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若い日の九州文化史研究所の思い出

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

若い日の九州文化史研究所の思い出

秀村, 選三

九州大学

https://doi.org/10.15017/1960025

出版情報:九州文化史研究所紀要. 61, pp.1-20, 2018-03-30. 九州大学附属図書館付設記録資料館九州 文化史資料部門

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若い日の九州文化史研究所の思い出        一

九州大学の記録資料館九州文化史研究部門は一九三四年法文学部の九州文化史研究所として創立され、既に八三年を経過しているが、これまで創立以来、今日に至る経過を記録したものはごく簡単な記述があるのみである。以前からの経過を記憶していた方々も今は全く居られなくなったので、せめて戦後に私が九州文化史研究所(以下文化史と略称)に出入りし、大きな恩恵を受けていたことを回想したいと思う。ここに「若い日」というのは文化史の若い時代と私自身の青年期とを重ねている。私が文化史を訪れた頃はすでに長沼賢海先生は退官されていたが、時々研究所に来られて、文書を見られたり、初期の頃のお話をされていた。私は一九四二年福岡高校卒業を半年早められ、卒業後には東大か京大の国史学科(当時は無試験)に進学するつもりであったが、当時東大大学院にいた西洋古代史専攻の兄欣二が「国史はどこの大学も国粋主義で偏狭だから国史には行くな」と言い、私もそのことは感じていたので国史以外の進路に大いに悩んだ。ようやく旧制福高の教授玉泉大梁先生から日本経済史の本庄栄治郎教授の居られる京都大学経済学部をすすめられ、「社会科学を学んで歴史

若い日の九州文化史研究所の思い出

秀 村 選 三

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若い日の九州文化史研究所の思い出 を学ぶのはよいよ」とも言われて、京大経済学部に入学した。京大では統計学の蜷川虎三教授から多くの経済学者への批判を冗談まじりで笑いながら聴いたが、社会科学のものの考え方を初めて学び、これは後になるほどよかったと思うようになった。同期の文化勲章受領の森嶋通夫氏は「恐ろしく古風な統計学だった」と批判しているが、社会科学を何も知らなかった私には大きな教えであった。そのほか黒正巌教授の経済地理学や白杉助教授の経済学史や出口講師のマックス・ウェバーなどが学問の世界を教えてくれた。やがて学徒出陣で海軍に勤務。父は青島で山東礦業株式会社の社長や魯大公 コンの日本側代表をしていたが、敗戦で未帰還のまま追放。わが家は戦災、預金封鎖、在外資産の全部喪失で、私は蜷川経済学部長のお勧めで九大へ転学したが、全く目標を失い、焼け跡の整理や畑を作り、食料の買い出しをしながら前途に失望していた。しかし全く幸いにも半年後に本庄先生門下の宮本又次教授に出会い、そのゼミに入り、前途に希望をもった。先生の御指示で文化史を訪れて古文書を閲覧、利用し、大学院特研生、経済学部助教授、教授として勤務。常に文化史に出入りして研究を続け、定年退職後も長くお世話になっている。一生の間の恩恵には心から感謝している。私の学生時代、文化史は日本法制史の金田平一郎教授と日本経済史の宮本教授が協力して活動されていた時代で、国史の教授、助教授はおられなかった。戦前は日本経済史の遠藤正男助教授が金田先生と協力して活動されていたが早く亡くなられ、金田・宮本両先生が協力して活動されていた時代であった。私は大学院特別研究生として宮本先生から指導を受けたが、当時マルクス主義一辺倒の経済学部の研究室には私の机はあるものの、居辛くて、「地下に潜る」と言って常に地下室の文化史に行っていた。私が助教授になった後も大学院の藤本隆士君、武野要子さんも文化史に来ていた。先輩の都留大治郎助教授は研究室が隣り同士で、なんとなく親しく、頼りにしていたが「秀村君は(マル経の)身体障碍者だから優しくしてやれ」と若い連中に言ってくれていたそうである。金田・宮本先生はよく文化史に来られ、お互い親しく話されるのを傍らで聞きながら啓発されることが多く、大

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若い日の九州文化史研究所の思い出 きな火鉢を囲んで(木炭の赤い火がなつかしい)、私達も自由にお話しできて大変楽しかった。

       二

文化史は一九二七年(九大法文学部の設置数年後)の教授会議事録には「史料蒐集ニ関スル調査ノ件」に、佐々教授より九州は歴史上文化の源泉であり、法文学部として史料調査上有利と指摘し、史料蒐集の調査員を設けられたいと提案、法科は佐々教授(政治史)、武藤助教授(西洋法制史)、文科は長教授(西洋史)、長沼教授、経済科石浜教授(経済史)、小島助教授(経済学史)で、一九三四年には学内処置で学部内に九州文化史研究所が設置された。今は九大付属図書館付設記録資料館の九州文化史研究部門で(別に石炭研究資料センターの後身の産業経済資料部門がある)、創立以来九州中国地方の古文書、古記録を収集、保存し、一九五〇年代頃までは、各地の古文書、記録を筆写、影写し、写本、影写本として保存し、一九六〇年代以降は写真撮影して保存、所蔵している。さらに日本の地域史、九州地域史の史料集、研究文献、資料等を所蔵し、教員、院生、学生や学外の研究者にも文書の閲覧、学界の情報を知らせるなど、地域史研究の重要な拠点の一つになっている。その後大学本部(現大学事務局)より予算の一部が計上され、助手一名がつけられた。研究所は法文学部内に設置され法科・文科・経済科の教授数名が所員であり、ほかに補助員がいた。法文学部の教授会で予算を計上、支出されていたが、三学部に分立後は各学部教授会で分担し、三学部より文化史関係の教員が所員で、所員会が研究所を運営していた。初めの頃から戦後も所員は少なく個人的に親しかったので所員会の議事録も作成されてなかった。その後、議事録がないため、所員でもない、これまでの事情を全く知られない歴史の専門外の文学部教授数名が出席されて、従来の申し合わせを無視して文学部の一講座にしようとされて遺憾なこともあった。

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若い日の九州文化史研究所の思い出

一九五一年以降今日まで研究誌「九州文化史研究所紀要」を刊行し研究、調査の論文、目録等を載せ、別に一九五六年以降近年まで「九州文化史研究所所蔵史料目録」を刊行している。数年前刊行の『石本家文書目録』一・二・三は学界で高く評価されている。文書目録は文化史の生命の象徴で学内外の人々が期待しているだけにぜひ刊行を「継続」してほしいという強い要望がある(とくに学外の各地から)。一九四八年に文部省に文部省庶民資料調査委員会が設けられて、五二年まで継続された。戦中戦後、全国的に古文書、資料の廃棄、散逸甚だしかったため、これを防止、保存しようと慶応大学経済学部の野村兼太郎教授を発起人として全国に呼びかけて、全国の都市町村の旧家に所蔵されている庶民資料を調査、採録することになり、九大は九州地区の取りまとめ役で文化史が九州各県の委員との交渉、連絡にあたった。最初の委員会は九大付属図書館長の金田教授を代表者として館長室付属の会議室で開かれた。森克己・竹内理三・喜多野清一・古野清人・宮本又次・玉泉大梁の各委員のほかに学内講師桧垣元吉、助手三木俊秋、特別研究生の安藤精一・森山恒雄・中村正夫・服藤弘司・秀村らが調査補助員として出席した。私はその日の熱気を忘れられない。やがて森教授転出、金田館長御逝去で、箭内健次教授が委員になられ所員会を司会された。庶民資料調査は、各委員が熱心に調査を指導され、研究を始めてまもない多くの院生たちが、各地を訪れる機会を与えられて、熱心に調査、採録し、その成果を競いあった。それまで全く学界に知られてなかった大量の古文書に出会い、採録に忙殺されることも屢で、私個人の経験では、長崎県生月島の益富組の鯨組文書に出会い、やがて捕鯨業の厖大な文書を若い研究者数人と共に採録、研究したが、今は後続の若い研究者により研究が続けられている。かかる事例は多く、現在でも若い研究者に文書所在の旧家やその土地に密着して長い期間研究する機会を与えることは大切であると思う。この庶民資料調査では各委員、調査補助員は地方の町村浦の旧家を訪ねて、保存されている古文書、古記録を採

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若い日の九州文化史研究所の思い出 録した。規定では慶長元年(一五九六)より明治四五年(一九一二)までを採録することになっていたが、近世の古文書、古記録が予想以上に厖大で、近世中期、ことに天保以降、明治初年の数量は無限で、明治期はせいぜい十五年位までアトランダムな採録で、それ以降に及ぶ採録は、特殊な場合以外は少なかった。この調査はこの後も永く継続されたらよかったと思うが、一九五二年で終了。その後は全国の各大学、図書館、文書館、資料館等に引き継がれている。若い研究者に地方に如何に多くの古文書が残存しているか、その所在を知らせ、それらを利用することで近世史研究のブームが全国的に展開された。それ以前は国史の学界は中世までが研究の基本であって、中村吉治先生が卒業論文のテーマに近世初期の農民史を選んだら指導教授に「猿に歴史があるかね」と云われたとか、熊本大学の森田誠一教授が東大国史学科の学生の頃は、卒業論文で選ぶテーマは古代、中世で、近世を選ぶ者は怠け者と見られていたと話されていた。戦前は社会経済史学会の『社会経済史学』日本経済史研究所の『経済史研究』が近世の論文を掲載していた。この庶民史料の調査では、調査を通して古文書が大学、研究機関、図書館等に寄贈、寄託されることにもなった。最初の頃の私の思い出では福岡県田川郡金田町(旧小倉藩金田手永)の大庄屋六角家の古文書を調査しているとき、ご当主が然るべきところに寄贈したいお気持ちなので、竹内理三教授にお願いして六角家まで御案内し、当主に会われて九州文化史への寄贈を快諾され文化史所蔵となったが、その後も庶民史料調査を通して文化史に寄贈を受けた文書は多い。私が関わった薩摩藩吉利の文書(中世文書)や、北九州市の清末文書は中世文書のみは日本史研究室に所蔵されているが、もとは文化史に寄贈されたものである(清末文書の近世文書は文化史に収められている)。

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若い日の九州文化史研究所の思い出        三

九州文化史研究所の人物の最初に挙げねばならないのは当然長沼賢海教授である。先生は一八八三年(明治一六年)誕生、東京帝国大学国史学科卒業、一九二〇年広島高等師範学校教授、二三・二四年仏・独・英へ留学、一九二四年から四三年まで九州帝国大学教授(法文学部)、以後名誉教授で、一九三七、八年には法文学部長をもされた。四四年以後七〇年まで久留米大学講師・教授・客員教授をされ、一九八〇年に九七才で逝去された。その研究は多岐にわたり多数の御著書、論文があり、『恩師長沼賢海先生の思い出』(編集者井上忠・渡辺正気、発行者鏡山猛)の中に「長沼賢海先生著作目録」があり、九三才の時に刊行された『日本海事史研究』の「序」には先生御自身で御生涯の研究について要約されているので、これを読んでいただきたいと思う。先生は文化史研究所の生みの親、育ての親であり、退職後もお住まいの太宰府から屡研究所に来られ、若い我々にも声をかけられて教えられることが多かった。一九五二年五月九大での社会経済史学会の大会の最終日には大宰府の見学を先生にお願いし、広汎な大宰府地域の現地見学、解説は大変好評であった。私が学生、院生、助教授前半の頃は文化史の古文書は函に入れられて書架に配列されていた。文化史に寄贈された備中国乙島村の「乙島文書」や肥前「名護屋組文書(松尾家文書)」は長沼先生が最初に入れられたもので、後に豊後日田の千原家文書、筑前国四郎丸村の大庄屋古野家文書、遠賀郡修多羅村大庄屋楠野家文書等は遠藤先生が研究され、交渉され、金田先生が協力されて研究所に寄贈されたと聴いている。このほか一九四六年頃私が最初に文化史を訪れた頃には、部屋の北側の壁一面に幾つも硝子張りの大きな書架が並べられ、文化史で書写した和綴じの写本が地域別、藩別に配列されていた。名護屋組文書は肥前唐津藩の名護屋組の大庄屋松尾家の所蔵で、戦前に寄贈されたもので、戦後私が松尾家を訪

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若い日の九州文化史研究所の思い出 れた時にもなお多くの古文書があり、寄贈をお願いしたら、御当主松尾悠氏が研究所においでになり、以前御寄贈の名護屋組文書をご覧になって、追加の寄贈をして頂いた。私は院生の初めの頃、この文書に見える「無足人」を宮本先生のお勧めで研究したことがあり(「無足人に関する一考察」「日本史研究」第九号、一九四八年)、その後も小川島・生月島の鯨組への出稼ぎの職人もいたのではないかと関心を持っている。(日本経済史研究所の『経済史研究』にも「無足人の研究」を書いた)長沼先生は九州各地の古文書の写本を多く作らせられ、奥様が筆写された写本もあるとのことである。各地に古文書を採訪されて文化史には多くの写本を作らせ、対馬の古文書の写本は先生が鏡山猛氏(当時助手・後に考古学の教授)を伴って採訪されたと聞いている。戦争末期には井上忠氏(後、福岡大学教授)も文化史に勤め、長沼先生は対馬には度々行かれたと言われていた。文化史には対馬の影写本があり、以前は文化史には影写装置もあった。私が筑後国生葉郡山北村の研究を始めたのは、先生が文化史に作らせられた山北村河北家文書の写本を見、また先生のお話しを聞いて山北を訪れたのがきっかけで、その後宮本先生、喜多野先生もお出でになって指導を受け、ことに喜多野先生は河北家の同族団には研究の意欲をもたれ、御調査にお供をして教えられることが多かった。先生はご病気のため以前の対馬の村や山北村の調査、研究を中断されたのは、まことに惜しく残念であった。私は先生の御指導を受けながら山北村の河北家の本家、分家や大庄屋吉瀬家の古文書に取り組み長年調査して論文数本は書いたが、未だ著書にはしていない。喜多野先生が「大変いい村だが研究には大きすぎるね」言われたのが骨身に沁みている。今は未完のまま論文集として刊行する決心をすべきかと思っている。長沼先生の講座には助教授が居られなかったし、国史の第二講座の竹岡教授、西尾講師は日本思想史で、ご退官後文化史を継承される教授はおられず。戦後に森克己・竹内理三両教授が来られて、文化史の所員になられた。さきに触れた一九五二年夏の九大法文経の天草の共同調査では経済史班・法制史班は宮本教授にお供して天草を

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若い日の九州文化史研究所の思い出

廻った時には、各地で以前に長沼先生が史料採訪においでになったと聞いた。この時長沼先生が古文書を借り出されたまま返却されていないと言われ、文化史研究所で探したがなく、先生はなくなられているので探しようがなかった。その後大分経って或る方が亡くなられて御蔵書の中に多数の古文書があり、対馬の文書は対馬の出身の方に頼んでお戻ししたが、天草の文書は見出さなかった。その他にも各地の文書があるが、原所蔵者を確定するのは困難である。先生のような当時のエライ先生はおそらく助手あたりに返却を命じられて、それがそのまま助手のもとに留まった可能性が大きいのではないだろうか。九大経済学部所蔵の革座の文書の一部も上記の蔵書中にあり、文庫に入れられているのを後になり気づいた。おそらく長沼先生としては返却されていないとは全く心外なことであろう(前記『恩師長沼賢海先生の思い出』には先生が文書の返却に気を遣われたことが書かれている)。また以前櫛田神社の『博多津要録』の巻一が無いのは九大(長沼先生)が持っていかれたままだと伝えられていたが、玉泉先生が明らかにされたように、既に明治時代から欠けていたのである(『福岡県史』に書かれている)。玉泉論文をお見せして、神社でも納得された。以上は長沼先生の御名誉のため書いたにすぎない。

       四

長沼先生に若い日からご協力されたのは、法文学部法科日本法制史の金田平一郎先生である。御長男久仁彦氏によれば、先生は一九〇〇(明治三三年)茨城県玉造町に生まれられ、三才で母上を亡くされ祖父のもとで育てられ、論語の素読などさせられた。京北中学校に入学。母上の御実家両角家から通学された(母上の弟は比島の軍司令官両角業作中将、その子息良彦氏は通産事務次官で日本エッセイストクラブ賞の方である)。先生は第二高等学校に進学。土井晩翠教授にドイツ語を習われた。東京帝国大学法学部を卒業、中田薫教授の門下として長年薫陶を受けら

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若い日の九州文化史研究所の思い出 れ、久仁彦氏は中田先生の「子を思う気持ちにも似た封書一〇〇通が残っている」と云われる。一九二八年九大法文学部講師、日本法制史の授業担当、一九三〇年助教授、一九四〇年教授に昇任、法制史講座を担任。さらに九大付属図書館長を兼任されたが、在職中の一九四九年一〇月七日に御逝去。四九才であった。私は宮本又次教授のもとでの学生、院生であった時に金田・宮本先生が大変親しく交わられ、その傍らで多くのことを学んだことを心から感謝している。先生の研究業績については、和仁かや准教授が「金田平一郎と九州帝国大学」(『法政研究』第八三巻第三号、二〇一六年一二月)に詳しく述べられている。私は高校生の時、法律学をドイツに留学しナチスびいきの教授に習い、法律は嫌になり、京大経済学部では民法を聴講したが、法律学は苦手の感じであった。しかし九大で法制史の「史」の文字にひかれ、経済学専攻の学生には日本法制史は単位にはならないのに金田教授の法制史の講義を聴いた。近世の商品流通を主題に講義されたが、法律学の用語はあまり使われず、近世古文書の用語のままで講義されるので親しみやすく印象の深い講義で、法制史に親しみを覚えた。金田先生が亡くなられた後まもなく法制史学会が創立されたが、宮本先生が入会されたので私も入会した。法制史への親しみを金田先生から与えられていたからであろう。その後法制史学会の関西学院での大会では「近世の上方奉公人」の報告をさせてもらったこともあった(『九州文化史研究所紀要』第四号)。先生の御逝去後、西洋法制史の吉田道也教授と院生の服藤弘司君には親しくして頂いた。宮本先生は金田門下の服藤弘司君に目をかけられ、彼も我々宮本グループと親しくなり、史料採訪や論文集執筆などを共にした。彼が金沢大学、後に東北大学に赴任した後は九大に日本法制史の人が居なくなり寂しかった。吉田先生は私の兄の中・高・大学以来の友人で、先生と我ら兄弟共に無教会主義キリスト教の教友でもあり、私は外国書の難解な所を教えてもらったりもした。金田先生の亡くなられた後には、服藤弘司君は宮本グループの一

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若い日の九州文化史研究所の思い出

員のように史料採訪や論文集執筆にも参加して、益々仲良くなった。彼が金沢大学、後に東北大学に赴任した後も長く付き合い、奥能登の時国家の調査に案内されて時国分家に泊めて頂いたり、北海道の学会後、藤本隆士君と道内を漫遊して懐具合が寂しくなり、仙台の彼のところに転がり込んだり、後に仙台で服藤君、作道洋太郎君と三人で呑んで若い時の九大法文学部の先生方は素晴らしかったなと語り合ったこともあった。私の研究で法制史的な難しい問題にぶつかると電話であれこれ教えてもらい有難かった。思えば彼との交友は金田先生のお蔭であった。それだけでなく金田先生のあとに先生のご後輩の高柳真三、石井良助、東洋法制史の仁井田陞の諸教授が集中講義にこられると文化史で素ぼくな歓迎の宴をしたが、旅先なので先生方も思わぬ放言をされて面白かった。その後も石井先生には個人的にも種々の教えや恩恵を受けた。金田先生の余慶と思っている。九州文化史は、法文学部の地下にあったが、地下と云っても半地下なので西側の窓から明るい陽ざしが差しこみ、一階の中型教室と同じ広さなので広く余裕もあった。私は宮本又次先生の日本経済史のゼミで博多織のテーマを与えられ、先生から『博多津要録』を見るようにと紹介の名刺をいただいて訪れたが、古文書がよく読めずに、筆写の事務員に習いながら、それもあまり頻繁に聞くのは遠慮して『難読字典』で文字を探しながら読む状態であった。まだ『古文書解読字典』など古文書の手引きの本は全く出版されてない時代であった。やがて法文学部は三学部に分立、大学院特研生の法学部服藤弘司君、文学部安藤誠一君、経済学部は私に各人文化史の研究員として机を与えられて嬉しかった。金田先生と宮本先生は瀕繁に文化史研究所に来られてお互いにお話しされるのが興味深く大変貴重なお話で、さらに私達と火鉢を囲んでの雑談も大変楽しく、先生方のお話は聞いていて面白かった。金田先生は瀟洒なスタイルの、いかにも大学教授という方であるが、堅苦しい方ではなく親しみやすく、宮本先生は上品な方で明るく、常にあけっぴろげ、すべてに速く、慌てん坊の失敗も多いのでみんなの人気があり、お二人のお話は大変楽しいもので

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若い日の九州文化史研究所の思い出 あった。お歳は金田先生が十歳の年長で兄弟のようにお親しかった。両先生は戦時中に史料採訪に行かれた時のお話をよくされたが、史料採訪は当時食料難なので「飼料」採訪でもあったと言われていた。佐賀県の多久では、村長が旧御屋形(領主)で東大国史学科の御卒業、古文書を大切に保存されて、いかにも葉隠武士の殿様だったと言われ、多久には優れた大量の古文書があるから、誰か研究したがよいと勧められていた(助手の三木君が研究を続け神戸女学院大学に赴任、多久の研究を完成された)。お二人で大分県日田の日田金(ひたがね)の文書を見に行くと言われていたが、帰って来られて言われるには、大きな駅に着いたので日田と思って降りたら佐賀だったので、鍋島家の内庫所の古文書を見てきたとのこと。おそらくお二人は鳥栖での乗り換えの時も話し込まれたまま九大線と長崎本線を間違えられたのも気づかれず、車中も話し続けて反対方向の佐賀に着かれたのだろうと皆で楽しく笑ったこともあった。一九四七年の夏休みには、秋月の黒田家の御曹子が宮本ゼミの学生であったからであろう、黒田家の古文書の曝書に金田・宮本両先生が、文化史で筆写する古文書を借り出されるため行かれるのに私もお供した。先生方は文書を見られて昼の食事後にはお昼寝をされたが、私には昼寝をする度胸は無く、読めない文書をあれこれと眺めていた。その日古文書数点を文化史で写すためにお借りになり、帰り道で秋月の葛の店で葛を買われたが、統制外なのでどれだけでも売るとのことで、先生方は沢山買われ、宮本先生は本庄栄治郎・黒正巌両先生にも送らせられた。食糧難の時代であったので両先生も喜ばれたであろう。私は文化史で古文書筆写後に秋月に家内とともにお戻しに行き、殿様ご夫妻にお会いした。大正天皇の御学友としてのお話をお聞きし、また私が『福岡県農地改革史』執筆の一員だったので古文書を調査できるようにしてくださり、家内も秋月で初めて古文書を写し始めた。夏休みには長崎・平戸への古文書採訪にお供したが、車中で宮本先生が金田先生に「秀村君は大学院を志望して

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若い日の九州文化史研究所の思い出

いて、農村奉公人の研究をしたいと言っています」と言われたら金田先生は「それは良いテーマだ」と言われ、「質奉公人というのがいるよ」とも言われた。宮本先生は以前私に「農村奉公人は農村を広く見なければならないから大変だよ」と言われていたが「テーマを変えよ」とか、別のテーマを指示されないままの時であった。おそらく宮本先生は金田先生が「良いテーマだ」と言われ、以前に雇傭法の優れた論文を書かれている方なので、「やらせてみるか」と思われたのであろう。その後私は農村奉公人をテーマとして研究を続けたが、金田先生のあの時のお言葉のお蔭と思っている。もっとも長い間取り組んで痛感したのは宮本先生が「そのテーマは大きく広がりすぎて大変だよ」と言われたのも、まさしくその通りで、両先生のお言葉は一生私の研究生活の課題になっている。長崎では県立図書館で古文書を見られていたが、私が古文書を読めず文書を眺めていたら先生方が「君も読みたい文書は借り出してあげるよ」と言って下さったが、私にはまだ見当もつかないままであった。長崎から平戸に行きお城の天守閣に登り、平戸の港や遠くの海や城下を眺めて、いかにも松浦党の子孫の海の領主だなと思い、さらに先生方が御存知の城下の旧家を訪問したが、城下の気品のある方言には感じ入り、地域を大切に学ばねばならないと思った。翌年の三月には金田・宮本両先生に、新任の国史の森克己先生も加わられ、服藤弘司君と私がお伴で、鹿児島県の史料採訪に行った。鹿児島から指宿・山川の旧家の文書を拝見し、さらに枕崎に行こうとしたが、戦時中に山が荒れて道も消え、猿の群れもいるので無理だと言われて、鹿児島に引きかえし伊集院から南薩線で枕崎に行った。枕崎は鰹の大漁で私達も鰹の生干しを手にもち、焼酎を呑んだ。或る老人が焼酎を呑みながら「戦争に負けたからとショボショボするな、薩摩は秀吉に負けた、関ヶ原で負けた、西南戦争でも負けた。碁将棋に負けたくらいに思えばよかとじゃ」と意気軒昂なのには度肝をぬかれ、さすが薩摩隼人の国だなと薩摩藩が好きになり、その後長く薩摩・大隅を調査、研究するようになった。

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若い日の九州文化史研究所の思い出 坊の津からは市の助役さんがトラックで迎えに来てくれて、「皆さん、荷台にお乗りください」といわれて、乗り込んで進んでいるうちに、はるか左前方の海を指して「あのあたりが戦艦大和が沈んだところです」といわれ、思いがけぬ言葉に一同粛然として戦艦大和と彼我多数の戦死者を弔った。坊の津では案外古文書は少なかったが、景観そのものには中世の貿易港の面影を偲ぶことが出来た。中世以来のお寺など名所を訪れ、鰹漁業の船主の家の文書などを私は手書きで写し、後に鹿児島県立図書館の明治初期の文書も見て最初の論文を書いた。土地の風俗も珍しく、女性がカンメブスを頭において、ものを入れて山坂の道を腰を使って上手に超えるのには感心し、土地を知ることの大切さを学んだ。森克己先生は中世貿易史の学位論文を書かれている方なので、当然以前に坊の津には来られていると思っていたら、初めてと言われるので驚いたが、その後大分経ってから両先生から「古文書だけで論文を書く人がいるが、研究する場所には必ず行くものだよ」と教えられ、これは一生の戒めとなった。先生は各藩の藩法の整備に努められ、その写本の作成を写字生にさせられていた。何も知らなかった当時の私は藩法を見ることによって各藩の特徴を知ることができたようである。また各地の裁判所にある文書類を調べていると言われて、史料採訪に行った際に近くに裁判所があれば訪ねて所蔵の書類の表題を記録してほしいと言われていた。私は薩摩の知覧(まだ特攻基地として有名ではないとき)の著名なお庭を訪ねた時に、知覧の裁判所の書類を採録したが、その後は裁判所を訪れなかった。今考えるとその地域の近代を考えるうえで勉強になっただろうと思うが若い時は当面のことしか考えてなかったようである。やがて金田先生は九大付属図書館の館長となられ一同喜んだ。館長は各学部のたらい回しの感があり、適任の方がなられるとは限らないので、先生は最適任の方だと大いに喜んだのであった。一九四八年頃近世庶民資料調査が始まって、九大は九州のまとめ役であり、各地に史料採訪して採録も競い合っ

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若い日の九州文化史研究所の思い出

た。私の記憶では図書館長室付属の会議室で金田先生の主宰で国史の森克己、竹内理三、社会学の喜多野清一、宗教学の古野清人、経済史の宮本又次、教養部日本史退職後の玉泉大梁の諸先生が協議され、桧垣講師、三木助手、特研生の服藤弘司・安藤精一・森山恒雄・中村正夫・秀村が補助員となった。その後も殖えたと思う。金田先生がこの庶民史料の会議に出席されたのは最初で最後だった。この調査は数年続き各地の古文書を広く採録した調査であったが、それまで積極的に各地の近世史料を採訪されていた金田先生が病床に伏せられたままで、やがて亡くなられたが、さぞかし残念であったろう。この調査では我々院生の他にも協力してくれた学生もいたが、長く放置されていたお蔵の中で採録しているとネズミの死体にぶつかったり、虱に喰われてズボンの足元をきつく縛って虱が入らぬようにしたりして(ことにスカートの女性は大変で)後々の笑い話になっている。

       五

金田先生と協力して九州文化史のために古文書の調査、収集、研究に努力された遠藤正男助教授は一九〇一年(明治三四年)出生、東京商科大学商業教員養成所卒業後、各地の教職を経て九州大学法文学部経済科を卒業。一九三四年法文学部経済科講師、一九三六年助教授。多くの研究成果をあげながらも一九四〇年に御逝去。まことに惜しい方であった。金田先生は遠藤先生と日田金(ひたがね)の文書の調査、文書寄贈の受け入れに行かれたことをよく話されていた。長沼先生のもとで金田・遠藤の両助教授が協力して研究所の発展に尽くされたのでる。その研究は『日本近世商業資本発達史論』(日本評論社、一九三六年)として刊行。前編は徳川時代商業資本の発

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若い日の九州文化史研究所の思い出 展を概観し、銭屋五兵衛の蝋燭座圧迫事件を詳しく述べ、後編は筑豊石炭業における問屋制度を論じ、日田金の研究では日田掛屋の銀行業務、製蝋業経営、日田商人の新田開発、日田金の没落を詳しく述べている。当時としてはまったく画期的研究業績であった。現在でも日田金の研究には必読の研究である。その後も多くの研究を発表されたが、不幸にも一九四〇(昭和一五年)に逝去された。一九四二年には九大法文学部経済科により遺稿集『九州経済史研究』が刊行されたが(日本評論社刊)。前著以後に書かれた諸論文を教授会によって編集され、第一編は石炭礦業発達の研究で、近世後期筑前における石炭礦業の発展、筑豊石炭業の初期会社企業を論じ、第二篇は近代的労働者の発生過程の研究で、近世町方奉公人と賃労働、近世の炭坑労働者、鉱山における近代的労働者の萌芽、明治期における近代的労働者の発生を論じている。第三編は福岡藩財政の研究として福岡藩の藩債、櫨蝋取引と銀会所の諸札、藩の用心除ヶ銀制度、藩領内への秋月札の流入について論じており、各編とも当時としては未だ問題にもなってなく、その後に大きな問題になったものを、既に早くから鋭い視角から取り組んだ業績であった。もし生きておられたら、その後どんなに大きな研究を完成されたであろうか。なおこのほかにも捕鯨業の研究を先駆的に開発されており、私はこの論文に導かれ、戦時中魚雷艇に乗って松浦の海を疾駆していた郷愁もあって益富組の捕鯨業の労働関係を研究し数篇の論文を書いた。遠藤助教授は、前記の豊かな研究業績だけではなく、九州各地の多くの古文書を広く調査され、九州文化史に寄贈を受けられた。日田金の千原家文書、筑前鞍手郡四郎丸村古野家文書、筑前遠賀郡楠野家家文書などで、ことに筑豊地域の調査を広くされたようで、福岡県の土地関係書類、福岡県の明治年代の地価帳一〇、〇〇〇冊近くの寄贈を受けられていた。地価帳は長く付属図書館に置かれたまま、昭和三〇年代に図書館から焼却してほしいと文化史の近くの用務員室で焼こうとしていたのを文化史の箱島筆写員が偶然用務員室に行って用務員から堅く綴じた書類はなかなか焼けないとぼやかれて、箱島さんが文化史に居た私に一冊を持ってきて知らせたので、私は見て大変驚

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若い日の九州文化史研究所の思い出

き、図書館の地価帳を見て箭内教授に訴えて図書館に交渉されたので保存されたが、図書館と文書館《史料館》の違いは大学といえどもかかることがおこるので、関係者には認識させ、徹底させることは現在でも大切だと思う。明治八年より三二年の地価帳九、九九八冊の採録は当時助教授の丸山雍成・松下志朗氏の指導で多くの院生、学生によって全目録が作成された。これはそれまで文化史に所蔵されていた地価帳と連続するもので貴重である。私は金田、遠藤両先生がもし後々まで御健在であったならば、どんなにか文化史が発展していたであろうかと思うこと切なるものがある。

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宮本又次先生は遠藤助教授の後任として一九四二(昭和一七)年に法文学部経済科に助教授として就任、一九四五年教授になられた。一九〇七(明治四〇)年生まれ、一九三一(昭和六)年京都大学経済学部卒業。本庄栄治郎・黒正巌教授の門下で、農学部農史研究室助手の後、彦根高等商業学校教授となられ、その後九大に赴任。大阪の裕福な商家のお生まれで商業史を専攻、すでに『近世株仲間の研究』を刊行され、九大に来られて『江戸時代問屋の研究』を刊行されていた。金田教授が大阪の法制史に優れた研究をされていたので、お互いに尊敬され親しくなられたのであろう。金田先生より十歳若く、文化史でお互い話される時は兄弟のように親しく傍目にも楽しかった。戦時中、戦後に金田先生と御一緒に史料採訪され、大分県日田や佐賀県の佐賀、小城、多久、唐津などに行かれたそうである。多久に御一緒に行かれた時に宿で朝起きて、宮本先生が蚊帳をくるくるっと巻いて押し入れに投げ込まれたら、金田先生が「そんなことをしてはいけない」と蚊帳をつられて「こうしてたたむのだよ」と教えられたそうで、私たちはいかにも両先生らしいなと親しみを覚えたことであった。

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若い日の九州文化史研究所の思い出 先生はせっかちで何でも速く、長崎、平戸に調査のお供をした時、出発前に先生をお迎えに行ったら先生のお母様から「又次をよろしうお願いします」と言われて「とんでもない」と思ったが、平戸の商家で「じゃがたら文」を見せて頂くとき、先生が二階へかけた梯子の階段を踏みはずされて下に落ちられたのには驚いたが、金田先生は「宮本君がまた、やったな」と別に驚かれなかったらしい。この時お母様のお言葉を成程と思い、其の後も奥様からも「よろしく」と後々まで頼まれたものであった。文化史から便所に行かれて額をはらして帰ってこられ、便所の曲がり角を早く回って額を打ったとのことで笑うに笑えないこともあった。筑後の田主丸の林田家(手津屋)に先生と門下生で史料採訪に行った時、駅を出て歩いていたら先生がポケットから国鉄のキップを出し、不思議そうに門下生に「キップはどうしましたか」と訊ねられたので「駅員に出しましたよ。先生のパスは九州のですか、全線パスですか」と訊ねたら「あ、西鉄のパスですわ」と言われたので一同大笑い。駅員は供を従えて見たこともないパスを堂々と見せられで、ハッとお辞儀して通したらしく、先生には後々までこうしたエピソードが実に多いので、事務員や学生にも人気があった。おかげで私たちは先生の門下というだけで笑いながら親切にしてもらったものである。論文を書かれるのも速いので、先生編集の論文集を書いている時も、真っ先に論文を書きあげられるので、門下生はあわてたものであった。当時社会政策の研究室は呑兵衛ぞろいで、「呑み殺される」と言われていたが、経済史研究室は先生に「書け、書け」と言われるので『書き殺される』と言うほどであった。一九五〇年四月末文化史の諸教授が対馬の史料採訪をされた時には、先生は「近世対馬藩の商業と生産方」の論文とさらに「近世対馬の被官と名子]を書かれ、喜多野清一教授の「対馬村落の研究」や桧垣元吉講師の「近世被官の研究」が載せられたが、この時、竹内理三教授は対馬島内に驚くほど多くの中世文書が残っていることに気づかれて、島内の中世文書の総目録を載せられて日本史関係の学界の驚きとなった。その後も先生は文化史の紀要に

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若い日の九州文化史研究所の思い出

九州各県ごと中世文書の目録を毎号載せられている。この紀要第一号は、はじめて文化史の研究の発表を示すものとして真にふさわしいものであった、その後、法学部舟橋諄一教授を代表に法文経三学部による天草の共同研究が、一八五一・五二年にされて、五二年七月宮本教授は九大での集中講義の後に、経済史班の宮本・秀村・作道(阪大助手)、法制史班の吉田・服藤で天草上島の各地の旧家の古文書を調査し、ことに御領村の豪農=豪商の石本家(松坂屋)の厖大な古文書を採訪し、石本家の活動の内容に圧倒された。其の後この文書は吉田教授が石本家に御相談されて文化史に寄贈されたが、宮本先生は石本家の調査研究班を組織されて、総説として九州在郷の豪商をとり挙げて問題の所在を示され、門下生は豪農=豪商の石本家(松坂屋)を種々の角度から共同研究をし、その後も新たな研究者が加わり、物価史・貨幣史の表を作成したり、最近は文化史の梶嶋助教が研究している。以前文化史の楠本美智子助手の指導で院生、学生たちが協力して本家文書の総目録三冊が刊行されているので、今後も各分野の研究の進展が期待されている。宮本先生は視野が大変広く多才な方で、阪大へ御転任後も商業史・経営史に多くの業績を挙げられ、社会経済史学会理事、経営史学会会長を勤められ、一九七九年エッセイスト・クラブ賞を受け、一九八八年文化功労者になられた。上方の芸能界に貢献された功労でも表彰されている。

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長沼先生には助教授がおられず、国史の後任の教授は戦後の事情からすぐには決まらず、一九四七年に森克己教授、一九四八年に竹内理三教授が、農村社会学の喜多野清一教授が文学部に着任され文化史の所員になられ文化史は盛んになった。宮本先生は竹内、喜多野両教授に私の指導をお願いして頂き、以後お二人の先生からは後々まで

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若い日の九州文化史研究所の思い出 御指導を受けることが出来たのは誠に幸いであった。竹内先生は全く御自由で飾り気がなく誰からも尊敬されていた。当時は研究室居住の方も多く、先生も研究室住まいで時々文化史にもおいでになり若い者と親しくお話になることもあった。庶民史料調査で師弟多くの者が文書採録している時、先生の採録がもの凄く速いので、宮本先生が先生に「貴方の鉛筆は特注のものですか」と尋ねられて先生が「普通の鉛筆ですよ」と云われたので、みんな笑ったことがあったが、お二人のやりとりにはユーモアを感じた。私が大隅地方の古文書の特別調査に加えて頂いたのは、竹内先生のお蔭で、調査中に内之浦から高 こうやまへ帰る時にバスの都合で途中の村で民家に分宿した時、多くの方は一軒の家であったが、先生と私は別の民家に泊まり、その夜多くのお話をされ、私の研究していることも聴かれて、中世宇佐の下人のことも話してくださった。翌日高 こうやまの宇都宮家で文書を採録中に先生が「秀村君にいい文書があるよ」と「耕作日記」を投げて下さったが、その後この文書を基礎として湿田の耕作や雑多な畑作の農業、社会組織、親族、祭祀慣行、民俗慣行の研究をまとめることが出来たのは全く先生のお蔭であった(『幕末期薩摩藩の農業と社会』創文社刊)。一九五三年八月の所謂「二八出水」の時は随分雨が降り続き、夕方私が大学から九大前の電停に着いた頃に、さらに大雨が降ってきたので、地下室の文化史が危ないと思い急いで戻ったら、一階から地下室に雨水が凄く流れ込んでいて、大変だと文化史に入ったら、すでに竹内先生がお一人で書架の下壇の古文書の写本を濡れない処に運び出されていたので、すぐ私も一緒に写本の移転を続けたが、その後は誰も来ず大変であった。これらの写本は長期間かけて乾燥させたが、先生が如何に古文書を大切に思っておられるかを感じ真に尊いと思った。先生は一九九六年文化勲章を受章されている。文化史の所員会で、文化史の将来像が話題になった時に文学部の或る教授が「文化史に考古学も入れたら」と言われた時、言下に先生がきびしく「考古学とは一緒にやらないがよ

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若い日の九州文化史研究所の思い出

い」と言われたことがあった。その後先生が史料編纂所に帰られた後には文化史に比較考古学の教授を入れたり、比較考古学講座を設置しようとされたりしたことがあったが、私はすでに退官していたので、ただ心配したが、文化史という言葉が一般の方には歴史であれば何でもよいように誤解され、ことに考古学は遺跡、遺物などは専門外の方にも興味深いので、高度成長、乱開発の時代には考古学が急に尊重されるのにまかせて、考古学の人たちは強気で文化史に割り込もうとされ、心配したが、紆余曲折して今日文化史は図書館の中の記録資料館の中に入っている。以前石炭資料センターが設置された時には本部直属のセンターにしたように、大学の専門的機関としては図書館と資料館(史料館)は本質的に違うので、その理解を徹底させ資料館と図書館とは独立的に扱うべきと思うが、たとえ現在のように図書館の中に入っていてもその役割、館員の教育は独自にするとともに、両者間の連絡をよくしていただきたいと思う。前述したように図書館が大量の地価帳を焼こうとしたのは恐るべきことであった。古文書史料はたんに一大学のものではなく、たゞ一点しかない日本の、地域の貴重な資料だからである。

小稿を書くにあたっては、服部民子さん、橋本講二氏にお世話になった。心より感謝の意を表する。

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