九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
印度士地改革の研究
今井, 長二郎
https://doi.org/10.15017/4151141
出版情報:經濟學研究. 6 (3), pp.215-242, 1936-11-01. Society of Political Economy, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
︵円︶共同地主制の設定 印度土地改革の研究
︵ハ︶定期的ザミンダール制の設定 土
地 改 革
Cイ︶印度國家の廃史
の 在 末 國 家
③ 封 建 制 度
︵口>村落共同骰に於ける土地所有︑及び其の髪遜
︵イ︶ヘイステイングの土地政策
︵口︶永久的ザミンダール制の設定 前 は
し
が
目
次
史 き
印 度 土 地 改 革 の 研 究
第 六 巻 五 九 五
今 井 長
第111賦
二1五
耶
型で
ある
︒
たものであるこさは容易に推知し得るビころである︒謂はゞ︑印度の土地改革は植民地型土地改革の典 身の内部的事情から改革を必然ならしめたさいふのではなく︑英本國の諸事情︑就中資本の要求に應じ 印度の土地改革は︑ 完成された年であるーのパンジャプ州占領︑及び同地方に於けるマハルワリ制の施行を以つて一應終了・ びポムベイ州に於けるライオットワリ制の施行︑等々︑そして一八四九年ーこの年け事寅上印度統一が この小論ー私の印度網演研究の一部をなすものであるがーに於ては︑の
であ
る︒
土地改革は︑英國の征服過程さほゞ併行して逐次行はれた︒
ンダールの設定を手始めに︑
したこ見られる︒ 一七九︳︳一年同地方の永久的ザミンダール制の設定︑
終始︑外國人の意繭により植力的に強行されたものであり︑それ故にまた印度自
↓し
︵が 四 む す ぴ
印度土地改革の研究
き
(*)ライオットワリ制の設定
一七
七二
年ベ
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ルに
於け
る五
年期
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`ヽ
先づ印度の土地改革を取扱ふも
一八
二
0
年南部印度及第 六 巻 五 九 六
第一
︳︳
鑢
ニー
六
印度土地改革の研究
た︒瀧漑設備の有無は農業の死活問題を決定した︒
第 六 巻 五 九 七
第一二賦
二︱七 ﹂の事情は印度に特殊なる祉含構成を運命づける 印度の氣候は給水及び排水の為の人工的瀧漑を絶到に必要さし︑﹂れを怠れば土地は忽ち荒諮に蹄し 古代より数千年印度の祉會機構の基礎をなしてゐたものは村落共同開ーその形態は様々であったが1
的結合を基礎さし︑極めて小規模の封鎖的自然経演を螢めるものであったさ云はれる︒ である︒これらの村落共同罷は︑約百ェーカーから千エーカーまでの生産地域の共有︑及び農工の直接
① 在 来 國 家
︵イ︶印度國家の歴史 前 ぜらるぺきものである︒ れるさころであるが︑ で
あら
う︒
られたか︑そして改革の結果ざの程度英國の意閾は逹成せられたか︑
なされた土地改革の様式の如何がその國の経渭の登展に決定的に作用する事賓は一般に見ら
この貼に闘する謡問顆はわれわれの研究がもつさ一般的に推し進められて後に論 納れ得る要素が痰展してゐたか︑ か4る特質を有する以上︑
史
或はゐなかったか︑ われわれの研究は︑
こいふことの分析に出疲し︑改革の経過がざぅ辿
さいふことの分析を以て完結する 印度在来の土地所有諸制度の中にざの程度英國を受け
に於て述べる︒
図 封 建 制 度
しか
し︑
これ
は︵
口︶
その理由を述べるこさは︑上記のアジア 牧するこさに専念したにすぎぬ︒この事は共同開に持綾ビ停滞さの基礎を典へた︒ 會生活の基礎ー偉統的共同開制ーに手を鱗れるこさなく︑箪に征服地域に軍事組織を配置し︑地代を微 従って︑國家は村落共同開の園開的責任に S︑ゞも
印度土地改革の研究
そのためには在来の印度村落共同開は餘りに小さきに過ぎ
︑ "
た︒この事情は必然に︑個々の村落共同開の努働力をより上位の箪位に綜合する一ヶの統一的櫂力を生
印度に於ては︑幾千年かのうちに幾度かこの櫂力の把持者は菱つたけれ
一様にかれらにアジア的専制王朝たる特質を附典した所以である︒
國家が直接に支配し︑土地は國家的規模に於て所有せられ︑
おいて地代を微牧した︒新しき征服者さして登場した一聯のアジア的専制君主逹は農民大衆の内部的社
しかし︑瀧漑事業の意義を過大評債するこさは誤りである︒
的社會から次に述ぺる封建的社會への推移を展開するために前提さなるであらう︒
︵口︶においてなされてゐる諸事賓ーそれは共同開の或る程度の経演的向上の結果さし
て現はれたものであるがー灌漑事業の意義の相封的減退を意味するものである︒
印度に於ける封建制度の登生の時期については明らかでない︒紀元六世紀に於けるヒン・ツー王國の時 斯くして︑村落共同罷の上に み出だすに至った︒これ即ち 規模に行はれねばならなかったのであるが︑ つの基礎こなつだ︒さいふのは︑灌漑事業は︑その性質からして︑面積廣大なる印度に於ては︑嘗然大
第 六 巻 五 九 八
第 三
鰊
1 ‑
︱八
究の﹁前史﹂の中心である︒ 所に︑而して︑漸次一般的に行はるに至った︒
第 六 巻 五 九 九
1 l
︱九
この間の事情を詳細に究明してをくこごはわれわれの研 び戦争に際して 代︑及びその後の初期モガール帝國の時代に地方的に漸次出現したものであらう︒於
ては
︑
封建的土地私有が漸次随 その領土がラジアー
(R aj a1
1王︶の直轄地︵最良の土地︶以外︑大官吏
(G re at of fi ce r) (K
hi ra j)
ー現物地代で︑
軍隊の指揮者ごして特殊な才能を認められた長官
ラジアーに封して相績に際して貢物を献
上する以外︑自己の土地で微牧する貢租は綿てこれを自己のものさするこごができた︒
ヒンヅー貴族の土池領有を破壊した︒
王の取分は生産高の五分の一ーさヂチャート
( Ji z i ya t
1 1人頭税︶を課し︑
地は征服者に属するものさなした︒
0 0
畜された︒最初それ等の領土は生涯的なものさなって居り︑
かく
て︑
モガール王朝にあっては︑それは軍の指揮官や︑或種の官吏に贈典
その租税も︑領土内の平和を維持する為︑及
中央政府の呼集に相應`する為の相嘗敷の軍隊の維持に使用され︑委譲定額を超ゆる租
税の剰餘を獲得する事を得ざるものさされた︒然し︑官際には之等の定額は名目的なもので︑彼等は耕
作の捩張︑新しい村の設定に依つて︑彼の目指す微税を得る事が出来た
﹂"
アジア的専制君主の國家的規模に於ける統一的土地所有に代つて︑
印度士地改革の研究 次にこれ等封建的土地私有の疲生過程を一瞥するこさにしよう︒
第 三 競
ごころが
﹃回
数徒
の征
服は
︑
(C hi ef )
又は特殊な人逹に典へられた︒Jれらの長官逹は︑ 地が認められたが︑更に國境の未開地帯の土地は︑
土 彼等は征服地の住民にキラヂ
の土
即ちヒンヅー王國に
1) B. H. Baden‑Powell, A Short Account of the Land Revenue and its Administration in British India; wi.th a sketch of the Land Tenure, Lon‑
don 1913, pp. 121ー122
2) B. H. Baden‑Powell, ibid. pp. 53ー54,pp. 116‑117.
れ︑次第に獨立化して︑英國統治一世紀前には︑官際的ーヤエ地所有者となった︒
襲累代さなった︒かれ等は近くに多く存在した荒蕪地に賦役農を拉し来つて耕した︒そして容易に廣*
な荒蕪地の所有者ビなるこさが出来た︒又熟地の買牧︑
も︑この地代││地租の額の決定者は彼自身である︶自己の所有地を撰大するこさもできた︒
のための免租地
(N
gk
ar
)
を私有地に化したのはいふまでもない︒ 共の櫂限は︑一代眼りさされてゐた︒
然る
に︑
彼の生計 抵賞及び地代不彿者からの浚牧によって︵しか その地位も一代から世 モガール王朝の衰退に併行して︑かれ等の棚限は強化さ
で ︑
一定額を國庫へ牧めるさいふ契約の下に︑ ザミンダールは︑元米如何なる意味に於ても土地所有者ではなく︑箪に︑特許瓶に記載された範園内
匂一定地域の貢租の自由微牧を委ねられたもので︑しかも 前記の租王族︑蕉領主及び地方官吏ご並んで︑多くの商業・高利貸の存在が考へられる︒ 制度が一般的となったのは︑ 然しこの請負 典型的なるものはベンガルのザミンダールである︒
1) B. H. Baden‑Powell. ibid. pp. 104‑105.
2) B. H. Baden‑Powell, Land System of British India, Vol. i, p. 504, 3) B. H. Baden‑Powell, Land Revenue in British India, p. 105
印度土地改革の研究
( a )
徴税請負人よリ生じたる土地私有
その起原は︑被征服王族︑叉は領主及び地方官吏に
貢租取立の梱限を委ねたこさに求められる︒喪生の時期は明らかではないが︑従風王族や従腸領主が一
定の貢納を帝國に為して︑葱領土を管理した事は随分早期から認められたさころである︒
ペンガルに於ては︑財政困難が増し︑商業・高利貸資本の勃興を見たファ
ルンクシャール
(F
月
nk
hs
iy
ar
)
帝の統治︵一七︱︱︱一年︶以後のことであった︒従ってザミンダールには
第 六 巻
六
00
第 三 輩
ニニ
〇
ウード王國ーー現在のアグラ地方を含むf~の下では、落王族がタルクダール(T臣uqdar)の名の下
に︑ベンガルのザミンダールさ同様︑微税櫂を典へられた︒
の高利貸もタルクダールになった︒
租税請負人から土地私有者さなった他の種類は︑ボムベイ州の北部海岸地方に見られるコート
(K
ho
t)
コートは︑ダーカンのアデイル・シャァー朝の時代︵西歴一四八九ー一五七九︶に始めて租
3 税請負人さなったもので︑元来は該地方の豪族
( L
召11
ch
ie
f)
であ
った
が︑
(b
)
葦領︱王及び支配者より生じたる土地私有︵註︶
マドラスのポリガール
(P
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yg
ar
)
である︒彼等は大部分はもさモガール帝國の
印度土地改革の研究
中部謡州でザミンダールさ稲せられるのは
第 六 巻
六0~
第 三 琥
ベンガルで云はれる様な微税請負人ではなくて︑ 此の種埴主の典例は︑ の請負甑城を私有化した︒ で
ある
︒
ゴンド 又南印度では︑若干の領地を支配してゐたナヤカ
(N ay ak a) 'J .J
稲する功臣が 下の従風地方豪族であった︒彼等の所有するパレガラ
(P
a!
eg
ar
a)
~稲する領主櫂を示す土地は、帝國崩
解後襲断したものである︒
一七六五年ヴイジャヤナガー︵
Vi ja ya na ge r)
王朝の滅亡の後︑
5 の豪族の領地猿得過程も亦その例に洩れない︒
王國
(G
on
d
ki
ng
do
ms
)の
功臣
︑
獨立した︒ラムナード
(R 目
ma d)
其他
叉は豪族を指すのである︒然し︑英國侵入営時にはマラック
( M
日
at
ha
)
このこごは注意せられねばならぬ︒
口
國内の混鋭に乗じて︑自分 然し︑右の哲王族のほか︑後には軍人及び
1) B. H. Baden‑Powell, Land System of British India, Vol.i., p. 188 2) B. H. Baden ‑Powell, Land Revenue in British India, p. 109 3) B. H. Baden ‑Powell, Land System of British India, Vol. iii., p. 238 4) B. H. Baden‑Powell, Land Revenue in British India p. 111 5) ibid., pp. 111ー112
印度土地改革の研究
土︶ごなってしまった︒従ってその後彼等は︑牧税額も少ない為に放置された外邊の山嶽地方に於て︑
適嘗な貢納をなして豪族こして存在してゐたに過ぎない︒
アジュメール州及びボムペイ州の北部︵主pこ
して
︑
外邊地方には濠族が︑貢献をする慕によって`領主ごして認められてゐた︒アジ
ュメールに於けるタルクダールは之等領主を指すのである︒
アウランゼプ
(A
ur
an
gz
eb
)
帝の南征の企閾以来︑時に十七世紀末マラッタ
が勢力を得て以後︑薔王族
(R
aj
a)
は滅亡して全土は地方豪族の抗争に委ねられた︒
それ
k
\征略者の領地さなったのは勿論であるが`̀ '
してタルクダールに任命された︒ っJ
a註︶観念的にはとも角︑寅際には前述の租税請負人からの疲生と明瞭に謳別するに困難を来す楊合がある谷でに租
ベンガル州のチュテイヤ・ナグプール2Chutiya
Na
gp
ur
)地
方に
於け
るベンガル地主︑オリッサの山岳地方に於けるザミンダールの如きは︑租税語負人としてよりも︑寧ろ貢納國琢
(T
ri
bu
ta
ry
t S
at
e)と認めらるべきが如きである︒
( C )
諸種の授異より登生したる土地私有
税請負人が支配者である時
︶︒例へば. 過境の豪族の領地は新しい征服者に一定の貢納をな 蕉王族のカルザは グヂェラット地方では︑
1) B.
f l .
Baden‑Powell, ibid•, pp. 112ー113 2) ibid., p. 113 3) ibid, p. 113‑114る土地制度が遺され︑ マラッタのカルザ
アーメダバッド︶に於ては︑ がゴンド王國を征服してゐたので︑彼等の領地の大部分は︑
第 六 巻
(K ha ls a1
1政府の直轄領
六〇
ヒンヅ1王國に於け
第一
︱︱ 撃
>
に遠くヒ之ツー王國の時代に於て諸所にその存在を見た︒
第 六 巻 六〇
第一=撃 しかしそれが最も明瞭な形で我々の前に現は ︵こ英國俊入賞時に於ける︑ 態について一應の桧討を了えた︒次のこさが結論できるであらう︒ 以上に於て︑我々は︑ Jの種の授典は︑授典中の
これ
さ異
り︑
あっ
た︒
(m ua fi )' IJ
稲せられるもので︑士地の所有櫂が永久的に授典される事を特徴さする︒これらの授典は︑
蛮憎︑學者︑學校︑寺院の保持を目的さして︑ 授典は︑
それらの人々に封して行はれるもので︑
ジヤギル
( Ja g i r)
~稲する授典は土地でなく`
授興者は︑軍事的乃至政治事務を司る者︑従って彼等は営該地域の牧入を以て︑地域内の平和を維持し︑
叉他國さ戦争の場合には中央政府を援助するために必要な軍隊を維持した︒
最大級のものであって︑最初は輩にかれの生涯中に限られてゐたが︑
的となり︑大土地所有者と化するに至った︵ボムペイ︑
印度土地改革の研究
土地の租税が授典されるものである︒被
モガール帝國の衰退に伴ひ︑世襲
︑ .
ー
及び
マド
ラス
州︶
︒
英國支配以前に於て印度に存在した封建的土地私有の痰生過程及びそれの諸形
印度の社會形態は封建的社會であった︒印度に於ける封建制度は︑既
れたのはモガール朝に入ってからである︒特にモガール王朝が衰へて︑統制力を失ふに至り︑租税請負
>
モガール帝國の下に於て︑二種の形式に甑別出来る︒
小面稜の土地で 一はインアム
(i na m)
又はムアフィ
1) B. H. Baden‑Powell, ibid., pp. 53‑54. p. 116‑117.
める上に極めて重要である︒ ちに村落共同闘は如何なる内部的愛革を遂げつ4
あっ
たか
︒
印度の原始的氏族園個は既に このこさの究明は印度封建祉會の本質を極 前章に於ては︑封建領主の痰生ー封建制度の確立を述ぺた︒ ︵口︶村落共同開における土地所有︑及びその斐逗 印度の歴史を説明するため それらの内部において (‑1‑)かく︑封建制度が成立したこさ︑ 印度土地改革の研究
この
成立
︑
アジア的社會から封建社會への推移のう は封建的領有者の歴史的痰生事情の差異によって齋らされたものである︒ 第一=輩
人︑地方官吏︑地方豪族︑等々︑既往の闊係地域を隈断寡奪するものが践琶するに至った︒
︵二︶印度封建制度下の士地所有の様式︑従って支配の様式は︑地方により様々であった︒
ニ ニ 四
このこご
即ち在来國家から封建制度への痰展が行はれたこさ︑並びに
痰展の様式が地方によりそれぞれ異つてゐたさいふこと︑1これらの事情は︑われわれに︑
印度祉會生活様式の根祗的愛化の進行しつ\あったであらうこさを示標するで
あらう︒以上支配形態における諸愛化は賓はこの根祗における雙化を基底ごしてなし遂げられたもので
あらう︒われわれは故に印度社會における生活様式の基底であった村落共同開の考察に這入るぺきであ'
らう︒村落共同開それ自身の内部における根祗的諸愛化を黙桧するこごは︑
の鍵鍮である︒
以下これら村落共同側の土地所有︑及びその愛遂について見よう︒
欧洲の諸國が︑猛烈にガンヂスの沃野に押し寄せてゐた時代に於ては︑
第 六 巻
六
0
四つてゐなかった︒或るこころでは村落共同個に轄形してゐた︒又耕作地の定期千等割替の如きも行はれ
なくなって︑不平等割地︑
の私有が存在する等︑雑多なる土地所有形態が錯雑して散在してゐた︒
か4る推移は如何にして可能ならしめられたか︒
かにするであらう︒疲股的に見て︑大略︑次の四つを分類するこフこができる︒
一︑氏族の共同所有その一ーーこれは土地所有形態の最古のものさ目さる4
もの
であ
る︒
共同耕作に附せられた︒牧穫物は共同髄の穀倉に保管された︒そし
た︒文献によれば︑北印度の二︑三の地方に遺存してゐたもの4如くである︒
__、氏族の共同所有その一l|—'之は右の原始共同個の瓦解から疲生したものである。
さ稲せられる分割耕地を伴える親族共同個である︒この種のものは主こして︑西北インド及
びガンヂス地方に見られた︒この形態の特徴は割地の開始せられたこさに存在する︒
︵註
1)大きさは︑宗祖から見た等親度により決定された︒割地はもさ/\終身でも︑世襲でもなかづたりだか
印度土地改革の研究
P at t
i da r
i )
てこの倉から︑成員は分配された︒ 族の血族者綿個により共有せられ︑
第 六 巻 六0五
第 三 輩
ニ ニ 五
といつても割地の
パテイダリ︵
か4
る原始共同個は前述の如く︑英國侵入嘗時殆んご瓦解してゐ
土地は一氏 われわれは諸愛化の経過を辿りながら︑それを明ら た私的単獨経営があり︑共有地平等利用櫂があれば一部群園の隈断があり︑又共有形態ご並んで土地 並びにその終身所有が行はれてゐたごころもあった︒共同耕作があれば︑ま 崩解してゐた︒印度社會の基礎構造を成してゐた農村共同開は︑以前のやうにもはや全國的等質性をも
村の建設者—ー
印度土地改革の研究一時不在だった親族の鰭村等の為に人口増加が起つた際には︑一般的な割替が行はれた︒しかるに︑往々にして事賓上終身となり︑ 新たなる割地を未耕共同地に求める様になった4
め︑
割地
は︑
時には泄襲ささへなるに至った︒割地の慣行は耕地にのみ見られるに過
ぎす︑林地︑沼地︑草地︑未耕地は依然さして全親族の共有︑
g註1)
バテイダリに於て︑割地は左の如くして決定された︒即ち︑例︵ば
州
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D C 0 0 区 I
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□ 1
―│d I I I I I I
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□ 口
ビ
II正
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ー 乙 ー
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後になるさ︑一般的な割替を行はないで︑ ら ︑
従つてその利用も共同でなされてゐた︒
︵口印は生存者︶
第 六 巻
六
0
六第一―-•二二六1) B. H. Baden‑Powell, ibid., pp.的—81
9 '
ご︵ ●︑
め に
︑ 勢 ひ 人 口 の 混 合 が 生 じ て 来 た
︒ 他 方
︑ 親 族 の 一 部 が 移 住 し た り
︑ 血 緑 に よ る 結 帯 は 稀 痺 さ な り
︑ 地 割 を 損 を し て ゐ る 成 員 は
︑
甚 し い 矛 盾 が 生 じ た
︒
痙得
する
︒
第 六 巻
六
0
七第 三 誠
かL
る 割 地 制 に 不 満 を 感 す る 様 に な っ た
︒
右の如き村落に於て︑先づ最初︑四人の男子︵註2)︵甲︑乙︑丙︑丁︶は言公平に仝土地の四分の一の割地を
2此の最初の割地を︒ハテイ
(P
at
ti
)といは
れる
︒︶ そし て︑
A︑B︑C︑Dは甲の割地を四分するか
ら各々は仝土地の
1‑
4の
1̲
4︑即ち
1 ‑1 6
の割地を得る事となる︒所が︑Eは他に分割をせねばならない者が居
らないから︑父乙の全︒ハテイをその儘承け絞ぐ事となるし︑FとGの承鑽者及びH
は ︑ 一・バテイを
ーー 分し て︑ 各々
の割地は︒全耕地の
1 ‑1 2
を占むる事となる︒斯くて︑
L 2 3 に4
至っ
ては
︑
此の制炭の下に於ては︑現存する割地︑即ち生存者が保有する
q註2>割地に参加し得るのは︑原則として︑男子のみで︑女子は男子の相綴者の鋏如せる場合︑及び男兒なき寂婦
はその生涯を限つてのみ分割耕地の保有を許される︒又時には︑虚女が結婚に至るまで︑割地を保有して居るの
が見受けられる︒
三
︑ 氏 族 の 共 同 所 有 そ の 三 ー ー 之 は 二 の 村 落 共 同 罷 か ら 更 に 寝 展 し た も の さ 看 倣 さ る べ き 形 態 で あ
2 ︑.
る
︒ バ イ ア チ ャ ラ
(B
ha
ia
ch
ar
a)
型こ稲せられる︒
即 ち
︑ 代 が 後 に な る 録 に
︑ 各 個 人 の 等 親 の 度 合 を 確 定 す る こ
',
がJ
困 難 さ な る 上 に
印度土地改革の研訳
戦 争 で 住 民 の 一 部 が 則 滅 さ れ た り
︑ 外 来 者 が 入 り 込 ん で 来 た り す る た 所 詮
︑ 等 親 度 に 依 る 割 地 制 度 は 維 持 さ れ 得 な く な っ た
︒ 之 に 代 つ
耕地は︑非常に不平等なことそ常とするのである︒ ス&は
1 ‑4 3
の割合を有するに過ぎず︒従って
ニ に 示 し た 様 な 村 落 共 同 開 に は
︑
その割地が
ニ ニ 七
時 の 続 る に 従 っ て
全耕地の
1‑
64
̀5
6
1) B. H. Baden‑Powell, ibid., p. 80
2) B. H. Baden‑Powell, ibid., Land System of British India, Vol. ii., pp. 673, 676. 680, 689
おいて行はれたものである︒ 可能な場合︑ 一年鋸の割替の如きは︑優良な耕圃が訣乏してゐて︑之を練ての組合員に鉦年平等に分配するこさが不 鋸に行はれてゐた︒ 略以前にはー定期的でなく︑人口の自然的培加の結果︑家放の観滸的地位に事賓上の不平等が生じた腹
その委員會は土地をその地味の良否に依
て現はれた︑ 印度土地改革の研究公平なる割地制度︑
Pa
nc
ha
ya
t)
ゞ稲する共同慨員の戸主より委員會が構成され︑
︵註
︶
つて分類し︑之を家族の員数に従って割賞てるのである︒割替は
1取初のうちはー少くさもイギリス人侵
すが故である︒
しか
し︑
か\るこさは︑土地の豊富な共詞個に於て行はれてわたに過ぎす︑
餘裕のない小さな共阿罷では︑十年征︑八年鉦︑
よると各家族は地味の良い耕間の中にも︑地味の悪い耕間の中にもそれ人\割地を得ることとなる︒
る事に依つて公平を保たうとする方法である︒
五年鉦︑往々一年録の割替が行はれてゐた︒
ニ ニ 八
土地に
例へ
ば︑
従って種々の耕圃を交代的に利用するこつこによってのみ均等に公平の賓を學げ得る場合に
G註︶土地の割賞方法は︑種々あって︑その中の一は︑地味に應じて分類された各間を︑家族に分ける方法で︑之に
その二は︑悪い耕圃を割り賞てられた家族の占有面積を大きくし︑良い耕間を受持った家族の面積を小さくす 第三は︑所有する鋤の数に依つて割地の大きさを定める方法である︒之は鋤の敷が︑彼の家族の生産能力を示 第四は︑井戸の数に依つて割地された︒之は︑印度嬰業には灌概の設備が絶到に必要であるし︑井戸の数は泄
即ち︑バイアチャラ型の共阿開の構造は次の如し︒
第 六 巻
六
0
八パンチャャト︵
第 .
ーモ
輩
印貶土地瓜革の研究 潅工のカストから成つて居り︑ 村の構成分子の外に村の載人ご奴僕があった︒ 決してなかった︒村落の附近にある荒地さいへども︑
第 六 巻
六0九第ミ骸 只此の際村名主は︑申込者にそれを頒ち 村の安寧を索す掠奪者や外敵に刃する 中央政府から租税の微牧を委託され
漑し
得る
面稜
を示
すが
故に
︑之
に依
つて
割地
の標
準と
され
たも
Rで
ある
︒
四︑ライオットワ
I J 村落ーー三の形態の村落共同罷の後に︑
土地
の訣
乏︑
れば︑︐集約的耕作が絶釘的に要求せらるL
に至
った
︒
に至った︒この村落制度にありては︑
主ご村役人ーこんなものが痰生したのであるがーは生庄過程から全く遊離するに至った︒
村名
︑王
は︑
多
地力の培大︑乃至はその維持を計るために︑土地
︵粍 1) る個人の植利を漸次同定せしめるこごしなり︑所謂︑ライオットワ>村落なるもの\成立を見る
に到す
耕地は全く個人の占布に腐し︑村の共同的ボ務を取扱ふ伐の村名
くは村の開拓者の子孫であって︑
︵註
2)外︑タンク灌漑を指導し︑村人の會議の場所さなる村樹の植裁︑
保談を引受けた︒彼等は共の報酬に村の最良の土地を受取った︒然し彼は村落全罷の土地の所有井では
ラ ジ ア ー
彼の所布に厨さす︑王の所有地さなってゐた︒
然し村民は︑耕作する條件で︑容易に此の土地を占布出米た︒
典へる事務をさつてゐた︒ 村内の民事々件の裁判セ舷す
村の職人は︑大工︑掏エ︑鍛冶エ︑靴工︑狸髪師︑洗
報酬さして︑年々︑村から︵個々人からではなしに︑共同開の負掠に於
ニ ニ 九
従って施肥な.どの必要も生するに至り︑約言す
1) B. H. Baden‑Fawell, ibid., p. 69—71
炭曲琴業に於ける生窟力のよりこ店の痰逹︑ Jの村落に於ける所布形態が生じた︒印
てゐた所においても︑村落は相互に骰格忙隔離され ︵一︶英國の侵入賞時の印度の支配樅は`東洋的専制王朝たるモガール帝國の手から︑
︵二︶印度社會の基顔は依然さして村落共同開の上に置かれてゐた︒
つ¥あった︒けれゞ︶もこの過程は支配者の意繭により攻略の結果ではなかった︒ じて請所に蜂起した封建的領主逹に移行してゐた︒ 以上にて英國征覇以前に於ける印度社會機構の分栃を終る︒
て︶土地︑穀物︑貨幣︑布︑煙草等の支給を受ける︒彼等は自給自足的な︑閉銀的な村落経溝の一部を
構成してゐた︒此の形態の村落は︑
G註
ー
>
村落がラジアーの直接的管理の下になく︑彼等と農民との間に︑村落の所有者としての個人が存在する揚合 之を地主村落
(L
an
dl
or
d: ‑ ; , i l l a g e ) と い び
︑ 民 族 又 は 家 族 が 圃 骰 的 に 村 落 を 所 有 し て ゐ る 場 合 は 共 有 村 落
(]0i,
nt
vi l l a g e )
といはれる︒
Q註公︶クンク灌漑は中部及び南部に見られる灌漑の方法である︒之は土地の一方を堰き止めて︑
涵
地から流出する 雨水を捉へる装脱となってゐる︒アジュメール及び若干地方ではクンクは︑非常に大規模で︑大きな湖水となっ て居り︑四六時中水がたさ又られてゐる︒叉他の地方では時期を限つて︑水を外郊に流出せしめ︑その跡キ耕地
8
とするところもある
e 中部諸州等に存在してゐた︒
印度土地改革の研究
村落を班位さした自然経溝的生査を螢み︑
第 六 巻
それ故 また解罷の最も進行し それはそれ自身崩壊過程を辿り
六︳
o
その哀退に乗 一應之を要約すれば次の如し︒
第一
︱︱ 賊
イギリス侵入時代には︑マドラス︑ボムベイ︑ベラール︑ベンガル︑ ︱︱ ︱ ︱
1 0
1) B. H. Baden‑Powell, ibid., p. 69 2) B. H. Raden‑Powell, ibid., pp. 71ー87
B. H. Baden‑Powell, Land Syatem of British India. Vol. i., p. 150. 3) B. H. Baden‑Powell, Land Revenue in British India, p. 10.
印炭土地改革の研究
何に粉砕し︑新しい土地制度セ樹立したか 度を創出するこさは︑ 者仁らしめねばならなかった︒
第 六 巻 ノ
.
第一=琥二1ユ
英國査本の要望に適應する新しい土地制
︵三︶印度の村落共同開は︑支配個制の幾多の菱造に拘らす︑
けなかった︑こいへる︒
然しながら︑イギリス人の支配は之n
こ異
なる
︒
る支配であった︒生ギ肛方法の改革ご生杏規模の培大に應する伐︑
かった︒これらの決定的差異はイギリスの征略をして即庶の計會の深奥にまで虹かせるこビになった︒
即ちイギリスの俊略が︑荊品市場撰大の母國資本の要望に應へる為である以上︑
あら
う︒
之等の地域の猥得さ共に︑それ笠すの地域セイギリス裔品の受納
従つて︑英國人にさつて︑先づ何より︑
印炭農民を自然親消から尚品紐滸に拉し来るこさが問題であった︒
なしてーのた菩来の土地制度を解開するこ>こそしてその跡に︑ かの印度の村落共
M
罷を破壌し而して︑村落共同開の存在の基礎を
問題解決のためのすべての工作の基礎であった—ー英國人は印度の古い制度セ如 新しい地域を獲得する事丈ではなくて︑
この土地改革の特殊性は何か︑之が分析を次に叙述するで 村落共同開の範疇を脱け出でてはゐなか
t °
英固人にさつては箪に
糊品市場は不断に撰大されねばならな
イギリス人の支配は絆清的な︑而して査本の命令によ
数千年の間︑質的に何筈の愛化をも受
ルの事寅上の主植者ごなる事が出来た︒ ボルトガル︑
オラ
ンダ
︑
フランスより立遅れてゐたために 初めにこの社會の自然純溝的制約を打破せねばならぬ︒
忽ち彼はベンガル︑オリッサ︑ 一七六四年までは︑
..
ヽ ー
・ 一 ー
所カ一七1ノ
I J L
1 1 ︑
僅かにボムペイ︑ 大開英國の印度似略は︑ 如何に最布力の武器たり得たか︒ピ
・
ノ
J マド
印度土地改革の研究
︵イ
︶
︶のこさはこの新たなる侵入者にごつて何より むものであるから︑この儘では︑ るために印度に佼入した英固資本は 國人による印度の土地改革は︑ 英國俊入嘗時に於て︑
団度の土地制度が封建制度であっだこごは前章に於てこれを明らかにした︒英
か4る土豪の上に遂行されたのである︒
以前の征略者さ異り︑手初めに問度祉合の甚瑚構造たる曲霙村共団
開セ破壊せねばならなかった︒そもそも農村共同開は孤立的存在であり︑
肝要であった︒土地改革は︑この肝要項を遂行するために︑
ヘイステイングの土地政策
最初英國の印度俣略は︑英固東印度會社の手によってなされた︒
プラッシイの一戦にフランスの勢力を印度から縣逐して以来︑
土 地 改 革
第一
︱
︱琥
されば自己の商品市場を撰大す
村落内で自給自足的生亮を螢 英國資本の商品セ受け入れるこごはない︒商品市場開拓のためには手
ラス︑カルカッタ附近の二三の除り屯要ならざる地黙を占領してゐたに過ぎなかった︒
スペ
イン
︑
一七六五年にはクライヴは正式にペンガルのデワニイ
(D
ew
a1
第 六 巻
•`
プ
印 度 土 地 改 革 の 研 究
隊に逐ひ返された︒ n i )
を獲得して︑細督>こなった︒然し印度の土地改革は︑此のクライヴに依つては未だ行はれなかった︒
之は一七七二年︑次の練骨ヘイステイングに依つて始めて着手された︒
彼の政策は︑植民地のすべての土地を政治的支配者の財疫であるさいふ主張の下に行はれた︒
一七
七二
年︑
で決
定し
︑
そし
て︑
(R gg pu r)
まで延つた︒ 屡々落札に破れたザミンダールが彼等の批襲の土地から放逐され︑の金貸業者や投機業者が現はれた︒
第 六 巻 六
第一=輩
兵士は呼集され︑そ 一揆にまで発展し
かのロメシュ・ダットは此
ヘイステイングは︑従来のザミンダールの櫂利を無親して︑租税請負人を高値人札の方法
その請負契約を五ケ年毎に更新されるものさした︒
しかも︑契約期間が短期間だった事さ︑ザミンダールが︑彼の資任
額丈けの地租を納めない時には︑その土地が︑直に取上げられた下さに依つて︑
の交代は︑相嘗廣範園に行はれたのである︒
か4る制度に於て農民に訂する苛欲誅求が行はれるのは︑賞然である︒
的反抗が行はれ微税は僅かに暴力さ黙迫さに依つて維持される所>こなった︒
の時の欣態を次の様に叙述してゐる︒即ち此の黙政に悩んだ﹃農民逹は︑ この新蕉ザミンダール
その結果︑農民の積極的消極 その地を逃亡せんさして︑軍
それでも︑多くの者は叢林巾に逃げ込み︑遂に桔極的な農民は︑
た︒反乱はデイナジプール
( D i n a j p u r )
から
ルン
︒フ
Aル
UJ の後には︑虚罰ご惨酷な仕附が農民の上に加へられた︒﹄
>
代つて彼等の所領地に︑カルカッタ
か\る入札請負の方法に依つて
P
"
ち ︑1) E. Thompson and G. T. Garratt, Rise and Fu血mentef British Rule in India. 1934, p. 104.
2) Hichard Johns. An Essay on the Distribution of Wealth and the Sour‑ ce of Taxatio. p. 118 ff.
3) D. Datta, Landlordism in India, pp. 56‑57
4) R. Dutt, The Economic History of India undr early British rule, p. 61 5) R. Dutt, ibid., p. 62
て︑東印度會社の概構を︿エ英的なものに焚更せんと企てられ の横領︑着服なざの私利的不正行為が加つて︑
一七八三年十一月十八
F J ︑著名な印度法案が議會
舎社財政は極度に荼乱した︒党に
反つ
て︑
一七七四年以降に至 ふからである︒一方では︑此の制度を維持
いふ
のは
︑ ザミンダール逹は︑札を落す伐に︑展々い
4加減なこさを云つて︑徴牧に不可能な額を請負 ち︑請負契約期間の最切の満了期に於て
右の
如く
︑
ヘイステイングの政策は
印度土地改革の研究
農民の反氣を酌所にもたらしたばかりでなく
︵口︶永久的ザミンダールの設定
P ) 0
f 亡を企てて居つたが︑遂には一揆にまで褻展してしまひ︑ 此の様な事件は︑更に︑ウードに於ても見られる所である︒
P
ち ︑
且か\る悪政の結果︑農民は常に逃
武力が漸く之を鎮黙したっこいふ有様であっ ーヽ ノ
一七七七年︑即
のその牧入は︑會社が豫期してゐた程の増加を見なかった︒さ
従って︑歳入も常に不定ならざるを得なかった︒此の様に︑
する謡に莫大な軍費が必要であったし︑他方では︑牧入の増加が思はしくなかった所か︑更に會社使用人
つては︑英國政府
'I
の間に結ばれてゐる約束の年賦金︵年四
0
萬ボンド︶が支彿はれる所か︑J︵註
︶
國庫の補助すらが議會に訴えられた︒
盆註︶か4
る朕態が︑東団度會社の特櫂の上に何等かの反應を起さずにはをかない︒議會では︑フォックス等に依つ に提出された︒此の法案は下院を通過して後︑上院で否決され聯立内閣は崩解した︒所が︑裳時イギリスは北米
第 六 巻
`
六 一 四
第 三 撃
二 ︳︱ ‑ 四
1) R. Dutt. ibid., p. 64 2) D. Datta, ibid., p. 53
m
度土地改革の研究ここ
ろが
︑
の絶鉗額ーー裳時に於て︑
第 六 巻
六一五
第==輩
二
︳ ︱ ‑ 五
従米︑租税
11
地代の納入を怠らない限 何等の保設も受けなか 永久的に引上げられるこさな の植民地を失って︑他に一大植民地帝國の確立の必要か一
般に痛感されてゐた閑な
ので︑東印度合社の特様に制 限を加へ︑印度の財政を確立せんとする要望は︑翌年雨院を泊過した次期内閣の首班ビット
の印
炭 法
として現は
て︑ザミンダールや︑
ー を 以 て
︑
財政の甚礎を確立せんが為に︑
の間︑一定額の地租をザミンダ
ール
をして納入せしむる方法
ーー
が︑
4い
ので
︑
一七九三年三月︑法令を疲して︑
土地の私有樅を認め︑英國型の大土地所布制
事貰上の土地所有者の上に︑
︑ ︐
2 土地所
者ご法認した︒しかも︑此の法令によるこ︑彼等が︑その賞時納入してゐた地租
1 1
耕作梨民より微牧する地代の十分の九の金額を政府に納めてゐたー'│は︑爾
後︑例令土地の改良等により︑彼等の牧入が培加する様な事があっても︑
しこ規定された︒所謂
Pe rm an en t Se tt le me nt
が確立された
ので
ある
︒
一方此の様にザミンダールが優遇されたのに反して︑他方農民は︑
ったばかりか︑嘗つての特梢の線てを刻奪されてしまったので︑ の戯萱セ印度に打建てようさした
ので
ある
︒
又ウードに於ては︑タルクダールの上になされた ベンガルのザミンダー
J V
I
右に団じ宜言がマドラスに於 餘り満足なる効果を得られなかつ 即ち、最初彼が試みた方法ー—契約期間を十年さし コーリンワリスの政策はー 財くて
︐
ヘイステイングは麿せられ︑代つて︑ : ,o t ‑し←
z
一六七八年︑コーリンワリス卿が総抒ごして来印した︒
1) B. H. Baden‑Powell, Land Tennre in British India. p. 157 2) B. H. Baden‑Powell, ibid., p. 125, pp. 157‑‑158
の購買︑米や布の購買のために費消するであらう︒彼等は消費手段の絶封的な需要者ごなる︒斯くして 努働芥であったが︶︒彼等は貨幣の取得者である︒その貨幣賃銀は如何に低廉であらうども︑それを商品 は︑土地の牧奪から生じた過剌人口ご共に︑村を出でて︑農業努働者に轄化した︵その大部分は季節的 専門化は︑農業の生在力を増加せしむるこさから︑農村に於ける人口の過網を生する︒之笠す過剰の人
n
しかも嬰業の 人の生亜に頼るに至るのである︒ 之を他 の生産物を喪らねばならぬ︒ 印度土地改革の研究しかも此の地方のザミンダールは自己の地位を利用して︑
引上げを無暗に行ったから︑農民のたださへ悲滲な朕態はます/\低下せしめられて︑
然し︑此の様な高李地代さ商業・高利貸への農民の従局は︑農民の自足的絆溝︑
第一
︱︱
就
地代の
して成立せる皿西村共詞個を崩解へさごが進めざるを得ない︒農民は︑之等の詣支拙に應する箆には自己
引入れるこn
こに
依つ
て︑
従って︑彼の生産も従来の自給自足的なそれから︑販賣の鯰のそれへ'1J轄
化せしめられる︒此の結果︑農民は蚊早自己の需要する一切の生森物を自ら生産し得なくなり︑
斯くて農業の専門化は︑農村共阿儒を破壊し︑印度農民を商品流通に
イギリス尚品の鶴の市場を成立せしめたのである︒
更にか4る強制的尚晶化の過程は︑農民の生活を決して豊かならしむるものではない︒ 従ってそれを基礎
', J
商業・高利貸の手に陥入るに至った︒ 彼等の大部分は 箪なる小作農に轄化されてしまった︒ り︐その土塊竺逐はれるこごのなかった農民が︑此の制度の施行さ共に︑忽ちにして借地期限の短かい
第 六 巻
六一六二三六
するものである︒然るかぎり農民暦の解個は︑
第 六 巻
六一七 前記の永久的ザミンダール制度の場合さ同じゃうに進行 相反する二つの必要を達成し︑その上財政牧入の増加を計らんつこ それに碁礎を置いて計算されたの 法は地租を永久的に一定額に固定せしめす 税牧の一暦の増加の必要が愈々痛感され︑ な
かっ
た︒
それ
に︑
同時にまた彼等の手に巨大な富の集積す 農村共詞儒の破項ぱ︑農民を貧窮に陥入れながら︑英國商品の為に市場を撰大した︒
地租の永久的設定の政策に依つて︑地主の所得は︑非常に増加したが︑
一八一三年には會社の印炭貿易獨占が麿止されたので︑
党に︑平均︱二三萬ボンドの損失を年々記録せねばならなくなった︒
於ては︑新しい地租の微牧方法が採用されるに至った︒
Te
mp
or
ar
y
Se
tt
le
me
nt
即ち之である︒
二十年乃至三十年の週期を以て︑納税額を引上げ得る様に
したもので︑共税率は︑官吏が地主全所有地の小作料牧納高を推算し︑
であるが︑その率は比較的に高く︑ベンガルでは地主所得の七
0
%であった︒此の制度は︑ザミンダールを自己の支配の下に織り込むが︑
るのを防止せんこするものであって︑
するであらうし︑従ってイギリス商品のための市場開褻に作用する力も亦︑先に述ぺた如くに大であら
う︒農民の窮乏化︑貨幣使用の増大︑自足生産から商品生産への轄化︑農業の専門化︑一部農民の賃努
印度土地改革の研究 窪に一七九三年以後に獲得されたベンガルの残りの地方に
第一=賦二三七 ︵ハ︶定期的ザミンダールの設定
此の方 財政的困難は愈々加はり︑ 會社財政は依然窮境を脱し得
1) B. H. Eadenー:?owell,ibid., p. 152 2) ibid., pp. 169
—
170いて︑村民が相互に保諒する所にある︒地机は一定の期間セおいて引上げられ︑
叉牧納さるべき地代であって︑此の地代を基礎さして︑その八
0
3
%︵東印度會社時代ー│現在は五
0
%又は共以下︶を賦諜された︒之等の村落の土地は︑原則的には村落
の共打地さ誌められてゐるのであるが︑
4 に於て︑中間地主化したタルクダールが存在し︑又︑中部謡州に於ては︑村落共団闘の土地が︑
ザー
ルの
私付
地っ
ヽ
J化して届り︑しかも︑政府は之笠すの地位を法的に認めてさへ居るのである︒
も、イギリスが賓施した此の政策が、•印度在来の村落共阿罷の存紐を認容するこ'こにあったのそなかつ は︑その土地に於て︑賓際に牧納し︑
"ド り︑
且4此の制度の
特徴
は︑
地租が個人ではなく︑ 此の勤告に甚いて行はれたものなのである︒
印度土地改革の研究
働者化、商品需要の培大••…•かうしたこさがらは、
ベンガル型
の
賓院は︑既に
之を見て
マル
グ アグラ
諜税の標準こなるもの 村落共同閤を封象>こして賦諜され︑それが納入につ
(︱
‑︶
共同
地 主制(M2窓
lw 2r i Se tt le me nt S
ys te m)
の設定
一八二二年︑法令第七競に依つて打建てられた北部印度︑
土地制度は︑前述のザミンダール制度ごは形態が異なつてゐた︒
ホルト・マッケンジー
(H
el t
・M ac ke nz ie ).
委員
會は
︑
第一
︱︱ 馘
村落共布闇開の廣汎に存在する此の地方に於て︑
Pe rm an er .t S et tl em en t を設定する軍の不賞を指摘してゐた︒新土地制度の設定は︑全く
既に
︑ 殊 に ア グ ラ
一八一九年︑此の地を調査した ゥード及び中部謡州に於ける 英國の商品市場を撰大するであらう︒
第 六 巻
ノ
八~
三
そ 八
1) G. B. Jathar and S. G. Beri, Indian Economics, Vol. i. p. 425"
2) B. H. Baden‑Powwdl, Land Revenue, p. 171 3) Tathar and Beri, ibid., p. 427.
4) Jathar and Beri, ibid., p. 426 5) B. H. Baden‑Powell ibid., p. 94
印度土地改求の研究
ある︒即ち︑共同罷の不分割地の牧奪は︑
第 六 巻 六 一 九 第 一 二 輩 二三九
従米之を利用する事によってやうやくその存紋を可能ならし で︑高李地租を賦課し︑それの金納を命じた︒ 林野︶を牧奪した︒次い イギリスが之等の地方に自己の防壁たる地主附級の養誰セ計ったこしても︑
︵ホ︶ライオットワ
l J 制の設定
ペンガル型の
Pe rm an en t Se tt le me nt
に野跛的な制度は︑
此の制度は︑最初(‑八
0
七年︶トーマス・ムンロー︵後のマドラス総 督︶に依つて唱道されたものであって︵之の公式に採用を命ぜられたのは一八︱二年十二月︶その特徴
土地所有者n
こ認
め︑
地租の納入に際しては︑他の制度に見るが如き農
落共同罷が廣汎に存在し︑且大ザミンダールの存在を訣いてゐた地方︑
採用せられ︑今日では︑ァッサム及びビルマにも行はれてゐるのであるC
此の制度の施行ご同時に︑イギリスは︑先づ共同個の不分割地︵未開墾地︑
絃に於ても︑英吉利の政策の意味は︑餘りにも明らかで 即ちマドラス及びボムペイに 民ご會社︵政府︶ごの間の仲介者を排除した琺にある︒此の制度は先づイギリス佼入賞時に於て︑村 さする所は︑個々の農民を以て ける
Ra iy at wa ri
制度である︒ フランス型の小農民制を置似た南印度に於
る ︒
何守の不思議はないご云ヘ 納︑不納及び農民の逃亡等を防いで財政の確立を期さうさしたポにあったのである︒従って前追の様に た専は明らかである︒彼の目的は︑本ろ︑此の制度の内容たる地租の共同衰任制を活用して︑租税の滞
1) B. H. Baden‑Powell, ibid., p. 200