市指定無形文化財 いわき 絵 え のぼり 製 せい 作 さく 技 ぎ 術 じゅつ 指 定 平成二十三年十月二十日 認定者 高橋工房 いわき市平字正月町 五 月 節 句 に 絵 の ぼ り を 飾 る 習 わ し は 、江 戸 時 代 の 武 家 社 会 の 習 慣 で あ っ た が 、そ れ が 一 般 庶 民 に 広 ま っ た の は 、一 七 世 紀 後 半 か ら で あ る 。磐 城 に も 男 の 子 ( 特 に 長 男 ) の 初 節 句 に 、家 紋 を 入 れ た 勇 壮 な 絵 を 描 い た 絵 の ぼ り ( こ ば た ) を 贈 る 習 わ し が あ る 。贈 り 主 は 子 供 の 母 親 の 実 家 を は じ め 、親 戚 の 人 た ち で あ る 。絵 の ぼ り に 描 か れ て い る の は「 鍾 馗 」「 川 中 島 」「 太 閤 ・ 加 藤 」「 宇 治 川 の 戦 陣 争 い 」「 金 時 」「 八 幡 太 郎 義 家 」な ど で あ り 、い ず れ も 故 事 に あ や か っ て 子 供 が た く ま し く 育 つ 願 い が こ め ら れ た も の で あ る 。住 宅 事 情 や 世 情 の 変 化 な ど の 影 響 を 受 け て い る も の の 、中 山 間 地 の 家 々 や 昔 な が ら の 農 家 の 庭 先 に 目 を 投 じ る と 、今 日 で も 絵 の ぼ り が 風 に た な び い て い る 姿 を 見 る こ と が で き る 。五 月 に 絵 の ぼ り を「 贈 る 」「 飾 る 」こ と を「 当 た り 前 」と し て い る 人 々 の 精 神 文 化 は 連 綿 と 生 き 続 け て い る 。 いわき絵のぼりがいつごろから描き出されたのかは不明であ る が 、江 戸 時 代 末 期 に は 描 か れ て い た も の と 考 え ら れ る 。近 代 化 の 波 に 押 さ れ 描 く 人 た ち が 極 め て 少 な く な っ て し ま っ た が 、 本 件 は 、数 少 な い 伝 承 者 の 一 人 で あ っ た 高 橋 晃 平 氏 ( 昭 和 五 十 五 年 三 月 、市 指 定 無 形 文 化 財 、死 亡 に よ り 平 成 二 〇 年 一 月 解 除 ) の 系 譜 を 継 承 す る 貴 重 な も の で あ る 。そ れ は 絵 の 技 術 の み な ら ず 、使 用 し て い る 道 具 な ど に も い え る こ と で あ り 、「 家 内 製 手 工 業 」 と い う 現 代 で は 皆 無 に 等 し い 生 業 文 化 を 今 に 伝 え る も の で も あ る 。 製作工程 ⑴木 綿 を 、木 灰 の ア ク の う わ ず み を 入 れ て 煮 る 。 ⑵木綿を良く洗い、干す。 ⑶木綿に正糊 (小麦粉の澱粉) を付けて干す。 ⑷堅くなった木綿を槌で打ちつけて柔らかく する。これを行うことにより、色がよく食 い込み、色落ちしなくなる。 ⑸ 一 反 巾 の 木 綿 を 縫 い 合 わ せ て 二 反 巾 に す る 。 戦後は巾の広い布物が大半のため、この作 業は行う必要がない。 ⑹桐又はホウの木を焼いた炭で下絵を描く。 ⑺着色を行う。 表が染め終わると、 裏返して反 対側を染める。 色彩の数だけ、 この作業を繰 り 返 す。 色 彩 に は 溶 剤 と し て 呉 汁 ( 一 晩 水 に 浸した大豆をすりつぶしたもの) を入れる。 ⑻木綿を干す。 ⑼家紋を描く。 ⑽ 乳ち ( 旗 の ふ ち に 竿 や 紐 を 通 す た め の 輪 ) を 付 け る。
市指定有形民俗文化財 久 ひさ 之 の 浜 はま 張 はり 子 こ 木 き 型 がた 十五組 指 定 昭和四十七年十月十二日 所在地 いわき市平字堂根町 (いわき市文化センター内) 所有者 いわき市 江戸時代~明治時代 (十八~十九世紀) 久 之 浜 張 子 の 伝 統 を 伝 え て い た の は、 草 野 源 吉 ( 昭 和 五 十 一 年 没 ) で あ る。 源 吉 の 祖 父 源 六 は、 平 五 町 目 で 菅 野 屋 の 屋 号 で 張 子人形を作っていたが、 父保太郎のとき久之浜に移ったという。 伝統の経過からみれば磐城張子、又は平張子と称するのが適 切と思われる。なお、平張子の伝統を受け継ぐ高橋晃平は、達 磨作りの他、張子人形の製作を行っていたが、本人死亡により 現在は中止している。 人形制作の源泉は木型である。藩政時代から引き継がれたも のもあり、今日では貴重なものとなった。特に、大天狗の面の 木型は古く、山の神信仰と海上安全信仰と深く結びつき、 船乗 り達には広く宣伝されていた。 ⑴ 天 狗 の 面 ( 高 さ 五 三・ 四 ㎝) 、 ⑵ 天 狗 の 面 ( 高 さ 四 七 ㎝) 、 ⑶ 天 狗 の 面 ( 高 さ 三 八・ 八 ㎝) 、 ⑷ 虎 ( 高 さ 二 二 ㎝) 、 ⑸ 虎 ( 高 さ 二 二 ㎝) 、 ⑹ 馬 ( 高 さ 一 九 ㎝) 、 ⑺ 招 き 猫 ( 高 さ 一 八 ㎝) 、 ⑻ 象 の り 童 子 ( 高 さ 二 一 ㎝) 、 ⑼ 熊 の り 金 太 郎 ( 高 さ 一 八 ㎝) 、 ⑽ 大 黒 天 ( 高 さ 二 七 ㎝) 、 ⑾ 恵 比 寿 ( 高 さ 二 七 ㎝) 、 ⑿ 天 神 ( 高 さ 四 二・ 五 ㎝) 、 ⒀ 俵 牛 ( 高 さ 一 三・ 五 ㎝) 、 ⒁ お か め の 面 ( 高 さ 二 〇 ㎝) 、 ⒂ 鬼 の 面 ( 高 さ 一 九 ㎝) の一五組の木型は、規模も大形で古様を保ち、近世の民芸玩具 と民俗を知る上で貴重なものである。 宝 暦 十 一 年 ( 一 七 六 一 ) に あ ら わ さ れ た 『 磐 城 枕 友 』 に よ る と 、 平 の 城 下 町 に は 酒 造 一 八 、 弓 師 一 、 鋳 物 師 一 、 鍛 冶 数 家 、 仕 立 師 二 、 瓦 師 一 、 洗 湯 一 、 石 工 一 、 髪 結 床 三 、 張 子 人 形 師 六 、 町 医 八 、 仏 師 一 な ど の 存 在 を 記 し て い る 。 そ の 中 で も 張 子 人 形 師 が ほ か の 工 家 に 比 し て 多 い の は 、 そ の 需 要 が 多 か っ た こ と を 物 語 っ て い る 。
市指定有形民俗文化財 飯 いい 野 の 八 はち 幡 まん 宮 ぐう 流 やぶ 鏑 さ 馬 め の 用 よう 具 ぐ 類 るい 及 およ び 献 けん 膳 ぜん の 祭 さい 器 き 指 定 昭和五十六年四月二十三日 所在地 いわき市平字八幡小路 所有者 飯野八幡宮 江戸時代 (十六~十九世紀) 流鏑馬用具 十点、献膳祭器 二〇四点 こ の 用 具 と 祭 器 は、 飯 野 八 幡 宮 の 流 鏑 馬 と 献 饌 ( 県 指 定 ) の 神 事に用いられる。流鏑馬の笠には、平藩主内藤家の家紋が付け られており、内藤家の奉納品であることが明らかで、献膳祭器 の 黒 漆 塗 大 椀 に は 寛 政 十 一 年 ( 一 七 九 九 ) の 銘 が あ る。 こ れ ら は、 民俗資料ばかりではなく、歴史的資料としても貴重であり、ま た、工芸史上からも極めて優品である。 一、流鏑馬用具 黒漆塗下り藤家紋付笠 一 頭 、「 延 賓 六 年 内 藤 義 概 」 銘 黒漆塗陣笠 一 頭 、「 万 治 三 年 内 藤 義 概 」 銘 金 きん 襴 らん 地 じ 陣羽織形上着 二着 鹿毛模様 縢 むかばき 二着 黒漆塗凾形 箙 えびら 二領 「万治三年、延賓七年 内藤義概」銘 黒漆塗和鞍 二背、 「寛文九年」銘あり 二、献膳祭器 「寛政十一年神主盛長」の銘あり 黒漆塗金 覆 ふく 輪 りん 丸膳 径三九㎝ 三口 黒漆塗金覆輪大椀 三口 黒漆塗盃台 径一四・五㎝ 三口 黒漆塗高杯 径一四・五㎝ 三口 その他に御供器箱膳三と、杯、皿、椀、器台など一九二点あ る。箱蓋には、 「享保六年、 飯野八幡宮御膳三拾枚」 、「嘉永二年、 此筺虧損仍今新造之」の銘がある。
市指定有形民俗文化財 絵 え 馬 ま 白 しら 鍬 くわ 祭 まつり 図 ず 一面 指 定 平成九年五月十三日 所在地 いわき市平北神谷字神下 所有者 白山神社 縦 六九・五㎝、横 一八四・五㎝ こ の 絵 馬 は、 明 治 四 年 ( 一 八 七 一 ) に 行 わ れ た 白 鍬 祭 の 様 子 が 綿密に描かれている。祭が絶えてしまった今日では、白鍬祭の 模様を伝える貴重な資料である。白鍬祭は、大豊作の年の旧暦 九月九日に、秋の収穫を祝い白山神社に奉納されたもので、磐 城 地 方 で は 他 に 類 の な い も の で あ っ た が、 大 正 四 年 ( 一 九 一 五 ) を 最 後 に 廃 絶 し た。 「 天 磐 戸 式 例 白 鍬 」 ( 白 山 神 社 所 蔵 文 書 ) に よ ると、農民が踊る猿楽を伝えていたということがわかる。 絵馬は松材の一枚板に描かれた彩色画で、現在は白山神社拝 殿に掲げられている。 夏井川左岸の旧磐城郡には磐城七祭があったと伝えられ、そ の 一 つ 北 神 谷 の 白 鍬 は 白 鍬 踊 と も い わ れ た。 天 文 二 十 年 ( 一 五 五 一 ) に 例 大 祭 が 始 ま っ た と の 記 録 が あ り、 大 正 四 年 ま で の 三 六〇年間に十六回行っている。大正四年の祭礼に翁役で参加し た 高 木 誠 一 は、 『 磐 城 北 神 谷 の 話 』 の 中 で そ の 様 子 を 次 の よ う に記している。 能の舞 翁一人・千歳一人・三番叟一人・楽屋掛・笛一人・ 小鼓二人・太鼓一人・地唄二人 白鍬の舞 断り一人・警固二人・謡三人・小太鼓一人・太鼓 一人・軍配一人・白鍬舞一〇人。 若者一〇人が花笠を被り、草色の衣服に黒の袴をつけ白の襷 をかけ、平鍬を左に耙を右にし、鍬頭軍配振りの後につき二列 になって連行する。笛、 謡により拍子を揃えて 耕 こう 耘 うん の状をなす。 極めて古風荘厳な祭で多くの人数 を要したという。
市指定有形民俗文化財 鰹 かつお 船 ぶね 模 も 型 けい 一式 指 定 平成十三年四月二十七日 所在地 いわき市小名浜字古湊 所有者 個人 明治四十三年 (一九一〇) 長さ 七八・五㎝、幅 二三㎝、深さ 一六・五㎝ こ の 模 型 は、 小 野 久 七 に よ っ て 明 治 四 十 三 年 ( 一 九 一 〇 ) に 作 られたことが 墨 ぼく 書 しょ 銘 めい から知られる。 明 治 四 十 年 代 に 急 速 に 進 ん だ 漁 船 動 力 化 の 動 き は 磐 城 に も 波 及 し 、こ の 模 型 が 作 成 さ れ た 年 は 、久 之 浜 や 江 名 の 船 主 た ち が 動 力 船 を 導 入 し た 年 で あ っ た 。こ れ は 代 々 小 名 浜 で 船 大 工 の 頭 頷 で あ っ た 小 野 に と っ て 、大 き な 衝 撃 と な っ た こ と と 思 わ れ る 。さ ら に 数 年 前 か ら 始 め ら れ た 県 水 産 試 験 場 に よ る 洋 式 漁 船 の 指 導 も 、こ の 旧 来 の 技 術 者 に 対 し て 危 機 感 を 抱 か せ た も の と 考 え ら れ る 。こ う し た こ と が 、彼 に こ の 模 型 を 作 ら せ る 動 機 と な っ た と 思 わ れ る 。 一般に和船と言えば、帆柱が一本であるというイメージが強 いが、この模型には三本ある。実際、明治期の鰹船は、全国的 に帆柱が一本ではなく三本あり、磐城でも同様であったことが 船主であった坂本与惣兵衛や中之作の船頭であった吉田為吉の 昔話により証明できる。 船 は 左 右 に 櫓 ろ が あ る こ と に よ っ て 前 進 す る が 、 漁 船 は 左 右 均 等 に 櫓 が な く 、 艫 とも 櫓 ろ に よ っ て 左 右 に 廻 り 進 む た め 、 奇 数 の 櫓 数 が 基 本 で あ り 、 こ の 模 型 も 七 丁 櫓 で あ る 。 当 時 江 名 な ど の 浜 で は 、 九 丁 櫓 ・ 一 一 丁 櫓 の 時 代 と な っ て お り 、 江 戸 時 代 中 期 頃 か ら の 磐 城 の 鰹 船 の 標 準 形 で あ っ た 七 丁 櫓 は 、 す で に 旧 型 と な っ て い た 。 付属している漁具の釣り竿や、たも、網、さらに漁のかぎな どの飾りは精巧を極めており、 模型本体の忠実さとあいまって、 精魂こめた制作 者の技がしのばれる。 帆をかかげた荷船の模型が多く見られるなか、このような鰹 船の例は全国的にも稀少である。
市指定有形民俗文化財 上 か 遠 と お 野 の 紙 かみ 製 せい 作 さく 用 よう 具 ぐ 一式 指 定 平成十四年四月三十 日 所在地 いわき市入遠野字諏訪 所有者 遠野地域づくり振興協議会 楮 こうぞ を原料とする磐城紙の生産は、古くは磐城紙の別称である 上 遠 野 紙 と 呼 ぶ よ う に、 上 遠 野 ( 現 在 の 遠 野 町 上 遠 野 ) を 中 心 に 白 水・高野・末続・田人地区でも行われており、更に江戸時代に は、平城下の付近の川中子などでも生産されていた。いわき市 において、浜の鰹節とならぶ伝統産業であった。 紙製作の歴史は古く、平安時代の「陸奥紙」が当磐城紙であ ったのかどうかは記録が定かでないが、戦国時代に上遠野郷の 村 々 が 盛 ん に 生 産 し て い た こ と が、 文 禄 四 年 ( 一 五 九 五 ) の「 小 物成帳」によって証明される。ただし、どのような紙を製造し ていたかは分からない。 江 戸 時 代 初 期 の 寛 永 十 九 年 ( 一 六 四 二 ) の「 内 藤 家 文 書 」 の 案 詞によると「上遠野・木戸の杉原紙」とあり、武家の常用紙で ある杉原紙が製造の主体であった。しかし、元禄の頃より磐城 紙とは、障子紙が主となった。これが江戸において書本・罫紙 用に利用され、享保年間以後、紙の消費の拡大に伴い、生産が うなぎ昇りに高まった。こうした状態は明治時代中期に洋紙の 生産が広まるまで続いた。以後、消費の縮小にともない生産が 衰え、昭和四十年代に入ると生産家は一軒のみになった。 こうした歴史ある磐城紙の製造道具の散逸を防ぐため、かつ ての製造家の人々から寄付を受けたものである。原料の楮を切 断する「押し切り」 、煮るのに使用する「大釜とカプセ」 、むい た楮をたたく「たたき棒とたたき石」 、紙を漉く「漉桁・ 簀 すのこ ・ 漉き船」 、「干板」などの道具類である。
市指定有形民俗文化財 金 こ 刀 と 比 ひ 羅 ら 神 じん 社 じゃ の 絵 え 馬 ま 五十面 指 定 平成十五年四月二十五日 所在地 いわき市常磐関船町諏訪下 所有者 金刀比羅神社 江戸時代~大正時代 「 絵 馬 」 は 、か つ て そ こ に 住 ん で い た 人 た ち が 、ど の よ う な 願 い を 抱 え て い た の か 、ど の よ う な 生 活 を し て い た の か を 知 る こ と が で き る 貴 重 な 史 料 で あ る 。本 絵 馬 で 特 筆 す べ き は 、そ の 数 で あ る 。 五 十 面 と い う 保 存 数 は 、一 社 に 奉 納 さ れ た 絵 馬 と し て は 、市 内 で は 他 に 例 が な い 。保 存 状 態 も 良 好 で 、年 代 の 確 認 で き る も の は 、天 保 年 間 の 絵 馬 が 八 面 、嘉 永 年 間 の 絵 馬 が 二 面 、文 久 ・ 弘 化 ・ 安 政 年 間 の 絵 馬 が 各 一 面 、明 治 年 間 の 絵 馬 が 五 面 、大 正 年 間 の 絵 馬 が 三 面 あ り 、そ の 中 で 最 も 古 い も の は 天 保 四 年 ( 一 八 三 三 ) に 、新 し い も の は 大 正 七 年 ( 一 九 一 八 ) に 奉 納 さ れ た こ と が 確 認 で き る 。形 の 多 く は 、紐 で 吊 っ て 奉 納 す る 家 の よ う な 形 を し た 上 辺 が 三 角 形 の 小 型 の も の だ が 、な か に は 扁 額 の よ う な 大 型 の も の も あ る 。 内 容 は 、馬 は も ち ろ ん の こ と 、技 芸 の 上 達 を 願 っ た も の 、社 寺 へ 参 詣 す る 様 子 や 、『 三 国 志 』『 古 事 記 』な ど の 名 場 面 、神 仏 や 武 者 な ど を 描 い た も の な ど 、実 に 多 彩 で あ り 、当 時 の 人 々 の「 祈 り 」の 姿 を あ り あ り と 伝 え て く れ る 。特 に 、五 十 面 中 最 大 の 大 き さ を 誇 る 桐 板 を 用 い た 扁 額 型 の 絵 馬 は 、『 三 国 志 』を 描 い た も の で 、江 戸 の 絵 師 の 手 に よ る も の で あ る 。そ し て そ の 裏 面 に は 、江 名 の 町 の 人 々 の 名 前 が 多 数 記 さ れ て い た 。豊 漁 と 海 の 安 全 を 祈 る 人 々 が 、こ の 金 刀 比 羅 神 社 に 深 い 信 仰 を 寄 せ て い た こ と を 物 語 る 良 好 な 資 料 と い え る 。 ま た 、不 老 長 寿 を 願 う 高 砂 図 を は じ め 、大 天 狗 や 烏 天 狗 な ど 招 福 ・ 災 難 消 除 を 祈 願 し た も の 、な か に は 、花 札 や サ イ コ ロ に 鍵 を か け て「 禁 断 」を 誓 っ た と 考 え ら れ る も の な ど も あ り 、「 絵 解 き 」を す る 楽 し さ も 味 わ え る 。日 々 の 生 活 に お い て 、悩 み や 苦 し み 、不 安 を 抱 え る の は 私 た ち 現 代 人 も 変 わ ら な い 。私 た ち は 、金 刀 比 羅 神 社 の 五 十 面 の 絵 馬 を 通 し て 、先 祖 が ど の よ う に そ の「 心 」に 向 き あ っ た の か を 知 る こ と が で き る 。
市指定有形民俗文化財 炭 たん 鉱 こう の 生 せい 産 さん 用 よう 具 ぐ 類 るい 指 定 平成十八年四月二十八日 所在地 いわき市内郷白水町広畑 所有者 個人 常 磐 炭 田 は、 安 政 二 年 ( 一 八 五 五 ) 片 寄 平 蔵 が 白 水 川 の 下 流 で 石 炭 の 塊 を 発 見 し て、 上 流 の 谷 間 を 探 し、 弥 勒 沢 ( 不 動 沢 ) か ら 露頭を見つけたのに始まる。常磐炭田は、いわきの繁栄に寄与 し た ば か り で な く、 日 本 の 産 業 近 代 化 に 大 き く 貢 献 し て き た。 しかし、昭和三十年代からのエネルギー革命によって、市内の 炭坑は昭和五十一年 (一九七六) をもって完全に姿を消した。 使 用 さ れ な く な っ た 用 具 類 は 自 ず と 雲 散 霧 消 し て い っ た が 、本 物 件 の 所 有 者 が 尽 力 し た こ と に よ り 、「 み ろ く 沢 炭 鉱 資 料 館 」 に 用 具 類 の 一 部 が 収 集 保 管 さ れ て い る 。測 量 や 発 破 の 用 具 の ほ か 、採 炭 ・ 運 搬 ・ 選 炭 ・ 照 明 ・ 安 全 用 具 な ど 、石 炭 採 掘 の 始 ま っ た 江 戸 時 代 末 期 か ら 、炭 鉱 が 閉 山 さ れ た 昭 和 時 代 ま で 、市 内 の 炭 鉱 で 用 い ら れ た 多 様 な 用 具 類 で あ り 、こ れ ほ ど ま と ま っ た 数 ・ 種 類 が 残 存 し て い る の は き わ め て 珍 し い 。金 属 製 品 に は 鉄 工 場 で 作 ら れ 市 内 の 金 物 店 を 経 由 し た も の が 多 い が 、炭 鉱 内 の 鍛 冶 職 人 が 作 っ た も の も あ る 。木 や 竹 を 材 料 と す る 用 具 に は 、労 働 者 手 製 の も の が あ る 。鉄 工 場 で「 製 品 」と し て 作 ら れ た 用 具 で あ っ て も 、今 日 私 た ち が め っ た に 目 に す る も の で は な く 、現 代 に お い て 貴 重 な 文 化 財 で あ り 、日 本 の 炭 鉱 に ま つ わ る 諸 文 化 を 研 究 す る 上 で 非 常 に 重 要 な 物 で あ る 。 主な資料と点数は次のとおり。 ⑴トランシット (坑内外の測量用具) 二点 ⑵鉱山帽 (鉱夫が被るヘルメット) 十一点 ⑶ガス検定器 (坑内のガス分析用具) 二点 ⑷ぶち矢 (塊炭を落とすため岩層に打ち込む用具) 五点 ⑸ゲンノウヅル (ぶち矢を打ち込むハンマー) 三点 ⑹キウリン (発破口の清掃・火薬装填用具) 四点 ⑺カンテラ (坑内の照明用具) 二十四点
市指定無形民俗文化財 赤 あか 井 い 諏 す 訪 わ 神 じん 社 じゃ の 山 やま 外 と 舞 まい 指 定 昭和五十一年五月二十七日 所在地 いわき市平赤井字団粉田 保存団体 諏訪神社山外舞保存会 山外舞は現在、八月第四土曜日の宵祭りと、翌日曜日の本祭 り に 行 わ れ て い る。 古 く 菅 波 の 大 和 舞 を 伝 承 し た と 伝 え ら れ、 宝 暦 年 間 ( 一 七 五 一 ~ 一 七 六 四 ) に は 行 わ れ て い た と い う 文 書 が 残 っている。 ⑴四方舞 四方固めと、祓いをかねた舞であり、白装束に鬼面 を付け、右手に剣を持つ。 ⑵天地の舞 祓いの舞であり、右手に剣、左手に幣を持ち、四 股を踏む身振りの舞である。 ⑶天の岩戸 白装束の 手 た 力 ぢから 男 おの 命 みこと が岩戸を開く。囃子の太鼓に 合せて、力強く四股を踏んで岩戸に近づき、重い岩戸を開ける と、燈明に輝く神鏡があらわれ、後方で鶏が鴫く。 ⑷おしだしおかめ 天 あまの 鈿 うずめの 女 命 みこと が右手に扇、 左手に幣束を持ち、 滑稽味のある身振りで舞台を二回回る。 ⑸恵比須舞 つり竿を持った恵比須と、びくをさげたひょっと こが鯛をつる。 ⑹大黒舞 風呂敷包みを背負った大黒が、右手に小づち、左手 に鈴を持ち二回回る。 ⑺稲荷舞 白装束の白狐が右手に玉、左手に幣束を持ち、飛び 跳ねながら舞台を二回回る。玉を目の高さにして、幣束で祓う 身振りをしながら舞台の四隅では片足で立つ。 ⑻ながしおかめ ⑷と同じく天鈿女命であるが、五色の流しを つけた榊を持ち静かに舞う。 ⑼ろうそく舞 火伏せの舞ともいう。白装束でろうそくを両手 に持ち、四方固めに一回回り、宙返りをする。 ⑽ ひ ょ っ と こ 舞 ひ ょ っ と こ ・ 大 黒 ・ 恵 比 須 が 出 て 扇 子 と 餅 を 参 拝 者 に ま く 。扇 子 を 拾 う と 縁 起 が よ く 、魔 除 け に も な る と い う 。
市指定無形民俗文化財 大 おお 国 くに 魂 たま 神 じん 社 じゃ の 大 や ま と 和 舞 まい 指 定 昭和六十三年一月二十日 所在地 いわき市平菅波字宮前 保存団体 大国魂神社大和舞伝承会 この大和舞は、 延 えん 喜 ぎ 式 しき 内 ない 社 しゃ 大国魂神社の 初 はつ 子 ね 祭 さい と、五月の例 祭に演じられる奉納舞である。 赤 井 諏 訪 神 社 に も こ れ に 類 似 す る 山 やま 外 と 舞 まい ( 市 指 定 ) が あ る。 市 内ではこの二件以外には類例がなく、民俗芸能として貴重な存 在である。 演目には、 三番叟、 三本剣、 猿田彦の舞、 恵比寿舞、 大黒舞、 天之岩戸の舞がある。 江 戸 時 代 の 享 保 年 間 ( 一 七 一 六 ~ 一 七 三 六 ) に は す で に 演 じ ら れ ていたらしく、内藤 露 ろ 沾 せん の和歌にも詠まれ、赤井諏訪神社の山 外舞とともに芸能史上重要なものである。 ⑴三番叟 烏 え 帽 ぼ 子 し を冠り、 大袖広口の装束をつけ、 鈴を振り、 白扇を取って舞う。 ⑵ 三 本 剣 三 名 の 者 が 素 面 の ま ま、 襷 たすき ・ 鉢 巻 き 姿 で 大 刀 を 持ちくみつほぐれつ舞台を回る。 ⑶猿田彦の舞 天狗の面を付けた者が、鉾や剣を取り、鈴を 振りながら舞う。 ⑷恵比寿舞 恵比寿の面を付けた者が、釣り竿を垂れて鯛を 釣るが、ひょっとこが出てきてからかう道化の場 もある。諏訪、鹿島の神が現れ葛藤があり、敗れ て倒れ、倒れてなお復活再生の場などもある。 ⑸大黒舞 大風呂敷を背負った大黒が宝珠を持って 舞う。 ⑹天之岩戸の舞 手 た 力 ぢから 男 おの 命 みこと 、太 ふと 玉 たまの 命 みこと 、 天 あまの 児 こ 屋 や 根 ねの 命 みこと 、各々 が 笏 しゃく を持ち、諸々の仕草、正面祭壇の礼拝が あったり、最後に 天 あまの 鈿 うず 女 めの 命 みこと が現れ、白扇を 取 り 大 榊 を と り 舞 い 狂 う。 囃 子 方 は 大 太 鼓、 小太鼓 (締め太鼓) 、 鼓 つづみ に笛である。
市指定無形民俗文化財 じゃんがら 念 ねん 仏 ぶつ 踊 おどり 指 定 平成四年三月二十七日 所在地 いわき市一円 保存団体 じゃんがら念仏踊保存団体連合会 じゃんがら念仏踊は市内一円に分布し、いわきの人々にとっ て最も親しみのある芸能で、夏の風物詩ともなっている。一般 的には、 「じゃんがら」とか「じゃんがら念仏」と呼ばれるが、 民俗芸能の分類では、 「 風 ふ 流 りゅう 」の中の「念仏踊」の系統に入る。 念仏踊は、念仏を口々に唱えながら、太鼓・鉦を打ち鳴らし て踊躍する踊りで、その特徴は、 災 さい 厄 やく 退散・ 亡 ぼう 魂 こん 鎮送を目的と していること、 その鎮送のために念仏の唱言と踊りをすること、 楽器として太鼓・鉦を用いることなどである。 今日では「じゃんがら」というと、お盆の時期に新盆の家を 供養して回るものとされているが、本来は、それぞれの地域の 祭りなどにも奉納されるものであった。田畑の作物の成長を脅 かすさまざまな霊を鎮送しようとして、災害や病虫の発生しや すい夏からお盆にかけて行われていたと考えられる。 踊はひと流れ二〇分位で、三人の太鼓を中心に、一〇人前後 の鉦を打つ者がまわりを囲み、後ずさりに回りながらダイナミ ックなリズムに合わせて踊る。衣装は浴衣、 帯、 襷 たすき 、鉢巻、 手甲、 白足袋をつけ、ぞうりを履く。古くは一般の老若男女が自由自 在に踊りに参加していた。 現在、市内には約九〇の伝承団体があり、それぞれの地域に 根ざして活動している。基本的所作は各地域共通であるが、細 部については若干の差異がある。 その由来については、江戸時代初期に江戸で大流行した泡斎 念仏を十 七世紀の中頃に、沢村勘兵衛の霊を慰めるため墓前で 行ったと云われている。 この泡斎念仏に磐城の民謡を取り入れ、 荒々しいと批判の強かったものを独自の念仏踊に再編して行っ たのが、現在のじゃんがら念仏踊である。
市指定無形民俗文化財 いわきの 獅 し 子 し 舞 まい 指 定 平成四年三月二十七日 所在地 いわき市一円 保存団体 いわきの獅子舞保存団体連合会 いわきの獅子舞は、市内約四〇地区で行われている、いわき を代表する伝統芸能の一つである。 こ の 獅 子 舞 は 一 人 立 ち の 獅 子 で、 風 ふ 流 りゅう に 分 類 さ れ る。 一 人 ずつ鹿の獅子頭を被り、腰に 羯 かっ 鼓 こ という小太鼓をつけ打ちなが ら、 三頭が一組になって舞う。そのうちの一頭は雌獅子である。 いわきの獅子舞がいつごろから行われるようになったかはっ き り し な い が、 高 野 の 鹿 島 神 社 の 獅 子 頭 に は 寛 永 八 年 ( 一 六 三 一 ) 、 高 坂 の 住 吉 神 社 の 頭 に は 正 しょう 保 ほう 三 年 ( 一 六 四 六 ) の 墨 ぼく 書 しょ 銘 めい が あ る。 ま た、 上 片 寄 の 寛 永 十 一 年 ( 一 六 三 四 ) の 免 許 皆 伝 に 関 す る文書などから、十七世紀初頭にはすでに伝承されていたこと が分かる。 獅子舞の演目は「花吸い」 「弓くぐり」 「雌獅子取り」が一般 的で、笛の曲によって演じられる。振り付けや基本的な所作に は共通するところが多いが、地区によって荒々しいとか、おと なしいとか踊りに特徴が見られる。 衣装は、じゅばん、袴、白足袋、手甲をつけるが、田人地区 では腰太鼓が無いところもある。 獅子舞の演目の合間には棒術が行われ、 「棒ささら」 「棒使い」 と も い わ れ る。 「 棒 術 」 は、 棒 と 棒・ 棒 と 刀・ 棒 と 鎖 鎌 な ど が 対決し、突く・打ち合う・振り回すなどの所作をする。地固め と 鎮 ちん 魂 こん を意味するという。 獅子舞を演ずる笛は多彩な音色を奏で、太鼓のリズムが三頭 の獅子を躍動させ、観衆にも郷愁を感じさせる響きである。
市指定無形民俗文化財 田 た 人 び と の 念 ねん 仏 ぶつ 太 たい 鼓 こ 指 定 平成五年三月二十六日 所在地 いわき市田人町 保存団体 田人の念仏太鼓保存団体連合会 田人の念仏太鼓は、じゃんがら念仏踊とともに知られている が、その伝承の経過については明らかではない。 念仏太鼓の構成は、太鼓六~八人・鉦切り一人・笛二~三人 で、笛が全体の流れをリードする。 念仏太鼓を演じるのは、お盆と祭礼のときである。新盆 回 え 向 こう で、精霊供養を家々の庭先で行うほか、黒田では満照寺不動堂 ( 黒 田 不 動 堂 )( 県 指 定 ) の 祭 典 ( 八 月 最 終 土 曜 日 ) に、 入 旅 人 で は 地 蔵 尊 の 祭 り ( 八 月 最 終 土 曜 日 ) と 小 お 土 ど 神 社 の 祭 礼 ( 九 月 敬 老 の 日 ) に、 出旅人では薬師尊の祭典 (八月最終土曜日) に、荷路夫では多祀神 社 の お 籠 も り ( 七 月 下 旬 ) と 阿 弥 陀 尊 の 祭 典 ( 八 月 十 五 日 ) に、 そ れ ぞれ演じられる。 衣 装 は、 浴 衣・ 帯・ 襷 たすき ・ 鉢 巻 ( 後 ろ 結 び ) ・ 手 甲・ 白 足 袋 を つ け、ぞうりは履かない。 田人地区には、現在、四つの実施団体があり、基本的な所作 はほぼ共通している。 新盆回向時の演技の流れは、次のようになる。 門口で太鼓・笛・鉦による 「繰り出し」 (繰り込み) から始まり、 前庭に入ると「前叩き」 ・「山道」 ・「雷」を叩き、少し間をおい て「四方固め」 。代表の回向口上が終わると、 短い 「前叩き」 と「雷」 となり、 「繰り出し」によってその家を去る。
市指定無形民俗文化財 井 いの 上 うえ の 神 かぐ 楽 ら 指 定 平成六年三月二十五日 所在地 いわき市山田町井上地内 保存団体 井上神楽保存会 井上の神楽は、獅子神楽の系統に属する神楽で、井上地区で は単に「神楽」と呼んでいるが、他の土地では「 太 だい 神 かぐ 楽 ら 」とか 「長獅子」などと呼ばれている。 毎年四月八日、 山田町の本倉神社の祭礼に境内で奉納される。 長獅子のあとに、俗に神楽七芸といわれている七種の余興芸が つく。 長 獅 子 の 演 目 と し て は、 「 幣 束 の 舞 」・ 「 鈴 の 舞 」・ 「 ひ ょ っ と こ」の三つの舞を、長獅子歌に合わせて獅子が舞う。厳粛に座 を清めた後、次第にユーモラスな動きが加わり、見る人の笑い を誘う。これが神楽の古い形ともいわれている。 神楽七芸には、かつて「矢立万歳」 ・「しもじょうかんさんと お か め 」・ 「 和 唐 内 」・ 「 鳥 さ し 」・ 「 阿 呆 舞 」・ 「 鍾 しょう 馗 き の 舞 」・ 「 大 黒舞」などがあり多彩であったが、現在は「しもじょうかんさ んとおかめ」と「鍾馗の舞」の二つだけになっている。 「 し も じ ょ う か ん さ ん と お か め 」 は、 か ん さ ん ( 貧 者 ) と お か めの問答で、おかめは鈴と幣束を持って舞う。 「鍾馗の舞」は、 獅子と鬼、鬼と鍾馗、鬼とネズックジのからみ合いが繰り広げ ら れ る。 最 後 に 獅 子 が 登 場 し て 幕 に な る と い う 楽 し い 芸 能 で、 多分に娯楽的なものである。 市内では、他に馬玉などの四ヵ所でこの系統の神楽を伝えて いたとされるが、今日までほぼ原形を残して演じられているの は、井上の神楽だけである。
市指定無形民俗文化財 沼 ぬま ノ 内 うち の 水 みず 祝 しゅう 儀 ぎ 指 定 平成十五年四月二十五日 所在地 いわき市平沼ノ内字新街 保存団体 沼ノ内区 「婿いじめ」 「嫁いじめ」という習俗が、かつて日本全国どこ に で も あ っ た。 こ れ は 今 日 い う と こ ろ の「 い じ め 」 で は な く、 新しい人間を地域共同体に迎え入れる歓待・承認の儀式であっ た。本件の場合は、前年に新妻をもらった地域内の男性に水を かけるものである。水には「キヨメ」 「ハライ」の役割があり、 新妻をもらった男性が水をかけられることによって再生し、夫 としての、また、新しい家庭の幸福を地域の人々が祈願する行 事である。加えて、この行事を行う愛宕神社は全国的に火伏せ の信仰を集めており、先人たちの中で「火を消すもの=水」と いう想像力が働いたことが、いわきにおける水祝儀発祥の要因 のひとつとも考えられる。 本件の最も大きな特徴は、水祝儀だけではなく、墨祝儀の習 俗を残している点にある。墨にも病気退散や幸福成就・再生の 力が備わっていると考えられており、水と墨の二つの聖的な力 をもって地域共同体成員を守ろうとするところに、本件の複雑 さとそれゆえの貴重さが存在する。江戸初期の古文書でしか目 にすることのないものを、今日の私 たちが実際に見られる点に 高い学術的価値がある。
市指定無形民俗文化財 住 すみ 吉 よし 神 じん 社 じゃ の 流 やぶ 鏑 さ 馬 め 並 なら びに 勅 ちょく 使 し 参 さん 向 こう 式 しき 指 定 平成十六年四月二十八日 所在地 いわき市小名浜住吉字住吉 保存団体 住吉神社 住 吉 神 社 の 例 大 祭 は、 旧 暦 九 月 十 三 日 で あ っ た が、 現 在 は、 十月十三日に最も近い金曜日・土曜日、もしくは土曜日・日曜 日に行われている。参道に蓑笠を売る店があったとか、この祭 りの日は必ず雨が降るなどという言い伝えもあり、 かつては 「蓑 笠祭り」とも呼ばれていたらしい。昨今の社会環境の変化によ り、簡素化された部分もあるが、現在でも古式に即した儀礼が 行われている。 まず、 祭礼では、 氏子の長男である七歳前後の男の子が、 「勅 使」に選ばれる。このようにして勅使を選ぶのは、かつて源義 家が、東国平定を祈願するために勅命を受けて当社に参向した ことに由来すると伝えられている。宵宮は、社総代らが、この 勅 使 を 迎 え る と こ ろ か ら 始 ま る。 衣 冠 束 帯 の 装 束 に 身 を 包 ん だ 勅 使 は、 宮 司 や 役 者 ( 流 鏑 馬 の 射 手 ) 、 社 総 代、 巫 女 ら を 従 え、 馬に乗せられて小名浜魚市場へと向かう。さらに一向は、そこ から船に乗り移り、甲板で儀式を行う。これは、勅使が無事に 到着したことを寿ぐもので、勅使安着式という。翌日、本祭り では勅使一行が行列を作って住吉神社へ向かい、参向式が行わ れる。その後、勅使は馬に乗って大字を巡る。 この祭りでは、 宵宮と本祭りの両日に流鏑馬も行われている。 参道は 、幅五間、長さ二百間、独特の華やかな衣装をまとった 役 者 ( 射 手 ) が、 疾 走 す る 馬 に ま た が っ て 流 鏑 馬 を 奉 納 す る。 宵 宮ではその巧みで鮮やかな技を披露し、本祭りには技の披露と ともに、祭に訪れた人々に向けて扇子が撒かれる。市内に残る 数少ない流鏑馬の神事のひとつである。
市指定史跡 西 にし 郷 ごう 貝 かい 塚 づか 指 定 昭和五十一年十一月三日 所在地 いわき市常磐西郷町金山 所有者 いわき市 縄文時代 (前期~中期) 西郷貝塚は、藤原川に沿った低位丘陵の東端に所在する。標 高は約一六mで、 汀 てい 線 せん までの直線距離は五㎞である。貝塚の南 裾を岩崎川が東流し、市内で最も内陸部に形成された貝塚とし て夏井川左岸にある弘源寺貝塚と対比される。 この貝塚が形成された縄文時代前期から中期ごろは、海岸線 が西郷付近まで進入していたことを示す確かな証拠となってい る。地球の温暖な時期で、海水面の上昇が最も促進した縄文海 進の時期として理解されている。 縄文人たちは、この頃 から海洋と積極的にかかわるようにな り、生活文化が飛躍的に向上する。その後、海岸線は少しずつ 後 退 す る 時 期 に な る が、 そ れ に し た が っ て 生 活 地 点 も 移 動 し、 多 く の 遺 跡 ( 貝 塚 ) を 残 し て い る。 藤 原 川 流 域 の 旧 小 名 浜 湾 沿 岸 は、 市内で最も濃密に貝塚が分布しており、 寺脇・大畑・長孫・ 御代・南富岡など、石器時代の研究にはかかせない遺跡が集中 する。 貝塚からは、サルボウ・ハマグリ・アワビ・マガキ・ヤマト シ ジ ミ・ チ ョ ウ セ ン ハ マ グ リ・ イ ボ ニ シ・ ツ メ タ ガ イ・ サ ザ エ・ダンベイキサゴ・クボガイ・アカニシ・バイなどの貝類に 混 じ っ て、 魚 類・ シ カ・ イ ノ シ シ の 骨 な ど が 採 取 さ れ て い る。 貝類の生息環境の検討から、西郷付近の環境と景観は外洋性の 砂浜や岩礁、淡水と海水の交わる河口や湖沼が展開していたと 推定される。 出土する縄文土器は関東系文化に属する阿玉台式土器と、東 北系文化圈の大木 7a・ 8a・9式土器などとの南北交流が認めら れ、人と物の交流が盛んだったことを物語っている。
市指定史跡 住 すみ 吉 よし 磨 ま 崖 がい 仏 ぶつ 指 定 昭和六十一年三月二十八日 所在地 いわき市小名浜住吉字搦 所有者 遍 照 院 鎌倉時代 (十三世紀) 岩山に直接仏像を彫りつけた磨崖仏は、大陸で発達し優れた ものが多い。我が国では奈良時代に線刻のものが出現し、平安 時代になると、各地に厚肉彫の優秀なものが造立されるように なり、大分県の臼杵磨崖仏群、栃木県の大谷寺磨崖仏群などが 著名である。本県では相馬・双葉地方に見られ、小高町泉沢の 大悲山の石仏は平安期の造立で、規模も大きく特にすぐれた磨 崖仏群である。鎌倉時代になると小規模なものが普及し、住吉 の磨崖仏群も鎌倉期の仏教思想を背景として造立されたもので ある。 住 吉 磨 崖 仏 は、 遍 照 院 の 裏 山 の 西 崖 面 に 小 さ な 龕 がん を 構 築 し、 その中に厚肉彫の尊像を彫り出している。龕は全部で六ヶ所あ るが風化剥落が進み、像容を残すのは中央二つの龕だけになっ ている。 向かって右から数えて第三号龕には、高さ一四四㎝の一尊仏 が彫造されている。住吉磨崖仏群中最大で、中心となる尊像で ある。両手を膝の上で印を結び、台座の上に 結 けっ 跏 か 趺 ふ 坐 ざ する如来 像と思われる。第四号龕は、三尊像が彫り出されている。両手 を膝におき印を結び、高さ一一六㎝の坐像を中心に左右に 脇 わき 侍 じ の立像がある。 三号龕の一尊像を釈迦如来坐像に、四号龕の三尊像を阿弥陀 如来坐像・勢至・観音菩薩立像とみる研究者もいるが、像容の 細部の風化進行がひどく認定は困難な状態である。
市指定史跡 八 や 幡 あど 横 よこ 穴 あな 指 定 昭和六十一年三月二十八日 所在地 いわき市平下高久字八幡 所有者 個人 古墳時代 (六世紀末~ 七世紀初) 八幡横穴は、滑津川河口の南方約一㎞に位置する。西から張 り出した丘陵の南急崖面に造られた古代の群集墓である。 こ の 地 域 は 、い わ き 市 を 代 表 す る 五 世 紀 か ら 七 世 紀 に お け る 遺 跡 が 最 も 多 く 発 見 さ れ て い る 。南 北 に ほ ぼ 一 直 線 上 に 並 ぶ 遺 跡 を 列 挙 す る と 、八 幡 古 墳 ( 人 物 埴 はに 輪 わ 出 土 ・ 六 世 紀 後 半 ) ‐ 八 幡 横 穴 ( 六 世 紀 末 七 世 紀 初 頭 ) ‐ 神 谷 作 一 〇 一 号 墳 ( 天 冠 埴 輪 出 土 ( 国 指 定 ) ・ 六 世 紀 後 半 ) ‐ 腰 巻 横 穴 墓 群 ‐ 白 穴 横 穴 墓 群 ( 古 式 双 龍 環 頭 太 刀 出 土 ・ 六 世 紀 後 半 ) ‐ 神 殿 古 墳 ( 玉 類 出 土 ( 市 指 定 ) ) ‐ 神 谷 作 一 〇 六 号 墳 ( 大 形 円 筒 埴 輪 出 土 ・ 五 世 紀 後 半 ) ‐ 神 谷 作 二 〇 一 号 墳 ( く り ぬ き 石 棺 出 土 ) ‐ 沼 之 内 一 〇 一 号 墳 ( 箱 式 石 棺 人 骨 滑 かっ 石 せき 製 せい 紡 ぼう 垂 すい 車 しゃ ・ 鹿 ろっ 角 かく 製 せい 把 は 刀 とう 子 す 出 土 ) ‐ 同 一 〇 二 号 墳 ( 人 物 埴 輪 出 土 ・ 六 世 紀 後 半 ) そ し て 南 端 に 中 田 横 穴 ( 国 指 定 ・ 装 飾 横 穴 ・ 六 世 紀 後 半 ) が あ る 。八 幡 横 穴 を め ぐ る 古 墳 文 化 の 環 境 は 、東 北 地 方 屈 指 の 重 要 な 地 域 で あ る 。 昭 和 五 十 年 二 月 に 三 〇 基 が 調 査 さ れ 、高 さ 一 五 m の 崖 面 に 四 段 一 群 の 横 穴 墓 群 が 判 明 し た 。古 く か ら 開 口 し 、羨 せん 道 どう や 玄 室 の 天 井 が 崩 れ た り 風 化 が 進 ん だ り し た も の が 多 か っ た が 、発 掘 の 結 果 稀 に 見 る 成 果 を も た ら し た 。玄 室 の 平 面 は 方 形 、あ る い は 長 方 形 で 、天 井 が 半 円 の ド ー ム 形 、短 い 羨 道 の つ く り 方 な ど に 特 徴 が あ る 。出 土 品 は 、馬 具 ・ 武 具 ・ 武 器 ・ 装 身 具 な ど 約 三 、〇 〇 〇 点 に お よ び 、中 で も 特 筆 す べ き も の に 唐 草 文 を 打 ち 出 し た 金 銅 装 太 刀 の 鞘 金 具 と 、忍 にん 冬 とう 唐 から 草 くさ 文 もん を 透 彫 り し た 金 銅 装 幡 金 具 が あ る 。 前 者 は 白 穴 横 穴 墓 出 土 の 双 龍 環 頭 太 刀 よ り 一 型 式 新 し い 様 式 で 、本 横 穴 墓 築 造 年 代 決 定 の 手 が か り と な り 、後 者 は 仏 教 用 具 で 全 国 的 に も 出 土 例 が な く 、奈 良 東 大 寺 に 伝 世 品 が あ り 、い わ き 市 へ の 仏 教 文 化 伝 来 の 初 期 段 階 を 示 す 象 徴 的 遺 物 で あ る 。
市指定史跡 板 いた 石 いし 塔 と う 婆 ば 五十八基 指 定 平成五年三月二十六日 所在地 いわき市四倉町薬王寺字塙 所有者 薬 王 寺 鎌倉時代 市 内 で 中 世 の い わ ゆ る 板 石 塔 婆 ( 板 碑 ) が 分 布 す る の は、 極 め て限定された地域である。旧大野村を中心に南は鎌田、西は赤 井、北は小川の地域で、特に薬王寺を中心に、その大半が集中 している。 薬 王 寺 境 内 の 板 石 塔 婆 は、 参 道 の 両 側 に 四 十 五 基 が 集 中 し、 石段の左右、手洗場付近、本堂左の池の中島、竹林などに合計 五十八基が林立している。境内整備により、板碑を原位置から 移動しているものも少なくない。 これらの板石塔婆は、 尖 せん 頭 とう で直方体をなす 花 か 崗 こう 岩 がん 系の自然石 を用い、いわゆる青石塔婆のような薄い板石とは異なる。頚部 に 二 条 の 凹 線 が あ り、 塔 身 部 に 供 養 主 尊 の 梵 字 の 種 しゅ 子 じ を 刻 し、 その下部に造立趣旨や年紀を表し、下半を土中に埋めて建てて いる。 年 紀 の 判 明 す る も の は 二 十 九 基 あ り、 弘 安 八 年 ( 一 二 八 五 ) か ら 永 和 四 年 ( 一 三 七 八 ) ま で の 約 一 世 紀 に わ た っ て 造 立 さ れ て い る。関東の武蔵・上野地方で急激に増加する鎌倉、南北朝時代 の時期と一致する。また、俗名・法名の具体例が十 二基ある。 これらの板石塔婆群がどのような人々によって営まれていた かという問題は未解決であるが、中世磐城の仏教文化を考究す る上からも、中世の石造文化財としても極めて重要である。
市指定史跡 鳥 と り 居 い 家 け 墓 ぼ 所 しょ 面積 三五・四㎡ 指 定 平成九年五月十三日 所在地 いわき市平字胡摩沢 所有者 長 源 寺 江戸時代 鳥居元忠墓 高さ 二〇九・〇㎝ 鳥居 忠 ただ 英 てる 墓 高さ 一九九・〇㎝ 鳥居元忠夫人墓 高さ 一四二・〇㎝ 磐 城 平 藩 主 ・ 鳥 居 忠 政 の 父 元 忠 は 、慶 長 五 年 ( 一 六 ○ ○ ) 四 月 、徳 川 家 康 の 上 杉 景 勝 征 伐 に 際 し 伏 見 城 を 死 守 し た が 、石 田 三 成 の 大 軍 に 抗 し き れ ず 討 ち 死 に す る 。将 軍 秀 忠 は 、 慶 長 七 年 ( 一 六 〇 二 ) 、 磐 城 平 藩 主 と な っ た 忠 政 に 父 元 忠 の 戦 死 を 称 え て 、そ の 菩 提 を 弔 う た め に 平 城 郭 内 の 地 に 長 源 寺 を 建 立 さ せ た 。寺 領 と し て 中 塩 村 の う ち 一 〇 〇 石 を 永 代 供 養 料 と し て 与 え た 。現 存 す る 墓 は 、正 徳 六 年 ( 一 七 一 六 ) 三 月 に 没 し た 下 野 国 壬 み 生 ぶ 領 主 ・ 鳥 居 忠 英 の 遺 言 に 従 っ て 、忠 英 の 墓 造 立 の 際 、元 忠 夫 妻 の 墓 を 改 修 し た も の で あ る 。 元忠・忠英墓は、同一の砂岩積みの基壇上に、 花 か 崗 こう 岩 がん 切石を 用いた基礎を三段積み上げ、その上に墓石を置く。基礎の左右 には三角形の裾石を置き、その景観は簡素でありながら大名家 の墓に応しく、極めて重厚壮大である。元忠墓は自然石に額縁 を刻み、清流院殿渕室長源大居士と刻む。忠英墓は基礎と同質 の花崗岩を 尖 せん 頭 とう 方柱とし、正面に浄泉院桃巖徹源鳥居候之墓と 刻 し、 側 面 と 背 面 に は 鳥 居 家 の 事 跡 が 漢 文 体 で 刻 ま れ て い る。 銘文は京都の儒学者伊藤東涯の撰文である。元忠夫人墓は、砂 岩の切石積み基壇上に基礎一段を置き、その上に淡黄色の凝灰 岩製の五輪塔が造立されている。 地 じ 輪 りん の正面に松嶽院殿と刻む。 慶 長 十 八 年 ( 一 六 一 三 ) に 没 し た が、 五 ご 輪 りん 塔 とう の 形 式 は 江 戸 時 代 中 期の様式である。 風 ふう 輪 りん が花弁状なのは、忠英墓造営時に元忠墓 と共に改修されたためである。 墓は元忠墓の東隣に接している。 市内に残る 数少ない大名墓として貴重な遺構である。
市指定史跡 堀 ほり 忠 ただ 俊 と し 墓 ぼ 所 しょ 面積 四・四㎡ 指 定 平成九年五月十三日 所在地 いわき市平字胡摩沢 所有者 長 源 寺 江戸時代 現高 一一三・五㎝ 堀忠俊の墓は、 五 ご 輪 りん 塔 とう である。この五輪塔は凝灰岩製で 空 くう 輪 りん ( 宝 ほう 珠 じゅ ) と 風 ふう 輪 りん ( 半 月 ) を 失 っ て い る が、 火 か 輪 りん の 笠 と 球 形 の 水 すい 輪 りん と 方形の 地 じ 輪 りん が遺存している。 忠俊の墓は、鳥居家墓地の西側に隣接する一段高い土端上に 造立されている。各部位の輪郭は、永い年月の風雨に晒されて 著しく風化が進行し、欠落したところもある。刻まれていたで あ ろ う 種 しゅ 子 じ ( 梵 字 ) や 年 紀、 あ る い は 施 主 願 文 な ど は 風 化 で 全 く 読み取ることはできないが、全体の景観から、建立当初の形態 的、様式学的要素を十分彷彿させることができる。特に基礎を 伴わないことや、地輪を直接地面上に据える仕様、さらに墓域 を区画しない様相など、中世的様相を色濃く残している。市内 に現存する近世大名墓として、また、近世初期の五輪塔として 石造文化財史上貴重なものである。 堀 忠 俊 は 慶 長 十 五 年 ( 一 六 一 〇 ) 越 後 福 嶋 藩 主 ( 新 潟 県 上 越 市 ) で あったが、家中の内紛のため四十五万石の領地を幕府に没収さ れ、身柄を磐城平城主鳥居忠政にお預けの処分を受けた。剃髪 して道記と改名し、平城の城郭内において茶を唯一の楽しみと し て 過 ご し た が、 元 和 七 年 ( 一 六 二 一 ) 十 二 月、 二 十 六 才 の 若 さ で没し、鳥居家の菩提寺である長源寺に葬られた。