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言 及小説

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(1)

第十一 章 室生犀星の自己

言 及小説

まさ に、 「 蜜の あは れ」 は読 むこ とを 通し て作 中人 物を 書か れた 言葉 その もの とし て意 識さ せて い

く小説であると言えよう。しかし、これまでの先行研究で最も顕著だったのは、金魚が女性に変身

例えば、様々な作中人物たち

の言 動が言葉を通し

て現前するさまを読むのが小説だとするなら、

その 言葉に よる 現前性が

確固 たるも のと して 特定で きずに 読者を混乱さ

せるこ とで

、かえ って 小説 にお ける言葉の

現前性のあり

ようを意

識させるのが

、室生 犀星の小説「

蜜のあはれ」

(『新潮

』昭和 三四・一~四)である。この小説は自らを

〈あたい〉と呼ぶ人

物と〈

あたい

〉から〈を

ぢさま〉と 呼ばれる人物の対話

が専ら全

編を通して

繰り広げら

れて いく。例えば、

冒頭近く

で歯が 痛む

〈あた

い〉が丸ビルのバトラー歯科医院での治療を終え、入歯をして帰った後の対話は以下のように記さ

れて いる

〈をぢ さま〉

は目の前にいる対象が

人間 の女性 であるか

のよ うに語り

かけて いくが

、一方 で、 そ

の対象が金魚そのものであることも同時に語っていく。この〈あたい〉が人間の女性なのか金魚な

のか読者は判断し難くなり、結果的に女性/金魚として一度個々に具現化したイメージを再び言葉

そのものに戻さざるをえなくなっていく。こうした特異な〈あたい〉の表象の仕方について、鳥居

邦朗は以下のよ

うに述べ

ている

。 どこ

まで が若い 女の姿 をした金魚

との会話

で、 どこからが

金魚その

ものの姿

をした金魚の会話 なの か、その境界

は全くとらえ

られな い。お そらく、それ

を読み取

ろう とす ることは

無駄な こ とな ので あろう。

そのよ うな具体的な

イメー ジを求め

て読む べき小説

ではな いの であ る。

金魚

でもあり若い女でもある曖昧模糊としたものに、ただ言葉を与え、その言葉とやりとりしてい

るだ けな ので あろ う。

はじ めに

――

「蜜 のあ はれ

」の 評価 軸と 問題 点

「金魚が化けられるものかい

。 」 (

傍 線

引 用

者 、

以 下

同 じ

「だ つて 晩には しくしくと

何時 まで も疼 いて

、どうにも

手がつけられな

いん ですも の、をぢ

さ まが そんなに冷淡なこと

仰有る と、化けて

出るわ よ。

「あ つて もなくて

もい いのに、

おしやれだね、きみは

、 」

「藻も少しい

れて よ、古いの

は棄 てちやつ

て、ごはごはした

生きのいいの

がいい わ。あ、わす れて ゐた

。ど う、 この 歯は 立派 でせ う。 」

――「蜜の

あ はれ」の

方法――

(2)

すること、全編が会話で構成された小説であること、そうした特長をもって「蜜のあはれ」が突出

した前衛小説あるいは超現実主義的作品であることといった特殊性を、ことさら強調して語ってき

たことだ

。例え ば篠田一

士は

「蜜のあ

はれ

」連載

中に「一匹の金魚が美しい女性に変身して、ひと

りの 老作家と生

活を共にするとい

う前提の下に、

この 小説は全編、金魚と彼女の話し

相手 である老 作家や女の亡霊と

の会話 でできあがっ

てい る」

と述べ てお り

その 傾向 は、 例え ば、 「 すべ てが 会 話で 成り立 って いる小説

。金 魚が 人間 と会 話をし

たり、金魚が人間の姿になったり、幽霊が登場し

たりと、超現実的な世界が描かれている」などと今日まで引き継がれている。このような枠組み

で「 蜜のあ はれ

」を語るこ

とが 枠組 み自体 を反復

・強 化し

、次 第に「

蜜のあは

れ」が 空虚 なも のと

なっていくという、書かれたものの現前性が逆にテクストを規定していくさまをうかがうことがで

きる のだ

「蜜のあはれ」が言葉をめぐる問題、特に書かれたもの自体の疑わしさを問うことを誘発するテ

クストで

あるなら

ば、

「蜜 のあは れ」 がいかな

る意味にお

いて 映画的な

のか を改め て問うことも

必要 とな って くるだろ

う。

例えば、

〈を ぢさま〉

は〈 あたい〉

に向 けて

「金魚とは寝る

ことが出来な

いし キスも出

来はし ない、

ただ

、き みの言 葉を僕がつくる

ことによ

つて きみを人

間なみに扱へる

だけだ

桐生は「

後記

」に記さ

れた「印

刷の 上の 映画」と

いう 言葉 をもとに「

蜜のあはれ」

自体を「

映画

その

もの

」と

して

「書

きあ

げた

」と

断定

して

いる

。し

かし

、 「蜜

のあ

はれ

」は

映画

を意

識し

たも

ので

はなく、言葉として書くことを強く意識させる小説なのだ。伊藤氏貴が端的に指摘しているように、

「蜜のあはれ」が会話体で踏襲されているのは「誰の視点からにせよ、地の文を用いてしまえば、

金魚の姿を客観的に捉えなくてはならなくなってしま」うからであり、「金魚少女は金魚であったり

少女であったりするのではな」く、「同時に金魚であり少女であるように描かれて」おり、〈あたい〉

は「 映像 化す るこ とが 全く 不可 能」 な存 在な ので ある

つま り、 〈 あた い〉 と発 話す る主 体が

〈金 魚/女性〉

とい う二 重の身体を

持つさまは

、言 語に おい て初め て表現しうるの

であり

、〈あ たい〉

は 書か れたも のと して 表象 可能な 存在 であ ると 言うことがで

きる。

こうした、書かれた言葉を

疑い もな く自明 なものとし

て受 けとめ てしまう傾向は「

蜜のあはれ」

の読みの可能性を狭めていくことになるだろう。

例えば、

桐生祐美子は「蜜のあはれ」刊行時に付

された「後記炎の金魚」中の記述に注目し、そこから「蜜のあはれ」を以下のように規定して

いく

。 そして

私は愛すべき映画「

蜜のあはれ」の監督をい

ま終えたばかり

なの である。漸

く印

刷の 上の映画

といふも

のに永年

惹きつけられて

ゐたが

、いま、それを

実際に 指揮を全

うし 観客 の拍手を遠く

耳に入れよう

とし てゐ るので ある。

この 小説はほぼ全篇が、会話文と

いう形態で

構成され

てい る。後記「

炎の金魚」の段階で

初めて作者が前線に現はれ、いわば、映画論評のような真似事を試みている。作者自身、その

なかで、

と述べており、作者が映画の手法で、いや映画そのものとして、この『蜜のあはれ』を書きあ

げたことが窺い知れる。

(3)

そこで 本稿は

、こ の二 つの意 味をメタフィ

クションと

して の「 蜜のあ はれ

」にお いて 見出し、

「蜜 のあ はれ」

はど のよう に自 らの テクス トを 省察し、ど

のような

テクスト

に対 して パロ ディ足り得

いるかを考察し、これまで指摘され続けてきた「蜜のあはれ」の特殊性を犀星文学全体の中で改め

て位置づけなおして

いきたい。

その過 程で

、「蜜の あはれ」

の「後記

炎の金魚」に記された「印刷

の上 の映画

」とは いかなる意味

か、

「蜜 のあは れ」

における

「真実味」

とは何かとい

うことも明らか にな って くるだろ

う。

と述べ、

〈あ たい

〉が 自身 の虚 構の産 物で あるこ とを 認識 して いる

。ま た、

〈あ たい

〉は かつて

〈を ぢさ ま〉に小説

を見 ても らって いた田 村ゆり 子とい う〈いうれい〉に向けて

、「ばれちやつた

わね

をぢさまが小説の中で化けて見せていらつしやるのよ、もとは、あたい、五百円しかない金魚なん

です。それををぢさまが色々考へて息を吹きこんで下すつているの」と述べ、〈あたい〉自身も作中

で〈

をぢ

さま

〉に

よっ

て創

作さ

れた

虚構

の存

在で

ある

こと

を認

めて

いる

。つ

まり

、 「蜜

のあ

はれ

」は

作中人 物が 虚構である

ことを 自ら語るという意味におい

てメタフィクション小説と言うことが

でき

そのことは、戸塚隆子が既に指摘した通りであるが、続けて戸塚が「後記「炎の金魚」という る。

額縁に補完

されて本体

であ る狭 義「蜜のあ

はれ」の物語の

真実味は増す

」または「メ

タ・フィクシ ョン全体の

真実味が

保証 され る」と 述べ てい ること には留 保が 必要だろ

う。 なぜ なら

、メタフィク

ションという虚構が虚構であることを意識させる小説において、物語の「真実味」を指摘すること

がどれほど意味を持ちえているのか疑問に思えてくるからだ。ここで、メタフィクションの定義を

確認し てお くこ とにす る。 メタフィク

ショ ンにおけ

る二つ の意味を

指摘 した青柳悦子は「一つは

フィクションについて考察するフィクション、より広く言えば文学についての自己省察を行う文学

作品の意味であり、もう一つはいわゆるパロディ文学の総称としてである」と述べ、続けて、「どち

らも文学を(部分的)対

象とする文学であ

り、創作と

いう かた ちで 行わ れる文学批評である」と

指 摘して いる

本論第二章

で指摘した通り

、犀星は

古く から映画

に強い関心を寄せ、自ら映画的手法をその創作

に応用してきた。実際、「

主題

から 書か ずに

情景

から 書く作家」

と称されていた。小説を書き始め

た大 正一〇年前

後には

、作 中人物の身体を断

片的に捉え、

〈見る

〉とい う行 為に特化し

た、 いわば 傍

観的語りを特徴としてきた。また、犀星は映画そのものに対しても数多くの言及を残しており、

特に犀星の映画に対する関心は映画女優へのまなざしに見出すことができる。例えば「活動写真雑

感(

芸術

化せ

んと

する

活動

写真

の新

趨向

) 」( 『

電気

と文

芸』

大正

一〇

・一

)に

は以

下の

よう

な記

述が

見ら 概して れる。

私は、

すべて の活動を通

じて

、女優が

絨毯の上にく

つしやりと潰

されたやうに

搖げ 出 され たり嘆愛した

りす るポーズは非常に好きで

ある。美し

い大きな馬、

その張りきつ

た四 股、 臀、さうい

ふところに、それが

下らない映画でもか

なり私を惹

きつけるもの

がある。わけて

も 海水 浴などの場面

には

、まざ

とそとゝは暗い館内に、いろ

な裸体が浮かぶ。私は活動

より 外に西洋人の

からだを見たことがな

い。

映画 的手 法か ら脱 映画 的手 法へ

(4)

これまでの犀星の手法である身体を断片的に捉える語りの延長線上に映画の「顔」による心理描 写を 見出 すこ とは

、犀星 にと って 容易であ

ったと言えよ

う。しかし、特定の人物が他者の表情を捉 え、 その人物の内

面を読み取ることには限界がある

。そ

れを

犀星

の小

説に

おけ

る映

画的

手法

の限

界と 指摘 して いた のは

、犀 星の 弟子 の一 人、 堀辰 雄で あっ た。

犀星の文

学活動は

映画 ある いは 映画 的手法ととも

に始 まっ たと 言っ ても 過言 では なく

、犀星は昭

和三年以降映画時評を諸雑誌で担当するようになっていく。例えば、映画と文学の心理描写につい

て言 及した時評で犀星は、

「映 画の場合

では 其心理描

写の 目的 が、心理過

程のみを追ふ

てゐ ない で、 事件と場面とのか

ゞりをする為

に成される手法」

であり、

「文 芸作品の如く最初から性

格と心理と

を 目的 とし て描 写す ること は、 映画的な

本道を過つも

ので あり、その効果

は退屈なも

のに なる」と

述 べた後で

、「映画は

その作中の

「顔

」を 以て 描写 を進行させ

るため

、さ うい ふ直の材料で

打つかつて

行くことは到底文芸の場合で為される描写と比較にならない。その「顔」のみの表現が既に心理的

な作用 であるために、殊更に性

格や心理を突き止める必要がな

いの であ る」と 指摘して

いる

こうした限界を指摘され始める前後に犀星が、女性の内面をその女性に寄り添って語り始める手

法を 用い 始め たこ とは 既に 論じ たこ とが ある が

、そ

れが

やが

て女

性に

限ら

ずさ

まざ

まな

作中

人物

たちに寄り添い、その内面を語っていく手法が昭和初年代・一〇年代を通して顕著に見られる傾向

となる。例えば、犀星の代表作とされる「あにいもうと」(『文芸春秋』昭和九・七)には、以下の

よう な記 述が 見ら れる

。 川師赤座の河

原で の活 気あ る姿を記した冒頭部分

には、

赤座の声が

地の文と密接に

結びつい

てい るさまがうか

がえ

、赤座の表情からその内面を読み取

ろう とする ことはできな

このような犀星文学における小説の手法の変遷を踏まえた上で、「蜜のあはれ」に戻ってみたい。

「お 嬢様は 金魚屋 さんみたい

ですね

、どな たが いらつしつて

も、金魚のことな

んか些 つと も見

てくださらないのに、ご親切にして頂いて済みません、皆、お嬢様の方を見上げてゐますわ、

あな たの方法がさう

いふレ アリ ズムと して 欠陥を持つて

ゐるのは

、一つ はあな たの方 法が 映画 の方 法からあまり

に多くのも

のを借り

てゐる からで はな いかと思います

。(中略

)あ なたの小

説 の全 体のテンポ、

一場面から他

の場面へ転回

の仕方、俳優

の顔を大

写し にす るやうな

とこ ろど ころ の心理描

写、 等の中に映画的な

よさを認

めました。し

かしカメラは

いかに努力しても

、現 実の 陰影をしか捕

へることが

出来な いも ので す。

投げ 込む 石は ちか ら一杯にやれ

、石より

も石を畳

むこちら

の気合 だと思 へ、ヘタ張るなら

いま から 褌衣を干し

てかへれ、赤座は

こん な調子を舟の上からどなり

ちらして

ゐた。

てめ えの褌は

乾いてゐるではねえか、そんな褌の乾いてゐる渡世をした覚えはないおれだから、そんな奴は

おれ の手 では使へな

い、赤座は

そんなふうで

人夫 たち の怠 気を 見せる奴をどん

どん解雇した。

(5)

右の一節は〈を

ぢさま〉と

〈あ たい〉が

銀座のバ

ーに来 た際に、店内

の水槽の中の

金魚が弱っ

いることに気づいた〈あたい〉が店員に水を交換して塩を入れるようにと助言をする場面である。

「人間にあたいの化けの皮がわかるもんですか」と言う〈あたい〉の姿は店員にはその通り人間の

女性 とし て捉 えら れて いる

。水 槽の 中の 金魚 はも ちろ ん、 〈 あた い〉 の「 顔」 は記 され ては いな い。

それだけでなく、〈あたい〉は姿そのものを記されてはいないのだ。そのことについて大西永昭は以

下のよ うに指摘して

いる。

「蜜のあはれ」

の〈 あたい〉

は身 体のイメージを一つに特定できな

いと いう意味において非映像

的、

いわば言語的存在であり、それは犀星文学における小説の方法論が傍観的な語りから出発し、次第

に内面を表出していく過程を経て、言い換えれば

、映 画的 手法から脱映画的手法へと

至る文学的営 みを 経て 生成され

た表象だと言うことができ

るのだ。

まさ に、

〈あ たい〉

の身体が

記述されな

いと いうこ とにお いて

、非 映像 的な 表象と して の〈あ たい〉

を現出せしめているのである。そのことは、言葉と映画のイメージの差異について映画評論家飯島

正が 以下のよ

うに 指摘し てい ることと通底し

てい る。

こと ばのイ メエジとい

ふものは

、その ことばを耳にした

ひとが、い

ろい ろな風に解釈し、

いろ いろ な風 に想 像す るこ との でき るも ので す。 「 犬」 なら

「犬

」と いふ こと ばが ひき おこ すイ メエ

ジは、だれでも大体おなじです。またおなじでなければ、ことばとしての機能をはたすことが

できな い。しかし

、おのおののひ

とが頭のな

かにゑがくイメエジ

は、全 然同じかといふと

さう

はいへない。(中略)映画においては、そのイメエジが、うごかすべからざる一つの写真である

といふことです。つまり、それは、見るひとが、決して見まちがへることのない、見るひとに

よつ てちがふといふや

うなこと

のな い、決定的

なイメ エジ なん です

。そ こに ある もの 以外 のも

のが考へられないイメエジ、ある実在のものをうつした写真であります。

「え え、あたい

が好きだ

から、

金魚の方

でも わか るらしいのね

、をぢ さま、金魚がをぢ

さま の こと をあな たの誰だと訊ねて

ゐるわ よ、

だからあたい、

この人 はあたいのいい人

だと 言つて や

つたわ、(後略)」

この

「蜜のあはれ

」の テクスト

上で は、 身体 は書 き手 の意 識から 排除さ れて しま って いる

。そ して

、身 体が 排除 され るこ とで

、金 魚と して の身体、少女とし

ての 身体 のどちらか一方のみ

に 束縛 されることが

なくなり、金

魚で あり同時

に少女 であると

いう「非・リ

アリ ズム」

的な 設定

も可能となっているのである。

室生 犀星 の小 説言 語

言葉 が解 るやうな

顔をし てゐる んですも

の。

(6)

端的 に言 えば それは

「蜜の あはれ

」の「

テクス ト内 世界全体が

、作中 人物で ある 老小説 家の「

く」行為によって成立してることを意味している」ということだ。しかし、「蜜のあはれ」とい

う物 語を統 括す る立場に

ある はずの〈をぢ

さま〉は

その創作行為において

、自身のあ

ずかり知らぬ 事態に直面し

てい く。

例えば、

〈を ぢさ ま〉

の講演会の会場で

、十五年前に亡くなった田村ゆり子と いう女性に

遭遇 した こと を〈あたい〉が〈を

ぢさま

〉に伝える場面は、以下のよ

うに 書き 記され て いる

。 「蜜のあはれ」は作中人物が虚構の存在であることを自認する、言語によってのみ表象可能な存

在が 書き記され

た小説 であることは、既に

指摘し た通り である。また、

それは「蜜のあはれ」が

書 くこ と、 あ るい は書 くと いう 行為 を強 く意 識し た小 説で ある とい うこ とを も意 味し てい る。 例 えば

今野哲は「蜜のあはれ」を構成している会話自体がある特定の主体によって加工されていることを

以下 のように

指摘 して いる。

十五年の時を隔てて、本来なら決して出会うことのない二人が邂逅したことに〈をぢさま〉は驚

愕す る。実 際に は〈をぢ

さま

〉の書く

という 行為 のもと でそれは成立して

いる。しかし、

こうした

〈をぢさま〉の意志を超え、虚構世界が齟齬を来して行くさまが作中で散見されるようになり、し

かも それ は〈 をぢ さま

〉と

〈あ たい

〉の 間で 顕著 にな って いく のだ

「きみ を何とか小説にか

いて 見たいんだが

、挙句の果にはオトギバナ

シになつて

了ひ さうだ

、 これ はきみと

いふ 材料が いけな かつたのだね

、書いて も何 にもならな

いことを

書い て来 たのが

、 まちが ひの元 なの だ、を ぢさ んの年 になつても未

だこんな大き

い間 ちが ひを 起す んだからね、

「だつてをぢさまは何故そんなお顔をなさるの、また、額から汗がにじんで来たわ、ひよつと

するとあぶらかも知れないわ。」

「そ んな 人が 物を いふ 筈が ない

、だ が、 その 時計 の話 はほ んと のこ とな んだ

、明 け方 に心 臓マ ヒで 倒れて から、五時間誰も

その部屋には

いつた人間が

ゐな いんだ

、掃 除夫が 鍵のか かつて ゐ ないドアから何気なくすかし

て見ると、

田村ゆり

子は 仰向 けに なつ て畳 の上 で死 んで ゐた

、そ の時 にまだ時計は

うごい てゐた のさ。

「をぢさんの驚いたのは、その女ときみが話をした

とい ふことに、驚い

てゐ るん だ、きみは

そ の女 をまる で知らな

いくせに、

いま言 ふこと がみんな本当

のこ となのだ

、その実際のこと

にや られて ゐるのだ。

作品 世界はある年

の夏から冬に

かけて の出来 事と 見做 せる が、 この 期間 に金 魚と 上山 その 他と の間で 交わ され た会話が

作中に 叙述 され た分 量の みに止ま

るとは考えにくい。金魚のなかな

か のお喋り振りから

して も、その間には膨大

な会話 が交 わされ ていた筈

である。つまり

、作 品本 文は 数ヶ月間に渉

る会話の総体

から切り取ら

れて いるの であり、従っ

て、そ こに は会 話を 選択 的に 取捨し ている 何らかの機能を想定するこ

とができるのである。

(7)

〈をぢさま〉が〈あたい〉に対して行っていたのと同様に、〈あたい〉も現実には存在しないはず

の人物を目の前に作り出すことが可能であることを〈をぢさま〉自ら語っている。それは〈をぢさ

ま〉の創作行為に〈あたい〉が参入していることを物語っているのであり、しかも〈をぢさま〉は

「僕ときみとが半分づつ作り合はせて見ていた」と述べるように、この時点で〈をぢさま〉と〈あ

たい〉は対等な立場に立つことになる。かつて〈あたい〉は「書く人と書かれる人のちがひは大変

なち がひ だから」

「あ たいのこと

なぞ 書い ちや いや よ」 と〈をぢ

さま〉

に語 って おり

、明 確に 書き 手

とその創作物、言い換えれば〈をぢさま〉と〈あたい〉自身の関係を差異化して認識していた。し

かし

、〈あ たい〉

は自ら

〈を ぢさま〉

の虚構世界を統括しようとするかの

ように

、結 末に向けて

会話

に饒舌さを増していく。前掲の引用の後、〈あたい〉は〈をぢさま〉の家の外にいる〈をばさま〉(田

村ゆ り子)

から呼ばれ

て〈 をぢ さま〉

のもと を離れる際に

、〈あたい〉

は最後に

〈をぢ さま〉

に向け て「 威張つ たつて 碌な 小説一つ書

けな いく せに」と

いう批判の言葉を投げつける。その後、作

中に

〈をぢさま〉

の言葉が見られな

くなるだけ

でなく、

〈を ぢさま〉

の姿自体こ

の場面を最後に物語

から 消え てい く。 更に 言えば

、結末の〈あ

たい〉と

〈を ばさま

〉の会話からも

〈をばさま

〉の言葉が消

え、〈あたい〉の言葉だけが残されていくのだ。

ここには、

〈を ぢさま

〉が 想定以上に〈あ

たい〉

を書き過ぎてしまい、〈をぢさま〉の創作物であ

る〈 あた い〉

が〈 をぢ さま〉

の意 志を 離れて 主体的な立場

に立とうとす

るようなさま

がう かがえる

。 そして それは、

〈をぢ さま〉の

家を訪ねて

きた田村ゆり子

にどう しても 会おうとしな

い〈をぢ

さま

と、会わせようとする〈あたい〉との会話部分において一層明確になってくる。 うかうかと小説といふものも書けないわけだ(中略)」

「は たき 尽し てあ るだけ 書い てお しまひ にな つた から、あ

たいを口説

いたんぢ

やな いこ と、誰 もほ かの女に持つて

ゆくには、あまりにお年がとり

すぎて ゐるから、け

んそんし

てあ たいを 口 説いて 見た わけな のよ、そしたら金魚の癖に神通自在

で、 ひよ つとしたら人

間よりかなほ

知る

事は知つてゐると来たでせう。で、書くことの狙ひが外れちやつた訳でせう。」

「俟 つて ゐて 頂戴

、意 地悪ね

、きふ にそんな

早足になつち

やつて

、ほら

、見 なさい

、危 いわ よ、

水溜 りにはまつ

ちやつた

ぢやな いか、

ちよつと立ち停つ

てよ、一と走りお家に行つ

て、懐 中電

燈持つて来ますから。」

「あ の時は僕とき

みとが半分づ

つ作り合は

せて 見て いたのだ

、だ から、すぐ行方不明

にな つて 了つ た。人間は頭

の中で 作り出 した女と連れ立つ

てい る場 合さへある。死んだ女と寝

たと いふ 人間 さへ いる んだ

。 」

「ぢ や、何時かの

街の袋小路の

行停まり

で見 たときも

、あ たいのせゐだ

と、 仰有るの

。」

「よ くそ こに 気が つい たね

、あ れは本物

の女で はな いんだ

、きみが

金魚 屋に 行く 途中で 田村 ゆ り子 のことを、考

へながら歩いて

、遂々、本

物に作り上げて

しまつ たのだ

。」

「ぢや本物の人間でないと言ひたいんでせう、だから、会ふ必要はないといふのね。」

(8)

大西は「蜜のあは

れ」も「後記

炎の金魚」

も共に〈をぢ

さま〉に

よって 書き 記され たも ので あ

るという読み方を進め、「後記

炎の 金魚」につい

て、「

金魚の死という小説におけ

る主要登場人物

の死を描くことで、この「話」らしい話のない小説にストーリー上の結末を与えている」と指摘し

ている。しかし、この「後記

炎の金 魚」 には 書か れたも のを次々と否

定し てい く記 述がな されて おり

、大西の指摘する「ストーリー上の結末

」も「嘘」

である ことが記され

てい るのだ。

このように、「蜜のあはれ」は〈をぢさま〉の創作物である〈あたい〉が次第に〈おぢさま〉と同

様の 創作力を身に

つけ

、〈をぢ さま〉

の支配か

ら逃れ、

その 虚構世界にお

いて 主体的な

立場に立

つよ

うになり、〈をぢさま〉が〈あたい〉を統御できなく

なる物語とい

うこ とが できる。さらに言

えば、

「蜜のあは

れ」 は作中 の書 き手 が作 中の 創作 物を 統御 でき なくな るだけ でな く、 作中 からも その声

や姿が消え、自らの創作物〈あたい〉によって排除されていく物語ということもできる。まさにそ

れは、

「「文学は

現実 を模倣す

る」という古典主義的前

提に則るフィクションの諸条件を根柢から問 い直 し、

最終的にはわ

たした ちのくらす

現実 自体の虚構性を暴き立て

る」

というメタフィクショ

ンの手段を「蜜のあはれ」は選択しているということに他ならない。では、「蜜のあはれ」が「暴き

立て る」

「現 実自体 の虚構性」

とは何 か。 おそらく

それは

、虚 構が 虚構 であ ることを過剰なまで

に書 き記 して いく「

蜜のあは

れ」

の外部に位置づけられ

た「後 記 炎の金魚

」の記述を

虚構と して 読み

取ることで一層明確になってくるだろう。

「蜜のあはれ」とその後に記された「後記

炎の 金魚」

の関係を

書き 手の立場からこ

れまで の先 行研 究につい

て整 理した大西永昭は、以下の

ような 新た な読みを提示して

いる。

従来の

「蜜のあはれ

」論 では、

この 後記を作者室生犀

星によっ

て書 かれた ものと して

、「蜜のあ はれ

」を読む

上で のサ ブ・テク

スト的に

扱って きた。仮にこ

の後 記を そう したも のと して 認め るな らば、①作中

の老小説家上

山を作者犀星

に近 似した存

在と して 認め

、小説、後

記とも に犀 星の 書記行 為の下にあるとみるか、

②「 蜜のあは

れ」を書いたのを老小説家、後記「炎の金魚」

を書いたのを犀星とし、後記を小説「蜜のあはれ」の外部に存在するテクストと位置づけるか、

のどちらかの態度を選択する必要に迫られる。/(中略)代わりに提唱されなければならない

のは

、後 記を も含 めた 全体 を作中の老小説家によ

る書記行為によ

る一つのフ

ィクション

とみな し、

そこ にテクストのメタ構造を看守

する読 みで ある。

反転 する 虚構 と現 実

「…

………」

「を ばさま、

田村 のをばさま。

暖か くなつたら、

また、

きつと、

いらつ しやい。

春になつ

ても、

あたいは死なないでゐるから、五時になつたら現はれていらつしやい、きつと、いらつしやい。」

「…

………」

「俟 つて と言 つて るぢ やな いの

、聴 えな いの か知 ら、 振り 向き もし ない で行 つち やつ た。 」

(9)

「後記

炎の金魚」の

書き 手は

「蜜のあはれ」におい

て「 一尾のさかなが水平線に

落下し ながら

も燃え、燃えながら死を遂げること」を結末部分で示したかった。しかし、実際にはそのような結

末は「蜜のあは

れ」

で記されて

いな い。な ぜなら、こ

の書き手は「蜜のあはれ」にお

いて 創作主体 として の立場を奪われ

てし まっ たからだ。

つまり、

「蜜のあ

はれ」

とい う虚 構世界で

自ら創作した

〈あ たい〉

によっ てそ の世 界から排除され

てしま った

〈を ぢさま〉

が、「後記

炎の金魚

」で 再び 書き 手

として登場しているということなのだ。

既に述べ

たよ うに

、「蜜のあは

れ」

の結末は

〈あ たい〉

の〈をばさま

〉に向けた呼び

かけで 閉じら れて いる。

「燃えな

がら一きれの

彩雲に 似たも のが

、燃え切

つて 光芒だけ

にな り、 水平 線の彼方

にゆ つく りと 沈下して

往く」

さま は〈あ たい

〉の

「死な ない でゐるから」と

いう生き

よう とす る意 志と

は対照的なものとなっている。書き手自らこの一節を「かういふ嘘」と書き記し、さらにそれを自

嘲的 に「

囈言」と

呼ん でい る。

同様の記述は

次の引用箇所にも

見られる

また、〈をぢさま〉は「後記

炎の金魚」

を書き 記し てい く過 程そ のも のをもこ

の「 後記 炎の金

魚」に書き記していく。

ここで注目したいのはアルベール

・ラ モリ ス監督

・脚 本の映画

「赤い風船」

(一九五

六)

を「

炎の

金魚

」執

筆中

に想

起し

てい

ると

いう

こと

だ。

つま

り、 「

蜜の

あは

れ」

執筆

中に

は忘

却し

てい

この解説のやうなものを書き終へた晩、何年か前に見た映画「赤い風船」を思ひ出して、そ

れを 書き 込む ことを忘れ

ない やうに心覚えをし

てその晩は寝たが、翌朝になつてすつかり忘れ

てしまひ、まる二日間思ひ出せなかつた。(中略)だが、私はつひに「赤い風船」を今日思ひ当

てて

、いつぞや、

かう いふ 物が 書きたい願

ひを持つ

てゐたが

、お前 が知 らずに書いた「

蜜のあ はれ

」は偶然にお

前の赤い風

船で はな かつた か、

まる で意 図するところ

些かもな

いのに、お

前 はお 前ら しい赤い風船

を廻し て歩い てゐ たで はないか、お

前だ つて 作家の端くれなら

、或る日 或る時に

ひよ んな 事から感奮して

見た映画の手

ほどきが、別の形

でこんな物語を書かせ

てゐた

ではないか、(後略)

先に も述べた

やう に、一尾のさか

なが水平線に落下し

なが らも燃え、燃えながら死を

遂げ る こと を詳しく

書いて 見たかつた

。つまり主要

の生きも

のの死を

書き たか つたのだが

、そんな

些 事を 描い ても 私だ けが よい気に

なる だけで

、誰も 面白くも

可笑しくもな

からうと思つて

止めた。

「蜜 のあはれ」

の終り に、

燃えな がら一きれの

彩雲に 似たも のが

、燃え切 つて 光芒だけ

にな り、 水平 線の彼方にゆ

つくりと

沈下 して 往くのを

私は折々なが

めた。かう

いふ嘘自体が沢

山の 言葉 を私に生みつけ、つ

ひに崩 れて 消えるはれ

がましさを、

払い 退けられずにゐたの

である。七歳 の少女が七歳

であ るための余儀な

い遊び ならともかく、私はすでに老廃、その廃園にある

青み どろ の水 の中に

、ま た盛りあが

る囈言に耳を

かたむ けて ゐたので

ある。

(10)

おそらく

現実の作者室生犀

星にとっては

事実 だっ たよ うな記述

すらも

、さまざまな

虚偽の記述

に挿入されることで虚構として見えてくるようになる。「後記

炎の金魚

」が

「蜜 のあ はれ

」と 接続

することによって、「後記

炎の 金魚」

に記さ れたさまざま

な事 実が 虚構で あることが

明かされて

く。「蜜のあはれ」から閉め出された書き手である〈をぢさま〉が「後記

炎の金魚」

で行っ てい る のは、書記行

為を 真実から虚偽へ

と反 転さ せて いくこと

で自 らの存在

を再び示し、書かれた

ものの

自明性を問うているのである。したがって、本章冒頭で指摘した「印刷の上の映画」の件もまた、

字義通りに

捉え るの ではなく

、印刷さ

れたもの、つまり文字表現とし

ての「蜜のあは

れ」が映画と

は最も対極に位置するものであることを指し示していると考えるべきであろう。このように、メタ

フィ クシ ョン にお ける

「真 実味

」な るも のは

、書 かれ たも のの 自明 性を 問う 際に のみ

「保 証」 され るべきもの

なの であると言えよう。

た「 赤い 風船」

を事後的に結びつけて

いるのである。

〈をぢ さま〉

は「 蜜のあはれ」

を「 或る一少女 を作 り上 げた 上に

、 この 狡い 作者 はい ろい ろな 人間 をと らへ て来 て面 接さ せた とい ふ幼 穉な 小細 工」

以外の何ものでもないことを「後記

炎の金魚」冒頭近くで既に明らかにし

てい た。だが、

このよ うに 併記されるこ

とによっ

て「 蜜のあはれ」

と「 赤い 風船」

に関連性

があるかのよ

うな 錯覚に陥り

、 逆に

〈あ たい

〉と いう「

一少 女」を 創作 した ことで

、結果 的にその物語

世界にお

いて 主体的立場が

転倒したことを隠蔽していくのである。

それ だけで なく

、「後 記

炎の金魚」におけるさまざまな虚偽の記述は書かれたものそれ自体が自

明なもの

であ ることを否

応な く疑う よう読 み手を導

いて いく。例えば、

以下の引用は

、飼っ ていた 金魚が 弱りかけ、

魚屋を呼ん

で診 てもらった

際の一節

であ る。

これまで見てきたような書かれたものの自明性を問う、いわば小説であることをめぐる自己言及

性は「蜜のあは

れ」と「後記

炎の金 魚」 の間で 完結 しう るも ので はな い。例えば、

巽孝之はメ

タ フィ クションの具

体例と して 以下のような方

法を挙げて

いる。

こんなの死んだら、また代りにどんな良いのでもゐるから、お飼ひになるなら電話を下されば

直ぐ持つて参りますと彼はいひ、さかなも、こんな裏返しになつて浮いて来たら、いくらわた

くし でも 手の附け

やうも ござ いま せん、こ

いつは三年

子で よく生き

た方です

、素人さ

んが お飼 ひになつたとし

ても

、こ れ以上は持

ちこ たへることが

容易で はな いの です

。病気の直

接の 原因 はいはば睡眠不足と

いふやつ

で、夜にお廊下

にお入れにな

つた事は

いいとしまし

ても

、障 子越 しの蛍光燈

が夜お そくま で水の中に差し

こんで

、さか なは 何時もうつらうつらとしか眠

れな か つたの が、 死因 といへば死因

なん でせ うね、

(後略)

たと えば

、ひ とつ の小 説内部にもうひ

とつの小説を物語るもうひ

とりの小説家が

登場するこ と。

たとえば、小

説内部 で文学 史上の先行作

品からの引用が

織り成され

、批判的再創造が

行わ

おわ りに

―― 先行 テク スト から の引 用と 模倣

(11)

この

「あ たい」は「貰

い子」とし

て五歳年下のき

くえと ともに養母ハナの指示のも

とで

、夜毎街

の盛り場を歩き回り日銭を稼いでいたはつえである。この時はつえは花山家の屋敷に女中として奉

公しており、過去に夜の酒場を渡り歩いていた生活を若主人花山武彦に悟られてしまったと危惧し

てい るさまが記さ

れて いる。

しかも、

「女の図

」は 冒頭近く

におい て、 はつえときくえが夜の酒場で 日銭を稼い

でい くさまが以下のよ

うに記 されて いる。

「蜜のあはれ」の〈あたい〉は、犀星文学全体の中で見れば、過去に書かれたある小説の登場人

物と 重な って いる

。以 下の 引用 は自 ら「 もう だい ぶ前 に亡 くな って いる 女」 と言 い、 〈 あた い〉 が「 京 都の 病院で 手術して

死んだ 方」

と呼ぶ田村ゆ

り子とは異な

る〈 いう れい

〉と の対場場

面で ある。

傍線部の

〈あた い〉 の発話は

犀星が昭和一

一年に完成し

た長篇小説

「女の図

の以下の一節を

「引 用」 して いる こと が指 摘で きよ う。

あの時の酔つぱらひ屋さん!

一遍かつき

りしか逢はな

かつた変挺

なと ても忘れること

の出 来な い酔つぱら

ひ屋さん!

あの人だ、あの人そつくりだ、あの人が此処の屋敷の若主人だ、

あの人だ、あのぐでんぐでんも酔つぱらひの正体のない蒟蒻屋さんがここの主人だ、ああ、あ

たいは遂々見付かつ

て了つた。

あたいはすつかり身元を洗はれて了つた。あたいの化の皮が

・ がれて 了つた。

あたい はどうな

る。

あたい は化 け損 ねて 了つた

。……

「ま あ失礼ね、

でも、驚い

ちや つた、

今まであたいの化けの皮をはいだ人は一人しかゐなかつ

たの に、あんたは

一見、すぐ

い ・ でお しま ひに なつ たわ ね、どうい

ふところでお判りにな

りま

す、……」

夕暮れの一瞬はこ

の都会の形相を美しい険悪なものに突き

落し、

町の果 に汚れた泥の

付いた 二疋の金魚

が泳い でゐ

た。鉛と混凝土の道路は幾何学的にくねり紆曲つて花火のやうに装飾電

燈をともす

家々を

、ぎつしりと

二側にならべて

道路自身が

生きて 何か芸当をし

てゐる やう なも ので あつ た。 二疋 の金魚はどんで

ん廻りのド

アの間からち

よろち よろ 泳ぎ込み、そして

又ド ア の間 から 泳ぎ 出る と待ち 構へた 道路は それを 次から次

へと 皿廻 しのやう

に、 騒々 しい 店内 の内 部に おくり込む

ので あつた

「あな ただつ て、 それ、そんな

に、巧くお上

手に化けて

いらつしやる。

「をぢ さまはどう

して いうれいのお友達が、こ

んなに沢山おありなん

でせ うか、も一

人の いう れいは講演会にまで

いらつしつ

たん ですが

、ま るで 本物 そつくりに作ら

れて ゐました

。(後略

)」

れること。た

とえ ば、小説内の

人物 が実 在の 人物 と時空を超え

て対話し

たり、作者自身や読

者 自身と対決したりする

こと。たとえば、小説を書い

ている 作者自身

がもう ひとりの登場人物と して 介入し、大冒険をくり

ひろ げたり 殺害の憂

き目にあったり

すこと。

(12)

まぎれも

はつえと

いう

「あたい」

は〈あたい〉

の前身 であり、

下層社会で

の生 活から抜け出

し、

〈をぢさま

〉 とい うパト ロン のもとで

庇護されるようになると

いう筋道を「女の図」と「

蜜のあは

れ」との間に

見出すことができるのだ。そのことは、「女の図」自体が完結を拒み、結末を遅延させていく構成を

とっていたことと関わっている。つまり、犀星文学における小説の特徴として、既に後の小説と

容易に接続させる下地が築かれていたのである。

だが

、「蜜のあはれ」

は、

単に過 去の小説を

「引 用」

して いるだけではな

い。 例えば、

戸塚隆子は

「蜜のあはれ」冒頭で〈をぢさま〉に金銭や商品をねだっていた〈あたい〉が、結末近くで自分の

子供を売らずに大切に育てていくようになることに注

目し

、「金銭に置換できな

い何かが少女の中

生まれている」と指摘している。このことは、「女の図」が発表された昭和一〇年前後に特に顕

著だ った

、金 銭に 執着 する 女性 たち の姿 が、 「 蜜の あは れ」 では 結末 近く にお いて

、完 全に 反転 して いる とい うこ とを 物語 って いる と言 えよ う

「蜜のあはれ」はこれまで「老人の性」

や「 エロ チシズム」

といった側面から捉えられがち

であった。しかし、これまで見てきたように、かつて犀星が文学的出発時期から関心を寄せ、小説

の方法として取り入れてきた映画的手法を見事に捨て去り、新たに心理的方法を獲得してきたよう

に、

「蜜 のあ はれ」

は先行 する犀星文学のモチーフや手

法を 模倣、

パロディ化

する ことで成立して

い る、 犀星文 学の方法意識が最も

明確な小説

である。

そし て、 言葉で しか 表現 できな い〈あた

い〉、

映 像化しえな

い〈あたい〉

を書きえた

とい うことは、

奇しくも堀辰雄

が犀 星の映画的手法を批判した 際に

、「我 々は

、小説か

らあらゆ

る外面的なも

の(

例へば筋とか動作とか風景など)を除去するため

に出来るだけ映画を役立たせなければなりません。その時、又そこに最も純粋な小説が生れるに、

違ひ あり ませ ん」

と述 べたよ うに、

犀星文学における

〈純粋小

説〉

の一つの試み

であ るとも 言え よう 本 。 論第十章で

述べ たよ うに、いわゆる〈市井鬼

もの〉

が隆 盛を極めた昭和一〇年前

後に、自伝小 説『 弄獅 子』 で試 みら れた

〈純 粋小 説〉 の不 可能 性は

、純 粋な 自伝 小説 など 書き えな いと いう こと

であり、虚構を虚構として書き記すことによってのみ純粋な自己を語ることができるという認識で

あっ た。

だが、

「蜜のあはれ」

では、

虚構を書

き続け

てきた自身が、自ら作り出した虚構に支配され、

書くことが阻まれて

いくさまを

見る ことが できる。

ここに

、自己言及性を見

るな らば、

「蜜の あはれ」

なく 自伝小説

として 機能して

いると 言え るだろ う。こ れまで 書き続けて

きた 自伝小説群

が常に未完であったことを、「碌な小説一つ書けない」と批判しているのが、いわゆる〈市井鬼もの〉

の代表的な少女を想起させる〈あたい〉である。その〈あたい〉によって、現在という一つの視点

から 過去を振り返

る自 伝小説の

方法を省

察さ せられて

いく

。「蜜のあはれ

」は

、犀星 の小 説にお ける

書かれたものの自明性を自らの過去の文学的営みにおいて自己言及的に問うているのである。その

よう な意 味に おい て、 「 蜜の あは れ」 は犀 星文 学の 一つ の到 達点 と言 うこ とが でき るの だ。

[ 注 ]

鳥居 邦朗「

『蜜のあはれ』

〈室生犀星〉

」(『 解釈 と鑑賞』平元・四)

篠田一士「まばゆい感覚の世界

小説の定法を破った

「蜜のあはれ

」 文芸時評

中」(『東京新

(13)

聞夕 刊』昭和三四

・三・二七)

児玉朝子

「蜜のあ

はれ」

(浅井清

・佐藤勝編

『日本現代小説

大事典

増補縮刷版』

、平 成二一

・四、

明治書院)

「後記

炎の 金魚

」は

「蜜 のあ はれ」

連載終 了後 の昭和三

四年五月号の

『新 潮』

に「 小説の聖地

として発表された。

桐生祐三子

「室生犀星

『蜜のあはれ』

論 イメー ジの源 泉――

女ひ とを探求

しつづ けた 眼」

(『福 岡大学日

本語日 本文学』平成八・

一一)

伊藤氏貴「室生犀星『蜜のあはれ』」(千石英世・千葉一幹編

ミネルヴァ

評論叢書

〈文学の在

り 処〉

別巻

③『名作は隠れ

ている

』、平成二一

・一、ミネル

ヴァ書房)

戸塚隆子「室生

犀星「蜜のあ

はれ」論」

(『室生犀星研究

』平成九・六

青柳悦子「メタフィクション」(土田知則・青柳悦子・伊藤直哉『ワードマップ現代文学理論

テク スト

・読み

・世界

』平成八

・一一、新曜

社)

百田宗治

「変態 性欲の現

はれ(人の

印象―

42―

室生犀星

氏の印象)

」(『新潮』大正九・七)

詳細は本論第四章を参照されたい。

室生犀星「文芸時評」

(『新潮

』昭和三

・六

このことについては、本論第五章を参照されたい。

堀辰雄「室生犀星の詩と小説」(『新潮』昭和五・三)

このことについては、本論第五章を参照されたい。

「あにいもうと」については、本論第七章を参照されたい。

大西永昭「欠落する身体の言語空間―室生犀星「蜜のあはれ」試論―」(『近代文学試論』平成

一九

・一二)

飯島正『映画と文学』(昭和二三・七、シネ・ロマンス社)

今野 哲「超現実主義的作品論――「蜜の

あはれ」の場合――」

(『論集

室生犀星の

世界(下)

』 平成 一二・九、龍

書房)

大西、前掲論(注16と同じ)

巽孝之『メタフィクションの思想』(平成一三・三、筑摩書房)

大西、前掲論(注16と同じ)

「アルベール・ラモリスがパリを背景に赤い風船と少年の愛情の交錯を、風船の動きに情感を

仮託 して 描いたフ

ァンタジー。

36分の短編だが、話されるセリフはわずか3つ、とコメンタリー もな く、流れる映像だけで

見せ た映画詩。

」(畑 暉男

「赤い風

船」

(『ヨー ロッパ映画作

品全集』昭 和四七・一二、キネマ旬報社)

巽、前掲書(注20と同じ)

「女の図」は「女の図」(『改造』昭一〇・三)、「町の踊り子」(『維新』昭一〇・四)、「続女の

図」

(『経済 往来

』昭 一〇

・六)

、「姫

」(『文芸

』昭一〇

・六

)、「 女の 図第 五篇」

(『中 央公 論』昭一

〇・ 一〇)

、「生面

」(『 文芸

』昭一一

・七

)の 六つの短篇小

説から成り、

『室生 犀星全集

』巻一

(昭 一一

・九、非凡閣

)に収録され

る際に現行の長篇小説「女

の図」とし

てまとめられた。

(14)

「はつえ、きくえという貰い子の「女の図」から養母ハナを含んだ「女の図」へ、そして、そ

らら の「

女の図

」を 支えて いく 伴の 存在にも

焦点化されて

いくと いう よう に、物語

の中 心が ずれ てい く構成によって

、一点 に集約されない広がりをも

った 市井図を構成

して いく ので ある。

(中略

) このよ うな 広がりは、特に初出時における結末の一節にお

いて

、完 結す るこ とを遅延し

ていく 働 きを担っ

てい る。

」(本論第八章

より引用)

戸塚、前掲論

(注7 と同じ)

例えば、

男性から次々と金銭を騙り取って生きていく女性を描いた「龍宮の掏児」(初出は『改

造』

、昭和一一・九)には以下

のよ うな一節が

見られる。

白山剛介は摺餌によつて頬白や懸巣を飼ひならすがごとく、市井のやくざ者にすぎない

生田 切子を拾

ひ上 げて

、悉く金によつて

飼ひ 狎らし てゐた

。こ の白い饑

じさうな羊は

終日

反芻しながら汚れ

た紙幣を食

ひ散らし、銀貨はそ

こらぢゆうに吐き散ら

して ゐた

。斯 のご とく

金をほしがる女

を見た こともなければ、斯のごと

く何から何まで金によつて動く女を

知つ たこ ともな かつた。

しぼるだけしぼらう

とする肚の底

も見えてゐたが、それより何よ

り多額の金をどう

処分し てゐる かが

、白山の

不思議な思

ひを唆る問題

であつた。

児玉、前掲論

(注3 と同じ)

高橋新吉

「抒 情詩 人の本領

ちりばめられた語感の美しさ」(『日本読書新聞』昭和三四・一一・

九)堀、前掲論(注13と同じ)

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