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動 : 韓国福祉活動を中心に

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動 : 韓国福祉活動を中心に

著者 水口 智鶴

出版者 法政大学史学会

雑誌名 法政史学

巻 71

ページ 86‑106

発行年 2009‑03‑24

URL http://doi.org/10.15002/00011576

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私は近現代史を研究するにあたって、Ⅱ本と韓国両国間の問題について考察したいと思っていた。戦後六○数年を経た今、日韓の関係は一応の平静をみている。しかし、過去の歴史認識など複雑な問題が依然解決されたわけではなく、過去を背負った関係は今も続いている。このような両川の歴史に興味を持ち研究する中、戦争施後のⅡ韓関係が最悪の時期に、あえて二国間の架け橋になろうとした女性がいたことを知った。すなわち朝鮮季王朝まさこ最後の皇太子妃であった方子である。過去においてH本の皇族でありながら、いまだ没後一九年(平成二○年現在)程しか経っていないにもかかわらず、日本人の間には殆ど 法政史学第七十一号

はじめに 研究ノート

戦後韓国におけるn口本の皇族方子の活動

l韓国福祉活動を中心にI

忘れ去られた存在であった。方子はH本人として生まれ育ちながらも韓国の福祉に大(1)きな足跡を残した人物といわれる。爾来、方子に対しての研究は管見の限りでは少なかった。単行本として、本田節子「朝鮮王朝最後の皇太子妃」・渡辺みどり「李方子妃」があり、そして近年小川部雄次「李方子」が出されたぐら(2)いである。しかし一二杵は主として、数奇な運命をたどった万千の生き方を小説的に迫うのみで、韓川における福祉渦動については残念ながらあまり詳しく触れられていない。そこで筆者は方子という女性が第二次世界大戦後に、どのように韓国で活動しはじめたか、そしてそれが以降の韓国国内の福祉活動にいかなる影響を与えたかを明らかにしてみたいと思う。

水口智鶴

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まず方子の略歴を紹介しておこう。方子は明治三四年一一月四日東京市麹町区三番町にて父梨本官守正と母伊都子の長女として生まれた。父守正は久邇宮朝彦親王の第四男子であり、母伊都子は鍋島直大侯爵の二女である。大正二年に学習院女子部中等科に入学し、親年裕仁親王(昭和天皇)の后候補として名前が挙がる。しかし大正五年に朝鮮うん李王家壬世子眼との縁談が起こり、「Ⅱ鮮融和」の名分のもと大正九年四月二八日に結婚し、鳥居坂での生活が始らん&んけんまった。翌年八月長男派川が誕生したが、観見の儀(朝鮮の結婚式)のため渡った韓国で急死した。昭和五年麹町紀尾井町に居を移し、翌年、次男玖が誕生した。戦時下に入ると、方子は堤と共に公務で多忙な日々を送ったが、日本の敗戦により益々苦難の道を歩くことになる。戦後の季王家の有為転変を追いながら、〃fが韓脚の福祉についてⅡ覚めていく過程をまず追ってみよう。

1終戦と李王家昭和二○年八月一五日、第二次肚界大戦は終戦となった。終戦直前に「皇族や王族の当主に対して、八月十二日

にはぜひとも参内するように、との急な連絡がh岨」その

戦後韓国における日本の皇族方子の活動(水口) 終戦の混乱と臣籍降下 時に李王家にもH本の無条件降伏が知らされたのである。

終戦は戦前・戦中を通じて日本国の玉腱の地位であった季

王家に人きな打撃を与えた。すなわち戦争終了とともに祖国韓国は日本から開放されたのであるが、その時から季王家とⅡ本の皇宗との関係は絶たれ当然絲済的関係も絶たれたのである。日本国と韓脚との間に挟まれた季王家は、突然阯問一般の流れに放り出されたのである。戦争祓後の季王家の有り方について眼の秘書であった趙重九は次のように述べている。昭和二十年八月十五日、至急軍用官報により上京し、十七日峯間武官・山下事務官と今後の本王家のありカママについて協議した際、すでに、朝鮮が再び王政に復活することはないと考えていた。朝鮮の今の政治状況は混沌としているので、李正家は政争に中立で現状維持(5)存続を計る。と季王家が終戦泣後の混沌としている時期に、韓川の状況を冷静に把握しようとしていたことが分かる。眼白身は(6)「帝航しても帰る、それが一兀壬としての一只任である。」と帰国の念が強かった。それに対して方子自身は「本国(韓(7)同)の政情不安を理由に帰国を渋った」のである。日韓併合というなかで政治的な結婚をした方子にとって、韓国に

八七

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対して恐怖心があった。方子の韓国への恐怖心は、訪れて

いた韓国で長男晋が凪仙でから後、次男玖が生まれた昭和

(9)六年にまで遡ることができる。彼女は「もうどのようなことがあってもこの子が成長するまでは、決して、決して、

朝鮮の士を踏ませはしfM」との一一一一口葉にも表れていた・

経済的な川窮は季王家ばかりでなく、終戦は実際にはⅡ本の宮家にも大きな影響を及ぼし遂に「四月からは政府か(、)ら(宮家)には一銭もでなく」なったのである。しかし季王家は宮家とは異なり、Ⅱ本からも輔阿からも見放された状態で、「韓川は未だ政府はなく王家の多少の金も送金は

蕊肥」されていたから、二人の行く先の困難は目に見えて

いる状態であった。その時のことを方子は「殿下も私も生まれながらの皇族で、経済的な才覚といっては無に等し(田)く、途方にくれていた」と回想し、眼は「結局は我々は流

されていくしかないのf秘」と嘆いていた・こんな時期、

趙の知り△□いの孫海圭という土建業者が月一一一万円の献金を申し出て、それによって生活費は何とか賄われた(昭和二二年に趙が李家を去ると献金は止む)。とはいえ、一時は不安と焦燥でなすすべもない二人であった。このような嗣難を乗り越えるために、李王家は元の侍女室を改造して移り住み、麹町紀尾井町本邸を参議院に貸し、伊東の土地、 法政史学第七卜一号

2臣籍降下二人のこのような生活に、新たな、しかも最大の試練が待っていた。すなわち臣籍降下である。昭和二十一年十←Ⅱ二1九Ⅱ、天皇より、祓系の皇族をのぞき他の十一宮は、此際臣籍降下してもらいた(胆)い。其時期は来年一月末か二月頃がよかろう。との話があった。臣籍降下問題は昭和二二年五月一日に一一宮の請願という形で宮内省に提出され、一○月一三日に皇室会議で受理ざれ各宮家に文書が脳けられた。それにより必然的に季王家も王族の身分を離れることになったのである。しかしながら皇族身分離脱に伴い一一宮家には一時金が支給されたのであるが、Ⅱ韓併合時、「李王家は宮家 大磯と今井浜の別荘も手放さざるをえなかった。この時期にその後の二人の人生に大きな影響を与えたのではないかと思われる動きがあった。在日朝鮮基督東京教会の呉允台牧師が季王家をよく訪れ、限と方子にキリスト教や社会事業の話をしたことである。昭和四五年の時点で(応)「眼は既に洗礼を受けていた」こと、そして後に方子が韓国で福祉事業に専念するのも、この牧師の影響があるのではないかと筆者は推察する。

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1韓国と李家戦後、初代の大統領になった李承晩は強硬な反日政策を推し進めたために、Ⅲ季王家(以下李家)に対してもその態度は非常に冷たかった。したがって戦後から李承晩の政 (Ⅳ)扱いではあるがⅡ川本の宮家ではない」とされた季王家には、ただの一銭も出なかったのである。その上一○月一例日の臣籍降下決定により、李王家は結果として一時期無国籍状態となってしまった。この時のことを方子は、

●●●●●●●●●●王公家規範を離れて、在日韓国人として登録されるママ日、これではっきり、口本から放り出された・・という、ごまかしようのない実感がのこるのを、どうする(旧)こともできませんでした。(傍点筆者、以下同じ)と記している。これまで方子は一応王族・準皇族と一一一一口われ公務も他の宮家と同じように努めていたが、今回の原籍降下と在Ⅱ韓阿人登録により、確実にⅡ本から見放されたのである。方子は梨本宮家の女王として生まれ育ちながら、(四)眼との結婚により「、口鮮融和・お国のため」の重責を負ってきた。しかしH本の敗戦により、それも遂に歴史のなかに葬り去られたのである。

戦後韓国における日本の皇族方子の活動(水口) 一一韓国へ帰国 椎が終わる昭和一一一五年までの一一二年間は、李家にとって必然的に辛いⅡ々を送った。しかしながら、韓国国内でも李承晩大統領の長期政権に懲りた韓国国民は、責任内閣制を選択し、昭和三五年八月一一一日に国会で尹譜善を大統領に、張勉を総理に選出した。尹政権は李政権とは違って、極端な反H路線は取らず、Ⅱ本との新たな外交関係樹立をめざしたので、川年九月六Hには解放後初めて日本の外務大臣小坂徳三郎が訪韓したのである。このような日韓関係の流れが変化するなかで、同時に李家への待遇も李承晩時代には考えられなかった転換を見せた。このことは鯨国の歴史的見面しの中に、李氏朝鮮の王家の問題も含まれていたことの表れであろう。このような時代を背景にして、方子たちにも少しずつ明るい兆しが見られるようになった。その第一が総理の張勉が眼に対して駐英人使就任を進めてきたことである。しかしこの政治的な推薦にたいして力子たちは、望郷の思いがどんなに強くても、政治的に利用される(加)恐れのある霜うちは帰らないつもりだった。と即座に辞退をしている。この「政治不関与」の姿勢は堰の一貫した考えであった。翌昭和三六年一一一月には李寿士ロが眼の帰国準備ということで来日し、Ⅲ皇室財産管理局の予

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算から百万ウォン(七百二十万円)を持参した。これは二人が韓国政府から受け取った初めての経費である。この金額は昭和三五年当時の白米十蛇の価格の八百七十円を基本にしてみると、平成七年当時は白米十蛇が三千七百七十円であるから物価は約四・三倍、すなわち百万ウォンは平成(辺)○七年ごろでは三千万円ぐらいになろう力このように李家の待遇改善が見始められた頃、本国韓国では三六年五月一七日に朴正煕が指揮するクーデター部隊がソウルを占拠し、尹政権は「軍事委員会が政府機能を代

行f秘」ことを認めたのである・韓国国民は朝鮮戦争二

九五○~五一一一)が終わって一○年もたたない間に、政権交代による国内の混乱で不安定な生活を強いられたのである。ところが李家にとっては幸いなことに、その年の七月末、韓国代表部の金秘書より「朴議長が殿下の容態を大変

心配されて乢秘・」と電話があり、その後特使ひとりが派

遣され、今後の堰の療養費と李家の生活費を韓国政府が援(型)肋する]日、眼の摘床に伝達されたのである。GHQによる

季王家の財産税の徴収秘、三度にわたる海外の滞在な ど秘、経済的に苦難の時期を過ごしていた方子は「この時

(幻)が一番うれしゅうございました」と述べているが、李家にとっては政権交代ごとに韓国政府からの待遇が、しだいに 法政史学第七十一号

2帰国昭和三六年五月の朴正煕のクーデターから、昭和四○年六月の「Ⅱ韓基本条約」締結までの四年の間に、家庭的にも経済的にも眼と力子の生活は激変した。方子は昭和三七年六月一三日から一八日までの問、ソウルに滞在して季王家の墓参りをし、秋にはR本で慈善事業関係の仕事や施設を援助するための催しに参画し、その後一二月一四日から一九日、帰国準備にかかった。そして現と方子、息子の玖は翌年の昭和一一一八年一一月一三日遂に韓国へ帰国したのである。この李家韓国帰国に際し、H本政府は非公式の使い(”)として一兀男爵安東貞雄夫妻を随行させ、賎別として一千八(釦)百万円を蝋呈した。帰国一別Ⅲと当日のことが「入江相政Ⅱ記」には十一月二十一日晴明日李恨さん夫妻御出発の際のお 良くなっていく皮肉な結果となったのである。この時期の韓国の政情からみると、朴大統領は尹政権の政策を引き継

ぎ「日韓国交正常化丸艇」を本格化し、その日韓関係改善

策の一つの中に「李家を韓国に帰す」ことが入っていたのではないかと思われる。これも又、日韓政治の所産であった。 九○

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使い一一一一口上につき拝謁。十一月二十二日(金)晴適十一時半に出て徳川さんと羽川空港。丁度一時間で着く。両殿下の非公式のお使い。方(子)様と李玖さんとにおuf、李恨さんは早く飛行機に乗り込んでおられる。予定通り一時半に

縦隠・

と記されている。しかし、H本政府も皇室・宮内庁もことさら表だった行動はとらなかった。この冷たい扱いに「日韓併合の時、Ⅱ本政府は季王家にたいして永久に〃全をつくすと約束しておきながら、戦後のやりかたは冷淡であ

っ趣。」が、ここには国交川復がなされていない国への帰

脚という表面上の剛山以外に、過去のⅡ韓の歴史に囚われたH本政府の逃げの意識が強く感じられる。冷たい日本の対応に比べて韓国では、李家三人の帰国の情報が川内に一川前から繰り返しラジオで報道され、帰川当uの金浦空港は、三人を出迎えるための多くの人波や花束で埋まったのである。こうして三人は無事に人韓民国国民となった。この行餓には韓国の王室を本来あるべき韓阿に戻し、そのうえ日本からの経済援助引き出し策という朴正煕政権の考え方から、李家の帰国が一連の政策の中に組み入れられたのであろう。

戦後韓国における日本の皇族方子の活動(水口) 1帰国時韓国の福祉情況方子は先に述べたように一時漢南洞のアパートに住んでいた。そのアパートで現地の現状を眺める巾で、住人たちの様々なことが分かってきた。巧時の韓脚では、ポリオ(小児麻岼)などで麻癖した子供を我が家の恥として家の中に閉じこめたり、また精神薄弱児たちが家族たちから疎まれている情況であった。そしてまた、このような障害をもつ子供を抱える家庭も、壯問に対して肩身の狭い思いを(鋼)している韓国庶民の内情を知ったのである。この時に方子は、この子供達と家族に役立ちたいと考えるようになった。しかし方子の帰国当時の韓国の福祉の情況は次のように貧附であった。朝鮮戦争後の一九六一年に埖活保護法が制 帰国後、眼はソウルの聖母病院に入院し、方子は漢南洞の外国人アパートに落ち着いた。こうして恵まれた生活環境にあっても、韓川川内の政情は安定せず、朴政権は学雄デモには武力弾圧で臨み、昭和川○年に日韓双方共に強引に締結された「日韓基本条約」の影響もあって、韓国国民が強いⅨⅡ感情を持つ社会状況は変わらなかった。

三韓国における方子の活動

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表1「世界の社会冊Iul9頁より。ノj子に関係ある社会福祉ヅイ業を中心にした。

法政史学第七十一号

制定年 法律 備考

【社会福祉事業】

1961 満落行為等防止法

1970 社会福祉事業法 1938年改正

1976 入養特例法 1990年改正

1977 特殊教育振興法 1987年改正

1980 社会福祉事業基金法

1981 障碍人福祉法 1989年全文改正

老人福祉法 1989年全文改正

児童福祉法 1984年全文改正

1982 幼児教育振興法 1986 母子保健法

1987 青少年育成法 1989,1990年改正

1989 母子福祉法

1990 障碍人雇傭促進等に関する法律 1991 嬰幼児保育法

【社会保険】

1960 公務員年金法

1963 医療保険法 1970年虹、1976年蚊証、以胚》(証 産業災害補償保険法 1989年まで十一次改正 軍人年金法

1973 私立学校教職員年金法

国民年金法 1989年改正

1977 公務員及私立学校教職員医療保険法 1979,1981,1987年H正

【公的扶助其他関係法令】

1953 勤労基準法

1961 生活保護法 1982全文改正

1962 災害救護法

1977 医療保護法 1991年改正

1987 男女雇傭平等法 1989年改正

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2方子と福祉方子は韓国帰国以前から個人的に福祉活動に関心を持っていた。そのきっかけは、方子の祖母鍋島榮子が元日本赤十字篤志看護婦人会会長であり、母梨本官伊都子も皇族の公務として同婦人会の活動に参加していたことであった。それらの活動を見て育った方子も、王族妃として日本赤十字のさまざまな活動に参加していた。また太平洋戦争終戦直後に、先述したように、在日朝鮮基督東京教会の牧師か 定されるまで、韓国には目立った福祉の施策は全くなかったのである。その前後約三○年間の軍事政権時代は経済発展がまず優先された。朴政権は経済成長政策を進めるなかで、国内の経済格差などの問題を表面化きせないための戦略として、先の生活保護法や医療保険法などを制定したのである。方子に関係のある社会福祉事業に関する法律としては、一九六一年制定の倫落行為等防止法と一九七○年制定の社会福祉事業法があるのみである。韓国において真に障害者に対する福祉への関心が高まるのは、一九八一年に国連で国際障害者年が決議され、全斗煥大統領が心身障害者福祉法(韓国では障碍人福祉法という)を制定するまで(鈍)待たなければならなかった。

戦後韓国における日本の皇族方子の活動(水口) 3「慈行会」の設立から「慈惠学校」へ(1)慈行会韓国において方子の福祉活動が動きはじめたのは、帰国後二年日の一九六五年になってからであった。方子の福祉活動の希望を聞いた、当時韓国赤十字の諮問委員であった

南官跳馳が、諮問委員会の人々を中心に呼び小脳、心身障

圭口児の福祉事業推進のための基本機関になる韓国の慈行会をまず立ち上げた。そして翌一九六六年に正式に社団法人

ら韓同の社会事業について詳しく話を聞く機会があっ趨・

このように方子自身による福祉活動に対する下地はすでに川来化がっていたのである。そして方子が最初に福祉活動に手を染めたのが、韓国帰国前の昭和一一一五年に日本国内で立ち上げた、障害者児童の

ための福祉団体日本慈征艶であった・方子はまず日本にお

いて慈善事業関係の仕事を始めたのである。この日本での体験を基礎として方子は、眼殿下が「帰国したら社会福祉活動をしたい」と話さ(w)れていた。と云う夫恨の意志を継いで、韓国国内における福祉活動への夢を急速に実現させていったのである。

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慈徒梨を発足させたのである・

運営の方法として、設立当初は慈行会の年会費六万ウォン(当時の日本円で一万八千円強)の名誉会員二二名を含(4)む四五○名で運営されていた。この名誉会員の年〈云費六万ウォンは韓国の一般国民の所得の五ヶ月分にものぼる高い

ものであつ{樫。従って設立当初の慈行会は運営資金を集め

る面で非常な困難を極めた。この方子の韓国の慈行会の維持運営を応援するために、日本慈行会の特別賛助会員三○名たらずが、年一回の観劇会を主催し、利益の百万円を方 ‐一吟四吋瞬孵}(一楴榊州》》》》鵬祀》》桝獅締獅”糠)》《率河呼祁燕》“》榊辨》純搭w峰鋸,蒋也岼辮》》澪鈩辨》》一醜鍛》概岼{鈩辨》辨卿砂癖赫曉》》》辨辨》》擁》癖癖》蝿、誤欝鐸』甘いj澪リー・…、、(零翼丹:.‐欝驚I》露:』津イ態,

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目ヨ■1 法政史学第七十一号

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衣装を着た方子写真

子に寄附していた。福祉活動を続けるために日本からの資金カンパの他に、慈行会を立ち上げたあと、立て続けに次のような行事を催した。東京の韓国文化院や旧ホテルニュージャパンでのバザー三越銀座店での方子の書や絵、七宝焼きなどの作品展韓国国内の釜山・光州・大邸・済川島の固唐ホテルでの季王朝衣装発表会右行事の売り上げで慈行会の経済的に厳しい運営を続けたのである。行事を催して行く巾で、新たに方子と韓国民衆とを結びつける大きな契機になったのが「季王朝の衣装の研究」であった。一九二二年蝉阿での眼との結婚式「蜆見の儀」の時に方子が着た礼装も新たに製作され、発表会の中のショーでは方子自身がこの衣装を着て出演したのであ(咽)る。『朝鮮王朝宮中衣装」に自ら衣装を着た方子の姿が載せられている。その姿は時代を超えた朝鮮王朝の威厳が感じられて、戦後の韓国国民に大きな感動を与えたである

ニフ。(2)「慈恵学校」へ発展慈行会の設立当初から以後方子が亡くなるまで、方子の福祉とともに歩み続けた韓国人の一人が、理事の金寿妬氏 九四

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4『明暉園」の設立(1)「明暉園』力子は慈行会設立の時を同じくして、’九六六年に聾唖・小児麻曄の子供達を対象にした心身障害者の為の生活施設を、ソウルのYMCAの二階を間借りして始めた。一 (註(町)参照)である。阿校資料と参考文献より慈行会から『慈恵学校』への改編事業をみてみよう。慈行会が創立してから四年目、一九六九年四月に「精神薄弱児指導室」が生徒一名で延世人学内に間借りしてスタートした。それから二年後一九七一年に慈行会はこの指導室を一括統合して、水原の貸しビルで正式に「慈忠学校』として発展的に改編川発したのである。そして翌一九七二年に学校の校舎が水原市内に落成した。この校舎の建築費として一千万ウォン(当時の日本円で約九百七十万円)を寄附し、落成式典でテープカットをしたのが、朴大統領夫人の陸氏であった□このように慈行会は、多くの人々の協力によって現在に残る慈恵学校として完成した。すなわち慈恵学校は、心身障害の子供たちの学校教育の教育施設として、深く韓国国民に認識されていったのである。

戦後韓国における日本の皇族方子の活動(水u) 九六七年夫恨の誕生日の一○月二○日に合わせて、堰の雅号明暉から『明暉園」と命名したのである。ついで一九六

八年の秋には国から「社会福祉隣旭」「明暉園」として認

定され、一九七○年には明忠会館という名の校舎がソウル市内に落成した。そして一九七四年ソウル市内に、より規模の大きな新施設が完成したのである。以降「明臓園」は韓国において、様々な障害をもつ人たちの生活・教育支援の場として大きく発展していくのである。(2)「明晦園」の運営しかしながら、「明暉園』も「慈恵学校」とおなじくその運営は容易ではなかった。「明腫園」の子供達の父兄は貧困者が多いため、運営のための資金集めは方子一人に頼っていたといってよい。そこで一九七八年ごろ考えだされたのが、方子自身によるⅡ本縦断募金集めであった。当時の力子は韓国語が出来ず知人の少ない韓国より、H本での資金(妬)集めに頼った。のである。そして方子は一九七八年から三年間をかけて、(妬)日本全国を走り回ったのである。そうした寄附を依頼する

方子を見て、息子の玖は乞食と評したので九M・資金集め

のためには、自分が持っていた過去の元皇族の有力な一肩書

九五

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「賞勲法」第十二条(国民勲章)国民勲章は、政治・経済・社会・教育・学術分野に功績をたてて国民の福祉向上及び国家発展に寄与して功績が明確な者に授与(⑬)し、これを五等級とする。方子の活動が韓国国家から「福祉向上及び国家発展に寄与

る章に) ̄章」が授与された。韓国の勲章とは次のようなものであ 活動が評価されて、全斗煥大統領により国民勲章「牡丹 方子は一九八一年四月二○日、韓国における方子の福祉 5方子勲章受賞 なったのである。 園」共に人件費が削減され、運営が少しではあるが楽に

ようになったのでh秘。これによって『慈恵学校』・「明暉

両施設に対して教師の報酬が京城道教育監から支給される 九八一年国連が定めた国際障害者年にあたるこの年から、 であろう。そして韓国の福祉は一つの転機をむかえた。一 上げ経営する、この事実は韓国国民に大きな影響を与えた しかし考えるに、日本で集めた資金で韓国の福祉を立ち る。それほど韓国の福祉事業の運営は厳しかった。 きを最大限に利用するほど、なりふり構わなかったのであ 法政史学第七十一号

筆者は二○○六年九月一一一一日に『明暉園」を、一四日に『慈恵学校』を訪問した。以下は、方子が韓国帰国後にゼロから立ち上げ現在に残した両校の現況報告である。すなわち本稿が求める所の「日本の皇族方子が韓国社会に何を した」と認められたのである。ではどの程度の評価をされたのであろうか、五等級を見てみると、むくげ●●●●●●●つばき一等級l無窮花章、一一等級l牡丹章、’二等級l冬柏章、四等級l木蓮章、五等級l石榴章と五級の勲章の段階があり、方子にはいきなり二等級の勲章が贈られたのである。ではこの「牡丹章」を受賞する価値とは、「在日大韓民国民団中央本部のHP』によれば、平成一四年度から平成一七年度の四年間にこの章を受賞した在日韓国人は、「朝鮮近代史」の著者姜在彦ら七人しかいない。方子の「牡丹章」は韓国政府や国民から、これほど高く評価されたのである。このように評価されたとはいえ、両校の運営は相変わらず苦しく、一九八五年当時でも、二つの学校の関係者からは、方子の活動のみによる

「寄附だのみの経営では長続きはし阻幽」という声があが

るほどの情況であった。

四現在の「慈恵学校」と「明暉園」

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1『慈恵学校」『慈恵学校」は、京畿道水原市勧善区塔洞五○八’六にある。訪問した当時は、精神障害や肢体障害を持つ子供たちが、幼稚部から高等部まで各学年一クラスで学んでいた。幼稚部三名、小学生四八名、中学生三二名、高校生一一九名の合計一一二名の生徒と、職員は金愚校長を含めて四六名であった。授業は公立学校と同様の国語や算数といった一般教養に加え、職業訓練も含んでいる。学校の運営は幼稚部から中学までは国費で賄われており、高等部も特殊教育機関ということで国からの補助が出ている。方子の時代には慈行会が支援し、日本国内や世界各国で「李王朝宮中衣装展示会」を開くなどして寄附を集めていた。しかし現在は国家の支援があるため、慈行会からの援助沼動はなくなった。全校長によれば、教育機関として成長してきたので運営の面では支障はなくなったが、慈行会の活動が無くなったことで、これまでのようなH本との交流は無くなってしまった、ということであった。しかしながら学校には、今も方子が世界各国で発表し残した李王朝宮中衣装が数多く残さ したか」の結論である。

戦後韓国における日本の皇族方子の活動(水口) 2「明暉園』(1)施設

社会福祉法人「明臓齪』は総合母体の名称であり、京畿

道安山市緑灰皿洞一一一七一一一番地にある。金バンジャ理事長のもと、以下の施設を擁している。①知的障害者のための生活施設「明暉園」②障害者特殊学校「明恵学校」 れている。行く行くは記念館を作りたいと思っているが、実際には計画はまだ進んでいないという。今後の『慈恵学校」の課題として、卒業生の自立が挙げられている。卒業生は一一○○六年時点で約二二○名で、その内川○名から五○名は一般企業からの要望で、組み立て作業などに従事する職業リハビリセンターに就職しているが、他の卒業生は無職という。一般企業に就職した者もいたが、すぐ辞めたということである(チヨ教監談)。学校も高等部までしかなく、卒業生が自立できていない現実を見ると、高等部の上に専門学校が必要ではないかとの事から、その計阿を進めているということであった(金校長談)。ここでは卒業生の自立の難しさに直面している現実が浮かびあがっていた。

九七

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③障害者職業訓練施設及び労働施設「海東訓練所」④障害者共同生活家庭「明暉共同生活家庭」の「希望」と「愛」⑤共稼ぎ家庭の子供達の保育所「聖母子供の家」⑥身寄りのない老人のための無料給食所「聖熾老人ホーム」⑦スポーツ施設「明瞭体育センター」敷地は緑に囲まれ小高い山を背にして広く、一つの集落のようであった。以下は各施設の活動情況である。①「川岬園」は金事務価長によれば「方子が残した韓川で初めての障害者生活施設」であるという。縫製・編み物などの作業訓練のほか、粘神障害の重い生徒に械物を育てることを通して治療を行うこともされている。全寮制で男子五Ⅲ名、女子八一名の一○五名の生徒に対し、職貝は生(皿)活運動教師、社会復帰教師などを含めて一二一二名である。韓国の法律で「障害者生活施設は、七○%以化が生活保護家庭の入川者でなくてはならない」(金氏談)という決まりがあり、現在のM施設の生徒の七○%以上が生活保護家庭の児童であるという。韓川の貧川率は二○○一年と二○○二年の統計では、約六・五%であるといわれる。韓国の人川が二○○一一一年の統計では川八○○万人であるから、貧川 法政史学第七十一号

家庭は約三○○万人で生活保護年金の受給率はその半分程

度といわれて乢秘。

②「明恵学校」は、障害者のための中学校と高等学校がとからなる。健常者の学生との学習が可能で大学に行きたい子のクラスと、知的障害昔のクラスの各学年二クラスずつ、約一五○名の生徒達が、己開発や自立の道を探るべく(鍵)学んでいる。③「海東訓練所」は五○名が作業服の縫製・刺繍などの作業をし、売り上げは年間約三億ウォン(約二千四百(弱)万円)にのぼる。筆肴が訪れた時、Ⅱ本の名古屋「ダイショウ電子」の作業服を作っていた。販売網がないため、見学に訪れた人のⅡコミによる受注に願っているということであった。④「明脈共M生活家庭」(共M生活アパート)に含まれる「希望」は男子四名、「愛」は女子四名の共川住宅で、各部屋二○坪である。入居者は「海東訓練所」や安山市内のレストランで働きながら暮らしている。社会n京の遂行のための衛生指導や衣食住生活指導などの支援が専門員から受けられる、⑤「聖母子供の家」は教師一一名が○歳児から五歳児までの一○一名の児童を預かっている。 九八

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⑥「聖母老人ホーム」は修道女、補助者各一名とボランティアによって、一日平均一五○余名、月平均三七五○余名に給食を提供している。⑦「明暉体育センター」は障害者だけでなく、地域住民にも開放されたスポーツ施設である。障害者に対する地域住民の剛解を深め、障害者と一般社会との結びつきを深める目的で作られたものであり、実際に多くの地域の住民たちがジムやプールに通ってきていた。(2)現在の運営金事務長によれば、一九八五年に「明卿嗣」の運営母体が、八五歳になった創設者の方子中心の運営から、聖母修

女会に他わったことが運営上の大きな変化であったとい

う。確かに資金を集める上で以降キリスト教会からの支援は増えたが、方子の力で得ていた日本からの資金が大きく(印)減った。前述したように、関係者達は皆方子のみの努力に頼る寄附頼みではいけないという意見を持っていた。すなわちH本から帰国した方子が、初めて韓国で起こし育んできた韓国の社会福祉事業、そして常に目指してきた障害者自立つまりは施設の万千からの自立、その大きな願いが稔るのが一九八○年代になってからである。一九八一年に国際連合による「国際障害者年」制定をきっかけにして、関

戦後韓国におけるH本の皇族方子の活動(水口) (品)係者の努力により国からの補助を勝ち取ったのである。こうして関係者の願いは前進した。現在では施設内の「明暉園」・「明恵学校」の運営費はほぼ全額が国から出ている。また「海東訓練所」の売り上げも運営費として見込めるだけの経営向上が図られており、寄附に依頼しない自立化が進んでいる。すなわち方子の韓伺における大きな役割は終わったといえよう。しかし施設が抱える問題も少なくない。「明暉園」の入居者は五年間の入寮制限が設けられている。生活保護を受けている家庭が多い子供達が、障害を持ちながら近年後にはまた一般社会に出ていかなければならないのである。また「明恵学校」の卒業生も「海束訓練所」に入る以外の就業にはなかなか至らず、韓国の障害者に対する受け入れ体制は現在でも充分ではないといえよう。そして案内してもらった通訳の趙氏が、ふと漏らした一一一一口葉「このような施設に入れる子は本当に幸せだ。家で親が全て面倒を見るのが今でも普通だ」が韓国福祉の現状であろう。「明恵学校」の隣に眼と方子の記念室が有る。そこには方子が「明暉園」で始めた「身体的・精神的に障害を持つ人達が自立出来るように支援する施設」という精神が今も継続されていることが示されていた。「明暉園」は二○○

九九

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3方子が韓国福祉活動に与えた影響方子が「明暉園」を立ち上げてから一五年後、全斗煥大統領は韓国において初めて福祉国家創設をうたい、一九八一年には心身障害者福祉法が制定された。それから二七年経過したが、現在でも韓国は障害者が国民から見えない影の部分に追いやられる傾向が強く、正式に障害者登録をしている人も一部に過ぎない。また今でも障害や疾病が遺伝によると信じている人も少なくない。特に精神疾病の場合はほとんどが家庭に放置されている情況である。障害を治療する専門医師だけでなく、社会復帰のための理学療法士や作業療法士も不足している。一九九○年から二○○○年までの一○年間において輔国国民の所得保障制度の発展とは対照的に、福祉サービスは相対的に停滞している。福祉サービス従事者数も増え方が少なく、極めて低水準にあ

る。これまで障害者の介護が家族を始めとする地域の自主的な責任に委ねられてきたため、障害者に対する韓国社会の 五年五月に「二○○囚年度障害者福祉施設評価、障害者生活施設最優秀機関」に選定ざれ盧武絃大統領から表彰された。 法政史学第七十一号

1坂の最後方子の夫恨は一九七○年五月一日、入院先のソウル聖母病院で息を引き取った。七二歳であった。葬儀は九日、ソウルの昌徳宮大造殿前庭で、韓国国会議長、李孝祥氏を葬儀委員長にして営まれた。韓川側からは丁一権国務総理、Ⅱ本側からは秩父宮妃、高松樹夫妻ら一流○○名が参列した。李王家歴代の埋葬地である王陵の金谷陵「英園」ヘの(印)沿道では、約二万人のソウル市比が見送った。葬儀のⅡ、ラジオ放送の実況放送ではアナウンサーが、李朝五百年の最後の皇太子として生まれた運命のために、あらゆる苦労をなめられてから、七十三歳を一期に世を去られた英親王、その生涯は、旧王室の悲劇を 受け入れ態勢は今でも充分ではない。両学校関係者の努力は一に韓国社会の受け入れ態勢の拡充に集中している。すなわち方子の蒔いた韓国における福祉の種は「慈恵学校」・「明暉園」の二学校の発展という形で韓国社会に根付いていた。方子が門初からⅡ指した障窯者n立への道はまだまだ遠いが、力子が韓同福祉活動に与えた影響は非常に大きいといえよう。

五国民に慕われた方子の最後 一○○

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2方子の最後それから一八年後の一九八八年年一一月、方子は日本滞在中に貧血状態で宮内庁病院に入院したが、翌一九八九年三月一○Hに退院し韓国へ帰国した。しかし住居である楽(日)善斎で再度吐血し、ソウル大付属病院に再び入院した。容態が急変したのは川Ⅱ三○日であるが、「自宅での外で息を引き取ったものは、その家に戻れない」という韓国の

風艶のために、わざわざ酸素吸入を受けながら楽善斎に戻

(㈹)り、静かに一生を終這えたのである。享年八七であった。方子の死を受けて、韓国政府は五月三日に、障害者福祉増進に尽くしてきた功労を称え、方子に国民勲章最上位の「無窮花章」を贈位したのである。葬儀は五月八日、眼と同じ昌徳宮内の煕政堂で国葬につぐ准国葬に相当する葬儀として営まれた。式には姜英勲首相ら政府要人や、日本からは三笠宮夫妻ら八○○人が参列し、天皇、皇后、皇族

方、そして当時の首相竹下登の弔花もあっ迅・韓国政府か

らは一億ウォン(当時の日本円で約一一千万円)が弔慰金と そのまま象徴するように、孤独と忍従の一生でありま(帥)した。

と述べたといわれている。

戦後韓国におけるH本の皇族方子の活動(水口) 力子は恵まれた日本の皇族に生まれ、政治的な結蛎により朝鮮季王家に嫁いだ。それは日本の韓国併合による朝鮮保護化政策の一環ではあったが、方子自身は平安な生活を送っていた。しかし終戦によってこれまでの王族の地位や財産の殆どを失ったばかりか、日本倒籍まで失ったのである。戦後、韓国国内の政治情勢が眼と方子の帰国を拒んだ して贈られた。出棺に際しては限の時を超える約五万人の同民が見送り、眼の隣に埋葬された。方子の死は韓川の報道では「一つの時代が静かに終焉を迎えた」と報じられ、(閉)方子を「社会福祉に貢献した人物」として紹介した。

当時の方子を知る「全州誤雌」大同宗約院の李公幸氏

は、

力子さんは、私の祖国は二つあります。一つは生まれ育った脚、もう一つは私が骨を埋める国、とよくもらしていた。そして私には韓国に三百人以上の孫がいま(印)す、とよく川にしていた。と話している。〃子の韓国に対する思い、福祉に対する想い、自分の手がけた両学校の学生や卒業生に対する愛情をよく表した一一一一m葉である。

おわりに

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が、朴正煕政権の親日政策が二人を帰国へと導いた。それまでの人生を政治に利用されてきた方子は、韓国に帰国後、未知の土地で、しかも見ず知らずの人々の中で福祉事業を始め、障害者の自立を助けるという信念のもとで活動を広げていった。既に述べたように、自力で運営資金を集めるために、元皇族・元王族という自分の過去を表面に押し出すことまでしたのである。その活動と福祉に対する情熱が、韓国国内で次第に評価されていき、生前の「牡丹章」、没後の「無窮花章」の受賞となり、葬儀は脚葬に准じて営まれた。日本に利用され、後には見放された形で韓国に帰国した方子であったが、限の祖国である韓国の福祉事業の場で、自分の存在意義を見出したのである。しかし、筆者は拙稿を書き進めながら、一つの疑問を持ち続けていた。それは戦前・戦後を通じてある種の恐怖心を朝鮮人に抱いていた方子が、何故韓国に帰り福祉に携わったのかということである。鑛者は先の訪韓のおり、生前の方子に長い間近侍していた一人の女性と話をすることが出来た。その折失礼ながらも、この疑問を呈してみた。その女性とは先出した金寿娘氏である。「慈恵学校」訪問時、電話で話を聞いた。当時八六歳の高齢であるにもかかわらず「月二度の方子さまの宗廟参りは欠かしたことがな 法政史学第七十一号

い」ということであった。氏は次のように答えられた。方子さまが福祉活動を始められたのは、坂殿下の「韓国で社会福祉の仕事がしたい」との強い願いがあったからである。方子さまは福祉事業を起こすにあたり、元皇族、元王族としての威厳のようなものはあったが、常に身を低くされていた。方子さまの韓国帰国後も、脚内は「H韓薙本条約」に対するデモを始めとして、反日感情が露わになることも度々あったが、方子さまは政治問題には一切係わらず、福祉のみに集中されていた。とのことであった。方子に反Ⅱ感情をぶつける人々もあったようであるが、方子は眼から託された韓国の福祉に集中することで、人々に対する恐怖感をやわらげていったようである。このことは「慈恵学校」勤続二五年で方子と何度か会ったことがあるチヨ教監の話からも窺えた。チヨ氏

は、[方子は]柔らかく安らぎを感じさせ、周りに気を配る方との印象である。いわゆる世間を知らないところはあったが、福祉活動に対する気持ちは大変強いものがあった。と述べられた。長い間間近で方子を支え、見守ってきた二

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人の韓国人によって述べられたこれらの一一一一口葉には重みがあった。韓国国内の一番弱いまた影の部分に触れつづけるうち、方子を慕う「多くの韓国人の孫」が生まれたのであった。ここには恐怖心よりも深い愛情が見られた。こうして筆背の疑問は氷解していったのである。この方子の「福祉活動のみへの情熱」がN比勲章無窮花章受賞として、また准国葬並みの葬儀として、韓国社会に高く評価されたのである。しかしながら、現在の韓川の福祉怖況を見る時、韓何の障害者福祉に対する考え方が、方子の日指した「障害者の自立」にたどり着くには、まだまだ時間を要すると思われる。しかしその先駆けとなった方子の両学校が、現在も韓脚の人々のために活動を続け、韓同障害者福祉事業の一端を担っていることの意味は大きい。

註(1)万十は戦後韓川において社会編祉法人を立ち上げた。設立組織が複雑なため記述を以rのようにしたい。「明雌剛」は社会福祉法人の総合母体であり、その中に同名の知的障専者のための施設「明脈閲」が含まれる。したがって向替を区別するために『明暉園」と「明暉園」と表記する。ま

戦後韓国におけるⅡ本の皇族方子の活動(水川) た、「慈恵学校」は障害者のための幼稚部から高等部までの総合教育機関である。「明暉園一と組織的表記を合わせるために「慈恵学校」と記す。(2)水川節子「朝鮮旺朝岐後の聖人子妃」(文銭春秋社、一九八八年)。渡辺みどり「李方子妃」(読売新聞社、一九九八年)。小川部雄次「李方子l一輔川人として悔いなく」(ミネルヴァ丼房、二○○七年)。(3)李方子「流れのままに」(悴佑社、一九八四年)一一二頁。本諜は力子自身が書いたⅢ想記である。(4)正族’一九一○年八Ⅱ一一二Ⅱ「韓川に関する條約」が調印され日韓併合がなった。それに伴い韓旧王家を「士族」とし、それに連なる貴族を「朝鮮貴族」と規定した。その時限は「英親王」から「上枇f」と称号が変更され「日本の親王の次ぎに置」かれた。「新聞集成明治編年史十四」(朝Ⅱ新聞社、一九五九年)二几一貝~二九一一一頁。(5)趙愈几「正家の終焉」S女郎」一九八一年二川から一九八二年Ⅲ川まで、全一四回)「昭和五六年二月一日」六頁。(6)註(2)前掲本川著書、一八Ⅲ頁。(7)同右。(8)註(3)前掲書、九六頁。(9)同右、一三六~一一一一七貝。(Ⅲ)何右。(u)註(五)前掲書、「昭和五六年五月一日」条。(皿)何右。

(20)

(Ⅲ)註(3)Ⅲ前掲将、一三八頁。(u)同右。(垣証(2)前掲渡辺著持、一九一頁。(蛆)梨本官伊都十・小川部雄次「梨本官伊部子妃のⅡ記」(小学館、一九九一年)三一一一八貝。(Ⅳ)「Ⅱ本外交年表竝主腰文書上巻」(外務省編、原蒋房、一九六五年)一二四○頁。「韓国併合に関する條約」第三條日本国皇帝陛下は韓国皇帝陛下皇太子殿下丼其の后妃及後商をして各其の地位に応じ相当なる尊称威厳及名誉を享有せしめ且之を保持するに十分なる歳費を供給すべきことを約す。「韓国処分」第二韓同皇室を王族として、別に制度を設け歳費を給せらる。註(4)前掲書、二九一頁。(肥)註(3)前掲書、一六五頁。(四)註(胆)前掲書、一二五頁。(別)註(2)前掲本川著書、二一一一八頁。(、)「Ⅱ本の物価と風俗一三K年のうつり変わり」(株アカデミー編、何脚川版サービス、二○○一年)五六九瓜。(皿)池東旭「韓国大統領列伝」(中央公論社、二○○二年)七九頁。(幻)収は昭和三六年一一一月二六Ⅱにハワイ在住の息子玖に逢うために渡米したが、帰川後病気の肉発で、寝たきりになってしまった。これより先限は昭和一一三年から九二年のアメリカ滞在中に一度脳血栓で倒れている(註3、’八二頁、一八八頁~一八九頁)。 法政史学第七十一号

(別)註(3)前掲書、一九六頁。(空註(5)前掲書、「昭和五六年一○Ⅱ|Ⅱ」。季王家の財産は九百六十万円それに対する税額は七n万円であった。註(皿)によれば財産評価額は約九億六千万円で税額は約七億円と思われる。(妬)註(3)前掲拝、一八三口、一九一典、一九川面。(〃)註(2)前掲本田著書、二三九頁。「長い半生の中で一番嬉しかったことは。」との本川節子氏への答えである。(邪)註(空前掲書、八七頁。朴政権はアメリカからの経済援助が減少しているため、日本からの援助が必要であった。(羽)安東貞雄元男爵。明治二七年五月生まれ、陸軍大将安来貞美長男、のち皇族付武官。S昭和人物事典」日本図書センター、一九八七年)Ⅲ頁。(別)註(2)前掲本田著書、二四二頁。註(皿)によれば現在では八千万Nぐらいであろうか。(弧)入江机政「入江机政Ⅱ記第三巻」(朝Ⅱ新聞社、一九九○年)三六四頁。(犯)註(2)前掲本川砦評、二川一頁。(詔)何右、二六七頁。(型小島蓉子・岡田徹編「世界の社会福祉」(学苑社、一九九四年)一九頁より筆者が制定年順に雌び替えた。株本千鶴「韓国福祉社会の仮構と現実」(仁科健一・舘野哲編箸「韓国福祉・希望と現実」社会評論社、一九九八年)一二 一○四

(21)

四頁。(弱)註(5)前掲書、「昭和五六年九月一Ⅱ」。(鉛)註(2)前掲本Ⅲ著書、二六八頁。方子の企画により発足した慈善川体。設立時には賛行会と称したが、方十の帰国時に慈行会と改称した。当会は昭和六一年末に解散した。(〃)註(3)前掲書、二一一一○頁。「季娘様は、ご帰国される以前から、福祉事業に対して格別の関心をお持ちになっておられ、余生はこれに全精力をお傾けになられんと、いろいろ構想を練っておられました]金寿姫氏の話、氏は韓川慈行会(以下、慈行会)設立当初から理鞭として方子の福祉活動を助けた。二○○六年当時、八六歳で韓国水原市に健在である。(胡)李方子「歳Ⅱよ王朝よ』(一一一省堂、一九八七年)二二一二頁。雨宮鋏は、造船公司会長夫人。(型方fの呼びかけに応じたのは雨宮鋲のほかに、明桂春(朴斗乗、斗山グループ会長夫人)、韓キジュ(ピアニスト)らがいた。(仙)註(3)前掲書、二一一一一頁、二一一一八頁。慈行会の目的は「人間と人間の心のふれあいによって、障害児達の自立能力を引き出し、将来社会生活を営めるように善導すること」であった。(u)註(2)前掲本川著書、二六九頁。(望池明観「韓国民主化への道」(岩波書店、一九九五年)

戦後韓国における日本の皇族方子の活動(水口) 七○頁。(妬)李方子「朝鮮正朝宮中衣装」(慈行会編、束伽出版社、一九八五年、非売品)筆肴が慈恵学校を訪れた時に学校より頂いたものである。従って本棡の掲赦写真は、Ⅱ本での初公開資料になる。(“)「韓NWEB六法」「社会福祉躯業法」(三日ニョョ・巾①。ロー(一①の・8・]豆)による。(妬)註(2)前掲本川著書、二八三頁。(妬)註(3)前掲書、二一一一七頁~二四○頁。昭和五一一一年三川は鳥取、島根両県をかわきりに九州から東京へ。昭和五四年には八Ⅱ初旬から九Ⅱ初句まで各地の施設訪問を含めて東京と大分へ。昭和五五年には六月から八月にかけて四N、北海道、九川から一○川まで名古屋を小心に巡阿した。(〃)註(2)前掲本川著書、二八九頁。(組)註(3)前掲書、三川二頁。(鞄)註(坐前掲書、「賞勲法」並びに『韓国行政自治部ホームベージ、韓川民俗文化大、科事典」による。(印)註(2)前掲本田著書、二八九頁。(己「明脚園」配布資料。「川脚園」は社会福祉法人の総合は体の名称であり、その中に知的障害者のための生活施設である同名の「明暉園」も含まれる。従って母体の名称には二重括弧の「明暉園」を、施設を称する時には一重括弧の「明瞭園」と表記する。

一○五

(22)

年)三○八頁。(皿)註(髄)前州(田)渡辺直紀「・編、同発行、一 五川九Ⅱ付夕刊。(帥)金乙漢(作家)S英親王李眼伝」 (団)註(型前掲書、生徒・職員の人数は平成一八年九月一三nのものである。(岡)文振榮「国民基礎生活保障制度」(武川正吾・金淵明「韓阿の福祉凶家。Ⅱ本の福祉同家」東信党、二○○五年)’七○頁。『世界各国要覧」(東京書籍編集部編、東京書籍、二○○六年)一七頁、.(皿)註(Ⅲ)前掲書、による。(弱)年間売り上げは金事務長による。計算は一円Ⅱ八・○三ウォン(「朝Ⅱ新聞」「二○○六年九Ⅱ二九Ⅱ」)でした。(師)保坂正康「李方子さんの死」弓潮』一九八九年一○Ⅱ叩互二六一一一貝。カトリック系の剛体で即事長はシスターが務める。(町)現在でも「海束訓練所」ではⅡ本からの作業服の受注のように、サポートしてくれる日本人もいるということである。(兇)註(3)前掲書、二川二頁。(聖『朝日新聞縮刷版昭和四五年五月」五月一日付夕刊、 法政史学第七十一号

前掲書、二五○頁。昌李方子の戦後」S国際交流」凶際交流雄金、一一○○三年)七一頁。 「韓国人のみた李王眼殿下のご一生」李王眼伝記刊行会、共栄書店、二○○一 (②「朝日新聞縮刷版平成元年五月」、五月一日付朝刊、五月四Ⅱ付朝刊。(M)終戦後方子が眼とともに、韓国に帰国する際に冷たい態度をとった窟内庁、日本政府も、日韓交流の変化とともに、方子が韓国内で大きな存在となったことに、最後にやっと気がついたのである。(髄)註(冊)前掲書、二五二頁。並びに「朝日新聞縮刷版平成元年五月」、五月一日付朝刊。(船)全州李氏。韓国社会は李朝中期に浸透した父系Ⅲ縁観念が現在も続き、一族の間で族譜が作られている。李氏は新羅時代にできた六姓の一つで、全州は全羅北道の道庁所在地で李朝始祖の李成桂の本貫地である。それに連なる人々が全州李氏である。現在、韓国に二百万人以上いるといわれている。鄭早苗「韓国の歴史と安縢権氏」(新潮社、二○○五年)による。(町)註(館)前掲論文。

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