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トランプ政権にとっての科学的知識と 知の喪失と胚胎 1 遠藤悟 はじめに 米国の科学政策 ホームページにおいて筆者は研究開発エコシステムのモデルを提案してきた その内容は例年 1 月に 科学政策の論点 のページに掲載してきたが 2018 年の本稿においては標題により米国トランプ政権における政策の特徴

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1 トランプ政権にとっての科学的知識と「知の喪失と胚胎」1 遠藤 悟 はじめに 「米国の科学政策」ホームページにおいて筆者は研究開発エコシステムのモデルを提案してきた。その 内容は例年1 月に「科学政策の論点」のページに掲載してきたが、2018 年の本稿においては標題により 米国トランプ政権における政策の特徴を研究開発エコシステムのモデル上に整理した上で、特にこのモ デルの左下に位置づけた象限を「知の消滅・胚胎」の象限と名付け性格付けを行う。 米国トランプ政権および連邦議会共和党の政策決定における科学的知識の利用については、米国のア カデミックコミュニティーから強く批判されているが、このことについては本ホームページや「科学(岩 波書店)」2017 年 5 月号において報告している他、論文に取りまとめることも予定している。本稿にお いては、これらとは多少異なる観点から研究開発エコシステムの四象限上においてトランプ政権下の米 国における科学的知識の展開の状況を整理した。 なお、研究開発エコシステムは、筆者の考え方が変化しており、本稿の記述に過去の記述と一貫性のな い点があること承知おきいただきたい。 1.研究開発エコシステムのモデルについて まず、研究開発エコシステムについて、2017 年 1 月掲載の記述を転記し説明したい。その構造は、探 求に向けた知を一方の端に、そして実用に向けた知を他方の端に配置した座標軸を縦軸(インプット)と 横軸(アウトプット)の双方に配置することにより、知を二次元座標軸上に描写するものである。y 座標 軸をインプット、x 座標軸をアウトプットと定義する形は一般の投入-産出モデルにおいてなじみ深いも のであるが、本モデルでは、y 座標軸においては上方に探求に向けた知を配置し、x 座標軸においては左 方に探求に向けた知を配置しており、一般的な座標軸の設定とは異なるものであることを予め承知いた だければ幸いである。 (A) 第二象限:インプット:探求に向けた知、アウトプット:探求に向けた知 (B) 第一象限:インプット:探求に向けた知、アウトプット:実用に向けた知 (C) 第四象限:インプット:実用に向けた知、アウトプット:実用に向けた知 (D) 第三象限:インプット:実用に向けた知、アウトプット:探求に向けた知 さらに研究開発エコシステムモデルにおいては、それぞれの象限における科学的知識の性格について 下図のように整理している。第二象限において科学的知識の探求が行われ、第一象限において探求に向 けた科学的知識が実用に向けて転換され、第四象限においてその科学的知識が利用されるという一連の 科学的知識の展開を描写したものである。 一般の研究開発・イノベーションのモデルにおいては、知識の創出を起点とし、知識の利用を終点とし て描かれることが多い。しかし本モデルにおいては第三象限を設けることにより、知の円環構造を構想 するものである。 1 「米国の科学政策」ホームページ 2018 年 1 月 28 日掲載

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2 また、本モデルの第三象限では、利用されなかった知(利用されなかった実用に向けた知のインプッ ト)、そして科学研究が行われる前段階である知(未来の探求に向けた知のアウトプット)の双方の性格 を兼ね備えた知を想定している。そしてこの象限における知識を科学的知識の喪失/科学的知識と呼ぶ こととしている。 このような座標軸を設定した理由は、1)研究開発エコシステムのモデルが、知の展開が実用という一 つの方向に向かうのではなく、円環構造において描写しようとしたこと、2)Stokes のパスツールの四 象限と整合性をもたせたものであること、の二点である。 Stokes「パスツールの四象限」との関係 Donald Stokes は、「パスツールの四象限」において、左上の象限を純粋基礎研究(ボーアの象限)、 右上の象限を利用に触発された基礎研究(パスツールの象限)、右下の象限を純粋応用研究(エジソン の象限)と定義している。ただし右下の象限は空白としており、科学技術政策面において余り関心が寄 せられていないことが読み取れる(この象限については後に検討を加える)。 本稿の四象限は、(Stokes の四象限について承知はしていたが)Stokes の四象限とは異なる発想で 構想されたものである。本稿ではそのことについて特に説明しないが、読者においてStokes の四象限 の類似性があるものと捉えて理解いただくことはむしろ結構なことと考えている(そのこともあり、 研究開発エコシステムの第一象限と第三象限の配置は当初逆であったが、途中でStokes の四象限の配 置に倣うなどの理由で限界の配置に改めた)。 本稿においては、左上の象限(Stokes によるボーアの象限)を科学的知識の探求の象限、右上の焦 点(Stokes によるパスツールの象限)を科学的知識の転換の象限、右下の象限(Stokes によるエジソ ンの象限)を科学的知識の利用の象限とそれぞれ対比させている。 Stokes が示す四象限と本稿で占める四象限の最大の違いは左下の象限に関する認識である。Stokes とは反対に、筆者はこの象限が上述のとおり極めて重要であると考えている。このことについては後 述する。

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3 2.トランプ政権下の米国における科学的知識への不信 ここでは研究開発エコシステムの四象限から離れ、トランプ政権下における科学的知識の利用につい て簡単に説明する。 環境科学をはじめとするトランプ政権の科学研究活動への批判は、オバマ政権期の議会共和党の科学 研究活動への批判に根差したものであると考えられる。従って議会共和党のこれまでの科学研究批判を 理解することは米国の現状の理解の大きな助けとなると言える。以下は、過去数年の連邦議会下院科学 技術宇宙委員会共和党のウェブサイトに掲載された情報に基づき、筆者なりにその同党の科学研究に関 する主張を整理したものである。 議会共和党の主張は、環境科学研究の多くはこれらの科学研究活動のあるべき姿に沿ったものではな いというものである。例えばピアレビューは温暖化ありきという研究者仲間による行為であり、不確実 性や再現可能性は、その科学的知識が政策決定に耐えうるものではないといった論議が共和党により展 開されている。 これらは当然のことながらアカデミックコミュニティーにおいて積み重ねられてきた価値とは異なる ものであり、アカデミックコミュニティーの反発も強い。なお、この問題については別に用意している論 文において検討を加えることとしている。 議会共和党の環境科学中心とした科学研究活動の在り方に関する主張 (連邦議会下院科学宇宙技術委員会共和党ウェブサイトに基づき筆者が取りまとめたもの) 【ピアレビュー】 ピアレビューは専門を同じくする研究者だけによるものでなく経済的観点等も含め行われるべきであ る。 【不確実性】 政策決定においては、利用される科学的知識の不確実性の程度や範囲が明らかでなければならない。 【再現可能性】 科学的知識は、複製や再現可能性が担保されることにより初めて政策決定に利用可能となる。 【合意形成】 科学者の間で疑義が持たれ、合意形成がなされていない科学的知識は政策決定に利用出来ない。 【動機付け】 科学研究は特定の政策目的に動機付けられて行われたものであってはならない。 3.研究開発エコシステムのモデルにおけるトランプ政権下の状況の整理 トランプ政権および議会共和党の科学研究に対する認識は、アカデミックコミュニティーのそれとは 大きくことなるが、以下は前章で示した批判の論点が、筆者が示す研究開発エコシステムの四象限にお いてどのような様相であるかと描写することを試みたものである。 不確実性、ピアレビュー(ここでは併せて「質保証」として)、再現可能性、合意形成、動機付けのそ れぞれについて、科学的知識の探求の象限ではアカデミックコミュニティーにおいて妥当と見なされた 価値が、実用の象限においては政策決定者や一般の人々の批判の対象となり得るといった状況について 記している。

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4 不確実性 科学的知識の探求における不確実性 科学的知識の転換における不確実性 科学者が科学を発展させる際に生じる当然の状況 (不確実性の程度は科学的知識の性格により異な る) 科学者における意味と人々・政策決定者における意味 の相反の顕在化(科学的知識の性格により異なる探求 知としての程度が、実用化において無意味化する) 科学的知識の喪失と胚胎における不確実性 科学的知識の利用における不確実性 科学者からも人々・政策決定者からも視界から科学 的知識が消滅した状況(不確実性そのものの意味の 喪失) 人々・政策決定者において消滅されるべき状況(実用 知としての科学的知識の否定的性格の付与) 〇 質保証(ピアレビューの意味) 科学的知識の探求における質保証 科学的知識の転換における質保証 科学者コミュニティーによる自律性のある科学研究 の発展に必要な手順が機能している状況 科学者コミュニティーにおける科学的知識の質と 人々・政策決定者のそれとの相反を含む関係性の顕 在化 科学的知識の喪失と胚胎における質保証 科学的知識の利用における質保証 科学者コミュニティーにおいても人々・政策決定者 においても質保証手順が喪失している状況 科学者コミュニティーにおける質保証の無意味化 と、社会的質保証による科学的知識への意味付け 〇 合意形成 科学的知識の探求における合意形成 科学的知識の転換における合意形成 科学者コミュニティーを単位とした合意の形成 アカデミックコミュニティーにおいて合意された科 学的知識の、人々・政策決定者における合意形成のた めの翻訳 科学的知識の喪失と胚胎における合意形成 科学的知識の利用における合意形成 合意が形成されていない状況 科学的知識の人々・政策決定者における実用的価値 による合意の形成 〇 再現可能性 科学的知識の探求における再現可能性 科学的知識の転換における再現可能性 再現性の欠如は科学者が科学を発展させる際に生じ る発展する当然の状況(再現可能性の程度は分野に より異なる) 再現性の欠如は科学者における意味と人々・政策決 定者における意味の相反の顕在化(探求知として分 野により異なる再現可能性の程度が、実用化におい て無意味化する) 科学的知識の喪失と胚胎における再現可能性 科学的知識の利用における再現可能性 再現性の欠如は科学者からも人々・政策決定者から も視界から科学的知識が消滅した状況(再現性その ものが定義できない) 再現性の欠如は人々・政策決定者において消滅され るべき状況(実用知としての科学的知識の否定的性 格の付与)

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5 〇 動機付け 科学的知識の探求に関する動機付け 科学的知識の転換に関する動機付け 科学者による探求的な活動は、知的好奇心により動 機づけられる(Stokes:ボーア) 科学者による探求的な活動が、実用的な価値により 動機づけられて行われる(Stokes:パスツール) 科学的知識の喪失と胚胎に関する動機付け 科学的知識の利用に関する動機付け 動機付けそのものが明らかでない状況(Stokes:ピ ーターソン)(カーソン、ワトソン) 科学者による研究が、人々・政策決定者と同一性を 保持することにより実用的な動機に基づき行われる (Stokes:エジソン) 4.各象限における「知でないもの」と米国における科学的知識の意味 4-1.四象限における「知でないもの」 2017 年 1 月に掲載した「研究開発エコシステムにおける四象限の知の考察」においては、「5.研究開 発エコシステムにおける「知でないもの」」として、第二象限(左上の象限)における知でないものを「未 -知」、第一象限(右上の象限)における知でないものを「無-知」、第四象限(右下の象限)における知 でないものを「欠-知」、第三象限(左下の象限)における知でないものを「非-知」と定義したが、本 稿においては、それぞれ、「未知」、「無知」、「欠知」、「非知」と表記を改めたうえで、トランプ政権下の 米国の状況を念頭に置きつつ、これら知でないものにどのような意味を持つかを考えたい。 4-2.左上の象限(科学的知識の探求)における知でないもの:未知 (「研究開発エコシステムにおける四象限の知の考察(2017.1.22)」において示した定義) 「未-知」とは、探求知が存在するか否か未だ明らかでない状態である。 「未-知」は、研究者による探求知に向けた活動の動因となるものであるとともに、研究者により生 み出された探求知により新たに認識されるものでもある。 「未-知」は(知の生成が研究者に依存することから)研究者の能力に制約される。 探求知はそれまで未知であったものが科学者により創造され、ピアレビューにより質が担保される。 また、その知識の再現可能性や不確実性についてもアカデミックコミュニティーの自律性においてその 意味が付与される。そしてこのようなプロセスにより科学的知識に関する科学者の間の合意が形成される。 トランプ政権および議会共和党は上述のとおり、未知であった地球温暖化に関し、それが事実である という科学的知識が成立するために必要なピアレビュー、再現可能性、不確実性、そして合意形成に対し 批判している。すなわちアカデミックコミュニティーにおいて構築されてきた科学研究プロセスを否定 していると言うことも出来る。 4-3.右上の象限(科学的知識の転換)における知でないもの:無知 (「研究開発エコシステムにおける四象限の知の考察(2017.1.22)」において示した定義) 「無-知」とは、探求知が存在するという前提において実用知の存在が無い状態である。 「無-知」は研究者による知の探究に向けた活動の動因となるものであると同時に、探求知の存在に 導かれることにより社会において認識されるものである。 この象限について環境科学に関する科学的知識を例に考えた場合、地球温暖化という探求知が存在す

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6 る中において、何の実用知が無いかが明らかになるべきプロセスが機能するかが問題となる。温暖化回 避に有効な技術開発に関する科学的知識、規制的政策を取った場合の経済面のネガティブな影響等、地 球温暖化という探求知が実用知に転換する際に存在していない知がどのようなものか明らかとなること が求められる。 しかしトランプ政権および議会共和党は、地球温暖化という探求知が事実でないとしているため、実 用知への転換が阻害されていると言うことができる。 4-4.右下の象限(科学的知識の利用)における知でないもの:欠知 (「研究開発エコシステムにおける四象限の知の考察(2017.1.22)」において示した定義) 「欠-知」とは、実用知が存在することにより他の実用知の欠如が明らかとなっている状態である。 「欠-知」は社会において認識されることに導かれた、研究者による実用知に向けた活動の動因とな る。また、生成された実用知は社会において新たな知でないものについての認識を促す。 「欠-知」は、社会における実用知の認識に依存することから、社会の知のニーズが増殖すれば(研 究者側の制約なしに)増殖する。 この象限における科学的知識は、例えばその知識を獲得できれば(欠けたものが満たされば)新たな製 品の製造やサービスの提供が可能となったり、人々の健康が改善するものである。その意味ではアカデ ミックコミュニティーにおいても人々・政策決定者においても求める科学的知識は同様である。しかし ながら トランプ政権および議会共和党は環境科学に関する科学的知識がそのような欠けたものを満た すものという認識はなく、トランプ政権の支持層の利益の保護等を主眼に、科学的知識とは別の知識に 基づき政策決定が行っている。 一般に政策決定においては、科学的知識と科学的知識とは別の知識の関係において両者の比較衡量し 行われることもしばしばある。特に規制的政策決定においては科学的知識に基づく規制による経済的な 損失が考慮されることは一般的である。しかし、トランプ政権においては比較衡量することの可能であ るとしながら、科学的知識を排除していると言うことが出来る。 4-5.左下の象限(科学的知識の喪失と胚胎)における知でないもの:非知 (「研究開発エコシステムにおける四象限の知の考察(2017.1.22)」において示した定義:一部修正) 「非-知」とは、実用知が存在し得るが、探求知の存在・非存在が明らかでない状態である。実用知 として存在し得るが、実用に利用されることはないため、実用知としての意味は喪失される。 「非-知」は、「知でないもの」の認識が持たれないため、知を求める研究活動の動因となりにくい。 「非-知」は、社会のニーズが存在しないことによりその存在、非存在だけでなく、その(肯定的、 否定的のいずれの)価値も認識されにくい。 この象限の知は、認識から除外された実用知と言うこともできる。その内容は次章において詳しく検 討を加えるが、環境科学に関するトランプ政権および議会共和党の政策決定(すなわち左下の象限の知 の利用)は、地球温暖化という科学的知識を左下の象限から排除し右下の象限において消滅させたと言 うこともできるが、その動因は化石燃料に大きく依存する産業など政権の支持基盤への配慮といった科 学的知識とは別のものである。トランプ政権下の米国においてこの象限は本来利用されるべき知識が失 われていく様相を呈している。

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7 ◯ 知の喪失の観点における非知 トランプ政権および議会共和党が地球温暖化という科学的知識の多くを政策決定に取りいれないとい う事実は、環境を維持するという実用知としての意味を喪失させるものである。 ◯ 知の胚胎の観点における非知 科学者にとって環境科学は、他の科学研究活動と同様、左上の探求の象限における研究活動としてこ の分野の研究者によるアカデミックコミュニティーに担われ発展するものである。しかし、後述するよ うに規制的政策に結びつく探求的な研究においては、この象限に研究の胚胎となる知が存在する。この 知が探求の対象としの知への展開は科学者の知的好奇心がその動因となるべきであるが、トランプ政権 および議会共和党は、EPA の支援により行われる気候科学研究は、温暖化が事実であることを動機付け された研究であると主張しているが、知の胚胎が探求知へと発展することを妨げていると言える。 5.知の喪失・胚胎の象限(左下の象限)の意味 5-1.利用や探求の認識の外にある知 以上、トランプ政権下の米国における科学的知識の状況について、研究開発エコシステムモデルの探 求、転換、利用、喪失・胚胎という枠組みにおいて性格付けを試みたが、この章では左下の喪失・胚胎の 象限についてより一般的な観点から検討を加えてみたい。 5-2.知の喪失について トランプ政権は、規制の除去を目的とした大統領令によりオバマ政権期の規制的政策の根拠とされた 科学的知識を(科学的知識が十分な根拠となるものではないという理由で)除外した。そしてアカデミッ クコミュニティーはトランプ大統領に対し科学的知識を軽んじる政策を批判した。 このアカデミックコミュニティーの批判は妥当なものである。しかし一般的に実用知に関する政策決 定はその根拠とする科学的知識と他の知識(科学的知識、科学的知識以外の双方)に基づき行われるもの であり、トランプ政権自身も両者を比較衡量した結果として規制は撤廃すべきとの結論となったとして いる。トランプ政権の問題は規制撤廃ありきで、科学的知識を除外したことにあるが、トランプ政権に限 らずいずれの政策決定も科学的知識のみにより行われるものではない。むしろ社会の人々に支持される

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8 か否かが政策決定の基本であり、その中に十分な科学的知識が含まれているかということは副次的な問 題である。 いずれの政策決定においても必ずしも全ての科学的知識が適切に利用される訳ではなく、むしろ多く の知識は除外されることにより政策が決定されると言うべきである。そして本稿における関心はここで 除外された知をどのように認識されるかについてである。 地球温暖化という結論はアカデミックコミュニティーにおいて共有された手順に基づき多くの研究者 が参加することにより形成された多様な科学的知識に基づくものである。その多様な科学的知識は仮に 政策決定に反映されなくても探求知、実用知の双方において価値が損なわれることはないと考えられる。 ここで少し規制的政策から離れ、化学研究の成果としての科学的知識の経済発展への貢献について考 えてみたい。例えば1874 年に合成された DDT は 1939 年に殺虫効果があることが発見され、その後の 農産物生産性の向上に大きく貢献した。DDT の持つ化学特性のうち、1939 年に認識された価値は殺虫 効果であり、その合成以降に知られた殺虫以外の効果については、知の利用の象限において何ら顧みら れることなく、蓄積された知識は本稿で示す左下の象限において喪失することとなった。DDT が殺虫以 外にも人々の利益をもたらす効果を持つかも知れないこと、あるいは、(後に明らかとなったように)人々 に害をもたらすかも知れないことについては多くの科学者や人々の認識から失われた。 5-3.知の胚胎について 先に記したとおりStokes は四象限のうちこの象限については特にその象限をイメージする科学者の名 前を記していない。しかし本文中には「バードウォッチャーは、ピーターソンの北米の鳥類のガイドとし て取りまとめられた鳥の種のマーキングや動きに関する高度な系統立てに感謝し、この象限をピーター ソンの象限と呼びたいと考えるかも知れない。しかし、象限に名付けるには限定的すぎる。」と記してい る。 筆者としては本稿で示す研究開発エコシステムのモデルにおいて、左下の象限についてピーターソン の名前を付すことは差支えないと考える。しかし、この象限において考えられる知は、より幅広く、また、 左上の探求の象限との関係を明確にすることが適当のようにも考える。そこで、この象限について、「知 の喪失」に加え「知の胚胎」という名称を付したいと考える。そしてこの象限に付すべきものの名称を二 つ付加することとしたい。 前項に記したDDT は、1960 年代までは殺虫効果がその科学的知識の中心であったが、レイチェル・ カーソンによりその有害性が明らかにされた。カーソンの研究は連邦漁業局の勤務におけるものという 意味では伝統的な科学研究活動の枠内と言えるかも知れないが、当時のアカデミックコミュニティーに おいて共有された化学物質研究における質保証等の手順に則り行われたものではないという点で、筆者 はこのような活動を探求知に向けた活動に先立つ、胚胎の状況にある知識として定義し、この象限に付 す名前にカーソンを加えることとしたい。この知識は探求知への胚胎の知であると同時に(人々の健康 を護ると言う意味で)実用知への胚胎の知でもある。 筆者はこの象限にもう一つの名前を付加したいと考えている。それは、左上の象限における探求知、さ らには右下の象限の実用知に至る知識の胚胎としてワトソンの名である。ワトソンとは、IBM の Watson である。IBM は Watson を Artificial Intelligence ではなく、人間の知識を拡張し増強する Augmented Intelligence と定義している。Watson は人間の探求活動の存在を前提としているが、科学者を含む人々

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9 の認識の外にある知識から探求知、実用知を産み出すという意味でこの象限に加えることができると考 える。 ピーターソン、カーソン、ワトソンはそれぞれ全く異なる性格を有しているが、それは左下の象限が多 様であるという意味でもある。科学者に未だ探求の対象として認識されていない知識は、Stokes の言う ようにこの象限を定義することは難しいが、それは科学技術イノベーション政策において重要性が低い というものではなく、他の象限において知識が展開するために重要な潜在性のある象限であると考える。 おわりに 現在語られる多くの科学技術イノベーション政策論議は、実用における科学的知識を定義し、それに 向けた最適なシステムの構築に関するものが多く見られる(いわゆるイノベーションエコシステム論議)。 しかし本稿では、知全体のエコシステムを円環構造において構想し、それぞれの象限における状況を 把握することを提案している。また、右下の象限というこれまで関心が寄せられることが少なかった象 限において、喪失した知が新たな知の胚胎となるという視点を提供している。 筆者は今後、このような視点において研究開発活動のエコシステムの理解を深めることができるか取 り組みを深めてゆきたいと考えている。

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