心とした宮廷貴族たちがこうした世界を作ってきたであろう。しかし、流行は必ずし も主体的に制御できるものではない。しばしば宮廷やサロンの女主人たちもこの流行の奴隷と なる。結局それは皆の意見の総体としての評判の世界であり、これは、マルクスを援用してド ゥネ=テュネが論じているように、「使用価値」より「交換価値」が優位に立つ世界である。
評判を得たものが価値のあるものなのである。*16 ヴァルモンは、リベルタンとしての名声を有しているからこそ、皆、彼に逆らえない。彼に 誘惑された、というだけで、女性が否定しても、皆がヴァルモンに抵抗できたはずがない、と 思ってしまうのである。実際に成果を上げていない場合でも、彼は世間の評判によって架空の 実績を手にし、そしてその実績がさらなる評判となって、次回の彼の行動に有利に働く。その 名声ゆえに、皆がヴァルモンに興味を持つのであり、そのような男になら誘惑されてみたいと いう気にもなる。また女性に初めから抵抗する気力をなくさせるのである。彼は、名声を手段 として実力以上の虚構の力を積み上げていくが、しかしこれが虚構であるなら、逆もまた真で ある。いったん、名声を失えば、彼の実体としての実力も評価されない。というよりむしろ、 実体としての実力などいったいあるのだろうか。メルトゥイユ夫人が指摘する。 考えてもご覧なさい。あなたには逆らえないという考えを皆がいったんなくしてしまっ たら、あなたはすぐ、実際、もっと容易に人があなたに抵抗するのを経験することになる でしょう。あなたのライバルたちもあなたを尊敬するのをやめ、あえてあなたと争おうと するでしょう。というのも、彼らのなかで、徳などどうでも良いと思っていない人などい ないでしょうから。とりわけ次のことを考えて下さい。あなたがものにしたと公言してい る多くの女たちのうちで、実際そうでなかった者は皆、公衆にそれは違うとわからせよう とするでしょうし、そして一方、ものにした女たちもそれにつけ込みごまかそうとするで しょう。結局今まで自分の価値以上に評価されていた分だけ、今度はおそらく自分の価値 以下に評価されることを覚悟しなければならないのです。*17 そうだとしたら、リベルタンは決して自己の主人ではない。ここで最大の権威は「評判」で あり、これをつくるのは、皆の総意としての「世間」という公の世界である。だからメルトゥ イユ夫人もその世間を観察することによってしか、自分を形成ことができなかったのである。 リベルタンは「反」社会、ということからしてすでに、この「反」すべき社会の基準を承諾し ている。彼はその社会を意識することによってしか存在できず、その大きな枠組みの中でのみ、 その仕組みに精通したものとして、「自由」に振る舞えるが、その仕組みそのものを変えたり、 否定したりすることはできないのである。だから、彼は「神」の定めた、絶対的、超越的規範 からは自己の意志でもって自由かもしれないが、自分もその一構成員である匿名としての社会 の「評判」には逆らえない。 そうであるなら、この公的な世間の「評判」は、上で述べたような、ルソーのいう個の総和 としての「全体意志」に似ていないだろうか。「評判」は個人を拘束する権威であるが、その 権威をメタレヴェルで永続的に保証する絶対という次元を欠いているから、それを構成する 個々の意見に恣意的に左右され、移ろいやすいものでもある。個の意見の総和は決して、「一 般意志」という個を超えたものにはなり得ず、常にその総和としての「全体意志」にとどまる。 リベルタンにとって、評判による「見せかけ」ではなく「存在」の真実があるとしたら、ヴ ァルモンのように嘘と思っていた自分の感情が嘘ではなく本物の恋だと気がつくときであろ う。しかし、作中、ヴァルモンは最後まで自分のリベルタンとしてのプライド、つまりは世間 の中で築き上げてきた評判に支配され、自分の感情に気がつかない。自身に忠実であるという のは、「見せかけ」の社会の中では、実はそれほどたやすいことではないのだろう。
3)感情の自由/神・家 こうした社交界を描いた小説の対極に位置する18世紀の小説として、『マノン・レスコー』 を分析した。そこで述べたように、『マノン・レスコー』には「心理」が描かれていない。登 場人物は、次から次へと展開される新たな場面に遭遇するが、その場その場で心理的な逡巡や 葛藤を覚えることなく、あっというまに新たな状況に飛び込んでいく。あるいは、巻き込まれ ていく、という言い方が適切かもしれないが、それは、一般的には、魔性の女であるマノンに 翻弄されるデ・グリューという図式で語られる。だが、ここで指摘したいのは、このデ・グリ ューには心理がないという以上に社会意識がないということである。18世紀前半の小説という 背景もあって、主人公は自らの貴族としての生まれにみじんの疑いもさし挟まないから、ここ で主人公はいかなる行動をとっても、世間体という意識とは無縁である。彼は世間一般の人 Publicを、自己を評価するものとして考えていない。だからこそ、自分に落ち度があって入れ られた牢の中でさえ、エリート意識をあらわにする。 私を縛り首にさせるだと!と私は言葉を継いだ。恥知らず、絞首台に行くのはおまえたちの ような輩だ。知るがよい、私はおまえなんかよりずっと高貴で純粋な血の生まれなのだ。*18 彼が自らの行動を後悔するのは、宗教、および父に代表される血縁としての家に対して自ら を振り返ったときである。だから、これは『危険な関係』の世界とは違い、世間一般の評判に よって行動が左右される世界ではない。むしろここでは、主人公は何があっても、生来の身分 の高さによって周囲からは許されてしまうように描かれており、これはリベルタンたちがとら われている世界とは対極にある世界である。その意味では、むしろ見方によってはデ・グリュ ーの方が「反」社会として社会を意識しない分だけ、己の感情に忠実であり、リベルタンたち より、いっそう「自由」であると言えるのかもしれない。 だからこの小説を、マノンに引きずられる受動的なデ・グリューという単純な図式でとらえ てはならないだろう。マノンは彼にとって個人的な人間関係における他者というより、むしろ 絶対的な次元での運命であり、その運命に従うときデ・グリューには心理的葛藤がない。そし て、心理的葛藤や逡巡がないというのは、言い換えれば、感情が理性の統御、言い換えれば、 他者との関係の中で自らを反省したときに生じる理性の拘束から解き放たれているからでもあ る。情念 passionは蒙るものとして受動的性格を帯び、デカルトはそれを人間の意志に反する ものとして定義する。意志によって人間が自立するという近代的な概念に従うなら、運命に直 感的に従う感情が人間の意志を超えて作用する世界は確かに受動ではある。だが、ラクロの世 界に見られるような人間的な意志しかない世界も評判によって支配されているとするなら、は たしてその世界を、人間の能動的な自由の世界とすることができるのだろうか。 心理分析が優位に立つのはフランス小説の一つの流れでもある。心理分析は人間の関係性に 基づく社会の典型的様相でもあるが、分析が精緻になればなるほど、心理はかえって直接、対 象に向かわない。自己疎外され、自己から離れて反省的に自己を振り返った意識は、現実より 自分や他人の発した言葉に引きずられて、未来の時間を勘案して今ここにある現実から遠ざか る。そして、たとえば、ヴァルモンのように何が自分の本来の感情かわからなくなるのである。 そのとき自己の主観は、自己が他人にどう思われているかという他者への意識の中で決定され る。自己とはこのとき他者でもある。社交界を描いた書簡体小説はそのような意識の典型的な
有り様を示しているだろう。自己の行動や心理を振り返る言葉を常に他人に報告し、その報告 の言葉のやりとりのの中でのみ、自己を認識する。現実は、お互いの言葉によって作られてい くのである。逆に言えば、情念に引きずられるとき、人間は他者に発する言葉とその反映とし ての自己への反省からは自由である。情念愛の小説として、『トリスタンとイズー』以来、そ れは言葉による恋愛の駆け引きとは対極に位置している。*19 こうしたとき人が自由でないと思うのは理性を感情より優位に置く、思考体系にとらわれて いるからではないだろうか。人間が思いのまま、社会の規範など眼中におかず行動し、それが 後から周囲との軋轢を生んで悲劇が生じるというのは、これこそ、リベルタン以上に、反社会 的行為であり、人が「自由」にふるまった結果なのかもしれない。 しかし、『マノン・レスコー』のデ・グリューは、絶対的な個人として社会から孤立してい るわけではない。この小説の中でも、彼に関わり合う人物は登場する。だが、彼らは主人公と 一対一で、対等に心理的な駆け引きを行う相手ではないように思われる。先にも述べたように、 それは、運命としてのマノンであり、またそれ以外には、血統や家を代表するものとしての父 や兄、そして宗教的良心を代表するものとしての友人、チベルジュである。彼らは個人的心理 を担って主人公に関わり合っているのではなく、ある大きな力を背景に、一定の役割を帯びた た人物としての言説を担っているように思われる。チベルジュが何度裏切られても最後まで主 人公に示す絶対的な友情については、その心理を分析するなら不可解であり、むしろ、絶対的 な宗教の軸を小説の中に維持するために配置された人物としての行動だとして考えた方が、納 得がいくだろう。それぞれ役割は違っていても、この小説の登場人物は固有名詞を持った社会 の中の一主体としての個人である以上に、ある絶対的な言説の担い手なのである。 運命や神、あるいは家は、個人の意志や力を超えた次元で成立しているものであろう。『マ ノン・レスコー』の主人公はそうした絶対の次元と対峙するから、それに対して心理の読みあ いや駆け引きは成立しない。彼は、社会に対して自由であるが、最終的には彼の自由はこうし た大きな枠組みに規定される。そして、マノンの死後、この小説ではあまりにあっけなく神と 家との和解が予告されている。悲劇的なマノンの死にもかかわらず、主人公に対して最後には 安定された秩序が暗示されているように思われるのである。デ・グリューは運命に翻弄された 後、しかし、宗教や家と最終的に和解することによって、本来の自らの位置に戻って、世界の 中で安定した場所を得られることが小説の最後では暗示されている。 ラクロの小説に欠けているのはこの絶対の次元である。だから、自己の「真実」の愛に気づ いたヴァルモンは、決闘で自殺的な死を選ぶほかないのである。関係性による価値判断からか ら抜け出した人間に、新たな場所な用意されていない。そして、メルトゥイユ夫人もまた世間 の非難を浴びて、名誉を失い、今まで自分が意のままに操っていたと自負する社会での自らの 場所を失う。 しかし、このような絶対性の次元がもはや確固たるものとして成立しなくなった、あるいは 自らの意志の力を信じた人間が、もはやそれを超える次元を信じられなくなったからこそ、18 世紀において「社交界」といった相対性の見せかけの世界、世間の評判がすべてを支配する世 界が優位に立つほかなくなったのではないだろうか。そして、そこに生きる人間たちもまた、 その虚しさを十分に知っている。ヴァルモンが言う。 正直に言いましょう。私たちは冷静にたやすく事を運んでいるとは言え、そのなかで幸 福と呼ぶものはせいぜい一つの快楽にすぎません。申し上げましょうか。私は自分の心が
もう萎えてしまったと思っていました。もはや感覚しかないので、老いが早くやってきた と嘆いていたのです。*20 そしてまた、「小説」というジャンルを考えた場合、絶対的な次元で解決される運命のドラ マは「悲劇」や「叙事詩」にこそふさわしいものであろう。相互の心理の駆け引きで成立する 相対的な世界こそが、言葉の駆け引きの成立する世界であり、そこに小説の言葉も成立する。 それが「近代」や「現代」の社会だとして、そうした皆の意見の総和の世界、相対性の世界を超 えるためには、ルソーは新たな価値を「一般意志」として、個を超えた次元に創設すること考 えねばならなかったではないだろうか。 註 *1 「社交界という『世界』——フランス18世紀小説の一特性」 『東京医科歯科大学教養部研究紀要』 第34号 東京医科歯科大学教養部 pp.69-79 2004年3月25日 「ルソーの社会批判——『不平等起源論』の社会批判と18世紀パリ社交界」 『東京医科歯科大学教養部研究紀要』 第35号 東京医科歯科大学教養部 pp.43-58 2005年3月31日 「時間と不平等——『不平等起源論』におけるルソーの時間概念」 『東京医科歯科大学教養部研究紀要』 第36号 東京医科歯科大学教養部 pp.41-55 2006年3月31日 「言語と直接性——ルソーの「宮廷愛」における言語のあり方」 『東京医科歯科大学教養部研究紀要』 第38号 東京医科歯科大学教養部 pp.1-17 2008年3月31日 「『マノン・レスコー』——情念の特性」 『東京医科歯科大学教養部研究紀要』 第40号 東京医科歯科大学教養部 pp.1-21 2010年3月30日 上記の論文中で分析した内容は、繰り返しとなるためこの論文では詳述しない。
*2 J.-J. Rousseau, Du Contrat Social, Bibliothèque de la Pléiade, Œuvres complètes, III, Gallimard, 1964, p.371. ここで「特殊」と訳されているものは、「普通と異なり特別」という意味ではなく、「個人 的な」あるいは「私的な」の意味である。日本語では、誤解が生じやすい訳語であるが、 定訳に従う。 *3 Ibid., p.363. *4 Ibid., p.364. *5 Ibid., p.371.
*6 J.-J. Rousseau, Discours sur l'origine et les fondements de l'inégalité parmi les hommes, Bibliothèque de la Pléiade, Œuvres complètes, III, Gallimard, 1964, p.193.
*7 Ibid., p.123. *8 Ibid., p.152. *9 Ibid., p.123.
*10 J.-J. Rousseau, Les Rêveries du Promeneur solitaire, Bibliothèque de la Pléiade, Œuvres complètes, I, Gallimard, 1959 , pp.1046.
*11 Ibid., p.1047. *12 Ibid., p.1046.
*13 Roger Vailland, Laclos par lui-même, Seuil, 1977, pp.49-51.
*14 Laclos, Les Liaisons dangereuses, Bibliothèque de la Pléiade, Œuvres complètes, I, Gallimard, 1979, p. 3.
*15 Ibid., p.170 .
*16 Anne Deneys-Tunney, <<Economie du corps libertin dans Les Liaisons Dangereuses >>, dans Ecritures du corps, Presses Universitaires de France, 1992, pp.283-325.
*17 Laclos, op.cit., pp. 259-260.
*18 Abbé Prévost, Histoire du Chevalier des Grieux et de Manon Lescaut, Bibliothèque de la Pléiade, Romanciers du XVIIIe siècle, Ⅰ, Gallimard, 1, 1987, p.1337.
*19 Pierre Hartmann, Le contrat et la séduction : Essai sur la subjectivité amoureuse dans le roman des Lumières, Honoré Champion, 1998, pp.17-49.