点
著者 伊海 孝充
出版者 法政大学国文学会
雑誌名 日本文学誌要
巻 69
ページ 32‑43
発行年 2004‑03
URL http://doi.org/10.15002/00010087
京の五条橋での牛若と弁慶の避遁・主従の契りの物語は、唱歌などでも親しまれており、義経伝説の中でも最も人口に贈炎している。謡曲〈橋弁慶〉の場合は、その題材の分かり易さだけではなく、能の技法的にも「謡初心者用の」と形容されることがあり、明解さが特徴だといえる。しかしこの曲の成立を考えてみると、今ひとつはっきりとしない問題が残されている。それはく笛の巻〉との関連である。現在〈笛の巻〉は観世流の小書として残っており、この演出になると常の前場ではなく、常磐の教訓の段となり、曲の位も重くなる。しかし〈笛の巻〉は、単なる「小書」であったのではなく、本来曲自体の構成と密接に関わっていたとも考えられる。というのも、〈橋弁慶〉五段[サシ]の牛若登場の場面が、
謡曲〈橋弁慶〉の展開
一、〈橋弁慶〉成立に関する問題点 l牛若・弁慶魑遁讃の一視点Iし今宵ばかりの名残なれば川波添へて立ち待ちに月の光を待つべしと傍線部の文句は、〈笛の巻〉の四段[ロンギ]などにも見られ、常の前場ではなく、母の教訓に感じ入った牛若の姿を反映しており、明らかに〈笛の巻〉の内容を踏まえていると言える。ここから〈笛の巻〉を前場とする型が、〈橋弁慶〉の原型ではなかったかという仮説も生まれてくるのである。西脇哲夫氏は「謡曲「笛の巻」に見られるプロットが既にあって、当時の観客にとっては特に目新しいものではなかったので、「母の仰せの重ければ…」と言って牛若丸が登場してくることが説明なしで首肯できたのだとも考えられよう」(『笛の巻」出典孜」『観世』一九七七年十二月)と[サシ]は当時の観客の共通認識が基になっており、現行〈橋弁慶〉が原型であろうと推測ざ 次のような文句になっているからである。ざても牛若は母の仰せの重ければ明けなぱ寺に登るべ
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謡曲く橋弁慶〉の展開
れている。しかし特に後場へ反映されていない共通認識が、なぜ必要であったのか不明であるし、何より信多純一氏が言われるように「唐突感が強い」のである(『橋弁慶』の基底」『観世』’九八七年七月)。〈橋弁慶〉は成立当初から〈笛の巻〉と何らかの交流があったのは確かであるが、〈笛の巻〉が本来の前場であったかどうかは俄に定めがたく、この問題は定説がないのが現状であろう。さらにこれに関して、第三の選択肢を提示してくれる資料が存在する。それが野坂家蔵金春禅鳳本八郎本転写三番綴本(通称「厳島本」、以下厳島本)と法政大学能楽研究所蔵岩本秀清節付下掛り謡本(以下岩本本)である。この二本は曲構成が同一で、〈笛の巻〉が常の前場に接続する型、つまり常磐の教訓謂・弁慶と供の応対・弁慶と牛若の戦いの三段構成をとっており、現行の〈橋弁慶〉が一度はこの型を潜ってきた可能性を示唆してくれる。もしこの型が原型であったなら、前述の五段[サシ]の矛盾も解消するので、最も整合性があると言える。また同様の構成をもつ謡本としては、國學院大学蔵上掛り番外謡五十八冊本もあり、〈笛の巻〉から〈橋弁慶〉の常の前場に繋がる箇所に、弁慶登場の[次第]を挿入するなど、〈笛の巻〉の内容を含めて大きく整理している。〈笛の巻〉と常の前場を繋げる型が存在していたのは確実であるが、これが原型であったとは言い切ることができない。國學院本は明らかに後代の演出であるし、厳島本と岩本本は室町後期から江戸初期の詞章を伝えていると考えられるものの、素※I性に問題が残っている。やはり、丁寧な詞章分析を必要とす 〈橋弁慶〉の原型が現行と異なるなら、どこかにその面影が残っているはずである。現段階では、五段[サシ]がその一つであると考えられるが、その他に諸本異同が大きい一段の弁慶の[名ノリ]に注目してみたい。ここでの異同は、内容が大きく変わるほどの差異があるわけではないが、非常に不可解な点があり、考えるべき問題が含まれていると思われる。この[名ノリ]では、弁慶が宿願達成のために物詣を行っている趣旨が述べられるが、この点では諸本一致している。問題は、どこへ行き、どのような形式の物詣をしているかという点であり、その相違を整理すると次の六つに分かれる。A北野社に丑の刻詣をおこなっていたが、今日は十禅寺に向かう(松井文庫蔵淵田虎頼等節付本・法政大学能楽研究所蔵光悦流書体六十番綴本・法政大学能楽研究所蔵六徳本系金春流謡本など)B五条天神に丑の刻詣を行っていたが、今日満願のため五条天神へ向かう実理図書館蔵室町末期観世流本・現行観世流)C十禅寺に一七日の参鼈を行っていたが、今日からは北 ろだろう。以下の引用詞章は、〈橋弁慶〉が上掛り最古本松井文庫蔵淵田虎頼等節付本、〈笛の巻〉が同じく最古本厳島本に拠っている(適宜、漢字・濁点などを補う)。また謡曲は、〈橋弁慶〉〈笛の巻〉と表記する。
二、〈橋弁慶〉の諸本異同
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〈橋弁慶〉の構成を考える前に、文芸作品の中では牛若・弁慶の避遁場面をどのように描出しているか注目してみる。これには、「橋弁慶」「弁慶物語」「自剃弁慶」「弁慶物語絵巻」「天狗の内裏」といった御伽草子と『義経記』があるが、弁慶の出生讃から始まる長大なものが多く、二人の趨遁だけを描いてい 野社へ丑の刻詣を行う(厳島本・車屋本諸本・岩本本・現行宝生流),北野社に一七日の参鼈をおこなっていたが、今日からは十禅寺に参る(天理図書館蔵三百五番本・現行金春流)E十禅寺へ丑の刻詣をしていたが、今日は満参のために参詣する(伊達家旧蔵金春流謡本)F宿願の子細があるので、五条天神へ丑の刻詣をする(法政大学能楽研究所蔵明暦三年初夏外組本)このように、物詣の方法として「丑の刻詣」二七日の参籠」の二つ、場所として+禅寺・北野社・五条天神の三カ所が、六つの組み合わせで語られており、上掛り・下掛りの二系統に整理することもできない。なぜこのような異同が生じたのか、さらに追究する必要があるだろう。また前場・後場の繋ぎ目にある五段牛若登場の□セイ]も、内容に大きな差異はないものの、細かい異同が見られる。この点からも、この曲には構成面に大きな問題があることが推※2測される。
三、御伽草子の弁慶物 ※3るわけではないが、今回は特にこの場面に焦点を当てている。まずこれらのプロットを整理するために、(二避遁の場(一一)避遁の回数と日時(三)主謀者(四)笛に関する記事という五つの見地から作成したのが《資料》(本論の最後に掲出)※4である。これを基に前掲の作品を分類すブ○と次の四つに分かれうっ。【五条橋型甲】…五条橋での一回きりの魑遁とする。(「弁慶物語絵巻」「自剃弁慶」)【五条橋型乙】…五条橋での一回きりの避遁とする。(「橋弁慶」「天狗の内裏」)【五條天神型】…五条天神と清水観音での二回の避遁とする。冑義経記』)【北野社型】……北野社・法性寺周辺・清水観音の三回の遡遁として、清水観音での遭遇の後、五条橋に移り勝負する。(「弁慶物語」)以下、これらのプロットを詳しく検討してみたい。【五条橋型甲]この型では、五条橋で一回きりの魑遁を描出し、日付も記されていない。辻斬りをおこなっているのは義経であり、弁慶が退治にやってくるという展開になっている。さらにこの型からは、比叡・山王信仰の一端が窺える。「弁慶物語絵巻」は、異説もあるが、現存する弁慶物の中で最古の物語と考えられている。その前半に、叡山に預けられた弁慶が暴力を振るうので、衆徒たちが師匠の「きょうしん坊」に意見をする場面があり、その中で「たうざんは一ちごこさん
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わうの事なれば」という文句が見える。これは、当時比叡・山王信仰を語る上で、広く流布していた成句である。さらにもう一つ比叡・山王に関わる記述が、弁慶の叡山下山の場面にも見られ、衣服を強奪した春海坊に、「まづす出むるくどくなれば、さんわう七しやへことに御さんけい候へ」と山壬七社詣を勧められている。ここは、当時の叡山周辺における信仰の中で、強大な影響力があった社であり、この社の名がここに見えるのは、ごく自然な展開である。このように、「弁慶物語絵巻」からは、二つの比叡・山王信仰と関わる記述を抽出することができるが、全体的にはこれを語るための物語にはなっていないことに注意したい。信仰的要素は物語の隙間から垣間見られるものであり、主題ではないのである。この宗教的要素を作品全体※5のモチーフとしているのは、「自剃弁慶」である。この物語は、前述の「弁慶物語絵巻」に見られた二つの信仰的要素をさらに拡大したような作風になっている。まず二稚児二山王」であるが、「自剃弁慶」の中では衆徒の訴えの中に見られるのではなく、若一(弁慶の幼名)が衆徒たちへ反論を試みる場面で「一ちご、二山わう、と申て、御ちごをぱ、神よりも、あかめ申ことなろを」と、この成句の意義を叡山における稚児信仰に関係づけている。さらに弁慶下山の場面では、春海が弁慶に乞われて、かなり長大な叡山縁起を語っている。その後に、さらに弁慶は春海に山王七社参詣の先達をさせており、ただ参詣を行った由を記すだけではなく、社の本地などを詳細に語り、具体的に「山王七社詣」を描出している。このように、「自剃弁慶」は「弁慶物語絵巻」に隠顕する信 仰的要素を増幅させたような趣がある。ただ藤井隆氏が指摘されているように、「弁慶物語絵巻」の後半部分は「作者の独自の構想」「未刊御伽草子と研究(2)』解説)とも考えられている。しかし信仰的側面で僅かに関係を見いだせる両者が、牛若・弁慶の趨遁のモチーフを同一にしていることは注目してよいはずである。【五条橋型乙]このプロットは、五条橋での一回きりの避遁である点では【五条橋型甲】と一致しているが、牛若の辻斬りを父の十三回忌追善のための千人斬りとしている点と、叡山・山王信仰が見られない点が異なっている。[五条天神型]この型は『義経記』だけである。二人の耀遁は五条天神と清水観音の二回とし、それぞれが六月十七日と十八日となっている。そして弁慶が太刀千本奪いの主謀者となっており、千本目を奪おうと祈願した日に、牛若と避遁する展開になっている。また【五条橋型甲】のような叡山・山王信仰の影響を感じさせる場面は全くない。しかし宗教的要素は、次の二点から指摘できる。一つ目は二人の擢遁の日を観音の縁日である十八日としている点から、観音信仰の一端が窺える。そしてもう一つは五条天神信仰である。五条天神は『義経記』の中でも重要な「場」となっており、主神である少彦名神が義経の姿を連想させることが既に指摘されている(岩崎武夫氏「五条天神l疫神の世界I」(『試論中,近世文学』第四号一九八五年)).
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【北野社型]この型は「弁慶物語」だけであるが、この物語は前半と後半とでは成立過程を異にしていると考えられている。ます前半(弁慶の叡山下山以前)は、「弁慶物語絵巻」と酷似していることが指摘されている「未刊御伽草子と研究(2)』解説)。しかし後半は二人の耀遁の場を北野社・清水観音とする点や、弁慶を太刀千本奪いの首謀者としている点などは『義経記』と類似しており、蟹江秀明氏は『諸国修行以後」の『弁慶物語』には明らかに『義経記』の影響が見られる」と述べておられる(「弁慶の物語の形成」)。また最終的に五条橋に移り、勝負する点は、「弁慶物語絵巻」などの影響とも考えられ、【五条橋型※6甲】と【五条天神型】を折衷したような内容となっている。この「弁慶物語」では、作品の背景にある宗教的要素も両系統を折衷したような形で見られる。物語の前半では、「弁慶物語絵巻」と全く同一の叡山・山王信仰に関係付けられる文句があり、後半では清水観音を避遁場所としている点から観音信仰の一端が看取できる。しかし一回目の耀遁場所である「北野社」はどちらのプロットにも見られない。この事に関して徳田和夫氏は、室町末期から近世初期にかけて清水寺周辺と北野天神境内は、京における二大芸能興業地であったことと、そこを行き来する「鉢叩き集団」の活動の影響を指摘されている「北野社頭の芸能」(『芸能文化史』四号一九八一年ご・
四、〈橋弁慶〉のプロット 〈橋弁慶〉は五条橋での一回きりの耀遁とし、牛若を辻斬りの主謀者とする点は、明らかに【五条橋甲]のプロットになる。さらに牛若と弁慶の一騎打ちの場面などが、この型の「自剃弁慶」と近似している。〈橋弁慶〉A・年の齢十一一三ばかりなる幼き者御座候が薄衣をか
は希代なる少人かなとてける(八段[中ノリ地ご「自剃弁慶」囚たとへは、十六七の、小お B弁慶、すはしれ者よもの見せんと地謡、長刀や制引創川川刈回ⅡⅦⅢⅡⅡいでもの見せん手並みの程と斬ってかかれば牛若は少しも騒がず…(七段[掛ヶ合]、八段[中ノリ地ごCすがらんとするも頼りなくせんかたなくて弁慶 ・弁慶、
れとも、いなつまなとのことくにて、手にもたまらす とくなりをしよせて、 もって、きってまはろ口埆’弐五低加ロ判l司引切開刎則1コ ケ合]) とすれば不思議と外れ敵圀劃司団付刷訓に、てきをちかつけす ら蝶鳥の如くに候(二段[問答]) づき小太刀を持ちてべきかなど迫っ取り込めて討たさん供、謝訓呵加 たとひ蝶鳥の如くなりとても大勢にて州肺叩劇
小おとこなりしか、 斬ってまわり候ふはさなが
うたんとすれとも、手もと大せいよって、とらんとす 呆れ果ててぞ (二段[掛こ太刀を
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けるAは二段[問答][掛ケムロ]で、供の者が牛若の辻斬りの評判を弁慶に伝える場面である。牛若の様子を「蝶鳥の如く」と表現しているが、これと同様の形容が「自剃弁慶」囚にも見られる。牛若の年齢こそ異なるが、このような類似性は他の御伽草子との間には見られない。またB・口が二人の決闘場面の冒頭で、C・回がその結末であるが、戦い始めと終わりが同様の表現となっていることが分かる。前掲の藤井氏・蟹江氏の論考の中では、「自剃弁慶」の物語後半の独自性が指摘されていたが、このように詞章面において、〈橋弁慶〉とかなり接近しているのである。この「自剃弁慶」との類似性からもわかるように、〈橋弁慶〉は【五条橋型甲】と密接な関係があるが、この型の特徴である叡山・山王信仰の影響は感じられない。ただし、先ほどから問題にしている弁慶の[名ノリ]の部分から、その要素を酌み取ることができるのではないだろうか。この[名ノリ]では、弁慶の参詣場所として北野社・五条天神・十禅寺の三ヶ所があり、その異同に不可解さがあることは既に指摘したが、ここでは特に「十禅寺」に注目してみたい。
回 □
ば、たシかョちおとされ、 し、すきまもなくぞか鷺りける御さうしは御らんじて、されとも弁慶は、きじやうっよき、大ちからなれば、たシかひけるか、いかシしたりけん、長刀をう すはしれものよ、ものみせんとて、長刀をとりなを
手をひろけ、あきれはてシそ立たり
東山十禅寺前見物之、…(『二水記』大永二年一一一月一一一日条冑大日本古記録』所収岩波書店一九九一年))このように、粟田口には日吉十禅師を勧請した十禅師が存在し、『二水記』にも「東山十禅寺」と記されている。ここなら五条橋からも遠くはなく、〈橋弁慶〉の話の展開に合致する。また闘鶏(『二水記』)、宇治猿楽(『京都坊日誌』粟田薑蹟上巻云)など芸能にもゆかりのある社であったことも、〈橋弁慶〉とこの十禅師を結びつけたくなる根拠である。弁慶は叡山出身であったし、十禅師と叡山の結びつきは自明のことである。また当時十禅師は、山王七社の中でも「日本無双ノ霊社。天下第一ノ明神ナリト」冑厳神妙上といわれ、人々の渇仰を受けていた。以上のことを踏まえて考えれば、〈橋弁 この寺院は現在、京都府山科区に存在する。しかし、〈橋弁慶〉での「十禅寺」はこの寺院ではないだろう。というのも厳島本・京大本などでは「東山十禅寺」とあり、粟田口にある「十禅師」のことを指していると考えられるからである。・十禅師ノ社ノ吐北東ノ角其吐也。士人十蓮寺と呼び維新迄字地残れり。又一所分木町にもあり。又後世十禅師の社地に。神明ノ社ありしと。古圖に見ゅ。(中略)諸神冑新修京都叢書』第二十所収臨川書店一九七○年三・禁庭闘鶏如例云々、午後近邊令誘引六角上洛見物之、閃 禅師猿楽宇治猿楽有之 巻云。慈済僧正記云。永徳三年四月二日。十禅師祭禮如例。神輿修復厳麗也。於綱所。令二拝御一。同四日。州 記云。日吉十禅師東陽座主忠尋勧請給也
。「京都坊目誌下京第八厘之部』 。粟田蕾蹟上
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〈橋弁慶〉は全体的には【五条橋型甲】のプロットを備えていた。しかし[名ノリ]に見える「五条天神」と「北野社」はこの範晴から洩れる。五条天神は【五条天神型】、つまり『義経記』で一回目の魑遁場面となっており、太刀千本奪い達成のために、熱心に参詣する弁慶の姿が描かれている。これはく橋弁慶〉の冒頭とも重なるが、諸本でここを参詣場所としているのは、天理本以下、江戸以降の上掛り謡本だけである。つまり、後代に『義経記』などを参看して、改訂した可能性が高い。北野社は、「弁慶物語」の一回目の避遁場面となっており、【北野社型】の要素である。〈橋弁慶〉の原型が、すでにここを弁慶の参詣場所としていたかは、後節で検討するが、とにかく弁慶[名ノリ]に【北野社型】の要素が混在しているのである。また次の二点において、これらの型の影響が認められる。一つ目は、二人の魑遁の日時である。〈橋弁慶〉では、それを具体的には記していないが、本稿冒頭に掲出した五段[サシ]には「川波添へて立ち待ちに月の光を待つべしと」のように、避遁の日時を「立待月」、つまり「十七日」としている 慶〉で弁慶が、日吉十禅師を勧請した粟田口十禅師へ熱心に参詣していることは、ごく自然なことだといえる。つまり[名ノリ]に見える「十禅師」は、叡山信仰の一端が見える【五条橋型甲】と関係付けることができるのである。
五、【五条天神型】【北野社型】の要素 のである。牛若と弁慶が主従の契約を結ぶ日をこの日にしているのは、「弁慶物語」だけで、『義経記』は観音の縁日である六月十八日としている。ただし、『義経記』も一回目の邇遁日は前日の十七日であるし、観音の縁日は参籠などで、前日から賑わいを見せたので、やはり「十七日」は関係が深いのである。【五条橋型甲】には全く避遁日に関する記述がないので、〈橋弁慶〉でこの日を避遁日としているのは、【五条天神型】【北野社型】からの影響と考えられるのである。二つ目が、この[サシ]との関連性のあるく笛の巻〉である。〈笛の巻〉との同話が、【五条天神型】【北野社型】に存在するわけではないが、この三つに共通するのが「笛」という要素の重要性である。『義経記』での牛若と弁慶の趨遁場面は、牛若の笛を契機としており、重要な効果をもたらしているのは、改めて触れることはないだろうが、前述の《資料》で示したように「弁慶物語」でも笛が二人の避遁に介在しており、法性寺での二日目の避遁場面は、牛若の笛を契機としている。つまり牛若・弁慶の趨遁場面では、笛が重要なファクターとなっている。それに対して、〈笛の巻〉は牛若の笛の由来を語った物語である。しかし、その話が二人の避遁調と結びついているという点が重要である。信多純一氏が「これは全く私の推測であるが、橋弁慶の話柄の中に、母から大事な笛を貰う景を描出したのは、この局面で果す笛の役割の大きさのせいではないだろうか。」と述べているように(『橋弁慶』の基底」)、〈橋弁慶〉に〈笛の巻〉のような話柄が採られたのには、この場面に笛の存
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在が欠かせなくなっていったことが大きく影響していると考えられる。つまり、二人の趨遁讃に笛の由来謂を融合させたのは、【五条天神型】【北野社型】の影響とも解釈でき、この型の断片であるとも言えるのである。先行研究では舞曲の「笛の巻」「烏帽子折」との影響関係も指摘されているが、牛若・弁慶の避遁讃に「笛」の要素を投影しているという観点からいえば、やはり〈笛の巻〉には【五条天神型】【北野社型]などの※7影響もあったと考えられる。以上のように、本稿冒頭で指摘した構成上の問題箇所は、どこも[五条天神型】【北野社型】の影響が汲み取れるところなのである。但しこれらの要素が、曲の一部分にのみ投影されており、一曲全体に影響していないことが、この曲の原型を考える上で重要であろう。
ここで、曲全体に目を向けてみたい。まずく橋弁慶〉の構成を示してみる(厳島本のように、〈笛の巻〉が一段の前に接続すると仮定し、構成を挙げる)。(〈笛の巻〉…常磐の教訓・笛の由来(三条天神型】【北野社型】の影響)一段…弁慶が参詣をしている由を述べる([名ノリ]に【五条天神型】【北野社型]の影響)二・三段…弁慶が供に、五条橋に出現する「化生の者」の話を聞き、退治に向かうことを決める(【五条橋型甲】の 六、〈橋弁慶〉の変遷試論 内容)四段…間狂言(【五条橋型甲】の内容)五段…牛若登場S五条天神型]【北野社型]の影響)六段…弁慶登場〔五条橋型甲】の内容)七・八・九段…五条橋での二人の避遁・勝負・主従の契約【五条橋型甲】の内容)繰り返しになるが、この曲の内容からいえば、辻斬りをおこなっていたのは「化生のもの」と瞼えられている牛若であり、五条の橋での一回きりの迩遁となっているので、当然【五条橋型甲]の物語である。しかし、この曲には【五条天神型】【北野社型】の要素があり、それがく笛の巻〉二段[問答]・五段[サシ]であった。但し、これらの要素が〈橋弁慶〉成立当初から具備されていたかは疑問である。というのも、これらの要素は前述した通り、曲の一部分にしか反映されておらず(ゴシック体で示した部分)、曲を統一しているのは【五条橋型甲]のプロットだからである。そのため、〈笛の巻〉を常の前場に繋げると、五条橋の上での牛若像に矛盾が生じてしまうのである。五段[サシ]では、今までの行いを自省して、名残惜しさに橋へやって来た牛若像を描出しているが、□セイ]以降は急変し、[上ゲ歌]では「五条の橋板を轟ろ綴ろと踏みならし」と先の反省は消散してしまい、「化生のもの」の人格に戻ってしまうという矛盾が生じてしまうのである。つまり、〈笛の巻〉での常磐に意見ざれ反省した牛若と、弁慶と供が語る「化生のもの」としての牛若という二つの人物像は、決して統一できな
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い人格なのである。このように、厳島本の形態では明らかに戯曲的に破綻をきたしており、成立当初から、そのような無理な形態をとっていたとは考えづらいのである。こう考えると、曲の部分的な面に反映されている【五条天神型】【北野社型】の要素は、後代に挿入されたものではないかという推測が出来るのではなかろうか。そこで自ら〈橋弁慶〉の成立・変遷過程の仮説を立ててみたい。①【五条橋型甲】をモチーフとした〈橋弁慶〉の成立・前場は弁慶と供の会話二段[名ノリ]では弁慶は十禅師に参詣している。・後場は五段□セイ]から始まる。←②【五条天神型】【北野社型】的要素の摂取。〈笛の巻〉を常の前場に繋げる型を形成二段[名ノリ]を改変・五段[サシ]の挿入
←
③現行〈橋弁慶〉の型への再改変.〈笛の巻〉を削除.[名ノリ][サシ]は②のまま残る五条橋での一回きりの避遁のプロットであるのなら、【五条橋型甲]の影響下で作書された①が原型であろう。それには五段[サシ]はなく、弁慶の[名ノリ]も【五条橋型甲]に見える信仰を反映した「十禅師」だけを参詣場所としていたと考えたい。 次に②の段階で、〈笛の巻〉が常の前場に繋がる型に改作されたのではないだろうか。〈笛の巻〉は【五条天神型】【北野社型】の要素とはいえ、その内容は牛若が辻斬りを行っているという【五条橋型甲】のプロットを踏まえているので、①の型を受けて成立したと考えた方が自然であろう。このように〈橋弁慶〉が改作された背景には、二つの要因が考えられる。一つ目は信田氏の指摘通り、【五条天神型】【北野社型]系説話の興隆により、二人の避遁に介在する笛への関心が、聴衆に広く浸透したことであり、二つ目は舞曲にも見られる「笛の巻説話」の影響である。舞曲との前後関係を断定することは難しいが、当時広く流布していた説話であることは確かであろう。〈橋弁慶〉もそれを反映しての改作であったと想像される。だが〈笛の巻〉をそのまま接続しただけでは、後場以降の牛若像と齪酷が生じてしまうので、[サシ]を挿入したのではないだろうか。さらに〈笛の巻〉との接続部分である弁慶の[名ノリ]にも、【北野社型】などの要素を取り入れ、二つのプロットの融合を計ったと考えられる。ここの参詣場所が諸本で異同が大きいのは、後から手が加えられたためであると思われ、一見不自然に併存する「北野社」と「十禅寺」は、別系統の「信仰」を反映させようとした結果と考えておきたい。ただし、効果的な改作であったとは言い難く、不自然さが残ってしまったのである。そこで、もう一度①の型に戻そうとして出来たのが③なのではないだろうか。その時、|度②の型を経由しているので、一段[名ノリ]と五段□セイ]がそのまま残存したと考えられ4o
謡曲く橋弁慶〉の展開
ここまで、〈橋弁慶〉の展開を通して、弁慶・牛若の避遁譜を論じてきたが、最後にこの伝承自体への若干の卑見を述べておきたい。牛若の身体には二つの神格が見え隠れしている。一つは五条天神の祭神「少彦名神」であり、『義経記』に描かれている牛若の姿が、それと重なることは既に岩崎武夫氏が指摘されて る。また天理本で弁慶の供を「羽田十郎」としているのは、|度接続していたく笛の巻〉が分離したときに、そのワキ(義朝の御内に仕える者)の名だけが残ったためと想像される。さらに天理本などは、弁慶の参詣場所を「五条天神」の一ヶ所に統一して、不自然な二系統の信仰の併存を解消しようとしたと推測される。また五段□セイ]は、登場してくる牛若の人格が変化するたびに改変されたと思われ、試行錯誤した結果生じた異同と考えられる。この〈橋弁慶〉の変遷過程を時代的に特定することは難しいが、謡本の現存状況などから考えて、室町末期に③の型まで変化していったと考えられる。また資料から見ると、『自家伝抄』が佐阿弥作としている点、室町期の演能記録がすべて手猿楽によるものである点、江戸初期にはこの曲を金春流に取り入れた金春氏勝が八回、北七大夫が九回演能しており、観世が一例もない点なども、この曲の展開を考える上で大切な問題であると思われるが、これらの点に関しては別稿に譲りたい。
七、展望 いる(「五条天神考二。もう一つは「十禅師」という神格である。牛若・弁慶の避遁譜で五条橋を避遁場所とする話には、前述のように叡山・山王信仰の一端が看取できた。この信仰を起点に考えると、叡山の寵童であった弁慶が牛若と出会い、三世の契りを結ぶという物語は、叡山(弁慶)と十禅師(牛若)の紐帯の隠嶮とも解釈出来るのである。前述のように十禅師は稚児信仰として有名であって、その姿が現出される時は童形であることが多い。この十禅師の神格が具現化されたものが牛若であるとも言え、それと叡山を出自とする弁慶の避遁は、単なる「出会い」ではなく、叡山と日吉山王の一体性を物語っているように思えるのである。現段階では想像の域をでないが、今回の考察で見えてきた一視点として提示しておきたい。室町期おける牛若・弁慶説話は、複数の話柄が存在したと考えられる。これらが、様々な交流をみせ、〈橋弁慶〉や「弁慶物語」が誕生したのではないだろうか。このように考えるのなら、〈橋弁慶〉の成立当初の意義をいうのは、「荒法師と少年の斬合いを見せ場とする」(『能・狂言事典上といった点だけではなく、この説話自体の立体化に比重があったはずである。そのため、曲全体の構成が崩れてでも、新しい魅力的なモチーフがあれば吸収し、観客の前に現出させる必要があったのである。
《補注》※l岩本本は『蔵書目録附解題』(法政大学能楽研究所一九五四年八月)によると、金剛流の謡本と考えられている。但し、車屋本系の詞章と類似する曲もあるが、禅鳳本
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の写しと類似する曲もあるなど、問題点も残っている。また厳島本は、一応「金春禅鳳本八郎本転写本」となっているが、この奥書を持つ曲の方が少なく、無章句の曲や脱文などの欠陥が目立ち、その資料性を疑う必要がある。※2五段の□セイ]の諸本異同は次のようになっている。a夕雲の行方はそれか夜嵐の声澄み渡る秋の風(車屋本・岩本本・淵田本[音澄み渡る]・光悦流本[行方も]・厳島本[秋の暮己b夕雲の行方はそれか夜嵐の声たて添ふる秋の風(六徳系本・伊達本[秋のくれ]・三百五番本[夜嵐に])c夕雲や月もおそしと夜嵐に音吹きかへせ秋の風(天理本・野田本[夕波や])※3今回御伽草子などで使用したテキストは次の通り。「弁慶物語絵巻」「未刊御伽草子と研究(2)』所収藤井隆氏解説未刊国文資料刊行会一九五七年)「自剃弁慶」冑未刊御伽草子と研究(2)』所収藤井隆氏解説未刊国文資料刊行会一九五七年)「弁慶物語」「室町時代物語大成十亘横山重氏・松本隆信氏角川書店一九八四年)「橋弁慶」『室町時代物語大成十』横山重氏・松本隆信氏角川書店一九八二年)「天狗の内裏」「室町時代物語大成九』横山重氏・松本隆信氏角川書店一九八四年)『義経記』(岩波日本古典文学大系三七岡見正雄氏校注岩波書店一九五九年)※4徳江元正氏は、一「千人斬りの発起人・主謀者」、二「千人か千本か」、三「二人の趨遁場所」の一一一つを問題点として、橋弁慶説話を論じておられる(「辮慶二題」(『観世』 ’九六九年二・四月))。※5『自剃弁慶』は西尾市立岩瀬文庫所蔵本が唯一の伝本であり、「佛教的知識の豊富なことなどから僧侶、特に延暦関係の人の手」によるものと考えられ、「室町時代後期か末期頃の成立」と目されている「未刊御伽草子と研究(2)』解説)。この物語は、弁慶の出生の由来・入山讃の類似から『義経記』の影響下も指摘されているが(「弁慶の物語の形成」蟹江秀明氏『湘南文学』十三号一九七八年)、本論で触れているように、「弁慶物語絵巻」との類似性も認められる。※6北澤良子氏は弁慶の胎内年月が最も長い点や義経との避遁の回数が三回になっている点から、「弁慶の物語としての完成は『弁慶物語絵巻』によってなされたと言えるだろう。そして、それをもとに空想や滑稽性がおりまぜられ、展開していったのが『弁慶物語』なのである」と弁慶伝承の中で末流に位置付けられている(「弁慶説話の成立と展開」『学海(上田女子短期大学)』二号一九八六年)。※7牛若の笛を弘法大師伝来のものとする点は、「笛の巻」「烏帽子折」と類似しており、未来記の体裁をとっている点は、「未来記」と類似しているからである。だがこれらの舞曲には、〈笛の巻〉のように避遁讃と連接する型や常磐の教訓調を含むものがなく、その影響関係は俄に定めがたい。これについて西脇哲夫氏は〈笛の巻〉が舞曲の影響下にあることを示唆されている(「「笛の巻」出典孜」)。
(いかいたかみつ.博士後期課程三年)
4Z
謡曲く橋弁慶〉の展開
《資料》牛若・弁慶避遁讃比較表
日本文學誌要第69号 43
御伽草子
「天狗内裏」 御伽草子「橋弁慶」 『義経記』巻第三 御伽草子「弁慶物語」 御伽草子「自剃弁慶」 御伽草子「弁慶物語絵巻』 〈橋弁慶〉
五条橋 五条橋 ①五条天神②清水寺 ①北野の社壇②法性寺辺り③清水寺・五条橋
一五回条 橋
五条橋 五条橋 遅遁の場所
一回日付記載なし 二回①六月十七日②六月十八日 三回①六月十五日夜②七月十四日夜③八月十七日夜 日付記載なし 一回日付記載なし |回立待月の頃 邇遁の回数と日付
【義経の千本斬り】父の十三回忌のため。千人目に弁慶と出会うと予言される。 【義経の千本斬り】父の十三回忌のため、平家を狙っていたが、千人に達しないため、他の人々も狙う。 【弁慶の千本奪い】弁慶が千本の太刀を奪い取り、重宝にしようとしていた。千本目を狙う時に牛若と出会う。 【弁慶の千本奪い】平家から太刀を「千ふり」奪い、千本目を「おとにきく、源九郎御さうしのこかねつくりたち」を奪おうと企てる。 【義経の辻斬り】理由の記載はなし。弁慶が「十六七の小おとこなりしか、こ太刀をもって、きってまはろは」と聞き付ける。 【義経の辻斬り]理由の記載はなし。弁慶が「五でうのはしのほとりにて夜ごとにっじきりをするものあり」と聞き付ける 【義経の辻斬り】惜しさ」 し。力し 、避遁当日は「都の名残のために、五条橋にやって来る。 辻斬り・太刀奪いの主謀者
なし なし ①②との趨遁の時、笛の音が契機となっている。 ②の避遁の時に、笛が契機となっている。 なし なし 〈笛の巻〉で弘法の笛が牛若に渡される。 笛の記事