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ある矢取地蔵をめぐる覚書 : 付.『弘法大師御伝記』の挿絵と北摂感応寺所蔵「弘法大師絵伝」

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女子大国文 第百三十三号 平成十五年六月

ある矢取地蔵をめぐる覚書

付.﹃弘法大師御伝記﹄の挿絵と北摂感応寺所蔵

J

I

士 山 1 ﹁ 羅 城 門 遺 祉 ﹂ の石碑が立つ児童公園のすぐ近く、・九条通りに面して小さなお堂があって、そこに一体の地蔵菩薩の石 造座像が杷られている(京都市南区羅城門町、後掲写真①参照)。例えば竹村俊則﹃昭和京都名所図会﹄ 6 洛 南 ( 駿 々 堂 、 昭引)に﹁矢取地蔵﹂という項目を立てて、﹁像は高さ一・五メートル、右手に錫杖、左手に宝珠をもった江戸時代の作 と思われる石造坐像で、面貌はあまりよくない﹂などと紹介されているところのものである。 この﹁矢取地蔵﹂には、その名の由来ともなる一つの話が伝えられている。例えば﹃昭和京都名所図会﹄は、上引部に 続 け て 、 A 口碑によれば、この地蔵尊は西寺の守敏僧都が東寺の弘出大酬を料たみ、大師の帰途をねらって矢を射ったところ、 矢はあたらずに地蔵尊にあたり、大師の難を救った。それより矢取地蔵または矢負地蔵とよばれるに至ったとったえ る 。

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あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書 と記す。上述通り羅城門祉のすぐ近くに杷られる矢取地蔵は、同門を挟んで東西に建てられた両寺、今は礎石などを残す のみの西寺の跡と、現在も五重塔がその偉容を誇ったりしている東寺との、ちょうど中間あたりに位置していることにも なる。そのことと呼応するがごとく、西寺の守敏僧都と東寺の弘法大師空海との間の話になっているのであって、身代わ りとなって守敏の矢から空海を救ったという、地蔵の霊験罪である。 ﹃日本伝説名葉﹄(日本放送協会、昭お)も﹁矢取地蔵﹂と題して、 B 東寺に弘法大師があり、西寺に守敏僧正があった。ある年、大早魅に守敏が祈っても効なく、弘法大師が祈ると大雨 が降った。守敏は大いに嫉んで大師に向かって矢を放った。 そのとき地蔵尊が現われてその矢を宙で に取った。そ れでこの地蔵の手には一矢を握っているという。 ( 史 蹟 と 伝 説 ) という同様の伝承を記している。ただし、代わりに矢に当たるのではなく矢を手に取ったとする点(波線部)、また、守 敏が空海に矢を射るに至る経緯が盛り込まれている点(実線部)、 A ﹃昭和京都名所図会﹄と違っていて、 目を引く。な お、矢を手に取ったことについて、 その物的証拠を﹁地蔵の手には一矢を握っている﹂と最後に示しているが、確かに現 在も、矢取地蔵像の右手に、錫杖と共に矢が握られている。ただ、 その矢は一本でなく二本である(後掲写真①参照)。 あるいは、最近の編集工房か舎・菊池昌治﹃京都の魔界をゆく絵解き案内﹄(小学館、平日)にも同様に、 C 東寺の空海に対し、西寺の守敏僧都はことあるごとに対立競争していた。ある時、守敏が空海を狙って矢を射かけた ところ、矢はどこカらともなく現れた一人の僧の肩を貫いた。身代わりになったのは地蔵尊で、 おかげで空海は命び ろいをした。以来、 この地蔵は矢取り地蔵と呼ばれるようになったという。 と記される。守敏が矢を射るに至る状況がまず述べられている(実線部)のは、 B に近いが、地蔵が一人の僧の姿で現れ、 しかも、肩を射抜かれたとする点(波線部) は、先の A に も B にもない要素である。像について直接確認し得ていないけ

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れ ど も 、 矢 取 地 蔵 の ﹁右 肩 に 矢 キ ズ のあ と が 残 って い る ﹂ と い う ﹁近 所 の 人 た ち ﹂ の話 が 、 今 屋 敷 晶 ﹁弘 法 大 師 と 高 僧 伝 説 ﹂ (京 都 千 年 7 ﹃ 伝 説 と そ の舞 台 ﹄ 講 談 社 、 昭 59) に 記 録 さ れ て い た り も す る 。   さ ら に 、 矢 取 地 蔵 像 を 祀 る お 堂 に 掲 げ ら れ た 案 内 板 に も 、 ﹁矢 取 地 蔵 寺 緑 起 (矢 負 地 蔵 由 来 記 よ り ) ﹂ と 題 し て 、                                               ハマ マ ワ   D 淳 和 天 皇 の御 代 ( 約 千 百 年 前 )天 長 元 年 に 国 土 早 操 し て農 耕 の用 水 も な く な った の で 朝 廷 は 、 守 敏 と 空 海 (弘 法 大 師 )     の 二 人 に 雨 乞 い の勅 命 が あ った 。 御 所 の神 泉 苑 の庭 で 、 雨 乞 い の 祈 祷 を 行 っ た 。 空 海 の術 が 守 敏 に 勝 っ た の で 三 日 三     夜 雨 が 降 り 、国 土 を 潤 し た の で 守 敏 は 空 海 を 怨 み 、 矢 を も って 空 海 を 射 た時 に 、地 蔵 そ の 間 に出 現 し て空 海 に代 わ り 、     そ の 矢 を 受 け た 。 地 蔵 の 石 像 の 背 に 傷 あ り 、 そ の 後 人 々 は そ の身 代 わ り 地 蔵 を 矢 負 の 地 蔵 と 呼 び 長 く 敬 って き た 。 そ     の 後 人 々は 何 時 の時 代 か ら か 、 矢 取 の 地 蔵 と 呼 ぶ よ う に な った の で あ る 。 今 の お 堂 は 明 治 十 八 年 三 月 (約 百 十 数 年 前 )     に 唐 橋 村 (八 條 村 ) の人 々 の寄 進 に よ り 建 立 さ れ た も の で あ る 。 と 記 さ れ て い る 。 守 敏 が 空 海 に矢 を 射 る に 至 る 経 緯 を 、 Bあ る い は C に 示 さ れ て い た のよ り も 詳 細 に前 半 部 に記 述 し た う え で 、 矢 取 地 蔵 像 の伝 承 を 紹 介 す る 。 石 像 の背 に傷 が あ る (波 線 部 ) と い う の は 、 矢 を 受 け た 点 で は 同 じ で あ って も 、 矢 を 受 け た 場 所 に お い て、 肩 を 貫 いた と す る C と 食 違 う こ と に な る。 右 の D の末 尾 に ﹁平 成 五 年 十 一 月   矢 取 地 蔵 保 存 会 ﹂ と 記 さ れ る 、 そ の 保 存 会 の村 上 弥 一 郎 氏 (大 正 五 年 生 ) か ら ﹁背 に 傷 が あ る のを 見 た と 義 母 が 話 し て い た ﹂ と いう 証 言 を 得 た が 、 石 像 の 背 の 部 分 は 今 は 見 難 い 状 態 に な って お り 、 直 接 確 認 す る こ と は で き な い。   右 の Cと D の 要 素 を 合 わ せ た よ う な 内 容 に な って い る 場 合 も 見 ら れ る 。 例 え ば ﹃ 南 区 ウ ォ ー キ ング マ ッ プ ﹄ 1 (南 区 ま ち づ く り 推 進 会 議 ・ 京 都 市 南 区 役 所 、 平 14) の解 説 に 、 ﹁矢 取 地 蔵 ﹂ と 題 し て 、   E ⋮ ⋮ い わ ゆ る ﹁雨 乞 い 合 戦 ﹂ と いわ れ る も の で 、 結 果 は 、 空 海 の祈 祷 に よ って 三 日 三 晩 雨 が 降 り 続 き ま し た 。 合 戦 に     敗れ た 守 敏 は 、 空 海 をね た み 、 待 ち 伏 せ し て 矢 を 放 っ た と こ ろ 、 黒 衣 の僧 が 身 代 わ り と な って そ の矢 を 受 け 、 空 海 は 3 あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書

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あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書 難を逃れました。その黒衣の僧は、実はお地蔵様で、いつしか矢取地蔵と呼ばれるようになりました・:。矢取地蔵は、 別名、矢負地蔵とも呼ばれ、 その背中に矢を受けたときにできたと伝わる傷が残っています。 と記載される。地蔵が黒衣の僧の姿で現れる(前の波線部) の は C と 同 様 で あ り 、 一方、背中に矢を受けたとする(後の 波線部)点や、あるいは守敏が矢を射るに至る経緯を詳述する点は、

の背を貫くかと見えたのだが、 D と同じである。また、﹁矢はねらいたがわず空海 一瞬空海のまうしろに黒衣の僧が現れ、矢はその肩口に立った﹂(駒敏郎・中川正文竺尽 都の伝説﹄日本の伝説 1 、角川書庖、昭日)というように、 C の 肩 と D の背とを合わせたような形も見られる。 その内容にかなりの振幅を示しながら、矢取地蔵像にまつわる霊験謂が、以上のごとく現代に伝承されているのである。 取り立てて問題にすべきようなものではない、些末な伝承と言うべきであるかもしれない。が、それを承知のうえでなお、 ﹁あまりよくない﹂(先引竹村著書)とも﹁たいそうほほえましい﹂(後掲岡部著書) と も さ れ る 、 そ の 個 性 的 な 面 貌 と 、 そこから醸し出される奇妙な存在感に惹かれるままに、矢取地蔵像にまつわる伝承を取り上げて、生成過程などの問題に っき若干のメモを書き付けておくこととしたい。 前節に挙げた現代の諸事例と同様の矢取地蔵像の伝承は、時代を遡って探索するならば、以下のような諸史料にも見ら れることが確認される。 ま ず 、 いくつかの近世地誌・紀行類に、次の通り。 F ﹃東寺往還﹄(新修京都叢書) *延宝九年(一六八一) 鳥羽大路ニ出テ山崎道トノ堺ニ、矢負ノ地蔵堂アリ。矢負ノ事、相伝ハ、中敏常ニ弘法ヲソネミ、或夜入堂ノ刻、縞

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ヒ テ ヲ ヲ ノ ニ窺レ之以レ矢射レ之。子レ時其矢不レ中一一弘法九此ノ地蔵中間ニ立チ隔テ玉ヒ、此ノ矢ヲ負シト也。然レトモ俗伝不レ足 レ 信 事 也 。 G ﹃薙州府志﹄寺院門第五﹁地蔵堂﹂条 在ニ東寺西南隅山崎道之傍一也。相伝。 法 一 負 一 一 其 矢 ↓ 子 レ 今 地 蔵 木 像 有 一 一 癒 痕 ↓ (新修京都叢書)*貞享元年(一六八四)序・同三年刊 I l l 1 1 4 q l u l I l l 1 1 1 E 掛 ニ ヒ ノ ヲ テ ヲ ル ヲ ニ ノ ノ ニ テ 守 敏 甚 妬 一 一 弘 法 大 師 寸 縞 敵 一 一 其 出 一 以 レ 矢 射 レ 之 。 子 レ 時 此 地 蔵 現 -一 出 其 間 九 代 ニ 弘 ニ ス ノ ト 故 号 一 一 矢 負 地 蔵 ↓ 今 浄 土 宗 僧 守 レ 之 。 H ﹃京羽二重織留﹄巻一二﹁負レ矢﹂条(新修京都叢書) *元禄二年(一六八九) 東寺西南の隅、山崎道の傍に、地蔵堂あり。伝云

o

q

創はなは対即、正を た U 旬 、 ひそかに弘法の出るをうかジひ矢を 放て射る時に、此地蔵弘法に代て其矢を負ふ。今に地蔵の木像に其庇あり。此故に矢負の地蔵と号す。今浄土宗の僧 守 レ 之 。 5 ー﹃京師巡見記﹄﹁善峰筋﹂条(史料京都見聞記) * 明 和 四 、 五年(一七六七、 )¥ 道筋三条通り西へ、二軒茶屋より左へ島原脇を通り、夫より東寺四塚、往古羅生門の跡、石橋の所を云、不分明之由。 地 蔵 堂 、 石地蔵也。矢負地蔵と云。空海と守敏と法力 ひの時、守敏僧都の矢空海に射懸し時、此地蔵尊其矢を詰給 ひし由。夫よりして矢負の地蔵と云。 F i H は特に記述が近いが、 F ﹃東寺往還﹄と G ﹃羅州府志﹄は共に黒川道祐の著作で、また、 ﹃薙州府志﹄に多く拠っていること指摘される通りであって、それら三者は結局、 H﹃京羽二重織留﹄が G 一連の記述なのである。 の必夢﹃延命地蔵菩薩経直談紗﹄(渡浩一編勉誠社刊影印)の挙げる、経文﹁風雨随レ時﹂ についての説話、巻七お﹁洛陽東寺辺矢負地蔵縁起﹂が、空海と守敏の雨乞いの話を載せたうえで、それに続けて、 斗 司 同 ヰ i l l l i -I l i -判 外 i ヒ ソ カ ウ カ マ ヤ イ / J 是ニ由テ守敏甚ダ弘法大師ヲ妬ミ、或トキ大師ノ出行アリシヲ縞ニ敵ヒ、矢ヲ以テ是ヲ射ルトキニ、地蔵其開ニ出現ナサ また、元禄十年(一六九七) ある矢取地蔵をめぐる覚書

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一 あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書 ハ ン コ -ヤ ヲ イ ノ ス ミ ヤ マ サ キ ミ チ レ、弘法ニ代テ其ノ矢ヲ負フ。今ニ地蔵ノ石像ニ癒痕アリ。故ニ矢負ノ地蔵卜云。此地蔵ハ東寺西南ノ隅、山崎道ノ キ ズ ア ト 似デニアリト薙州志五 巻ニ見エタリ と記す。末尾に注記される通り、 G ﹃薙州府士山﹄に拠るところが大きいようである。矢取地蔵が舵られるお堂から程近い 吉原家(もと庄屋、現戸主吉原慶一郎氏)に所蔵される K ﹃矢負地蔵復旧

S

上願持地蔵由来記﹄は、明治十八年(一八八 五)、矢負地蔵堂の寺院としての復旧を京都府知事に願い出た文書の控えのようだが ( 全 文 翻 刻 後 掲 ) 、 同文書に付された ﹁矢負地蔵由来記﹂は、この J に拠っており、それとほぼ同文を載せる。また、﹁矢取地蔵寺縁起(矢負地蔵由来記より)﹂ と題していて、最後に明治十八年の建立に言及していた、前節所掲の D は 、 そ の K の﹁矢負地蔵由来記﹂に基本的に拠つ たものに違いなく、そのうえに背の傷の件などを書き加えたのであろう。なお、先の村上弥一郎氏方にも、﹁矢取地蔵寺縁 起﹂と外題される巻子本一軸が所蔵されるが、 それは、右の K 吉原氏所蔵﹃矢負地蔵復旧詩上願弁地蔵由来記﹄の転写本 のようである (ただし、付載されていた﹁矢負地蔵由来記﹂ の方が逆に巻頭に置かれている)。 さらに、絵伝にも見える。空海の掛幅絵伝としては、中世にまで遡る尾道浄土寺本と根津美術館本のほか、近世期以降 のものがいくつか知られているが、 そのうち、第四幅左下に﹁子時明治十二年十二月功徳日為高祖/弘法大師一千五拾回 御詳報思謝徳彫/刻行状蔓茶羅四幅奉納東寺宝庫者向/願主/::・/締結峠御絵所北村半三郎秀隆﹂と記された、紙本木 版刷の東寺宝物館所蔵﹃弘法大師行状憂茶羅﹄四幅(同宝物館にはその版木も所蔵される)には、﹁守敏加持﹂﹁守敏封龍﹂ ﹁神泉祈雨﹂に続いて、﹁矢取地蔵﹂という四字題名を持った絵が描かれている(第四幅下から二段目、後掲写真④参照)。 また、この明治十二年(一八七九)の絵伝とほとんど全く同一の絵柄を描いた、同じ頃あるいは幕末の紙本著色掛幅絵伝 ﹃大師行状記﹄四幅が、通称 H たなべ不動尊 u 紫金山法楽寺(大阪市東住吉区山坂)に所蔵されているが、同絵伝にも、 ﹁守敏加持﹂﹁守敏封龍﹂﹁神泉祈雨﹂に続いて ﹁ 矢 取 地 蔵 ﹂ の絵が描かれている (第四幅下から二段目、後掲写真②③⑤

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参照)。真鍋俊照﹁弘法大師行状絵詞の成立と展開﹂(﹃解釈と鑑賞﹄ ω│5 、平日)等に言及される金剛院本掛幅絵伝四 幅も、上の両伝とほぼ同じ絵柄を持っているらしく、同様の掛幅絵伝は、幕末から明治初期頃にかなり制作されていたこ とが推測されるところであって、それらには共通して﹁矢取地蔵﹂の同様の絵が描かれているものと見られる。矢取地蔵 像の伝承はその頃には、単に街角の地蔵にまつわる逸話というようなのに止まらず、崎将一時御絵所﹂にて制作されたもの れっきとした空海の事蹟として組み込まれるまでになったということである。また、それら など空海の掛幅絵伝の中に、 掛幅絵伝の中の ﹁ 矢 取 地 蔵 ﹂ の絵は、他の絵と共に、聴衆を前にして盛んに絵解きされていたのかもしれない。 なお、東寺宝物館蔵本と法楽寺蔵本にて確認したところでは、右の掛幅絵伝中の ﹁ 矢 取 地 蔵 ﹂ の絵に描かれた地蔵は、 胴前の左手に二本の矢を水平にして持っている(後掲写真②参照)。現在の矢取地蔵の石像が先述通り、左手でなく右手で あり、矢を水平にしたりしていないが、やはり二本の矢を持っている(後掲写真①参照) のと一致する点、興味深い。ま 7 た、雲に乗る地蔵が矢を手にしている、その絵柄が、先の B に見られた内容﹁地蔵尊が現われてその矢を宙で手に取った﹂ ( 波 線 部 ) と照応するのにも、注意される。 もっと丹念に探索すれば、矢取地蔵像の伝承を採録した事例は他にも少なからず挙げ得るものと思われるが、とりあえ ず以上のうちでは、年代的に最も遡るのは延宝九年(一六八一)成立の F ﹃東寺往還﹄であって、より遡って中世の史料 となると、同伝承が採録された事例を、今のところ見出せていない。無論、現段階での管見の及ぶ狭い範囲内でのことで あるので確信が得られる訳ではないが、矢取地蔵像についての伝承は、右の延宝九年からさほど遡らない時点、近世初期 頃に誕生してきたものと、 およその見当を付けておくことはできるだろうか。 また、現代の伝承に見られる内容上の振幅については先に触れた通りだが、誕生してからそこに至るまでの過程におい て、矢取地蔵像の伝承が種々の変容・展開を見せていることも、管見の狭い範囲内からでも窺える。 ある矢取地蔵をめぐる覚書

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あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書 0 0 0 0 0 例えば、伝承の舞台。 F ﹃東寺往還﹄が﹁:::矢負ノ地蔵堂アリ。矢負ノ事、相伝ハ、守敏常ニ弘法ヲソネミ、或夜入 0 0 0 0 0 0 到 ノ 刻 、 縞 ニ 窺 レ 之 以 レ 九 射 レ

L

﹂と、空海が﹁刈到﹂の際に守敏が矢を射かけたとする、その﹁堂﹂とは、﹁矢負ノ地蔵堂﹂ に違いないと思われる。地蔵堂あるいはその周囲で、守敏が入堂する空海に矢を射たところ、その堂に肥られる地蔵が﹁中 間ニ立チ隔テ玉ヒ、此ノ矢ヲ負﹂った、ということなのであろう。地蔵堂が、伝承の舞台となっているのである。 タ ム ヲ ニ ヒ ノ ヲ テ ヲ ル ヲ ﹁ 守 敏 甚 妬 ニ 弘 法 大 師 ↓ 縞 敵 一 一 其 出 一 以 レ 矢 射 レ 之 ﹂ 、 G ﹃ 薙 州府志﹄が H ﹃京羽二重織留﹄が ﹁ 守 敏 は な は だ 弘 法 を ね た み 、 ひ そ か に弘法の出るをうか£ひ矢を放て射る時に﹂とするのも、空海が地蔵堂から﹁出﹂る際に矢を射たということかと理解さ れ、やはり地蔵堂が伝承の舞台になっているものと思われる。 J も 同 様 で あ る 。 G H が、末尾に﹁今浄土宗僧守レ之﹂﹁今 浄土宗の僧守レ之﹂と記すものの、自目頭には﹁在一一東寺西南隅山崎道之傍一臨﹂﹁東寺西南の隅、山崎道の傍に、地蔵堂あり﹂ と す る の や 、 K ﹃矢負地蔵復旧言上願井地蔵由来記﹄が冒頭部に﹁右地蔵堂ハ、 王 護 国 寺 塔 頭 地 蔵 寺 ト 公 称 致 来 候 処 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ﹂ と記述することからは、地蔵堂が東寺の管理下にあったことを窺わせるのであって ( 東 寺 側 記 録 等 未 確 認 ) 、 そうした地 蔵 堂 で あ れ ば 、 そこに空海が出入りするという話が生まれてくるのは、自然なことでもあろう。なお、この地蔵堂は、吉 原慶一郎氏が所蔵される享保四年(一七一九) の文書の裏に載る絵図に描かれてもいる(後掲写真⑦参照)。 と こ ろ が 一 方 、 ー﹃京師巡見記﹄の記事からは、特に地蔵堂が舞台となっているという気配が窺えないのを始めとして、 先述通り J に拠った K を除く、以降のものでは、地蔵堂が伝承の舞台とは必ずしも捉えられておらず、 そもそも舞台がど ことは特定されない場合が多いようである。掛幅絵伝の ﹁ 矢 取 地 蔵 ﹂ の絵も、守敏と空海を左右両端に、雲に乗った地蔵 をそれらの中間、画面中央に、各々描くようだが、地蔵堂と覚しきものは描いていないらしい 参照)。当初地蔵堂に密着していた伝承が、やがてその地蔵堂から遊離していく傾向にあると言えようか。 (後掲写真④⑤及び第四節 あ る い は 、 F i K がすべて、地蔵の名称を﹁矢取地蔵﹂ で な く ﹁ 矢 負 ( ノ 、 の)地蔵﹂とする(太宇部) のは、先引部

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末尾には﹁矢取地蔵または矢負地蔵﹂とするAも、全体の項目名としては﹁矢取地蔵﹂ の方を掲げ ( E も 同 様 ) 、 B C も 共に﹁矢取(り)地蔵﹂とする(項目名、太宇部) ように、現代では﹁矢取地蔵﹂ の方が一般的であるらしいのと、異 なっている。結果、 K に基づく D では、﹁その後人々はその身代わり地蔵を矢負の地蔵と呼び長く敬ってきた。その後人々 は何時の時代からか、矢取の地蔵と呼ぶようになったのである﹂と説明されることになる。その名称の変化は、伝承内容 の揺れと連動するものであろうか。 Fik いずれも、身代わりに﹁矢ヲ負﹂ った、﹁矢を請﹂けた、などとしていて、 B の波線部のごとき、あるいは掛幅絵伝に描かれるような、地蔵が矢を手に取るという、﹁矢取地蔵﹂ の名称にまさに適合 したような形は見られない。本来は文字通り矢を負う﹁矢負地蔵﹂ であったのが、後には B のごとき伝承をも伴いつつ ﹁矢取地蔵﹂へと移り変わっていったものかと見られる。元文三年(一七三八)三月の寺領口上書(未見)に﹁矢取﹂と 書かれていること、阿部伊都子﹃京の地蔵紳士録﹄(淡交社、昭印)に言及されており、かなり早くから﹁矢取地蔵﹂と いう呼称も行われていたようだが、あるいは、先述通り、明治十二年に﹁傾一銭御絵所﹂で制作された東寺宝物館所蔵本な の絵を載せたあたりに、﹁矢取地蔵﹂ 9 ど、掛幅絵伝が手に矢を持った﹁矢取地蔵﹂ への移行を決定付けた要因の方は求め ることができるだろうか。 右の点に関してはさらに、早い段階の事例である G H の波線部に注意される。仏菩薩等の像の身代わり諦では、身代わ りとなった証がその像に残されていると伝えられることが多く、それらの波線部に伝える庇跡の存在は、まさに地蔵が身 代わりに矢を負ったことの証となっているのだが、その波線部中に﹁木像﹂と記されていることに、特に注目される。現 在は石像だが、本来は木像であったのだろうか。そうだとすれば、 G に拠るはずの J が ﹁石像﹂と書き変える(波線部) からその時点で既に、あるいはより以降に ( I に は ﹁ 石 地 蔵 也 ﹂ ) 、 石像へと変わったことになる。矢を手に取った、そし てその証として矢を手に持っている、という B または絵伝に見られる形は、木像から石像へのその変化に対応して生じて ある矢取地蔵をめぐる覚書

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あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書 きたものであり、木像であれば、容易に矢が突き刺さるので、空海に代わって矢を負うということが可能だけれども、 石 像では、矢が突き刺さり矢を負うことが難しい、 と考えられたところから生み出された伝承である、と捉えられょうか。 そ し て 、 そ の B のような形が、どの時点かにおいてどの程度か行われるようになったのに応じて、名称も、 その内容によ り適合した﹁矢取地蔵﹂が主流になっていった、ということであろうか。そうであるならば、木像から石像への材質の変 遷が、矢負地蔵から矢取地蔵への変遷を鷲らしたことになる。ただし、名称の方は矢取地蔵へとほぼ移り変わったが、伝 承内容としては矢を負う形が現在もなお保存・継承されていて、名称と内容との間に少々ずれの生じた事例が少なからず 見られる、ということになろうか。以上、飽迄﹁木像﹂とする記事をそのままに信用した場合のことであるが。 さて、矢取地蔵像の伝承自体は、先述通り中世の史料には見出せていないけれども、同伝承誕生のための土壌となり得 より早い時点から検出することができる。種々の空海・守敏対立諌が、それである。矢取地蔵像 たであろう伝承ならば、 の 伝 承 は 、 その間にあれこれ相違を見せながらも、先の AiK あるいは絵伝のいずれも共通して、空海と守敏の話、より 具体的には、守敏の側が空海に敵対しかかるが失敗に終わるという話になっているが、同様の空海・守敏対立請は、知ら れ る 通 り 、 早く院政期頃の文献に複数種見られる。 寛治三年(一

O

八九)経範著とされる﹃大師御行状集記﹄(続群書類従)

69 ﹁ 被 勧 請 神 泉 苑 於 龍 王 候 ﹂ は 、 ﹁ 有 書 日 ﹂ として、大師が神泉苑で祈雨すると効験著しく、また善如龍王が現れた、という、守敏の全く登場しない祈雨諌(同話は、 ﹃御遺告﹄や﹃今昔物語集﹄巻十四第引話など諸書にも採録される)を掲げたあとに、﹁又或日﹂として、 a 淳 和 帝 御 即 位 天 長 元 年 甲 辰 、 依 一 一 早 災 ( 奉 レ 勅 於 一 一 神 泉 苑 一 可 レ 修 一 一 請 雨 之 法 一 者 。 愛 守 敏 大 徳 奏 状 係 。 守 敏 巳 上 臆 也 。 同 修

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{ 両 カ } { 副 同 カ } レ之。須三先勤仕而令一一雨西京一者。依レ請早修者。即以勤仕七ケ日、結願之朝、西京如一一暗夜(雷響尤盛也。其雨成-一洪 水↓衆人感嘆也。但遣レ使令一一検知一之処、雨ニ界内(不レ及一一山外二五々。亦大師勤修。雄レ経一一七日一無レ雨。大師入定思 惟。守円大徳駈ニ取諸龍(既入一一水瓶二五々。即出定。延修二小日夜。大師告目。池中有一一龍王↓号日ニ善知↓元是無熱 達池龍王之類所一一勧請一也云々。乃至結願之目、雲覆レ天、雷鳴一一於四方(急降一一膏雨↓池水涌満、至-一子大壇之上↓自レ是 以後、三十日之問、普雨-一天下↓自然湧花。賀一一其功︹任一一小僧都↓慶賀之問、 不 レ 好 レ 有 一 一 威 勢 ↓ 出 入 之 処 、 自 然 施 ニ 面 目 二 五 々 。 と記し、さらに、同書の邸﹁守円僧都貢御栗候﹂には、 b 守円僧都参ニ内裏↓加一一持生栗﹁以ニ呪力一成一一蒸茄栗↓調一一甘味一数々為一一貢御↓而大師参内之時勅言。守円之法力栗知 レ 是 。 和 尚 何 如 レ 彼 不 ニ 貢 御 一 哉 。 答 奏 一 一 = ロ 。 侍 ニ 御 前 一 之 問 、 見 ニ 彼 作 法 ↓ 於 レ 是 被 レ 召 居 一 一 大 師 於 御 簾 之 内 ﹁ 召 -一 守 円 一 知 レ 例 賜 レ 栗 令 ニ 加 持 ↓ 只 如 レ 本 。 先 作 法 。 猶 強 雄 一 一 祈 念 一 無 ニ 変 色 ↓ 懐 レ 耽 退 出 了 。 以 知 被 レ 押 -一 大 師 威 徳 一 失 一 一 法 験 一 也 。 11 続く船﹁守敏僧都奉呪岨大師候﹂には、 c 守円依レ有下奉レ呪ニ阻大師一之聞 U 被 レ 修 一 一 調 伏 法 ↓ 市 大 師 於 ニ 稔 伽 座 之 上 ( 現 一 一 不 動 之 身 ↓ 向 一 一 大 壇 一 之 時 、 守 敏 現 一 一 大 威 徳 身 一 臨 来 。 共 雄 レ 現 一 一 教 令 輪 相 吋 依 レ 有 一 一 次 第 一 不 レ 可 一 一 一 敢 犯 ニ 上 智 二 E 々 。 と 記 す 。 a は神泉苑での請雨対決諌で、まず守敏が請雨法を修すると京中に雨が降ったが、 その後に、雨を降らせまいと守敏が 諸龍を水瓶に封じ入れているのを察知した空海が、善知龍王を勧請して修すると、京のみならず普く天下に雨が降った、 という話である。 b は、守敏(守円)が天皇の前で生栗を加持し茄でて貢ぐということをしていたが、空海が御簾の内に 隠れて、そこに守敏を召し同様に栗を加持させたところ、空海の威徳に押されたためいくら祈念しても今度は一向に煮る ある矢取地蔵をめぐる覚書

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ある矢取地蔵をめぐる覚書 ことできず、守敏は恥じて退出していった、という、加持阻止謂とでも言うべきものである。 c は、言わば呪岨対決語。守 敏が空海を呪岨しようとしたのに対して、空海も調伏法を修したというもので、空海は不動身、守敏は大威徳身と、各々 教令輸相を現じたという。 また、院政期の大江匡一房﹃本朝神仙伝﹄(日本思想大系) の凶弘法大師は、基本的な略歴などを綴ったあとに、 d 修 因 僧 都 、 読 ニ 呪 護 国 界 経 一 施 一 一 神 験 ↓ 昔 遣 ニ 護 法 於 唐 朝 ( 俄 一 一 恵 果 伝 法 吋 大 師 頗 得 一 一 其 心 一 日 、 有 一 一 縞 レ 法 之 者 吋 侃 受 一 一 金 剛 界 一 之 時 、 別 結 界 火 焔 透 レ 郭 不 レ 得 レ 入 。 縁 関 一 一 胎 蔵 一 而 還 。 と 記 す 。 ﹁ 修 因 ﹂ lま ﹁修円の誤り、また誤写と思われ﹂(日本思想大系補注)、その修円は、守敏としばしば混線して出て くる人物で、守敏と同一人かと見られている(先引﹃大師御行状集記﹄にも、﹁守敏﹂と﹁守円﹂が混在している)。空海 が入唐して恵果から受法していた時、修因(守敏)が護法を唐に遣わしてその恵果の伝法を盗み聞こうとしたが、 それを 察知した空海が金剛界受法の際には阻止した結果、護法は僅かに胎蔵界のみ聞き帰った、 という、盗聴阻止誇と言うべき ものとなっている。﹃大師御行状集記﹄が記していた三種の話 abc とはまた別の、空海・守敏対立謂である。 ﹃本朝神仙伝﹄はまた、右の d に 続 け て 、 , c 及 一 一 大 師 帰 一 レ 朝 、 常 以 相 挑 、 逓 欲 ニ 調 伏 九 共 行 一 一 壇 法 ↓ 大 師 陽 死 。 修 円 疑 令 一 一 人 伺 見 一 弟 子 沸 泣 行 一 一 喪 家 儀 ↓ 文 令 一 一 見 弔 ( 弟子等運一一葬数之具吋修因信之、沸泣良久、行一一機悔之法↓大師更行ニ調伏法一七日、修因頓受レ癒而死。大師又行一一機悔 ( 炉 瞳 } 之 法 一 七 日 、 降 三 世 顕 一 一 於 鐘 堪 一 日 、 我 是 修 因 也 。 為 レ 令 レ 顕 一 一 揚 汝 法 ( 権 成 一 一 怨 敵 一 也 。 と c 呪阻対決語も載せている。 ただし、弟子たちに葬儀の準備をさせるなどして死んだと見せ掛けた空海が、 それを信 じ油断した修因(守敏)に対

L

て調伏法を行い続けた結果、彼が死ぬという決着を見ている点で、先の﹃大師御行状集記﹄ C とは異なる。このような形での決着が付くものを区別して、, c としよう。なお、右引末尾部において修因(守敏 V が実

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は降三世明主であったと明かすのは、﹃大師御行状集記﹄ c で守敏が大威徳の姿を現わすのと、同じく五大明王の一つで あって通じ合おう。さらに﹃本朝神仙伝﹄は、右の, c のあと、空海が草書の法を善くしたことなどを伝えたうえで、 a 請 雨対決請も載せる。ただ、﹃大師御行状集記﹄ a と違って、修因(守敏)自らが請雨するという場面はない。 右の両書合わせるに、少なくとも院政期頃には、 a 請 雨 対 決 語 、 b 加 持 阻 止 謂 、 c ,c 呪 岨 対 決 語 、 d 盗 聴 阻 止 諦 と い う 、 四、五種の空海・守敏対立請が成立していたことになる。 しかも概ね、先の矢取地蔵の各伝承と同様、守敏の側がまず何 らかの形で空海に敵対しかかって失敗に終わる、という骨組を持った話になってもいる。例えば b は、逆に空海の方が敵 対しかかっていると見得るかもしれないが、生栗を加持するという呪力をまず守敏が天皇の前で見せ付けたことが、結果 的に空海との対決へと繋がり、その呪カを阻止されることになるのであって、 その点では、知上の骨組を持つものと捉え られよう。また、 c では確かに、呪岨対決の決着が付いておらず、右の骨組を完備していないが、, c では、守敏が敗死す 13 る結果、すなわち、右の骨組に叶う、守敏の敵対が失敗に終わる形となっている。さらに、右の﹃本朝神仙伝﹄, c で は 、 冒頭部に﹁常以相挑、逓欲ニ調伏(共行一一壇法ことあって、守敏の側から敵対しかけたとは捉えられていないが、, c を載 せる後出諸文献の多くは、守敏がまず調伏しかけたとする。右引﹃本朝神仙伝﹄

c

が最末尾に伝えるように、修因(守敏) すなわち降三世明王が、空海の ﹁法﹂を﹁顕揚﹂するために敢えて ﹁怨敵﹂となっていたということならば、 その修因 ( 守 敏 ) の側から意図的に空海に敵対しかかるという筋書になるのは、自然なことでもあろう。 そして、右のような四、 五種の空海・守敏対立諌は、院政期頃以降、諸文献に多く採録されていくことになる。﹃祈雨 日記﹄や﹃古事談﹄巻三第叩話、﹃元亨釈書﹄巻 ﹁ 金 剛 峯 空 海 ﹂ 、 同 巻 十 八 ﹁ 如 意 ﹂ 、 ﹃ 真 言 伝 ﹄ 巻 三 、 ﹃ 高 野 物 語 ﹄ 第 五 、 ﹃三国伝記﹄巻三第 3 話、﹃臥雲日件録抜尤﹄文安四年(一四四七) 五月十八日条、﹃一乗拾玉抄﹄陀羅尼品、﹃狗張子﹄ 巻二﹁武庫山の女仙﹂、﹃薙州府士山﹄寺院門第五 ﹁ 西 寺 ﹂ は a を、﹃今昔物話集﹄巻十四第 m w 話は b c を 、 ﹃ 太 平 記 ﹄ 巻 十 二 ある矢取地蔵をめぐる覚書

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ある矢取地蔵をめぐる覚書 や﹃神明鏡﹄、﹃八幡愚童訓﹄甲、﹃神泉苑縁起絵巻﹄は ab , c を、﹃嘩嚢紗﹄巻八や﹃塵添嘩嚢紗﹄巻十二は ab を 、 ﹃ 出 来斎京土産﹄巻二﹁西寺﹂ は a , c を、﹃京童﹄巻二﹁東寺﹂や﹃広益俗説弁﹄巻十五は, c を、各々採録する。 ﹁ 雨 乞 ひ に 智 識守敏の尻を割り﹂ ( ﹃ 誹 風 柳 多 留 ﹄ 一五二)など、川柳が素材とすることも知られる。これら以外、弘法大師の種々単伝 にも採録されること当然多く、例えば、院政期の﹃弘法大師御伝﹄巻下や承応三年(一六五回)刊﹃弘法大師御本地﹄は , abc ( ﹃ 弘 法 大 師 御 伝 ﹄ は c も)を、元永元年( 一八)﹃高野大師御広伝﹄巻下は a を、藤原敦光﹃大師行化記﹄や 続群書類従本﹃弘法大師行化記﹄は a , cd を、南北朝期の十二巻本﹃弘法大師行状絵﹄巻四・巻八は ad を、六巻本﹃高 野大師行状図画﹄巻三・巻五や応永三十一年三四二四) 写﹃大師行状﹄、十巻本﹃高野大師行状図画﹄巻コ了巻八は a b d を、﹃高祖大師秘密縁起﹄巻八や寛永五年(一六二三)写﹃弘法大師徳集﹄は ab を、行遍﹃大師行化記﹄や深賢﹃弘 法大師行化記﹄、﹃弘法大師行状要集﹄巻 -巻四、寛文二年(一六六二)﹃弘法大師御伝記﹄巻三・巻八は ab , cd 全て (行遍﹃大師行化記﹄の b 、深賢﹃弘法大師行化記﹄の ab は裏書所載、後者裏書には c も)を、各々採録する。 無論、先に触れた通り、﹃大師御行状集記﹄に載る ac と﹃本朝神仙伝﹄に載るそれら両話との問にも相違が見られた のと同様に、上に列挙した文献に採録された話は、﹃大師御行状集記﹄﹃本割引神仙伝﹄に載る abc , cd と全く向じという 訳でなく、種々違っていて変容した姿を示していることも少なくない。 例えば、﹃太平記﹄や﹃神明鏡﹄などのbの場合、守敏が天皇の前で、生栗を加持して茄でるのではなく、水を加持し ﹁ 加 一 一 持 生 栗 ↓ 以 一 一 呪 力 一 成 一 一 蒸 茄 栗 こ ﹁ 如 レ 例 賜 レ 栗 令 一 一 加 持 ↓ て湯に変えるなどしている。先引﹃大師御行状集記﹄bには 只如レ本﹂とあったが、﹃弘法大師御伝﹄(続群書類従)が ﹁ 以 レ 栗 入 レ 水 、 諦 呪 加 持 、 即 暖 熱 令 レ 食 一 一 病 者 こ ﹁生ぐりを水に入て建加持しけるに、其水たちまちにわきけ ﹁ 以 レ 栗 入 レ 水 諦 呪、終日不レ熟﹂、﹃高租大師秘密縁起﹄(弘法大師伝全集)が 村崎、栗むせるがごとく和ぎけるを﹂とするように、栗を水に入れたうえで加持したとするものも少なくなく、その辺り

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に、栗が消え水そのものの加持へと変容していく素因を求め得るかもしれない。なお、﹃弘法大師御本地﹄では、生栗を そのまま加持したあとにさらに水を加持するなどしている。また、同じ﹃太平記﹄や﹃神明鏡﹄などの a では、早になっ て、守敏と空海の請雨対決が繰り広げられるというのでなく、 そもそも早自体、恨みに思った守敏が諸龍を封じ込めて起 こしたものとする。その守敏の行動は、 一角仙人説話や後世の鳴神上人の話を想起させよう。さらに、﹃元亨釈書﹄巻一 に載せるのは﹃大師御行状集記﹄ a と同趣だが、同巻十八 ﹁ 知 意 ﹂ の方が伝える a は、大きく異なっている。天長元年 ( 八 二 四 ) の早に際して空海と守敏が請雨を競った時、如意尼の持っていた、彼女と同郷の浦島子の医を、空海が手に入 れることによって、天下に雨が降った、とする。善如龍王は登場せず、その役割を浦島子の箆が代行する形になっている。 また、知意尼は後に摂津甲山に神呪寺を開創し空海に従い剃髪・受戒するが、 その神呪寺の本尊となる知意輪観音像を、 空海が桜の霊木で知意尼の姿を模して彫刻した際、像中に右の浦島子の匿を寵めた、と伝える。 れつつ縁起伝承と結び付いた事例と言えよう。﹃狗張子﹄巻二﹁武庫山の女仙﹂所載の a も同様の内容になっており、﹃元 a 請雨対決請が、改変さ 15 亨釈書﹄に基づいているらしい。 かように種々変容しながらも、概ね守敏の側が敵対しかかるが失敗に終わるという骨組を持つ四、五種の空海・守敏対 立語、が、院政期以降、中世を経て近世にはいるまで、盛んに脈々と伝承されていたのである。守敏が空海に矢を射かけた が地蔵に限まれたという、近世初期に成立したかと見られる先の羅城門祉近くの矢取地蔵像の伝承は、 そうした空海・守 敏対立謂の伝統の延長線上に、 それを土壌として生起してきたものと見て間違いなかろう。先のIが矢取地蔵像の伝承を ﹁ 空 海 と 守 敏 と 法 力 争 ひ の 時 、 : : : ﹂ (実線部)と書き始める ( C の実線部も同様) の や 、 BDEJKがまず a 請雨対決 謂 を 伝 え 、 それに連続する形で矢取地蔵像の伝承を載せるのなどは、 そのことを端的に物語るものとも見られよう。 しかし、中世以前との繋がりは、右の空海・守敏対立請との聞に認められるだけではない。矢取地蔵像の伝承は、空海 ある矢取地蔵をめぐる覚書

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ある矢取地蔵をめぐる覚書 と守敏の対立請であると同時にまた、地蔵の霊験謂でもあって、 その点に関しても無論、種々知られる矢負地蔵謂の存在 が想起されるところであろう。 早くには﹃今昔物語集﹄巻十七第 3 話に、矢負地蔵謂が見える。近江国にある平諸道の先祖の氏寺に安置されていたと いう、地蔵菩薩像の話である。まず、諸道の父が合戦に赴いた際のこととして、 : ・ 而 ル 問 、 敵 ヲ 責 メ テ 罰 ガ 為 メ ニ 員 ノ 随 兵 ヲ 率 シ テ 既 一 一 戦 カ フ 問 、 胡 録 ノ 箭 、 皆 、 射 尽 シ テ 、 可為キ方モ無 M4 ヶ 、 心 ノ 内 ニ ﹁我ガ氏寺ノ三宝、地蔵菩薩ッ、我ヲ助ヶ給へ﹂ト念ジ奉ル程ニ、俄カニ戦ノ庭一二人ノ小僧出来テ、箭ヲ拾ヒ取テ、諸道ガ 父ニ与フ。此レ、不慮ノ外ノ事也ト一五勺、其ノ箭ヲ取テ射戦フ程一一、見レパ、其ノ箭拾フ小僧ノ背ニ箭、被射立ヌ。其ノ後、小 僧 、 忽 ニ 不 見 エ ズ 成 ヌ 。 と記される。矢が尽きた時、諸道の父が氏寺の地蔵に祈念すると、 一人の見知らぬ小僧が現れ、矢を拾い与え、また、背 に矢を射立てられ、後に忽然と見えなくなった、という。その小僧の御蔭で諸道の父は戦勝したが、小僧がどこから来た 誰なのか気掛かりだった。そして、 其ノ後、諸道ガ父ノ、氏寺一一詣デ、地蔵菩薩ヲ見奉 d ル 、 背 ニ 箭 一 筋 被 射 立 タ リ 。 諸 道 ガ 父 、 此 レ ヲ 見 テ 、 ﹁ 然 レ パ 、 戦 ノ 庭 一 戸 シ 箭ヲ拾ヒテ我レニ令得シ小僧ハ、 早ゥ、此ノ地蔵菩薩ノ、我ヲ助け一九変化ン給此ヶ也げリ﹂思フ一一、哀ニ悲クテ、泣々ク礼 拝 シ 奉 ツ ル 事 無 限 シ 。 諸道の父がその後に氏寺に参詣した際、地蔵菩薩の背に一本の矢が射立てられているのを発見する。小僧は実は氏寺の地 蔵菩薩であって、地蔵が小僧の姿と化して、矢を拾い、矢を受けたのだった。 地蔵の霊験として、矢拾いと共に矢負いの要素が含まれており、本話の標題﹁地蔵菩薩、変小僧形受箭語﹂及び話末評 語中の記述﹁地蔵菩薩、利生方使ノ為ニ悪人ノ中ニ交わリ、念ジ奉レル人ノ故ニ謝ペ制升射斗到外料升割、既一一知此シ﹂から見る

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ならば、﹃今昔物語集﹄編者は、矢負いの要素の方を軸として捉えていたようでもある。とにかく右の話は、地蔵が矢を 身に受けるという点で、今問題としている矢取地蔵像の伝承と共通する、矢負地蔵請としての側面を確かに備えている。 そして右話は、享徳二年(一四五三) の奥書を有する﹃江州安孫子庄内金台寺矢取地蔵縁起﹄(古典文庫)という縁起 絵巻に仕立てられると共に、十四巻本﹃地蔵菩薩霊験記﹄巻六第十一話﹁合戦拾矢事﹂や﹃地蔵感応伝﹄巻下﹁臨陣拾矢﹂ に採録されている。ただじ、﹃今昔物語集﹄所収話とは異なる面が種々ある。例えば、﹃江州安孫子庄内金台寺矢取地蔵縁 起 ﹄ は 、 ﹁失取地蔵﹂を書名に含み、その本文末尾の一文に﹁矢をひろひて、御方にくはりたまひしによって、制叫叫州 制劇共申也﹂とあって、﹃今昔物語集﹄とは反対に、矢負いでなく矢拾いの方に重点を置いているようである(﹃日本国語 大辞典﹄﹁やとり (矢取)﹂条に﹁射場で放たれた矢を拾い集めること。また、 そ の 役 の 人 ﹂ ) 。 しかし、それでもやはり矢 負いの要素は、﹃今昔物語集﹄とは少々異なる形だが、﹁いかなる事かありけむ。御かほに黒羽矢をいたてたてまつる也﹂ ﹁敵の黒羽の矢をかほにあたりぬとみし程に、かきけつやうにしてうせにし﹂と含まれている。矢負いの要素は、先引標 17 題中に﹁拾矢﹂とある﹃地蔵菩薩霊験記﹄所収話や﹃地蔵感応伝﹄所収話にも見られる。 また、今問題の矢取地蔵像と地理的により近い洛東清水寺にも、矢負地蔵の話が見られる。﹃元亨釈書﹄(新訂増補国史 大系)巻九の ﹁清水寺延鎮﹂条に、坂上田村麻呂が東国征伐に赴いた際のこと、矢が尽きた時に﹁小比丘及小男子拾レ矢 与一一将軍こということがあり、清水寺の延鎮が造立し供修していた二像、勝軍地蔵と勝敵毘沙門を見ると、 ﹁ 矢 癒 刀 痕 被 ニ 其 体 ↓ 文泥土塗レ脚也﹂という状態であった、と伝える。同話は、永正十四年(一五一七)﹃清水寺縁起絵巻﹄上巻などに も採録されている。他にも同様の地蔵伝承は種々伝わっており、﹁矢取り地蔵とか、矢拾い地蔵とか、或は矢負い地蔵とか と呼ばれ、戦場で霊験を示現されたといわれている地蔵さまは、全国的には決して少なくないようで﹂ある。 当初は一様に地蔵が矢を受けるという内容を有していた、羅城門社近くの矢取地蔵像の伝承はまた、右のような中世以 あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書

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あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書 前の矢負地蔵諜の伝統を承けて、 その話型が適用された話でもあるに違いなかろう。先述通り、後には、矢を負うのでな く、矢を手に取るという形も行われるようになるのだが。また、現代の伝承のうち先のC や Eが、僧の姿と化して地蔵が 現れ矢を受けたとするのも、右の﹃今昔物語集﹄所載話など矢負地蔵謂に少なからず見られる要素であって、 それがどの 段階かにおいてはいり込んだものなのであろう。 四 右の通り、矢取地蔵像の伝承が成立したかと見られる近世初期より以前に伝統的に存在していて、矢取地蔵像の伝承と 深く関係したであろう伝承として、空海・守敏対立誇と矢負地蔵謂と、二つのものが見出された。それら既存の二伝承の 要素││空海と守敏が対立していて、守敏の側が空海に敵対しかかるものの失敗に終わるというのと、地蔵が身代わりに 矢を受けるというのとーーを合わせれば、矢取地蔵像の伝承はほとんど出来上がってしまいそうに思われる。矢取地蔵像 の 伝 承 は 主 に 、 それら両伝承をもとに、両者の要素を合体させることによって生み出されたものと考えていいのではなか ろうか。そうだとすれば、 四、五種類の多様な姿を見せながら院政期以来脈々と伝承されてきた空海・守敏対立需が、在 来の矢負地蔵謂の話型を纏うことにより、また一つ新たな装いを得て、近世初期頃に現れ出た伝承であると言うこともで きょう。空海・守敏対立謂のそうした一つの近世的な展開として、矢取地蔵像の伝承は注意されてよいものであろう。ま た、その展開は、東西両寺聞に所在する具体的な地蔵像の上への定着、 その結果としての同地蔵像をめぐる庶民信仰との 結び付きを、空海・守敏対立請に驚らしたのであって、 それは、後々まで命脈を保っていくために同語が選択した生き残 り戦略の一つであったかのごとく思われもする。実際、幕末維新の頃には、近世的展開を遂げたその矢取地蔵像の伝承も、 従来の空海・守敏対立誇﹁守敏加持﹂﹁守敏封龍﹂﹁神泉祈雨﹂と並んで空海の掛幅絵伝に組み込まれるまでになったこと、

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先に触れた通りである。 しかし、右のように考えようとした場合になお問題に感じられるのは、 では、空海・守敏対立請と矢負地蔵請がなぜ、 いかなる契機あって結び付いたのか、という点である。仮に、伝承成立以前に、現在と同じく、東西両寺の聞に地蔵像が 記られていたとすれば、 そうした地蔵像を仲立ちとして、東寺の空海と西寺の守敏の対立諜と、地蔵に纏わる矢負いの話 とが、結び付いていくといったことが考えられるかもしれないが、 そうだとしても、それだけでなくさらに、両話の内部 に、それらが結び付く契機となったものは見出せないであろうか。 近世の矢取地蔵像の伝承のうち F が先引部に続けて l i l 1 1 1 1 1 1 1 1 刈 1 l J 什 1 1 1 4 ペ イ プ カ シ 記ニ少シク載-一其事跡(是レ誠ニ不審キ事也﹂と記す、﹃太平記﹄巻十二(日本古典文学大系) ﹁凡ソ守敏ノ事、元亨釈書ニ伝ナシ、其ノ外ノ書モ不レ載レ之、対刊 の ﹁ 神 泉 苑 事 ﹂ に 、 b そ し て

a

の あ と に , c 呪 岨 対 決 語 が 、

E

尚 ヲ立テ、サラバ弘法大師ヲ奉一一調伏一思テ、西寺ニ引緯リ、三角ノ壇ヲ構へ本尊ヲ北向ニ立テ、軍茶利夜文ノ 19 法ヲゾ被レ行ケル。大師此由ヲ聞給テ、則東寺ニ炉壇ヲ構へ大威徳明王ノ法ヲ修シ給フ。両人何レモ徳行薫修ノ尊宿 也 シ カ パ 、 ノ射給ケル流鏑矢空中ニ合テ中ニ落ル車、鴫州隙モ無リケリ。愛ニ大師、守敏ヲ油断サセント思召テ、 俄 ニ 御 入 滅 ノ 由 ヲ 被 一 一 披 露 一 ケ レ パ 、 絡 素 流 -一 悲 嘆 泊 ( 貴 賎 呑 一 一 哀 働 声 ↓ 守 敏 聞 レ 之 、 ﹁法威成就シヌ。﹂ト成悦則被破壇 ケリ。此時守敏俄ニ目クレ鼻血垂テ、心身被ニ悩乱一ケルガ、仏壇ノ前ニ倒伏テ遂ニ無レ墓成ニケリ。﹁呪岨諸毒薬還著 於本人﹂ト説給フ金一吉ベ誠ニ験有テ、 不思議ナリシ効験也。自レ是シテ東寺ハ繁昌シ西寺滅亡ス。 と記述されているのに、注目される。 守敏が西寺で軍茶利夜叉の法、空海が東寺で大威徳の法を修して、呪岨対決となったが、偽りに入滅するという計略に よって空海の方が勝利し、守敏は死んだ、 という。その対決の中で、実線部の通り、﹃大師御行状集記﹄や﹃本朝神仙伝﹄ ある矢取地蔵をめぐる覚書

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あ る 矢 取 地 蔵 を め ぐ る 覚 書 にはなかった、両人の間で鏑矢が飛び交ったという要素が現れている点、特に注意される。 それは、矢取地蔵像の伝承に おける、守敏が空海に矢を射掛けるという内容に通じていくものがあろう。そして、矢負地蔵謂が結び付いてくる、その 契機となり得るものであると言ってよかろう。とすれば、種々伝承されていた空海・守敏対立需を土壌としつつ、 そのう ち の , c 呪阻対決諸において立ち現れてきた矢の飛び交う話をより直接的な基盤として、 そこに生じた ﹁矢﹂という共通点 を仲立ちに、やはり早くから伝承されていた矢負地蔵諌の話型が結び付いてくることによって芽吹いたもの、 それが矢取 地蔵像の伝承である、とまとめることができようか。 右の﹃太平記﹄と同様の矢が飛び交う形の, c 呪岨対決謂は、他にも﹃神明鏡﹄や﹃神泉苑縁起絵巻﹄、﹃弘法大師御本 地﹄、﹃弘法大師御伝記﹄に見られ、 かなり広く知られていたことと思われるのであって、そこから矢取地蔵像の伝承が芽 吹いてくるのに充分なだけの成熟を遂げていたと言えよう。そして、 それら文献のうちでは何と言っても﹃太平記﹄の影 響力が広大で、矢取地蔵像の伝承が成立したかと見られる近世初期頃には種々版本が出現したこと、知られる通りであっ て、矢が飛び交う形の c 呪岨対決謂が流布するのに、同書の力が与って大きかったものと想像される。 しかしながら、だからと言って﹃太平記﹄所載話のみが基盤となり、 それに矢負地蔵諌の要素が結び付いて、矢取地蔵 像の伝承が生成してきた、 というようには一概に言えそうもない。 注意したいのは、矢取地蔵像の伝承に現れている守敏の感情である。先に挙げた同伝承のうち CDI 以外には、守敏の 感情が同じように伝えられている ( 二 重 傍 線 部 ) 。 以 下 の 通 り 。 A西寺の守敏僧都が東寺の弘法大師をねたみ、大師の帰途をねらって矢を射ったところ、 B 守敏は大いに嫉んで大師に向かって矢を放った。 E ム ロ 川 た叩敏は、劃掘を料たみ、待ち伏せして矢を放ったところ、

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ヒ テ ヲ ヲ F 守敏常ニ弘法ヲソネミ、或夜入堂ノ刻、縞ニ窺レ之以レ矢射レ之 タ ム ヲ ニ ヒ ノ ヲ テ ヲ ル G 守 敏 甚 妬 ニ 弘 法 大 師 吋 窮 轍 一 一 其 出 一 以 レ 矢 射 レ 之 。

H

q

制はなはだ弘法をねた以、ひそかに弘法の出るをうか£ひ矢を放て射る時に、 シ ユ ピ ン ネ タ ヒ ソ カ ウ カ マ ヤ イ J 是ニ由テ守敏甚ダ弘法大師ヲ妬ミ、或トキ大師ノ出行アリシヲ縞ニ轍ヒ、矢ヲ以テ是ヲ射ルトキニ、 ( K もほぼ同文) いずれも、空海に対する守敏の嫉妬の感情で、 それが、守敏に矢を放たせたとする。 一連のものながら早い段階の FGH J が皆そう伝えることには、特に注意される。矢取地蔵像の伝承には、 そうした守敏の感情がかなり強固に結び付いてい ると言ってよかろう。 ところが一方、﹃太平記﹄には、先引中の二重傍線部に ﹁守敏尚腹ヲ立テ﹂と感情は記されるが、嫉妬とは異なる。同 書の

a

や b も含めた他の部分においても、 b から a へと展開する中間に﹁守敏大ニ恥レ之描一一欝陶於心中︹隠一一頃幸於気

2

1

上一被ニ退出一ケリ。自レ其守敏君ヲ恨申ス憤入一一骨髄一深カリケレパ﹂と見られるものの、やはり空海への嫉妬という感情は 記されていない。しかし、矢が飛び交う形の,

c

呪岨対決謂を載せる文献として先に挙げたうちでは、ただ一つ寛文二年(一 六六二)﹃弘法大師御伝記﹄(弘法大師伝全集、付論に言及する天明三年再校本でも本文に大差なし)にだけは、 ①事にふれて空海の名望をそねみたてまつり。(巻三 d の冒頭部) ②つね片¥空海の法力どもをそねみねたみ給ひし。 ( 巻 八 d の冒頭部) ③みかど常々守敏。空海をねたまれし事を聞召けるによりて。(巻八 b の中間) と、巻三に d を載せ、巻八に重ねて d から始まり b ←

a

← C の順に載せるなかで、先の矢取地蔵像の各伝承に見られるの と同じ ﹁そねむ﹂﹁ねたむ﹂という語を使って、空海に対する守敏の嫉妬の感情が、, c に至る前に繰り返し記されている。 そもそも、早くに空海・守敏対立請を採録する先引の﹃大師御行状集記﹄や﹃本朝神仙伝﹄でも、後者, c の冒頭に﹁及ニ ある矢取地蔵をめぐる覚書

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ある矢取地蔵をめぐる覚書 大師帰一レ朝、常以相挑、逓欲ニ調伏ことはあるが、守敏の嫉妬の感情は記述されていない。ところが、そうした守敏の感 情 は 一 方 で 、

ω

矧 矧 ノ 心 忽 ニ 発 テ 立 ヌ 。

ω

守敏、膜圭 ψ矧矧ニ忍難、大師ヲ調伏シ奉ル。

ω

修因僧都ト申ス人。大師ノ仏法ヲ弘メ給事ヲメネミテ。

ω

事にをきて大師の名望を引料刈たてまつりき。 ( ﹃ 今 昔 物 語 集 ﹄ 巻 十 四 第

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話 ) ( ﹃ 八 幡 愚 童 訓 ﹄ 甲 、 日本思想大系) (﹃高野物語﹄第五、弘法大師伝全集) (六巻本﹃高野大師行状図画﹄巻三、弘法大師伝全集、﹃大師行状﹄上や十二巻本﹃弘法大師行状絵﹄巻四、十巻 本﹃高野大師行状図画﹄巻三にも同文)

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山階寺の守敏僧都。常に大師をそねみたてまつりて。事にふれてあらそひをなす。 (六巻本﹃高野大師行状図画﹄巻玉、﹃大師行状﹄下や十巻本﹃高野大師行状図画﹄巻八にも同文) と、中世以前の諸文献に記述されてもいるのであって、﹃弘法大師御伝記﹄に至って突知現れたというものではない。右 の

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のうち、特には中世以降の諸大師伝を通じて継承されてきたものを、﹃弘法大師御伝記﹄がさらに受け継いだも のに違いない(先に挙げた①と右の

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は ほ ぼ 同 文 で も あ る ) 。 ﹃弘法大師御伝記﹄は、﹃太平記﹄などと共通して、矢が飛び交う形の, c 呪岨対決謂を伝えると共に、﹃太平記﹄などに は見られない、空海に対する守敏の嫉妬の感情を、中世の諸大師伝から継承して記述してもいた。 し た が っ て 、 それらの 点において、空海・守敏対立謂を採録する上記の諸文献の中にあって同書は、空海を妬んで守敏が矢を射かけたと伝える 矢取地蔵像の伝承の持つ要素を、 より充分に備えた文献であるということになる。とすれば、﹃太平記﹄だけでなく、あ るいはそれ以上に、﹃弘法大師御伝記﹄の記述が、矢取地蔵像の伝承の誕生に深く関わっていた可能性が考えられること

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になろう(小稿末に掲げた付論は、同書がどの程度か影響力を持っていたことを示す一事例の提示でもある)。 ただし、寛文二年(一六六二) に刊行された﹃弘法大師御伝記﹄が、管見では延宝九年(一六八一) の﹃東寺往還﹄に 初めて見える矢取地蔵像伝承の誕生に関わったというのは、年代的に一応矛盾を来さないものの、同書のみに限定して考 えるのは危険であろう。同書から伺えるところの、同書と同様に、矢が飛び交う形の,

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呪阻対決誇と空海に対する守敏の 嫉妬の感情についての言及とを共に有する、 同書の周辺にあったであろう、大師伝についての文献あるいは伝承といった ものを、﹃太平記﹄などと同様、あるいはそれ以上に、矢取地蔵像伝承の誕生に深く関わったものとして想定しておくべ きかと思われる。 また、矢取地蔵像の伝承が、矢の飛び交う形の, c 呪岨対決謂を基盤にして成立したものであると見られること、あるい は、﹃弘法大師御伝記﹄やその周辺の伝承がそれに関わった可態性が考えられることについては、先述の東寺宝物館所蔵 ﹃弘法大師行状憂茶羅﹄と法楽寺所蔵﹃大師行状記﹄に見られる﹁矢取地蔵﹂ の絵(後掲写真②④⑤)にも注意される。

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共に﹁矢取地蔵﹂ の四字題名が付されているが、その絵柄は実は、 必ずしも矢取地蔵像の伝承に合致しているわけでは ない。先述通り、雲に乗った地蔵が空海と守敏の中間に立って矢を手に取っているというのは、確かに、矢取地蔵像の伝 承のうち﹁矢を宙で手に取った﹂という B の内容と対応している。問題は、その地蔵以外の部分である。矢取地蔵像の伝 承を描いた絵としては、空海に向かってまさに矢を射た瞬間の守敏、両者の間に立ってその矢を身に受ける地蔵、といっ た絵柄が思い浮かぶところであろう。ところが、右の二つの絵においては、左端に描かれているらしい守敏は、矢を射る 瞬間あるいは射た直後の姿勢をとったりしてはいない。右端の空海の方を見てもおらず、その反対方向、壇に向かって座 し、顔だけ向けて傍らの侍僧と何やら話しているようである。 一方の空海の方も、そんな守敏と互いに背を向ける形で壇 に向かって座しいる。さらに注意されることには、空海でなく守敏の方に向かっているらしい矢が一本描かれており 後 ある矢取地蔵をめぐる覚書

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ある矢取地蔵をめぐる覚書 掲 写 真 ② 参 照 ) 、 その点、誠に奇妙でもある。﹁矢取地蔵﹂ の絵としては、相応しいものとは言い難い。 ところが、右のような掛幅絵伝の ﹁ 矢 取 地 蔵 ﹂ の絵と類似する絵柄が、矢取地蔵像の伝承の持つ要素をより充分に備え る文献として注意された﹃弘法大師御伝記﹄の挿絵(小稿末付論に全面掲載) のうち、矢の飛び交う形の, c 呪阻対決誇を 描いた巻八挿絵 h ( 後 掲 写 真 ⑥ ) に 見 ら れ る 。 西寺内の守敏と東寺内の空海が互いを背にするように壇に向かって座して いて、守敏の方が顔だけ向けて侍僧と話している(恐らくは、偽りであるとも知らず、空梅の死について侍僧が守敏に告 げている場面であろう)という点、極めて類似する。また、 その巻八挿絵 h は相互に呪岨し合っている場面であり、両者 聞の空中を飛び交う矢が幾本も描かれているが、 そのうち守敏に向かってかなり接近しているらしく見える一本は、右に 述べた、守敏に向かう奇妙な一本の矢と照応するようにも思われる。掛幅絵伝の﹃弘法大師行状曇茶羅﹄や﹃大師行状記﹄ の ﹁ 矢 取 地 蔵 ﹂ の絵は、﹃弘法大師御伝記﹄の巻八挿絵 h のような、矢の飛び交う形の, c 呪岨対決謂を描いた絵をもとに、 その中央に地蔵を描き加える形で成立したものであるに違いなかろう。結果、﹁矢取地蔵﹂の絵としては相応しくないもの となったのである。 右のことは、矢取地蔵像の伝承が、矢の飛び交う形の, c 呪岨対決講を基盤にして成立したものであること、あるいは、 ﹃弘法大師御伝記﹄やその周辺の伝承がそれに関わっていたことを、象徴的に物語る事象であり、その痕跡であると、捉 えることができるだろうか。なお、﹃太平記﹄の絵入版本には, c 呪岨対決請に関する挿絵は見られず、また、﹃神泉苑縁起 絵巻﹄に描かれる,

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の絵は、﹃弘法大師御伝記﹄や掛幅絵伝に描かれるものとは絵柄が全く異なっている。 五 と こ ろ で 、 , c 呪岨対決諌において、空海が呪岨で応戦し、 しかも死んだ振りをしてだまし討ちした、 というのは、大師

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と 崇 め ら れ る 人 物 に と って 決 し て 相 応 し い も の と は 思 わ れ な い 。 ﹁ は た し て 空 海 の徳 を 正 し く 伝 え 、 法 力 を 顕 揚 し て い る で あ ろ う か 。 ⋮ ⋮ 呪 咀 そ の も の の 勝 敗 は 決 せ ず 、 空 海 が 奸 知 を も って 修 円 を あ ざ む い た の で あ って、 法 力 で勝 っ た の で は   ハけ り な い﹂ と いう 見 解 も あ る し 、 高 城 修 三 ﹁ 弘 法 大 師 伝 説 ﹂ (﹃ 京 都 伝 説 の 風 景 ﹄ 小 沢 書 店 、 昭 60) も ﹁そ れ に し て も 、 大 師 が 守 敏 の怖 る べ き 法 力 を 前 に し て 一 度 な ら ず 計 略 を 用 い た ば か り か 、 法 の 力 で 呪 殺 し て し ま っ た と いう のだ か ら 、 素 朴 な 大 師 信 仰 し か 持 ち 合 せ ぬ 人 に は 、 ち ょ つ と 受 け 容 れ が た い 伝 説 で あ る か も 知 れ な い﹂ と 述 べ る 。 現 代 人 の余 計 な 合 理 的 解 釈 と い う 面 も あ ろ う が 、 し か し 同 様 の こと は 、 矢 取 地 蔵 像 の伝 承 が 誕 生 し た 頃 に も 考 え ら れ て いた よ う であ る 。   例 え ば 、 先 引 ﹃ 太 平 記 ﹄ ,c が 、 そ の末 尾 に ﹁⋮ ⋮ 仏 壇 ノ前 二 倒 伏 テ 遂 二 無 レ 墓 成 ニ ケ リ 。 ﹃ 呪 咀 諸 毒 薬 還 著 於 本 人 ﹄ ト 説 給 フ 金 言 、 誠 二 験 有 テ 、 不 思 議 ナ リ シ効 験 也 ﹂ と 、 ﹃ 法 華 経 ﹄ の 一 節 を 引 用 し て こ の 場 合 に 当 て は め る の な ど も 、 空 海 の 呪 咀 で の 応 戦 、 だ ま し 討 ち を 正 当 化 し よ う と す る 面 を 持 つも の で あ る よ う に も 受 け 取 れ る が 、 元 禄 二 年 ( 一 六 八 九 ) の ﹃ 弘 法 大 師 賛 議 補 ﹄ 巻 下 (弘 法 大 師 伝 全 集 ) の次 の記 述 か ら は よ り 明 確 に 、 そ う し た 想 い が 見 て 取 れ る。     守 敏 法師 天 長 元年 の雨ごひ 大師 に 及 は ず 。 大師 に ふか く 怨 心 を む すび 。 毎 々相 軋 り 。 とか く 大師 を 調 伏 し て。 を のれ     ひ と り 貴か ら ん と 謀 る 。 大 師 し ろ し め し て 。 護 身 加 持 し 給 ふ に よ り 。 大 師 は つ ㌧が な く 還 て守 敏 降 伏 せ ら る な ら ん 。     を よ そ 人 を 呪 傷 せ ん と す る に 。 あ た は ざ れ は 。 却 て み つ カ ら そ の 殀 を 受 。 守 敏 も し カ る も のカ 。 大 師 な ん ぞ カ れ と 同     じ く 怨 心 を む す び 。 其 勝 負 を 決 せ ん と あ ら そ ひ た ま は ん   。 唯 法 力 の奇 怪 を い は ん と し て 。 か く のご と く に 至 る な ら     し 。 空 海 は 、 守 敏 に 対 し て 、 同 じ よ う に ﹁怨 心 を む す ﹂ ん で ﹁あ ら そ ﹂ った の で は 決 し て な く 、 ﹁護 身 ﹂ のた め の ﹁加 持 ﹂ を し た だ け であ る ( 二 重 傍 線 部 ) 、 と 主 張 し て い る 。 そ し て 、 に も か か わ ら ず 守 敏 が 降 伏 さ れ た こ と に つい て は 、 ﹃ 太 平 記 ﹄ の 引 く ﹃ 法 華 経 ﹄ の 経 文 と 同 様 の 文 言 を 掲 げ (実 線 部 ) 、 そ れ に 相 当 す る も の と し て 説 明 し 、 最 後 に は ま た 、 空 海 が 応 戦 あ る矢 取地 蔵 をめ ぐる覚 書 25

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ある矢取地蔵をめぐる覚書 し ﹁勝負を決せんとあらそ﹂(二重傍線部) ったように伝えられでもいるのは、﹁法力の奇怪﹂を言おうとしたための方便 であろうとする。 このように、空海の呪岨での応戦、延いてはだまし討ちという話柄をそのままには受け入れることができず、 呪岨対決 諌における空海を正当化あるいは浄化しようとする志向が、矢取地蔵像の伝承が誕生した頃には、どの程度かはともかく 確かにあったようである。そして、空海・守敏対立諌のうちその呪岨対決請をより直接的な基盤として誕生しながらも、 守敏の射かけた矢に対して空海自身は何ら応戦することなく、地蔵が身代わりに矢を受けることで無事済んだとする、矢 そうした志向に叶うものであると言えよう。矢取地蔵像の伝承の誕生には、先に見てきたような事情 取地蔵像の伝承は、 と は 別 に 、 そのうえにまた、当時少なくとも一部にはあったであろう知上の志向が、精神的背景として関わっていた面も あるかもしれない。あったとすれば、同伝承の誕生は、地蔵の霊験による、空海の正当化、浄化という趣きをも持ってい たことになり、長く伝承されてきた空海・守敏対立諜の行き着いた先の一つの姿として、 また一層興味深く思われる。先 述通り、矢取地蔵像が杷られる地蔵堂は、東寺の管理下にあったことが窺われるのであって、そんな矢取地蔵像の伝承に、 空海を正当化あるいは浄化しようとする志向が反映していたとしても何ら不思議ではなかろう。 一方、守敏の方は、矢取地蔵像の伝承においても、相変わらず敵役の悪者であるのだが、 それどころか、嫉妬から空海 に矢を射かけるというのは、呪岨しようとしたというのよりも直接的な行動で、 その悪性が一層強烈に印象付けられるよ うに思われる。右引﹃弘法大師賛議補﹄においても、先に見た﹃本朝神仙伝﹄が、修因({寸敏)が実は降三世明王であっ ﹁法﹂を﹁顕揚﹂するために敢えて て、空海の ﹁怨敵﹂となっていたと伝えていた(同様の伝承を記す文献は他にも見ら れる、例えば﹃南都高僧伝﹄などてそんな側面は全く顧慮されず、 その悪僧ぶりだけが述べ立てられている(波線部)。 空海の正当化、浄化ということを志向するならば、 その敵役・守敏の悪性がより強ければ強いほど、空海の正当性、清浄

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性が対照的により際立って好都合であるに違いない。 ただ、承応年間(一六五二

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五五)製作の木造守敏座像が、西寺跡の西北にあって同寺の名を受け継いだ西寺(もと西 方寺、京都市南区唐橋平垣町) の開山堂に安置されていて、 悪僧とは正反対の印象を与えるような、丸顔の極めて柔和で 優しい表情を湛えている(後掲写真⑧参照)。右に見たような矢取地蔵像の伝承が誕生したと見られるのと閉じ頃に、 方 で、その地蔵像から程近い西寺において、そんな守敏像が製作され安置されたことも、 また興味深く思われる。 注 ( 1 ) 矢取地蔵像の伝承が、以下のうち早く F ﹃東寺往還﹄に見えること、竹村俊則﹃京のお地蔵さん﹄(京都新聞社、平 6 ) に G ﹃薙州府志﹄に見えることも、後掲阿部﹃京の地蔵 紳士録﹄に言及されている。また、伝承自体は載せないが、 F G と同じく黒川道祐著の﹃日次紀事﹄(新修京都叢書)七月二 十四日条にも﹁九傑矢負地蔵祭﹂と見える。 ( 2 ) 立川美彦﹃京都学の古典﹁薙州府志﹂﹄(セミナー[原典を読む ] 9 、平凡社、平 8 ) 第 三 講 第 四 節 。 ( 3 ) ﹃東寺の仏教版画﹄(東寺宝物館、平 3 ) や﹃弘法大師行状絵巻の世界﹄(向上、平臼)に、写真が掲載されている。﹃東寺の 言及されており、﹁むかしから有名であったことが分る﹂と記される。 27 仏教版画﹄は﹁後世の伝承が加味されていて興味深い﹂と解説するが、矢取地蔵像の伝承もその一つということになる。な お、従来知られる空海の掛幅絵伝の概要や、掛幅絵伝の中の﹁矢取地蔵﹂の絵については、拙稿﹁﹃弘法大師絵伝﹄の絵解き﹂ (﹃解釈と鑑賞﹄平成十五年六月号)においても言及している。 ( 4 ) ﹃わたしたちの弘法大師﹄(読売新聞社、昭町)や小松庸祐三英訳︺弘法大師絵伝﹂(﹃ほとけさまの物語散歩﹄朱鷺書房、 平 7 ) に取り上げられ、一部の写真が掲載されたりしている。また、拙稿﹁弘法大師伝の絵解き│北摂比僧山感応寺の事例 │ ﹂ ( ﹃ 花 園 大 学 研 究 紀 要 ﹄ 仰 の 、 平 4 ) にて若干の検討を加えてもいる。東寺宝物館所蔵﹃弘法大師行状憂茶羅﹄との違いは、 ある矢取地蔵をめぐる覚書

参照

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東京都公文書館所蔵「地方官会議々決書並筆記