九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
6〜7世紀の中国における国家構造と国家意識
稲住, 哲朗
https://doi.org/10.15017/1500460
出版情報:Kyushu University, 2014, 博士(文学), 課程博士 バージョン:
権利関係:Fulltext available.
6~7世紀の中国における
国家構造と国家意識
稲 住 哲 朗
目次
序章
………
……
……
……
……
……
……
……
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
… 4
第一節………
5
第二節………
7
第一 章 文宣帝高洋の即 位 と婁 太后
………11
はじめに………
11
第一節高洋の皇帝としての資質の有無………
13
第二節太后の意図………
18
1太后の発言をめぐって
2太后の発言の背景
小結………
25
第二章 北斉 祖珽考 ―その政治姿勢 を 中心 とし て ―
………32
はじめに………
32
第一節祖珽と「門閥主義」………
34
第二節祖珽の政治姿勢………
38
第三節国家に対する意識………
44
小結………
48
第三 章 盧思道と 「周 斉興 亡 論 」につ い て
………56
はじめに………
56
第一節盧思道の経歴について………
58
第二節正史との比較………
63
第三節「周斉興亡論」とその正統観………
69
小結………
75
第四章 北斉出身 者 と 関隴 集団
………88
はじめに………
88
第一節北周末・隋における北斉出身者の仕官状況………
89
第二節北斉出身者の地位………
93
第三節就任間とその職務………
97
小結………
103
終章
………
……
……
……
……
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
…
… 115
はじめに………
115
第一節『北斉書』等編纂の経緯と問題点………
116
第二節非正統国家の史書編纂について………
118
第三節『北斉書』等に見える唐朝の正統観………
123
結語………
127
参考文献一覧………
129
序章
本論で筆者が考察範囲にするのは、6世紀から7世紀の中国における国家構造とそれを
支えた人々の国家意識についてである。
当該期は、秦漢という巨大な統一帝国が解体し、五胡十六国の大分裂期、南北朝による
南北対峙の分裂の時代から、再び隋唐の出現によって統一がもたらされる時期にあたる。
その概略を示すと、三一六年に西晋が滅んだことにより統一国家は崩壊し、江南では東
晋が、華北では北方遊牧民族(以下、胡族)の短命国家が乱立する状況が生じることとな
った。その中で鮮卑拓跋部が建てた北魏(三八六~五三四年)は、第三代太武帝のときに
華北統一を果たし、北魏と東晋を継いだ南朝が淮水~長江を挟んで併立する南北朝時代に
突入した。第六代孝文帝は所謂漢化政策を行い、官制の改革や洛陽遷都を行い国内の統治
の安定を図った。しかし、その改革の中で既得権益を失った辺鎮防御者たちによる反乱、
所謂北鎮の乱に端を発する内乱により、北魏は五三四年に東西に分裂し、東魏(五三四~
五〇年)は高氏の北斉(五五〇~五七七年)に、西魏(五三五~五五六年)は宇文氏の北
周(五五〇~五八一年)に取って代われることとなった。五七七年に北周は北斉を滅ぼし
て華北を統一するが、五八一年に隋(五八一~六一八年)が後を継ぎ、その隋により五八
九年に南朝の陳が滅ぼされ再び中国に統一王朝が誕生し、それは唐(六一八~九〇七年)
に受け継がれることとなる。
本論では、右に示した時代の実態を解明する鍵として、北魏の分裂後に山東地方を支配
した北斉・北周・隋の国家構造と、そこに仕えた人々の国家意識に注目することとするが、
その理由として次の二点が挙げられる。
第一に、従来の研究では、北魏孝文帝期に胡漢の融合が進んだことから一転して、北斉
は民族対立が再燃した時代とされ、それをもとに個別の事例、人物についても論じられて
いるが、それらはいまだ充分とは言い難い段階にあり、その検討が「粗い」ものとなって
いるという点である。また、隋・唐の直接的淵源としての西魏・北周の体制、制度が積極
的に評価される一方で、北斉は時代の敗北者としてその否定的側面に焦点が合わせられる
傾向にある。しかし、そうした北周を中心とした理解のみからでは、当時の国家構造を十
分に理解することはできず、北魏から隋唐へと至る歴史的展開を充分に理解するためには、
北斉史にも目を向ける必要があるといえる。
第二に、北斉滅亡後、北斉出身者の中には北周・隋に仕えたものが数多く存在した。陳
寅恪氏は、隋唐で北斉の文物制度が採用されたことを指摘するが()、一方で、彼らは政
1
権の中で冷遇され、関隴集団による排他的な支配体制が半世紀以上も続いたとされている。
しかし、北斉出身者の隋唐国家への意識は如何なるものであったのかについては、未だ考
察の余地があり、それはまた関隴集団を中心とした隋唐の政権構造の再検討にもつながる
課題といえる。以下、この二点について、先行研究の整理とともにその問題点について論
じることとする。
一、北斉史の再検討
研究史によれば、五胡十六国時代には華北に樹立された胡族王朝に対して漢人は仕官す
ることを快しとせず、武力に秀でた胡族と文化に優越する漢人との間に激しい対立関係が
あったとされている。鮮卑族拓跋部により北魏が建国されて後も、仕官を拒否する者が多
数存在した。しか
し、川本芳昭
氏 が 指摘 するよ う に
()、太武帝期の崔浩の登場を契機と
2
して漢人士人層は北魏を自らの国家と認識して政権運営に参加し始め、孝文帝の改革等に
象徴的に見られるように融合へ向けて深まりを見せ、北魏末混乱期に漢人貴族の中には「破
家報国」の意識のもと北魏を守ろうとする者さえ現れた。また、北鎮の乱による胡族鎮民
の中原流入により、そうした流れは一端頓挫し、乱後には再び胡漢の対立が表面化し、そ
の対立がもたらした政治的・社会的矛盾を北斉政権は集中的に担うことになったとも論じ
られている。
こうした対立を基調とする研究にあって、北斉政権内では胡族と漢人のいずれの勢力が
優勢であったのかが議論されてきた。まず、内田吟風氏は、北斉の実質的建国者である高
歓について、「彼は全く北人を利用し其支持を以て大業を成したのであるから、彼が大い
に鮮卑中心主義であったのも無理はない」とし、北斉では鮮卑語が使用されていたこと、
鮮卑語の素養が栄達にとって有利であったこと等を通して、一朝を通して胡族が全面的に
優勢であったことをが論じた()。繆鉞氏は、東魏・北斉では一貫して胡族が強盛であり、
3
何度か漢人貴族が彼らを退け政治の仕組みを整えようとしたが、その度に失敗し、ために
政治 はつい に 軌道 に乗る こ とが な く 滅 亡 に 至 っ た と す る
()。気賀沢保規氏は、軍事面の
4
あり方に注目し、東魏・北斉漢人郷兵に比して胡族や胡族化した漢人によって構成される
軍事力 が 圧倒 的 に 優勢 であり
、 政 権 構 造 の あ り 方 を 規 定し てい た と 指 摘 す る
()
。一 方、
5
漢人が優勢であったとする立場として、宮川尚志氏は、高歓が胡族を特に尊重した傾向は
無く、むしろ漢人貴族の地位を認めていたとする()。谷川道雄氏は、胡族を中心とする
6
建国の功臣は勲貴として権威を得ながらも、しだいに漢人貴族に凌駕されつつ政治的悲運
に見舞 わ れた とし て漢人の優勢
の趨 勢 を 説く
()。また、漢人貴族の中には北魏からの流
7
れを受けた賢才主義的立場を採らず門閥主義の復活を唱える勢力が存在し、君主の庇護の
もとそれを推し進めようとしたが、彼らは皇帝との個人的紐帯を通してのし上がった恩倖
集団との政争に敗れたとする。
このように、先行研究では、胡族と漢人のどちらが優勢であったのかについては見解の
相違が見られるが、両者と北斉末に台頭する恩倖集団との間で三つどもえの権力闘争が継
続して行われ、その内部対立が北斉政権を短命に至らしめた主要因とする見方は共通して
いるといえる。この派閥毎の構成員やその関係性等を詳細に論じた研究としては、政権内
部の対立とともに当時の対外
関 係 も 含め て 考 察した呂春盛氏・
王 怡 辰氏の研究や
()
、孝
8
文帝の体制を維持する者とそれ以前の体制を復活させようとする二派の争いであったとす
る岡田和一郎氏の研究などがある()。
9
こうした北斉史に関する先行研究の理解に対して筆者が抱く問題点は、北斉政権内に胡
族と漢人の対立があったということを全面に押し広げて考えてよいかという点である。も
ちろん胡族出身者と漢人出身者に出自の相違による対立が全くなかったと論じることはで
きないが、その図式を個別の事例、個々の人物の政治姿勢を考える際に無批判に適用する
ことには慎重な姿勢が必要であろう。例えば、本論第二章で取り上げる祖珽という人物は、
先行研究では漢人貴族の領袖的人物であり、胡族と恩倖との間で宮廷闘争を繰りひろげた
人物とされてきた。しかし、彼は漢人貴族としての立場を利用したというよりも、皇帝と
の個人的な恩寵を通して立身した側面を強く有しており、なおかつ胡族出身の人物とも親
密な交流を持つという側面を有していた。とするならば、胡族や恩倖との人物の間に対立
関係が生じていたとしても、それを出自の違いによるものと判断し、そこから出発してそ
うした対立点に基づく集団間の対立があったとすることは、当時の実態とは乖離すること
になる恐れが生じるであろう。また、先行研究では北斉が滅亡したという結果を受けて、
その原因を明らかにすることに主眼が置かれてきた。すなわち、外圧に加えて政権内での
各派閥間の権力争いによって混乱が深まった点が強調され、それは自己の権力欲や民族、
出自の差異に端を発するものに収斂され、すべてが政権崩壊への道筋に沿う形で理解され
ている。しかし、佐藤智水氏、侯旭東氏が造像銘の研究を通して、当時の地域社会に国家
の興 隆と平穏を願
う人 々の意識
が広 範に 見 ら れた こと を指摘 す る よ う に
()、その政権の
10
混乱要素のみを強調することは、人々の国家意識に対する一面的な見方に陥ってしまうき
らいがあろう。
以上の問題意識より、本論では第一、二章において北斉の政権構造とそこに仕えた人々
の意識を中心に考察を行うが、その概略は以下の様である。
第一章「文宣帝高洋の即位と婁太后」では、北斉の初代皇帝である文宣帝高洋が東魏か
ら禅譲を受けて即位するに至る内実をでき得る限り詳細に考察することにより、北斉の政
権構造とそれに関する人々の動向について考察を行う。文宣帝の即位に関してはすでにい
くつかの指摘がなされているが、高洋が皇帝となるにふさわしい資質を有しているか否か
に対する周囲の意識と彼の母婁太后の言動に見える彼女の意識について詳細に検討するこ
とで、高洋と元従集団たる勲貴集団との政治的対立の中でその調整役として動いた婁太后
という点から考察し、その政権構造の一端を明らかにすることを試みる。
第二章「北斉祖珽考―その政治姿勢を中心として―」では、北斉後期に宰相として一時
政権を主宰した祖珽という人物について考察を行う。従来の研究では、祖珽は漢人貴族の
指導者的存在であり、胡族と漢人貴族との権力闘争の激しかったとされる北斉の中で、漢
人貴族の矢面に立ち、自らと自らの勢力拡大を図ろうとしたとされてきた。果たして、祖
珽の実像がそのようであったのかという点を彼の政治姿勢を中心に詳細に考察することに
より、民族や出自の差を基調とする権力闘争を中心に論じられる北斉史に関して再検討を
試み、当時の人々の国家意識に迫ることとする。
二、北斉出身者と北周・隋との関係の再検討
南北朝後期に山東を領有した北斉は、五七七年、関中に拠る北周によって滅ぼされ、以
後、北斉に仕えていた士人(以下、北斉出身者)の多くは、北周、その後継である隋に仕
えることとなった。
この北斉出身者の周隋政権内での動向について、かつて陳寅恪氏は、西魏・北周の支配
者集団を関隴集団と定義した上で、関隴集団が武后に至るまで統治集団を成していたこと、
その 中で 山東出身者、北斉出身者が
同一視さ
れず圧力を加えられ
て いた ことを指摘し
た
()。こうした理解を受け、山崎宏による隋朝官僚に関する詳細な研究や()、宇都宮清吉
11
12
氏 に よ る 顔之推 を 中心 とした 研 究 を 始め とし て
()
、 藤 善真 澄氏 や氣 賀 澤 保 規 氏
、 牟 発 松
13
氏に より研 究 がな され て い る
()
。以上の先
行 研究 では、
宇 都宮氏 が 顔之推 は関中に移住
14
し て 以 降
、失意の生活を送っ
て い た と指摘 す るよ うに
()、北斉出身者は周隋政権内の中
15
で、正当な評価を受けずに「冷遇」され、西魏・北周系のいわゆる関隴集団の勢力の前に
抑圧された状況にあった。ために、彼らはこの境遇の中で政権に対して嫌悪感や落胆を抱
いていたとされている。つまり、従来の研究では、周隋政権内部には、北斉出身者と関隴
集団、すなわち山東と関中との対立が大きく存在し、その支配体制を固めていく上で障害
となり得るほどのものであったと定義するのである。そして、右のような両集団が対立し
たとする見方より唐代の政治史が多く論じられてきたのであるが、こうした先行研究の見
方には検討すべき余地があると筆者は考える。その理由は、次に示す三点である。
第一に、北斉と北周は北魏が東西に分裂してできた王朝の後継国家であり、東西の分裂
を受けて、同族内でも東魏・北斉と西魏・北周に仕えたものとの分裂が起きていた点であ
る。その際、山東
( 以下
、北斉領を指す
) を本貫とす
るものが周隋政権に仕え、関中
( 以下
、
北周領を指す
) を本貫と
するものが北斉に仕えるということもあった。とするならば、北
斉と北周の対立をそのまま山東と関中の地域対立に結びつけ、両者が周隋政権下で集団的
な対立の関係にまであったと考えることは妥当性を欠くのではなかろうか。
第二に、北斉出身者と関隴集団との間に北斉滅亡後にわだかまりがあったとしても、そ
うした状況が半世紀以上にわたり固定的に継続したと捉えることができるのかという点で
ある。また、北斉出身者が入仕以後も一貫して北周・隋を敵対視し続けたと捉えることは
妥当なのであろうか。周知のように、唐の太宗は『貞観氏族志』を編纂させた際に、山東
出身の崔民幹が合議により天下第一の名族と定められようとしたことに異議を呈した。こ
の場合、すでに指摘されるように崔民幹は北斉出身者ではなく北周に仕えた一族であった
ことを考慮しなければならないが、崔氏は、北魏孝文帝の姓族詳定において「山東の四姓」
とされて以来、天下第一の名族とされた一族である。とするならば、北魏と唐初の中間に
あたる北周・隋においても、むしろ山東出身者の社会的地位が依然として低くはなかった
と想定される。しかし、そうした理解は、山東出身者が多く含まれた北斉出身者が一様に
冷遇されていたとする従来の見解とは、齟齬を生じることとなるであろう。
第三に、北周から隋、唐と王朝交替が続いたが、従来の研究が指摘するように、王朝交
替にかかわらず関隴集団が政権を支配し続けたと捉えることは果たして妥当かという点で
ある。趙翼『廿二史劄記』巻一五「周隋唐皆出武川鎮」条にあるように、北周・隋・唐の
皇室はいずれも武川鎮出身であることより、その王朝の連続性が指摘されてきた。しかし、
王朝交替によって易姓革命が興ることは、その構成員そのものにたとえ変化がなかったに
しろ、その内部構造には少なからず変化が生じざるを得なかったはずである。さらに、版
図が拡大し北斉や南朝出身者の人物が隋唐政権に加入したことを考えると、その連続性を
強調し過ぎることは、その時代的変化を見逃す恐れがあると考えられる。
以上の問題意識から、先行研究が示す周隋政権では北斉出身者=山東人が冷遇され、そ
のせめぎ合いを中心として、唐初までの政治史が展開されたとする見方そのものに再検討
を加えるため、本論第三、四章において北周・隋における北斉出身者の動向を中心に考察
を行う。その概略は以下の様である。
第三章「盧思道と「周斉興亡論」について」では、北斉滅亡後に北周、隋に仕えた盧思
道という人物に注目し、彼が両朝に対してどのような意識の下に仕えていたのかという点
を考察する。その際に注目するのは、彼が晩年に自らの体験を踏まえて北斉と北周の興亡
について記した『周斉興亡論』という文書である。この文書は従来ほぼ顧みられることが
なかったが、その記述の中には北斉、北周、隋に対する彼の意識が垣間見え、その記述内
容を下に彼の実像に迫り、北斉出身者の意識について分析する。
第四章「北斉出身者と関隴集団」では、北周・隋での北斉出身者の地位と、支配者集
団たる関隴集団との関係に注目し、その権力構造について分析する。
本論は、以上のような問題意識、課題設定に基づき、北朝後期から隋唐における国家構
造と国家意識について明らかにしようとするものである。
註( 1
)
陳寅恪『隋唐制度淵源略論考』(商務印書館、一九四〇年)
( 2 ) 川本芳昭「五胡十
六国・北朝期におけ
る 周礼 の受 容をめぐって
」(
『佐賀大学
教 養
部研究紀要』二一、一九九一年、同著『魏晋南北朝時代の民族問題』汲古書院、一九
九八年所収)。
( 3 )
内田吟風「北朝政局に於ける鮮卑及諸北族系貴族の地位」(『東洋史研究』一―三、
一九三六年)。
( 4 )
繆鉞「東魏北斉政治上漢人与鮮卑之衝突」(『読史存稿』三聯書店、一九六一年)
( 5 )
氣賀沢保規「東魏=北斉政権と漢人」『中国士大夫階級と地域社会との関係についての
総合的研究』京都大学、一九八二年)
( 6 )
宮川尚志「禅譲による王朝革命の研究」(『六朝史研究政治・社会編』平楽寺書店、
一九六四年) ( 7 ) 谷川 道雄「北斉
政 治史と 漢 人貴族
」(
初 出一九六二年
、『
増補 隋唐帝 国 形 成 史 論
』
筑摩書房、一九九八年)
( 8 )
呂春盛『北齊政治史研究―北齊衰亡原因之考察―』(國立臺灣大學出版委員會、一
九八七年)、王怡辰[二〇〇六]『東魏北斉的統治集団』(文津出版社、二〇〇六年)。
( 9 )
岡田和一郎「北斉国家論序説」(『九州大学東洋史論集』三九、二〇一一年)
( ) 佐藤智 水
「北魏前期の政治と宗
教」
(『
北 魏 仏教史論考』岡山大学文学部、一九九
八年) 10
( )
陳寅恪『唐代政治史述論稿』(商務印書館〈重慶〉、一九四四)。
11 ( )
山崎宏「隋朝官僚の性格」
( 『
東京教育大学文学部紀要』六、一九五六年)。
12 ( )
宇都宮清吉「関中生活を送る顔之推」(初出一九六七年、同著『中国古代中世史研
究』創文社、一九七七年所収)、侯旭東『北朝村民的生活世界―朝廷、州県与村里』 13
(商務印書館、二〇〇五年)。
( ) 藤善真澄「北
斉系官僚の一動
向
」(
『鷹陵史学』三・四、一九七七年
、同著『道宣
伝の研究』京都大学学術出版会、二〇〇二年所収)、氣賀澤保規「隋代郷里制に関す 14
る一考察」
( 『史林
』 五八―四、一九七
五年
)、
牟発 松「旧斉
士人 与周隋 政 権」
(『
文
史』二〇〇三―一、同著『漢唐歴史変遷中的社会与国家』上海人民出版、二〇一一
年所収)。
( )
註
( 1 ) 参照
。
15
第一章文宣帝高洋の即位と婁太后
はじめに
章題に掲げた文宣帝高洋は、東魏の実力者であった父高歓・兄高澄の後継者として、西
紀五五〇年に東魏の孝静帝から禅譲を受け、北斉の初代皇帝として即位した人物である。
彼の即位で特筆すべきことは、それが高歓の元従武将等(以下彼らを勲貴と称す)から
の同意を得られない状況下に行われたということである()。このことを端的に示すのが、
1
『北斉書』巻一八高隆之伝に、
帝、將に魏の禪を受けんとするも、大臣、咸な未だ可ならず、と言ふ。
帝將受魏禪、大臣咸言未可。
とあるものである。しかし、勲貴にとって高歓の息子である高洋が即位することは、一面
から見るならば彼らの地位が新王朝の建国の功臣へと引き上げられるという側面をも有し
ていた。例えば、彼らの中には高洋の即位によって王爵を得た者も多数存在している()。2
とするならば、高洋が即位することは、勲貴にとって反対すべきものではなく、むしろ支
持すべきものであったともされるであろう。また、高洋の即位は、父の権力を継承して禅
譲を行ったという点で、漢魏革命や魏晋革命とも共通する部分があるが、曹丕や司馬炎の
即位に表
立った 反 対を述べるものは
なかっ た
()。そのことと比較するならば、高洋の即
3
位に勲貴が表立って反対したということは不可解なことである()。
4
それ故、従来の研
究 で も
、 こ の 点につ い ては 様 々 に考察 さ れ て い る が
()、本章で注目
5
するのは、勲貴とともに高洋の母である婁太后(以下太后とする)までもが即位に反対し
ていることである。すなわち、『北斉書』巻三〇高徳政伝に、高洋の即位に対する太后の
旨として、
太后の旨に、云へらく、汝の父は龍の如く、汝の兄は虎の如きも、尚ほ人臣を以て終
ふ。汝、何ぞ舜・禹の事を行はんと欲するを容すや。此れ亦た汝の意に非ずして、正
に是れ高德政、汝に教ふ、と。
太后旨云、汝父如龍、汝兄如虎、尚以人臣終。汝何容欲行舜・禹事。此亦非汝意、正
是高德政教汝。
とある
()。右によれば、太后はその資質が父高歓や兄高澄に劣る高洋が受禅し即位しよ
6
うとすることを叱責し、腹心の部下である高徳政の画策を疑っているのである。またその
※丸数字は皇帝即位順
後、勲貴の面前で太后が述べたこととして、『資治通鑑』巻一六三梁紀一九、簡文帝大寶
(五五〇)年五月条に、
( 高 ) 洋
、諸貴と太妃の前に議す。太妃、曰く、吾兒、懦直なり。必ず此の心無からん。
高德政、禍を樂しみて、之に教ふのみ、と。
洋與諸貴議於太妃前。太妃曰、吾兒懦直。必無此心。高德政樂禍、教之耳。
とある
()
。右によれば、
太 后 は 高 洋 の こ とを「懦直
」 と評し て いる が「懦」
は「弱々し
7
い」という意味である。このことから、太后は、皇帝としての資質を有しない人物である
という点から高洋の即位に反対したことがうかがわれる。しかし、後述するように、『北
斉書』等、当該時代の史書に見える高洋に対する評価を詳細に検討すると、高洋は皇帝と
しての資質を有するとする人々もいたことがわかる。とするならば、太后の発言は何らか
の別の意図にもとづいてなされたのではないかとの疑念が生じる。
太后は、夫高歓の起義以来政策立案に深く関与しており、北斉の時代には周知のように
皇帝の廃位にも大きな役割を演じ
て い る
()。また、一般に胡族社会での女性の地位は、
8
漢人社 会 に比し て 高い もの である と い わ れ る
()。このことをあわせ考えると、胡族的な
9
色彩を濃厚に持った東魏政権内における太后の発言は、大きな影響力を持っていたと考え
られる。それ故筆者には、魏斉革命の実態。ひいては北斉の国家構造をより明らかにする
うえで、右で見た太后の発言は未だ考究すべき余地があるように思われる。
本章は、以上のような問題意識を通して、高洋の即位に反対した太后の発言が行われた
意図およびその背景について考察し、魏斉革命の内実の一端を明らかにしようとするもの
である。 高歓(神武帝)婁太后 高洋(①文宣帝)
高演(③孝昭帝)
高湛(④武成帝) 高殷(②廃帝)
高緯(⑤後主)
【図1】北斉高氏系図
高澄(文襄帝)
一、高洋の皇帝としての資質の有無
序節において見たように、太后は高洋の資質が父高歓や兄高澄に及ばないという理由か
らその即位に反対している。では、実際に高洋は皇帝としての資質に欠ける人物として、
当該時代の人々から認識されていたのであろうか。本節では、この点について考えてみる
こととする。
まず、父である高歓の高洋に対する認識についてであるが、『北史』巻七斉本紀中、文
宣帝紀に、高洋が若年のときのこととして、
神武
( =高
歓
) 、帝の貌、陋にし
て、神彩、甚だ發揚せざるを以て、曾て問ふに時事を
以てす。帝、略ぼ辨ず所有り。儻し一事を語らば、必ず事衷を得。又嘗て諸子をして、
各々亂絲を理めしむに、帝、獨り刀を抽き之を斬りて曰く、亂す者は須く斬るべし、
と。神武、以て然りと為す。又各々兵を配して四出せしめ、彭樂をして甲騎を率ゐ偽
りに之を攻めしむ。文襄
( =高
澄の廟号
) 等、怖撓す
るも、帝、衆を勒して彭樂と相ひ
格ふ。樂、冑を免ぎて情を言ふも、猶ほ之を禽とし以て獻ず。是れに由り神武、稱し
て之を異とし、長史薛琡に謂ひて曰く、此の兒の意識、吾れを過ぐ、と。琡も亦た私
に之を怪しむ。
神武以帝貌陋、神彩不甚發揚、曾問以時事。帝略有所辨。儻語一事、必得事衷。又嘗
令諸子、各使理亂絲、帝獨抽刀斬之曰、亂者須斬。神武以為然。又各配兵四出、而使
彭樂率甲騎偽攻之。文襄等怖撓、帝勒衆與彭樂相格。樂免冑言情、猶禽之以獻。由是
神武稱異之、謂長史薛琡曰、此兒意識過吾。琡亦私怪之。
とある。右によれば、高歓は、当初高洋の容貌が陋しく風采が上がらなかったため、高洋
の資質に対して疑問を持っていたが、後にその言動に接し「神武、稱して之を異と」す、
「此の兒の意識、吾れを過ぐ」とあるように彼を高く評価したことがわかる。
次に、兄高澄の高洋に対する認識についてであるが、『北斉書』巻四文宣帝紀に、高洋
に対する兄高澄の評価が見られる記事として、
内は明敏なると雖も、貌は足らざるが若し。世宗
( =高
澄
) 、每に之
を嗤ひて云はく、
此の人も亦た富貴を得。相法亦た何に由りて解すべけんや、と。
内雖明敏、貌若不足。世宗每嗤之云、此人亦得富貴。相法亦何由可解。
とある。ここでは、高澄が高洋の容貌がさえないものであるにもかかわらず、富貴である
のは「相法」(=人相学())では解せないことであると述べており、高澄が彼を嘲ったこ
10
とを伝えている。このことは、一見すると高澄が高洋を見下し、高洋を劣った人物である
とみなしていたことを示すかの如くである。しかし、『北史』巻七斉本紀中、文宣帝紀に
は、
文襄、業を嗣ぐに、帝、次長なるを以て猜嫌せらる。帝の后李氏、色美なれば、每に
宴會に預る。容貌は遠く靖德皇后
( =文襄后
) を過
ぐれば、文襄、彌々平らかならず。
文襄嗣業、帝以次長見猜嫌。帝后李氏色美、每預宴會。容貌遠過靖德皇后、文襄彌
不平焉。
とあり、高洋が次長であったため高澄の猜疑の対象となったことを伝え、同じく『北史』
巻三二崔暹伝にも、高澄が高洋は実際は愚かな振りをしているのではないかと疑い、崔暹
に尋ねたこととして、
是より先、文襄、文宣の佯愚なるを疑ひ、其の後變有るを慮る。將に陰かに之を圖ら
んとし、以て
( 崔 ) 暹に
問ふ。暹、曰く、嘗て二郎(=高洋)と俱に行位に在りて、試
みに手板を以て其の背を拍つも瞋らず。乃ち犀手板を將て暹の竹に換ふるに、自ら揩
拭して翫びて之を視る。是を以て其の實の癡なるを知る。慮るに足らざるなり、と。
帝、既に暹を鎖ぎ、其の往昔に背を打つを責む。暹、自ら文襄に對ふる所の言を陳べ、
己の功を明らかにし以て死を贖ふ。帝、悟りて曰く、我の禍を免るるは、乃ち暹の力
なり、と。
先是、文襄疑文宣佯愚、慮其有後變。將陰圖之、以問暹。暹曰、嘗與二郎俱在行位、
試以手板拍其背而不瞋。乃將犀手板換暹竹者、自揩拭而翫視之。以是知其實癡。不足
慮也。帝既鎖暹、責其往昔打背。暹自陳所對文襄之言、明己功以贖死。帝悟曰、我免
禍、乃暹之力。
とあり、高澄が高洋に対して猜疑心を抱いていたことを伝えている。もし、高洋が取るに
足らない人物であると高澄が認識していたならば、高澄の対応がこれほど屈折することは
なかったのではあるまいか。この観点に立てば、右の『北斉書』文宣帝紀の「相法亦た何
に由りて解す可けんや」という史料に対しては別の解釈が生まれるであろう。なぜなら、
『北史』巻七斉本紀中、文宣帝紀には、
晉陽に沙門有りて、乍ち愚か乍ち智し。時人、測らざれば、呼びて阿禿師と為す。太
后、諸子を見せ、祿位を歷問す。帝に至るに、再三手を舉げ天を指すのみにして、口
に言ふ所無し。見る者、之を異とす。
晉陽有沙門、乍愚乍智。時人不測、呼為阿禿師。太后見諸子焉、歷問祿位。至帝、再
三舉手指天而已、口無所言。見者異之。
とあり、晋陽の沙門は、高洋が尊貴な宿命を背負った人物であると占ったことを伝えてい
るからである。高澄の先の高洋の容貌に対する発言は、そこに「相法」の語が見えること
から、このことを踏まえている可能性がある。とするならば、高澄は高洋をその資質が劣
る人物であると決してみなしているのではなく、むしろ、自己の地位をおびやかす可能性
のある人物として疑っていたとする私見を支えるところがあろう。
以上の考察より、親族である父高歓や兄高澄は、高洋の容貌あるいは外面的な振る舞い
のため、高洋の才能の有無に疑念を抱いていたが、徐々にその認識を改めていったと考え
られるのである。
では、高氏以外の人々の認識はどうであったのであろうか。次に、この点について見て
みることとする。
『北史』巻七斉本紀中、文宣帝紀に、高澄が亡くなり高洋が後継者として、大多数の勲
貴が駐在している晋陽に向かったときのこととして、
乃ち晉陽に赴き庶政を總ぶ。帝、内は明察あると雖も、外は了らざるが若し。老臣宿 さと
將、みな帝を輕んず。
乃赴晉陽總庶政。帝内雖明察、外若不了。老臣宿將皆輕帝。
とある。右
に よれば、勲貴(
「 老 臣 宿將
」)
は、高洋
が晋 陽に赴 く ま で 彼 を 軽 ん じ て いた
ことがわかる。また、同書同本紀には、東魏の孝静帝が高澄の死を知った直後に、権力が
再び魏室に戻ることを期待したことを伝えて、
文襄、崩じ、祕して喪を發せず。其の後に漸く露る。魏帝、竊かに左右に謂ひて曰く、
大將軍
( =
高澄)、此れ殂すは、是れ天意の似し。威權は當に王室に歸すべし、と。
文襄崩、祕不發喪。其後漸露。魏帝竊謂左右曰、大將軍此殂、似是天意。威權當歸王
室矣。
とある。
こ の 時高洋は高
澄 に 次 ぐ地位 を 有 し て お り
()
、後継 者 に最も 近 い人 物である
こ
11
とは内外に明らかであった。そして、高洋は都である鄴に駐留しており、高洋と孝静帝と
の間に面識があったはずである。にもかかわらず、孝静帝が高澄の死によって権力が魏室
に戻ることを期待しているということは、高洋が軽視されていたことを示しているとされ
るであろう。
このような勲貴や孝静帝の言動より、周囲の高洋に対する評価は、低いものであったと
考えられる
()
。しかし、そのよ
う な 評価は高
澄の 死を 契機 とし て 一 変 す ることと
なる。
12
『北斉書』巻四文宣帝紀、武定七(五四九)年の条に、
世宗、害に遇ふ。事は倉卒に出づれば、内外、震駭す。帝の神色、變はらず、部分を
指麾し、自ら羣賊を臠斬して其の頭に漆す。徐に宣言して曰く、奴、反し、大將軍、
傷つけらるも、大苦無きなり、と。當時、内外、驚異せざる莫し。
世宗遇害。事出倉卒、内外震駭。帝神色不變、指麾部分、自臠斬羣賊而漆其頭。徐宣
言曰、奴反、大將軍被傷、無大苦也。當時内外莫不驚異焉。
とあり、高澄の不慮の死により周囲が混乱している中で、高洋が冷静沈着な対応をとり、
周囲が驚いたことを伝えている。右の事件について、『資治通鑑』巻一六二梁紀一八、武
帝太清三(五四九)年八月辛卯の条胡注には、
( 高 ) 洋、素より自ら晦匿す
。今、變に遇へども之が為に變せず。故にみな驚きて之を
異とす。
洋素自晦匿、今遇變而不為之變。故皆驚而異之。
とあり、周囲を驚かせた理由は、自らの才能を匿していたために低い評価を与えられてい
た高洋が、冷静沈着な対応を行ったことにあったとしている()。また、『北史』巻七斉本
13
紀中、文宣帝紀に、混乱を収拾した後に、高洋が孝静帝に謁見した際のこととして、
帝、將に晉陽に赴かんとするに及び、親ら入りて昭陽殿に辭謁す。從者千人にして、
前に居り劍を持つ者は十餘輩。帝、殿下に在りて數十步し立つ。衛士の升階するは已
に二百許りの人にして、みな、袂を攘ひ刃を扣き、嚴敵に對するが若し。帝、主者を
して須く晉陽に詣るべし、と傳奏せしむ。言、訖り、再拜して出づ。魏帝、色を失ひ、
帝を目送して曰く、此の人、見容する能はざるが似し。吾れ、死すこと何れの日に在
るかを知らず、と。
及帝將赴晉陽、親入辭謁於昭陽殿。從者千人、居前持劍者十餘輩。帝在殿下數十步立。
而衛士升階已二百許人、皆攘袂扣刃、若對嚴敵。帝令主者傳奏、須詣晉陽。言訖、再
拜而出。魏帝失色、目送帝曰、此人似不能見容。吾不知死在何日。
とあり、従者千人を連れた異様な謁見を目の当たりにした孝静帝が、高洋を畏怖し、自分
がいつまで生きられるか危惧したことを伝えている。すなわち、孝静帝はこの謁見を通し
て、高洋に対する評価を一変させているのである。さらには、先に一部掲げた史料である
が、同書同本紀に、
乃ち晉陽に赴き庶政を總ぶ。帝、内は明察あると雖も、外は了らざるが若し。老臣宿 さと
將、みな帝を輕んず。是に於いて帝、接下に推誠し、務めて寬厚に從ふ。事、便なら
ざる者有らば咸な蠲省す。羣情、始めて服す。
乃赴晉陽總庶政。帝内雖明察、外若不了。老臣宿將皆輕帝。於是帝推誠接下、務從寬
厚。事有不便者咸蠲省焉。羣情始服。
とあり、これまで高洋を軽んじていた晋陽の勲貴等も、高洋の施政に接し始めて服したこ
とを伝えている。『資治通鑑』巻一六二梁紀一八、武帝太清三(五四九)年八月条の胡注
には、同様の記事に関して、
晉陽の文武の
( 高 ) 洋に驚くこと
、猶ほ鄴城の内外のごときなり。
晉陽文武之驚洋、猶鄴城内外也。
と述べ、高洋の「変貌」への驚きは、先に見た鄴都での孝静帝以下の人々のそれと同様で
あったとしている。また、同じ事件を記したものとして、『北史』巻七斉本紀中、文宣帝
紀には、
幷州に至るに及び、將士を慰諭し、措辭、款實なり。衆、みな欣然として曰く、誰か
左僕射
( =高
洋
) の翻りて令公に減ぜず
と謂はん、と。令公は即ち文襄を指すなり。
及至幷州、慰諭將士、措辭款實。衆皆欣然曰、誰謂左僕射翻不減令公。令公即指文襄
也。
とあり
、「誰か
左 僕射 翻り て 令 公に減ぜずと謂
は ん」とあること
よ り、
このとき
人 々 が
高洋が高澄に劣った人物ではないと認識していたことがわかる。そして、このことが「欣
然」として述べられたことは、彼らは高洋が優れた資質を有することを好意的に捉えてい
たことが示されているであろう。
以上の考察により、高氏以外の人々の高洋に対する評価は、当初低いものであったが、
高澄の死を契機として著しく変化し、高澄に匹敵する資質を有していると認識されるにま
で至った
ことが明らかとなった
()。また、管見の及ぶ限り、このとき高洋が高歓・高澄
14
の後継者となることを批判する史料を見出すこともできない。
ところで、高洋が即位したのは、右で考察した高洋が高澄の死を契機として権力を掌握
した十カ月後のことである。その間に、高洋が暴政・失政を行ったことを史料上に見出す
ことはできず、周囲が彼の資質に対して懐疑したということをうかがうことはできない。
このことは、即位を論ずる際に改めて高洋の資質の問題が持ち出されたことを示している
ことになるが、とするならば、それは極めて不可解な事柄といえるであろう。
したがって、本節で考察してきたような、親族である父高歓や兄高澄、高氏以外の人々
高洋に対する認識は、母である太后の発言と齟齬することとなるのである。次節では、こ
の点について考察することとする。
二、太后の意図
前節で考察したように、高洋は父高歓や兄高澄に比べて必ずしも資質が劣った人物では
ないと、少なくとも即位の問題が俎上にのぼる時点では認識されていた。では、何故太后
は高洋が皇帝としての資質に欠けるとして即位に反対したのであろうか。本節では、この
点について、太后の意図如何、その発言の背景の順に考察することとする。
(1)太后の発言をめぐって
本項では、太后の発言の意図について考察することとする。前節で考察してきたように、
太后の高洋は皇帝としての資質に欠けるとする発言は、当時の人々の認識と齟齬するもの
であったと考えられる。では、この点はどのように考えるべきであろうか。
まず、太后が高洋に対する人々の認識の変化を知ることがなかったということが考えら
れる。『北斉書』巻九神武婁后伝には、
神武明皇后婁氏、諱昭君、贈司徒内干の女なり。少くして明悟なり。強族、多く之を
聘すも、並びに肯へて行かず。神武の城上に執役するを見るに及び、驚きて曰く、此
れ真に吾が夫なり、と。乃ち婢をして意を通ぜしめ、又數々私財を致し、以て己を聘
さしむ。父母、已むを得ず許す。神武、既に澄清の志有りて、產を傾け以て英豪と結
ぶ。密かに祕策を謀るに、后、恒に參預す。渤海王妃に拜せらるに及び、閫闈の事、
悉く決す。
神武明皇后婁氏、諱昭君、贈司徒内干之女也。少明悟。強族多聘之、並不肯行。及見
神武於城上執役、驚曰、此真吾夫也。乃使婢通意、又數致私財、使以聘己。父母不得
已而許焉。神武既有澄清之志、傾產以結英豪。密謀祕策、后恒參預。及拜渤海王妃、
閫闈之事悉決焉。
とある。右に
よれば、太后は夫高
歓 を起義以来、陰に陽に
支 え ており
()、彼女と高歓と
15
のつながりは非常に強いものであった。それだけに、もし高歓が高洋に対する認識を改め
高く評価していたならば、それが妻である太后の耳に伝わっていなかったとは考え難い。
したがって、太后が、高洋は決して資質の劣る人物ではないとする周囲の人々の認識の変
化に気付いていた蓋然性は極めて高いとすべきであろう。
次に、太后が高洋の資質を認めながらも、彼を忌み嫌っていたために反対したというこ
とが考えられる。周知のように、太后は文宣帝の後の孝昭帝の即位に関与しているが()、
16
そこには実子に対する深い情愛を見て取ることができる。また、同伝に、太后の人となり
を伝えて、
諸子を慈愛すること、己の出だすに異ならず。躬自ら紡績し、人に一袍一袴を賜ふ。
慈愛諸子、不異己出。躬自紡績、人賜一袍一袴。
とあり、太后が高歓の庶子に対しても実子同様に情愛を注いでいたことを伝えている。こ
のことより、太后が実子である高洋を嫌悪していたとは考え難く、またそのことを伝える
史料を見出すこともできない。したがって、先の太后の発言は高洋を嫌悪する気持ちから、
事実を曲げたものであったとは考えられない。
このように考えてくると、太后は高洋が皇帝となるだけの資質に欠けるわけではないと
いう周囲の人々の認識の変化を知り、かつ彼を嫌悪していなかったにもかかわらず、あえ
てそのように述べたとされるであろう。
ところで、同書巻三三徐之才伝には、
時に婁太后自り勳貴臣に及ぶまで、みな云はく、關西
( =西
魏
、既に是れ勁敵なれ )
ば、恐らくは其の天子を挾みて諸侯に令ぐるの辭有らん。先に禪代の事を行ふべから つ
ず、と。
時自婁太后及勳貴臣、咸云、關西既是勁敵、恐其有挾天子令諸侯之辭。不可先行禪代
事。
とあり、太后が西魏の存在を理由として即位に反対したことを伝えている。この点はどの
ように考えるべきであろうか。
高洋が即位した五五〇年段階では、東魏は淮南領有や洛陽の奪還等の対外侵攻によって、
その国力を充実させ
て おり、
西 魏 に 対し て優勢な状況
にあった
()
。また、
三 国 時代等の
17
例を持ち出すこともなく、帝号を称することは逆に新王朝の成立を内外に示し、その権力
の求心性を強めるという点もある。したがって、西魏の存在は東魏にとって国防上の問題
や国家の正統性を確保する上で無視できないものではあったが、それが即位を妨げるまで
の切迫した事由となったとまでは考え難いのではあるまいか。筆者と同様の考え方は、す
で に 岡崎文夫氏、呂春盛氏等
に よ っ ても示さ
れ て いる
()。にもかかわらず、太后はこの
18
理由を主張し即位に反対しているのである。
このように考えてくると、太后が高洋が皇帝として資質に欠けることから即位に反対し
たことは、何らかの意図を持ったものであったのではないかと想定されてくるのである。
ここで注目されるのは、太后が高洋の皇帝としての資質を否定するとともに、受禅を行
い即位しようとした責任を高徳政に負わせているということである。煩を厭わずに再び太
后の発言を掲げると、『北斉書』巻三〇高徳政伝に、
太后の旨に云へらく、汝の父、龍の如く、汝の兄、虎の如きも、尚ほ人臣を以て終ふ。
汝、何ぞ舜・禹の事を行はんと欲するを容すや。此れ亦た汝の意に非ずして、正に是
れ高德政、汝に教ふ、と。
太后旨云、汝父如龍、汝兄如虎、尚以人臣終。汝何容欲行舜・禹事。此亦非汝意、正
是高德政教汝。
とあり、『資治通鑑』巻一六三梁紀一九、簡文帝大寶元(五五〇)年五月条に、
( 高 ) 洋、
諸貴と太妃の前に議す。太妃、曰く、吾兒、懦直なれば、必ず此の心無し。
高德政、禍を樂しみて、之に教ふのみ、と。
洋與諸貴議於太妃前。太妃曰、吾兒懦直、必無此心。高德政樂禍、教之耳。
とある。『北斉書』の記事によるならば、この太后の「旨」は高洋のみに対して伝えられ
た も のとも 考 え ら れるが
、『資治
通 鑑』に見える太后の発
言は、
「 諸貴
」が同席
する 場 で
なされたものである。そして、太后は高洋が「懦直」であるとして、高洋の皇帝としての
資質の欠如を強調し、高洋に即位の意思はなく、そのことを計画したのは、全て高徳政が
「樂禍」、すなわち「禍をもたらそうとして行ったこと」としてその責任を負わせている
のである。
高徳政が即位の計画に加担していたことは、『北斉書』巻三〇高徳政伝に、
散騎常侍徐之才・館客宋景業、先づ天文圖讖の學を為し、又陳山提の家客楊子術、援
引する有り。並びに
( 高 ) 德政
に因りて、顯祖に禅代の事を行ふを勸む。
散騎常侍徐之才・館客宋景業先為天文圖讖之學、又陳山提家客楊子術有援引。並因高
德政、勸顯祖行禅代之事。
とあり、同書巻三三徐之才伝に、
( 徐 ) 之才
、少くして天文を解し、圖讖の學を兼ぬ。館客宋景業と共に吉凶を參校し、
午年に必ず革易有るを知る。因りて高德政、之を啓す。
之才少解天文、兼圖讖之學。共館客宋景業參校吉凶、知午年必有革易。因高德政啓之。
とあるように、徐之才・宋景業等とともに高洋に受禅を強く勧めていることよりうかがう
ことができる()。したがって、即位を行おうとしたことはすべて高徳政の責任であると、
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実際に太后が認識していたとも考えられるであろう。しかし、同書巻三〇高徳政伝に、
( 楊 ) 愔、以へらく、禪代の際、
( 高 ) 德政の言情
、切至なるに因り、方に誠款を致す、
と。
愔以禪代之際、因德政言情切至、方致誠款。
とあり、高徳政の即位を薦める発言は、高洋に対する忠誠心によるものであったというこ
とを伝える史料もある。したがって、即位を高徳政が勧めたのは、単純に彼が禍をもたら
そうとしたものであったからとは考え難い()。とするならば、太后は敢えて彼に「樂禍」
20
というレッテルを貼ったことになるであろう。では、彼女は自らの意思、ないしは勲貴等
の第三者の意思により、高徳政を排斥するために彼に責任を負わせようとしたのであろう
か。しかし、もしそうであるならば高徳政の責任を追及しさえすればよいのであり、「吾
兒懦直」として高洋が皇帝としての資質を有していないということをあえて強調する必要
はないのではなかろうか。
以上の事柄をあわせ考えるならば、太后は高徳政が禍をもたらそうとして即位を計画し
ているわけではないことを知っており、さらにその発言の真の狙いは、高徳政の処断に向
けられていたわけではないとされるであろう。この際、彼女が「此れ亦た汝の意に非ず」
「必ず此の心無し」として、高洋をかばいつつ勲貴に対し強調していることは注目に値す
る。すなわち、太后の発言の根底には、高洋と勲貴に対する配慮が強く働いていたと考え
られるのである。
(2)太后の発言の背景
これまで、太后は高洋が凡庸であるとして反対したのは、高洋が実際に皇帝となるだけ
の資質を有していないという認識によるものではなく、そこには高洋が全く即位の計画に
関与していないということを勲貴に対し強調するという配慮があったと考えられることを
考察した。では、太后は何故高洋と勲貴の間に入りこのような発言をなす必要があったの
であろうか。本項では、この点について考察することとする。
周知のように、北朝後期の各王朝では、実力者が勲貴を私的紐帯を通して結集し政権の
実権を奪うということが見られた。その過程で実力者は自らが皇帝となることを目指すの
であるが、そこでは私的な上下関係が公的な君臣関係へと順調には昇華されることはなく、
その動きに対して勲貴の側から反発が見られた()。
21
そのことを端的に示すものとして、『北斉書』巻二神武帝紀下、武定四(五四六)年十
一月条に、高歓が死去する直前のこととして、侯景が高歓には従うが「鮮卑小兒」である
高澄の風下に立つことはできないと述べたこととして、
( 侯 ) 景、素
より世子
( =高
澄
) を輕
んず。嘗て司馬子如に謂ひて曰く、王
( =高
歓
) 、在 せ ば
、吾
れ
、敢
へ て 異 有 ら ず
。王
、無
く ん ば
、吾
れ
、鮮
卑 小 兒 と 事 を 共
にす
る 能 は ず
、
と。景素輕世子。嘗謂司馬子如曰、王在、吾不敢有異。王無、吾不能與鮮卑小兒共事。
とある。右によれば、侯景は高歓との私的なつながりにより高歓に仕えているのであり、
高澄に対しては臣下としての意識を抱いてはいなかったとされるであろう。周知のように、
その後、侯景は東魏に対して反乱を起こしている。
このことより、高洋の即位に際し、太后が危惧したところが自ずからうかびあがるであ
ろう。すなわち、魏斉革命時にも、高洋が皇帝として即位することにより、高氏の権力が
絶対的なものへと変質していくことに対し、勲貴から強い反発があることが予想されたの
である()。
22
太后としても、高洋がこの時点で東魏の指導者としての地位を掌握しており、将来的に
皇帝となるだけの資質を有することを認めないわけではなかったはずである。しかし、兄
高澄の場合でも、『北史』巻六斉本紀上、文襄帝紀、天平三(五三六)年条に、
入りて朝政を輔く。領左右・京畿大都督を加へらる。時人、器識を聞くと雖も、猶ほ
少年を以て之を期す。而して機略は嚴明にして、事は凝滯無し。是に於いて朝野、振
肅す。
入輔朝政。加領左右・京畿大都督。時人雖聞器識、猶以少年期之。而機略嚴明、事無
凝滯。於是朝野振肅。
とあるように、高澄は高歓の世子として輔政を行ったが、当初その器量と見識を認められ
ながらも、その「少年」をあやぶむ動きがあったのである。つまり、同書巻七斉本紀中、
文宣帝紀に、
文襄、年長にして英秀なれば、神武、特に愛重す。百僚、承風し、震懼せざる莫し。
文襄年長英秀、神武特所愛重。百僚承風、莫不震懼。
とあるように、高澄は「百僚」を掌握していたとされるが、その当初から後継者としての
彼の地位が盤石であったわけではなかったことがうかがわれるのである。その後を継いだ
高洋は、その時点で兄に比べて七歳下の一九歳であった。その彼が、わずか一年足らずで
父や兄の成し得なかった即位を性急に行おうとしたわけである。自ずからそれは、勲貴の
強い離反を招きかねないことであり、第二、第三の侯景を生む可能性さえも大きかったと
いえるであろう。それは、太后にとって、夫とともに半生をかけ創り上げてきたすべてを
崩壊させかねないものであり、受け入れ難いものだったはずである。
太后の発言は、このような背景の下になされたと考えられ、そこに高洋と勲貴との対立
の先鋭化を回避せんとする、多くの試練を乗り越えてきた彼女の老練な政治的手腕を読み
とることができるのである。
ところで、周知のように、『北斉書』巻四文宣帝紀に、
六・七年の後、功業を以て自ら矜り、遂に留連して耽湎し、肆に淫暴を行ふ。或は躬
自ら鼓舞し、歌謳すること息まず。旦從り宵に通じ、夜を以て晝に繼ぐ。……末年に
曁び、進食すること能はず。唯だ數々酒を飮むのみにして、麹蘖もて災を成し、因り
て斃るに致る。
六・七年後、以功業自矜、遂留連耽湎、肆行淫暴。或躬自鼓舞、歌謳不息。從旦通宵、
以夜繼晝。……曁于末年、不能進食。唯數飮酒、麹蘖成災、因而致斃。
とあるように、高洋の治世の後半は、政治をかえりみない暴君としての記述に彩られてい
る()
。一方、
これま で 見 て きた よ う に、
太 后 は高 洋の 即位 に対し強
く 反 対 を 表 明 し て い
23
た。したがって、このような太后であるならば、暴君と化した高洋に対して、即位に反対
したときのように強く諫めることも可能であったのではなかろうか。
しかし、同書同本紀には、高洋の振る舞いに対して、太后以下の百官が危惧しながらも
対処できなかったこととして、
皇太后・諸王自り内外の勳舊に及ぶまで、愁懼危悚するも、計、出づる所無し。(自
皇太后諸王及内外勳舊、愁懼危悚、計無所出。)
とあり、同書巻三〇崔暹伝には、
帝、左右に謂ひて曰く、崔暹の我が飲酒を諫むこと過多なり。然るに我れ飲むに何ぞ
妨ぐ所とならん、と。常山王、私かに暹に謂ひて曰く、至尊、或は醉ふ多きも、太后、
尚ほ言を致すこと能はず。吾が兄弟、口を杜ざすに、僕射
( =崔
暹
獨 ) 、
り 能 く 犯 顏 す
。
内外、深く相ひ感愧す、と。
帝謂左右曰、崔暹諫我飲酒過多。然我飲何所妨。常山王私謂暹曰、至尊或多醉、太后
尚不能致言。吾兄弟杜口、僕射獨能犯顏。内外深相感愧。
とあり、太后は高洋の飲酒を諫めることができなかったとしている。また、『北史』巻七
斉本紀中、文宣帝紀に、高洋の治世の末年のこととして、
太后、嘗て北宮に在り、一小榻に坐す。帝、時に已に醉ひ、手づから自ら牀を舉ぐ。
后、便ち墜落し、頗る傷損有り。醒悟の後、大いに慚恨を懷き、遂に柴火を多く聚め
しめ、將に其の中に入らんとす。太后、驚懼し、親自ら持け挽く。又地席を設け、平 たす
秦王高歸彦をして杖を執らしめ、口ずから自ら責疏し、背を脫ぎて罰に就く。歸彦に
敕すらく、杖ちて出血せずんば、當に即ち汝を斬るべし、と。太后、涕泣し、前みて
自ら之を抱く。帝、流涕して苦請し、肯へて太后を受けず。太后、聽許し、方めて背
杖を捨つ。脚を笞つこと五十、至到らざる莫し。衣冠、拜謝し、悲しむこと自勝せず。 いた
此に因り酒を戒む。一旬にして、還た復すること初めの如し。
太后嘗在北宮、坐一小榻。帝時已醉、手自舉牀。后便墜落、頗有傷損。醒悟之後、大
懷慚恨、遂令多聚柴火、將入其中。太后驚懼、親自持挽。又設地席、令平秦王高歸彦
執杖、口自責疏、脫背就罰。敕歸彦、杖不出血、當即斬汝。太后涕泣、前自抱之。帝
流涕苦請、不肯受於太后。太后聽許、方捨背杖。笞脚五十、莫不至到。衣冠拜謝、悲
不自勝。因此戒酒。一旬、還復如初。
とある。右によれば、酒に酔った高洋は太后に怪我をさせ、酔いが覚めた後にそのことを
悔やみ、自ら火に飛び込んで詫びようとして太后に止められている。そして、高洋は自ら
杖刑に服し、その姿に太后は涙を流しているのである。
このような太后の高洋に対する態度は、これまで見てきたような高洋の即位の際の態度
と齟齬するものである。この矛盾はどのように考えるべきであろうか。
『北斉書』巻五廃帝紀には、
常山王、地、親しく、望、重きを以て、内外、畏服す。加へて文宣初崩の日を以て、
太后、本より之を立てんと欲す。
以常山王地親望重、内外畏服。加以文宣初崩之日、太后本欲立之。
とあり、高洋の没後、彼の子である高殷(廃帝)が即位したが、すでに太后は高洋が没し
た当日に高演(常山王のちの孝昭帝)を皇帝として擁立しようと決意していたことがうか
がわれるの
で ある
()
。そ し て
、彼 女 は そ の 後に 起 こ る高演等によるクーデタ
ーに深く関
24
与し、同書巻九神武婁后伝に、
尚書令楊愔等、遺詔を受け輔政し、諸王を疏忌す。太皇太后、密かに孝昭及び諸大將
と定策して之を誅し、令を下して廢立す。
尚書令楊愔等受遺詔輔政、疏忌諸王。太皇太后密與孝昭及諸大將定策誅之、下令廢立。 とあるよ
うに、宰相
であった
楊愔 を誅 殺し
()
、高 殷に 代え て 高 演を 即位 させ てい る
。 こ
25
のことからは、次の二つのことをうかがうことができる。一つは、太后は高洋の次は高演
を皇帝として即位させたいというプランを持っていたことである。もう一つは、それを実
現させるだけの政治的権威と実力とを、彼女が高洋の即位後も保持し続けていたというこ
とである。このことは見方を変えれば、彼女が意図すれば、高洋に対抗する核たり得る力
量を保持していたことを示しているとされるであろう。
つまり、太后は高洋の酒癖を危惧し、さらに「暴君」と化した高洋を案じていた可能性
もあったであろうが、彼の晩年まで、子として、皇帝として、彼に対する信任を失っては
いなかったことがうかがわれるのである。
もし、以上の考察が当を得たものであるならば、それは本稿で述べてきた、太后の真意
が高洋の資質の点から即位に反対するというものでなかったとする私見を支えるものであ
る。さらに憶説をたくましくすれば、太后の即位に対する発言は、高洋と示し合わせた上
で行われたという可能性までも想起せしめるものである。
先述したように、東魏朝下における太后の影響力は大きなものがあり、太后が即位に反
対したことは、即位に反対する者、あるいは態度を決めかねている者による反対の表明を
容易くするものである。太后は、そのような状況をあえて作り出し、誰が賛成し、誰が反
対するのかを見極めようとしたのではなかろうか。右は先に述べたが如く推論の域を出な
い憶説であるが、もしその発言が高洋と示し合わせたものであったならば、右のような推
測もほとんど確定的なものとなるであろう。
以上のような太后の発言についての考察を通して改めて明らかとなるのは、魏斉革命は
必ずしも順調に進んだわけではなく、高洋が皇帝として即位するためにはいま一つの段階
の克服 が 必要 であったと
い う こ と で ある
()。そして、太后の即位に反対した発言は、そ
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のような状況の下になされたものであったと考えられるのである。
小結
本章で述べたことをまとめると以下の①~④のようになる。
①太后は高洋の即位に対して、高洋に皇帝としての資質が欠けているという理由から反対
している。しかし、当時の人々は、資質を有している人物であると高洋を認識していた。