中部ルソンのハシエンダ・バリオ(I)――ヌエバ・
エシハ州サン・アンドレス村の事例――
著者 梅原 弘光
権利 Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization (IDE‑JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名 アジア経済
巻 13
号 9
ページ 9‑28
発行年 1972‑09
出版者 アジア経済研究所
URL http://doi.org/10.20561/00052568
中 部 ル ソ ン の ハ シ エ ン ダ ・ パ リ オ ( I )
一 一 一 ヌ エ パ ・ エ シ ハ 州 サ ン ・ ア ン ド レ ス 村 の 事 例 一 一 一
I は じ め に
ll 中}(ルゾ下地域のj世}的土Jtiii;:イi IlI ←/・7 / レス;i,i,')概況 IV 村 の 土 地,JiN関係
1. ノ、シエJ'Iやの経
2. 村内:こおける小作t白匹tl/Ji品1係
(以j,本号)
V 農家構目立と農業経営 VI 村 吉I
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咽 ゴi「ぴに,:iえて
(以上,絞稿〉
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は じ め に本稿は1970年の初めにフィリピン中部ノレソン地 域の農村で行なった村落実態調査の毅行である。
調査の主たるねらいは村の社会経済構造を明らか iこすることにあったが,その場
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接近のための基 本的視点を土地所有関係においた。つまり,村の 社会経済構造を土地所有関係との関連で捉えようとしたのである。
ところで,制査対象として取り上iずたのは表題 にもあるように一般にハシエシグ・パリオhaιien・
da barrioと呼ばれる村落であるが, ζれはわれ われにとって大変不慣れな言葉である。そこで本 論にはいる前に,ハシエンダ・パリオとはいかな る種類の村であるか,それを取り上げることの怠 味はどこにあるかという点についてあらかじめ簡 単に述べておこう。
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光中部ルソンといえば,周知のようにフィリピン 群島中長大規践を誇る中部ルゾン平野を背後にも って国内でもっとも中心的な農業地帯を形成する 池域であるが,同地域でもとくに中央部からずっ と北寄りにかけての内陸部ではハシエンダと呼ば れる数百ヘクタールから1000ヘクター/レ以上にも 及ぶ大農園が多々みられる。これらハシエンダは その民間経営のために大量の小作入をかかえ,圏 内の一角に宅地を与えて住まわせている。したが って,ハシエンダの内部にはそういった小作人な らびにその家族を中心とする村落語丸、くつか形成 されるわけであるが,これらが地域住民によって パシエンダ・パリオと呼ばれるところのものであ る。
こうし、ったハシエング・メリオは従来のフィリ ピン農村社会研究においてほとんど関心を払われ ることがなかった。しかし,それは農村の社会経 済構造に関する研究の全般的避れによるものであ ってωーヘ注意が払われなかったことそれ白体に 意味があるわけでは毛頭ないG それどとろか,ノ、
シエンダ・バリオはフィリビンの村搭社会のなか で一つの重要な型をなすものであるとさえ二汚えら れる。そもそもハシエンダなる大団地所有は,通常
J)商人・高利貸的土地集積にもとづくものとは全 く異なった形成過程による所有形態であって,M・
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・7クレナン(McLennan)によると歴史的には 91972090012.TIF
18世紀後半から19世紀にかけての王領地払い下げ あか司、法下賜を契機とし,いわゆる「ハシエング 的所有
J
hacienda type of landholdingとして仁f1 部ノレソンにおける地主的所有の一つの重要なパタ ーンをなすものであるとされるく注2弘とすると,発生史的にハシエンダの成立と軌を一つにするハ シエング・ノミ 1)オ,単一地主の支配下で小作関係 をとり結ぶ小作農民によって構成されるハシエン ダ・パリオが,その社会経済構造において他の土 地所有移態のもとにある村落とは呉なった諸特徴
をもつであろうことが大いに予想される値引。
ノ\ンヱンダ・パリオをここで取り上(
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ることの 意義は,このようにフィリピンにおける村落社訟 のあり方を土地所有形態との関連で明らかにする ことにつながり,さら仁付落類型化をとおして全体の社会経済構造を解明する手掛りを得るという ぷに求められる。もちろん,本稿は最初tこ断わった ように農村実態調査報告であって,土地所有形態 と村落社会の関連あるいは村滞類型の問題を正面 から論じるものではない。むしろ,そういった理 論研究の素材となるように,不十分ではあるが,
調査成果をまとめてモノグラフとしたつもりであ
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心。
なおここで,今回の調査がいつ,どこで,いか なる手続きのもとで進められたかにつヤて簡単に 触れておこう。
調査対象に選んだのはヌエパ・エシハ Nueva Ecija 州ギンパ Guimba町のサン・ア↓ノドレス San Andres村である(第1図参照)。調査期聞は [970年1月下旬から2片下旬lこかけての約4週間,
第 1殴 調 査 地 の イ ン デ ッ ク ス
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その間ずっと村長宅に泊めてもらった。最初の10 日間くらいはもっはら村内,ハシエンダ内を歩き
!‑11]ってその全抗を把握すること,住民との面議を 得ることに努めたつもちろん,その問を利用して 村 の 戸 数 確 定Cl!:4),過去の調査経験にもとづいて 用意していたクエスンョネアの改訂等を急いだ。
村に入って第三週日の後半から面接による悉皆調 を開始。それと併行して特殊な問題一一調査の
l過程で出てくる諸々の疑問,問題を守(む ー に つ いては村内注目はもとよりハシエングの差配人,
村にある公立小学械の教師,地方の役人等々問題 どの関連で(岡山
l
に聴取りを続打た。この間S R J
也補 助員は必要}こ(::じて司用したが通訳は一切使用し なかった。ことiニ調査!茂果;7〕一端を発表する仁あたず〉て,
付人をはじめ多くの方々力、らの調査にけする絶大 な協力,支援のあったことを想起しないわけには ゆかな
ν
。最後にそのことを記して知広にかえる 次第である。(注 1) 拙鳴「フィリピン農業f![Jlfil研究の現状」(氾 :11勉;hi『東山 Fジア主業tiM研大}現状.I アジア経済' 研 究 所 昭 和45年) 113‑116ページ。
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2〕 均レ J,氏:t中部/lノン仁ムメけるJ白主約 1・地?折有を断片的小地月ーを幾つも所有する「分散[均所 イJ」scatteredholding typ0 of landholdingとに団地 壬所11rる「ノ、シエシダ的i\有JvプつO:ベターンに分 類する。彼の見解のあらましは後に要約紹介されるが,浮 し : は \!cLennan,1¥1. S., Land and Tenancy in the Central Luzon Plain
,
Philippine Studies, Vol. 17, N円.4 (Oct. 1969)を参t,;,,乃こし(注3) 筆者は1967年に中部ノレゾンのlハγエンダ・
ノミリオき同じ,・:調l fr:;_舟行むコたが(ft 1 i‑1な黒人そd)
村落の階層構漢において本来等質的と考えられる小「ト 通のなhにレプ階討を含んだ重以的議以1:検出し,
れがハシュンダという独特の土地所有形態に由来する
(、わ'~「外村 J のは;i,IJ によるも Jりとし f:っ類 fJ.;n 調去
モノグヲ7吃欠く fでめにそ三では断定的結論を当然&
し控えブこが,上述})
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き藍:;:J的i弘司構;;'乙 4:ハうエンタ以外の土地所有形態のもとにある村落での調査報告で これま Cに,介りれーュ、ないことじたしかとある。その
|浪りでハシL ンダ・バリオにおける階隠織成のあり}j にじjj中誠J!t・研:itが今絞ω謀おとされたのでJ?る。 出荷u「ヴイリピY米f'f'農村の社会経済鱗均一一 中部ノレ
プンにわけるハシ且ンダ・ハ9:;j‑の事例調査一一」(滝 川総,iY!JJ仁fini著 I;!ジアLJ土地'.!;IJ度と£;,j寸社今|誇造』
プシプ経済研究所 1968年) 317‑318ベージ。
(fr 4) ' 1 I)ど〆で仁,どこごも, fであらがキf に1r:tt1i苦の I)ストもたtければそれをだれにたずねても j;:J{.! I. r L、γ、n,,:;"i通である。このこtとはブィ Fピ
ンにおける村の性怖に関わって非常に興味ある点であ が,それはさてJ;<とし)ためにぬ村調査立する
j発行に調査省l'jみがこれを縦£5ずることから始めなけ
コLiょんらな阜、のがつ、i行である。
立 中古1; ; レ ソ ン 地 域 の 地 主 的 土 地 所 有
調査村の概況説明に先立つて,まず中部yレソン 地域に日げる地主的土地所有の成立過程をとくに ハシエンダ的所有に注目しながら振返づておく。
そのことが後述されるハシエンダないしハシエン グ・ノミリオの全体における位置付けを明確にする ことにつながると考えられるからである。
従来,フィリピンの地主的土地所有に関する研 究は,その重要性が繰返し指摘されながらも決し て十分ピ進められてはいなかqた。フィリピンで 地主的所有と呼ばれるもののなかに分散せる農地 を所有するものが非常に多いこと,ハシエンダな どのように数百ヘクタールから1000ヘク タール 以 上 と い っ た 大 農 闘 を 所 有 す る も の が 存 在 す る こ と,またこれら地主的土地所有の展開主主19世 紀 以 降の商品生産の展開過程に対応したものであるこ
と,などについてはほぼ異論がないとしても,さ らに系譜的にみてスペイン植民地体制下における 特権的土地下付に由来するもの〔注1), 19世紀にお ける商品経済進展のもとでの中国人メスチーソに よる土地集積によるもの悦2),等の断片的指摘が
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みられるとしても,これら類7自のあり方,知
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lハ関連也、地理的分布、現在と九つながり宇につい ては課題として吹されたま主であJげ三っとこ Y川、
19仰年;二発去されたマク\,, -} ン氏の治之、 ilc:l ) は ll~
域全L↓i:'Hl1,、/ン;こ[I民定Llたどではあるがそろい,}
た従来の研究における間隙を埋め, Jえ在(/)地主[向 上地所有ν)'
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各解明;こ一つの重要な手貯 :Jを与え てくれるものと1、う\?IIよーで両WWJともL、うべき}:;i
下であっ/ごl二irJ論文によると, i''部rレソJ地 域 じ お け る 地 主 的土地所有は大:きく二つのパターンにけ阪0 h るC 一つ(工散在せる小日H也をとi主つも iff[する[分 散l平J所有」でlつり、
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でふる。これ九三),I) I )fiJ }f';l!E¥、 は歴Ll.:IJヲにみてEJLJI:%己に形成されるつ− )玄;J' 18 世紀巾震からス><イン本国C')ーtf,;v,'fj主:持政策法f1Hこ, 上りフィリピンi斗内j重高が潟ii欠拡大三;Jt, 19[11:紀;二入るとマニラr告を何jめとして川向:
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際貿易がj正以し, 1:Ej内山i;百品生産の二:速な民聞がみられるようになるが,との過舵がフ ィリビン
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二i也制度ノ;ターンの縫主JJ}jに当る のであるc 以下主としてマクレ十ン諭之に依拠LL ながらその経j品全版鋭してみようは4'oマクレナンi土19111;紀ブィリヒンにおける主要な 土地獲得手段としてベケト・デ・レノいゴベンダ pac.to cl巴 retroventa,王領地
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,下賜をあげ る。ノ干) ト・テ・レいゴベンタとは, fl'mi者が依務 者から約}iCの期限内に返済がなされたW r f
,,それ を返還ヂるという条件でほ務の担保を取り上げる「日戻し契約jtr\−、し「質入れ契約
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のことであ るつ具f伝的には,:金貸しが農民iニ金を貸付けてJ : I
也を担保に取り上げi
弘涜までのj湖沼農民は金貸しの分註小作どなって小作料を納めるというJi式 であった。もちろん,良民の大部分は債務が法外
な1G'i手jlを{半うものであることから支払L、不能とな り,時価の:i分の1から2分の1'こ相去する借金 で
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也を尖/〉ていったのである。この方式はフィリピン に占くから存在してし、た が, 18世紀末かん191!!:紀にかけての白内通商の拡 大,商品経済のJJ昼間に呼応してとくに広範に進出 していづた。その場合,金貸しの主体はそれまで にフィリピンに沌〉|そして流通部門の経済活動に従 ']fしていた中目人ないし現地人と混血した中国人 メス子、 ゾであったといわれる。この種の土地健 持方法は,地域的には当然平くから開発と居住が 進んでいたマニ弓湾岸Jiい、の!日開地にみられる。
つ全り、マニラおよびパイi悦 Lagunade Bay E守 口,パンノミンガ Pampanga,:/ラカン Bulaじanな
どし')l也!1:1<:であるのしかも所
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の形態としては全体 むいかに広ノkh土地所むであるとしても内存的に は散在せる小問地からなるものであり,いわゆる 刊日投的!??有j と I•子ばれるパターンにつ:け、i る。他方、王領地払
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(ご:f,下賜の方は18世紀のスペ イン人地方居住iMI波撤廃を機に開始されるが,と くに19佐紀にはいってから:t G
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んだ。もおん ん,この方法による士地獲得は広大な宋墾の下A領 地1:L,ドiy~ 受けるのであるから,さきの「分散的所f
干iとは対象的に大|二J]地所千fとなり,いわゆる「ハ ンノヱンろl ( t J f 1 r f r
Iベターンをもた人Lたのである。地域的には中部ルソン地域でもとくに開発の珪れ てし、た内陸部,つまりタノLラク i巴arlac,スエノミ・
ヱレ/ノ
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東部パンガシナン Pangasinanで,所千J
(/)主体[主 ~'JtJJ もっ;:E(,スベイン人tc>,、しスペイン 系メス子一、ノて、あった。
}:記二.つの主要な土地獲得手段のほかに,当時 の,11古
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\;レソンでは未墾地での関長J
入柿,土地慎奪 といったン民主もみじれた。しかし、前肴l土地主的 所有とu、うよりもむしろ小土地所有につながるもゾ)であり,中部平野周辺部ではいざしらず中央部 ではその後の過程で「ハシエング
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ないし「分数 的所有!といった地主的所有に併存されてしまっ た。また,土地登記,土地所有者移転を契機にみ られた土地横奪もそれ自体所有形態におけるパタ ーンを形成するものではなく,逆に既存の地主的 所有がその所有地周辺部を強噂するという形で進 行 L たのである。すなわ ι ,問 Hi 入~;'[も土地横奪 i̲,,i
庁局は先述の主要土地鰐得子段じもとづく所 有パケーンのなかに組込?とれたと:
ラえんれる。マクレナンは19世紀フィリピンにおける地主的 土地所有の形戎過程を以上のようにみるが,この ほかに忘れることの出来ないもう一つの重要な土 地所有形態が当時存在した。フィリピン革命の直 披的契機ともいえる教団所有出 Jr日ir landであ ふc 二;/Lは19世紀以前か「1寄j色ラえ?教f内詐欺,高 川
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し2産がJ舌発をなつた19世紀ブイソヒンJ己;r;,つて教会 l主一大土地所有者となつていた〈注5〕。ただし,今 世紀に入って新たに植民地支配者となったアメリ
カの手によって教会所有地の解体が進められ,「ノ、
〆工ンダ的所有jあるいは「分散的岬有jに吸収
~ i;して現在では,ほとんどネゲリジブルでしかな
1、
、
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ところで「ハシエンダ的所有
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であるが,それ はさきにも述べたように中部ルソン地域でも当時 未開地とされていたところで成立した。ために,その広大な所有地の開墾とその後の農園経営にお
L、で労働力をいかに確保するかとl、ちたきな課題
;こ直面せざるを得なかっ花。 ‑;7 7レ寸' Lは,当時 の \シエンダがこの労働力不足に対処して採った 対策として次のようなものを指摘してし、る〈注
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一つは農園の粗放的経営による対処である。十 分な労働力調達が困難なことから,多くのハシエ
ンゲは労働集約的性格をもっ耕種作物栽培を避け て代わりに牧畜経営;こ乗り出した。しかし,ハシ ヱングの牧畜経営は19世紀末になペて急激に姿を 消すが,それは1880年代におよそ10年近くにわた って群島全域に蔓延した牛疫による。これを境に 中部ルソンのハシエンダでは現在のような米作を 中心とする耕種作物への転換が進んだ。
労的力不足に対する直接的対処策としてはイロ カノ人Ilocanoの調達と定額借地
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の実施がある。北部ペノソン烏の西海岸は山地が迫4 ているため南 北にのびる海岸平野ははなはだ狭少である。にも 拘らず古くからイロカノによる居住と開発が進 み, 19世紀ごろまでに早くも相対的人口過剰地域 となっていた。中部Jレソン地域も中央部から北寄 りの出分で日足立をみたハシエン夕、は,その地理的
;日主性もあってこのイロカノを労働力どして調達
;ることにう
f
めたのである。このことが,じつは 現{E:の中部/レソン地域でもとくに中央部かt\北寄 りにかけてイロカノ人の厚い分布をもたらす原因 となったのである。労働力調達のためにハシエンダが採った小作制 I~~ は定額借地闘であった。それも小作人を惹きつ けら fこめに当初はしばしばごく名f]的{昔地ffを課 すにすぎたか/〉たり,そのうえ最初のI〜2年間は それすら免除するといった内容であった。しかし,
その後労働力不足が次第に緩和されてくるにつれ て借地料も名目的なものから段々と引き上げられ ていき,今世紀の初めにはヘクタール当り15カバ ン
c
¥1寸嵩率借地料のケースさえみられた。さら にその後,相続あるいは譲渡による所有者の移転 を椴に多くのハシヱンダで定額借地制から分益小 作m
十、の転換が強行される。もちろん,分益制へ の転換にあたっては小作人側の強い皮抗をひきお こし,多くの場合地主は武力による制圧を試みた13
Ⅱ 中部ルソン地域の地主的土地所有
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このようにみてくると,「分散的所有jと「ハシ エ ン ゲ 的 所 有
i
とは,マクレナンの主張するように そ れ ぞ れ 中 部 ル ソ ン 地 域 の 地 主 的 土 地 所 有 を2分 す〜るノ:ターンをなしていることが明らかとなる。ハ シ エ ン ダ ・ パ リ オ は 地 主 的 所 有 の 一 つ の パ タ ー ン を な す 「 ハ シ エ ン ゲ 的 所 有
J
とともに発生し,独特の地主小作関係のなかで)J足立している村落社 会である。以下の訪出でそうレ/〉た村落が社会・
経 涜 的 に み て い か な る 特 質 を も つ も の で あ る か 一 つの事例をj;占〉式するえかで明らかにしてみよう。
( ii 1 ) Pelzer, K. J., 1をoncer Settfoment in .・¥siatic T1・opics,¥iew York, 194
へ
p.90.(/よ2) Wicl、berg,E., The Chinese in the f1,il ippine Life 1850 1898, New Haven, Yale Univ. Press, 196G, pp. 142‑1,13.
〔ii:‑l ) .'vfcLennan, op,
οt
〔iI 4 ) Ibid , pp, G!19‑67 4,
(ii 5) ,,¥ Ill i,IJ 7 イ リ ヒ ン 七11,;i;!JI丘!とI子日! (『ぬ :・, ;01 'f'.J ; :17をみI,; ) 34
、
j oCJ, 6 ) :¥fcLennan,ορ cit, pp. 67 4‑680, といわれる。その結果ハシエンダを逃亡する~氏
えlし冷Illし 地 主 は 他 地 域 か ら 新 た に 小 作 人 を 認
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しなけれ:王たらなかー,t:二。ぞれが大体1910よ子代か ら1920年代田までの開であ(たり
ところで, ~J(を %? きつけてハシ工ンザの小作 人に引きi;らむことといったん引きiiんだ小!ド人を けシヱング内にとどまらせることはちりである。ハ
作ノ人を負(直;二よって緊?与することであり,{也;土伝 沈 i'l'Ji~L't古主義的問係をパシエン廿、左ノト'. 1 :人の ffi1 係 のえこ刀ゐに王寺 lZc: むことであった。 iミ{立による~~{~専の
}王法としては/卜(ド契約と同時に,Jイド人に現金をj'j[j
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シエ〉守、が後者のために採った対取は,
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も王寺十litゐガンヲィ十kantina;J;iJ 等がある。品 情 主 義 的 関 係η導入というのは、
誠査本干であるサン・アンドレス十れ土,すでにj主 べたようにヌヱパ・エシハ州ギンパ間にあって,
[nlllfTの中心若手Poblacionから北隣りのタノレグトソ ゲTalu記tuglllTに向かヨ〉て伸びる十H道 を 約Gキロ ほどはい,.f;̲こ地点に位置する。第l図 に 示 さ れ た
サ ン ・ ア ン ド レ ス 付 の 概 況
出
「分法的所 宵|しりもとでのJ也主小作関係をl'ff:i&Hけて、1ぜf二地 主力小(
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二人flt議 恨 行 を ハ シ ヱ ン ゲ のi也J:小(乍[対係 のな乙ベ二汚込むことによ.・,て小f r
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ご人 が 食 扶Jこ悶ぺてし、るときに地主;ょf,ri,米 を 無 利 子 で1J1T貸 し す る と か 守 宅 地 の
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りの:,l'::Sil利 用 を 存 認•,♂〉緊待を強化し上うとする試λ で、
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祭 するとカ\そ こ は 中 部lレソン平野中央部からかなり りの咋
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也主がスポンサーとなっ亡大日の・i;f付 金 す ようにラマ 二 ラ か ら の 距 離 は キ ン パ の ポ 北寄りに位置し司
が含まれるc
ると\ ' .川でここと
ヌ:工ノミ・二E
シ ハ 州 政 府 所 在1患のカバナトゥアン Cabanatu川
市かムでも3:Jキロメートルあ〆〉てすでに都市化の 影符を直接的にはほとんど受けることなく,!:̲LI方 に水田地核が延々と広がる純農村地帯である。
ザ ン ・ ア ン ド レ ス 村 は1970年 現 在97家族からな ヅ ラ シ オ ン ま で で151キロメート/レ,
以上がマクレ十ン論文で指摘されているハン/コニ そ れ は 最 初 か ら比較的人口桐密な旧[菊地(二立地する「分散的所 有
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(7〕トEとんど結股しなかったところである。山ことがその:農場1怪 常 に あ た っ ご1,可有のId!に{:?慢 をもたらすーっしり主要な契機となっていると芳え ンゲ(!)講じた主要な対;誌であるが,
この規模は
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音l\ノレソ り, 550人の人口を擁する。られる内 14
ン地域の村としてはどちらかというと小さい方に 入る慌1¥ 97家族のろち親!伎の者と同居している 家桟が五つあって,民家は92,とのほか主主共建造 物としてカソリック礼拝堂,公立小学校,村集会 所および広場、それに後述される Cooperative Farming l'rojectの技術者宿泊所ポあり,全体と
して州選とパロイ Baloy川に沿って第2図に示 されるような集訴を形戒している。
村の概況を;z!一一ぺるにあたヲBてまず最初に指摘し なければならないのは,この村が一大ハシエンダ のなかの
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村であるという点である。ギンパ町一 帯はそこが開発の新川、平野内陸郊であることが らもともと「ハシエンダ的所有」が非常に多くみら れる地域であるが,数あるハシエングのなかの一 つに農場面積がじっ;ニ4200ヘクタールle::1、及/デハ シエンダ・サンタ・シシア Hda. Sta. Luciaがあ る。ギンパ町全体の農場面積は1960年センサスに よると908'.lヘケケールであるから,このハシヱン ダの7
芳有面積がその半分近くを占めるととになり いかに巨大な規模であるか想像に難くないであろ う。r
f,シエシゲ的所f f J
が成立する19世紀には 数千ヘクタールのハシヱングlま必ずしも珍しくは なかったようであるが(注2),その後の過程である ものは分割相続ばより,また他は切り完i)等じよ って全般的に所宵規模d大きく縮減する傾向にあ る。そのなかで今なお4200ヘクターyレというと相 当な規模というほかなく,ギンバ町ではもとより 州内でも恐らくもっとも大規嘆なハシエンダに壊 するものと思われる。このハシエンダに現在15余りの村が存在してお り,サン・アンドレス村はそのなかの一つである。
村に法住民の所有する一片の土地もなければ村有 地もなく,地主が寄贈したといわれる公立小学校 の敷地を除いて全てハシエンダの所有である。し
たがって,村といってもそこには土地の上での境 界があるわけではなく、たんに集落がそう呼ばれ
るにすぎない。
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書2図 サン・アンドレス村の集落
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l(与ロ 空 ).;) 凶技術者的宿泊所 ロ 村 集 会k Jレ 日匝礼tu: tzID小学校
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̲ff河 JIJ
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Eヨ 水 回 仁ゴ菜珂または荒聖地 し」~o一旦旦」OOm
ハシエンダ内にみられるこのような村落はその 端初におU、てハシエングの小作人とその家族によ って構成されるものであったことはいうまでもな い。しかし,その後の過程における人口の自然増 加,移住による社会的増加等々から小作人以外の ものが含まれるようになった。第1表によって現 在のサン・アンドレス村の職業別家族構成をみる
と,農家81戸,非農家16戸となっている。その場 合, 81戸の農家はいずれもハシエンダの土地を耕 作する小作人であってハシエンダとは直接的関係 を有するわけであるが,それらを除く16戸につい
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ては農家と同等の意味合いにおいてハシエンダと 関係をもっといえないことは当然である。ではハ シエンダとは全く無関係であるかというとそうで はなレc というのは,これらHi戸、ηうちには後述 されあようにかつて小作人でふ〆〉た
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,の,成長し て親から独立の家族をもペヱうになず}たものが多〈汗主れており,また宅地内無償供与,礼拝堂の 利用等々ハシエンダが小作人に対して与える諸便 益は等しく享受しているからである。このように みてくると,サン・アンドレス村の住民は,その rJ'l
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竿,湿度において差異は認められるとしても,すべ
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、シエンダと何らかの関係金色つ存在であ るとし、える。第 1表 村の職、定見:J:家族構成 職 業 J,¥IJ 家 族 数
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民 3l口'‑ 97
サン・アンドレス村に関して次に特記しなけれ ばならないのは,この村が比較的新しいという点 である。ハシエンダ自体は古くからここに存在す るが,現在サン・アンドレス村の集落がある部分 ならびに住民が耕作する士地の大部分は1920年代 に 入pてもいぜんとして什〆パンナ的位燥諌林のま 主問墾がら取り残されていたc 192(){子代も後半に なって,当時隣接地域で地主・小作関係を悪くし た農民が当該地域を逃れてこのハシエンダに辿り 着き,小作人となってこの部分に住みつき未墾地 を次々と切り聞いていったといわれる。 1920年代 といえ
d
,さきにも述べたように中部ルソン各地 のハシエンダで定額借地制か(;分益,Jイ乍制への転16
換が強行された最後の時期に当り,その過程で地 主・小作聞の紛争が絶えなかった。そうして,労 働力不足がすでに解消している地域ではハシエン ゲを追われる破自になった農民も後を絶たなかっ たハ斗トン・アンドレス村iこ最初移住してきたのは こういった農民であったわけであるつその数は当 初10家族余りで,ギンパ町周辺はもとよりタノレラ ク州,イサベラ Isabera州からの移住者もそのな かに合まれていたといわれる。その後毎年何人か の移住者があって1930年代の半ばまでには戸数も 20戸近くになり,ここに一つの村?存が誕生したの である。
第2表、;土入村後親から独立して新しく世帯を形 成したものを除く68戸について入村年次j}IJに示し たものである。これによると,現在この村に居住 する97戸のうち41戸が第2次大戦末までにこの村 に移住してきたものであり, 27戸が戦後の入村,
残りの加戸力士入村後親から独セしたいわば「第2
i l t f ¥ : : i
家族であることが知られる。もちろん,こ の間に現時点で把握出来ない入村、降rn村が当然考 えられるが,そのことをいちおう留保した上で第 2表を中心にこの村の戸数増加をあとづけると次 のようにいえる。つまり,戦前までの時期には10 年間当り大体20戸前後の入村がみられ,第2次大 戦末までに村の戸数は40戸を越えていた。戦後に はいると入村家族数は大きく減少するが,それで も10年間当り平均10戸前後みられ現存去でかなり コンスタシトに村内への移住が続いている。加え て戦後は「第2世代」家族のl脅加が著しく,これ までに29戸みられる。こうして村の戸数は戦後も 一貫して増加し,現在の97戸に遺した。つづいて,この村が種族的にみてイロカノから なる村であるという点についても予め指摘してお か江ければならない重要な特徴である。 1960年セ
第2表 入 村 年 次 別 家 族 数 入 村 年 次
1935年以前 1936〜1945 1946〜1955 1956〜1965 1966年以後 不 明
︒o
qa
io
白押
︐a守ム:︒δ
1 2 1 T 6
A
口
(注〕村内の総世帯数は97であるが,うち29は入村 後に親から独立して世帯をもつようになった者で あるから,ここでは対象外とした。
ンサスによると,ヌヱパ・ヱシハ州人口の種族別 構月比l士タガログの63.6(}らについでイロカノが33.7
%とたっている。外|内でもとくに北西部でイロカ ノの分布が支配的となるが,ギンパ町でもポプラ シオン以北ならびに以西ではほとんどの村がイロ カノによって構成されているといわれる。それと いうのは,これらの地域では開発がハシエンダの 成立とともに進み,その際イロカノの大量流入が あったがらである。
ザン・アンドレス村はポブラシオンlこ近く,地 理的にみてタガログ地域とのいj汁工、境界にある。
したがってタガログとの接触も多〈?住民の多く がタガログ語も理解出来るが,日常会話はもちろ んイロカノ語である。言語,文化的にはあくまで イロカノ文化を基底にもつわけであって,そのこ とが住民の村落社会生活の上に少なからず影響し ケガログ社会とは異なった特徴を示しているもの と考えられる。ただし,今回の調査で発見した諸 事実のうちでどれとどれがどこまでイロカノ文化 の影響によるものかを十分判定することはできな かった。
最後に,この辺一帯が皐魁多発地帯であるとと も特記すべき点、の一つであろう。中部ノレソン平野
(土,気候的にはモンスーンの影響を受けて乾期と 雨期の明瞭な交替がみられる地域である。つまり
第3a健 カパナトゥアン市における年間降水量分布
(単位: I皿) 月 ,ljlj 降 水 量
1 4.6
2 2.5
3 33.0 4 45.7 5 147.6 6 211.3 7 291.2 8 399.5 9 280.9 10 177.8 11 116.8 12 97.0 年間降水量 1,807.9 南河モンスーンの影響下に入る 6月から11月まで が雨期,北東モンスーンの現われる12月から翌年 の5月までが降雨をほとんどみなし、乾期となる
(第3表参照)。平野部全域の年間降水量は平均1800 ミリ前後であるから決して少なくはないが,平野 東南部から西北部に向かつて雨量が漸減し,ギン パ町一帯は平野部にあって相対的に寡雨地帯に入 る。もちろん皐越を誘発するのはたんに雨量だけ ではなく,地形,その砲の条件も大いに関わって くる。サン・アンドレス村附近は平野部北限の山 地に近づくために南西方向への地形傾斜が他の地 域とくらべて比較的大きくなる。そういった条件 のなかで, 1920年代後半からハシエンダの未墾地 がどんどんと耕地化され第2次大戦末期までには ほとんど開墾しつくされたのである。問題は,そ の後農民によってもまたハシエングによっても耕 地の基幣整備なり人工濯翫がほとんど施されなか ったことで,ためにわずかばかり不利な気侯,地 形条件が相乗的作用を惹き起し,現世みられるよ うな皐魅をもたらす結果となったと考えられる。
現に「戦前までは皐越を全く経験することがなか ったjとL寸農民の述壊を聞くとき,未墾の疎林 が開墾されつくすまでは残された部分が自然に保
17
Ⅲ サン・アンドレス村の概況(以上,本号)
Ⅳ 村の土地所有関係
Ⅴ 農家構成と農業経営
Ⅵ 村落社会
Ⅶ むすびにかえて(以上,:続稿)
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水機能を果たしていたものと考えられ,自黙の均 衡を破ることの盤さを思うのである。
ともあれ,半舷による不作,})発生がかなり頻繁 で,生産をひどく不安定なものとしている。その
ζとお調査の過程で
1 t z : 1
乏に関する質問をする疫に 非常に多くの民民の!]から真一先きに迎ぺてきたの が tuyotat tuyot つまり「平腿につぐ早腿J という言葉であったことを記せぽ十分であろう。(注1) リベラ・マクミランのね査によると,中部
ノレソ/う村の下fJ人口ι:t1S56人, T守数で283戸Lなっ ている。 River乱, G. F. & R. T. Mcl¥filian, An Economic and Social Survey of Rural Households f
π Central Lu亡on,Manila, 195,t p. iv
(注2) McLennan, op. cit., pp. 668‑671を参階、の こと。
町 村 の 土 地 所 有 関 係
サン・アン1:レス村はハシヱンダ・サンタ・ル シアのなかの1村であって,住民が耕作する土地 はもとよりその宅地仁王るまで、全てハシエンダの 所有である。したがって村の土地所有関係といっ た場合第一義的にはもっぱらハンヱンダとの関係 のことになるわけである。しかし,キ
f
内にはそれと同時に川シエンダから措受けた小
f f
地の又貸し をめぐる関係の存在も認められる。そこで本節で は, P シエングとの関係と村内マの,1、作地保有関 係とを別々に概観しその特徴を明らかにしてみよう。
1. ハシエンダの経営と地主!]\作関係
ハシエンダ・サンタリレシアは,ささにも指摘し たようにその良場面積がじつに4200ヘクタールに も及んで町内ではもとより州内でもl,2を争う大 ハシエンダである。かつてこの地方きつての一大 ハセンデロ hacenderoC注1)とうたわれたKapitan Belong Tinioのものであったが,すでに戦前が
18
ら亡き父のあとを継いで息子の AngelTinio氏 が所有者となっている。 Tinio家は元々カパナト ゥアンr¥1の出身であるが,現所有者の場合
i
手親が ギンパの出身であることもあって幼少の時分に一 時期ギンパm r
に暮し,そこの小学校に学んだ。た めに A.Tinio氏には町内の名士の問にも,また 一部農民の問にも古くがらの知己が多いといわれ る。同氏はすでにかなり以前からマ三ラに居を構 え,ハシエンダには時折り見回りに訪ずれる程度 である。かといってマニラで間違企業経営等を手 がけるとともなく,ただ小作料だけに依存しいた って優雅な生活を送っているレわゆる典型的な不 在地主である。ハシエングの土地は農民との間に後述されるよ うな内容の定額借地契約を絡んですべて小作地と して貸出される。その場合小作地の規模はまちま ちで一定しないが,平均的には大体 3ヘクター ル前後とみて謹し支えない。もっとも,なかには 20〜30ヘクタールから100ヘクタール近くに及ぶ 規模のケースも例外的にみられるが,それらはν、 づれも3ヘクタール前後の規模で抱の小作人に転 貸されている。いづれにせよ,ハシエンダの経営 といった場合具体的にはそうし、っ?とノト作地全体の 管理運営のことである。
一般にそうであるがこのハシエンダにおいても 地主は経営に直接的には一切関与しない。代って 地主から一定の権限を付与された差配人のグルー プがそれにあたる。
差配人の筆頭が農場支配人巴ncargadoである。
支配人はいわば地主の「右腕Jともいうべき存在 で,その権限は相当広範に及ぶ。小作契約書のな かで「地主またはその代理人jとして常に地主と 同格で呼ばれるように対外的には地主に代ってハ シエングを代表し,対内的には雷j支配人 assistant
encurgadoと 共 に 配 下 の 差 配 人 を 筏 村 し て 管 理 運 営(乃島高責任を負ろっ 4000ヘケターノレに余る大ハ
> : r
−>グともなればさすがに支記入の地{立は要職 と み え 、 明 支 配 人 は ギ ン パ 町 の 町 長 を 過 主2!拐に わ た 》 て 務 め た 任 涯 の 持 主 で おn,D i H E :
1‑号につし、て九てもい/汁c\,元町会議員以上ケラーとの地方名 ゴF あるいは ~ff 力'fr であるつ
支配人,
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芝配人以夕ト〔')差配人と、 Jえi王:畏攻;監 督 人l王ati、 \
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企勢1(1余 5',iJ、::,t
「、るつカテfけご子はそれぞれ地f
ど を分担L,I[九持農民と接触Lt( !;¥ :)悦佼f l
%:への 立,{いう/ト(1r¥i'}tt主力、ら作付・収f
替市ほの記録,水平I]管理]', J克 明 お よ び 台 政 見[iif)等i二L、たる諸h ,1-i 任務を可ご)ゎ 1主た τ!?侍長はわf人小山"J~fHl を{f)~
Jてノ、>工ング,1,
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If,文書整理!に関する Aとなの 事 [~51:と IJ しきる 支配人を詳:くこれ「〉:差配人/;:iuriii パンヱ:ノメプ Lη , J 、:1:入、りなが:ぅ、?、;た♂-~.Jl.るけ
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トk(,にi土ヒ JIイネ〈の,j{、1:地主ミLjえも.・):i1ることなど;、くつ/pnt‑'f 1J 民が地主か九汗号、.~tlており, [r;Jじ
t卜(乍人とL、j て も そ の 職 傍 内'ff‑j'九当然 j也jづUJに 立って
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也|く内♂)他のIj、ft,人lこ け し <i : :
の 支 配 関 係 士もつつ;J¥j査対象のザン・ yンドC,H
か ら は 現 ぞc~ 人力小 if 人がj宝ばれて 1 人は民lj 支間人、 /tQ(tりティげヲヲ むう 1人l士事務長とi ‑̲‑,)ているc
ハシ工Lゲにはこl,r〕差配人のほかに17(」ケ ー・マスノ1 ‑ water m応 teに
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JQ監tl!人 farm guard、帳簿係bookkeeper、機械修理係mechani引等司法応対JI二:0j11q 1)返す)れ人がL、て,芝町人♂〉指示 にもとJ八、てそれそれの任務士道りする。
一般にフィリヒンでは小作契約か之書の形をと っているの;土非常に珍し;,、が、ハシtンゲ・サン ャ・ 1レシずではそれがみ九れる0 4,っとも、一日
;こハシ;c:ノケのIトfl:人とい−,てもオ王人グ
1 1 i
て、ハシ 工ンヅに登録されてL、る登録/トfl"人rehistradoとそうでない非登録ノト作人とがL、て,文書契約が正 式 に 取 り 交 わ さ れ て い る の は も っ ぱ ら 前 者 に 限 ら れ る 。 非 登 録 小 作 人 に つL、ても小作契約内容の上 で差異はなし、が,契約を文書の形で手交してない と い う 点 か ら し て 法 的 に は 登 録 小 作 人 よ り も 明 ら か に 小 作 入 と し て の 地 位 が 不 安 定 で あ る と み る こ
をが出来ょう〈注目。
〔l¥fl〕に示した契約文書から読みとれるように,
とのハシヱンゲの小作制度は定額借地制である。
こ れ は 町 内 で も 非 常 に 珍 し い 。 第R節 で す で に ふ れたように, 19!世紀のハシヱング的所有に共通し て み ら れ た 定 額 借 地 制 は
2 0 ! l t
紀 に は い っ て か ら 労 働 力 不 足 が 次 第 に 綬 和 あ る い は 解 消 さ れ て ゆ く 過 程 で 次 々 と 分 益 小 作 制 に 切 り 存 え ら れ た 。 そ う いsた歴史的経過のなかでサンタ Lル シ ア が 現 在 な お 定 額 併 地 出jlを維持しているのはなぜであろう か け そ れ は 多 分 次 の 上 う な 事 情 に よ る も の と 推 察
さ れ る 。 ギ ン パ 町 一 帯 と い え ば 中 部yレソンでも開 発 が 相 当 遅 れ た 地 成 で あ っ て , こ の ハ シ ヱ ン ダ で は 什 ン ・ ア ン ド レ ス 付 の 歴 史 が 示 す よ う に1920年 代 後 半 に な っ て れ 宋 だ か な り の 未 墾 地 を 残 し て い る 状 態 で あ っ た 。 そ の 限 り で こ こ で は 依 然 と し て 汚 働 力 不 足 は 解 消 し て い な か っ た と み る こ と が 出 来 る 。 当 時rj::i部 ル ソ ン が お か れ て い た 状 況 か ら す るどこのハシエンダ、にとって一つの重要な労働力 減 速 源 は 他 の ハ シ ヱ ン ダ を 追 わ れ た , あ る い は 逃 れ た 呉 氏 で あ っ た と 考 え ら れ る 。 こ れ ら 農 民 が 土 地 か ら 切 離 さ れ る よ う に な っ た 主 た る 動 機 は , マ ケLノナンによると当時中部ノレソン各地のハシヱン グ で 強 行 さ れ た 定 額 制 か ら 分 益 制 へ の 小 作 制 度 の
・ fI的 転 換 で あ っ たrn3 J。 と す る と , こ こ で 定 額 借 地 制 を 維 持 し て お く こ と は 労 働 力 を 惹 き つ け る
」つの舌;要な手段となったであろう。そのことは 千ン・ 7ン ド レ ス 村 に お け る 住 民 の 移 住 経 過 か ら
19
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も十分ιi伺える。戦前までにハシエング内の未琵 地がほぼ開墾しつくされることから労働力不足の 問題も同時に解消されたと考えられるが,第2次 大戦中はもとより戦後はフク団による反体制連動 展開が大体1950年代半ばまで続いて中部ルソン一 帯の農村における混乱がかなり激しく,結局ノ、シ エンダ・サンタ・ルシアでは分益小作制への転換 の機会を逸したのであろう。
ハシエンダの小作地で栽培される作物はすべて 米で,小作料は現在ヘクタール当り栂米9カパン
(
注4)である。この地方の平均収量は大体40カパン とみられるから〈津町,,]、{下料はその約25%に相当 することになる。戦前まではわずか4力パンであ ったが,当時も今も収量水準に大差のないこと,
しかも開墾当初;土土地も肥沃で今日のような早越 もなかったことを合せ考えるとそれはたしかに低 率であったといえる。戦?をになってかF、小作料は まったく一方的に次々と引き上げられた。現在ま でにすでに3回の引き上げがあり,最初が1950年 代初めで6カバン,つづいて1960年代iこ入って8
カパン,そうして1969年に9カパンとなった。し かも,戦後21日目の引き上げ、のおりにはヘクター ル当り 2.0カバンの水利買が新しく;!長せられるよ うになり,つい最近はそれも 2.5カパンに引き上 げられている。
かかる小作料の引き上げを導いた最大の要因 は,ハシヱンダの小作料率と周辺地域の分益ノト作 制のもとでのそれとの聞に著しいclje離が生じたこ とであったと考えられる。一般に分益小作制の場 合生産に要する諸経費分を差し引し、た後の純収穫 が地主・小作間で折半されるが,粗収穫に対する 割合でみるとrト作料は30〜40%に達する。すでに 指摘したように,このハシエンダでは戦後も定額 借地制のままであるために当初の小作料のままで
20
は周辺地域の分益制の場合に比べて小作料率が著 しく低くなった。このことが戦後になってからの 含計3回にわたる小作料引き上げとなったと考え られる。しかも, 1960年5月に結ばれた小作契約 で は 契 約 期 間15年(契約第1条)となっているか ら(〔附〕参照),小作料引き上げはそれに関係なく まったく一方的に実施されたことになる。
ー般に分益小作意l]のもとでは小作入の農業経営 に対する地主の介入が非常に強く,多くの場合作 付品種の選択,田植え,刈取りの時期,肥料,農 薬の使用等に関する決定にまで及ぶが(注6)'この ハシエンダの小作制度のもとではそういった介入 は限られて1噌、る。契約書の中tこ明記されている点 といえば刈取り後の稲堆場所の指定(第7条), ト リリアドーラ trilladorac注7)の指定〈第8条),お よび水利管理(第15条〕だけで,その他は完全に小 作人の自主性に任されている。との限りで;J、作人 の経営におけるかなり広範な独立性が存在すると いえそうである。このことが後述される改良技術 普及との関連で重要な意味をもっと考えられる。
小作契約審の内容に関して一つの重要な特徴 は,契約解除あるいはそれにもとづく土地取り上 げ条項が明確に示されている点である。土地取り 上げが行なわれるための条件は,小作料ならびに 水平I]費納入の拒否(第4条),小作料・水利費運搬 をハシエンダが代行した場合の経費支払い拒否
(第9条入国場整備怠慢〈第11条)で,しかもその 場合小作人はそれを「裁判沙汰にすることは出来 ない」(第4条)とまで明示的に念が押されている。
これは1950年代に政府によって試みられた一見小 作側に有利と見える諸立法措置(1954年の小作立法,
1955年の土地改革法〕をハシエンダ側が大u、に意識 し,地主・小作関係における諸々の紛争を訴訟に 持込まれるのを相当程度嫌がりていることの表わ
れと思、われる。
一般;こブィワビンで;土地主・+
r
乍関係における 温情主義的性格が波厚に認めじれるのが普通であ る。具体的にl土地主の小!?:にけ7る信用,飯米,宅地等の供与,['( i京?とド:f己資企,教会1足並JJ';ls i, 教育等の出ーでの援助司さらに哀作「i由栽培,アガ
ザ l;叫adi' 9)慣行,落砲、拾い等々の作認とかっ 花見id,, これにたjして地主(土小作かん無償労働 の陪(
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耳目中3の一戸;,It是供,農場でつ勤勉さ等を 期待することになる とくに分益小作制が昔二 遍it'せとなってし、る}分散的}こすi f : J J
のもとではこれ らi 1 i H r 1
主誌がJ悶{系がい,,そう強く, 了,、シエンダ 的所f l
グ)場行にはそれが薄れるftl11f,Jにある。も おんん、1 々
{Jに才丸、てもそこでの小ft̲:;tti]J支がすで に分益(相!とな,'' ‑c:‑"'、る kfz,{t‑1こはある程度まで温情 主義的問係山側面が認め(,;j、るようであるけ' l];。ととろi!:,ノ、>・.:r/ゲ・ザーンタ・ルシアててi
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そうL、 った関係が極度に限られている。と、いご}のl土、地 主え.二Iト(乍;二与え与恩典としてはわずかに宅地然的 貸与,パンカグ bane・昭と呼ばれる哀!と菜!誌の「i 由利用,落穂拾いくらいにすぎーに米の前貸し,生活資金の貸付け等の諸援助i上,全くみ「〉れない からである。かかる
i
鼠情主義的関係の欠如;:i>−つ には定額{昔J
也制にある程度にJt通した特徴とも考 えられるが司それと同時にハシエンダのよ:見十世:があ まりに巨大であるととも無関係ではあるまLパ。ともあれ三うし、った性格をもっハシヱンダの地 主・ノト作関係は当然の結果として両官の間の‑JJ古 関係を著しく先鋭化することに導く。ハシエンダ はそれに対処するために武力に依存する。それは ハセンデロならびに農喝支配人がかなりの武‑riiiと ボディ・力、」ドという名の;私兵をj棄していること から明らかである。こうし、った武力を背長に,先 述のような小作料・水干1]費の111次く一方的13Iき上
げ,契約書中の諸禁止条項(第7, 8, 13, 14条) の 尭施ならびに特定条項違犯に伴う土地取り臼「
(第4, 9, 11条)強行,ハシエンダ内iこ設けられ た私道無断j並行に対する罰金制度実施等身を行な
ソ。
したがってハシヱンダと小作人の間の対立・抗 争i;上ノ、シエンダ内のどこかで絶えずみられるよう である。住民から得た情報によると,現在存在す る対立あるいは抗争として次のよう江ものがあげ られる。すな才,,t:
,
,最近ノ、シヱングが農場の再調子E をした rri~ に発覚した隠し田および縄延びによる
契約外耕地の取り上げをめぐる対立,小作料・水 手I]民の )j的引き上げに対する一部農民の反対,
水干I]をぐる差i犯人と/ト作人の争い,小作料支払い 延滞分に対する利子詰求を一部農民がffi否したこ とによる抗守ペ字である。もっとも,これらの諸;(,f
v : r
士宅いづれも隣接村でみられるものであってサ ン・アンドレス村のことではなL、。そjしにはこの やf
から副支配人を筆頭に3人の差配人が出ている という事情が多分に影響していると思われるが,ともあれこういった対立がハシエング内部に認め られることは大いに注目するに値しよう。
2. 村内におげる小作土佐保有関係
ハシヱング・サンタ・ノレシアの小作制!主は上述 のように定額{昔地制で、ある。したがって,ハシエ ンダの小作人が定額借地農で、あることはいうまで もない。とこ乃が,ハシ工ング内に居住していて ハシエンダの土地を耕作する農民が全て定額借地 廷であるかというと必ずしもそうではない。サン・
アンドレス村の97戸についてみると,土地を耕作 していない16戸を除く残りの81戸がハシヱングの 上地を耕作する農家であるが,そのうち定額借地 農は75戸,{也の6戸は分益小作農である(第4表 参fKOoしかも, 75人の定額借地農のなかにはごく
2I
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足J/Iまで分益小{乍であったものが28人も含まれて いる。なぜこうした分益小作農が存在するのか,
勺まり,ハンエングの土地を耕
i
乍しなが「》分益/ト 作制のもとにあるということはどういうことなの かえ,,ここで|司われなければならないが,それにi土7.5人の定額借地農の内訳をいま少し吟味してみる 4とが必要である。
第4表 ,]、作f援態}JiJ.入村年次別家波数 作 1
・非,j、 J¥'J'j 小 作
入村年次日
l j : ‑ J t i ; .
定 分 益 作1 J ; f 1
定額 l元分益|小作〜1935 25(7lt 22(51
I
1936〜1945'.39M1 34ゆ 1 1046〜19ss'17(6ll 1141 I 1956〜19658!4 i
2 19'.5) I 1 2(2) 1 1 : 11(7l I 16,sl , 1 4'.ll
3a, ・ 8(3l 62: 1 3 2 2 1966〜1970, 7 i 4 ' 1 3 .~ 1 2
不 明 ' 1 I ' 1
白 、 計 ,97叫75.2,; 4 .I43(ll 28捌|
〔(リ カッコ内の数字は「第2世代j家族の数を示 寸。
第4表によると,定額借地農のなかtこは元分益 小作28人のほかにナムムイサン namumuisanが 4人みられる。十ムムイ:ナンとは,地主から措り 受けた小作地を一部または全部他の小作人に又貸
しするもののことで,そのなかには中間地主も合 まれる。もちろん,このキ
f
でみられるナムムイサ シはいづれも小作地保有規模がせャ、ぜU、10ヘクタ ーノレ前後,一部を自ら耕作し他を又貸しするとい った内容のものでしかなく,とても中街地主と呼 ぺる存在ではない。ともあれ,三れらナムムイサ ンが小作地の又貸しを行なう場合の小作とりきめ が分益制で,種子,田植え労賃,肥料代等生産費 の一部を負担し収穫物を下小作と折半する。もち7)ん,ナムムイサンと下小
i
乍入との間には一般の 分益小作制に共通してみられる温情主義的関係が 存住していて,信用供与,飯米1~1j 貸し等か行なわれている。村内にみられる分益小作農というのは これらナムムイサンから小作地の又貸しを受けて いる下小作人のことである。
元分益小作についても事情は全く同じであっ たり たど, 1967午iこギンパ町が土地改革地区に指 定され堆点的に改革(当面は,分益小作農の定額借地 良への転換)がj生められるようになってがら十ム ムイサンの多くが、又貸し地を半分見当残して下 小作人との聞の分益小作関係を解消するようにな り,以来調査時現在までに28人が定額借地農とな ったのである。
この主うにみてくると,サン・アンドレス十
f
で の土地所有関係には第l次的にハシエンダとの関 係ポ存在し,それを媒介としつつ副次的関係とし て小作地の又貸し関係が重なっているということ ができ主う。もらろん、 iJlj次的関係は,現在では 4人のナムムイサンと 6人の下小作人の聞にみら れるだけでその範囲も限られてし、るが,泊分主主FトY r
二の28人を合わせると村内につい最近まで下小作 人がじつに34人もいたわけで, ζれは決して軽視 することはできない。このような重層的関係は村 落における社会経済構造との関連で重要な意味を もっと汚えられる。そこで,こういった副次的関 係が成立する基礎がなんであるかについていま少し立入っ亡考察しなければなるまい。
まず最初に村の家族の小作地保有形態と入村時 期の関係を検討してみよう。その場合,小作地保 有形態としては,又貸小作地をもっナムムイサン,
又貸地はもたない定額ノト作人,小作地又貸しを兎 けている下小作人,それに小作地を全くもたない 非小作人と四つに大別できる。また,入村時期に
J入、てはこれまでの指摘である程度うかがえるよ うに第2次大戦を境としてその前と後とでは事情 が大きく異なることから,戦前と戦後の二つの11寺