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共働的労使関係の可能性 : 小池和男著『強い現場 の誕生』の吟味

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共働的労使関係の可能性 : 小池和男著『強い現場 の誕生』の吟味

著者 萩原 進[編]

出版者 法政大学経済学部学会

雑誌名 経済志林

巻 83

号 2

ページ 151‑235

発行年 2015‑11‑30

URL http://doi.org/10.15002/00012446

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目 次

Ⅰ はじめに

Ⅱ 小池和男『強い現場の誕生』をめぐって   1.座談会の記録

  2.座談会に提出された小池メモ

Ⅲ 共働的労使関係の可能性   1.はじめに

  2.共働的労使関係の可能性

Ⅰ はじめに

小池和男さんは,今年(2013年)もまた日本労働史に関する新しい著作 を刊行された。昨年(2012年)の3月に,日本経済新聞出版から『高品質 日本の起源』を出版したばかりである。80歳を過ぎても学術書を出版し続 ける,わが師の知的生産力には驚嘆せざるをえない。

今年出た『強い現場の誕生』には,「トヨタ争議が生みだした共働の論 理」という長い副題が添えられている。副題からもわかるように,この本 の主題はトヨタ自動車―以下トヨタと略す―の労使関係である。トヨタに 関する研究は,文献目録をつくったら多分1冊の冊子になるくらい多い。

【紹介・資料】

共働的労使関係の可能性

─小池和男著『強い現場の誕生』の吟味─

労働研究会・

萩 原   進

(編集)

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汗牛充棟といっても決して大げさではない。なぜこんなにたくさん研究書 が出ているのであろうか。その理由は戦後のトヨタが,生産管理の分野で 画期的なイノベーションをおこなったからだといわれている。

トヨタは,材料や部品の在庫管理において,これまで自動車製造工場で 一般におこなわれていたMRS(Material Requirement System)とは全く異 なる,MRSとはまさしく真逆(まぎゃく)の新たな在庫管理システムを開 発したのである。周知のようにトヨタ用語で,「かんばん」とか「JIT」(ジ ャスト・イン・タイム)と呼ばれているシステムがそれである。MRSとは 逆に「前工程は後工程が引き取る量だけを生産する」(大野耐一)ことによ って,わずかな緩衝在庫さえも持たない生産方式である。

トヨタで長らく生産管理を担当してきた大野耐一は,1978年に『トヨタ 生産方式―脱規模の経営をめざして』を刊行し,それまで秘密の帳(とば り)に包まれていたトヨタ生産方式の全体像を,世間に向かって初めて開 示した。その後,日本の自動車産業とりわけトヨタの競争力の源泉に関心 を抱いたMITの自動車産業調査グループは,日米の自動車工場の調査に乗 りだし,トヨタ生産方式は,これまで自動車製造工場でおこなわれてきた フォード生産システム(Ford Production System,FPS)よりも,はるか に進化した新しい生産システムであるという,衝撃的な調査報告を発表し たのである。

MITの調査研究グループは,トヨタ生産方式に「リーンな生産システム」

(Lean Production System,LPS)という絶妙なニックネームをつけ,世界 中に広めてしまった。ネイミングが絶妙であったというのは,当時アメリ カ人の多くは大食による肥満に苦しんでいて,「リーン」(贅肉のないスリ ム)な身体にあこがれていたからである。日米自動車摩擦がはげしかった 1970年代~80年代,アメリカでは,誰もが「リーン」になりたがってジョ ッギングやダイエットが大流行していた。この時期に,米国の自動車工場

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は脂肪のかたまりのような肥満体(fat)になってしまっているのに対し て,日本の自動車工場は細身(lean)で美しいと,専門家のレポートが広 言したのである。この時以来トヨタ生産方式は,生産管理やイノベーショ ンの研究者にとって,魅力的で興味のつきない研究テーマになった。

トヨタは現在,年間の生産台数においてGMを抜き,世界1の座を占め ている。自動車市場におけるトヨタの躍進は,長年にわたって築きあげて きた競争力の賜物(たまもの)であった。これまで行われてきたトヨタ研 究は,トヨタの競争力の源泉をトヨタ生産方式に求め,トヨタ生産方式に 焦点を当てておこなわれてきた。

ところが本書の著者である小池和男さんは,トヨタの競争力の源泉をト ヨタ生産方式にもとめる通説的見解に対して,きわめて懐疑的である。ト ヨタ生産方式が生産効率の向上にはたしている役割を無視するわけではな い。しかしそれを,競争力を支える中核的要因とみなすのは,トヨタ生産 方式の過大評価になるのではないかと批判する。「大野神話」を軽々に信じ てはならないというのである。

小池さんはむかしから,通説というものに対して慎重で批判的であった。

大河内一男のゼミで学んでいた大学院生のころからすでに,学界の多数派 の見解に付和雷同せず,批判的な姿勢をとっていた。「汝の道をいけ,そし て人々に語るにまかせよ」(ダンテ)と,孤独な一人旅を続けるのが好きな 人だったのであろう。

小池さんは,トヨタの競争力を支えている決定的に要因は労使関係にあ るという代替仮説を大胆に提示する。トヨタの競争力を支えている支柱は トヨタの共働的労使関係にあり,共働的労使関係に支えられることによっ てはじめてトヨタ生産方式も機能を発揮できるのではないか,と考えてい る。

企業の成長と発展という目標を労使が共有しているだけでなく,企業は

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労働者を単なる「生産要素」として扱うのではなく,「知恵」と「技能」を 通じて改善やイノベーションに大いに貢献できる「人材」として扱う,そ のような労使関係を,小池さんは「共働的労使関係」(Collaborative Industrial Relations)と呼ぶ。この共働的労使関係こそが,トヨタの競争力 を支えている支柱ではないのか,というのである。

この本は,トヨタにおいて共働的労使関係がどのようなプロセスを経て 形成されてきたのか,共働的労使関係はどのような構造でなりたっている のか,共働的労使関係はなぜ強い競争力を生みだすことができるのか,こ のような共働的な労使関係は外国でも通用するのか,などの諸点にメスを 入れている。いつものように小池さん特有の,通説破壊的で独創的な研究 である。

小池さんは,1971年から12年間名古屋大学経済学部に勤務していたこと もあって,トヨタの労働組合とは付き合いが深かったようである。しかし,

名古屋大学時代の労働調査は地元の中小企業を対象にしたものが多く,ト ヨタ本体の労働調査はまったくおこなっていない。トヨタ本体の調査は,

京都大学経済研究所に移ってからおこなわれた。『人材形成の国際比較』

(1987年),『もの造りの技能』(2001年)などの調査研究がそれである。そ の後法政大学に戻って,トヨタの海外工場を調査した『海外日本企業の人 材形成』(2008年)を発表した。以上のような研究歴から見ても,小池さ んほどトヨタの労使関係に長期にわたって深くかかわってきた研究者はい ないといってよいであろう。

ということは,この本についてアカデミックに議論し吟味できる研究者 は見当たらないということである。どうも今回はディスカッサントが見当 たらないので,座談会形式を使って内容を吟味するのは難しいのではない かと思案していた。ところが幸運なことに,ある人物の名前がふと浮かん だ。同志社大学の石田光男さんである。

むかし1970年代に,東京大学社会科学研究所でおこなわれていた研究会

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で一緒に勉強したことがある石田さんは,トヨタ生産方式に関する研究や 日米自動車産業の調査をおこなってきており,その成果も刊行されている。

さらに最近は,本(労働)研究会のメンバーである中村圭介さん(東京大 学社会科学研究所教授)と2人で,旧知のドイツ人研究者であるユルゲン スさんと一緒に,フォルクスワーゲンとトヨタの比較調査をおこなってき ている。灯台の下暗しだ,最良のディスカッサントが足元にいたではない か。

今回の座談会の参加者は,以下の6人である。座談会は,2013年10月3 日に法政大学経済学部資料室(市ヶ谷)においておこなわれた。

小 池 和 男   法政大学名誉教授 石 田 光 男   同志社大学社会学部教授 中 村 圭 介   東京大学社会科学研究所教授 公 文   溥   法政大学社会学部教授 上 林 千恵子   法政大学社会学部教授 萩 原   進   法政大学名誉教授 (司会)

Ⅱ 小池和男『強い現場の誕生』をめぐって

1.座談会の記録

イントロダクション

萩 原 小池先生が,法政大学の大学院を定年で退職されたのは,たし か75歳になられたときでしたか。

小 池 忘れました,74歳ですかね。74か75ですよ。特例だったのです。

萩 原 先生は老いてますます盛んといいましょうか,定年でリタイア されてから大部な学術書を毎年(!)1冊ずつ刊行されてきています。わ

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たくしどもは,大学生活からリタイアされて少し暇になるであろう先生か ら,戦後日本の労働研究の歴史をお聞きしたい,先生がこれまで言及され ることが少なかった学界の裏話なども含めていろいろお聞きしようという ことで,研究会をやってきました。ですが,先生は大学生活からリタイア されてからも精力的に研究を続けられてきており,毎年学術書を出版され てきています。われわれは逆に先生からハッパをかけられている次第です。

おまえたちもっとばりばりと仕事をやりなさい,と言われているような気 がいたします(笑)。

今年(2013年)もまた先生は,日本経済新聞出版社から『強い現場の誕 生』という本を出されました。「トヨタ争議が生み出した共働の論理」とい う副題がつけられています。われわれはこれまで,先生が著書を出される たびに座談会を開いて新著の内容を議論し,座談会の記録を編集して『経 済志林』に発表してまいりました。今回も同様に,新著ということで座談 会を企画した次第です。

今度出た本のタイトルは,『強い現場の誕生』となっています。この『強 い現場』という言葉を聞くと,わたくしはすぐにある出来事を連想します。

5年ほど前の2007年7月のことですが,新潟県の中部を大きな地震が襲い ました(中越沖地震)。この地震で,柏崎市一帯はたいへんな震災を被って しまいました。

ご存じかと思いますが,柏崎には有名なリケンの工場があります。田中 角栄が戦前の若いころに,理化学研究所(理研)の会長であった大河内正 敏に頼んでつくってもらった柏崎の「農村工場」理研に由来する工場です。

主として自動車のエンジン部品であるピストンリングを製造してきていま す。その工場が,中越沖地震でメチャメチャになってしまった。ピストン リングは,エンジンにはなくてはならない重要な部品ですから,それが製 造できなくなりますと,自動車の生産はストップせざるをえなくなります。

柏崎のリケンの工場は,ピストンリング市場でかなりのシェアを占めてい ましたので,日本の自動車工場はたった1つの部品工場の供給途絶のため

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にすべて止まってしまいかねなかったわけです。

リケンのピストンリングは,他社が真似できないような高品質で造られ ていますので,柏崎の工場がダウンしますと日本の自動車産業は致命的な 打撃を受けざるをえません。そこで自動車各社は,できるだけ早くリケン の工場を復旧させねばならないということで,柏崎に応援部隊を派遣しま した。ホンダやトヨタなどが派遣した応援部隊が,人数では多かったよう です。応援部隊は7月16日の地震で罹災した工場をわずか1週間で復旧さ せ,7月23日には操業が再開されました。ピストンリングの製造設備は,

自動加工をおこなう精巧な工作機械のかたまりですので,ラインの復旧作 業はたいへんだったと思います。これこそがほんものの現場力なのではな いか,日本の自動車産業が保持しているものすごい現場力(ものづくり能 力)を目の当たりに見たような感じがいたしました。

今日のテーマは,このような強い現場力がどのようにして生まれてきた のか,強い現場はどのような構造で成立しているのか,この本の主題につ いて議論してもらいたいと思います。

参加者の自己紹介

萩 原 最初に,パーティシパントの自己紹介をお願いします。今回座 談会のためにゲストとして特別にきていただいた石田さんから,どうぞ。

石 田 同志社大学社会学部の産業関係学科,直訳するとIndustrial Relationsの学科で教鞭をとっている石田と申します。萩原さんのメモによ りますと,「小池先生との縁」が2番目にあります。私は正確な記憶はない のですが,小池先生が名古屋大学から京大の経済研究所に移られた80年代 前半期に,今でも続いている小池先生が主催している労働経済学者を中心 とした研究会があって,そこに参加させていただいたのが,先生と直接お 会いして会話する契機となりました。

それ以前,大学院生の時代にイギリス等の研究をやっていて,小池先生 の1977年に出た『職場の労働組合と参加』は衝撃的な印象を受けました。

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それまでほとんど文献に基づく研究だった世界から,現地を歩いて観察し た結果が非常に見事に書かれていたからです。当時内容の理解がどこまで できていたかわからないのですが。最初は文献の上で,「これは大した人だ な」と思っていて,80年代前半期から半ばくらいまで親しくお付き合いさ せていただきました。

その後いろいろな本の書評をしましたが,特に『職場の労働組合と参加』

については「労働研究を変えた本・論文」という『日本労働協会雑誌』(No.

513,2003年4月号)の特集の中で,私は自分が当時思っていた考えをそ のまま正直に書きました。私は小池先生をけっこう正面から批判するほう ですが,それでも先生は非常に懐深く相手にしてくださった。非常に敬意 を表しております。

一度小池先生に,私がイギリスに留学する直前に,「外国で調査って,ど うやるんですか」とお聞きしますと,「いやあ,君,イエローページか何か 見て電話したらいいんだよ」と。そんな感じで行って,シェフィールドで 電話して会社の門戸を開くわけにいかないなと,はたと気づいて,それか らけっこう苦労しました。そんな冗談みたいな話もあります。

(小池先生の補注:枝葉のことですが,1977年日米調査の時,ローカルユ ニオンは電話帳から,会社は会社名鑑から始めたのは事実です。あとはて いねいな手紙を書くことで,電話云々は事実ではありません。要するに米 人研究者から紹介されたのではありません。紹介できる米人研究者は見当 たりませんでした。米地元企業の調査です。)

萩 原 お隣の公文さんどうぞ。

公 文 公文と申します。法政大学の社会学部で国際経営論を担当して おります。小池先生との縁ですが,私はここ二十数年間,日本企業の海外 展開,それも,日本の生産システムと言っていますが,海外の工場に日本 の生産システムがどんなふうに移転しているかを調査,研究しています。

その研究を二十数年前に始めたときに,小池先生が1977年に出された『職 場の労働組合と参加―労使関係の日米比較』が1つのモデルみたいになっ

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ていたので,私たちがやっていた海外直接投資の研究会におよびして小池 先生にお話を伺ったのが最初でした。

調査研究という方法も,あの本から直接勉強したつもりです。そのあと はこの研究会で萩原先生と一緒に,小池先生が退職されたあと定期的に研 究会で教えていただいているという経過です。日本の企業の国際展開には いろいろな側面がありますが,ずっと海外の日本工場を見ておりますと,

その中でも日本風の熟練形成のあり方がユニークだけれども,日本のやり 方は海外の日系工場ではそれなりにできている,移転している。そういっ たことをここ二十数年間実感してきて,あらためて今日のような小池先生 の『強い現場の誕生』の話,それから前回やりました,実は戦前から労働 者の発言があるんだという話を,たいへん興味を持って読んでおります。

萩 原 席順で上林さんどうぞ。

上 林 法政大学社会学部の上林でございます。学部で産業社会学を教 えております。小池先生とのご縁は先ほど石田先生がおっしゃったように,

やはり私が大学院生のときに『職場の労働組合と参加―労使関係の日米比 較』の本が出版され,その本をゼミでレポートしたのが始まりです。その 頃はまだ自分自身の研究の方向がきちんとしておりませんでしたけれど も,それまでの労働研究が基本的に日本の中での問題を取り上げることに 終始していたときに,外国の労働問題も調査対象になるんだということを 示していただいたのが非常に新鮮でした。それ以上のものは,その当時は わかりませんでしたけれども,新鮮でした。

大学院卒業後,私は都内の中小企業研究をしている都立労働研究所に所 属しましたが,先生が顧問としていらしたことがお目にかかったきっかけ です。研究所では1年に1回報告書を書くことになっているのですが,そ うした報告書を書く前あるいは書いたあと,先生に原稿を読んでいただい てご批評をいただけるということは所員として非常に励みになりました。

萩 原 久しぶりですが,中村さんどうぞ。

中 村 中村圭介です。東京大学社会科学研究所に勤めています。僕は

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小池先生と一緒に調査をやったとか,研究をやったということはたぶんな いと思いますが,先生の著作はおそらくすべて読んでいると思います。だ から文献を通じて勉強したというのが正しいかと思います。その他に著作 をすべて読んでいる人というと,猪木(武徳)さんと石田さん,あと氏原 先生ですね。この4人の著作はすべて読んでいて,だいたい素直に勉強でき たんじゃないかなという気がしています。学んだことはとても多いです。

皆さんは言わなかったけれど,トヨタへの関心ですが,僕はもう14年前 になるかな。インドネシアトヨタについての技術移転の調査をして,それ を書いたのが最初です。その後はトヨタに関心はあっても調査をしてなか ったのですが,この5年ぐらい前から石田さんとドイツのユルゲンスさん と3人で,フォルクスワーゲンとトヨタの比較調査をしています。この本 もそういう意味でとても面白く,かつどこが使えるかなと思いながら読ん でいました(笑)。

座談会の中で出てくるかもしれないですけれど,ドイツ人にトヨタの労 働組合のビヘイビアを説明するのは非常に難しい。cooperativeと言って も,たぶん通じないんじゃないかと思っていて,今日の座談会からどうい うふうに説明すれば納得してもらえるのかとヒントが得られれば,とても 助かるなと率直に思っています。

小池先生とトヨタとのかかわり

萩 原 ひと通り自己紹介をしていただきました。私は司会ですので最 後に自己紹介をやることにしまして,小池先生にまず著者としての自己紹 介をお願いいたします。

小 池 お手元のメモに長く書いてありますが,この長いもののかなり はあとで勝手に付け加えただけで。あとのほうは全部,萩原さんの指示を ただ写しただけです。

まず私はもう心臓の機能低下の落伍兵でして,職場に行ってものを聞く というのは残念ながらできないですから,非常に歯がゆいわけでして。し

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かもこの本は非常に出来の悪い本で,タイトルの『強い現場の誕生』は僕 がつけたんじゃない。でも結局OKしたから私の責任なんだけど。私が最初 につけたのは「対抗から共働へ」,まさにcollaborativeです。cooperativeで はなくて,collaborativeのほうだったんです。続いて副題の「戦後労働史

-トヨタ1950年争議とその後」というふうにやったら,もう……(笑)。

日経出版というのは昔の新聞社の一部ですから,タイトルはどんどん変 えるんですね。もちろん私がノーと言えばいいんですけど,まあ,いいや と。非常に無責任です。そういう出来の悪い本なのに,働き盛りの方に時 間を割いていただいてたいへん申し訳なく思っております。さっき幾つか 出ましたが,今まで自分の本でいいと思っているのは1977年の『職場の労 働組合と参加-労使関係の日米比較』ですね。ですからこの本はお恥ずか しい限りで。

まず1ページ目の※1(本文213頁の補足の1)ですが,組合のリーダー ではなくて,地道な職場の人の労働史を見てみたいということだったので すが,なかなかうまくいってない。もう1つは,戦前の軍艦のロープ,船 のロープを作る製綱。製綱労働組合というのは戦前から作業能率の向上の ようなことをやっているものですから,それが戦後どういうふうにつなが るのか,あるいはいったん切れてつながるのか。そうした問題を追いかけ たかった。3番目として,海外は入れるべきだとは思っていましたけれど も,初めは予定に入れていませんでした。この本の1~5章で終わるはず だったのですが,一次資料を全然見てない。ちゃんと探したわけではなく て,『トヨタ労働時報』が組合なり,トヨタの図書館にないかと聞きました ら,1980年以前は処分したという話でしたので軽く諦めたんですね。

最後の1ページ下から2番目のパラグラフ(本文213頁),トヨタで三役 をいちばん長くつとめたのは梅村志郎,全トヨタ労連委員長は石川(義之)

です。石川さんの場合ははっきり文書に残っているからわかるのですが,

梅村さんの場合は本人に確かめたわけじゃないけれど,端の人に聞いてみ ると青年行動隊だというんだな。ところがこの2人が1960年代以降の,一

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見無力かつ超協力的,cooperativeなときのリーダーです。梅村さんは20年 ぐらいトヨタの組合のリーダーをやっていたと思います。今回彼にインタ ビューしようと思ったのですが,お亡くなりになりまして。それで海外に も手を伸ばして,例えばタイの労使関係一般についてなんて浅い話で本当 にお恥ずかしい限りです。

補足として書いてありますが,これはたいしたことはありません。私か ら乱暴に言わせれば,要するに今までの理解がいわゆる左翼強調,日本は 遅れているという意識でほぼ説明できるのではないかということです。2 ページ目第3パラグラフ(本文214頁)ぐらいから,前にもそうした研究は あったのですが,1990年代,特に19年のOstermanだったか,その論文以 来,いわゆるHigh Performance Work Systemsの論文がどっと出てくるわ けです。そのペーパーはみんな不十分と思うけれど,数量研究として立派 です。ちょっと怪しいと思うけれど,とにかくそういう流れとどこが同じ で,どこが違うかということを知ってみたいということでした。

私とトヨタの関係は,これは書いてないことですから,ちょっとだけ触 れます。私は1970年に名古屋に異動いたしましたけれど,それは腎炎で,

今も治す手立てはないんですね。死ななくなりましたけれど,僕らの頃は 1年以内に治らなければ必ず死ぬという感じでした。腎炎で1年職場を休 んだら,とても学生運動の激しい法政でつとめるのは無理だろうというの で,白井泰四郎さんがいちばん学生運動の静かな名古屋大学に移るように してくれました。

移動したら,すぐトヨタの本社支部の役員,これは名古屋大学OBです ね。それから深津という名大バスケット部のOBで且つトヨタ労組の役員,

これはあとでどこかの社長をやったと思います。そういうのが勝手にぶら ぶらやってきます。ご存じのように名古屋大学は門がありません。ど真ん 中に大きな道路があります。そのど真ん中のバス停のすぐそばが経済学部 ですから,気軽にやってきて,話をせよとか言われて。そのうちに名ばか りの,給料なしの組合の顧問。そのあと全トヨタ労連顧問はわりと正規で,

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わずかながらいただきました。ずっとやったと思います。したがって京都 に移るときにトヨタ自工労働組合委員長,これはナンバーワンの梅村さん,

ナンバーツーは全トヨタ労連ですが,委員長2人が2人だけで歓送会を開 いてくれました。

それから名古屋にいると,トヨタの人事部長たちはほぼ毎年わたしを呼 んで話をしてきました。大勢の前じゃありませんよ,このくらいの人数で どこかのレストランなり,そういうところに招いてくれて話をいろいろし たと思います。職場での聞き取りは,僕はトヨタ本体はほとんどやってい ません。あえてやらなかったのです。大きすぎたから調査してもしようが ないと。しかし,小さいところはだいたい回りました。大きいところでも デンソー,トヨタ車体,アイシンとかをかなり回りました。トヨタ本体は 1993年か92年にNUMMIに,20日間ばかり20回ぐらい行ったと思います。

スタンフォードで教えたあとの休みを利用して行って,そのとき訪ねた職 場と全く同じ職場を,日本に帰ってきてからすぐ調べました。その調査結 果はほとんど書いてないのです。ちゃんと書いたのは英語で,青木(昌彦)

さんの,『Journal of the Japanese and International Economies』という雑誌 に書いたものがあります。

まじめにやったというか,丁寧にやったのは97年,98年かな。トヨタの 組合から頼まれて,生産職場という注文がありました。これは行きたいと ころはどこでも行けます。それが『もの造りの技能』という本です。その ときは中馬さんと太田さんと一緒でした。中馬さんは僕が声をかけたので はなくて,自発的に「僕も連れていってくれ」と申し出がありました。そ れまで中馬さんとは,あまり会ったことがなかったのではないかな。太田 君は京都のとき私がメインアドバイザーでしたから,ある意味で当然です。

それがトヨタとの縁で,あと特にありません。

萩 原 ちょっとお聞きしますけれど,一つ確認しておきたいことがあ ります。先生は1970年に法政大学から名古屋大学に移られた後,いつごろ からトヨタとの付き合いが始まったのでしょうか。トヨタは,1978年に創

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立40周年を迎えて『トヨタ自動車40年史』を出します。もうその頃にはト ヨタ労組の顧問などになられていたのでしょうか。それともまだあまりコ ンタクトはなかったのでしょうか?

小 池 いいえ。あまり覚えてないんですけれど。

萩 原 実は40年史編纂のために社内で作文の募集がおこなわれまし た。入選した作文はまとめられて1冊の本になっているのです。作文のテ ーマは「車と私」だったかと思います。飯田経夫(名大教授)さんなど,

応募作文の選考委員になられた方々の名前が40年史にズラッと出ている のですが,先生の名前が出ていないのです。40周年記念の事業に,先生も コミットされていたのではないかと想像していたのですが。

小 池 それは全くないと思います。そういうところの小さいコラムで,

私の顔写真が出ているのは組合史のほうです。組合の何年史かは覚えてな いですが,そこには出ていました。会社のほうには出ていません。会社か らは,そういうのを正規に依頼されたことは1回もありません。

萩 原 飯田さんの名前は出ています。飯田さんもトヨタ労組の顧問を されていたと思いますが。

小 池 組合もそうですけれど,飯田さんというのは名古屋大学で特別 なポストについているのです。つまり,必修中の必修の科目で彼だけ6単 位の科目を担当していたのです。塩野谷九十九の講座のあとですから,ま さに第1講座なんですね。名古屋大学のOBですし,名古屋大学のエースで すね。僕と違って労働専門ではありませんから,彼は早くからいろいろな 会社と縁がありました。特にトヨタというよりも銀行界でしょうね。塩野 谷さんの関係で中京銀行界,銀行協会と縁が深かった。

萩 原 そうすると先生がトヨタ労組にコミットされるようになったの は1980年代からですか。

小 池 よく覚えていませんけれど,70年代はしょっちゅうトヨタの組 合に呼ばれて行ったことは確かです。だって名古屋に行って,1カ月以内 にもう呼ばれています。ある組合の集会に呼ばれたりしました。

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企業調査の問題点

萩 原 どうもありがとうございました。私は司会なので自己紹介は省 略させていただきます。今年の3月に法政大学を定年退職しました萩原で す。それでは討論に入りたいと思います。

メモのほうは,いきなり1950年争議となっているのですが,この本には その前に「矛盾―先行研究の盲点」という章がございます。そこで一つ問 題提起をしたいと思います。企業の内部のこと,特に作業組織とか,製造 技術や職場の労使関係といった,そういった企業内部のディテールの調査,

企業内部のディテールを調べることは非常な難事です。アメリカのビジネ ススクールなどでは,企業研究を実証的にやろうとしており,何とかして 企業内部の情報や資料を入手しようと,本当に一生懸命やっています。

どこの国も同じですが,企業にはいろいろな企業秘密がありますから,

そう簡単には情報を開示してくれません。ですから先行研究を見ていく場 合,研究者がどこまで生の資料にアクセスできたのか,現場での面接調査 あるいは企業の第一次的な資料の閲覧ができたのかどうか,その点が重要 なポイントになります。企業研究は非常にやりにくい分野です。

その研究の困難さということを考えると,先生はたいへん恵まれていた。

先生は名古屋大学の教授で,しかもトヨタの労働組合から非常に信頼され ていていろいろ仕事を頼まれるとか,組合も会社も先生を警戒してマーク するようなことは全くないわけですね。ですからわりとトヨタには,アク セスしやすかったと思うのです。

先行研究はどうだったのか。まず日本人文科学会の『技術革新の社会的 影響―トヨタ自動車・東洋高圧の場合』(1963年)のトヨタ調査ですが,

果たしてどこまでちゃんと工場の内部を調査しているのか。それからアメ リカのMITのグループ,ウォーマックたちの『リーン生産方式が世界の自 動車産業をこう変える』(1990年)は,トヨタの本社工場やNUMMIを詳し く調べたかのごとく書いてはいますけれど,本当にトヨタの本社工場や

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NUMMIの工場を,ちゃんと工場の現場にまで下りて調べたのかどうか。

佐武弘章さんの『トヨタ生産方式の生成・発展・変容』(1998年)とい う本の場合は,大学の先生にしては珍しく,トヨタで機械工場の現場経験 のある鈴村喜久男さんのインタビューに成功して,いろいろな内部資料を 入手して書かれたいい研究ですね。わたくしが知っている範囲でいいます と,トヨタの工場の中にまで入って信頼できる情報やデータに基づいて研 究しているのは,小池先生の『もの造りの技能』(2001年)と『海外日本 企業の人材形成』(2008年)と,あとは佐武弘章さんの調査ぐらいですね。

多くの研究は,トヨタの工場を調査したように書いてはいるのですけれど も,実は本当は何も調べてはいないのではないか。戸塚・兵藤編の『労使 関係の転換と選択―日本の自動車産業』(1991年)だとか,野村(正實)

君の『トヨティズム―日本型生産システムの成熟と変容』(1993年)など も,大げさなタイトルが付けられていますが,工場の現場を詳しく調べて 書いた本とはおもわれません。工場調査をおこなうのは難事ですね。どう でしょうか。

小 池 今挙げられた方の中で,いちばん最初の日本人文科学会はおそ らく最もデータにアクセスできたと思います。その1つの理由は,当時の トヨタが左翼思想でいかに困らされるかを自覚してなかったことが1つあ ると思います。

萩 原 鎌田慧『自動車絶望工場』(1972年)のような左翼からの反ト ヨタキャンペーンに対する警戒心が,トヨタには欠けていたのですね。

小 池 これ以降,調査拒否になるんですね。日本人文科学会の,具体 的にいうと隅谷三喜男さんです。その頃の東大の権威というのは問題にな らないくらい高くて,名古屋大学なんてずっと下です。そういう意味でい うと,私は使っているデータそのものから見て,おそらく日本人文科学会 がいちばん1次資料に接近したと思います。正しいか,事実に近いか,こ れは別ですけれど,あんなに接近できた調査は他にない。以後トヨタは,

表面的にはずっと調査拒否です。

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もっとはっきり言えば,福武,隅谷というのは自分では調査に行かない んですよ。彼らは一高出身でしょう。ですから一高時代の昔の社長に電話 して,おまえ,調査させろって,そういう調子なんです(笑)。特に隅谷さ んというのは一高の優等生ですから,いい意味の権威主義がありますね。

中 村 実働部隊は誰だったんですか。

小 池 経済班は津田真澂,社会学は北川(隆吉)さん。この2人が中 心で,文学部の助手と経済学部の助手です。その2人のうち津田真澂は,

機械工場だけに集中します。だからトヨタのことを論じてはいないという のが私の感じです。そういう意味では社会学のほうがちゃんと,例えばど ういう点を見るべきか考えている。今までのたくさんの研究の中で,人文 科学会だけを最初に取り上げるようになったのは,それは悪くないからで す。

1例を挙げれば,その社会学の連中というのは当時すでに提案制度があ って,相当大勢が応募して,それが広まっているということをちゃんと書 いてはいるんです。でもそれがなぜかということになると,全然別ですけ れど。それから機械の配置図,個々の人のデータとか,そういう点につい てはおそらく最も個別データに入っていたのは,この日本人文科学会だと 思います。

そういう意味でいうと,ウォーマックなんていうのはわたくしなどがイ ンタビューを受けたほうです(笑)。インタビューに来たのは,僕が名古屋 大学のときだったかな。京都だったか,どちらかは忘れたけれど。

上 林 先生が日本人文科学会によるトヨタ調査(1963年)で,社会学 グループの分析を評価してくださっている〔新著の14ページ〕ことは,社 会学を専攻している私にはとても嬉しい反面,その後の産業社会学の研究 においてこの調査によって研究対象を限定されてしまったという点で,残 念な調査でもあるのです。といいますのは,社会学グループがおこなった トヨタ調査は,先生もご指摘のように,丹念に現場の実態を洗い出してお り,労働現場の調査から中範囲の理論を生みだすという産業社会学の正統

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な方法論に依ってもいたのです。

ところが,先ほど先生は,当時のトヨタは左翼思想で困らせられること を自覚していなかったと指摘されていましたが,社会学の場合,この調査 以降自動車産業の生産現場に立ち入ることが全く困難になってしまったの です。調査ができなくなった状況は,この調査を実施し,いくらかでも生 産の現場を見ることができた世代ばかりでなく,その後の私たちの世代ま で変わっていません。われわれの世代は,自動車産業の工場を調査する機 会を奪われてしまったのです。1970年代,80年代を通して技術革新が進み,

研究課題が山積しているのに,基幹産業である自動車産業の工場調査がで きませんでした。ほんとうに残念でした。米国の研究者のクスマノなど,

海外の研究者のほうが日本の自動車産業に詳しくなっているのです。非常 に残念なことです。

中 村 立命館グループがいるけれど。

上 林 確かに,立命館グループの先生方の調査は,時間をかけた丹念 な調査ですね。しかし調査方法に問題があると思います。地域から個人を サンプリングして面接するという面接調査の方法では,生産現場の実態に ついてどうしても手薄になってしまいます。本来ならば,職場で働いてい る労働者と地域において会社の絆に縛られないで暮らしている労働者の両 側面を観察することができるような調査設計が理想的と思うのですが……

小 池 小山さんのグループというのは立命館の連中だけど,それは地 域で住んでいる世帯を訪ねて,そこで調査票をばらまき,話を聞くんです よ。非常に細かく労働のことも聞くのですが,それも職場に入ったのでは なくて,地域でその人に聞くんですね。地域ですからトヨタ関係とは限ら ないけれど,その中からトヨタを特定するんですね。それで僕は,2番目 に挙げているんじゃないかな。

全体的にみればできはよくないと思いますよ。北川さんと五十歩百歩だ と思うけれど,まじめに調べている。本当はみんなこんなくり返し作業だ から,やる気がないはずなのに,かなりの人は案外やる気があるじゃない

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かとびっくりしています。それをわりとまともにとって,なぜかというこ とを追いかけるんですね。

トヨタの労使関係転換の謎─50年争議の評価

萩 原 人文科学会のトヨタ調査―『技術革新の社会的影響』(東京大学 出版会)―は,高価な本でしたがわたくしは学生時代に苦労して購入して 今ももっています。読んではいませんでしたので,この座談会のために読 んでみました。北川隆吉さんの論文はかなり大きな問題をはらんでいるの ではないかと思っています。トヨタ生産方式がどういうふうなプロセスで 形成されてきたかという問題に関わってくるのですが,残念ですが時間の 関係で省略させていただきます。

いきなり先生が提起されている労使関係の転換に関する謎―「ミッシン グリンク」―に入りたいと思います。戦争が終わって占領軍が最初にやっ たことは,5大改革指令にもとづいて労働組合法を制定したことです。昭 和20年の12月に労動組合法案が帝国議会を通過し,翌年の3月から施行さ れることになりました。産業報国会の解散命令がだされましたので,企業 は産報に代わって労働組合の結成に関与することになります。1946年の4 月には,労働組合組織率が40%を超えます。わずか半年足らずで全国の組 織率が40%になるという奇跡が起こったのです。東大社研の調査『戦後労 働組合の実態』によると,数か月で組織率が40%になっていく経過があざ やかに明らかにされています。

トヨタ自動車では,世の流れに沿って1946年の1月19日に,労働組合の 結成大会が開かれ,工員と職員が一体となった労働組合が結成されました。

新生のトヨタ労組は,生産復興と賃金引き上げに全力をあげます。戦後の 激しいインフレで,労働者の生活は危機的な状況におかれていました。し かしこの戦後インフレは,占領軍によって収拾されていきます。1949年に ドッジ・プランによって,復興金融公庫の補助金が打ち切られ,日本経済 は一挙にデフレに突入していくことになりました。日本の自動車産業はよ

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うやく復興の緒に就き始めていたのですが,ドッジ・ラインによって一挙 に不況に突入していくことになりました。日産,トヨタ,いすゞの自動車 3社は大量解雇をせざるをえなくなりました。

1949年から1950年にかけて,トヨタは経営危機に直面するわけです。

1950年の1600人もの解雇をめぐる争議は,たいへん激しいものでした。ハ ンスト,管理職の糾弾とつるし上げ(職場闘争),工場占拠,連日のデモな どで,拳母(ころも)の町はさながら戦場のような状況になってしまった のです。

しかしこの50年争議を契機にして,激しく対立的な労使関係が,先生の 用語法によりますとcollaborative(共働的)な労使関係に徐々に転換して いくことになります。転換は,数年かかって徐々に進むのですが,50年争 議がターニングポイントになったことは否定できません。

非常に激しい対立的な労使関係が,徐々にではありますがどうして共働 的な労使関係に転換していったのか。先生はこの本で,この転換の謎を解 くために,ミッシングリンクという言葉を使われている。ミッシングリン クの謎はどうやったら解けるのか。それは1950年争議のことなのですか。

小 池 それはミッシングリンクという意図ではないんです。ミッシン グリンクは,戦前の製綱労働組合がやっていたような生産能率向上の活動 が戦後復活したのはなぜか,そこの間をつなぐのは何か。それが僕にとっ てのミッシングリンクです。わりとちゃんとストライキをやっていたのが ガラリ,ストライキをしなくなって協力するというのは,僕は単純に普通 の先進国の労働組合になった,というだけだと思います。僕の知っている 限り,調べて回った限りでは強い米国の組合は解雇反対闘争なんかしない。

弱い組合はやるけれど。

ストライキしないという意味は,解雇に対してです。賃上げはやります。

アメリカではご存じのように2~4年の間の協約が切れたときはやります けれど,でも解雇に対して反対するストライキは,僕の知る限り強い組合 ではないように思う。ドイツは多少あるかもしれないけれど,一般にはド

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イツというのは昔から今の日本ぐらいストライキは少ないですから。スウ ェーデンも。

萩 原 そうすると先生がこの本でおこなっている問題提起は,解雇に 対して絶対反対という闘争方針で対応する労働組合はむしろ非常にアブノ ーマルなケースで,解雇に対しては条件闘争で対応するのが国際相場であ る。しかしある時期に日本の労働組合は,玉砕型の絶対反対というアブノ ーマルな方針で対応していた。

小 池 未経験者のなす行動である,という感じですね。そういうふう に僕はとっているんです。

萩 原 そうするとミッシングリンクという意味が,かなり変わってき てしまいますね。

小 池 労働組合はストライキをやるものだという前提で考えるから,

それはミッシングリンクになるので,僕はそんなのは解雇反対闘争で失敗 するのは当たり前だからと考えています。したがってミッシングリンクと いうのは,それなのになぜ提案とかそういうことを,あるいは職場で工夫 してきますね。それを僕は提案制度とは別に,オンラインの工夫といいま す,そちらのほうが大事だろうけれど,なぜそういうことが出てきたのか ということを知りたい。ミッシングリンクというのは,これは僕のつけた 題ではないので申し訳ない。この本の小見出しは全部僕のつけたとおりで すが,章のタイトルはちがいます。責任逃れみたいなことを言って悪いけ れど,事実はそうなんですね。

萩 原 共働的な労使関係への転換過程の中で,50年争議をどういうふ うに位置づけたらよいのでしょうか。今の先生のお話ですと50年争議は,

労働組合が子供から大人に成長していくための肥やし(貴重な体験)にな ったということでしょうか。

小 池 日産やいすゞと対比した場合にはっきりと,よりまじめにスト ライキしているということは言えるのではないか。

石 田 強調されてますね。

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小 池 ええ。それを僕は調べるまでわからなかったんです,データが ないんですよ。唯一,30年史だったか20年史に月別の生産台数が出てきて,

それが他の日産といすゞにないんだな。だから証明できないのだけれど,

でも日産だったら,いちばん丁寧にやったのは熊谷徳一,嵯峨一郎の本で しょう。お二人は組合の小さな支部の分所まで下りて調べているでしょ。

それから割り出した日数とトヨタのストライキ,生産台数からのストライ キは桁違いです。トヨタはやはりまじめにストライキしている。だから敗 れるとがっくりくる。だけど日産労組の益田組合長は非常に早くから,も うストライキを放棄しています。それはちゃんと書いたつもりだけれど,

みんなどうして書かないのか不思議です。

僕は日本の争議で長いのは,ほぼ調べています。日鋼室蘭,三井三池,

近江絹糸も書いているし,戦前の野田醤油も見ている。そういう目でふつ うのストライキを見ていくと,とことんやって失敗する例がそうない。と ことんやって失敗するというのは,結局解雇で全員つぶれるわけですね。

いちばん典型は尼崎製鋼の争議です。あれは2000人の大企業です。日鋼室 蘭はつぶれる直前に何とか収まってつぶれなかった。破産が表面化するの は多くないけれど,トヨタはとことんやった。

それに対しては日産労組の益田組合長はわりと早く,指名解雇を受けた 人間が会社構内に入ることを会社は禁止するのだが,それを認めるような ことを行っている。そうした行動が当時は解雇を認め条件交渉に入るサイ ンなのです。それが当時の通例です。日産の益田組合長は,わりと早く認 めていた。ところがトヨタ労組はぎりぎり最後になって認めたのです。

萩 原 ちょっと視点を変えて考えてみたいと思います。50年争議は労 働組合にとってかなり深刻な体験だったと思いますけれど,むしろ経営側 にとってヨリ深刻なインパクトになったのではないかと思います。経営側 の石田退三さんは,あの50年争議のあとトヨタ自工の社長に就任します。

ちょっと変な言い方ですけれど,石田退三は,トヨタ自動車の経営陣はま じめではあるが企業経営のことがよくわかってないと,かなり批判的なち

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ょっとバカにしたような態度をとっています。

たとえば石田は,トヨタ自動車の経営陣(豊田喜一郎ほか)は「従業員 の解雇はしません」ということを文書で約束してしまったが,この約束が 争議を深刻化させていったと考えていたようです。こんなことを組合に約 束する経営者はどうかしていると言うのです。当時の経営陣は,豊田喜一 郎(社長)をはじめ喜一郎が三顧の礼をもって来てもらった東大教授の隈 部一雄(副社長)など,東大工学部出身の学者タイプのエンジニアが多か った。そういった工学部出身の技術屋出の経営者には,企業経営がわかっ ていない。だから「解雇はしません」などといったことを軽々に組合と約 束しちゃったのだ,といったようなことを石田さんは公言しています。わ りとオープンに。トヨタ自動車の経営陣はあまりパッとした経営者ではな いとも言っています。

小 池 それは当然あったとは思いますけれど,でももう少し具体的に 言えば半年前に日産といすゞが,ほぼ同時期に2カ月の争議をやります。

半年後にトヨタは追い詰められてやります。その追い詰められたときに,

組合の三役は最後の陳情で社長の自宅に行くんです。また会社が車を出し てやるんです(笑)。そのときに豊田喜一郎は,「今回は解雇しないとは言 えない。二度うそつくことになる」ということで,最後まで突っぱねます。

それが6月のぎりぎり最後です。それは書いてない。

萩 原 1950年の6月ですね。

小 池 うん,それは普通の社史には書いてない。この本は1日1日の 出来事を,そう詳しく書いているわけではない。1日1日の出来事にいち ばん詳しいのは,名古屋大学の鼓(肇雄)さんたちがやっている『愛知県 労働運動史』で,何巻もあります。あれは僕が信用するに足るというのは,

労政事務所データを使っているからです。労政事務所がいちばん詳しく観 察する,その場に行っているでしょうから。それを使っています。労政事 務所のデータを使っている。つまり県の依頼ですから使えるので,あれは 大きい。

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労政事務所の連中のデータがどれだけのものであるかということは,僕 は20年くらい労働省の組合課の小さな内輪の研究会に入っていました。組 合課ですから労政事務所のボスみたいな人ばかりです。そういう人たちは ものすごく詳しい。自分の意見を外に1行も書けないから,書きたくてし ようがないので僕らにいろいろ教えて書かせようとする(笑)。真意を伝え たいわけね。それはありました。ごめんなさい,余計なことばかり言って。

石田退三が社長になるのは非常に自然なのです。なぜかトヨタ自動車の 最大株主は豊田自動織機ですから,4分の3くらい持っているのではない か。その社長が石田退三です。石田退三は,自動織機の社長を辞めたわけ ではなく兼任します。だからいつでもトヨタの方を辞める,いつでも喜一 郎に譲ると。事実ゆずるのですよ。もっとも喜一郎はその直前になくなり ますが。

ぜひ皆さんに教えてもらいたいのだけれど,ストライキ,つまり解雇を しないという約束を破ったからと,辞めた経営者は日本に他にいますか。

これは非常に知りたい。僕の知る限り,ないんですね。喜一郎というのは 本当のトップでしょう。技術屋としても超一流ですね,帝国発明協会から 恩賜記念賞をもらっている。あれは繊維機械ですけれど。本当に一からや ってきた技術屋でしょう。で,嫡男でしょう。それが責任取って辞めるわ けでしょう。そのとき彼は52ぐらいです。高血圧になったこともあるのだ けれど。だから組合が家に押しかけるんですね。押しかけるのも大勢で行 くのではなくて陳情に行くんだな。でも,それは最後まで突っぱねました ね。ごめんなさい,同じことを何回も言って。でも,それは正直感心しま したよ。

萩 原 50年争議を収拾する段階で,経営陣は非常に立派な責任の取り 方をした。それは現在に至るまで,トヨタという企業の労使関係の原点と されています。あの争議はトヨタの歴史のなかにしっかりときざまれてい るといってもよいでしょう。私はむかし,トヨタ労組から出ている自動車 総連の役員と話をしたことがあるのですが,50年争議のときに徹夜で団体

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交渉をやり続けた部屋を,今もつぶさないで記念として保存してあるとい うのです。労使関係で組合が何か大きな問題を抱えたときには,いつもあ のときのことを振りかって考えるというのです。大切な思い出の場所とし て保存していると。組合は,希望退職募集というよりは事実上指名解雇で あった解雇争議に敗れたわけです。もしも経営陣に対する信頼感がなくな ってしまっていたら,あとの労使関係はそうとう荒れたトゲトゲしたもの になってしまったでしょう。しかし解雇提案を飲んで整然と敗北できたの は,喜一郎さんと副社長を含めた3人のトップ役員が,直後にいさぎよく 引責辞任したからですね。それは今でも神話として残っています。

小 池 それは書かなかったけれど,次は石田退三ということがわかる わけでしょう。そうすると猛烈に反発するんです。ほとんど収まりかけた のが,そこからハンガーストライキをやる。書いてないですが,頑張るわ けです。頑張った三役の中心が岩満(達巳)で,そのあと数年,組合のリ ーダーです。トヨタには共産党員はあまりいなかったんじゃないかと思い ます。だからわりと素直にストライキをやったんじゃないかという感じで す。他方日産労組の益田委員長は,解雇反対闘争に組合を賭けなかったね。

労使間の信頼関係は争議後すぐには生まれなかった

萩 原 50年争議の経験が,トヨタの労使関係にどういうインパクトを 与えたかを考えた場合,第1に組合に解雇反対闘争はかなり難しい闘争だ ということを反省させるきっかけになった。もっと違った闘い方をしない と,結果的に労働者はかなり悲惨な目に遭ってしまう。指名解雇で敗れた 三池労組の場合もそうでした。あとから考えれば希望退職募集でかなりい い条件をつけて解決したほうが,解雇されていく人にとってもはるかにプ ラスですけれど,当時はまだそういう思いには至らなかった。しかし50年 争議で組合は学習をした。

この争議は第1に,経営側の解雇提案に対する組合の闘い方にもっと新 しい工夫をしなければならないと考えるようになったきっかけになった。

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第2に,むしろそれよりも大きいのは,労使関の信頼関係の重要性を自覚 させた点ですね。労使は結局,同じ船に乗っている船長と船員みたいなも ので,労使が一緒に協力して会社を支えていかないと会社はつぶれてしま う。船がしけに遭ったとき,船長と船員がケンカをしていたら船はどうな るのか。多くの労働者が職を失い悲惨なことになってしまう。下級船員と 上級船員や船長との間に不信感や憎しみの感情があったら船は順調に航行 できない。50年争議は,労使間に信頼関係を築くきっかけをつくったので はないでしょうか。どうですか。

小 池 それは,とてもすぐにできたとは思えない。その後,年がら年 中争議をやるんです。ストライキの回数が少ないのは,中部の占領軍の中 佐か大佐かがストップ命令を出すからです。米軍のジープやトラックを造 っているので2.1ストと同じで,米軍が命令したらストなんかできないんで す。トヨタはストライキ賛成率が9割を超えてスト命令をするのですが,

そうすると占領軍がやめさせるわけです。朝鮮戦争開始後はもちろんのこ とですけれど,そういうふうに年がら年中のストライキは,少なくとも 1953年までは続いていたと思います。そんな簡単に石田退三との信頼がで きたなんて,とうてい思えないですね。喜一郎に関しては持っていたと思 います。

萩 原 もう一人組合の信頼の篤かった豊田英二さんがいますね。

小 池 彼はそれだけの力が当時はあったのかな。

萩 原 会社は従業員を解雇しないという文書をめぐって組合は法廷闘 争にうってでます。協定書に組合の正式なハンコがつかれていないという ことで,結局裁判所は協定書を無効とする判示をだします。

小 池 仮処分申請で裁判官がゴム印だから無効だと。でもそれはどち らに転んでも,大勢には影響がなかったように思います。

萩 原 50年争議についてほかに問題はないでしょうか。

石 田 争議のところはほとんど自分の勉強した範囲ではないので,そ のあとで少し議論はありますけれど。

(28)

萩 原 もう1つ,これは議論しにくいテーマですけれど,50年争議の とき組合内部のセクトはどうだったのでしょうか。全自動車(全日本自動 車産業労働組合)というのは3社の労働組合を中心にした産業別の連合体 でしたが,共産党の影響が強かった産別会議系の全労連に属していました。

右派の総同盟系ではないのです。レッドパージの人数などを見ますと,日 産労組は非常に共産党が強かったことがわかります。いすゞ労組をもかな り共産党が強かった。

トヨタ労組の内幕について書かれた本がいくつかでています。トヨタの 労務管理はえげつないとか,泥臭い労務管理がおこなわれていただとか,

あるいは非常にインフォーマルに共産党対策が取られていたとかいった,

トヨタの労使に関する悪口を書いた左翼の暴露本が何冊も出ています。僕 はそういうトンデモ本が好きで,ほとんど全部集めて読んでいますけれど。

(笑)

果たして実際はどうだったのか。非常に大雑把な印象をいいますと,ト ヨタの組合は,あまりセクト争いをやらなかったのではないか。だからど ちらかというと政治的にナイーブで,愚直な組合という印象が強いのです。

ほぼ当時の総評の民同左派の路線に沿って,平和運動やメーデーなどのい ろいろな活動をまじめにやっていた。共産党の国際派と所感派の対立とか,

社会党内の右派と左派の対立とか,共産党と社会党の対立とか,そういう セクト間の激しい抗争から距離をおいていた。組合内の政治は,トヨタの 場合は非常に小さかったのではないでしょうか。

小 池 私も50年のときは名古屋にいませんから。でも70年代,80年代 の初めまでいたわけです。そのとき中京地区というのは,同盟系や総評系 とかの間柄はわりと温和でした。僕は名古屋大学の先生ですから,そうい う労使の会合の議長や委員長をさせられましたが,そのときをふり返って 見ると感情的対立というのはほとんどない。圧倒的に繊維の地場ですから 10大紡がいっぱいあるし,中京5社がいちばん金持ちなんです。そういう 意味ではあまり党派性を感じない。それをあとから感じたのは京都に移っ

(29)

たときです。大阪で似たことをさせられて。大阪はわりとまじめにチャン バラをやるね。他方,名古屋は内部事情はそれほど知らないけれど,あま りセクトとか,そういうのではなかったんじゃないかという気はします。

よくわかりませんけれど。

官公労もわりと民間と仲良しなんです。官公労といっても,中央の官公 労は全国制覇で全国に命令するという感じですが,名古屋の官公労もわり と良識的でした。総評系,同盟系の争いというのは,名古屋に12年いたけ ど,あまり感じなかったな。トヨタは素直にそれの影響を受けたにすぎな いんじゃないですか。よくわかりません。

萩 原 50年争議のあとのことですけれど,特に賃金闘争では数年間ま だかなり激しい対立が続きますね。それが,1954年に1つの転機を迎える。

小 池 数字の上ではそうだと思います。

萩 原 労使共同宣言はもっとあとになりますけれど。

小 池 ずっとあとです。もっとはっきり言えば,54年から労使の共同 宣言までは生徒会労働組合ですよ。僕はちらっと1行書いているだけです けれど,要するに委員長は1年ごとに交替です。労使の共同宣言をやった 人が,初めて委員長を4年ぐらいやるのかな。

石 田 63年ですかね。

小 池 4年ぐらい委員長をやる中根(孟)が初めて出てくる。だから すんなり移行したという感じじゃないですね。

本書に対する批判─小池理論は生産管理を軽視していないか

萩 原 労使関係の転換過程はそのくらいにして,話題を変えましょう。

この1950年から1965年ぐらいの間の約15年間が,いわゆるトヨタ生産方式 が形成されていくプロセスですね。それと労使関係の転換が平行して進ん でいく。メモの5の「強い職場の構造」のほうに移りたいと思います。 

トヨタ生産方式については,研究書から実務書にいたるさまざまの本が それこそ山のように出ていますけれども,労使関係に引きつけて論じた本

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は非常に少ない。さきほど紹介しました佐武弘章さんの本がある程度労使 関係に言及しています。トヨタ生産方式というのは機械工場,エンジンや トランスミッションなどの駆動系部品の製造工場で形成されたといわれて います。例の後工程のほうが前工程のほうに部品を引き取りに行く方式も,

はじめは機械工場で導入されたといわれています。それからいわゆるニン ベンのついた「自働化」によって,エンジン部品の製造工程やエンジンの 組み立て工程を一つの流れにしていく,駆動系部品の製造工場にラインら しい流れをつくっていこうとした。「カンバン」と「ニンベンのついた自働 化」,トヨタ生産方式の2つの柱といわれるこれらの方式が,両方ともに機 械工場で試みられ,トヨタ生産方式の骨格が形成されていったとされてい ます。

佐武さんの本は,2台持ち,3台持ちや4台持ちなどの多台数持ちが,

どういうふうにして導入されていったのか,あるいはそれが多工程持ちに どのように移っていったのかに注目しています。しかし,誰がどのように して多工程もちを実現していったのかという点については,十分に議論は しておりません。

小 池 生産方式をやってもいいけれど,ここがおかしいとか問題だと いうのを,どんどんお2人に聞いたらいいんじゃないか。トヨタ生産方式 なら生産方式でいいけれど。

上 林 せっかく遠方の京都から東京くんだりまで来ていただいたので すから,石田先生から『強い現場の誕生』についての感想をお聞きし,ま ず全体像のお話を伺ってから細かいところにいったらいかがでしょうか。

小 池 もうズバリここがおかしいとか,そういうことをおっしゃって いただけたほうが時間は効率的ですね。

石 田 小池先生の前だからはっきり,自分がまだここは同意できない なというところを,率直に申し上げたいと思います。箇所がどことはあま り限定できないのですけれど。

1つは方法の問題です。例えば28ページの10行目に,「問題と変化をみ

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