日 日
CoHllnent lire les ё
tudes de Masakazu Nakal sur le langage
脚[asaShi 1/10MBE
Rttume
≪La logique de comitO≫, ёtude de Masakazu Nakal est considё rOe au Japon cOnllne une∝ uvre de rOfёrence en matiё re de communication. Avant cene‐ci,1l a pubttё d'autres ёtudes sur le langage dans la seconde
moitiё des annёes 1920. Il a notamment pubttё ,en 1929, une etude cOn_
sacrёe tt la parole et a l'こ coute. C'est le texte de phOnomёnologue A.
Reinach que NakaF traitait princゎ alement dans cet article.Aprё s la mort de lWakal,notamment,嵐 partir des annёes 1980, A.Reinach a ёtё relu par
des chercheurs occidentaux et japonais par rapport h la thёorie des actes de langage.Une relecture desモ rtiCles de NakaF sur le langage nこ cessiter‐ ait a ourd'hui de ne pas nё ghger toutes ces nouvenes interpretatiOns des travaux de Reinacho Cependant, apphquer de facon automatique ces in―
terprё tations h l'ёtude de Nakal serait tout aussi discutable.Ainsi,nous chercherons a dё terlniner comment il convient de rehre les articles de Attasakazu Nakal sur le langage,tout enこ vitant d'avoir a chOisir entre ces
deは extrOmes.Certts,cet article n'est qu'un travail pFOparatoire,rhais,■ est nOcessaire potr rёnterprOterく【La logique de comitё 》 .
要 旨 中井正一の論文,「委員会の論理」(一九二六年
)は
, 日本におけるコミ ュニケーシ ョン論の古典である。 この論文を書 く以前,一
九二〇年代後半 に彼は言語活動に関する論考を発表 している。 とりわけ一九二九年には, 発言 と聴取についての論考を発表 している。そこで批判的に検討 されたの は,現
象学者,ラ
耳ナ ッハのテクス トである。中井の投後, とりわけ一九 八〇年代以降,ラ /ナ
ッハは,欧
米や 日本の研究者により,言
語行為論 と の関連で論 じられている。今 日,中
井の言語活動論を読むのであれば,こ
の新たな動向を無視すべ きではないであろう。他方,こ
の動向を中井研究 に機械的に適用することは,議
論の余地のあるものであろう。 これ らの二 者択―を回避 しながら,本
研究では,中
井正一の言語活動論を再読する方 法を探究す る。確かに,本
稿は準備的な作業にすぎない。 しかし,「委員 会の論理」を再考するために必要な作業でもある。 士 心 部 H J ロ ー ―-115-―一 言語 論 の方 へ1 『判断力批判』翻訳中の深田康算か ら薫陶をうけた中井は,「カン ト判断力批判の研究」(一九 二五年
)か
ら出発 した。一九二七年,中
井は『哲学研究』の七月号で「 カン ト第二批判序文前稿 について」を発表 した。その彼が,二
〇年代後半以降の数年間,言
語や言語活動,意
味をめ ぐる 論考を執筆 している。カン ト研究の後,そ
して「委員会の論理」執筆以前のある時期,中
井は言 語論,言
語活動論に没頭 していた ことになる。何故であろうか。 ここでは,カ
ン ト論,言
語論,そ
して関数概念 に関わるカ ッシーラーに注 目したい。中井の 「 カン ト第三批判序文前稿について」は,シ
ギスモン ド・ベ ックによって「抄略」された序文に 関する論文であった。カン ト全集の,ベ
ックによる序文は,中
井によれば,重
複をさけるため と はいえ,論
脈の破壊や論 旨の転換な どの過誤があるといわざるをえない とい う。む しろ,「この 態度にあ きた らず してカッシーラーな らびにビュークが,こ
の新たに発見 されたる前序を,そ
の まった きすがたを もって彼の全集 に編みいれた ことはむ しろ正当」 と中井は述べる2。 彼がカン ト論 を書いた前提は,第
二批判序文前稿がカッシーラー版全集 に掲載 された ことである。杉 山 (一九八三)の
指摘 によれば,カ
ッシーラー版全集で前稿が公刊されたのは,「中井が京大哲学 科に入った年の こと」であった。 一九二〇年代は,カ
ッシーラーが言語 についての著作を刊行 した時代で もあった。『実体概念 と関数概念』(一九一〇年)で
数学的・自然科学的思考の構造を扱 ったカッシーラーは,そ
の後, 対象領域を拡張 し,言
語や神話,芸
術に言及するようになる。理性批判から文化批判への移行で ある。そ して『 シンボル形式の哲学』(一九二三年)第
一巻の主題は言語であった。 こうした言語への関心は
,主
観
/客
観という確定した区分を前提とするものではない。カッシーラーは述べ
ている。
「精神的諸形式の分析に際して
,主
観的なものと客観的なものというすでに確定してい
る独断的区分か らは じめるわけにはいかない」, と。む しろ,「この精神的諸形式そのものによっ ては じめて主観 と客観 とい う領域の境界線が引かれ,そ
の領域が確定 される」。認識や言語,神
話,芸
術は,外
的 ・内的な像を反映する「単なる鏡」ではない。それ らはむ しろ「独 自の光源」 であ り,「見ることを条件づける」。二〇年代において既に主筋//客観の対立への1陵疑が語 られて お り,そ
うした前提の もとで言語論が提示 されていたのである。 一九二七年か ら一九二八年にかけて,中井は論文「言語」を発表する。そこで彼は数回カッシー ラーの名前に言及 しているにすぎない。 しか し,カ
ッシーラーの影は中井の文章に付 きま とうこ とになる。それを明確に示すのは,中
井によるFunktionsbegriffの受容である。中井が論文「言 語」を発表する前年の一九二六年には,カ
ッシーラーによる『実体概念 と関数概念』の抄訳が大 村書店 よ り出版 されていた (当時の タイ トルは,『実体概念 と関係概念』 であ った3)。 そ して1
本稿は,二〇〇八年三月一五 日に行われた 日本マス コミュニケーシ ョン学会第二―期第二回研究会 (メデ ィ ア史研究部会)において筆者が行 った報告の原稿を整理 し,加筆修正を加えた ものである (なお,投稿規定 にお ける文字数の制約により,大幅な削除を余儀な くされた)。 当 日は,前半に,「中井正一の言語活動論をいかに読 むか――『発言形態 と聴取形態な らびにその芸術的展望』を中心 として一―」 と題 した発表を門部 が行い,後半 は,後藤嘉宏氏 (筑波大学)が報告を行 った。司会者は佐藤卓己氏 (京都大学)である。なお,共通のタイ トル (「中井正一 ―メデ ィア/コ ミュニケーシ ョン論の先駆者」)力氏設定 されていたが,各自のレジ ュメには別の タイ トルが記 されていた。2
なお,中井は,「ベ ックの思惟方法 とカ ッシーラーな らびにビュークなどの思惟方法のいずれが正 しいかをいお う と す る の で は な い 」 と 断 っ て い る (中井,一九 八 一a:二八 八)。3
翻訳者の馬場和光は,タイ トルに「関係概念」 とい う言葉 を用いた事情を「訳述者序」の中で こう説明する。 「 尚本書の標題は ……厳密なる意味 よりすれば『実体概念 と函数概念』 とすべ きであるが,Funktionな る語は甚 だ一般的なる意味が与へ られて居 るので (又一方一般の読者 に理解 し易 くする為に)使宜上『 実体概念 と関係概 念』 として置いた」。なお,山本義隆によれば,これは「 全体を三分の一弱に縮めた要約」であった。-116-一九三〇年に中井は
,カ
ッシーラーの関数概念についての論考「機能概念の美学への寄与」を刊 行する。Funktionsbegri■に言及する際,中
井は「函数」や「機能」 という言葉を用いている。 今 日,私
たちが関係論的 と呼がであろう思考を応用 しつつ,中
井は,組
織について「互いに規定 し合ふ関連的組織 に融合する函数形」 と述べている (中井,一
九二Oc:四
三)。 関係論的思考 の導入は,主
観/客
観 といった固定的な形而上学的対立への批判 を伴 っていた。「形而上学の犯 した罪は,単にそれが認識論の領域を踏み越 えたることにのみ止まらず,認識の領域内に於て も, 函数的関連の もとにある分離すべからざる要素を,不
当にも分離 して考へ,論
理的相関性にあるものを物的対象として扱かごとき誤謬を犯してゐる」
(中井
,一
九二
Oc:四
四
)。主観
/客
観の
対立を批判した後
,中
井は
,意
識の危機について語 り
,機
械技術をも含む集団的な意識を探求す
るが,こ
れは中井をメデ ィア論的関心か ら再読する際に留意すべ きことである。 ともあれ,カ
ン ト研究か ら出発 した中井は,カ
ッシーラーに触発 されつつ,機
能概念の考察や三分法への批判を 行 った (門部,二
〇〇二)。 論文「言語」における言及が示す ように,カ
ッシーラーの著作は, 言語論の領域でも中井に示唆を与 えた ことであろう。 さて,中
井の言語論,言
語活動論,意
味論 に関するテクス トを筆者は既に論 じてきた。 ここで 従来の拙稿 と本稿の相違をま とめてお く。言語論から「委員会の論理」までの中井の論考 に関 し ては,既
に筆者は集団的 コミュニケーシ ョン との関連か ら論 じた (門部,二
〇〇四)。 その後, 中井 自身が多用 しない言葉を用いて再構成することの困難さを感 じるようにな り,中
井が用いた 「言語活動」 という言葉 に注 目するようになった。後の論考 (門部,二
〇〇六)で
は,中
井の言 語活動論 に照準 しつつ,彼
が言語活動を身体運動に喩えた点を検討 したが,行
為性が強調 される 理論的背景を示す ことは出来なかった。本稿では,議
論の対象 となる中井の論考をより限定 し, 言語活動論の理論的背景に光を当てた。中井の論考で引用された幾つかのテクス トを読み,時
に は同時代の書物を参照 した上,中
井の論考を再検討 したのである。他方,中
井が論 じた人物の一 人であるA.ライナ ッハのテクス トが,今
日,言
語行為論の文脈で再読 されていることか ら,彼
を論 じた中井の言語活動論 と言語行為論 との関係をどう考 えるべ きか という現代的な問題 も扱 っ ている。ただ し,本
稿で企図されるのは,中
井の言語活動論をいかに読むべ きか という問いの提 示である。では,以
下において,一
九二〇年代後半か ら一九三〇年頃の論考を主に扱いなが ら, 中井の言語論,言
語活動論を検討することにしたい。 二 言 語 媒体 と思惟.
一九二七年,中
井は論文「言語」の前半部分 (一∼二)を
発表する。 ここで彼が注 目するのは 言語の概念的意味ではな く,む
しろそれ と交錯 して成立する,言
語の「芸術的意味」である。言 語音響に関する研究を検討 した後,中
井はいう。言語は,「単なる伝達器」 と見なされて きたが, 「単なる壷であつたのではな くして酒で もあつた」(中井,一
九二七 :八 二)。 言語は,意
味伝達 の透明な媒体ではない。言語それ 自体が「感覚的意味」を持つことに当時の中井は注 目したので ある。一九二八年 には,「言語」の後半部分 (三∼六)が
発表 される。そ こで注視 されるのは思 惟の歴史的変化である。古代のデ ィアレクティケー と近代のデ ィアレクテ ィクを論 じる際,中
井 は,「『 いわれたる言葉』 より『書かれたる言葉』,さ
らに『 印刷 されたる言葉』への推移に言及 している。つま り,哲
学的思惟の歴史的変遷を回顧する際,言
語媒体が考慮 されている。 こうし た着想の一源泉は,古
代ギ リシアに関するブチャーの著作である。「 口言葉か ら字言葉への移 り ゆ きは,字言葉から印刷された頁への移 りゆきよりも,想像力に とつて一層驚 くべきことであ り, その結果に於て一層革命的であつた」(ブチ ャー,一
九四〇 :一五八)。「書かれた言葉」の効果 ―-117-―への注 目は
,当
然,そ
れ以前の状態への関心 が伴 う。 中井 は,「 話 された る言葉」 を中心 とす る 古代文化 におけ る対話 の重要性 を指摘 す る。「 ブチアー に よれば,彼
等 は『 合理的思想』 として の ロゴスの働 きを『 合理的』 としての ロゴスの使用 と不可分であ る と考 へ,知
識 の材料 の上 に形 成 的 に働 く心 の働 きは,二
つの人格的な智恵の衝突 な くしては,す
なわち心 に対す る心の働 きか け,間
と答の交換,会
話 に よる思想交易な くしては,ほ
とん ど充分 に腕 をふ るふ事 が出来ぬ と考 へた」(中井正一,一
九二八 :六二)4。 注 目した いの は,第
一 に,「 会話 に よる思想交易」 の重要性 が指摘 され る際,そ
れ が「二 つの 人格的な智恵の衝突」 と表現 され る点である。これは,中
井 が用 い る「論争」 とい う言葉 と同様, 言語活動 のアゴニステ ィックな側面 を想起 させ る。第二 に5,中
井 は,思
惟 の変遷 を記述す る際, 他者 に語 られ る「外 な る言葉」 よ り,自
分 自身 に語 りかける「 内な る言葉」への「 転生」 とい う 図式 を示 す (ただ し,「 外 な る言葉」 と「 内な る言葉」の対立 は表面 的な ものであ る0。 この後 , 中井 は「 発言型態 と聴取型態並 にその芸術的展望」の中で抽象的な議論 に転 じる。一見,全
く別 の問題 に向か ったかの ようであ る。しか し,この論考 で論 じられ るのは,約
一年前の論文「 言語」 で扱 った「 内な る言葉」 と「外 な る言葉」 に関連す る主題― 主張 と確信一 なのであ る。 三 中井エ ー の言 語 活動 論 ―一 過 去 と現 代 の コ ンテ ク ス ト 「論理 よ文法に心せ よ。ヴ ィンデルバン トは古 き言葉を云ひかへてこう云つた」。「発言型態 と 聴取型態並にその芸術的展望」(一九二九年)の
冒頭で,中
井はブ ィンデルバン トに言及 してい る。その前年 には,ヴ
ィンデルバン トの『否定判断論』の邦訳が出版 されていた。中井が言及 し たのはこの著作の一部分である (ただ し,中
井が註で明記 したのは原書である)。 著作の末尾で ブ ィンデルバン トは,否
定判断論に深 く食い入っていけばい くはど,論
理的形式 と言語的形式の 差が現れて くると指摘する。論理的に思考 される総てが言語で語 られるわけではな く,言
語的に 語 られることの総てが論理的に考えられるわけでもない。ヤヽかなる言語であれ,あ
る思想形式に 対 して,唯
一それだけに対応する表現形式を作 ることはない。そのため,論
理的分析は言語的形 式の背後 に突入せん としなければな らない。「論理学は既 に其始めに於いて文法的研究 と相錯綜 して凱はれてゐるや うに,論
理学の改造が試み られた時は何時でも,其
原理を文法中に求めん と する企てが くりかへされて居 る」。「………文法は論理か ら理解されることを要する。然 しその逆で はない。か くて吾 々は古い言葉を変えて云ふことが出来 よう,論
理 よ文法に心せ よ, と。」(ヴィ ンデルバン ト,一
九二八 :四五)。『否定判断論』の末尾の言葉を,′ 中井は,論
文の冒頭で引用す る。「論理 よ文法に心せ よ。ヴ ィンデルバン トは古 き言葉を云ひかへてこう云つた」。 しかし,こ
の言葉 に,中
井が全面的に同意 していたわけではない。論理 について考察するには,文
法のみな らず,言
語活動 にも注意すべ きだ と考えていたからである。先の引用文の後,中
井はこう書いて いる。「 ソッシュールが言語 と言語活動を区別せ しことが正当であるならば,論
理は文法に心す べきであると共に,そ
の生けるすがたである言語活動 に向かつてその誘惑の危険 と共に又その深 い交渉に更に心すべきであ らう」(中井,一
九二九 :一三八)。4 S.H.ブ
チャー (一九四〇 :一 七七)も参照の こと。 この改訂版『 ギ リシア精神の様相』の場合,中井の文 章 におけるロゴスの「使用」に対応する箇所は,ロゴスの「役立ち」 と表記されている。5
プラ トソ研究者EA.ハ
プロックは,文字批判にもかかわ らず,プラ トン と文字文化の関係を強調 した (Have― lock,1963)。 なお,ハヴロックの三分法には批判 もある。 6中井の立場は「 内なる言葉」 としての弁証法に「 外なる言葉」を見いだす ものである。「彼 〔ヘーゲル ー引用 者注〕の『 内なる言葉』 としてのディアレクティクの底にはかのダソ トンの『外なる唇』の影がないであらうか。」 (中井正一,一九二八 :八 三―八四) 一-118-―「 言語」(一九 二七 ∼一九二八年
)で
も,内
容的 に「 言語活動」 と見 な しうる事柄 は論 じられ て い る。 しか し,そ
れ らは「 言語活動」 ではな く,「 問 い と答 えの交換」,「 会話」,「 討論」,「 言 説 」,「 話 され る言葉」等 とい った別 の言葉 で指 し示 されていた。 ところが,「 発言型態 と聴取型 態並 にその芸術的展望」(一九二九年)に
な る と,「 言語活動」 とい う用語 が頻繁 に用 い られ るよ うにな る。 中井 は,「 言語活動」 とい う言葉 を タイ トル に掲 げた論考 を発表 していないが,「言語 活動」 とい う用語 の多用 され る論考,・お よび 内容的 に関連す る論考 が存在 す る。本稿ではそれ ら を中井 の言語活動論 と呼んでいる。 さて「 言語」 か ら「言語活動」への用語法の変化 にはいかなる背景があ るのだ ろうか。 まず, 「 発言型態 と聴取型態並 にその芸術的展望」が発表 され る約一年前 に,バ
イイ とセシ ュエによっ て編集 された『一般言語学講義』第二版 (一九二二年)の
邦訳 が『言語学原論』 とい う名称 で出 版 された こ とを想起 す る必要 があ る7。「 第一版編者 の序」でバ イイ とセシ ュエは,ソ
シ ュールの 講義 を聴講 していた学生の筆記 を照 らし合 わせて も一致 す る点が絶無 に近 かった こ とを失望 しつ つ,第
二 回講義 に「 土台」 をおいて「一種 の再建,総
合」 を試 み る と述 べてい る。「 訳者 の序」 で は小林英夫 が ソシ ュール理論 を解説 してい る。「 ソ ッス ュール に於 いて,最
も本質的な こ とは 『 言語』 と『 言語活動』 との識別 であ る。その会得 は ソ ッス ュール を理解す る上のキーであ る。 言語活動 それ 自らは一科学の対象た り得 ない。 それは多質的であ るか ら。然 るに言語 は言語活動 の社会的側面 であ り,等
質 的 であ る。 その個人的側面 を『 言』 と云ふ」。言語 と言語活動 につい て,本
文 では次の ように述 べ られてい る。「 所 で言語 とは何 か。余 に従へば言語1孤gueと言語 活 動langageとは別物 であ る。言語 は決定 された る部分であ り,本
質的 な る部分 であ る。言語活動 能 力の社 会的所産 であ り,同
時 にその能 力の 行 レ笛 を個 人 に許 すべ く社 会 団 体 が採用 した る,必
要 な る 制 約 の総体であ る。言語活動 は,全
体 として観 る と,
多 様 であ り混質であ る」(Saussure,1922=一
九二八:二一)。 この『 言語学原論』刊行の約一年後,中
井 は「 ソ ッシユールが言語 と言語活動 を区別せ しこ と」 に言及 しなが ら,「 言語活動」 とい う言葉 を用 いたわけであ る。 ここで,ソ
シ ュール,パ
イイ, 小林英夫,中
井正一 の用語法の交錯 を詳細 に検討す るこ とはあま りに深入 りす るこ とになろ う。 問題 にな るの は『 言語学原論』の翻訳や小林英夫 に よる解釈 だけではない。『 一般言語学講義』 編纂 の問題,そ
して第一 回か ら第二 回講義 におけ る相違,出
席者 間の ノー トの異 同,さ
らに一九 九 六年 に発見 された ソシ ュールの草稿 も考慮 しなければな らない8。 ここでは ソシ ュ,ル
研 究 の 問 い に向 うの ではな く,中
井 がいか に「 言語活動」 とい う言葉 を用 いたのかを確認 す る9。 その 手 がか りは,先
の引用文 で中井 が提示 した対比,す
なわち「 言葉の Postmortem」 としての文法 と「 その生け るすがたであ る言語活動」 とい う対比であ る10。 言語活動 に関わ るもの として,申
井 は「 発 言」 と「 聴取」 に言及 す る。「 ソ ッシュール の言語活動 への関心 は,…
…能動 的発言7
『言語学原論』は一九二八年一月十五 日発行 と奥付にあるが,一二月二五 日前後 に製本 された書物を手にした と小林英夫は述べている。彼によれば,『一般言語学講義』の「世界における最初の翻訳」であった。8
『一般言語学講義』がソシ ュールに忠実ではなかった こと,ゴデルの原資料や上ングラーの校訂版 について も 今 日ではよ く知 られているが,近年,新資料が発見されている。最終講義に出席 していた華生の一人,M.L
ゴー チエによると,一九一一年五月六 日,出版用に準備 していた一般言語学 に関する原稿を紛失 した旨,ソシュールか ら告 白された。そのソシュールの手稿が一九九六年 に発見されたのである。それ らは,ジェネーブ公共大学図書館 に預け られた後,書物 として刊行 された (Saussure,2002)9
中井 自身が 目を通す機会のなかったコンスタンタツによる第三回一般言語学講義 ノー トにおいても,「社会的産 物」 としての言語 と「絶えざる行為」 としての言語活動が区別されているが,言語は「結局の ところ言語活動の一 部 にすぎません」 とも述べ られている。 10 ここでは,言語 と言語活動の「絶え間のない相互性」(rるciprOcite pemanente)に ついては述べ られていない。 ソシュールの草稿による と,言語活動は,言語の実践である と同時に,絶えず言語を生み出す ものである (Saus― sure,2002:129)。 一H9-作用 と所動的聴取H9-作用 に重心 を置 いてゐる。 これは言語 の型態 の一 つの軸
,或
は一 つの方 向の設 立 として興味深 い」(中井,一
九二九 :一二九)。 ただ し,『 言語学原論』で採用 された訳語 は「 発音」 と「聴取Jで
あ る。『 言語学原論 』 の第二 章 第二節「 言語活動事実中に於 ける言語 の位置Jに
は,三
つの図が含 まれ る。第一 に,相
対 す る、 二 人の人物 (甲と乙)の
図,第
二 に,発
音 と聴取H,概
念 と聴 覚映像 に関す る図,第
二 に,能
動 的 な発音 と所動 的 な聴取 に関す る図であ る。第二 の図に関 しては,凡
例 に「訳者 の老婆心」 んゝら と補足説 明があ り,一
九七二年以降の改版『 一般言語学講義』(岩波 書店)で
は削除 され る。 中 井 の注 目した「能動的発言作用 と所動 的聴取作用」 に関連 す る本文 は次の ような ものであ る。 「能動 的部分 と所動 的部 分。言主の一人の連合中枢 か ら他の言主 の耳へ と行 くものは九て能動的 であ り,後
者 の耳 か らその連 合 中枢 へ行 くもの は凡 て所 動的であ る」(Saussure,1922=一
九 二人 :二八)。 中井 は『 言語学原論』 を読 み,論
文 中で類似 した用語 を使 った。 しか し,ソ
シ ュール との関係 は,慎
重 に判 断 すべ き もので あ ろ う柁。第一 に,「 言語活動」 とい う言葉 を用 い る際,中
井 は, ソシ ュール の議論 を詳細 に追 うのではな く,フ
ンボル トや ライナ ッハ,ハ
イデ ッガーな ど複数の 人物 を論 じてい る13。 中井 は,「 言語活動Jと
い う言葉 を,独
自の文脈 に配置 して い る (「意 味 の 拡延方 向並 にその悲劇性」 では,あ
えてバ イイの名 を挙げて「 言語の持 つ社会的拘束」 に言及 し た箇所 もあ る)。 第二 に,中
井 は「発音」ではな く,「 発言Jと
い う言葉 を採用 した。能動的な発 音 と所動 的 な聴取 に関す る,訳
者 に よる図は,二
七 頁の上半 分以上 を占め る大 きな図であ り, 「発音」の文字 に気がつかない ことは困難であ る。 中井 が「発言」 と聴取 を対比 させたのは意図 的選択 であ ろ う。第二 に,言
語活動論 で用 い られた用語 は,一
九二六年の「委員会の論理」 では 変化 を被 る。まず,「言語活動」とい う言葉 は多用 されていない。「委員会の論理」では,ソシ ュー ル ヘの言及 はな く,「 発言」 と「聴取」 は「 云 う立場」 と「 聴 く立場」 に言 い換 え られてい るの であ る。 さて「発言型態 と聴取型態並 にその芸術的展望」で,ソ
シ ュール よ りも頻繁 に中井 が言及 して い るのは,現
象学者 のA.ラ
イナ ッハ (一人八三 ― 一九一七)で
あ る。 中井 が彼 を論 じたソ点に ついては,従
来 の 中井研究 で も扱 われて きた。 しか し,同
時代 の 日本 におけ る,ラ
イナ ッハ関連 文献 の 出版状況 については注 目されて こなか った と思われ る。文献 目録(Smith,1987)に
よる と,一
九二八 年 の 日本 において,尾
高朝雄 の論文「 法律 の社会的構造」望,さ
らにラ イナ ッハの 『 現 象学 に就 て』(「哲学 論 叢2」)の
邦 訳 が 出版 され ていた。 この一九二八年 は,先
に述 べた 11 コンスタンタンによる第三回一般言語学講義 ノー トの邦訳は二つ存在 しているが (相原奈津江 秋津伶訳,お よび影浦峡 田中久美子訳),双方 において,図に対応する箇所の訳語は「発声」 と「聴覚」である。なお,相原 奈津江 秋津伶訳では,「言語活動」ではな く,「音 力 築」,「言 葉 能力」 という訳語が採 られている。12
「春のコンテ ィニ ュイテ ィー」(一九三一年)で中井は,ゴシ ック体を多用 し q略口手J,「映画音」等),「記 号の複合Jという言葉を用いた。記号には独語を想起 させるルビが振 られている(「記 号」)。『一般言語学講義』 の独語訳は一九二一年 に刊行されたが,末尾に「一九三―,二 ,十四」 と記された「春のコンティニ ュイティーJ 執筆の際,中井が独語訳を参照できたかは不明である。なお,中井が「 ノエマテ ィッシユJと苦いているのは興味 深い。 13 言葉はエルゴソ (作品)ではな くエネルゲイア (活動)であると述べたフンボル トについて,中井は「最 も早 く 言語活動 に注意を向け し人」である と述べていた。近年では,ユルゲン トラバン トによる『 フソボル トの言語思 想』の邦訳や,村岡晋―によるフンボル トの対話的言語論の紹介な どもある。本稿では,中井におけるフソボル ト 受容についてはあえて詳 しく扱わなかった。 14 東京大学教授であった尾高の歿後 に刊行 された著作 (尾高,一九五七)に同名の論文が収め られている。彼は, ライナ ッハが「約束Jを単なる「社会的作用」 としているのは「正当ではない」 と述べる。約束は単に,相手方の 了解 を求める, 自発的な社会的作用に とどま らず,「かかる社会的作用が現実に表現 され理解され応諾 されて初め て成立する社会関係Jだとい うのである (尾高,一九五七 :一九四)。 ―-120-―ヴ ィンデルバン トの『否定判断論』(「哲学論叢4」
)の
邦訳が刊行された年でもある。『現象学に 就て』 と『否定判断論』双方の奥付には,「昭和三年十一月二十 日 第一刷発行」 と書かれてい る。中井が「発言型態 と聴取型態並にその芸術的展望」を発表 したのは,『哲学研究』の一九二 九年二月号である。 この論文で,中
井は,ラ /ナ
ッハの翻訳 されざる論考を,ヴ
ィンデルバン ト の否定判断論 と関連付けて論 じた。 この仕事は,当
時における最新の出版状況に伍するものであ った といえよう。 もっとも,ラ
イナ ッハ研究者か らすれば,こ
れ らの事情は ドイツか ら遠 く離れた 日本における 受容史の一頁に過ぎず,中
井の論考は二次文献であるのかもしれない。筆者が中井 と同時代の出 版状況等に注 目したのは,あ
くまでも中井研究の立場か らである。 この ような同時代の文脈は, 学説史の対象 とな りうる。しかし,そ れ 自体が研究のアクチ ュア リティを保証するわけではない。 この ように考 えると,中
井以降におけるライナ ッハ研究の動向を無視すべ きではないように思わ れる。 では,現
代に 目を転ずるな ら,ど
の ような視界が開けるのであろうか。一九一七年 にこの世を 去 ったライナ ッハの文献は,一
九八〇年代以降になると,J.L.オ
ースティンやJ.R.サ
ールの言 語行為論 との関連 か ら論 じられ るようになっている(Smith,1982;Mulligan,1987,Bur―
khardt,1990,Schuhmann,2004)。
九〇年代以降, 日本において も「言語行為の現象学」 と してライナ ッハを位置づけた榊原 (一九九二)の
論考が発表 されてお りあ,そ
のエ ッセンスを擬 縮 したライナ ッハの解説 (榊原,一
九九四)が
『現象学事典』に収録されるに至る。また,管
見 によれば,近
年のフランスで もライナ ッハヘの関心が再び高まっている。文献 目録 (Ponsard, 2008)に よれば,一
九六〇年代か ら一九七〇年代にかけて,フ
ランスではライナ ッハに関する多 くの論考が発表 されていた弱。注 目されるのは,二
〇〇四年 に「民法のアプ リオ リな基礎」の仏 語訳が単著 として出版 された ことである (Reinach,2004)。 翌年 には『哲学的研究』(二月号) が「 ア ドルフ・ライナ ッハ:ランガージ ュの哲学,法 ,存
在論」 という特集を組み (Benoist, 2005),同年六月には,こ
の「 民法のアプ リオ リな基礎」を扱 った国際 コロックがソルボンスで 開催 される。その発表原稿が加筆修正等をへた論文集 として刊行 されたのは二〇〇八年のことで ある (Benoist et Kervё g孤,2008)。 本稿は,も
とよリライナ ッハ研究を一次的課題 とするものではない。新全集の刊行やカール・ シューマンによる再評価の動向に言及 し,ラ
イナ ッハを再読 した 日本の研究業績 としては,榊
原 論文 (一九九二)な
どを参照 していただきたい。筆者 におけるライナ ッハヘの関心は,あ
くまで も彼に言及 した中井を起点 として生 じた ものである。残念なことに,ラ
イナ ッハに関する榊原論 文 には,中
井への明示的な言及はみ られないW。 他方,中
井に言及 した論文 には,近
年のライナ ッハ研究に言及 した事例がある (畑中,二
〇〇〇)硝。和辻哲郎 と中井正一の比較を中心的な課 15 論文「言語行為 と現象学 ―一A.ラ
イナ ッハを手がか りにして一― 」の冒頭で,榊原は,カール・シ ューマン の指摘 を紹介 している。「 この言語行為論の考 え方が,実は これ とは独立に,『すでにオーステ ィソ よりも約半世紀 も前に』『 ミュソヘソ現象学派の内部で』『統合的に提示 されていた』 ことも,近年の研究によって明 らかにな りつ つある。すなわち,カール シ ューマンによれば,『大雑把 に見て,先の世紀の変わ り目と第一次世界大戦 との間 の十年間の連続的な研究の中で』,『ヨハネス・ダウベル ト』『 アレクサンダー・プフ ェンダー』『 ア ドルフ・ライナ ッハ』 らによって,『言語行為の理論が一歩一歩築 き上げ られていたのであ り,この理論は,オースティンによっ て得 られた諸成果に,原理的な諸点では到達 してお り,部分的には これを凌駕 して もいる』 とされ るのである」 (榊原,一九九二 :八七)。 16 文献 目録 (Ponsard,2008)に は,一九九九年の 勤 溢 ψ力″誌「現象学 とは何か」の仏語訳 について記 されて いる。 しかし,一九九九年のP力雄 ψ力″誌数巻にあたったが,この翻訳については確認で きなかった。 17 榊原 (一九九八)による「射映」についての解説は興味深い。 18 筆者がライナ ッハの重要性に気がついたのは,榊原 (一九九四)がきっかけである。-121-題 とするこの論考において畑中は
,第
一に,中
井がライナッハによる主張/確
信 という判断の二 区分を援用 した と本文中で指摘する。思ったことと他人に向けて口にしたことの違いを認識する ことは,言
語行為論などディスクールの言語学の問題構成に重なると彼は述べる (畑中,二
〇〇 〇:四〇)。 第二に彼は,「他人に対するディスクール として実現 しているか否かによって『判断』 を二つに区分すること」は,オ
ースティンの行為遂行的発言/事
実確認的発言 という区別に重な るという見方を注の中で示 している (畑中,二
〇〇〇:四三)。 この先駆的な指摘に対 して,三
つの点を補足 したい。まず,第
一に,中
井は,ラ
イナ ッハの区 分を援用 しただけではな く,そ
の区別の「解体」について も述べていた。 この点については,後
に検討することになろう。第二の点はやや複雑である。注で述べ られた「他人に対するディスクー ル として実現 しているか否かによって『判断』を二つに区分すること」は,主
張/確
認 という区 別の言い換 えとして読まれる可能性がある。主張は他人に対するデ ィスクールであ り,確
認は他 人に対するデ ィスクールではない, と。 しかし,榊
原論文 (一九九二)に
よれば,「民法のアプ リオ リな基礎」 におけるライナ ッハは,「主張 としての判断」を,必
ず しも他者に向うもの と位 置づけているわけではな く,それを「事実確認する行為」と捉えているという(榊原,一九九二 : 九七)。 ライナ ッハ 自身がいうように,「主張は,他
の受け手なしに,自
分 自身に向けて語 られ う る」(Reinach,1989=2004:62)。 「 自分 自身への主張は未だ内在的である」 とい う中井の言葉も
,主
張が自分自身に向けられる点に言及している。第二に
,行
為遂行的発言
/事
実確認的発言
という区別に対して
,オ
ースティン自身が懐疑的になったことも考慮すべきである。
本稿の一次的な課題は,ラ
イナ ッハ論やオースティン論ではない。中井における言語活動論が 主たる考察の対象であ り,そ
の関連でライナ ッハが召喚 されるのである。ただ し,中
井研究の文 脈において,ラ
イナ ッハをいかに読むか,さ
らには近年のライナ ッハ研究をどのように参照すべ きか という問題は,1庚重に考慮すべ きものである。今 日,中
井の言語活動論を再読するのであれ ば,ラ
イナ ッハの諸論考,及
びそれ らのテクス トがおかれた新たなコンテクス トを黙殺すべきで あるのだろうか。 こうした専門領域への閉塞が,中
井研究において肯定的な意味を持ちうるのか ということが聞われて もよいはずである。他方,新
たな傾向を中井研究に安易に適用することが 問題含みであることは言 うまでもない。本稿は,こ
れ らの二者択―を回避 しなが ら,中
井による 言語活動論を再読する試みである。本稿のタイ トルを,「中井正一の言語活動論をいかに読むか」 という問いに留めた所以であるが,こ
こでい くつか気のついた点を記 してお く。 第一に,翻
訳を通 じて とはいえ,ラ
イナ ッハを読むことは,中
井の言語活動論を理解する手が か りとなる。中井の文章には,ラ
イナ ッハの議論 を要約 している箇所があ り,ラ
イナ ッハのテク ス トを読むことが中井の論考を理解することに寄与する可能性があるからである。第二に,こ
の ことは,時
に,中
井のテクス トの綻びを,ま
た,そ
れを論 じたテクス トの綻びを照射する危険性 に転化することであろう。第二 に,そ
もそも,中
井を研究する者に とって重要なのは,中
井がラ イナ ッハを援用 し,い
かに理解 したか という点 というよりむ しろ,中
井がいかなる批判を行い, 何を付け加えたか という点になるであろう。その前提 となるライナ ッハ理解が,ラ
イナ ッハ研究 の解釈 と異なるのだ とすれば,強
調すべ きは,ラ
イナ ッハに触発 されなが ら中井がいかなる思考 を紡 ぎだ したのか という点になるはずである。第四に,中
井の言語活動論を再読する作業が,中
井研究でいかなる可能性をもち限界を有するかを聞 うことも必要 と思われる。本稿は,今
後,継
続的に行われる予定である研究の,い
わばベースキャンプなのであ り,完
結 した研究成果を提示 するものではない。では次に,中
井による言語活動論を再読することにしよう。 ―-122-―四 否 定判 断論 と言語 活動 論
,歴
史的 回顧 の関連 「発言型態 と聴取型態並にその芸術的展望」で中井は,ま
ず,従
来の否定判断論を整理 してい る。彼が注 目する否定判断論は三つの方向に分かたれる。第一は,ジ
グワル トにおける「二重判 断論」である。肯定判断の拒否であるという意味において否定を第二の判断 と考 える議論である。 この場合,否
定は表象結合の上 においてのみ問題 となる。第二は,ヴ
ィンデルバン トにおける 「否定評価論」である。否定は,価
値の上で問われた ものの「答 え」 として問題 となる。「 この 薔薇は白い」 という判断の場合,先
行する問いなしに肯定できる。他方,「この薔薇は赤 くない」 という判断の場合,まず,出来上がった知覚に赤なる表象が付加 して「 この蕃薇は赤いだろうか」 という「問い」が作 られる。その後,こ
の問いが追加的に評価 され否定がなされると考 えるので ある。まず,問
いがあ り,次
に問いに対する「評価的回答」が生 じる。すなわち,二
次的評価 と して否定判断が生 じると考 える議論である。第二は,ブ
レンターノの否定衝動論である。彼は, 「心的作用」を,「表象」「判断」「愛憎の現象」 という三つの分野に分かつ。表象においては何 かあるものが表象されてお り,判
断に於いては何かあることが是認ないし否認 されている。そし て,欲
求においては何かあるものが欲求されるのである。 中井によれば,こ
れ らジグワル ト,ヴ
ィンデルバン ト,ブ
レンターノの否定論は,意
識層 にお ける議論に とどまっている。 これに対 して,ラ
イナ ッハは,判
断の領域を確信 もberzeugungと 主張 Behauptllngの 領域 に分かつ。中井はこれを論文「言語」における議論 と重ね合わせ,内
な る言葉 としての確信,さ
らに,外
なる言葉 としての主張 と補足説明をしている。主張 と確信の区 別を導入することにより,従
来の否定論 とは異な り,個
人意識のみな らず,個
人間の対話 におけ る否定判断を論 じることが可能になる。 ライナ ッハ以前の否定論 も,「否定」が二重性をもち, 問い と回答を含む ことを指摘 した点で興味深いのであるが,そ
れは個人意識の枠組み内部で展開 されたものであった。 これに対 して,ラ
イナ ッハの否定論は社会層に迫る意識層を問題 にしてい ると中井は評価 している。以下,中
井によるライナ ッハ論をみていきたい。 まず,是
認の問題 があ る。ヴ ィンデルバン トにおいてBilligungと いわれ,プ
レン ター ノでAnerkennungと
呼ばれるものには,混
同があ り,同
意的是認 と判断的是認に区別 しうることが 指摘 される。同意的是認は,判
断的是認を是認することである。 この同意的是認は主張の領域に おける是認である。「委員会の論理」で中井が述べるように,主
張に対 しては,判
断的是認の是 認であるところの同意的是認が必要 となるか らである。そ して判断的是認は確信の領域 における 是認であるとされる。 確信 と主張の区分には,さ
らなる区分が施される。まず,主
張には,単
純な主張 と論争をめざ す主張がある門。 とりわけ,論
争は「卦手の承認の要求」をもち20,対 手の確信にまで連続する。 意識側の主張 と確信の領域 にそれぞれ肯定 と否定があ り,ま
た,対
象側の事態にも肯定的な もの と否定的なものがある。1
主張 (肯定 否定) │
意識側引│―
客観側事態 (肯定 否定)1
確信 (肯定 否定) 1
19
「委員会の論理」では,この区別は用いられてお らず,単なる「 主張」 というタームが使用 されている。20
「対手」 とは,『広辞苑』 によれば,戦う相手や敵手 を意味す る。中井正一全集では,「封手」が「 相手」 と書 き換えられているため,アゴエスティックなニ ュアンスが減 じられている。-123-ラ
/ナ
ッハが「否定判断の理論 について」の後半で行 った錯綜 した議論を,中
井は先のような 衝明な図にま とめている。そ して,六
つの要素をもつ八つの組合せの各 々を検討することは深入 りし過 ぎであるとして,中
井に とって重要な課題を提示する。すなわち,過
去の否定論 に対 して, 主張 と確信の領域における否定性はいかなる関係をもつか,ま
た,そ
れが言語活動 と論理の関係 にいかなる関係をもっているかの検討である。 ライナ ッハの抽象的な議論 を紹介 した後,中
井は突然,「歴史的回顧」に関す る文章を挿入 し ている。そこでは「外なる言葉」 としての哲学的問答法 より「 内なる言葉」 としてのデ ィアレク ティクヘの転生が再ぴ論 じられる。それは論文「言語」における議論の一部を要約 した ものであ る。一見,唐
突に思える文章が一段落続いた後,中
井は関連づけの理 由を説明する。従来,一
般 的な解釈は,ギ
リシア的な意味での「思想交換の会話」 としての哲学的問答法における否定の意 味についてあま りにも無関心であった という。 これに対 して,判
断を主張 と確信の領域に区別 し た点で,ラ イナ ッハが言語活動 との関連か ら思惟を顧みたことは評価 しうるが,ジグワル ト以後, ヴ ィンデルバン ト,ブレンター ノの三つの否定論 に目を向けているのみである。おそ らく中井は, ブチ ャーに由来する歴史的回顧 とライナ ッハの議論を関連づけることが「私達に残 されたる問題」 と考 えていたのであろう (中井,一
九二九 :一 四六)。 その後,中
井は,社
会層 に迫 るライナ ッハの議論 を評価する一方,「意識層」に留まる否定論 を改変する。まず,否
定は肯定判断の拒否であ り,第
二の判断だ とする議論は,言
語活動 との関 連で修正される。否定はもはや一人の意識における肯定判断の拒否だけを意味 しない。一人の人 間の判断的表現 としての主張が,他
の人の判断的意識の上で拒否され,そ
れが表現されることを も包含するようになる。肯定判断の拒否 としての否定は「二つの層に於ける二重性」に拡張 され たのである。次に,問
いに対する「評価的回答」 として否定を提える議論に関 しては,意
識のな かで評価が中止 され,問
い とな り,否
定が現れる過程が,人
と人 との社会的会話の構造 と相似 し ていると指摘 される。 五 中井 正 一 の言語 活動 論 論文の後半,中
井はライオ ッハの議論の紹介から離れる。中井はライナ ッハを論 じているのだ が,時
に批判を行いなが ら,次
第に自分の議論 を展開するかの ようである。中井には,「言語」 とい う論文はあれ ども,「言語活動論」をタイ トル とする論考は存在 しない。 しかし,ラ /ナ
ッ ハを論 じることで中井が紡 ぎだす議論は,言
語活動論の萌芽の ように思われる。 しかも,そ
れは 「委員会の論理」の理論的前提 となるものである。 自らの議論 を展開す る際,中
井は,ラ
イナ ッバの「社会的作用」の概念 に言及す る21。 ぁる 「事態」に対 して確信をもち,そ
れを主張に転化することは一つの 自我で も可能であるが,他
者 の「同意」を得 ることは不可能である。他人の了解や同意を要求することは,「社会的関係領域」 に属 している。他人に対する「了解の要求」は,「社会的作用」の顕著な特質である。中井の理 解 によれば,ラ
イナ ッハは主張 と確信を社会的領域 にまで「 肉迫せ しめ」た。 しかし,社
会的領 域である「 同意」の現象 と混同させないために注意をは らわなければな らず,結
局,「主張判断 と確信判断を同一主観領域 に閉 じこめ」なければな らな くなった という。 ことに否定判断の問題21 ライナ ッハの原書では,Die sozialen Akteと 題 された節で詳述 される。なお,H・ スピーグルバーグの『現象 学運動 〔上〕』邦訳にライナ ッハに関する記述があるが,そこでは「 社会的行為の理論」 とい うタイ トルがつけ ら れている。
において,関係主観 の異 な る領域 におけ る判 断の関係 に 目を閉 ざす こ とは,寂しい と中井 はい う。 中井 に よるラ イナ ッハ批判 が妥 当な ものであ るか否 か については,こ こで検討 す る余裕 はない。 注 目した いのは
,ラ
イナ ッハ におけ る主張 と確信 を論 じた後,中
井 が確信 を言語活動 の なかで捉 え直 し,「 二 つの方 向」 に分割 した点であ る。一方 には,「 主張」の根底 にあ って他人に同意 を求 め る際の確信,す
なわち「 出発点 としての確信」 があ る。他方 には,他
人の主張 に無関心だ った 聴取者 がそれを了解 す る際 に生 じる確信,す
なわち「 帰着点 としての確信」があ る。 つま り,同
意 を求 め る際の確信 と了解 す る際 の確信 が峻別 されてい るのであ る。 ソシ ュール に触発 されて中 井 が案 出 した「発言」 と「聴取」 とい う概 念対 を,「 確信」 と「主張」 に関す るライナ ッハの議 論 と関連 付 けたのであ る22。 な お,能
動 的発言 と受動 的聴取 とい う軸 は,被
投 と投企 の軸 に通 じ る ものであ る。 留意 すべ き点 は,こ
の論考 で中井 がライナ ッハの「社会的作用」 に言及 した ことであ る。時 に 「 社会的行為」 とも訳 され る この概 念 は,ラ
イナ ッハ を再評価 す る際 に注 目され るため説 明が必 要 であ ろ う。 ラ イナ ッハ におけ る「 社会的作用」 は,「 自発的」で他者 に よって知 覚 され る こ と (ない し聞 き届 け られ るこ と)を
必要 とす る作用であ る (Reinach,1989=2004:60)。「 決定 す る」,「 判断す る」,そ
して「 許 す」 こ とで さえ,他
人 と差 し向かいで表 現 され る こ とな く心 中で も内的 に生 じうる。 この場 合,表
現 は副次的 な もので あ る。 これ とは対照的 に,「 社会的作用」 が遂行 され うるのは,切
示 的な発言 があ り,そ
れが別の人物 に よって理解 され るような場合であ る (Schuhmann,2004:291)。 例 えば ,「 伝達Jは ,他
者 との関係 に内在 して お り,内
容 を知 ら せ るため に他者 に語 るこ とが本質であ る。 ラ イナ ッハ は,一
方 では,伝
達 の機能 を欠 いた「 体酸」 と「社会的作用」 を区別 してい るが, 他方 では,「 社 会的作用」 が,「 内的体験」 を前提 としてい る点 に注意 を喚起 す る。例 えば ,「 主 張 」 は,そ
の 内容 に関わ る確信 を前提 とす る。「 問 い」 は,こ
の種 の確信 と両立 しない ものであ り,む
しろ語 られた内容 についての不確実性 を狙 ってい る。 さ らに,「 依頼」 は,要
求 が実現 さ れ る とい う願望 を前提 とす る。「 命令」 は,単
純 な願望 とは異 な り,求
め られた こ とを受 け手 が 実現 す る とい う意志 を基礎 として い る。 もし,内
的 な体験 が欠けてい る場合 は,見
せ かけの質問 や依頼,命
令,主
張 な ど とい った擬似 的作用 とな る。 ラ イナ ッハ の議論 には,真
の確信 を欠いた 見せ かけの主張 としての虚言 に関す る議論 が含 まれて い るのであ る(Rcinach,1989=2004:62
-63)。 榊 原 に よる と,ラ
イナ ッハ における社会的作用 は,「 話す こ と自体の うちで遂行 され る」ため, 「 行為遂 行 的」 な性 格 を もって お り,オ
ー ステ ィン的な意味 での言語行為 であ る とい う。 この 「 社会 的作用」 は三種類 に分類 され る。 第一 に,「 伝達 」 の よ うに,聞
き届 け られ る こ とで完結 す る もの。第二 に,「 答 えるこ と」の ように,別
の社会的作用 を前提 とす るもの。第二 は,命
令 や依頼や「 問 うこと」の ように,別
の行動や応答す る行為 を要求す るものであ る (榊原,一
九九 四)。 これ以外 に も,社
会 的作用 は変様 を被 る。社会 的作用 は,多
くの者 に よって一緒 に遂行 さ れ るか も しれ ず(Aは Bと Cと
一緒 に命令 す る等),集
団 に対 して語 られ るか もしれ ない (D,E,Fは
一緒 にテーブル を持ち去 らねばな らない)。 また,誰
かが社会的作用 を独断で,代
理ッパ、に よって遂行す るか もしれない。 さ らに,社
会的作用 は真 の受 け手 を代理 す る もの に語 られ るか も しれない (Schuhmann,2004:292)。 「 社会的作用」 の概 念 は,ラ /ナ
ッハ を言語行為論 との関連 で再読 す る際 の焦点 の一 つ とな っ 22 ライナ ッハ も二つの確信に気づいていたが,その厳密なる区別 と,その過程 については触れることを しなかっ た と中井は考えていた。なお,機能概念受容により中井は固定 された形而上学的区別を批判することがある。 ―-125-一ている。 しか し,「社会的作用」 に言及 したか らといって
,ラ
イナ ッハの場合 と同様 に,中
井の テクス トを再読で きるのであろうか。「社会的作用」への言及は微 々たるものにすぎない。 しか も,「了解の要求を,凡
ての社会的作用の絶対的な本質であると見 る」 という点に着 目する一方, 社会的作用の条件 としての「 自発性」に彼は言及 していない。 ここでは中井における「社会的作 用」概念ではな く,他
の議論に光をあててみたい。興味深いのは,中
井が論争をめざす<主
張>
に言及 し,そ
れが「掛手の承認の要求」を持つ と述べたことである。第一に,「論争」は,あ
る 命題を主張 しつつ,封
手の承認を要求する言語活動 と考 えられる。第二に,個
人内の意識 にせ よ, 個人間の対話 にせ よ,中
井は,否
定のなかに「聞い」 と評価的回答を見出す。論文「言語」でも 提示 されていた「問い」 という言葉は注 目に値する。第三は,主
張 と確信の三分法を中井が批判 した点である。「発言型態 と聴取型態並 にその芸術的展望」の冒頭で中井は,ラ
イナ ッハの議論 を援用 しつつ,外
なる言葉 としての主張,そ
して内なる言葉 としての確信について図式的に論 じ ていた。 ところが,論
文の末尾 において中井は,「主張 と確信の二つの領域はその解体を要求 さ れは じめる」と述べ,両
者の区別を脆弱にしてしまう。その理 由は「 内なる聴取者」に関連する。 中井は発言者のなかに聴取者を見出すのである。ある命題について発言する時,他
人は判断を留 保 しなが ら,肯
定でも否定で もない無関心の状態でそれを聴 く。そればか りではない。発言者の 内なる聴取者 もまた,判断中止の無関心な状態で,そ の発言を聴いているかもしれないのである。 内なる聴取者に対する主張 も可能だ と考えるのであれば,内
なる言葉 としての確信,外
なる言棄 としての主張 という区別は脆弱な もの となる。 本稿では,論
文「言語」んゝら「発言型態 と聴取型態並にその芸術的展望」に至 る過程を中心に 辿 って きた。後者 において,中
井は「言語活動」 とい う言葉 を多用するようになった ものの, 「委員会の論理」になると更なる用語法の変化が生 じていた点は述べた通 りである。 もっとも, 「発言型態 と聴取型態並にその芸術的展望」で展開された議論それ 自体が忘却 されたわけではな い。む しろそれは「委員会の論理」の前提 となっている。論文「言語」んゝら「発言型態 と聴取型 態並にその芸術的展望」は,内
容的には,「委員会の論理」上篇 と中篇 に対応する。そ して言語 活動の歴史的回顧 と哲学的考察の結合は,「発言型態 と聴取型態並にその芸術的展望」で試み ら れた後,「委員会の論理」(上,及
び中)で
再ぴ試み られ,論
考の構成それ 自体を規定 している。 中井の言語活動論は過渡期の議論であったが,「委員会の論理」を準備するもので もあったので ある。言語活動論か ら「委員会の論理」に至 る過程では,本
稿では言及で きなかった種 々の変化が 生 じている。 しかし,そ
の詳細な検討を行 うには稿を改める必要があろう。 註:引用にあたっては,旧
字体を新字体に改めた。また,引
用文のルビに見 られる欧語のカタカ ナ表記等については,あ
えて訂正をしなかった。 引用 ・参考文献EI]
尾高朝雄,一
九五七,『法律の社会的構造』動草書房。 郡定也,一
九六六,「中井正一研究の視点 ―全集刊行 に絡めて一」『キ リス ト教社会問題研究 第 一〇号 「戦時下抵抗の研究」特集』一三〇∼一四四頁。 榊原哲也,一
九九二,「言語行為 と現象学一―A.ラ
イナ ッハを手がか りにして一―」,東
京大学 文学部哲学研究室編『論集』X,八
七∼一〇三頁。 ――一―,一
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