旧約単篇 創世記の福音
主の山でのアブラハムの信仰
「ヤーウェ・イルエ」
創世記 22:1-14
「信仰の父」と言われるアブラハムの生涯の、一つのピークをなす出来事 です。新共同訳の見出しには「アブラハム、イサクをささげる」とあります。
最後の瞬間に、主の御使いの声が彼の手を停めて、アブラハムは息子を殺さ ずに済むのですが、10 節によればアブラハムは「手を伸ばして刃物を取り、
息子を屠ろうとした」のですから、「ささげた」のも同じだと言えます。こ れは
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節の御使いの言葉もそれを認めていますし、新約聖書の中でも、ヘ ブライ書の著者などは、「アブラハムは、イサクをすでに献げきった人なの だ」と、動詞の完了形を使って
と断定している(11:17)位 です。その視点から見ればこの見出しは決して間違ってはいないでしょう。面白いことに、使徒パウロは、このモリヤの地での劇的な場面には全く触 れません。パウロは、ローマ書でもガラテヤ書でも、アブラハムの信仰を力 説するのですけれど、不思議なことに、この話は使いません。パウロが強調 したいポイントの例証としては、
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章の「天の星を見よ。あなたの子孫はこ のようになる」という所の方が、ピッタリだったのでしょう。これは私の想 像ですが、もしパウロにこの22
章の記事に見出しをつけさせたなら、多分 彼は、「アブラハム、イサクをささげず」と書いたのではないかと思います。ヘブライ書やヤコブ書と矛盾するのではなくて、その信仰の重点を「息子を 屠ろうとした」(:10)瞬間にではなく、「主が備えてくださる」(:14)
の所に置いて、その意味も、「主が備えたものをお前は受けるのだ。お前が 備えるのではない」という響きに捉えたと思うのです。趣旨をご理解いただ けたかどうか、ちょっと別の例えに変えて、説明申し上げましょう。
義人ヨブの話は、聖書の読者なら大抵ご存じと思います。「ウツの地にヨ ブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」
で始まる、ヘブライ文学としても優れた作品です。そのヨブが突然彼を襲っ た事故と殺戮から、全財産を失い、十人の子供たち全員を失って、不幸のど ん底に落ちた時の言葉が残されています。
ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。「わ たしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御 名はほめたたえられよ。」このような時にも、ヨブは神を非難することなく、
罪を犯さなかった。(ヨブ 1:20-22)
ある意味で、これは信仰の極致でありますし、ここから深い感動を受ける ことも、また自分の信仰に適用して生きてみることも、大事だと思います。
ヨブの信仰に学び、それで生きてみるのです。
けれども、ヨブ記という長い詩の最後まで読み通してみますと、ヨブはそ の時の信仰から、また大きな飛躍を遂げたことが分かります。最後の頁で神 様がヨブに、「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」
と言われた時に、彼はこうお答えするのです。
「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを 仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改め ます。」(42:6)
四十数年前というと、私もまだ二十代でしたが、その頃に山本泰次郎氏の
「信仰と人生」という本を読みました。ヨブ記の講解書です。著者によると、
ヨブはここで初めて神と「私とあなた」の信仰に飛躍したと言われるのです。
ヨブの信仰の極致を知るには、ヨブ記の 42 章まで注意深く読んで、ヨブがそ こまで行くのに、霊的にどんな紆余曲折を経たかを知らねばなりません。
その時の経験から知ったのですが、ヨブの最初の信仰の段階、つまり、「わ たしは裸で母の胎を出た……主は与え、主は奪う」という言葉に、素朴に感 動するのも間違いではないのです。例えそれが、ヨブ記全体の流れと結論か ら言って、著者の意図に反するものであってもです。
アブラハムのドラマについても同じです。「アブラハムは、手を伸ばして 刃物を取り、息子を屠ろうとした」という所で素直に感動するのも、決して 間違ってはいません。現にヘブライ書の著者も、「アブラハムはあの時点で 本当に息子を犠牲にして捧げた、と言ってもいい」と言い切ります。「そこ までの従順に踏み切るだけの信仰を、彼はその時点で持っていた。と言うよ り、それだけ信頼申し上げる神を、アブラハムは既に持っていたのだ」と、
これがヘブライ書の見方です。
しかし、ローマ書で学んだ「アブラハムの信仰」から言うと、これは信仰 とは正反対の何かをアブラハムが献げようとしていた、恐ろしい瞬間であっ たことも事実です。神が「アブラハムを試した」(22:1)というのは、そこ でアブラハムが、本当の信仰に切り替われるだけの人物か……を試された、
と見ることもできるのです。かつて神が、呪いのこもったモーセの律法を、
敢えて人に命じられたと同じように、あの命令(22:2)で、神は信仰とは正 反対の“肉の業”の供え物の極致を要求して、アブラハムを、パウロが経験 したのと似た状況に置かれたのだと思います。彼がその袋小路で、果して目 を開くかどうかを、じっと見ておられたのです。スタートの地点に戻ります。
以下の観察は、二つの見出しにまとめてあります。一つは、新共同訳の見 出し、一つは先ほど、パウロに見出しをつけさせたら……と言いました、想 像上の見出し、福音による見出しです。「アブラハム、イサクをささげる」
と、「アブラハム、イサクをささげず」との両方です。どちらも大事ですか ら、さっきも申しましたように、結論と逆でも、最初の区分で素朴に感動さ れてもいいのです。
1.アブラハム、イサクをささげる :10.
これは、ヘブライ書と同じ感動の仕方です。彼は、神が「献げよ」とおっ しゃれば、最愛の一人息子を献げるだけの忠誠心を持っていた……と言うよ り、そこまで服従して悔いない神を彼は持っていました。子供の聖書学校な ら、「アブラハムさんは偉いね!」で済ませるのでしょうか。子供でも何か 疑問を持つ子は、いるかも知れません。
イスラエルの回りの民族の宗教で、長子を犠牲に献げて焼くという習慣が あって、預言者たちは、この蛮行をイスラエルが真似ることを厳しく戒め(エ レ 7:21)禁じています。それと変わらない恐ろしいことを、なぜ神は、初 めからアブラハムに命じたのか? もっとも、最後の瞬間に天使がアブラハム の手を停めて、息子を殺させなかったのですから、この疑問は「問うてはな らない」ことにして、引っ込めるのが普通で、その代わり、問題は「あなた の最も大事なものを神に献げて惜しくないだけの信仰をあなたは持つか」と いう問いにすりかえるようです。若い時の私も、そういう説教を試みたこと がありました。「あなたの献身と忠誠心は、そこまで徹底して純粋か?」と。
アブラハムの場合も、果して彼はそこまで行くくらい、神の意志に忠誠か、
テストなさった……と取るのが普通です。「神はアブラハムを試された」と いうのも、そこを試されたことになります。これはまた、15 節以下のコメン トを(謎とユーモアを読み取らずに)機械的に受け止めますと、そういう意 味になります。確かに大きなチャレンジにもなり、深い感動を生みますが、
その代わり、「私は所詮そこまでは行けない。私は不信仰で不徹底だ!」と 自分を責める結果になるのが普通です。長い間、私もそんな、「私の最上の ものを神に捧げるだけの純粋さを持つか」の自己分析に明け暮れていました。
文学の世界でこれをやったのが、日本でもポピュラーなアンドレ・ジッドの
「狭き門」です。
この四十年ほどの間に数回、この「イサクの燔祭」を取り上げて語ってい るのですが、前回……七年前の星田での発表の録音を聴いてみますと、この 頃から私は、アブラハムにとって、独り子のイサクを神がお取りになるとい うことの意味が、分かり始めたようです。それは単に、自分にとって最も貴 重なものを犠牲にできるか……というテストではなかったのです。アブラハ ムにとってイサクは、「最高の宝」以上のものでした。それは、神が約束を 果たされることの活きた証拠だったのです。生まれる筈の無いものが、神の お言葉の通りに与えられた。それは、神が生きて働いておられる“しるし”
――彼が身を以って体験した神の奇跡でした。アブラハムが、しようと思え ば信仰の最後の“拠り所”にできるその有形のしるしを、神がお取り上げに なっても、それでも、生ける神を信じる信仰を持ち続けるか……。そういう、
つっかえ棒抜きの人格的信頼があるかどうか、神は試されたのでした(22:
1,16)。抽象的に聞えたとしたら、次のことを考えてください。
私たちにとっても、そんな「神は私を祝福なさった」と信じられる証拠み たいな、信仰の拠り所か“つっかえ棒”のような出来事や人があると思いま す。それは、祈って病気が癒された経験であるかも知れません。あのとき死 ぬ筈だった者が生きている! 行き詰まった事業や家庭が立ち直った奇跡も あるでしょう。また「この人がいてくれる」という貴重な存在も神の業の証 拠です。「これがあるから私は神が生きて働くことを信じられる。」 その貴 重な証拠を、もし神が私からお取り上げになって、「これは私への燔祭とし てモリヤの地で放棄せよ」と言われた場合、私はアブラハムのようにそれを 棄てて、神御自身を信頼できるか。それだけの神を、あなたはキリストの中 に見たか。
「アブラハム、イサクをささげる」という視点から、二つの見方を紹介し ました。① あなたの最も貴重な宝を献げられるか? ② 信仰の拠り所に支え になる有形のしるしを取り去られても信じるか? これは、私たちを真剣な信 仰へと招くチャレンジでありますし、受け止め方によっては一時的に、勇気
とビジョンを与えてくれる貴重なテストです。でも、本当に突き詰めて考え、
徹底的に自己分析をしてみれば、これはやはり「信仰の純粋さ」のテスト、
「実績の証拠」の吟味に過ぎません。そして、その終点には律法の呪いが見 えているのです。
2.アブラハム、イサクをささげず :13.
こんどは、アブラハムの従順がそこまで徹底して、一途なものだったとい う点にあまり感激しないで、彼の行き着いた極点が「信仰」とは異質の、逆 のものだったことに、ハッと気づくだけの鋭さを持っていたアブラハム……
に注目してみましょう。私たちが第1段で感動したことが、実はローマ書や ガラテヤ書でパウロが教えた福音の信仰とは正反対のもので、律法による「自 分の義」の極みであった、という見方です。私たちの発想の原点は 14 節の「ヤ ーウェ・イルエ」(主が備える)です。この言葉だけを中心に置いて、アブ ラハムの純粋さや、アブラハムの犠牲は、それとは異質だったと見るのはど うでしょうか。
13.アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の 雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代 わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。 14.アブラハムはその場所をヤー ウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも
「主の山に備えあり(イエラエ)」と言う。
「ヤーウェ・イルエ」
ha,r>yI hw"hy>
というヘブライ語を、ユダヤ人たちは「ア ドナイ・イルエ」と読み替えました。新改訳はこのユダヤ人の習慣に従って います。これは、hwhy
(ヤハヴェ)という聖なる名を口にするのを畏れて避 けた(出 20:27)ためです。新共同訳では意味を括弧に入れて(主は備えてくださる)としています。
本当は、「主が備えるのだ」と訳すのが、ここの物語の流れから言っても、
ローマ書でパウロが言うアブラハムの信仰から言っても、相応しいと私は思 います。「主が備えるのだ」つまり、「お前がじゃない!」という意味です。
アブラハムの偉いところは、それまで思い上がって献げようとしていた「自 分の義」から“目を上げて”(
aF'YIw: ,直訳)主が備えた雄羊を見たことです。
私はアブラハムが「偉かった」と申しました。信仰の目を持っていた、とい う意味です。
もしこれがエフタだったら、どうでしょうか。「主よ、こんな最後の瞬間 になって、いまさら『献げるのを止めよ』など、おっしゃらないで下さい。
私のまことを御疑いになるのですか。この手にある刃物をご覧下さい。立派 に覚悟しているわが子も見て下さい。御命じになった通りにお献げ申し上げ る地上最高の献げ物を、決して停めたりしないで下さい。」「お約束どおり、
この私が間違いなく捧げます!」
しかし、主は言われたのです。「主が備える。お前ではない」と。
もう一度、あの問いを問い直してみましょう。「主はなぜ、初めから御本 心ではなかった人身御供を、アブラハムに命じられたのか?」この問いも、
またその答えも、使徒パウロがローマ書とガラテヤ書で、論じ尽くしている のです(ロマ 7:7 以下、ガラ 3:21 以下)。
主の聖なる意志が初めから、人間が「自分の義」を立てるのでなく「神の 義」を受けることにあったのなら、あのモーセの律法を何のために、神は御 与えになったのか?(ロマ 7:12)この問いと答えです。
「神はアブラハムを試された」という言葉も、「神はアブラハムに命じた」
という言葉も、それと同じ意味と重みを持っているのです。創世記 22 章の 13 節と 14 節を、以上の観察に基づいて、特に「アブラハム、イサクをささ
げず」の感動に基づいて、再読します。
13 アブラハムは目を上げた。すると彼には見えた。後ろの木の茂みに一匹 の雄羊が角をとられているのが。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息 子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。14 アブラハムはその場所を ヤハヴェ・イルエ(主が備えるのだ)と名付けた。そこで、人々は今日でも こう言う。「主の山で人は、備えて頂いたものを受ける(イエラエ)
ha,r'yE
」と。
《 結 び 》 アブラハムの信仰
「アブラハムの献げ物」ではなくです。もちろん、「アブラハムの献げ物」
からも、感動とインスピレーションを、人は受けることができます。献身へ の励ましを受けることもできるでしょう。しかし、本当の福音の深い慰めは、
「アブラハムの献げ物」からではなく、「アブラハムの信仰」から受けるも のです。そして、アブラハムの信仰は「神が備えた小羊を受ける」ことにあ りました。それはパウロの言葉で言えば、「信仰によって立つ人が、取りも 直さずアブラハムの子」(ガラ 3:7,9)です。アブラハムが「主に備えてい ただいて受けたもの」は、「信じる者すべてに与えられる神の義」(ロマ 3:
22)でした。「神ご自身の手で置かれた犠牲、罪を覆って消す覆い―キリ ストご自身」(同:25)のことです。
私たちの受ける励ましが、もし、アブラハムが献げた献げ物から来るので あれば、私たちは、アブラハムと同じくらい高貴な生き方へ、最高の犠牲を 払って悔いない忠誠へ揺り動かされるでしょうが、同時に哀しい中途半端な 自分の幽霊に、最後まで付きまとわれるでしょう。しかし、もし私たちの受 ける励ましが、アブラハムが「主に備えていただいて受けた」信仰から来る のであれば、私たちは、この創世記の故事を思い出す度に慰められ、喜んで 感謝を捧げることができます。
昔のユダヤ人の祝福の表現に、「アブラハムのようであられるよう」とい う挨拶があったと言います。英語なら“May you be like Abraham!”「あ なたもアブラハムの如くあらせられるよう!」と、お互いにこう言って祝福 し合ったのです。ユダヤの人たちが、どんな意味をこめて言ったかは別とし て、「モリヤの地へ準備してきた自分の献げ物を放棄して、神が備えたもの を受けたアブラハム」であれ……という意味なら、私たちもまた、お互いに、
「アブラハムであってくれ」と願うことができます。
“May you be like Abraham !”
“Yes, I shall surely be like Abraham !”
「あなたも、アブラハムのようであって下さいね!」
「ほんとだ、私も、アブラハムと同じになれるんだ!」
(
1998/09/06
)《研究者のための注》
1.「主が備える」の読み方は ①「ヤハヴェ・イルエ」、②「アドナイ・イルエ」の他に 文語訳の ③「エホバ・エレ」があります。①と②については本文中で説明しました。
③の「エホバ」(イェホヴァー)は
hwhy
の誤読によるものです。2.創 22:16,17 は、アブラハムが主の命令に忠実に従って最高の献げ物を捧げたことを 認めて祝福されたと見ることも可能です。この場合祝福の意味は恐らくアブラハムが
「信仰の拠り所」となり得る「目に見えるしるし」イサクを神がお取りになっても、
なお神を信じたことへの優しい評価でありましょう。
3.「ヤハヴェ・イルエ」の「イルエ」“
He will see
”はフランシスコ会訳の注にあるよ うに「お計らいになる」意味と思われます。その後の「イェラエ」は受動(Nif’al
)で、一応「見ていただく」「お計らいを頂く」意味に受け止めて、「備えていただい たものを受ける」意味に解しました。主語は“one”のような不特定の 3 人称でしょ うが、古代ギリシャ語訳(七十人訳)は「(神は)見られる,現れる」意味に解して
と訳しています。句読も「主の山で」でなく「山で主は」と区切って、「主」を主語と解したものです。
4.アブラハムが独り子イサクを犠牲にすることの中に、神が独り子イエスを死なせ給う ことの絵を(予型として)見る人もいます。日本の神学者北森嘉蔵氏の著書「神の痛 みの神学」には、この線に沿った発想も見えます。また、父の手に自らを委ねて殺さ れようとするイサクに、御子イエスの姿を見る人もいます。いずれも、この創世記本 文の釈義からは遠いと、私は思います。
5.アブラハムがイサクを献げるために行けと命じられた地「モリヤ」
hY"rIMoh;
(神が現れる場所の意)は、ソロモンがエルサレム神殿を立てた山の名(代下 3:1)と一致しま す。「神の現れの地」を意味する象徴的な名なので、同一の地と断定することはでき ません。上記
LXX
の「イェラエ」の訳語
は恐らく、この「モリヤ」の語義に 合せて訳したものと考えられます。6.このモリヤでの出来事になぜパウロが言及しなかったかは不明ですが、恐らくパウロ の目的が「割礼以前の彼の信仰」(ロマ 4:12)を強調することにあったため、この 22 章よりも 15 章の故事を選んだものと思われます。
7.最後に引用した「アブラハムのようであられるよう」は、英文の書物からの引用で、
ヘブライ語の原型は不明です。織田による試訳は