九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
子どもの本とジェンダー
谷口, 秀子
九州大学大学院言語文化研究院
https://doi.org/10.15017/1654550
出版情報:言語文化叢書. 15, pp.1-19, 2005-03-18. Faculty of Languages and Cultures, Kyushu University
バージョン:
権利関係:
どもの本とジェンダー 口 秀 子
l,はじめに
じめとする幼い子どものための本においては、たとえば小説のような、大人の ための文学に詑べて、主題や内容が平易で異体的であるのは言うまでもないc また、子ど もの本において辻、写実的な描写だけではなく、魔法や動物の探人化などを用いた、リア リズムとはかけ離れた手法が用いられることが少なくない。このような、一見、
化や現実の社会とはかけ離れた到の世界のように思われる子どものための本においても、
女性橡や男性像、および、男女の措き方に関して辻、社会の密菅や価値観がストレートに されていることが多いのは、
たとえば、現在も子どもたちによく読まれている『シンデレラ』をはじめとする西洋の おとぎ話には、おとぎ話の成立時や再話持の社会的パラダイムであっ
るの しく、
ようなおと
、筋立てがな ミることが多く、
体的に行動すること 、女性であり、
と考えて、じっと
『シンデレラ
J
を現代患にアレンジ り、シンデレラ:士、継母たちのひどし と措じ続けるが、この夢とは、すてきな男性と 幸せになるという、男性誌存的なものである。もちズニーの を受けながらも、
、その男性と とぎ話には、
るのが女子ま その
る。このよう レラ
J
にも引き っと叶うj}の家を出て て 積極的に行動する女性の登場人物も議場するが、彼女ら
依帯的な女性主人公(型女)の対揮に議かれ、掻悪な女性
は良L
として撞かれる
現代の子ども アニメな もとづし ない。このため、子どもの本は、場合によっ 幼い子どもたちに、国習的でスチレオタイ
る危険性すらはらんでいるのであ 一方、近年の、女性を取り巻く
る男女の措き方;こも、上に述べたよう
・男性観が反映されていることが少なく まだ十分な批評能力の備わっていない
−男性観を刷り込んで、再生産す
と 小説、漫画、 どさまざまなメ アにおける
て、 に変化し始めてい どもの本には、
もちろん、子どものための本も、その例外ではない。さら
からの子どもたちにはこうあって欲しいとし、う作者の個人的な願望が反映されたり、また、
時には、社会が今後新たに目指そうとする理念や理想が先取りされたりすることもある。
そのため、国の内外を間わず、最近の子どもの本において、主体性に乏しく受け身で男性 依存的なシンデレラのようなヒロインとは異なる、多様な女性像が提示されはじめている のである。
小論で、は、近年の子どもの本におけるジェンダーについて、主に女性の描き方に焦点を 当てて論じる。その際、このところ多く見られるようになったジェンダーの問題に配慮の ある作品を取り上げ、そこに見られるジェンダーを排除する試みなどについても考察する。
2.男女のステレオタイプ
近年の子ども向けの本においては、伝統的な西洋のおとぎ話に見られるような、行動す る強い男性、男性の助けを待つ受け身のか弱し、女性という固定的な性役割が露骨に示され ている例は少ない。しかしながら、絵本に登場する女の子・男の子は、依然として、「女の 子はこんなもの、男の子はこんなものJという女性・男性に対する社会的・因習的な固定 観念を反映している場合が少なくない。
ペン夕、おきろ!
ほら、し、っしょに とぼう。
びょーん どん とんとんぐっぐっ ぽーんどんたんたんぎ、つぎ、つ
うわあ、てんじようにぶつかる。
(長谷川摂子(文)アンヴィル奈宝子(絵) 『ペンタとぼく』, pp.2‑3)
上にあげた『ペンタとぼく』は、主人公(ぼく)の朝起きてから寝るまでの一日を描い た作品であり、主人公の子どもの生き生きとした様子が、飼い犬ペンタとの日常的な場面 を通して表現されている。上に引用した場面以外にも、主人公がペンタと勢いよく鍋の底 や皿を口川、たり、お風呂に入ったりする場面などに、力強し、擬音を使った表現が見られ、
男の子の元気いっぱいの様子が作品全体にあふれでいる。子どもの本においては、このよ うな開放的で力強し、躍動感は、主人公が男の子の場合がほとんどであると言っても過言で はない。
『ぼくみつけたよ』の語り手である主人公(ぼく)も小さな男の子である。この主人公 は、宝探しの官険のように、いろいろなものを見つけてし、く。やはり、このような新しい ものを積極的・主体的に見つけていくというような、好奇心にあふれた、動きのある主人 公には、女の子ではなく、男の子が選ばれていることが圧倒的に多いのである。
ぼく こおろぎみつけたよ ぼく みのむしみつけたよ
く せみのぬけがら みつけたよ く タ マ み つ け た よ
く おかあさんみつけたよ く おさかな よ ぼく トンカチみつけたよ ぼく みつけたよ iまく かさ みつけたよ ぼく おとうさんみつけたよ
く たかい 1で うれしし く かたぐるまで らくちん
(ヰノウヱ・ ウスケ
F
;まくみつ pp. 2‑24)一方、?とん ことり
J
は、見知らぬ新しい土地に引っ越してきた女の子かなえが主人公 である。ぜとん ことり』の初出は、 1986年であるが、梅音館書活発行の「ものがたりえ ほんシリーズJのうちの一罷として、何度も版を重ね、現寵でも多くの子ども継がれている。)?とん こと号
J
においては、見知らぬ土地に出っ越ししてきたばかりの 幼い子どもが感じる不安が晃事に描かれているが、このような、外界や未知のもる不安を語いた主人公には、男の子ではなく、女の子が選ばれることが五巨額的に多いので ある。
えは、やまのみえる まちに、ひっこしてきました。
〈中路)
かな 庁んかんの ドアをど あけました。
にわのむこう しらない とおりで、
し ら な い ひ と が あるいている
(中略)
と ん こ と り
また、ちいさなおとが きこえま
「ゅうびんやさんだ! J
かなえは、げんかんに はしりました。
でも、ゅうびんうけには、ゅうびんのかわりに たんぽぽが 3ぽん はさんでありま
そのたんぽぽをそっと とって、
3
かなえは ドアを あけました。おもての とおりには、やはり、しらないひとが あるいているだけでした。
(筒井頼子(文)林明子(絵) 『とん ことり』, p.2, p. 8, pp. 11‑12)
この主人公の女の子の感じる外界に対する不安と閉塞感は、その土地の見知らぬ女の子 が、数回にわたって、家の郵便受けにそっと花や手紙を入れてくれることによってはじめ て、変化の兆しを見せる。最後の場面にいたって、主人公の女の子は、郵便受けのところ で、「とん ことり」という音がするのを聞くと、さっとドアを開けて、花や手紙を投げ込 んでくれていたこの土地の女の子を呼び止める。この時、これまで見知らぬ土地という外 界に不安を感じていた主人公は、土地の女の子の働きかけのおかげで、自分の置かれてい
る閉塞的で不安な状況から抜け出すきっかけをつかむのである。
『とん ことり』におけるように、子どもの本においては、不安感や自信のなさを表す には、やはり、男の子よりも、女の子が主人公に選ばれていることが多い。また、女の子 の主人公は、このような自分にとって好ましくない状況を主体的に変えようとするのでは なく、他者に働きかけられるのを待つ消極的で、受け身的な人物として描かれていることが 多く、男の子を主人公にした作品とは、対照的である。男の子の主人公で、あれば、『とん こ とり』の主人公と同じ状況に置かれた場合には、自分から積極的に状況を変える行動に出 ることが普通であり、たとえば、前に引用した『ぼくみつけたよ』の男の子の主人公で、あ れば、郵便受けの花や手紙を待つまでもなく、ドアの外に飛び出し、「ぼくみつけたよjと 言って、新しい土地で、虫や花を見つけ、友達を見つけるだろうと感じられるのである。
現実の世界では子どもならば男女を問わず誰しもが感じる可能性のある見知らぬ土地や外 界に対するこのような不安は、絵本などの子どもの本の中では、多くの場合、男の子では なく、女の子によって表されることになるのであり、このような不安への対処の方法も、
女の子が主人公の場合、自ら行動して状況の打開をはかるのではなく、他者の働きかけを 待つような態度であることが多いのである。
このように、男の子が主人公の『ペンタとぼく』と『ぼくみつけたよ』を女の子が主人 公の『とん ことり
J
と比べてみると、現実の男の子や女の子ひとりひとりの実態がどう であろうとも、因習的に男性の属性と考えられているものには男の子を主人公に選び、女 性の属性と考えられている場合には女の子を主人公に選ぶというように、主題に応じて主 人公の性別の使い分けが行われており、おとぎ話でおなじみの、古くからの男性像・女性 像のステレオタイプが用いられていることがわかるのである。 1)3.ステレオタイプからの脱却
子どもの本によく見受けられる男女に関するステレオタイプを排除しようとしていると
患われる作品も、
女性の主人公は、
によっては、
徐々に見られるようになってき イブからかなち した女性像が提示される場合すらある。
そのような作品においては、
るように描かれており、場合
以下にあげる じよのすいぞくかん
J
じおいては、探検としづ、…殻的には、もかかむらず、女の子が主人公になっているむ主人公の女 中に建つ水族館の中に入るが、水族館の中にある水槽には、
よって魚に姿を変えられた動物や人間が入っており、助けを求めてい 女の子!立 て吉分 水害の水を抜いて動物たちを逃がしてやるものの、
も魚に変えられてしまう。その時、女の子が助けた動物たちが彼女のこと て来て、女の子は後らに助けられる
そのとき、にげていった どうぶったちが、
ふたりのことを しんばいして、こっそり もどってき そして、かいだんの とちゅうから、そっと
ょうすを うかがつ くまが、ひそひそ」
fたいへんだ、あのこたち、さかなに されちゃっ たすけなきゃ! J
(中略)
「おんなのこと いぬを、あみですくって、たすけようj
うだね、まじよはイカのままが いいや。なまえは
?ジョイカモドキだJと、ぶたが いっ
(佐々木マキ『まじょのすいぞくかん』p.22・26)
主人公の女の子を助けるゾウ、クマ、ブタとしづ動物たちは、言葉遣いと絵が与える印 象から、すべてオスだと考えられる。そして、勇敢な女の子が、魚に変え
を助けたものの、今農は自分が魚に変えられてしまい、自分が助けた動物たちに逆に助け という筋立ては、たとえば、多くのドラマや少女漫画などにおいて、活発で強し として描かれる主人公が、いろいろな場面で大活躍するものの、最後には自
い苦境に陥ってしまい、結局i士、男性の助けによって救われるという、よくある このように、
f
まじよのすいぞくかんJ
の主人公の女の子は、ジェンダーに とらわれず、むしろ、ジェンダ…を逸脱する女性議に掛かれているにもかかわらず、男性 との関採ぷおいては、まだ、女性は男性に助けられるものという、させるまでにはいたっていない。とは言うものの、『まじょのすいぞくかん
J
が、 け身的でか弱し、女性とは異なる好奇心にあふれる行動的な女性主人公を絵本の中ことは、大し 点である。
5
4.闘う女性
少女漫画やアニメなどにおいては、ジェンダーにとらわれない女性像を提示する手段と して、闘う強い女性を描くことがよく行われている。このような女性像は、古くは、テレ ビ時代劇の『琴姫七変化』や少女漫画の『リボンの騎士』における男装して闘う女性像に 見ることが出来る。現在では、男装した女性以外にも、アニメ『もののけ姫』などをはじ めとして、様々な闘う強い女性像が描かれている。
このような、女性に対する因習的な固定観念を覆す闘う女性像を、子どもの絵本に持ち 込んだ例のひとつとして、『ぶんぶんひめ』があげられる。『ぶんぶんひめ』の主人公ぶん ぶんひめは、恐れを知らない女の子であり、不思議な力の宿った「ぶんぶん まわる ふ しぎな かみのけ」を武器にして、クモの糸でぐるぐる巻きにされた烏や大蛇を助け、大 きなダンダラぐもという怪物を退治してしまうのである。
ぶ ん ぶ ん ひ め の か み の け は ブ ン ブ ン ま わ る ふ し ぎ な か み の け 。 あかい リボンでギュッと しばってブンブンたびにでかけます。
とちべえまめぞうおともにつれてそーれブンブン。
(中略)
や、や、や、や、ゃあー あらわれいでたるは ダンダラぐも。
(中略)
どっと くりだす くものいとに あわれ、ひめの かたなはふきとんだ。
「かたながなくてはかなうまい。
いとまきひめに してやるぞJ ダンダラぐもの は き だ す い と に
ぎりぎりぎりと しめつけられた ぶんぶんひめ。
のこる かたてで リボンをはっしと なげとばす。
ぶんぶんひめの かみのけは、
た ち ま ち お お き な は ね に な り 、 ブ ー ン ブ ー ン と まわりだす。
まわる まわる ぶんぶんひめ。
ぶんぶんひめの いとぐるま。
ブ ー ン フ フ ン フ ー ン フ フ ン
まわるぞまわるぞぶんぶんひめ、
そーれ くものいとをすっかり ぜ ん ぶ ま さ と る
い と を す っ か り まきとられ くものおなかはぺったんこ。
加んどはひめさま ぎやくまわ号。
いとは ぐんぐん ほどけていって く も は ベ ラ ベ ラ とんでし、く。
ベ ラ ペ ラ ベ ラ とんでいく。
ダンダラぐもの たこあげとござ、…い。
(沼野王子 rぶんぶんひめ~, p. 2, pp. 19‑22)
う女性であるぶんぶんひめは、怪物と 際には、刀と を武器に怪物 を挑むのであって、従来の子ども向けのお話によく見ら
らしい機知を用いたり擾しさで慌物を改心させたりするのでは決してない。この意味では、
高い鞍器能力を有するぶんぶんひめは、女性原理とは無縁の、いわゆる活麟の男性ヒーロ しているのである。また、ぶんぶんひめは、
r
まじよのすいぞくかんJ
の女の 子とは違って、作品中のどのような場面においても男性の場けを告ちることはなく、 bしろ、逆に、お供の男の侍をクモの糸から助け出し、ひとりで
f
愛物を退治するのであり、女の関係においても、 じさせることがない。
1女性橡の象徴的な存在ども言える、関う
アメリカの読み物やコミック ような闘う女性の場合、
生き物や人間安クニその糸でぐるぐ あり、少年護踏の主人公の多くのよう ないのは、特筆すべき点である。
どにおいて うのには、
にする悪し 自分の強さ
Xena:耳石1n‑iorPrincessをはじめとして、
く見受けられる。もっとも、この りの大義(ぶんぶんひめの場合、
とし、う ために関し
が必要で ことが
5.山姥そして両性異存
1て、ジェン よく用いられるよう
一一ーやま
とらわれなし
ったの段、出姥を主人公にすること
まゅのおはなし-~も、
法 ま 娘 方
﹃ の の 勾 姥 め 山 た子ども
として、
ゆとブカ を主人公に
?
あるひ、ゃまにあめがふりました。
(中略)
まゅは、円、ってきまあす」と いって、あめのなかに とびだしていきました。
おもては どこも びしょびしょの ぐちゃぐちゃの どろどろでした。
まゆは、みずたまりを みつけるたびに おもいっきり どろみずのなかに、とびこんでまわりました。
ピョン ピシャン!
ピョン ピシャン!
まゆも すぐに、びしょびしょの ぐちゃぐちゃの どろどろに なりました。
(富安陽子『まゆとブカブカブ~i pp. 3・5)
『まゆとブカブカブー』の主人公まゅは、冒頭から女性のステレオタイプを覆している。
大喜びで雨の中に飛び出し、水たまりの中で、どろんこになって飛び跳ねるまゅの描写に は、先に論じた『べンタとぼく』の主人公の男の子に見られるのと同じような躍動感が満 ちあふれでおり、「女の子はこういうもの」「男の子はこういうもの」という固定観念を見 事に裏切っている。
山姥の娘まゆも、ぶんぶんひめと同じく、恐れを知らない闘う強い女性である。まゅは、
山の生き物がみな恐れおののく怪物ブカブカブーに飛びかかるのであるが、そこにいたる までの描写において、彼女の好奇心と勇気と力強さが描かれている。作品の官頭で女の子 のステレオタイプからは考えられない躍動感を示したまゅは、ここでも、闘う女性として、
ジェンダーにもとづく女性のステレオタイプを超えているのである。
まゅは どうしても ブカブカブーに あいたくなって、はやしのおくへ すすんでいきました。
(中略)
か ら す は ま ゅ の あたまのうえを まわりながら、こたえました。
「みたとも、みたとも。わしがやぶに ちかづくと やっめ、ぼうしを ゆらして、
ブカブカブーと わらいおった。
ごょうじん。ごょうじん。ごょうじん。
うっかりすると、くわれるぞ」
(中略)
ま ゆ は び っ く り し て たちどまりました。
なんておおきなぼうしでしょう。
こ ん な ぼ う し を か ぶ っ て い る ブカブカブーは、きっと あたまだ、つで ものすごく おおきいに ちがいありません。
「こんちはj と、まゆは あいさつを しました。
ブカブ…はなんにも こた
とうとう ま ゅ は は ら を た て て 、 お お き く いきを すいこみました。
うしも とらないで、あいさつもしないんなら、
あたしが そのぼうしを ぬがしてあ庁るから! J ま ゅ は お ど る ブカブカブーにむかつて さげぶと、
とびかかる よういをしました。
し、ち、にいのさん!
じめんを けって、おもいっきり ジャンブ!
ま ゅ の か ら だ は や ぶ を とびこえ、ブカブカブーの う し め が とんでいきま
ぜまゆとブカ p. 12,pp. 16輔17,pp.21・24)
まゆは、山姥の娘であるが、ぶんぶんひめが、変bった繋の毛を持っている普通と なる女の子であるのと同様に、まゆが山姥であることこそが、彼女がジェンダーにとらわ
、擢動感あふれる強くて活発なヒロインであることを容易にしているのである。
恐ろしい異形の存在であり、「深山に住み、経力を発揮した り られている誌説的な女J3)である。
数的であり、 などの超人的な身持能力を有し、
る山姥;土、;まさぼさの髪が特
、込んだ里人を食べる場合もあ る。また、山姥;士、人里離れた山中に住み、里の社会や人々との接触を一切断っているた め、里の社会の壊範の制約を受けることがない。そのため、山姥は、皇の社会を支配して いる家父長誌や家制度とは無縁の存在であり、それらに都合良く作られたジェ
らも告自であるo
wのような山姥像は、多少の変更を撞されて、現代の子どもの本じ議場するのであるが、
くの作品に共通するの辻、新しい山姥像lこは、民話の山姥の特徴であったぼさぼさ などの風視は受け継がれているものの、民話の山姥畿に見られるような邪悪で恐ろしし は全く克られないという点である。また、子どものための本においても、山姥が皇の社会 に属さず、国習的な規範やジェンダ…から喜Eきであるところと、超人的な身体能力を有し ているため、力強さと迫力があるところは、受け継がれており、子どもの本に描かれる山 姥の魅力となっているのである。このことは、欧米の子ども向けの本において、ステレオ タイプ的な女性ではない女註主人公として、魔女が選iまれることが多くなっていることと
9
きわめて類似している。
『まゆとブカブカブー』の主人公で、あるまゆは、まさにこのような子どもの本における 新しい山姥像を体現している。そのため、まゆも母親も、山姥らしく赤い髪をしており野 性的な服装で裸足であるが、ふたりには邪悪なところは少しも見受けられないのである。
まゆが山姥の娘であることは、少女漫画において、女性主人公に胸のすくような大活劇を 演じさせるのを可能にするための装置として、『リボンの騎士』における男装や『セーラー ムーン』における変身が用いられているのと同じような効果を持っと考えられる。すなわ ち、作者は、自然の中で自由奔放に飛び跳ね、森の動物たちが恐れるブカブカブーに挑み かかるほどの勇気と強さを持つ女性を表現するために、まゆを、ジェンダー化された社会 に属する普通の女性としてではなく、その外側にいる山姥として設定したのであろう。そ のため、一時的に男性の記号を借りて女性性を消す男装や、姿を変えて普通の女性とは異 なる存在になる変身と同じく、山姥であることが、普通の女性の主人公では考えられない ような、強敵との闘いに勝利することを、読者に無理なく受け入れさせると言えるのであ る。もちろん、普通の女の子とは違うぶんぶんひめの特異な容貌と能力にも、これと同じ ことが言える。
一方、『まゆとブカブカブー』には、闘う強い女性像であるまゆが示す弱者への共感とい う別の側面も描かれている。
「ゃったあ!」と まゆがおもったそのときでした。
ブカブカブーが とつぜん、ぐしゃりと じめんのうえに たおれたのです。
(中略)
「ブカブカブーが たおれちゃったあ! けむりを はいて たおれちゃったあ! J まゅは け む り を は き だ す ブ カ ブ カ ブ ー を みつめて、なきそうになりました。
しゅーしゅーと けむりをはきながら、
ブカブカブーはふうせんが しぼむように、
だんだん ちいさくなっていきました。
「ブカブカブ一、だいじようぶ?」
まゆは、ちぢんでしまった ブカブカブーに こわごわ ちかづいていきました。
(『まゆとブカブカブ~
1
pp. 24‑26)ここに表されているのは、ブカブカブーに闘いを挑んだまゅの強さとは対照的な、まゅ の弱者に対する共感と優しさである。まゆは、ブカブカブーが無抵抗のまま倒れる様子を 見て、ブカブカブーに対する哀れみを感じている。まゆは、ブカブカブーが、自分が思っ ていたような恐ろしい不敵な怪物ではなく、まゆがその赤い「帽子Jに体当たりしただけ で何の抵抗も出来ずに倒れてしまうほどの弱し、存在であったことに気づく。そのため、ま
ゅ;まブカブカブーが割れるの である。
そうになり、 してブカブカ
このように、まゅは、怪物を恐れず飛びかかっていく強さと しさとを需持に兼ね備えている。すなわち、関う強さイコ…ル
の
りイコール f女性的jとしづ、国習的な倍値観からすると、まゆ;土、思習的には男性の特 とされる勇気と強さと、女性的とされる思いやりと箆しさとの開方を兼ね舗えた、いわ ゆる間性具有的な女性なのである。まゅの中lこ見られる、ジェンダーにもとづく女性像の
アンチィ られた闘う強し ると同時に、
さを前面に押
し思いや 加とによるジ りの心を持つことの出来る、
エンダーからの解放にとどま いう点で、
しさという女性の持つ特質をも保っていると だけでない、バランスのとれた強し している
6.男女の関係
F
まじよのすいぞくかん』にも われず、むしろ、女性に女守するして描かれている場合でも、男性と 助けてくれた男性と窓に落ちるのが、
ように、
さ
とら と よって
このように、ジこにンダーにとらわれない女性畿が措かれている場合でも、莞牲と ちの描写においては、依黙として、男性が主で女性が従、男性は強く女性は弱いと いう、スチレオタイプが晃られることが少なくない。江レット・ダウヲング(Colette Dowlin訟は、著書
T
シンデレラ・コンプレックスj(The Cinde1・ellaComple.χ: Women~ Hidden Fear of Independence)の中で、子ども時代に読み関かせられる『シンデレラJ
のようなおとぎ話の因習的な女性橡が、女性に男性への依存穎望を植え付けることを指揺したが、ま さに、この盟式が、ジェンダーを超えたはずの女性主人公たちにも当て詰められているの
る。
どもの本においても、 と男の子の両方が描かれてい 男女の関係に対す るこのような社会通念や器定観念が、作品に反映されている場合が少なくない。最近の絵 本である『なっちゃんも ついてこーしせにも、ステレオタイプ的な男女の関係が見受け られる部分がある。『なっちゃんも ついてこーしせの主人公はなっちゃんという幼い女の 子であり、{患に、けんたくんという男の子となっちゃ
作品においては、なっちゃんとけんたくんの関わり
「ジョン、 ついてこいリと、 くんがいうと、
11
。この る。
ジョンはおおよろこびでついていってしまいました。
でも、けんたくんは もどってきて、
「なっちゃんも ついてこーしリと、よびました。
なっちゃんはおおいそぎで はしっていきました。
へいを くぐりぬけー は ら つ ば を は し り −
くらい もりを なっちゃんはいっしょうけんめい はしって、ついていきました。
(中略)
けんたくんは クッキーを たべてしまうと、
「くらくなったから かーえろ」と、いいました。
(こいでやすこ 『なっちゃんも ついてこーし寸, pp.5‑10, p. 16)
なっちゃんとけんたくんの聞には、明らかに、けんたくんが主、なっちゃんが従という 関係が成り立っている。言葉を発するのは、常に男性のけんたくんであり、なっちゃんは、
一言も言葉を発しない。なっちゃんは、ただーカ所、最終ページ近くでの、けんたくんの
「あした いっしょに どんぐりとりに いこうよ」という誘いに、「うん!」とうなずく のみである。けんたくんが、なっちゃんに「ついてこーしリと命じ、「くらくなったから か ーえろ」と決め、「あした いっしょに どんぐりとりに いこうよ」と提案する。ふたり の行動の主導権を握っているのは、常に男性のけんたくんなのである。このふたりの関係 を見ると、なっちゃんとけんたくんの聞に、年齢の聞きがあり、けんたくんが何歳か年下 のなっちゃんに対して、主導権を握っているようにも見える。しかしながら、挿し絵に描 かれているふたりには、大した身長差がなく、ほぼ同じくらいの年齢であると考えられる。
それにもかかわらず、積極的に主導権を持ち、物事を決め、命令するのは、例外なく、男 性であるけんたくんであり、女性であるなっちゃんは、男の子について行く、受け身で従 属的な子どもとして描かれているのである。すなわち、ここには、家父長制的な、男が主 で女は従としづ価値観が、そのまま反映されていると言えるであろう。この本の読者とし て想定されている幼稚園児たちは、まだ強くジェンダー化されてはおらず、男女が一緒に 遊ぶ時に、男の子ばかりが主導権を取るとは限らない。このため、『なっちゃんも ついて こーい』におけるような、男性が主導権を握り女性がそれに従うとしづ、固定観念的な男 女の関係の描写は、ステレオタイプ的な男女の関係を子どもたちに刷り込む危険性をはら んでいるとも言えるのである。
しかしながら、『なっちゃんも ついてこーし寸は、このようなステレオタイプ的な男女 の関係を反転させ、対等な男女関係を示唆することによって、ジェンダーの再生産を避け ている。
けんたくんは クッキーを しまうと、
「くらくなったから かーえろJと、いいました。
ゅうがたの くらいくらい も り を ぬ け − ゅうがたの くさぽうぼうの はらつばを こえー ふ る い い え の へ い を くぐりぬけようとしたとき、
けんたくんは「な、なっちゃん、なにかが ぼくを ひっぱっているよj と、ふるえごえで いし ほ ん と う は セ ー タ ー が へ い に ひ っ か か っ でしたので、なっちゃんは
へいを くぐりぬけると、
してやりま
けんたくんは fありがとうJと、いって なっちゃんと てをつなぎ、
「あしたいっしょに どんぐりとりに し、こうよJと、し冷
なっちゃんほ fうん! Jと、 うなずきました。
なっちゃんと けんたくんと ジョンは とも
げなっちゃんも ついてこーい~' pp. 16‑24)
ふたりの関採の較換をどもたらすのは、けんたくんが、「なにかが ぼくを ひっぱってい るよJと恐怖iこかられてパニックに陥った時
ι
、なっちゃんが、部ち若いた様子で、ひっかかっていたセーターをはずしてやる場詣である。ここでは、これまで、圧街的な優 主導権を握って、なっちゃんを従えていたけんたくんの麓誌な顕と、黙ってけ んたくんに従っていたなっちゃんの冷静さが、並列的に提恭され、男は主で女は従、男は 強くて女は弱し、というステレオタイプ的な図式;こ再考が加えられることになる。なっちゃ んに命令し、指揮嘗気取りであったけんたくんが、セータ…が塀に引っかかるといった、
ほんのささいなことに怯えて、なっちゃんに助けを求めるという、ふたりの需の力 その後のふたりの関採に変化をもたらすのである。
も顕著なのは、 くんのなっちゃんに対する話し方の変化である。それま
「ついてこーしリと命令したり、「くらくなったから か…えろJと独り言めか していたけんたくんが、終結部では、 fあした いっしょに どんぐりとりに いこうよjというような、一方的ではなく、相手の意向を踏まえようとする発言をするよ うになっている。このようなけんたくんのなっちゃんに対するコミュニケ…ションの取り 方の変化には、けんたくんが、主と誌という関係ではなく、なっちゃんと対等な友だちと してつきあう可能性が示されているのであり、最後の「立っちゃんと けんたくんと ジ ョンは ともだちですjという描写も、そのことを裏付汁ているのである。さらに、助け
13
てもらったけんたくんが、なっちゃんに「ありがとう」といって手をつなぐ場面以後、挿 し絵の中で、なっちゃんとけんたくんはふたり並んで描かれるようになり、巻末の挿し絵 では、ふたりは手をつないで、並んで、立っている。この絵には、本のはじめで描かれた、「つ いてこーしリと言って先に走っていくけんたくんと彼を一生懸命追し、かけるなっちゃんの 関係とは異なる、今後のふたりの対等な関係が強く示唆されているのである。
7.対等な男女の関係
最近では、男女の間に、主と従、動と静、強さと優しさなどという、従来のステレオタ イプ的な男女の対比の関係が全くと言っていいほど見られない作品も少しずつ見られるよ
うになってきている。以下にあげる『くうきやへょうこそ』は、その一例である。
『くうきやへょうこそ』の主人公の女の子りんこちゃんは、擬人化されたオスの野良猫 ぽんたと野原で遊んでいる途中に、遊んでいたビニール袋を風に飛ばされる。ふたり4)が 袋を追し、かけて行くと、不思議な洞窟の入り口があり、袋はそこに吸い込まれる。この時、
りんこちゃんは、自分からすすんで、この暗くて深い洞窟に入っていくことを提案する。
その後、りんこちゃんとぽんたは、洞窟の奥深く入って行き、きつねの「くうきや」でい ろいろな味の空気を食べさせてもらったり、風に吹き飛ばされて遊ぶなどの面白い経験を するcその際、りんこちゃんとぽんたの聞には、どちらが主、どちらが従という力関係も、
積極性や好奇心や勇気の違いも、全く存在しない。
か ぜ は び ゅ ん び ゅ ん ふきまくり、
ぽんたも りんこちゃんも ふきとばされて、
きのはと いっしょに おどって おどって…・・
「わーい、さいこう。 さすが くうきゃ とくせいのかぜね」
ふたり いっしょに いいました。
(おりもきょうこ『くうきやへょうこそ
l
p. 25)『くうきやへょうこそ』においては、女の子のりんこちゃんもぽんたと同じく、躍動感 あふれる活発な動きをしており、大きなシャボン玉と一緒に空に舞い上がったりすること も大いに楽しんでいる。このような生き生きとしたりんこちゃんの官険の描写には、怖が
りで臆病であるというような女の子に対するステレオタイプ辻全く見られないのである。
さらに、
f
くうきやへょうこそJ
には、女性と男性の措き方について、ステレオタイプ的なジェンダ-~こ路ちないように作者が細心の詑意を払っていることがよく
る。
あのくも、
さんまの おとうさんみたい。
かっこいいなあj
「ちがうよ、おかあさんみたし かっこいいなあJ
fおとうさんだいJ fおかあさんだいJ
ふたりは はしゃぎまわって へとへとになって、
のはらの くうきを おもいきり すいこみま
(~くうきやへょうこ pp. 31‑32)
作品の終わり近くで、ちんこちゃんとぽんたが、空に fかっこしWリ形の雲が誇かんでい るのを自にする場揺において、「さんまの おとうさんみたい。かっこいいなあjfちがう よ、おかあさんみたいだよ。かっこいいなあjfおとうさんだいJ
r
おかあさんだいj と、 ふたりに交互に語らせることにより、作者は、父親と時親との関に穣劣はなく、父親もどちらもかっこいい、というメッセージを、説者に発信しているのである。また、父 親にも母親にも「かっこし冷リという同じ形容詞在使うことによ号、両者の間にある、父 はたくましく母は穫しい、父は強く母は弱し、などという、思翌的な性役割を感じさせない ようになっているのである。ここには、作者の、男性と女性の性役割やステレオタイプ的 な男女の欝孫や、家父長制にもとづいた、男が主で女が従、男は強く女は喜弘、などとしづ、
あらゆるジェンダ…な排除しようという安勢がよく表れていると替えるであろう。
また、元気で活発な女の子議としてのりんこちゃんは、特殊な髪の毛を持ったぶんぶん ひめや山姥の娘であるまゆとは異な1 等身大の普通の女の子である。それでも、ちんw
ちゃんの、「くうきやjで、の変わった体験の間の物怖じしない態度や活発さと行動力に加え て、野原でぼんたとはしゃぎ回ってへとへとになる様にも、従来男の子の主人公のもので あった、生き生きとした躍動
J
惑が強く感じられる。猫と指すことや fくうさやjでの非現 実的なエピソ…ドにもかかわらず、りんこちゃんの人物設定i士、かなりヲアヲスティックり、現実の活発な女の子の実壊にかなり近いと言える。このこと辻、子ども いて、因習的な女性龍を引きずった女の子が掛かれること
15
示するために主人公を超人的な力を持つ女の子として創造して怪物と闘わせたりする作品 と『くうきやへょうこそ』が大きく異なる点である。りんこちゃんのような等身大の活発 な女の子像は、女の子たちにとって、自己を投影して感情移入のしやすい良いロールモデ ルとなると言えよう。
さらに、りんこちゃんと擬人化された野良猫ぽんたの聞には、飼い主と飼し、猫という主 従関係も、人間と動物という力関係も存在しない。そのため、ぽんたをりんこちゃんと同 年齢の人間の男の子に置き換えて考えることも可能であり、りんこちゃんとぽんたの関係 は、女の子と男の子の対等な関係を自然な形で提示している。別れ際に、りんこちゃんの 方が、ぽんたに「あした また あそぼうねJと提案し、ぽんたが「うん、あした また ね」と答える。ここでも、『なっちゃんも ついてこーし寸よりもさらに進んだ、性別にこ だわらない男女の対等な関係が示されているのである。
8.おわりに
その自足を男に授けたのは自然ではない。それは訓練だ。生まれたその日から、男は 自立するべく教育される。同じように組織的に、女はひとつの逃げ道のあることを教 えられる一ーいっの日にか、何らかの方法で、女は救われるのだと教えられる。こ ういうおとぎ話を、こういう人生のお告げを、わたしたちはまるで母乳といっしょに 摂取してきたようだ。なるほど女もしばしのあいだは自分自身で思い切ったことをや れる。学校へ行き、仕事をもち、旅をする。かなりの金を稼ぐ。しかし何をしてもそ の下には、女の自立感情の限度というものがある。しばらくがんばっているだけでい い、そう幼児期の物語は教える、いつの日か誰かがやってきて本物の生活の不安から あなたを救い出してくれるのだから(男の子が学ぶ唯一の救い主は自分自身にほかな らなし、)。 5)
コレット・ダウリングは、上に引用した『シンデレラ・コンプレックス』の一節の中で、
子ども時代に読み間かせられる『シンデレラ』などのおとぎ話にたびたび登場する因習的 な女性像が、女性に男性への依存願望を植え付け、自立や社会的成功への不安を感じさせ ることを指摘した。このように、まだ価値観も定まらず批評能力も十分でなしが片、女の子 たちに与えられる物語が、場合によっては、成長した後、彼女たちの人生の選択に影響を 与えることがありうることは、全く想像に難くないのである。
社会の変化にともない、女性の人生の選択の幅は、以前に比べてかなり広がっているは ずである。それにもかかわらず、現代の女性が、昔読んだおとぎ話の女性像に縛られて、
自分で、人生の選択の幅を狭めたり、自分が行った選択に不安を持ったりすることは、大変 残念なことである。現在でも、幼い女の子に最も人気のある女性主人公のひとりは、因習
的な女性像の代表とも言えるシンヂレラであり、また、依然として、子ども向けの本にお ける女性の措き方丘、男註の主主き方に比べて多様性が少なく、ステレオタイ
に終始することも少なくない。そのため、子どもの本は、現代の女の子たちにとって、多 ある女性像や人生の選択肢を十分に提示出来ているとは設えないのが現状でまう とは言うものの、近悼の、女性の社会選出などの女性を取り巻く状況の変色や男女共同
自指す社会の要諸により、子どもの本においても、ジェンダ…にもとづく因習的な 女性橡以外の女性を主人会にする動きも徐々に見られるようになってきており、子どもの 本における女性橡も、少しずつ多様化しつつある。最も顕著会のは、従来の悶習的でステ レオタイプ的な女性像を覆すような、行動力のある元気で、強い女性像が多く克られるよう になってきたことである。ジェンダ…にとらわれない女性世人公を提示するために、山姥 や麓女を主人公にしたり、超人的な力を持つ関う強し、女性が創造されることも行われてい
る。また、このような特別な女性ではなく、読者と同じような普通の女の子である
「女の子だからjという制約に全くとらわれることなく、男の子と同じように告患 議子を措いた作品も、珍しくなくなってきており、幼い子どもたちにジェンダ ーにとちわれない女性橡を自然な形で提示することが出来つつある。 6)
どと同様、子どもの本においても、ジェンダーにとらわれない女性像と して創造されているはずの女性主人公が、男性との関わりにおいてほ、依然として、従来
ようなジェ く、 品も、
;土、
ってしまうことも少なくない。この点においても、変色 女性の登場人物の多様佐に加えて、女性と男性との関わりを 男性が主導的で女性が受け身的、男性が常に女性を守るなどという した作品も見られるようになり、女性が、男性に該存するばかり と協調し、妻任を分かち合い、互いに助け合う様子を描く作
るが、
vのように、子どもの本においても、
くなりつつあるようである。
1.筆者は、この3作品の文学的な錨値を否定しているわけで、はないc trしろ、これらの り高いと
2.新しし
ろ山のひみつ~ (福音館書若, 2002、) 社, 2002)などがあ
としては、他に、征矢かおる
r
なない『ドングヲ山のやまんばあさ
17
3.新村出(編)『広辞苑第5版』(岩波書店, 1999).
4.厳密には、ひとりと一匹であるが、ぽんたは擬人化されており、また、作品中でりん こちゃんとぽんたが、「ふたり」と表現されていることから、小論でも、「ふたり」と よぶ。
5.コレット・ダウリング(柳瀬尚紀・訳)『シンデレラ・コンプレックス』(三笠書房,
1989)' p. 13.
6.アメリカやイギリスで盛んに行われているジェンダーの視点からのおとぎ話の語り直 しも、因習的な女性像・男性像が絶対的なものではないことを子どもたちに教えるの に大いに役立つている。たとえば、男性依存的で主体性の乏しい女性像の代表とも言 えるシンデレラをシンダース(Cinders)という男性に代えて、ジェンダーを逆転させ た『シンデレ王子の物語』 (PrinceCinchθ'IS)や、『ジャックと豆の木』 (Jackand the Beans ta]必の主人公ジャックを女性のケイトに置き換え、女性が豆の木をのぼって冒 険をする話に語り直した『ケイトと豆のつる』 (Kateand the Beanstalk)としづ絵本
が出版されている。ディズニーも『シンデレラ II』 ( Cindiθ•re11aIf)を発表して、結 婚後のシンデレラが自分の意志を持って主体的に行動し、城の古い習慣を変えて自分 らしく生きる姿を描いている。さらに、『シンデレラ』以外の、現代にふさわしいシン デレラ的な物語として、古い民話をもとにした『毛皮ひめ』 (PrineθssFurba11)が創 作され、自分自身の知性とバイタリティで苦境を乗り越え、自らの手で、人生を切り開 いていく女性主人公は、現代に生きる女の子たちにとって、受け身で他者依存的なシ ンデレラよりも、はるかに良いロールモデルとなっている。
参考文献
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