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序章序章序章序章

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(1)序章. 問題提起 1960-1980 年の 20 年間は、憲法改正の動きがさほど活発ではなかった(下記の表を参 照) 。憲法改正案の数から見れば、1950-1960 年の間に 11 件で、1980-2000 年の間に 19 件であった(1980 年代の改憲案数は多くなかったが、その作成者は自主憲法期成議員同盟・ 自主憲法制定国民会議、自民党憲法調査会など重要な政治参与者であった) 。これに対して、 1960-1980 年の 20 年間の憲法改正案は 6 件しかなかった。 しかもそれは殆ど私案であり、 憲法改正を目指した内閣憲法調査会の 1964 年の最終報告書でさえ「改憲」の結論を出さな かった。 年. 憲法改正数. 作成主体. 1947. 日本国憲法公布. 1949. 2. <憲法改正の第一の波>. 計 17. 1953. 1. 渡辺経済研究所. 1954. 2. 自由党憲法調査会、改進党憲法調査会. 1955. 2. 憲法研究会、中曽根康弘「自主憲法のた. 公法研究会、東大憲法研究会. めの改正要綱私案」 1956. 2. 自民党憲法調査会、大西邦敏. 1957. 2. 広瀬久忠、弁理事会. 1958. 2. 自主憲法期成青年同盟、里見岸雄. 1961. 1. 中曽根康弘(高度民主主義民定憲法草案). 1962. 3. 大石義雄、全日本愛国団体会議、大日本 生産党憲法調査会共同意見書. 1. 憲法調査会報告書. 1972. 1. 自民党憲法調査会「憲法改正大綱草案」. <憲法改正の第二の波>. 計3. 1981. 1. 1964 <憲法改正消極の時代>. 自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国 民会議. 1982. 1. 自民党憲法調査会中間報告. 1984. 1. 中川八洋. <憲法改正の第三の波>. 計 19. 1991. 1. 西部邁. 1.

(2) 1992. 1. 小林節. 1993. 3. 自主憲法期成議員同盟・自主憲法制定国 民会議、自民党憲法調査会中間報告、日 本を守る国民会議. 1994. 1. 読売新聞. 1996. 3. 木村睦男、愛知和男、新進党憲法調査会. 1999. 2. 小沢一郎、鳩山由紀夫. 2000. 5. 中曽根康弘、読売第二次改正試案、日本 経済新聞、自由党、自民党橋本派. 2001. 日本会議、山崎拓、民主党憲法調査会中. 3. 間報告 渡辺治:主な憲法改正の年表。渡辺治編著『憲法「改正」の争点――資料で読む改憲論の歴史』旬報社、2002 年。19 頁. ではなぜこの 20 年間は改憲に消極的であったのか。どのようなことが憲法改正の政治過 程に影響するのか。通常、原因として挙げられるのは以下のような要素である。 ・ 冷戦 ・ 高度成長 ・ 「55 年体制」 国際的な背景から見れば、朝鮮戦争以来、アメリカによる日本再軍備への支持は改憲へ の重要な刺激であった。しかし、1960-1980 年の間に、日米安保体制には目立った変化が 見られず、アメリカの日本国憲法に関する態度もほとんど変らなかった。この 20 年間にお ける冷戦は、危機、変容、デタント、新冷戦などのいくつかの段階に分けられるが、改憲 の進展は冷戦の変遷とは必ずしも一致しておらず、基本的に不活発な状態が続いた。つま り、冷戦は改憲の政治史における最大の外部的な要因と言えるが、この間の改憲の不活発 さを説明することはできない。 国内の背景から見れば、高度成長は改憲を延期させたと言われることが多いが、実は必 ずしもそうではない。1954 年から 1957 年に至るまでの神武景気の時期は、保守政党を始 めとする改憲側が非常に活発な時期であった。この間に、自由党憲法調査会とその後の自 民党憲法調査会は憲法改正を目指し、1957 年 8 月に岸信介内閣は改憲を目指す憲法調査会 を設置した。しかし岸内閣が総辞職してからの 1960-1980 年の間、池田内閣を始めとする 歴代内閣は、所得倍増計画などの経済成長政策を焦点とし、憲法改正を強調しなかった。 この政策調整は 1960 年代の本格的な経済高度成長を導いた。ここで注意すべきなのは、一 見、高度成長は改憲の動きの不活発さの原因ではあるが、実は改憲の動きの不活発さと高 度成長は結果そのものであり、それらの原因は自民党の政策調整であった。したがって、 ここで明らかになる問題点は、なぜ戦後直後から現在に至るまで改憲の方針を持っている 保守勢力が、この時期に改憲を延期する政策調整を行ったのか、という点になる。 ここで考えられる原因は、自民党内の政策方針の差異と派閥政治のほかに、改憲反対者. 2.

(3) 側の影響である。特に、当時の社会党を始めとする革新勢力の強さである。いうまでもな く、池田内閣の政策転換は、ある程度自民党内における政治大国を強調する方針と経済成 長を強調する方針の差異、そして派閥間の闘争を反映し、改憲に影響を与えた。しかし、 この時期に改憲を延期する方針と派閥が選ばれた原因には、恐らく改憲反対勢力の影響が ある。革新勢力は最初から護憲の立場を取っていた。1957 年岸内閣の憲法調査会が成立し た際に、社会党は参加拒否をした。これは改憲反対に大いに役立った。その上、1958 年の 総選挙で社会党は国会で三分の一の議席を占めた。これは改憲防止の実質的な保障となっ た。これと同時に、左翼政党は積極的に護憲運動を展開した。総評と左派社会党が発起し た「憲法擁護国民連合」などの団体は護憲運動の代表団体であった。 にもかかわらず、社会党の影響だけでは説明不足である。確かに、 「55 年体制」が崩壊す る前に、社会党は衰退と回復をくり返しながらも、基本的に国会で議席をほぼ百席確保し、 改憲反対の実力を持っていた。しかし、改憲の動きは「55 年体制」が崩壊する前に既に始 まっていたのである。1960-1980 年の間には、社会党、共産党、総評、全学連のような左 翼政党と左翼勢力以外に、改憲―護憲の政治過程に影響を与えたものが他にもあったので はないだろうか。 したがって、本研究では、憲法問題研究会(1958-1976)をケーススタディとして、1960 -1980 年の間の知識人護憲団体の活動とその思想を検証し、知識人護憲運動が憲法改正の 政治過程に与える影響について研究していきたい。 憲法問題研究会は、1958 年 6 月に、岸信介内閣の憲法調査会に「抵抗」をするために、 大内兵衛、我妻栄、宮沢俊義などの日本の著名な学者約 50 人(必ずしも憲法学者ではない) によって作られた知識人団体である。今は殆ど忘れられたが、1976 年 4 月の解散まで、こ の研究会は当時一番注目された政党色の希薄な知識人護憲団体であった。この研究会は憲 法に関する研究と社会啓蒙活動を中心とし、直接的に政治過程に関与せず、その主張もど ちらの政党にも組しなかった。しかし、その思想と活動は影響力を持つ一方、その発足と 存在自体が非常に重要な政治的意義を持った。本研究では、この研究会の活動とその影響 について詳しく研究していきたい。憲法問題研究会はどうやって発足したのか、どのよう な活動を行ったのか、そして、当時の改憲―護憲の両側にどのような影響を与えたのか、 という問題を解明していきたい。 さらに、本研究では、憲法問題研究会とそのメンバーの思想について研究したいと思う。 当時においても、あるいはその後も知識人の護憲団体はたくさんあるが、憲法問題研究会 ほどに憲法改正の政治過程に確実な影響を与えたのはほとんどなかったと考えられる。そ の原因を探求すれば、時代変遷や社会条件の違いを考えながら、憲法問題研究会と他の知 識人護憲団体の思想的な特徴を研究しなければならないと思う。したがって、本研究では、 憲法問題研究会の全体としての思想と、研究会における学者たちのそれぞれの思想を分析 していきたい。その上で、研究会とその後継団体の思想を比較し、研究会の独特の思想的 な特徴を明らかにしていきたい。. 3.

(4) 定義: 定義:平和主義と 平和主義と民主主義 本研究では、憲法問題研究会とその対照団体の思想的な実質を明らかにするために、 「平 和主義」と「民主主義」の二つの概念を用いる。時代、地域によって、 「平和主義」や「民 主主義」の言葉が指している内容は違うかもしれない。しかし、政治思想としての平和主 義と民主主義の概念は固有な定義がある。混乱さ・曖昧さを防ぐため、具体的な時代、地 域の理解から新しい定義を導く方法より、政治思想における定義に基づいて具体的な思潮 の内容と実質を分析する方法はとるべきである。 平和主義(Pacifism) :非戦・非武装・非暴力を理念的・原則的に志向する思想。 ここで指摘したいのは、 「平和」を議論・主張する人は必ずしも平和主義者とは言えな いということである。その「平和」を主張する理由を考えなければならない。政治思想と しての「平和主義」は、簡単に言えば、理念として「非武装平和」を主張する思想である。 これに対して、憲法調査会などの改憲団体も「日本国憲法における平和主義を擁護する」 と言ったが、その主張は「武装平和論」であった。憲法問題研究会の「母体」である平和 問題談話会は「平和」をテーマとして扱ったが、その強調点は「非武装」ではなく、 「中立」 であった。そして、憲法問題研究会も平和問題を重視したが、その強調点は民主主義を通 じて軍国主義と戦争を防ぐことであり、必ずしも軍隊を持つことそのものには反対しなか った。したがって、上記の三団体の主張は一見、 「平和主義」であるが、実は三つとも「平 和主義」とは言えなかった。 民主主義(Democracy) :個々人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政 治体制。 民主主義と「多数決」は同一視されることが多いが、 「多数決」は民主の制度面の要素 に過ぎない。近現代における政治思想としての民主主義は、反専制・基本的な人権擁護と 密接な関連を持ち、主に「国民主権」の意思を強調する。広義の民主主義は立憲主義、自 由主義の内容を含みながら、特に民衆の「国家への自由」を強調する。憲法問題研究会に 属する学者の「民主主義」に対する認識は必ずしも一致しなかったが、その共通の認識は 国民主権の強調であった。この意味で、一つの団体として、憲法問題研究会の思想的な特 質は民主主義であったと言うことができる。 先行研究 ・ 政治学における憲法問題 今までの日本国憲法改正問題についての研究は、憲法学や憲法史の角度からこれを扱う ことはほとんどであり、憲法問題を政治問題として扱う研究は少なかった。しかし、三権 分立の政治制度にとって、憲法は立法権の象徴と行政権への拘束であり、その変動は政治 制度及び政治過程と密接に関係している。したがって、どのような要素が憲法改正の進展 を影響するのか、ということは政治学的な問題に違いない。. 4.

(5) 現存の研究を見れば、政治学の角度からの憲法問題研究は渡辺治と中村明のそれが挙げ られる。渡辺治の『政治改革と憲法改正――中曽根康弘から小沢一郎へ』 (青木書店、1994 年)は、いわゆる「政治改革」と憲法改正の連続関係について優れた研究を残した。中村 明の『戦後政治にゆれた憲法九条――内閣法制局の自信と強さ』 (中央経済社、1997 年)は、 1990 年代の事情を中心として、戦後内閣法制局の憲法問題に対する影響力について研究し た。 しかし、この二つの研究は、改憲反対者側の影響をほとんど含まず、1960-1980 年の改 憲の不活発さを説明できない。既に述べたように、なぜこの時期に保守勢力が政策を調整 しなければならなかったのかという問題を説明しようとすれば、護憲側の影響について研 究しなければならない。これまで知識人運動がどのように憲法問題に影響するのかについ ての研究は存在しなかったが、このような影響は見逃せない意義があると考えられる。し たがって本研究は、上記の二つの研究が使う政治学的方法論に従い、憲法問題研究会をケ ーススタディとして、知識人運動が憲法改正の政治過程に与える影響について研究するも のである。 ・ 知識人の政治に与える影響 では、なぜ憲法問題研究会では専門分野が違う多彩な知識人たちが一つの団体となり、 18 年間も啓蒙活動を続けられたのだろうか。また、なぜ憲法問題研究会は他の知識人護憲 団体より大きな影響力を持つに至ったのか。そして、どのようなことが知識人の政治行為 とその影響力に作用するのか。 「知識人」という言葉は「政治」と同じように、説明しなくとも常識レベルの意味を持 っている。しかしながら、 「政治」と同じように、知識人に関するいかなる研究も、その研 究の選ぶ独自の「知識人」の定義に作用される。 「知識人」の定義はたくさんあるが、大体 二つの方法によって定義される。一つは客観的な標準を使う方法であり、もう一方は主観 的な標準を使う方法である。 客観的な標準を使う定義方法は、構造―機能主義の枠組みに従っている方法と言え、こ の方法も二つの派に分けられる。その第一は職業、教育訓練などの社会機能的な指標を考 察する方法である。その代表者の一人として、リプセット(S.M.Lipset)が挙げられる。 彼によると、知識人はある種の文化成果を創造する(学者、芸術家、作家、一部分の編集 者と記者) 、或いは広める(役者、大多数の教師と記者)人たちである146。これに対して、 第二は階級、階層、組織などの社会構造的な指標を考察する方法である。互いに差異はあ るものの、マルクス(Karl Marx)とグラムシ(Antonio Gramsci)はこの方法の代表者で ある。この定義方法によると、知識人は特定の階級・階層・組織の利益と要求の体現者、 そしてその上と下にある階級・階層・組織を繋げる存在である147。 実際に、多くの研究者はこの枠組みに依り、社会機能と社会構造の両方を総合して知識. 146 147. S.M.Lipset: Political Man: the Social Bases of Politics. Garden City, N.Y. : Doubleday, 1960 See Karl Marx and Antonio Gramsci.. 5.

(6) 人の政治に与える影響を考察する。その結論は、知識人の政治行為と影響は、客観的な社 会条件によって決められるということである。例えば、マンハイム(Karl. Mannheim). は社会機能的な定義方法(知識人は世界へのある種の解釈を提供する社会グループ148)を 使いながら、彼の知識人についての考察は主に社会構造の角度から展開した。もちろん、 彼はマルクスやグラムシのように階級を強調しなかった。しかし、彼はこの二人と同じよ うに、知識人を孤立的な個人ではなく、具体的な社会条件に作用される社会グループの一 員として扱った。彼は、共通の歴史経験、社会的地位と所属関係(収入と資源を決める)、 そして社会流動性への拘束などの社会条件は知識人の政治行為に影響を与えるとした149。 最近の知識人が政治に与える影響についての研究は、上記の理論に基づいて、具体的な条 件を明らかにするものが多い。例えば、トピ(John C Torpey)は東ドイツの知識人を研究 し、国家の特殊な情勢も知識人に影響すると結論を出した150。 これに対して、比較的に主観的な標準を使う定義方法がある。この方法を採用する定義 にはさまざまな形があり、必ずしも「科学的」とは言えないが、その共通の強調点は知識 人の社会責任感である。例えば、サルトル(Jean-Paul Sartre)は「知識人は自分自身と関 係ないことに介入する人」151と定義した。シュムペーター(Joseph Schumpeter)の「知 識人は社会批判者である」152という定義は適当とは言えないが(知識人は必ずしも現状の 批判者ではないからである) 、この社会責任を強調する方法に属する。その他に、中国古代 の「修身、斎家、治国、平天下」の道徳的な標準を使う定義と元ソ連の学者のイデオロギ ー色彩を持つ道徳的な定義153もその種類に入れるかもしれない。このような観点にしたが って、知識人の政治行為とその影響は主観的な条件(例えば、知識人個人が政治に介入す るか否かの選択)によって決められる。このような研究は多く存在しないが、最近の研究 では、ドレイク(David Drake)がサルトルの知識人の定義を使い、戦後フランス知識人の 政治における役割を研究した。彼は「知識人」全体を対象として取らず、サルトルを始め とする自覚的に政治に介入した知識人を数人選んで研究した 154 。マッカーシー(Conor McCarthy)も特定の知識人を選ぶ方法で、戦後アイルランドにおける知識人の政治に与え る影響を研究した155。 以上の二つの理論体系はある程度統合されるべきである。まず何よりも、知識人を孤立 Karl Mannheim: Ideology and Utopia. New York : Harcourt, Brace, and World, 1968. Ibid. 150 John C Torpey: Intellectuals, Socialism and Dissent—the East German Opposition and its Legacy. University of Minnesota Press, 1995. 151 “The intellectual is someone who gets involved in matters which are none of his business”. Jean-Paul Sartre: Between Existentialism and Marxism,NLB,1974. (A plea for Intellectuals) ? 152 Joseph Schumpeter :Capitalism, socialism and democracy. NewYork: Harper and brothers,1942. p150. 153 According to Vladimir Shlapentokh, former USSR scholars such as V. Dudinstev and D.Granin belong to this type. See Vladimir Shlapentokh: Soviet Intellectuals and Political Power―The Post-Stalin Era. Princeton University Press,1990. Preface,p1. 154 David Drake: Intellectuals and politics in Post-War France. New York : Palgrave, 2002. 155 Conor McCarthy :Modernisation, Crisis and Culture in Ireland, 1960-1992. Four Courts Press, 2000. 148 149. 6.

(7) した個人ではなく、一定のグループにおける個人と認め、具体的な社会条件を強調する理 論体系は、知識人の政治影響を分析する基礎となるはずである。この理論によって、知識 人の行為とその影響は具体的な社会条件に制限されることが明らかになった。しかし、こ の体系だけでは、特定の背景の下に、ほぼ同じ社会条件を有する知識人の違う行為、そし て異なる社会条件における知識人の同様の行為に対して、充分な説得力がない。 一方、知識人の主観的な条件を強調する理論は、一つの体系とは言えず、客観的な条件 を強調する理論の基礎の上に理解されなければならない。だが、このような理論は、上記 の体系の不足を補充する有益なヒントを提示した。もちろん、道徳や責任感などの抽象的 な指標そのものは解釈として不適切であり、知識人を孤立した個体と認める認識論や精神 分析学の方法も有効とは言えない。しかし、ほぼ同じ客観的な条件に直面する知識人の行 為とその影響を区別する時に、知識人の主観的な差異、つまり、知識人がどのように客観 的な条件を反映するのかを解明することは大きな意義がある。 「階級の形成には階級意識が 必要」156であり、 「国家行為は国家の規範存在の認知によって決められる」157といった事実 と同じく、知識人の行為とその影響もその一定的な現実の状況への反映と判断に繋がって いる。 ・ 憲法問題研究会に関する事実 憲法問題研究会についての本格的な先行研究は、高見勝利の「護憲論のパトスとロゴス」 158しか存在しない。この優れた憲法史研究の中で、高見は憲法問題研究会の『世界』に掲. 載された講演記録を研究し、研究会発足の動機と研究会の護憲論の特徴について簡単に述 べた。高見によると、研究会の発足したパトスとは「憲法調査会への抵抗」 、「平和問題談 話会への継承」、さらに「 『悔恨共同体』の精神」である。そして、研究会の憲法論の特徴 は、「行動原理としての憲法」、「現状批判の方法」 、そして「自治体・地域社会への期待」 である159。これは基本的に正確なまとめである。しかし、高見の研究は、彼自身が言った ように、 「講演記録を通読して感じたわれわれの印象」に基づく「研究会についての一試論」 160であるので、全体的な研究ではない。事実確認の不足以外に、一番大きな問題点は、彼. は研究会がどのように平和問題談話会を継承するかについて詳しく研究せず、研究会のこ とを「平和主義」と評価する傾向が見える点である。 中国には憲法問題研究会に関する研究はなかったが、高増傑は、自らが主編する『日本 の社会思潮と国民情緒』の中で、丸山真男の憲法問題研究会での報告「憲法第九条をめぐ る若干の考察」を分析し、丸山を日本平和主義の代表者であると評価した。そして、研究 会の会員であった清水幾太郎については、丸山とは対立的に、 「新しいナショナリズム」の See Edward Palmer Thompson::The making of the English working class. London : V. Gollancz, 1963. 157 See the works of the constructivism school of international relations. 158 高見勝利『宮沢俊義の憲法学史的研究』 (有斐閣、2000 年)の第四部第四章。初出は「護憲論のパトス とロゴス――憲法問題研究会が問いかけたもの」 、 『思想』1987 年 5 月号。 159 同上。 160 同上、411、401 頁。 156. 7.

(8) 代表者であると評価した。したがって、高は 1970 年代末期以降の平和主義の退潮と新しい ナショナリズムの台頭は日本の政治変化の一つの原因であると結論した161。これは恐らく 中国の大多数の学者の意見を代表するものであろう。 一方、長谷川正安は、彼の著書である『憲法現代史(下)――安保と憲法』の中で、護 憲運動の代表団体として、憲法問題研究会について簡単に言及している。彼は憲法問題研 究会が単なる「学問的な会」ではなく、政府の憲法調査会に対抗する面が強かったと強調 した。しかし、彼は研究会の思想を詳しく分析せず、次のように総括した(下線は筆者)。 「この東西の学者を結集した憲法問題研究会に、統一的な憲法理論があったとは思えない が、日本国憲法の平和主義と自由主義の原理にもとづいて、自民党的憲法改正論に反対す るという点では、会員すべてに共通の了解があったであろう」162。 しかし、憲法問題研究会(或いはそのメンバー)は「平和主義」と見なされたが(高見、 高、長谷川もそうである) 、実はこの言い方は適当と言えるかどうかは疑問が残る。確かに 憲法問題研究会は戦後日本の平和主義のシンボルとされる平和問題談話会の継承者として 発足したが、その平和問題談話会自身の特徴を「平和主義」と評価できるか疑問が残る現 状では、研究会が継承・発展した遺産が平和主義とは断言できない。同時に、研究会の学 者の中に平和主義者がいないわけではないが、丸山の思想が平和主義と評価できなければ、 研究会は一つの団体として「平和主義」とは言えない。したがって、確かに現在平和主義 の思潮もある程度衰退しているが、丸山、清水そして憲法問題研究会の学者のことからこ の判断は下せない。この意味で、高の「平和主義の退潮が日本政治の変化の原因である」 という結論は修正される必要がある。一方、長谷川が言う「自由主義」は、研究会の部分 的な特徴ではあるが、長谷川は研究会の一層重要な特徴を見逃していた。 その他に、渡辺治は『憲法「改正」の争点――資料で読む改憲論の歴史』という資料集 の中で、詳細な研究は行わなかったが、憲法問題研究会を護憲側における知識人団体の代 表として挙げ、 「憲法問題研究会に結集した学者たちは、安保反対運動の先頭に立った学者 たちとダブっており、これら運動を理論的にリードしつつ、運動に参加する広範な市民た ちに、憲法的価値を再確認させ、憲法を定着させていくうえで積極的な役割を果たしたの である」163という評価を行った。 しかし、渡辺は憲法問題研究会の役割については詳しく説明せず、彼の評価は曖昧なと ころが残っている。したがって、研究会の安保運動における役割を再検討する必要がある。 まず、安保運動自体にはいくつかの方向性があり、研究会はどのような方向のリーダーで あったのか。そして、研究会のことを社会党などの左翼勢力と同一視する傾向も強いが、 研究会は「社会党的」な団体とは言えるか。研究会の目標とその実現する方法は社会党な どの左翼勢力と一致したのか。以上の問題はこれまで明らかにされていなかった。 要するに、これまでの先行研究では、研究会の活動やその影響などの実態は不明であり、 161 162 163. 高増傑主編『日本の社会思潮と国民情緒』北京大学出版社、2001 年。 長谷川正安『憲法現代史(下)――安保と憲法』日本評論社、1981 年、489 頁。 渡辺治編著『憲法「改正」の争点――資料で読む改憲論の歴史』旬報社、2002 年、434 頁。. 8.

(9) その思想的な特質も掲示されてこなかった。したがって、本研究では、今までの先行研究 が取り上げていない資料を研究し、憲法問題研究会の実態に関する基本的な事実を確認し た上で、同研究会のこれまでの先行研究が提示した基本像の修正に迫りたい。 研究方法 ・ 歴史学的研究――新資料の発掘 本研究は、まず歴史学的研究方法を採用する。憲法問題研究会に関する事実を確認する ために、本研究に扱う資料は主に下記の通りである: 1、研究会の公開発表した文章・書物( 『世界』と他の雑誌に載せられた文章、声明、岩 波新書のような単行本) 2、研究会の未発表書類(研究会の例会報告・討議、例会の討議資料、文書の概要) 3、研究会のメンバーと関係者の日記、草稿、メモ、ノート、回想録など 4、研究会に対する報道・評論( 『朝日新聞』 、 『毎日新聞』 、 『読売新聞』 、 『産経新聞』 、 『日 本経済新聞』における報道・評論、 「新日本協議会」などの評論) 5、関係者インタビュー(研究会のメンバーは、現時点において 1 人164を除いて、全員 逝去のため、直接な事情聴取は不可能である。本研究のインタビューの対象は、研究会の メンバーの学生、友人、家族を始めとして、研究会の書記などの関係者や憲法学者、思想 史学者を含める) 以上の資料はほとんど一次資料である。その中では、 「1」以外は、ほとんど今までの先 行研究が扱わなかった資料である。特に、研究会は非公開であったので、 「例会記録のよう な資料が残ってない」のが通説であったが(高見他) 、宮沢俊義文庫、丸山真男文庫などに は例会報告が多少あることを筆者は発見した。そして、今まで研究会の関西支部の活動状 況はほとんど不明であるが、末川博の日記と聴講ノートなどの資料の中に、研究会の関西 支部の例会日程とその内容についての記載があることを筆者は発見した。 その他に、本研究では、研究会のメンバーの憲法に関する著作とその他の著作、研究会 の関係組織(平和問題談話会、憲法調査会、民主主義科学者協会、岩波書店など)に関す る資料、同時代の重要な左翼組織(社会党、共産党、全学連など)に関する資料、研究会 以外の知識人護憲団体(全国憲法研究会、憲法再生フォーラムなど)の憲法に対する観点 や活動に関する資料も扱う。そして、参考として研究会のメンバーに関する研究著作も含 まれる。 ・ 事例研究、定性的研究と比較の方法 本研究は、憲法問題研究会の活動、思想とその影響を中心として、研究会と他の組織(例 えば、他の左翼勢力、他の知識人護憲団体)との区別をつけられるよう、諸団体との比較 研究の方法を採用する。研究会と他の団体の思想を分析する際、定性的な思想史研究を行. 164. 猪木正道(元京大教授、1914 年生まれ) 。. 9.

(10) う。 論文の 論文の構成 本研究は、序章と終章を除いた 5 章によって構成される。第 1 章では、憲法問題研究会 の前史研究として、憲法問題研究会と平和問題談話会、民主主義科学者協会、そして岸信 介内閣の憲法調査会との関係について研究し、研究会の問題意識の特徴を明らかにしてい きたい。第 2 章では、憲法問題研究会に関する事実確認を行う。研究会の位置づけ、主な 活動と主張について研究していきたい。第 3 章では、代表的な 3 人のメンバーの思想を分 析し、憲法問題研究会における観点と思想を研究し、それぞれの思想の共通点を見出す。 第 4 章では、憲法問題研究会の具体的な影響について研究したい。特に、憲法問題研究会 の憲法調査会への影響、研究会の安保闘争における役割、そして研究会の革新的な地方政 治への影響について述べたい。第 5 章では、憲法問題研究会の解散とその原因を分析し、 研究会の未完成の任務とその影響を論じたい。そして、研究会と類似した知識人護憲団体 についての分析を行う。. 10.

(11) 第一章 平和主義より 平和主義より民主主義 より民主主義―― 民主主義――憲法問題研究会 ――憲法問題研究会の 憲法問題研究会の成立. 1958 年 6 月 8 日に発足した憲法問題研究会は、大内兵衛、茅誠司、清宮四郎、恒藤恭、 宮沢俊義、矢内原忠雄、湯川秀樹、我妻栄の 8 名が発起人となり、約 50 名の学者が参加し た。彼らは憲法、政治、経済、哲学、歴史、文学、自然科学などの分野の日本の代表的学 者であり、必ずしも憲法学者ではない。この憲法問題研究会の直接的な目標は、 「専門的な 学識と国民的良識」165をもって、岸信介政府が 1957 年 8 月に作った憲法改正を目指した憲 法調査会の憲法を「特定の立場からのみ解釈」する傾向を防ぐことである。発足してから、 憲法問題研究会は、 「学問的な会」と「国民のための会」166として、毎月憲法問題について の例会を開き、研究成果を『世界』などの雑誌に発表したり、毎年 5 月 3 日の憲法記念日 に講演会を開催したり、学者の立場から世論を影響するように努力し、 「戦後日本の良識支 え続けた 18 年」167を送った。研究の内容は、 『憲法をいかすもの』 、 『憲法と私たち』 、 『憲 法読本』 (上、下)の四冊に収録され、岩波新書で出版した。しかし、1976 年 4 月 21 日に、 憲法問題研究会は「高齢化、もう定年」168のため、 「解散にあたって」のあいさつ状を配布 し、静かにその幕を閉じた。その後、毎年の憲法記念日がますます寂しいものになってい くにつれて、憲法問題研究会自体も次第に忘れられていった。 この憲法問題研究会の発足の直接的な動機は、岸政府によって作られた憲法調査会への 抵抗であるが、その誕生は決して偶然ではない。憲法問題研究会は一見、単なる憲法研究 団体であるが、憲法問題そのものに限らず、戦後日本の根本的な問題を深く反省した知識 人連合であった。憲法問題研究会は、二つの戦後知識人団体、つまり、平和問題談話会(平 談会)と民主主義科学者協会(民科)の一部を継承しており、この二つの「前身」から継 承した精神の下に、自分なりの問題意識を発展した。本章は、憲法問題研究会の前史研究 として、まず、憲法問題研究会の「母体」である平談会の位置づけと平談会における主張 の主要な傾向ついて研究し、そのさまざまな観点の裏に潜む共通点と差異を明らかにする。 したがって、憲法問題研究会がどのような意味で平談会の継承者であるのか、憲法問題研 究会は民科のどのような精神を継承したのか、どうして憲法調査会に「抵抗」する憲法問 題研究会の設立が可能になったのか、という問題を解明していきたい。 第一節 平和問題談話会から 平和問題談話会から憲法問題研究会 から憲法問題研究会へ 憲法問題研究会へ 戦後平和主義のシンボルと呼ばれる平和問題談話会(以下、平談会と略称)は、日本知 大内兵衛、茅誠司、清宮四郎、恒藤恭、宮沢俊義、矢内原忠雄、湯川秀樹、我妻栄「憲法問題研究会設 立についての勧誘状」 。大内兵衛「憲法問題研究会――その目的と仕事」 。憲法問題研究会『憲法を生か すもの』岩波書店、1961 年、5 頁。 166 大内兵衛、前掲「憲法問題研究会――その目的と仕事」 、7 頁。 167 「戦後日本の良識支え続けた 18 年――憲法問題研が解散」 『朝日新聞』1976 年 4 月 23 日。 168 同上。 165. 11.

(12) 識人の団体として、敗戦直後に発足した。1948 年 7 月 7 日、ユネスコの 8 人の社会科学者 は「戦争をひきおこす緊迫の原因に関する声明」を発表した。この声明に応じて、 『世界』 編集部(当時の編集長は吉野源三郎)は 50 余人の社会科学者・自然科学者にこの声明の検 討を依頼し、これらの諸氏は 9 月以降討議した。その結果、1949 年 3 月「戦争と平和に関 する日本の科学者の声明」が発表され、この声明に加わった学者によって平和問題討議会 が組織された。その後、正式に「平和問題談話会」と名乗り、恒常的な研究団体として、 全面講和・中立不可侵・国連加盟・軍事基地反対を主張し、戦後日本の平和思想の基盤を 提供したと評価された。平談会の議長は安倍能成、副議長は仁科芳雄と大内兵衛であり、 そのメンバーは各分野の著名な知識人であった。彼らの個人的の観点や立場は必ずしも同 じではないが、平談会は一つの団体として平和中立の原則のために戦った。1950 年1月の 「講和問題についての平和問題談話会声明」と、1950 年 12 月の「三たび平和について」 は戦後日本社会に大きな影響を与え、いまでも「戦後平和主義」のシンボルの一つとして 記憶に残されている。しかし、1950 年代後半から平談会は実際の衰退状態が続いた。1960 年に「安保改定問題についての声明」を出すことによって、平談会は事実上にここに終焉 し、1961 年 3 月に解散された。解散前の 1959 年 3 月に発足した国際問題談話会は、その 発展的な継承者であることはよく言われているが、実は 1958 年 6 月に発足した憲法問題研 究会もその平談会の重要な継承者である。 要するに、平談会は憲法問題研究会のある程度の「母体」であると言え、この両者がメ ンバーの構成から思想観点まで切っても切れない関連性を持つのは事実である。平談会は ただの「平和主義」団体でなければ、憲法問題研究会もただの護憲団体ではない。この二 つの団体の相続関係は戦後日本知識人の探索の軌跡を示し、一部の知識人の一つの自覚的 な方向修正の意味を持つとも言える。この修正とその限界は、戦後日本および近代以来の アジア国家の思想的なジレンマを反映したものである。 これまで、この二つの団体の継承関係について論じた研究は稀少である。高見勝利は憲 法問題研究会が平談会の継承者であることを明らかにしたが、憲法問題研究会が平談会の どの点を、どのように継承したかについては具体的に研究しなかった。平談会を主として 扱った先行研究はいくつか挙げられるが169、それを「平和主義」や平和運動団体として扱 う研究が多く、思想史の角度からの研究も、学者個人の学説とその具体的な違いを中心と. 平和問題談話会およびその成員についての先行研究は主に以下の通りである。大沢真一郎「戦後思想 としての『平和』問題――講和論争・平和問題談話会の活動を中心に」 ( 『思想の科学』第5次、1966 年 1 月号) 、関寛治「平和の政治学」 ( 『日本政治学会年報』 「行動論以後の政治学」岩波書店、1977 年) 、グ レン・D・フック「戦後日本の平和の思想の源流(国際関係思想) 」 ( 『国際政治』第 69 号、1981 年 10 月) 、 五十嵐武士『対日講和と冷戦』 (東京大学出版会、1986 年) 、矢崎彰「『世界』と平和問題談話会」 ( 『民 衆史研究』第 45 号、1993 年) 、都築勉『戦後日本の知識人』 (世織書房、1995 年) 、黒川みどり「戦後知 識人と平和運動の出発」 ( 『戦後日本の民衆意識と知識人』 、 『年報日本現代史』第 8 号、現代史料出版、 2002 年) 、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉――戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社、2002 年)、 森田尚人他『教育と政治―戦後教育史を読みなおす』 (勁草書房、2003 年) 、谷野直庸「平和問題談話会 と戦後知識人――敗戦直後における知識人の思想的分岐」 (慶應義塾大学総合政策学部総合政策学科 2004 年度卒業論文) 、鈴木良他『現代に甦る知識人たち』 (世界思想社、2005 年) 。. 169. 12.

(13) し、平談会における戦後日本知識人の主要な問題意識とその分岐についての分析はあまり ない。したがって、憲法問題研究会による平談会の精神の継承と変容はほとんど注目され ていないと言ってよいだろう。 本節は、憲法問題研究会の「母体」である平談会の位置づけと平談会における主要な主 張の傾向について研究し、そのさまざまな観点の裏に潜む共通点と差異を求める。とりわ け、どうして憲法問題研究会の設立が可能になったのか、また憲法問題研究会はどのよう な意味で平談会の継続者であるのか、という問題を解明していく。 I. 平談会の 平談会の結成 第二次世界大戦以後、米ソ冷戦によって世界は両極対立の態勢になり、再び世界大戦に なる恐れも存在した。この厳しい状況に対して、1947 年の第 2 回ユネスコ総会は、戦争を 起こす緊張の原因についての研究を 8 人の学者に依頼した。その 8 人の学者は下記の通り である。 ゴードン・W・オールポルト ジルベルト・フレイレ. (ハーヴァード大学心理学教授) (ブラジル、バヒア大学社会学部教授、アルゼンチン、ブエノ ス・アイレス大学社会学研究所教授) ジョルジュ・ギュルヴィッチ (ストラスブール大学社会学教授、パリ社会学研究所理事) マクス・ホルクハイマ- (ニューヨーク市、社会研究所理事) アルネ・ナエス (オスロー大学、哲学教授) ジョン・リックマン (医学博士、 「英国医学的心理学雑誌」 “British Journal of Medical Psychology”主幹) ハリー・スタック・サリヴァン (医学博士、ワシントン精神病学専門学校評議会議長、 「精神病学誌」’’Psychiatry, Journal for the Operational Statement of Interpersonal Relations”主幹) アレキサンダー・ソロイ (ブタペスト大学社会学教授、ハンガリー外交問題研究所長). この 8 人の学者の内訳としては、3 人がアメリカ人、残る 5 人がそれぞれブラジル、フラ ンス、カナダ、イギリス、ハンガリー人である。ユネスコにおける審査基準として 8 人を 選考するにあたっては、学識と経験の他に、人間の思想や感情に関心を持つことが重視さ れた。特に、「鉄のカーテン」を超えてハンガリーの学者アレキサンダー・ソロイも選. ばれた。 1948 年夏、この 8 人の学者はパリで討議を行い、7 月 7 日に「戦争をひきおこす緊迫の 原因に関する声明」を発表した。この声明は 12 項からなり、冒頭に「われわれの知りうる 限り、戦争が『人間性』そのものの必然的不可避的結果であることを示すようないかなる 証拠もない」と判断し、平和を志向して人の搾取を防ぐために、 「社会組織ならびにわれわ れのものの考え方自体におけるさまざまの根本的変化が肝要なのである」170と唱えた。そ の上、経済不平等、神話・伝統・象徴の国家主義的濫用、民族・人種に対する圧迫、知的 権利への侵害、イデオロギー・階級的隔離を批判し、社会科学者や各国は責任感を持って 教育と国際的協力を行うように努力すべきだと提言した。. 「平和のために社会科学者はかく訴える――戦争をひきおこす緊迫の原因に関して、ユネスコの八人の 社会科学者によってなされた声明」 『世界』1949 年 1 月号、17 頁。. 170. 13.

(14) この声明に対して、1948 年 11 月から 12 月にかけて、当時の『世界』の編集長である吉 野源三郎の主唱によって、日本の代表的な学者 55 人が東京と京都で七つの部会に分けて討 議した。また 12 月 12 日に東西連合総会が開かれ、その結果として 1949 年 3 月に「戦争 と平和に関する日本の科学者の声明」を発表した。このいわゆる「平和問題討議」の参加 者は以下の通りである171。 【東京地方文科部会】 安倍能成(学習院長) 、天野貞祐(文博、学習院大教授) 、清水幾太郎(二十世紀研究所長) 、武 田清子(YWCA) 、淡野安太郎(一高教授) 、鶴見和子、中野好夫(東大文学部教授) 、南博(東京 商大教授)、宮城音弥(医博、東京工大講師、慶大講師) 、宮原誠一(東大文学部講師) 、和辻哲 郎(文博、東大文学部教授) 【東京地方法政部会】 磯田進(法務庁調査意見局事務官) 、鵜飼信成(東大社会科学研究所教授) 、川島武宜(東大法学 部教授) 、高木八尺(法博、東大法学部教授、学士院会員) 、田中耕太郎(法博、参議院議員、学 士院会員) 、丸山真男(東大法学部助教授) 、蝋山政道(前東大法学部教授) 【東京地方経済部会】 有沢広巳(東大経済学部教授) 、大内兵衛(経博、東大経済学部教授、学士院会員) 、高島善哉(東 京商大教授) 、都留重人(東京商大教授) 、矢内原忠雄(経博、東大経済学部長、社会科学研究所 長) 、笠信太郎(朝日新聞社論説委員) 、蝋山芳郎(共同通信社東亜部員) 、脇村義太郎(東大経 済学部教授) 【東京地方自然科学部会】 稲沼瑞穂(岩波書店『科学』編輯部) 、丘英通(理博、東京文理大教授) 、富山小太郎(東京文理 大講師) 、仁科芳雄(理博、科学研究所長、学士院会員) 、渡辺慧(理博、前東大理学部助教授) 【近畿地方文科部会】 久野収(京大経済学部講師、京都人文学園教授) 、桑原武夫(京大人文科学研究所教授) 、重松俊 明(京大人文科学研究所教授) 、新村猛(京都人文学園長)、田中美知太郎(京大文学部助教授)、 野田又夫(京大文学部助教授) 【近畿地方法政部会】 磯村哲(京大法学部助教授) 、岡本清一(同志社大法学部教授) 、末川博(法博、立命館大学長)、 田畑茂二郎(京大法学部教授) 、田畑忍(同志社大法学部教授) 、恒藤恭(法博、大阪商大学長)、 沼田稲次郎(夕刊京都新聞論説委員) 、前芝確三、森義宣(立命館大法学部教授) 【近畿地方経済部会】 青山秀夫(京大経済学部教授) 、島恭彦(京大経済学部教授) 、新庄博(神戸経済大教授)、豊崎 稔(京大経済学部教授) 、名和統一(大阪商大教授) 、福井孝治(大阪商大教授) その他 津田左右吉(文博、学士院会員)、鈴木大拙(文博、大谷大学教授) 、羽仁五郎(参議院議員). また、1949 年初頭に、まず京都平和問題懇談会が発足し、1949 年 3 月に上記の声明に署 名した 55 人によって、東西合わせて平和問題談話会が設立された。京都では恒藤恭と末川 博の二人が中心であり、東京では安倍能成と大内兵衛が中心であった。その後の会員には. 171. 平和問題討議参加者氏名『世界』1949 年 3 月号、5 頁。. 14.

(15) 署名した 55 人に限らず、後に入会した学者もいた。例えば、1950 年1月の「講和問題につ いての平和問題談話会声明」の時に、後の憲法問題研究会のメンバーである辻清明、松田 道雄、吉村正一郎、松井清も平談会の会員として署名した172。. II. II. 平談会の 平談会の位置付け 位置付け II- II-1. 「日本民主戦線」 日本民主戦線」から「 から「知識人の 知識人の連帯」 連帯」へ――吉野源三郎 ――吉野源三郎の 吉野源三郎の問題意識 平談会の位置づけについて、まず忘れてはならない人物の一人は平談会の発起人とも 言える『世界』の初代編集長の吉野源三郎173である。吉野源三郎は二つの世界大戦を経 験し、一人の哲学者として、また一人の人間として第二次世界大戦の前から既に戦争の原 因について常に考え、自己反省の意識が強かった知識人である。敗戦直後、彼は「悔恨」 の気持ちを抱えながら、戦争に至る原因について深く考えた。1954 年に彼が編集した『危 機はここまで来ている』の後書きには、以下のように書かれている(下線は筆者) 。 「この二度と繰り返してはならない悲惨な結末は、近くは満州事変前後からはじ まった日本の動向の、遠くは明治以来の日本の歴史の、必然的な帰結だった。こ の結末が繰り返されてならないとすれば、これを不可避なものとした前提条件も 繰り返されてはならない。私自身についていえば、日本のこの大きな過誤を喰い とめるために殆ど何事も為し得ず、暴力的に日本を引きずっていった勢力に対し て、わずかな抵抗をつづけていたに過ぎない過去が同時に思い出された、刺され るような痛みを覚えずにはいないし、それもまた『繰りかえされてはならない』 ことの中にひそかに含まれるものであるがそれはここでは述べることを控えよ う。問題は、日本にふたたび戦争への条件を成熟させないこと、ふたたび嘗ての 途を歩ませないことである」 。 「平和を守ろうといえば、正面きって反対する人間はない。しかし、こんどの戦争 は軍部の責任であり、東條一派が勝手に日本をこの破滅に引きずりこんでいったの だという素朴な解釈も、一方では広く浸透している。この解釈の上に立つ限り、彼 等が国際裁判によって処刑され、憲法以下多くの制度がこれだけ民主化された以上、 ――そして東條一派によって何らかの形で圧迫されたり、不遇の位置におかれた 人々が、いまや指導的な位置につくようになっている以上――今日の日本の軍国化 を恐れることは思い過ぎだとされるほかない、これ以上の変革の要求はもちろん、 これまでの戦後の改革すら、その観点からしばしば『行き過ぎ』とされる。だが根 底において問題は、第一次大戦後の処理がドイツ軍国主義者の粛清だけですまなか ったように、こんどもヒットラーやムッソリーニや東條の打倒だけではすまないし、 むしろ彼らをしてあれだけで権力を揮わせるに至った社会的経済的条件こそ核心的 な問題であり、それこそ徹底的な処理を要すること、断じて復活を許してはならな 「講和問題についての平和問題談話会声明」 『世界』1950 年 3 月号、60-64 頁。 吉野源三郎(よしの げんざぶろう 1899 年- 1981 年)1899 年に東京都に生まれ、1925 年に東京帝 国大学文学部哲学科を卒業して陸軍に入隊し、1927 年に東大図書館に就職した。1931 年に違法行為がな しに治安維持法事件で逮捕され、この事件が軍国主義への反省の一つの契機になるとも言われる。戦前 山本有三の「日本少国民文庫」編集主任、明治大学講師、明治大学教授に歴任し、1945 年に『世界』初 代編集長に就任し、1949 年に岩波書店取締役、翌年岩波書店常務取締役、1965 年岩波書店編集顧問に就 任した。戦後進歩的知識人として民主主義の立場から論陣を張り、安保闘争でも活躍した。 (本稿の注釈 における人物略歴は臼井勝美ほか編『日本近現代人名辞典』 (吉川弘文館、2001 年)などにより作成。 ). 172 173. 15.

(16) いことであるはずである」 。174. 、 「軍部が悪い」という単純な考え方がいけないと言い、 つまり、吉野は「東條が悪い」 さらに立憲制度や民主制度があれば絶対大丈夫だという考え方も危ないと指摘し、制度 そのものより日本の歴史の中に戦争に至る社会的経済的な一層深い原因を探すべきだと主 張した。しかも、戦前から既に国民の精神を重視した吉野にとっては、経済的原因より社 会的原因が一層注意されるべきであった。これは敗戦直後から彼の一貫した問題意識であ ると言える。 しかし、敗戦直後の日本では、進歩的勢力は分裂状態であり、一つの力としてまとまっ ていなかった。当時、日本のマルクス主義に対する信頼は、今からは想像できないほど高 かったにもかかわらず、マルクス主義者たちは他の政党と対立しながら、その内部も共 産党系の講座派や社会党系の労農派などさまざまな分派に分かれていた。吉野は、野坂 参三が帰国する前後における日本民主戦線の失敗の根本的原因について、「出獄してき た共産党の指導者たちが、労働組合においてやはり赤色労働戦線の立場をとっておりま した。それで『革命的反対派』をつくり出して、上の連中を打倒してしまうという戦術 がずっととられているわけです。表では手を握ろうといっているんですけれども、それ で社会党系の組合の幹部はその統一戦線の提案に対して大きな不信を持っている」175と 「ソ連の国連代表が抜けて、アメリカ 言った。その上、1948 年 2 月のチェコ政変の後、 に対して攻撃が激しくなります。それによって日本のマルクス主義者の態度も非常に戦 闘的になった」176。このような分裂状態や戦闘姿勢が続くと、進歩的勢力は当面の任務 を遂げる前に自己解体する恐れがあった。 したがって、吉野は進歩的勢力を集め、再び戦争に導く条件と戦うことが日本の最も 緊迫な任務だと考えながら、まず民主戦線を作るべきだと判断した。彼はかつて次のよ うに語った。「このままでいったんじゃ統一戦線もなにもないという状態で、私は比較 的そういう連中につき合いもあったものですから、ひどく心配になっておりましてね。 日本の戦線がひどく乱れていて、私は、個人的な気持ちでいえば、これではだめだ、な んとかもう一度結びつくようなものが必要なんじゃないかという気持ちでした」177。こ こで注意すべき点は、吉野自身は「左翼同情者」と言えるが、彼の立場は共産党や社会 党の立場と違うものであったということである。彼の関心は、左右の政治的勝負より戦 後日本と世界の前途にあった。 このような問題意識と責任感を持ち続けたからこそ、1948 年 GHQ(General Head Quarters)の CIE(Civil Information and Education Section、民間情報教育部)出版 課の関係者によって「たまたま」ユネスコの 8 人の学者の声明を手に入れた吉野は、す ぐこの声明の意義を認識した。彼はほどなく当時の代表的な学者の何人かと会い、日本 の学者の統一的な声を求めようと提案した。東京のいわゆる「岩波グループ」の支持を 求めながら、吉野はわざわざ京都まで恒藤恭と末川博に会いに行き、 「 『鉄のカーテン』 を広く厚くし、東西の裂け目をますます大きくすることは絶対にやるべきことじゃない ということ、もう一つは、日本のインテリゲンチャとして、孤立し、分散し、各個に蹴 散らされた戦争にいたる体験を経て、自己批判というか、新しく出発する覚悟をもたね 吉野源三郎「編者のことば」吉野源三郎編『危機はここまで来ている』厚文社、1954 年、270-271 頁。 未発表討論「『平和問題談話会』について」 、1968 年 6 月 16 日、出席者:久野収、丸山真男、吉野源 三郎、石田雄、坂本義和、日高六郎。司会:緑川亨。 「戦後平和論の源流――平和問題談話会を中心に」 『世界』1985 年 7 月臨時増刊(第 477 号) 、19-20 頁。 176 同上、21頁。 177 前掲、 「『平和問題談話会』について」21 頁。 174 175. 16.

(17) ばならないこと、そして東西両陣営の狭間のなかでどのような態度をとるかが大切なん だ」178と強調した。結局、彼の主張は広汎な共感を得て、基本方針として平談会の発足 を導いた。 しかし、実際に作られた平談会は、吉野の最初の発想と完全に一致するものではなか った。前記のように、平談会のメンバーはほとんど日本の代表的な学者によって作られ、 社会科学者が主体であり、自然科学者も含まれたが、政治家や党派関係者などは一切い なかった。しかし、当時吉野は、最初に民主戦線を作るように一層幅広い成員構成を考 え、政治家の中でインテリゲンチャと思われる野坂参三にも参加してほしいと考えた。 その実現のために、彼は野坂が通った慶應義塾時代の教員である小泉信三179に相談した。 吉野は小泉を訪ねる理由について次のように語った。 「 (野坂と)思想的に違っておって も、一つの問題について話し合いができない仲じゃないと思ったものですから、それで 小泉先生のところへ行ったわけです」180。しかし、結局小泉は野坂を招請することに反 対した。その理由は、「共産党だけではない、およそ公党の責任者が出てきたときに、 個人的な見解を腹蔵なく述べることは望みがたいことだ、けっきょく公党から発表され ている公式の見解以上のことは述べないようになっているから無意味だろう。それは避 「安倍能成・和辻哲郎という岩波グルー けたほうがいい」181と小泉は言った。さらに、 プと一緒にやるということに意味があるので」182、大内兵衛を含める平談会の首脳部も 野坂の参加を強く反対した。したがって、吉野は政治家を全員排除し、ユネスコと同じ ように学者だけで行おうと決意し、その考えを末川博と話した。末川もこの学者だけで のやり方に納得し、「やりましょう」と賛成した。結局、平談会は吉野の最初の発想と 少し離れ、 「日本民主戦線」ではなく「知識人の連帯」という形で発足した。 この位置づけの変動は、上記の具体的な情況の産物である以外に、吉野の主張に賛同 する学者たちさえも、必ずしも民主戦線を作ろうという意識を持っていなかったという ことを明らかにした。問題意識が吉野と十分に似ている丸山でも、平談会が発足した当 時に、「そこまでの吉野さんの底意は残念ながら読めなかったな。もっと素朴に参加し た」183と言った。というのも、当時知識人の多くは、冷戦を背景とした米ソ対立の世界 に対面し、彼らの一番の関心事はどのようにして第三次世界大戦を防ぐことにあった。 したがって、彼らは吉野のように左翼のよいところを見つけることで、日本の問題点を 解決しようという問題意識を必ずしも有していなかった。たとえ平談会の中心人物であ る安倍能成184でも、平和は一番の価値としても現実の選択としても擁護しなければなら ないと主張しながら、共産側の利益にならないのではないかという疑念を持ち、共産側 や大衆による平和運動への不信感を持っていた。この完全な中立主義は、当時の多くの 前掲、 「 『平和問題談話会』について」10 頁。久野収発言。 小泉信三(こいずみ しんぞう 1888 年-1966 年)東京市に生まれ。1910 年に慶應義塾大学部政治科 を卒業し、1916 年から慶應義塾大学教授となった。自由主義者の立場に立脚し、共産主義、マルクス経 済学に対し徹頭徹尾合理的な批判を加えていった。1933 年に慶應義塾塾長。1949 年に『共産主義批判の 常識』を発表した。戦後講和問題でもソ連とは与しない単独講和論を主張している。 180 前掲、 「 『平和問題談話会』について」16-17 頁。 181 同上。 182 丸山真男「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・六〇年安保:平和問題談話会から憲法問題研究会へ」 『丸 山真男集』第 15 巻(1988-1996)岩波書店、1996 年、324 頁。 183 前掲、 「『平和問題談話会』について」21 頁。 184 安倍能成(あべ よししげ 1883 年-1966 年)松山城下の小唐人町に生まれ。1909 年に東京帝国大学 文科大学哲学科卒。在学中、夏目漱石や波多野精一、高浜虚子の影響を受けた。慶應義塾大学、一高の 各講師、法政大学教授を歴任し、1926 年に京城帝国大学教授となり、朝鮮の文化を詳細に検討し、日本 人の朝鮮蔑視感情を諌めている。1940 年に一高の校長となり、名校長と謳われた。戦後、文部大臣、学 習院の院長となった。一方、平和運動にも参画し、昭和 26 年結成の「平和問題談話会」の発起人にもな っている。 178 179. 17.

(18) 学者の考え方であった。こういう考え方こそが吉野の提唱する民主戦線の必要性を証明 しているのだが、ゆえに、知識人は「日本民主戦線」を作ることができなかった。 したがって、平談会は「創立の会では現実政治とかかわった議論は全然ない」185形で 発足した。その後、緊迫な情勢によって、平談会の多くの会員は次第に現実の政治と離 れる純粋に学問的な論議がいけないと分かり、平談会を現実政治と戦う団体にするよう に努力したが、最初から吉野の持っていた問題意識が足りないことは平談会の弱みであ り、平談会の解散とも繋がった。 II- II-2. 東京と 東京と関西―― 関西――「 ――「知的自立」 知的自立」から見 から見る雰囲気の 雰囲気の相違 平談会は最初から東京と関西の二つの部署に分けられ、いずれも文科、法政、経済の 部会(東京の場合は自然科学部会がある)に分けられて分科部会の討議を行った。平談 会は一つの団体として地域・分野を越える共通認識がある一方で、東京と関西の間、さ らに部会の間には相違が見られた。しかし、この相違は必ずしも地域と分野の差異につ ながらず、ある程度上記の問題意識の分岐を反映できる。 東京と関西の相違点を言えば、まずメンバーの構成と影響力の違いである。東京の場 合は、安倍能成、田中耕太郎、天野貞祐らが文部大臣の経験者であり、さらに高木八尺、 大内兵衛、仁科芳雄らが東大教授や学士院会員として戦前から政府や大衆にかなり大き な影響力を持っていた。これに対して、関西は、「とくに社会科学部門は京大事件でも って壊滅的打撃を受けた。極端な言葉でいえば、骨のある人は久野(収)さんをはじめ としてほとんど野にある状況」であり、関西の部会の長老である恒藤恭と末川博は京大 事件で去った人物である186。つまり、関西は多くの学者が「野にある」ため、政府と大 衆に影響を与えることはもちろん、そのために必要な知識人の連帯の実現さえ難しかっ た。一方に、丸山の言うように、「東京はある程度、戦争中との継続性を持った学者が 多くいて、それがかなり組織化されていた。だから、東京の部会では、共産党が社共合 同を打ち出しているとか、社会党が反発しているとか、そういうアクチュアルな問題か ら良クな空気が強かった」187。つまり、関西は戦後に一から再出発をしなければならな いことが逆に党派闘争を超えることを可能にし、新しい連帯の方向に近づきやすかった のである。 その上に、東京と関西の違いはその雰囲気にある。それはまず「知的自立」というと ころに見える。既に述べたように、吉野を始めとする平談会の有志は、最初から政治関 係者を排除して学者だけでしようと決意した。「知的自立」の原則について、東京でも 関西でも異議は見られなかった。にもかかわらず、東京と関西の「知的自立」の判断標 準は微妙に違った。東京では、主にメンバーの戦争中の立場を強調し、左翼同情者であ るかどうかは別にかまわなかった。最も典型的な例は、戦争中に大東亜戦争を賛美し、 『ナチス国家大系』を出版することを企画した平野義太郎188が平談会に呼ばれなかった ことである。これに対して、関西では、「知の自立」のために当然入るべき左側の人も 抜け、「経済部会でも名和(統一)氏、島恭彦氏あたりがもっとも左であって、もっと. 丸山真男、前掲「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・六〇年安保:平和問題談話会から憲法問題研究会 へ」325 頁。 186 前掲、 「 『平和問題談話会』について」15 頁。丸山真男発言。 187 前掲、 「 『平和問題談話会』について」15-16 頁。 「良クな空気」という言葉が分かり難いが、原文は そうであった。 188 平野義太郎(ひらの よしたろう 1897 年- 1980 年)1921 年、東京帝国大学法学部卒。1923 年、東 京帝国大学法学部助教授。1930 年、共産党シンパ事件により辞職。戦争中の大東亜戦争賛美により戦後 は教職追放。しかし共産党の組織力を背景にして復権し、20 年間にわたって日本平和委員会会長を務め るなど、平和運動家となる。 185. 18.

(19) 左の人で各部会に当然入るべき人がいたんですが、それはやめるということ」189にした。 つまり、一見同じ「知的自立」であっても、東京は「知の良心的自立」、すなわち、 知識人は権力に屈従しないということを強調したが、関西は「知の価値的自立」、すな わち、価値中立のことを強調した。ここで注意すべきなのは、東京の方は戦中の立場を 強調する結果、左翼同情者が多いと言えるが、「赤色」の左翼陣営ではない。東京の場 合は、安倍能成、和辻哲郎、田中耕太郎、天野貞祐のような「戦争中も時局に追随しな かった人がアカデミーのなかにかなりいて、そういう人が『世界』の編集を支えていた」 。 彼らによって、『世界』と東京平談会は「雰囲気からいえば、オールド・リベラリスト 「人数が少ないというせいもありま の牙城」190であった。これに対して、関西の方は、 すが、和辻さんや安倍さんに該当するような保守リベラルがいなくて、リベラルと本当 の左派だけでしたから、東京より終始ラディカルでした」191と丸山は語った(下線は筆 者) 。すなわち、東京には国家と個人の二つのレベルの間にバランスをとるように努力 する「保守リベラル」が何人かいたものの、関西にはこのような人物が足りないので、 国家と個人をそれぞれ強調する観点が揃ってぶつかっていたのである。この背景として は、東京と関西のメンバーの構成と影響力の違いがあるものと推測される。けれども、 これは地域の差異ではなく、思想の差異である。「知の自立」に対する理解の差異は、 東京と関西で平談会の部会成員を決める主要人物の思想の違いと言えよう。その上で、 双方の雰囲気の差異は問題意識の差異でもある。この問題意識の差異は平談会の解散に も関わり、見逃すことができないほど重要である。 II- II-3. 自然科学者に 自然科学者に限らぬ問題点 らぬ問題点 平談会の各部会間の違いは、ある程度見受けられたが、大きな分岐とは言えない。一 番興味深いのは、自然科学者たちが社会科学者より逆に一層積極的に戦争責任への反省 を提唱したことである。例えば、「東京地方自然科学部会報告」の中には、ユネスコ声 明のK項の「むろん、科学者自身この世界への災厄招来の責任者であるわけではない」 という内容に対して異議を唱え、「人類に大なる災害をもたらしたこれまでの戦争に対 して、われわれは、自然科学者が少なくとも一半の、しかも重大な責任を有することを はっきり表明したい」と書いてある192。しかし、この姿勢は戦争中の自然科学者の状況 によるもので、必ずしも戦争責任をはっきり感じた結果ではない。つまり、「大学をと ってみても、組織的、大量的にコミットしていったのは圧倒的に自然科学者ですから、 そういう意味で自然科学者のあいだに、『われわれ』という形で戦争責任の問題を提起 しうる背景があったわけで、その場合に、個人個人がとか、日本知識人がという形では 必ずしもなかったと思うのです」193。 「自然科学者が半分の戦争責任を有する」と主張 した「東京地方自然科学部会報告」でも、戦争の技術面、制度面の原因を探すことにと どまり、知識人として自身の反省はしなかった。したがって、一見日本の自然科学者の 反省はユネスコの学者のそれより「深刻」であっても、むしろ自然科学者たちはユネス コ声明のK項の趣旨をきちんと理解せず、知識人として「心からの戦争」と戦う意識が ない為に一番重要な点を見逃したと言えるだろう。 しかし、この問題は自然科学者に限らず、平談会全体にも見える。既に述べたように、 前掲、 「 『平和問題談話会』について」18 頁。久野収発言。 前掲、 「 『平和問題談話会』について」15 頁。丸山真男発言。 191 丸山真男、前掲、 「サンフランシスコ講和・朝鮮戦争・六〇年安保:平和問題談話会から憲法問題研究会 へ」328 頁。 192 仁科芳雄、渡辺慧、丘英通、稲沼瑞穂、富山小太郎「東京地方自然科学部会報告」 『世界』 1949 年 3 月号、34 頁。 193 前掲、 「 『平和問題談話会』について」37 頁。丸山真男発言。 189 190. 19.

参照

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