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ソ連崩壊・解体論をめぐって : その序論的覚書

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著者 加納 格

出版者 法政大学文学部

雑誌名 法政大学文学部紀要

巻 49

ページ 163‑198

発行年 2004‑03‑02

URL http://doi.org/10.15002/00003998

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163ソ連崩壊・解体論をめぐって

ソ連邦が崩壊して十年以上が経過した。崩壊は、既に所与の事実となったが、その様々な側面と全体としての意味

をロシアの歴史において、また与えた影響ゆえに世界史において位置付けることは、なおも大きな課題である。そうした性格を持つ仕事は、この間既にいくつかなされてきた(例えば⑳、⑭。以下九数字は参考文献の番号、漢数字は

頁数を表す)。しかしながら、そこに含まれる思想、政治、そして社会主義、ユートピア、共同体といった人類史に 関わる問題の大きさの故に、作業はそれほどの進展を見せていない。例えば、わが国におけるロシア史研究の最も代

表的な学会誌である百シァ史研究」でも、ソ連社会主義の最後の時期を扱った論考は、わずかしかなく、また旧ソ

連・地域研究の性格を持つ日本国際問題研究所の「ロシア研究」も、ソ連解体十年の節目にあたる二○○一年秋号は 既にエリッィン後に関心を移して、プーチン政権をテーマとしていた。こうした点から読みとれるのは、ソ連崩壊後 のロシア研究は、勿論そこに社会史などの新しい問題設定とアプローチがみられるにせよ、大まかにはロシア帝国期

[はじめに]

ソ連崩壊・解体論をめぐって

lその序論的覚書

加 納格

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を一つの群、ソ連スターリン期を一一つめの群、そしてソ連解体後の現状を三つめの研究群と分かれる傾向があり、ソ

連の崩壊と解体は、さして主たるテーマとなっていないということである。

振り返ると、ソ連末期のペレストロイカは、狭い意味でソ連地域を研究対象とする者だけでなく、広く社会一般の 関心を集めた。なぜ関心があれほどに高まったかと考えると、それは、ソ連という国家が冷戦下の国際政治に占めた ウエイトの大きさに行き当たると共に、スタンスは支持、好意、嫌悪、拒絶とさまざまであっても、やはり社会主義 体制そのものへの関心、及びそれをよかれ、あしかれ体現したソ連という国家への関心が存在したからであろう。そ してそこには、人間の精神的な特性として現状からの脱出志向、「ユートピアニズム」への関心が働いていたのでは ないだろうか。ユートピア、もしくはアンチ・ユートピアとしてソ連が眺められたが故に、改革Iペレストロイカへ の関心は、狭い専門家の枠を越えて社会現象となったのであり、その後の旧ソ連地域への関心の急速な低下は、この ユートピア性そのものの喪失から説明されるように思う(③)。そう考えると、ソ連崩壊をめぐる問題は、単に一つ

の国家体制の終焉にとどまらない、広い歴史的、社会的領域に関わるといえるのである。

小論は、そうした関心をもちながら、ペレストロイカとソ連の崩壊、解体を考える作業にとりかかるため、同時進 行的に、あるいは事前、事後に行われた研究を、国家体制、国家構造についての議論を中心に概観することを目的と している。先に述べたように、ソ連末期をロシア史、世界史に位置付ける作業は、まだそれほど目立ったものではな い。これは、いまだ客観的な資料が不足する状況では手を触れるべきでないという禁欲的な姿勢の表われとみること ができる。しかし、ロシア研究が否定的にせよ、肯定的にせよソ連という国家の存在を前提にしてきた以上、そのソ 連を歴史的に位置付け直すことが必要である。小論は、そうした作業のさらなる前段階として位置付けられるもので ある。以下、第一章では主に崩壊前に書かれたソ連体制論、第二章でソ連解体をめぐる議論、第三章でソ連解体後ロ

シアの連邦形成をめぐる議論を検討する。

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165ソ連崩壊・解体論をめぐって

成立から二世代の間にソ連は大きく変化し、それに応じて論じ方も変わった。そうした論説を振り返ると、社会主義体制で達成したもの、逆に失ったものの評価が分かれるが、ブレジネフ時代末期に体制が行き詰まりを見せ、何らかの改革を必要としていた点では多くの論者に違いはない。変化を視野に入れながらソ連論を見た場合、三つの焦点を看取できる。第一に歴史性もしくは個性を重視し、一九一七年革命以前のロシア帝国の歴史的要因がソ連社会、政治体制を規定したとする見方、第二に西欧体制との差異性、さらには異質性を強調する見方、そして第三に収敵性、同一性の要素を強調する見方である。この三つの焦点は、裁然と区別されている場合もあれば、複数の焦点が強弱を置いて組み合わされているものもある。第一の焦点である歴史性を強く押し出した議論は、ベルジャーエフへの関心の広がりなども示すように現在では数多いが、ここではスラヴ派、わけてもその主張の一貫性からソルジマーニーツィンの論説を挙げておきたい。フルシチョフ失脚後ネオ・スターリン主義の性格を強めたソ連当局とソルジェニーッインの対立は、周知のようにノーベル文学賞受賞、さらに「収容所群島」出版問題をめぐり最大の緊張に達した。そうした状況で公刊された「ソ連指導者への手紙」は、ソルジェニーッインのソ連体制に対する究極の弾劾という性格を色濃く有していた。そこでソルジェニーッインが求めたのは、党指導部によるマルクスⅡレーニン主義イデオロギーの放棄と大国政策の転換であった。この提起は、国民党に代わる中国共産党の勃興をソ連外交の失敗に起因すると説きながら、他方で国際共産主義運動の領袖の地位を中国に譲るよう求めており、屈折した性格を持っていた。またこの書簡は、「先進的イデオロギーの黒い旋風は、前世紀の末に西欧からわが国に襲いかかり、われわれの魂をしたたかに引き裂き、荒廃させた」と述べて T]ソ連体制論の整理

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166

その後、国外追放を経て帰国後展開することになる政治的主張を早くも明示しているこうした考えは、当時「異論派」とされていた人々の間で波紋を呼んだ。サハロフは、とくに他の民族を考慮せず、ロシア民族のみがスターリンの圧制の被害者とする論述、また専制をロシアの運命とした部分については強い不満を表したといわれる(⑳七○)。この軋礫は、後の、殊にペレストロイカ期に生じる体制批判派の分化を既に指し示している。第二の差異性、もしくは異質性を強調した見解の極みは、やはり米ソ冷戦を背景にして主張された全体主義論といえよう。プレジンスキー、フリードリヒの有名な定式化では、全体主義体制を他から区別する指標は、①全体主義イデオロギー、②独裁者個人が指導する単一政党、③秘密警察、④マスコミへの独占統制、⑤武器の独占、⑥組織の独 ソルジェーーーツィンの以上の議論は、産業発展主義の限界から維持的発展を説くのであり、環境論という観点からいえば現代的で普遍的な意味を持っている。しかし、この思想は、また民主主義をも西欧発展モデルとして否定するものであった。すなわち(米国のようじ四年ごとに全国民が選挙戦にかかりきりになったり、戦争のざなかに国防省の文書を盗み出した者を無罪とするような、さらに少数党によって勢力関係が左右され、自らの分け前だけを図る職能集団が横行するような体制について議論する必要はない。ここでソルジェニーッインは、飛躍して専制がロシアの運命だと提起する。ロシアは専制を運命付けられており、問題は「いかなる専制」なのかである(⑨二五、二八、 マルクス主義を批判した。マルクス主義批判は、究極のところ西欧発展の基盤である産業主義、科学技術、その進歩信仰への批判に結びついており、文明論的展望を持つ。すなわち「無限の進歩は、熱にうかされた者の神話」であり、「経済成長は不必要であるばかりでなく、破滅の因となる」、必要なのは、「恒常的成長の経済ではなく、恒常的水準維持の経済」である。このためにロシアは東欧、ムスリム圏から後退する代わりに東北地域に進出しなければならなの運命だと提起する。

(1) 六一二-六四、六六)。

し、

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167ソ連崩壊・解体論をめぐって

しかし、こうした違いはあるにせよ、全体主義論は、この体制が二十世紀以前には存在しなかった「新奇な」性格を持つという点では共通した評価を有している。アーレントによれば、全体主義支配とは「無法」Ⅱテロルの支配であって、イデオロギーがそれを可能にし、その中に住む人間とは無関係に「支配している法則に順応して動く世界を作り出すことができる」ものである。このイデオロギーの表れがナチズムの人種主義、ポリシエヴィズムの共産主義であり、まったく類例のない歴史現象、運動、つまりはヨーロッパ史に異質の政治体制を生んだのである(①第三巻二七八)。これらの論者によれば、全体主義は、スターリン時代に成立し、その死後も変わらずソ連体制の根幹を成 動員、一いよう。 占的統制の六点であった(⑪)。この指標は、ソ連を全体主義として論じる出発点としてしばしば用いられてきた。しかし、この議論は、また要素の羅列と暖昧さのために支持者からも批判を受けてきた。シャピロによれば、五十年代に打ち出された「六点症候群」は既に分析の妨げである。なぜなら体制の根幹といえる「輪郭」と、用いられる「支配の道具」が区別されていないからである。「輪郭」とは指導者の存在、法秩序の従属化、私的道徳に対する統制、動員、大衆的正統性であり、「道具」とはイデオロギー、政党、国家行政機構である(⑦三五)。この批判はあたって 第三の収敵性の見解としては、古典ともいうべきベルのイデオロギー分析がある。ベルによれば、史的唯物論は、産業社会化、歴史研究の深化、国際共産主義運動の多中心化といった要因によって変化を求められている。とりわけ産業社会化は、資本主義と社会主義とを問わず、類似の様相を社会に生み出す。重要なのは、マルクス主義のいう私有か、国有かといった所有のあり方ではなく、経営の社会にとってのあり方、社会的機能であって、経営は技術の関数となる。「産業社会は自然と労働に対する新しい態度」によって特徴付けられる。この社会では専門的技能と教育が社会的移動の基準となって、技術、専門的知識を持つ「新しい階級」が支配的となる。そして政治体制は諸集団が している。

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ベルは、産業社会による社会発展のこうした同質化とともに、ソ連における現実政策の変化と人々の意識の脱イデオロギー化にも注目した。前者は、消費財分野においては計画経済が消滅し、社会主義的市場経済理論創出の動きがあること、労働価値説が事実上放棄され、利潤尺度が導入されようとしたこと(リーベルマン改革)を指している。後者は、統一教義としてマルクスⅡレーニン主義が解体しつつあり、「西洋思想の多様な伝統」を再統合する可能性 特権配分を求める競争の場となり、経済が政治に優越するのではなく、政治こそが経済に対して優越する。「社会の官僚制化」という過程は資本主義にも社会主義にも共通するのであって、資本主義から社会主義への段階移行は生じ

雁史性(側性)

驚異性(異質性)

リヤヒ(収敬fli

咽尺度が導入されようとしたこと(リーベルマン改革)を指している。一義が解体しつつあり、「西洋思想の多様な伝統」を再統合する可能性が表われたことを意味している。イデオロギーのこうした解体を受けて人々は、現実社会において「極限状態を生きる」のではなく、「仕事・家庭。近隣・友愛クラブなどに生活を区分」し、部分において生きている。つまり、国家イデオロギーが個人の生活を規定するような社会ではなく、「部分」が許容される社会、一種の市民社会的なあり方がソ連においても出現しつつあると見るのである。他方で、もしもヨーロッパ知識人のコンセンサスが福祉国家の容認、権力の分権化を望ましいとする志向、混合経済体制、多元的政治体制にあるならば、ソ連社会は、ヨーロッパ社会と収敵する方向に向かっているのである(⑰二六二)。以上の三つの立場は、相互排他的に上図のように示すことができよう。しかし、それを組み合わせて様々な議論が成り立つことになる。

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l的ソ連崩壊・解体論をめぐって

その中で、ロシアの個性と専制要素を重視してヨーロッパ的発展との相違を見る立場は、しばしばソ連体制の権威主 義的性格をロシア帝国の皇帝専制統治から継承されたと説明してきた(辺AB)。その代表的論者であるパィプスは、 一九世紀八十年代までに、ロシア帝国には政治を政府の排他的領域とし、その排他性を政治警察の活動によって守る 警察国家の諸要素が存在するようになったと述べている。そうでありながら、外国旅行などの抜け道があった帝政国 家から、権力掌握後まもなくしてボリシェヴィキは、それまでの抜け道を閉ざして警察国家の技術を採用した。一九 一一七年刑法典の反国家罪条項は、「定義の幅においても、刑罰の過酷さにおいても帝政下に導入されていたものと実 態的にはまったく変わっていなかった」。ボリシェヴィキにとって非常事態、臨時法のみが「知っていた唯一のロシ

(ど)

ア憲法」であって、彼らの体制は「帝政のミラー・イメージ」だったのである(⑲一一一一一、一一一一七-一一一一八)。 バイプスの議論は国家性格に着目する議論だが、ダニエルズ、ウエッソンはボリシェヴィキが帝政期の政治文化を 受け継ぎ、体制化したと論じた。彼らの議論の出発点は、レーニンの党組織論に置かれている。ウエッソンによれば、 ソ連体制の一つの特徴は、ボリシェヴィキが当初から持ってきたエリート性Ⅱ前衛党概念と、反西欧的志向を体制化 した点であり、それは機能的には「伝導ベルト」的な集権体制によって担われている。もう一つの特徴は、党の支配 エリートを越える大きな支配集団としてロシア人が存在することである。.九一七年以前にはロシア人は、専制を 帝国をまとめ上げるための唯一の手段として受け入れた」が、「今彼らは、同じ理由で党の支配とそのイデオロギー を受け入れることを求められている」(⑳’’七三’二七五)。これに対して、ダニエルズは、レーニン主義とロシアの 専制的な習慣の継続という点で論点を同じにしながら、あわせて内戦の影響と工業化社会が伴う一般的趨勢を指摘し ている・ロシアは、西欧の外にあって西欧文化の衝撃からそれに沿って自らを再構成しようとした最初の国であり、 それは「競争の異常と独立的労働組合から自由であるので実際にはより完全に官僚的となった」。また新参の工業 国であるが、「社会的秩序の集中化への適応と近代工業の持つ規律的論理」において他の諸国を越え出ることになっ

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ることを示したエリートⅡ大衆論である。ブレジネフ憲法の「全人民的国家」論に対してヴオスレンスキーは、その |っの見方は、社会主義の平等主義の建て前に対して「現存する社会主義」に西側と同じく支配エリートが存在す

てとられるアプローチは多様となる。

ーとしてのマルクスⅡレーニン主義の枯渇という点については共通しながら、西側体制、「近代化」への態度によっ 性格を持つとする見方を見ておこう(辺CA)。大まかには「近代化論」と一括できるこの見方は、国家イデオロギ 最後に、歴史性が与える規定的影響を認める点でベルとは異りながら、なおソ連の発展方向としては西側と同様の 一元的社会から西側が特徴とする多元主義へ変化すると理解する点で、図の辺BC上にある見方ということになる。 このハブの議論は、ブレジンスキーらの全体主義規定が既に有効性を失ったとする点ではシャピロと一致するが、 じて表明されるという点で、多元主義は「制度的多元主義」の特徴を有するのである(⑯五一一○、五四七、五四八)。 多元化を伴う。しかし、これを西側社会にあるような利害の多元主義として理解することはできず、利害が制度を通 主義」による理解である。すなわちフルシチョフ解任以降、ソ連では「権力の拡散」が起こっており、それは利害の 多くの同意を得た全体主義モデルは役割を終えた。代えてハブが提起したのは、よく知られている通り「制度的多元 衆化、政治蕃察の役割の限定、マスコミの一定の開放、非正統思想の一定の通流である。ハブによれば、六十年代に とずれを生じたとする。すなわちイデオロギーの弛緩、後継指導者によるスターリン的な指導方法の放棄、政党の大 主張された。ハブは、スターリン死後プレジンスキーらの全体主義の「六点症候群」の内四点が既にソ連社会の現実 これに対して、体制の異質性を踏まえながら、時代の推移と共に同一性の要素が強まるとする見方がハブによって が、いずれも歴史性がソ連体制の専制的性格を生んだ大きな要因となったという点では、一致するのである。

(細)

ソ連体制の特徴とする点に意味がある。パィプス、ウエッソン、ダニエルズの議論は、以上述べたような相違を持つ

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た(⑫一一一一一一一’一一一二五)。ダニエルズの議論は、経済の近代化、工業化のプロセスが持つ普遍的性格の極端な表れを

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17lソ連崩壊・解体論をめぐって

体制にノメンクラトゥーラという特権層が存在していることを明らかにした。それによれば、共産主義は、「一つのエピソード」であって、「新しい支配者が古い支配者を土台から覆すための挺子」であり、「国有化は搾取の廃止ではなく、単なる形態の変化」である。搾取のこの維持によりノメンクラトゥーラは、剰余価値の分け前を個人的に受け取っている(②一一三、一九一)。これは、いわばユートピアとしての社会主義イデオロギーを裏返して、西側の社

会と違いはないことを示すものであった。第二の見方としては、ソ連を現代国家が直面する問題を共有するとみる考えである。ブレジネフ末期を分析したピアラーは、ソ連はかつて待っていた魅力を消失し、そのイデオロギーは枯渇したとする。またバーンズは、八十年代初めにソ連が変革を必要とする理由について、それは伝統的社会の近代化に成功し、経済成長を長期にわたり推進したこと、民族問題の解決とはいわぬまでもその安定に大きな精力を注いできたことから生じたと述べている。西側社会でも七十年代以降国家統合に対してマイノリティの異議申し立てが増加したが、これは、近代化のもとで東側、西側を問わず同様の問題に直面する現代国家と社会への共通の関心でソ連を見る立場であり、いわば社会主義という「ユートピア」を低める立場ということができる(⑧上四八、下四○三)。第三の見方は、二十世紀という時代の中でとらえる見方である。前世紀の特徴の一つとして国家の役割を重視する

スティーアィズム「国家中、心主義」があげられるが、その個別の表れとしてソ連が理解される。アンリ・ルフェーブルは資本主義でも、

社会主義でもない新しい生産様式が世界に広まりつつあり、それは「国家的生産様式」であるとした(⑱一五六)。

和田春樹は、この見方を発展させ、レーニンはドイツ戦時経済の国家独占資本主義を革命国家が受け継ぐべきものとみなしたと考えた。和田によれば、レーニンが打ち出したのは、「国家主義としての社会主義、あるいは社会主義を目指す国家主義」であった(⑫二八一、後に⑭、また⑮)。第三の見方に関わりつつ、それを受けた見通しは、石井規衛、塩川伸明によって提出されている。石井は、ソ連社

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会主義を十八世紀から二十世紀までの世界の「一種の縮図」としてとらえる文明論的な観点を提唱した。それによれば、十九世紀は「バクス・プリタニカ」、二○世紀は「パクス・アメリカーナ」の文明として位置づけられる。そして「十九世紀イギリス的なもの」に対抗したのが「ドイツ的なるもの」、言い換えると「初期現代」だったのであり、その一つの表れが「文明としてのソ連」であった。ここで考察されているのは、二十世紀に至り全面的にその姿を現した「大衆社会」である(⑪)。また塩川伸明は、経済、政治、文化の広い範囲にわたって「現存した社会主義」の原理的考察を行なった。それによれば、ソ連にとどまらず社会主義体制は、大多数が「国家権力を挺子とした強行的近代化」を遂行した。この場合「近代化」とは、社会経済的には「工業化・都市化・公教育普及」、政治的には「国民国家」化を中心概念とし、近代的官僚制、財政制度、国民軍創出、「国民」観念成立、政治参加拡大などの要素で定義される。(⑳八三、二九九、三一八)。以上からは、一部を除けばソ連体制論は、近代化論の枠組みで展開されてきたということができる。社会主義社会一般の特徴とされた「不足」経済、「やみ経済」、また「自由の不足」も、その「不足」、「不十分さ」はある意味で近代西欧基準からする判断でもあった(⑤)。また全体主義論から、ソ連を近代化をとげた国家の一つのヴァリエーションとして分析する者が出てきた。本家本元ともいえるブレジンスキーも後には、共産主義の複数政党制民主主義への発展と、逆に複数政党制民主主義によるマルクスⅡレーニン主義の穏健で建設的な側面の取り込みを唱え、地球規模の社会民主主義を展望するようになったのである(⑯三四三)。しかし、他方で一部を除いて、以上のソ連分析で論じられなかったのは、連邦体制に関する議論である。ソ連解体後の議論である塩川の議論、及び歴史実態分析を抜きにロシア人支配という帝国支配を想定したウエッソンを除けば、民族問題は、分離・独立問題、人権擁護を課題とする社会運動として論じられてはきたが、ソ連体制固有の問題とし(4) ては分析されることは少なかった。これは、一党体制という統治のあり方が「国家体制」として連邦制の問題を検討

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173ソ連崩壊・解体論をめぐって

する志向を疎遠としたからだと思われる。そしてこの事情は、ペレストロイカが始まった後も、関心は主にソ連体制 の民主化如何に向けられたので大きくは変わらなかった。このためゴルバチョフを評して複数政党制度を導入する リベラルな民主主義者ではないといった内容の議論にとどまっていたブレスラウァーは、五年後にはソ連解体を踏ま

えてソヴィエト研究の反省を語らねばならなかった(⑭一○、⑱一一三八)。

こうしてソ連体制とその統合、就中連邦制度の問題は、民族問題としては指摘されながら、国家解体につながる問 題としては認識されてこなかった。これは、まさにペレストロイカの過程において展開した問題だったといえるので

ある。

ソ連共産党書記長として臨む第二七回党大会の直前、八六年二月にゴルバチョフは、フランス共産党機関紙「ユマ ニテ」のインタビューに応じた。その中でインタビュアーは、「ソ連ではスターリン主義の残漣は克服されているの か」とソ連におけるスターリン主義の存在を問うた。これはもちろん当時国際的な評価を高めていたゴルバチョフの 改革性格を計る意味を持っていた。対してゴルバチョフの答えは、ヨスターリン主義」とは共産主義に反対するもの によって考え付かれた概念」であって、ソ連及び社会主義全体を「黒く塗りつぶすために広く用いられている」とい うものであった(⑮’六二)。この後ゴルバチョフの姿勢は大きく転換し、八九年十一月に『プラウダ」に発表した 論文では「スターリン体制」、「スターリン主義」という言葉を繰り返した上で、「出来合いの図式に社会を縛り付け、 生活や現実を「プロクルステスの寝台」の図式に追い込む」やり方がスターリン主義の特徴であると述べた(⑥一一三

○)。言説のこの移りかわりにソ連体制が経過した変化の大きさがある意味集約されているといえよう。そしてその [Ⅱ]ソ連解体論

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九五年から九七年にかけてロシアで行われた世論調査によると、「革命」後の経済改革について肯定するものは最大一九%、最小二%であるのに対して、否定するものは最大五二%から最小四七%に分布し、調査対象者のおよそ半数が政府の経済改革を否定的に見ることとなった(⑳七)。この否定的評価は、九二年から始められた経済改革が結局ソ連時代に党、行政、経済機関の要職にあった者たちに大きな個人利益を与えるものだったからである。ソ連時代の最末期を含めて以降の過程をノメンクラトゥーラによる革命だったという意見は、情勢が落ち着き、エリッィン政権による経済改革の実際が明らかとなるにつれて定着した。そうした立場に立つ論者の一人であるコッッは、グラースノスチ政策の下で急進化した若手知識人は自由市場と政治的、市民的自由を短絡的に結びつけ、エリッィン政権は「ショック療法」を彼らのイデオロギーによって推進した

としている。それは、価格自由化、金融・財政緊縮による経済安定化、国有企業の民営化という新自由主義経済政策 しかし、後〈しても、革〈ぱならない。 1.改革の意味づけをめぐって九一年八月の衝撃的なクーデター未遂事件直後に聞かれたのは、「市民の革命」という評価であった。存在しないか、未成熟と考えられていた「市民層」がクーデターに立ちふさがったからである(⑬)。この見方は、何らかの組織に属して動員されたわけではない人々が結集したという点で、ある面では当時の激動をとらえているといえるが、しかし、後の展開は、そうした見方に疑問を投げかける。権力の転換という点で「革命」という規定は認められるとしても、革命の性格を決するのは、むしろその後の展開だからである。つまり誰がここから利益を得たかを検討せね 二年後にソ連は解体を迎えた。これは、同時にソ連が具現した「社会主義」の終焉、そしてより重要だが、一つの時代の「ユートピア」の終焉をも含意していた。それを前提にして解体に関わる見方をいくつか見ることにしたい。

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175ゾ連崩壊・解体論をめぐって

社会主義にシンパシーを明らかとするコッッとは異なるが、ハブもソ連の改革失敗と解体について似たような考え を表明している。それによれば、九○’九一年に起こった出来事は、第一一のロシア革命であり、その性格は一九一七 年革命よりも、また一七八九年フランス革命よりも広範であった。それは、「真の中産階級の革命、つまり官僚、生 産手段を管理するブルジョワジーの革命」、「農村住民から都市住民に移行した人々の革命」である・中産階級とは、 党官僚、ノメンクラトゥーラと呼ばれていたものにほかならない。ハブの考えでは、経済改革については、ショック 療法を断行したエリッィンと、短期間の市場経済移行を唱えたゴルバチョフの基本的な考え方は、民営化を強調する 点で変わりなく、寧ろ希望は急進的な市場化ではなく、国営企業の漸進的な改革を提起したルイシコフにあった。そ れは、強力な国家が経済パフォーマンスに大きな役割を果たすという認識に基づいており、ハブの考えでは、中国の 改革モーァルに近い。ゴルバチョフは、官僚個人のインセンティズムを理解しておらず、この意味でマルクス主義のア を柱としたが、結果として「新国有企業法」、「個人営業法」による「やや急進的な改革」が行われていた八九年まで は鈍化にとどまっていたロシア経済は、破滅的に収縮した。そしてこの「ショック療法」から旧国営企業の管理職は 利益を得たのに対して、多くの国民は生活水準の低下を余儀なくされた。改革以前には十分比率で最上位所得は最下 位の四・五倍に過ぎなかったのが、一一一一・五倍となり、全体の一一○%の最高所得層が国民所得の四六・六%を占める ようになった。所得格差のこうした拡大に相伴ったのが平均寿命の低下であった。男性の場合それは、九○年の六 五.五才から九四年の五七・一一一才に短期間に急激に低下した。ソ連の場合、男性の平均寿命は女性よりも七~八才短 かったが、それでも五十年代以降ほぼ一貫して六一一一才前後を維持してきたので、エリッィン政権下の経済改革はロシ ア社会に破滅的な損失を与えたといえる。コッッによれば、九一年夏から年末にかけて進められたソ連の解体過程は、 ノメンクラトゥーラ階層内部の権力闘争という性格を持った「上からの革命」だったのである(④五○、一一一一、一一

八○、⑰四○九)。⑰四○九)。

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ナーキーな部分と、政府、ビジネス、軍事への不信というロシア知識人の特性をゴルバチョフとその側近が持っていたことが改革の失敗した原因である(⑰一、五、二一、四九二)。このように九○年からの政治過程と九一年夏以後の経済改革からは「市民の革命」という理解よりは、むしろノメンクラトウーラの革命という方が説得的である。エリート変動・循環に関する社会調査によれば、実際八八年に党、

国家、経済組織、文化組織のエリートであったものの多くが九三年にもエリートであり続けたのであ洗一(⑮六五八)。 さてソ連の経済体制が「指令経済」、「行政経済」であった以上、これは自ずと体制評価と関連する。この関係で話

題を呼んだのは、本来十九世紀思想史を専門とするマーチン・メィリァの議論であった。メイリアの主張は、主には二点である。第一にこれまでの社会科学によるソ連分析は、すべて不首尾に終わったとする先行研究の全面否定である。不首尾の原因は、ソ連を大衆行動の産物で、民主的手続きを経た正統性を持つ体制と考えた点、また「近代化」の成功例で、その故に発展性を持ち、永続的だと想定した点にある。このためにスターリン主義はレーニン主義の逸脱であり、その逸脱がどこで生じたかを明らかにするといった問題設定、ネップの正統な後継者はブハーリンであるという第一の修正主義、「制度的多元主義」でソ連政治を分析しようとする第二の修正主義が登場した。ここからペレストロイカによって「ソヴィエトの近代性」は、ようやく完成し、「すべての逸脱」を克服して、「本当の意味の十月革命への回帰」が行われると誤って考えられたのである。第二点は、マルクス主義とレーニン主義の逆転的結合という「ソヴィエティズム」である。メィリァによれば、土台Ⅱ上部構造論、階級闘争論、資本主義社会批判によって、マルクスは西洋的発展を普遍化する一方で、プロレタリアートを進歩の主役としてヘーゲルの「普遍的身分」Ⅱ官僚に置き換えた。マルクスにとって、プロレタリアートは「こういう人たちがいなくなるようにすることが、同時にあらゆる喪失状態をなくすために必要な大規模な力の源泉となる」存在、「本質が喪失によって規定されている」形而上的な存在であった。つまり具体的な社会的実在ではな

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177ソ連崩壊・解体論をめぐって

かつた。このマルクス主義は、政府と社会構造の弱さ、知識人がもつ最大限綱領要求性向という「政治文化」を背景にロシアに広がり、レーニンがエリート組織でありつつ、大衆動員の道具であり、またプロレタリアートに意識を外部注入する政党の必要性を唱えて、マルクスの土台Ⅱ上部構造論を逆転させることになった。「この超現実的であべこべの論理」がソヴィエト全体主義の論理であり、メイリアは、この逆転的結合を表現する「ソヴィエティズム」というイデオロギーがソ連の歴史的歩みを決定したとする。一九一七年の時点ではロシアには立憲民主主義国か共産主義的独裁国に発展する可能性があったが、レーニン主義の選択に基づいてつくられたその後の体制ではスターリンのやり方を踏襲するか、全体制を丸ごと放棄するかのいずれかの道しかなく、「八九’九一年にゴルバチョフの新プハーリン主義」がたどったのは後者の道であった。(⑲七二’七五、一二六、一一一一○’一四七、一一一○八’一二○九)。メィリァの議論は、このようにマルクス主義とレーニン主義を組み合わせて創られた「遺伝コード」がソ連の歩みを定めていたという新たな全体主義論であるが、先の図では、ハブのソ連論とは逆に辺BC上を点Bに向かう論理構

成をとる点で、目新しく映った。しかし、歴史パースペクティヴとして近代化への理解を欠き、マルクス主義とレーニン主義が七十年の歴史過程を決定したとするのは行き過ぎに思える。この議論と似てはいるが、より歴史的要素を重視する見方は、オドンネルらの枠組みを用いたポヴァの権威主義体制移行論である。ポヴァは、共産党構造の解体を権威主義の民主制移行の特有の範鴫としてとらえ、体制がフルシチョフ時代よりもはるかに大きな危機に直面したこと、他の成員よりも指導者が優越した政治指導技術を有することからゴルバチョフの台頭を説明する。共産党支配の正統性は、反体制コストを極めて大きくすることで維持される。しかし、強硬派が当初の黙認から転じて活発化し、改革急進派が台頭することで、中道の改革派指導部は、保守派から↑プスダケルは「大衆反乱に対する保障」、急進派からは「保守派クーデターへの障害」と見られて双方の軽蔑と不信の対象となる。九一年初めに危機に陥った理由は、一つは保守派がその政治的稚拙さから選挙に惨敗して民主政に参加する機

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会を奪われたこと、他方で民主派は「頭なしの大きな図体」であったことで説明される。ゴルバチョフが演じねばな らなかったのは、「教皇とルターの役割」、もっと身近な例では「ヤルゼルスキとワレサの役割」である。この場合協 定を結ぶ相手として可能性を持つのはエリッィンだが、その場合ロシア共和国に対抗政府を持っていることが阻害要 因である。ポヴアは、多元的秩序の形成に有利な条件としてソ連における教育の進展、都市化、階層化をあげるが、 不利な条件としては第一に私営企業、市場の欠如、第一一に民族の問題、第一一一に民主的伝統の欠如があると指摘する

(⑩一一一二、一一一一一一一-一一一一六)。

このようなポヴアの議論は、西欧市民社会の基準からソ連の条件欠如をとらえるというもので、この意味ではこれ までもあった西欧的発展モデル論にとどまっている。しかし、メイリァの議論に比べると歴史的具体的条件を考察に

含んでいる。

このように見てくると、メイリアによってソ連崩壊を「不慮の事故」とみなしてノスタルジアに浸っていると批判 されるダリンの立場は、実のところ体制崩壊を広く検討する可能性を与えている。ダリンは、「遺伝コード」論、内 在的改革不可能論は決定論、不可避論であり、神秘主義的本質論だと批判する。それによれば、一九一七年の権力掌 握は、確かに不法なものだったが、その事実から九一年の事件を引き出すのは不可能である。なぜなら解体が萌した 八○年代よりも過酷な経験を体制は経てきており、大衆の体制支持が存在しないというネオ・全体主義の議論は成り 立たない。そして次のような体制弛緩の七点のポイントが提示される。それは、①支配の弛緩、②腐敗の広がり、③ イデオロギーの腐食、④多様な価値と社会的病理を生んだ社会の変化、⑤外的環境、⑥経済的窮迫、⑦ゴルバチョフ 体制がとった決定である。これらは整合を欠き、羅列的だが、体制の崩壊を考える場合、メィリァの「遺伝コード」 論よりも手がかりを与えている。「未練史観」と椰楡を受けることもあるが、こうした要因を考慮してソ連史の時 期々々の選択を考えたほうが、「遺伝子」コードで体制を固定するよりもはるかに豊かな歴史像を結ぶことが可能で

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179ソ連崩壊・解体論をめぐって

以上から新たなノメンクラトゥーラの登場は確かである。ペレストロイカがある時期までカウンター・エリートの上昇を伴っていたことは、グラースノスチ政策が進展することで理解できるが、問題は、どの時期から政治、経済、文化の新しいエリートがソ連の改革を見限り、その解体、ロシアの自立化へと転じたかである。メィリァの「遺伝コード」論は別にして、ソ連の民主化という課題とプロセスがある時点でなぜ、いかにして体制解体へと決定的に転化したかについては、多くの研究でも明らかとなっていない。崩壊という予期せざる結果をふまえて、この問題を解明することがソ連の崩壊・解体の原因を明らかとする必須条件といえよう。先にも引いたブレスラウァーは、これまでのソヴィエト研究を深刻に総括し、次のように述べている。「より重要なことは、われわれはそれとわかる特性を持った「確立した」社会を研究することは決してないということである。……同時にソヴィエト学の歴史から出てくる重要な教訓が研究の意図に組み込まれねばならない。ポスト・ソ連の持つ近代化論の特徴も、新伝統主義の特徴も(カリスマの特徴も)、互いに切り離されては実りある研究とはなりえない。それらを相互に関連付けた行為こそが問題となる。なぜならそのことが最終的に形をとる体制においていずれが上位にあり、いずれが従属するかを決定するであろうからである」(⑳一一三八)。対象に対するこの謙虚さは、こ(6) れまでの分析が失敗であったとするならば、好ましいものである。 あるく⑭)。

2.ソ連「帝国」論とロシア統合問題アルマⅡアダ事件などの民族暴動を別にして、しばしばソ連解体の萌しと見られるのは、エストーーァが一九八八年に行った主権宣言である。その後ソ連の国家性格を、従来使われることはめったになかった帝国と規定する見方が広がった。いまやソ連は帝国であったという述べ方が一般的にも、学術的にもむしろ通例という印象もある。また「帝

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国」という規定をE(7) 生じたのだろうか。

八八年に提起されたソ連の連邦制度改革が具体化したのは、九○年に入ってからであった。九○年春に成立した一 連の法律は、「連邦離脱法」、「連邦・地方権限区分法」、「市民の民族的発展法」などの制度改革を含んでいた(⑭一一一 一一T四○)・同じ時期に憲法六条の「党の指導性」条項の削除により、複数政党制が導入され、国家元首を最高会議 議長とする体制から大統領制度への移行も行われた。これらの改革には名目でしかなかった連邦制度を、条約締結に よって現実の連邦制度に改革する動き、及び「ブルジョワ民主主義」として排除されてきた権力の分割・分立原則へ の移行という国家制度の根幹にかかわる二つの変化が含まれていた。この時点で、それまでソ連が国家制度として宣 言し、また運用で取り入れてきた制度原則が転換したのであり、体制変化を考える場合この九○年春が決定的に重要 である。また連邦中央のこうした改革と並行して、ロシア連邦でも政治潮流の変化が生じていた。一一月から一一一月にか けて行われたロシアの人民代議員選挙では、新たに設立された「民主ロシア」ブロックがソ連中央を回避し、ロシア で権力を握り、主権宣言を行なう方針を掲げたのである。選挙後召集された第一回ロシア人民代議員大会は、最高会 議議長にゴルバチョフが推したポロズコフではなく、エリッィンを選出し、実際に「主権宣言」が発せられることに

こうした流れの中で、にわかにソ連を帝国と規定する言い方が一般化したわけだが、説明としてもっともわかりや すいのは、モスクワ公国に発するロシアの膨張から歴史的に類推し、その領域と文化、アイデンティティを継承した ソ連は当然帝国であったとする考え方である。これは国家性格に関する「遺伝コード」論ともいえるが、こうした理 解は、ソ連を少なくともつい最近までは帝国とは呼ばなかった点からは奇妙である。またソ連領域内に厳然と存在し た地域による経済格差を中央による辺境支配から理由付けて、実は帝国だったと説明する仕方もある。実際ソ連を構

なった(⑱七二’七四)。 という規定を与えることでソ連期、

ソ連体制を安易に全面的に否定する傾向すら見られる。なぜこうした現象が

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181ソ連崩壊・解体論をめぐって

成した共和国のコルホーズ員の月間所得について比較すると、一番豊かなバルト諸国のエストーーァと中央アジアのウズベキスタンでは二倍の格差が存在していたので、「南北問題」という経済構造から宗主国Ⅱ植民地関係が存在したということができそうである。しかし、この考え方も中央と想定されるロシア連邦の所得がバルトと中央アジア諸国の中間にあることからは、ロシア人の経済的優越を確保する支配帝国がソ連だということはできない(⑰四三五)。そもそももっとも貧しくて、したがって植民地関係を培う帝国構造の破壊に傾きそうな中央アジアで、九一年三月の連邦維持か否かを問うレファレンダムで連邦維持の賛成比率がもっとも高かったことはそれに矛盾する(⑳)。こう考えると、ソ連Ⅱ帝国といわれるようになった別の説明が必要である。この問題についてベィジンガーは、次のような考えを述べている。すなわち帝国と国家の相違は、本来ファジーであり、現代世界では帝国は事物ではなく、外国の支配、「よそもの」の支配という知覚と主張を与える行動として理解されるべきであって、ソ連は、帝国であったから崩壊したのではなく、崩壊したから帝国とされたのである(⑰一五五)。そうすると結局ソ連は、その解体が起こった時点で帝国となったのであり、それ以前にはそうではなかったということになる。では、ソ連の国家統合を実際に崩壊させた要因は何なのか。この問題は、いくつかの面から考えることができる。第一には国家体制、ことに国家と経済が一体化したスターリン型社会主義の機能不全から説明するものである。中井和夫は、ソ連を支えた要素として共産党、経済、軍、ロシア正教を指摘し、このいずれもが「民族化」、「共和国化」して分解したとしている(⑳五四-五五)。十五の連邦構成共和国の独立という形をとったところでナショナリズムが作用したというのが、中井の説明である。これは確かに事実について一つの説明になるが、しかし、他方でソ連という国家的枠組みを維持しようという求心力も働いていたのは事実であるので、崩壊のプロセス、ことにナショナリズムが働いたという共和国指導者の主導性がなぜ生まれたかについて説明されていないという不十分さが残る。第二の説明は、国家性格と民族アイデンティティの面から考察するものである。さきほどのベィジンガーによれば、

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182

表:主権宜貫のタイミング

太字はソ連邦僻成jIi\Ⅲ量

典拠:顕.pP49-60

性格的に帝国と国家を分けるのが難しかった旧体制が自壊した後のレーニンの言説は、帝国復活でも国家建設でもなく、世界革命の志向だった。しかし、「歴史の意志」を体現すると考えられた党は、国家と帝国が

引き続いて融合する性格を持っていた。ボリシェヴィキは、辺境地域ではロシア人植民者、非ロシア人ボリ

シェヴィキ、そして独立達成よりもより広い領域の自治を求めた異論派の民族主義者に支持基盤を持っていたが、民族主義者は、ボリシェヴィキの活動を少数民

族に対するロシアの戦争と考えた。続く局面のソ連国家の建設においては、非ロシア人の間に社会基盤をつ

くる努力がアイデンティティと正統性の感覚を作り出

すために払われた。帝国と異なる国家をつくるという「夢」こそがソ連型の帝国主義を伝統的帝国が行った行為から区別していたが、そのモデルはソヴィエトと民族のアイデンティティの間で選択を許していたため、ソ連社会を蓋うアイデンティティはきわめて可変的で不安定なものとなり、ソ連はその存続の間、帝国と国家という二つの現実を保持し続けた(⑰一五五、

1988年 1989年 1990年 1,91年

エストニア11.16 リトアニア5.18 ラトヴィア7.29 アゼルパイジャン9.23 グルジア10.12 ベラルーシ12.7

ロシア連邦6.12 ウズベキスタン6.20 モルドヴァ6.23 ウクライナ7.16 北オセチァフユO カレリア8.9 ハカシア8」5 トゥルクメニスタン8.22 アルメニア8.23 アプハジア8.25 タジキスタン8.25 ゴミ829 タタルスタン8.30 ウドムルチア9.20 1打オセチア9.2()

ヤクチア9.2フ チュクトカリ.29 プリヤーチア108

コリャク10.9

.ミーペルニャク10」I パシコルトスタン10.】I カルムクチア10.18 ヤマルーネネッソIⅡ、18 マリーエル10.22 チュヴァシアI().24 ゴルノーアルタイⅡ()25 カザフスタン10.26 キルギスタン10.28 トウヴァ11.1 カルチャーチェルケシア 11.1フ チェチェンーイングーシ

I】、27 モルドヴア(moJdnva)

12.8

カルバドーパルカリア 1.31 ダゲスタン5」5 アドゲア7.2

(22)

183ソ連崩壊・解体論をめぐって

一六一、一六二)。このようなベイジンガーの帝国と国家についての説明は、シューニーによって帝国としての再統合が内戦期に起こり、建国者の意図にかかわらず、はじめから帝国であったと批判されている。ただこの場合も単一政党による決定の独占を論拠とする点、また非ロシア人地域における民族生成の鼓吹が「ソ連史のアイロニー」であ

り、ソ連解体を生む要因であったとする点は、同じ論点を別の角度から見ていることになる(⑫一九二〉。

第三の説明は、ソ連の改革及び解体に決定的であったロシアの自立化プロセスに、ゴルバチョフとエリッィンの対

抗関係を関連付けながら説明するものである。前頁の表に見るように、八八年に始まったソ連内連邦共和国の主権宣

言は、八九年中は連邦共和国にとどまっていたが、九○年以降はロシア連邦内の自治共和国にも拡大した。八八年十一月から九一年七月の一一一三ヶ月の間に四一の単位が主権宣言を行ったことになる。いわゆる「主権パレード」である。(8) この「主権パレード」の契機となり、それを進めたのはロシアの「主権宣一一百」であった。この過程を分析したカーンは、次のように述べている。「ロシア主権宣言は、もっとも先鋭な政治的動機を持つ文書であった。……ゴルバチョフとの戦いは同盟者と資源を必要としており、その両方を法律的には無意味な宣言がほとんど感じられないようなコストで与えた」。宣言はロシア法の連邦法に対する優越、分離権の条項を含んでおり、連邦中央からロシア中央への

権威の移行を含意していた。さらに宣言に続くエリッィンの地方遊説は、「共和国エリートに飲み込めるだけの主権

を取るようにという勧告」によって、地方エリートをゴルバチョフ支持からエリッィン支持へシフトさせた。こうし

てゴルバチョフ、エリッィンの権力対抗は、それぞれソ連とロシアの国家権力の対抗に転化した(⑬七七’七九)。

以上のようにソ連解体については、様々な説明が可能である。いずれもプロセスのある面をとらえているといえよう。ただ帝国としてのソ連という見方がある時期以降に採用されたとすると、カーンの分析は、ロシア主権宣言の政治的、権力的含意から「主権パレード」を位置づけており、説得的である。われわれの注意はともすれば中央集権性の強いソ連という国家が解体して共和国が独立したことに向かい、民族自

(23)

184

決原則に従って十五の国民国家が形成された、「帝国」としてのソ連の解体は自然であったという先にあげた想定に

発する理解でとどまる。国民国家の同盟という形をとっていたので、この説明も先に述べたように一応説得的である。だが、当時の状況は流動的であり、独立に向けてもっとも急進的であったバルト諸国でも独立派共産党など慎重な対応をとるものは存在しており、事はそれほど単純ではなかった。つまり連邦制モデルに対して国民国家モデルを優位におくには権力欲、権力資源をめぐる対抗、国家モデルのあり方、移行期の問題、さらにはつまるところ社会的公正についての価値観を考慮せねばならない。そして民主化問題についていえば、ソ連中央とロシア連邦との対抗関係を作り出したロシア主権宣言は、ロシア法のソ連法に対する優位を宣言したにすぎず、国家制度の根幹としての権力分割、分立を含んだロシア国家の内実性は先送りされていた点が重要である。ゴルバチョフは、旧ソ連の国家解体を極力防ぐことを目標に「ノヴォⅡオガリョヴォ合意」を取り付けた。ブレスラウァーとデールによれば、この過程でゴルバチョフは、連合国家容認に踏み切っ

た(⑲三○八’一一一一五)。実際どこで連邦と連合の線が引かれるのかという問題はあるが、幻に終わった主権国家連

邦条約では、中央の権限はきわめて限定されており、権力の分割、中央・地方間の分権についても制度化が図られていた。ここにロシアの歴史上大きな問題の一つである集権モデルと分権モデルの選択がなされていたのであり、連邦問題についての一つのポイントが存在していた。すなわち民主化と連邦制の連関、いいかえれば民主制と連邦制に基づいた統合の可能性である。しかし、ソ連解体に向かって進行したソ連中央とロシアとの対抗は、この改革を流産させた。ソ連解体後ロシアの国家統合問題が先鋭化するが、これはソ連が帝国と国家という二つの性格の間で状況に対応して行った改革への選択をゼロとし、問題点を政治資源の要因から先送りしたことで生じたといえよう。これがポリシエヴィズムの政治手法のくり返しであったか否かは、ここでは問題としない。しかし、ソ連の体制をめぐる問題はそのまま新しいロシアに受けつがれることになったのは確かである。次にそれを見ることにしたい。

(24)

185ソ連崩壊・解体論をめぐって

新生ロシアが直面した問題は、強引に進めることが決まっていた市場経済化を別にして、国家体制については三点指摘できる。すなわち第一に脱共産主義国家としてのロシアの民主化問題、第二に旧ソ連と同様に少数民族・エスニシティを含むことになる新ロシアの国家統合問題、第三に旧ソ連共和国、つまりCIS諸国との関係である。これらはロシア国家体制の問題として相互に関わるが、さしあたり三に関してはこの時点では大きくは問題化せず、第一点(9) と第一一点が経済改革、社会保障問題と絡み〈pいながら、九一一年から九一一一年末にかけて焦点化した。この過程では、経済改革と平行して権力分割・分立という民主化、他方で中央Ⅱ周辺関係、連邦制度が論点となっ バルト一一一国とグルジアを除いた十一カ国の首脳は、一九九一年十二月二一日に「アルマⅡアダ宣一一一一口」でソ連の廃止と独立国家共同体(CIS)の設立を宣した。宣言は、「ソ連邦は存在を停止する」と述べるとともに、形成される独立国家共同体の性格は「パートナーの原則の上に形成され、国家でも国家的組織でもない共同体」であるとし、形の上では各共和国の主権宣言を基礎に、諸主権国家が暖昧なひとつのパートナーシップにまとまることとなった(⑱六一)。しかし、これによりソ連を解体させた問題が解決されたわけでは無論なかった。ことに問題は、主導してソ連を解体したロシアにおいて強く表われた。これは、ロシアがほかの共和国と比べると多数の民族・エスニシティが居住することで複雑な国家構造を有し、かつその構成主体がソ連中央との闘争で政治資源として動員されたからであ

た。「 る。

九三年十二月の国民投票でかろうじて承認された憲法の特徴は、大統領権力の強力さにある。憲法第四章の規定に [Ⅲ]ソ連解体後ロシア

(25)

186

ロシア国家の形成過程を分析したブレスラウアー、デールによれば、大統領と対立した最高会議議長ハズプラートフが目指したのは、執行権力とともに強力な立法権力であって、その際中心概念となったのは権力分割であった。したがってこの点では分権の制度的保障がめざされていた。これに対してソ連中央との対立局面ではロシア国家の性格を暖昧にしてきたエリッィンは、九二年四月召集の第六回人民代議員大会に至って、憲法が採択されず、執行権力を縮減する動きがあることに不満を表明した。エリッィンの考えでは、そうした執行権力制限はロシア国家にとって脅威であり、国家にとって重要なのは執行権力なのである(⑲三二四)。ここにロシア指導部が目指す国家体制が姿を現すことになった。それは多党制を認めながらも、国家としては権力の分割・分立を導入しないというもので、これ こうした強力な大統領権力を特徴とする憲法の制定過程で、注目を集めたのはエリッィンと最高会議の対立であった。ガィダルの首相任命、経済閣僚任免をめぐるロシア最高会議と大統領の対立は、九二年末から九三年春にかけて先鋭化し、エリッィン信任をめぐる国民投票に至った。この投票をかろうじて乗り切ったエリッィンは、その後憲法協議会を設置して人民代議員大会、最高会議をバイパスして懸法制定を進めた。この過程にソ連末期から活発化した連邦榊成主体が介入し、中央における議会と大統領の対立に加えて中央と地方の対立も加わり、「モスクワ十月騒乱」に至ることとなる。 よれば、大統領は、国会の同意の下で、首相を任命し、さらに首相の提案によって副首相、大臣を任命・解任する権限を持つ。また最高裁判所・憲法裁判所判事の提案権、検事総長の提案権・解任提案権を有しており、司法分野においても権限は大きい。さらに議会解散権、国民投票権も有し、大統領令発布の権限とあいまって立法分野で及ぼす力も強大である。このような大きな権限は、帝政末期に制定された一九○六年国家基本法の皇帝権限に比すこともでき、連邦議会下院を帝政期と同じ機関名にしたこともあいまって、一九一七年革命以前の体制への類比をかきたてるものがある(⑳)。

(26)

187ソ連崩壊・解体論をめぐって

九三年秋のプロセス、殊に九月一一一日の大統領令一四四一号に始まり、十月一一一日l四日の「モスクワ騒乱」へ至る 過程は、事態が極めて急激に展開したために対立の元にあった憲法案の内容自体よりも政治過程を分析する論者が多 い。詳細にこの過程を追った一人である塩川伸明は、ソ連末期以来の権威主義的な政治を求める論調の高まりと体制 崩壊の中で、この時期に法治主義からの逸脱、後退の傾向と権威主義的な体制性格が強まったと述べている。九一一一年 秋に生じたのは、エリッィンによる「上からのクーデター」であったというのが塩川の主張である。塩川によれば、 ソ連末期の九○年選挙で選出された旧議会の改革は、必要であったにせよ、それを実現する方法として「合法的な道」 はふさがれていたわけではなく、議会の構成が保守派一辺倒であったわけでもない。流血に至ったエリッィン大統領 側の強硬姿勢は、中にあった中道派を強硬派に追いやる「自己成就する予言」だったと塩川は述べている(⑰一一○五 ’一二○)。エリッィンたちの動きを同様に「クーデター」と見る見方は、ロシアの識者にも共通している。歴史家 ヴオロプーエフは、九三年憲法体制を歴史的類比をもたせて「十月四日体制」と呼んだ。それによれば、この体制は 「国家クーデター」に由来し、挑発、革命の終焉、反対派の暴力的破壊という点でロシア史上ではストルィピンが行

った一九○六年の弾圧と改革が先例である。この方法に訴えねば、エリッィンは一一つの問題を解決し得なかった。す

なわち第一に資本主義発展の道を押し付けた後で似非民主的性格を持った国家性を確立せねばならないという点、第 二に先例のない自己陶酔的な権力志向を満足させる目的である。「二つの事件は、違う監督、違う俳優、そして違う

(叩)

舞台の上ではあるが、同じ、ンナリオで展開されている」ように見えるのである(⑫)。

またブレスラウアーとデールは、「(エリッィンの)レトリックは、決して妥協ではなかった。それは黙示録的でゼ に維持される限り、憲法協勢春には明らかとなっていた。

は、ゴルバチョフ政権下で進められた民主化を逆行させ、権威主義体制を求めるものであった。この立場がかたくな に維持される限り、憲法協議会の活動にも既に枠がはめられており、翌年秋の流血に至る対立の構図は早くも九二年

(27)

188

ロサムになった」と特徴付けている。このゼロサム・ゲームにおいて、エリッィンは、議会を操作するポピュリスト戦略が行き詰ったときに、その解散を採用し、「暴力的な流血の対立」を導き、結果として生まれた体制において「彼は、再び超大統領政治体制と地方に対するより強力な中央の権威を持った憲法によって、国民に向かった」。「ロシア国家は、水平的には政府諸部門間で、垂直的には中央と地方の間で、過度の権力バランスでは生き残れないというのが彼の意図するところだった」とブレスラウアーらは、結論付けている(⑲三一一四)。この評価の仕方は、ヴォロブーエフと軌を一にしている。すなわち共産党一党体制から多党制へ、権力集中から権力分割へと八五年から転換してきた体制は、ペレストロイカ以前の体制ではないにせよ、再びある種の権威主義的体制に再転換を遂げたということになる。エリッィンを支持し、ロシアの主権宣言を進めた知識人の一人であるユーリー・アファナシエフは、こうしたエリッィンの変遷を「エリッィンの罠」と呼んだ(⑬)。下斗米によれば、こうした非難は、国際的支援者を含めて民主派がエリッィンを誤解したことに発している。エリッィンは、「民主主義、権威主義、ポピュリズム、寡頭主義、ネポティズム」の「ハイブリッド」体制なのである(⑪七)。つまりここに表れたのは、民主化を掲げつつ、権力維持の志向が第一義にある発展途上国型の政治手法ということである。九二年から九三年末にかけての政治展開を八五年以来の改革過程の転換点、もしくは終着点ととらえ、そこにロシア政治体制改革の特徴を見るこのような見解は、ほかにも見られる。この場合、歴史的に見てロシアという国家には分権化ではなく集権化、民主制よりも権威主義的な強制が必要ということになるのである。このような新生ロシアの政治的特徴は、連邦制の民族・エスニシティ問題においても如実に表れた。先にも触れたように、ソ連中央との対立においてエリッィンは、ロシア内自治共和国の支持を動員したが、ロシア連邦の将来像については何らかの方針が存在したわけではなかった。ヱリッィンが求めたのは、共和国の短期間にせよその服従であった」。「エリッィンの共和国への約束は、ロシアの独立という観点からは誤りではなかった」が、「新しい中央Ⅱ

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189ソ連崩壊・解体論をめぐって

こうした「双務条約」による連邦制度の実体化は、地方毎の特殊な事情に柔軟な対応を可能にするともいえるが、また同時にいくつかの問題を生み出している。カーンによれば、これらの条約の多くは、議会の承認を得ないままに 辺境関係を打ち立てるという観点からはその最初の一歩は、・・・…地域の事柄へ中央が介在することについて、対立を挑発する以外何もなさなかった」のである(⑱七七’七九)。連邦制の成功に必要な最小限の条件は、制度形成について固有の価値と基盤の合意が存在することとされるが、ロシアの場合、中央と地方においては連邦の概念は非対称であった。すなわち共和国エリートに浸透した信念は、優位な地域権力をもって下から上に組み立てることによって連邦制が成立するというものであったのに対して、連邦中央の認識は、「連邦はその構成単位からの正統化を求めないし、とることもしない自由な主権存在」というものだったのである。前者は条約を憲法上の規定とする条約的憲法アプローチであるのに対して、後者は憲法的条約アプローチである。ソ連の解体に伴い次に論点となったのは、ロシアの国家性であったが、そのために当初用意されたのは条約的憲法アプローチであった。これは、ソ連中央との対決でエリッィンが取った戦略からは当然の経緯であった。一九九一一年三月に調印された連邦共和国との条約は、その八条で人民代議員大会による条約承認後、連邦条約は連邦憲法の独立の一部となると規定していた。しかし、国民投票により採択された憲法は連邦条約を含まず、その第二部「結論及び移行期の規定」において、連邦条約が憲法規定と一致しない場合には憲法が効力を有すると規定したにすぎなかった(⑳、⑱八三)。

こうして合意を欠いたままに憲法が採決され、ロシア連邦は国家の体裁をとった。中央と地方との連邦制についての合意欠如のもっとも端的な表れは、現在に至るチェチェン戦争であるが、九四年に入り、ロシア連邦中央はタタールスタンを皮切りに各連邦主体との双務条約締結により連邦構造の確定を進めることとした。この結果として生じたのは「双務条約のパレード」であり、八九の連邦主体の内半数以上の四六主体が連邦中央と双務条約を結ぶに至って

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るTIは0-

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 福沢が一つの価値物を絶対化させないのは、イギリス経験論的な思考によって いるからだ (7) 。たとえばイギリス人たちの自由観を見ると、そこにあるのは liber-

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などに名を残す数学者であるが、「ガロア理論 (Galois theory)」の教科書を

これは基礎論的研究に端を発しつつ、計算機科学寄りの論理学の中で発展してきたもので ある。広義の構成主義者は、哲学思想や基礎論的な立場に縛られず、それどころかいわゆ

 

(( .  entrenchment のであって、それ自体は質的な手段( )ではない。 カナダ憲法では憲法上の人権を といい、